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町名歴史さんぽ

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町名歴史さんぽ
ひろしま市民と市政 四季号2015冬
平成27年(2015年)12月20日
特集/ひろしまの町名
町名歴史さんぽ
城下町に由来する町名
広島市で住居表示が始まって今年で50年。住居表示の施行により、
多くの
また、
現在使われていない旧町名も、
神社の石柱や街なかの電柱などにそ
町が新しい町名に変わっていますが、
昔の町名がそのまま現在の町名として
の痕跡を見つけることができます。
使われている町もあります。
町名の由来をたどると、
その町の歴史が浮かびあ
今回は、
昔から使われている町名の由来や旧町名を見られる場所の一部を
がってきます。
紹介します。
広島の歴史を感じながら、
街を歩いてみてはいかがでしょうか。
海に由来する町名
土地の形に由来する町名
おおぎ
かいろうやま
海老山(佐伯区)
はっちょうぼり
えびすちょう
八丁堀(中区)
江戸時代は
広島城下の武
家屋敷があっ
た 場 所 で 、城
そとぼり
東の外 堀の長
さ が 八 丁(約
946㍍)あったことに由来し
ます。堀に面した通りの北端
に八丁堀上御門、
半ばに京口
御門がありました。
その他、城下町に関係のある町名
胡 町 (中区)
福 島 正 則
の時 代に、
にしひきみどうちょう
西引御堂町
(現 在 の 十 日
市 町 二 丁目、
広瀬町)にあっ
た胡子神社を
さ い こ う じ
西 光寺とともに現在の場所
に移したことに由来するとい
われます。
「寛永年間廣島城下図」広(島城蔵 )
広
京 橋町(南区)
京都方面に向かう際に最
初に渡る橋が京橋と呼ばれ
たことに由来する町名です。
最初の橋は1591年に造られ、
現在の橋は昭和2
(1927)
年
に架け替えられたものです。
とぎやちょう
研 屋町(現在の立町、紙屋町一
丁目、本通)
(中区)
刀の研師が居住していたた
めといわれます。広島銀行本店
(中区紙屋町一丁目)付近の電
柱で見られます。
にしうおやちょう
西魚屋町(現在の
本通、袋町、大手
町二丁目)
(中区)
魚商人が多く
居住し、市場が開かれたためと
いわれます。ユアーズLIVI広島
本通店(中区袋町)付近の電柱
で見られます。
海辺の干潟でしたが、江
戸時代の干拓が進むことに
よって生まれた土地です。元
は入江で船の入港場であっ
たことからこの名が付きまし
た。本川に臨む地は水運に便
利で、
かつては多くの船舶が
行き来していました。
昭和41年に本格着工した市
西部開発により埋め立てられ
た土地で、
扇の形に似ているた
め名付けられました。
比治山町(南区)
形が横に長く、
肘を横にした
ような形からともいわれてい
ます。もともとは広島湾に浮か
ぶ島で、
「肘山」とも
「秘地山」と
もいわれたり、島として「日地
島」
と記されたこともあります。
400
④
江波島
比治島
仁保島 ② ③
①
他にもこんな由来がある町名があります
門という人がこの地に住ん
で、蟹をとって売り歩き、生
活の糧としていたことによ
り名付けられたと伝えられ
ています。
その他、海に関係のある町名
・丹那・楠那・日宇那(南区)(図①)の
「那」
は、
向洋(南区)(図②)の
「洋」
と同じ意味で付けられたといわれる
・船越(安芸区)(図③)は沖合に船が行き交い、
水越・堀越に接していたことによるといわれる
・草津(西区)(図④)の
「津」
という字はもともと
「渡し場、
船着場、
港、
岸」
を意味する。
神武天皇、
神功皇后の営陣の地
な であったと伝えられたことから
「軍津
(いくさつ)
」
と称したことに由来するといわれる ど
本通はかつての西国街道
現在の本通は、江戸時代、広島
城下を横断する西国街道(山陽
道)の一部でした。本通には、西
国街道の銘板が、路上に埋め込
まれています。町名として「西横
町」
「 東横町」
「 革屋町」
「 播磨屋
町」
「平田屋町」、御門の方向を示
したものとして「一丁目御門」
「真鍋御門」
「立町御門」、そして、川の位置を示し
たものとして、
「 平田屋川」があり、ここが街道
だったことをうかがうことができます。
同音の町名に!?
家の数に由来!?
金屋町(南区)
銀 山町(中区)
河原町(中区)
白島九軒町(中区)
由来は不明ですが、
その名のとおり金融に
縁のある町です。明治
26(1893)年に「米綿取
引所」ができ、“証券街”
の始まりとなりました。
ちぎやちょう
また、 屋町
(現在の堀
川町、流川町)にかけて
仏壇屋が多かったため、
仏壇通りと呼ばれる通
りもあります。
明治15(1882)年から
現在の町名に。江戸時代
は瓦の焼き場があり、瓦
職人が住んでいたこと
から瓦焼という地名で
呼ばれ、
「瓦」と同じ読み
の「河原」を用いて町名
になったといわれてい
ます。
江戸時代から現在の
町名。当時、九軒の民家が
あったことから名付けら
れたといわれています。
江戸時代から現在
の町名に変更。もと
かややちょう
は茅 屋町。この一帯
は火災が頻発した地
で、享保18(1734)年と
明和3(1766)年に大
きな火災がありまし
た。防災を願って寛
政9(1797)年に町名
を、燃えない金物に
かなやちょう
ちなみ金 屋町に改称
きんやちょう
し、
後に金屋町になっ
たといわれています。
かにや
かにやしんかい
名前にちなんだ町!?
きんやちょう
蟹屋
(東蟹屋、
西蟹屋、
南蟹屋)
(東区、
南区)
昔は蟹屋新開と呼ばれて
いました(新開や新田とい
う地名は江戸時代に開拓さ
れた土地の典型的な名称)
。
蟹屋新開は、昔、五郎右衛
火災で町名変更!?
かつての魚市場が繁華街に
今は商店街にその名を残す
「中の棚」。昔の町名
ひがしうおやちょう
は「東魚屋町(現在の立町、本通)」で、天正17(1589)
年に広島で最初に魚市場が設けられ、もともと
「うおのたな」と呼ばれていました。西魚屋町と京
橋町の3カ所の魚市場の真ん中に位置している
ことから「うおのたな」が転じて、
「 中の棚」と呼
ばれるようになりました。現在は中の棚橋の遺構
が、地下に残っています。また、中の棚商店街の道
の舗装に使われている御影石には中の棚、東魚屋
の地名や魚がデザインしてあります。
←中の 棚 橋 の
遺 構 を 保 存し
たことを示すレ
リーフ
かなやまちょう
かわらまち
町名まめ知識
●町の境界
住居表示は、誰もが分かりやすい道路
や川などの土地の形状を町の境界にして
います。道路で定める場合は原則、東側か
北側の側線を、河川で定める場合は中心
線を町の境としています。
●町名の決め方
町名はできるだけ地域の実情を把握し、
歴史的、文化的な背景などを踏まえて親し
みやすいものにする必要があります。その
ため、
地元住民や学識経験者などで構成す
る広島市住居表示審議会を設置し、
意見を
聞いた上で、市議会で審議します。議決を
経て決定し、
市長が告示します。
※二葉の里歴史の散歩巡りー被爆の痕跡を巡る 日7/28㈪9:00∼11:30 場JR広島駅新幹線口集合→広島東照宮→鶴羽根神社→明星寺→饒津神社 申7/25㈮までに東区地域起こし推進課
(電568-7705)
へ。毎月行う
「ふたばの日定期ガイド」
(申し込み不要)
も午前10時から実施します
はくしまくけんちょう
富士山がよく見える!?
ふじみちょう
富士見町(中区)
もちろん世界遺産の富
士山ではありません。似島
(南区)の安芸の小富士と呼
ばれる山を眺めるのに、最
適な場所であったため名付
けられたといわれています。
住居表示が始まって
今年で50年
広島市で住居
表示制度が始
まったのは昭和
40(1965)年。住居
表示は市街地で
施設の所在する
場所を分かりや
すく表示するた
めに設けられた
制度で、町の区域を適切な広さにするた
め、道路や河川など区切ることで新たな
町の区域を設定しました。その際に、変更
された町名も多くあります。
現在の町名の
多くは、
昭和40年代に定められました。
上幟町 中(区 に)ある町名変更記念碑
猿 楽町(現在の紙屋町二丁目、大手町一丁目)
(中区)
能役者(猿楽師)が多
く居住していたためと
いわれています。県民文
化センター(中区大手町
一 丁 目 )付 近 の 電 柱 に
残っています。
昔は箱 島という小さな島
ごかのしょう
でした。広島が五 箇庄と言わ
れていた頃の一つの村落の
名前で、その名のとおり、太
田川デルタに浮かぶ一つの
島でした。
↓中の棚商店街の道にはいろいろ
な魚がかくれています
旧町名はこんな所で
見ることができます
さるがくちょう
古代山陽道
はこしま
(中区)
みはた
街なかの電柱の中には旧町名を見ることがで
きるものがあります。
ここで紹介するもの以外に
もあるので、
探してみてはいかがでしょう。
はくしま
白島(白島中町、白島北町、西白島
町、東白島町、白島九軒町)(中区)
ふないり
きょうばしちょう
山の形が海老
(エビ)
に似てい
るためともいわれています。も
ともとは島で、江戸時代に埋め
立てられ、
陸続きになりました。
太
舟 入(舟入幸町、舟入川口町、舟入
中町、舟入町、舟入南、舟入本町)
・幟町(中区)は藩主の旗印をまかされていた御旗の士が居住したことによるといわれる
・橋本町(中区)は京橋のたもとにあることによるといわれる
・紙屋町(中区)は伊予屋九郎左衛門が紙商を始めたことによるといわれるな ど
電柱に旧町名の名残
田川の上流から流れてくる土砂が、
自然に埋積して広島デルタを形造りました。鎌倉時代ま
では、
広島市のデルタ地帯はまだ陸地ではなく、
江波島、
比治島、
仁保島などの島が点在して
いました。古代山陽道もずっと内陸にあり、現在の東区の中山、安佐南区の大町、
伴、
佐伯区の
石内の近くを通っていました。
その後、
江戸時代、
明治時代に干拓が進み、
現在に至ります。
の所が約 年前の陸地(広島城資料より作成)
島の町の歴史は、天正17(1589)年に広島城の初代城
主・毛利輝元が太田川のデルタに、広島城の築城と
まちわり
城下の町割(都市計画)をしたことから始まります。
次の城主の福島正則の時代(1600~1619年)には、広島城下
の商いがもっと栄えるように城の南に西国街道を整備し、そ
ちょうにん
の沿道を中心に町人の町を作り、広島の発展の基盤づくり
が行われました。
町人は職種ごとに集められたため、職名を冠した町の名
か じ や ち ょ う
前が付けられました。現在は残っていませんが「鍛 冶屋町
あぶらやちょう
(現在の本川町一丁目、二丁目)」「
、油屋町(現在の十日市町
にしうおやちょう
一丁目、猫屋町、本川町一丁目)」
「
、西魚屋町(現在の袋町、大
てっぽうやちょう
手町二丁目、本通)」「
、鉄砲屋町(現在の袋町、本通)」などの
さまざまな町名がありました。
他にも、八丁堀や薬研堀など堀に関係するもの、大手町な
ど城門に関係するものがあり、城下町の名残を今に伝えて
います。
ひじやまちょう
扇(西区)
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