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ドイツと日本における価値の変容:* ヨーロッパ人の日本

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ドイツと日本における価値の変容:* ヨーロッパ人の日本
October 2
0
0
1
国際シンポジウム
― 9 ―
ドイツと日本における価値の変容:*
ヨーロッパ人の日本イメージ1)
ヨーゼフ・クライナー**
加
藤
敬
子***
訳
真
鍋
一
史****
ドイツ連邦政府は現代日本理解の改善のため、
のとして、展開された。このモデルは特に日本の
1988年東京にドイツ―日本研究所[DIJ: Deutsches
近代化過程の背景と進展を覆い隠し、この歴史的
Institut für Japanstudien]を設立したが、そこで
過程の完全な理解と評価の妨げとなっている。
合意された学際的研究プロジェクト第一号は「戦
ドイツ―日本研究所の研究プロジェクトの出発
後日本の価値変動の研究」であり、この研究はド
点となったのは、二つの基本的な前提である。ま
イツおよび西洋世界での日本研究をも含めて、ド
ず第一は、日本社会が集団指向であるとの主張は
イツ人の日本イメージの歴史、発展、現状の分析
日本社会の実体の実証的分析というよりも、欧米
と関連づけながら進められてきた。調査を通じて
人の想像上の思考からきているという考えであっ
判明したことは、後者、すなわち欧米人あるいは
た。そしてもう一つは、日本の戦後社会におい
ヨーロッパ人の日本および日本社会・文化に対す
て、価値変動は明らかに認識できるということで
る見方が極めて複雑、多様で、しばしば矛盾する
あった。当研究所の展開した理論によれば、ヘル
概念から成り立っているということである。最古
ムート・クラーゲスとシュパイヤー行政大学での
のものはヨーロッパ封建社会の延長線上での日本
チームなどの人びとが見ていたように、西ドイツ
観にまで遡れるが、それというのも日本は当時の
の近代化過程と日本のそれとの比較がこれらの前
西洋人の基準からして理解しやすいものであった
提を明確にするのに役立ちうる。日本における全
からである。こうして、後に、日本はヨーロッパ
国調査は1991年に実施され、その結果はドイツ・
にとって啓蒙・啓発のモデルとして賞賛されるよ
マンハイムの ZUMA[訳者注:Zentrum für Um-
うになった。18世紀末ごろ、ヨーロッパ啓蒙運動
fragen, Methoden und Analysen=調査・方法・分
最盛期においてのみ、今日しばしば引用される
析センター]とともに日本の統計数理研究所の支
「集団指向で後進的な日本モデル」が、「近代的で
援のもとに分析された。パイロット・プロジェク
個人主義的な西洋モデル」とは著しく異なったも
トとして、この研究にはいくつかの問題点があ
*キーワード:価値の変容、ヨーロッパ人の日本イメージ、自己認識、自己理解、日本についての情報
**ドイツ・ボン大学教授、日本文化研究所所長、近現代日本研究センター所長
***関西学院大学社会学部兼任講師
****関西学院大学社会学部教授
1)筆者は現在のドイツ人が日本についてどう思っているかの世論調査の実証的データについて書いたが、同じよう
にドイツ人およびヨーロッパ人の日本イメージの歴史的発展についてもさまざまな機会に書いてきた。より詳細
な情報については、次の筆者論文を参照されたい。
−“Das Deutschland−Bild der Japaner und das deutsche Japan―Bild” in Klaus Kracht, Bruno Lewin and Klaus
Müller, eds. Japan und Deutschland im 2
0. Jahrhundert. Veröffentlichungen des Ostasien―Instituts der Ruhr―Universität Bochum vol.3
2, Wiesbaden1
9
8
4, pp.8
4−1
1
5.
−「ヨーロッパにおける日本観」(
『民博通信』第4
2号,1
9
8
8年,pp.2−3
0)
.
−“Das Bild Japans in der europäischen Geistesgeschichte” in Japanstudien―Jahrbuch des Deutschen Instituts für
9
8
9(1
9
9
0)
, pp.1
3−4
2.
Japanstudien der Philipp―Franz―von―Siebold−Stiftung vol.1, Munich1
−“The European Image of Japan” in Japanese Studies in the Netherlands in an International Perspective, Leiden
1
9
9
9, pp.7−1
7.
―1
0―
社 会 学 部 紀 要 第9
0号
り、時系列データを得るためにはその後の世論調
パの歴史とヨーロッパ人の自己理解(ドイツ語で
査が必要となる。このような時系列データを待っ
いうところの Selbstbefindlichkeit=自己存在認識)
て、はじめて日本社会の価値変動の方向と内容が
の変化や波動を考慮にいれないと、それらは正し
明確になる。にもかかわらず、このパイロット・
く理解されない。
プロジェクトの結果はたいへん興味を引くもので
ヨーロッパ人の日本観とこれらの発展段階が、
ある。現在、ドイツと日本の間で価値のパターン
全般的な非ヨーロッパ世界についてのイメージの
・変動について多くの類似した展開が見られる。
一部であると強調する必要はなく、さらに個々の
この調査結果に問題点があるとしても、異なる産
ヨーロッパ諸国が日本と関わった歴史や接触にも
業国における実証的な比較研究が緊急に必要とさ
とづいてその日本観にはそれぞれの特徴や要素が
れるのは、日本人の社会心理の性質についてのみ
あるということを強調する必要もない。ここでは
ならず、近代化過程における価値変動についても
その問題について詳細に触れることはできない
見られる現在の誤解を改めるためである2)。
が、どれだけ多くの異なった日本の理解・解釈が
ヨーロッパの歴史の進展の中で見つけうるかとい
ヨーロッパ人の日本イメージとその歴史
的な発展
うことについてだけ簡単に述べておくつもりであ
る。
最初に考慮すべきは中世の世界観であり、それ
ドイツの社会学者、テオドール・アドルノは
は聖書にもとづき、また日本がヨーロッパ人に知
かって、「社会科学は複雑な現実を再復写するこ
られる何世紀も前にすでにできあがっていたもの
と(reduplication)と自ら規制している」と述べ
である。この観点で重要と思われる考え方はアジ
た3)が、そんなことはまったくない。ある民族や
ア大陸の東の端、オケアノス(Okeanos)の中の
その社会・文化といった複雑な全貌を記述するこ
一つの島で中世の世界地図の一番上に位置するパ
とは、常に創造的なプロセス4)と言わなければな
ラダイス・極楽園という日本の具体的な地理上の
らず、広くいえば、それはまた非常に選択的なプ
位置である。それがマルコ・ポーロやほかの初期
ロセスでもある。エドワード・サイード5)などか
の著述家たちにも確かに影響を与えたのである。
ら始まって、ヨーロッパ人の東洋イメージが過去
一例として、De la Sagesse[智恵について]
(パ
も現在もどれほど偏っていたことだろう。同じこ
リ,
1601年)の 哲 学 者 ピ エ ー ル・シ ャ ロ ン が い
とがヨーロッパ人の日本イメージについても言え
る。
るが、日本研究といえどもその例外ではない。
もう一つの中世の考え方は、世界の歴史は一つ
以下においては、非常に乱暴な方法でではある
のものであり、それは一つの起源に遡ることがで
が、ヨーロッパ人の様々な日本観について述べて
きるというものである。もし日本が早い時期のポ
いきたい。それらにはそれぞれ違いがあるもの
ルトガル人によって発見された至福の楽園ではない
の、様々な発展段階を経て、現在の非常に複雑で
とするならば、その起源はオイクメネ(Oikumene)
込み入った見解にいたっている。そしてヨーロッ
に遡らなければならない。イエズス会の神父たち
2)当該研究の結果については、
−Hans Dieter Ölschleger et al, eds.: Individualität und Egalität im gegenwärtigen Japan. Untersuchungen zu Wertemustern in bezug auf Familie und Arbeitswelt. Monographien aus dem Deutschen Institut für Japanstudien
vol.7, Munich1
9
9
4.
3)−Theodor Adorno: “Soziologische und empirische Forschung”, in K. Ziegler, ed.: Wesen und Wirklichkeit des Menschen. Festschrift für Helmut Plessner. Göttingen1
9
5
7, pp.2
4
5−2
6
0.
4)下記の2
8
7頁を参照。
−Justin Stagel: “Die Beschreibung des Fremden in der Wissenschaft”, in Hans Peter Duerr, ed.: Der Wissenschaftler
und das Irrationale. Frankfurt/Main1
9
8
2, pp.2
7
3−2
9
5.
5)Edward W. Said: Orientalism. London1
9
7
8. 日本研究の分野でのこの問題については下記を参照。
−Harumi Befu and Josef Kreiner, eds.: Othernesses of Japan. Historical and Cultural Influences on Japanese Studies
in Ten Countries. Monographien aus dem Deutschen Institut für Japanstudien vol.1, Munich1
9
9
2.
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1―
もそうであるが、ヨーロッパで書かれた最初の日
事情に非常に近いものと考えられていたのであ
本についての学術研究であるベルンハルドゥス・
る。フィレンツェのピエトロ・マッフェイが1571
ヴァレニウス著 Descriptio Regni Iaponiae[日本
年の著作
De Iaponicis rebus epistolarum liber
王国記]
(アムステルダム,1
649年)は日本を中
[日本の状態についての書簡集]に日本では、「百
国と結びつけている。エンゲルベルト・ケンペル
姓は百姓であり、武士は武士である」と書いてい
[訳者注:日本では検夫爾の名前で江戸時代から
る。ここで示唆されているのは、当時ヨーロッパ
その著作が翻訳されている。代表的なものに後述
ではそのような適正で明確な社会階層が、すでに
の志筑忠雄翻訳の『鎖国論』1811年がある]は著
混乱を来たしていたということである。
作 The History of Japan[日本誌]
(ロンドン,1727
1625年に平戸にオランダ人と共に滞在して、初
年)の中で、日本人はノアの洪水以前のバビロン
めてのドイツ語で書かれた日本見聞記を書き残し
からの移住に始まると見ており、したがって中国
た下オーストリア地方出身の宮廷侍従、カール・
を素通りしてしまっている。日本の歴史を独立し
フォン・フェルンバーガーは参列した茶会につい
た起源を持つものとして認識した最初の著作は
て簡単に触れているが、そこで美しい陶器と漆器
Universal History from the Earliest Account of Times
の鉢から手を汚すことなく箸で非常に清潔に食べ
(ロンドン,1747−68年)である。しかし20世紀
る日本人の習慣について述べている。しかし、こ
になってさえ、中国文化・文明の支流としての日
れ以上書くと虚偽と思われるであろうと述べて結
本文化・文明という見解が、アーノルド・トイン
びとしているのは、多分ほとんどすべてのもの
ビーたちによって提議された様々な理論にその影
が、かれが知っているヨーロッパの事物と似か
を投げかけている。
よっていたからであろう。
二番目のもっと複雑なヨーロッパ人の日本概念
このことが意味するヨーロッパ事情との近似性
は、大体ヨーロッパのルネッサンスとバロック時
を前提とすると、いくつかのポジティブな特徴が
代に当たる16、17世紀の日本との接触の最初の二
強調されることになる。その多くは日本での布教
世紀間で形作られた。このころは常に戦争状態に
の成功を誇張し、ヨーロッパからの支援をさらに
あった時代で、特に中欧においてそうであった
得ようとしたイエズス会の努力の結果と想像され
が、百姓一揆[訳者注:1524−25年南ドイツで発
よう。例えば、フランシスコ・ザビエルは書簡
生]、オランダの戦った8
0年間の独立戦争[1
568
で、キリスト教徒か異教徒かを問わず、日本人以
−16
48]、30年戦争[1618−48]、オスマン・トル
上に道徳水準の高い国民にそれまで出会ったこと
コの侵入[1689]などを指摘するにとどめる。こ
がないと記している。上記のヴァレニウスは、ザ
の事態がよりよい、より人間的な人類の探求を導
ビエルと再度ピエトロ・マッフェイを引用して、
びくことになった。それは古典的な古代黄金時代
「判断力、物覚えのよさ、記憶力において、日本
か、いわゆる「高貴たる野蛮人」(noble savage)
人は東洋諸民族だけでなく、西洋人さえも凌駕し
の形で大洋を越えていった新発見の世紀のいずれ
ている」と書いている。ヴァレニウスによれば、
かの中に見られた。モンテーニュの随筆である
日本の青年はヨーロッパの学生よりも敏速にラテ
De Cannibales[人喰人種について](パリ,1580
ン語の知識を理解した。
年)は傷ついたヨーロッパ文明と、自然あるいは
17世紀末になってからも、ドレスデンの宮廷庭
自然的特性の純粋さの中にある非ヨーロッパ文明
園の著名な庭師、ゲオルグ・マイスターは出島に
の衝突を比較的早い時期に非常に明確に描いてい
1682−83年 と1685−86年 滞 在 し た 後、「日 本 の
る。
島々には数千年前から非常にユニークな民族が住
日本は、初期のヨーロッパからの訪問者が発見
んでおり、かれらはヨーロッパ人から学ぶものが
した高度に発達した文明であっただけではなく、
何もないといってよいほど開化している。この地
かれらの封建社会にも匹敵し、それゆえ理解しや
上に先天的に聡明な民族が存在するとすれば、そ
すかった唯一の国であったので、多かれ少なかれ
れはまさに日本人以外のなにものでもない。した
愛憎相反する感情をもって、大体はヨーロッパの
がって我々ヨーロッパ人は自己幻想に陥ったり、
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傲慢になったりしてはいけない」と書いている
ンダ人によって欲望が少ないと人間性が堕落する
(Der Ostindianische Kunst― und Lustgärtner,ドレ
ことを学んだ」と強調している。さらにヴォル
スデン,1692年)。
これらの熱烈な記述は日本人の偶像崇拝につい
ての記述と、とりわけキリスト教徒への迫害に
テールの Candide(パリ,1759年)では、船乗り
が踏み絵、すなわち聖像を足で踏みつけること
に、誇らしく言及している。
よってもほとんど損われないものであった。しか
戦争で荒廃したヨーロッパにとって、一つのモ
も、それでさえ、賞賛の余地を残していた。すな
デルとしての日本描写は、その文化や社会がヨー
わち、南ドイツ・スイス・オーストリアにおける
ロッパのそれらと非常に似通っており、それゆえ
ハプスブルグの反宗教改 革(Gegenreformation)
増大するヨーロッパ批判にとっては格好の道具立
についてのイエズス会の演劇は、殉教を通してそ
てとなったが、そのような日本描写の頂点は疑い
の敵に勝利する理想の英雄・聖人像を描くために
なくエンゲルベルト・ケンペルの著作 Amoeni-
日本の芝居の筋を使った。これらの戯曲の最後の
tates Exoticae[廻国奇観](レムゴ,1
712年)お
一つは、ミヒャエル・ハイドン作曲(1770年)の
よび The
合唱曲とともに Die Christliche Standhaftigkeit の
ン,1726年)である。これらの著作は1
8世紀およ
題でザルツブルグの舞台にかけられ、その舞台で
び啓蒙運動初期の時期にヨーロッパ人の日本に対
は日本の着物が使用された。若き日のモーツァル
する見方を形成したが、それらは今日においてさ
トはこの上演に非常に感銘を受けたと言われてお
え、ひき続き大きな影響を与えている。
History
of
Japan[日本誌]
(ロンド
り、『魔笛(Zauberflöte)』での主人公タミノは日
ケンペルの重要な新しい貢献は、神道、仏教以
本の狩衣を着用しなければならないとのかれの指
外の日本の先導的なイデオロギーとしての儒教に
示も、じつはそこに起因しているのではないかと
ついての記述であった。かれの目から見れば、実
されている。
際そうであったのだが、それは「日本国全体を礼
一方、当時旧教徒(カトリック)と敵対関係に
あった新教徒(プロテスタント)は、日本人がイ
儀とよい作法の修業の場にする」ということが理
由であったのである。
エズス会士を禁止する決定を誤りと見るはずもな
日本の儒教は啓蒙運動が求めていた自然な宗教
かった。かれらが文句を言った唯一のことと言え
心にピッタリと合うものであった。マッチアス・
ば、かれらの目に映った長崎におけるオランダ商
クラウディウス(Wandsbecker Bothe,1778年、
人の卑屈さであった。
の中の「日本の皇帝との謁見報告」
)は、日本の
ドイツ人のユルゲン・アンデルセンは1646年に
皇帝たる将軍からその将軍家の盟友として「聡明
日本を訪れ、日本到着前に「当地でキリスト教徒
で明晰なレッシング」
[訳者注:18世紀のドイツ
かどうかと尋ねられたときには、否、真正のオラ
の批評家・劇作家]を連れてくるよう頼まれると
ンダ人であると答えるように」と教えられた、と
いうシナリオを書いたが、それはそのような感じ
書いている(Orientalische Reise-Beschreibung[東
を言葉にしたものであった。
洋旅行記],シュレスヴィッヒ,1669年)。同じこ
ケンペルは「国の閉鎖」
(日本語の『鎖国』は
とが何度もヨーロッパ批判(Europakritik)とい
1811年の志筑忠雄の訳語)の概念を最初に用いた
う形で繰り返された。ジョナサン・スイフトの
人物でもあった。鎖国とは、かれによれば、日本
『ガリバー旅行記』(Travels into Several Remote
の国が現在のような幸福な状態をもたらすことに
Nations of the World by Lemuel Gulliver,ロンド
はならなかった政策のことである。日本の鎖国政
ン,1726年)しかり、オリバー・ゴールドスミス
策は、例えば、イマヌエル・カント(Zum Ewigen
の Letters from a Chinese Philosopher in London to
Frieden[永久の平和について],ケニヒスベ ル
his Friends in the East[ロンドン在住の中国人哲
グ,1
795年)によってヨーロッパ諸国にとっての
学者から東洋にいる友人宛の手紙]
(ロンドン,
理想的な講和として、また、ヨハン・ゴットリー
1762年)しかりである。そこでは、「この本が概
プ・フィヒテたちによって平和的な貿易のひな型
して筆者のヨーロッパ嫌いを強くし、長崎のオラ
(「閉ざされた商業国」)として勧告された。
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しかし啓蒙運動の最盛期には、この日本賞賛
りにしてアルタイ人種とし、ヨーロッパ人と対比
は、突然の方向転換を経験した。ヴォルテールは
させている。そして、そのアルタイ人の特徴とし
Essai sur les Moeurs(パリ,1756年)で、日本人
て、異常な冷血さ、非人間的な短気さ、発明の才
はかって知識・技術の開発においてヨーロッパよ
の欠如をあげ、これらアルタイ民族は「ただ模倣
りもはるかに先行していたが、今や後進の未開人
ができるだけで創作ができない」
「発明の才と科
か子供にとどまることになったと初めて指摘した
学的精神が完全に欠けている」としたのである。
人物である。クリスチャン・ヴィルヘルム・ドー
これらの素朴で道理に合わない議論へのゲオル
ムはケンペルの Geschichte und Beschreibung von
グ・フォルスターの激しい批判にもかかわらず、
Japan[日本誌]のドイツ語版(レンゴ,1
777−
そうした見方はその後二世紀にわたって、強い底
78年)の後書きの部分で、著者の肯定的な日本観
流となって残存した。同様の論法がマックス・
を正すために、ヴォルテールとほとんど同じ言葉
ウェーバーの著作にさえ見られ、カール・マルク
を使って、「ほとんどすべての技術がこのアジア
スのアジア的生産様式についての見解にはその傾
人[すなわち日本人]から考え出されたものであ
向がさらに強く見られる。そこからカール・アウ
るが、現在ではほとんどすべての点でヨーロッパ
グスト・ヴィットフォーゲルの Oriental
のそれの方が勝っている」とした。そして、その
ism: Comparative Study of Total Power(ニューヘ
理 由 は Deutsche
Enzyklopädie[ド イ ツ 百 科 全
ブン,1957年)も出てくる。1927年のコミンテル
書]
(1791年)の第一版で、
「啓蒙において日本人
ンの提議は、アジアの封建制度の痕跡が日本の国
が前進していない理由は、明らかにすべての外国
家経済の発展、あるいは資本主義の決定的な前提
との通行が禁止されているから」と説明されてい
条件となっていると言明している。このような論
る。プロシア王フリードリッヒ大王は1776年の
法は山田盛太郎(『日本資本 主 義 分 析』東 京,
ヴォルテールへの書簡の中で、政治的な決定は今
1934年)およびハーバート・ノーマン(Japan’s
もこれからもヨーロッパでなされるゆえ、日本へ
Emergence as a Modern State,ニューヨーク,
の関心は単なる「好奇心」にすぎない、と述べて
1940年)から現在の『株式会社日本』論にまで影
いる。
響を及ぼした。根強く引き継がれてきたステレオ
Despot-
この言葉とともに、日本研究は「象牙の塔」の
タイプ(紋切り型)の日本像は、そもそも初めか
中だけに閉じ込められてしまった。しかしもっと
ら実証的に確かめられる現実とは無縁のもので
悪いことが起ころうとしていた。
あった6)。
ゲッティンゲンの歴史学者クリストフ・マイ
ヨーロッパが理想的な日本の見方をまさに失お
ナースは目新しくかつ非常に否定的な日本像を打
うとしていたのと同じ時期、18世紀末から19世紀
ち出している。その論文「南アジア、東インドと
初めにかけて、日本のもう二つの民族あるいは文
南洋諸島および南国の諸民族の性質について」
化がその失われた楽園を取り戻した。すなわち、
(Göttingisches Historisches Magazin,1790年)で
は、日本を中国ならびにその他のアジアと一くく
北のアイヌと南の琉球である7)。
琉球王国は東南アジアから中国および日本に至
6)日本についての経済研究の中でのこのステレオタイプの出現については下記を参照。
−Günther Distelrath: Die japanische Produktionsweise. Zur wissenschaftlichen Genese einer stereotypen Sicht der japanischen Wirtschaft. Monographien aus dem Deutschen Institut für Japanstudien Vol.1
8, Munich,1
9
9
6.
−”The paradigm of eternal recurrence: How the structure of academic debate on the Japanese economy itself
founded the ’Japan Incorporated’ stereotype” in Josef Kreiner and Hans Dieter Ölschleger, eds.: Japanese Culture
and Society. Models of Interpretation. Monographien aus dem Deutschen Institut für Japanstudien vol. 1
2, Munich
1
9
9
6, pp.1
7−6
0.
7)これら二つの民族と文化についてのヨーロッパ人の考察に関する詳細は下記論文集、特に序章を参照。
−Josef Kreiner, ed.: European Studies on Ainu Language and Culture. Monographien aus dem Deutschen Institut
für Japanstudien vol.6, Munich1
9
9
3.
−Sources of Ryûkyûan History and Culture in European Collections. Monographien aus dem Deutschen Institut für
Japanstudien vol.1
3, Munich1
9
9
6.
―1
4―
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0号
る貿易の広範なネットワークを築きあげ、16世紀
る」
(クルゼンシュテルン Reise um die Welt,
1810
初頭の数十年間はヨーロッパ人の関心の対象と
−12年)。数十年後、英国の提督ポール・バーン
なったが、その後は忘れ去られてしまった。1816
ハード・ウィッティガムはサハリンの一人のアイ
年にバジル・ホール船長が沖縄を訪れ、友好的な
ヌ人を「今までに高貴たる未開人の誇りだと思っ
歓迎を受けた。かれはヨーロッパへの帰途セント
ていたアメリカ・インディアンをはるかに凌ぐ最
ヘレナ島に立ち寄り、ナポレオン・ボナパルトに
も高潔な人間であった」と言っている(Notes on
武器のことも知らず永遠の平和の中で暮らしてい
the late Expedition against Russian Settlements in
る琉球のことを話した。この話にナポレオンは衝
Eastern Siberia,ロンドン,1856年)。
撃を受け、「武器なしだって、では、どうやって
「アイヌの歴史は数千年前に遡る」との大シーボ
戦をするのだ」と驚いた。ホールの Account of a
ルトの指摘、かれの息子のヘンリ・フォン・シー
Voyage of Discovery to the West Coast of Corea,
ボルト[小シーボルト]の東京・大森貝塚発掘に
and the Great Loo-choo Island (ロンドン,1818
もとづく「アイヌが日本原住人であった」との結
年)にあるこの短い一節が、1
9世紀前半、米国や
論、最後にはエルヴィン・ベルツの「アイヌの起
英国の平和運動の中の論文や出版に火をつけ、溢
源は白色人種である」との所説、これらすべてが
れんばかりの状態とした。その一例が、Letters of
欧米において今日まで普及しているアイヌ人に対
Lillian Ching, a Native of the Island of Loo Choo to
する親近感を作り出した。ここではブラッセルで
his brethren upon that island, while a resident in
の日本文化を中心に行われたユーロパリア’
89へ
the United States(ポートランド,1838年)であ
のベルギー側の唯一の貢献がアイヌ民族展の実施
る。
であったこと(クレディ・コミュナール編 Les
沖縄は、ジユール・セバスチャン・セザール・
Ainous. Peuple chasseur, pecheur et cuelleur du
デュモン・デュルヴィユ著の旅行小説 Voyage pit-
Nord du Japon,ブラッセル,1989年)と、現在
toresque autur du monde(パリ,1834年)やイワ
(1999年)ワシントン・スミソニアン博物館がア
ン・アレクサンドロビッチ・ゴンチャロフ著 Fre-
イヌ特別展を開催中である、ということだけを指
gat Pallada(セントピータースブルグ,1857年)
摘しておきたい。
などの広範に読まれた書物の中で、南海の熱帯に
ある平和な社会としても描かれた。
アイヌ人はドゥ・アンジェリの布教活動やデ・
しかし、もう一度、19世紀初期に話を戻すなら
ば、百科全書主義の影響の下でオランダの日本研
究が再び盛んになりだした。
フリーズの旅行記などで昔から知られていたが、
イザーク・ティチングの功績は現在、再発見さ
ヨーロッパ思想史において再発見されたのは、北
れつつある8)。かれの所蔵品は散逸し、ヘンド
太平洋の偉大な提督たち、ラ・ペルーズ、ウィリ
リック・ヅーフの日本コレクションは船の難破に
アム・ロバート・ブロートン、アダム・ヨゼフ・
より失われたが、ヤン・コック・ブロムホフのも
フォン・クルゼンシュテルンらによってであっ
のはライデン国立民族学博物館に残存し、現在研
た。かれらは、その200年前に日本人が描かれて
究し直されている。しかし何といっても最も有力
いたのとほぼ同じ言葉でアイヌ人のことを記述し
なものといえば、ライデンとミュンヘンのフィ
ている。すなわち、アイヌ人は非常に文明的で平
リップ・フランツ・フォン・シーベルトのものを
和的な民族であり、
「今までに知られているすべ
おいてほかにない9)。それはシーボルトとかれの
ての民族の中でアイヌは最高と思える民族であ
雇い主のオランダ人が思い浮かべた、日本を自由
−Ryūkyū in World History. JapanArchiv Vol.2, Bonn2
0
0
1.
8)ティツィングの仕事の適切な評価は、
−Frank Lequin, ed.: The Private Correspondence of Isaac Titsingh, vol. I(1
7
8
5−1
8
1
1)and vol. Ⅱ(1
7
7
9−
1
8
1
2)
, Leiden(Amsterdam)
,1
9
9
0,1
9
9
2.
9)シーボルトの収集品とヨーロッパ思想に対する影響については下記論文集を参照。
−ヨーゼフ・クライナー編『黄昏の徳川・ジャパン―シーボルト父子の見た日本』NHK ブックス、東京、1
9
9
8年。
October 2
0
0
1
―1
5―
な世界貿易制度の中に取り込むという目的・意図
ションから約20年間を経て、ようやくヨーロッパ
とともにあった。ここではシーボルトとアレクサ
画壇は「光の発見」への準備がととのったのであ
ンダー・フォン・フンボルトとの間で取り交わさ
り、こうしてシーボルトの貴重な所蔵品は何人か
れ、現在はボン大学の中央図書館に保管されてい
の批評家が認めているように「天啓」と見られた
る書簡類に言及するのにとどめる。この中で両者
873年 の
の で あ る11)。そ れ 以 来、そ し て 特 に1
ともに、世界経済の中での将来の日本の印象的な
ヴィーン万国博以来、ヨーロッパの美術・工芸・
役割について語っている。しかしシーボルトの所
意匠への日本の影響は建築とともに確固たるもの
蔵品はヨーロッパ人の日本像に、文学や美術の領
となり、ヨーロッパの芸術家は「日本から学ぶこ
域でも少なからぬ影響を与えた。
と」に一切の反対をしなくなった。一例として、
江戸時代の大衆文学の小品である柳亭種彦の合
エミル・オルリクは京都で木版画の名匠の徒弟と
巻『浮世方六枚屏風(1821年)』はシーボルトか
なって働くことで、自らそのことを実行した。し
らヴィーンの帝室図書館に寄贈後、アウグスト・
かし、それが社会理論や科学技術、自然科学とな
プフィッツマイアー10)によって発見され、Sechs
ると、誰もが躊躇する。啓蒙運動が語ったよう
Wandschirme in Gestalten der vergänglichen Welt
に、日本人に技術革新の能力がないのは、個人主
(ウィーン,1847年)として翻訳された。これは
義が欠ているからなのであろうか。芸術を一瞥し
日本文学作品でヨーロッパ言語に翻訳された最初
ただけでも、こういう見解が間違っていることが
のもので、やがて欧米人の教養の一部となる偉大
よくわかるはずである。
な伝統へと目を見開かせるものとなった。
要約すると、ヨーロッパ人の日本像は大きく
日本の演劇もまた、シーボルトに深い感銘を与
は、出島のオランダ商館の有益な活動によって形
えたが、かれが歌舞伎の数点の筋をヨーロッパの
成されたことを示そうとしてきた。出島は何世紀
舞台芸術に導入しようとした試みは失敗した。た
もの間、多くのオランダ人以外のヨーロッパ人に
だ20世紀に入ろうとする時点で、この分野は再び
も開かれていた。これらの人びとの報告書やコレ
ヨーロッパ人の想像力を掻き立てるものとなっ
クションのおかげで、日本文化・社会についての
た。能がベルトルト・ブレヒトやユージン・オ
材料がヨーロッパでも知られるようになったが、
ニ ー ル に 刺 激 を 与 え、現 在 で は モ ー リ ス・ベ
それらが当地では先入観にもとづく知識や概念に
ジャールが「我々の持っている様々な問いに対す
よって解釈された。その大部分はヨーロッパ人自
るすべての答えはすでに歌舞伎の中にあり、歌舞
身の自己理解に影響されていた。今日でさえ、日
伎は演劇の最も進歩した形態である…」と結論づ
本研究はこのような過去の遺産から解放されてい
けている。一方、市川猿之助はリヒャルト・シュ
ない。日本をその研究の対象としているヨーロッ
トラウスの Die Frau ohne Schatten[影のない女]
パの研究者の最初の仕事は、こうした前提を意識
をミュンヘンで、リムスキー・コルサコフの The
して、それぞれの日本像を日本の現実と比較する
golden bird[金鶏]をパリで、それぞれ上演して
ことでなければならない。しかし最も大事なこと
いる。
は、16世紀末にいみじくもルイス・フロイスがし
美術も日本の伝統の恩恵を大いに受けている。
たように、日本研究はわれわれ自身のヨーロッパ
ライデンでの浮世絵版画のシーボルト・コレク
事情についての、比較の視座からする自己認識を
1
0)ヨーロッパのアジア・日本研究におけるフィッツマイアの影響は、
−Otto Ladstätter and Sepp Linhart, eds.: August Pfizmaier(1
808−1887)und seine Bedeutung für die Ostasienwissenschaft. Beiträge zur Kultur― und Geistesgeschichte Asiens vol. 3, Österreichische Akademie der Wissenschaf6
2, Vienna1
9
9
0.
ten, Phil. ―Hist. Klasse, Sitzungsberichte vol.5
1
1)1
9世紀から2
0世紀にかけてのヨーロッパ美術への日本の影響の最も適切な評価については、
−Klaus Berger: Japonismus in der westlichen Malerei 1
860−1920. Studien zu Kunst des neunzehnten Jahrhunderts, vol.4
1, Munich1
9
8
0,
9. und 20. Jahrhunderts,
−Siegfried Wichmann: Japonismus. Ostasien―Europa, Begegnungen in der Kunst des 1
Herrsching1
9
8
0.
―1
6―
社 会 学 部 紀 要 第9
0号
映し出す鏡としても役立つかもしれないというこ
もあって、独仏間には深い理解が築かれてきた
とである。
が、日独間の相互関係はそれほど明瞭なもののよ
うには見えない。これは例えば、日本人が勤勉だ
ドイツ人の日本像の現状
と考えるドイツ人の比率が1970年の96%から1980
年の72%まで下がっていることから読み取れる。
まずドイツの週刊誌シュテルン(Stern)が1981
この変化が起こったのは、日本の経済的成功が新
年に実施した世論調査に目を向けたい。この調査
しい頂点へと急上昇しつつある時期であり、それ
では最も好きな外国の国民について質問している
は外務省によって実施された世論調査12)によって
[表1]。フランスが表のトップで、次いで日本
確かめられた。私見ではこれは、日本と日本人が
(54%)となっている。しかし教育、青少年の交
非常に好まれており、それゆえドイツ人の自己ス
換プログラム、観光のおかげで、また、もちろん
テレオタイプと日本に対する他者ステレオタイプ
アデナウアー、ドゴール、シュミット、ジスカー
が一致する傾向にあるという事実によってのみ説
ル・デスタン、コール、ミッテランといったよう
明できる。
日本についてのドイツ人のニュース・情報源は
な政治家たちの「偉大」なジェスチャーのおかげ
非常に限られおり、テレビ、印刷メディアと、そ
表1
ドイツ人の一番好きな国
の割合はずっと低いものとなる日本人との接触と
順位
国
パーセント
1
フランス人
6
3
2
日本人
5
4
3
アメリカ人
5
1
いったところである[表2]。
テレビが、この調査が日本の外務省によって実
施された1982年以降、大幅に拡大したことは言う
までもない[表3]
。しかし、それでも未だ十分
とはいえない。
[シュテルン誌 No.
4
0、1
9
8
1年9月2
4日]
表2
テレビ
日本についての情報源
1
9
7
7年
1
9
8
2年
5
1%
6
7.
0%
雑誌
1
9
8
9年
1
9
9
6年
6
1%
4
7.
5%
8
3%
新聞
6
2%
3
4.
2%
7
9%
出版物、映画、講演
2
8.
4%
―
教育
7%
2
7.
5%
*
1
7.
0%
1
3%
3
5.
0%
―
友人を通して
1
0%
2
1.
9%
2
3%
ドイツ在住日本人から
2%
1
0.
6%
4
4%
日本滞在によって
1%
2.
5%
―
ラジオ
直接の接触
*
3
0%
5
4%
*:テレビの数字の中に含まれる
1
2)日本の外務省大臣官房海外広報課が実施しているヨーロッパ連合主要国(当初5ヵ国、後に7ヵ国で英国、ドイ
ツ、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、スペイン)での世論調査の未出版資料による。この調査は不定
期の間隔で1
9
7
7年から実施されてきた。最新の第8回調査が実施されたのは、筆者の知る限りでは1
9
9
6年であ
る。標本は国ごとに異なる方法によって抽出されており、また、質問項目は各年度を通して同一ではないので、
比較は必ずしも容易ではない。ここからの「外務省」の表記と年度はこれらの世論調査の要約謄写版にもとづい
ている。
October 2
0
0
1
―1
7―
ドイツの主な全国紙には1
986−87年に年間6,
000
に関する肯定的なイメージ項目(ドイツ語では
件の日本関係のニュース・レポートが出された
Merkmale)のすべてにおいてトップに立ってお
が、その関心の90%は経済のみであった。一般
り、「日本人」についても同様トップで、否定的
に、これらの日本レポートが否定的な調子で書か
なイメージ項目では下位に位置している[表5、
れることは少ないが、特に一流の週刊誌(シュ
6、7、8]。
ピーゲルやシュテルン)は強い日本批判を書く傾
ドイツ人の「日本」イメージを見ると、1977年
向がある。
と1996年の間で、いくつかの変化が進展している
もう一つの問題は、テレビも印刷メディアも、
[表9]。例えば、1989年と比較すると、半数のイ
どちらもドイツ人が最も興味を持っている日本の
メージ項目には変化が見られないが、やはり肯定
文化・歴史、社会・日常生活、あるいは科 学 と
的なイメージ(「日本は高度の文化を持つ国であ
いった分野についての情報を提供していないとい
る」と か「生 活 水 準 が 高 い」
「伝 統 的」「美 し
うことである[表4]。
い」)が否定的なイメージ(
「低賃金」
「ヨーロッ
この分野は、増大する日本文学の翻訳物によっ
パ人とは相容れない」「理解困難」)に対し優勢に
て部分的 に カ バ ー さ れ て い る。現 在(1
994年)
なりつつある。
300人を超える日本人作家の1,
026点もの作品がド
同じことがドイツ人の「日本人」イメージにつ
イツで出版されており、その75%はこの20年間に
いても言える[表1
0]。つまり日本人 は「勤 勉」
初めて出版されたか、再版されたかである。
「親切」「有能」とされている。驚くべきことに、
もう一度、日本の外務省が不定期的にヨーロッ
「礼儀正しい」というイメージは1
977年と1989年
パ連合の数ヵ国で実施した世論調査に戻ると、ド
の間に低下し、
「従順」は1
4%から37%へと上昇
イツは1989年のスペインを下回るだけで、「日本」
している(これはドイツ語への翻訳の問題なのか
表3 1982年のドイツのテレビに出た日本
ニュース
ルポルタージュ
特別番組
日本映画
合計
ARD
6
8
9
8
8
9
3
ZDF
7
2
1
2
3
5
9
2
合計
1
4
0
2
1
1
1
1
3
1
8
5
表4
ドイツ人の日本についての関心分野
分野
1
9
7
7年
1
9
8
2年
1
9
9
6年
文化・歴史
3
4%
4
5.
6%
(ほかの EU 諸国はすべて2
0%未満)
4
0%
経済
3
4%
2
7.
8%
3
5%
(英国:7%)
スポーツ
1
9%
質問していない
科学
1
6%
質問していない
(ほかの EU 諸国はすべて2
0%未満)
3
4%
日常生活・
社会
1
4%
3
3.
3%
(ほかの EU 諸国もすべて高い)
6
1%
政治
1
4%
2
0.
3%
(英国:0%)
2
8%
(英国:2
8%)
日本訪問
質問していない
4
1.
7%
質問していない
質問していない
―1
8―
社 会 学 部 紀 要 第9
0号
表5および6
ヨーロッパ連合諸国の日本人イメージ:1977年と1989年の比較
October 2
0
0
1
―1
9―
表7および8
ヨーロッパ連合諸国の日本人イメージ:1977年と1989年の比較
―2
0―
社 会 学 部 紀 要 第9
0号
表9
ドイツ人の日本イメージ:1977年、1989年、1996年の比較
表10 ドイツ人の日本人イメージ:977年と1989年
October 2
0
0
1
―2
1―
もしれない)。否定的なイメージ項目は、概して
けではない。オランダ人の日本イメージと比べて
それほど選ばれていないことがわかる。
見ると、この点がはっきりと見えてくる[表12]。
ヨーロッパ連合のほかの国ぐにのデータと比較
ドイツとイタリアは「日本は信頼できる」とい
して見ると、ドイツ人の日本イメージは(そして
うことを91%が賛成しており、トップに立ってい
スペイン人、そしてやや低いもののイタリア人の
る(逆に、反対意見はそれぞれ4%と7%だけで
それも同様に)非常に肯定的である。例えば、日
ある)。しかし詳しく見てみると、オランダ人は
本人を「閉鎖的」と思う英国人の比率は1989年に
「日本は信頼できる」に賛成の比率が非常に高い
75%(ドイツ人は14%)であ り、ド イ ツ 以 外 の
だけでなく、少なくとも1989年には条件なしの賛
ヨーロッパ連合諸国では20%以上の人びとが日本
成意見が55%と実に第二位の比率となっている。
人を「模倣的」と思っているのに、ドイツではそ
英国とフランスは、肯定意見も否定意見も高い比
れがたったの5%である。
率で、このことはドイツに比べて、これらの国が
1981年の週刊誌シュテルンによって実施された
日本と長期間にわたり、深い接触と突っこんだ議
調査[表11]で描かれたように、ドイツと日本の
論をしてきたことを意味している。米国人や中国
他者ステレオタイプを比較すると、両国とも相手
人の日本を信頼しないとする比率はヨーロッパの
を「勤勉」で「経済が良好」と考えている。しか
どの国よりも高い(それぞれ42%と34%)。
し、ドイツ人が日本には大いなる未来があると
経済問題と米国における日本イメージとの間に
思っているのに対し、日本人はこの点ではドイツ
は明らかに注目すべき関係が見られることが、ロ
人をまったく危ぶんでいる。興味深いのはドイツ
ナルド・モースによるグラフで示されている[表
人自身の自己ステレオタイプで、ドイツは「スト
13]。同じことがヨーロッパの国ぐにについても
レスの多い」国であると述べているのにもかかわ
言えるかもしれないが、今までのところ、ドイツ
らず、「住みやすい」として矛盾した回答をして
は日本と深刻な経済論争を抱えているわけではな
いることである。
い13)。
ドイツ人の日本イメージは「あいまい」で、基
ドイツにおける日本と日本人に対する大体にお
本的に肯定的とはいえ、明確に定義されているわ
いて肯定的なイメージにもかかわらず、結論とし
表11 ドイツ人と日本人の自己・他者ステレオタイプ
―2
2―
社 会 学 部 紀 要 第9
0号
表12 信頼できるパートナーとしての日本のイメージ:
ヨーロッパ連合 1989年と1996年の比較
回答国
信頼できる
信頼できる
まったく信頼できない
信頼できない
多少は信頼できる
英国
やや信頼できない
7/1
8
7
1/4
8
1
5/2
0
2
1/3
2
6
4/3
0
ドイツ
6/1
2
4
0/3
4
9
1/8
6
1/1
4/9
5
1/5
2
フランス
3/8
2
3/7
7
6/6
2
3/4
2
0/3
5
5
3/5
5
イタリア
1
7/3
1
4
1/5
1
9
1/7
2
3/8
7/2
3
5
0/2
1
ベルギー
4/1
5
2
6/2
5
7
9/7
1
7/3
1
5/1
9
5
3/4
6
オランダ
8/1
6
5
5/2
6
8
7/8
1
5/3
7/8
3
2/4
9
スペイン
2/5
5
9/5
8
8
5/8
9
3/3
6/8
2
6/3
1
3/5
(外務省 1990年)
ては、ドイツ人の日本イメージは脆弱、あいまい
で、しっかりした情報がないと再び否定的になっ
てしまう危険性がある。というのは、そのような
ステレオタイプのイメージは真の相互理解と十分
な情報にもとづいたものではないからである。
1982年の日本の外務省の世論調査でのいくつかの
回答がこの傾向を示唆している。[表14]
1
3)参照すべき例として、
−Heinz Riesenhuber and Josef Kreiner, eds.: Japan ist offen. Heidelberg―Berlin―New York1
9
9
8.
October 2
0
0
1
―2
3―
表13 日本不信と米国の GNP 成長
表14 日独関係についてのドイツ人の意見(1982年)
1.両国は過去、親密な関係を持ってきたが、この関係はさらに深まるだろう。
肯定
否定
全体
5
2%
4
2%
4
5歳未満
3
0%
6
3%
政治家
3
8%
5
8%
2.この親接な関係は現在弱まりつつある。
肯定
否定
全体
−
7
0%
4
5歳未満
2
8%
−
3.ドイツにとって日本は異国である。このことは将来も変わらないだろう。
肯定
否定
全体
3
6%
5
9%
4.両国の関係は改善されつつあるが、近年は摩擦があった。
肯定
否定
全体
5
1%
4
5%
知識人
7
1%
−
―2
4―
社 会 学 部 紀 要 第9
0号
Value Change in Germany and Japan:
The European Image of Japan
ABSTRACT
In this paper I have tried to show that the European image of Japan was, to a great extent, shaped by the good services of the Dutch at their outpost in Dejima, which was open
to many other Europeans for centuries. Thanks to the reports and collections of these men,
materials on Japanese culture and society became known in Europe, but were interpreted
according to preconceived ideas and concepts which, for the most part, were influenced
by European self-understanding. Even present-day Japanese studies are not free of this legacy. The foremost task of the discipline is to be conscious of these presuppositions and to
compare each statement with Japanese reality. But above all, that means that Japanese
studies may also be used as a mirror for a comparative self-knowledge of our own European situation, in the way that Louis Frois used Japanese studies at the end of the 16th century.
How about the German image of Japan today? Notwithstanding the overall positive image of Japan and the Japanese people in Germany, because that stereotype is not based
on real mutual understanding and sufficient information, the German image of Japan is
weak, hazy, and in danger of becoming negative again without substantial information.
Key words: value change, European image of Japan, self-knowledge, self-understanding,
substantial information
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