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一¢00甲皐 部帥亜 - 奈良教育大学学術リポジトリ

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一¢00甲皐 部帥亜 - 奈良教育大学学術リポジトリ
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[∃ 次
巻頭言-一・一------・--・-・-・-・-・一一一-・-----・
特 袋 平林--柴先生退'1:1'記念
「田遇について」 -退官に臨んでの所感一一
For
the
Effec
-
ti
in
ve
Ma
the
thema
Age
tics
of
Education- 一 一・一一・
Popularized
Secondary
Education 一
数学教育の有効性のために・一・一--・・-・--・・・-・----・- for
the
Effec
tive
Mathema
tics
1
3
Education一
算数・数学教育における知的習mの形成・・・-・・-・-・-・- -
3 0
算数.数学教育における知的習慣の形成(続) -一一・・・一一・・一.
3 5
授業の「自然な文脈」 -ドラ マ、落語とのアナ ロ ジI - 一・一--
3 8
年譜-・-・----・---・---・-----・--・--・一・・一
4 2
思い出一一---------一一---一一・一一--∴・---
4 3
蝣n-松ォt r);M 涼 蝣c「蝣tvill! T- 神tf (I;圭 IN日付:仁
論 説
中学校における「課題学習」について -----重松敬一・・・
1 7
第数・数学教育関係雑誌情報・一一一・-一・・一一・一-西伸111日,1/...
5 7
数学をする者にと って・一一一一一一・---一・一一-馬屋原修一・
5 9
近況報告一時代の節目にあた って- ・---・-・一一-河上 哲・-
(i 0
1 9 8 年度 卒業・修士論文--・-・---・一一一・-・-一一・
6 1
編集後記・----・--一・一---・--------・・一一一・
8 7
寸.尖 ts>
飛火野編集長 西仲則博
会員のみなさまには、 ますますご槽栄の事と存じあげます。 この飛火野も創
刊以来第五号を発行するにいたり ま した。 この第5号はを、 「飛火野」に関す
る企画・編集が数学教室の教官と学生の手に行われる よ う になり ま した。 そ こ
で、教官と学生の問で飛火野のあ り方や、その方向性について度重なる議論を
しま した。 その過程で「今号(第5号)以降はできるだけ『学生の手で』発行
を続けていこ う」という意見の一致を得て、本号からは企画・編集を学生を中
心と して行う よ う にな り、発刊の運びとなり ま した。
こ こで企画・編集に関しま して少しばかしですがご報告申 し上げます。
まず、創刊号から も う一度読み返してみる こ と と、企画・編父にmわって こ
られた諸先輩方や先生方のお話をうかかがう こ とからはじめま した。
いろいろなお話をうかがう中で、創刊以来企画・編集・発行のすべての面を
こ なされてこ られた諸先輩方のご努力にたいして敬意の念を抱く よ う にな り ま
した。 それ故に今回「飛火野」の名に恥しないよ うな ものができ るか。 どうか
不安感を抱かずにいられませんで したo Lか し この号を平林一発先生の退官記
念号と して発刊するこ とを決め、 「飛火野を学生の手で」、 という基本姿勢の
も とに準備を進めま したO 編柴委員の中には、今までこのよ うな会誌の企画・
編集に携わったものはおらずー 五里霧中の中からでき あがったのが、 この第五
号「飛火野」です。
今号は も う ご承知の通り に平林一発先生の退官記念号であ り ます。 先生は後
生の数学教育の研究者・実践者の評価を待つこ となく、先生の数学数百に与え
られた影響は今日すでに大き く、多大な評価を受けられておられます。 このよ
う な先生が奈良教育大学の先生であったことを誇りに思う と同時に、御退官な
されるこ とは大変残念に思われます。
今回掲載しま した先生の論文は数学教育の発展のために、昭和6 0年度4 月
から行われていた奈良セ ミ ナーでの発表論文です。 こ の会での発表論文は他の
公の研究会の発表論文とは違っており、画家や作曲家が行う スケ ッ チに似て、
先生の日頃考え られている ことが自由に表現されています。
最後に第五号発刊にあたり、多大な御協力をねがえた諸先輩方、先生方に感
謝の念をこ こに表わすと と もに、今後と もご指導、御協力下さいますよう にお
願い申し上げます。
(奈良教育大学数学研究会会長)
-
1
-
「 出 遇 tLヽ `こ 一つ tJヽ て 」
- igw ksi/^ tゥァ?&
一退官に臨んての所感-
- "≠
丸、
平林一条 i
・ォ= -ォ ー"心一
〈それなのに、 この通り、 こ のあわれな愚か者は、以前と く らべていっ こ う
に利口になっておらぬ! ) (ゲーテ: †フ ァ ウ スト」、佐藤通次訳)
昔から、過去をふり返る ことは、余り好きではなかった。 しかし、 いよいよ
停年退官となる と、いやいやながらも、多少昔をふり返ってみなく てはな らな
いよ う に思われる。
私は、数学もやってきたが、やはり広い意味での教育研究という のが、生涯
の仕事であった。 教育という人間の営みの実態や成果は、 自分自身の受けた教
育を内省する と き、最も明確に認識されるよ う に思うo
すでに教育学者の中には、教育作用の重大な要因と して、 「出遇い」と く に、
師との「出遇い」とい う こ とを挙げている人があるそ うであるが、私も真実そ
のよ う思っている。
私には、 3人の生涯の師があっ たと思っている。それは柔道のS先生、数学
の 0先生、 そして数学教育のT先生である。 このうち、 T先生はご健在である
が、他のお二方は、すでに冥界の人である。
S先生は、中学校時代の柔道の先生で、少年の私にと っては、実に恐ろ しい
先生であ った。稽古を さぼる と、怒鳴られる どころか、時には二つ三つ ピ ンク
が飛んだ。 日曜・祭日はおろか、盆・正月でも、一日 も稽古を欠か したこ と は
なかった。私は、 この先生から、 はじめて生き る こ との厳し さを教え られたよ
う に思っ ている。
首を絞められて、気を失っても降参しない、関節をと られて骨がポキポキい
い出して も我慢する一全く、今日からみれば、 シゴ手 と もいわれる稽古であ っ
た。私には、 シゴ手と は生・死の境をみる こ とだと思われた。 今日は シゴ与は
かたく禁じられているが、それはシゴ手のでき る資格の持った先生がいな く な
っ たからであろ う。人間は、死をのそいてみて、 はじめて生き る こ との重大さ
が分かり、それを分からせる教師こそ、真に生涯の師である と思う。 S先生が、
私にと って、生涯の師のお一人と思われるのは、少年の私に、生き る こ と の重
大きを教えてく ださ ったからである。
数学の 0先生は、私とは人間的に、全 く のマの合わせのないお方だった。 は
っ き りいって、私はこの先生は大嫌いであった。そして結局、私はこの先生の
許から逃げだして、時にお会い しても口 も聞かない間柄にな ってし ま った。
しかし、それにも拘らず、私はこの先生から、基本的に重要なものを与えれ
たよ うに思う。 それは学問の厳し さ、 と く に数学の研究の厳しさ と いう ものあ
っ たかも知れない。
教育という ものは、実に微妙な過程である。根っから嫌いな先生、恐ろ し く
て近づけない先生から も、かけがえな く 貴重な ものを頂戴する こ とがある。 私
にと って、 0先生は、 そんな意味での大恩師であ ったO
-L 。 -
T先生は、私にと っては慈父のよ う な存在である。私は、長く この先生の助
手を勤めた。助手の私にと って、最も楽しかったのは、先生との雑談であった。
暇があれば、お茶をご一緒にしていただいて、 いろいろなお話をうかがい、私
もいろいろなこ とを遠慮な く 申 し上げ、 ほとんど時のたっのを忘れる とい う こ
と も、 しばしばであっ た。 この頃の話の内容をノ ート にと っておけばよかった
が、 残念ながらそれを しなかった。 ノ ートにと っておけば、 ひょ っ と した ら、
エ ッ ケルマ ンの「ゲー テとの対話」よ う なものになっていたから知れない。
一つだけ述べておこ う。
助手になった当初、先生にどんな本を読むべきかと、相談申し上げたこ とが
あ った。先生は即座に、本居宣長の「う ひみやまぷみ」を読めといわれた。当
時の私には、大してう ると ころはなかったよ う に思う。次に何を読みま し ょ う
かと申し上げた ら、今度は宮本武蔵の「五輪の書」を読めと言われる。 それは
私にはよ く 分か らなかったので、 どう もよ く 分かり ませんで した、 申 し上げる
と、 「そ うだろ う。人間には分かる こ と しか分からんのだ。 読める こ と しか読
めんのだ。 」
と言われたことは、今でも覚えているO この言葉は後々 まで私の教育観の基本
にな っ た。
私は、自分の数学教育の研究を、本居宣長から始めたこ とを、今でも誇ら し
く 思っている。数学教育を、単に「数学を教える こ と」と考えないで、広い意
味での人間教育の一環とみて数学教育を考える よ う になったのは、 いっも この
よ う に特異なご指導を賜った、 T先生の影響による ものだと思っている。
師との「出遇い」が、 いかに今日の自分の人間形成に大きな影響を与えてい
るかを思い起こすと き、教育における大きな要因 と しての「出遇い」の重要性
を、 しみ じみと痛感している。 そ して、逆に、 私自身が、師と して若い人々 と
出遇ってきて、彼らに何を与えたかと考える と、全く 恥ずかしい思いがする。
いま、退官を前に、心ならずも過去をふり返ってみると き、よき「出遇い」
を う けながら、 よ き「出遇い」を与えられないで来た、 あわれな自分をそ こに
発見するばかりである。 それどころか、長い過去をひきずり ながら、依然と し
て呆然と現在につ っ立っている愚かしい自分を意識する と、 いさ さかならず自
分に愛想がつき る。
ゲーテの「フ ァ ウスト」の第一部の冒頭のあたりで、老いた碩学のフ ァ ウ ス
トが、結局何も分かっていない自分を発見して、絶望の末にメ フ ィ ストに魂を
売る場面がある。 フ ァ ウ ストの足元にも寄れない私が、 自分をフ ァ ウ スト にな
ぞらえる こ とは、全く オ コ の沙汰であるが、その慨き はどう も他人ごとでな く
思われる。
退職に当り、家内に一句を示した。
「もう少し、歩いてみよ う花の道 -柴」
家内日く、 「余りにもなさけない。もっ と元気を出しなさい。.」 そこで次の
句に変えた。
「これからが、花の見所花の旅 一乗」
家内は、 「それならマアマア」と言った。メ フ ィ ストに魂を売ろうまでは思わ
ないが、 これから も年を忘れて人生を楽しも う と思っている。
(平成元年 3 月 9 日)
一 3
4頁~12頁
未掲載
数学教育の有効性のために
平 林 - 栄
(奈良教育大学数学教室)
(昭和61年4月25日受理)
For the Effective Mathematics Education
Ichiei HIRABAYASHI
(Department of Mathematics, Nara University of Education, Nara 630, Japan)
(Received April 25, 1986)
Abstract
Whv the mathematics education in this country is not so e斤ective, and how we can have
a
good
effect
without
a
radical
change
of
the
present
curriculum・・・-
these
are
the
main
themes of this paper.
In
the
former
part
of
this
paper,
the
auther
deも,elops
his
considerations
on
reasons
of
this ∼/eakness of e汀ect from two directions: first through the comparison with the worldwide trend of mathmatics education and next from the historical re爪ection on the nature of
mathematics education of this country.
From the first consideration, it is concluded that todavs defect of mathematics education originates in the lack of "society-perspective' in the curriculum designe and the
integrated approach to the organization of mathematics education as is proposed in the
program of TME. From the second, it is argued that the present deffective situation
comes from the irrelevant curriculum which should be called "scholastic". It had applied
to the few intelligent elites in the former time but it is now compeled to all pupils without
any attention to the great historical discrepancy of ideals between primary and secondary
education.
To recover the effectiveness, we may need almost revolutional change of curriculum,
but the auther insists that we should prefer to make steady efforts which are promising to
brin? actua一 e仔ects even under this situation, and the description of these efforts is the
pourpose of the later half of this paper.
For this pourpose, the discussion begins with the re月ection on what is the real residue of mathematics education in schools. In case of common people, it is not denyed that
they rapidly forget almost all of mathematics that they have learnt in schools soon after
leaving there, especially baddly in phase of knowedges and skills. Most mathematics
teachers believe that something acquired through this education could permanently survive
through their lives; the auther himself would like to think so and he argues that, in case
of common people, the real residue of mathematics education would be the formation of
;ood ways of thinking, attitude and habit in their thinking and behavior, rather than the
mere retention of mathematical knowledges and skills.
Bearing
these
view-points
in
mild,
several
possib一e
efforts
to
bring
a
really
of mathematics education are suggested in the丘nal section of this paper.
-13-
good
effect
平 林 - 栄
1.緒 口
今日,わが国の数学教育の研究は,末曽首の華やかさをもって屡開されているといっても,過
言ではない.しかし,それに応ずる実際的成果が挙がっているかといえば,甚だ心もとない気が
する.いわV3)る算数嫌い,そして落ちこぼれは,依然としてあとを断たないのみか,それが,や
がては非行につながる原田の一つにもなっていることは,決して否定できない.ひょっとしたら,
数学教育は数学を硬いにさせるためにあるのではないか,と思われるのが,最近の状況である.
ところが,文部省の学力調査や国贋的な数学教育調査をみても,わが国の数学教育の成果は,
世界的にもひけをとらないようにみえる.たしかに,いろいろな面で欠陥もあるが,とりわけ知
識・技能の面では,わが国の数学教育は,文字通り世界に冠たる成果を挙げているようにみえる.
しかし,ここで最も注意すべきことは,これらの調査は,いわば学校内での謁査であり,学校で
の成果が,どれほど社会のなかに生きているかの調査ではない,ということである.
実際,教育の成果というものは,遠い屡望に立って考察されなければならない.学校での頁の
教育成果は,学校を離れて社会人となってから測定されるべきものであって,学校のなかで,学
習のほとんど直後に測定されたような成果は,たとえすぐれたものであっても,教育効果として
は,むしろ皮層的なものと言わねばならない.
この点で,わが国の数学教育の成果は,きわめて心もとない限りである.社会人における学力
調査は,種々の事情でほとんど実施できないことであるが,筆者がひそかに推定するところでは
一般社会人の数学的学力は,知識・技能面だけに限定すれば,平均して小学校4年生程度ではな
いかと思われる.中学以上の数学の知認・技能は,大多数の人々には,ほとんど身につかないと
思われるのが,現状であろう.
たしかに,知識・技能の面ではそうであろうが,数学教育の効果は,それ以上の面で一般社会
人の内に還しく生きている-と主張する数学教師もあろうし,筆者自身もそう信じたい.しか
し,その実証は,単純な学力讃盃とはちがって,きわめて丑しい.それどころか,普段の学校の
算数・数学の授業のなかで,知識・技能以上に,どんな部分が子どもたちの将来の生活の中-残
存しうるかをみきわめることも,かなり難しい.
こうした,今日の数学教育の状況は,単に拾導技術の工夫や改善だけでは,もはやどうにもな
らないものと考えざるをえない.実際,わが国の数学教育の研究は,指導法の研究だけに偏りす
ぎていると思われるほどであるが,それでいて翼状はいっこうに好転の兆しをみせていない.お
そらく,現状の改善には,わが国の数学教育の体質そのものの,もっと根源的な反省を必要とす
るのであろう.
このために,本稿はその前半で,わが国の数学教育がなぜ有効でないか-という問題をまず
反省してみたい.そして,それは,わが国の数学教育の体質そのものの欠陥に起因していること
を,二つの方向から指摘したい.一つは,数学教育の世界的な研究動向に照して,もう一つは,
わが国の学校教育理念の歴史的反省に基いてである.勿論,これらの欠陥は,それほど容易に克
服しうるものではない.しかしながら,これらの欠陥を充分承知したうえで,敢えて現状におい
て可能な努力を示唆しようというのが,本稿の仕事である.
数学教育の有効性のために
2.数学教育研究の世界的動向
一昨年(1984),オーストラリアのアデレード市における第5回数学教育国際会議(ICME
V)のあと,西ドイツのピーレフェルト大学のシュタイナー(Steiner, H.-G.)教授のきもい
りで, 「数学教育理論に閏する国際研究グループ(略称TME)」が結成された.そして,昨年
(1985) 7月,その第2回目の会合が,ピーレフェルト大学で開催された.筆者はこれに参加し
TMEのきわめて広汎な研究プログラムを知るとともに,それに較べて,わが国の数学教育研究
の短少性を,いまさらのように痛切に意識させられた.
シュタイナ-教授によれば, TMEのプログラムは,次のような,相互に関連した三つの要素
から成立っている日.
A.学問としての数学教育の方向・基礎・方法論の基本的な問題を同定し,洗練すること.
B.数学教育を,研究・矧謂・実践を包括する相互関連的体系とみて,その全体-の総合的近
接方法を開発することL.
C.数学教育に関する自己照合(selトreference)とメタ研究.これは,国家的・地域的に,
かなりの差異があるが,それを尊重しながらも,とくにこの学問の技術・状況・問題・要求
の事情について,情報と資料を提供丁るものである.
このTMEのプログラムは,今後の数学教育の研究の世界的動向に,大きい影響を及ぼすも
のと思われ,3.その研究構想の基盤は,きわめて広汎であり,総合的であり,とりわけ,数学教
育を支配する要因として, 「社会」の存在を明確に意識し,社会科学的研究手段をもとりこもう
としているところは,これまてのわが国には,あまりみられなかったことである.
すべての教科教育がそうであろうが,数学教育でも,三つの独立な要寓が考噂されるべきであ
る.それは, 「教科内容(数学)」, 「子ども」, 「社会」である.この他に, 「教師」という要因も
加えられるべきであろうが,これは,これらの三要因のいずれにも直接関連するという意味にお
いて,ここては従属的なものとして,考察の範Eflから除いておこう.
本来,数学教育は,教科の中ても最も国際的であり,すでに今世紀初頭から,数学教育研究:=
関する国際的な機構が準備されていた.すなわち. 1908年,ロ-マにおける第4回国際数学者
会議の操,ドイツのクライン(Klein, F.)の提唱によって結成された,国際数学教育委員会
(ICMI)がそれである.そして第二次大戦後,前述の国際会議ICMEを主催するのは,この
ICM工である.
しかしながら, ICMIは数学者の団体であり,その主要な関心は,前述の三要因のうち, 「数
学」におかれていることは,当然の,=とかも知れない.そして,これに対して, 「子ども」とい
う要鼠に第一義的な関心をもって数学教育の研究を企画しようという動きが覚れても不思議では
ない.事実, 1967年,西ドイツのカールスルー工における第2回ICMEにおいて,寛在はイス
ラエルのテル・了ビブ大学におられるフィッシュパイン rFischbein,E.)教授の提唱によって
浩成された, 「数学教育心理学に対する国m研究グループ(略称PME)」がそれである. PME
創設の趣旨は,その規約のなかに公式に述べられているが,要約すれば,罪-には国際的研究,
第二には学際的研究の重要性を強調し,そして第三に数学の教授・学習の心理学的側面の理解が
目的であることを述べている2).
数学教育は,以前は,数学者の片手間の仕事であり,その関心も主として中等教育以上にあっ
平 林 - 巣
た.ところが,中等教育が大衆化された今日では,初等教育も含めて,多様な知的水準の子ども
を対象とした数学教育を考えざるをえないことになってきた. PMEの創設は,こうした世界共
通の社会的動向に対応したものと考えることができる.その対象領域は,その目標にもうたわれ
ているように, 「教授・学習の心理学的側面」であり,数学内容だけに方向づけられがちな,数
学者だけによる指導とはちがって, PMEは, 「子ども」の実態をみつめた数学教育の実践に,
積極的な真理を与えようというものであろう.
しかしながら, 「心理学的側面」も,文字通り数学教育の一側面にすぎない.その最も大きい
欠陥は,おそらく「没暦伍的」ということにあるかも知れない.すなわち,そこだけから教育低
値を演揮することはできない.そしてその点では,数学的側面だけを強調するのと同じく,教育
における一面観に堕する恐れもないではない.おそらく,シュタイナー教授がTMEの創設を
思いたったのは,同教授は明言はしていないが,数学教育ならびにその研究が,一面的に偏向す
ることを魯窮してのことではなかったか,と推察される.同教授が「総合的近接方法」を強調し,
「自己照合」と「メタ研究」を推賞するのも,このためであろう.
実醸, TMEがとりわけ志向しているのは,価値の問題である.教育価値は, 「社会」という
要因と最も強く関連している. PMEが,いわばSein志向であるのに対して TMEはSollen
志向であるといえよう.勿論両者は無関係ではなく,おそらく「相補的(complementary)」な
ものであろう. (この「棺輔的」という言葉は, 「還元主義(reductionism)」に対立するものと
して,シュタイナー教理も強調しているように PMEの総合的な思考様式を象徴している.)
このように,今や数学教育研究の世界的機構は克分に整備されてきたというのが,数学教育研
究の世界的状況である.そのなかで,わが国に最も手薄いと思われるのは, TMEの観点であろ
ラ.数学蓑再の総合的整備,価債観の確立,とくに社会的観点からの数学教育への近接,これら
の面においては,わが国の数学教育の研究は,これまではかなり低調であったように思われる.
しかしながら,この研究は「数学教育学」の最も基架的な部分であることを知るべきである.
実は,わが国の数学教育の有効性の乏しきは,わが国の数学教育学の,このような基礎的部分
の欠落と大いに関係していることを,われわれははっきりと確認しておかねばならない.数学様
いがあとをたたず,数学の落ちこぼれが減少しないのは,決して教師の怠慢によるものでもなけ
れば,指導法の拙劣さに帰因するものでもない.実は,現行のカリキュラムそのものが,今日の
社会的状況下にある子どもに,適合しなくなったからである.数学教育における伝統的な価値観
が,数学者や数学教師,さらには両親よりも先に,子どもにおいて実質的に崩れかけている.
実際,中学生ぐらい!=なると,数学教師に対して,なぜこんな無用なことを学ぶ必要があるか
を反問する生徒がいるとのことである.教師は,それに対して,少くとも受験に必要だという以
上に,満足な回答を与えられないのが実情ではなかろうか.実際,大多数の子どもに,将来大し
て必要もないことを強制しているのは, 「受験」でしかないであろう.
「なぜ数学を学ぶか」 -おそらく今日の数学教育の諸欠陥は,この問いに対する回答が鮮明
でないところに起因しているであろう.とりわけ,数学教育の有効性の問題も,これに関連して
いる.学習目的の明確でないことを,子どもに有効に学ばせようというのは,無理な話である.
数学教育の目標論は,数学教育学の基礎的部分であり,それはとりわけ,前述の数学教育の三要
素のうち, 「社会」という要因にかかわっている.そして,この点で PMEの研究プログラム
の展開は,わが国にとって大いに期待されるところであり,またわが国でも,この方向の研究が
意欲的に携進されねばならない.
数学教育の有効性のために
3.わが国の数学教育の情況
以下での考察は,前述TMEのプログラムの第三の条項Cに,最も強く関連している.とい
うのは,それは,わが国の「数学教育に関する自己照合とメタ研究」でもあると考えられるから
である.すなわち,それは,現状の由って来る歴史的・伝統的事情を洗い出すことによって,よ
り深く現状を認識しなおそうという試みであり,その意味で,わが国の数学教育の「自己照合」
である.また,数学教育の内的問題でなく,それを動かす外的要因に着目している点で,数学教
育の「メタ研究」であるともいえるであろう.そうして,こうした研究は,上述のプログラムで
も指摘されているように, 「国家的・地域的に,かなりの差がある」にも拘らず,教育先進国と
してのわが国のこの特異な状況は,やがて,発買途上国をも含めて,諸外国の数学教育の展開に
も,大いに参考にされるものと期待している.
数学教育の有効性の問題は,前にも述べたように,わが国ではもはや教育技術上の問題ではな
い.それは,わが国の数学教育の体質,とりわけそのカリキュラムの性格に帰因したものである
以上,この問題も,むしろラディカルな自己照合とメタ研究を通じて,はじめて解明されるよう
に思う.
教育学者には周知の事実であるが,初等教育と中等教育とは,西欧におけるその発生・発達の
過程において,ほとんど無関係であったという事実を,まずはっきりと承知して,これからの考
察にとりかかりたい.この事実は,わが国の教育界でも,一般的には不思議なほど知られていな
い.また,わが国の教育制度・理念は,この西欧の伝統を,長短あわせて受け継いで今Ejに到っ
ているということも,今日ではあまり意識されなくなっている.初等教育は中等教育の基渡であ
り,中等教育は初等教育をもとにして展開されるものと,ごく自然に考えられてしまっている.
しかし,実は「初等教育は学校教育における一段階というよりも,むしろ一系統」であり,
「民衆の日常生活の必要を満すために,読み・書き・算術を中心として初歩的な知識を与え,と
きには国民教化に必要な教科(宗教・修身など)を加えながら,それだけで-応完成する教育と
みなされて」いた.これに対して,中等教育は, 「中世の宗教的・世俗的指導者養成に起源をも
ち,中世末に成立した大学の予備教育としての古典的学問教育として,しだいに定着したもので
ある.」つまり,初等教育は庶民の教育であり,中等教育は学者・指導者の教育であって,両者
は理念的に,その出発から全く無関係のものであった3㌧
こうした,全く相互に連絡のない二つの学校組織は,わが国でも,たとえば寺小屋と高校とい
う対立形式で存在したが,明治期のわれわれの先輩が採用したもの,そして今日の学校につなが
っているものは,上述のような由緒をもった西欧の学校制度・且念であった.
このような,いわば全く異質な二つの教育理念が,どのように今日の中等教育の大衆化につな
がっていくかを示すために,筆者は,次のような教育理念のスペクトルを考えてみた.これは,
決して学校制度の変遷を示す図式ではなく,ただ教育理念の変遷を負数するだけのものであるこ
とに注意されたい.
小 学 校
(初等教育)
;V
(高等教育)
(図1)
平 林 - 栄_.
まず,当初は,一方の極に小学校,他方の極に大学の理念があったと考えられる.(図1)
この両極は,理念的に多くの点で対立的であった.小学校(初等教育)は庶民のためのもので
あり,大学(高等教育)は学者・蛤導者養成のためのものであった.従って,前者は必然的に実
学的・訓育的な傾向をもっていたが,後者は学問主義(アカデミズム)がその基盤をなしていた.
前者はときの政治権力のもとで体制的であったのに対して,後者は超体制的,ときには反体制的
であったことは,歴史的にも事実であった.また,前者の「教師」は, 「師範学校」という特別
な施設で養成されたが,それは大学とは別なものであったことにも注意したい.そして最後に注
目すべきことは,各教科をさす名前は,前者においては教育陶冶材をさすのに対して,後者にお
いては学問をさしているということである.この最後の点は,今日でもしばしば見過ごされる.
たとえば, 「数学」という言葉は,大学ではたしかに一つの学問の名前であるが,学校ではそれ
を通して子どもを教育する陶冶材の名前であるのに,一般には,学校でも数学という学問が教え
られていると考えられてしまっている.
やがて時代の進展とともに,一方では小学校の楠充教育,他方では大学への予備教育が始まる
亡郎」
ようになった.(図2)
.......
勺tL・l
(図2)
小学校の補充教育として典型的なものは,わが国では「高等小学校」であった.これは, /j\学
校(尋常小学校)の教育をさらに拡充して,いっそうすぐれた社会人を世に送りだすこと,ある
いは,体制側から言えば,いっそう有用な国民的人材を多数つくりだすことが,その目的であっ
た.他方,大学がより高度の学問研究の場となるにつれて,その予備的訓練の場を必要とするよ
うになってきた.わが国の旧制中学・旧制高校はその機能をもっていた.そして,古い意味での
「中等教育」は,本質的にはこの部分を指す名称であった.
こうした互に異なった教育理念が,両者のそれぞれの拡充発展とともに,さまざまの学校種
(たとえば,実業学校,高等専門学校など)の成立をもたらしながら,遂にドッキングする時代
が訪れた.それが今日の状況である. (図3)
このドッキングの部分が,今日の新しい意味での「中等教育」である.わが国では,このドッ
小 学 校
(初等教育)
献 教育
(新中等教育)
予備教育
大
学
(高等教育)
(図3)
キングは制度的・外見的にかなり容易になされたようにみえる.しかし,理念的には,まるで水
と油をかきまぜたようなものであったことは,上述のところから明らかである.実学主義(リア
リズム),功利主義(ユーリクリアニズム)は,ー庶民教育にとっては伝統的なものであるが,こ
れは大学に伝統的な学問主義(アカデミズム)とは,そう容易に妥協できるものではない.まし
て,体制的_・反体制的な姿勢は-双方それほどたやす_くー崩_しまる.h.のではな(,¥ し_、や,崩してな
らないものかも知れない.今日の教育上の種々の対立問題,たとえば学校の行政的管理の問題,
数学教育の有効性のために
大学における自冶の問題などが,ときにはかなり激しく論議されるようになったのも,ひょっと
したら,このような形式的ドッキングのもたらした余波かも知れない.
しかしながら,筆者がここで量も問題にしたいのは,形式的にはドッキングがなされても,カ
リキュラムの円盾なドッキングは,まだなされていないという事実である.たとえば,旧制中等
教育での主要な教科であった「代数」や「幾何」が,実質的にはそのままの形で新しい中等教育
に受け継がれているという事実である.一般的に言って,大学でのアカデミズムのもとで洗練さ
れた「教科」が,大学でのアカデミズムのなかで訓筏された教師によって,すべての児童・生徒
.'=教えられているという事実である.とくに注意すべきことは,初等教育は今日でも,伝統的理
念から離れられないものをもっているが,そこでの教師も,大学出ということになっていること
である.
現行のカリキュラムは,それを有効に実施しようとしても,本来的にそれが不能であり,その
頃因は,上のような理念的に安易なドッキングにあったと考えても,殆んど誤りはないであろう
つまり,われわれの場合,数学教育の非有効性は,ブルーナ-の言葉を借りれば,カリキュラム
の「不適切性(irrelevance)」にあると考えることができる.もっと率直に言えば,学者的カリ
キュラムを,すべての子どもにおしつけたことが,今後の数学教育の非有効性さらには極々の学
校スキャンダルの原因であり,このことは,他教科にもあてはまるのではないかと思われる.ひ
ょっとしたら,前述の図式は,最近では次のようにかきかえるのがよいかも知れない. (図4)
(図4)
すなわち,一方では,初等教育の理念は,中等教育を超えて大学まで浸透したかのようであり,
他方では,高等教育の理念が小学校にまで浸透したかにみえる.大学は学問研究の場というより
も,一人前の社会人として世に出て職をうるための準備の場所になったかと思われる反面,すで
に小学校から大学むけの進学指導さえ始まっているところもある.中等教育の大衆化といわれて
も,これはまだ,中等教育の新しい理念が,健全な形でできあがっていない証拠であろう.
今日の教育上のスキャンダルは,そのすべてとは言えないまでも,そのかなりの部分が,この
ような初等・中等教育の理念的希離に起因しているということは,残念ながらまだはっきり気づ
かれていない.教育系大学・学部においても,このことはあまり明確に意識されていないかにみ
える.たとえば,伝統的な学問的意識の充実が,そのままよい教員養成になると考えられている
かに見える半面,単なる教育技術の訓練で,現状を放いうる教師が生まれると考えられているか
にも見える.また,教科教育の研究も,現行カリキュラムへの対応に追われ,こうした根源的な
反省に立った,新しいカリキュラムの構想は,ほとんどなされていない.
初等・中等教育の一貫性は,単なる制度的調整によってなされるものではない.そのためには,
伝統的な教育且念そのものの調整が不可欠であり,これは,世界にさきがけて中等教育の大衆化
を果たしたわが国が,諸外国にさきがけて当面した,歴史的・社会的に必然的な課題である.そ
れは,勿論,単なる教育技術の改善などで対処しうる問題ではなく,最も広い意味でのカ))キュ
ラム研究上の問題である.
わが国での「カリキュラム」の概念は,先進諸国でのそれと較べて,きわめて狭義に理解され
平 林 - 栄
ていることは,注意すべきことである.教科教育の場合,広義のカリキュラム論は, 「教科教育
学」そのものを指すといっても過言ではない.そして教科教育学は,まず教育目標論を基礎に設
定することから始まる.そこでは,前述の「教科」, 「子ども」, 「社会」のうち,とくに「社会」
の要因が最も強く関連してくる.それは,教科内容の選択基準を与え,子どもの学習価値を定め
ら.従って, 「社会」の観点が欠落するとき,教科内容の学習価値は不透明になり,子どもは無
用なものの学習に無駄な精力を使うことだけでなく,本来無用であるがゆえに,有効に学習され
ることもない.
以上,今日の数学教育の効果の乏しきの理由を,カリキュラムの不適切性に求め,さらにこの
カリキュラムの不適切性は,わが国では歴史的必然的なものであり,新しい社会的情況をふまえ
た,広汎なカリキュラム研究によって対応すべき問題であることを述べた.そして,この点では,
前節で述べた, TMEの観点と活動は,大いに参考になるであろう.事実,筆者が,本稿のよう
な反省を想いたったのも,昨年のTMEの会合に参加したことが動因になっている.
最後に,本格的に「社会」の観点からの数学教育の研究に関して,わが国でもすでに,その偉
大な,そして稀有な先覚者があったことを述べておかねばならない.それは,小倉金之助である.
その「数学教育史」 (昭和7年初版)は,序文でこう述べている.
「単なる資料の編素を目的とせず,社会・経済・政治との関連の下に,問題に対しては出来る
文け全面的・客観的なる考察を加へつつ,一つの文化形態として数学教育を,系統的に取扱って
見たい. -これが私の原であった.」
ここには,前述TMEのプログラムにもみられる「総合的近接法」の考えさえうかがわれて
興味深い.勿論,今日からみれば,かなりの不満はあるが,とかく欧米の物真似に終始したわが
国の数学教育の改造期において,広汎な歴史的反省と諸外国との比較によって,わが国の数学教
育の「自己照合」をも行なっていることは,きわめて感銘が深い.
しかしながら,すでに筆者と石田とが指摘したところであるが),小倉金之助をも含めて,そ
の当時の人々には,初等・中等教育の理念の希難に基づくわが国の数学教育の欠陥は,ほとんど
意識されていなかったことは,やはり時代の限界というべきことであろう.実擦,小倉のみなら
ず,当時の数学教育の指導者は,改造運動を「ペリー・クラインの運動」として,一体的に捉え
ていた.しかし,ペリー(Perry,J.)とクライン(Klein,F.)との数学教育理念は,基本的に
相容れないものをもっていたことを知るべきであった.ペリーは,職工にも有用な数学を教えよ
うとした工学者であったが,クラインは,主として大学進学者のための学校,ギムナジウムの数
学教育に関心をもった,当代の大数学者であった.かなり大月旦な表現をすれば,ペリーは庶民的
数学教育,クラインは学者的数学教育の改革者であったと考えられる.ところが,わが国では,
これを「ペリー・クライン」と一本化して受け入れてしまった.数学者の申し子である数学教師
が,ペリーとクラインのいずれに頓到するかは,火を見るよりも明らかである.実顔,今日のわ
が国の数学教育では,ペリーの思想はほとんど矧こかかっているのに対して,クラインの関数思
想などは,クラインが生きていたら,涙を流して喜ぶかと思われるほど,広く喧伝され,浸透し
ている.今日の数学教育の「学者的カリキュラム」は,このあたりから,初等・中等教育をおし
なべて制覇しはじめたのである.
数学教育の有効性のために
4.数学教育で残るもの
かつて,数学教育改造運動の桔導者の一人でもあった,アメリカの数学者ムーア(Moore, E
H.)は, 「改造は,寛在の組織の革命(revolution)ではなく,そこからの進化(evolution)と
して行なわれるべきである.」と述べている. 1902年のことである.今日の数学教育の改善は,
もはや革命を必要とするという人もあるが5㌧ 筆者白身には革命の用意も勇気もない.本稿では,
これまで,かなりラディカルに,わが国の数学教育の基本的欠陥と,その由って来るところを把
摘したが,やはり実践的には,筆者もムーアの穏健な立場をとらざるをえない.以下では,寛行
のカリキュラムをあまりいじらないで,その範囲で,どのように有効性を高めうるかを反省した
い.
前にも触れたように,社会人のうちに残る数学教育の効果の測定は,実鞍にはほとんど不可能
であるが,われわれ数学教育関係者の直観では,少くとも知識/技能の面ではきわめて僅少であ
るように思われる.学校卒業と同時に,学校で習った数学は,この面では急速に忘れられ,平均
的には小学校5年以上の算数・数学は,数年後にはあとかたもなく消えてしまうというのが,実
情のようである.しかも,それでいて,家庭生活にも,社会生活にも,大して差しつかえないよ
うにみえることは,実におかしなことではある.
数学教師のなかには,前にも述べたように,数学の知識・技能は忘れても,数学教育によって
与えられた何ものかは,必ず末永く身についていくと信じている人がある.筆者自身もその一人
かも知れない.しかし,それは一体河であるか.数学教育の永続的効果とは何であるか. -そ
れを明かにすることは,数学教育研究の重要な課題の一つかも知れない.ここでも,まずこの問
題を考えておくこことにする.
この点で,現行の小・中学校における指導要録の評価の観点は,非常に興味深いものを示唆し
ている.それは, 「知識・理解」, 「技能」, 「数学的考え方」, 「関心・態度」の四項目になってい
る.このうち,最初の二項目は,卒業と同時に急速に忘れはじめられるものであるが,あとの二
項日は,かなり永癌的な教育効果をもつものではないかと予想される.しかし,学校内のテスト
でも,前二者は比較的容易に測定されるのに対して,あとの二者については,客観的に評定する
ことは難しいとされていIる.実際,入学試験などのペーパー・テストは,ほとんど前の二者のテ
ストに終っている.あとの二者は,前の二者の学習を通して学習されるとともに,それを背後か
ら支えているもの,つまり,そうした考え方・関心・態度がないと,知識・技能さえ身につかな
いものとも考えられているが,直接の評価は華しい.指導要録が,あえてあとの二者の評定を求
めているのは,この項目を明記しておかないと,指導が前の二者だけに煽り,そのためにかえっ
てその前二者の学習さえも軽適になると考えられたからであろう.
実は,このような区別は,わが国の指導要録の発明ではなく,数学教師ならば,誰しも意識し
ている区別である.あるドイツ人が6',訳語は当らないかも知れないが,数学教材を「建設教材
(Aufbaustoff)」と, 「育成教材(Entfaltungssto耳)」とに区別しているのをみたが,これも,上
の区別に相当するものであろう.前者は,いわゆる数学内容であり,将来数学をやろうというも
のには,かけがえのない内容である.しかし,後者は,その内容そのものよりも,むしろそれに
よって数学的考え方や態度を身につけさせる教材であり,必要によっては他の教材によってとり
かえても差しつかえないもの,と説明されている.
平 林 一 栄
こうした区別に立てば,普通教育として重視されるものはむしろ後者であり,前者は,将来数
学を研究したり,直接利用したりするものには必要であるが,そうでない者には,忘れられても
差しつかえない教材であると考えられる.従って,普通教育としての数学教育の有効性は,むし
ろ後者,すなわち,考え方・関心・態度,あるいは育成教材について,もっと真剣に考えられる
べきであろう.勿論,両者は相補的である.健全な考え方・関心・態度に支えられないでは,知
識・技能も充分に身につかないであろうし,また,数学的知識・技能を無視して,数学的考え方
・関心・態度を啓培しようというのも,愚かしいことである.いや,むしろこの相棒性を,いか
に円滑に機能させるかに,数学教育の有効性を実寛するための秘訣があると言えるであろう.
5.有効性のための基礎研究
さて,数学教育の有効性を高める方途を考えるには,まず,基礎研究として,以下の三つが必
要であることを指摘したい.
第-は,数学本質論である.数学は,本来的に思考の道具として発生したものであり,それが
人間に国有な知的関心によって洗練され,体系化されたものが,いわゆる数学である.そして,
最後的に体系化された数学からは,その道異性がほとんど意識されなくなってしまうことさえあ
る.それは,あたかも人殺しの道具として発明された刀剣が,美術品として観賞されるときは,
ほとんどその道異性が意識されないのと同様である・しかし,子どもの教育においては,数学の
道具性に立ちかえって,その道兵的有用性,切れ味を充分に味わせることが必要である.
第二は子どもの本性論に属する.子どもは本来的に自己中心であるが,やがて他人の存在を意
識し,それによって自己の存在と限界を意識しはじめる.いわゆる脱中心過程が,とくに小学生
の心的発達の過程である.数学の道具性の自覚は,このような子どもの自己反省の可能性と無関
係ではない.思考的道具としての数学は,単に道具として使うだけでなく,自分の思考そのもの
を反省することによってはじめて意識される.子どもは,いつごろから,いかなる指導によって,
どの程度に自己反省が可能になるかは,数学教育の有効性にかかわる研究課題であろう.
第三は,メタ知識に関する研究である.メタ知識の重要性は,最近の心理学における「メタ認
知」の研究とも関連して,数学教育の範囲でも,しきりに注目されるようになった.筆者が,最
近,これに関してきわめて感動的に受けとったのは,西ドイツのオッテ(Otte, M.)の次の言
葉である: 「人はつねに,知識とメタ知識(知識に関する知識)とを同時に獲得する1㌧」
これは,どんな知識でも,それをメタ知識とともに与えないでは,子どもの身につかない,と
いうことを意味する.それでは,メタ知識とは,数学教育の場合何であるか.実は,数学教育の
範囲でも,その概念はまだ充分に固まっていないどころか,それを明らかにすることれ数学教
育研究の最も重要な課題の一つであろう・しかし,あえて定義すれば, 「直接学習の対象となっ
ている知識ではないが,それを獲得するために必要な知識」といえるであろう.そして,かよう
な知識の存在と必要性は,われわれの否定できないところである.これについては,後でも多少
詳しく論ずるであろう.
以上,数学教育の有効性を高めるための基礎研究ないしは理論としてとった三つのものは,実
は盗意的なものではない.それは,ある程度,前に挙げた,数学教育の三つの要因, 「数学」,
「子ども」, 「社会」に対応しているとも,考えられるからである.それは,それぞれ数学教育学
の一章をつくりうるだけの内容をもっていると思われるが,ここでは,それぞれの重要性をうか
数学教育の有効性のために
がえるような,実践例を一つずつ示すにとどめなければならない.
第一の, 「数学は思考の方法である」という観点は,たしかに小学校算数あたりでは,子ども
にも完分自覚させられるが,中学ぐらいになると,この道異性の自覚は,子どもにおいては次第
に稀遷なものになってしまう.いつ,どこで,どんなことに役立つのか分らないような知識を,
どっさりと与えられて呆然としているのが,大多数の中学・高校生の実態であろう.いや,大学
における教員養成課程の学生にとっても,同様であるかも知れない.彼らにとっては,数学はも
はや思考の道具ではなく,暗記の対象である.
数学の道具としての自覚は,問題解決においてはじめてえられるものであろう.数学的知識・
技能の指導も,問題解決の文脈において行なわれて,はじめて身につくものであろう.この点で
は,アメリカの「数学教師の会」 NCTM)」が, 「80年代-の提言」いわゆるアジェンダの中で,
「問題解決は80年代の数学教育の焦点である.」といっていることには,重要な意味がある.
第二に言及した,子どもの自己反省の可能性は,算数・数学教育の重要な段階区分の目安とな
る.ある小学校で, 「問題解決」をテーマに行なわれた研究会の折,どの学年でも一律に,ポリ
ァ(Polya, G.)の"How to Solve'式の授業が行なわれていたのをみて,驚いたことがある.
ポリアのこの方式は,自分の思考過程を反省しうる段階ではじめて有効な方式であろう.小学校
4年以下には,そのままでは通用しない方式と思われる.そこではむしろ,自己反省が行なえる
ような把導が重要であって,自己反省の可能性を前提にした指導は,おそらく成功しないであろ
う.
第三のメタ知識の問題は,教材の選択にも,子どもの発達段階の理矧こも,大きく関連してい
ら.これまで,指導方法の研究のなかでとりあげられてきた, ;まとんどすべての配慮は,このメ
タ知識の問題と関連している.なかんずく, 「教室」というミニ社会に関わるメタ知識は,算数
・数学教育でも充分に考慮されねばならない.たとえば,数学に対する劣等観は,教室社会にお
ける人間関係に基く自己認知から生まれる.そして,かような自己についての知識も,メタ知識
の重要な部分をつくっていることは,フラーベル(Flavell∴J.H.)らの,メタ認知のカテゴリー
からも承知することができる8'.
6. 実践的に可能な方策
以上では,数学教育の有効性を高めるための原理的な研究の必要性を示唆するにとどまったが,
ここでは,わが国の現状において,余り大きな変革なしに,このための実践的に可能な方策を,
いくつか挙げてみたい.
1) 「算数」と「数学」との連続性の樹立-とくに変数と論証の取り扱い
これは,前節とは別な観点から,数学の本質論にも関連してくる.すなわち,小学校の「算
数」が,中学以上の「数学」につながるにしても, 「数学とは一体何か」という問題がまず反省
されなければならない.これは,決して容易に回答しうる問題ではないし,ここはそれを正面き
ってとりあげる場所でもない.しかし,少くとも「変数」と「論証」が数学の本質的な部分を象
徴しており,その取り扱いの有無が, 「算数」と「数学」のちかいになっていることに,まず注
目しておこう.
すでにみたように,初等教育と中等教育との問には大きな理念上の断層があり,その克服が今
平 林 - 栄
日の教育的課題であった.もともと初等教育は,子どもをともかく一人前の人間として社会に互
していけるようにすることが目標であった.そのために,どうしても身につけさせねばならない
ものは,確実に身につけさせようというのが,初等教育の精いっぱいの努力であった.このため
に,初等教育は自然に下向きになる.つまり,あまり慾ぼらないで,どうしても必要なことだけ
を確実に身につけさしようという考え方が,伝統的に形成されてしまった.これは,あながち悪
いことではない.しかし,小学校の6年の後半が,大部分総復習に費されていることが,この考
え方に由来するとなると,いささか心配である.また,小学校算数教育の関係者が,中学校以上
の数学教育に,それほど執L、な関心を示されないようにみえることも,このような考え方に基い
ているとすれば,かなり心配になる.
実際,いまや, ′j\学校の算数教育も,上を向いてもらわなければならない時代に来ている.そ
して,小学校でも,中学校以上の数学をにらんだ算数教育が企画されねばならない時代になって
きた.それは,中等教育大衆化における必然的な結果であろう.
小学校算数と中学校以上の数学とを,もっともはっきり区別するものは,前述のように, 「変
数」と「論証」の存在であろう.これは,伝統的な中等学校の代表的教科である, 「代数」と「幾
何」とに対応するものであり,高等小学校も含めて,伝統的な初等教育では,ほとんど扱われな
かった教材である.それが,今日の中学校の数学において,ことのよしあしはともかく,今やす
べての子どもの必修内容になったとすれば, ′]、学校においても,その素地は充分に培われねばな
らない.今日,中学校2年あたりで,数学の落ちこぼれが急に増大するのも,おそらくその蹟き
は変数と論証との遭遇によるものであり,それを乗りこえるだけの素地か,それまでに与えられ
ていなかったからであろう.
変数については,すでに小学校でも多少の考慮が払われるようになっている.小学校4年から
○や口の記号があらわれ, 5年以上ではズ,y,O,bなどの文字も使用されている.しかし,小
学校では,変数はまだ計算の対象になっていないところに,中学校との区別がある.
論証については,小学校算数では,それを準備する特定の領域がない.そのためか,中学での
数学落ちこぼれの最もふえるのは, 2年で論証が現れるときのようである.筆者はかつて,学校
での「話し合い」や「討論」淑 子どもがやがて論証を学習できるような素地づくりとして,き
わめて重要な場所であることを指摘したことがある9'.
変数にしても,論証にしても,日常的・生活的関連性をあまりもたない点で,算数内容とは大
きく異なっている.したがって,専ら日常的有用性を強調し,身のまわりの事象との関連づけを
考える算数教育の方法は,中学校以上の数学では,それほど通用しなくなる.中学・高校では,
もっと別な観点から,その数学教育の方法を考えねばならない.このような,教育方法上のちが
いもまた,子どもの磨きの大きい原因となっていることは確かである.両者に共通した方法的観
点はないものか.筆者は,その一つは,表記論的観点,広くは言語学的観点に求められるように
思っている.すなわち,数学は一つの言語であり,数学の学習は一種の言語学習であると考える
と,今日の国語科や英語科で開発された種々の教育方法が,算数・数学科にも援用しうるように
思っている.
数学は現実の問題から生まれるが,生まれると忽ちその現実を超えて発展する.そして,それ
によって他の多くの現実を支配する力をもつ.いわゆる「数学の威力」がこれであるが,これは
すべての言語が共通にもつ力である.言語教育方法が,数学教育方法に通ずる所以もここにある
そして,詳述しえないが,算数・数学の方法的断層を埋める可能性もここにあると思う.
数学教育の有効性のために
2)よい習慣づけ
以上の論議が,専ら小学校算数を中学校数学に近づけることを主張したものと受取られるとす
れば,それは筆者の本意に圧する. ′了、学校は,決して中等教育の準備に捧げられるものではない.
初等教育には,初等教育でなければできない仕事があり,中等教育はそれを受けてはじめて成立
するものである.
では,初等教育てなければできないこととは何か.それは,あまたあるであろうが,筆者は,
算数教育に関連して,よい「読み方」の習慣づけを強調したい.筆者は,まだ充分な確証をもっ
ているわけではないが,この習慣の基本的枠組は,かなり早期に,おそらくは小学校4年ごろま
でに形成され,たとえば運動機能や音楽的能力がそうであるように,この時期を失すれば,あと
になっては,形成・修復はほとんど不可能ということになるのではないか,と思っている.
たとえば,小学生でも,計算ができても文章題の解けないものが多数いる.中学生・高校生で,
個々の計算や知識の運用はできても,・文章でかかれた証明や説明がわからなかったり,多少長い
問題文になると,その意味が汲めなかったりするものが多い.受験問題を解くのが得意で,よい
成績で大学へ入った学生でも,一冊の数学書を読み通すことはおろか,一つの理論さえも,書物
を通して正しく理解することができなくて,数学から脱落していくものが多い.そして,その最
も大きい原図は,基本的に「読み」についての正しい習慣・態度ができていないことであるよう
に,筆者には考えられる.それを,記憶力や思考力の弱さのせいにする人があるかも知れない.
しかし,筆者は,記憶や思考も一つの習慣であり,その基本的枠組は,かなり早期に形成される
ように思われてならない.
二の予測を実証するだけの用意は,筆者にはまだない.しかし,長年多くの子どもをみてきた
学校の先生方からは,これについて,かなりの共感をえている.
この予測は,知的形成に二つの側面ないしは機能を区別することによって,いっそうその真相
が明かになるように思われる.それは,知識の量的増加の側面と,それらの知識を組織づける枠
組づくりの側面である.学校では,子どもは次号と尤大な知識を与えられていくし,教師もこの
面での指導には熟L、である.ところが,これらの知識を/統合し,組韻づける基盤づくりについて
は,学校教育はこれまでに,あまりよい方法をもたず,また熱心でもなかった.しかし,正しい
「読み」の習慣は,実はこの両側面ないし両機能の棺桶的関係のうえに成立っていると考えられ
る.
このような,知的形成の両側面の区別については,言語学的,心理学的研究からは,いくつか
の有力な示唆がある.たとえば,次のように(1)これは,すでに古典的な言語学説であるが,ソシュール(Sausseaure, F. de)ぱo',言語
の基本関係として, 「連合関係」と「統合関係」を挙げ,すべての言語活動・言語現象は,この
二つの関係の相楠性のうえに展開されるとしている.言語学には門外漢であるが,筆者の理解で
は,前者は語桑の拡大,後者は文脈の形成にあずかるもので,上述の知的形成の二側面に対応す
るものではないかと思っている.
(2)最近,イギリスのスケンプ(Skemp R.R.)は11) その知能のモデルにおいて,二つの
管理系(director system)を区別している.その一つは,環境に直接働く系Al (デルタ1),他
の一つは, Alに働いて,その働きを規制する系J2(デルタ2)である.このうちA2は,おそ
らく知的活動を全体的に統合し,組織化する役割をもっており,思考・行動の自己管理,自己反
省,さらには,自主性・自律性の可能性にも関係しているものと,筆者は理解している.そして,
平 林 - 栄
自己管理系としてのA2は, 「読み」の行為にきわめて重大な関連をもっているとも考えている・
というのは, 「読み」とは,自主的・自律的で行為であり,著者・著作との対決であるからであ
る.
この他にも,いろいろ異なった分野から,上述の知的形成の二側面の存在と,そのうちの統合
的・組織的側面の重要性を示唆する見解がある.個々の知識の獲得とともに,それらの知識を生
きて働くものにするためには,それとは別な心的基盤ないしは枠組の遵得が必要である.この後
者は,実際には一種の心的態度ないしは習慣というべきものであろう.すべての態度・習慣がそ
うであるように,これもできるだけ早期に,健全な形でつくりあげられねばならない. -この
ことは,大げさに言えば,ペスタロッチの「基礎陶冶」の概念の寛代的理解であろう.よい「読
み」の習慣形成は,国語教育のみならず,算数・数学教育の成否を左右するであろう.
3)知識とともに,よいメタ知識にも配慮を前述のように,メタ知識(知識に関する知識)の概念は,まだ明確ではなく,そのカテゴリー
化もまだはっきりとはできていない.しかし,前述フラーベルの「メタ知識」のカテゴリーにヒ
ントを求めれば,次のようなことからを,数学教育の範轟でメタ知識と考えてよいであろう.
(1) 「人」に関すること
自分にできることか,自分の好きなことか,自分のとくになることか,などのように,学習対
象とする知識と自分とを関連づける知識で,好J蒼や信念といわれるものも,ここに属する.
(2) 「対象」に関すること
自分の既有の知識や熟知している状況と,新しい知識とを関連づける知譜である.
(3) 「方略」に関すること
その知識は,どんなとき,どのように使うと,どんな効果かあるか,あるいは,その知識はど
うしたら獲得されるかなど,学習の効果・方法に関する知識は,この範囲のものである.
こうしてみれば,数学的知識についても,それを学習するに必要なメタ知識は,数学の範軒を
超えてしまうことも多いことがわかる.また,それはかなり個性的なもので,子どもによって必
要なメタ知識は異なっているといってもよい.授業では,できるだけ広く子どもに共通なよいメ
タ知識を選択することが重要であろう.数学教師にとって,とくに警戒すべきことは,数学教師
はとかくメタ知識を数学的なものに限定しがちだということである.いつ,どこで,どんな価値
をもつかは,もっと数学をやらなくてはわかりそうもないことを, 「これはとても大切です」と
いって提示しても,大してよい授業効果はないであろう.実際,メタ知識の選択は,教師の全人
的教養・教授能力に大きく依存している.
4)教材を豊かな文脈にのせて授業はドラマだとよく言われる.一時間の授業にもはっきりした筋があり,教材がその筋にの
って展開するとき,授業ははじめて効果的なものとなる.この筋あるいは文脈が,前述の統合関
係をつくり,個々の事実の理解を推進させ,前述を予想させ,ときには新しい発見をさえもたら
すものである.
勿論,文脈は最初から成立つものではない.ふつうの劇や小説と同じく,事件の進行につれて
次第に意識されていくものである.大学の数学の講義でもそうであるが,一つの理論の文脈がつ
かめないままに,その理論のヤマに達するまで,へトへトに壊れてしまう学生をよくみる.勿論,
数学教育の有効性のために
ズ派をつかむまでには辛棒が必要であろうが,教師の別から大きい辛棒,ときには無駄な辛棒を
要求することは,決して得策ではない.できるだけ早期に,できるだけ容易に,ともかくアラ筋
をつかませる努力が教師に必要であろう.最初から,数学のテキスト風に,理論的に秩序だてた
叙述は,このような努力とは,およそ正反対なものである.おそらく,すでに昔デューイがその
著「数の心理学」で言っているように, 「漠たる全体,分析,確定した全体」というのが,文脈
性の早期実現を可能にする授業形式であろう12-.
5)数学教育の人間化
できないものにとっては,数学は自分とは全く関係のない,どこか遠い国の,みしらぬ人たち
の関心事であるように感ぜられるであろう.彼らをわずかに数学につなぎとめているものは,読
験やテストでしかない.数学を身近かなものと感せられるような工夫をしたいものである.
一例をあげよう.ある高校の若い先生と話しているとき,たまたま「必要条件・十分条件」の
指導が話苛にのぼった.生徒はいちおうその区別ができるようになったが,生徒がほんとうにわ
からないのは,何のために,またどんなとき,必要条件・十分条件を区別したり,それに言及し
たりしなければならないか-ということだという話になった.実際,このことに触れることは
かなり幾しく,教科書あたりでも,そこまて立入ってはいない.しかし,そのことに触れないで
生徒が機抜的に必要藁件・十分条件を区別できるようになったところで,教育的に果たして満足
してよいであろうか.
すて::, ``Å-B" (ÅならばB)という推理さえ,人間は無意味にやるものではない.たとえ
揺, Aはその人に上ってまだ不可解なものであり, Bはその人にとって比較的よく分かっている
ものである,という情況がまずあって,はじめてその人は, ``Å-B''という推理によってBを
Aがもつべき必然的性質(必要条件)であると意識し,それによってAをよりよく理解したと感
ずるのであろう.必要条件を求めることは,未知の対象を少しでもよりよく理解しようという,
きわめて人間的な行為である.この伝でいけば,十分条件は,余り深刻に考えないで,ともかく
誤りなく対泉をつかもうとする,怠け者の行為に属するといえるかも知れない.そして,必要か
つ十分二封半は,できるだけわかりやすい目印で授雑な対象をおさえこもうという,きわめて打算
的な人間的行為である.
このように,数学も,普通の人間の思考や感情と,素朴に,率直に結びつけないでは,一般の
人々には,数学は身近かなものとして意識されないであろう.ウィ-ラー(Wheeler,D.)の
「数学教育の人間化」13)という概念は,当人もいうとおり,きわめて広汎な内容をもっているが,
上のように,数学を平凡な人間の日常的な思考と結びつけることも,数学教育の人間化に属する
といってもよいであろう.それは,冷厳で純倖な数学的精神に反するかも知れないが,今日のよ
うに数学を蛇喝のように毛嫌いする人間を多数つくりだすよりはまLであろう.
6)新しい教材開発
環行のカリヰェラム(学習桔導要領)は,骨子(ホネ)だけを示しているものと考えられる.
これをいかに肉づけして生徒に与えるかは,別な教授学上の問題であり技術である.教科書は,
ある程度この内づけをやってくれているが,いわゆる「教科書風」の姿勢は崩していない.教材
そのものも伝統的で,固く形式化されているだけでなく,教科書の教材構成も,最近は画一的で
便宜的なものになってしまっており,子どもの興味・関心・学習意欲をかきたてるには程遠い.
平 林 - 栄
数学内容は同一であっても,これを教材として構成する仕事は,本来的に教師のものである・こ
れは,全面的に教科書に譲り渡すべきものではない.子どもを魅了する教材構成は教師に固有な
研究債域に属し,その可能性は教師の専門性に属するといってもよいであろう.
ところが,こうした教材構成に熱中するとき,ときには寛行のカリキュラムをはみ出すどころ
か,数学の体系さえ崩してしまいたくなることさえあるであろう.勿論,寛在の学習指導要領を
大幅に逸脱することは許されないし,父母の要求する受験対策を怠るわけにもいかないであろう.
しかし,たまには,心ゆくまで自由な教材構成を行ない,これを子どもに適用して,その反応を
たしかめてみることは,許されていると思う.筆者は,こうした「ハミダシ教材」の構成を,罪
常に高く評価したい.というのは,このような「-ミダシ教材」こそ,行きづまった環状を打開
する,唯一の健実な手段となるであろうと考えているからである.今教えていることが,余り有
効ではないとわかっていても,それに代るべきものがないというのが,悲しいけれども現状であ
る.しかし,その代案を摸索することは,翼状を慨く以上に重要なことである.全国のすべての
数学教師が,一つでも二つでも,子どもを熱狂させ,数学的にも価値ある教材を開発し,その授
業構成を行い,その成果を結集することは,環状でわれわれのとりうる,最も健全な改革手段で
あろう14)それはまた,カント-ル(Cantor,G.)の言った,数学の本質である自由性にもつな
がった数学教育をもたらすであろう.
(結 語)
本稿では,わが国の数学教育の有効性を反省し,その乏しきの理由を二つに求めた.一つは数
学教育の構築に社会的観点,総合的近接の観点が薄弱であること,他の一つは,伝統的な初等・
中等教育の理念的断層がまだ解消されていないことである.そして,後半において,その健実な
改革手段をいくつか提案してみた.しかしながら,わが国の数学教育に真に欠乏しているものは
健全な教育哲学であろうと,筆者はここであらためて痛感している.これを欠いて,教育方法の
研究だけが,華やかに独走している環状には,一種の危険性さえ感じられる.教師教育の問題と
関達させて,この点の考察を他日試みたいと思っている.
引用文献と補註
1) Steiner, H. -G. : "The TME-Program and the role of the present conference , IDM-TME Inter-
naiわnal Conference on Foundation and Methodology of the Discipline Mathematics EduC:ation(Didactics
of Mathematics), University of Bielefeld, July 15-19, 1985.
2) PMEの目的は,その規約の第2条に,次のように述べられている.
(1)数学教育の心理学に関する国際的交流と研究情報の交換.
(2)心理学者・数学者・数学教師の協力によって,この分野での国際的研究を促進し,鼓舞すること.
(3)数学の教授学習の心理学的側面と,その意味するところについて,より深く,より正確な理解をすす
めること.
3)罪-法規:教育学事典3. p.430,同4. p.257.
4) Hirabayshi, I. & Ishida, T. : "Critical Remarks of Mathematics Curriculum in Japan", Proceedings of ICMI-JSME Regional Conference on Mathematical Education, Oct. 10-14, 1983, Tokyo,
Japan, pp. 77-81・
数学教育の有効性のために
5)例えば、アメリカのクライン(Kline,M.)は,下記の論説で,次のように述べている.
「今E]の中学校カリキュラムが, 19世紀の遺物だということを知る人は多くいない.それは.大学がより
高いレベルから数学教育を始めようと決めたとき,余り物を知らない大学教授によってつくられて,高校
に手渡されたものである.高校は,心ならずもこのようなコースを受け入れ まるで従順な子どものよう
v'si.'.j;寸・- 'I:亡.i二"C-'V ¥-l'ナー-.-!-!・'!-工-1i''Tl'-こ十てしま-,!∴ ('・':'村 人/* "一-二LI、):三人の5 11°だHが,口分の進
路・職業のために大学の数学 学んている.従って,高校数学を学んている丁へての生徒か卒業したとし
ても,その2.5%たけが,今日教えられている技術的数学を必要としている. (車略)普通に教えられてい
る代数や推何や三角H三は, (張.'/)の) 97.5ク'Oのものにとって,どんな肪値をもっているかを問うてみる必
要かもる. (中略)われわれは今や学校鼓学の革命を必要としている_ それは,伝統的カリキュラムをつ
ぎはぎすることによってはもたらされないであろう.」 ((見た筆者)
Khne. M. : "NACOME : Implication for Curriculum Designe", Afathematics Teacher, Oct, 1976,
pp.403-7.
6) Kratz, J. : "Wie kann der Geometrieunterncht der Mittelstufe zu konstruktivem und deduktievem
Denken erziehen. " Didaktik der Mathematik, 1972, 2. SS. 87-107.
なお,拙稿: 「算数数学教育における「育成教材」の本質とねらいについて二(第2巨1近畿数学教育談話会,
奈良教育大学, 1981, 5月30日,発表プリント)でも,この問題がとりあげられている.
7) Vollrath, H. -J. : Methodik des Begriffslehrens in Mathematikunterrickt, Ernst Klett Verlag, 1984,
S.31による.
8) Garofalo, J. et. a!∴ HMetacognition, Cognitive Monitoring, and Mathematical Performance Journal for Research in hlathematics Education, 1985, Vol.16, No.3, pp.173-183 による.
9)この問題については,次の拙稿においてgT-しく考察している.
(1)拙稿・. 「論証理解への退-その社会琉過程への着眼」 (第4回近畿数学衰育談話会,奈良, 1982, 9
月18日発表プリント)
(2)拙稿: 「中等数学学習の可能性---つの提言」 (第27回西El本数学教育学会例会,松山1984, 6月
19日発表プリント)
10) Sausseure, F. de著,小林英夫訳:一殻言語学講義(岩波書店, 1973, pp.173-173)
ll) Skemp, R.R. : HThe Functioning of Intelligence and the Understanding of Mathematics , Paper
presented at ICME, 1980.
12) Delvey, J. & McLellan, A. :Psychology of Numbers and its Application to Method of Teaching
Arithmetic, 1895, p. 157.
13) Wheeler, D. : "Humanising Mathematical Education ', Mathematics Teaching, No. 71, June, 1975.
14)数学教育の現状は,教科書も指導書も投げ捨てた気持で,たまには,やってみたい授業を=ヤケクソ"
にやってみることによって,はじめてその変革の契機がつかめるとする,次のエッセイは,筆者のここで
の所論と大いに一致するものである・
松田信行: 「これからの中学校数学教育への期待」 (東京書籍,教室の窓,中学数学, No.248, 1981, 6月)
なお,同誌No.251, 1981, 10月の拙稿は,このエッセイに関連している・
第二 数・数 学 教 育`こ お`ナ る 矢口 的 習 慣 の 形 成
(奈良ゼ ミ 昭和6 3年7 月 3 日) 平林 一条
一一- 小学re-1 ^n三のdi要性1
1 一つの憶測
心理学では、 「学習とは、習慣のよりよい変容である。 」と定義されている
と聞いているが、習慣とは何であるかについての説明は、おそらく 定ま ってい
ないであろう。筆者も このこ とばの常識的理解にとどま らざるをえないが、唯
一つだけ、 自分の憶測をっけ加えておきたい。 それは、習慣は、まず大枠が定
ま って、 それから後に、 その細部の造作がだんだんと詳し く 造られていく よ う
に思われる ことである。かつて、ドイ ツにいたと き、隣に新し く家が立てられ
るのを毎日続けて観察する機会があった。そのと き、ドイ ツの建物のつ く り方
は、 日本のそれと、基本的に異な った性格を持っているよ う に思った。 わが国
では、 まず、いわゆる建前といって、最初に主要な柱や屋根かつ く られそれが
平屋か二階建てかがすぐわかるほど、まず建物の大枠が早期に決定される。 と
こ ろが、ドイ ツの建物は、地下室から始めて、一つずつ煉瓦を積み上げている。
何階の建物になるかは、出来上がってしま う まで分からない。筆者は、 日本の
建築は和算の直観的な構成に通ずる ものをも っており、ドイ ツの建築は西洋数
学の理論的な構成に似ているよ う に思い、ドイ ツの友人にそんな話をしたこ と
を覚えている。
私の言いたいこ とは、習慣形成は、このよ う な日本人の建築法に似ている と
い う こ とである。 まず主要な部分が決ま りそれから次第に次第に細部が構成さ
れていく のではなかろ うか-とい うのが私の憶測である。 しかもこ の大枠の形
成は、かなり幼いとき に決ってしま う。 と く に、数学の学習に関する基本的な
習慣の枠組みは、小学校の中学年までにほぼ決定する-というのが、 自分なが
らあきれるほど大胆な憶測である。 というのは、 この時期に枠組みの構成に失
敗したら、 もう取り返しはつかない、つま り、数学のできるできないは、 この
時期に勝負がついて しま う、 とい う こ と になるからである。
実際、数学のできない子どもを相手に している先生のなかには、 この子はも
う教えて も無駄だと思われるこ と も多く あろ う。 しかし、生まれつき頭が悪い
という言葉は使いたく ない、むしろ過去の生育過程のどこかで、何かが間違っ
ていたと考えた く なる。 すなわち、後々 の有効な学習を支えるよ う な基本的習
慣がつ く られていない、 あるいは、かえ って悪い習慣がつ く られて しま ったと
言いた く なる こ とがあるO しかも、 その原因が、子どもよ り も、む しろ親や教
師にある と さえ考えられる と言えば、私は親や先生方からお叱りをう けるかも
知れない。 しかはど左様に、私の憶測は、 うかつに口に しえないものなのであ
る。
ある時期での習慣形成をやりそこなったら、 も う算数・数学の勉強をさせて
も無駄だ-と言ったら どう であろ う。できない子は、 も う逃げ出すであろ う し、
教師も教える意欲をな く するであろう。 しかし、そう いう悲観的な見方は許さ
れないであろ うO この時期に、 このよ う な習慣をっければ、算数・数学はよ く
てき るよ う にな り ますユー という言い方ができれば、それは最も教育的な言い方
になる。 そ う言えるよ う にするこ とは大変なこ とだが、 も しそ う言えるよ う に
なれば、私の憶測には救いがえ られる。
ー30-
しかし、憶測はまだ科学ではないo 私は、この憶測をでき るだけ実証的な言
葉で表現し、それを支える資料を集め、 これま での多 く の学説を参考に し、誰
にでも納得されるよ う な形に したいと思う。 そ して、そのよ う な基礎研究を望
める こ と によ って、算数・数学の学習指導に、有効な方法を導入する こ と も可
能になっ て く るであろ う。
医師が、救いのない病人に当面したと き、どんな態度をと るであろ うか-私
はこれを考える と、自分は医者にならな くてよかったと思う。 しかし、算数・
数学教育研究者と して、救いのない子どもにする前に、適切な手をうちたいと
思う。
2. 知的習慣
習慣の形成は、 まず大枠が決って、次第に細部がく わ し く 構成されてい く と い う言い方は、 あま り明確ではない。 むしろ、習慣はいく つかの基本的構造
(母構造)から出発して、 それが相互に組合わさ って、一つの構造的体系と し
て有機的な発達をとげる-と ピア ジェの発達心理学的な表現にすれば、最近の
数学教育会では受け入れられるか も知れない。 しかし、私の場合ピア ジェ の「
代数的・順序的・位相的」といった、数学的構造にアナ ロ ジ-を求めた母構造
をそれほど、明確に指摘するこ と はでき ない。 それだけに、単に「大枠」と し
か表現できないのである。
心理学的に言えば、 この大枠は、 「傾性」、 「性格」などと通ずる ものから
知れないが、私の場合は、かな り知的な側面に限定されている。 そ もそ も習慣
には、生活的習慣、道徳的習慣、身体運動的習慣などがあって、 これらの方が
日常よ く 知られているが、私がいま関心をも っ ているのは、 いわば、 「知的習
慣」であ って、 このほう は、 日常あま り習慣と して意識されていないO
しかし、 たと えば、いく ら英語を勉強して も、なかなか英語が聞き とれなか
った り、話せなかった りするのはなぜか。おそ ら く そんな人には、英語で考え
た り、 言己侵した り する こ とができ ないか らであろ う。 私は、 思考も記憶も、 一
種の習慣の上に行われている、いや習慣そのものである と考えている。 そ して
これを、数学学習上のいろいろな習慣をふく めて、 「知的習慣」と呼びたいと
思う。 そ して、 いまのと こ ろ、 こ のい く つかの類型を例示する こ と しかできず、
その全体を頬別して提示するこ とはとて もできない、その二三を例示してみよ
う。
1 )内容よ り も形式を見る習慣
この中には、数的あるいは図的パター ンをと らえる習慣が含まれる。例えば
情報の概念も、情報的状況を一つのパターンと して意識できる ことから形成さ
れる。下図で、 1などに較べて、 2 を特に目立ったバク - ンと して意識しない
では、乗法概念は学習できないであろ う。
図
1 000 00 0000 0 000 000 0
2 000 0〇〇 〇〇〇 〇〇〇 〇〇〇 〇00 000
2 )全体と個を絶えず関連させる習慣
これは分析と総合とを同時的・相補的に行う可能性を意味する。全体に個を
位置づけ、個から全体をま とめあげる可能性である。これは言語的理解の基本
SIC
的関係と して、算数・数学を超えて、一般に言語学習において最も重視される
べき習慣である。 いわゆる「読解力」と言う ものもこれに属するソ シュールに
よ って指摘された言語の二つの基本関係:統合・連合の関孫と同じ ものといっ
て よ い。
3 )柔軟な概念化の習慣
これは、例えば、ディ エネスの指摘した、概念形成における開閉の力学に通
ずる ものといえるo われわれは、 ある概念を も って新しい事物を観るが、 その
事物によ って既成概念を修正する こともあり う る。例えば、 「底辺」とい う言
葉は、三角形の置かれた位置に依存していたが、斜めの辺もそのま まの位置で
も「底辺」となり う る ことを理解するのに、子どもにはかなりの抵抗があろ う。
概念を閉じた形で固守するか、開いて新しい内容を受け入れるか、その判断は
時と所によって一概に定ま らないが、教育では招じる ことか強調されがちであ
る。
4 )よ り基本的なものを志向する習慣
大けさに言えば、 これは哲学的精神と言ってもよいであろ う。個々の現象の
背景に、それらの現象を統合する原理がある と考え、それを知りたいという気
持ちを持つこ とである。 そ してそれが分からないと、時には不安に陥るこ と さ
えある。 ち ょ う ど、歯磨きの習慣をもった人が歯を磨かないと気分が悪く て眠
られないよ う に. 西洋の数学は、歴史的に、たえず第-原理を志向するギリ シ
ャ哲学的精確に支えられて発達してきたが、個人の数学的成長にも、それなり
の哲学的精神が必要であろ う。算数・数学を単なる実用的観点だけから評価す
る子どもに してはならない。 その根底にある美的なもの、時には神秘的なもの
に触れさせるこ とが必要である。私はこれを知的好奇心の覚醒と言っている。
3. 4年生の発達的重要性
すべての習慣がそうであるよ う に、こ う した知的習慣も、幼いと きに形成さ
れるO 私はその時期と して、特に小学校4年生あたり を重視しているo その理
由は、あま り実証的でも、理論的でもないが、小学校の先生方との話のなかか
ら、いろいろな形で黛めることができた。 4年生の特色と して、私が聞いたな
かで、
・頭デ ッ カチがなお って く る。
・幼児が少年・少女になるO
・お互いに討論ができ るよ う になる。 (3年生までは難しい。 )
・文章をかく こ とが面白 く なる。
・長いお話を聞く のが好きになる。
な どは私にも興味があ った。
こ う した単純な形で3年生にはないが、 4年生には現われて く る種々の身体
的精神的特色をもっと多く集めてみるこ とは面白いであろう。勿論、 まだ資料
的にはきわめて責しいが、それでもすでに、ピアジェの発達心理学の所説と関
連させて、 「具体的操作から形式的操作への移行期のはじま り」と して、この
4年生の知的発達の様相が特徴づけられるのではないかと思っている。
ピアジェの「形式的操作」という用語は、決して明快な言葉ではない。 しか
し、算数数学で、量からはなれて純粋に数とその計算が考えられるようになり、
11秒-
具体的事物からはなれて図形その ものを相手に し う る よ う にな った知的段階を
き している と考えてよいであろ う。 そ して、敬や図形か、専ら具体的事物を処
理する方法であ った段階から、数自体・図形自体を思考の対象にな し う る段階
へ移行しはじめるのが、小学校4 年生ごろである。
思考の方法が思考の対象への転化する ことは、 フ ァ ン・ヒー レでは学習段階
の上昇を意味するが、この小学校4年での知的発達は、思考の対象か具体的事
物から、はじめて純粋な数や図形へ転ずるという点できわめて画期的といわね
ばな らないと思う。 そ して前述の知的習慣とい っ たものは、組数や純図形を扱
う のに必要な心的態度と して要求される ものであろ う と、私は考えている。
しかし、 これはかな り粗雑な言い方であるのみな らず、かなり独断的である
ので、以下もう少し慎重に検討してみたい。
算数・数学はすでに長い歴史を もっているが、整数の四則演算は昔からだい
たい4年生で完成する こ と になっているのは注目すべき事実である。 整数の四
則演算の完成は、数が全体と して一つの構造をもったという こ とを意味する。
構造をも ったという こ とは、決して意識されたという こ とではな く、新しい認
識の対象と して子供の前に出現したということである。 この点では現代数学の
研究は構造の探求である(プルパキ)といわれている こ とにも通.じている よ う
:こ思 -1。
こ う した構造をもった全体を探求の相手にするには、主体と して子供のなか
に、 これまでと は変わった心理的態度が用意されなければな らない。 それは習
慣の形成といってもよいであろ う。 と もかく 相手は具体物ではな く、摘象的観
念であるD 頼り にでき る ものは吉己号であ り、 と きにはイ メー ジである。具体物
を柏手に していたとき とは違った態度が要求され、 それが身についた形で習慣
とな らな く てはな らない。 そ して、 こ う考えた上で、前に思い付きのよ う な形
で挙げたい く つかの習慣の項目を見直すと、それはいずれも、 こ う した抽象的
概念を取り扱う のに必要な習慣である こ とに、あ らためて気付かれるよ う に思
-") ,
実は、 この習慣、いわば抽象的思考に必要な習慣は、 こ こだけに必要な もの
ではな く、以後の数学の学習にずっ と引 き続いて必要と される もので、 こ こが
その最初だといえる。前に、 この時期を失った ら取り返しがつかないといった
が、 それはこの習慣が永続的性格をも っ て形成されるのは、 この時期であ るか
らであろ う。 む しろ、 この時期の習慣は、それ以後の数学学習に必要な態度の
原型とな る、 と いった方が正確か も知れない。
こ の知的習慣を も っ と正確な形で記述するこ と は、 ま だ私にはできないO 一つ
の構造を も った抽象的対象の存在が意識されたと き、それのよ りよい綿密な認
識へと主体をかりたてる もの、そ してそのよ うな探求活動を有効に推進する も
の、それが知的習慣と呼びたいものである。そ してその体得が、算数の四則計
算以上の数学の学習を可能にする決め手になるのではないかと思う。
4. 指導上-の示唆
算数・数学の学習を、習慣の形成と して記述すると、 どう しても一般的な表
現になるo そして、そのままでは実際指導には何の役にも立たない。 これをど
うすれば、教育技術に有効に反映させられるかという こ とを、考えてみな く て
はならない。まず、前述の習慣の実質をもっと正確に分析してみな く てはなら
-33-
ないO 次にそれをこ この学習指導の実態にあう よ うに具体化しなければな らな
い。 こ こでは、 そんな大仕事を組紙的に しないで、 これまた思いっ く ま ま に、
教師の守るべき心得、 と きにはやってな らない禁止事項と して、い く つか並べ
て みよ う。
1 ) 「次に何を したいか-」と問う よ う に しよ う。
「 1、 3、 5、 7、 さて今度は何をかく か。 」 「三角形の角の和は二直角
と分かった。 さて今度は何を調べたいか。 」
2 )子どもに名前をつけさせよ う。
名前をっける こ とは、子どもの主体的な認識活動の自然な要求である。 定
義は認識上の必要から生まれる ものであり、命名は認識結果の瑞的な表現で
ある。 [定義や命名活動の数学教育上の考察は、十分に挑戦に臆する研究て
ある。 ]
3)他人、と く に友達に分かるよう に説明させようC また、 どう説明した
らよ く 分かるかを考えさせよ う。
おそ ら く、 このよ うな こ とが可能になるのは、 4年生あたりではなかろ う
か。幼児の本性である「自己中心性」からの脱却、他人の説得の必要上から
の論理の形成が、 この時期には明確な形で始ま るよ う に思う。
4 )子ども自身に、その多様な認識を総括させよ う。
「16×25-1600÷4、 35×25こ-3500÷4、 ・とんな こ とが分かっ たか、
またど う してか。 」
「1+3-4、 1+3+5ここ9、 1+3+5+7- 16 こ のこ と はどんな こ とを
示しているか。 」ただし、 この際さびしい言語表現を要求してはならない。
総括は、言語的でも、 と きには身体運動的に も行われる。
5)数計算よ り も数関係に注目させよ。
4年生では、整数の四則計算が一応完成し、整数全体が一つの数学的構造
対と して見渡せるよ う になる。 も う、 「あっ た。 ちがった。 」に算数の興味
をな く しは じめる頃と思う。 こ こで、子どもを虚無主義に、 ある いは新しい
学習意欲をもた ら し う るかは、単なる計算主義をどう決別するかにかかっ て
いる。 [ある計算指導方式はこの点で失敗している! ]数計算から数関係へ
の切り替えが、 4年生での指導上の決め手になる。 [これは、教師の数学に
対する認識と、 きわめて強く 関連しているよ う に思うO ]
6)写生図から関係図への転換のための描画を!
図はこれまで、外界の事物の写しであった。 しか し、やがて概念化する と、
外界とは離れて、むしろ外界を見る道具と して主観的に構成された ものとなる。
この間の図形概念の質的変化は、 まだ分析されるべき問題がたく さんあるが、
最も重要なことは、子ども自身による描画であろうO 幾何図形は、潜在的な規
則にしたがって、かかれる。その規則に馴染むことによって、初めて幾何学的
関係の認識と表現が可能になる。 (未完)
-3.1-
算 数・数 学 教 育 とこ お'ナ る 矢口 白勺 習 慣
の 形 成 (続)
平林一条
(奈良ゼ ミ 昭和6 3年9 月1 1日)
先回は、かなり大胆な憶測と して、算数の学習にとって決定的に重要な習慣
の枠組みが定ま るのは、小学校4年あたりではないか-という ことを述べた。
おそら く 多く の反論もあろうかと思うが、それは「憶測」と して申したこ と
で、余り科学的な実証をと もなったものではないので、むしろ聞き流していた
だ き たい。
今回もまた、充分実証的ではないが、日頃不審に思っていることを述べて先
回の補足に した。
1. 問題解決学習について
最近、算数科における「問題解決」に関する書物を二、三読んでみたが、次
の二つの疑問を持った。
第-は、 「どんな授業も問題解決的に展開せねばならぬのかO 」
第二は、 「 1年から6年まで、問題解決的な同じパター ンで指導されてよ
いのか。 」
第一については、私自身の答えは否定的である。もちろん私も問題解決学習
の効用・重要性を認めているが、それにも拘らず、すべての学習は問題解決で
あり、その指導は問題解決的に行わねばならないという意見には、賛同しかね
る。練習など、機会的反応の技能訓練の重要性も、算数では認めたいからであ
る。 算数科における問題解決学習は、社会科などとはちがって、 D e w e y
の教育哲学より も、むしろ「意味論(meaning theory)」に関連をもってきた。
つま り、問題解決的な展開をすれば、数学内容が意味充実して学習される とい
う こ とであったO そして、理解に必要な、子ども自身の主体的な活動性を触発
するのに、 この学習指導法は有効である と されてきた。
しかし、今日の算数科の問題解決学習は、それ以上のものを志向している。
それは「筋道を立てて考え、処理する能力と態度」の育成という、学習指導要
領の目標の実現を目指 している と も言える。 これは、有効な学習方法・指導方
法を超えたねらいをも っているD 意味論的関連にと どま る問題解決を「理解方
法」と しての問題解決というならば、後者は「思考陶冶」をめざしす問題解決
学習といえよう。
第二の設問は、この区別に関連している。 「理解の方法」と「思考陶冶」は
もちろん相互に関係は しているが、 そのどち らに重点をおく かとい う こ とてあ
る。私は、低学年では前者に重点がおかざるをえない し、高学年では後者の指
導が可能になる。 そ してその境目が、 4 年生であるよ う に思う。
算数のみならず、すべて高次の思考は、たえず自己の思考を対象化する と こ
ろに特徴がある。 いわえる「反省的思考」がそれであ る。 自分の考えを検討で
き る とい う こ と は、 自己を外からみる可能性を もつと い う こ とであ り、本来自
-35-
己中心的な子どもにと っては、それは脱字自己中心という こ とを意味するo
それは連続的な発達のプロセスではあるが、 どう も4 年生あたり に、 その急速
な展開期がある よ う に思われる。 Piagetの「形式的操作段階」への転換期も、
こ の頃であろ う。
従って、低学年と高学年では、 問題解決学習といっても一律にはいかないO
一年生に、 「ど う考えますか」と問うのは愚か しい。 「考えま し ょ う」とい う
の も無駄であろ う。意味論的理解が、 この段階の子どもには精一杯であろ う と
思う。最近の出版物をみる と、 「問題解決」と い う言葉が、 と りわけ低学年の
算数指導を誤らせている。
低学年では、 よい実際的素材を選んで、 とんな時その計算を使う と よいか、
またどう使うか、 さ らにまた、使ったら どういう よいこ とがあるかを、事実に
即 して教えればよい。 はっ き りいえば、事実とそれを表わす言葉と数理とを正
確に関係づけられるよ うにするのが目的で、問題解決的形態をとるのは、その
ための手段、ゆめゆめ考え方をねるなどとは考えないはうがよいと思うが如何。
2.算数における「事実」の役割
「算数」と「数学」との違いはどこにあるか。また、なぜ小学校では算数で、
中学以上は数学なのかo
私は先生方が、 この問いをあま り深刻に考え られないよう にみえるのが不思
議である。 「数学のヤスイ ところが算数なんだろ う」と考えられているよ うで
あるが、実は両者は程度ではな く、質がちがっ ている、 と私は想う。 算数は、
事実を重要な要素と して持っ数学である といいたい。数理の理解も、理論的
(論理・数学的)ではな く、事実に行われると ころに算数の特色がある。
1 + 2 ニ- 3 は、 ペアノ の公理から漬揮されえるが、算数ではオ-ジ手か何かの
事実によ って理解される。 2 × 3 は2 + 2 + 2 と して定義してもかまわないが、
「 1 mが2kgの針金3 m分の重さを求める計算」と考えないと、 2 × 0. 3 (0
.3m分の重さ) -拡張する こ とができない。
このよ うに、事実は算数の重要な要素であるが、これまでの算数教育では、
「事実とは何か」とか、 「算数における事実の役割」とかについては、あま り
積極的に考察されたこ とはないよ うに思う。
「事実」という言葉が、算数科でと く に強調されるよ うになったのは、改造
運動の時代、わが国では大正の末に始ま る。それは、 E.Thorndikeの影響のもと
に、算数の問題の現実性の強調、架空性の排除という こ とつらなっていた。応
用問題は「実際問題」、 「事実問題」と名を代えたこ と もあった。その趣旨は、
現実問題-の学習転移を可能にするものは、それ自身現実的な問題でなければ
ならないという ことにあった。
しかし今日からみれば、この主張はかなり軽薄なところもあった。それは次
の二点を見落と していると ころである。
1)数学の重要な本性の一つは、言語・記号性にあり、それは所詮架空性か
らまぬがれえないとい う こ とである。
2)現実は確かに数学の応用の場であるが、それはまた、数学を理解する場
であるこ とが、あま り強調されていない。
ー36-
数学の理解の手段と しての現実は、すでにある程度の理想化・抽象化を経て
いるO 少な く と も一ク ラ スの子ど もの共通の話題とな り、 さ らに文章と して述
べられれば、それはも う現実を離れているO そ して、算数で事実と いわれる も
のは、 こ のよ う に、理想化され、言語的に形式化され、 文章化された現実であ
る。
〈 1こ1 2 5 円のかん電池を、 3 7 こ買いま した。代金はい く らであろ う か。 》
という文章問題は、現実に、誰が、 どの店で、 どんなかん電池を買ったかを
問題にしているのではない。 いわば、架空の現実なのである。 それは、 1 2 5
× 3 7 という計算が、 どんな現実的場面で用いられるかを示唆している。
蛋 1 2 0 円で、 1個4 0 円のパンは、何個かえるでし ょ うか。 1 0 円玉におき
かえて考えま し ょ う。 〉 (4 年)
こ こでは1 0 円玉という現実的事物が、 1 2 0 ÷ 4 0 という計算の仕方を理
解する手段と して用い られている。 しか し、 こ の1 0 円玉はいわゆる模擬銭で
あ っても差し支えない。
上で引用 した二例は、 それぞれ「事実」の二つの役割を示唆しているO 第一
の例は、数理の応用の可能性を、第二例は数理の理解をねら っているQ そ して、
いずれも、理想化・言語化・形式化された現実と しての事実である。 そ して、
こ こで強調したいこ とは、現実をかよ う な学習の手段と しての事実にまで理想
化・言語化する こ とは、 それ自体大きい学習である と い う こ とである。
私は、 こ の学習が、 ある程度完成するのは、小学校4 年生あたり ではないか
と みているO そ して、 これ場までは生の現実を離れては思考できなかった子ど
もが、 これから、架空の現実(私の上の語法では)事実を相手に思考でき るの
みか、それを利用 して思考でき る よ う になる、その時期への出発点が4年生の
よ う に思われる。
これは言語発達からみれば、言語充分な伝達性・社会性・公共性を持つよ う
にな った こ とを意味するであろ う。 それは言語という一つの習慣の定着と もい
A"co"
-37-
授業の「自然な文脈」
ドラマ、 落語とのアナ ロ ジ平林 一柴
It:
先般のゼミ ナールで、 「自然な文脈にのせての授業」が望ま しいと述べたと
ころ、重松先生から「 (自然な〉 とは、どんな意味か」という質問があった。
この次までの宿題と して考えてく ることになっていたので、今回はそれについ
て私見を述べる こ とに したい。
1_ 授業はドラ マである
概して「授業」というのは、非常に類型の多い、しかも複雑なプロセスであ
り、 その実体を把える方法には、比職的方法ないしはモデル的方法であろ う。
例えば、 「授業はドラマである」というのもそうであろう し、 「つめこみ授業」
と いうの もそ う であろ う。私は、 「つめこみ」の物理的ニュ ア ンス とは別に、
生物学的アナロ ジーによる「育てる授業」があってもよいと思っているが、最
近は両者の区別は、 「形式主義」と「構成主義」に対応しているよ うで、比職
的でな く、本質論的・イ デオロギー的になって、 かえて分かり に く く なっ てき
た。
「自然な文脈」について語るには、授業をドラマと してみるのが都合がよい
よ うである。そ して、ドラマをモデルにとって授業を論ずれば、自然な文脈に
のせて展開される授業は、 どんなドラマに対応するかを考えればよいであろ う。
この、 いわばモデル的考察が有効な成果をう るためには、まず次のこ とが必
要であろ う。
第-は、両者に本質的な対応がっけられる こ と。
第二は、ドラマは授業よ り もわかりやすいこ と。
の二つであ るo
Lかし、 この要請は実はかなり哩味であり、またむつかしい。 というのは、
罪-の「対応」ないしは「類推」が「本質的」であるかどうかは、結果的に判
断すべきことで、実際はデタト コ勝負という こ とになるだろう。また、第二の
保証もおぼつかないこ とで、私自身、 「授業論」よりわかりやすい「演劇論」
があるかどうか、 承知 していない。
かつて、算数・数学の「架空性」、と く に文章のフ ィク シ ョ ン性を問題にに
たとき、私は、いく つかの演劇論を探して読んだことがあったO 大して役立た
なかったので、今はほとんど記憶に残っている ことはないが、ただ近松門左衛
門の「芸は虚実の皮膜の間にある」という言葉だけは、印象深く覚えており、
たとえ虚構の文章を扱う授業でも、教師の芸一つで子どもを感動させるこ とが
できる と 自信を深めた こ とがあ った。
こ こでは、頼りになる演劇論を知らないで、 きわめて常識的なドラマ観で、
授業を考察してみるこ とにする。
まず、ドラマには台本がなければな らない。 そ して、演出家、俳優、舞台、
大道具、小道具、 さ らに観客がある。 これらに対応する ものが、授業では何で
あろ うか。 「授業はド ラマである」とい うからには、ある程度この対応がっけ
-35-
られるはずである。
ところが、この対応づけは、実,に完全にはいかない。教師は塙出家か俳優か。
ま た生徒が観客にすぎないとすれば、教師は失望するであろ う。実は、 こ の対
応は、数学でいえば、 「同型」ではな く て、せいぜい演劇から授業の中-の(
into)準同型である ら しいO つま り、演劇への授業の類比は、 きわめて部分的
に しかきかない。
ま あ、 それでよいと して も、 「自然な文脈」だけは、 この対応に従って考え
てみよ うo それは、ド ラマではまず「台本」の もつべき重要な属性という こ と
になるだろ う。そ して、 「台本」は、おそら く 教科書よ り も、 「授業案」に対
応するであろう。 そして、 「自然な文脈」は、すぐれた台本の持つ属性と して、
す ぐれた授業案の持つべき質を示唆するであろ う。
そこで、 「自然な文脈」をも ったドラ マ台本とはどんな ものか、 と問う てみ
よ う という こ と になるが、 それよ り も最近の面白く ないテ レ ビ・ド ラマ辛抱し
て見通して、そのクダラナサを反省するのが、おそら く有益であろ う。
実は、私自身、 そのために特定のテ レ ビ・ドラマを見たと いうわけではない
が、 これまでみた多く のテ レ ビ・ドラマをあれこれと思い出 してみながら、一
つの重要な こ と に気かついた。 それは、
「自然な文脈」だけではよい作品では
な く、感動を与えない。 それと と もに「意外性をも った文脈」でもなければな
らない、 とい う こ とであ っ た。
例えば、 ある と き、ある場所-、突如としてある人物が現われて、事件が一
挙に解決 してしま ってアホ ラ シク なったこと もあるが、全く 当然な こ とが次か
ら次-と起って、全く 予想通り に話が終わって しま ってガッ カリ したこ と もあ
った。前者は極度に不自然な文脈をもち、後者は自然な文脈をもっているかも
知れないが、全 く 意外性を欠いている。
自然性と意外性一一 一一見この二つは相反する もののよ う に見えるが、実は、
よい台本を構成するのに両者は相補的である と感じと ったこ とは、私にと って
はち ょ っ と した発見であったo つま り、 よい文脈とは、 自然性と意外性のほど
よい調和から生まれる。 それは、塩と砂糖のほどよい調和が美味をつ く り だす
よ う に、ドラマの感動をつ く り だすものであるO
この両者の相補性を、いま少し立入って吟味してみる こ と も、私にと っては
非常に有益であ った。それは、自然性は事態の理解に役立っており、意外性は
事態への関心を持続させている という こ とである。誰も分からないこ とには感
動 しない し、関心がな く て も感動 しない。 それは、観劇にも、授業にも、共通
して言え る こ と であろ う。
ついでに、 も う一つ付言すれば、上述の「感動」こそ、ド ラマに も共通した
成果である という ことであるO ドラマについては当然であろ うが、授業につい
ては、一部の方法学者やベテラ ンの教師によって主張されてはいる ものの、一
般にはまだ、このことは充分に理解されてはいないよ うに思う。実際、 「つめ
こみ」が「感動」をも って行われるであろうか。
2. 授業は落語である
授業の「よい文脈」についての論議は、おそらく、実際それを実感させうる
-39-
ような授業をしてみせるか、少なく ともそのような授業案を具体的につく って
みせるかするまでは、完結しないであろう。この意味で、私も多く の授業案を
探索したり、自分でもそのつもり になって授業案をっ く ってみたり したいと思
っ てい る。
しかし、 それに して も、今日の退屈な授業案の氾濫は、 どう した ものであろ
うか。おそらく、その記述形式にすでに退屈さの原図がひそんでいるのであろ
う。導入・展開・まとめ--- といった指導案の形式は、前世紀の-ルバルト
の段階教授のナ レノ パテと いう感じがする。
そ もそ も-ルバルト の教授学は、 おそ ら く ヘルバルト 自身の意図に反して、
実践的には今日の形式主義的なものにな ってしま った。つま り、能率的な「っ
めこみ主義」と も言える。そして、そのような授業に「よい文脈」だの、 「自
然な文脈」といった、かな り文芸的・文学的質を要求するのは無理であろ う。
今日の多 く の授業が、 どうかする と、 こ う した質を見過ごしがちなの も、 その
-ルバルト的遺伝的体質による ものかも知れない。
も と も と、算数・数学は文学・芸術と は異質な ものだとい う考えは一般的に
あ った。そ して、数学教師の中には、おそら く 文学系の教科は得意でなかった
か、面白 く なかったかした人も多いであろう。そ う した人に、算数・数学の授
業の文学的展開を求める こ とは、 あるいは無理かも知れない。 しか し、
こ こではそんな要求は していないっも り である。 ただ、子どもに感動をつ く り
出すよ う な授業をしてほ しいと思うだけである。 なぜな らば、子どもは感動と
と もに、 は じめて効果的に学習するからである。
私は、 ある教授学者と と もに、 「授業はドラ マである」とい う比職の妥当性
を信じているが、 とき と して、 「算数・数学の授業は落語である」と言いた く
なる こ とがある。勿論、最近よ く みる軽薄な落語ではな く、老皇帝な師匠によ っ
て漬ぜられる上質の落語である。古典落語は話の筋はきま っている。 それをそ
のまま話したら、全くク ダラナイ話になる。 しかし、それを芸という もので仕
立てるこ とによ って、何十分間か観客をひきつけて離さないのがす ぐれた落語
家である。
算数・数学の内容も、大抵きま った ものである。数学者からみれば、ク ダラ
ナ イ ほど程度の低いものであろ う。 しか し、それを授業と してどう仕立てるか
は教師の芸である。と りわけ小学校の算数の場合は、それがないと子どもは聞
いてくれない。中学校・高等学校の数学になると、それがないために、生徒は
退屈する どころか嫌になってしま う。
も う少し、落語とのアナ ロ ジーを追ってみよ うo
落語の話の内容あるいは素材はきまっているが、その演じ方には大幅な自由
性が許されているように思う。例えば、いわゆる「マク ラ」という出だしの部
分は、その演者に固有なものであるらしい。その「マク ラ」が自然に本奇につ
ながって、いっの間にか本題に入ってしま っている、という ように運ばれるの
が、 うまい落語だという こ とを聞いたこ とがある。
この「マク ラ」は、授業の冒頭の部分であり、おそ らく教師が授業で発する
最初の言葉である。そして実はそれが授業の成否をきめるものとなる。
先日教生の授業を見たとき、のっけから嫌になってしまった。 「今日は移動
-FE-
と い う こ とをや り ます」と いって、 「平面上の移動」と板書したo 味も素っ気
もない出だ しであ った。 小学校でも、 いきな り「分数のわり算」などと、教科
書の表題をそのま ま板書して授業を始める人があるO 苦「代用教員」という、
いさ さか侮蔑的な言葉があ ったが、 これではま るで「教科書代用教員」である。
「教科書」は素材であ り、 それを忠実に再現しても授業にはな らない。
落語は、一応話の筋がき ま っているので、 自然な文脈もへ ッ タク レもある も
のか一一 一 と思われる人があるか も知れないが、実は生きた文脈は単なる筋で
はないO 文脈は山脈か らの比職かも知れない。 高低さ ま ざまの峯があり、尾根
があ り、渓谷があると同様に、授業にもいろいろな意味での高低・強弱・濃淡
があ って、 はじめて活気のある展開となる。それが自在に、適時に、効果的に
置かれた ものが、 自然な文脈、生きたよい文脈といえよ う。
しかし、 こんなこ と を言ってみても、所詮ご理解はいただけないであろ う。
授業の極意は、口先や筆先で伝えられないという点でも落語の修業に似ている。
そ して、今の教師は、修業という点で、落語家には及びもつかないという こ と
を、残念にも、恥ずか し く 思う こ とである。
3. おわ り に
最後に、 ある授業のスケ ッ チを紹介して、 「自然な文脈」のある授業の例を
ご想像いただこ う。
先生がダンボール箱に一杯小石を入れたものを教室に運んできた。
「みんな一つずつこの石をと り な さい. なるべ く 大きそ う なやつを- --」
「 2 組に分かれま し ょ う。東と西という ことに しま し ょ う。 そ して、 これから、
石に角力をと らせま し ょ う。 」
子どもたちはまだポカ ン と している。先生が秤をと り 出したので何とか話が
わか りだ した。
「まず、番付をきめま し ょ う。横綱の石、大関の石・ ・と重い順にきめて く
ださ い。 」
次に先生は、天秤をと り 出した。
「さあ、土俵も出来ま した。前頭の一番下同志から耽り組みを始めま し ょ うO
東・西どち らが勝つで し ょ う。 」
3年生の「重さ」の単元の指導記録である。 この中に、どれはと数学的な内
容があるか、それがどれほど自然な文脈にのせられているか---それをトク
と考えていただきたいと思う。
オ ソマ ツでございま した。 オアトが宜しいよ うで- I (昭63.12.ll.奈良ゼ ミ 京都御車会館にて)
li上
平 林 - 発 先 生
御年譜
岐阜県武儀郡下牧村(現・美濃市)谷戸に生まれる
大正1 2 年8月
-J-一 腰声
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岐阜県武儀郡下牧村片知尋常小学校卒業
岐阜県立武義中学校入学
広島高等師範学校理科第-学部入学
同 上 卒業
広島文理科大学数学科(数学専攻)入学
同 上 卒業
広島文理科大学研究科入学
同研究科退学
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年年年年年年年 年年年
昭和2 2
広島女子高等学校附属山中高等女学校教諭
Il;出<¥ミiL烏世等Iu'j等三sさKfk諭
広島大学教育学部附属東雲中学校教諭
広島大学助手(教育学部)
広島大学助教授(教育学部)
広島大学大学院教育学研究科担当(数学教育)
広島大学教授(教育学部)
教育学博士の学位取得(数学教育者と しては日本で初)
奈良教育大学教授
奈良教育大学 定年退官
著書
「算数・数学教育のシツエ- シ ョ ン」 「数学教育の活動主義的展開」 (著)
「算数・数学科重要用語3 0 0基礎知識」 「数学科教育法の研究」 (以上編著)
「算数教育を見直す」 「中学校数学教育を見直す」
「算数教育一現代の課題と発展」 (以上共著)
-Llニー
w一 十* *ヒ 三」三 の f:5」 ろ 姿(こ き -iご
・f<松 敬-A
平林-柴先生には、定年ご退官をご健康で迎えられ、お喜び申し上げます。
こ こで、簡単に、先生のご紹介をさせていただき、お礼の言糞を述べさせて
いただき ます。
平林先生とのお付き合いは随分長く なります。広島大学教育学部でご指導を
受けてからとなるとかれこれ20年近く なります。 その間、 ご専門の数学教育だ
けでな く、 いろいろな こ と に対して、先生の背中を見ながら、見よ う見まねで
追いかけてきたよ う に思います。
平林先生は、 29年間、広島大学にご在職され、 その間、教育学部の要職だけ
でな く、大学の評議員も務められ、数学教育学、教科教育学の発展のためにご
尽力されてきま した。
昭和60年の4 月に奈良教育大学へ来ていただけま したのは、 よ く お話しにな
り ますよ う に、歴史的な奈良への魅力と小学校教育-の情熱にある よ うです。
広島大学では中等学校の教員養成が主体であったにもかかわらず、長い間、小
学校ゼ ミ を主宰されてきま した。 また、奈良教育大学での最終講義も、小学校
での授業で締め く く り たいとのお言葉どおり、 4年生で「き ま りをみつける」
という授業をされ、 『授業は、教師も遊ぶこ とが大切であるO 』と いう こ とを
身をも って示されま した。
この間、在職期間はわずか4 年でしたか、次のよ う にいろいろと ご活躍をさ
れていま す。
a.数学教育学、教科教育学の樹立にむけてのご活躍
数学教育学が教科教育学の-構成員であり、子どもの学習指導についてどの
よ う な役割をもつのかという問題を常に追究され、理学部の数学、教育学部の
教育学、心理学と違っ た学問の独自性を確立されるために努力されてきま した。
また、 El本数学教育学会の副会長と して、理論と実践の統合にご腐心されま し
た。 さ らに、教科教育学の成立については学術会議でも積極的に議論されると
と もに、 日本教科教育学会の副会長と して、学会の発展に尽く されま した。
さらには、西日本数学教育学会の理事長、近故数学教育学会の理事などの裳
職を務められるだけでなく、常にご発表され、研究の指針を示されてきていま
す。
数学教育に関してのご活躍は国内に関らず、海外にあっては、 1988年に-ン
ガリーで開催された、数学教育国際会議(I C M E)での中学校段階の研究分
科会のチーフオーガナイザーと して、準備から報告書作成まで随分ご苦労され
ま したo また、数学教育の心理学に関する国際研究グループ(p M E)の日本
代表委員と して、毎年ご出席とご発表をされています。さらには、数学教育学
の理論学会(T M E)にもご発表されています。
-as
b.教育課程審議会の専門委月と してのご活躍
昭和61年10月から専門委員と して、新教育課程の作成に参画 して こ られま し
た。 数学教育に関しては、中学校における「課題学習」の新設をご提案され、
数学的な考え方や数学-の興味・関心の育成を積極的に推進されています。
C.学内での ご活躍
学内にあっては、人事委員会、国際交流委員会の要職を務められ、 さ らには、
大学院設置準備委員会委員長と して、大学院英語教育専攻の成立のご苦労をい
ただき ま したO
そ して、何よ り も、教師教育と しての本学の教科教育学研究、教育の進展の
ために多 く の示唆と次のよ うな課題を残されています。
① 教科と教育学の統合を志向 したカリ キュ ラ ムの樹立
② 教科の教育の本質に根ざした教育内容の準備
③ 教科と人間との関係を明確にした教育観の樹立
④ 教育学部における教科教育学の中核的自立
このよ うなご紹介をする といかにも専門だけに窮々 してこ られたよ うに聞こ
えますが、先生の数学教育が人間愛に根ざしているよ う に、実に、人間的にも
幅広く過ごされま した. 。 何よ り も多彩な趣味の持ち主です。古く は柔道を
得意とされ、 4段の段位を持っておられます。昨年の数学科研修旅行では、学
生を相手に得意技をご披露されま した。
次は、何といっても俳句でし ょ う。句会の『さいかち』の同人と して活躍さ
れ、新人賞も受賞されています。初めて奈良でお作り になったのが次の句とお
聞き しています。
道祖神これより古道花冷ゆる -栄
こ のよ うなま じめな ものばかり ではな く、次のよ う な句もあ り ます。
真夜中の靴擦れテレサ踊りすぎ 一条
雑草については、専門の生物の先生に勝ると も劣らないほどの博識をお持ち
で、奈良教育大学の構内から採集されたものを研究室に飾ったり、押し花にし
てお られます。
そ して何より も、奈良の歴史探訪では、奈良の在の方より もよ く 知っておら
れるのではないかと思うほどです。時間のある限り、奥さんと共々探訪されま
mat
趣味の豊かさは、友人知人の多きにもあらわれています。
数学教育に限っただけでも、日本全国に及ばず、世界各国に友人が多く おら
れます。例えば、西ドイ ツのFischer博士、韓国の朴博士、先程のテレサ女史な
ど。 この1月に奈良の地で開催した西日本数学教育学会と近畿数学教育学会の
合同例会の折には、わざわざ、 Fischer博士、朴博士にご参加いただき、快く特
別講演をいただいています。その折、韓国の数学教育学全への功績により、同
学会から平林先生は感謝盃を受けられま した。
そんな先生にも嫌いなものがありますo 広い土地を専有するプロ野球とひた
すらうるさいカ ラオケでした。それでも、よく飲み席にはお供させていただい
-'A-
て、 お酒のおい しい飲み方と遊び方を教えていただき ま した。奈良で飲むおり
には、帰りがけに、 よ く 石焼き イ モを買ってかえられた ものです。
このよ う に、本学では同僚であ り ま したが、常に、専門でも、 日常生活でも
教えをこ うべき先生であり、 これから も、変らず後ろ姿に学んでいきたい先生
と言えます。
先生におかれても、奈良の地に来られたら気楽に大学、研究室にお寄り いた
だ く こ とをお願いする と と もに、 これから も ご健康で、 ご活躍を期待し、感謝
の言葉と したいと思います。
(奈良教育大学)
平 林 先 生 の 恩 tLヽ 出
奈良県立高田高等学校 定時制
教諭 吉岡 淳
平林先生には、数学教育の講義、修士論文のゼミ、また高等学校の教師にな
ってから もいろいろと ご指導いただき、大変お世話になり ま した。私は大学院
を修了して、まだ一年しか経過していないため、平林先生についての思し1出は
数多く覚えております。正直言って何から書こ うか迷いますが"平林先生との
思い出"について思いっ く ま ま書いてみるこ と に致します。
平林先生は、とにかく ご多忙で一週間のうち、火・木・金の三日程しか学校
にこ られませんでした。特に、木・金は三つ講義をもっておられたので、講義
終了後よ く「疲れた」と言っておられま した。金曜日は、学部の講義が終わっ
た後に私のゼミ があり ま した。ゼ ミ の原書講読では、私の語学不足の故であり
ますが、相当難解なものばかりで苦労しながら日本語訳をしたり、意味を読み
と ったり している時に、先生がう とう と されてよ く本を落と されたことがあり
ま した。 「先生は相当お忙し く てお体がお疲れなんだな」と患ってお り ま した。
また、私の修士論文が『コ ン ピュータ環境下の数学教育』という こ とで、 「
吉岡君、こんなアイデアがあるのだがプログラ ムはできないか」とよ く先生か
ら ご紹介していただいたこ とを今でも思い出されます。確か最初は次のよ う な
ものであ ったと思います。
まず、一本の芽が出て、それが次々に
乃レII カブrJツ? .1
二股に分れて成長する よ う な植物がある
とする。一つの枝が、二っに分れて成長
するか、それと もそこで成長を停止する
かは確率的に決ま る。 その確率をI N P
U Tする。 この植物の成長を コ ン ピュー
タで図的に シュ ミ レー シ ョ ンを表示すれ
ば右の図のよ う になる。
先生は"トポロ ジー''にらお詳しくて私がわからなく て四苦八苦していると
-EI空-
きに、懇切丁寧にご指導下さ ったこ とを印象深く記憶しており ます。先生ご自
身が数学を楽しまれている という雰囲気を常に持たれていて、そのこ とが、今、
教壇に立たせていただいている私たちを支えているのだなとつく づく感じ られ
ixa
先生には、東京・松山・神戸・京都などで開催された数学教育の学会に連れ
ていっていただいたこ と もあり ま したO 学会では先生が前の方に座られ、発表
者に対していろいろ質問された り、 あるいはコ メ ント された り しておられま し
た。学会に参加 して発表を聞いていても、最初は内容はわからなかったのです
が、 その筈囲気を知り、 そ して数学教育の研究の厳し さの一端を見る こ とがで
きたのは、 たいへん良い経験とな り ま したo また、先生の講演も本当に数えき
れないい く つかの場で拝聴させていただきま した。先生は広い視野から教育を
考え研究されているので、私にと っては教えていただ く こ と一つ-つが知らな
いこ とばかりで興味深いものでした。
と ころで、私たちのゼミ はとて もア ットホー ム的な雰囲気であったと思いま
す。 ゼミ が終わる とよ く「一杯やろ うか」とおっ しゃ って先生を囲んで飲みま
した。 日本の数学教育の現状や今後の課題、海外での研究発表の様子、先生の
ご趣味の俳句や草花のこ と、 -イ キ ングに行かれた時のこ となどについて話し
て頂きま した。先生のお話を聞いて、笑ったり、 お互いに歓談しあ ったり、 ま
た笑った り-と、 とて も楽しい時間を過ごした覚えがあり ます。 そ こで、 よ く
先生は私たちの勉強不足に対して、 「若いうちにしっかり勉強しておきな さい」
とおっ し ゃいま した。 また料理のおい しい店にも連れていっていただきま した。
その帰り に先生は、街角に売っている石焼芋をお買いになり ま したO 先生は焼
芋が大好物だったよ う です。
先生は、一見優し く て温厚な感じですが、ゼ ミ において時間を忘れるほど熊
申される こ と もあり学問・研究に対しては厳しかったですo 平林先生にご指導
いただいたとい う こ と は、私にと って何物にも代え難い財産であり ます。 先生
の学問への意欲の深さ、人柄や指導技術は教師を選んだ私にと っていろいろな
面で影響を与え続けている と思います。 今から思えば、先生にも っ と積極的に
接しておけばよかったと後悔しています。
とにか く、お世話になり ま したこ とを書きますと終りがあ り ません。
どうか、退官きれま して も私たち-のご指導を尚一層お願いする と共に、 ご
健 康で、益々ご活躍されることを心よりお祈り致します。
-46-
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中学校における「課題学習」について
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中学校の数学教育が問題にされはじめて久しい。小学校からの義務教育と し
ての完成教育と、中等教育前期と しての準備教育という 2つの目的の中で混迷
するだけでなく、高校入試という現実的足伽をもち、中学校の学習指導は一層
難 し く な っている。
昭和62年11月の教育課程審議会の「審議のま とめ」によれば、中学校を中等
教育前期と位置づける ことが蛍調された。そのためだけではないだろうが、以
下のよ う に、思考過程が一層重視される よう にな りそ うである。
「・・・思考の過程を一層重視するために児童生徒の発達段階に応じた具体
的な操作や思考実験などの活動ができるようにすると と もに、数理的な
考察処理の簡潔さ、明瞭さ、的確さなどの良さが分かるようにし、算数、
数学を意欲的に学習 しよ う とする態度を育てる よ う に配慮する。 」
具体的には従来の指導に加え、 「課題学習」などの新しい指導概念が提案さ
れている。
そこで本節では、今後の中学校数学の新しい展開が期待される「課題学習」
について考えてみたい。
1. 「課題学習」の用語について
「課題学習」の発想は、昭和62年12月に答申された教育課程審議会の専門委
員、平林一条氏のご提案による ものである。用語的には、 「課題学習」を用い
る よ り も、最近よ く議論される「問題解決」と いう方が適しているかも しれな
い。 が、 あえてこの用語が用い られたのには、次の理由が考えられたためとい
う。
⑳ 「問題解決」という と、理念はともかく、実際にはあらかじめ決ま っ
た、 ルーチ ン化された問題の解決のみに終わる こ とが多い。
㊥ 「問題解決」とい う と、指導方法と考えられやすいO
㊥ 「問題解決」という と、学習指導のすべてが問題解決と一般的に考え
られやすい。
む しろ、音楽などの教科にあっ たものを援用された ものであ り、 どんな用語
を用いるのかは問題ではな く、その理念がいかに理解されるかが問題となろ う
--とい う のが平林氏の考え方である。 したがって、英言吾で も「Problem solv
ing」を用いるよ り も、 「Learning mathematics through problem」の方が適し
ているかも知れないと も言われている。
平成元年3月に告示された学習指導要領の「指導計画の作成と内容の取扱に」
おいて、 「課題学習」は次のよ う に記述された。
「 2 第2学年及び第3 学年においては,生徒の主体的な学習を促し数学的
sn-
な見方や考え方の育成を図るため,各領域の内容を総合したり日常の事象に
関連付けたり した適切な課題を設けて行う課題学習を,指導計画に適切に位置
付け実施する ものとする。
6 第3学年における選択教科としての「数学」においては,生徒の特性
等に応じ多様な学習活動が展開できるよう,第2の内容について,課題学習,
作業、実験、調査などの学習活動を学校において適切に工夫して取り扱う もの
とする。 」
したがって、 「謀穎学習」は、次のよ うに2 つの観点から整理できよう。
◇ 課題による学習
これはいく つかの単元に関連させた指導の中での学習内容と して、各領域の
内容を総合したり、日常の事象と関連付けたり した適切な課題による生徒の主
体的な学習を図ろ う とする ものである。第2学年では5-8時間、第3学年で
は、 10-20時間の扱いが可能となろ う。
㊥ 課題学習
これは第3学年での選択教科と しての「数学」の中で、生徒の特性等に応じ、
発展的・応用的な学習内容と して、各領域の内容についての補充や深化など学
習の充実と数学的な考え方の育成を目的とする ものである。
このよ う に、学習指導要領では異なった2 つの取り扱われ方がされるか ら知
れないが、基本理念は同じであるので、以下では、両者をま とめて「課題学習」
と して扱う こ と に したい。
2. 「諜潜学習」の目的について
(1)目的について
数学教育の目的は、 2次方程式を解く といった内容に関わる学習と、記号化
する、関数の考えを使う といったプロセスに関わる学習の2 つである といわれ
ている。 この中でも、 日本の生徒の学力は、内容学習の達成は高いもののプロ
セス学習の達成は必ずし も高く ないといわれてきた。例えば、第1回、第2 回
国際教育到達度評価学会(IEA)の報告でも日本の生徒の数学的な考え方の弱き
が指摘されている。
このよ うな状況が起こるのは、 プロセス学習に焦点をおいた指導が行われて
こなかっ たからではないかと考え られる。 中学校は、えてして、高等学校等の進路保障のためのバク- ン学習が中心であ り、数字に魅力を感じ、積極的に
学習しよ う とする生徒がますます少なく なっているよ うに思われる。実際、学
校で学習 したこ とは少々難し く と も解く こ とができるが、反対に、解いた こ と
がないものは簡単なこ とであって も解く こ とができない一一といっ た生徒が多
い。
知識・理解、技能という内容は学習対象と してかな り形式化されてきた もの
である。その一方で、数学的な考え方、関JL、 ・態度という内容は、末形式のま
まで、焦点化されるこ とはなく、知識.理解、技能の学習を通して、間接的に
指導されてきたといえるかも知れない.それだけに、この未形式な ものを学習
内容と して扱い、焦点化した指導を行う ことによって、プロセス学習でも学習
成果をあげよう という ものが「課題学習」の目的と考えられる。
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提唱者である平林氏は次のよ う に基本理念を述べておられる。
「既習の知識・技能を総、合的に駆使して課題を探究させ、そのような
活動を通して、数学的な考え方を身につけさせ、 さ らに、数学的活動
に対するよい態度、数学に対するよ り深い関心を育成する こ と。 」
以上みてきたよ う に、 「課題学習」の目的は次の2 つの観点に整理でき るか
も知れない。
◇ 数学的な考え方と数学的活動へのよい関JL、 ・態度の育成
㊥ 内容の総合と 日常事象との関連付け
それだけに、 「課穎学習」は次のよ う な内容の学習とは考えられないと いっ
て よいだ ろ う。
(i) 新しい知識の学習場面
(ii) 技能練習の場面
(iii) 学習指導要領を超えて、発展的なものを扱う場面
(2)数学的活動と考え方について
数学的な考え方の分類については、例えば、片桐東男民らの、数学的な考え
方を生みだす背景となる考え方、数学の流れをつ く る数学的な考え、数学の内
容からみた数学的な考え方の3 つの裾点からの研究が参考になろう。 こ こでは、
イ ギリ スのバロ ン氏による数学的な考え方の構造をも参考にして、数学的活動
と数学的な考え方を整理してみたい。 バロ ン氏は、数学的活動は、 もの、人、
星、運動、積械、行動等の社会現象や自然現象を対象と し、次の3 つの活動段
階を経て、 それぞれの性質を明らかにする ものと考えている。
㊥ もの、人、 星、運動、機械、行動等を対象と した、創造と工夫の活動
㊥ ◇の結果を対象に した体系化(証明)の活動
㊥ ㊥の結果を適用 して、性質を明らかにする数学的応用活動
これらの 3 つの活動の中に、それぞれ次のよ う な数学的な考え方が用い られ
ている と考えられる。
◇ 帰納的な考え方、類推的な考え方,見通しを立てる考え方、統合的な考え
方、一般化の考え方、抽象化の考え方、記号化の考え方、図表現する考え方、選
択する考え方、観察する考え方、計算する考え方、対称をみる考え方等
㊥ 体系化の考え方、演縛的な考え方、構造の考え方等
㊥ 発展的な考え方、写像的な考え方等
3.
「課題学習」の指導内容について
(1)指導内容の選択条件
「課題学習」の目的を達成するために、指導内容の選択条件を考えるこ とに
したい。
◇ 数学性がある
数学の授業だけに、いたって自明なこ とをあげると思われるかも知れないO
とはいえ、問題解決の教材の中にはク イ ズ・パズルに類した ものも多く あ り、
科学の方法論と しての数学の特質がないものもあるから、数学性の再確認が必
要である。教材の構造が、数や図形の性質に帰着できたり、応用できたり とい
った関連が考え られる。
-m-
また、その教材が、 それ自身発展する可能性があり、他の教材と も関連 した
りするこ とが望ま しい。 そのためには、問題に対して、生徒の自由で、多様な
解決-の試行錯誤を認める ことが必要であろ う。
㊥ 心理・教育性がある
何より も、生徒に、問題と して解り組む面白さが感じ られなければならない。
命と矛盾するよ うであるが、表だって数学の押しつけにならないよ う な娯楽性
と生徒一人一人に達成感、成長感が感じ られる ものでありたいo というのも、
生徒にと って自分-の価値を実感できない教材は、数学的には価値があっても
生徒に受け入れられないこ とは明かである。 そのためには、 自由な取り組みだ
けでなく、時には特異な発展や変容、解決を許してやりたい。
「課題学習」では、解決できる こ とが主たる目的ではなく、生徒自 らが規則
をつ く り、構造を表現する といった、数学言語を話し、書く という形式化の過
程を総合的に経験する こ とが大切といえよ う。
(2)課題学習の例
① 課額学習の教材化の視点
課題学習の教材を考えるとき、教材化の視点と主たる数学的・考え方から課
題学習の教材を整理できよう。数学的活動・考え方についてはすでに言及した
ので、 こ こでは教材化の視点とそのテーマの例だけを列挙しておこ うD
e 小学校との関連: 振り返ってみよ う
㊥ 授業での疑問 数学の広場、 ち ょ っ と一服
㊥ 授業からの発展: 考えてみよ う、 さあ数学しよ う
㊥ 難問への挑戦 .・ チャ レ ンジ
㊥ 数学史との関連: 数学への旅、数学のはなし、
㊥ 身近なものからの発展: 教学の見方
㊥ ク イ ズ・パズルからの発展: 数学の遊び、趣味の数学
これらの教材の選択・開発に際しては、古い教材の見直しや新しい教材の開
発が考え られる。
例えば、現行の教科書にも、特設のコーナーを設けて、数学史との関連を述
べたものがあり、練習問題にも、 「諜顛学習」と して展開可能なものが多く あ
る。
とはいえ、新しい発想には新しい器が必要かも知れない。限られた教材から
「課題学習」の教材を選択するのではな く、広く素材を収集してみる こと も必
要であろ う。
② 課題学習のいく つかの例
ここでは、教材の全容を紹介することができないので、課題と発展の概要の
みを示しておこ う。
㊥ 4の4:小学校との関連;頬椎的な考え方等
課凄 4つの4 に四則演算を使って0から10までの数を作ってみようo
例 (4 + 4) - (4 +4) - 0
発展 11以上の数についても、四則演算だけでなく、 √などを使って
作ってみよ う。
発展 3 つの 3 を使った場合など。
-50-
㊥ 四角形の分類:授業からの発展;体系化の考え方、演符的な考え方等
課題 不等辺四角形から・出発し、辺の長さの相等性に注目 して四角形
を分類する。
・_ ∴ 二
□⊆7
発展 辺の平行性に注目 して四角形を分類するなどO
㊥ セブンイ レブンの怪:身近なものからの発展;発展的な考え方等
課題 駅から ま っすぐ帰ると、 200m、 セブンイ レブンによ って、 300m
と いう のは、 起こ り える こ とか。
@ 玉突の問題:身近な ものか らの発展; 構造の考え方等
課題 長方形の中で、 その左下隅か ら450 の方向に玉を打ち出すと、
玉は450 の角度で長方形の辺 にあたり、同じ角度ではね返り、
止ま る まで同じよ う にはね返 り続ける とする。 ただ し、玉は長
方形の隅に行った と きだけ、
必ず止ま る ものとする。 このよ う
に打ち出された玉は、止ま る までに何回はね返るか。
例
≡ 一手3gは-
発展 玉が止ま る までの道のりを求めよ。
発展 打ち出す角度や長方形の形を変えたと き どの様なパターンが見
つかる か。
㊤ 魔法の三角形:ク イ ズ・パズルからの発展;記号化の考え方、 構造の考
え方等
課題 正三角形の形に配列した9個の円の中に、 1から9 までの数を
1個ずつ入れ、各辺の和を同じにせよ。
二三
発展 何通り でき るか。
発展 この三角形にどんな性質があるか。
発展 魔法陣など。
⑦ うず巷の数学:ク イ ズ・パズルからの発展;帰納的な考え方等
課題 任意の 3 つの数(長さ 3 という)の大き さだけ、右、 下、左、
上の順にと っていったと き どんな形ができるか。
例 1 - 2 - 3 とする と下のよ う になる。
発展 長さ 3 の形にはどんなパターンがあるかO
発展 長さ4、 5 の場合はどう なるか。
4.
「課題学習」の指導方法について
(1)授業展開について
知識や技能を指導するための方法についてはかなり研究され、実践されてき
ているo その反面、 「課題学習」のよ う な考え方を育成する方法については、
教材と共に未開発といえる。少なく と もはっきり していることは、生徒一人一
人の自由な発想、試行錯誤を邪魔しないこと ぐらいであろうか。
とはいっても、生徒にしてみても全く の放任では何をしたらよいのかわから
ない。そこで一つ考えられるのが、次のような指導展開であろうo
a (i)単純な例と解答 (ii) 問題提示 (iii) 自力解決
(iv)まとめ (V) 問題の発展
-52-
こ こでは、生徒の自力解決に力点があ り、あ らかじめ決ま った結果にはこだ
わ っ ていないO
(2)教師の説明、発問、指示などの発言
知識・理解、技能の内容学習では、と もすれば、 「わかっ たか」 、 「できた
か」といった発問に力点がおかれ、解決過程における数学的活動・考え方を強
調した言い方はあま り大切にされてこなかったといえよ う。
「課題学習」では、生徒が解決する過程において、積極的に、例えば次のよ
う な発言をしてみたいD と いう の も、映画の批評において、 「映画は本当に面
白いですね。 」と繰り返し言われたら、本当に面白いと思えて く るから不思議
であ る。
説明の例
おも しろい問題だな。 便利な記号がたく さんあり ます。
発問の例
初めの予想とあっているかな。 その方法はいつでも使えますか。
身のまわり でこれとよ く似たことはあり ませんか。
次はどうやったらいいかな。 さ らにどうやったらよいのか。
指示の例
順序よ く 考えなさ い。一つの方法でできた ら、別の方法でやり なさいo
他の人に説明でき るよ うに書いてごらん。予想してみな さい。
(3)時間的、空間的自力解決の保証
扱う教材によ って変わる ことがあるが、生徒の自力解決のために、時間的保
証と空間的保証を確保 したい。
生徒自 らが試行錯誤するためには、どう しても時間的な制約を取り払わねば
な らない。現在の教材の多く は、 「-と きめます。 」 「・=とな ります。 」とい
う よ うに結果を中心に展開しているから、時間的にも速く展開でき るO 社会に
出たら瞬間的な判断と行動が望まれているから、 このよ うな時間による学習が
推賞きれてきたといえる。 しか し、 この「課題学習」では、 1時間で完結 しな
く と も、時間をと って じっ く り考えるこ とを保証したい。 このよう に形を変え
るだけで、生徒の印象も、教師の目的意識も違ってこよ う。
この形を変える ことは、空間に対しても考えられる。現在の教室空間の中だ
けで考えているのでは、 よいアイ デアはでないかも知れない。 その人の学習ス
タ イ ルによ っては、机に縛られない方がよい発想を生みだすこ と もある。拡散
的思考を許すための広い空間と、集中的思考を促すための狭い空間といった使
い分けも必要であろ う。 そのためには、教室だけでな く、教室外の学校の空間
や家庭等も使ってみたい.例えば、授業の終わりに課題を提示し、家庭等にお
いて自由に考えさせ、授業の中でその結果を討議させる。
具体的な指導と して、各学期の終わり、学年の終わり等において指導するこ
とが当面考えられる。あるいは、生徒の自由課題と して学習プリ ントを配布し
たり、教室に掲示したりするこ と も考えられる。 さらに、例えば、 『算数・数
学科楽しい活動のための新しい問題』 (乗洋館出版社)を書いたB.ボルト氏
のように、毎週土曜Elの朝に数学ク ラブを開き、 「優秀である」という こ とよ
り も「好きである」こ とを強調した学習の場を提供する ことが考えられよ う。
3日-
5.
「課題学習」の評価について
従来の指導でも、理念がよ く て も評価を考える と実践が制約される こ とが多
かった。例えば、学力を客観的に評価しよう と して学年共通の試験を実施しよ
う とすれば、ペ-パ-テストにだせる教材に制約される。 「課題学習」の評価
も このよ う に考えられる と、せっかく の理念が生かされないだろ う。 数学的な
考え方や関心・態度の育成を学習内容と して目標化したならば、それにふさわ
しい評価の基準を開発したい。
今のと ころ、 と く に新しい評価法は開発されていないO この点について、最
近の問題解決での評価研究、オ-プン・アプローチでの評価研究などが参考に
なろ う。
他の生徒と同じ結果をだすこ とが大切ではな く、達成の多様さ、プロセスの
多様さを認める こ とが大切であるので、例えば、次のような点で評価を考えて
みたい:観点の面白さ・流暢さ、方法の多様さ・柔軟さ、独自性・独創性、表
弟の洗練さ等0
6.
「課題学習」 -の期待
この「課題学習」は、 う ま く実践されると、 とかく遊離しがちであった数学
教育の理念と現実が一体化する契機となろう. それだけに期待されるこ と も大
き い。
まず、小学校から高等学校-の内容的連携に加えて、考え方の育成において
も一層の連携が図られる こ とが期待される。小学校においてはすでに『考えか
た』とい う内容があり、中学校の「課題学習」と発展的に結びつ く こ とができ
る。 このように考えたとき、 H.フロイ デンタールなどのいう「局所的体系化」
の学習から「大域的体系化」の学習といった数学的な考え方の学習内容の体系
化が実現できる可能性が生まれたといえる。
次に、教育観の転換が図れるかも知れないO 子どもを計算の機械に しない、
子どもが自分の数学を作る--という ス ローガンは、今日の数学教育の理念の
一つであるO しかし、現実は暗記数学、型にはま った数学の押し付けという注
入教育が強く、意味のある数学、創造的数学の学習という啓発教育はかけ声だ
けの場合が多い。 この点、 「課題学習」はこの注入教育から啓発教育-の転換
のき っかけとなるかも知れない。
このよ うな期待がある一方で、問題もある。
教育改革は、どんなすばらしいものであっても、すべての生徒に有効である
とは限らない。 この「課題学習」も、すべての生徒にその子なりの達成と満足
をもたらすものと期待したいが、少なく ともどのような生徒に有用かを検討し
ておく こ と も必要であろうo 主体的に取り組む生徒に有用であるこ とは明かで
あろうが、達成不十分で満足がいかず、結果と して自信がない生徒にも有用で
あるための教材開発、指導法の工夫、評価法の開発が望まれる。
それに、何より も入学試験との関連が懸念される。実際、中学校の場合、高
等学校の入学試験によって実践が左右されることが多い。選抜試験で、点数化
しなければならないという観点からは、 「課題学習」は馴染みにく いかも知れ
‥SB
ない。 と い うの も、従来点数化できなかった数学的な考え方や関心・態度をこ
の「課題学習」は育成しよ う と しているからであるQ 内容的な面だけでいえば、
入学試験の問題の中に も「課題学習」に相当する ものが多 く 出題されているo
Lか し、 この問題は、時間的にゆ っ く り解いた り、解けな く と もよい--と い
う わけにはいかない。 そのために、 いきおい「課題学習」的な学習が日々 の学
習指導の中でも軽視される ことが懸念される。
7. おわり に
「課題学習」に対して次のよ う な教師の反応がみられるかも知れない。
⑳ 何をしてよいのかわからないので指導しない。
㊥ 時間がないので、 むしろ「課題学習」の時間をドリ ルに充てるO
㊥ 純粋数学的活動を押しつける。
⑳ ク イ ズ・パズル的教材で面白さだけを考える。
すでに述べてきたこ とから明らかなよ うに、 これらの教師の対応のいずれも
が片手落ちであることは理解できよう。
①のよ う な状態であれば、教師が数学的活動・学習の意味を問返すよい機会
を与えるであろ う。 令と考えるな ら、 どれだけの時間をかければドリ ルの達成
ができ るのかを反省する こ とが必要であろう。 ㊥、 ◎については、展開が問題
となる。生徒自身が、結果への過程をどれだけ経験できたかという こ とが大切
になろ う。
課題学習の根底に流れる教育的思想は、単純化していえばプラ グマテ ィ ズム
の教育観である といえよ うか。実験室法、発見学習、単元学習や最近の問題解
決学習に共通する、児童・生徒への信頼をもと に、考え方の育成を中心と し、
楽 しみながら主体的に学習する こ とが根底に考えられている よ うに思う。
た しかに、科学的成果を摂取するための知力の高い国民を育成するためには
戦後の教育課程は大きな成果を残 してきた。 しか し、今後の不確実な社会に生
きて発展させる こ とができ る国民にと っての知力の育成のためには、現在の教
育課程で十分とはいえない。
そのために、最近では、学校教育内だけで教育期間は終わりでな く、生涯教
育という こ とが載く意識されるよ うにな った。 こ こに一層、自己教育力の育成
とあわせて生徒の主体的な学習が強調されてきた背景がある。 この社会的動向
は、今後、知識・理解、技能の側面だけでなく、より一層、数学的な考え方、
関JL、 ・態度の面での教育効果を期待して止まないであろう。それだけに、この
「課題学習」についての論議が必要である。
今後の課題と しては、 「課題学習」にふさわしい教材の整理と開発、さ らに
は生徒の心理的な問題と して、問題を発展させるための「発展力」の解明等が
残されている。
目 される。
いづれにしても、時間数からすれば「課題学習」にかけられる時間はそう多
く ない。そのために、決して難しいこ とや新しいことをするのではないと考え
てもよいだろう。とはいえ、このような努力の中から、生徒の数学学習の自信
が回復し、その生徒なりに数学を鑑賞することができれば、 「課題学習」を設
-55-
定 した意味が達成されるであろ う。
参考文献
1. 平林-栄:課題学習の題材について、奈良セ ミ ナー資料 1987.ll.
2. 重松敬一: 「課題学習」をどう生かすか - 基本的・原理的視座から (西日本数学教育学会編『数学教育学研究紀要』 1988. 14号) , 125-121頁.
注)この紀要には、 「課題学習」をどう生かすかについてのシンポ ジ
ウ ムの結果が報告されている。
3.片桐重男他:数学的考え方の指導、明治図書.1985.
4. M.E.Baron:The Mature of Mathematics--Another View, (L.R.Chapian ed
The Process of Learning Mathematics. Pergamon,1972),2卜4
1頁.
5.相馬一彦:中学校における「総合数学」の試み,
(日本数学教育学会編『日本数学教育学会会誌』 1987.第69巷11号) , 2-g昆
6.仲田紀夫.・テレビC Mへの教学的.追究,
-95Fi.
7. その他、教科書p R誌多数.
BIS
( 『新しい学校数学』 1988.5) 94
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i 西仲則博
昨今数学教育に関する本の発行は、年々増える傾向にあり ます。 これは一つ
に日本に於いて数学教育に対する関心が高ま ってきている こ とを示している と
言えるで し ょ う。 またこれにと もない算数・数学教育に関する雑誌または研究
会、学会等の会誌もその種類は増える傾向にあ り ます。現在、 これらの雑誌や
会誌の日本に於ける発行は約5 0 種類を数える に至っているでし ょ う。本稿に
於いてはその中から奈良教育大学教育大学が購入している雑誌や、研究会誌の
書名の紹介を行いたいと思います。
1. 文部省発行雑誌
初等教育資料
中等教育資料
教育と情報
月刊
月刊
月刊
2. 算数・数学教育雑誌(実践が中心)
教育科学 算数教育
教育科学 数学教育
楽しい算数の授業
数学教室
新しい算数研究
保育と カリ キ ュ ラ ム
明治図書発行
明治図書発行
明治図書発行
国土社発行
東洋館
月刊
月刊
月刊
月刊
月刊
ひかり のく に株式会社発行 月刊
算数・数学の授業
-光?!:
さんすう すうがく 授業の創造 教育研究社
算数教育情報 学研発行
3. 海外数学教育雑誌情報誌
1 F 広島大学大学院教育学研究科
数学教育研究全編
4. 各教科書会社から発行されている P R誌
小学校編 理数
教科研究 算数・数学
算数数学指導
教室の窓 中学数学 新 しい数学
算数数学の研究
教科通信
ニ里rJ:
・3 ft gだ
学校図書
大阪書籍
41hi市民
大日本図書
教育出版
隔月刊
学期刊
年刊
隔月刊
5.学会誌、研究会誌(年1会以上学会誌、研究会誌として発行されている書)
日本数学教育学会編
日本数学教育学会編
日本数学教育学会編
日本数学教育学会誌一算数教育一
日本数学教育学会誌-数学教育一
日本数学教育学会誌一論究-
日本教科教育学会編
数学教育学会編
日本科学教育学会編
西日本数学教育学会編
近畿数学教育学全編
日本教育心理学会編
奈良県高等学校教科等研究全編
奈良県数学教育会
奈良県算数・数学教育研究全編
日本教科教育学会誌
数学教育学会 研究紀要
科学教育研究
数学教育学研究紀要
近畿数学教育学会会誌
教育心理学研究
奈良県数学教育会誌
会誌
6.情報教育関係
L O G O W O R L D
N E W 教育と マイ コ ン
マ イ コ ン
L O G O J A P A N杜発行 隔月刊
学研発行 月刊
電波新聞社発行 月刊
7. その他
切抜き速報 教育版
教職課程
数学セ ミ ナー
数理科学
ニホ ンビック杜発行 隔週刊
協同出版発行 月刊
日本評論社発行 月刊
サイ エ ンス社発行 月刊
今回は日本で発行されている雑誌、学会誌について掲載させても らいま したo
これらの雑誌を手がかりにしてこども達にとって良い授業の創造が行われるこ
とを希望しますo また、奈良教育大学では諸外国の数学教育の雑誌も多数購入
しておりますので、興味のある方は大学の方まで問い合わせてく ださい。広島
大学の大学院の方が発行されている海外情報誌を参考に、海外の雑誌の検討さ
れるのもよいのでは。 (外国の雑誌の書名紹介は次号以降に掲載予定)
-閑E
妻女 学 を す る 者`こ と っ て
奈良県生駒市立上中学校
馬屋原 修
昨年11月,劇団四季の''プレイ キング・ザ・コ ート''という,日下武史主演
の劇を見たO イ ギリ スの作家, ヒ ュ- ・ホワイトモアの作品をもとに,ア ンド
リ ュ ー・ホ ッ ジが,
「ア ラ ン・テ ユ -リ ング・エニグマ」を著わしたその劇で
ある。
主人公, アラ ン・テユ-リ ングは,あのテユ ーリ ング・マ シンを創った人で
ある。 イ ギリ スの数学者である。 第2次世界大戦中, ナチス・ドイ ツの暗号文
解読のため,軍部にも勤めていたO
この物語の中で, テユ ーリ ングの数学者と しての生き方がありあ り と語られ
ている。 テユーリ ングは,男色に徹していた。ふと したことで,そのことが警
察に知れ,新聞に報道されてしま う。その当時,男色は道徳的にも排他され,
また,法律でも罰せられていたのだ。男色はおかしい, とする刑事に対し, テ
ユ -リ ン グは述べる。
「私は数学をやっている。数学では,全ての ものが真か偽かにはっ き り二分
されると世の人たちは思っている。 しかし,本当は,そうではない。数学を使
っても,本当にこれは正しいのか,又は,誤っているのかという こ とが, きち
んと証明できないものがた く さんある。 もっ と はっ き り言えば,正 しい,正し
く ないと言える ものの方が, ごく ごく 少ないのだ。 」
「世の中のこ とがらを抽象した数学の世界においてすら, このよ うに,正し
い,正し く ないの判別が正確に行う こ とができないのに, どう して世の中のこ
とがらについて正確な判断がなされよう。ま してや,人の行為について,罰す
る こ とができよ う。 た しかに私は男色だ。 しか し,何を基準に して,男色はい
けないというのだ。法に照ら してというか,その法が正しいという のは, どう
い う根拠のためなのか。 」
刑事の方は, テユーリ ングのこの話を聞いて, しりぞけてしま ったが,私は,
彼の考えがとて もよ く わかった。
数学というのは,世の中から遊離した,独自の学問では決してない。確かに,
数学として独自のものはある。 しかし,その母体はやはりこの実社会である。
そこから抽象されて生まれるのが, 「数学」なのである。そして, 「数学の世
界」では, 全てのこ と の真偽が証明されるとい うのは,
ー59-
近況学良告一時代の節目にあたって平成元年度数学教室年次幹事 河上 哲
会員の皆さん、お元気でご活躍のことと存じます。この場をお借りして日頃の印象と
近況報告を致します。
いっの時代もそうなのかもしれませんが、最近特に、あらゆるものが新しい時代の創
造に向けて静かに大きく変容しっつあるのではないかと感じるのは、私一人ではないと
思います。国際化が期待されている日本の中で生活している一個人にとりましても、現
実問題としてますます世界の政治・経済・教育の動きと無縁でなくなりつつありますO
特に、新しい時代を担う子供達・若者を育てる仕事に携わる者にとりましては、教育と
いうものの重要性が身に犯みる昨今ではないでしょうかO しばしば、伝統の尊重と新し
い価値観の狭間で自分なりの意志決定を行aい、それなりの覚悟で将来を正しく見定め
て現実問題を一つ一つ解決してゆくには、先生自身が多忙さの内にも時間を見出し常日
頃より自主的に多くを学習・燕考し、己れに対する教育も忘れてはならないものだと痛
感致しております。
さて、年号が昭和から平成-と移行したのと時期を同じく して、本学では昨年度関学
百周年を祝い、次の一世紀へ向けて第一歩を精出したというムードの中、教育大学の在
り方について幾多の意見や議論を耳にする機会が多くなっております。そこでは時代の
流れを背景としっつも教育とは何かという原点に立脚した意見や行動に遭遇する時、奈
良教育大学の頼もしさが感L:られます。
数学教室におきましては、既に小川・坂口両先生をお送りしたのに引続き昨年度は平
林先生をお送りする事となりました。数学教育に多大の情燕を注がれてこられました先
生方が次々と退官されました事は数学教室にとりまして誠に残念な事であります。それ
だけに、今後は諸先生方が築いてこられました貴重な成果・伝統・指針等を踏まえて、
更に良さ数学教室にしてゆこうという気概と自覚が一層強まってきたようにも思われま
すO その反面、一人一人の先生方にとりまして、教育実践や研究活動だけに留らず大学
・学会の運営や情報化-の対処等、ますます忙しくなってきており、全体の調和を如何
にするかという点で苦慮しているというのも実情でありますO こう した折、平林一条先
生の後任として、北川知夫先生を愛知教育大学よりお迎えしま した事は教室にとりまし
ても多大の喜びとしている処であります。
さて、数研の方は、西仲君を会長として皆よく頑張っておりますが、学生達の多忙さ
や価値観の多様さ等により、また大学側の事情とも関連し、その運営に大変苦労してお
る様です。皆様の御寛容と御協力が今、強く要望されております。特に、今回のこの飛
火野第5号は、会長の西仲君と前会長の梅沢君を筆頭に学生数人が中心になって何度も
編集会議を開き発刊の運びとなりました事をこの場で報告しておきます。今後、皆様の
御協力が無ければ、飛火野発刊主旨の変更、規模の縮小あるいは廃刊という事態が充分
に在り得ますので、飛火野購入の御協力と伴に日頃の経験・感想・研究等を内容とする
原稿の投稿や編集委員としての積極的な参加を切望する次第です。
皆様のますますの御活躍を教室一同祈っております。
-60-
1 9 8 8 年度
卒吉 - i¥篭吉IGi
§2 カリキュラム的検討
§ 3 教科書比較を生かした分数指導
二二二二二
一意味理解に重点を置いた指導-
第一章では、分数指導の現状を先行研究によ
小数 西谷三千代
る調査から考察し、分数でのつまずきの原因を
探ってみたO ここで参考にした調査研究は、分
今までに、分数に関する概念が定着していな
数教材の構造分析を子どもの立場からみた問題
い子どもを少しでも救うために、今まで数多く
問の関連性・順序性に視点を置いたものである。
の研究がなされ、その指導法が検討されてきた。
第二章では、歴史的な面から分数の必要性を
それでもなお、全ての子どもたちが、分数を理
明らかにし、分数のもつ様々な意味を整理し、
解するような指導法はないといってもよいO な
他の概念との関連性を改めて見直してみた。第
ぜなら、子どもは一人ひとりその能力が異なり、
三章では、歴史的にみた分数指導の変遷につい
ただ一つの方法だけで全ての子どもたちに理解
てまとめ、さらに、子どもが最も苦手とす.る分
させることは難しいからである。
数の乗除に関する文章題について取り上げ、そ
けれども、一人でも多くの子どもたちが、少
の問題解決の手がかりとしての図的表現に焦点
しでも分数でのつまずきをなくし、分数の概念
をあててみた。第四章では、以上のことをもと
を理解していくような指導を考えていく必要を
に、特に分数の乗除に関する問題について、今
感じた。そこで、この論文において、分数の意
後の分数指導の改善の試案を挙げてみた。
味理解に重点を置いた指導を検討することにし
例えば、 「17nの重さが4kgの鉄のぼう2/3mの重
た。次に、卒業論文の構成を示す。
さはいくらか」という問題で考えると、 2/3mが
第一章 日本の分数指導の現状
1Tnのどれだけにあたるかわからないことが多い。
§1 実態調査の結果
そのため、 2m、 3mのように、乗数が整数のとき
§2 調査結果の考察
かけ算を用いることから、 4×2/3という式を立
第二章 分数に関する諸概念
てることを理解させる。しかし、それだけでは、
§ 1 分数の歴史
比較的容易にその意味を理解させることはでき
§2 分数の意味
るが、形式的な理解となる可能性がある。そこ
§3 他の概念との関連性
で、子どもに文章題の場面を図で表現させてて
第三葺 分数指導の検討
みることに重点をおきたい。どの程度、数塁関
§ 1 学習指導要領からみた指導の変遷
係を理解しているかを知る手がかりとなるはず
§2 文章題について
てある。
§3 図的表現について
また、子どもによって、その能力や特性が異
§4 教科書比較にみる指導の違い
なっているため、それぞれに応じたシェーマを
第四章 分数指導の改善の-試案
用いてみる必要があると考えられる。
§ 1 治療的指導
-61-
て子どもが実際に算数で苦しんでいる様子を教
=・-afe <D&miKUSWゥ5jf^
!子ども。発達と算数教育。研究
育実習と公文式学習教室での観察から述べた。
- 「作業」を耽り入れた授業-
第2章では、学力に影響を与える要因を採るた
めに、本学の杉村健教授の調査を中心、に、子ど
専 小数 丸井幸子 i
L……__……__二二二二二∴__i
、
もの意識、教師の意識、そして統計上の結び付
きという3つの観点からまとめた。その上で、
算数は、小学校の教科の学習において主要教
科の一つとして位置づけられているo しかし、
4つの問題点を指摘した。第3章では、子ども
積み重ねの教科であるため、算数ができずに苦
の発達の過程に注目し、発達の基本的なとらえ
しんでいる子どらがたくさんいる。そこで、算
られ方やピアジェの研究を紹介すると同時に、
数ができずに苦しむ子どもが一人でも少なくな
最近注目されている「9歳の壁」と呼ばれる発
ることを願って、学力に影響を与えている要因
達の節目について述べた。そして、発達の節目
と、子どもの発達的特徴の2つの観点から子ど
を乗り越えるためには、普段から質の高い経験
ものことをしっかり見つめなおし、何かいい方
を多くすることが必要ではないかと提起した。
法がないかを考えてみることにした。
第4章では、以上の結果を考慮した上で具体的
に対処する一つの方法として、授業の中に「作
卒業論文の構成は次のようになっている。
業」を取り入れることを提来した。それは、以
下に示す5つの理由からである。
第1章 算数と子どもの実態
§1 算数と子ども
①一人ひとりの子どもの理解のペース、理解
の仕方の違いに対応するため。
§2 教育実習で出会った子ども
§3 公文式学習教室でみる子ども
②子どもの学習意欲を呼び起こすため。
第2章 学力に影響を与える要因
③時間はかかるだろうが、答えを出せる可能
性は高いから。
§1 学習する側の要因に対する意識
§2 指導する側の要因に対する意識
④子どもの発達段階を考えたとき、自分でや
§3 統計上学力に影響を与える要因
ってたしかめることが必要と考えられる時期だ
§4 調査結果を考察する
から。
第3章 子どもの発達過程
⑤子どもの体験の場とできるからo
§ 1 発達について
授業の中に「作業」を耽り入れることが、完
§2 ピアジェの研究より
望な方法ではない。 「作業」に興味を示さない
§3 発達の節目・ ・ ・9歳の壁
子ども、 「作業」という学習スタイルにあって
§4 発達の節目を乗り越えるために
いないと思われる子どもがいるはずだ。このよ
第4章 作業を取り入れた算数の授業
うな子どもたちをはじめ、一人ひとりの子ども
§1 なぜ作業を取り入れるのか
をしっかりと見っめ、個々の子どもたちに一番
§ 2 「作業」を取り入れた授業について
合った授業を作り上げなくてはならない。
第1章では、算数に対する教科のイメージ、
特色等を福武書店教育研究所の調査から、そし
-陥ニ
れぞれの時代における指導目標を比較してみた。
第2章では、現行の教科書にみる計算体系と、
I /J^ォ&^t;:fctt5itg:?iagゥfiJf&
水道方式のその独特な計算体系について考察し
l 小数吉田徹i
た。また、実践にみる指導事例をいくつか挙げ
lH__H__=ー__
た。ここでは、計算の中でも特に、加法に絞っ
算数といえば、イコール計算というイメージ
て考えてみた。
がある。計算に強いから算数が得意だとか、数
第3章では、これからの計算指導について考
字をみると頭がいたいから、自分は算数にむい
えた。電卓やコンピュータの普及にともない、
ていないと考える子が多い。また、本屋に足を
それに対処した計算指導が必要となる。そこで、
踏み込めば、どっさりと計算ドリルが並んでい
生徒たちの育成すべき能力とは何か、授業にお
る。確かに、計算は算数の柱となる学習の一つ
いてどんな内容が強調されるか、また教師にど
であるo Lかし、単に数多くの計算をこなし、
のような指導が望まれるかについて考えた。
答えさえ合っていれば、それで計算力が定着し
電卓やコンビュ-タを正しく使うにはどのヰ
たといえるのだろうか。また、現在の学校教育
-をどんな順で押したらいいかが決定できなく
ではどうも計算の意味理解よりも、技能の習桑
てはならない.またキーを押すのは人間である
に重点をおきすぎているように思えてならない。
から、時には押し間違いをするであろう。数字
そこで、本来の計算指導の目標は何なのか、
を押し間違えたりケタ数を間違えたりする。そ
また過去から現在に至るまでどの様に指導され、
こでこのようなことによる計算の誤りをチェッ
さらに今後の計算指導はどうあるべきかという
クする力が今後より大切となる。そういう意味
ことを叡り上げ研究した。
からも演算決定や概算の力が重要となろう。
.
卒業論文の構成は、次のとおりである。
第1章 計算指導の目標
§1 計算とは
§2 算数科指導目標の変遷
§3 計算指導目標の歴史的流れ
第2章 既存の計算体系及び指導事例の検討
§1 教科書にみる計算体系とその考察
§2 水道方式にみる計算体系とその考察
§3 実践指導にみる計算指導例
第3葺 今後の計算指導
§1 育成すべき能力として
§2 今後強調される内容として
§3 望まれる指導として
その内容については、第1章では算数科とそ
の中の計算教育の歴史を包括的にみていき、そ
-o j-
(1. 4)
群論の研7:‥芸芸冨敷芸i
fIwゥSf^/haffl*tt.
GL(V 竺GL(n.F)
超平面
超平面とは、空間Vの余次元lの部分空間のこ
'hサ*Mi!Jtifi
:い…川*蝣'蝣:i蝣i
*aォea^^?
とである。
rIがVの超平面⇔(1)HがVの線形部分空間
iF:道#.f」fflcm
(2)dimH=dimV-1
移換
/ha^.f*fflen
ii
移枚とは超平面ftの元全部を不変にする特殊線
形群SL(V)の元で1と異なるものである。
ivm.v*.¥wsォ、,.ト_、、…。..lV.-._、._、.,…l、_・。.。_、_、__J
fが移操である⇔(l)f二Ⅴ-Ⅴ
51.線形群
定義1, 1
(2)W=(x〔V I f(x)=x)
n二自然数体Fに成分を持っn次の正則
が余次元1
行列全体が行列の乗法に関して作る群を
(3)det(f)=l
GL (n, F)と書き、体F上のn次の一
(1. 5)
般線形群と いう。
移操の全体はSL(V)を生成する。
また、行列式が1である行列全体の作る
部分群をGL (n,F)と書いて、特殊線形
群という。
(1)2つの移操はGL(V)の中で共役である
(2)n=dimV≧3ならばSKY)の中で共役で
!^m
n次の単位行列をI. (i.J)成分だけが1で、
他の成分がすべて0である行列をEijとし体Fの
任意の元入と,任意の組(i.j) (i≠j)に対し
て ij (A) -I A Eij
(1. 7)
移操に共役な線形写像はまた移操である
定理1. 2
Shin,F)=くi,j(A).j≠j.え〔F)
G L (V)の元Zについて,つぎの条件は
GL(n.F)=くBm 入).D<5.i≠j.A,6CF〉
同値である。
(1)元Zは全ての移換と交換可能である。
SL(n,F)<3GL(n.F)で、
(2)元Zは空間Ⅴの1次元部分空間をみな
剰余群GL(n. F)/SL(n, F)
不変にする。
は、基礎体の乗法群FX と同型であるO
(3)体Fの元入があって, Vの任意の元V
に対してZ (v) -入Vが成り立つ。
体Fの上のn次元線形空間をⅤとし、 VからVへの
上-の線形写像全体の集合をGL(V)と書く。
3f-
(4)元ZはG L (V)の中心にはいる
定理1, 9
r-n
(n-1) ′2
であって、 G L(n, q)は位数がちょうど
体Fが高々3個の元しか含まず,かつ
dimV-2の場合を除けば, G L (V)の
qr の部分群を含んでいる
正規部分群は中心に含まれるか,または
S L (V)を含む。
暗証 前半は(1. 1 1)の最後の式で
逆に中心の部分群,またはS L (V)を
(q一 一1)などの因子がpと素そであること
含む任意の部分群はGL (V)の正規部分
から明らかである。後半は対角線に1が並んで
群である。
いる上3角行列の全体をUとおく。 u Iqr で、よって(1. 12)がなりたつ。
定理1, 9の前半部分は,以下の形で証明す
(1. 1 3)
体Fを固定する。任意の有限群Gを与え
る。
たとき、 nを十分大きくとれば、
(1. 10)
GL (n, F)はGと同形な部分群を含む
HをGL (V)の部分群とし, Hは
GL (V)の中心に含まれないが,その正
暗証 体Fの元を係数とするGの元の1次結合
規化群は、 S L (V)を含むと仮定する。
このときI F L≦3かつdimV-2の場
a-∑入g g (入g F)
の全体をrとおく n-d imFとおけばGL
合を除けば, HはS L (V)を含む。
(r)はGL (n, F)と同形であるから(1.
13)が成り立つ。
体Fの標数pとし、 】 -q (-p")
§2 S yl owの定理
とする。このとき
GL (n, q) │
定義2. 1
-(qn-1)(q -q)-(qn-q""1)
-qnくn-1)′」n
G:有限群
(q -1)
i G】-Pnm (P, m) -1 とした時
である。
位数がちょうどpnとなるGの部分群をGの
暗証 体F上のn次元線形空間Ⅴを取り、
p-sylow部分群、またはSp一部分群という
G L (V)を考えると、
GL
(V)
i-qn<∩
日ノ2Il
(q'-1)
Gの部分群UがS p一部分群である
でG L (V)とG L (n, q)が同形だから
くi) UがP群である
(1. 1 1)がなりたつQ
(ii)指数 G:U 自らiPと素である
(1. 1 2
[証明] (I) (i) U:有限群GのSp-部分群
有限体Fの標数をpとし、 I Fi-qと
定義2. 1より G I-Pnm, l -Pn
く。群G L (n, q)の位数を割るqの
∴UかP群であることは明らか
大べきは
‥
Hl:
(iii) Gの任意の位数Pベキの部分群は
(ii) G:有限群
sp部分群に含まれる
U:群Gの部分群
(iv) Gに含まれるSp 部分群の数は
UがSp一部分群である と仮定すると
I Glの約数であり、 Pを法として
定義2. 1よりI G I-Pnm, UI -P
1に合同である
(p, m) -1と表せる
Lagrangeの定理を使って計算していくと
この定理を証明するために次を証明する
G:U I-m を得る
仮定より (P, m) -1であるから
(2. 6)群L: Sp群Hを含む。
∴指数 G:U lはPと素である
このとき、 Lの任意の部分群Kが与えられ
(仁)仮定より U: P群だから
ればKnHXがKのSp群となるようなLの元
】UI-p' とおける
Xが存在する。
また G:U がPと索である
ここで、定理2. 5の証明にもどる.
今 1>n とすると
[証明] (i)
第1章定理3, 3より
(1. 13)より、体Fを固定すると、任意
I G I- i U
の有限群Gは、線形群GL (n, F)の部分群
G I-Pnm だから
Pnm -Pつ G:U I
と同型になる (1. 1)よりFはp元体Fp
u I -Pl
に取ることができるo G-GL (n, Fp )と
なり、 (1. 12)より、 G L (n, F)は、
n-1>0だから U !-Pl は
sp部分群を含むから、 (2. 6)により、 G
pと素でない
は、 Sp 部分群を含む。
∴仮定に反する
ここで、さきに(iii)を証明する。
∴n-1となり I UI -P"がいえる
∴Gの部分群UがSp部分群である。
(iii)
H:Gの1つのSp部分群 -p" m,
(性質) UがGのSp部分群
-p'
⇒Uの共役群もsp部分群
K:位数I K lがpべきの、 Gの任意の部
〔証明〕 U9 :Uと共役な群とおくと
分群 K -p (n>1)とすれば、
∀g CGに対して
a)仮定より、 Kはp群である。
Us-g 'ug- :s ug 〔い
b) I K I - K:K
l^^^l
と表せるので U9I もPのベキで表せる
∴Uの共役群もsp部分群である
pl
K:K
定理2. 2 (Sylowの定理)
pl
I-p
- 1
(i)任意の群はSp部分群を含む
∴pとは互いに素である。
(ii) 2つのSp 部分群はGの中で共役で
) , b)が成り立つから(2. 4)を
ある
満たす。
-HE
(Ⅳ)を少し拡張したっぎの形で証明するQ
K自身がKのSp 部分群である。
(2. 6)を適用すると、 KnHXが、.Kの
sp 部分群となる。 Gの元xが存在する。
(2. 4)
位数がpのべきである部分群Uをとる。
ただし、定義よりK自身が、 KのSp部分群
であるということは、 Kn Hx -Kとなり、
Uを含むS p部分群の数はpを法として1
K⊃HX であることを意味する。
に合同である。 Uとして特に(1)をとれ
ば(Ⅳ)が得られる。
仮定より、 HはGの1つのSp 部分群である
ので、 (2. 4)より、その共役群も、 sp 部
証明
分群である。つまり、 HfeH;もGのSp 部分
GのS p部分群をS、 H-Ng(S)とすると
群となり、 KはSp 群に含まれる。
G:HI-∑ U:U nHつ -..・①
(ii) K, H:共にGの1つのSp 部分群と
すると、 (iii)より、 Kn Hx となるHx もG
が成り立つ。 Uはp群で、 UnHXは必ずUの
任意の部分群になるからl U:UnH当はpの
の1つのSp部分群である。
べきになる U :UnH' とすれば
(2. 4)より、 K - H: -pl と
U-Un Hx U⊂HX x U x ⊂H-
なるので、 K-H> となるxがGの中に存在す
No (S)
る。
上の楠題よりx U x CsすなわちU⊂sx
∴KとHは、 Gの中で共役である。
を得る。
(iv)明らか。
一方、 U⊂sx であれば逆に U:UnHつ
最後の結果を証明するためには、さらに、 -つ
-1が得られる。
の捕題が必要であるo
両側剰余類HxUはただ一つのHの左剰余類
Hxからなっている。
そこでUを含むs p部分群の数をn (U)と
群GのS p群の一つをSとし、
おけば①の右辺に1となる項がn (U)個存在
H-Ng(S)とおく。 Hの部分群Uの位
c^HS盟
数がpのべきであれ ばU⊂Sである。
I G:H ≡n (U) (mo d. p)
を得る。しかし、左辺はUに無関係なので特に
証明
S=Uとおけば任意のS p部分群を含むs p部
補題の仮定より、 s Sに対してs S-S s
分
が成り立つのでS⊂HでありSは群GのS p部
群はただ一つであるから
分群であるからSはHのS p部分群でもある。
n (S) -1
(2. 2) (m)よりU⊂sx をみたすx
∴ G:HI …1…n (U) (mo d. p)
Hが存在する。
特にUが1日 であれば(IV)が成り立っ。
H-Nq (S)だからsx -sとなりU⊂Sが
成り立っ。
-6ト
-f
「
古典群の極分解」
(re*9)
f
(s
e'叫)
-f (a) f (H
である。よってC'とSl xR'は群として同
蝣
I'Sft
型である。
仲川 満美
1年間ゼミで『群と位相』 (横田一郎著)を
ところで、 GUI, C) - {a∈M(1,C)
学習しましたが、卒論として、古典群の権分解
a≠Of - <a∈C i a≠0} =Cであり、
についてまとめました。その中から複素一般線
U(l)- {a∈M(1,C) I aa* =U
形群GL(n. C)の極分解について述べます。
- la∈ I a1-1} -S' 、またexpと
logでR⊆呈R'なので、定理1は
GLl, C)⊆呈UI XRと書きなおすことができ
C'とSl xR+ は群として同型である。
る.これを一般化して、次の定理が成り立つ。
これを複素一般線形群の極分解という。
駕rKS篭り 田¥m
0 まず複素数の極座標表示を思い出す。複素
GL(n, C)とU(n)×R♂は位相空間として
平面の点Zは、 z-x蝣i yと表わすことが
同型である:GL(n, C)空U(n)×Rd
できるが、 I zl-√貢Tiテr=rとおくと、
r≠0なら偏角βが決まって、その実部Xと
定理2を証明するのに用いる補題をいくつか
示しておく.
虚部yはx-r cosO, y-r sinOと表わ
され、オイラーの公式により、
z=r
(
cos6+圭 sinO)
=r
G (n, C)とRzfは距離空間として同型
e18
である.
と示される。
そこで、 c -c- 10)の元aをa-r
・id (r>0)と表わし、 eiOとrをそれぞ
れ単位円周Sl と正の実数全体の集合R'に
写像exp 3 (n, C) -3*(n, C)は
対応させ、写像f :C-Sl xR+ を
同相写像である。
f (r e*9) - (e29, r)
と定義すると、 fは全単射である。
SJ C)とRzTは位相空間として同型
(fの逆写像g: Sl xR一一C'は
である。
g (a, x) -el である。 )
さらにfは準同型写像である。実際、
α-reiB β-s eifに対して、
写像f:U(n)×3*(n, C) -GL(n, C上
f (aβ) -f (r ei9s elp)
-f
f (U,P)-UPは同相写像である。
( lO+ド))
- (e*'9*"', rs)
68-
§ 3 体の自己同型群
ゼミで、いっも式の意味を考えるようにいわ
回転群と射影空間の位相
││
れ続けて1年間。卒論発表になって、やっと先
│#!」*#MM.)
申数丸井理恵
II
生のおっしゃる意味がわかりました。本の証明
私は、基礎数学選書5群と位相(横田一
るようなものO つんとすまして並んでいる式も、
郎著)をもとに、3次の回転群SO(3)が3
意味がわかると身近なもののように思えてきま
次元実射影空間Rp3と同相であることを示し、
す。 『いつも具体的にどういうことを言ってい
SO(3)の位相を調べるにはRp3の位相を
るか考えること。 』これが、難しい数学を易し
調べればよいことを学びました。卒業論文の内
く勉強するコツかbしれませんO このことがわ
容は次のようなものです。
かっただけでも、 1年間ゼミを通して勉強した
第-章、第二章は、第三章への準備として、
かいがあったと思っています。
をおっているだけでは、マネキン人形をみてい
最後になりましたが、 1年間御指導頂きました
まず第一章で回転群と射影空間とはどのような
ものであるかを述べました。次に、第二章で古
菅原先生、および諸先生方にはこの場を借りま
典群が位相群であることを導いたうえで、位相
して厚く御礼申し上げます。
群における準同型定理を導きました。第三章で
は、結論『3次の回転群S0(3)は3次元実
射影空間RP3と同相である』ことを導くため
に3次元単位球面S3の、1と11からなる集
「射影空間と直交群の胞体分割」
-m&G.mtm.&ncomwmt
,]
;
合S田による軌道空間を考えて、この軌道空間
*2&^EBH
中数藤田隆
が3次の回転群sO(3)、3次元実射影空間
Rp3とそれぞれ同相であることを導きました。
この一年間を通して、古典群の位相について
卒業論文の章立ては次のとおりです。
学んできましたO卒業論文の内容は以下のよう
第1葦古典群と射影空間の定義
になっています。
§1実数、複素数、四元数
1.射影空間と古典群の定義
§2-ォ'/典群
(1)古典群
§3射影空間
(2)射影空間
第2章位相群
2.射影空間と古典群の位相
§1コンパクト集合
(1)位相群
82等化空間
(2)等化位相と等質空間
§3位相群の定義
(3)位相変換群
§4位相群としての古典群
3.射影空間と直交群の胞体分割
§5位相群における準同型定理
(1)胞複体
第3章体の自己同型群
(2)射影空間の胞体
§1射影空間の位相
(3)反射行列
§2軌道空間
(4)直交群の胞体分割
-69-
に胞体分割できる。
ここでは胞体分割について紹介します。
まず、四面体と球面の胞体分割を考えます。
4面体Dは4個の2次元胞体(面)と6個の1
^¥-サ¥^v^x^sm¥^¥^¥m>.mN^¥mx^¥^x^¥サ¥サ¥m¥^s^¥^s^¥Ti^¥^xサ^サ.¥*岬、赴
t
t
次元胞体(線分)と4個の0次元胞体(頂点)
からなる14個の胞体に分割でき、四面体Dと
球面S2は同相なのでDの胞体はS2の胞体でも
・hサ$2^Hill
あります。そのはかいろいろの多面体を考える
l
と、いろいろな球面の胞体分割が獲られます。
1.研究の目的
最低、 S2は1個の2次元胞体と1個の0次元胞
教科書の中で「考える」「調べる」の2つの
体からなる2個の胞体に分割できることが分か
言葉を手がかりに、算数科学習上の困難点を明
ります。
らかにすること0
つぎに、 n-1次元射影空間の定義をn次正
2.研究の方法
方行列の元でエルミート行列でべき等でかつト
教科書の中の「考える」「調べる」という言
レースが1であるものの集合で与えて、射影空
葉から、子どもの学習活動を明らかにする。そ
間の胞体分割を考えましたo o
して、「自ら考える力」ということに焦点をあ
そこで、この卒業論文のテ-マである直交群
てて学習指導上の困難点を探る。
の胞体分割に取り組みましたo大雑把にいうと、
3.研究の結果
射影空間を直交群に埋め込み、先の射影空間の
教師が子どもに教える際の困難点は、子ども
各胞体を直交群の群演算により掛ければ、直交
に何をさせればよいかがわからないというとこ
群の胞体分割が獲られます。つまり、
ろにあると思われる。
4.卒業論文の概要
定理直交群o(n)はE,e,km-1
第一章では、教育課程審議会答申を通して特
n≧kl≧-≧km≧1の2n個の胞体に分割でき
に算数科での育成が期待されていると思われる
る。
思考力について述べる。
0(n)-Ue''e'2-蝣eir,
第二章では、「考える(思考)」ということ
C{1,2.蝣蝣-.n}
について、算数科でのそれを明らかにし、思考
さらにO(k)(l≦k<n)は0(n)の部分複体
の発達やその特徴を述べる。
である。
第三章では、教科書の「考える」と「調べる」
例えば、o(2)は、2つの0次元胞体
による子どもの学習活動を調べる。そして、「
E-('-(-1と
考える」と「調べる」の関係について考える。
第四章では、第三章の調査をふまえて学習指
2つの1次元胞体
導上の困難点を探るO
e'-{(-cos-sin窓)lOく8<2打1
e】.0-eiee
教科書の「考える」「調べる」という言葉の
表記から、教科書で教える場合の問題点として
次の事柄が挙げられる。
-{(Cos
sin 慧)10<e<2万)
(1)子どもに考えなければならないという必
「rJ誠∼
要感を持たせていない。
して考えればよいかがわからないからである。
(2)子どもの興味や関心を引き出さずに思考
そこで「よく考えなさい。 」と言われても、子
させている。
ともは学習意欲をなくすばかりであるO
(3)教科書にかいてあることは、間違いのな
考えることを強いられて考えるのではなく、
い事実だと子どもに考えさせている。
子ども自身が自発的に活動していくような域を
(4)考えたり調べたりする方法を見つけるた
教師は作り上げなければならない。教師は一つ
めの手がかりになる事柄を読みとりにくいO
一つの言動にもっと責任を持ち、注意していか
以上の事柄を、次の例で考える。
なければならないと思う。
「下の正三角形の図で産)は⑦の拡大図になって
います。そのわけを考えましょう。 」 (大阪書
小学校算数教科書研究
籍6年上)
二二二二二
△cm△cm
卒業論文の研究の目的は、次の2つを通して、
図形指導における「見つける」 「確かめる」に
ここでは、子ども自身による作図活動が必要
ついて考えることである。 1つは、児童が「見
である。その理由は、問題文にかかれている数
つける」や「確かめる」という活動をすること
学的事実を認めるためと図形の特徴をっかむた
は、図形概念の形成に、役立つかどうか。もう
めである。しかし、 「かく」という活動に導く
1つは、受動的な「確かめる」と能動的な「見
ための事実を疑わせるような表現が教科書には
つける」の意義は何か。
その研究方法は、教科書における「見つける」
ない。
「確かめる」は、どういう時に使うか、その役
また、この文からでは子どもは考える方法を
見っけだしにくい。そして、教師にとっても、
割を調べることである。また、 「見つける」 「
どのようなことを、どの程度まで教えればよい
確かめる」と図形の概念形成や学習水準との関
かということが、教科書からはくみとれないD
連の調へることである。
そして、卒業論文の構成は、次の通りである。
どのように解決に導いていけばよいかというこ
とがはっきりしていないところに、教師は指導
3¥一章 mv教育
上の困難を感じるのではないかと思う。
第二章 概念形成と操作的な活動
このように、先の問題点から生ずる困難点を
第三章 教科書にみる活動
念頭に置き、子どもが「自ら考える」授業にす
第四章 図形の学習指導
るための学習指導のあり方を自分なりに検討し
第三章で調べた結果、教科書では、 「見つけ
た。ここで、特に次の点に注意したい。
・教師は発問を慎重にする。
る」 「確かめる」を大まかではあるが、次のよ
うに使い分けられている事がわかった。
子ともがわからなくて悩むのは、どのように
-71-
R ifJEEra
実際教師が授業をするときにも、考慮すること
(丑 図形(対象概念)を具体物(身のまわり)
から見つける。
が望ましい。しかし、 「見っける」や「確かめ
る」なとの言葉は、あまりにも日常的な言葉な
② ある集合から条件(定義)にあう図形を
ので、意識し過ぎると使いにくいものとなるだ
smm
見つける。
③ 条件(前提)を使って、図形を見つける。
〈確かめる)
そこで、図形指導の方法として、教科書は、
児童に活動を促すこれらの言葉をうまく使い分
(力 関係概念を確かめる。
け、 (いっも教科書を使って授業をする先生は
(塾 作図の正しさを確かめるO
少ないだろうか)教師は、せりふ集として教科
③ 念頭で操作したことを実際にやってみて
書を使うようにすればよい。
確かめる。
④ 論理的に考えたものに対して結果を実際
中学校数学教科書の表現の研究
に確かめる。
→図形分野における論証
⑤ 図形の性質を確かめる。
⑥ どうすれば確かめられるのかを考える。
の導入に重点をおいて-
以上より、 「見っける」 「確かめる」は、単
ゥ3JAicS」.」te^T中数
^c#^ts
に児童にとって、能動的、受動的な活動ではな
上…___ー__-二二…二二二__:
く、それぞれ役割を持っている活動であること
数学という教科において、論理的に考えるこ
がわかる。
とは不可欠なものであるといえる。数学教育で
そして、第四章では、 「見つける」 「確かめ
は、内容そのものも大切であるが、論理的に思
る」には、ある学習水準に固有な数学的な活動
考していく能力、態度を養うことも重要な位置
とそれと関係しない学習活動がある事がわかっ
を占めている。
しかし、その重要であるはずの論理的に思考
・m
数学的な活動は、図形概念を形成する時に用
していく能力、愚度を数学という教科において
いられている。 (見-①②③、確-①⑤⑥)
十分養えているかといえば大いに疑問が残るの
ではないだろうか。
「見つける」と「確かめる」は、次のように一
般的な形に直すことができ、図形指導にとって、
有効な言葉であることがわかる。
このような論理的思考について、私は意識的
に推論をすすめていきやすい幾可分野-団形の
・ 「性質」を使って「形」を見え虹技ムえO
論証を考えていくことにした0-椴に、図形の
・ 「性質A」である形は、 「性質B」をもつこ
論証は嫌いな分野、苦手な分野とされており、
とを確かめましょう。
生徒達は、図形の論証は難しいといった先入観
⇔「命題」 (A-B)を確かめましょう。
を持っているようである。
そして、学習活動としては、図形(教学)だ
そこで、私は論証は何故嫌われるのか、生徒
けでなく他の教科でも学習態度を養う活動とし
が論証でつまづく原因はどこにあるのか、とい
て用いることができる。 (穣一②③④)
うことを問題として論証の導入に注目して考え
「見っける」や「確かめる」をどう使うかは、
-72-
ていくことにした。また、教師の指導法におい
てそれらの理由をさがすのは難しい。そこで研
で、生徒の現状や反応をしっかり把握し認識し
究対象として、教科書を選んだ。
ながら指導をすすめていかなければならないと
卒論の構成は次の通りである。
いうことを、あらためて学んだような気がする
第1章 論証
のである。
今後さらに、論証の難しさということを自分
§1 論理的思考
§2 論証とは
なりに追求しながら論証の指導ができるよう、
§3 中学校における論証
努力していきたいと思う。
第2章 アンケート調査による結果と考察
§1 アンケート調査の内容と結果
§2 アンケート調査の考察とアンケート
i中学校数学教科書の表現の研究
調査に見る問題点
控の証明の表記を再掛
j *^ *ffi BEA
第3章 教科書に見る問題点
、
│
§1 証明の意義
1.問題の所在
§2 -般命題と特述命題
推理してきた証明を記述する段階において多
§3 証明の導入
くの生徒が適当な表現ができずに、つまずく傾
その内容については、第1章では論理的思考
は何かということを調べ自分なりに定義づけ、
向にある。
図形分野にあてはめて考えた。そして「論証」
2.研究の目的
そのもののもつ意味と方法について調べ、中学
生徒にとって、証明を記述することの何処に
校ではどのように扱われるのかということを学
難しさがあるのかを明らかにするO そして、数
習指導要領で調べてみた。
学特有の表現を取り上げ、その難しさに応じた
指導の一例を提案する。
第2章では、生徒の実態を知るために実施し
たアンケート調査の結果とそれについての考察
また、証明の記述に対して、生徒は「説明不
を述べた。そしてその結果から考えられる問題
足、くどすぎる、無駄なことを書く」といった
点や原因などを考えた。
状況にあり、生徒自身も、それが一原因で「う
第3章では第2革をうけて、特に論証の導入
まく書けない」といった印象を証明に対して持
における問題点をとりあげ、それらが教科書で
っている。そこで、本論文では、証明を記述す
はどのように取り扱われているか、説明されて
る際に、ある程度の客観的な省略の基準を仮設
いるかなどを4社の教科書について調べ、比較
することを最終的な目標とした。
し、自分なりに考えてみた。
3.研究の方法
証明に用いられる言語には、
この「論証」についての研究をすすめていけ
ばいく程、論証の指導が難しいということを痛
・対象言語(式・等式など)
感することとなった。また、教師というものは
・メタ言語(対象言語を説明したり、証明の構
ただ単に、教科書通りに指導をすすめていけば
造にあずかる日常語。例えば、 「ゆえに」 「ま
それでいいというのではなく、教科書の内容を
たは」や「補助線の説明文」 )
もっと深く撮り下げ、教材研究の努力をした上
の二種類がある。そこで、実際にそれらが使用
-IL'-
されている状況を調べるために、教科書の証明
また、 「話ことば」から「書きことば」 -と
の範例や生徒の実態調査を拠り所とし、生徒の
いった指導の一例を挙げながら、論理的な表現
見地での表記の難しさを考える。
力の育成に向けて、どのような指導が望まれる
また、現状の指導と照らし合わせ、教科書の
のか考える。
表現に対して補足等を行なうことから、つまず
5.おわりに
きの軽減に向けた指導のあり方を考える。
本研究から、論理幾何で教えるべきことは、
大別して次の2項目であるという結論を得た。
4.卒論の概要
第1章 図形の証明問題における記号化
(1) 数学的事実の成り立つ理由がわかる
日常語で表現されている事実ないしは関係な
(2) (1)を文章に記述できる
(1)は、学習内容そのものであることから
どを記号を用いて表わすことは、証明を行なう
以前に必要とされている作業である。この「記
数学的と言えようし、 (2)は能力として養わ
号化」について、どのような問題があるのかを
れるものであるから教育的と言えよう。
中学校数学が(1)の内容に偏重しすぎてい
考察する。
るために、教師は(2)の内容にまで手が回ら
第2章 証明の記述上の問題点
証明の記述(主に文章表現の部分)に関する
ないというのが現実かもしれないが、 (2)の
生徒の実態調査を通し、その表現にどのような
内容を意識しようとする姿勢を忘れてはなるま
傾向、問題があるのかを調べる。また、証明を
い。
記述してゆく上で、どのような難しさが存在す
るかを考える。
第3章 論理語と証明
Lmmt=LftVf<Dn%L'ji^
L関数と二次体の類数公式
実際の指導で、論理語は直接学習の対象とは
ならないが、証明を記述してゆく上で不可欠な
*tsts*#ア│
役割を果たす。しかし、論理語に対して生徒は
最も抵抗を感じ、時には無意図的な使用さえ見
卒業論文の構成
られる。証明の記述を論理語との関わりで問題
序文
化してみる。
第1章基本
第4章 証明の記述における基準
§1環と体
証明の記述について、書くべきことと書かな
§2体の拡大
くてもよいことを決める記述が、ある程度客観
§3拡大の次数
的に定まれば、生徒も解り組み易くなるのでは
第2章ガロアの基本定理
ないか。論証と論述の関連にふれながら、記述
§1正規性と分離性
上の客観的な基準を仮定し、それについて述べ
§2単射準同型、自己同型及び正規閉包
る。
§3体の次数と群の位数
第5革 論理的な表現
第3章L関数と二次体の類数公式
第3、 4葺の内容を受け、主に論理語を意識
§aゼータ関数
させる証明の記述の指導について考える。
§bDirichietのL関数
-74-
§c Gaussの和
大学の数学について感じたことは、一度授業
§d 一般のGaussの抑
でやり終えた定義や定理は既知事項として次の
§e 二次体の頬数公式
授業を行っていくということであるO しかも定
本卒業論文は代数体入門とそれに密接に関連
義などはみただけではわからないような記号や
するL関数に関する考察を行うことを目的とす
文字で表わすから一度授業を休むと、あるいは
る。
一つの定義などが理解できないと何もわからな
第1章ではガロア理論に必要な基本概念につ
いて述べ、第二章ではガロアの基本定理につい
ての正規性、分離性という重要な概念を定義し、
ある体上では根が存在しないのに、それより広
い体では存在するという現象について説明する。
第三葺では代数を解析的な側面から捕らえたO
くなるということで「ながれ」 「積み重ね」の
大切さを痛感した。
本卒業論文においても自分自身「流れるよう
な論文」をテ-マに取り組んでみました。
(まだまだ記号などを自在に扱える域には達し
ておらず不満も残っています。 )
そして、 L関数と二次体の頬数公式
について発展させた。
代数体の整数論
*&m^nm¥
一判別式に関して一
-1ォs;fcH L-c一
K^^^K^'KSI^^VCWk'^i
卒業論文の構成
中敷 酒井昇
序文
卒業論文の構成
第1章準備
rt;x
§1基礎概念
第1章 準備
§2多項式の分解
§1 環と体
§3体の拡大と次数
§2 多項式の因数分解
§4正課性と分離性
§3 体の拡大
§5正境閉奉包
§4 拡大の次数
第2章方程式の代数的解法
第2章 ガロアの基本定理
§1可解群と単純群
§1 正規性
§2べき根による方程式の解
§2 体の次数と群の位数
§3-般多項式の方程式
§3 単射準同型、自己同型及び正規閑包
第3章代数的整数
§4 ガロア対応
§1代数的数と代数的整数
第3章 代数的整数論
§2二次体及び円分体の整数基
§ 1 イデアル
§3ガウスの和
§2 判別式
"方程式の解法"というこの技術は、すべての
§3 ミンコウフスキーの定理
人間の才能の明確さを超えており、それはまさ
-75
に点の与えたもので人間の知的能力をきわめて
の解について発表しましたので、ここではその
明確にするものである。この方程式の解法をめ
ことについて述べることにします。
ぐって多くの数学者が悪戦苦闘してきたことは、
どの本を見ても明白なことであると思う。
* *************** **** *
本論文では方程式の代数的解法をいち早く知
るために第1章ではガロア理論に必要な基礎概
念について概説している。
解の存在定理
t (x, y)が、 x-a ≦A, y-b
第二章では方程式を代数的に解くための必要
十分条件を知る上で重要な群論に触れるO
≦Bにおいて連続で、 Li p s c hi t zの条
件と呼ばれる次の条件
第三章では代数体に関して代数的整数の明確
f (x, y) -f (x, z)
≦K I y-z I (K:正の定数)
な定義と整数規定に関して論じた。
を満たす。
- d vー_
d x
I#3*m¥*JH」nI
中数堀内真如
I/Mfc5#g-│
小数石神賢-
-i (x, y)は、初期条件
y (a) -bを満足する解 y (x)をもっo
y (x)は、 x-a ≦A, -a l≦
B/′M で定義され、初期条件を満足する解は、
蝣iisi厄日
│liifflifH│
山田淑美
5?
ただ一つしか存在しない。
ここで、
湖=max│口(x.y)上Ix-al≦A, Iy-b ≦BI
私達は、矢野健太郎著の「微分方程式」(裳華
* ********************
戻)をテキストとして、卒業論文の研究を行い
ましたOまた、微分方程式のコンピューターに
ここで、例として課題の微分方程式をとりあ
よる数値解法も行いました01年間の学習内容
げてみる。
は次の通りです。
t (x, y) -y' - (a x2+d x+f)
+ (c x+e) y-fb y;
第1章 微分方程式
は連続で、 】Ⅹ-αJ≦A, β L≦Bと
第2章 1階常微分方程式の解法
すれば、
第3章 高階微分方程式の解法
f (x, y) -I (x, Z) I
第4章 常微分方程式の解の存在
-│ b (y2-z2) +c x (y-z) +e
第5章 線形常微分方程式
(y-z)
第6章 2階線形微分方程式
≦ y-z
第7章 定数係数の線形常微分方程式
b
I
(I
y
-T i・ C つ x I -r ! e i!
第8章 数値解法
≦KI y-z (K 定数)
卒論発表会では、ゼミ中に謀懸となっていた
y′ -ax2十by2十cxy+dx+e
y+f
-76-
となり Li p s c hi t zの条件を満たして
いるので,定理により,初期条件を満たす解が
hを決め、初期値のxの値から所要のxの値ま
存在すると言える。
次に y′ -ax2+by2+cxy+dx+Ey+fの解を求め
ることができる場合を考えてみた。これは
での離散的なxの値を設定する。その途中のx
に対する函数値のみを問題とする。
′
Riccatiの微分方程式なのでy:目差の変換に
よって
微分方程式の初期値問題でよく使われるのが、
前進形と言われる解法である。この中でよく知
られたものとしてオイラー法、ルンゲ・ク・ノク
u*
-(cx+E)u′ +b(ax2+dx+f)u=O
法が挙げられるO 前進形の他に、反梅形と言わ
となり、これはUに関する2階線形微分方程式
である。次にこれをu′ の項のない形(標準形)
れる解法かあり、ミルン法、 -ミング法が挙げ
られるO ここでは、比較的容易にプログラミン
へ変形する。 U=wVとおくとV=eナ(icx2+Ex)と
グができて、かっ、精度がよいルンゲ・クック
すると
法をとりあげることにした。
w* +*{(ab-TC 士cE)x
+(bf+÷c-iE2))=O となる。
今、 Wの項か実数であれば特殊解が容易にわか
(刺)微分方程式 -y2+1 の
解のグラフを ルンゲ・クック法で措かせる。
る。そこで、 ab-xc -0、 bd一寸cE=O という条件
をおく。 J=bf+士C一十E2とおき、 K=VTJ 「とす
1 ******************
るとこの微分方程式の一般解は次のようになる。
2 * l.y"-xx-yy+1 *
Aek-Be-k
3 ******************
-、蝣!蝣.>->.
10 SCREEN 3 :CLS 2
20 LINE (0,200)-(480,200)
2)J-0の場合y:守-(cx+E)千
A
30 LINE (240,0)-(240,400)
読+一己
35 INPUT -YJショ寺子ハ";Y
3)J〉0の場合y=-o蘭cx+E)
+K
45 X=O:H=-.01
-AsinKx+B∝6K x
60 FOR XX=-.01 T0 -5 STEP -.01
Ao玉Kx+BsinKx
80 GOSUB 500
特にa=bとおくと、 C=±2a、E=±d となり
85 IF
Aこ1 GOTO 95
′
y' -ax2+ay2±2axy+dx±dy+f
90 NEXT XX
-a(x±y)-+d(x±y) +f
95 A=0:GOTO 95
- {M(x±y)+N} (S(x±y)+T} (複号同順)
98 INPUT Y/シ王寺チ八";Y
の形の場合必ず解けることがわかった。
100 X=0:H=.01
しかし、この微分方程式の解を求積法(有限
回の積分によって解を求める方法)で求めるこ
120 FOR XX=.01 TO 5 STEP .01
130 GOSUB 500
とは、一般には難しく、解けないO そこで、コ
ンピューターを使って精度のよい解の近似を行
140 IF A=l GOTO 210
200 NEXT XX
った。これを数値解法という。
微分方程式の数値解法においては、まず刻み
210 A=0:GOTO 98
400 詛書IiLンケ ・>1中辛Hi
77-
500 Kl-H*(X*X-Y*Y+1)
実際は解を求めることが困難なことが多いので
510 Xl-X+H/2:Yl=Y+Kl/2
微分方程式の解にはなっていないが解を良い精
520 K2=H*(Xl*X卜Yl+Yl+1)
度で近似する数値をコンビ.1-タで作っていき
530 X2=Xl:Y2=Y+K2/2
ました。うわべだけで奥深い領域までには入り
込めませんでしたが、 1年間神保敏弥先生の楽
540 K3=H*(X2*X2-Y2幸Y2+1)
550 X3=X+H:Y3=Y+K3
しい指導のもとで学習できたことは幸いでした。
560 K4=H*(X3*X3-Y3幸Y3+1)
今後、奈良教育大学数学教室の発展を祈って締
570 Y=Y+(Kl+2幸K2+2幸K3+K4)/6
めくくりたいと思います。
575 IF ABS(Y)〉4 GOTO 590
どうもありがとうございました。
580 PSET (50*ズX+240.-50+Y+200):
神保研6 3年度卒業4人組
X=XX:RETURN
590 IはTURN
_サー__ォー_ォサ_-_
算数教育の研究
_文章題について_5
-xサSll-o^T-t
j>>サEB*サ?│
本研究では、文章でかかれた問題が、何故、
子どもにとって難しいのかを明かにする為、文
章題の持つ特徴や役割、構造等をつきとめるこ
とを目的とする。
そのために、教科書に載せられている文章題
と、受験問題として出題されている文章題を比
較研究した。その中から文章題の構造や本質を
引出し、数学的考え方や、思考力を身につけさ
せる為の文章題は、どうであるべきかについて
m駈m
1年間のゼミを通して、これまで述べてきた
卒業論文の概要は、次の通りである。
ことが興味深かったところでした。
第-章では、文章題というものが、今までの
しかし簡単な微分方程式でさえ、私達は解く
算数教育の中で、どのような形で扱われてきた
のには大変苦労しました。
のか。特に、戦後、アメリカが及ぼした影響を
というのは、その微分方程式を解くためには
考えつつ、戦前・戦後の文章題の考え方を調べ
微分方程式がどのような条件にあてはまってい
る。
るのかを見っけそのための解法を考えなければ
第二章では、文章題の算数教育における、そ
ならなかったからです。ある条件を満たせば微
の役割には色々な区別があり、それらを特に導
分方程式の解は存在することは分かりましたが
入問題・応用問題・過程問題とするoここで、
riX
これらの役割と本質について、論じる。
子どもの思考力を高め、読みを深め、筋道を立
第三章では、主に文章題の構造について研究
する。ここでは、ある現実の問題を題材として
文章化する時には、はじめの現実を言語化・言己
号化する段階で、理想化しなければならないと
いう特徴がみられる。また、現実の世界と数量
の世界とは、どのようにつながっているのかを、
国語科の文章と比較することによって、子ども
にとって文章題が難しいといわれる理由を見つ
けることを試みる。
第四章では、比較的長い文章が、用いられて
いる受験問題に焦点をあて、特徴を挙げるo そ
して、それらが、子ども達に数学的な考え方を
身につけさせる為の条件として、どう働くかに
ついて論じる。さらに、ここから、文章題の過
程問題の持つ本質とは、一体何であるかについ
て研究する。
ここで、難しい問題が使われていると思われ
がちな受験問題のなかに、論理だてて考えてい
くことを要求するものが、多くみられた。それ
ゆえ、これら受験問題を検討することによって、
過程問題の本質なるものを、挙げることができ
ると考えた。以下の五点がそれである。
1)文章そのものが長い。
2)思考する段階数が多いO (1回の積算
では解けない。 )
3)お定まりのやり方をもたない。
4)制限時間をもたない。
5)難しい語句や言い回しを使わない。
第五章では、今までの研究の結果を考慮した
上で、これからの文章題は、どのような性格を
有するべきものであるかについて、提案をす
る。
現在、文章題は、算数科の学習の中で、そん
なに大きく扱われてはいないと思う。しかし、
-79-
てて考える為の教材として、重要なのである。
阿仁論史'JB&Ttf.iにおける教材嶋村
数学科教育専修 岩崎 活
本論文の目的は、昭和b2年度の敦育課程審議会の改
訂において中学校数学に登喝した課題学習の哩念を明
らかにすることであ生それを、実践に移すための教
材にまで具体化することである、 (本論文は、序章.
恥一・番一前川事故(."蝣・TtV 偶成さivこいy^i 、くつI.-*二
と結果については、各章ことにことなるので、それぞ
れについて述べることにする)
第一章においては、昭和b'2年の教育課程蕃議会の改
訂において、なぜ中学校にたけ課題学習か導入された
のかt又、導入のねらいはどこにあるのかを、特に我
が国の数字教育教育の指導的立喝にあられる、平林先
生、古藤氏の課題学習に対する見解を視座として、そ
の根底にあると考えられる理念を究明し、 (§ 1 )そ
'..蝣:. H,'紬Ih -」/糾1学校灘芹課程苦言LA套is#iさ:t'汁柊
茎に、上での理念がどのような形で具体化されている
かを槻したが、要するに課題学習は、教学教育が、
その教育成果として残しうるもの、すなわち、 「数芋
的な考え方」や、数字に対する良い「態度・関心」に
焦点を当てたカリキュラム対応であり、その新しさは
今まで寸蹄去にフィート/i../クしてきたものを内容に
まで、フィードバL.'クLようとするところにあるとい
えよう (実際は、内容の取扱いとして導入されてい
るので、内容として位置付けられているとは必ずしも
いえないのであるが)
第一章の補足として、特に、諜題字雷の理念として
取り上げた「数学的な考え方」について、様々な配点
から捉えて考察し本稿において「葺脚勺な考え方」を
どのように捉えるかという筆者の見解を明確にし」<
そして、最後に課題学習のt,う-つの理念である欺芋
に対する良い「態度.関心」についての筆者の見解を
述べ、さらに、平林先生の提唱される『課題学習』の
根底に流れると思われる思想についてもふれたが、そ
こには、活動主義、とりわけ、 C Gat†鴨nOの活動主義
かあることを述べている
第二毒においては、 『課題学習』の提案者であられ
る平林先生の題材についての朋享からその条件につい
ての検討をし『課題学習』とはどのような学習である
かについて言及している.また、 『課題学習』の理念
をより具体的なものするために. 『課題学習』に恥垂
する我が国の従来の学習(特に、間担解決学習との比
較において論述している< )との関連(§2)と、諸
外国の研究及び我が国の最近の研究との関連( § 4 )
80-
LI).LI-∴-M打蝣--'・.1.1
fl'.l.i:>^叶ぎn-a、:MJ汁IをL』J).
M担蝣'^'-.1.
f蝣I"∴iヰ)、までHMvfLするたIJlc'MWL'、).?.り
に-)いて考察したそして、我が国の従来の学習との
関連においては、『諜揖学習』が導ノ、されること
定して、そこにおける様ノ丁な問題点を想定しそれ
いてどの様にの対処すべきかについて考察した。そ
て、§引こおいては§2て「課題」の定義において
論した自由性(Open性)て、教材開発の二つの祝点て
ある.古い教材の見直し'と`新しい教材の開発'を
iiJz-?zt前古か第三S:へ.柏Fl-が耶Lォ│#ヘイm--n
次に諸外国の研究及び我が国の最近の研究と『課題
学習』との関連においては、問題丹前喪(GPoly*)一
間題開萄(こミ∴Shimada)一問題設定0>I川Wn)と
いう系列てその教授字的意義の推移を示し、その中
『課題学習』の教授芋的位置つけを図ったハそして
特にアメリカのSIB川Wn氏の主張する問題設定の方
法か『課題学習』の理念を反映した敦材展開の方法
示噂することを示し、又.氏の方法が、第一章§2に
おいて述べた『課題学習』の根底を流れる教育思想
あるい]dtIeき,nnの教育方法に非常に密接なる関係
ることから両氏を比較L、その中で『謀葺き学習』
材梢戒の基本的な原理を提出した。これは本研究に
ける一つの成果であるL,
第三章は、古い教材の見直しという教材開発の視点
を具体化し、その「脚勺な方法論にまで立ち入ろう
するもので、指に教科書の問題(証明問題に限定)を
「諜糎」にする一般的な方法を開発したOこの方法
開いてー§2の入学試験との関連は、この方法の有
さを示すための一つの例であり、第二章において上
た問題点を克服するため什一つの方法を示唆するも
でもあるただ、ここて-は特に、論証幾何における
形の証明問題についてたけしか考案していないので
の他(例えば、決定問題)については今後の課題とし
て検討が必要である。(と同時に論証幾何からの問
は、特に『課題学習』の「課題」に仕立て直しやす
ということもいえる。)
第四章は、新しい教材の開発である。この展開例は
第二章での教材展開の原理が基礎になっているこの
ことについては第三章においても同じである′ここ
は、特に教材開発が教材展開と同時に示されること
重要性を示唆した、
Lかし、この教材の開発は、まだまだ不足しており
L豊富な教材の開発'これが今後に残された最大の課
題であるといえよう.(19独圭」O.)
図的表記の役割
§ 1 はじめに
i
言語・記号表現について
§2 形、図形、図的表記について
-mm,蝣sH-t^Jgico^-
§3 図的表記の特徴
大学院野萎睦美i
1
§4 算数・数学教育における
1.はじめに
図的表記の役割について
§5 おわりに
中学校の数学教育では、 「筋道の通った考え
第3章 算数・数学教育における命名法の役割
方を育てる」ために「証明」が初めて正式に取
り上げられる、そして、この学習が生徒のとっ
§ 1 はじめに
てかなり難しいことはよく知られている。これ
§2 命名の方法
らの論証学習の困難点の原因追究が本研究の動
§3 命名の対象
機であった。
§4 命名の目的
筆者は、数学をその言語・記号表現(表記)
§5 おわりに
の側面からとらえ、論証学習の問題を言語・記
第4葦 算数・数学教育における
レトリックの役割
号の問題に還元して考案した。とりわけ、最近、
認識の手段として考えられるようになったレト
§ 1 はじめに
§2 算数・数学の文章の特性
リック(修辞学)の研究成果を援用し、数学的
言語・記号の教授や学習の困難さの諸側面を分
§3 算数・数学教育における文脈について
析した。
§4 問題の解決における文脈の
役割について
2.修士論文の構成
§5 レトリックと文脈の関係について
§6 おわりに
序章 一論証学習の困難点に
第5章 結語
関する考察を通して§1 研究の動機
参考文献・引用文献
§2 論証学習の困難点に関する考察
あと*vき
§3 研究の方法と概要
第1章 算数・数学教育における
3.怪士論文の概要
算数・数学の文章に登場する直職、隠職、換
言語・数式表記の役割
§ 1 はじめに
職などの言葉の「あや」は我々の認識を条件づ
§2 数学的表記について
けるといってよいO いわば「レトリックの限界
§3 言語・数式表吉己の特徴
が認識の限界である。 」ともいえる.
§4 算数・数学教育における
しかし、もともとレトリヅクは、言語表現に
言語・数式表言己の役割
関することてあるから、認識の限界を越えるた
§5 おわりに
めには、図的表記を導入することも必要であろ
第2章 算数・数学教育における
う。このようにして、数学的実体に対する認識
-Bl唱
を深めるために算数、数学教育における言語・
これらの概念を拡張したものとして定義される。
記号表現の役割を考察しようというのが本論文
すなわちそれは、可換C'代数C(G)を非可換C'
の主眼であった。
代数Aに拡張することによりなされる。すると、
(G)の拡張された概念としてAで珂密な*部
分代数 を考えるのが自然であり、そのJlはA
に成分を持っ行列Uの行列成分で生成されたも
mi-mcomm^mthwn
量子群の表現に関する研究
のとして定義される。また、群の演算を環に持
ち込むものとしてAは余積写像◎、爪は余逆写
x^-m./>s
像〝を持つ。このうちOはC(G)上で定義された
量子群と呼ばれているものにはいくつかの種
Oの自然な拡張であるが、 Kについては、一般
類があり、それらの間の関連性については、現
に‡との可換性は保障されていない。典型的な
在議論がなされている最中である。その中で私
量子群s U(2)においては、その事実が本質的
は、コンパクトリー群上の表現関数全体のつく
に必要とされる。ところで、上記の性質を持つ
るホップ代数の概念を拡張することにより定義
X-(A,u)を量子群と呼ぶo
量子群X-(A,u)の表寛は、次の様にして定
される量子群とその表現についての勉強を行っ
た。この童子群は、Woronowiczが「Compact
義される。 (V,K)をGの有限次元表現とする。
MatrixPseudogroups」と呼んだもので、
v(g)-(v.(g))CBOO (gCG)をB(K)㊤C(G)の元と
彼はこの新しい数学的対象について近年重要な
みるために行競離用いてv-ni(h.tmす。
基本概念を確立し、多くの研究成果をあげてい
これを用いてVの代数的性質v(gg)-v(g)v(g()
る。私の論文では、量子群といえばこれを指す
(g,g'CG)を言い換えると、余積写像◎と、あ
ものとするWoronowiczが確立した量子群と
る双線形形式 を用いて(id⑳◎)v -v◎Ⅴ-
その表現について、その理論の骨組みを、コン
(辛)となる。すると、 C(C)の拡張がAであった
パクトリー群の表現論の自然な拡張としてみる
ことから量子群の表現v CB(K)㊤Aが、コンパク
ことにより簡単に説明していく。
トリー群Gの表現v CB(K)㊤C(G)の自然に拡張
Gをコンパクトリー群、C(G)をG上の連続関
された概念、すなわち (+)を満たすものとして
数全体のつくるC'代数とするoG上の表現関数
定義される。これより量子群の表現の複素共役、
とは、Gの有限次元表現の行列要素の一次結合
直和、テンソル積やmorphismなどの概念も、コ
として表される関数のことをいい、その全体を
ンパクトリー群のそれの自然な拡張として定義
J(G)で表すOこのときT(G)はC(G)で桐密な‡
される。量子群上のHaar測度の存在により、量
部分代数である。また、Gの忠実な行列表現の
子群の表現の完全可約性と表現に関する直交関
一つをuとすると、uの各成分はJ(G)を生成
係が記述されるが、それはコンパクトリー群の
する。さらに群Gの代数的構造を環に反映させ
ものと異なり反傾表現を多用することによりな
るものとして、C(G)は余積写像◎、J(G)は余
される。それ故、量子群の反傾表現は重要な意
逆写像Kを持っ。ここでKは乗法的、対合的で
味を持っ。
以上のような内容を記述するために私は、塁
複素共役をとる演算と可換である。量子群は、
一望堰
子群とその表現をコンパクトリー群の表現論の
は7-リエ級数と密接な関係があること,調和
諸概念のできるだけ自然な拡張として捉え.るこ
関数とフーリエ級数の関係などについてもふれ
とのできるよう内容、構成ともに工夫した。さ
前章との関連及び,調和関数の境界上の挙動を
らにその観点を貫くため、題3章§2命題3.1
調べたいために単位円周上の関数を円坂内で,
6などのいくつかの命題については、原論文の
調和関数に拡張する問題についても述べた。こ
証明その他の記述をより平易で自然な形に変え
の種のもとになる問題としてディリクレ問題が
ている。
あるが,この問題がポアソン積分公式によって
解決されることについても述べておいた。そし
て最後に関数環の定義を述べこの章を終えた。
第三章では, Hardy空間 HP について知られ
Ha r
r dd y空間HPについて
y2」FblHp(-OUT
ている様々な結果について詳細に述べた。ここ
大学院 中島泰夫
では以下のようなことを考察してみた。 Aは閉
単位円坂上で連続で,各内点で正則な関数の集
この修士論文は, Kenneth Hoffman の「Ba
合を意味するとする。そうすると, Aは閉単位
nach spaces of analytic functions」をも
円坂上の連続な複素数値関数の一様閉線形多元
とにして研究してきた本題目に関する総合報告
環である。とくにAは sup ノルムのもとで,
とそれらに関係する演習問題の解答から成って
バナッハ空間となるという事実や, 「A内の関
mm
数の美都は単位円周上の実数値連続関数の空間
Hardy空間の研究自体は古典的なものである
内で一様槻密である。 」というFejerの定理を述
が,それを関数環に関連したものと考えること
べAの性質について考察した。そしてこの章の
により, Hardy空間の理論を拡張することを目
定理が応用されている関数環としてディリクレ
的として研究してきた。最終的には,総合報告
環を取り上げた。第四章では, Hl関数が内関数
という形でしか述べられなかったが, Hardy空
と外関数に因数分解され,さらに内関数はBias
間の理論に関して知られている各種の定理など
chke積と特異関数に分解されるということ,そ
については詳細に述べることが出来た。
してこのことはHP 関数についても成り立っと
次に本論文の構成を示す。第-章の§ 1には
いうことを考察した。 §2の中で述べた定理の
後ろの葦を構成していくための準備として,必
中に次のようなものがある。 「fを単位円坂内
要事項を証明なしに列挙した。 §2の7-リエ
の0でない有罪正則関数とする。そのときfは
級数について述べた。かなりの時間を費やして
次の形に一意的に表現可能である f-B g 但
計算をしてきたということもあり,特に重要と
し, BはBlaschke積, gは零点なしの正則関数
思われるものについては証明もつけて述べてお
であるQ 」この定理をEが内関数であるときに
いたO またこの章では,関数をそのフーリエ級
応用すると,このときもまた f-B gが成り
数から再構成する方法などについて述べた。
立つことかわかる。但し, BはBlaschke積, gは
第二章では,単位円坂内の正則かっ調和関数に
零点なしの内関数である。つぎに, Hl関数がB
ついて述べた。コーシーやポアソンの積分公式
laschke積と特異関数と外関数に分解されるこ
-83-
とを示す分解定理の証明の検討をした。 § 3で
HP関数-拡張する話と、それに関するいくつ
は, Hl内の関数が有罪変動であるならその関数
かの定理について検証した。
のTaylor級数は絶対収束するということを述べ
第3章では、第1章、第2章を通して、いく
ている Hardy and Littlewood の定理およ
つかの問題や演習問題について、その解決をめ
ひH7関数のフーリエ係数の増大に関する Har
ざした結果を挙げたO それらの問題は既知のこ
dy の定理についての詳細な検討を行った。第
とではあるが、解答の形が明示されていないも
五章にはこの二年間参考文献を利用したりしな
のもあり、すでに学んだことから類推し、計算
がら多くの計算をし,解を求めた演習問題のう
し、発展的な考察を必要とした.その中で特に
ちの幾っかを挙げておいた。この本に述べられ
おもしろかったのは、 Fejer核を2変数の場合に
てある事実が参考文献では定理として挙げられ
拡張したことであるo この経験は、研究という
ていることもあり,証明の詳細な検討は意義深
ものの様子がわかり、難しいが興味深いもので
かった。また,演習問題の中には解の形を予測
してから証明するという問題などもあり,これ
らはいずれも-イレベルなものであり研究の一
端に触れることが出来たと思っている。
:i ニ・i-
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^H
i
この論文は、課題研究で研究したK.Hoffmanの
「Banach spaces of analytic functions」の中
で特に興味をひかれた、汀ardy space Hp(l≦P≦
Q,)における関数が特徴的な2つの関数に分解
されるということについて考察し、結果をまと
めた総合報告である。
第1章では、 HP関数の因数分解を考えるため
の準備の章として、境界値に関する古典的定理
の証明とHP内の単位円板で正則な関数の境界
積分表現について考察した。
第2章では、第1章の考察をもとにして、 Hl
関数が内関数と外関数に因数分解され、さらに、
内関数がBlaschke乗積と特異関数に分解される
ということを精密に検討した。そして、それを
184-
f3BR貰
に対し、少。-1・dMn-dNn・め。が成り立つ
I
I 『ホモロジー代数による
ことをいいーこれを射としてA複体の圏官Aが
可換ネ一夕一環の研究』
構成される.Mn-M輔によって得られるA
大学院数字専修 岡 良夫
複体をM'とかく。
Hn(M.)-Ker(dMn)/Im(dMnH)をn次
Aを単位元1をもつ可換環とするときA力感軍
ホモロジ-加群と呼び、複体射<t>:M.-N.
全体はA準同型を射として圏LAAを構成する.
に対して、H。(¢):Hn(M.)-Hn(N.)を
JLAから.AAへの開手として、 HoiMM, -)
x十Im(dMn+1)-サ¢n(x)十Im(dNn+1)と
HoraA(-, M) , M㊤-,
-㊤M がありー
A
A
それぞれ F3 , F4 とおくとt
f
g
.AAの完全系列 0-N'-N-N′′ -0
に対して、次の4つの完全系列が得らfLる。
g*
①0-Fi(N')Ill-F,(N)一一-F,(N′')
定義する。
eAの完全系列
fg
O-N;-N.-Nご-0
に対して、次のホモロジー長完全系列を得る。
・・.-Hn(f)Hn(g)
Hng
Hn(N.')-Hn(N.)>Hn(N:)「
SM.z)
f・
Hn-i(f) Hn-i(g)
"n-1\5/
②0-F2(N′′)-I--一一→f2(n ; >F2(N′)
し-Hn-!(N.')- *UB-A N. サ ー
UOK
③F3(N′)ーF3(N)塑F3(Nつ→。
fMIM
④F,(N′)ーF*(N)旦聖F4(N-)→0
但し、 f*(♂)-f・β, f*(♂)-βe ∫
Mが射影的ならば、 g*は全射
このとき、 &(f,g)を連結準同型という。
A複体M.とN.に対して、
Cn- CD Mk㊤Nn-0
1t′ .4
dCn(x⑳y)-dMK (x)㊥y
十(-1)kx㊤dV*(y)
Mが入射的ならば、 f*は全射
で得られるA複体C.をM. c◎N.とかく.
A
Mが平坦ならは、 IM<S>fとf(SIM(ア'中尉
Mk 伝;>Nn-k
となる.
// A\
Mk-, ㊦Nn-k Mk ㊤Nn_k_1
A力感羊の放{NU とA準同型の族くdril1.
のなす図式
un+ dn
→Mn+i -I- --Mn --Mn-i -- ・-
が ∀n∈Zに対して dn ・dn+1 -0 を
満たすときーこの図式をA複体M.という。
A準同型の族<t>- Un : M。 -Nn> が
M.からN.への複体射であるとはー∀n∈Z
85-
A
A
A複体M.とN'に対して、
En
- n
HoraA(Mk
N-一k)
It*
dEn (6>K)-dNn k。 ok
十(-1)n+1 ・d¥
で得られるA複体E'をHo喝rA(M. , N*)と
とかく。但し、 Ok ∈ HoraA(Mk , N" k)
さらに食-A/mを剰余体とすると、
HomA(Mk , N"'k)
IWMk , Nn-∠; H〕M…. N"-k)
βn(M) - dimaTorMM,盟)
JIZn(M) - di】u帝ExtA"(盟, M)
A力嘘羊M. Nの射影分解をそれぞれP. , Q.
という結果が得られる.
とするときー∀n≧0に対して
但しt dilnstは食ベクトル空間としての次元を
Hn(P. ㊤N)宍ゴHn(P.
⑳Q.)
A
A
表し、 jLin(M) -ォサ(!, M)である.
dof
和Hn(MョQ.)
A
でありー各射影分解のとりかたに依存しない.
ホモロジー代数についての文献としてはー
これを TorAn(M, N) とかく。
◎プルバキ『数学原論 代数 第X章』 (仏)
A加群Mの射影分解をP.
○岩井斉艮『ホモロジー代数入門』 (サイエンス社)
A加群Nの入射分解をI '
いわいあ主ら
とするとき、
・滞日戦法I.-]--モ17{--AJft Li (V池肌)
〇日野原章利『入門可換代数j (宝文館出版)
∀n≧0に対して Hn(HomgrA(P. , N))
和Hn(Hoi喝rA(P. , I*))
などがあげられる.私見としては、フランス語
和Hn( Ho:l喝rA(M, I*)
ではあるけれどプJLjくキのものが一番 Torや
であり、射影分解・入射分解のとりかたに依存
しない.これを ExtAn(M, N) とかく.
Ektの導入が自然でわかりやすいと思った。
了
Aを局所ネ一夕一環一mをAの極大イデアル、
Mを有限生皮A加群とする.
Mの自由分解F.がー
各dFn : Fn -Fn-,がmの元を成分とする行
列で定義されるとき、極小自由分解という.
そのとき、 Fnの昭数ra血(Fn)を βn(M)
とかきt Mのn次ぺッチ数という。
Mの入射分解I 'が、入射包緒をとることによ
り定義されるとき、極小入射分解という。
そのとき、 Inの中での直租子E (A/p)
の数を vn(P, M)とかき、 Mのpに関する
n次バース数という。
但しt pはAの素イデアルで、 E (ロ)は口の
入射包給を表す.
-86-
?f¥,-,i 親 子麦 Ejl己
つ
つ
し
v
?
J
域
点
sb
▼つ
題
消費税導入で始まる平成元年度は、リクルート問題と もからみ、何かと騒々
しい毎日です。文部省によ る新学習指導要領の発表も、教育界に波紋を広げて
おります。 これらは、日本の政治・経済・教育の新しい方向性を見出そう とす
る努力の顧れと思いますが、後世に憂いを残さない為にも、この転換期に生き
る者の責任を自覚したいものだと思います。
さて、 「飛火野」第5 号も、今後編集主体をどこに求めるのか、財政赤字を
ど う やっ て解消するのかと t
も、 と もか く 印刷の段階にま
で、 たどりつく こ とができ ま した。第4 号までと同様の印刷方法をと り ますと、
4 0万円程度の経費が必要との事で、第5号におきま しては、印刷方法・編集
方法を大幅に変更せざるを得ませんでした。総会案内と と もに出しま した飛火
野購入に関する返事が、 3 月 3 1日(3月2 5 日締切)の段階で、約1 0 0通
余り(約1 5 %の回収率)でその う ち飛火野購入希望者が3 0 名余り(約5 %)
であったこ とを報告致しておきますO 重ねて皆様のご協力をお願い致しますO
創刊号よ り第5号迄の在庫がまだありますのでそれらを購入希望の方、また将
来において定期購買を希望される方は、 ご連絡下さい。 1冊につき1000円、 4
冊では3000円と させて頂き ます。
多忙のおり、原稿をお寄せ頂いた方、またワ ープロ入力にご協力く ださ った
方々、飛火野を購入して下さいま した方に深く感謝申 し上げますO 今後と も、
皆様の飛火野をよろ し く。 (河上 哲)
旧臼urn
河上 哲(顧問)
酉仲則博(編集長)
岩崎 浩(副編集長) 山上成美 中島憲作
梅揮善治(副編集長) 土井真弓 松田元伸
奈良教育大学数学研究会会誌 飛火野 第5号
平成元年4 月 2 3 日発行
発行所 奈良教育大学数学研究会会誌刊行会
〒 6 3 0 奈良市高畑町
編集事務局 奈良教育大学数学研究会
顧問 河上 哲
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