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農業構造の変容と地域の再組織化 一フランス ・ ピレネー東工部の ` 主

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農業構造の変容と地域の再組織化 一フランス ・ ピレネー東工部の ` 主
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
農業構造の変容と地域の再組織化
−フランス・ビレネ一束部の
カタロニケ人集落の場合−
石 原 照 敏
Ⅰ はじめに
産業・経済の高度に発展した国の場合,産業経済が発展するとともに・,位置
的・自然的条件た.恵まれていない地方では,かえって,人口の著しい減少や老
令化が生じてせた。このような地方であっても,エ業化・都市化・観光地化が
進展したところでは,人口の若返り・回復塾に転化しているが,工業化・都市
化・観光地化が,依然として進展していないところでは,′人口の老令化・衰亡
型ともヤ、うぺき,人口減少の極限状態が現われ,農牧集落は崩壊す芦寸前にま
でたちいたって−いる。われわれがすでにその人口に.ついて考察した,フラン
ス・ピレネー東部のカタロニア人集落はまさ粧その典型的事例とでもいうぺき
ものであった。本稿で問題にするのは,人口の老令化・衰亡型をとるこのよう
な農牧集落においてほ,農業構造がいかに変容し,それが地域の再組織化とい
う型をとっていか紅現われているであろうかということである。経済地理学に
おいてほ,農産物の産地形成の進んだ農業地域の研究やユ業化・都市化・観光
地化が進みつつある農業集落の研究が必要であるとともに,−位置的・自然的条
件に恵まれず,工業化・都市化・観光地化されることもなく,人口の老令化・
衰亡塾をとる僻地農牧集落における農業構造の変容と地域の再組織化について
も研究を怠ってほならないことは,そとに住む人々の生活や食糧資源瀾発の将
来性などについて考えただけでも明らかであるのに,このような問題について
はいまなお明らか匹なっていない点が多いからである。
フランスでほ,一・般的にいって−,1955年までほ,最も小さな経営が漸進的に
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欝48巻 算3・4号
− 2 −
衰退したの鱒,ヰ政の琴営は一定の増加を示ん,大経営(50加以上)は増加せ
ず,パリ盆地の場合を除いて,後退さえ示した。しかし,1955年と1963年との
阻では,新しい現象が現われ,経営数が減少しただけでなく,最も増加したの
(1) は大経営である。さらに.,1963年と1970年との問では,20九α以下の層が経営す
る土地の割合が減少し,20−50加層と50払以上層,とりわけ後者の経営する土
(2)
地割合が増加している。地方の事例をみると,Midi−Pyr6n畠es払おいて−ほ,
1963年から1967年まで紅,フランスの平均以上に,50九α以上の大経営は明らか
(3) に増加した。1955年から1970年までの間でも,この傾向ほ同じで,50んα以下,
(4)
とりわけ5
ランス・アルプスの西ペルコールVercqrs occidentalにおいて−も,20ha以下
(6)
層は減少し,優越しているのほ50九α以上の経営層である。
そ・こで問題に.なるのほ,このような階層分解が生ずる経営的基礎ほ何かとい
うことである。この点に.ついて考察するためには,Philippe Pinchemelが経
営規模と焦労働に着目して−経営のカタギ.リーを次のように分類して1いることが
参考紅なる。同教授は,隠退者や副業農家の営む5九α.以下の「経営」を一一応別
にして,巽の農業経営を次の2つのグル−プに分けている。
家族経営(経営者、そ・の家族,最大限2人の賃労働者に依存)−5−50九‰
このうち,5−20九αを小経営(賃労働に依存しない),20−・50九αを中経営(1−
2人の賃労働者を雇う)とする。
大経営(3−10人の賃労働者を雇う)−50−200ねα。
(1)].Klatzmann,GdogYaPhie Agricole delaFrance,Paris:P・U・F,pp巾14−
15.
(2)J。Klatzmann,0れCit.,p。123
(3)J.,Pilleb。。e,“L・Bvolution R6centede L,Agriculturedans MidトPyI6ふ6es
d,apresL,EnqueteAgricolede1967,Revue GdogYa?hique desP.yY6n‘β′S et du
Sud⊥Ouesi〃,Tome42,JanvieI1971,p一107
(4)J.Pilleboue,“LaStructuredesExploitationsAgricolesdansMidi−Pyr6n6es”,
Revue G60gY・a♪hique desP.yrdn6es et du Sud−・Ouest,Tome46,Janvier1975,
p.13.
(5)A.Morel,“Lせvolution Rるcentede TroisCommun由duVercorsOccidental:
L60nCel,LeChaffalet Plan−de−Baix〃,Revue de G60gYaPhie、A12・i−ne,Tome
LXII,1974
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農業構造の変容と地域の再組織化
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ー β −
一方,フランスの農業経営は,土地保有の様式紅着目すると,自作農(FaiI■e−
Valoirdirect),借地農(Fermage),分益小作農(Mるtayage)に分けられる
が,このうち,分益小作農は減少し,自作農はいまなお多いが,自作農の少な
(8) からざる犠牲のうえ紅,借地農が拡大してきた。北フランスの借地農地帯が実
は大経営地帯と−・致していることが暗示するように,大経営(50九α以上)は,
(7)
多かれ少なかれ,借地に依存している場合が多いのである。一方,5九α以下層
が大幅に減少したのは,隠退者の「経営」や副業鹿家の「経営.」ゐ減少を意味
している。以上のような多数の経営の減少,経営の拡大がいか紅して生じたか
が問題に.なる。この間題の全般的な解明ほしばらくおくとしても,SergeLerat
が,アドク、−ル州の流域では,経営の集中ほ,人口減少に最もかかわりのある
カントンで強かったと指摘していることは注目すべきことである。
(8)
ところが,人口の老令化・衰亡型をとる農牧集落の場合,人口減少と農業構
造とのかかわり方を単に−・般的傾向だけから論ずることはきわめて危険である
という点が重要である。農業放棄の問題がかかわりあってくるからである。そ
ういうわけで,われわれほ,本稿では,こういう農牧集落の場合,農業構造ほ,
全面的に,零細化→衰退の一途をたどりらっあるのかどうか,それとも,
たとえ一部であっても,農業経営規模を拡大し,農牧業の将来方向を模索しつ
つある農業者がいるのかどうか,こういう農業者がいるとすれほいかなる土地
利用方式をとっているのか,さらに,いったい,このような事態の推移は.地域
構造論の中でどのように位置づけられるのであろうかということについて考察
してみたい。
(6)Ph.Pinchemel,G60grabhie dela FyanCe,TbmeII,Paris:AIman Colin,
1964,ppい 385−389
(7)Ph.Pinchemel,OP..cit…391−393.なお,大経営は,R昌gionParisienne,Sud−
Estなどの地帯紅多いが,本稿で問題紅する集落を含むPyr畠n占es−・Orientales県か
らAlpes−・MaIitimes県にかけて,粗放的な牧等の大経営が発達してこいることは留
意しておく必要がある(Ph.Pinchemel,OP.citル,pp、392−393)
(8)S.LeIat,LeS PaySde L>Adour,BoYdeaux:Union FranGaise d,Impression,
1963,p.194
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ー・4 −
努亜巻 第3・4号
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ⅠⅠ耕地の放棄と農業構造の変容
1,耕地の放棄とトランスヒュ」−マンスの衰退
ピレネー−を歩いてみて;ピレネー東部のガロツチュGarotxes地方のカタロ
ニア人集落のように荒涼とした景観ははかではあまり見られないといってよ
い。ガロツチエ地方の西隣にある高原状のカブVルCapcir地方も,たしかに
過疎化が激しいとはいえ,そこに.は,集落の近くの川沿いの谷間に緑のプレー
リ・−(Prairiede fauche)がかなり見られるのに,ガロツチエ.地方に一渉入る
と,緑のプ、レ−.リーはどこに.もみられず,段々畑とその石垣の跡ばかりが目立
第1表 土地利用 の変遷
〔注〕野菜園は馬鈴薯畑だと思われる。
〔’資料」MIIM・Sannacet AIMichel,パf:tudedu SecteuIRuraldes Garotxes〃,
Bulletin delaFdddrationFran(aiゞed>EconomieMoniagnarde,NouvelleSerie
NOll,Grenoble,Eaux et For≧t,Inspection de Resta11r・ation de Terrains
en Montagne,1961,p… 417
っ。ガロツチエ地方紅おいても,第1表のよぅに.,1820年に.ほ,耕地(畑地)
が1,92飢αもあぅたのに,1960年にほ,実に.,その10分の1の181.36九紘・,さ
らに第2表のように.,1970年センサスでほ僅か33.58九αに激減しており,1820
年代からみると,150年間に98.3%の排他が放棄され(abandonn畠),僅か1.7%
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農業構造の変容と地域の再組織化
− ∂ −
第2表∴土. 地 利 用
〔資料〕点βCβ乃S♂研β邦f Gβ邦♂γ■αJAg′之■coJ♂1970−・1971
しか耕地として−ほ利用されていないこ.とになる。1820年,耕地1,926九α,1819
年,人口1,497人で,1人あたり耕地約1.3九α,1970年,耕地33.5鋸α,1973年,
人口92人で,1人あたり耕地約0.肋αにすぎず,150年前よりもいかに.ミゼラブ
ルに.なったかがわかる。1970年,穀物約9九α(1人あたり約10α),馬鈴薯7.5
九α(1人あたり約8α)しか栽培されておらず,明らか紅自給用であるが,食糧
を自給しうるかどうかが問題になるはどである。牧畜的な土地利用をみても,
1970年,飼料作物が17たα,永年草地が221九αしかない。農業,牧畜だけでなく,
林業(林地)を含めて考えてみても,算2表のように.,ガロツチ.ユ地方の土地
面積(台帳面鏡)8,306.3加のうち,地元の住民に.よって経営されている土地
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第48巻 第3・4号
ー 6 −
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は僅か6.7%(559.6んα)にすぎない。地元の住.民の経営規模拡大がはとんど生
じない卓ま転,人口浄少ホ進行し∴土地が放棄されたからである。
一方,伝統的なトヲンスヒュ−マンスTranshumanceはどのように変化し
たか。平野部では,19世紀の初めからブドウ園が増加し,土地利用上,卓越す
るようになるとともに,山地民の冬の放牧場であった平野部の休閑地が後退
し,トランスヒコ∴−・マンスは打撃を蒙ったが,消滅してしまっていたわけでは
(9)
なかった。1913年当時の調査にIよれば,例えば,Ayguat6biaとRailleuでほ,一
家族の平均収入のうち,牧畜収入が約半分を占めていた。耕作が,はぼ私有地で
行われていたのに対して,地元民の家畜は,夏の間,私有(p叫iculier)のVaCant
あるいほmontagneに放牧されていただけでなく,共有地(Communaux)に放
牧されていた。㌧かし,それでも,早めに降る雪や,夏の放牧で得られる飼料
に,.比して:,Prair・ie de faucheで夏刈取られる冬のための飼料が不足していた
ため,家畜の群れが,9月からより低い地方に・移動するトランスノヒュ.−マンス
は免れられなかったのである。移動の期日は飼料の欠乏の程度に依存する。例
えば,Oreillaでほ,Prairiedefaucheが与える飼料が多かったので,小家畜
の群れの一部だけがクリスマスの頃に.より低い地方に.下るだけであった。
Ayguat6bi今の家畜は,コミュー・ヌが享受した共有地の利用権のために,Oreilla
の家畜よりも1ケ月も長く山地に.滞在していたのである。しかし,トランスヒユ
ーマンヌをともなう牧畜ほ,,その後,非常に.衰退している。例えば,Ayguat畠bia
の場合,算3表のよう紅,1902年に,1,164頭を数えていた羊ほ,1958年に.は
200頭に,1902年に,255頭を数えていた牛は,1936年には89頑に減少している
のであ声。1973年に筆者が調査した当時,地元の山地を起源として,より嘩い
地方に・下る羊を発見することはできなかった。
それでほ,低地起源のトランスヒューマンスほどのような状況におかれてい
るであろうか。春から夏の間(通常4月15日から9月15日まで,ところに.よって
(9)M.Sorre,Les P.yr‘n6elS MuiterYan6ennes,Paris:ArmanColin,1913,p.
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農業構造の変容と地域の再組織化
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ー ア→一
欝3表Ayguat畠biaの家畜数の変遷
〔資料〕A7C肋β・SdβJαC〃∽∽〝〝βd,A.γ女〟α才叫α.
(10)
は10月15日まで)紅,Roussillonの平野からCarlit,Madres,Le?Anglesなどの
山地にむけて移動し,ガロツチュ地方を含む01ette,MontヰOuis,Saillagouse
などのカントンが羊の群れを受け入れるトランスヒュ「マンスは昔からよく知
られた事実である。ところが,この低地起源のトランスヒェ.−・マンスも著しく
衰退し,筆者の調査によると,1973年現在,Sansaに3つの群れ(その中の1
つの群れは隣のコS.ユ−ヌからやってくるものである)と,Ayguat6bia紅1
つの群れしか残って.‥いない。
2.地元の経営の規模縮小と外来の経営の規模拡大
前述したように・,多くの耕地が放棄されているので,地元の住民の経営規模
が拡大する1つの条件ほあるのに,第4表のように,経営規模は拡大するどこ
ろか,10厄以下層をほじめとして,経営数が減少しただけでなく,全般呼,経
営が縮小したことが特徴的で,農牧経営の衰退化が示されている。これに対し
(10)春に・なって,ブドウ園の申に.,羊を放牧する権利はもはや存在しない(J.Cad6ne,
La TγanShumancedan/Sles P.yY’dn‘es−OYienialeS,Perpignan:Imprimeriede
Midi,1946,p.37.)
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− β・_
第48巻 第3・4号
費4表 Garotxesにおけろ経営規
模別戸数の推移
1955−5611970−71
て,外来の経営の規模は著しく拡大し
ている。伝統的なトランスヒューーマン
スについては,群れの数は少ししか残
っていないが,放牧頭数規模は拡大し
ている。今日では,それ以外に遠くか
らやってきて,主として高位盆地面で
夏を過ごし,自然に生育した草を利用
する肉牛の企業的放牧経営(生産と育
成)が行われている。この経営ほ,遠
くから移動してくることでほ.伝統的な
羊のトランスヒューマンスと類似して
〔−資料〕1955−56年統計は,M..M.
Sannac et A。Michel,0少ハ Cit…,
p.418
1970−71年は属如㈹錐肌戒
CぐJJピ川/Jgパr∂/t▼1970−71.
いるが,高山放牧地を利用するのでほ
なく,専ら,平坦な高位盆地面にある
放棄された耕地(私有)を借地してい
る。伝統的なトランスヒューマンスに
せよ,肉牛の企業的放牧経営にせよ,最近,特徴的なことほ,大規模に(土地,
飼養頭数)経営されていることである。
このように,地元の経営の規模が嘩小し,外来の経営の規模が拡大する。い
ったい,何故,このような事態が発生したのであろうか。こ.こ紅地域経済の本
質的問題の1つが横たわっていると思われるが,この点を解明するために,ま
ず何よりも,ガロツチュ地方のカタロチア人集落における農業の実態を把握す
ることから出発しよう。
ⅠⅠⅠ農牧業の実態
1.概 観
農牧業の実態ほ,ガロツチコ.内部に.おいて,ある程度の地域差が存在して:い
る。東南部の諸村(Orei11a,Talau,Ayguat6bia)は,西北部の諸村(Sansa,
Railleu,Caudi6s)よりも,第5表のように.,経営規模の大きい農家が存在し
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農業構造の変容と地域の再組織化
・− 9 −
ている関係もあって,残存人口がやや多く,農業経営らしきものが,僅かでは
あるが,かろうじて残存している。籍5表のように,1970−1971年に,西北部の
第5表 経 営 規 模
〔資料〕属加純・Sβ桝β〝f Gβ形β7αJAg′よcoJβ1970−1971.
諸村では,農業経営らしきものは残っておらず,10−20厄程度のもの(10−・2C
九αといっても,作物ほ2年に.1回任しか収穫でき・ず,草は自然のままのもので
あるから,生産力ほきわめて低いので,面積の割紅は経済的意味は大きくな
(11)
い)が僅かにみられるか(Sansa,Railleu),それすらも消滅してしまっている
(12) (Caudi由)。舞2表に.よると,統計上ほすでに1970−1971年に,自給用の食橙
(13)
としての馬鈴薯の栽培すら行われなくなっている。Railleuでも,第2表,発
6表のように,1970⊥一1971年に,自給用の金程としての穀物(ライ麦)0.93加,
(11)Railleuは,Cacir道路上にあり,8世紀の終り頃紅は.Rai11euの領主の所有であ
ったが,1341年に,Ma如que王がEvolの子爵に,Railleuからのすぺての収入の利
用権を与えた。16世紀には,プロテスタント団に焼かれ,破壊されたといわれる(A.
Giralt,“Notice Historique des Communes de Aiguat6bia,Railleu,Caudies,
Sansa et Oreilla”,B.S.A,ⅩLI,1900,ppl.14−24パ)
(1草)Caudiesは,8′世鬼の終り頃にほ防備な施された集落であった0このコミコーーヌは,
かつて−,フランス人に.焼き払われた(その年代不明)ことがあり,後K,Ayguat畠bia
の8人の住民湛.よって等分紅分割される(その年代不明)まで無住地であった(A.
Giralt,Ob.摘、,pp.24−25.)
(13)しかし,、聾者ほ1973年9月紅Caudi由 において,68才の老人が10α程度の自家菜
園で,自給用の馬鈴薯を収穫していたのを確認しているので,ここに/ほ,68才以上の
人が5人(5家族)しか残っていないとほし、え,ここでも,馬鈴薯の収穫が全く行わ
れていないということはない。
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一 封トー
第48巻 第3・4号
算6表 家 畜 の 飼 養
〔注〕羊279頭のうち273頭が牝羊である。
〔資料〕点βCβ乃5β∽β紹f Cβ〝βγ〃JAg′■オc♂Jβ1970⊥1971.
馬鈴薯1.16九αの栽培と豚3頑(3戸)の飼養が行われている程度に.すぎないし,
Sansaでも,1970−・1971年に,自給用の食糧としてのライ麦1.3乃α,馬鈴薯
1.26たαの栽培と,乳牛1頑,牝牛8頑,仔牛3頭(2戸),豚3頑(2戸)の
飼養が行われているにすぎない。すでに統計上は馬鈴薯の栽培すら行われなく
なっているCaudi由紀おいても,1973年9月に.,馬鈴薯栽培を確認したとは
いえ,最も放棄された(abandonn6)コミュ.ア,Caudi畠Sでほ羊や牛だけ
なく,豚すら飼養されなくなっている。RailleuでV3:,,牛の飼養ほ行われては
おらず,豚が飼養されているにすぎない。Sansaでも若干の繁殖用牡牛は飼
養されているものの,乳牛は1頭しか飼養されていない。
一・方,東南部の諸相でほ,第6表のように.,各コミューー・ヌについて,1−2
の数にすぎないとはい.え.,牧畜経営が残っており,土地利用形態に.も牧畜的な
特色が認められる。1970−1971年の統計で,前述した西北部の諸村と比較する
と,東南部の諸村でほ,ライ麦や馬鈴薯など,自給用の食糧の栽培のはかに,
牧畜経営として,Oreillaでほ5戸の経営が繁殖用牡牛19頭,仔牛14頭(1戸
あたり牝牛約4頭,同仔牛約3頭)を飼養しており,このうち2戸ほ,乳牛3
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351
農業構造の変容と地織の再組域化
ー ヱヱ ー
頭(1戸あたり1−2頭)を飼養している。このほか,0Ⅰ−eillaには,羊192
頭(そのうちbrebis牝羊は190頭)を飼養する経営1戸が残っており,さらに,
ここにほりんごが3ha位ある。Talauに.は乳牛10頭と羊87頭(そのうちbrebis
83頭)を飼養する経営が1戸あるはか,2戸の経営が繁殖用牝牛7頭,牝仔牛
3頭(1戸あたり,繁殖用牡牛約4頭,同牝仔牛1−2頭)を飼養している。
Ayguat蝕iaでほ4戸の経営が繁殖用牝牛14頭(1戸あたり3・−4頑)を飼養
しており,このうち2戸は.乳牛7頭(1戸あたり約3・−・4頭)を飼養してい
る。こ.のように東南部の諸村では,牧畜経営らしきものがある程度は残ってい
ることから,土地利用形態も,西北部の諸相とはニュアンスの差があり,自給
用のライ麦や馬鈴薯などの吟かに,牧畜のための土地利用が行われており,
算2表のように,0Ⅰeillaでほ飼料作物3加のほかに,羊の放牧に.用いるラン
ド109.3飢α,Talauでは飼料作物10加のほかに,永年草地86.5んα(1戸あたり
約29ha),Aygua縫biaでほ永年草地60.82ha(1戸あたり約15ha)がそれぞれ
利用されていろのである。
1970−1971年の虚業センサスに.よると,ある程度は機械化もなされており,
0工eillaにほノ繁殖用牝牛の経営のために,私有の刈取機5台(5戸),りんど栽
培のために・,私有の噴霧器6台(5戸)がある。Ayguat6biaには,個人有の
ものではイラクタ−2台(35−49馬力1台,25馬力以下1台)と自動耕転機1
台,ジ−プ1台があり,共有のものでほトラクタ−(50馬力以上)1台,刈取脱
穀機1台がある。Talauに・ほ,私有のものでほ自動耕転機が2台(2戸)と自
動刈取機が2台(2戸),共有のものでほ,自動耕転機が1、台ある。このよう
に・,東南部の諸相には,現在残っている経営にとって−最低限の機械ほ備えられ
ており,農業ほ手労働の段階紅あるわけでほ決してない。この点でも,西北部
の諸村とほ対照的であり,西北部の諸村にほ,Railleuにトラクタ−25風力以
下のもので,個人有1台・共有2台があるはかほ,Sansaに,もCaudies軋も
機械らしきものほ現われていない。
このように,広い土地を必要とするきわめて粗放的な経営が行われており,
ある程度ほ機械化もなされているのに・,1970−1971年の統計では,貨5表のよ
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第48巻 第3・4号
− ヱ2−
352
うに,50たα以上を経営する大経営はTalauに・1戸しかなく,各コミューヌと
も,10−50haの経営が多く,かつて多かった5ha以下の零細経営も Sansaに
1戸残っているだけ乾すぎない。
2.実態調査
(1)従来の農牧業
a.Orei11a
カントンの中心地で,鉄道の通じているオレット 01ette(1968年人口680人)
から直線距離で約1.5kI皿(通が曲りくねっているので実際の距離ほ約5加)西
方にある海抜高度約800仇の東向き斜面にOr・ei11aの集落(1973年9月,15家
族,人口27人)がある。ガロツチュのコミュ叶ヌでほ高度が最も低いところに
(14) ある集落で,ガロツチュで小麦が収穫されたのはここ・だけである。0Ⅰ−eillaの
集落ほそのコミェ.・−ヌの南端にある。この集落から西北方にむかつて進むにつ
れて,次第K.高度が高くなり,Sansaのアミューヌとの境界の付近では海抜高
度2,000mに.達するところがある。Orei11aのコミユ∴−:ヌの西南側,Talau,
Ayguat6biaなどのコミュ−・ヌとの境界はCabrils川のⅤ字谷に沿っており,
(15)
集落の南方,Pla de VignesのところでCabIils川を南に・越えているだけであ
る。Cabrils川に面した傾斜面(Soulane)紅は Cabrils 川紅流れ込む谷川に
(16)
沿ってComa…・…とかCoume・…・・”という地名が多いし,その傾斜面をさかのぼ
(17) ったところにある高原面にほPla…‥川l(例え.ば,Pladel’Estagnol,plaDiagrる
Berg)という地名が多い。これらはそこ紅かつて羊の放牧地があったことを示
している。しかし,ここ匹.さえも茨が侵入しつつあり,ランド Landeが広が
ってこいる。−・時的居住地Cof旭lもいくつかみられるが,廃屋になったものが
(14)〟ぬ助〃A椚㍑灘γβ・別物烏ぶ軸〟♂ dβざ アγ′・ゐゐざ(力・ま−β乃才α7♂ゞ ♪∂〟7■ α乃乃∂♂1865,
Perpignan.
(15)ここ∴では海抜高度800m位のところに.ある川沿いの平坦面に果樹園(りんご)が残
っている。
(16)Coma,Coumeとは,圏谷またほ谷の奥紅ある緩やかな斜面上の放牧場(P畠turages
sur une pente adoucie,Plus souventdansun cirque ouunfond de val16e)の
こ.とである(M.Sorre,LelS P.yr6n6eS,Paris:Arman Colin,1922.p・・212小)
(17)Plaとは,■むらのない高位表面上の放牧場(M.SoIre,Les Pyr6n6es,Paris:
Arman Colin,1922,P。213.)のことである。
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虚業構造の変容と地域の再組織化
353
− ヱ3−
多い。集落の東側と西側にあった,食粒(ライ麦,馬鈴薯)を自給するための
段々畑ほ放棄されてしまっている。これらの段々畑を漕漑したり,集落に水を
県 界
/
小郡界
村 界
イIa coum()
/′.彪
〕L− 川
■■
ノ
.
−−−一
‥
ノヽ
′ノ 、
\
\
1▲・、...、.い
羞レ叫窃
L
AYGUATEBIA/
、む11三1
.L由Moutons ./
g
二 ∴、、二=・
Jasse.
、︰、㌧ン︰ノ
‘001do(〉r8u \
第1区lガロツチエ地方とその援傾斜地
〔資料〕緩傾斜地についてほ,フランス国立地理学研究所発行の5万分の1地形図お
よび空中写真を基礎資料とし,そのうえに筆者の実地観察を加えて,これを確
定した。
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−・J4 −
算48巻 第3・4号
(18)(19) 供給していた昔潅漑用水路や新港漑用水路などはすで紅はとんど利用されなく
なってい
Oreillaではかつて第2次大戦前の1938年頃,牝牛(Vache)が150頭はど飼
養されていたのに,直接的には青年の離村により牝牛の飼い手がいなくなった
ため,1973年9月現在,牝牛は14頭しか飼養されておらず,1970−・1971年統計
による36頭よりもさらに.減少している。集落の近くの道路沿いの草地で,77才
の老人(息・子や娘はぺルピニヤンやリヨンの郵便局P.T.T匿勤めている)が
2頭の牝牛を放牧していたが,このよ.うな飼養形態が普通のものである。
牧羊紅ついてみると,羊約300頭を兄弟(独身者)で飼養してこいる人が例外的
に残っており,盈はSansaの山地で放牧し,冬はここで放牧している(Oreilla
の集落ほ海抜高度約800仇のところ紅あるので,冬季放牧も可能である。羊は
夜だけ家畜小屋紅入れられる)。このような経営は放牧頭数が大きいとはいえ,
放牧形態においてほきわめて伝統的で,舞7表のように経営者がすで紅50才位
第7表 経 営 者 の 年 令
〔資料〕点βCβ〝5e∽β花f Gβ〝β7・αJAgγgC∂Jβノ1970−1971
(18)このAncien Canald,OreillaはAyguat畠biaの下方のところでCabrils川から
取水されて,海抜高度約1,000肌のところを0Ⅰ・eillaの集落まで延長9kmに.達して−い
る。
(19)こd)NouveauCanald,Oreillaは,Cabrils川のさらに.上流の Railleuのあたり
で取水し,海抜高度1,100肌のところを通って途中でGuicbaという孤立した集落や
CortalBotetなど紅水を供給して−集落Oreillaの上方まで延長10km紅達している。
354
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農業構造の変琴と地域の再組織化
355
− ヱ5−
に達していることからみても,経営の近代化を期待すること鱒困難であろう。
MICamigou紅雲がかふり,に,わかに.天候が悪化したので,10頑ばかりの羊を
連れて帰宅を急いでいた老人に・集落の近くで出会ったが,、前述した,例外的に
大きい牧羊経営も,やがて,このよ.うな型になる公算が大きい¢
b.Ayguat6bia
Aygua鱒biaほガロツチュの中で,面積が最も大きい(1声.94hG)コミユーヌ
で,集落はコミュ⊥ヌの界北端に片各。ているが,ガロツチュ地方のヰ心的な
場所,海抜高度1,300仇位のところにあり,太陽に向いた南向き斜面に位置し
ている。Ayguat6biaは,その住民が毎日利用して−いる,僅かに硫黄分を含ん
(20)
だ,なまぬるい水源に,そ・の名を負っているといわれる。Ayguat6biaは有史以
前に・起源をもつとされており,紀元前2000年頃の磨製ゐ斧が発見されている。
Ayguat曲iaは寒くて,険阻な土地であるが,その地理的事情に.より,外敵の侵
入から保護されていた。1046年4月の司教管区の司祭協議会の記録の申に.,
Aquatepida という名で,Ayguat6bia の村落が歴史上最初に記録されている
(21)
し,1047年にはすでに・教会が存在していた。集落の背後に.はかって自給用のラ
イ麦,馬鈴薯などの食橙を栽培していた段々畑の跡が残っているし,さらに集
落から5kmばかり,曲りくねった道を西へ歩くと小盆地状のLesPradesとい
うところがあり,ここにはかつて畑があったが,現在,セルダーニュの肉牛が
放牧されている。Ayguatめia のコミ.ユ−・ヌの西南部にある海抜高度1,400−
1,700仇に・達する傾斜状の盆地面に・ほ農場Masがあったが,現在,この農場は
はとんど放棄されている。かくして−,第8表のように,1902年から1936年まで,
牧草Herbageと比較して−,ライ麦Seigle,馬鈴薯PommedeTerreなどが著
滅し,1973年紅ほ,第9表のように,ランドと森林が広がっている。こ.こで算
9表の場合に,とくにランドと森林の面積が妥当かどうか紅ついて検討する必
要がある。算1表では,林地がほとんどないこと,野菜園が4,475九αに.も達し
ていることなどについて−,地域範囲に・かかわらず,傾向として,算9表との間
(20)AりGiralt,OP.citい,p.3
(21)A7■d如ぴβ√SdeJαC〃∽∽α乃βd,4γg%αfる∂左α,p.1.
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第48巻 第3・4号
− ヱ6 −
第8表 Ayguatるbiaの植物生産
l:・ご;さ..1Jl、力=・バ‘J・/.い・・呪J〃〝Jご√′トl、・iご′−こJ・/心.
第9表 Ayguat6biaの土地利用(1973年)に大きな食い違いがあるからである。
面
税1割
% 度変化するかを考慮に㌧入れて考えてみ
畑地と永年替地
草
原
林
地
ても,舞1表の場合に1960年紅,畑地
が181九αというのは当時の実状に近い
としても,林地とランドと野菜園の面
ラ ソ ド
菜
林地とランドが10年位の間に,どの・程
積が当時の実状を反映してし、るとほ.ど
園
建 築 地
うしても思われない。筆者の謝査に.よ
そ の 他
ると,ガロツチエ地方の土地利用ほ,
1,858…61100
〔資料〕坤わ′∠cβCα迂αSg7αJβ
dβJαCO雛∽〟〝♂dJA.柑勃招頒α…
後述するように.,第2図,寛10表の通
 ̄ りで,Ayguat6biaの土地利用も,
0Ⅰeillaを除くと,だいたい,この傾
向と・一致しており,筆者が,このコミュ、−・ヌの秘書の協力の下に,Matrice
Cadastraleせ資料として:,訝査したのが第9表で,これがはぼ正しいと思う。
かつてAyguat6biaの集落にほ小学校があったが,いまは閉鎖されており,
ここには中心的機能として−はただ郵便局(簡素な電話がある)を残すのみとな
356
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農業構造の変容と地域の再組織化
357
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弘道 錆[沼袈†戻亘錮
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L止一一一望」一望獅三郡
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籍2図 ガロツチエ地方の土地利用
〔資料〕フランス国立地理学研究所発行の2万5千分の1地形図および空中写真を基
礎資料とし,これに筆者の実地調査を加えて,この図を作成した。とくに,放
棄された爛および放棄された畑が放牧地化された土地なとほ筆者の調査浸.よる
ものである。
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ー ヱβ−
358
算48巻
穿10表 土 地 利 用(ガロツチ・ユ地方)
土 地 利 用 状 況
】1973年l割 合
地元農家によって利用された農地
放棄された畑地
放棄された畑地が放牧地化された土地
ランド(放棄された畑地がランドと化した土地を含む)
林
地
そ の イ也
8,3061 100
〔注〕ランドは,時折,主として羊の放牧地となることがある○
〔資料〕筆者の概算による。
っている。Ayguat6biaほ.1954年まではガロツチエ地方のコミューヌの中で最
大の人口を有するコミ.ユ.−ヌであったが,1973年にほ人口僅か17人を残すのみ
となり,前述した0Ⅰeillaよりも人口が減少している。この人達は60才以上の
老年者であり,そのはとんどが単紅年金生活者(RetIa舶)であって,仕事と
いえば,JaIdinsで自家用食擬をつくっている程度にすぎないoAyguat6biaの
秘書がいうように,すべて−ほ放棄されていて,農業経営らしきちの上しては村
長(LeMaire)の経営が残っているにすぎない。この村長の場合,住居は
Ayguat蝕iaの集落に.あるが,農場ほ集落から約8加も西南方の高位盆地面の
西寄り部分にあり,乳牛20頑を飼養している。前述した1970一1971年の農業セ
ンサスと比較して,この経営だけほ飼養頭数を増加させている。しかし,この
経営も,第7表のように,その経営主が60才代位に・達して小ることからみて,
経営の飛躍的発展を期待することはできない。
C.Talau
TalauはCabrils川の西側に.位置した高原の中腹に・あり,その東側に位置
したOreillaと地形ほ類似しているが,Or・eillaが集村をなすの紅対して,
こはガロツチュの中では例外的に散村をなしている。Talauのコミ・ユ,ヌには
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虚業構造の変容と地域の再組織化
.359
− ヱ9−
Talau(海抜1,3007れ),LesPlans(海抜1,000n),Tuevol(海抜1,200n),
Moncles(海抜1,400n),Cabrils(海抜900wL)などの集落が,高原の中腹の東
方に向いた緩斜面に,それぞれ,2−31Ⅶめ間隔をおいて散在している。Les
(22) Plansほ1968年より,Monclesは1970年より,Tu畠volは1971年より無住地紅
な、り(第3図参偲),1973年現在,村長の住むTalauの集落(人口10人)・と,
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第3図 TALAUの集落と農林業的土地利用
〔注〕ランドほ時に.は放牧地となることがある。
〔資料〕聾者の調査(1973年)による。
SculpteurのいるCabrils(人口15人)に人が住んでいるにすぎない。集落の周
辺に.は馬鈴薯やライ麦を栽培した畑の跡があり,さらにその周囲にほ.潅木がま
ばらに分布する自然草地が分布していた。
Talauには自ら90haの土地を所有し,40才台で,いまなお経営能力のある
Sidon氏(村長)が住んでいる。この人ほ:ガロツチュ地方の住民で大規模な農
業経営を切り開いているただ1人の人ともいうべきである。次に.,われわれほ
Sidon氏の経営を含めて,ガロツチュ地方では農業における新しい試みがどの
ように.なされつつあるかについて検討してみよう。
(22)Tu帥01の廃屋をみたら,階下紅家畜小屋の跡,ニ階には人が住んでいた跡があり,
ベットと机が残されていた。
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−20−
貨48巻 第3・4号
(2)新しい試み
卑.地元の住民の経営
Sidon氏(家族5人)ほ,1968年には乳牛(VacheLaiti6re)15頭と羊(Mouton)
150頭を飼養していた(この地方でほ羊を飼養しているのは.上層農家に属する)
が,前述したように,1971年にほ乳牛10頭,羊87頑に飼養数を減少させ,その
後,乳牛と羊の飼養をやめ,1973年現在,かつて林業経営者(Exploitant
Forestier)であったLeplus氏(現在,Talauから20km東のPradeに住んでい
る)と共同で肉畜会社Soci6t畠Compagnie par MM.Lepluset Sidonを経
営している。この経営に.も問題はあるが,ガロツチエ.地方の農業経営の新しい
試みとして注目すべきものであろう。この会社は人口の減少とともに放棄され
た,数ケ町村に.またがる土地を借地して,夏と冬の放牧地を備え,自然に生育
した草を利用し,スぺイン人を主とする牧人を雇って,肉牛の移動牧畜を行っ
て.いる。その特徴は次の通りである。
算1に.,地元の大土.地所有者と,そこから20kmはど離れたPr・adeの大規模肉
畜業者(以前には林業経営者だった)とが経営者紅なって,フランス人青年1
人(管理主任)がスぺイγ人(バスク地方出身)2人を直接指揮しながら肉牛
第11表 外国人労動者(1964−1968)
こ臼軋〕Pノ▲/∫r‘、\ ̄‘油(}′∫〝/J,川∴血g用チノ棚
360
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−2ユ ー
農業構造の変容と地域の再組織化
361
を飼育していること(第11表,算12表参照)。
国
潜 l
ド
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ツ
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ス
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イ
イ
タ リ
男
l
第12表 ビレネ・−・ブリアンクル県に.おける外国人の人口(1968)
女
36
108
14,904
ン
256
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6
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ス
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ユ・− ゴス ラ ビア
712
モ
248
7
ア ル ジ ェ リ ア
ロ
ッ
コ
4
チ・ユ ニ ジ ア
12
3
計
16,660
〔資料〕1.N.S。E..E.Recensement Pobulaiion1968(S9ndage払)
貨2に,この経営は,1973年,夏にはTalauで900ha,Rai11eu で300ha,
Sansaで250haの,放棄された土地(放棄された畑,ランド)を借地し,Talau
で肉牛140頑,Sansaで同80頭,Railleuで同80頭を飼養している。冬は,t
こから25kmはど東紅あるMolitgの山地(Pradeから5km北に.あたり,海抜高
度700m位を2,800九α位借地して肉牛を放牧する。真の放牧場(5−・10月)と冬
の放牧場(11−4月)との間の家畜の移動ほカミヨンCamionsによって行わ
れている(乳4図)。
第3k・,借地料は,私有地(particulier)の場合,夏の間だけでhaあたり10
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弟亜巻 第3・4号
一 22 −
ゝ叫
一さ那ソテュ地方
362
Jll → 高地へ(春)
〆ぎ ≡道路 一一−す
低地へ(鋸
O S 10km
貨4図 家 畜 移 動
〔資料〕筆者の調査(1973年)による。
フラン(1フランほ約60円),共有地の場合,九αあたり2フランであった0
(28)
欝4に.,放棄されセランドと化した,かつての耕地や,Pacageに,自然
生育した草を利用する粗放的な大規模放牧経営を行っていること(第1乱舞
2図参照)。
算5に,肉年を放牧地内のあちこちに移動させる場合にほ巧みに・訓練された
犬が利用されていること。
算6に.,ノルマン種Normand(黒毛),モンペリア−ル種Montb畠1iard(赤
毛と自宅)などの肉牛の生産・育成を行っていること。
第7に,管理所兼牧人住居としてこは,廃屋が利用されているのではなく,放
(23)家の近くのJaI・dinを除いて−,耕地ほはとんど放棄されてランドと化して・いるo
Cabrils川の上流域,Rai11eu川の流域なギにある高位小金地面上の,Landeと化し
た,かつての耕地は,この経営紅利用されている(第1図.第2図参照)。
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363
農業構造の変容と地域の再組織化
−2β−
牧場の傍らに.新築された小さな建物が利用されていること。
以上甲ように,こェの経営は農業経営らしきものが残っていなし、西北部の諸村
(Sansa,Rai1leu)の土地を,東南部の村の1つ,Talau咤混んでいる上層農家
を含む,
このような発展方向は,ガロツチュでは,この経営だけでしか現われておらず,
いっそう大きな潮流ほ,地元の住民を含むことなしに,都市.(ぺルピニヤン)
の家畜商人(肉琴)や隣接するより低い地方(セルダrニュ・Cerdagde)の牧
畜会社(Soci畠t6d,丘1evage)が,よりいっそう高度の高い,とり残された地
方の,放棄された土地を利用すろという方向である(算4図)。
b.外来の経営
平野からやつて来るトランスヒェ.−マンスのうち,伝統的なもの隼最も晦い
経営形態は Sansa に残っているにすぎない。こ.∈.には,Oreilla,JujoIs,
Canavei11esの牧人が,300頭,500頑,および800頭の3つの群,合わせて1,600
頭の羊を連れて来て,夏の蘭だけ,共有地のPacageを1頭あたり(parbete)
(24)
2フラン,放棄されてし、る私有の耕地を1頭あたり10フランで借地して放牧し
ている。1973年9月,羊は.Sansa の集落の廃屋の庭で夜を過ごし,羊飼い
(Berger)笹連れられて一,早朝,そこを出発して,Sapsaのコミェ−ヌの南向
き斜面(Soulane)紅放牧されていた(算2図)。このような放牧形態ほ,現地
でもトランスヒュ」マンスとよばれているが,この放牧形態が都市商人(家畜
商,肉屋)の支配をうけるようになったものとして,Ayguat6biaの甲南部の,
かつてMas農場の多かった地帯で展開されている羊の企業的放牧をあげるこ
とができる。
Aygua沌biaの西南部のLlagoneやSan$aのコミコ−ヌに近いところにIほ
Foretde Domanialde Claveraがある。こ.こにはJassedeCatlla(高度1,800
(24)Sansaのコミュ.−ヌの秘書の諸に・よると,ガロツチエでいう私有地(Particulier)
とはPIOpIiるt畠PIivる と同じものだという。しかし,筆者の考えでは,たしかに,
現在の機能は同じ(秘書の詔によると売買できるという)でも,その形成過程は異な
るのではないかと思う。Particulierに.は分割するというような意味があり,Priv6に
ほ奪うというような意味があるからである。
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ー 24 −
364
第48巻 第3・4号
(25)
m)のような羊の放牧場があった(第1図)が,現在は林地化されている。この
国有林の北側の,高度が少し低くなったところに,PoujoIs川の支谷に沿って,
前述した,放棄された農場の地帯があり,その西南端に,約300頭の羊の群が
犬を使役するスぺイン人の羊飼い1人(スぺイン側のセルダーニュ生まれ)に
よっ宅放牧されている(算11表,第12表参照)。この羊飼いの住居にはMas
Majanという名の農場の建物(地図上はMasdelFelipと名付けられた農場
の廃屋)があてられており,羊はこの建物の庭で夜を過ごし,昼はこの付近で
放牧され肉用として育てられている(羊はよく太ってし、た)。子羊(Agneaux)
はMas Ma.ian
Patronは,ぺルピニヤンの商人(家畜商,肉屋Marchand de B6tail,Un
Grand Boucherie)で,羊飼いはこの商人に雇われた月給約6万円の「労働者」
(羊飼いはJe suisouvrierと答えた)、である。t,こで羊が放牧されている放牧
地約80haは,MasMaラanから直線距離で8km西南方に.あるColde Perche
のホテル業者の所有地を賃借したものである。羊は10月15日まで,ここで放牧
され,10月16日から羊飼いに連れられて,徒歩でオレットーープラ・−ドPI・ade
を通って,ぺルピニヤンの東方の地中海岸に.行き,そこで冬を過ごす。この経
営ほ,トランスヒュ−マンスの形態をとどめてはいるが,生産関係からみると,
商人が経営主となって土地所有者から借地し,羊飼いを雇って,経営者が自
ら所有する羊を放牧させ,子羊(Agneaux)と肉用の羊を生産する企業的な,
−・種の借地農業経営であって1商人が放牧経営を統合しているところに特色が
ある。これと類似した経営がAyguat6biaの集落の北西部に.あるLes Pradesと
いうところで行われている肉牛の企業的放牧経営の場合にみられる。
Caudies の集落の近くに.ある Ayguat6bia のコミュー・ヌの,放棄された,
Caud始s川沿いの平増.な耕地に.,250頑放の肉牛の群が放牧されていた。この
肉牛の群れは,犬を使役する1人のスぺイン人の牛飼い(夏の間はCaudi由の
廃屋で寝起きする)に.よって管理されているが,こ.の牛飼いのパトロンは,こ
(25)国有林には,小さな松しか生えていないところもあるが・すでに伐採期に入った松
が多い。伐採,運搬には.機械が使用されて∵いる。
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365
農業構造の変容と地域の再組織化
こから西南方35b止のフランス・スぺイン国境地帯にあるフランス側セルダー・
ュのBourgMadame(海抜高度1,000m′)の牧畜会社(Soci会場d,Elevage)で
あlる。冬に.なると,肉牛はCamionsでBourg Madameに移される。この場合
も,より低い地方(セルダーニュ高原)の中心地で成長した牧畜会社がランド
と化した私有地を借地して,スぺイン人を雇って,肉牛の放牧経営を行う,企
業的な,一種の借地農業経営であるといえ.よう。
以上のように,放棄された土地を利用する農業経営ははとんど牧畜的なもの
であるが,ガ自ッチエ地方で1つだけ,狭い意味で農業的なものがある。これ
はAyguat6biaのLesPrades
栽培である。この経営はここから約30kmはど東方紅位虚したConflentの中心
地,PI・adesの近郊で,りんご,桃,あんずなどをつくっている果樹園経営者
がパトロンとなって,Les Pradesの,放棄された土地7haを1965年に.安く手
に入れて(この種の土地ほ,1973年現在でも1叩ヲ10フランである),4人の虚業
労働者を使って(パトロンおよびその娘も働いて几、る),3毎払馬鈴薯を栽培
している(あとの4haはBois森とPr畠草地となっている)ものである。馬鈴
薯ほ,谷の奥に.ある馬鈴薯畑で,4人の労働者に.よって収移され,小型トラッ
クで,Caudies川まで運ばれて,そこ.できれいに洗われて,PIadesにもち帰
って販売きれる。これはP工adesの果樹園経営者が,人口の減少した地帯の放
棄された安い土地に目をつけて,農業経営を拡張したものである。
これは,経済の地域的集中を極度に押し進めたクランス経済社会の構造の下
で,資本が集積し,居住条件もよい都市や町に.起源をもつ企業的経営が,位置
的・自然的条件に恵まれず,都市化・工業化・観光地化が進展しなかったため,
過度に㌧人口が減少して,農業経営が衰退し,利用の放棄された広大な土地を,
気候のよい夏の間だけ借地して利用し,経営を拡張しようとするものである
が,次のように.大きな問題がある。
第1に・,伝統的な経営と類似して,粗放的形態をと・らていて,牧草の栽培す
ら行われておらず,自然に塵えた草を家畜に食べさせるのみであるととほ牧畜
経営をきわめて低い生産力の水準にとどめて1、ること。
− 2∂−
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ー26−
算48巻 第3・4号
第2に.,全体としての家畜頭数が少ないので,空間的に限られた範囲に,家
畜の糞を残すだけで,環境の保全と利用のために,はとんど機能していないこ
と。
第3に,たとえ企業的大経営が発展しているとしても,地元の農家が生成・
発展したものが僅か1つの事例しかなく,地元の住民は後継者のないままに,
凡傭な経営をつづけざるを得ないままであるか,農業経営すら営むことができ
ずに,老年者のみとり残されていること。
第4に,牧人の仮住居を新築している経営が1つあるはかは牧人の住居す
ら,専ら廃屋が利用されており,とりわけ,土地に対して−は資本投下を行って
いないことからみて,牧畜経営を永続させ得るかどうかにはなお問題があるこ
と。
東南部の諸村に残っている農牧経営も,なんらかの抜本的改革が行われない
限り,西北部の諸村でみられたように.,地元の農家の全面衰退に移行し,そ・の
あとに,外来の企業的放牧経営が,夏季の問だけ,いままでより以上に,粗放
的に展開される可能性が強い。
3.比 較
すでに提起した問題を解明するために,われわれは実態調査の結果を上述し
たが,次に.比較検討のための材料を集めてみよう。ガロツチエ地方のような山
地と比較すべき他の山地地域として,フランス・アルプスをあげることができ
るので,まずAlain Morelの研究した,西ペルコールの3つのコミコ−ヌの
(26) 例をあげてみよう。
(1)フランス・アルプスの事例
a.中位の高度をもった綬斜面の事例
L60nCel,Chaffal,Plan−de−Baixの3つのコミュ.−ヌは,ロJ・・・・・ヌ川沿いの
Valenceの兎,25km位のところ,湿潤な北部アルプスと乾燥した南部アル
プスとの漸移地帯に.位置している。集落は,だいたい,海抜高度400仇から
(26)A.Morふ1,OP”Cit.,pp.293−314.
366
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農業構造の変容と地域の再組織化
367
− 27 −
1,000仇までの間にあ・つて,向斜構造をつくる高原に立地している。年雨量1,
000仰の境界線がこれらのコミュ−ヌを走っており,気候は12月から3月まで
00以下になるが,7−8月は涼しく,15−・160であり,積雪量は少ない。こ
こでは.,穀物,羊など,多角農業が営まれていたが,算2次大戦後,牛乳生産
へ傾斜し,さらに.今日でほ,仔牝牛や肉用家畜の生産を行うものも現われてし、
る。ここでも,1876年以降,人口が減少したが,人口の減少とともに,ここ10
年来,離農者の土地の購入や借地により,農業経営規模の拡大が行われた。例
えば,
九α以上の経営が全くなかったのに.,1973年にほ100−200んα層4戸が,全面積の
37%を占め,200九α以上層2戸が全面積の34%を占めるにいたっている。こと
では,人口が減少しているが,土地が放棄されるだけに終っていないのは,土
地がそんなに劣悪ではなく,中位の高度をもち,機械を使用し得るはどの綬傾
斜の高原が県道の両側にあって,ここ.10年来の労働条件の改善(トラクタ−・,
搾乳器など)とともに,大規模化が可能になったからである。この点が急傾斜
地帯と異なるところである。もう1つ見落してはならない点ほ,こ.こほ積雪畠
が少なく,積雪しても,道路は規則的に除雪されていることで,InfrastruCture
が不十分である(例えば,小学校ほ閉鎖された)とほいえ,このことが住居の
改造など,生活・文化設備の一応の存在と相まって,常住に対する困難を軽減
し,地元の住民の農業を近代化し,大規模化し得る基礎条件を構成したものと
いうこ.とができる。
b.積雪量の多い高位の谷の事例
上述した西ベル.コ−ルの事例と比較して,条件の悪い,北部アルプスの最も
(27)
衰退した谷の1つであるMaurienneの高位谷,Villardsの例を検討してみよ
う。この谷は,西斜面が大部分は結晶質岩石,もう一・方の斜面ほ石灰質の片岩
によりかかった向斜面になっている。1,000−2,0007几のところに.ある堆石のマ
ットレスの上に.,永久住居と耕地,1,300−・2,500m・のところに,Alpage と
(27)P.Bozon,Un Record de D6cadence danslesAlpes du Nord:La Va11畠edes
Villards,Revue de G60gY’abhie Al?ine,Tome LVII,1969,pp・277−294小
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ー2β・−
第48巻 第3・4号
Chaletがある。気候ほ冬が長くて寒く(1月は0.50),、夏は暑くて,15O位把
達する。とりわけ,冬の積雪が問題で,平均4ケ月半の間,3.50仇の積雪に・覆
われる。この谷ほ,牛や羊を飼養し,ライ麦や馬鈴薯を栽培する農牧雀宮に従
事していたが,コミューヌの面積の3分の2が粗放的な共有放牧地という現状
の下で,零細所有者が農業経営の80%を占あているうえ,冬の積雪のために,
満動が停止するので,生計のために,′季節的(冬)な出稼(行商,煙突掃除夫)
に依存せざるを得ない状態に.あった。しかし,一方では,行商が自動車の普及な
どによって衰退し,他方でほ.,煙突掃除夫が周年職業(M6tier Toutel’Ann畠e)
となるとともに,季節的出稼がはとんど消滅した。こうして,季節的出稼が致
命的打撃をうけるようになるとともに,離村が甚だしくなり,人口が減少・老
令化し,それ濫比例して,家畜数が減少し,骨が折れ,辛労働のかかる割に.,
報酬の少ない馬鈴薯などが,しばらくは,つめくさやむらさきうまどやしにか
わって,その後,Pr6sde Fauche となり,最後に.,放棄されて,荒蕪地が広
がってきた。
前述した,中位の高度をもった西ベルコー・ルの山地でほ,人口の減少ととも
に.,農業経営規模の拡大がみられるのに.,ここでは,人口の減少とともに.,農
地ほ専ら放棄され,耕地ほ.,結局は荒蕪地紅,,Alpa岳e はプロバンスからやっ
て来るトランスヒ.ゝ−マンスの群れに.委ねられるか,再植林化されつつあっ
て,人口減少が,農業経営規模の拡大鱒・結び?いていないのは何故か。この点
について,著者は真正面から明らかにしているわけでほ.ないが,Montagnesの
経営を放棄させる要因について,次のように述べているごとが参考になる。
Pierre Bozonほ.この点について,2つの要因をあげている。一・方でほ,家族
の規模の減少や読学期間の延長との関連における労働力の不足,他方では,専
ら,#,季放牧された家畜を軸としたChaletと,冬の飼料のための草刈が行わ
れるVillage との間の結びつきの完全な切断。冬に積雪鼠が多いので,夏の間
に.,冬の飼料を確保する必要があるが,ここでは,草原があまりに.も小さいう
え,傾斜面が多いので,草刈のための機械利用が障害となって−,大刈嫌が卓越
しているような状況にあるため,冬の飼料を確保するにはあまりに.も骨が折れ
368
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農業構造の変容と地域の再組織化
369
ー2クー
るのである。かくして,真の間は,Alpageで放牧ができても,冬の間,家畜
を飼養することが困難なのである。地形め傾斜、した高位の谷,Ⅴ瓜伽dsそ,‘農
地が放棄されても,経営規模の拡大が生じないのは,Infrastructureの問題も
あるが,生産面紅おいて,夏ほAIpageの放牧に依存して,粗放的ではある
が,あまり骨を折ることなく,大規模な経営が可儲であるのに,冬の積雪に備
えて,真の間私行われるぺき,冬の飼料の刈取について−は,地形が急峻である
ため,機械化が困難で,とくに・若い労働力が不足している現状の下セは,明る
い展望を与ええないからであると考えられる。かくして,この土地は真の間だ
け,プロバンスからやって来るトランスヒュ−マンス紀要ねられるこ.とに.なる
のではなかろうか。
(2)フランス・ピレネー内の高原の事例
ガロンチュ地方の西南側k.隣接したセルダー・ニュは1,100−1,500ケ几位の高度
をもら,算3紀の推積物が陥没した盆地状の高原である。高原上をS畠gI・e川
が流れ,南紀Puigmal,SierradelCadi,北に.ColdePuymor6ns,東にCol
delaPercheなどの山地や峠に周まれている。セルダーニ.ユは夏乾燥し,年
降水恩600制程度でしかなく,潅漑が不可欠で,催漑された土地ほプレーサー
となっている。耕地にほかつてライ麦が多かったが,いまは小麦や馬鈴薯にか
わっている。濯漑された土地でほ,3年交代の(Triennal)輪作,薩離されて
いなLl、土地では2年交代の(Biennal)輪作が行われている。ここ.でほ,夏は
放牧,冬は4月の雪どけまで,舎飼いの型でBrunedesAlpes種の乳牛の飼
育が行われているが,潅漑された,PrairiesdeFaucheや,飼料作物の改良の
(28)
お蔭で,夏の間に・,冬の飼料が刈取られている。そのうえ,傾斜面が少なく,
機械化が進んでいること(セルダーニュ.では,トラクター・をもっている経営の
割合がビレネ−・ゾリアンクル県の中でも最も高い)が経営規模の拡大を容易
に・したも・のといえる。経営規模の拡大は,発13表のように,セルダー・ニェで最
も顕著に現われており,1955年から1970年までに,50旭以下層が減少している
(28)L・Rives,L兎conomie Agricole des Pyrるn6es−・Orientales,Toulouse:
Imprimeriedu SudqOuest,1942,pp.328−349.
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第48巻 第3・4号
ー 3〃 −
算13表 経営規模(ビレネ−・ゾリアンタル県)
〔注)CIuBanyulsの1970年統計の合計は1,326であるが、原資料が1,327紅なっているの
でそのまま記郵した。
〔資料〕点βCβ乃・S♂∽β狸f Gβ〝βγαJAgγ一言c〃Jβ1970−1971
のに.,50−・100たα層およぴ100たα以上層が増加しているのである。
(3)比較検討
それでほ,ガロツチエにおいて,地元の農牧経営が大規模化せず,全面衰退
370
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農業構造の変容と地域の再組織化
371
− ∂ユ ー
に.移行し,そのあとに.,外来の企業的放牧経営が展開されたのはいったい何故
だろうか。
人口減少の結果が,土地利用にいかなる影響を及ぼし■たかが問題になるが,
それがフランスでは,・一般に,農業経営規模の拡大につながっているのに・,ガ
ロツチエ地方では.,地元の農家の経嘗規模の拡大にははとんどつながらず,土
地利用の放棄串;広範に生じていることが,ここで問題なのである0
もともと,ガロツチエでは,9−・10世紀におけるモール人の侵入や,宗教戦
争に際して,隔絶した谷が,隠れ場の役割を演じていたという条件の下で,ま
たそういう必要がなくなってからは,都市からの人口吸引か生じていないとい
う条件の下で,人々は急斜面をも切り開く階段耕作を行うことに・よって,地域
資源の開発(馬鈴薯と家畜の生産)を行わざるを得なかったもめであ√クただけ
に,都市からの人口吸引が急激紅進むとともに.,急傾斜面の多いガロツチュ地
方で,土地の放棄が広範に・進行したという申も決して偶然でほないといえよ
う。この意味で,ガロツチュ地方は,前述したフランス・アルプスの西ベルコ
ー・ルの例や,フランス・ビレネ−・内の高原(セルダL−・ニュう の例とは異なり,
VillaIdsの谷の例と類似して,土地条件(気候・地形)がよくないことは確か
だが,フランス・アルプスよりかなり南に.位置し,横雪忌も1仇はどでしかな
く,また地形については,段々畑が形成されていた急傾斜地とは別に.,革め刈
取りなどの場合に,機械化が可能な綬傾斜地が存在しているわけで,地元住民
によって年中行われる大規模な牧畜経営の展開が不可能なわけでほ決して.なか
った。
ガロツチュ地方では,冬の飼料を求めて,平野に向かうトランスヒューマン
スが行われていたわけであるが,平野におけるブドウ園の増加に.よって,平野
の休閑地が後退するとともに.,平野に」句かう冬のトランスヒューマンスを行う
ことが次発に周難となり,さらに.人口の減少による牧人の減少・老令化は,平野
紅向かう冬のトランスヒュ−マンスに.とどめをさしたということができるが,
そのような状態に.たちいたるまえに.,平野へ向かうトランスヒュ−マンスがガ
ロツチュ内部において行われる,肉牛や乳牛の大規模な牧畜経営(夏は高山放
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372
第48巻 第3・4号
− ∂2−
故地で放牧し,冬は集落で舎飼する)に・,何故,移行することができなかっ′た
のか,例えば,今日,ガロツチ.コ.地方の東南部の諸相に残存している農牧痙営
が何故,大規模な牧畜経営紅移行することができなかったのかということがこ
こで問題になるのである。
ガロツチエ内部において行われる大規模な牧畜のためには.,前述した事情に
ょって,冬の飼料を真の間に刈取っておかねばならなし、が,今日では,牧草の
刈取りなどのため紅も,若者達はもはや人力刈取りなどを行うことを好まない
から,機械が利用されるのでなければ発展性はないが,傾斜150以下で,革の
刈取りなどめ機械の利用可能な土地はどの程度存在していたのであろうかょ人
口の流出とともに.放棄された耕地が1,800−1,900九αにも及んでいるのである。
こ.のうら,急傾斜地を除いて,傾斜150以下で機械が使用可能であるうえ,土
壌のより深い花崗岩の土地が少なくとも約900九α位は存在していると見敏られ
る(泉南部のOreillaの全部と,Sansa,Talauのかなりの部分ほ,小石が多
く,やせた片岩の地帯であるが,西部のRailleu,Caudi由,Ayguat6biaなど
に.は,土壌の深い,花崗岩の地帯が広がっている)。このような事情により,こ
こでは冬の飼料を栽培することができるのである(舞1図参照)。さらに.,ガロ
ッチコ.地方の西南部,西部,北部にほ,傾斜150以下の土地が,少なくとも1,100
欝14表 所
〔注〕0Ⅰ・ei11aに.ついては未調査
〔資料〕肋わ′■∠−‘β・ざCα♂αSわ一α〟∬d♂・S Cα明ガ郎〝純ほ
有
区
分
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農業構造の変容と地域の再組織化
373
− β3 −
厄位は存在していると見積られる。この土地も花崗岩の地帯であって,土壌が
深く:海抜高度も2,000仇位までのところであるから,かつては恵まれた高山
放牧地であったし,今後も,牧草が生育し,夏季の放牧は可能である(発1図参
照)。しかるに,前者は外来の企業的放牧に委ねられたままであるし,後者は国
有地として林地化されてしまったのである(舞14表,算5図参照)。このよう
に,急傾斜地帯で,土壌侵食を防止するために,植林の必要があるところが,
放棄されて−,ランドと化したままであって,林地化されてほ.おらず,綬傾斜地
帯で,高山放牧地として適したところが林地化されてい卑のである。
(法9)
国有地はかつてのアラゴン王の所有地,いわゆるPasquier・Sで,舞5図のよ
′/
−・−・・一
−・・r−一
県 界
小郡界
.▼
ユ
− ̄ ̄ 村 界
∈∃国有地
皿村有地
囚私有地
\、−\
■.\1−−・\
0
ア
第5図 土地所有図(ガロツチエ地方)
■
】
■
2
l
3k爪
_l
〔資料〕Matrices CadastrauxdesCommuneS.
(29)Pasquiers とは,Paturages royaux du Capcir et du Conflent,つまりカブVル
とコンプランの王領放牧地である(M.Sorre,Les P.yYdn6es,Paris:Arman Colin,
1922.p.213)
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− β4 −
算48巻 第3・4号
374
うに,ガロツチュ地方の北・西・南部に立地しており,貨14表のように,広大
な面殻を占めていた。この国有地はLlansades(Talau),La Coumel’Egue
(Caudi由),La Coume de Ponteils(Sansa),La Clavera(Aすguat6bia)な
どの固有名詞でよばれてし、る(欝1図参照)。この国有地の中紅は,かつて,
(30)
Rai11euの西部に位置するJasse de Moutons,Ayguat6bia の西南部に位置
(81)
するJassede Cat11a,SansaのCoume dePonteils のように単に恵まれた
羊の放牧場があった(第1図参爬)。国有地に.おいても,1850年6月14日の省
(82) 令によって,羊の放牧が特別に許可される場合があり,との場合には,林務官
が放牧家畜頭数(1九αあたり,牛の場合にほ,1頭,羊の場合には4頭)を決
しこミ31
定し,村長が羊飼い(BeIgeI・)を指名していた。しかし,国有地紅おいては,
\34)
林地化を進めるために.,羊の放牧ほ禁止されることが多かった。それだけでな
く,18(∋4年6月8日の法律紅より,荒地を再植林地に.変えることができるよう
に.なり,さらに.,最後の反対者の抵抗に打ち勝つために,下院と元老院との間
で,6年間以上もの議論を要した1882年4月4日の法律が可決され,国家は植
t35.)
林のために家畜の群れをたちのかせることができるようになったのである。都
市からの人口吸引とともに,多数の人々は農牧経営を棄てて離村したのである
(30)Jasseとほ羊小屋の意。JassedeMoutonsは,小川のある高位盆地で,木が多く,
牧畜に有利。ここにほ,かつて,Cerdagneの羊がやってきたことが記録されている
(M。Bouille,砧Pacageset Voies de77anshumanceSur Le TerritoiredeSaint
Julien de Relleu sousl,Ancien R6gime〃,CERCA,No,1960,p.781.)
(31)Coume,Comaとは田谷または谷の奥に・あるゆるやかな斜面上の放牧場(P5turages
sur une pente adoucie,plus souvent dans un cirque ouun fondde vallるe)の
ことである(M.Sorre,LeSPyr6ndeS,PaIis:Arman Colin,1922,p.212.)
(32)A.Chabrol,Conわ′ibution dl・Etude de Dduelobbement S.ylvo−Pasioraldeg
Ribions de Montagne(PyY6n6ers1−Ori−eniales−・AndoY’Y・e−Rif),Th畠se pourle
Doctorat en Droit,Facult6de Droit etdesSciences丘conomiques,Universit6
de Toulouse,1961,p.141.
(33).一.Cad紬e,0♪.cよ才、,p.34..なお,国有放牧地において放牧された学に・は,トラ
ンスヒュ−マンスの羊のほか紅,地元の村の学も含まれていたことほ,前述した
7asse de Mouto‡1Sに,Raiユユeuのコミュ−一ヌの羊が放牧されてし、たこととか(M
Bouille,OP.cit.,p.81u),ClaveIaの国有地に,Ayguat6biaの学が放牧されて
いたこと(A一.Chabrol,OPlCii“,p..159)から明らかである。
(34)A.CbabI01,β♪、C云f・,p.141
(35)M。Dev占ze,HilStOire des For6ts,Paris:P.U・・F,1973,pp巾87−88・
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農業構造の変容と地域の再組織化
375
−β5−
ゆれども,社会経済的条件さえ備わっておれば,大規模な牧畜経営に転化する
経営がいくつか現われても決して不思議ではなかった。しかる紅,大規模な牧
畜経営に転化する経営が1つしか現われなかったのは以上のような事情があっ
たのである。
だが1つの問題が残る。それにもかかわらず,放棄された耕地が外来の放牧
経営町制用されたのは何故だろうか。2つゃ理由があげられる。算1に,外来
の経営の経営者は,夏の間,スぺイン人の牧人を山地で過ごさせるだけであっ
て,自らは都市(ぺルピニヤン)や町(プ・−ル・マダム)に生活の本拠を持ち,
冬のきびしい生活を送る必要がないこと。第2に.,夏ほガロツチ.ユ.地方の,放
棄された耕地で放牧し,冬はより低V、地方で放牧する移動牧畜経営ほ,家族的
形態を残す西部とはちがって,ビレネ」一束部では,大規模化しているので,こ
のような牧畜経営を大規模に.営むことのできるTalauのSidon氏のような経
営は地元にほ少なく,いきおヤ、,このような経営は,都市や町の資本所有者に
よつて担当されるこ.とになったのである。
ⅠⅤ むすびにかえて一地域の再組織化
1.±ミュ−ヌを単位.とする地域とその連合
Max.Sorreは,Ayguat6bia,Railleu,Oreilla,Sansa,Talau q)5つの
コミ.ユー・ヌは利益の共同性を強く意識しているようにはみえないといっている
(36)
が,実際,14世紀頃,ガロツチエ地方のコミ.ユ−ヌは∴Majo工que(ぺルピニヤ
ンが首都)からAragonへとつづいた王政の下で,それぞれ異なる領有関係
に組みこまれていた。すなわち,Ayguat6biaはUrgelの修道院の教会参事
会に,OreillaはSainトMartin−de−Canigoの修道院長に,SansaはCormella−
(37)
de−Conflentの修道院長に,Railleuは.Evolの子爵紅,その利用権が帰属し
(88)
(39)
ていた。Caudi色sだけは,Ayguatibia q)分村的な状況にあった。
1.A A
︶
(36)M.Sorre,LesP.yrdn6es MuiieYran6emes,Paris:Armam Colin,1913,p・
Giralt,Ob。Cit…,pp.84−85.
Giralt,Ob.cii..,pp..14−17.
(39)A一・Giralt,09・・Cit”,pp・24−25・
(37
(38)
5
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一 β6−
第48巻 第3・4号
このような状況の下で,山地の牧畜について不可欠の意味をもつ村有地の使
用法は,県知事の同意の下で,村会によって規制されていた。放牧権はコミュ
ーヌのすぺての人々のものであり,村会は放牧地を分割し,家畜1頭あキりの
料金を決定していた。社会経済的にみると,このように,ガロツチエ地方ほ,
1つの地域として統合されてほやらず,むしろ,コミュL−ヌを単位として,人
々は結合していキと考えるのが実状紅近いといえる。とはいっても,村有地は
各コミューーヌともに,面積からみて僅かであった。こ・のこ・と鱒,各コミューーヌ
とも,第14表のように.,私有地が相対的に多いことと相まって1コミス−ヌを
単位とする人々の結合を弱めていたと考えられる。
さらに,ガロツチ.ユ地方におけるヲミュ、−ヌを単位とする地域は・,各マミュ
−ヌのおかれた条件の下で,冬の飼料を求めるトランスヒューマンスを通じ
て,より低い地方のコミュ−ヌと連合していたといえるであろうし,より低い
地方のコミューヌほ,また夏の飼料を求めるトラγスヒュ−マンスを通じて−,
ガロツチエ地方におけるコミュ∴−ヌを単位とする地域と連合していたといえる
であろう。
2.国家を機軸とし,都市を結節点とする地域の再組織化
ガロツチュ地方は,1653年に.,フランスに占領され,1659年に,同国に・統合
された。・18世紀から19世紀にかけて,資本主義の発展とともに・,木材の需要が
増加した。19世紀に入って−進展した国有地化一林地化によって,山地牧畜経
営(夏放牧,冬舎飼い)の発展を制約された,山地の住民は,都市からの人口
吸引とともに.,急激に離村していった。このことを通じて,コミュ一女を単位
とする地域とその連合は,その主体として−の人間集団とその人間集団に固有の
社会経済的活動を失って,きわめて弱体化したとみて差支えない。今日でほ,
コミュ−ヌには,残された老人連が,木材を伐採して−,コミユ十ヌの費用をあ
る程度は捻出するとか,村有地を外来の企業的放牧経営に・賃貸する機能などが
残されているにすぎない。
それでほ,地域は,どのように,再組織化されつつあるだろうか。それは主
体としての人間集団とそれに固有の社会経済的活動を失った,一周の周縁地域
376
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
377
農業構造の変容と地域の再組織化
−∂7−
が;国家を機軸とする国民経済地域匿おいて,国有地を媒介として,直接,そ
れに.組み込まれるか,放棄された耕地を媒介として,都市や町の資本に,直接,
利用され,都市を結節点とする新たな地域において,資本の支配の網の目の一
環に.組み込まれつつあるこ.とを意味する。このような状況は,小農経営がなお
支配的なトピレネー西部において,都市の資本による支配がロックホ・−ルのチ
ー・ズ工場を媒介として,なお間接的で,固有の農業地域が存在しているぁと異
なっており,この場合に,きわめて特徴的なことは,いわゆる地域住居として
規定される人間集団が,このような,地域の再組織化に主体としては参加して
いないという事実である。
本稿は,文部省科学研究琴に・より,1973年7月初旬から,3ケ月間にわたって−,岡山大
学杉富士雄教授を代表者として行われた,海外学術調査,『西南ヨ−ロツパにおける重層
言語地帯の調査』における筆者の調査分担事項,「過疎と移動放牧に.関する調査」の結果
の一部を,
のである。また,本稿は1974年度文部省科学研究費総合研究A「地域開発政策の経済地理
学的研究一国際的比較研究」(研究代表者大阪市立大学川島哲郎教授,課題番号938024)
の研究成果の一部としてまとめたものでもある。調査に際しては,岡山大学の河野通博教
授に,ビ指導をいただいた。立命館大学の谷岡武雄教授には,パリ大学のⅩavier de
PLANHOL教授紅紹介していただいた。ⅩavierdePLANHOL教授の紹介紅より,トク
−ルーズ大学の FranGOis TAILLEFER教授,モソぺリエ大学のJean LECOZ教授な
どからど教示を受けることができた。現地資料の蒐集について−は,ぺルピニヤン市立図書
館のRenるNOELL氏(カタロニア文献目録の編者),ピレネー・ゾリアンタル県農業局の
統計家ARPAIOU氏(未刊の1970−71年センサスに.、ついては,氏のご好意に.より閲覧す
ることができた),現地調査については,TALAUの村長SIDON氏をはじめ,RAILLEU
の村長,SANSAの助役,AYGUAT丘BIAの秘書など多くの方のご敵力で仕事を円滑に
行うことができた。図表の作成紅ついては,香川大学経済学部の渡辺智子氏にお世話紅な
った。香川大学篠済学部の先生方に.は,3ケ月間の海外出張をこころよくご了承いただい
た。付記して−,上記の方々に心から謝意を表する。
薮内芳彦先生のご退官を記念して,この小稿を先生に.献呈いたします。
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378
算通巻 第3・4号
台β
lトヨー2ヨ♪膏で普ごき雪月二裏東軍罫ぷ
︵嘘ざご㌣ハトれ\・1承ゝ餌︶既存習刊沌叫足埜肇組塊
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農業構造の変容と地域の再組積化
379
ーー ゴミ?トん一
写真1。Åyguat占biaの放棄さ
れた段々畑
写真2。Ore狙aの義人の飼う
小さな羊の群れ
写真3。Railletユの民家と菜詞
(馬鈴薯の収穫)
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第48巻 第3セ4号
l・.ノり・一−
380
写真4.Soci占t昌Compagnie
Par M M。もepl11S et
Sidonの牧人住居
(Raille11にて)
写真5.放棄された畑にSoci昌t占
Compagnie Par MM.
LeplllS et Sidonの肉牛が
放牧されている
(Railleuにて)
写真6。放棄された畑と肉牛
(Rai11euにて)
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381
農業構造の変容と地域の再組織化
−−・fノ
写真7.ランド(OreⅢaにて)
写真8.廃虚で夜を過ごしたトランス
ヒューマンスの羊が,早朝,羊飼
いに連れられて,ランドに向か
って出発している(Sansaにて)
写真9・ぺルピニヤンの商人の
羊がラ 放棄された土地で
放牧されている
(Ayguat占bia のMas
Majanにて)
(写真は,すべて,1973年9月
筆者撮影)
Fly UP