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事業報告 - 奈良大学リポジトリ

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事業報告 - 奈良大学リポジトリ
事 業 報 告
平 成9年
公
開
講
度
座
概
要
総 合 研 究 所 が担 当す る平 成9年 度 公 開講 座 は、 文 化 講 座 、 社 会 学 部 公 開 講 座 、 桜 井 市 生 涯 学
習 シ リー ズ奈 良 大 学 教 養 講 座 、 都 祁 村 生 涯学 習 シ リー ズ奈 良 大 学 教 養 講 座 の 四講 座 を 、 前 年 に
引 き続 き開 催 した。
近 畿 文 化 会 と共 催 の文 化 講 座 は18年 目 を数 え、 「歴 史 的 景 観 とは何 か 一大 和 、 そ の 過 去 ・現
在 一」 を テ ー マ に開 催 、 受 講 申 し込 み者 は205名 で 、 全5回
の講 座 に、 延 べ761名 の受 講 が あ っ
た。 桜 井 市 、 都 祁 村 の教 養 講 座 は、 そ れ ぞ れ の教 育 委 員 会 との 共 催 で 実 施 し、 地 元 の希 望 を 尊
重 し、 地 域 に密 着 した テ ー マ を 中心 に開 催 した。 桜 井 市 教 養 講 座 で は、196名 の 申 し込 み で 、
延 べ655名 が受 講 し、 都 祁 村教 養 講 座 に は65名 の 申 し込 み で 、 延 べ205名 の受 講 が あ った。
また 、9回
目 の社 会 学 部 公 開 講 座 は、 「これ か らの 地 域 を考 え る!」 を テ ー マ に 開 催 し、267
名 の 聴 講 が あ っ た。
桜井市生涯学習 シ リー ズ
奈 良 大 学 教 養 講 座
私 た ち の ま わ りに 目を 向 けよ う
一 郷 土 を学 び新 しい時 代 を知 る 一
5月1旧"そ
こ か ら 出 て 、 そ こ に 帰 る"
一 高齢 化 時 代 を生 き る 一
市
良 寛 詩 集 を開 きま す と、 「頑 愚(が ん ぐ)信(ま
こ と)に 比 な し、 草 木
なす 」 とか 、 「療 頑(ち が ん)何 れ の 日 にか 休(や)ま
に 出会 い ます 。 師 匠 の大 忍 国 仙 和 尚 は 「良 や
ん、 孤 貧
愚 の如 く
川
以(も
良
っ)て
哉
隣と
これ生 涯 」 な ど と い う詩 句
道 転(う た)た 寛(ひ
ろ)し 、 騰 々
(と う と う)任 運(に ん ぬ ん)誰 か 看 るを 得 ん … 」 と讃 え ま した。 良 寛 はす る こ と 言 う こ と、
一 見 、 愚 な如 くに見 え る が、 そ の仏 道 は高 く広 い世 界 に超 え 出 て い る。 あ くせ く しな い で天 運
に任 せ て い る心 の世 界 を見 抜 く者 が あ る だ ろ うか とい うの で す。 こ こか ら も察せ られ るよ うに、
良 寛 の 「愚 」 は生 まれ っ き の単 な る愚 で は な くて、 愚 を根 源 的 に 生 きて 立 っ 「愚 」 で す 。"そ
こか ら出 て 、 そ こ に帰 る"そ
う した良 寛 は、 自分 に と って最 も真実 で あ る よ うな生 き方 を した
の で は な いで し ょうか 。 高 齢 化 時 代 を生 き る私 た ち に何 か を考 え させ る と こ ろが あ ります 。
一103一
総
合
研
究
所
所
報
「
年 中行 事」 の世 界
6月8日
水
野
正
好
日本 の 「年 中行 事 」 はい ま壊 滅 しっ っ あ る とい って も過 言 で は な い。 年 中 行 事 の基 幹 で あ っ
た農 業 生 活 、 狩 猟 ・漁 猟 生 活 も大 き く変 化 、 春 夏秋 冬 の 季 節 感 も夏 は冷 房 、 冬 は暖 房 と全 く感
覚 で き な くな りっ っ あ る。 家族 、 親 族 、 集 落 の構 成 も一 変 して 、 昔 の 父 母 兄 弟 姉 妹 の序 列 、 村
の講 や 祭 の頭 屋 とい った組 織 もい ま は息 絶 え だ え。 この 講 座 で は こ う した 「年 中 行 事 」 を と り
あ げて 、 あ り し 日の行 事 の面 影 を復 原 し、 そ の もつ意 味 を 探 った。 正 月 は年 中 行 事 の始 ま りは
鬼 と深 く係 わ る。 鬼 を射 、 鬼 を祓 い、 鬼 を追 う、 全 て に 鬼 ・鬼 ・鬼 が 横 溢 す る。 弓 の神 事 ・羽
子 っ き ・毬 打 ・三 義 丁 な ど、 昔 、 親 しま れ た新 年 の鬼 祓 いの い くっ も の あ り方 は仲 々興 味 ぶ か
い もの が あ る。 田 の初 ま りを め ぐ る田遊 び、 田舞 は性 と笑 い が 混 然 と融 合 す る大切 な春 の神 事 、
福 を 村 へ っ れ 帰 る蘇 民 祭 な ど村 を活 気 づ け る神 事 が っ つ く。 天帝 は人 間 の身 体 に三 九 虫 を配
置 、 庚 申 の 日 の夜 、 そ の人 の功 過 を天 帝 に報 告 させ、 罪 過 大 き けれ ば 三 年 、 一 月 、 三 日 と寿 命
を 縮 め る と信 じ られ た。 人 々 は きそ って徹 夜 し、 庚 申待 ち と称 して遊 楽 し三 の 昇 天 を遮 げ た
とい う。 この 日、 朝 廷 で も若 者 宿 で も管 弦 遊 楽 、 遊 び乏 しい村 の 日々 に一 っ の 変 化 を与 え る大
切 な 行 事 と な って い た。 夏 の旱 天 、 稲 の枯 死 を恐 れ て の ま じな い も また 再 三 、 大 般 若 経 を転 読
した り、 雨 乞 い した り、 ま こと そ れ は そ れ は大 変 で あ った。 年 中行 事 は民 衆 の 英 知 で あ り、 支
え られ て 村 や 人 々 は そ の生 を全 う しえ た の で あ る。 そ う した年 中行 事 の世 界 を 楽 しい語 り口で
語 る こ とが で き た。
7月13日
「
尊 厳 あ る死 」 と家 族 の か かわ り
大
町
公
近 年 、 わ れ わ れ 日本 人 を 取 り巻 く死 の 状 況 は大 き く変 化 しま した。 そ の背 景 に は、 ① 平 均 寿
命 が著 し く延 び た 。 ② ガ ンが 日本 人 の 死 亡 原 因 の 一 位 に な った。③ 死 ぬ場 所 が家 か ら病 院 に移 っ
た。 そ れ に、 ④ 近 年 の 医 療 技 術 の 著 しい発 達 、 を 挙 げ る こ とが で きます 。 ま た、 家 族 の関 わ り
を考 え る に あ た って は、 ⑤ 核 家 族 の 問 題 、 ⑥ 少 子 化 の 問 題 も考 慮 に入 れ な け れ ば な りま せ ん。
最 も大 きい 問 題 は、 医 療 技 術 の 発 達 、 特 に延 命 医 療 の あ り方 が 、 技 術 優 先 に な って しま って、
〈生 き る こ との 質 〉 を 求 め る人 々 の 願 い と必 ず し も一一致 して い な い こ とで す 。 患 者 本 人 も、 家
族 も納 得 の い か な い 〈最 期 〉 を迎 え る こ とに な り ます 。 わ れ わ れ は ど うい う死 を望 む の か、 普
段 か らよ く考 え て お か な け れ ば な り ませ ん。
作 家 の柳 田邦 男 さん は、 現 代 を 「尊 厳 あ る死 を 自分 で 創 らな い と人 生 を完 成 す る こ と が で き
な い時 代 」、 あ る い は短 く 「自分 の死 を創 る時 代 」 と呼 ん で い ま す。 この言 葉 の 意 味 を 、 家 族
と の関 わ りの 中 で考 え た。
一104一
奈 良 大 学 教 養 講 座
9月14日
古文書 に見 る近世 の桜井
鎌
江 戸 時 代 の桜 井 市 域 に は、 初 瀬 街 道(竹
ノ内 街道)や
田
道
隆
上 街 道 と い う大 和 国 内 の 幹 線 道 路 が あ
り、 ま た これ らの街 道 や村 と村 を結 ぶ 里 道 が発 達 して 、 地 元 の 人 々 の 交 流 は も と よ り、 遠 近 の
旅 行 者 も往 き交 い、 きわ あ て 自然 的 ・人 間 的空 間 と営 み が あ った。
街 道 沿 い に は宿 場 町 や芝 村 藩 ・戒 重 藩 な ど の極 小 藩 の 城下 も形 成 され 、 ま た 藤 堂 藩 領 な ど も
混 在 しな が ら、 お だ やか な調 和 を保 って い た と見 る こ とが で き る。
宿 場 町 や村 々 の平 凡 な 日常 的 な生 活 の模 様 を古 文 書 ・記 録 か ら復 元 して み る こ と、 ま た庶 民
的 な信 仰 と参 詣 と街 道 沿 い の人 々 の生 活 ぶ りな ど もの ぞ い て み た。
10月19日
高 齢 社 会 を ど う受 け とめ る か!
桂
良太郎
地 域 で 安 心 して 老 後 を 送 るた め に は、 「健 康」 「お金 」 そ して 「生 きが い」 が大 切 で あ る と言
わ れ て い る。 そ して 、 な に よ り も家 族 関 係 を うま く維 持 して い く こ とが重 要 で あ る。 い ざ と い
う と き に安 心 して 頼 れ る医 者 や 看 護 婦 そ して ホ ー ム ヘ ル パ ー とい った専 門職(社
会 的 資 源)を
地 域 の な か で常 々 も って い る こ とが 肝 心 で あ る。
地 域 社 会 と は、 「自転 車 で 、 自分 の生 活 と関 わ る人 々 や 施 設 や サ ー ビスが 受 け られ 、 あ 一 今
日 も生 きて い て良 か った と感 じ させ て くれ る生 活 の場 」 で あ る。
「腹 八 分 目、 くよ く よせ ず、 お し ゃれ 忘 れ ず 、 毎 日歩 こ う!」 を モ ッ トー に して い きい き と
老 後 を送 る こ とが一 っ の ヒ ン トで はな い だ ろ うか 。
さ らに人 は、 た だ人 か ら援 助 を受 け るだ けで な く、 一 回 しか な い人 生 を有 意 義 に お く るた め
に は、 た とえ寝 た き りに な って も、 家族 や 地 域 社 会 の 人 々か ら尊 敬 され る こ とが 大 切 で あ る。
特 に 「ボ ラ ンテ ィア活 動 」 とは何 か とい う事 柄 につ いて 考 え る こ とが 今 問 わ れ て い る。 人 との
関 わ り(社 会 関 係)を
な く した と きに そ の 人 は 「老 い る」 と言 わ れ て い る。 自分 ら し く、 自分
の も って い る 「知 恵 」 を地 域 で生 か す こ と(エ ンパ ワ ー メ ン ト)を こ の講 座 を通 じて考 え て も
らえ た な らば幸 い で あ る。
1月18日
万葉 貴族 ・大伴氏 と桜井
生 活 ・歴 史 ・歌
上
野
誠
万 葉 集 は、 言 葉 の文 化 財 です 。1300年 もの昔 の 人 の 声 を 伝 え る万 葉 集 。 そん な万 葉 の世 界 に
遊 ん で も ら うのが 、 この講 座 の 目 的 で した。
窓 を開 け れ ば こ こは桜 井 …、 す べ て が教 材 とい って も過 言 で は あ り ませ ん 。 今 回 は、 万 葉 貴
族 ・大 伴 氏 につ い て考 え て み ま した。 万 葉 貴 族 は、 宮 仕 え を す る官 僚 で あ る と同 時 に、 農 繁 期
一105一
総
合 研
究
所
所
報
に は 自 らの故 郷 で農 作 業 に従 事 す る二 重 生 活 者 で あ りま した。 つ ま り、 万 葉 び と は二 っ の故 郷
を持 っ人 々 な の で す。 そ の 万葉 貴 族 ・大 伴 氏 の根 拠 地 の一 っ が 、 実 は桜 井 と 目 さ れ て い ま す。
桜井 市 ・外 山 に は大 伴 氏 の 「庄 」(た ど ころ)が あ った よ うで す。 この大 伴 氏 の 跡 見 の庄 か ら、
平 城 京 の左 保 の宅 に宛 て た 母 と娘 の 情 愛 溢 れ る歌 の や りと りを、 万 葉 集 は伝 え て い ま す。 な ん
と… 万葉 び との手 紙 の一 部 を 垣 間 見 る こ とが で きる の です 。
そ ん な、 こん な、 あ れ や 、 これ や の お話 を ご当地 ・桜 井 の皆 様 に させ て い た だ き ま した 。
ラ イ フ ス タ イ ル と健 康
2月15日
高
橋
光
雄
健 康 と は、 社 会 生 活 を 営 む 上 で 身 体 的 に も精 神 的 に も異 常 の な い状 態 で、 一般 的 に は食生 活
(栄 養)・ 運 動 習慣(運
動)・ 精 神 衛 生(心)に
よ って 構 成 され る と考 え られ る。
そ して 健 康 や 体 力 つ くりが や か ま し く言 わ れ るよ うに な った の に は、 そ の社会 的背 景 と して、
近 代 文 明 の 発達 が あ り、 我 々 の 生 活 様 式 や 労 働 形 態 が変 わ って きた とい う こ とで あ る。 労 働 時
間 の 短 縮 や 自由 時 間 の 増 大 な ど に よ り身 体 的 活 動(運 動)不 足 の生 活 とな って身 体 に悪 影 響 を
及 ぼ す よ うに な った。 この 運 動 不 足 が 、 肥 満 ・糖 尿 病 ・動 脈 硬 化 ・虚 血 性 心 疾 患 ・高 コ レステ
ロー ル 血症 ・筋 ・骨 の 脆 弱 化 な ど を お こ し、 健 康 を阻 害 す る生 活 習 慣 病(成 人 病)と
もっ な が
る もの と して 注 目 され る よ う に な った。
そ こで 、我 々 は健 康 を 考 え る上 で 絶 対 的 な不 可 欠 要 素 と して 栄 養 ・運 動 ・休 養 が あ げ られ る
が 、 人 生 を豊 か に生 き るた め に は単 な るHealthよ りWellness「 よ り良 く生 き る」 と い う積 極
的 な 態 度 で、 健 康 を 総 合 的 進 歩 的 に と らえ て ゆ く必 要 が あ る の で は な いか 。 それ に は個 人 の ラ
イ フ ス タイ ル を 見 直 し、 精 神 的 に も好 結 果 を もた らす よ うな ス ポ ー ッや運 動(身 体 活 動)を 折
り込 む工 夫 が ほ しい。 せ め て 普 通 の 日常 生 活 の中 で 「あ る く」 と い う こと を意 識 す るだ け で も
効 果 が あ る と思 わ れ るの で 、 そ れ に もふ れ た い。
3月8日
『初 瀬 川 の 自然 と多 自然 型 川 作 り』
岩
崎
敬
二
私 た ち の心 を な ごま せ、 子 供 達 の 魚 釣 りや 虫 取 りへ の 欲 望 を 駆 り立 て る美 しい川 辺 の景 観 が、
こ こ数 十 年 の あ い だ に次 々 と失 わ れ て きた 。 利 水 の ため の ダ ムや 堰 堤 の 建 設 に よ って 、 酒 々 と
した流 れ はず たず た に 引 き裂 か れ 、 治 水 の た め に川 岸 や 川 底 は コ ンク リー トで 固 め られ 、 河 原
や 中州 は取 り払 わ れ、 河 川 敷 は芝 で 固 め られ て 、 高 くま っす ぐな 堤 防 が 、 無 粋 な まで に私 達 と
水 辺 と を遠 く隔 て て い る。
しか し、 この数 年 、 これ まで の人 工 的 な川 作 りの反 省 と見 直 しが進 ん で い る。 建 設 省 や 各 地 の
自治 体 が 、 「自然 にや さ しい川 作 り」 を合 言 葉 に して 、 失 われ た 自然 の復 元 を めざ し、 「多 自然 型
川 作 り」 とい う新 しい タイプの土 木 ・造 園 工 事 を始 め てい る。 川 辺 に植 物 を 植 え、 コ ンク リー ト
製 の護 岸 を石垣 に変 え、 巨 石 を配 して 瀬 や淵 を作 る、 等 々。 さらに、 多 くの建 設 会 社 や 造 園 会 社
一106一
奈 良 大 学 教 養 講 座
がそ のノ ウハ ウを蓄 積 し始 めて お り、 そ の企 業 活 動 は 「自然 復 元 産 業」 と い う新 しい産 業 分 野 に
成 長 しっっ あ る。 但 し、 生 物 の生 活 へ の配 慮 を欠 いて、 人 工 的 で箱 庭 的 な 水 辺 と化 して しま った
と ころ も多 く、 自然 が復 元 された河 川 を維 持 ・管 理 す る方 法 も未 だ に確 立 されて はい ない。
この講 演 で は、 ま ず、 「三 尺 流 れ て水 清 し」 と昔 か ら言 い 伝 え られ て い る、 「
河 川 の 自浄作 用」
の解 説 を行 った。 多 くの生 物 達 の 食 う 一食 わ れ る関 係 が、 川 の 中 の汚 れ を水 中 か ら除去 して お
り、 そ の作 用 は下 水 処 理 場 の そ れ に匹 敵 す る もの で あ る こ とを示 し、 生 物 の豊 富 さが、 河 川 の
浄 化 に は不 可 欠 で あ る こ とを 強 調 した 。 次 に、 全 国 の河 川 の現 状 を ス ライ ド写 真 に よ って 紹 介
しな が ら、 これ まで行 わ れ て きた 人 工 的 な河 川 改 修 の問 題 点 を指 摘 した。 さ らに、 この 数 年 全
国 で行 わ れ始 あ て い る、 川 の 自然 の 復 元 を 目指 した 「多 自然 型 川 作 り」 の成 功 例 を、 横 浜 市 の
「い た ち」 川 や 梅 田川 を参 考 に して紹 介 した。 最 後 に 豊 か な 風 土 と歴 史 に恵 ま れ た初 瀬 川 の 自
然 、 特 に生 物 相 の様 子 と 「多 自然 型 川 作 り」 が 失 敗 に終 わ って い る こ とを報 告 した。 この 失 敗
を教 訓 に して、 奈 良 の風 土 と 自然 を 活 か した 「多 自然 型 川 作 り」 の在 り方 を提 示 し、 い か に し
て 自然 の多 様 性 を復 元 し、 家族 で 遊 べ る川 を作 り上 げ、 人 間 に と って好 ま しい水 辺 環 境 を 管 理
して い くか を解 説 した。
都祁村生涯学習 シ リーズ
奈 良 大 学 教 養 講 座
生 活 文 化 を考 え る 一ゆ と り と豊 か さ を求 め て 一
5月25日
人 間 と して の 生 き方 と宗 教 心 に つ い て
松
井
春
満
日本 人 に は宗 教 心 が希 薄 だ と いわ れ るが 、 一 見 そ の よ うに な った の は 明治 維 新 以 降 で あ る。
幕 末 ま で の 日本 人 はむ し ろ万 事 を 宗 教 の 頭(心)で
考 え て い た。 今 日の地 球 上 に は さ ま ざ ま な
宗教 の争 い が依 然 と して あ る こ とを 、 私 た ち は ニ ュ ー ス と して知 って い る。 で は一 体 人間 に とっ
て宗 教 と は何 で あ ろ うか。 結 論 を 先 に言 え ば、 宗 教 は人 間 に よ る 「もの の認 識 の仕 方 の 一 っ 」
で あ り、 科 学 や 芸 術 な ど と も対 等 の 位 置 を 占 め る文 化 現 象 な の で あ る。 そ の こ とを まず 人 間 学
的 に 明 らか に した上 で 、 宗 教 に も い ろ い ろ の レベ ル が あ る こ と(レ ベ ル とい って も価 値 の 上 下
を意 味 す る もの で はな い)、 人 が 自 己 の信 仰 を持 っ と い う こ と は、 現 代 人 に と って も生 き方 の
確立 の上 で大 きな意 義 を もっ こ とを 論 じた い。 と 同時 に宗 教 とい う もの の もっ恐 ろ し さ も。 な
ぜ な ら人 は信 仰 が 強 くな る ほ どそ の 宗 教 の 目で もの ご とを考 え て しま うか ら。 しか し同 じこ と
は科 学 な どに も言 え るの で あ る。 この 私 の議 論 は、 シ ンボ ル理 論 とい う哲 学 的、 心 理 学 的 学 説
に論 拠 を持 って い る。 そ う い う立 場 か ら、 今 日の科 学 の傾 向 が もた ら しか ね な い 人 類 の 危 機 と
宗 教 的 発想 に よ るそ の 危機 の 回 避 の 問 題 な ど に も触 れ て み た。
一107一
総
合
研
究
所
所
報
現代 の死 を考 える
7月20日
小
西
正
三
こ こ数 年 、 マ ス コ ミに お い て 、 安 楽 死 、 尊 厳 死 、 脳 死 、 臓 器 移 植 な ど が社 会 的 な 問 題 と して
大 き く取 り上 げ られ て きて い ます 。 こ の よ うな問 題 は、 高 齢 社 会 が進 行 し先 端 医 療 技 術 の 発 展
に と もな って、 延 命、 救 命 の 医 療 が 広 く行 われ て き た た め と考 え られ て い ま す。
しか し、 わ た し達 が も っ と考 え な けれ ば な らな い の は、 社 会 構 造 ・生 活 様 式 な どの 変 化 が 、
わ た し達 の生 き る こ と、 死 ぬ こ と にっ いて の考 え方 を変 え て きた の だ と思 い ます。 わ が 家 で 身
内 に あ た た か く看取 られ て死 ん で い くこ と、 こ の よ うな お だ や か な死 は少 な くな って しまい ま
した。 豊 か な社 会 と考 え られ て い る今 の社 会 が 、 山 を荒 廃 さ せ、 川 を濁 った もの に して い く、
そ れ と同 じよ うに わ た し達 の死 が 、"モ
科 学 的 とい わ れ る現 代 医学 で は、"ひ
れ ば、 生 物 と して の"ヒ
ノ と して の死"に
と"と
な って い る の で は な い で し ょ うか 。
して の心 の配 慮 はす くな い よ うで す。 い って み
ト"だ けの 医 学 と いわ れ て も仕 方 が な い で し ょ う。
わ た し達 が死 ぬ とい う こ と は、"あ な だ と"わ た し"と の間 で"わ た し"の 死 を"あ な た
"が 見 送 って くれ る こ とで は な い で し ょうか 。 少 な くと もわ た し自身 の生 きた証(ア カ シ)が
わ ず か で もあ な た達 の心 の底 に残 って くれ た ら有 難 い と思 うべ きで し ょ う。
とに か く、"自 分 は こ う生 き る しか な か っ た""こ
ん な もの だ"と 納 得 して生 き、 死 を迎 え
る こ とが 出来 た らい い とわ た し は願 って い ます 。
8月24日
家族 の現在
光
吉
利
之
近 頃 、 日本 で も 「高 齢 化 」 「超 低 出 生 率 」 「晩 婚 化」 「夫 婦 別 性 」 「非 婚 」 「DINKS」 … とい っ
た言 葉 を頻 繁 に耳 にす る よ うに な りま した。 この よ うな 言 葉 の 背 後 に は、 日本 の家 族 は今 激 し
く変 わ ろ うと して い る と い う実 感 や、 これ か らの 家族 は ど うな るの か と い う漠 然 と した危 機 感
が流 れ て い る よ うに もみ え ます 。
これ まで の、 わ が 国 の家 族 の在 り方 と比 べ て み る と、 た しか に危 機 的 状 況 に あ る と い う見 方
も成 り立 ち ます 。 しか し、 観 点 を変 え て み る と、 今 ま で と は違 った新 しい タ イ プの 家 族 を創 造
す る過 程 に あ る と い う考 え 方 もあ りえ ま す。
本 講 で は、 こ の よ うに非 常 に見 え に く くな った現 在 の家 族 に、 い ろ い ろ の 角 度 か ら光 を 当 て
る こ と に よ って 、 そ の 変 化 の様 相 と方 向 を探 って み ま した。
一108一
奈 良 大 学 教 養 講 座
10月12日
国際交流 を考 える
価値観 の融合
蘇
徳
昌
日中 両 国民 は人 間 と して 共 通 の 欲 求 ・願 望 を持 ち、 千 年 以 上 に亘 って の 文 化 交 流 の 歴 史 が あ
り、20年 この方 の経 済 を 中 心 と した 大 合 作 ・大 協 力 に よ り、 相 互 理 解 が 深 ま り、 価 値 観 が 急 速
に 融 合 しっ っ あ る。
中 国 は世 界 の成 長 セ ン タ ー にな りつ つ あ り、21世 紀 は 中国 の世 紀 と も言 わ れ 、 経 済 の 成 長 ・
社 会 の 発展 は 目覚 ま しい もの で あ る。
近 代 化 の過 程 は工 業 化 ・都市 化 の 過 程 で あ るが 、 中 国 と って は計 画 経 済 か ら市 場 経 済 へ の 移
行 ・民 営 化 の過 程 で もあ り、社 会 体 制 の 実 質 的 な転 換 の始 ま りで あ る。
下 部 構 造 の経 済 が変 化 す るに つ れ 、上 部 構 造 も大 き く変 わ って来 て い る。人 間 関係 が階 級的 ・
政 治 的 ・精 神 的 ・イ デ オ ロギ ー 的 ・村 落 的 か ら人 間 的 ・経 済 的 ・物 質 的 ・脱 イ デ オ ロギ ー的 ・
グ ロー バ ル に な り、 価 値 観 も全 体 主 義 的 か ら民 主 主 義 的 、 即 ち普 遍 的 な価 値 観 に な りつ つ あ る。
日中交 流 と価 値 観 の融 合 の良 性 循 環 を 促 す の が 両 国 民 の責 務 で あ り、 そ の た あ の対 策 ・改 革
が必 要 で あ る。
12月7日
日本 の伝統 的建築
水
野
正
日本 列 島 で始 めて 家 族 を容 れ る 「家 」 とい う建 築 が建 つ の は旧 石 器 時 代 も末 、1万3千
前 の こと。 ナ ウ マ ン象 の骨 や皮 を使 って の家 で あ った。 「家 」 が一 斉 に広 ま る の は1万2千
好
年程
年
程 前 か ら。 人 々 の定 住 が 始 ま り 「村 」 を つ く るよ うに な るの と規 を 一 にす る。 や が て 巨大 な ロ
ングハ ウ スが 生 まれ 、 高 い掘 立 柱 建 築 も誕 生 して く る。2千3百
年 前 、 中 国 か ら渡 来 した人 々
は彼 の地 の建 物 を 日本 に移 植 す る。 望 楼 、 楼 観 とい う高 層 建 築 、 稲 米 や 船 載 品 を納 め た高 床 の
倉 、 貴 紳 の居 住 す る堂 々 た る規 模 の大 殿 や大 室 の建 築 が成 立 す る。 しか し、 極 め て そ の建 築 構
造 は単 純 、 但 し倭 国 女 王 卑 弥 呼 や 崇 神 天 皇 の宮 室 は 中 国 明堂 風 の 雄 大 な 規 模 の もの で あ った可
能 性 が 大 で あ る。 建 築 の 構 造 が 複 雑 に な り各 技 禰 が粋 を極 め る よ う にな る の は6世 紀 後 半 の飛
鳥 寺 、 法 隆 寺(若 草 伽 藍)四 天 王 寺 な ど の仏 教 寺 院 が た ち始 め て 以 後 の こ とで あ る。 礎 石 、 基
壇 な どを 整 え た 寺 院 はや が て 宮 殿 、 皇 居 か ら地 方 の官 衙 に も影 響 を 与 え 瓦 葺 建 物 も続 々誕 生 し
て くる。 寝 殿 造 な ど優 美 、 複 雑 な構 造 の建 物 の建 築 は こ う した 長 い建 築 の 歴 史 の中 か ら生 まれ
て くるの で あ る。
一109一
総
2月22日
合
研
究
所
所
報
中世 の弁慶伝承
小
林
美
和
弁 慶 は今 日のわ た した ち に と って は、 謎 の多 い人 物 で あ る。 そ の主 人 で あ る源 義 経 につ い て
は、 当 時 の公 家 の 日記 や、 歴 史 記 録 の類 に よ って、 か な り詳 細 にそ の消 息 を知 る ことがで きる。
そ の一 方 、 義 経 と生 死 を共 に した弁 慶 にっ い て、 当 時 の記 録 は ほ とん ど語 る こ とが な い。 そ の
こ と は、 中 世 か ら江 戸 時 代 にか けて 広 く流 布 した弁 慶 説 話 の数 々 の 多 くが 、 史 実 に基 づ く もの
で はな く、 次 第 に作 り出 され て い っ た もので あ る こ とを 暗示 して い る。
しか し・ そ の こ と は、 今 日 に伝 わ る弁 慶 説 話 の価 値 を け っ して艇 め る もの で はな いで あろ う。
そ こか ら は、 今 日の 日本 人 が 多 く失 って しま った で あ ろ う中世 人 の 文 化 や 精 神 の あ り方 が く っ
き り と した 痕跡 と して 浮 か びあ が って くるか らで あ る。 日本 の近 代 化 は伝 統 的過 去 を 振 り捨 て
る こ とに よ って 成 立 した が 、 そ れ は果 して 正 しか った の か。
こ こで取 り上 げ る 『弁 慶 物 語』 は、 中 世 後 期 か ら江 戸 初 期 にか け て流 布 した作 品 で あ る。 そ
こに は、 ほ ぼ成 立 の 時 代 を 同 じ くす る と思 わ れ る 『義 経 記 』 と は異 な り、 悪 漢 た ち が繰 り広 げ
る無 頼 の世 界 が い きい き と描 か れ て い る。 そ こに 登 場 す る人 物 た ち は い ず れ も、 自 らの欲 望 の
お もむ くま ま に振 る舞 い、 い わ ば禁 欲 とい う語 の 対 極 に あ る。 そ う した世 界 を生 み 出 した もの
は何 で あ った のか?
一110一
奈 良 大 学 文 化 講 座
奈 良 大 学 文 化 講 座
「歴 史 的景 観 と は何 か 」
一 大 和 、 そ の過 去 ・現 在 一
9月20日
古代王都 の景観 を さ ぐる
水
野
正
好
倭 国 女 王 卑 弥 呼 の都 は い まだ に不 明 で あ る。 私 は奈 良 県 天 理 市 大 和 神 社 附 近 と考 え て い る。
崇 神 天 皇 は三 輪 山西 麓 に 「磯 城 瑞 籠 宮 」 を営 む。 っ つ く垂 仁 天 皇 は 「纒 向 日 代 宮 」、 景 行 天 皇
は 「纒 向 珠 城 宮 」。 と もに三 輪 山 西北 麓 。 こ う した四 世 紀 代 の天 皇 の宮 都 の近 くに は 「出 雲 」・
「吉 備」・「丹 波 」 な どの 国 名 を付 け た 集 落 が い ま も残 る。 『日本 書 紀 』 な ど を繕 くと こ う した地
名 が 見 え、 古 くか ら こ う した国 名 集 落 の存 在 した こ とが 確 め られ る。 恐 ら く、朝廷 執 政 の官僚 、
官 人 と して こ う した集 落 の 「国 人 」 が 日々登 庁 し政 務 の 一 端 を 荷 って い た もの と想 像 さ れ る の
で あ る。 従 って、 当時 の王 都 は執 政 の官 衙 一宮 は 存 在 す るが 、 都 、 都 人 は な く、 各 集 落 と宮 を
往 復 す る形 で あ った と考 え られ る。 従 って多 数 の官 人 を 一 処 に集 住 させ る た め の方 格 地 割 で道
路 水 路 を整 え る都 市 機 能 は そ こ に は見 られ な か った の で はな いか と思 料 す る。
しか し、 大 化 改 新 後 の孝 徳 天 皇 の難 波 宮 や天 智 天 皇 の 大 津 宮 、 持 統 天 皇 の藤 原 宮 、 以 降 の平
城 京 や 平 安 京 な ど は、 官 人 に住 地 を班 給 した上 番 させ るた め に 「都 」 と して の都 市 整 備 が果 た
され て い る ので あ る。 こ う した都 城 ・宮 都 は流 行 病 の再 々 侵 す と こ ろ、 日 々 の暦 ・時 を刻 む漏
剋 、 市 と都 市 維 持 機 構 な ど独 特 の仕 掛 け、 対 処 の手 法 が生 まれ て い る。
こ う した古 代 の王 都 を対 象 に景 観 の復 原 、 検 証 の成 果 を 具 体 的 に のべ た。
9月27日
王朝文学 と長谷 寺参詣
山
本
利
達
紀 貫 之 は、 長 谷 寺 に参 詣 す る こ と に宿 った家 に長 年 た って 訪 れ た 時 、 梅 の花 に添 え て、 百 人
一 首 の 「人 は い さ」 の歌 を 詠 ん で い る。 度 々参 詣 して い た よ うで あ る。
蜻 蛉 日記 の作 者 は願 掛 け に参 籠 し、 帰 途 、 貴 公 子 の夫 に宇 治 まで 迎 え て も ら う幸 せ を得 た。
二 度 目 に は父 と一 緒 に参 詣 して い る。
源 氏 物 語 の夕 顔 の娘 玉 婁 は、3歳
の時 母 の死 も知 らず に乳 母 の 夫 の 任 地 九 州 に渡 り、18年 後
京 に上 っ たが 、 内 大 臣 の 父 に は会 う手 だて もな く、 助 けを願 って長谷 寺 に参詣 し、母 の侍 女 だ っ
た右 近 に め ぐ りあ う。 右 近 は源 氏 に仕 え て い た の で、 そ の導 きで 源 氏 の 養 女 と な り、 父 に も会
え 、 物 語 の重 要 な人 物 とな る。
源 氏 物 語 終 末 部 の女 主 人 公 浮 舟 は、 義 父 の任 地 常 陸 国 か ら上 京 す る と長 谷 寺 に参詣 し、帰 途、
亡 父 の宇 治 の 旧邸 に立 寄 り、 貴 公 子 薫 に見 そ め られ る。 浮 舟 は匂 宮 の 情 熱 に ほだ され 、 薫 と匂
宮 の愛 に進 退 きわ ま り、 入 水 を 決 意 す るが 、 物 の怪 に と らえ られ 、 意 識 を 失 って い た と こ ろ、
一111一
総
合 研
究
所
所
報
長 谷寺 参 詣 の帰 途 の 横川 僧都 の妹 尼 に 救 わ れ 比 叡 の 麓 の 小 野 で 出家 生 活 に入 る。
夕 顔 や 浮舟 の よ うに と夢 み て 、 観 音 の お 告 げ に耳 を 傾 けず 源 氏 物 語 を読 み ふ け った更 級 日記
の 作 者 は、 晩年 に は長 谷寺 に参 詣 し、 信 仰 を 深 め る よ うに な る。
しる し
梁 塵 秘 抄 に 「観 音 験 を 見 す る寺 、 清 水 石 山 長 谷 の 御 山 … … 」 と歌 わ れ、 観 音 の 御利 益 を願 う
参 詣 が 、 王 朝 文 学 の 素 材 と して 、 また 作 品 の 構 想 に重 要 な関 わ りを も って い る。
ぶ ん か
10月11日
い さ ん
った
文 化 遺 産 を伝 え る とい う こ と
西
山
要
一一
私 達 の 祖 先 が 日常 生 活 や 生 産 活 動 そ して 、 信 仰 ・芸 術 活 動 な どで創 り出 した 土 製 ・木 製 の什
器 、 仏 像 ・神 像 彫 刻 、 絵 画 、 祭 具 、 武 器 ・武 具 か ら建 築 、 遺 跡 に い た る大 小 ・有 形 無 形 の文 化
遺 産 は、 そ れ らが 創 られ た 時 代 の 人 々 の生 き ざ まや 技 術 ・生 活 様 式 、 政 治 や 経 済 ・文 化 を色 濃
く反 映 し、 また 、 伝 え 来 た った 歴 史 を も物 語 って くれ ます 。 文 化 遺 産 か ら私 達 は祖 先 達 の今 日
まで の 歴 史 を 知 り学 ぶ こ とが で き る と と もに、 さ らに、 文 化 遺 産 は未 来 の社 会 を 考 え 創 る た め
の 手 掛 か りや 指 標 を も与 え て も くれ ます 。
今 日 に伝 え られ て い る多 くの 文 化 遺 産 は、 決 して 偶 然 に残 され た の で は有 り ませ ん 。 多 くの
先 人 達 は優 れ た 技 術 と良 質 の 材 料 を 用 いて 文 化 遺 産 を創 り、 卓 越 した 保 存施 設 と管 理 に よ って
保 存 しきた った 、 す な わ ち先 人 の 創 意 ・工 夫 と努 力 、 大 切 に す る心 が 文化 遺 産 を い ま に伝 え て
い るの で す 。 た びた びの 地 震 や 台 風 、 戦 争 に よ り消 滅 した文 化 遺 産 が 多 い一 方 で 、 そ う した惨
禍 か ら免 れ 得 た の も、 先 人 の 努 力 に負 うと こ ろが 大 き い の で す。
本 講 演 で は、 正 倉 院 に代 表 され る校 倉 建 物 の機 能 と 「曝 涼 」 と呼 ぶ維 持 管 理 方 法 、 同 様 の 機
能 を 果 た した 土 蔵 、 明 治 時 代 の 国 家 に よ る 「宝 物 」 の保 存 管 理 の は じ ま り と第 二 次 世 界 大 戦 後
の 市 民 ・自治 体 に よ る文 化 遺 産 の 保 存 と活 用 、 博 物 館 ・美 術 館 の完 全 空 調 に よ る文 化 遺 産 の保
存 と 自然 環 境 を 利 用 した 文 化 遺 産 の 保 存 な ど、 文 化 遺 産 保 存 の方 法 と理 念 を通 して 、 私 達 が 次
世 代 に文 化 遺 産 を 伝 え る こ との 意 義 を のべ た。
ジーア イエ ス
10月18日 地 理 情 報 シス テ ム(GIS)で
み る大 和 の 歴 史 的 景 観
碓
井
照
子
21世 紀 は、 マ ル テ ィメデ ィアの 時 代 と いわ れ る。 歴 史 的 な景 観 の復 元 や古 地 図 と現 在 の 地 形
図 との 重 ね あ わ せ な ど コ ン ピュ ー タを 利 用 した マ ル テ ィメ デ ィア処 理 や解 析 が、 最 近 、 研 究 者
間 で 流 行 して い る。 これ らの 背 景 に は、 地 図 の デ ジ タル化(電 子 地 図 の作 成)が
奈 良 県 の 大 縮 尺 電 子 地 図(数 値 地 図2500)が
これ らの 電 子 地 図 をGIS(地
あ り、 最 近 、
国 土 地 理 院 か ら刊 行 さ れ た。
理 情 報 シ ス テ ム)を 利 用 して 処 理 し、 大 和 の歴 史 的 景 観 を コ ン
ピュ ー タを 通 して み る と どの よ う に見 え るか 。 今 回 の講 演 で は、GISに
よ り見 え て きた 大 和 の
歴 史 景 観 につ いて 説 明 し、 一
一見 、 疎 遠 に見 え る コ ン ピュ ー タ と歴 史 学 や考 古 学 、 コ ンピ ュ ー タ
一112一
奈 良 大 学 文 化 講 座
と大 和 の文 学 、 コ ン ピュ ー タ と大 和 の歴 史 地 理 学 につ い て 、 新 しい視 野 に た って 考 え た 。GIS
が 一 般 家 庭 や町 役 場 に普 及 す れ ば、 古 い絵 図 や地 籍 図 な どを 家 庭 か ら見 る こ とが で き、 現 在 の
地 形 図 と比 較 した り、 空 中 写 真 を重 ね た り、 様 々 な面 白 い 処 理 が 可 能 にな る。 大 和 の歴 史 が よ
り身 近 に な る の で は な い だ ろ うか。
た もん や ま じ ょ う
10月25日
まつながひさひで
多聞 山城 と松永久秀
藤
は
し4な
井
学
がよし
戦 国 時 代 の末 、 畿 内 の実 質 的 な覇 者 は三 好 長 慶(1523-64)だ
った。 長 慶 政 権 の拠 点 は主 に
河 内 の飯 盛 山城 。 そ の最 盛 期 の勢 力 圏 は 山城 ・大和 ・摂 津 ・河 内 ・和 泉 ・丹 波 ・淡 路 ・讃 岐 ・
阿 波 、 そ れ に播 磨 と伊 予 の一 部 に及 ん だ。 信 長 が 京都 を 制 圧 して 畿 内 に戦 国 の終 幕 が 引 か れ る
の は、 この長 慶 が飯 盛 山城 で病 没 し、 さ らに そ の喪 が3年 間 も秘 され 、 永 禄9年(1566)6月
長 慶 の死 が公 表 さ れ た さ らに3年 後 の こ とだ った。
こく しゅ
にyう ぶ
久 秀 が長 慶 政 権 の一 翼 を担 って、 国 主 と して 大和 へ 入 部 したの は永 禄2年(1559)の
こ と。
か れ は これ以 後 、 奈 良 北 郊 の多 聞 山城 と、 西 に信 貴 山城 を 築 き、 この 二 城 を拠 点 に、 古 代寺 院
勢 力 や大 和 国 人 衆 と壮 烈 な合 戦 を く りか え した。 多 聞 山 城 は奈 良 と京 都 の、 信 貴 山城 は奈 良 と
い ん こう
堺 の咽 喉 部 に 当 り、 久 秀 は戦 国 畿 内 の この三 都 市 に勢 力 を 扶 植 しなが ら、 大 和 平 定 に の りだ す
の で あ る。 この二 っ の城 に は 日本 最 初 とい わ れ る鉄 放 に備 え た多 聞 や 、 三 層 と い わ れ た天 守 閣
が あ った。
多 聞 山城 に は書 院 や茶 座 敷 も設 け られ、 そ こで は武 将 や 三 都 の町 衆 が よ く集 ま り、 久 秀 の も
と文 芸 や茶 の湯 の会 が催 され、 戦 乱 の 間 に文 化 の 灯 を と も して い た。
一113一
総
合
研
究
所
所
報
社会学部公開講座
『これ か らの地 域 を考 え る!』
主
旨:今 改 め て 、 「地 域 とは何 か!」、 「地 球 的規 模 で の環 境 破壊 とNGOの
あ り方 」、 「阪 神 大
震 災 後 の ま ちづ くり と ラ イ フ デ ザ イ ンの展 開 」 「公 的 介護 保 険 」 や 「市 民 活 動 推 進 法
案 」 の あ り方 、 そ して それ らを支 え る政 治 改 革 と して の 「地 方 分 権 」 の ゆ くえ 等 、 今
ま さ に地 域 で 安 心 して暮 らす こ と とは何 か を問 い直 す 時 代 で あ る。 本 講 座 は、 さ ま ざ
ま な現 代 的 課 題 に む け て取 り組 ん で い る研 究 者 や実 践 家 と共 に市 民 が 一 体 と な って考
え る総 合 講 座 で あ る。
場
所:奈 良 県 中小 企 業 会 館
日
時:1997年10月4日(土)13:30-16:00
テ ー マ:「 地 球 と 『環 境 』」
講
師:「 環 境 市 民 」 代 表
浅 岡 美恵
奈 良 大 学 社 会 学 部 助 教授
概
平 岡義和
要:地 球 規 模 で の環 境 破 壊 の 中 で 、 市 民 の 立 場 か らみ た 環 境 問 題 を、 地 域 的 視 点 との 関
わ りか ら、 そ の 具 体 的 事 例 の も と に考 え る講 座
参 加 者:一 般35名
日
学 生45名
時:1997年10月18日(土)13:30-16:00
テーマ
講
「地域 と 『福 祉 』」
師:武 庫 川女 子 大 学 助 教 授
中 田知 恵 海
奈 良 大学 社 会 学 部 助 教 授
概
桂
良太郎
要:地 域 で そ の 人 ら し く生 きて い くこ と と は何 か 、 さ ま ざ ま な社 会 福 祉 制 度 の 改 革 の問
題 点 を 整理 しな が ら、 セ ル フ ヘ ル プ グ ル ー プ(自 助 グ ル ー プ)の に代 表 され る当 事
者 の 側 か ら にた っ た福 祉 サ ー ビス の あ り方 にっ いて 考 え る講 座
参 加 者:一 般55名
日
学 生58名
時:1997年10月25日(土)13:30-16:00
テ ーマ
講
概
師
要
「地 域 と 『政 治 』」
奈良女子大学教授
中道
實
神戸大学教授
依田
博
奈良大学社会学部教授
間場
寿一
「分 権 時 代 」 に向 か って 政 治 的 課 題 の なか で 、 政 党 、 議 員 、 有 権 者 の行 動 を 再 検 討
しな が ら、 国 政 と地 方 自治 、 さ らに住 民 自治 の現 状 を浮 き彫 りに して、 そ こ に み ら
れ る問 題 点 を 未 来 に投 影 しなが ら、 改 革 の ゆ くえ を探 る講 座
参 加 者:一 般31名
学 生43名
一114一
社 会 学 部 公 開 講 座
総
評
今 回 か ら社 会 学 部 公 開 講 座 は年3回
の開 催 へ と踏 み切 った。 共 通 テ ー マ と して 「これ か らの
地 域 を考 え る!」 と し、 そ れ ぞ れ 、 地 域 と 「環 境 」、 地 域 と 「福 祉 」、 地 域 と 「政治 」 とい うテ ー
マ で、 内 外 の す ぐれ た研 究 者 や 実 践 者 を招 い て の講 座 で あ った。
第1回
目の 地 域 と 「環 境 」 を考 え る講 座 で は、 当時 京 都 で開 催 予 定 の 国 際環 境会 議 と重 な り、
折 し もそ の 国 際 会 議 に向 けて 大 き な役 割 を は た して い た市 民 活 動 グル ー プ(NGO)の
団体 の
代 表 者 で もあ る浅 岡 美 恵 氏 を 招 いて の講 演 で もあ り、 白熱 した質 疑 応 答 が 行 わ れ た 。
地 球 的規 模 で の 環 境 破 壊 と して の二 酸 化 炭 素 の排 出問 題 は す べ て の国 民 が 従 来型 の 生 活 ス タ
イ ル の見 直 し と、 政 府 の 政 策 に対 す る変 更 を要 求 して い くま さ し く人 類 す べ て の課 題 で あ る こ
とを この講 座 か ら学 び直 す こ とが で き た。
第2回
目の講 座 は、 武 庫 川 女 子 大 学 の中 田知 恵 海 氏 を招 い て、 現 在 問題 に な って い る 「公 的
介 護 保 険制 度 」 や 「市 民 活 動 グ ル ー プ の公 的 支 援 制 度 」 な ど の諸 問 題 に つ い て、 い か に市 民 一
人 ひ と りが地 域 で 生 きが いを も って 活 動 して いか な けれ ば な らな い か に つ い て の具 体 的 な 活 動
の あ り方 を学 ん だ講 座 で あ った 。 特 に、 セ ル フ グ ル ー プ(自 助 グ ル ー プ)の 活 動 が 今 後 注 目 さ
れ る こ とが提 案 され 、新 しい ボ ラ ンテ ィア活 動 を 模 索 す る上 で の有 益 な ア イ デアが提 示 された。
第3回
目 の講 座 に お い て は、 内 外 の 著 名 な政 治 社 会 学 者 二 人(奈 良 女 子 大 学 教 授 中 道 實 氏 、
神 戸 大 学 教 授 依 田博 氏)を 招 いて 、 「地 方 分 権 時 代 」 の な か で、 今 後 政 治 が ど う動 い て い くか
にっ い て わ か りや す い講 演 を 聴 くこ とが で き た。 政 治 が 環 境 政 策 は じめ、 福 祉政 策 の要 で あ り、
政 治 の安 定 如 何 に よ って は今 後 国 民 生 活 に大 きな 影 響 を与 え る こ とか ら、 大 勢 の参 加 者 を 得 る
ことが で きた。 「住 民 自治 」 へ の取 り組 み が今 後 重 要 とな り、 一 人 ひ と りが 政 治 に関 心 を 示 さ
な けれ ば な らな い こ と、 そ して 特 に若 い世 代 が 政 治 を 自分 の問 題 と して 考 え な け れ ば な らな い
な ど の提 案 が な され た。
戦 後 の 日本 の経 済 成 長 が 低成 長 時 代 を む か え 、 今 改 め て 「地 域 」 と は な ん で あ る か を 真 剣 に
考 え、 人 々 の暮 ら しや生 きが い を 自分 自身 の 課 題 と して 考 え 直 す い い機 会 を この講 座 に よ って
提 供 で きた な らば幸 い で あ る。
最 後 に この公 開 講 座 は、 奈 良 大 学 の 学 生 た ち の 献 身 的 な ボ ラ ンテ ィア によ って成 功裏 に終 わ っ
た こ と を記 した い。
(文責
一115一
桂)
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