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NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
「文明」と「文化」に関する予備的考察
Author(s)
吉田, 雅章
Citation
長崎大学総合環境研究 1(1), p.123-134; 1998
Issue Date
1998-12
URL
http://hdl.handle.net/10069/5375
Right
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http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
長 崎大学総 合環境 研 究
第 1巻
第 1号 (
1
9
9
8
)
「
文明」 と 「
文化」 に関する予備的考察
A Pre
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nar
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on and Cul
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吉
田 雅 章
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DA.Mas
aaki
は じめに
た或 る地域 の、或 る時代 の人間の諸 々の営み と
本論 は、「
文明 と文化 に関す る原理 的考察」
その所産 の一切を包括 している。 しか しそれぞ
の序論部分 に該当す る。特 にここでは、「
文明」
れの文明の様態 に関 しては、歴史学者や考古学
とい う概念 と 「
文化」 という概念の相違 に関 し
者を中心 にす る専門家が詳細 な研究を試みてい
て、予備的な検討を行 いたい。 この二つの言葉
るものであ り、 さらに 「
文化」 に関 して も、 こ
の使用をめ ぐっては、現在かな りの混乱が見 ら
の一言で包括 されている事柄 はおよそ 「
人間の
れ るよ うに思われ る。例えば、「
農耕牧畜文明」
営み」 のすべてを覆 うほど広 く、 また極 めて多
とか 「
儒教文明」 とか 「
精神文明」 とい う言葉
様であろう。 このよ うな 「
文明」と 「
文化」を、
がよ く用 い られているが、 しか しそれ らには本
それ 自身 として取 り扱 お うとす る際に、その議
来 「文化」 とい う言葉を適用すべきものである。
論 はいきおい粗雑で、荒 っぽい ものにな りがち
こうした混乱 の原因の一端 は、 「文化」 と 「文
である。 しか しなが ら、そのことを承知の上で、
明」 の双方 の言葉が一体何 を指 し示す ものであ
なお 「
文明」 と 「
文化」 に関す る基礎的な考察
るか、その概念が唆味なままに放置 されている
を試 みようとす るのは、それなりの理由がある。
1
)
。勿論、 ここで
ところにあるよ うに思われる(
その一つは、上記 に述べた双方の概念の混乱を
取 り扱 う 「
文明」 と 「文化」 の概念 は、漢語本
排除 したいとい うことであるが、 この ことと同
来 のそれで はな く、 ラテ ン語 に語源を持っ英語
時 に両者の言葉 の故郷 を探 しあて、その核心 に
の訳語 としての 「
文明」 と 「
文化」 の概念であ
あるものを取 り出 してお きたいということであ
る(
2
)
。 したが って、 これか ら 「
文明」 と 「
文化」
る。
とい う言葉でわれわれが何かを考えようとす る
この ことは、今 日的な地球環境問題が如何な
際に、c
i
v
i
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s
at
i
onとc
ul
t
ur
eとい う言葉 を常 に
る問題であ り、何処 に根 を持っのかを見定 める
念頭 においてお く必要があろう。
視点 を確保す るとい う意味で、なお検討 の余地
「
文明」 と 「
文化」 の概念の相違 に関す る考
があると考え る。例えば、われわれ研究者が、
察 の前 に、予 め自戒 として述べてお くべ きこと
文系 と理系を問わず、 なにが しかの研究活動を
があ\
る。「
文明」 といい、「
文化」 といい、双方
行 う際 に、そ こには明 らかに、文明的要素 と文
ともに、極 めて多様 な事柄を包括す る言葉であ
化的要素が交錯 し錯綜 している。実験や計測 は
り、概念である。「
文明」 とい う言葉 は、「
古代
もとよ り、一冊の書籍や雑誌 を播 いて研究活動
エジプ ト文明」 とか 「メソポタミア文明」とか、
の一端 とす るとき、研究者 は文化的環境 と文明
しば しば或 る地域の名称 を付 して用いられるが、
的環境 に取 り囲 まれお り、研究活動 はその二つ
○○文明」 とい う一言 によって、そ うし
この 「
の要素が絡み緩 り上 げ られているところに成 り
-1
2
3-
吉 田雅章
立っ。 しか しこの二つの要素 は、本来的に選 り
て、 《
c
i
v
i
l
i
z
at
i
on≫ を直訳すれば 「都市化」
分 けられるべ きものであ り、それを行 うことは
あるいは 「
市民化」 ということになろう。 し
上記の問題 にとって肝要 なことと思われ る。
か し、 ここで 「
都市」や 「
市民」 として象徴
なお、以下 に 「
文明」 と 「
文化」の概念をめ
されているのは究極的には 「
人為」 というこ
ぐって、「
農耕」や 「
都市」 に関す る考察 を行
とであろう。
うが、 この場合、一応歴史的観点を外 して、原
そ して、 その 「
人為」 に対置 されているの
理的考察 として行 うということを予め断 ってお
が 「自然」である、 とい うのが 「文明」 とい
きたい。
う概念 についての私の基本的な解釈である。
そ うだ とす ると、「
文明」 とい う言葉 が伝 え
1 村上 「文明論」の持つ問題点
ようとしている根本的な原理 は 「自然の人為
さて、「
文明」 と 「
文化」 の概念 の相違 を検
化」 とい うことになるだろう (
p.
7
56)
0
討す るに当 り、村上陽一郎氏の 「
文明」 と 「
文
そ して再 び言 うまで もないが、 「文化」
化」 に関す る所説を取 り上 げ、 この検討を通 じ
の ヨーロッパ語 であ る 《
c
ul
t
ur
e≫ の語源 は
て、両者 の概念の相違 とその概念の核心部分を
本来 「
農耕」である。 そ して 「
農耕」 は 「自
明 らかに してゆ くという方法を取 ることに した
然 に対す る人為 の働 き掛 け」その ものであっ
い。村上氏 はその著 『
文明のなかの科学』 にお
た。港概を利用 しての穀物の単品種濃厚栽培
いて、「
文明」概念を 「
文化」 概念 に連続 させ
と、その収穫物の貯蔵 と計画的分配 とが農耕
て捉えているが、 こうした村上氏の所説 は妥当
社会の特徴であるとすれば、農耕社会っまり
性を持 たず、却 って彼の 「
文明論」 に唆昧 さや
は 「
文化」 は、「
人為」 と 「自然」 とが対 置
過誤を もた らしていると考え られ る(
3
)
。 勿論、
された上で、「
人為」 が 「自然」 を 自然 のま
予め断 っておかなければな らないのは、 ここで
まに放置せず、そ こに介入 し、手を加える最
の仕事の主眼 は、村上 「
文明論」その ものの批
初の試みであったということができる (
p.
7
6)
0
判 で はな く、 この批判 を通 じて のわれわれの
「文明」 と 「文化」の概念 の明確化 にあ るとい
村上氏 はここか ら、若干の ことを付 け加えた
うことである。
後で、「したが って、文明 は文化 の一 形態 と言
そ こでやや立 ち入 って、村上氏の所説を検討
うことがで きる」 と結論す る。 われわれが ここ
してみよ う。先ず取 り上 げたいの は、 「文 明」
に見 るのは、「
文明」 と 「
文化」の双方 ともに、
と「
文化」 をめ ぐる 「自然 と人為」の捉え方で
その根源を 「自然 に対す る人為」 に求 めること
ある。村上氏 は、「
文明」 と 「文化」 の概念 を
である。 しか し果 た して このような 「
文明」 と
説明す るに当たって、 このそれぞれがその訳語
「
文化」 の概念の接続 は許 されるのであろうか。
と して用い られてい るc
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i
onとc
ul
t
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eの
ここで先ず指摘すべ きは、 村 上 氏 が c
i
v
i
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i
s
a-
語源である 「
都市化 ・市民化」 と 「
農耕」 に遡
t
i
onの持っ基本的な意味である 「都市化、市民
りなが ら、「
文明の矛盾」 の章 で、 それぞれ に
化」 を、 さらに 「
人為」へ と引 き直 した点であ
関 して次のようなことを述べ る。
る。村上氏の過誤 の重大な一つが ここにあると
私 は見ている。
c
i
v
i
l
≫ とい う語 は、 ラテ
言 うまで もな く 《
勿論、「
都市化」や 「
市民化」 が 「人為」 で
c
i
v
i
s≫ もしくは 《
c
i
v
i
t
as≫ か ら派
ン語 の 《
あること、正確 に言えば、「都市化、市民化」
生 した語で、 それ らは 「
市民」 あるいは 「
都
が 「
人為」 によるものであることを否定す るつ
市」と関わ り合 いのある語である。 したが っ
もりはない。 しか し 「
人為」 とい う概念 は極 め
ー
1 2
4 -
「文明」と「文化」に関す る予備的考察
て包括的で、 またそれ故 に唆味で多義的な概念
以前 の状態であ り、そのよ うな中で、人間 はど
であるが、「都市化」は或 る明確 さを持 った、
のように生 きるか と言 えば、丁度他 の動物 たち
よ り具体的な概念-
が木 の実や野草や草木の根 を食み、或 いは他 の
よ しそれが複雑 な内容 を
包括 す る もので あれ-
で あ るか ら、 それを
動物 を襲 って餌食 とす るよ うに、 「採 取 」 や
「
人為」へ と引 き直す ことは、 「都市化」、 即 ち
「
狩猟」 によ って生計 を立 て るで あ ろ う。 それ
「
文明」 という概念を唆味 な もの にす る ことに
が 自然が与 えるものだけを受 け取 る状態、或 い
都市化」
なると思われ る。 む しろ必要 なのは、「
は自然が許す ものだけで生 きていく状態である。
とい う概念 を 「
人為」- と引 き直す ことではな
自然が実 りを与えなければ、人間 は餓死せざる
く、「都市化」 とい う 「
人為」 と 「農耕」 とい
を得ず、他 の動物 を うち負か して、 これを 「も
う「
人為」の間にある差異、或 いはその様態 の
のにす る」 ことがで きなければ、 また同様であ
異 な りを見て取 ることにあ るのではないだろう
る(
5
)
0
か。以下 の考察か らすれば、 「都市化」 も 「農
で はこれに対比 して語 られ る、 (
b)の 「自然
耕」 もどち らも 「
人為」であるとい うかたちで
か らの独立、 自立」 の生活 とは具体的に何 を意
両者 を連続 させて しま うことは出来 ないよ うに
味す るのか。勿論、 この場合の 「
独立や 自立」
思われ る。 そ こで、両者 における 「
人為」 をよ
とは、 自然 に依存 しない、 自然を頼み としない
り細か く検討 してみ る必要 があろ う。先ず最初
生活の ことを指す と思われ るが、 「自然 を頼 み
に、「
農耕」 における 「
人為 」 が どの よ うな も
とせず、依存 しない」或 いは 「自然に左右 され、
のであるかを検討す ることか ら始 めよう。
翻弄 されない」生活 を送 るための第一歩 は、食
糧 の貯 えであろう。 他の動物のよ うに、 その 日
2 文化の原義 と しての農耕
その 日の食糧 をその 日限 りで漁 る生活ではな く、
文化 の語源や原義 を 「
農耕」 に求 め、 そこか
例 えば数 日間貯え ることがで きれば、人間 はそ
ら説明す るとい う村上氏のや り方か らすれば、
れだけ自然 に左右 されない生活を送 ることが可
先ず最初 に確認 すべ きことは、 「農 耕 」 とは
能 になる し、 その貯えが長期 にわたれば、それ
「
狩猟や採取」 に対す る 「
栽培」 で あ り、 む ろ
だけ自然 の力 (
脅威)か ら離脱 して生 きること
んそれは人が或 る仕方で 自然 に手 を加 え ること
が可能 になろ う。 そ してその ことが可能 になる
であ って、 そ して効率の良 い栽培 は単品種農耕
には、既 にそ こにい くつかの重要 な概念が前提
栽培 とい うことになろ う(
4
)
。 次 に、 「狩猟 や採
されていなければな らない。 「貯蔵」 とい う概
取」 と 「
農耕」 とい う両者 の生活 をそれぞれ簡
念 は、「
将来 の気遣 いをす る こころ」 に根差 す
7
8
9に対
単 に描 いて見 るが、それは村上氏 がp.
ものであ り、 また将来 を想 い、将来のために今
比的 に述べている、 (
a) 「自然 のなかに埋没 し、
働 くとい う労働 の概念が必要である。さらには、
自然 の与 え るものだけを受 け取 り、 自然が許す
貯蔵や栽培 に適 した 「
植物 の選定 」とか、 「そ
ものだけで生 きてい く」生活 と(
b) 「人 間が 自
うい う植物 の種子や球根等 の大量確保」 も既 に
然か ら独立 し自立す る」生活 に該当 しよう。
前提 されていなければな らないだろう。 これ ら
a)の生 き方が何 を指 しているのか、
上記 の、 (
村上氏 は具体的に述べていないが、 それは人間
はすべて 「
栽培」や 「
農耕」が成立す るために
必要 な概念であ る。
が、他の動物 と同様 に、 自然の一部 として (
或
さて、以上 のよ うであれば、 「人 間 の 自然 か
いは自然 を形成す る一つ として)存在す る状態
らの独立、 自立」 の先ず第一歩 は、栽培や農耕
を言 うもの と考え られ る。 それは人間が 自らを
とい うことになろ う (
勿論、貯蔵 その ものの概
自然か ら切 り離 して、 自然 を何 らか対象化す る
念 は農耕 の概念 な しに も存在 しうるが、貯蔵 を
-1
2
5-
吉田雅章
前提 に した人間の生活を考える限 りは、農耕や
て、「土地を慈 しみ、作物の面倒を見」、必死 に
栽培 を前提 しなければな らない と思 われ る)0
働 いたとして も、理由な く突然 に襲 いかか る一
人間が自然の力や脅威か らいくらかで も離脱 し、
夜の台風、水害、冷害、病虫害、或いは獣によっ
自然への依存度を少 しで も断ち切 るには、上記
て作物が全滅す るのを防 ぐ術がないことを承知
のような概念を含む 「
農耕や栽培」 は欠かせな
していた人 びとにとって、 自然の脅威 におのの
い。
き、 これを畏敬 して、 自然の猛威が人 びとを直
しか しその場合、われわれが十分留意すべ き
ことがある。「
農耕や栽培」 は、貯蔵 とい うや
撃す ることな く、豊穣が もた らされ ることを祈
る しかなか ったのである。
り方での食糧 の持続的確保 という面か ら見 ると
文化 (
c
ul
t
ur
e
)を 「農耕」 とい う語源 に遡 っ
き、 1サイクルの食糧の貯えがあれば、人間 は
て理解 しようとす る場合、先ず大切なのは、以
自然 の脅威 に翻弄 されな くて も済むという意味
上 に述べて きたような、人間の 「自然 に対す る
で、「自然の力」か らの一 つの離脱 であ るが、
関わ り方、接 し方、或 いは態度」 であ る。 「農
しか し農耕や栽培その ものは、ほぼ 「自然の力」
耕その もの」 には元来、「自然 を支配 し、征服
に依存 しているという点である。確かに耕作地
し、収奪す る」 という自然 に対す る敵意や攻撃
を広 げ、濯概施設を設 け、河川を管理す るとい
性、或 いは支配の意思 は、その萌芽 さえないと
うような自然の改変 はあるに して も、 「作物 の
言 うべ きである。 この点が村上氏の論点を検討
成長 と実 り」 はまった くといってよいほど、 自
す る上で重要であることは論を侯たないであろ
然の力 に頼 らざるを得ないのである。
う。村上氏が、文明は文化の一形態であると考
先ず 「
作物 の成長 と実 り」その ものが、大地
え、「18世紀のヨーロッパ人にとっては、 ・・・
のあ らゆる植物を育む自然の力によるものであ
農耕 という文化の形態 は、人為 による自然への
る。つ まり、われわれが農耕や栽培 によって収
介入 としては、 きわめて不徹底 に感 じられた」
穫を得 るその根源的な力 は、大地が植物界を育
と論定 し、文化 と文明の違 いを文明の持っ、 自
んでいるその力 とまった く同 じものなのである。
然 と他の文化 に対す る攻撃性 に見ようとす る場
だが さらに、そ ういう大地の持っ植物を育む
合、彼 は明 らかに文化 と文明の概念を連続的に
力 も様々な自然現象や自然の力によって大 きく
捉 えて、文明 は文化をベースとして、その中か
左右 され る。雨、温度、 日照、風 といった気象
ら生 じて くると考えていると言える(6)が、 これ
条件、或 いは病虫害の発生や野草の生育 などに
に対 して、上記の論点 は重要 な反証 にな りうる
つねに脅か されている。雨が降 らな くて も、降
であろう。 とい うのは、繰 り返 せば、 「農耕」
り過 ぎて も、作物 は駄 目になるし、温度や 日照
という人間の営みの中核 を成すのは、必ず しも
時間や台風 などもその生育 と収穫 に多大 な影響
将来 (
来年)を保証 して くれるとは限 らない、
を及ぼす ことは言 うまで もない。そ ういう自然
自然の脅威 (
猛威) に身 を晒 しおののきなが ら、
に対 して、人間 はまった くの無力であると言 っ
しか しその不安定な将来 に賭 けて、ただひたす
てよい。 とすれば、「
農耕」 は 「自然 を支配 し
ら自らの労働 によって 「
大地 と作物の世話 をす
た り、押 さえつ けた り、征服 した りす る」 こと
る」 ことであるが、村上氏 の 「
農耕」 の捉え方
とは直接連続 しない。「
農耕 とい う人為」 は自
には、「
農耕」の持つ この中心 的営 みがそ っ く
然や自然の力 に対峠す るものではな く、 自然の
り欠落 しているか らである(
7
)
。 したが って、 わ
「ものを生み出す力」を利用 し、 そのわずかな
れわれは 「
農耕」 とい う 「
文イu 概念 と 「
文明」
恵みに与 ることである。 この点 は十分念豆削こお
概念を、「
人為 による自然 への介入」 と して は
いてお く必要がある。汗まみれ、泥まみれになっ
連続的に捉え、 しか しその違 いを 「
不徹底な介
-1
2
6-
「
文明」と「文化」に関す る予備的考察
人か、それ とも徹底 した介入 (
管理)か」 に見
と考えてみたい。「
都市化」 とは一人 ひ と りが
る村上氏の見解 に対 して、 これを肯 うことはで
自然 と向 き合 い、 これ と格闘 しつつ 自然か ら食
きないよ うに思 われ る(
8
)
。勿論 そのために は、
糧 その他 の ものを獲得す るので はな く、 そ うい
未だなお多 くの ことをわれわれは考 えてみなけ
う自然 との闘 いな くして も、 ものを入手す るこ
ればな らない。
とので きるシステムがで きあが ってゆ くことで
さて以上 に 「
農耕」 とい う 「
人為」が どのよ
はあるまいか。人間 は都市 の中で、 自然の脅威
うな ものであるかを簡単 に見て きたが、次 にそ
を忘 れ、少 な くともその点で は安穏 に生活す る
れ と対比 して、「
都市化」 とい う 「人為」 が ど
ことがで きよ う。「
都市」 とは、 人 間 をそ うい
のよ うな ものであるかを見てい くことにす る。
う自然の脅威か ら保護 し、匿 うための巨大な ドー
農耕」
村上氏 は 「都市化」に関 しては、それを 「
ムに も似 た装置であ る(
1
0
)
0 「都市」 とい う概念
とい うレグェルでの 「
人為」 に引 き戻 している
の中心 に、 このよ うな 「
人間の自然の脅威か ら
ので、「
都市化」 その もの に関 して は、 それが
の脱却や回避」 を置 くとして、その場合、勿論
「どのような人為であるか」 を ま った くとい っ
問題 なのは、「自然 の脅威 か らの回避 や脱却」
てよいはど語 っていない。 そ こで改めて、われ
としての都市が成立 しうるための、 いわば条件
われ 自身が 「都市化」 とい う 「
人為」 について
とは何か とい うことであろう(
l
l
)
0
考 えてみ る必要があろ う(
9
)
0
多分われわれ は、 このための条件 として実 に
沢山の ことを考えねばな らないと思われ る。 い
3 文明の原義 と しての都市化
まそのすべてを尽 くす ことは無論不可能であり、
「文明」 とい う言葉 の原義である、「都市化」
またそれを尽 くす ことがわれわれの議論 の目的
とい う 「
人為」 は如何 なる人為であろ うか。 わ
で もないので、現在 の議論 に関わ るものの中で
れわれは先 に、「
文化」 の原義 としての 「
農耕」
主要 と思われ ることの内、 い くつかを取 り上 げ
a) 「自然 のなか に
を考え る際 に、村上氏の、 (
てお きたい。先ず第 1に、 (
1
)都市 が都市 で あ
埋没 し、 自然の与え るものだけを受 け取 り、 自
i
v
i
l
i
s
e
d)には、 それを
る (
都市化 して い る、 c
b)
然が許 す ものだ けで生 きて い く」 生活 と(
unc
i
v
i
l
i
s
e
d)の地 との対比
取 り囲む周辺 の未開 (
「
人間が 自然か ら独立 し自立 す る」 生 活 とい う
において見 ると、大規模 に自然 に手 を加 え、 こ
a)の
二分法 を手 が か りに して、 「農 耕 」 は (
れを改変 して、人間の 日々の生活 に適 し快適で
「
狩猟や採取」 の生活 に比 してみれば、 自然 -
あ ることを目指 して、交通 の利便を作 り出す張
の依存度をい くらかで も減 じるとい う意味で、
りめ ぐらされた道路や上下水の設備、私的ない
(
b)の 「自然か ら独立 し自立す る」生活 で はあ
し公共的建造物、商業施設や ものを生 み出す作
るが、 しか し農耕その ものは、依然 と,
して 自然
業場 (
工場)が立ち並ぶ街並み、或いは時によっ
の力その ものに頼 らざるを得 ないことを確認 し
て は、港湾施設や城壁、 さ らに巨大 な神殿や社
た。
などもしつ らえ られていることが必要であろう。
で は村上氏の言 う、人間が (
b) 「自然 か ら独
自然 を人工的に大 き く改変 し、人間の生活 に適
立 し自立す る」生活 を営む状態 になるのは、一
し快適 な ものへ と変え、以上のような ものを生
体 どのような場合であろうか。 「文化」 とい う
み出すには、そ こに自然を改変 してゆ く工学的
言葉がその原義である 「
農耕」との対比 を特 に
機械的な営み としての様 々な技術 の、 しか もそ
際立 たせ るために、今 「
都市イ を、農耕 によっ
の時代 に応 じた最先端の技術の集積が必要であ
て生 きる人 々が向かい合 い、或 いは晒 されてい
る。
山
る 「自然 の脅威か らの脱却或 いは回避 ・逃避」
2
7-1
2)都市 に生活 し、 直接食糧 の生産
第 2に、 (
吉 田雅章
に携わ らない人々 も、言うまで もな く、食糧 は
閲の地 に巨大な漣概施設や用水施設を設けたり、
必要 とす る。都市ではそれは自然 と向かい合い、
整備 された道路やその他の交通手段 を敷設 した
自然の脅威 に晒 されなが ら得 られるのではな く、
りもす るであろう。 したが って、重要 なのは、
農耕 によって生み出された ものが都市へ ともた
人 びとの生活の利便や効率や安穏 と、 自然への
らされるのであることも論 を侯たない。 しか し
依存を可能 なか ぎり断ち切 り、 自然の脅威か ら
これだけの ことの中にも、実 に数多 くの、 しか
逃れる工夫 としての都市化が文明であるとい う
も重要 なことが前提 されねばならないであろう。
点である。
先ず農耕や栽培 によって余剰 の食糧を生み出さ
れる必要があ り、 さらにそれが都市 に もた らさ
4 文化 と文明の相違
れるには何 らかの経済機構 や流通機構が整わな
ければな らないだろ う(
1
2
)
0
これまでの、「文化」の原義 た る 「農耕」 と
「
文明」 の原義 たる 「
都市化」の検討を通 じて、
このような形で都市が成立するとき、都市は、
「
文化」 と 「
文明」 という 「人為」 は、 それぞ
先 に述べたように、「自然 の脅威 に晒 されその
れ異 なる方向を志向 していることがかな り浮か
猛威 におおの く生活」か らの回避や脱却の場 と
び上が って きたと思 うが、次 にこの相違 を もう
なる。 そ して ここでは、人 びとはいわば 「自然
少 し明 らかに確認 してお きたい。
か ら自立 し独立 して、便利で安穏 な生活」を送
第 2節の検討では、村上氏の 「
文化 の語源が
ることが可能 になるであろう。 というのは、都
農耕である」 という論定を出発点 に して検討を
市 における様 々な施設や機構 は、全体 としてみ
進 め、文化の原義 としての農耕 において、 どの
れば、人 びとが 「自然か ら自立 し独立 して、便
ような 「
人為」が考え られねばな らないかを見
利で安穏な生活」を送れ るように、それを目的
て きた。「
文化」の原義を 「農耕」 とす ること
として、 自然 に手を加え、 それを改変 した もの
は、村上氏 に限 らず、 しば しば文明論 や文明批
だか らである。
評、あるいは今 日の地球環境問題が論 じられる
以上 に、われわれは 「
都市」 の成立の条件 を
際には、 きまり文句のように取 り上 げ られ ると
ごく簡単 に考えて見たのであるが、 しか し 「
文
ころであるが、 しか しその際に 「
農耕」 をどの
明」の原義 としての 「
都市化」 とは、 このよう
ような人為 と見 るかに関 しては、必ず しも明確
な 「
都市 らしい状態」 にな ってゆ くことを意味
とは言 い難か ったように思われる。そのため、
す るわけだか ら」「都市化」 とい うのは、 単 に
われわれは 「
文化」 の原義 たる 「
農耕」が どの
ひとつの或 る都市が出来上が ってゆ くというこ
ような 「
人為」であるかを検討 してみたのであ
とのみを意味す るのではな く、上記 に見たよう
るが、文化の原義 ということを考えるには、 し
な 「
都市」を形成す る、 いわば原理 になってい
かし 「
農耕」を取 り上 げてみるだけでは不十分
るものが、 ひろ く他へ及ぼされ るその過程で も
である。 というの は、 「文化 」(
c
ul
t
ur
e
) の語
ある(
1
3
)
0「都市化」(
即 ち、文明) というのは、
源であるラテ ン語 の c
ol
o(
i
mf
.c
ol
er
e
)とその
別に 「
都市」 に限 られるわけではない。当然 な
同族語のc
ul
t
us
、c
ul
t
ur
aには、「農耕」 とい う
がら 「
都市化」 は 「
都市」 において最 も顕著 に
一事で尽 くす ことので きない広範な用法があり、
見 られるわけだが、「
都市化」 は空間的 な 「都
しか も或 る明確な方向性を もつ意味があるか ら
市 という場」 に限定 されるのではな く、都市 を
である。
取 り囲む周辺の未開の地へ広 げ られることも十
現在古典期 ラテ ン語 の辞典 と しては、最良 さ
分 あるうる。 都市 は豊富な食糧 や水 などを確保
れている 『オ ックスフォー ドラテ ン語辞典』 の
し、交通網や情報網を整え るために、周辺の未
c
ol
o並 びにc
ul
t
us
、c
ul
t
ur
aの項 には、「土地 を
-1
2
8-
「
文明」と「
文化」に関す る予備的考察
耕す こと、作物 を育て動物 を養 うことやその方
物を育む大地への手厚 い配慮 とそれを実現 しう
法」 のみな らず、人(
或 いは人 の能力)の教育 や
る人間の 「
一定の営み (
世話 の仕方 )」 が色濃
訓練、身体 の手入れや管理、 身 を着飾 こと(
或
く認 め られ るか らであろう。 このような、作物
いは、着飾 った状態)、神聖 な る ものの崇拝、
の生育や実 りを もた らす 「
大地への人間の振舞
暮 らし向 きや生活 の水準 の洗練 、 (
友人 や尊厳
い方」が悠久の時間の流れの中で定 まるところ
さ-の)忠誠や献身 など、多様 な意味が掲 げ ら
に、農事暦が成立す る し、 そ して人間が 「いつ
れ、そ して第 1の意味 と して掲 げ られているの
何 をすべ きか」 という自らの振舞 いの指針 とし
「
人 間 が或 ると
は、「
農耕、耕作」で はな く、 (
ての暦 を持っ とい うことの中には、植物界や動
ころに)住 まうこと、居住すること」である(
1
4
)
0
物界、季節、天候、天体 などに関す る或 る理解
一見す ると、何か纏 ま りのない諸 々の意味を含
が当然前提 されているであろう(
1
5
)
。 それ は自分
んでいるよ うに見えるが、 ここには或 る基本的
と自分 の棲む世界が如何 なる世界であるかに関
な意味が全体 を貫 いていることを見て取 る必要
わ るひとつの世界理解、世界観 を持っ ことであ
があるよ うに思われ る。 それ は対象 となるもの
り、 それが一 つ の文化 を有 す る ことなので あ
が、土地であれ、その土地 に栽培す る諸 々の作
る (1
6)0
物であれ、 また様 々な家禽や牛馬 などの家畜で
しか しこれはやや先走 りの感があ る。 当面 の
あれ、或 いは自分 の身体 や 自分 自身や 自分 の生
「
文化」 とい う概念 と 「
文 明」 とい う概念 の相
活であれ、 さらには神的で神聖なる存在であれ、
違 をその原義 において確認す るとい う課題 に関
それ らに対 して 「
気 を配 り、気遣 い、配慮 し、
して は、 人間 の、 自己を含 む様 々な ものへ の
世話 し、手入れ し、大切 に扱 う」 とい うことで
「
配慮」 とい う一定の振舞 い方或 いは態度 に、
あ り、 またそ うい うものの リファイ ン (
改良、
「
文化」 の原義があることが示 せ れば満足 すべ
洗練、純化) とい うことである。
きなのか も知れない。
こうした、何であれ或 るものへの 「
気遣 いや
さてでは、 このよ うな 「
文化」 の原義 に対 し
配慮」 は、その ものの 「ため」 を想 うこころで
て、「
都市化」 としての 「文 明」 の原義 はどの
あ り、 その ものをその もの として完成 させ、一
ような ものであ り、文化 のそれと対比 させれば、
個 の存在 と して充溢す る働 き ・営みであると言
どのよ うに語 ることがで きるのだろうか。
うこともで きよ う。勿論 ひとっの言葉の意味や
自然の改変 としての文明 は、その改変 におい
原義だけを頼 りに して、多 くを引 き出そ うとす
1
7
)
。ひ
てい くつかの レグェルを持つ と言 われ る(
ることは確かに危険である。 しか し現在、われ
a)山を削 り取 って住宅地 を造成 し
とっには、 (
われ人間の、多様 で広範囲な営みを指 し示すの
た り、その土を使 って、谷を埋めて平地を作 り、
に用 い られて いる 「
文化」とい う言葉が、その
海辺 を埋 め立て陸地 を作 り出 した り、河川 に堤
原義 の場面 において も、単 に 「
農耕」 とい う意
防や堰を設 けた りして、 それまであった自然 の
味のみな らず、人間の営みの多様 な場面で用 い
形状 に変化を加え ることである。 われわれが 自
られ、 しか もそ こに、「ものへ の配 慮 や世話」
然の改変 として、 まず念頭 に思 い浮かべ るのは
とい うひ とつの統一的な傾 きを持 っていたこと
これであ り、それは 「
都市」 とい う場 に最 も集
は十分注 目に価す るし、「文化」 とい う概念 を
約的に認 め られ るものである。 しか し自然の改
考え る際 に、常 に念頭 に置 くべ きことだ と思 わ
b)鉄 や アル ミニ ウム
変 はこれには留 ま らず、 (
れ る。「
農耕」 とい うことが 「文化」 の原義 と
を鉱石か ら抽出 し精錬 し、 それを用 いて様 々な
して取 り上げ られるのも、単にそれが人間にとっ
ものを作製す るよ うに、 自然界 に存在す るもの
て食糧 の生産 とい うことのみな らず、作物や作
か ら、人間に とって役立っ新 たな ものを生み出
-
12 9
-
吉 田雅章
す側面がある。石炭や石油や天然 ガスなどを地
端的には 「田園 (
農耕 の地 )
」 と 「都市」 とい
中か ら取 り出 して、 エネルギーを も含 め、様 々
う、空間的に隔た ったところに典型的 に見 るこ
b)に当 た るで
な ものを生 み出す ことも、 この (
とも可能であるが、 この双方 の人間の振舞 い方
あろ う。
は、空間的に隔て られた場所 におけるものなの
われわれ人間の生活 の利便や快適 さや効率の
ではない。 われわれの現実 の世界 にあ っては、
ために自然 に手 を加 えてゆ く、 この 「自然 の改
この文化的要素 と文明的要素 は、密に結び合い、
変 としての文明」 を考え るとき、一層注 目 しな
相互 に他 を規定す るような関係 にあることを認
a)よ りは、 (
b)
ければな らないの は、 や は り(
めておかなければな らない。文明、つ ま り都市
の場面であろう。 とい うのは、 (
a)の 「自然 の
化 は、決 して都市 の中においてのみ進行す るの
形状 の改変」 もそれが素手や棒 きれによる場合
で はな く、例 えば先 に も述 べたよ うに、農耕が
には、大 きな改変 は行 いえないわけで、 よ り大
収穫 の量産化 と収益性、或 いは労働 の効率化を
b)
規模 に、 しか も徹底 して行 われ うるの は、 (
求 めて、濯概施設 を コンク リー ト化 し、人力や
の 「自然か らの抽出物 による製品」があ っての
牛馬 の代 わ りに機械 を導入 し、除草剤や殺虫剤
ことと考 え られ るか らである。 しか も、様々な
などの農薬を散布 し、工場にも似た巨大な どニー
ものを地 中か ら抽出す る場合、その ものは基本
ル- ウスの中で温度管理 を行 うなど、 いわゆる
的には 「
再生不可能」 なのである。 その点で、
近代化 してゆ くとき、現実 の農耕 は文化的要素
(
b)の 「自然 か らの抽 出物 によ る製 品」 は、
と文明的要素が交錯す る場 となるであろ う。 そ
「
疲れ知 らぬ大地が年 ごとに恵 み与 え る実 り」
して、収益性 と効率 とが過度 に求 め られ るよ う
とは決定的に異 なる。 それ故、 「自然 の改変 と
になるとき、「
農耕」か ら文化 的要素 が忘 れ ら
しての都市化」 とい う文明 は、第 3節での締 め
れか き消 されて、「
農耕」 が あたか も自然 を搾
括 りの言葉 を、 もう一度用 いなが ら言えば、 自
り取れ るだけ搾 り取 る人間の営み とい う様相を
然への依存 を限 りな く押 さえ、 自然 の脅威 を回
呈 して くることもあろ う。
避 しつつ、,
人間 の便利 さや効率性を追い求めて、
また これ とは逆 の場合 も十分 あ りうる。 これ,
「自然 を吸 い出 し、 自然をやせ細 らせなが ら」、
もまた先 に用 いた事例 を再度使 えば、鉄鉱石 な
自然 を改変 してい く人間の営 みであるとい うこ
ど自然 に存在す るものか ら、人間 に役立つ鉄 な
とにな る。 そ して これは、今指摘 された極 めて
どの素材 を抽出 す ることは文明の生 み出す働 き
重要 な点 で 「
文化」 の語源 とされた 「
農耕」 と
であるが、 このよ うに抽 出された鉄が、建築や
・
は、その向 きを異 にす る し、 「文化」 の原義 と
その他 の活動 の道具 と して、鍛冶 によって鍛 え
してわれわれが確かめた 「ものの存在への配慮
上 げ られて、飽、聖、鉄、包丁、刀剣等 の様 々
や気遣 い」 か らすれば、 そ こで追 い求 め られて
な利器 (
刃物) に加工 され研 ぎ上 げ られ、鉄 と
いる便利 さや効率 とは、確かに 「ひとつの気遣
い う素材 の持つ特性が刃物 の うちに最高度 に引
いや配慮」 と言えな くはないが、極 めて偏向 し
き出され るとき、 こうした刃物 を作 り出す人間
た観点か らの ものであろう。
の営みは、 いわば 「
刃物 の文化」 といった もの
を生 み出すであろ う。 これが文化 と言えるの も、
5 文化 と文 明の交錯
鉄 とい う道具の素材 に対する人間の振舞い方が、
このよ うな形で取 り出されて きた、 「ものへ
鉄 とい う素材 の秘 め持っ存在 その ものが輝 き出
の配慮 とい う人間の振舞 い方」 とい う 「
文化」
る程 までに、洗練 (リファイ ン) された一定 の
の原義 と 「自然的存在 を喰 い尽 くす とい う人間
営み となるか らであると考 え られ る。
文明」 の原義 は、確かに
の振舞 い方」とい う 「
-.
1
3
0-
以上 のよ うに、文明 と文化 とい うわれわれ人
「
文明」と「
文化」に関する予備的考察
間の二つの営 み は、 われわれの現実 の世界 の中
で、「文明」批評 の視点 と して の候補 とな りう
で は、相互 に密 に結 びっ き、時 にはその双方 を
るので はないか とい うことを除 いて は、 まだ何
選 り分 けることが困難 はど分 か ち難 く緩 りあわ
ひ とつ も明 らか には して いない.一体 「
文化」
せれ、縦糸 と横糸 と して織 り込 まれてい ること
とい う概念 が、「
文 明」批評 に と って、 さ らに
も多 いが、 しか しそれ 自身 と して別 の次元 の も
は 「今 日の地球環境問題」 に対 して、 どのよ う
のであることをわれわれ は十分承知 しておかな
な位置 を占め うるのか、 そ して よ り具体的 な内
ければな らない。
実 を どのよ うに与 えて行 けるのか、以上 の考察
を基 に して、地道 にかつ着実 に歩 を進 める こと
6 むすびにかえて
が私 の今後 に残 され る。
(
1
9
9
8年 8月31日 研究室 にて)
私 は、村上氏 の 「文化」 と 「文明」 を ともに
「
人為 に よ る 自然 の介 入」 と見 て、 「文化 」 と
〔
註〕
「
文明」 の概念 を連続的 に捉 え よ うとす る所説
を手 がか りと して、「
文化」 と 「文 明」 の概 念
」(
『講座
(
1
) 例えば、梅原猛氏は、「
農耕 と文明
が本来 どこに焦点 を結ぶ ものであ るかを検討 し
文明と環境』第 3巻、朝倉書店、1
9
95
) の中で、
て きたが、 この試 み は先ず 「
文化」 とい う概念
この 「
農耕牧畜文明」という言葉を用いなが ら、
を 「
文明」概念 の中に吸収 しよ うとす るのに対
「
地球環境の破壊 は農耕牧畜文明の成立 とともに
して、 これを阻止 し護 ろ うとす ることであ った
始まったといえる ・・・それゆえにこの間題を解
と言 えよ う。私 にはそ うす ることによ って、村
決するには、問題を農耕牧畜文明の成立の時点 ま
上氏 は唆昧 さや混乱 を排除 し、 む しろ彼 の目指
で引き上げ、そこか ら問題の解決の方向を探 らな
した 「
文 明批評」 の意図 はよ りよ く遂行 しえた
ければならない。地球環境破壊の問題は、文明そ
ので はないか と思 われ る。 とい うのは、文明 と
のものの成立と深 く関係 している」 と述べている
文化 の基本的 な相違、或 いは目指 し向か う方向
が、「
農耕牧畜文明」 というこの言葉によって、
の異 な りに注 目す る ことに よ って† 彼 の言 う
一体何が指 し示されているのか、私 には直ちに理
「
文明の持っ普遍化 への意志」 あ るい は 「文 明
解できない。 換言す ると、 この言葉によって、
の攻撃性」 は、少 な くとも自然 に対 して は、文
「
人間が自然との関わ りのなかで、 どのように生
明が何故 そ う した性格 を持 っのかを もっと正確
きている状態を具体的に想い法べ、想い描 けばよ
に説 明 し得 た と思 われ るか らであ り、 さ らに言
いのか」が分か らないのである。 梅原氏の後の論
えば、 そ うい う 「文明」批評 の視点 と して 「文
述を見ると、環境破壊の原因とされた農耕牧畜文
化」 とい う視点 を確保 しえたか も知 れないか ら
明について、特に強調されるのは、耕地拡大のた
であ る。
めの森林破壊であり、さらに耕地拡大が生み出す
しか し、 もし 「文化」が 「
文 明」批評 の視点
余剰の盲による都市文明の誕生である。 農耕が森
と して そ の位 置 を確保 で きる と した ら、 そ の
林破壊の主たる原因であるか、また耕地拡大 によ
「
文 明批評 の視点 と しての文 化」 は、 われ われ
る余剰の富が都市文明を成立させた原因か、私に
にとって は一体 どのよ うに確立 され うるのか.
は、歴史学的 ・考古学的観点か らして も、事柄そ
そ してそ こにどのよ うな内実 を与 え ることが可
のものから見てみても、大きな問題を含んでいる
能 なのか。 われ わ れ は 「文 化」 とい う概 念 が
ように思われるが、 その点 は今 は措 くとして、
「
文明」 のそれ とは異 な って、 わ れわ 叫 自身 と
「
農耕牧畜文明」 に与え られる内実が 「耕地拡大
われわれの棲 む世界への眼差 しを持 ち、 それ ら
のための森林伐採」 というのでは、いかにも貧弱
への配慮 す るわれわれの振舞 いの洗練 とい う点
であり、或いは殆ど無内容 (
空虚) と言わざるを
-1
3
1
-
吉 田雅章
得 ない。
では明 らかではない。私 は、村上氏 の狙 いが何処
(
2) 諸橋轍次 『
大漢和辞典』 (
大修館、第 5巻) に
にあるのか ということとは別 に、その叙述 の言葉
よれば、 漢語本来 の意味 と して は、 「文 明十 は
に従 う限 りで、(
a)の段 階 に 「採取 や狩猟」 を当
「
文采があ り、光 り輝 くこと、徳や教養 があ って、
て、(
b)の段階に一旦 「
農耕」 と 「
文明」に当て、
立派な こと」、「
文化」 は 「
刑罰を用 いないで人民
それぞれの要素 は向 きを異 にす るもの と して扱 う
を教化す ること」 という意味の言葉であ るので、
ように した。 ただ彼が 「
農耕」 を問題 にす るとき、
訳語 としての 「
文明」「文化」 とはその まま重 な
それを 「
狩猟や採取」 と対比 させて いないの はや
らない。
はり不具合である。
(
3
) 村上陽一郎 『
文明のなかの科学』 (
青土社 、 1
9
(
6) 勿論、村上氏 は 「文化」 と 「文 明」 概念 をた
9
4)
。村上氏が 「
文明」 と 「文化」 の概念 を説 明
だ接続 しているのではな く、或 る文化 が 自然 と他
す るのは、 この第 4章の 「
文明の矛盾」であるが、
の文化 に対 して攻撃性を持つ場合、それは 「
文明」
彼 はその 「あとが き」 で、 「正面切 った文明論 を
となるという仕方で、「文化」 と 「文 明」 を区別
試みたわけではない」 ことを断 りなが らも、 「文
しているわけである。 しか し村上氏 の この区分 を
化を文明 と対比 させたとき、文明という概念が もっ
仮 に認めるに して も、重大な問題が残 って いる。
ている受 け容れ難 さが何であるのかを、 解 明 した
それは或 る文化が、他の文化が持たない、 自然 と
いと思 って きた。本書 を貫 くライ ト・モテ ィー フ
他の文化への攻撃性を如何 に して持つのか、 その
とで も言 うべ きものは、 その問題意識 であ る」 と
攻撃性 はその文化の何 によって生み出 され るのか
述べているので、 この書を村上氏の文 明論 の展開
が示 されていないという点である。 その点 が示 さ
と見 て も間違 いはない と思 う。 私 は、 この村 上
れなければ、「
攻撃性」 とい う性格 づ けによる、
「
文明論」 に様々な問題 が あ ると考 え るが、 そ う
村上氏の 「
文明」 と 「
文化」の区分 は、 少 しも有
した問題 はなかんず く、その出発点である 「
文明」
効な ものとはな らないと考える。
と「
文化」の概念の理解の唆味 さに起因 して い る
なお、 この 「
文明」 と 「
文化」 の区分 に関連 し
と思われる。「は じめに」 で述 べ たよ うに、 こう
て、村上氏 は、「日本文明」 とい う言葉 は、 今 日
した風潮 は村上氏 に限 らず一般的に見 られ る傾 向
意図的にそうした用法を推進 しようとす る、 ご く
なので、村上氏の所説を手がか りに した次第 であ
一部の人 々を除けば国際的に も国内的 に も存在 せ
る。
ず、 この 「日本文明」 という語が存在 しないのも、
(
4) ここには二つの意味 で 「人為」 が あ る ことを
第 2次大戦中の一時期 を除 いて は、 日本 文 化 が
押 さえておかなければな らない。 ひ とつ は言 うま
「
普遍化」への意志 と、 その達成 のための装置 と
で もな く、農耕地を開墾す るという意味 での人為
をひっさげて、他の諸文化を支配 しよ うと した こ
であるが、 もう一つの人為 は、栽培 す る植物 を野
とがほとんどなか ったことの結果 と述べて (
p.
8
2
-
生種か ら、栽培や貯蔵 に適 した作物へ と品種改良
8
4
、p.
2
3
1
1
3
2も参照の こと)、彼 の区分 のひ とつ
す る面である。 この意味での人為 も農耕 の成立 に
の根拠 に しようとしているが、そ こには重大 な歴
とって重要 なことである。
史誤認がある。 それを進出 と呼ぼ うと、 侵略 と呼
(
5) この(
a)と(
b)とは、村上氏がp.
789で 「
人間の
ぼ うと、村上氏の言 う 「
普遍化-の意志」 を持ち、
自然か らの自立」 と題 して述べていることを、 簡
しか もそれを実行 に移すだけの 「
社会 的 な制度 や
単 に整理 して利用 させ て も らった。 彼 が (
b)杏
機構」 をひっさげて、 日本が朝鮮半島、 台湾、 大
「
文明」 の段階 と考 えて い ることは明 白に読 み取
陸-向か ったのは、既 に明治期以来のことである。
れ るが、では(
a)を一体如何 な る段 階 に応 じる も
この歴史認識 に立てば、 彼 の意 に反 して、 「日本
のとして叙述 しているのかは、本文 を読 むか ぎり
文明」 という言葉 は立派 に成 り立っ ことになる。
-1
32-
「
文明」と「
文化」に関す る予備的考察
(
7) 確かに村上氏 は、「
農耕 は半 ば以上 自然 によ っ
て違 っていると指摘 しなが ら、考古学者 ピー タク
て管理 されている ・・・育種学が進歩 し、 人為淘
の次 の 9項 目にわたる規準を示 し、 この規準 を概
汰が行われて も、穀物や野菜 は自然 の撃肘 の外 に
ね評価 している。 Q)
高密度 の居住 (
1
haあた り 5
はない。土地 も気候 も、人間 に支配 され、 管理 さ
人以上、人 口2000人以上)、 ② コ ンパ ク トな居住
p.7
7
)と述 べて、 農耕 とい
れ る部分 は少 ない」 (
形態、③非農業共同体、④労働 ・職業 の分化 と社
う人間の営みが 自然の脅威 に晒 されて い る ことを
会的階層性、⑤住み分 け、⑥行政 ・裁判 ・交易 ・
認 めているが、彼 はそれを農耕 にいそ しむ人 間 に
交通 の地域的中心、⑦物資 ・技術 の集 中、 ⑧ 宗教
とっての 「おのの きや畏敬」ではな く、 人為 によ
上の中心、⑨避難 ・防御の中心、
、 とい うのが それ
る自然への介入 の不徹底 さと捉 えてい る し、 また
である。 この うち、川西氏 は現代都市 で は⑧ と⑨
そ うした自然の脅威 の中での、人間 の農耕 とい う
の継承 を放棄 したと指摘す る。 ⑧ につ いて特 に異
労働-のひたむ きな傾倒 を一切記述 していない。
存 はないが、⑨ に関 しては、川西氏 は 「避難」 と
(
8)
「不徹底 な介入か、徹底 した介入 (
管理) か」
い うことを戦争 の場合を念頭 において考 え、 これ
とい う言葉 に関 して は、前註 の村上氏 の言葉 とそ
を排除 しているわけだが、私 には、川西氏 とは別
れに続 く言葉 (
p.
77
8)を参照 されたい。
の意味ではあるが、現代都市 において もなお、 都
(
9
) 私 はここに も村上氏 の蹟 さの原因 が あ るよ う
市が都市であることの最 も重要 な意味 は 「自然 の
に思 う。 とい うのは、 「農耕 」が 「自然 に対 す る
脅威か らの避難、回避、防御、脱却、逃避」 にあ
人為の働 き掛 け」 その もの と彼 に捉 え られて いた
ると考 える。 それはまさに 「
都市化」 の根底 に横
か ら、「
都市化」 とい う 「人為」 をその上 に連続
たわ っていることなのだか ら。歴史学 的 な観点 か
的に繋 いで しまい、「都市化」 とい う 「人為」 が
ら 「都市」 を問題 にす る場 合 に も、 「都市化」 と
何であるかを説明 しないままに して しま ったか ら
は何か との視点が是非必要であると思 われ る。
都市化」 と 「
農耕」とは、 それぞ
である。 彼が 「
(
1
2
) 流通機構 を含む経済機構 の 「都市化」 に果 た
れ 「
如何 なる人為か」 とい うことを正確 に説 明 し
す役割 は、政治体制のそれ と並んで極 めて大 きい
よ うと していた ら、彼 はそれぞれの 「人為」 の差
と言わなければな らないが、当面の 「文化 と文 明
異 に気づ いた ことであろ う。 おそ らく村上氏には、
の相違」 という問題 に関 して は、大 きな影響 を及
歴史的事実 として 「農耕」 の次 に 「
都市化」 が来
ぼさないと考えたので、今 はその問題 を外 し、 そ
るとい う捉 え方があ り、 「人為」 は 「農耕」 の部
の こと自身を検討す ることは今後 の課題 としたい
分で説明 した との思 いがあ ったので はないだ ろ う
(
1
3) 原義か ら考える限 り、「
文明」即 ち 「都市化」
。
(
c
i
vi
l
i
s
at
i
on)という言葉 は、 「都市化 す る、 都市
か。
にな ってゆ く」(
c
i
vi
l
i
s
e
)の名詞形である以上、 そ
(
1
0) 無論都市が 自然の脅威、例えば地震 や火 山の
噴火や風水害 に見舞われ ることはあるに して も、
c
hange
)や進歩 ・進展 (
pr
0の中に絶えざる 「変化 (
それは 「
都市 の弱点 の発見」 として、 む しろ案外
gr
e
s
s
)
」 の概念 を本来的 に含 んで い る ことに留意
な こととされ るのは、普段都市がそ う した 自然 の
しておかなければな らない。
(
1
4) Gl
ar
e
,P.
G.
W.(
e
d.
);0Ⅹf
o
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d Lat
i
n Di
c
-
脅威か らの離脱 の場所 と見 られてい るか らで あ ろ
t
i
onar
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o
r
d,1
9
8
2.
のc
ol
o(動詞) の項 を参
う 。
(
ll
) 何 を都市 と呼ぶか、即 ち都市 と非都市 の区分
ul
t
us
およびc
ul
t
ur
aは、 こ
照。 なお、上 に掲 げたc
に関 しては歴史学的観点か らす ると、 その規準 は
ol
oに男性 名詞
の辞書 によれば、それぞれ、動詞 c
必ず しも明確ではないよ うである。 例 えば、 川西
t
us
、女性名詞化 の接尾辞 で あ
化 の接尾辞である-
『講座
宏幸 「
都市 と文明」 (
るur
aをっ けた ものである。
文明 と環境』第 5巻、
朝倉書店 、1
9
9
6
) は、研究者 の立場 や関心 によ っ
-1
33
(1
5) 西洋文学 の伝統 の中で、最古 の文献 で あ るホ
-
吉田雅章
メロスの作品 と並ぶ- シオ ドスの 『
仕事 (労働、
哲学序説』 (
講談社学術文庫、 1
9
93、p.
30
5
)の 4
農) と日々』 には、 この農事暦が記 されて い る
つの分類 を参考 に し、議論 の コンテキ ス トに応 じ
農作業 に もつ農事暦 の重要性、及 びそ う した農事
て、 その分類 を二つに絞 った。 今道民 が この 自然
暦がへ シオ ドスにおいて、叙事詩 とい う文学作 品
の改変 に関 して、 「技術 のつ なが りと して成立 し
に洗練 されてゆ く様 に関 しては、学生 時代 に次 の
た技術連関 とは何か。一般 には、 それ は機械 的 な
書 に教 え られた記憶がある。 久保正彰 『ギ リシ ァ
製品でで き上が っている道具連関であ る と思 い、
5
5
、1
9
7
3
)
0
思想 の素地』 (
岩波新書8
鉄、軽金属、 あるいはプラステ ィックな どで成立
。
(
1
6) われわれ は第 2節 にお いて、 「農耕」 とい う
していると簡単 に考え るが、鉄 などの素材 は、 前
概念が成立す るには、 そ こに既 にい くつか の概 念
述 のように、 自然か ら抽 出されてで きるので あ る
が前提 され る必要があることを指摘 しておいたが、
か ら、単 に算術的 に考 えただけで も、 人 間 は技術
ここでその前提 にはさらに多 くの ことが含 まれ る
連関の素材 を自然か ら吸 い出 してい るので あ るか
ことを付 け加えなければな らないだろう。 「農耕」
ら、 自然 はそれだけやせ細 っているはず なので あ
とい う概念 の成立、 そ して 「
農耕」 とい う人 間 の
る」 と指摘す る際、 「素材 を 自然 か ら吸 い出す」
生活形態 は、 自己の存在 と自己を取 り巻 く世界 へ
と 「自然 はそれだけやせ細 っている」 とい う言葉
の理解 とい う意味での一つの文化 を前提 に して い
使 いは、資源の枯渇 とい うよ うな言葉 よ りも的確
るのである。
であると思 うので、使用 させて もらった。
(
1
7) この改変 の分類 について は、今道友信 『自然
(
1
9
9
8年 8月31日受理)
-1
3
4-
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