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「ヴィルヘルム ・ マイスターの修業時代」 における商売と芸術

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「ヴィルヘルム ・ マイスターの修業時代」 における商売と芸術
「ヴィルヘルム・マイスタ-の修業時代」
Hande)undKunstin"Wi)helmMeistersLehrjahren".
一商売と芸術
における商売と芸術
NAKAJHMA
明
彦
仕立ててありました。のべつ幕なしに忙しげにせかせかと動きまわり、
口やかまし-、けちで細か-、万事につけて小うるさい限りです。そ
して彼女の鞭のもとで身を小さ-こごめ、毎日額に汗して奴隷のよう
その反対の極に位置する商売が意識されている。ザイルヘルムの生活
は商売と芸術との対立、緊張の中に常にあった。それはザイルヘルム
に働かされる男の身の上も、見るも哀れに描いてありました。
売と芸術とが彼を求めて張り合ったのだ。そもそもゲィルヘルムがそ
れを書いた動機は、隣の店に見習いとしてやられたが、この仕事が低
級にしか思えず、それで詩を書いて、商売をこきおろして憂さを晴ら
そうというのだった。
「むかしの反古のなかにまだ残っているはずですが、そのころ書い
たある詩をいまでも覚えています。悲劇の女神(ムーサ)と商売を擬
「ゲィルヘルム・マイスタ-の修業時代」における商売と芸術
(-)
悲劇の女神に身をゆだねます。すると、女神は、彼女の金色のヴェルを投げて、裸の僕にかけて-れました」
二人の言葉は大変対照的でした。--僕は、老婆のお説教やおどしに
は耳をふさぎ、約束された富にも背を向けて、無一文の裸一貫のまま
小さいときから始まった。特にその癖著な例は、ゲィルヘルムが少年
さし、鍵束を腰にぶらさげ、鼻に眼鏡をのっけたこせこせした老婆に
人化したもうひとりの女とが僕の分身をめぐって猛烈な舌戦をくりひ
ろげるという詩です。--商売を擬人化した女は、糸つむぎ棒を帯に
AkiFiko
島
時代に書いた詩であった。ある夜ザイルヘルムはマリアーネにおのれ
の演劇熟の由来を語った。そして話がこの詩に及んだ。その詩では商
では、商売-対-芸術と
「ゲィルヘルム・マイスタ-の修業時代」
いう図式は作品を構成する根本原理になっている。芸術を考えるとき
中
悲劇の女神のはうは、これとまるで違っていました。悩める心にとっ
ては慰めの化身とも思えました。姿かたちも美しければ、態度も物腰
も、自由そのものでした。---僕はめぐる争奪戦は、煽烈をきわめ、
中島
「ゲィルヘルム・マイスタ-の修業時代」における商売と芸術
商売に対する反感から生まれたこの詩では、少年ゲィルヘルムは室
乏な文なしの裸状態で、詩の神に身を委ねたのだ。
これは詩の中の空想の出来事であったが、今青年となって女優マリ
ア-ナを愛するようになると、彼女との結婚と演劇の世界に身を投ず
ることが一つとなり、「無一文の裸一真のまま悲劇の女神に身をゆだ
立を助けたが、その資金は父からの金を流用したのだ。そして彼は伯
爵の館で、伯爵の客となる殿下を歓迎する為に努力した。彼は頼まれ
て歓迎の劇を書いたり、その上涜に力を尽-した。その彼の骨折りに
対して伯爵夫妻は正当な報酬として男爵を通して金をザイルヘルムに
提供した。しかしゲィルヘルムはお金を受け取るのを恥じた。彼は芸
0
ねようとする」。ゲィルヘルムは近代文学の主人公にふさわしく、主
術家の仕事に報酬があるべきだという認識をもっていなかった。それ
なら父の金で生きるしかない。彼が伯爵夫妻の提供を拒むことができ
たのは市民階級に属する父親の経済力という後ろ盾があったからであ
金を用立てる以前をしのぐ財政状態であると知って
る。結局彼は金を受け取った、そして残っていた金とこの報酬とを足
すと、メリ
あ ナ
る3:に
の道をとらなければならない。どうか、ぼ-の言うことをわかって-
だ。ところが、ぼくは、一介の市民にすぎないものだから、ぼ-自身
めの手段がいくらかはっきりしてきただけだ。-もしぼくが貴族だったら、ぼ-たちの議論は、すぐに片づいたはず
目標であった。今もこの考えは変わらない。ただ、それを実現するた
「ひと言で言えば、今あるがままの自分自身を鍛え上げ形成するこ
と--これが、おぼろげながらも少年時代からのぼ-の念願であり、
天から授かった素質の調和的発達を期待している。
て、演劇の世界に身を投ずるか説明する。彼は演劇の世界でおのれの
少年時代からの友人であり、義弟であり、また商人でもあるヴュルナI
に宛てた手紙の中である。この手紙で彼はなぜ自分は市民階級を捨て
商売か芸術かという図式が最も切実に現れるのは、ゲィルヘルムが、
満足したの
でl
観的、感傷的、ロマンチックに出発する。商人の息子は息の詰まる因
習的な市民の身分を捨て、父の家を出ようとする。そして将来の当て
はおのれの運命を信頼する意気だけである。それはゲィルヘルムがマ
リア-ネにあてた求婚の手紙の中にはっきりと現れている。
「心配は無用だ。愛があれば後は運命が面倒をみてくれる。愛は無
(2)
欲だから、なおさら安んじて運命にまかせてお-ことだ。ぼくの心は
もうとっ-に両親の家を離れ、きみのもとにあるし、ぼくの精神は、
舞台の上にある」
ザイルヘルムのこの計画、家から出てマリア-ネと結婚する、経済
的なこと、将来のことば運命にまかせるというロマンチックな計画は、
「偶然」 マ-アーネに愛人がいることを発見してだめになる。いつも
ゲィルヘルムの意図を妨げる「偶然」がここでも頑を見せる。
商売かそれとも芸術か、あるいは市民か芸術家か、という図式はそ
の後もずっと続-。ゲィルヘルムが旅回りの1座と行を共にするよう
になって、家のことはすっかり忘れてしまった。そして市民階級から
脱したように見える。この時でも彼は市民階級とは頗の所でつながっ
ているのだ。彼はメリ-ナに資金を提供してやってメ-ーナの劇団成
中島
か人品というやつはどうにもならない。貴族は、どんなに身分の高い
できないわけではない。しかし、どんなに気を配ってみても、人柄と
市民だって、功績をあげたり、なんとか精神を陶冶したりすることが
えて言えば人格的な自己形成や教育は、貴族だけに可能なことである。
なるから、これを絶対視するのは危険である。
これより先ヴュルナ-はゲィルヘルムに手紙を書き、市民生活の幸
と、ゲィルヘルムがヴュルナ-への反発心から書いた事情が明らかに
も批判的に読む必要がある。この手紙を小説のコンテキストから見る
じた。ただゲーテの作品は皮肉(イロニ-)
解釈者は、ここのゲィルヘルムの教養の内容が表れている、これこそ
この小説のキーワードである、これこそこの作品のイデ-であると信
れたまえ。他の国々のことはいざ知らず、ドイツでは、普遍的な、あ
人々とでもつきあうから、上品な礼儀作法を身につけることが義務と
なる。また、貴族にはどの門戸も閉ざされていないから、その礼儀作
書けていたが--ゲィルヘルムにはひとかたならず気にくわなかった。
--こうして彼は反論を展開する為の論拠を自分なりにあれこれ集め、
悪を覚えた。「この手紙(ヴュルナ-のザイルヘルム宛)
に包まれているが、ここ
法は、自由で、のびやかなものとなる。さらに、宮廷でも軍隊でも風
福を措き、ザイルヘルムに商人として協力してくれること期待してい
ると述べた。しかしヴィルヘルムはヴュルナーの描-市民の生活に嫌
采や人品にものを言わせなければならないから、貴族が人柄とか人品
を大切にするのは、当然であり、またそれを大切にしていることを人
--このようにして一通の返事ができあがった」
なら、そうした態度は、彼がどんな場合にも平衡を失っていないこと
身を捧げる決心を固めた。それまでゼルロに頼まれてもためらってい
こうしてゲィルヘルムはヴュルナ-への反発から一層演劇の世界に
は実によく
に示すもの、しごく当たり前のことだ。日常的なことにある種の垂お
もしい優雅さを見せたり、真剣で重大な事柄に一種軽やかな優美さを
を示しているからだ。貴族は冷た-とも思慮があればよ-、猫をかぶっ
たのだがここでゼルロ一座に加わることにした。
ところが、だれかある市民がそのような特権ををい-らでもわがも
己に授かった素質を生かして伸ばし成長させたいと願っていた。そし
「今あるがままの・自分自身を鍛え上げ形成すること」
である。彼は自
ゲィルヘルムはここでおのれの人生の目的を告白している。それは
ていたのであろうか。あの時彼は同時に外面の華やかさとは裏腹に貴
賛美に走ったのは、伯爵の館で体験した貴族の華麗な印象が脳裏に残っ
のである。これは今日の読者にはピンとこない。彼がこのような貴族
を得たいと思うと述べている。公人としての貴族の外見のよさ、重々
しさである。貴族のような立派な立ち居振る舞いを習得したいという
ゲィルヘルムは貴族の取る立派な外観(reprasentativeErscheinung)
て具体的には貴族のような立派な挙措をえたいと思った。このような
族の内面の空虚さも知ったのであるからこのように一方的に貴族賛美
「ゲィルヘルム・マイスタ-の修業時代」における商売と芸術
事を述べているこの手紙は重要な意味をもっていて、そこで幾人かの
(4)
のにしたいなどいう料簡を起こしたら、どういうことになるだろうか0
まるっきり失敗に終わるに違いない。--」
更に問題点の二は、ゲィルヘルムの教養をえたいという目的は正し
いとしてもその目的の内容が時代遅れに見えることである。
ていても聡明であればよいのだ。・---‥
(5)
もって対処したりするのは、いかにも貴族にふさわしい挙措だ。なぜ
中島
「ザイルヘルム・マイスタ-の修業時代」における商売と芸術
を行うのは不思議である。これを説明しようとしていろいろな説がな
された。その例としてBergerは美学的体験がゲィルヘルムの成長に
どのように働いたか辿って、伯爵の館で読んだラシ-ヌの影響がここ
(6)
に現れたのだという。でもラシ-ヌからゲィルヘルムのあれだけの論
zuwei)en
der
(9)
彼の家は昔からずっと名家であったという風になすことができない。
そのような名望が貴族の本質である』
まれの男にはなれない。そして君主が彼に貴族の称号を与えようと、
『しかし平凡な生まれの者は、本来の知性において、決してよい生
には到達できないものとした。
Garveはしかしこの教養は貴族にのみ獲得されるものであり、市民
けによって感じのよい人に見せて-れる』
れ故苦から人は、宮廷を見せかけがはばを利かす所とみなしていた。
しかし実際真の心の良さが欠けた時、美徳が欠けた時、上手な見せか
四
おのれの調和的発展を頗う欲望は正しいとしても、具体的にはそのよ
うな外観の術を得ようとしていて、それは奇妙な話である。でもそれ
こうして見ると、ヴィルヘルムの教養を求める気持、あるがままの
いるとすれば説明ができる。
実際には立派な人物でもないし美徳の持主でもな-てもそのように見
せかけることがその人を感じのよい人にしているという説を踏まえて
も今引用したように、Garveの、外面的な見せかけの効用を説いて、
あればよいのだ」とゲィルヘルムは言っているが、教養の手本とすべ
き貴族が内面では冷たくてもいいと言うのもおかしな事である。これ
「貴族は冷たくとも思慮があればよ-、猫をかぶっていても聡明で
は消しても宮廷では消えない」と照応している。
わせなければならないから--」は、Garveの「市民的外見は軍隊で
るのと同一である。又彼の「宮廷でも軍隊でも風采や人品にものを言
これはゲィルヘルムが市民は品位ある挙措を獲得できないとしてい
(10)
拠のディテイルを引き出せるだろうか-ところが最近ゲ-テやシラと同時代の哲学者Garveの著作に注目されてからこの間題は1挙に
Airverliert
解決された。Garveに「ロッシュ-コ-の歳言。市民の外見は時に
は軍隊で消えても、決して宮廷では消えない」(t5derdieMaxime
Rochefoucau)ts‥dasbBrger)iche
bei
族と市民の外見の差を考察して、この両者の境は乗り越えることがで
)やFetz耶)は、Garveの著作の中
的な行為、声、表情そして動作以上には先に至らない場合がある。そ
と立派な社交上の礼儀に至る。もちろんこの自己制御はしばしば外面
められる。『自身と他人とによ-注意すること。それゆえ人間に対す
る知識と、おのれを制御する力。この二つが1緒になると真の丁重さ
公人として登場する。その際品位に満ちた、落ち着いた振る舞いが求
Garveの説-所は、貴族の外面的な見かけについてである。貴族は
あろうことば十分に予想される。
ていたから、当然この著作がシラーを通してゲ-テの関心をひいたで
テの作品に現れていると指摘した。当時シラ-はGarveと文通をし
にあるものがザイルヘルムの議論にある、時には殆ど同じ言葉がゲー
きないと述べたのであった.Schin;hs
う身分制度の枠を示した本であると予想されるが、事実Garveは貴
らしても市民は宮廷ではとても粗野な素地を消すことができないとい
Arm22,niema)samHof.)792)とヤっ著作がある。このタイトルか
si°h
中島
はGarveの論の引き写しであるとすればよく理解できるであろう0
るロター-オに協力する。こうしてゲィルヘルムは狭い教養目標から
しかし彼は後に「塔の結社」の一員になり、社会改革を目指してい
る体験となった。当初ヴィルヘルムはハムレット、この近代の主観的
る。ゲィルヘルムはハムレッ-を上演したがこれが彼の幻想を否定す
の世界である。ゲィルヘルムは深い感銘を持って、ナタ--エの叔母
告白であり、これはゲィルヘルムの外面的見せかけの努力とは正反対
次の第六章の 「美しき魂の告白」は内面の世界にのみ生きた女性の
脱却して、社会の中に溶け込んでいく。
ゲィルヘルムは、美学的な「外観」と「見せかける外観」と混同し
た。人間の天性の調和と、古風な貴族的理想と混同した。そしてザイ
な人間の原タイプであるデンマ-クの王子に熱中し、自己と同一視さ
ルヘルムの目標の設定が間違っているのであれば彼の失敗は必然であ
えしていた。しかしゼルロの一座の為に改作している内ハムレットと
「ぼ-だって、ハムレットをやりたい一心からこの作品をとことん
研究してみたあげ-に、とんでもない迷路に入り込んでまごまごして
いるしまつですよ。身を入れて自分の役を研究すればするはど、ぼの体つきにはシェ-クスピアが描いたハムレッ-に似たところが爪の
(u)
ゼルロの所での演劇の経験はゲィルヘルムの演劇に対する幻想を覚
垢はどもないということが益々はっきりしてきました」
まさせる過程となる。
へと傾いたのである。
そういう意味では振子の揺れが、ゲィルヘルムの「見せかける外観」
から、極端な「内面」
中庸のとれた理想的な像はナタ-リエである。彼女は自己自身と全
-一致している(この点は美しき魂の告白の筆者と同一)、だが彼女
の天性は、人を助けること、愛することであり、外に向けられていて、
これは大伯父の実際的な生に基づいた生活方針を具現化したものであ
る。さて最終的にはゲィルヘルムはナタ--エを妻として獲得するが、
としていたが、それが由来する根本問題たる身分制度についてはその
人物になっている。テレ-ゼがそれを認めている。
ゲィルヘルムはナタ-リエと似てきている。ナタ-リエにふさわしい
これは彼がこのような理想的女性にふさわしく成長したからである。
変更を考えなかった。
ルム)
人は、より良きものを求めて努力しています。この気高さがあなたそっ
があなたに似ていらっしゃるからです。そうなんですよ。あの
「かぎりな-敬愛してやまないナタ--エさん、あの人(ヴィルヘ
「こんな違いができたのは、なにも貴族が思いあがっていたためで
も、市民が弱腰であったためでもな-、社会制度そのもののせいなの
-りなのです」
ヴィルヘルムは貴族の堂々たる外観は、市民の世界では得られない
(12)
だ。その内になにがしかの変化があるかどうか、またどんな点が変わ
るかいうことばぼ-の知ったことではない」(前述の手紙)
「ゲィルヘルム・マイスタ-の修業時代」における商売と芸術
l喜喜1
の距離を感じて-る。
である一人の女子聖堂参事会会員(Stiftsdame)
の内面生活の手記
を読む。そして彼は「生涯にわたる影響を受けた」と告白する。ただ
この女性は極端に内面に向かい、外の世界には全く関心がなかった。
中島
(_3)
の動き。
「ゲィルヘルム・マイスタ-の修業時代」における商売と芸術
個人、個人に幸福をもたらす「偶然」
この小説ではゲィルヘルムの主観的意図は絶えず否定されている。
中島
の出来
経済論との関連から出発してゲ-テの小説を解明したB-①ssinの功績
を指摘した。歴史哲学は、カント以来、個人の自律と、調和的に機能
に個人には分からない形で、社会と歴史の理性の手段として個人を用
は目標を抱いた統合の役割の中で、個人に無制限の自律を許し、同時
の矛盾を解決しようとした.「理性の策略」(dirListderVernunft)
会秩序も欠かすことができないとすれば、個と全体とを統合するもの
を見つけなければならない。ヘ-ゲルは個の完全なる発展の過程でこ
て個人の不自由を招-ことになる。自律的に行動する個人も正しい社
許すと窓意に支配された混沌たる社会体制に至ってしまうという問題
に突き当たった。そのような混沌たる社会体制は個人にはね返ってき
する社会秩序とを融合させようとした。その際無制限な個人の自由を
(14)
この間題についてFetzerは、当時の歴史哲学とアダム・スミスの
な結末」をうるのか-
せにしている。この作品はハッピ-・エンドになるように構成されて
い&.それならば何故主人公はおのれの意図を達成しないのに「幸せ
る対立者の役割を果している。それでいてザイルヘルムを最後には幸
ネ-ナタ-リエと結婚できた。ここでは「偶然」は主人公の意図を遮
事によって覆されている。最後までゲィルヘルムは誤った行動をとる0
「よ-考えて」 テレ-ゼに結婚を申し込む。だが幸いにしてこの意図
は実現しなかった。偶然が彼の意図に反した働きをして、彼はアマツォ-
彼の行う事は失敗の連続だ。彼の掲げた目標、意図は「偶然」
二
ヽ
個人、個人はおのれの中に生れつき与えられた素質を十分に発達さ
せようとする。ところが個人は無制限におのれの自由を働かせれば社
開をもたらす働きを行ったというのである。
それをくじく。しかしそれによってゲィルヘルムが不幸になった訳で
もないし、全体の混沌が生じた訳でもない。結果からみると幸せな展
ロマンでは「偶然」がゲィルヘルムの主観的意図に対して立ち塞がり
ス-スでは、競争社会の窓意が個の利益追及に制限を加えるように、
の道具となる。そしてそれによって個はまた利益を受けるのである。
この弁証法がゲ-テの小説にも見られるとB-essinはした。アダム・
を知る力がないから、二つの役割が与・与bれている。1つは主体的に
自己の利益を追及する者である。その二は、彼を通して展開する理性
及が全体の繁栄に至るとした。その際個は客観的な全体の発展の目標
スミスは「見えざる手」の働きによって個のエゴイステックな利益追
3魁E
彼は個と全体との相互整合性は「予測できない急変」(ein-etzt-icb
inka-k己ab-esUmscEagen)によって得られるとしたように、アダム・
促進されれば自己の目的も促進される、と考えられている。しかし
促進することは全体の目町を促進することになり、逆に全体の目的が
他の個の利益をももたらすものである。ヘ-ゲルでは、自己の目的を
経済活動はお互いにからみあっているから、個の利益追及は必然的に
的に追及することによって全体の統合、進歩が見られると期待した。
に本質的な点で合一するのを見た。アダム・スミスは個の利益を徹底
B-essinは更にへ-ゲルと古典国民経済学者アダム・スミスとの間
るというのである。
いるというのである。つまり個人は無制限の自律を享受しながらしか
し意識しな-ても歴史の理性の手段に使われて、それの目標を達成す
/
幸せにはならない。そこで個人の自由を制限する働きがあって、ここ
明で批判を交わす。
このシラ-の異議に対してゲーテは「実際的なト-ック」という説
でそれが社会全体の健全化が維持される。それがまた最終的には個人
「あなたが正当にも指摘した欠点は、私の本当の天性から、実際的
なトリックから生まれたものです。そのト-ックによって私は好んで、
会全体を損なってしまう。それはまた個人に戻ってきて、その個人の
の幸せとなって戻って来る。この図式が「ザイルヘルム・マイスター
私は身分を隠して旅をするのが好きです、そしてよい着物より質素な
自分の存在、行動、著作を人々の目から隠しました。そのようにして
Blessinは文学作品たるこの小説の個々の事例にまで市場原理を適
「僕はあなたを見ていると、つい笑いださずにはおれません。あな
発見したのである.
較している。サウルは父のな-したロバを探しに出掛け、偶然王国を
の最後の所で、フ-ード-ヒはゲィルヘルムを聖書の中のサウルに比
ないのだ。そしてゲ-テはそれを作品の中で既に示唆している。小説
ゲ-テが作品の中に織り込んだイデ-は読者が見つけなければなら
があの精神的な存在(イデー)をこの俗的な姿の中に見つけてくださ
るか、私にはわかりませんが」
「私はあなたのイデ-に対して私流の肉体を見つけました.あなた
見えるがいやがてはっきりとおのれの考えを伝えている。
の癖であったと答えた。一応ここで彼はシラ-の批判に逃げたように
を訪れるのに室乏な神学生の姿に変装した話は有名である。ゲ-テは
シラ-に対して、姿を(ロマンのイデ-)を隠したのは自分の苦から
ゲーテは変装が好きだったようだ.若き学生の頃フ-ーデリケの家
用した時行き過たぎが(例えば-ニヨンや竪琴弾きの悲劇)、しかし
この小説で絶えず繰り返されるパタ-ン、主人公は新しい目的をもっ
の修業時代」 に見られるのである。
中島
着物を選び、見知らぬ人又は半分しか知らない人との会話では、重要
でない対象とか、重要でない表現を選びます。実際の私より軽率に振
る舞い、そして自分自身を、自分とその見せかけの外観の間に置きま
てそれ目指して行動して、それが失敗に終わる、ということが、最終
的には主人公の不幸に至らずむしろ幸せに到達するという根本構造を、
ゲ-テ時代の歴史観で納得できるように説明した。
こうして見ると、歴史の理性はすぐにはとらえられないと同様、ロ
す」(17)
(18)
マンのイデ-もすぐに明確に姿を現していないのは当然であった。し
たがってシラ-のように性急にそれを要求するのは作品の精神を損な
うことになる。シラ-はゲ-テにザイルヘルムの教養の概念を明確に
するよう求めている。
「あなilが『修業時代の名人』についての概念について説明したち
のは、両者に狭い境を与えたように思えます。--私がここで望んで
いるものは、ロマンの個々の部分とあの哲学的概念との関係がもっと
明らかにして欲しいということです」
ゲーテはシラ-のように理論的、思弁的にとらえるタイプではなかっ
た。またそうしてイデ-を明確に示せばこの作品は浅-なってしまっ
たであろう。
「ゲィルヘルム・マイスタ-の修業時代」における商売と芸術
七
(16)
「ゲィルヘルム・マイスタ-の修業時代」における商売と芸術
たがキシの子サウルのように思えるものですからね。父親のロバを探
Lehr]
'ahre.Hamburg
Bi)dungsroman.Goethes"Wilhe)m
Goethe.Wilhelm
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geborenen
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und
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BdrgerssohnWi)he)m
anzubilden
und
Blessin,Stefan:Dieradika)・libera)eKonzeptionvon
'ahren》.In:DeutscheViete)jahrsschriftfdrLiteratur・
MeistersLehr]
AnGoethe,8.Ju)i)796
wissenschaftundGeistesgeschite49,)975,S.)93
AnSchi))er,9.dull)796
AnSchi)ler,(0.August1796
LJS.610
Zusammenfassung
glaubt,daB
dar,warum
lndemBriefanWerner,seinenJugendfreundundHande)smann,)egt
Wilhe)m
aus
Furdie
sturzen.
bei
dieMaxime
zuwei)en
para))e)eSte)len.DiesesThemawardama)seinwichtigesProb)em.
verliert
stianGarve,Uber
tationenfindensichfastwartlichineinerzeitgenassigenSchrift(Chri・
orientierteStrebennichtg)eichverstandlich.AberWi)he)msArgumen・
auf
dieserWeg,so)angeerinderbtirger)ichenK)assebleibt.Daherwil)
den
beherrschen
Zie).A)s6ffentliche
er)angenkann.Merkwiirdigerweise
geht.Er
als
Situation
auBerenFahigkeiten
jeder
discheAde)sbild
immer
diese
demAde)mag)ich.Undfhr
Si°h
ihm
しにでかけて王国を発見したサウルのようにね」
Wo)fgan
er
更にゲ-テはこの小説についてエッカマンに次のように語っている。
Klassik.Johann
er
「梶本においては、全体は次のように言っているように見える。人
dtv
EinRoman.HerausgegebenvonHans・J軒genSchings,S1767
jahre.MiteinemNachwortvonGutherFetzer,Mi)nchen)988,S.702
Goethe.M軒chnerAusgabe.Bd.5,S1769
LJS.306
ebd.
LJS.518
LJS.53)
㈹ ㈹ ㈹ ㈹
er
(19)
間はあらゆる愚行や混乱にもかかわらず、より高い手に導かれて、幸
さな目的に達するのだということを」(1八二五年一月二五日)
L]S.65
und
Goethes
Werke.Bd.7:Wi)he)m
)950,以上LJと表す.S.32
L]S.204
LJS.290
LJS.289
Berger,A‥Asthetik
Meisters
Goethe.MdnchnerAusgabe.Bd.5:Wi)he)mMeistersLehrjahre.
MeistersLehrjare".Wien)977,S.58
MeistersLehr・
注
dtvKlassik.JohannWolfganGoethe.WilhelmMeistersLehrjahre.
in
seinem
sich
仙
S
㈲ ㈲ ㈱ S
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㈹ ㈹ ㈹ 仙 ㈹ ㈱
中島
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