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環境保全と自治社会の形成

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環境保全と自治社会の形成
大阪経大論集・第54巻第5号・2004年1月
9
環境保全と自治社会の形成
里
目
上
譲
衛
次
は じ め に
1.『緑の政治思想』の基本的構成
1)ドブソンによる環境主義とエコロジズムの区別
2)第1章「エコロジズムに関する考察」の概要
2.『緑の政治思想』の「永続可能な社会」像
1)「成長の限界」と永続可能性
2)環境問題に対処する政治制度的条件に関する4つの基本的態度
3)ドブソンの主張の意義と限界①
3.『緑の政治思想』が提示する「緑の変革のための戦略」
1)エコロジズムと社会変革
2)ライフスタイルの変革
3)コミュニティの戦略
4)直接行動と階級
5)ドブソンの主張の意義と限界②
4.エコロジストの社会主義者及びフェミニストとの対話
1)エコロジストの社会主義者との対話
2)エコロジストのフェミニストとの対話
む
す
び
は
じ
め
に
地球温暖化問題をはじめ環境危機が進展するなかで,いかなる環境政策を展開すべ
きかが鋭く問われている。環境政策は大きく技術主義的環境政策と制度主義的環境政
策に分けられるが,前者は主として技術開発を促進することによって環境保全を行な
おうとするものであり,後者は制度改革に重点を置いて環境保全を実施しようとする
ものである。そして,現実の環境政策は両者を何等かの割合で混合したものであるが,
問題にしなければならないのは,このような環境政策によってはたして地球温暖化を
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はじめとする環境破壊を食い止められるかどうかということである。
すなわち,技術主義的であれ制度主義的であれ,資本主義体制の変革を抜きにして
環境政策の展開のみによって,十全な環境保全を行なうことができないのではないか
と思われるのである。以上のようにいうと直ちに,資本主義体制の変革といった大き
な物語は十余年前における旧ソ連・東欧諸国のいわゆる社会主義体制の崩壊によって,
資本主義体制の勝利という形で決着がついたのだという声が聞えて来そうである。
その点については,崩壊したのは共産党による一党独裁と指令経済にもとづくいわ
ゆる社会主義体制であって,社会主義が本来いみしていた自由な生産者の自由な結合
によるアソシェーション,今はなきフランスの哲学者コルネリュウス・カストリアデ
ィスのいう自治社会の形成はますます輝きを増しているのではないかというのが筆者
の見解である。そこで本稿では,イギリスの政治学者アンドリュー・ドブソンの『緑
の政治思想(1990年)』(松野
弘監訳,2001年ミネルヴァ書房)を素材にしながら,
十全な環境保全を行なうためには自治社会の形成が不可欠であることを論述すること
にしたい。
1.『緑の政治思想』の基本的構成
『緑の政治思想』はその副題が「エコロジズムと社会変革の理論」となっているよ
うに環境思想に関して多面的に論じている。目次をみても序論,終章のほか5章から
なっており,それは第1章の「エコロジズムに関する考察」から順に第2章「哲学的
基盤」,第3章「永続可能な社会」,第4章「緑の変革のための戦略」,第5章「エコ
ロジズム,社会主義,フェミニズム」となっている。
こゝではその全体を問題にする余裕はないが,ドブソンが「本書を構成する上での
中核にある区別」1) という,序章で明らかにされている「環境主義」と「エコロジズ
ム」の区別をみるとともに,本書の総論である第1章「エコロジズムに関する考察」
を概観しよう。その上で,本書の主題である「エコロジズム」について,彼が「人間
以外の自然に対する人間の態度や政治構造の根本的変化が,望ましく,かつ,必要で
あると論じている」2) ところを取り上げることにしよう。
その前に,ドブソンの略歴をみておこう。邦訳書『緑の政治思想』末尾の原著者紹
介によれば,彼は1957年にイギリスで生まれ,レディング大学(政治学専攻)卒業後,
83年にオックスフォード大学で政治学博士の学位を取得している。キール大学政治学
1)アンドリュー・ドブソン,松野弘監訳『緑の政治思想』(ミネルヴァ書房,2001年)11ページ。
2)前掲『緑の政治思想』11ページ。
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部講師(1987年)等を経て,1993年同学部教授に就任し,現在政治学・国際関係・環
境系学部教授である。ドブソンの研究関心領域は環境政治理論,環境政治思想,環境
的正義論,環境的市民権論等で,大学及び大学院では政治思想入門,環境政治学,環
境政治理論等の講座をもっている。
ドブソンは<緑の政治思想>のリーダー的理論家として,ヨーロッパで高い評価を
得ている研究者であり,環境政治学の理論誌“Environmental Politics”をはじめとし
て,環境政治,環境政治思想関係の専門誌の編集委員も兼任している。彼はこれらを
つうじて,緑の運動,緑の党などの現実的な環境政治運動や環境政策に対して,エコ
ロジズムの視点から積極的な発言を行ない,新しい環境政治思想の方向性,環境社会
のあり方などについて影響力のある示唆を与えている。
1)ドブソンによる環境主義とエコロジズムの区別
まず,ドブソンが環境主義とエコロジズムをどのように区別しているかをみておこ
う。彼は序論で「エコロジズムとそれ以上に目立つ存在である環境主義という近縁の
概念とを区別することが重要であ」3) る根拠を,「一つの政治的イデオロギーとしての
エコロジズムについて考えるという面でも,また20世紀後期を支配する政治的,経済
的, 社会的合意に対するラディカルな緑派の挑戦を正確に再現するという面でも」4)
それが必要である点に求めた上,つぎのように両者を区別している。
ドブソンによれば,環境主義は現在の諸価値,または生産と消費のパターンを根本
・
的に変えなくとも,環境問題は解決できると信じており,したがって環境問題への管
・・・・・・・
理的アプローチ(強調は筆者)を支持するという。他方,彼はエコロジズムは私たち
・・・・・・・
と人間以外の自然界との関係や,私たちの社会的,政治的生活様式のラディカルな変
・
革(同上)があってはじめて,永続可能な社会を招来しうると考えているという。
なお,環境主義とエコロジズムとの区別については,本書第1章の「結論」でも総
括的に論じられている。そこでは,本書がエコロジズムに関する著作であって,環境
主義に関するものではないことが強調された上,環境主義者とエコロジストとは環境
を改善するための戦略が大きく異なっていると指摘されている。つまり,ドブソンは
環境主義者は「必ずしも成長の限界というテーゼを支持しないし,『産業主義』を解
体することを一般にめざしているわけではない」5) と述べている。また,「彼らは人間
以外の環境の内在的価値を論じることはあまりないし,(種としての)我々は『形而
3)前掲『緑の政治思想』1ページ。
4)前掲『緑の政治思想』1ページ。
5)前掲『緑の政治思想』53ページ。
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上学的な再構築 (metaphysical reconstruction)……を必要としているという主張を前
にして,躊躇するであろう」6) が,エコロジストは全くその逆であるとも述べている
のである。
2)第1章「エコロジズムに関する考察」の概要
序論では,以上のように環境主義とエコロジズムは同じものではないことが述べら
れた後,環境主義は政治的イデオロギーではないこと,及び環境主義はエコロジズム
とは最も折り合いが悪いことが強調されている。そして,ドブソンは本書の総論にあ
たる第1章「エコロジズムに関する考察」において,まずイデオロギーとしての政治
的エコロジー7)について論じる場合,「厳格主義的立場」と「非厳格主義的立場」の2
つがあることを明らかにしている。
彼は前者はエコロジズムを厳格に定義し,例えば「政治的エコロジーと適切に呼ば
・・・・・
れるためには,そうした立場にいる人々やその概念は厳格な検証に合格しなければな
らないであろう」8)(強調はドブソン)という立場をとるという。これに対して,後者
は「検討の対象をより拡大するので,エコロジズムは,厳格主義的立場に比べて,よ
り少ない条件,そして/あるいは,より厳格でない条件に従って,定義されることに
なる」9) とドブソンはいう。
もちろん,彼は厳格主義的立場に立っており,その根拠としてあげられているのは,
第1にイデオロギーのどんな記述にも従わなければならない基本原則があること,第
2にエコロジズムを環境主義に埋没させるのは,知的・政治的状況を歪曲してしまう
おそれがあること,第3に非厳格主義的立場は実際にはほとんど何も語らないこと,
である。
本書第1章では続いて,エコロジズムが目指す「永続可能な社会」について留意し
なければならない要点2つが強調される。ドブソンが主張する第1点は,「先進工業
国」における個人の物質的財貨の消費は削減されるべきだということである。また第
2点は,今日私たちが理解している継続的な経済成長は,人間のニーズを最もよく満
足させるものではないということである。この永続可能な社会が必要とする政治制度
6)前掲『緑の政治思想』53ページ。
7)イデオロギーとしての政治的エコロジーということで,ドブソンはそれは他の政治的イデオロ
ギーに比肩しうる存在であること,21世紀は本書で論じられているような論争でおおわれる可
能性があることを示唆している。
8)前掲『緑の政治思想』19∼20ページ。
9)前掲『緑の政治思想』20ページ。
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については,2でみることにしよう。
さらに第1章においては,私たちが「環境に配慮する理由」として第1に,そのこ
とが私たちの利益にかなうこと,第2に,環境は人間の目的にとっての手段であると
いうこと以上の内在的価値をもつことがあげられている。前者について彼は,例えば
熱帯雨林が酸素や医薬品の原材料を供給していることや,土壌流出を防止していると
いう理由から保護すべきであるということが指摘しうるが,このような理由はエコロ
ジズムの主張するところではないという。
すなわち,ドブソンは『グリーン・オルタナティブ(the Green Alternative)』誌か
らの引用によって,前者は「人間以外の世界が有する人間にとっての道具的価値に関
連したものであ」10) り,後者はそこに欠落している「人間外の世界が内在的価値をも
つとみなすような,より公平で(impartial),より生命中心主義的な(biocentric),あ
るいは,生命圏中心的な(biosopherecenterred)な見解である」11) と規定しているの
である。
本書の第1章では進んで,「危機とその政治戦略上の帰結」ということで,「政治的
エコロジストは,彼らの警告を無視し,彼らの処方箋に従わなければ,悲惨な結果が
もたらされるであろうと常に主張している」12) ことが叙述される。またそれに関連し
て「普遍性と社会変革」ということで,このような政治的エコロジストの主張は,
「環境悪化とそれに伴う社会的混乱はすべての人々の問題であり,それゆえ,すべて
の人々が関心をもたなければならない」13) という普遍性をもつとともに,そこから社
会変革のためのエコロジズムの戦略が提起されるべきであるといわれる。これら緑の
変革のための戦略については,3で検討することにしよう。
ところで,ドブソンは「普遍性と社会変革」に続く「自然からの教訓」において,
エコロジズムは人間は自然の創造物であるという信念にもとづく徹底した自然主義に
立脚しており,それは一方では人間の熱望には自然的な限界があるという認識を含む
とともに,他方では「政治的,社会的な調停のためのエコロジズムの処方箋の多くは,
自然のあり方に関する特定の見解から引き出されている」14) と述べている。この見解
とは生態学的な見解であり,「競争よりも相互依存に優位性が与えられ,さらに,階
層的秩序よりも先に平等がくるような,自然界という」15) 考え方である。
10)前掲『緑の政治思想』29ページ。
11)前掲『緑の政治思想』29ページ。
12)前掲『緑の政治思想』31ページ。
13)前掲『緑の政治思想』33ページ。
14)前掲『緑の政治思想』34ページ。
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そして,自然界の主要な特徴とそこから引き出された政治的,社会的な結論,ない
し処方箋として,
多様性(diversity)………………………………寛容,安定,民主主義
相互依存(interdependence)………………… 平等
長寿(longevity)……………………………… 伝統
「女性」としての自然(nature as ‘female’)……フェミニズムに関する特定の概念
の4項目があげられている。
さて,ドブソンはそれに続く「左翼と右翼
共産主義と資本主義
」において,
資本主義と共産主義とを超えて前進するという政治的エコロジーの主張を検討する。
まず,生態系中心主義的な政治的エコロジーの立場からみれば,共産主義と資本主義
とは差異よりも類似性が大きいようにみえるということが指摘され,その類似性を表
現する概念として産業主義16)が付与される。そして,エコロジズムは産業主義という
「超イデオロギー」を破棄すべき最重要課題とみなしており,それは資本主義,共産
主義にかかわらず妥当する事柄であるといわれている。
第1章の最後に,彼は「歴史的な限定性」ということで,エコロジズムの起源をい
つに求めるかに関して3つの見解があることを紹介した後,政治的エコロジストは第
2の見解を支持するという。3つの見解とは,第1に「生態系中心的な感受性を,人
類登場の時代まで,あるいは少なくとも,旧石器時代,ないし,新石器時代まで遡っ
て追跡する」17) ものであり,第2に「環境運動を1960年代と1970年代から生じたも
の」18) とするものである。そして,第3に「生態学思想の起源を19世紀にみる」19) も
のである。
その場合,ドブソンはレイチェル・カーソンの『沈黙の春』(原著の出版は1962年)
を例として,同書はエコロジズムをただ啓発するだけであって,それ自体であること
はできないという。なぜなら,『沈黙の春』は同書が提起する種々の問題を扱う包括
的な政治的戦略に欠けており,したがって1962年にはエコロジズムは存在していなか
ったし,この時期はエコロジズムの前提条件の一部と理解するのが最善であるからで
あると。以上の「左翼と右翼」及び「歴史的な限定性」の突っ込んだ議論は,本書の
15)前掲『緑の政治思想』34ページ。
16)ドブソンは産業主義を,経済成長を極大化することによって,諸国民のニーズが最もよく満た
されるという信念と規定している。
17)前掲『緑の政治思想』47∼48ページ。
18)前掲『緑の政治思想』48ページ。
19)前掲『緑の政治思想』48ページ。
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第5章「エコロジズム,社会主義,フェミニズム」を素材として,4で行なうことに
しよう。
2.『緑の政治思想』の「永続可能な社会」像
1)「成長の限界」と永続可能性
ドブソンは本書の第3章「永続可能な社会」で,とくにそれが必要とする政治制度
について述べている。まず,彼は「成長の限界」のところでエコロジストが目指して
いるのは私たちの社会が永続性を獲得し,希望に満ちた未来を築くことであるとして
いる。そして,そのラディカルな緑の政治を根底で支えているのは,地球は有限であ
り,資源は希少であるので,産業の成長には限界が画されるべきであるという信念で
あるとしている。
さて,ドブソンはエコロジストがラディカルな緑の政治を構想する場合,指針とな
るのが「永続可能性」であり,それを主張するかどうかで緑の政治をライト・グリー
ンの政治とダーク・グリーンの政治に分裂させるとしている。つまり,生態系中心主
義に依拠することとともに,永続可能性を指針とすることがラディカルな緑の政治
(ライト・グリーンの政治)の立脚点であるというわけである。ついで彼は,このよ
うな永続可能性を指針とすることは成長の限界を信念とすることでもあるが,その成
長の限界テーゼには3つの基本思想が関連しているという。
第1はテクノロジーによる解決は永続可能な社会をもたらさないだろうということ,
第2は「産業化社会とか,産業社会がめざす……急速な幾何級数的成長は,かなり長
期にわたって蓄積された危険が非常に突発的に破滅をもたらしうることを意味してい
る」20) ということ,そして第3は,1つの問題を解決することは他の問題の解決にな
らないばかりか,他の問題をさらに悪化させることにさえなりかねないということで
ある。
2)環境問題に対処する政治制度的条件に関する4つの基本的態度
ところで,ドブソンはつぎの「永続可能な社会への視点」のところで,永続可能な
社会が必要とする政治制度的条件についても,社会的・倫理的活動のあり方について
も,いくつかの解答が出されているという。これに関して彼は,ティム・オリョーダ
ンの『環境主義』(1981年)によりながら,環境問題に対処する政治制度的条件に関
する4つの基本的態度を区分している。
20)前掲『緑の政治思想』103ページ。
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その第1の立場は,「新しいグローバルな秩序」に依拠するそれであり,地球環境
問題に効果的に対処するためには,国民国家は小さすぎるし,国連は有効に機能して
いないという態度をとる。オリョーダンはこの見解の支持者としてバーバラ・ウォー
ドやルネ・デュボスのような人をあげているが,ドブソンはグロ・ハーレム・ブルン
トラント21)を付け加えてもよいだろうと述べている。
第2の立場は「集権的権威主義」と呼ばれるそれで,誰も環境危機への対応措置に
自発的に従おうとしないので,何らかの権威
その中心は国民国家としての政府
による統制が必要であるが,大きな政治制度的変化は要しないという態度を示す。オ
リョーダンはこの立場を代表する人物としてウィリアム・オフュルスやギャレット・
ハーディン22)をあげている。
オリョーダンがあげている第3の立場は「権威主義的コミューン」のそれである。
この立場は永続可能な社会では意思決定の中心は国民国家から地方自治体に移行する
が,その社会構造はやむなく階層秩序的な状態にとどまるであろう,という態度をと
る。彼はこのモデルは中国のコミューンに求められるといい,またこのような考え方
の原型としてハイルブローナーの『人間の未来の探究』(1974年)やエドワード・ゴ
ールドスミスの『生存のための青写真』(1972年)を指示している。
オリョーダンがあげている第4の立場は彼が「アナーキスト的解決」と呼ぶもので
あり,それは「古典的な生態系中心主義の提言が打ち出した目標は,アナーキストの
路線をモデルにした自己依存型コミュニティである」23) と規定されている。この立場
は第3の「権威主義的コミューン」のそれとコミューンの視座を共有しており,両者
とも意思決定の中心は国家からコミュニティに移るが,前者がコミューン内の関係に
ついては左翼的・リベラル的スタンスをとっている点が異なっている。すなわち,
「アナーキスト的解決」は基本的に,平等主義的かつ参加主義的であるといわれる。
以上の環境問題に対処する政治制度的条件に関する4つの基本的態度のうちどれが,
あるいはどのような組み合せが,ラディカルな緑派にとって適切であるとドブソンは
考えているであろうか。これに関して彼は,ロビン・エッカースレーが『環境主義と
政治理論』(1992年)のなかで,人間も含めたあらゆる実在物の自己決定に焦点を当
21)ノルウェーの元女性首相で,1984年5月に発足した国連の「環境と開発に関する世界委員会」
の委員長を勤めた。同委員会は1987年4月に「持続可能な発展」をキーワードとする報告書
『我ら共有の未来』を公表している。
22)カリフォルニア大学サンタバーバラ校の生物学者当時の1968年に,『共有地の悲劇』を出版し
て,「共有地は自由なものと信じられている社会では,それぞれが最大の利益を追求する結果,
破滅への道を突き進んでいくことになる」と説いた。
23)前掲『緑の政治思想』116ページ。
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てゝ,エコロジズムは根本的に解放的だと指摘していることによりながら,エコロジ
ズムは権威主義とは両立しえないと述べており,必然的に第4の立場に行きつく。但
し,ドブソンはエコロジズムと社会的,政治的形態との関係がただ一つしかないとい
っているわけではない。
3)ドブソンの主張の意義と限界①
さらにドブソンは,「成長にまつわるさらに多くの問題」のところで,政治的エコ
ロジストは成長には物理的な限界とともに,社会的及び倫理的限界もあると信じてい
ると述べた後,「エコロジズムにおける消費論」において,彼らが主張する経済成長
の縮小に言及する。彼はそれが,経済学者ハーマン・デイリーが「スループット(処
理量)」の縮小と呼んだものをいみし,資源の消粍,生産,(消費を伴う)財の価値低
下,そして汚染から構成されるという。
そして,ドブソンはこれら4つの要素のうち生産よりも消費の方が有効な議論の出
発点を示していると思われると主張する。その理由として彼があげているのは,第1
に他の3つの要素は消費の存在と持続性によって基礎づけられていること,第2に,
エコロジズムの政治的イデオロギーが私たちに提示する善き生活の見取図は,消費の
抑制を強調していることである。
第3章「永続可能な社会」では,以下この消費の抑制をめぐって議論が展開される
が,こゝではそれに立ち入らないことにして,ドブソンのこれまでの主張の評価を行
なっておこう。まず,彼による環境主義とエコロジズムの区分は,前者のいみしてい
るものを環境主義と呼ぶのが妥当かどうかという問題はあるが,十全な環境保全のた
めに現在の生産と消費のスタイルを根本的に変えようとするエコロジズムと,そうで
ない環境主義の相違は決定的に重要であり,首肯しうる。
筆者も本稿の「はじめに」で,現実の環境政策は技術主義的なそれと制度主義的な
それとが何等かの割合で混合したものであるが,資本主義体制の変革を抜きにして環
境政策の展開のみによって,十全な環境保全を行なうことができないのではないかと
いう疑問を呈しておいた。けれども,ドブソンがエコロジズムが目指しているという
永続可能な社会が,政治的には「アナーキスト的解決」を求めているとしても,経済
的にはどのような体制に転換しようとするかが明らかでない。
たしかに今日,旧ソ連・東欧諸国のいわゆる社会主義体制の崩壊によって,資本主
義体制に代るオルタナティブは存在しないという見解が支配的となっている。この見
解に従えば,環境保全のためには資本主義体制の枠内で技術開発や制度改革を進めれ
ばよく,その根本的変革はあり得ないということになる。ドブソンのいう「環境主義」
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はそのようなものであろうが,これと明確に区別され,彼によって「エコロジズム」
が目指しているといわれる永続可能な社会が資本主義体制の変革とどのように関係す
るのか不分明なのである。
この点については,後にもう一度立返ることにして,もう一つドブソンの消費につ
いての見方を検討しておこう。上述のごとく彼は,政治的エコロジストが永続可能な
社会の実現のために,経済成長の縮小を主張していることから,必然的に消費の抑制
に行き着くと結論している。それに関しては一応納得し得るが,スループットの4つ
の要素のうち,生産よりも消費の方が有効な議論の出発点を提示しているというのに
は疑問がある。
というのは,消費のあり方が生産のあり方を規定するという面ももちろんあるが24),
生産の様式が決定的に変らなければ消費の様式も大きく変化しないというのが真実で
はないであろうか。つまり,消費の抑制を始点として経済成長の縮小を考え得ないわ
けではないけれども,両者を徹底して行なおうとすれば,生産なくして消費なしとい
われるように,何よりも生産の様式の根本的変革を出発点としなければならないであ
ろう。そのためにも資本主義体制の変革が必要であるというのが筆者の見解である。
3.『緑の政治思想』が提示する「緑の変革のための戦略」
1)エコロジズムと社会変革
ドブソンは,本書の第4章「緑の変革のための戦略」の冒頭で,エコロジズムは現
今の生産と消費の様式を批判するとともに,それが目指す永続可能な社会の見取り図
を描いてきたと述べた上で,このことはエコロジズムが,「イデオロギー」の機能的
な定義における2つの古典的な必要条件を充たしていることをいみするという。彼は
その2つの古典的な必要条件とは,「政治的現実」の描写と「善き生活」の描写に通
じる未来への処方箋の両者を備えていることであると規定している。
そこでドブソンは,第4章での主要な問題は社会変革のためのエコロジズムの戦略
は何かということであり,副次的な問題はこの戦略はそれらに求められている課題に
答えるであろうかということであると定式化した後,エコロジズムと社会変革につい
て2つのことを指摘している。
彼はまず,この問題に関してこれまでほとんど真摯な考察がなされてこなかったこ
とをあげており,その理由として第1に,求められている変革が広範囲に亘るため,
環境上の破局が起らなければ,変革をもたらす政治的意思を生み出せないであろうと
24)例えば,安全な農産物を求める消費者の運動が,有機栽培を拡大していくことを想起せよ。
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いう確信が存在していること,第2に,より楽観主義的な評者のなかでは,破局が差
迫っているとの情報を流しさえすれば,社会変革を十分換起しうると思い込む傾向が
拡大していることを提示している。
つぎにドブソンは,大きな意義をもつ環境の改善が議会政党や圧力団体の活動によ
ってもたらされる可能性があるとしても,議会内の活動と議会外の活動とを区別して
議論を組み立てる必要があることをあげている。そして彼は,もっぱら議会内の活動
だけに焦点を合わせるならば,その緑の運動には環境主義を越えるラディカルな企図
は何もないといわざるを得ないと述べている。
したがって,第4章では「立法府を通じた行動,ないしは,立法府をめぐる活動」
について論じられた後,その他の活動形態(議会外の活動)としてライフスタイル,
コミュニティ,直接行動,そして階級という4つのテーマが取り上げられている。こゝ
では,ドブソンがこの議会外の活動について述べていることを要約するとともに,そ
れによってはたして彼のいう緑の永続可能な社会の構築が実現するのかどうかをみて
おこう。
2)ライフスタイルの変革
ラディカルな緑派の議会外の活動として,ドブソンはまずライフスタイルの変革に
言及する。彼は意識の変革と行為における変革とは相互補完的であると強調しつゝ,
ライフスタイルの変革の典型的な例として購入するものに注意する,発言に注意する,
投資先に注意する,他者の扱い方に注意する,使用する交通手段に注意する,等々を
あげている。
このライフスタイル戦略の肯定面について,ドブソンは「かなりの人々が最終的に
は,より健全で,より環境にやさしい生活を送るようになること」25) と指摘している。
しかし,その否定面として彼は,「周りの世界が従来通りに,つまり,緑ではなく,
永続可能でなく……進んでいくこと」26) をあげており,その理由として現実には多数
の人々を説得して,十全な環境保全を行なう永続可能な生活に導いていけるか大いに
疑問であること,またこのような変化を求める提案の多くが,問題を社会的にではな
く個人的に解決しようとする結果,永続可能な社会の構築に向って前進し得ないこと
を指摘している。
ところで,ドブソンはライフスタイル戦略の否定面を消費者戦略と呼ぶとすれば,
25)前掲『緑の政治思想』196ページ。
26)前掲『緑の政治思想』196ページ。
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それはつぎの3つの性格をもっているという。すなわち第1に,消費者戦略はラディ
カルな緑派のような生産と消費のスタイルの根本的変革ではなく,消費社会に生きて
いる人々により少なく消費させることしか考えていないことである。また第2に,
「そもそも支出するだけの金をもっていないために,こうした権力行使から排除され
てしまう大量の人々が存在している」27) ことである。さらに第3に,消費者戦略はあ
まりに物質主義的であるために,ラディカルな緑派が目標とする「自発的簡素さ」へ
私たちを導いてくれそうにないということである。
以上のようにライフスタイル戦略は,基本的には「個人の習慣上の変化が長期的に
は社会変革に通じていくとする戦略」28) であるが,それには政治権力の問題と,抵抗
の問題が考慮されていないとドブソンはいう。すなわち,彼はラディカルな緑派が
「生態系中心主義的な社会」を実現しようとすれば,それに真向から反対している諸
勢力が,既存の生産と消費の衰退を安々と受け入れるとは考えられないと述べている
のである。
3)コミュニティの戦略
さて,ライフスタイル戦略が個人主義に依拠している以上,ラディカルな緑派はそ
れではなく多くの永続可能な社会像の中心となっている共同体主義に行き着かざるを
得ないとドブソンはいう。この点について,彼はロビン・エッカースレーの『環境主
義と政治理論』(1992年)から「もっとも革命的な構造は,自助とコミュニティの責
任と自由な活動の展開を促進する構造であると思われるし,それはまた,地域と共同
体(コミューン)とのゆるやかな連合体という生態系中心主義的なユートピアの理想
(ecotopian ideal)とも調和している」29) という文章を引用しつゝ,コミュニティの
戦略の大いなる重要性を指摘している。
そして,生態系に適したライフスタイルを周知させるようなコミュニティというこ
とでドブソンがあげているのは,地方の自給自足的な農場,都市農園,いくつかのワ
ーカーズ・コレクティブ(労働者生産協同組合),ヨーロッパの都市にみられるある
種の不法住宅占拠であり,英国ではウェールズのマハンレースにあるオルターナティ
ブ・テクノロジー・センター(CAT)やスコットランドのファインドホーン・コミ
ュニティである。
但し,こうしたコミュニティは既存の文化の外側で,それに敵対して存在すること
27)前掲『緑の政治思想』198ページ。
28)前掲『緑の政治思想』198ページ。
29)前掲『緑の政治思想』204ページ。
環境保全と自治社会の形成
21
は確かであるとしても,その敵対性が容易に無力化するばかりか,「それが敵対して
・・・
いるもののまさにその存続とその再生産に不可欠のものに変わりはててしまう」30)(強
調はドブソン)とドブソンはいう。事実,彼はこれらコミュニティの構成員の多くは,
社会変革の前衛をコミュニティが形成するとみることには悲観的であるようである31)
と示唆している。
それでは,どのような道をとれば変革のためのコミュニティ戦略を実現しうるとド
・・
ブソンは考えているであろうか。この点について彼は,「迂回こそが緑の運動にとっ
てもう一つの前進の道となるであろう」32)(強調はドブソン)と述べた後,その最近の
興味深い実践として「地域貨幣」(日本ではふつう「地域通貨」と呼ばれる)といわ
れるシステムを構築することをあげている。すなわち,この地域的な貨幣システムは
通貨管理をコミュニティに委ねるばかりでなく,遊休している技術と資源を経済循環
に送り返すという形で変革のためのコミュニティ戦略の実現に貢献するというのであ
る。
地域通貨の実践例としてドブソンがあげられているのは,まず1929年から34年まで
行なわれたオーストリアのワーグル町のそれであり,世界大恐慌が同国をも襲い失業
者が激増していた時期に,この町とその地域全体が,地域通貨の活用によって3カ月
で貧困から脱出し,1年足らずで好況に達したという事例である。彼は,これはオー
ストリアの200人の市長が一堂に会し,ワーグルの例に做おうと決議したにも拘らず,
オーストリア国立銀行がその法的無効性を主張して訴訟を起こし,結局勝訴したこと
によって終結したと総括している。
つぎに,今日の地域通貨の事例としてドブソンがあげているのは地域雇用・取引シ
ステム33)である。彼は LETS の先駆例としてカナダのバンクーバーにあるコートニー
町で1983年から89年まで実施されたものを取り上げており,そのシステムはG・ダウ
ンシーの『崩壊の後に』(1988年)によれば以下の通りである。
「地域で生活し,互いに取引をしたいと望む多くの人々が集まり,LETシステム
の規則に同意し,口座番号をもつことにする。それから,各人は,(通常の市場価格
に従って)価格をつけた,『欲しいもの』のリストと,『提供したいもの』のリストの
30)前掲『緑の政治思想』209ページ。
31)この点についてドブソンは,ディヴィッド・ペッパーの『環境主義の起源』(1984年)からつ
ぎの文章を引用している。すなわち,「我々のインタビュー相手の10人中6人以上の人が,我々
を緑の社会へ導いていくという点では,コミューンは重要ではないし,存続のための青写真の
枢要な部分を構成しはしないと考えていた」。
32)前掲『緑の政治思想』209ページ。
33)英語で Local Employment and Trade System, 略して LETS と呼ばれる。
22
大阪経大論集
第54巻第5号
二つのリストを作り上げる。全員のを合わせたリストが作成され,全員に回覧される。
その後,会員はこのリストを調べ,自分が欲しいものをもっている人に,それが誰で
あれ,電話し,そこで取引が始まる。……一対一の物々交換の限界は除去されている。
というのも,ここでは,システム全体の人々と取引できるから,物々交換が,今や,
集団事業になったのだ」34)。
最後にドブソンは,LETS が永続可能な社会の分権化された共同体主義を先取りす
るものと規定した上で,それを以下で論じられる変革を可能にする担い手のための部
分的戦略と位置づけている。しかしこの点についての彼の論議に立ち入ることは,こゝ
では省略することにしよう。
4)直接行動と階級
ドブソンは本書の第4章において直接行動について,環境悪化と抗議者たちがみな
すものを差し止めようとするそれが,最近の特徴的な政治的現象となっていると述べ
ている。すなわち,活動家たちは地元の国会議員へのロビイングや主要な圧力団体へ
の参加よりも,次第に直接行動による反対の道を選ぶようになってきているというの
である。彼が例としてとりあげているのは,道路建設計画に対して問題となっている
場での継続的な座り込みや,土建業者が作業に着手しようとする際の彼らに対する非
暴力的な抗議などである。
しかしながら,直接行動の有効性を判断するのはむづかしいとドブソンはいう。例
えば道路建設反対運動は道路建設計画を白日のもとにさらすとともに,そのスケジュ
ールを若干遅らせることを可能にしたが,道路は結局出来上ってしまったのであり,
遅延そのものも反対運動のみによってもたらされたとはいい難いと彼は述べているの
である。
直接行動に以上のような限界があるといった後,ドブソンは階級に論点を移す。ま
ず彼は,緑派が「意識改革」だけでラディカルな変革を引き起こすには十分であるか
のように述べることが時としてあると指摘し,それは正しくないという。すなわち,
ドブソンはペッパーの『近代環境主義の起源』(1984年)から「変革は,教育的な変
革と同時におこなわれる,社会の物質的土台における改革を追求することによって実
行されるにちがいない」35) という文言を引用しつゝ,全くその通りであるが,どうや
ってだろうかと述べている。
34)前掲『緑の政治思想』211∼212ページ。
35)前掲『緑の政治思想』217ページ。
環境保全と自治社会の形成
23
そして,この問題に対する解答は,「社会変革を引き起こすのに最適の位置を占め
るのは誰か」36)(強調はドブソン)という問を発することによって与えられるとドブソ
ンはいう。彼は緑の政治理論の中心的な特徴は,この問題をいつも不問に付してきた
こと,つまり解答は「誰も」であったことをあげ,このような普遍主義的アピールは,
運動の基本的な政治戦略上の誤りになるかもしれないと指摘している。
それでは,ドブソンは社会変革の推進のための担い手は誰であるといっているであ
ろうか。彼はさきの「コミュニティの戦略」のところであげられているような,永続
可能なコミュニティですでに生活している人々が他の大多数の人々を領導すると考え
ることは,現時点では困難であると述べた上で,これに関連して,カールマルクスが
19世紀初頭にユートピア社会主義者に対して行なった批判に目を向けている。
ドブソンはマルクスの『共産党宣言』(1848年)から注37) に掲げた文章を引用し
た後,それは第1に,あらゆる階級が社会主義の先導役となると期待することは不可
能であるという批判であり,第2に「小さな実験」と「事例の力」を通じての変革と
・・
いうユートピア社会主義の戦略は,「人々が現に生活し,労働している条件を変化さ
・・
せることなく,人々を変革しようとする,根拠のない試み」38)(強調はドブソン)であ
るという批判であったと指摘している。
進んでドブソンは,これら2つの批判はいずれも現代の緑の運動にも当てはまる39)
とした上で,マルクスが『ヘーゲル法哲学批判によせて』(1844年)のなかでユート
ピア社会主義者の誤った普遍主義的アピールに対して行った解答は,「(正しい歴史的
な条件が整えば)その機軸的な利害を当該社会の変革に置く,社会のなかの一階級の
固定とその形成を推奨すること」40) であったと述べている。
そして彼は,マルクスはその階級(いうまでもなくプロレタリアート)の基本的特
36)前掲『緑の政治思想』217ページ。
37) 共産党宣言』のなかの該当箇所は,「彼らは,社会内のすべての成員の条件を,そして,その
もっとも恵まれた人々の条件でさえ,改善したいと望んでいる。したがって,彼らは,常習的
に,社会総体に,階級の区別を設けることなく訴えている。否,好んで,支配階級に訴えかけ
ている。なぜならば,ひとたび人々が自らのシステムを理解するならば,そのなかに最善の社
会状態を可能にする最適の計画をみてとれない人がいるはずがないからである。そこで,彼ら
はあらゆる政治的な行為,とりわけ革命的な行為を拒絶する。彼らは,その目標を平和的な手
段で達成したいと欲し,失敗の運命が約束された小規模な実験や,事例の力によって,新しい
社会的な福音への道を開くよう努力したいと願っている」である。
38)前掲『緑の政治思想』221ページ。
39)ドブソンは,緑の運動としての実践の多くが「小さな実験」という性格をもっていることを指
摘している。
40)前掲『緑の政治思想』221ページ。
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大阪経大論集
第54巻第5号
徴としてつぎの3つをあげているとしている。すなわち,第1に「ラディカルな鎖」
をもっていること,第2にその解放が人類の一般的な解放を含むものになるだろうと
いうこと,第3に政治システムの「特殊な帰結」に単に反対するのではなく,その一
般的な「前提」に反対しなければならないこと,である。
さて,ドブソンはユートピア社会主義に対するマルクスの批判が,緑の運動にとっ
てもつ意味を明らかにしようとする。彼は緑のイデオローグたちは,社会変革の担い
手としての労働者階級という,マルクスが提起した政治の階級理論に嫌悪感を示して
いるものゝ,社会変革の担い手は誰かという一般的な課題について,マルクスと同様
に議論しているという。それは変革の扇動者としての中産階級という指摘と,フェミ
ニズム,平和運動,ゲイ運動などの「新しい社会運動」が中心的な役割を担う可能性
についての指摘であるといわれる。
この2つの指摘について検討した後,ドブソンが到達した結論は,「緑の運動がと
るべき戦略とは,社会から相対的に『解放』されているだけでなく,永続可能な生活
の確立に向かう傾向をすでに保有している,社会のなかの一集団をを同定し,これに
支援を与えることだ」41) ということである。そして,そこから彼は一般的なテーゼと
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
して,「消費過程からの距離とこうした孤絶の継続度こそが,社会のなかにすでに存
・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
在する集団の ,ラディカルな緑の社会変革を求める能力を現在では規定するのであ
・ 42)
る」 (強調はドブソン)を導き出している。
最後にドブソンは,そのような消費から周辺化される人々,すなわちアンドレ・ゴ
ルツのいう「脱産業プロレタリアート」43) が長期的には増加し階級を形成するとして
も,それはどのように行動することになるのかと問うている。そして,彼は一方であ
る種の革命的な政治主体を考えるとすれば,この階級はマルクス主義がこれまで直面
したのと同様の困難な問題44)に出会うであろうという。
他方で改良主義的戦略が選ばれるとすれば,つまりこの階級が圧力団体,ないしは
議会政党を通じて行動するとすれば,限りなく妥協を強いられたり,選挙に埋没して
しまう危険にさらされる等のディレンマが出現するとドブソンは指摘する。結局彼は,
地域貨幣計画によって緑のコミュニティを建設するといった戦略はすでに存在してい
41)前掲『緑の政治思想』229ページ。
42)前掲『緑の政治思想』231ページ。
43)ゴルツは脱産業プロレタリアートとして,失業者, 時折,雇用される人々,短期,ないし,パ
ート労働者をあげている。
44)そのような問題として,ドブソンは現在の政治システムの安定性,革命的組織の問題,そして
革命的な闘争の遂行をあげている。
環境保全と自治社会の形成
25
るが,「緑の階級行動についての考察はすべて,このような階級が現時点ではみえて
きていないという事実によって,有効性を持たないように思われる」45) と結論づけて
いるのである。
5)ドブソンの主張の意義と限界②
以上概観したドブソンの「緑の変革のための戦略」について,その評価を行なって
おこう。まず,彼がエコロジズムと社会変革ということで,緑派の運動がもっぱら議
会内の活動に局限されるとすれば,それは環境主義に堕してしまうといっているのは
文句なく正しい。
また,ドブソンが議会外の活動としてあげている4つの項目のうち「ライフスタイ
ルの変革」に関して,それは個人の消費行動の変化が長期的には社会変革をもたらす
という考え方であるが,そこには政治権力の問題と抵抗の問題(ラディカルな緑派が
提唱する生態系中心主義的な社会の実現に強く反対する勢力の存在)への対応が決定
的に欠けていると指摘しているのも適切である。
さらに,彼が4つの項目の第2の「コミュニティの戦略」について,ライフスタイ
ル戦略に上記のような難点があるとすれば,ラディカルな緑派は共同体主義に行き着
かざるを得ないとして,ワーカーズ・コレクティブなどをあげていることなど,及び
その共同体主義の局面の先取りとして地域通貨のシステムを作り上げることを主張し
ていることも首肯される。
そして,ドブソンは4つの項目の第3の「直接行動」について,その有効性を判断
するのはむづかしいと直接行動の限界を明らかにするとともに,第4の「階級」のと
ころでは,ペッパーによりながらラディカルな変革を引き起こすには,意識変革と同
時に社会の物質的土台における改革を追求しなければならないと述べているが,これ
らも妥当であると考えられる。
しかしながら,彼はその社会の物質的土台における改革とは何かを議論することな
く,直ちにこの改革の中心的担い手は誰かという問題に移ってしまう。いうまでもな
く現代社会の物質的土台は資本主義経済であり,それは株式会社制度にもとづく生産
や流通を根幹とする。したがって,その改革とは株式会社制度を別の制度に置き換え
ることをいみするが,ドブソンはその別の制度とは何なのかを問うていないのである。
株式会社制度に代わる別の制度は何かといえば,それは外ならぬ協同組合方式であ
ろう。周知のように株式会社は株主で組織された有限責任会社で,株主は株主総会で
45)前掲『緑の政治思想』239ページ。
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大阪経大論集
第54巻第5号
出資額に比例した議決権をもつとともに,それに応じた配当を会社の利潤から受取る
権利をもつのである。他方,協同組合でも出資して組合員になるものゝその額は小さ
く,組合総会における議決権は1人1票で平等であり,利用高にもとづいて利益配分
を行なうというのが普通である。
以上のように協同組合は誰でも加入し得,議決権は各人平等であり,したがって徹
底した草の根民主主義を実現するのにふさわしい組織であるといえよう。また協同組
合は株式会社のように利潤追求を目的とする組織ではないから,環境保全にも十分留
意した活動ができるのではないだろうか。
もちろん,現に私たちの前に存在する協同組合,例えば日本の生活協同組合や農業
協同組合は,少なからず株式会社と同様の利益追求に走ったり,官僚制化したりして
いる。これは,それらの協同組合が資本主義経済という大海のなかで生産過程を把握
し得ないまゝに,株式会社に囲まれて存在することから来る歪みといってよいが,協
同組合原則46)そのものが正しくないというわけではない。
結局,ドブソンは明らかにしていないが社会の物質的土台における改革の追求とい
うことで,筆者なりに表現すれば現在の株式会社を根幹とする資本主義経済を,協同
組合方式にもとづく協議経済=自治社会へ転換することをいみするといえるであろう。
そうするとつぎの問題は,彼がマルクス主義における改革主体を引き合いに出しなが
ら議論している,この改革の中心的担い手は誰かということである。
さきにみたように,ドブソンはラディカルな緑の社会変革の中心的担い手として,
永続的なコミュニティですでに生活している人々を考えているようであるが,彼らが
他の大多数の人々を導いて変革がなしとげられると想定することは,現時点では困難
であるという。たしかに彼は,社会から相対的に解放されているとともに,永続可能
な生活の確立に向かう傾向をもっている一集団を固定し,これに支援を与えることの
重要性を指摘しているものゝ,そのような階級が今はまだみえてきていないと結論し
ているのである。
しかしながら,ラディカルな緑の社会変革をその内に含む,資本主義経済の協議経
済=自治社会への転換の中心的担い手は,ワーカーズ・コレクティブをはじめとする
生態系中心主義に立脚するコミュニティの構成員以外にはありえないであろう。彼ら
がいまだ階級形成されていないとしても,このようなコミュニティの拡大とその支援
の強化,そしてそれらの連合を通じて階級を形成し,平和運動,フェミニズムなど他
46)国際協同組合連合(ICU)は,協同組合原則として①自発的で開かれた組合員制度,②組合
員による民主的管理, ③組合員の経済的参加,④自治と自立,⑤教育・訓練・広報の重視,
⑥協同組合間協同の促進,⑦コミュニティへの関与,の7つを掲げている。
環境保全と自治社会の形成
27
の「新しい社会運動」と連携して権力奪取に向かうコースを考える必要性と必然性が
あるのではなかろうかというのが筆者の見解である。
4.エコロジストの社会主義者及びフェミニストとの対話
ドブソンは本書の第5章「エコロジズム,社会主義,フェミニズム」において,
「社会主義とエコロジー」,「組織」そして「エコフェミニズム」の3つの節を設けて,
エコロジストの社会主義者及びフェミニストとの対話を跡づけている。こゝではそれ
らを要約しつゝ,彼の立場を明らかにすることにしよう。
1)エコロジストの社会主義者との対話
ドブソンはまず,社会主義者が行なっているエコロジストへの批判を取り上げてい
る。その第1は,エコロジストが環境破壊は資本主義と社会主義に共通する「産業主
義」に起因すると主張することによって,資本主義と環境破壊との関係の独自性とい
う問題を軽視し勝ちであるということである。
第2に,そのこととの関連で彼は,エコロジストは「環境」という用語をあまりに
も狭い意味で使用していると社会主義者は論じているという。すなわち,貧困の問題
や都市環境をも視野に入れた環境概念を樹立すべきだと彼らはいっていると述べてい
るのである。第3に,ドブソンは社会主義者が緑派の分権主義的プログラム,いわゆ
るコミュニティの戦略にも批判的であり,中央集権的な政治構造が必要であると力説
していると指摘している。
以上のような社会主義者の批判に対してエコロジストはさまざまに答えているが,
その1人であるドブソンの場合はどうであろうか。彼は第1の批判についてはこれを
基本的に認め,「産業主義の資本主義的形態」との対決を極めて重要視している。但
し,前章の「ドブソンの主張の意義と限界②」でみたように,その具体的内容は必ず
しも明らかではない。
つぎに,第2の批判に関して彼は,生態系中心主義的な考え方から,人間環境概念
とははっきりと区別された自然環境概念の使用の有効性を提唱し,社会主義者の批判
に反批判を加えている。さらに,ドブソンは第3の批判について,緑派の人々は,
「より低いレベルでなしうる決定は,より高いレベルでは下すべきではないという彼
らの公準によって提供される枠組みの内部でも,これらの点(中央集権的な決定の必
要……筆者注)を受け入れることは完全に可能である」47) と述べている。
47)前掲『緑の政治思想』258∼9 ページ。
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大阪経大論集
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結局彼は,以上のような社会主義者のエコロジスト批判はエコロジズムの理論的精
緻化に大いに役立つとともに,社会主義者の方もこの対話によって理論的修正を迫ら
れているとまとめている。そして,ドブソンは社会主義者が緑派を自称し得るために
は,彼らが「成長の限界」テーゼを本当に受け入れるかどうかにかゝっているという。
もし,社会主義者がそれを受け入れるとすれば,社会主義の理論内容に2つの大き
な修正,すなわちユートピア社会主義や無政府主義といった分権的社会主義の再評価
というそれと,社会変革の中心的担い手がプロレタリアートからエコロジズムなど
「新しい社会運動」へ移行するという修正が生じるであろうというのが,この件に関
するドブソンの結論である。
2)エコロジストとフェミニストとの対話
つぎにドブソンは,フェミニストエコロジストとの対話に目を向けるが,それは社
会主義者とエコロジストとの対話と異なって,フェミニスト内部での論争を引き起し
ただけであるとみているようである。筆者はこゝでの標題を「エコロジストとフェミ
ニストとの対話」としたが,それは必ずしも適切ではないといわなければならない。
そうした留保の上で,彼のエコフェミニズム論をみると,それは「差異的エコフェ
ミニズム」を議論の中枢にすえるとゝもに,これに対する批判として「脱構築的エコ
フェミニズム」を提示するという形をとっている。といっても,ドブソンは両者いず
れにも否定的評価を与えているのであるが。
彼によれば,「差異的エコフェミニズム」は第1に,それが「男性よりも女性によ
って根本的に保有,ないし表示されているという意味で,主として女性的であるよう
な価値観と行動様式が存在する」48) と論じているという。そして第2に,「差異的エ
コフェミニズム」は「自然の支配は女性の支配と関係しており,そして,支配の構造
と支配の理由づけとは,どちらのケースでも同じだ」49) と考えているとドブソンは述
べている。さらに第3に,それは「女性は男性よりも自然に近い存在であり,それゆ
え,環境との永続可能なかかわり方を発展させていくことに関する限り,女性は潜在
的に,その前衛となっていく」50) という考えをもっていると彼はいう。
他方,「脱構築的エコフェミニズム」は,自然の支配と女性の支配はいずれも男性
による支配によってもたらされるとみるエコフェミニズムの立場に立つものゝ,「女
性的なるもの」と「男性的なるもの」との間には差異があるという「差異的エコフェ
48)前掲『緑の政治思想』271∼2 ページ。
49)前掲『緑の政治思想』272ページ。
50)前掲『緑の政治思想』272ページ。
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ミニズム」の二元論的な思考を拒否し,人間と自然とを連続したものと認識しなけれ
ばならないと論じているとドブソンは述べている。
結論として彼は,「差異的エコフェミニズム」の二元論的な思考は女性にとって
「危険な戦略」となり,男性に対する女性の従属をさらに強める可能性があること,
また「脱構築的エコフェミニズム」の生態系中心主義的な合理性の擁護は何を意味す
るか伴然としないことを指摘して,本書の第5章をしめくゝっている。
む
す
び
以上,ドブソンの『緑の政治思想』を素材として,彼が唱導するエコロジズムと社
会変革の理論をみてきた。ドブソンはまず,現在の諸価値,または生産と消費のパタ
ーンを根本的に変えなくとも,環境問題は解決できると信じる環境主義と,私たちと
人間以外の自然界との関係や,私たちの社会的,政治的生活様式のラディカルな変革
があってはじめて永続的な社会を招来し得ると考えているエコロジズムを明確に区別
する。
つぎに彼は,エコロジストが目指しているのは私たちの社会が永続性を獲得し,希
望に満ちた未来を築くことであり,その根底には地球は有限であり,資源は希少であ
るので,産業の成長には限界が画されるべきであるという信念があるという。すなわ
ち,エコロジストは「成長の限界」テーゼを受け入れなければならないというのであ
る。そしてドブソンは,そのような永続可能な社会を実現するための政治制度として,
オリョーダンが「アナーキスト的解決」と呼んでいる,平等主義的かつ参加主義的な
自己依存コミュニティを考えているようである。
さて,十全な環境保全を行なうためには,彼のいうエコロジズムに立脚しなければ
ならず,それには私たちと人間以外の自然界との関係や,私たちの社会的,政治的生
活様式のラディカルな変革が伴なうものであることはドブソンのいうとおりである。
このラディカルな変革を,彼は明言していないが資本主義体制の変革といって差支え
ないであろう。但し,ドブソンは資本主義経済の協議経済への転換を正面から取り上
げていないのであるが。
この点について筆者は,4の「ドブソンの主張の意義と限界②」で論じたが,その
要点は,彼も肯定しているようにラディカルな変革を引き起こすには,意識変革と同
時に物質的土台における改革を追求しなければならないということであった。すなわ
ち,現代社会の物質的土台は資本主義経済であり,それは株式会社制度にもとづく生
産や流通を根幹とする。したがって,その改革とは株式会社制度を協同組合方式に置
き換えること,資本主義経済を協議経済=自治社会に転換することをいみするであろ
30
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第54巻第5号
うということであった。
その場合,この改革の中心的担い手は誰かということが問われなければならないが,
それはもはやプロレタリアートではなく,ワーカーズ・コレクティブをはじめとする
生態系中心主義に立脚するコミュニティの構成員以外にはありえないというのが筆者
の考えである。確かに,彼らがいまだ階級形成されていないとしても,このようなコ
ミュニティの拡大とその支援の強化,そして,それらの連合を通じて階級を形成し,
平和運動,フェミニズムなど他の「新しい社会運動」と提携して権力奪取に向かうコ
ースを想定する必要性と必然性があるのではなかろうか。
ところで,筆者はいま株式会社制度を協同組合方式に置き換えること,すなわち資
本主義経済を協議経済=自治社会に転換する必要性と必然性があると指摘したが,最
後に,外ならぬ十全な環境保全を行なうためにそのことが強く求められている点に,
主として日本を例にしながらふれることにしよう。
日本で株式企業と環境問題といえば,何といっても1960年代後半から70年代前半に
かけて株式企業が巻き起こした公害の激化をあげなければならない。いうまでもなく,
そこでは加害者は株式企業であり,被害者は地域住民であるという構図がはっきりし
ていたが,1970年代に入るまでは前者は公害防止投資をほとんど行なっていなかった。
そのため,公害病患者が多発したばかりでなく,被害者からの責任追求に対して株式
企業が居直るという事態さえ生じたのである。
そのようになったのは,株式会社が営利活動を行なう組織であり,短期的には生産
量をふやしたり,生産力をあげたりして利潤を増加させるのに無関係な投資,例えば
公害防止投資などはできるだけ避けようとするからであるといえるであろう。そこに
は,利潤追求を行なう資本の論理が見事に貫徹していたのである。
もちろん,1960年代後半から70年代前半にかけての公害の激化に直面して,株式企
業が公害防止投資を大幅に増加させ,公害の沈静化に努めたのも事実である。但し,
そのことは公害反対の世論と運動の前進,これに押された政府の厳しい環境基準設定
など環境政策の展開,そして公害裁判における原告(被害住民)側の相次ぐ勝訴のな
かで,多分に株式企業に強いられたものであり,自ら選びとったものではなかったと
いわなければならない。
このような株式企業の態度は,地球環境危機が叫ばれ,とくに地球温暖化問題がク
ロース・アップしている今日,どのように変化しているであろうか。確かに,公害が
激化した時期から30年を経て,株式企業も環境保全に積極的に取り組んでいるように
みえる。例えば,あくまでも営利活動であるが環境ビジネスが産業として一定の地歩
を占めるようになり,またごく一部の株式企業に限られるとはいえゼロ・エミッショ
環境保全と自治社会の形成
31
ン(廃棄物ゼロ)の実現を試み,国際標準化機構から環境関係の認証(ISO14,
001シリーズ)を得たりしている。
けれども,後述するように最も重要な地球温暖化の抑制に,株式企業が真しに取り
組んでいるようには思えない。周知のように,1997年12月に京都で開催された気候変
動枠組み条約第3回締約国会議(COP3)では議定書が採択され,その附属書I締
約国(西側先進国と旧ソ連・東欧諸国の40ヵ国と欧州共同体)全体で,二酸化炭素
CO2 等6種類の温室効果ガスを,2008年から2012年までの5年間に1990年比で5.2%
削減することになった。日本は6%の削減であるが,温室効果ガス排出量の90%余を
占める CO2 でみると2000年にすでに1990年比で約10%増加しており,数値目標の達
成が困難な事態に追い込まれている。
もちろん京都議定書締結後,日本政府は直ちに「地球温暖化対策推進本部」を設置
し,1998年6月には「地球温暖化対策推進大綱」を決定しているし,同じ98年10月に
は「エネルギーの使用の合理化に関する法律」の改正と「地球温暖化対策の推進に関
する法律」の制定を行なっている。しかし,日本政府の「6%削減策」は,国内削減
よりも森林吸収源や排出量取引などいわゆる京都メカニズムに依存して数値目標を達
成しようとするものであり,国内削減としては実施不可能な「原発20基増設」や産業
界の自主計画に委ねるものでしかなかった。
日本では現在,各種の企業活動による CO2 排出は全体の約80%を占めるが,産業
部門別では事務所や店舗,運輸業が CO2 排出の大幅増加,製造業・建設業は企業に
よって増減にばらつきがあるという傾向にある。そして,産業部門全体で2010年まで
にどれだけ CO2 排出を削減できるかについて,経済団体連合会(経団連)はせいぜ
い0%としている(政府7%,環境NGO15∼20%)。産業界も CO2 排出削減のため
種々の取り組みができるにも拘らず,自主計画に逃げ込んで真剣な努力をしようとし
ていないのである。
また,CO2 の排出削減に効果的な刺激を与えると思われる環境税(炭素税)の導
入についても,政府部内での検討は進んでいるものの,産業界の反対や政府部内にお
ける経済産業省や国土交通省の抵抗によっていまだ実現していない。1990年代になっ
て,ヨーロッパ7ヵ国が炭素税等の導入にふみ切ったのとは誠に対照的である。
以上のように,CO2 の排出削減に関して産業界が自主計画に逃げ込み,また環境
税の導入に反対しているのは,温暖化抑制のためのさまざまな規制が,株式企業の営
利活動に障害となると判断しているからであろう。逆にいえば,地球温暖化対策を徹
底しようとすれば,株式企業の営利活動との衝突という事態を避けることができない
のである。
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大阪経大論集
第54巻第5号
確かに,日本とは異なってヨーロッパ7ヵ国(フィンランド,オランダ,スウェー
デン,ノルウェー,デンマーク,ドイツ,イタリア,イギリス)は1990年代に炭素税
を導入しており,また例えばオランダにおいては(他の諸国も大同小異),自主協定
となっているものゝ産業界は政府と十分な事前の協議・検討を経た計画を作成するし,
モニタリング制度の充実や行政当局の規制権限も存在する。これら7ヵ国の多くでは
社会民主党系の政権が成立しており,環境NGOも大きな力をもっていることがそれ
を可能ならしめているのであるが。
もちろん,日本や2001年3月に産業界の強い意向で京都議定書からの離脱を表明し
たアメリカをはじめ,ヨーロッパ諸国も今のところドブソンのいう環境主義に立脚し
ており,したがって私たちは,地球温暖化問題は解決できそうにないという悲観論に
落ち入り勝ちである。
しかし,1999年にシアトルで行なわれた世界貿易機関(WTO)閣僚会議を閉会に
追い込んだ大デモ以降,新自由主義的グローバル化によってひき起される経済的,社
会的,文化的そして環境的破壊に対抗する民衆の連合が形成されつゝある。それは
2001年にブラジルのポルト・アレグレで開催された世界社会フォーラムが,「もう1
つの世界は可能だ!」というスローガンを掲げたことに象徴されるが,そのような民
衆の連合がグローバル資本主義を「もう1つの世界」=自治社会に置き換えることに
よって,地球環境危機も打開されることになるに違いない。
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