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『スペクテイター』(19)
大阪経大論集・第53巻第4号・2002年11月 393 〔翻訳〕 『スペクテイター』(19) 第176号から第185号 門 第176号 田 俊 夫 1711年9月21日(金曜日) 【スティール】 かわいくて機知に富み,魅力的な彼女。(ルクレティウス)1) つぎの手紙には,独身の私には知りえないことが述べられています。それゆえ,知 ったかぶりはしないで,この書簡の書き手に存分に事情を語っていただきたいと思い ます。 拝啓 貴紙を拝見しておりますと,貴殿が人道的な生き方について十分理解なさっている ことは疑いのないところですが,おそらく独身では本当のところが分かりかねること が色々あるのも事実ではないでしょうか。たとえば,結婚生活に関することがそうで す。そうでなければ,貴殿が,一般に軽蔑されて「尻に敷かれた男」と呼ばれている 非常に善良な人々のことを見落としていらっしゃる理由が見当たりません。実は,小 生がこの罪のない人物のひとりであることを理解していただかなくてはなりません。 我々は細君に仕切られていることで「尻に敷かれている」と馬鹿にされている訳です。 このことは,貴殿が愛情そのものの本質に立ち入って考察する価値があると思います。 なぜ最愛の妻が我々夫を好きなように扱い,つむじを曲げたり意地悪になったり傲慢 になったりするのか,泣きごとを言って毒づいているかと思えば,卒倒し,またぞろ 1) ルクレティウス『物の本質について』第4巻1162行。 394 大阪経大論集 第53巻第4号 蘇るのか,想像出来ないほど能弁に喋るかと思えば意気消沈するのか,是非お考えい ただきたいものです。小生の考えでは,こういったことはすべて,彼女たちが我々夫 から十分に愛されていないのではないかと危惧するからなのです。そうです,可哀想 な女性たちは主人に心からの愛情を降り注いでいるため,我々夫には同じように愛せ るはずはないと考え,そのことが彼女たちをやきもきさせることになる訳です。本当 のところ,放蕩者とか道楽者が「尻に敷かれた」と言う真に気立てのよい連中はいと しい人といると一風変わった気分になるものです。完全に騙されていると分かってい ても,いとしい人に向かって偽善者だと冷たく突き放せないのです。人が多く裕福そ うなロンドンには,この手の善良な人物が大勢います。彼らこそ正真正銘「尻に敷か れた」人物です。こういった人物は冷酷になることは出来ません。したがって,いと しい人が何も悩んでいないときでも,絶えず慰めますし,怒っていないときでも,な だめますし,欲しくないと分かっていてもお金を与えてしまいます。つまり,丸一ヶ 月間ぎこちない生活を送りたくない一心なのです。冷酷な人物であり,あくまで頑張 りとおす勇気の持ち主であれば,一ヶ月はつむじ曲がりの女性が分別を取り戻す期間 だとみなすのですが。 実際には,別種の「尻に敷かれた」人物もいます。私の考えでは,女王陛下の最も 優秀な臣下がこれに該当します。したがって,我々を軽蔑させないように努めるのが 貴殿の義務だと考えます。 小生が尻に敷かれた生活の代表となれるかどうか分かりませんが,僭越ながら小生 および小生の配偶者のことを語らせていただきたいと思います。申し上げておきます が,小生は愚か者とみなされている訳ではありませんが,幾度もひどい扱いに耐えら れるかどうか試されてきました。だが,こういったことは小生に有利に働いてきたの です。とは言うものの,小生と配偶者の関係のような奴隷状態に陥っている人物は, トルコにも存在しません。小生の配偶者は機知に富んでおり,貴殿のおっしゃる非常 に素敵で感じの良い女性です。小生は彼女に心底惚れ込んでいます。そこで彼女に愛 情を降り注いでいますため,嫉妬は別ですが,ありとあらゆることが不安になるので す。このように,誠心誠意,彼女のことを信頼しています小生からしますと,当然の ことながら,彼女のなすことには小生の意に沿わないことも多少はありますが,どん なことでも,その素振りには愛すべき点が伺えるのです。彼女は人前では時折,虚勢 を張って小生を見下し,小生が彼女の意見に十分注意を払っていないと言って憤慨す 『スペクテイター』(19) 395 るふりをすることがあります。小生は彼女のそんな可憐な怒りに微笑を浮かべざるを 得ません。すると,彼女は自分が子供のようにあしらわれているふりをします。要す るに,私たち二人の間での最大の争点は,分別という点ではどちらが優位に立ってい るかということなのです。争いの種をまくのは常に彼女であって,それに対して小生 はのらりくらりと,「君はとてもかわいいよ」と応じます。すると,彼女は「貴方以 外の人は誰でも,貴方に負けないくらいの分別が備わっていると思っているわ」と応 じます。そこで小生は「本当に君はかわいい」と繰り返します。すると,彼女は我慢 しきれなくなって,辺りにあるものを手当たり次第に投げつけ,地団太踏んで,頭飾 りをむしりとります。「おやおや,君のような分別のある女性が怒り狂うなんて。確 かにこれは譲れない点ですよね」と小生は言います。「まるで私が白痴ででもあるか のような,貴方の無思慮な扱いを見ていると,時には私だって頭にきますわ」と彼女 は言います。さて,どうしたら彼女に機嫌を取り戻してもらえるか。いつもの手を使 って小生の考えを納得させる以外にはありません。そこで,小生は彼女に持ち合わせ の小銭を握らせ,それから一日半というものは,彼女の嫌がることは嫌がり,彼女が 是とすることは激賞することになります。小生としましては彼女のことを心底愛して いますので,友達づきあいもほとんどしませんし,人と会っていても彼女のことが気 になって仕方がないのです。帰宅してみると,彼女は不機嫌な顔をしています。小生 がこれほど早く帰ってきたのは,単に小生が彼女のことを奇麗だと思っているからに 過ぎないのだという訳です。そのようなとき,小生には笑い飛ばす勇気はありません。 また小生はわが国でも最も熱烈な信仰心に厚い人物ではありますが,彼女に向かって 時には毒づくこともあります。それは彼女が極度にホウィッグ党よりの考え方の持ち 主だからです。私たちは政治については長時間にわたって話し合いますが,最後には, 彼女は小生が彼女の賢明さに負けてキスしてくるものと確信しているのです。小生は 彼女にしばしば政体に関する質問を投げかけますが,彼女はたいていの場合ハリント ンの『オセアナ共和国』を引き合いに出して応じます2)。 その場合,小生は彼女の 不思議な記憶力を称え,直ちに彼女を抱き寄せるのです。こうしていると,小生の前 で,彼女は科を作り愛敬を振りまきながら,踊りだしたり,スピネットで曲を奏でた りします。その結果,小生もこのうえなく喜ばしい気持ちになります。つまり,彼女 2) ハリントン(1611 77)の『オセアナ共和国』は初版が1656年で,1700年に再版され た。ハリントンはイギリスの政治思想家で,チャールズⅠ世の友人であった。 396 大阪経大論集 第53巻第4号 は小生が賢明であると認めれば馬鹿な真似をします。また,小生が彼女の軽薄なとこ ろが気に入っていると勘ぐれば直ちに憂い顔となる訳です。 以上のように,小生は落とし穴にはまっており,大部分の男性諸氏と同様に隷属状態 にも屈せず頑張っているのです。貴殿へのお願いは,小生一個人のことではなく,私 たち「尻に敷かれた男」そのものを擁護する論述を展開していただきたいということ なのです。貴殿には大層な権威が備わっていると伺っております。従いまして,貴殿 はあの名高いソクラテスのこと,つまり彼が妻クサンティッペに冷静に服従したとい う事実を無視なさらないものと期待しています。これは世間全体にとって,とても有 益なことです。なぜなら,「尻に敷かれた男」は,シティーだけでなく宮廷において もその質量とも支配的なのですから。宮廷では,終始この上なく従順であり,シティ ーではとても裕福な人たちがこの「尻に敷かれた男」ということなのです。「結婚生 活」ということについて詳細な考察をする場合には,夫婦関係の周辺部にまで踏み込 み,思いやりにあふれた「番人」とぐずつく「愛人」が切っても切れない関係になっ ている有様について明らかにせざるを得ません。「番人」は破滅が迫っているのが分 かっていても,「愛人」を手放せませんし,「愛人」は,余人を持って代えがたい恋人 がいないと幸せにはなれないと分かっていても敢えて結婚はしないのです。 横柄な人,高慢な人,陽気な人,頑固な人の事例を見つけ出していただけますと,貴 殿の論考は一層の磨きがかかるものと思われます。彼らはことごとく,人目につかな いところでは,妻や愛人には徹底的に隷属しているのです。最後に,賢明で勇敢な人 はいつの時代でも「尻に敷かれていた」のだということ,そして愛情の奴隷にならな い不屈の精神を持った人は,野心とか強欲といった何らかのさもしい熱情のとりこに なっているのだということをしっかり考えてみていただきたいと思います。これ以外 にも申し上げたいことは山ほどありますが,妻がこちらを見ていますし,これまでの 例によりますと,直ちに封をしない限り,首を突っ込んでくるに違いありませんので この辺りでペンを置きます。 敬具 鶏舎につながれたナサニエルより 第177号 1711年9月22日(土曜日) 【アディソン】 『スペクテイター』(19) 397 ケレスの神に仕える神官が神秘的で畏怖の念を起こさせるに足ると考える 有徳の士なら誰もが,人に降りかかる不幸に対してはどんなものであれ, 自分には掛かり合いがないと思ったりはしない。(ユヴェナリス)1) 先週の紙面では体質から生じる「気立てのよさ」について扱いましたので,今回は 美徳から生まれる気立てのよさということを述べてみたいと思います2)。 体質から 生じる気立てのよさというものは,その人自身を穏やかで人当たりの良い人物にはし ますが,そのこと自体で美点を備えているということにはなりません。ちょうどそれ は,単に脈が正常で,消化が良いということだけで褒め称えられないのと同じことで す。しかしながら,ドライデン氏が「柔和な気質」3) と呼ぶこの体質から生じる気立 てのよさは,もう一方の気立てのよさを生むための立派な基礎となります。それゆえ, 気立てのよさを証明するためには,つまり,それが身体から生じるのか,それとも心 から生じるのか,要するに,その基盤が肉体にあるのか理性にあるのか,また,これ に欠かせない密かな満足感のほかに何らかの報いを受ける資格があるのかどうかは, つぎの規則によって吟味しなくてはなりません。 第一に,病気のときであれ健康なときであれ,順風のときであれ逆境のときであれ, 常に変わらず発揮できるかどうかという点です。そうでない場合は,それは新たな気 質の補給つまりより快適な血液を求めるための循環から生まれる単なる放射としかみ なされません。サー・フランシス・ベーコンは,人に物を頼むばあいには相手の食事 前は避けて,相手が精神的にくつろいでおり,上機嫌で何かを欲しているときを狙う ように心掛ける巧妙な懇願者について触れています4)。 この例に見られる一時的な 気立てのよさは,美徳という称号に値する博愛つまり人間愛とは言えません5)。 第二に,理性と本分というルールに従っているかどうかという点です。もし,それ が普遍的な博愛という気持ちからであっても,差し向ける対象を区別しないとしたら, 1) ユヴェナリス『諷刺』15.140 24 2) 第169号参照。 3) a Milkiness of Blood「柔和な気質」という表現は,ドライデン『クレオメネス』1 幕1場119 20行。 4) ベーコン『交渉について』 5) 第169号参照。 398 大阪経大論集 第53巻第4号 つまり,受けるに値するものと値しないものの区別がつかず,怠け者も困窮者も同様 に救うとなれば,要するに,特にこれと選ばずに,たまたま最初に目に付いた嘆願者 に気立てのよさを発揮したとしますと,それは生来の好ましい気質とはみなされます が,美徳と呼んではなりません。 第三に,自身に不利になっても発揮できるか,また,対象が相応しいかどうかとい う点です。つまり,気立てのよさを発揮することで,苦痛や困ったこと,不都合なこ とが生じても意に介さないかどうかという点なのです。要するに,人のために,財産, 名声,健康あるいは安楽の一部を喜んで差出せるかどうかということです。私としま しては,さまざまな気立てのよさの中でも,ひとつだけ取り出すとしますと,困窮者 を救うことを旨とする慈善というものを挙げたいと思います。これは時代や場所を問 わず,ほぼいつでも伺えるものです。 日々の暮らしのために必要なお金に不自由しないすべての人には,収入の一部を貧 しい人々のために取っておいていただきたいと思います。以下で述べますが,私は, これは当然この世における,自らの代理人のために使用されるべき捧げ物だと考えて います。だが同時に,他人に善行をするとはいえ,慈善というものは友人や親族を傷 つけないように慎重に行わなくてはなりません。 規則を並べ立てるよりも,つぎの例を引くほうが,おそらく事の本質をうまく説明 できるものと思われます。 ユージニアスはとても気立てがよく,収入を度外視するほど寛大な人物ですが,一 方で自分のことでは大変な節約家です。つまり,彼は巧みなやりくりによって慈善の ために使うお金を捻出している訳です。彼の場合,いわゆる年収は200ポンドですが, 自分では180ポンドと見積もっています。彼はいつも一割を慈善事業のために割り当 てるのです。つまり,その一割に関しては,自分に権利がないと考えている訳です。 これ以外にも,彼はしばしば自発的に金額を上乗せします。そのため一年間に余分の お金を計上し,病人や困窮者のために収入の二割強の額を提供します。彼は慈善基金 を増やすために,つまり,貧しい人々のために使うために,一年の内に何日も絶食と 禁酒の日を設け,その分を出費したものと考えて貯えます。所用で外出するときも, 彼はしばしば歩いて行きます。そうすることによって,通常なら馬車代として払う一 シリングをその途上で出くわす貧しい人に与えることが可能です。彼はまた,芝居と かオペラを観に行きかけていても,途中で貧しい人に出くわすと,観劇代をその人に 『スペクテイター』(19) 399 あげてしまい,その夜は,洗練された芝居やオペラから享受するよりも大きな満足感 に包まれて,コーヒーハウスや友人宅の炉辺で過ごすことになります。このように, 彼は気前よく振舞っても,窮するようなことはなく,むしろ他人に施すことに喜びを 見出しているのです。 私事をこんな風に切り詰める人はまれです。慈悲深くあろうとすると,たいていの 場合は,自分や家族を犠牲にしてしまうものです。だが時には,貧しい人のために気 晴らしや利便さを犠牲にし,その出費をもっと喜ばしい用途へと振り向ける人もいる のです。これは非常に分別のある適切なやり方であるだけでなく,非常に奇特な慈善 行為であり,誰でも実践できる方法だと,私は考えます。こうすることによって,私 たちは貧しい人々を救済すると同時に,彼らの窮乏状態を共有します。そして私たち は,彼らの保護者であると同時に,受難者同士となるのです。 サー・トマス・ブラウンは,彼の著『医師の宗教』の最後の箇所で,慈善について いくつか英雄的な事例を挙げながら説いていますが,高潔な情熱を込めて,例の「貧 しい者を憐れむ者は主に貸すのだ」というソロモンの一行について触れています6)。 彼は「この一文には,字句に述べられている以上の修辞的な技巧が施されているの であって,読者が実際に伝えられる通りにしっかり理解すれば,膨大な教えは必要な く,要約だけで十分なのだ」と語っています7)。 旧約聖書のこの一節は,確かに説得力がありますが,私が思いますに,これと同様 の考えが新約聖書ではもっと巧みに述べられているのです8)。 そこでは,救世主イ エスは,「今後は,裸の者に衣服を着せ,空腹の者に食べさせ,獄につながれている 者を尋ねることを自らの役目と考え,それにはそれ相応の償いをする」のだと切々と 私たちに語りかけています。聖書のこの一節に準拠してみますと,私はどこかで慈悲 深い人物に関する非常に素晴らしい碑文を見かけたことがあります。その一言一句は 思い出せませんが,言わんとすることは,つぎのようなことだったと思います。「多 くを費やした。持てるものは人の手に渡っている。だが,人に与えたものは今も私の 胸のうちに納まっている。」9) 6) 『箴言』第19章,17節。聖書に関する引用の箇所の訳は,日本聖書協会発行の『聖書』 1964年〕を借用,以下同。 7) トマス・ブラウン『医師の宗教』 1643年〕第2章,13節。 8) 『マタイによる福音書』第25章,42 43節。 400 大阪経大論集 第53巻第4号 このようにしていつの間にか聖書に引き込まれてしまいましたので,いつも愛読し ています「ヨブ記」から何箇所か抜粋したくなりました。これは幸福に暮らしている ときのヨブの振舞いについて述べられたものです。人間性という点に絞って考えてみ ますと,これほど慈悲深く気立ての良い人物像は,他のいかなる人物にもまねの出来 ないものになっています。 「ああ過ぎた年月のようであったらよいのだが,神がわたしを守ってくださった日 のようであったらよいのだが。あの時には,彼のともしびがわたしの頭の上に輝き, 彼の光によってわたしは暗やみを歩んだ。あの時には,全能者がなおわたしと共にい まし,わたしの子供たちもわたしの周囲にいた。あの時,わたしの足跡は乳で洗われ, 岩もわたしのために油の流れを注ぎだした。」10) 「耳に聞いた者はわたしを祝福された者となし,目に見た者はこれをあかしした。 これは助けを求める貧しい者を救い,また,みなしごおよび助ける人のない者を救っ たからである。今にも滅びようとした者の祝福がわたしに来た。わたしはまたやもめ の心をして喜び歌わせた。わたしは目しいの目となり,足なえの足となり,貧しい者 の父となり,知らない人の訴えの理由を調べてやった。わたしは苦しい日を送る者の ために泣かなかったか。わたしの魂は貧しい人のために悲しまなかったか。正しいは かりをもってわたしを量れ,そうすれば神はわたしの潔白を知られるであろう。わた しのしもべ,また,はしためがわたしと言い争ったときに,わたしがもしその言い分 を退けたことがあるなら,神が立ち上がられるとき,わたしはどうしようか,神が尋 ねられるとき,なんとお答えしようか。わたしを胎内に造られた者は,彼をも造られ たのではないか。われわれを腹の内に形造られた者は,ただひとりではないか。わた しがもし貧しい者の願いを退け,やもめの目を衰えさせ,あるいはわたしひとりで食 物を食べて,みなしごに食べさせなかったことがあるなら,もし着物がないために死 のうとする者や,身をおおう物のない貧しい人をわたしが見た時に,その腰がわたし を祝福せず,また彼がわたしの羊の毛で暖まらなかったことがあるなら,もしわたし を助ける者が門におるのを見て,みなしごにむかってわたしの手を振り上げたことが 9) ニコルズによると,この碑文はヨークシャー,ドンカスターの聖ジョージ教会にあっ たとのこと。 10) ヨブ記』第29章,23,5 6,11 13,15 16節,第30章,25節,第31章,6,13 17, 19 22,29 30,32,38 40節。 『スペクテイター』(19) 401 あるなら,わたしの肩骨が,肩から落ち,わたしの腕が,つけ根から折れてもかまわ ない。わたしがもしわたしを憎む者の滅びるのを喜び,または災いが彼に臨んだとき, 勝ち誇ったことがあるなら,わたしはわが口に罪を犯さず,のろいをもって彼の命を 求めたことはなかった。他国人はちまたに宿らず,わたしはわが門を旅びとに開いた。 もしわが田畑がわたしに向かって呼ばわり,そのうねみぞが共に泣き叫んだことがあ るなら,もしわたしが金を払わないでその産物を食べ,その持ち主を死なせたことが あるなら,小麦の代りに雑草がはえてもかまわない。」11) 第178号 1711年9月24日(月曜日) 【スティール】 妻に思いやりを示す。(ホラティウス)1) つぎの手紙は先延ばしにする訳にはいきません。 拝啓 今月15日の紙面興味深く拝見しました。なかなか素晴らしい出来ばえと思います。 そうです。嫉妬についての記事のことです。でも,私に言わせれば,女性の心に宿る 苦しみはさておき,男性の胸中に宿る苦悶について貴方が口になさるのは不似合いと 思います。貴方は非常に賢明に,かつ,あらん限りの洞察力を駆使して,女性は不信 感を募らせる輩だとお考えのようですが,妻に嫉妬を掻き立てさせる残酷な男性につ いて一言も言及なさっておられませんし,そんな妻がどういった状態になるのかは意 に介しておられません。貴方は世の中にそんな暴君は存在していないとお考えかも知 れませんが,悲しいかな,妻といるときは常に不機嫌で,妻さえいなければ実に愛想 の良い人物がこの世には存在しているのです。そうです,家族しかいない家ではどう しようもなく不精で,外では非の打ち所がないほどきちんとするのです。人のことは 無視してもっぱら独自の判断から,私が不機嫌な主人を見ると目に涙を浮かべるから という理由で,気分を害して怒りを爆発させるなんてことが許されていいのでしょう か。そんなことが紳士の責務と言えるのでしょうか。私が彼の救いになるとは申しま 11) 第547号参照。 1) ホラティウス『書簡詩』2.2.133 402 大阪経大論集 第53巻第4号 せんし,私が安らぎを得られるのは彼しかいません。だが,ほかのことなら何事にで も分別と判断力を持ち合わせている人が,家にはただ慎みなく眠るために帰り,眠っ ている以外はまるで懲罰を受けているかのように過ごしている姿を見ると,つい嫉妬 心に駆られて苦しまざるを得ません。彼は家を出るときはいつもまるで参内するかの ようであって,帰宅するときは逆に獄につながれるかのような有様なのです。これ以 外にも,彼は品行に関しては仲間たちから無頼の徒とみなされていることも意に介し ていません。そんな彼の妻としての私の境遇につきましては,貴方に十分お分かりい ただけたことと存じます。彼は性格がひねくれているわけでなく,貴紙の愛読者でも ありますので,貴方から彼に,私が玄関の扉が閉まる音がするとすぐにベッドに身を 投げ出し,彼の可愛がっている子供を私の涙で濡らし,子供はそのせいでしばしば脅 えているのだということ,そして私が人生を呪っているということ,さらには私が悲 しみのあまり涙を流しながら鏡に向かい,ほとばしり出る不幸の証を見つめながら心 の苦悩を吐露しているのだということを指摘していただきたいと思います。作り事の ように思われるかも知れませんが,実際にこれが日々の暮らしとなっているのです。 これまで私の心に宿る一般的な気質についてしか語りませんでしたが,もの狂おしい までの私の気持ちは言葉では言い尽くせません。憤っているその瞬間はこの上なく邪 険になりますが,その結果,私の怒りに包まれている彼の姿を見ると,この上なく哀 れみ深くなっています私の心情は想像もつかないことでしょう。そうです,私はこの 上なく惨めになり,自己嫌悪に陥るのです。私は必死になって優しく身だしなみを整 えて欲しい,そしてまた,既婚者は既婚者らしくして欲しいといさめるのです。でも, 彼が上機嫌のとき,嫉妬していると評判を落とし,思慮が足りないということになる だけだよ,という返事が返ってくるだけなのです。どうか以上の件につきまして,真 剣に取り上げてくださり,貴方から世の夫や妻にいかなる関係を維持したらよいか諭 していただきたいものと思います。そうしていただけますと,悩める者は大いに助か り,貴方に感謝することは間違いありません。署名の上お願い申し上げます。 敬具 セリンダ この婦人から手紙を受取るよりも前に,婦人の心に宿る,いかんともしがたい激情 について思案したことがあります。私としては,妻が感じていると思える苦痛のこと 『スペクテイター』(19) 403 を考えると,夫たる者には,もっと調和の取れた振舞いをするようにと忠告せざるを 得ません。自分を愛している者をひどく苦しませるのはいただけません。愛していな ければ苦悩は大きくならないのですから。 この言うに言われぬ傷がほとんど理解されないのは,不思議なことです。また,男 性が当然そうあって欲しいという場所で,いともやすやすと最も好ましくない振舞い をするのも不思議です。このテーマは別途考察をしてみる価値があります。そこで, 夫婦間の道徳体系を打ち立てる前に,私が知っている幸せな夫婦二,三組の振舞いを 一両日観察してみたいと思います。最初に,町から二,三マイル離れて,そこで夫と しての義務を存分に実践している立派な紳士に会うつもりです。この紳士は独身時代 には,仕事に追われ,衣服にはことのほか無頓着な人物でしたが,今では彼の容姿の ことでこと細かく世話を焼く若い愛人もいません。なぜそんなに時間をかけて口を洗 い,肌着ひとつを選ぶにもなぜそんなに気を使うのかと尋ねますと,自分のことを暖 かく迎え入れてくれる素敵な女性がおり,彼女の心の動きを彼女の義務に沿わせてあ げるようにするのが,自分の義務だと思うからだ,という返事が返ってきたのです。 人間というものは思考力さえあれば,放蕩と無知に流れてしまうほど無分別にはな りません。つまり,生身の人間は厳格に忠誠を誓うことが可能です。そして,立派な 婦人は自己改良を重ね,天使のように善良で冷静な人物になり,獣や半人半獣に貞節 を保つことになります。つぎの手紙でもって,本日の紙面を締めくくりたいと思いま す。この手の忍耐には並々ならぬものがあることが納得いきます。 主人へ 家に居る時間をもっと増やしてください。あなたが木曜日の夜7時にどこへ出掛け たか私には分かっています。あなたが私に今後会わないようにとおっしゃった大佐は 町にいらっしゃるのですよ。 マーサより 第179号 1711年9月25日(火曜日) 【アディソン】 老人はもっぱら道徳的な真理を好むものだ。 あまりにも四角四面な説教は向上心に燃える若者に愛想をつかされる。 404 大阪経大論集 第53巻第4号 ところが,教えに楽しみを混ぜる人はあらゆる読者の心をつかみ, 書くことが徒労に終わることはない。(ホラティウス)1) わが読者を大きく分けるとしますと,「陽気な読者」と「陰気な読者」に二分する ことができると思います。前者は陽気な門弟たちで,機知とユーモアに富んだ思索を 要求します。そして後者は前者よりも謹厳実直な気質の人たちで,道徳的で健全な分 別をちりばめた紙面にしか満足感を見出しません。つまり,前者は真剣なことはすべ てくだらないと考え,後者は滑稽なことはすべて不適切と考えるのです。私が終始謹 厳にしていれば,わが読者の半数は本紙から離れていってしまうことでしょう。反対 に,終始陽気にしていれば,これもまた半数を失ってしまうのは確実です。それゆえ, 私は双方に満足行くように腐心しています。という訳で,かりに終始いずれか一部の 趣向に合わせて書いていても,私としましては,双方の利益を十二分に顧慮している のです。いずれの読者にしても,私が何について書き始めるかは分かっていませんの で,陽気な読者は,気晴らしをしようとして本紙を手にするのですが,知らぬ間に真 剣で有益な思索に巻き込まれているということがしばしば起こります。反対に,思慮 深い読者は,おそらく真面目で深遠な考えが盛り込まれていることを期待するのでし ょうが,しばしば,知らぬ間に陽気な気分に包まれてしまうということになってしま います。要するに,読者は,献立は知らされていないのですが,そこには少なくとも 自分の好みに合う料理があるものと期待して,もてなしの席に着くことになるのです。 正直を言いますと,私としては,本紙は気晴らしを提供するというよりも教授を目 指しています。だが,世間の人々にとって有益になることでしたら,それをそのまま 受け入れなくてはなりません。おおらかな読者は,厳粛さを売りにしている著述家の 著作には目も向けなくなってしまいます。セネカなりエピクテトスの著作を読むには, 読者に徳が備わっていなくてはなりません。軽率で無思慮な人々からすると,道徳に 関わる論文のタイトルそれ自体に,いかめしく不都合な含意が読み取れるのです。 このため,信仰上のあるいは哲学的な真面目な講話に無頓着なぼんやりとした読者 の中には私の術中に陥る人がいます。こういった人たちは,いつの間にか罠にはまっ て知恵と美徳について考えざるを得なくなります。その結果,彼らがもっと詳しく論 1) ホラティウス『詩の技法』341 4 『スペクテイター』(19) 405 じられた論説に耳を傾けたくなるまでに物事を考えるようになるとしたら,私の思索 は無益ではなくなります。同様に言えることですが,有徳の士も時として陥りますが, 塞ぎこみますと,人々はそれを追い払い陽気にしてくれるちょっとした刺激を必要と するものです。この塞ぎこみに対しては,これを追い払うための娯楽を必須のものに しているのは,ほかでもないイギリスの気候だと言い添える人たちがいます2)。 ここで述べていますことが私の思索が多岐に渡ることの正当化にはならないとしま しても,せめてその申し開きにはなるものと思います。私は笑いの中にも教授すると いう目的を据えたいのです。時としてこの点で不首尾に終わる,つまり,私の提示す る陽気さが無益に終わるとしましても,必ずや何かを知る手がかりにはなるのです。 おそらく,この種の実直な行為には大半の読者が想像する以上の美点が備わっている はずです。思慮深い著述家がつましく控えるユーモアから様々な考えが生起すること, さらには,人々の平凡な嗜好に合う様々なからかいの言葉は心を汚すのではないかと いうことで抑制されるということ,そしてまた,ひねくれた見方は他人の評判を傷つ けるのではないかということで巧みに避けられるのだということが分かっている読者 は,品よく気晴らしをさせることに努めている著述家を快く思うものです3)。このよ うな著述家にウォラーのつぎの一節をあてはめることが出来ます。「もし慎重に塗り つぶした点がわかっていなければ,詩人は獲得したと思える賞賛のことばの半ばは失 ってしまう。」4) 上記の勝手気ままな振舞いを備えた才人になるのはとても容易なこと ですが,そういったことには依存しないで才人になるにはそれなりの才能と創意工夫 を必要とします。 私がここで述べていますことは,単に世間一般の人たちだけではなく,つぎの手紙 を貰った寄稿者を意識した結果なのです。何箇所かは削除訂正しましたが,その手紙 を掲載します。 2) 多くの訪問者が,イギリスの寒さと霧は,重苦しさと憂鬱を引き起こすことになると 述べている。ミエージュは「イギリス人の気質は気候に影響を受けている。(略)お おむね彼らは控え目で,フランス人ほど話し好きではない。(略)その粘液は人々を 快活にさせ,軽率さを煽る情熱を鎮めるのに大いに有益だ。」ということである。 3) アディソンは1709年11月29日付けのジョシュア・ドーソンへの手紙で,『タトラー』 紙のために茶目っ気たっぷりに作った,中将とアイルランド人ルクレチアの話につい て触れている。 4) エドマンド・ウォラー「ロスコモン伯の『詩の技法』の翻訳について」 406 大阪経大論集 第53巻第4号 拝啓 先だって貴殿の百面相の記事を拝見しまして,口笛大会のことをお知らせしたくな りました。この口笛大会は,この3年来,バースでは大層な楽しみとなっているので す5)。優勝者つまり澄み渡った音色で笑わずに最後まで曲を吹き終えたものには賞金 として1ギニー贈られます。「笑わずに」といいますのは,口笛を吹いている最中に隣 で道化師がおどけた仕草をしながら演者を挑発して邪魔をするからなのです6)。参加 者は三名でした。最初に登場したのは非常に有望な面持ちの農夫でした。この人物の 顔には安定感があり,顔の筋は感覚がなくなっていると思えるほど剛直なものでした ので,一目見ただけで,誰もが賞金は彼のものだと思いました。しかし,「塩漬けニ シン」がこの農夫を動揺させたのでした7)。彼が口笛を吹き始めますと,あいにくお どけ者があられもない格好をして口笛に合わせてジグ踊りを始めましたので,農夫は ついに噴き出さざるを得なくなり,口笛は台無しになり,賞金も貰い損ねたのでし た8)。 つぎに登場したのはバースの下層市民でした。バースの庶民の間では,この人物は 知恵者であり,口笛も広音域が出ることで注目されていました。彼は口元をきりりと 引き締め,いつにまして真剣な面持ちで,「無邪気でだまされやすい二人の子供」と いう曲を吹き始めました9)。半ばまでは実に巧みに吹いていましたが,それまでは真 顔で慇懃に傍らに控えていたおどけ者が彼の左肩にちょいと触れ,なんとも言えない 笑みを浮かべて彼の顔を見つめたのです。すると,彼は最初のうちは緊張感がほぐれ て作り笑いらしき表情を浮かべていましたが,ついには噴き出してしまいました。三 番目の演者は従僕でした。彼は道化師の存在をものともせず,持てる技を駆使しなが 5) デイリー・クーラント』紙,1707年5月31日(土)紙面に,「つぎの月曜日は聖霊降 臨祭の翌日なので,バーネット・ウェルズでは口笛大会が開かれる。また,紳士淑女 のための見世物として,クリンチ氏の出演する催しもある。」との広告が掲載された。 6) ネッド・ウォード『ロンドン・スパイ』第10部に,バーソロミュー市におけるメアリ ー・アンドリューのおどけた仕草に関する記述がある。 7) 第47号参照。 8) Wag (おどけ者) については,『タトラー』紙9号で,「祭日やお祭り騒ぎをするよう なときには欠かせない。馬鹿げたことを口にして,すましている人をもうろたえさせ てしまう。」のだと述べている。 9) 第85号参照。 『スペクテイター』(19) 407 ら,非常に落ち着いてスコットランドの曲とイタリアのソナタを最後まで吹き終え, 賞金を手にしました。そして,私を含めこの大会を見物していた幾百もの人たちの賞 賛を浴びたのです。さて,貴殿には百面相についてはお考えがおありのようですが, 口笛については,私としましては,この技は歪曲が許されないというだけでなく,地 方の音楽の向上,沈着さの促進,さらには目上の人に何か滑稽な点があるのが分かっ ても笑わずにすましている方法を伝授するものとして,奨励されてしかるべきだと考 えます。また,口笛は馬に水を飲ませるときの合図として普通になっていますが,催 し物としてはバース独特のもののように思えます。 敬具 追伸 これで百面相と口笛大会という重要な事項についてお伝えしましたので,あとは, 毎年クリスマス時期になると店子たちを歓待していますある名士の屋敷で,十二夜に 目撃しました「あくび合戦」について貴殿からお考えをお聞かせ願えないものかと考 えています。クリスマスの遊びは色々あるのですが,ほかでもないあの「あくび合戦」 のことです。これはチェシアチーズを獲得するためにあくびをするのですが,みんな が眠くなる夜中の12時ごろから始まります。一番大きな口をあけてあくびをし,その 結果,より多くのあくびを誘発させた者がチーズを手にするのです。このテーマにつ いて貴殿がうまく論じますと,おそらく眠り込ませることにはならないでしょうが, 王国の半数はあくびをしだすに違いありません。 第180号 1711年9月26日(水曜日) 【マーティン?】 王たちの愚行はどんなものであれ,アカイア人たちを苦しめることになる。 (ホラティウス)1) つぎの手紙は改心の見込みはほとんどない,ある常習犯,つまり,フランスのルイ 14世に関わるものですが,非常に重要で良識にあふれたものですので,是非とも掲載 したいと思います。 1) ホラティウス『書簡詩』1.2.14 408 大阪経大論集 第53巻第4号 拝啓 貴殿は様々なテーマについて論じられていますが,是非,征服の空虚さということ について触れていただきたいもの思います。このテーマについて考えるとなりますと, 当然,フランス王へと目が向くことになります。一般的に,この王は,アン女王陛下 の軍隊によって,領土の多くを奪い返され,それまでの勝利の成果が取り上げられる まで,現代で最も偉大な征服者とみなされてきました。私の考えはどうかと言います と,勝利に終止符が打たれる,つまり,敗北するまでの時期は,要するに,ライスワ イクの講和までは,偉大な征服者と言えたのだと思います2)。でもその当時でも,私 は,彼自身および人民にとって,彼の野心は空虚なものであり無益なものだったと考 えざるを得ません。 彼自身について言えば,もし征服によって彼が,臣民の数や富,権力が増加しなか ったとしたら,彼にとって無意味であったことは確かです。これから述べます私の考 えについては,貴殿のお考えをお聞かせいただきたいものです。 まず臣民の増加から話を始めます。彼が成年に達し,親政を始めてからというもの, 彼が獲得していた臣民は,戦争で征服し,講和で認められた数に留まったのです。つ まり,彼が征服した領土はフランドルの3分の1を上回ることはなく,従って,征服 した住民の数もフランドル地方の3分の1に過ぎませんでした。 百年ほど前に,フランドル地方の家には全戸番号が打たれていました。この計算に よると,当時の住民総数はあらゆる階層を含めて75万人を上回ることはありませんで した。ほぼ絶え間なく続く戦争による荒廃,この百年間住民を食い物にして気ままに 暮らす数多くの兵士,さらには,安全を求めて他の場所に移動する数多くの商業など のことを考えてみますと,この75万という数が増えたとは考えられません。従って, 領土の3分の1を手にしたことで,かりに住民全員がそのままその地に住み着いて, 新たな主君への忠誠を誓ったとしても,新たな臣民の数としては3分の1の25万人を 獲得したに過ぎません。 この地方の肥沃さ,通商の立地としての利便性,数多くの雇用および生活の糧の供 給力,さらに,当地で保持される膨大な兵力などのことを考えれば,ルイ14世にとっ て,残りの3分の2がそれ以外の征服に匹敵するのは確かです。それゆえ,全土を征 2) ハーグの南東2マイルにあるライスワイクで調印された和約。ルイ14世は,イングラ ンド王としてウィリアム3世を,義妹アンがその後継者となることを承認した。 『スペクテイター』(19) 409 服したとしても,彼が獲得する新たな臣民の数は,女子供を含めても,とりわけ征服 王のもとから逃げ出し,かつての主君のもとで暮らすことを選んだ人たちのことを差 し引きすると,75万人を超えることはないのです。 損益勘定をして,つまり,新たな臣民を獲得するために失った臣民の数を明らかに してもよい時期です。彼がこれまでに戦場に送り込んだ兵士の数は,どんな戦争の場 合でも,守備隊として留められる兵士の数を除いても,20万人を下ることはまれだっ たと考えます。そこで,普通に計算してみますと,出征が終わった時点では,激しい 攻囲戦がなかったとしても,当初送り込んだ数の5分の1は点呼できなくなっている ものと考えられます。先の講和に至るまでの数回に渡る戦争は約20年に及ぶものでし た。従って,毎年失われる5分の1にあたる4万人に20年を掛ければ,獲得した新た な臣民の数を上回る80万人もの強壮な兵士が失われたことになります。 しかし,損失はこれだけに止まりません。神の摂理によって,男女は均等に区分さ れていたように思えます。女性にはそれぞれ夫が与えられ,種の存続に貢献するよう になっています。そうだとすれば,男性が亡くなれば,それだけの数の女性は一人暮 らしになったに違いありません。そして,彼らは自分たちの代で可能な勤めは果たせ なくなってしまいます。また,20年という長い年月には,死亡する人たちも大勢いた に違いありません。生き残った人たちも結局,相続人を残せずに死を迎えなくてはな りません。こういったことを考えると,彼が失った数は,単に80万人には止まらず, 当然予測される増加分を含めると80万の2倍になるに違いありません。 先の戦争では,フランスの地では,飢饉に見舞われ,200万人もの犠牲者を出した ということです3)。この数字は信じがたいものですが,かりに5分の1としても,大 変な数になります。住民の物資が国王に召し上げられ,住民には不慮の災難に備える だけの物資は残っていなく,男性の大半が兵役に取られ,耕地の大半が女子供といっ たか細い働き手に委ねられるところで飢饉が発生してもなんら不思議ではありません。 損失はどんなものであっても,確実に国王の野心のせいであるに違いありません。 さらに,30万人から40万人に上る改心した臣民の排除あるいは追放もまた,そうで あるに違いありません。国王には臣民の命をこれほど安く値踏みする根拠は,スペイ ンの頑迷固陋さに身を委ねるといった以外には見当たりません。 3) 1709年の極度な寒さと飢餓のため,フランス軍は同盟軍への抗戦が困難になった(ト レヴェリアン3.15)。 410 大阪経大論集 第53巻第4号 資産が危険にさらされる国では,刻苦勉励といった精神は育ちようがありません。 君主が全収穫物を横取りする土地に種子をまく人はいないでしょう。こういった人た ちには,倹約とか質実さといったことは無縁であるに違いありません。なぜなら,明 日は君主に持っていかれると危惧するものを,今日節約して残しておく者は誰もいな いでしょうから。また,結婚を助長するものもありません。子供を育てるとなると, 誰もが衣食の保証を念頭に置くものです。このようにして,国王は命取りになるよう な野心のせいで,殺戮や破壊によるだけでなく,出産そのものをも妨げ,臣民の数を 減少させたに違いありません。つまり,彼は子孫そのものの撲滅に向かってとんでも ないことをしていることになります。 こんなありさまで,彼は偉大で無敵のルイと言えるでしょうか。これで,彼の取り 巻きが称するような,不朽の王,絶対権力者と言えるでしょうか。これが征服者とし て褒め称えられる人物なのでしょうか。彼は臣民を獲得することで,相続した三つの ことを失ったのではないのか。兵士の数は減少したのではないか。彼には精一杯の努 力をする大義名分は立っているのだろうが,衣食も賃金も以前よりよくなったとは言 えないのではないか。歳入が大幅に減少し,臣民は貧しさを増し,絶え間ない税によ って収奪されるようなことでは,理屈に合わないのではないか。 彼が王国を盗む手立てを見出していたのは,彼にとって幸いです4)。彼が以前のよ うに征服を続けていたら,随分以前に彼は破滅していたことでしょう。こんなことを 考えていたら,ピュロス王の言葉を思い出したのです5)。彼は互角の激戦でローマに 二度目の勝利を収めて,将軍たちから祝福されたとき,「そうだな。もう一度こんな 勝利を味わうときには,余は確実に滅びているだろう。」と言ったのです。ピュロス 王について触れましたので,ついでながら,周知のこととは思いますが,この狂気じ みた野心家の王に関するとても愉快なお話を紹介して本日の紙面を締めくくります。 彼がローマへの長征に執着したとき,第一大臣キネアスは王に「戦争の目的は何です か。」と尋ねます。すると,王は,「ローマを征服し,イタリア全土を余の支配下に置 くのだ。」と応じます。キネアスが続けて「その後はどうするのですか。」と尋ねます。 4) ルイ14世は,孫フェリペに王位を遺贈するとのカルロス5世の条件を受け入れたため, その権利を守らざるを得なくなった。これがスペイン継承戦争の口火となった。 B.C.272)は古代ギリシアのエペ 5) プルタルコス『ピュロス王伝 。ピュロス(B.C.319 イロスの王。ローマに対抗するために多大の犠牲を払った。 『スペクテイター』(19) 411 王は「つぎはシシリーだ。シシリーの民を余の臣民にするのだ。」と言います。さら に,「陛下,その後はどうするのですか。」とキネアス。「何を言っているのだ,カル タゴがあるではないか。アフリカを支配するのだ。」とピュロス王。「それでは,長征 の最終目的はどうなるのですか。」とキネアス。「そうだな。余生はうまいワインをじ っくり味わうことにしよう。」と王。キネアスは最後に,「我々の生活は現在よりも良 くなるのでしょうか。ワインはすでに十分味わったのではないでしょうか。」と応じ たのでした。 君主にとって,放縦と不摂生というものは似つかわしくありません。もし,ピュロ スやルイが,ウィテリウスのように放蕩に耽っていたなら,臣民にとってはそれほど 危害を加えることにはならなかったに違いありません6)。 敬具 算術好きの男より 第181号 1711年9月27日(木曜日) 【アディソン】 涙に心を動かされて,命を助けてやり,おまけに憐れみをかけてやる。 (ウェルギリウス)1) 情愛に満ちた手紙を拝見しますと,機知に溢れた手紙の場合よりも一層満ち足りた 気持ちになります。つぎの手紙はこの種の手紙です。 前略 家庭で生起する悩みはいろいろありますが,私としては貴方が触れておられた親の 同意が得られない子供の結婚のことが忘れられません。痛ましいことに,私自身がこ れに該当するのです。私が自分勝手にその道を選択したのは15歳の頃のことでした。 そしてそれ以来,頑として聞く耳を持たない父には不興をかったままです。父は,私 が最良の夫と子供に恵まれ幸せにしているのが分かっているのですが,どうしても私 6) ウィテリウスは紀元49年4月,オトの死後,数ヶ月皇帝を務めた。大食と放蕩で知ら れた。 1) ウェルギリウス『アイネーイス』2.145 412 大阪経大論集 第53巻第4号 を許してくれません。この不幸な出来事が発生するまでは,父は私にはとても優しか ったものですから,私の義務違反が,ある意味では,許しがたいものとなっているの です。同時に,私の心には父へのいとおしさが募っております。そして父は何者にも まして大切な存在ですので,和解が出来れば死んでもいいくらいなのです。私は父の 足元にひれ伏し,涙ながらに許しを請うのですが,彼はいつも冷たく私を拒み続けま す。また,手紙を書きましても,開封しようとも受取ろうともしません。2年ほど前, 幼い息子に真新しい服を着せて彼のところに行かせましたが,息子はおじいちゃんが 会ってくれず,追い返されたと言って,泣きながら帰って来たのです。母は私の味方 になってくれていますが,父の逆鱗に触れるのを恐れて,私のことを口には出来ませ ん。1ヶ月ほど前,父は病に伏し,生死も危ぶまれる状態になりました。この知らせ を聞いて,私は居ても立ってもおられず,お見舞いに行きました。母はこのチャンス を捉え私のために一席弁じました。私が見舞いに来ていること,涙で口が利けなくな っていること,今,認めて仲直りしてあげなかったら,間違いなく私が胸の張り裂け る思いをすることになる,と母は涙ながらに父に話しかけたのです。父は私のことを 聞いて気が和らぐどころか,母に向かって,いまわの際に心をかき乱したくなければ, 娘のことはそれ以上口にするな,と言ったのです。申し上げておかなくてはなりませ んが,父は誠実で信仰心に厚い人で通っています。それゆえ,それだけに,私の不幸 も大きくなっている訳です。有難いことに,父はその後回復しましたが,彼の過酷な 扱いは私に非常に大きな衝撃を与えていますので,父が貴紙に目を通すことで心を動 かし,少しでも私の気持ちが分かってもらえない限り,私はこの衝撃に耐えられませ ん。 早々 苛酷さということでは,子供に対する親のそれほど許しがたいものはありません。 頑迷で硬直した執念深い気質というものは,どんな場合にも不快なものですが,親の 場合には,そこには人の道にもとるものがあります。私たちは,ごく自然に,頼って くるものたちに,愛情とか思いやり,ないし同情といった感情を抱くものです。そし てまた,私たちの一生はそういった感情によって支えられています。超越的な徳を備 えた神は,万物に恵みを施します。神がお造りになられたものには,世話と保護を求 めるものへの内発的な慈悲心とか憐憫の情といったものが備わっていませんので,神 『スペクテイター』(19) 413 は私たち被造物にこの生得的な徳に代わるものとして,本能というものを植え付けた のです。この種の本能については過日の紙面で取り上げ,実際これによって存続して いるのですが,あらゆる動物にもこれが行き渡っていることを提示しました2)。 人の本能は,理性と義務の指令で補強されていますので,獣類の場合よりも普遍的 で広いものです。私たちのことを注意深く見つめてみれば,私たちは血縁者だけに愛 情を注いでいるのではなく,私たちに庇護を求めてくるあらゆるものにも一種の情愛 を抱くことが分かります。依存は絶えず人間性を覚醒させ,他のいかなる動機にもま して,思いやりと同情を駆り立てます。 それゆえ,なんらかの激情に駆られる,つまり憤慨しても,この強力な本能に打ち 勝ち,情愛を絶つことの出来る人は,自らを獣性以下に貶め,自身に備わっている大 いなる神の摂理を挫折させ,生得的な素晴らしい気質を削除することになります。 このような無分別な行為に対して論証はいくらでも可能ですが,一点だけ強調して おきたいと思います。他人を許すことを寛大さの条件とすることです。まさに主の祈 りでは,この種の返報を強く望んでいるのです。従って,本日の手紙の事例に伺えま す親子関係は,創造主と被造物の関係に匹敵しますので,いわゆる適例と思えます。 もし父親が過ちを犯した子供に冷酷な態度を取るとしても,これほど激しい怒りにし てはなりません。自身には父という優しい呼称があるにもかかわらず,子供の罪を許 さず,神には自らが認めたがらない許しを願うことは奇妙なことなのです。 このほかにも分別があり敬虔な理由をいろいろ付け加えることは出来ることと思い ますが,上述の一点が功を奏しないとしますと,ほかのことを述べてもうまくいくと は思えません。それゆえ,本日の紙面はかつての年代記に記録されていますとても珍 しいお話を紹介することで締めくくりたいと思います。ドイツの史家はたくさんいま すが,この年代記はフレヘールが出版したものです。 カール大帝のもとで大臣を務めていたエイジンハートは,職責を十二分に果たして いたために,大変な人望を集めていた。彼は優れた能力によって,主君に引き立てら れ,宮廷中から高く評価されていたのです。大帝の娘イマは彼との話をとても楽しみ にしており,やがて恋に陥りました。彼女は当代きっての美人だったので,エイジン ハートの彼女への接し方はきわめて情熱的なものでした。二人は,その後の重大な結 2) 第120号,第121号参照。 414 大阪経大論集 第53巻第4号 果を憂慮して,しばらくは燃える想いを抑えていた。だが,エイジンハートはついに 恋焦がれる人を奪われて生きていくよりも,すべてを賭ける覚悟をして,ある夜,王 女の部屋に赴き,そっとドアをノックしたのです。彼は大帝からの大切な伝言を持っ て来た人物として室内に通された。そして,彼は人目につかないように夜通し彼女と 過ごしたのです。ところが,明け方に立ち去ろうとしたとき,王女と過ごしている間 に大雪が降ったことに気づきました。この雪景色は彼を大層狼狽させました。なぜな ら,雪の上に印される足跡が,しばしば朝方娘のもとにやって来る大帝に見つかるこ とを心配したからです。彼は王女に彼の抱く懸念を伝えました。しばらく話し合って から,王女は雪の中を自分が背負って行くと彼を説き伏せました。偶然のことだが, 大帝は眠れずに,その頃にはベッドから抜け出し,部屋の中を歩き回っていたのです。 そして窓の外に目をやったとき,娘が重さでよろけながら,つまり第一大臣を背負っ て雪の中を横切っているのに気づいたのです。彼女は運び終えるやいなや,全速力で 自分の部屋へと引き返しました。大帝はこの出来事に非常に悩むと同時に驚きもしま した。だが,しかるべき時期が来るまで一言も口にしないことにしました。一方,自 分のやったことは早晩明らかになることが分かっているエイジンハートは,辞職する 決心をし,長年の務めに対して十分に報われていないとの不満を口実に,大帝に解雇 を要請しました。大帝は彼の嘆願には即答を避け,考えておくと伝え,意向を知らせ る日を指定しました。そして,大帝は忠実な顧問官たちを呼び集め,エイジンハート の犯罪的な行為を明らかにして,この微妙な問題に対する彼らの助言を求めました。 顧問官の大半は,主君の名誉をこのように汚した人物はいくら厳罰を与えても与え過 ぎることにはならないとの意見を述べました。大帝は,全員の意見を聞いた後で,エ イジンハートを罰することは,家門の恥辱を減少させるというより増大させることに なるとの意見を表明しました。そこで,娘と結婚させることによって,この事実の痕 跡を払拭するのが最も賢明な方策だと思う,と付け加えました。こういった次第で, エイジンハートが呼ばれ,もはや務めが報われないという言い訳はまかりならぬ,王 女イマにはそれ相応の持参金をつけてお前と結婚させてやる,と大帝から申し渡され ました。という訳で,ほどなく二人の結婚式が執り行わることになったのでした。 第182号 1711年9月28日(金曜日) 【スティール】 『スペクテイター』(19) 415 これには甘美さというよりも苦々しさが漂っている。(ユヴェナリス)1) 私には人生のあらゆる局面が目に付きますので,読者諸氏には,これから扱う犯罪 的行為について,私が心得顔に論じているからといって,仮借のない推断をしないで いただきたいと思います。読者には,私の知識はひとえに寄稿者からの投書によるも のだとお考えいただけると助かります。以下の二通をお読みください。 前略 貴方は無法な行為についてあれこれ言及されていますが,私としましては,貴方が, 未だ,密通とくにかどわかしという行為について触れておられないのを不思議に思っ ています。つまり,慣行的に行われている女性を騙すということが,どれほど悪辣で あるかを暴くのは,貴方にとっておあつらえ向きのテーマといえます。申し上げてお かなくてはなりませんが,私自身がこの不運に見舞われた女性の一人なのです。私は, 私の破滅以前にもそれ以後にも,相変わらずの調子で,女性に言い寄っているきわめ てつまらない男の口車に乗せられてしまったのです。このならず者との縁が切れると すぐに,私は憤りに駆られ,いわゆる遊興に身をやつす生活をやめ,それまでの知人 と縁を切って,人目につかないところで生計を立てていくことにしました。 遊び人たちの間では,未熟でか弱い軽率な女性に手紙とかことづけを渡し,約束を 取り付け,手にしてしまうと,その後は,その女性が恥辱や汚名や貧困にまみれ,病 気にかかろうとも,無慈悲にも捨ててしまうといったことがごく当たり前のように行 われている訳です。もし貴方がこのときにしたためられる吐き気を催させるような文 面を目にすることができ,また,愚かな女性がそれを読んでため息をついているさま を目にすることができると,ここには憐れみと同時に浮かれ騒ぎといった問題が横た わっていることがお分かりになられるはずです。私の元に居る奉公人が,このところ アイルランド人から言い寄られています。レースのコートを羽織ってめかしこんでい るこのアイルランド人は,年端も行かない針子たちの賞賛の的になっています。私は この一件を知ってから,奉公人からペンとインクと紙を取り上げました。ところが, 先日,この人が私の店に首巻を何枚か注文したのです。召使が取りに来るのに備える 1) ユヴェナリス『諷刺』6.181 416 大阪経大論集 第53巻第4号 ために,箱詰めは女の子に任せて,私は所用で外出しました。戻って来て,女の子を 使いに出し,その箱をチェックしてみましたら,箱の裏には「どうしてあなたは,あ なたを愛している罪のない私を破滅させるのですか。」と,さらに箱の蓋には「スト レフォンに歯向かうことはできません。」と記してありました2)。さらに念入りに調べ てみますと,箱の淵に「夜11時,通りまで馬車でお越しください。」と書いてあった のです。私を驚かすにはこれだけで十分でした。事態の成り行きを見守ることにしま した。約束の1,2時間前に,女の子のトランクを調べてみますと,色男が送った数 多くのしゃらくさい恋文とラテン語で年50ポンドを約束する旨が記載されている古び た羊皮紙が出てきました。さらに,彼へのプレゼントなのでしょうが,お店に置いて ある最高級のレースが入っていました。このレースが出てきたことを私はとても喜ば しく思いました。なぜなら,彼が私の奉公人をかどわかし,レースを盗んだ共犯者だ と訴え出ることが出来ると考えたからです。私はこれで彼の令状を手にしたのです。 万事準備が整い,色恋の微妙な時間が近づきました。若い頃自分自身が同じように無 分別な役割を演じたことのある私は,対処すべき方法に精通していました。そこで, 女の子を外に出さないように閉じ込めておき,姿形がほぼ彼女と似通っている私が, 荷物一式を受け取りにやってきた召使に渡しました。そして,私は召使のあとをつい て馬車のところまで行き,色男が馬車に荷物を積み込ませるのを見届けると,泥棒, 泥棒と叫びました。すると手下を引き連れた巡査が色男を逮捕しました。私は人がた くさん集まって来るまで身を潜めておき,集まって来たところで,姿を現し,あれは 私のものなのですと知らせたのです。翌朝証拠物件として提出される盗品は持ってい かれてしまいましたが,この洒落者が留置場に入れられるのを見て満足しました3)。 この一件は事実としてよく知られています。奉公人を救えたこと,そして,屈辱の洒 落者にこういったことに二度と首を突っ込ませないようにしたことを嬉しく思ってい ます。確かにこの洒落者にはこれで若干の償いをさせたことにはなりますが,このよ うに悪質な結果をもたらす悪党には,起訴された些細な罪状だけでは到底十分とは言 えません。紳士たるものは事態をきちんと認識して,こういったならず者に対しては 彼が実際に犯した罪の汚名をあざわらい,逮捕されることになった罪を憂慮すべきで はないでしょうか。 2) 第266号参照。 3) エサリッジの作品への言及。第65号参照。 『スペクテイター』(19) 417 要するに,私としましては,貴方のお力でもって,哀れな女性の衣服もさることな がら貞節を奪うことは恥ずべき行為であると分からせていただきたいのです。いずれ にしましても,この一件は貴方にお任せいたしますが,最後に,一言だけ付け加えさ せていただきます。溜息なしには語れませんが,以上述べましたようなことが30年前 に思慮分別として人々の間に行き渡っていましたら,私は貧困と恥辱に包まれた一生 を送らないでもよかったことと思います。 草々 お針子のアリスより 9月9日留置場にて 拝啓 小生は道楽者ですが,単なる密通を企てただけですのに,意地悪婆の宣誓を真に受 けたろくでもない治安判事と生意気な巡査の愚行によって,窃盗罪で拘留されてしま いました。深夜,判事が言うには,この一件は貴紙の格好の題材になるだろうという ことでした。小生としましては,貴殿が知ったかぶりをなさって,ならず者の肩をも たれないことを期待しています。昨今は世の中が大きく変化し,小生を助けるために 夜回りに殴りかかってくれる人は一人もいなく,小生はまるでスリが取り押さえられ たように,意気揚々と連れ去れたのです。この調子ですと,そのうちに世の中には機 知とユーモアを持った人物は一人もいなくなってしまいます。以前なら,近隣の頼も しい密通する男性全員が,小生を助けるために寝取られ男に立ち向かってくれたもの です。もし密通がけしからないということになれば,これまで才人の多くが著した作 品の半数は,粗野な絞首刑執行人の手に掛かって燃やされるかも知れません。貴殿に お願いしておきますが,決して妙な考えは持たないで下さい。貴紙はこれまで順調に 来ていますので,紳士が一人も読まなくなるようなことは書かないで欲しいものと思 います。愛に忠実になって,セネカは燃やすべきです4)。こういった次第なので,匿 名にさせてもらいます。 敬具 4) セネカについては,第93号,第157号,第158号,第163号,第179号にも登場。 418 大阪経大論集 第183号 第53巻第4号 1711年9月29日(土曜日) 【アディソン】 我々は偽りをまるで真実かのように喋る方法を知っているが, いざというときには,真実を語る方法も知っている。(ヘシオドス)1) 機知に富んだ作品としてはじめて日の目を見たものは寓話でした。そして,寓話は この上なく質朴な時代だけでなく,非常に洗練された時代にあっても相変わらず高く 評価されてきました2)。現存する最古のもので,それ以降登場したいかなる作品と比 べても見劣りしないものとして,ヨタムの木々の寓話があります3)。これ以外にも古 いものとしては,貧しい人と子羊に関するナタムの寓話があります4)。この寓話は非 常に効果的で,感情を損なわせることなく,王を教え諭し,神の御心にならって,罪 の意識と義務感を植えつけたのです。遠くさかのぼってギリシアの時代には,イソッ プがいます5)。また,ローマの時代になりますと,平民たちの反乱があります。この 反乱は胃袋と四肢の寓話で鎮まります6)。実際,この寓話は怒った群衆の注意を喚起 するにはきわめて適切なものだったのです。同じことを言うにしても,もし公然と真 っ向から諭していたら,必ずや彼らは歯向かっていたことでしょうから。寓話は学問 の揺籃期に生まれたものですので,学問が絶頂期になると,それ以上栄えることはあ りませんでした。この主張を裏付けるためには,読者のみなさんに,初代ローマ皇帝 アウグストゥス時代の最も偉大な才人であり批評家のホラティウスや現代の詩人のう ちで最も品行方正なボワローを思い出していただきたいと思います7)。さらに,今日, 1) ヘシオドス『神統記』27 28 2) アディソンは『ガーディアン』紙152号において,寓話つまり寓意物語について論じ ており,エドマンド・スペンサーのこのジャンルにおける功績を称えている。 3) 士師記』第9章,第8節から第15節。 4) サムエル記』下,第12章,第1節から第4節。 5) 第100号参照。 6) 第174号参照。 7) ホラティウス自身は,寓話を書かなかったが,『書簡詩』の中で,道徳的な真実を説 くには,ここで述べられているように,逸話や物語を通じて説くのが効果的であると 繰り返し述べている。ラ・フォンテーヌはすでに『寓話詩選』を出版していたが,ボ ワローは『詩の技法』で,寓話について論じてはいない。ボワロー自身は,『死とき こり』(1668年)と『かきと二人の訴訟人』(1669年)という短編の寓話を書いた。 『スペクテイター』(19) 419 著述によって誰よりももてはやされているラ・フォンテーヌのことは言うまでもあり ません8)。 私がここで取り上げています寓話は,おおむねなんらかの教訓を示すために,動植 物と人間をからませたものですが,寓話にはこの種の寓話以外のものもあります。そ れは情念や美徳や悪徳そしてその他この種の気性を備えた架空の人物を扱うものです。 古代の批評家の中には,ホメロスの『イーリアス』や『オデュッセイア』にこの種の 寓話が伺えると言う人がいます9)。そしてまた,彼らは神々や英雄は人が好ましいと 思っているものを目に見える形で表現したものにほかならないと語ります。つまり, 『イーリアス』第一の書に登場するアキレウスは,怒りつまり人間性の短気さを体現 しているということです。さらに,アキレウスが一同の前で老人に剣を抜くときに登 場する女神パラスは,彼の怒りを抑制し助言する理性を具現しているということにな ります。そして,女神が登場してアキレウスの頭に触れるのは,そこに理性が宿って いるということなのです。『イーリアス』のほかの箇所にも同じ事が言えるというこ とです。『オデュッセイア』に関して,ホラティウスが,寓意をこめた寓話のひとつ と考えたのは明らかだと思われます10)。イタリアの卓越した才人たちは,この種の寓 話を書くことに精力を注ぎました。スペンサーの『妖精女王』はまさしく全編がそう です11)。キケロ,プラトン,クセノフォンといった非常に洗練された古代の散文作家 を見ますと,彼らもまたこの種の寓話を好んだことが分かります。一例だけ取り上げ ますと,この種の最初のものとしては,快楽と美徳に遭遇するヘラクレスに関わる寓 話があります。これはソクラテスよりも先に生まれたプロディコスが哲学的な描写の 中で考え出したものでした12)。プロディコスはこの寓話を携えてギリシアを旅し,市 場町では常に暖かく迎え入れられ,聴衆が集まるとすぐ必ずこの寓話を語り聞かせた 8) ラ・フォンテーヌの最初の『寓話詩選』(全6巻)は1668年に出版された。その後, 第7巻,8巻が1694年に追加された。アディソンの蔵書販売目録には,1698年リヨン で出版された2巻物が掲載されている。 9) ホラティウスは『書簡詩』[1.2]で『イーリアスとオデュッセイア』に関してこの点 について考えを述べている。 10) 書簡詩』1.2.1731 11) アディソンは,『英国の偉大な詩人たち』(1694年)の中で,「背後に単純明快な形で 退屈な教訓が横たわっているが,寓話は長々と続く」と書いた。 34 12) クセノフォン『覚書』2.1.21 420 大阪経大論集 第53巻第4号 のでした。 本日の紙面の気晴らしとして,読者の皆さんにこの種の寓話についてお伝えしよう と考えていますが,以上,記憶のおもむくまま前置きを述べてきましたので,これか らはいよいよ本題に入らなくてはなりません。 処刑される当日の朝,ソクラテスが口にした会話や振舞いについて,プラトンはつ ぎのように伝えています。 処刑される日には慣行となっていたのだが,足枷がはずされたとき,ソクラテス は弟子たちに囲まれて座り,呑気に足を組んで足枷で擦りむけた一方の足をさすり始 めたのです。迫っている死に無関心であることを示そうとしているのか,それとも, いつものようにあらゆる機会を捉えて何事でも哲学的な思考をしているのか,彼はこ れまで足枷のせいであれほど苦痛を覚えていた足に,このように楽な感覚が蘇ってい ることが嬉しいと語ったのです。このとき彼は快楽と苦痛一般に思いを馳せ,これら は絶えず交互に訪れるものだということに気づいたのです。そして彼は,もし寓話の 才がある人物が快楽と苦痛について書き表すとしたら,おそらく一方のみを書くこと は出来ず,両者をともに俎上に載せざるをえないだろうと付け加えました13)。 おそらく,処刑が迫っているこんな時に,死とは相容れない話題を語るソクラテス について描写することが妥当だとプラトンが考えていたなら,この話題について敷衍 し,見事な寓意つまり寓話を引き出していたことでしょう。でも,彼がそうしなかっ たので,この非凡な著者の精神にならって,私がその試みをしてみたいと思います。 この世の始まりから,ちょうど光と闇のように,互いに相反する二つの家族があり ました。一方は天国に,他方は地獄に住んでいました。前者の家族の末子は「快楽」 という娘で,母は「幸福」でした。そして「幸福」の母は,神々の子「美徳」でした。 先ほども申しましたように,彼らは天国に住まいを構えていました。後者の家族の末 子は「苦痛」という息子で,母は「悲嘆」でした。そして「悲嘆」の母は,復讐の女 神の子「悪徳」でした。彼らは地獄に住まいを構えていました。 13) パイドン』60 『スペクテイター』(19) 421 自然界のこの両極端の中間に位置しているが,地球でした。この地球には,天国に 住んでいる家族ほど徳高くなく,また地獄に住んでいる家族ほど悪徳にまみれている でもなく,この相反する二家族の善悪を共有している中間の生き物が住んでいました。 ユーピテルは,通例「人」と呼ばれているこの種は,悲嘆になるには徳がありすぎ, 幸福になるには悪徳がありすぎると考え,善と悪を区別し,この二家族の末子である 幸福の娘「快楽」と悲嘆の息子「苦痛」に,両者の中間点にある地球で会うようにと 命じました。そして,もし二人が善悪の区別に同意できれば,二人で「人」を分かち 持てるようにしてやると約束しました。 快楽と苦痛は新天地で出会うとすぐに,二人に任されたこの種の美徳を備えたもの は快楽が,悪徳を備えたものは苦痛が,それぞれ占有することで折り合いがつきまし た。しかし,二人が出会う個々人がどちらに属するかを吟味するさいに,誰もが双方 に権利があることに気づきました。なぜなら,かつての住まいで見てきたのと違って, 地球の住人の場合は,非常に悪い者にも善いところが少しはあり,非常に徳高い者に も悪いところが少しはあり,完全に悪いあるいは善いという人物はひとりも見当たら なかったからです。真相はつぎのような次第だったのです。吟味した結果,快楽はこ のうえなく悪い人物にも1%の権利を主張しましたし,苦痛は非常に徳高い人物にも 少なくとも3分の2は自分に権利があると主張したのです。二人とも何らかの和解が 出来なければ,争いに終止符は打てないことが分かりました。このため,両者の結婚 が提案され,やっと決着をみたのでした。このような次第で,快楽と苦痛は互いに忠 実な相方となっており,両者は常に手を携えてやってき,決して離れ離れの存在では ないのです。つまり,もし苦痛を覚えた場合でも,その直後には快楽が訪れますし, 快楽を覚えた場合も,きっと苦痛があまり遠くないところで待ち構えているのです。 ところで,両者の結婚は双方にとってきわめて好都合なものでしたが,彼らを人間 の世界に送り込んだユーピテルの意図には添わなかったように思えます。したがって, この不具合を改善するために,双方で条項を取り交わし,地球では,双方が勝手に人 間を所有するが,その人物が死亡するときには,少しでも悪を持っている場合には, 苦痛が発行するパスポートを与えて黄泉の国に送り,悲嘆と悪徳と復讐の女神たちと 暮らさせることにする。一方,少しでも善を持っている場合には,快楽から発行され るパスポートを与えて天国に送り,幸福と美徳と神々と暮らさせることにするとの確 認をしたのでした。 422 大阪経大論集 第184号 第53巻第4号 1711年10月1日(月曜日) 【アディソン】 長い人生には,不意に眠りに襲われることがある。(ホラティウス)1) 人間というものは,未知のユーモアを発見すると,往々にして予期しないところま で突き進んでいくものです。わが寄稿者は私が与えたことをヒントにして,私が当初 考えもしなかったような思索をめぐらしておられます。これは,似たようなテーマで 二度ほど触れましたが,「百面相大会」の紙面がもたらした結果なのです2)。先般つぎ の手紙が送られてきました。前置きはしないで,ありのままの事実をそのままお伝え することにします。 拝啓 貴殿はすでに百面相,口笛吹き,そしてあくびにまで触れておられます。小生が思 いますに,こういった流れですと,当然つぎのテーマは眠りではないでしょうか。そ ういった次第ですので,貴殿につぎの広告を推挙いたします。これは二ヶ月ほど前に 公表され,8月9日の『デイリー・クーラント』紙にも追加広告が掲載されていま す3)。 「昨年,バーソロミュー病院で眠ったニコラス・ハート,今年はリトル・ブリテン のコック・アンド・ボトルにて眠る予定である。」 以来,事実関係を調べたところ,上記ニコラス・ハートは,毎年周期的に眠りの発 作に襲われることが判明しています。この発作は8月5日に起こり,11日まで続くと いうことでした。詳細はつぎの通り,「8月1日ぼんやりとなり,2日眠気を誘われ, 3日あくびをし,4日こっくりを始め,5日寝入り,6日いびきをかき,7日寝返り を打ち,8日再び寝返りを打って元の姿勢に戻り,9日背伸びをし,10日真夜中ごろ 目覚め,11日朝少量のスモールビールを求める。」 以上の記述は,彼の記録係を引き受けているリンカーンズ・インの紳士が忠実に記 録した「眠る人」の日誌から抜粋したものです。これは,ニコラス・ハートの行状を 1) ホラティウス『詩の技法』360 2) 第173号,第179号参照。 3) 1711年8月7日および9日の『デイリー・クーラント』紙に,広告が掲載された。 『スペクテイター』(19) 423 描写しているだけでなく,多くの誠実なわが同胞のごく自然な描写でもありますので, 貴殿にお送りする次第です。たいていの場合,誰もが,あくび,こっくり,背伸び, 寝返り,睡眠,飲酒といった日常を送っているのです。貴殿に気に入っていただけれ ば,貴殿が上記のような人物について,例えば,紳士ジョン氏何某,郷士トマス氏何 某が,昨夏は田舎で眠ったが,今冬は町で眠る予定であるといった記事をお書きにな られるものと確信しています。一番困るのは,眠そうな種族を構成しているのが,主 として,人々の平穏を乱すことなく,物静かに暮らしているきわめて誠実な紳士諸氏 であるということです。この人たちは針のない雄バチなのです。何名かの騒々しく, 落ち着きがない,野心家のみなさんが,しばらくの間,この善良な人たちと入れ替わ って,ニコラス・ハートの仲間入りをしてもらいたいものと,小生は心から願ってい る次第です。ともかくも,この11月1日から来年の5月1日まで,私の言うお忙しい 人たちを眠らせることができれば,国民だけでなく,物静かな人たちのためになるこ とは間違いのないところです4)。 さて,話をニコラス・ハートのことに戻します。みなさんはきっと眠ることで暮ら しを立てることをきわめて異例のこととお考えでしょう。勤勉と同様に,睡眠が暮ら しを立てるのは奇妙なことなのです。だが,ニコラスは昨年一年間十分やってきたの です。また,今年も快適な眠りに付いたとの情報も入っています。詩人たちは大いに 眠りを歌いますが,それで稼いだ話は聞いたことがありません。ところが,わが友ニ コラスの場合は,この方が仕事よりも稼ぎが多いのです。もしかすると,金を産む夢 を見るのは,かのホメロスよりもニコラスの方が勝っているのかも知れません5)。ユ ヴェナリスは,実際に,いびきによって地所を増やす,眠ったような夫のことを取り 上げています。だが,この場合は,この夫はいわゆる狸寝入りをしたのだと描写され ています6)。もし彼の眠りが本物であれば,妻はそれに気づき不貞を働いていたに違 いありません。あらゆることに道徳的な考察をなさる貴殿は,この一件からも重要な ことを引き出していただけるものと思います。つまり,誠実に働いて儲けるのではな く,享楽と快楽の世界にあって人づき合いをよくして,貴顕の士の引き立てに身を任 せている私たちのような輩に,何らかのご指摘いただけるのではないかと考えている 4) 暗に議会の会期に言及している。 5) タトラー』紙,第112号参照。 6) 諷刺』1.55 424 大阪経大論集 第53巻第4号 次第です。 さらに付け加えておかなくてはなりませんが,グラブ・ストリートのさる著名な文 筆家が現在,この奇妙な人物の夢について執筆中なのです。聞くところによりますと, これは長い眠りの間,この人物の脳裏に想起すると思われるありとあらゆる事柄につ いて述べなくてはなりませんので,相当な長編になるとのことです。この文筆家はす でに3日3晩これに取り掛かっており,4分の1は書き終えたということです。もし 党派色を控えることができれば,彼の仕事は有益なものとなります。だが,彼の友人 や親友から聞くところでは,自由闊達にニムロデのことに触れているとのことですか ら,これに関してはどうやら期待できないと思われます7)。 敬具 第185号 1711年10月2日(火曜日) 【アディソン】 神々しい心の持ち主がこのように激しい怒りを見せることが出来るのか。 (ウェルギリウス)1) いわゆる熱意ほど誤解を招くものはありません。熱意の下には非常に多くの情熱が 潜んでおり,熱意から非常に多くの災いが生まれます。そのため,熱意が美徳のひと つに数え上げられていなかったら,人類のためになっていたのにという人さえいます。 確かに,熱意は賞賛に値し,分別のあるものですが,一方で,何倍にも犯罪的であり 過ちを招くものでもあります。あらゆる宗派において,とりわけ,枝分かれした分派 において,互いにいかに相容れなくても,このことが等しく暴力的に作用しているこ とを考えますと,理解いただけるものと思います。 ユダヤのラビたちによれば,最初の殺人は信仰上の口論に端を発しているとのこと です2)。カインの時代から今日まで,熱意の全史を振り返って見ますと,そこにはい かに多くの殺人と流血の惨事に溢れているかが分かります。同時に,そこにはこれを 7) 多分に昨今の政治状況への言及であろう。ニムロデはノアのひ孫で狩りの名人( 創 世記』第10章)。 1) ウェルギリウス『アイネーイス』第1巻,第2章。 2) この記述の根拠は,ベイルに基づいている。 『スペクテイター』(19) 425 一考の余地があると考えた賢明な人たちが,いかに注意深く,熱意に駆り立てられた 行動を慎んできたかが伺えます。 私としましては,熱狂的な人は残らず,自らの心をよく見つめてもらいたいと考え ています。そうすれば,自分で信心と思っているものが,往々にして,自尊心や私利 私欲,あるいは卑しい性格が生み出したものに過ぎないことが分かると思います。異 なった意見の持ち主というものは,自らが判断力に勝っていると考え,個別の事柄に おいて,他人よりも賢明であるといったふりをするものです。自尊心の高い人物にと っては,このことが大きな刺激となって,いわゆる熱意に拍車をかけることになりま す。これは非常によくある例ですが,正統性に対して熱を上げている人たちの振舞い からもこのことが伺えます。彼らは邪で不道徳な人物を相手にした場合でも,信仰の 要綱において一致さえすれば,彼らと親交を深めてしまいます。これは邪な信者は自 分たちが完全な人にはなれない分だけ,徳高い人物の優位を認め,善良なキリスト教 徒を立派な人物と認めるからなのです。このことは,状況は少し異なりますが,ほぼ すべての倫理体系に引用されている「どちらがよいか分かっているし,それが正しい ことだとも思う。悪をとがめたらよい,でも悪は追いかけてくるのです。」3) という使 い古された一節を見れば分かります。一方,熱意が本物であり純粋なものであるなら, その怒りは異端者よりも不信心者に向けられるべきだと確信します。なぜなら,異端 者は神を前にすればいろいろ弁明も出来ますが,不信人心者の場合は,弁明の余地が ないからです。 同様に,私利私欲は大いに人を発奮させます。そして,熱意の仮面をかぶって人を 迫害することになります。したがって,こういった人たちは私利私欲に当面の根拠を 置いている訳ですから,戦禍を経験してまで真の信心を手に入れることはしません。 ところで,私利私欲という言葉は現世だけでなく,精神世界における安寧に関わりま すので,ここでは,一般的に用いられているよりも広い意味で,この言葉を扱いたい と思います。仲間というものは,自分の個人的な考えを補強するのに役立ちますから, これを数多く持ちたがります。改宗者というものは,自分の信念を不動のものにする ための新たな主張のようなものです。自分の主義主張が,自分だけでなく他人の判断 力に適合していると分かれば,これは説得力があると考え,多分にして真実だと信じ 3) オウィディウス『変身物語』7.20 21 426 大阪経大論集 第53巻第4号 込むことになります。この精神状態が人をだまして熱意へと走らせるのは,無神論者 の反応としてよく伺えるものです。無神論者は,ひとえに神の栄光を求める情熱を持 つ人々と同様に,情熱を込めて自らの考えに固執し,それを広めます。 熱意に似せているもうひとつひどいものに,不機嫌な性格があります。当然のこと ですが,善良な人の多くも,ひそかに,怨恨とか悪意を抱くことがあります。これは 信仰によって,ある程度抑えられ,和らげられます。だが,怨恨とか悪意を吐き出し ても,キリスト教徒の本分に反しないと思える口実が見つかる場合には,あらゆる抑 制を払いのけ,怒りを爆発させます。それゆえ,熱意というものは悪意のある人物に とって大きな救いとなります。つまり,これは邪な復讐心に燃えた性癖を満足させな がらも,一方で,自分は神に仕えているのだと思い込むことになるのです。こういっ た理由から,これまでに見られた大虐殺とか惨害の大半は,その発端が怒り狂った偽 りの熱意にあったことが分かります。 私としましては,善いことで,とりわけ道徳を助長し,人類の幸福を促進させよう として,人が熱狂的になっている姿を見るのは好きです。ところが,熱意を発揮する 道具が,拷問台や絞首台であったり,ガレー船や地下牢であったりすると,つまり, 魂を救う目的で,人を監禁し,財産を没収し,一家を破滅させ,火あぶりにするよう な場合は,その人物が信仰や信条をどのように考えていようとも,そういった信仰と か信条は独善的なものであり,無益なものと言わざるを得ません。 以上信条における偽りの熱狂者に触れましたので,つぎには奇怪な種族について述 べざるを得ません。これは日常の会話で遭遇しなければ,自然界に存在しているとは 思われないような種族なのです。つまり,私の言いたいのは,熱狂的な無神論者のこ となのです。こういった人物は,あらゆる点で信仰を職業にしている人たちに及ばな いのですが,熱意という点だけは彼らより勝っており,信仰に対する恥知らずな熱意 から生まれると思える唯一の罪が免れていると考えがちです。だが,彼らの場合,人 類の安全がまるでこの一点にかかっているかのように,怒りと義憤を交えながら不信 心を激しく主張するのです。この種の熱狂者には非常に馬鹿げたそして強情な点が備 わっていますので,本性を見極めることは困難です。彼らはある意味では,いたずら にゲームをしていることになりますが,常に苛立っている賭け事師のようなものです。 彼らは交際で何かを獲得する訳ではありませんが,訪ねてくる友人を絶えずじらして いるのです。要するに,無神論を広めたいという熱意は,かりにそれが可能であって 『スペクテイター』(19) 427 も,無神論そのものよりも馬鹿げたことなのです。 無神論者や不信心者における奇妙な熱意について触れましたので,つぎには,同様 に非常に特異な形で偏狭な心を持った人物について語らなくてはなりません。彼らは 矛盾にあふれ不可能なことばかりを訴えることに執着すると同時に,教義条項にごく 些細な難点を見つけ出しては,それを拒絶するに足る根拠と見なします。社会そして 個々の幸福を促進したいという意向は言うまでもありませんが,時代と国を超えた分 別に適合する人類共通の理性に合致する考えは,誤りであり偏見として論破されます。 そして,その代わりに,奇怪で不合理な要綱が作られ,彼らを受け入れるには法外な 軽信が必要となります。私としましは,こういった頑迷な不信心者にはつぎのような 質問を投げかけたいと思います。もし宇宙形成における偶然性あるいは不変性,思考 力を持った実体,魂の必滅,身体組織の偶然性,物質の意向や傾向などの無神論が重 要と考える論点を総合的に考えて,高名な無神論者の考えに従って,ある種の信条を まとめるとしたら,つまり,もしそういった信条をまとめて,人々に押し付けるとし たら,これを受け入れるためには,自分たちが強行に異議を唱えている教義条項では 考えられないほどの強い信念を必要とするのではないだろうか,と4)。それゆえ,こ ういった論争をする人たちには,彼ら自身のためにも,また人々のためにも,少なく とも自分自身に矛盾のない行動をするように努め,無信仰への熱意や馬鹿げたことへ の偏狭さに熱中しないようにと助言したいと考えます。 4) アディソンは『自由保有権』第14号で,「この世で最も信じやすいのは無神論者だと いうのは言い得て妙である。彼らは宇宙を偶然の産物と信じているのである。」と述 べている。