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日本における
平成21年 日本における 美術文化財保存と博物館美術館教育 一岡倉天心の構想と現在をめぐって一 教科・領域教育学 専攻 芸術系 コース M08208E 範 静 目 次 序: 第1章 岡倉天心と同本の美術 3−11 第1節 古社寺調査の経験 3−8 第2節 美術教育への関心 8−11 第2章 岡倉天心と博物館美術館の構想 11−21 第1節 美術館の目的と機能 13−16 第2節 美術館の組織と人員構成 16−18 第3節 美術館の教育 18−21 第3章 一 目本の博物館美術館の現状と特性 21−30 第1節 保存・修復と展示の性格 23−26 第2節 美術館における教育活動 26−28 第3節 第4章 「貸館」制度 目本の博物館美術館の課題 28−30 31−39 第1節 文化財保存の問題 31−32 第2節 展示の問題 32−36 第3節 教育活動の問題 36−39 結: 39 参考文献 40 付録 40 岡倉天心の活動(略年譜) 4! 44 京都国立博物館組織図 京都市美術館ワ]クショップ「あなたも画室の栖鳳!下絵に挑戦」現場写真 44−46 序 筆者の母国でもある中華人民共和国では、近年、美術館や画廊の数が段々増えてきた。特に美 術館は、国の文化を示す一番重要なところだと見なされ、新しい美術館が相次いで建設されてい る。また、公衆教育が重視されるにつれて、中国では、美術館に対する関心や興味が高まると同 時に、美術館の展示や教育活動をどのようにするのか、その拡大強化や改良が求められ始めてい るように思われる。 中国の美術館の現状については、多くの問題がある。例えば、展示の作用しか発揮していない、 関連の研究と論著にまだ乏しい、などである。日本では今1,000館を超える多種多様な美術館が あるが、その制度は明治時代に始まり、時代と共に変化してきた。その幾つかの主要な美術館の 例の発展過程や運営の制度と実情を研究して、特徴や問題を見極めることで、日本における美術 館の経験を、中国の美術館の将来のための参考にするべきだ」と考えられる。 「美術館」という語は、現代の日本語ではありふれた言葉になっているが、博物館法の法文に は見当たらない。博物館法にもとづくと、「美術館」は博物館の一種で、美術系博物館を指すので ある。ただし、現存の資料を見る限りでは、岡倉天心の論述の中には、「美術博物館」のほか「美 術館」という言葉遣いが登場する。岡倉天心が、日本における美術館の創成期にあって、どのよ うな考えを抱いていたかは、日本の美術館制度の特徴を考察する上で、重要な手がかりとなるだ ろう。 そこで本研究では、日本における美術館の創設期に重要な役割を果たし、日本の美術教育や美 術の振興と保存に尽力した人物で、「日本美術の父」とも評される岡倉天心(文久2年[1863コ年 一大正2年[1913コ年)を手がかりとして、日本における美術館のあり方について、京都にある 日本で最も古い国公立博物館美術館の例を整理しながら考察を進めた。 岡倉天心の主要な業績としてよく知られているのは、古社寺調査・欧州視察・東京美術学校と 日本美術院の設立である。だがこうした業績に加えて、天心は、多様な活動の経験をもとにして、 さまざまな視点から、美術館が必要とされる理由を論じ、美術館の施設や機能、目的を論じ、日 本国内各地の博物館の確立に貢献した。彼は、美術品の保存や「美術館案内制度」に幾つかの提 案をおこなうなど、美術文化財の保存や美術館における教育のあり方についても言及している。 このような主張に至る理由と、その影響はどのようなものであったかを、本論では検討・考察し、 さらに、時代を超えて現在においても参考になるところを再発見・再評価したい。 日本の各博物館美術館は、これまでの閉鎖的な美術館のイメージから脱却し、公衆の生活に密 着した活動を始めつつある。学校での美術教育が減少・削減される傾向にある現在、生涯学習の 場としてだけでなく、博物館美術館の重要性がかえって高まりつつある、ということもできるだ ろう。 美術品の保存・修復から、美術品の展示、美術品に関する教育の問題、特に日本の美術館の貸 館制度などの遠景には、岡倉天心の当初の構想と、その後の相関する法律、美術館博物館の組織 制度の展開がある。明治期以来、日本の博物館美術館が独特の発展を遂げるとともに、今もなお、 幾つかの問題や課題を抱えていることは理解できるが、それらをこれからどう解決するのか、ど のような方向や位置付けに向かうのかは、大きな課題であるだろう。 第1章 岡倉天心と日本の美術 岡倉天心は江戸幕末の文久2(1863)年、横浜に生まれ、大正2(1913)年、新潟で病気により 亡くなった。本名は覚三(かくそう)。幼名は覚蔵あるいは病蔵。後に咽倉天心」と名乗ること になる。 「天心」は雅号である。明治19年25歳のとき『東京目目新聞』に掲載した批評文「東洋絵画 共進会批評」で「天心生」の号を用いたのが最初のようだ。後世のでは「岡倉天心」の長良く知 られるが、天心自身としては、普段はよく「覚三」を使っていた。一般に「岡倉天心」と言われ るようになったのは、天心が亡くなった大正2年の後のことだと見られる。 天心の父、岡倉覚右衛門は、福井藩士として、藩命により横浜で藩の特産品である生糸や絹袖 (きぬつむぎ)等を扱う貿易商「石川屋」を営んでいた。海外との取引の中心地であった横浜に 生まれた天心は、父の影響で明治2(1869)年、8歳で英語を習い始めた。 明治4(1871)年、10歳のころから漢籍を学びつつ、英語も勉強し続けている。明治6(1873) 年、天心は東京外国語学校に入学。明治8(1975)年、東京開成学校に進学する。翌明治9(1876) 年には、15歳で女流南画家奥原晴湖1に師事し、南画を学んでいた。明治!0(1877)年の学制 改革により、東京開成学校と東京医学校が合併して東京帝国大学(現在の東京大学)となると、 !6歳の天心は、東京帝国大学文学部の学生として、政治学や理財学一現在の経済学・商学一を学 ぶことになった。明治11(1878)年、森春涛(もりしゅんとう)2に師事し漢詩を学ぶ。同年、 加藤桜老(おうろう)3に琴を習う。明治12(1879)年のころ、正阿弥4に茶道を学んだことも あったようだ。 比較的恵まれた家庭の出身で、早期に英語の教育を受け、西洋のみならず、東洋の伝統文化に も親しみ、多感な青少年期を過ごした天心は、伝統文化に対する理解が深かった。だからこそ、 後に、世界に向けて日本の魅力を伝わることができたといってもよいだろう。 卒業論文は当初「国家論」を執筆したが、原稿を焼失したため、明治13(1880)年7月、卒業 論文「美術論」を書いて東京帝国大学を卒業した。この頃は「覚三」と名乗っていたらしい5。 第1節 古社寺調査の経験(フェノロサとの出会い): 明治13(1880)年8月、大学卒業直後の岡倉天心は、フェノロサの通訳として京都・奈良の古 社寺を訪問した。 アメリカ人ア」ネスト・F・フェノロサは明治11(1878)年、アメリカの生物学者で既に来日 していたエドフ」ド・S・モース 6の紹介で、アメリカから来日した。フェノロサは、明治政府 のいわゆる「お雇い外国人」7として東只帝国大学文学部に勤め、哲学のほか、理財学・政治学 の講義を担当した。来日する前、彼は1870年に17歳でハーバード大学に入学、哲学を専攻し、 美学や芸術理論をある程度心得ていたほか、1877年には24歳でアメリカのボストン美術館に設 奥原晴湖:天保8(1837)年一大正2(1913)年、江戸幕府から明治期の画家。 森春涛:文政2(1819)年一明治22(1889)年、江戸幕末から明治期の漢詩人。 加藤桜老:文化8(1811)一年明治17(1884)年、幕末維新の常陸笠間藩士、儒学者。琴の名人。 正阿弥:生没年不詳、幕末有名な茶人。 岡倉天心の生涯・年譜および著述に関しては主として以下の文献を参照した。岡倉天心著『岡倉天心全集』、安 田較彦・平櫛田中監修、隈元謙次郎・岡倉古志朗・木下順二・河北倫明・橋」I1文三編集、全8巻、平凡杜、1979 −1981年。 エドワード・S・モース:1838−1925、大森貝塚の発見者 「お雇い外国人」:幕末以降明治初期に、「殖産興業」などを目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入 するために雇用された外国人をrお雇い外国人」と呼んだ。 立された絵画学校で油絵とデッサンを学んだ経験をもつ。その時からすでに、美術品に高い関心 を持っていた。いっぽう、岡倉天心は東京帝国大学でフェノロサの講義を受講した学生達のひと りであり、通訳としてフェノロサを助けることになる。 フェノロサが来日した当時の日本では、「お雇い外国人」のあいだで日本の美術品を集めるのが 流行していた。アメリカの美術蒐集家ウィリアム・スタージス・ビゲロー 8は、1883年の手紙 の中で、次のように述べている。 「1868年維新以来、価値ある美術品が大量に市場にでたのは、二つの原因による。一つは、 経済的に逼迫した貴族層が値段の見境なく売り出したから、もう一つは日本人の間に突発 した外国崇拝マニアである」9。 幕末から明治維新にかけての政治的な変化と混乱は、武家・士族階層の経済的貧窮を招き、貴 重な美術工芸品の売却が進んでいた。また、欧米列強の国々から来日した外国人にひれ伏すかの ようにして、日本人が価値のある美術品を比較的安価に譲り渡すことが少なくなかったのである。 また、近世以降江戸時代までは、社寺の財宝として、あるいは町衆文化や農村文化の産物として、 さまざまな有形の文化遺産が伝承・保存されていたが、明治元年(1868)年の「神仏分離令」1oに 始まって、明治3(1870)年に出された詔書「大教宣布」、明治4(1871)年の「上地令」により、 収入を絶たれた仏教寺院の経営は逼迫し、とくに仏教美術品の売却が進んだ。「神仏分離令」や「大 教宣布」は、江戸時代までの「神仏習合」による仏教と神道の混交から両者を分離し、神道を国 家の宗教とみなす法令である。「神仏分離令」は、急速に「廃仏殿釈」へ向かわせる要因となって いる。明治政府のとった神道の国教化・祭政一致の政策は、仏教寺院の建物施設や仏像など、仏 教美術工芸品の軽視や破壊を招き、庶民のあいだでは「廃仏殿釈」の動きが流行するに至ってい た。そのため、過剰な破壊を恐れた明治政府は、明治4(1871)年に「古器旧物保存方の太政官」布 告を発し、全国の宝物の調査を命じたのだった。 明治維新後の日本は、なかば盲目的に西洋文明を崇拝した。最初の国立の美術教育機関である 「工部美術学校」は、明治9(1876)年に西洋美術教育のみで発足し、設置された学科は「画学 科」r彫刻科」の二科だけであった。つまり、当時の日本人が考えた“美術”や“勢術”とは海外 の絵画や彫刻であり、江戸時代の庶民に好まれた浮世絵に芸術的価値を見出す者はほとんどいな かったし、また他方、狩野派、土佐派といった古来の日本の代表流派の絵画などは旧弊なものと みなされた。明治最初の約10年間、このような状況のもとで、・伝統的な日本美術は一時的に存続 の危機に陥るのである。 その数年後、明治11(1878)年に来日したフェノロサは;日本古美術の蒐集・鑑定のため、自 ら積極的・系統的に日本の美術を見て廻り、経験を重ねることで、独自のすぐれた見識をもつよ うになる。その結果、フェノロサは明治13(1880)牛、文部省に委任されて、数回にわたる古社 寺調査を行なうことになった。このとき、岡倉天心はフェノロサの通訳として古社寺を訪れてい る。その後天心は、明治15(1882)年に文部省内記課兼務となり、文部少輔九鬼隆一の随行とし て京畿地方の古社寺を訪れた。文部省は、明治17(1884)年頃から内記課兼務の岡倉天心に古社寺 調査を数回命じており、フェノロサはその頃から、顧問として参加している。なお宮内省も、明 日ウィリアム・スタージス・ビゲロー:1850−1926、医師、モースの知り合い。日本の文化や伝統をこよなく愛 し、日本の美術品を多く収蔵した。1万数千点にのぼる彼のコレクションは、1911年ボストン美術館へ寄贈さ れた。 9http://ww.photo−make.co.jp/hm_2/ma_23.htm1を参考(2009年7月)。 m 「神仏分離令」:正式には神仏判然令。慶応4年3月13目(1868年4月5日)から明治元年10月18目(1868 年12月1目)までに出された一連の通達の総称。 治21(1888)年から明治30(1897)年までの間、九鬼隆一 11を委員長とする「臨時全国宝物取調局」 を設置し、岡倉天心を取調掛に任命しており、文部省と宮内省の両者は協力して全国の古社寺を 中心とする宝物の調査を行った。さらに、明治29(1896)年、九鬼隆一を委員長とする「古社寺 保存会」が設置され、天心も委員に任命されている。天心の古社寺保存に関する活動は病気で死 去するまで続いた。 フェノロサの通訳・助手として古社寺調査に同行した岡倉天心は、有能なパートナーとして認 められると共に、フェノロサの影響を受けたと考えられる。また、九鬼隆一は古社寺調査を通じ て天心のことをよく知っていたとみられ、後の帝国博物館で協働することとなった。古社寺調査 の活動経験を通じて、フェノロサや九鬼に出会い、色々な影響を受けた天心は、自ら自分の国の 美術を見直し、そして重視しはじめたと考えられる。 実際の古社寺調査手録12は、各寺社仏閣ごとに、どのような美術品をどの建物内に安置・保管 しているかを列挙するもので、目録に近い。だが、実見することにより、仏像その他、多くの美 術品が経年経過による摩滅や損傷にさらされ、なかば放置されていることが痛感されたに違いな い。 この調査によって京都や奈良の古社寺に収蔵されていた宝物の全体像が判明していく過程と並 行して、明治政府は東京帝国博物館(明治22日1889コ年)、奈良帝国博物館(明治28[1895]年)、 京都帝国博物館(明治30[1897コ年)を設置・開館させた。なお、先に述べた「古社寺保存会」の 設置の翌年、明治30(1897)年には、当時のイギリス・フランスの文化遺産保護制度も参考と.して 「古社寺保存法」が制定された。これは日本における文化遺産保護制度の原型ともいうべきもので ある。 この時期に僅かに先行する形で、天心はr美術品保存二付き意見」を執筆(明治19年)、その 直後に欧州視察旅行へ発ち(同年10月)、帰国後まもなくのちの文部大臣となる井上毅に提出し ている。また、別の原稿「博物館に就て」は、明治21(1888)年5月から始まった九鬼隆一を団 長とする近畿地方調査の期間中に、調査団内で開催された演説会で天心が行なった講演の原稿で ある。 このような天心の文化財保護に関する綿密な調査活動、海外渡航経験に基づく優れた見識は、 r美術品保存二付き意見」(明治20年)やr博物館に就て」(明治21年後半以降)、そして明治 30年公布された「古社寺保存法」に反映されていると考えられよう。以下に、これら3つの原稿・ 法律の内容について検討し、相互に比較しておこう。 ■「美術品保存二付き意見」 「美術品保存二付き意見」の執筆時期は「岡倉天心が明治19年4月から6月、及び7月に京阪 地方の古社寺調査をおこなったあと、10月に欧州視察旅行へ発つまでの間」であり、当時宮内省 内に設けられた図書寮の初代「図書頭」であった井上毅一のちの文部大臣一のために書かれた13と 推定とされている。 冒頭、「京都奈良高野ナラビニ滋賀県ノ諸寺院二就キ絵画彫刻等考究ノ際 最モ小生ノ注意ヲ喚 起シタルハ美術保存ノ方法号ナリ」の一文で始まるこの手短な原稿において、天心は古美術保存 の必要性や、保存に関わる制度的な手法について説明し、調査した諸寺院の美術品の目録 寺 院名称、境内各建物名称、美術品の名称、作者名、材質形状、件数を整理して示す一を添えた。 11九鬼隆一:嘉永3(1850)年一昭和6(1931)年、明治13年に文部少輔(現在の文部省事務次官)、明治20年 に宮内省の図書頭、明治22年に帝国博物館(現・国立博物館)初代総長などを務めた。 12 テ社寺調査手録:『岡倉天心全集』第8巻。 13 @『岡倉天心全集』、第3巻解題解説、p.486. 5 つまり、古社寺調査の結果報告書としての性格を帯びる原稿であるが、とりわけ興味深い点は、 「保存の方法」を、以下のように二種に分けて説明している点である。 第一は、「地方庁ヨリ寺院二就テ保存スルコト」。 第二は、r宮内省ニテ美術品ヲ採集スルコト」。 天心は美術品の保存について、地方行政と国家行政に分けて、美術保存の取り組みを進めるべ きだと考えていた。地方の役所を通じて、寺院とその美術工芸品を、その所在地のままで、現地 保存するように指導や管理をする。文部省ではなく「宮内省ニテ美術品ヲ採集スル」とは、つま り、明治政府のなかでも天皇に直結する有力政庁であった宮内省の権限で、重要な美術品を集め て管理・保存する、ということであろう。宮内省が一ヶ所に多くの美術品を集める、という第二 点目の構想について、天心はさらに詳しくその考えや理由を説明している。 「第一 美術品ヲ最多数ノ人民二示シ全国二禅益シ海外二名誉ヲ得 第二 日本美術ノ全局ヲ示シ考究ノ便ヲ与へ 第三二[原文ママコ充分二保存修復スヘキ資力井二権力アリ 第四 宮内省ニテ採集スルトキハ他省等二比スレハ容易二曲晶スヘキヲ以テ最モ適当ノ方法 ナルヘシ」。 ここで分かるのは、まず、美術品は、より多くの人々・国民が鑑賞できるように展示する必 要があり、しかも、そうすることによって、日本という国の伝統文化の価値を外国にも知らせて、 名誉を得ることが重要だ、という考えである。次に、r考究の便を与え」るため、研究者に展示品 やその資料を十分に提供する必要がある、と考えているようだ。このような展示の活動や研究の 興隆をはかるためには、第三の項目として、美術品の蒐集や保存修復には、十分な予算と「権力」、 すなわち行政上の制度の充実や強力な運営体制が必要となる。そこで第四では、天皇に関わる「宮 内省」の権限で美術品を収集・展示するほうが、他の省庁よりも「容易二出品」させることが可 能である、と述べる。当時の文部省ではなく、宮内省あるいは天皇の権威を借りたほうが、全国 の社寺から優れた美術品を提供・出品させ、博物館で保存修復や展示をおこないやすい、という のが天心の構想であった。そこには、明治初期の政府と社会の実情に即した現実的な判断が読み 取られるだろう。天心は、美術品の保存修復と展示の両方を重視し、その実現をはかるために、 より有効な制度の整備を検討していた。 ■「博物館に就て」 「博物館に就て」は、明治21(1888)年5月から始まった九鬼隆一を団長とする近畿地方調査 の期間中に、調査団内で開催された演説会で天心が行なった講演の原稿である。冒頭段落におい て、天心は「博物館の機能」について説明する。 「博物館の要用なるは之れを三点に分ちて、(甲)保存の点と、(乙)考究の点と、(丙)都府 の盛観となすべし。」 すなわち、美術品を集めた博物館が重要であるのは、美術品の保存と研究とを進めるとともに、 首都東京などの都市のイメージを高めるためである、ということである。 その委細を説明する際、天心は、まずr保存」についてr過去をしらざれば現在に活用せず将 来に波及せず」と述べ、美術品を保存して研究をする重要性を強調している。 次に、博物館に美術品を集めて「考究」することの理由については、次のように述べる。「第一 には一般就観の便」、「第二には専門家の便」、「第三には公衆の便」に利するからである、と。す なわち、美術品について鑑賞や研究をすすめる場合、美術品が各地の寺院に散在するよりも、博 物館にある程度集成されている方が、概観や比較のうえでも便利でありより効果的である、外国 人はもとより日本人にも便利だ、ということだ。 なお、天心はここで、博物館を訪れる人々を外国人・専門家・一般の人に分けて考えていたよ うだ。記述の詳細な内容を見ると、「一般就観」の部分のほとんどは、外国人が日本美術を鑑賞す る場合を論じるのである。明治初期に来日した外国人には、フェノロサのように教養のある美術 愛好家が少なくなかったが、彼らが日本美術を実見するためには、日本各地の社寺や骨董美術簡 を訪ねて廻るしか手立てがなかった。天心は、おそらくフェノロサから、欧米諸国の博物館美術 館に相当する施設が日本にも必要である、という考えを学んだとみてよいだろう。 現代に換言するならば、天心は、美術館教育の対象を外国人観覧客・専門家・公衆の三つに分 けて考えていた、ということになる。天心が「外国人」という視点を強く意識していたことは、 実に興味深い。日本の伝統的な美術文化を、博物館を通じて外国人に示すことは、日本の美術文 化に対する理解を促す。また、欧米諸国による帝国主義・植民地支配という同時代の国際的な政 治状況のもとでは、博物館を通じて自国の伝統的な美術文化を保存し、それを「外国人」に示す 必要があったのだということも出来るだろう。 岡倉天心は「保存」について、研究と教育に重点を置いて説明している。そなわち、天心によ ると、美術品を保存する目的は、ただの破壊を防ぐことではなく、研究と教育のために保存する、 ということである。そして、後者は前者よりもっと重要だと考えていたようだ。教育の対象とな る人々の例としては、とくに外国人について詳細に述べる。天心は、国家的施策としての美術品 の保存と教育、博物館の設置という考えを具体的に検討していた。そのことは、間接的にではあ るがr古社寺保存法」によく反映されていると思われる。 ■「古社寺保存法」 「古社寺保存法」では、社寺において「歴史ノ誼徴由緒ノ特殊又ハ製作ノ優秀」なる「建造物」 と「賓物類」の中で、「特二歴史ノ謹徴又ハ美術ノ模範トナルヘキモノ」を「国賓」として定義す る。また、それらの保存にあたる責任者として、神職と住職を「監守」に任命し、内務大臣が監 守たちを「監督」をする、としている。なお、これらの国宝について、それらが各社寺に安置さ れ続けること、つまり実質的な所有権を認めているようだが、維持修理用の「保存金」と、博物 館での展示用の「補給金」は、国から支出する。博物館への「出陳」すなわち「展示」を行なう ことについて、第7条と第9条では以下のように述べる。 「社寺ハ内務大臣ノ命二体リ官立又ハ公立ノ博物館二国賓ヲ出陳スルノ義務アルモノトス但シ 祭典法用二必要ナルモノハ比ノ限二社ラス」 「神職住職其ノ値ノ監守者ニシテ内務大臣ノ命二違背シ国賓ヲ出陳セサルトキハ内務大臣ハ其 ノ出陳ヲ強要スルコトヲ得」 つまり、咄陳」は義務であり、特別な理由がない場合、古社寺側は、国の命令があればすぐに その文化財を博物館での展示に出品しなければならない。そうしないと、強制的に出品・展示さ せられる、という趣旨である。 文化財をただ保存するだけではなく、博物館において展示することを強調する点に、「古社寺保 存法」の特徴がある。 第二次世界大戦前までの文化財保護に関する法令は、「古社寺保存法」の前の「古器旧物保存法」 (明治4年)とその後の「史蹟名勝天然記念物保存法」(大正8年)、「国宝保存法」(昭和4年)、 「重要美術品等ノ保存二関スル法律」(昭和8年)などがあった。さて、第二次世界大戦の直後に、 これら既存の諸法令を廃止し、その内容を整理しつつ、主権在民の民主主義的な法律として新た に制定・実施されたのが、昭和25年の「文化財保護法」である。新しい「文化財保護法」は、「文 化財を保存し、且つ、その活用を図り、もって国民の文化的向上に資するとともに、世界文化の 進歩に貢献することを目的」として誕生した。なお、「文化財」という言葉は、「Cultural Resource」 の訳語として生まれた用語であり、昭和24年の「文化財保存課」の設置以降にはじめて公式に使 われ、翌年この法律ができてから、広く使われるようになった。 文化財保護法における「文化財」は、「有形文化財」「無形文化財」「民俗文化財」「記念物」「文 化的景観」「伝統的建造物群」の6種に区別される。保護すべき対象の範囲は、「古社寺保存法」 のそれや、史跡名勝天然記念物の指定を受けたものを含めて、大きく拡張された。「建造物、絵画、 彫刻、工芸品、書跡、典籍、古文書その他の有形の文化的所産で我が国にとって歴史上又は芸術 上価値の高いもの(これらのものと一体をなしてその価値を形成している土地その他の物件を含 む。)並びに考古資料及びその他の学術上価値の高い歴史資料」を有形文化財と言う。美術品は有 形文化財に分類されることとなる。 また、「有形文化財のうち重要なもの」を重要文化財、「重要文化財のうち世界文化の見地から 価値の高いもので、たぐいない国民の宝たるもの」を国宝であると定義している。「文化」「国民」 という二つのキーワードを含めるのは戦後の人々の考え方ではないだろうか。 文化財保護法の実際的な主要項目は、指定・管理・保護・公開・調査という多面的な視点に基 づいて整理した形で制定されているが、「国宝」の制度をはじめとして、その多くは、明治時代か ら昭和初期の経験の蓄積を反映するものだといえよう。天心ら、日本美術の保存と振興、博物館 の設置に尽力した明治期の人々には、きわめてすぐれた先見の明があった。 第2節 美術教育への関心 ところで、古社寺調査が進んでいた時期の明治15(1882)年、岡倉天心は初めて、小論「書ハ 美術ナラスノ論ヲ読ム」を『東洋学芸雑誌』に投稿している。その内容は、小山正太郎の「書ハ 美術テラス」に反論する日本文化・日本美術論である。後述するが、この投稿を契機として、岡 倉天心は美術界のすぐれた論客として発言・主張するようになった。古社寺調査による経験を重 ねて鑑識眼を高め、美術界における地位をしだいに確立しつつあった天心は、美術家の養成や美 術の教育に関わる新たな活動を更に展開していくこととなる。 明治時代中期の日本では、日本固有の文化を求めるため、欧化一辺倒の社会風潮に反して日本 の優越性を主張する「国粋保存主義」の思潮が高まりを見せる。この動きの背景には、日本の江 戸時代中期に勃興した学問である、古い時代の日本人の精神を見出していこうとする「国学」の 盛んな活動があった。また、「国粋」という言葉を初めて使った国粋主義の創始者志賀重昂は、 「Nati㎝ality」の訳語として「国粋」を唱えていた 14。 このような社会思潮のもとで、明治中期には日本の伝統美術が再び重視され、欧米風の美術教 育は後退しつつあった。当時欧米の経験を全面的に模倣して成立した日本最初の官立美術学校「工 部美術学校」(明治9[1876コ年設立)が、明治16(1883)年に廃校になり、日本は欧米の盲目 的な模倣ではない、日本に適応する美術教育の在り方を探し始めるのである。明治17(1884)年、 文部省に「図画教育調査会」が置かれ、岡倉天心とフェノロサが相前後して委員となり、普通教 育における図画教育改良のための調査が開始された。この調査会において、同委員のひとり小山 14「日本の文化財保護とアメリカの歴史保存の相似と相違」金井 健(文化財保存修復研究国際センター)、『奈 文研紀要』(2008年)、p.48−p.49 8 正太郎は、もと工部美術学校で西洋画を学んだ画家としての立場から、鉛筆画の採用を主張した。 しかし、天心とフェノロサなどは伝統美術を守る立場で毛筆画の採用を主張した。このような、 普通教育での毛筆使用をめぐる論争のほか、小山正太郎と岡倉天心との間には、書道の美術性・ 芸術性をめぐる論争(明治15[!882コ年)があり、実質的に、両者は西洋画法と日本画法をめぐ って二度の論争を展開していたということができよう。小山正太郎は、西洋画法すなわち鉛筆画 を主張しながら、西洋画法を修正・応用するかたちで日本的な絵画芸術が育まれうると考えてい た。しかし、天心はこのとき「外国画法の導入によって、わが民族的塾術活力を殺しつつある」 ほか、「外国的な物の考え方は本質的に外国のもの」15であると強く主張し、二人の意見は真っ 向から対立している。ただし、工部美術学校の廃止、国粋主義的な伝統回帰への志向などの当時 の社会背景からみて、小山正太郎の考え方が採用されることにはならず、最終的には天心らの主 張が通ることとなった。翌明治18(1885)年には、東京美術学校の創立準備のため、文部省内に 図画取調掛が設置されるが、その委員には天心の他にフェノロサ、そして日本画家の狩野芳崖、 狩野友信が登用されることになるのである。 明治19(1886)年天心とフェノロサは欧米に出発、美術教育の実態調査を行った。翌20(1887) 年に帰国した2人は鑑画会例会にて報告講演をおこなった。鑑画会は、「龍池会」から内部対立に より離反し、明治17(1884)年に新たに成立したもので、メンバーは明治政府の要人と美術愛好 家、美術家たちからなり、その主な活動はフェノロサによる古美術の鑑定や同時代作品の展覧を おこなうことであった。鑑画会の目的は「一切ノ適当ナル方法ヲ用ヒテ日本美術ヲ恢張スルコト」 16 ナある。なお、r龍池会」は明治6(1873)年のウィーン万博をきっかけに、明治12(1879)年 に美術の保存・振興を目的として発足した会であり、日本美術協会(1887年に改称)の前身にあ たる。ウィーン万博では日本の美術品が外国人の称賛を浴びたため、この反応を見た日本人は自 国の伝統美術の価値を再認識し始めていた。つまり、外国の視点を知ることによって自国の伝統 美術を見直し、それと同時に、外国の美術教育の制度を参考または模範として、日本の美術教育 の制度や目的にっいてはじめて本格的に検討し始める時期に、鑑画会は成立している。 明治20(1887)年の鑑画会では、天心とフェノロサが帰国報告講演をおこない、調査した欧米 各国の美術品と比較して日本美術はいささかも遜色がない、十くれた美術品であり、日本の伝統 美術品を保護すると同時に、そうした美術に携わる者の育成が急務であると主張している。 そして明治20(1887)年10月、図画取調掛を務める美術家たちを教員とし、名称をr東京美 術学校」に改めるかたちであらたな美術学校の開校の準備が進められ、2年後正式に開校した。 開校当時の教育科目は「日本画、木彫、工芸」の三科のみであり、洋画・油彩画は排除されてい た。日本の伝統美術の擁護・育成に重点が置かれていたことは明らかであろう。 なお、東京美術学校の教育目的は、「美術専門家」すなわち美術家の養成にくわえて、「美術教 育家」の養成をはかることであった。このような美術教育を専門とする人材を育成するという考 え方は、すでに1837年にイギリスで、1876年にはアメリカでそれぞれ始まっており、天心らは 明治19(1886)年の欧米調査旅行を通じて、教員養成機関としての師範学校の制度や、美術教育 にたずさわる教員養成の必要について理解を深めていたと思われる。この当時国内には、東京美 術学校の他に、明治13(1880)年に成立した「京都府画学校」があったが、美術教員を養成する という考えは、京都府画学校にはないものだった。ここに、東京美術学校と京都府画学校の違い があるだろう。 明治23(1890)年に東京美術学校の校長に就任した岡倉天心は、その後一年間の経験を踏まえ て、翌24(1891)年に「説明東京美術学校」を執筆し、東京美術学校では「本邦の美術及美術工 ’5 セ治17年岡倉天心が書いているフェノロサあて書簡。 脆 「鑑画会組織」 山口 静一編集『フェノロサ美術論集』(昭和63年)、p.40 9 褻の上実用ヲ図り其専門ノ技術家ヲ養成スル」だけではなく、「普通図画ノ教員ヲ養成シ図画教育 ノ普及改良ヲ図ル」べきだ、と述べる。天心はそれに関してさらに、美術教育を実施する際の「緊 要な事項」として、以下の四点をまとめて強調した。 第一は、「美術ノ巧妙ヲ存養スルニ在リ」。 第二は、「美術ヲ現今ノ必要二応セシムルニ在リ」。 第三は、「美術二於ケル高度ノ標準実用ノ模範ヲ査窮シテ製作ヲ実験セシムルニ在リ」。 第四は、「適良ナル図画ノ普及ヲ図ルニ在リ」。 第一の趣旨は、すぐれた芸術や美的な価値を守り育てること。 第二の趣旨は、美術を同時代の二一ズに対応させること。 第三の趣旨は、美術品に関して実際的で高いレベルの模範作例を追い求めて、手本にして制作 を実験させること。 第四の趣旨は、教育に相応しい図版を世に知らしめること。この点は美術の普及や教育をはか ることであるが、そのために、天心は美術教育家を養成することの必要と、その理由についてさ らに詳しく述べている。天心の考えでは、美術は日常生活に欠かせない重要な役割があり、他の 各技術とも直接的な関係を持っている。彼は、美術教育は普通教育の重要な部分であるとして、 その普及・改良を望むのであり、そのためには、美術専門家の養成より普通教育における「美育」 にもっと注意すべきだ、とも主張している。しかし、明治初期の普通学校の美術教育は、美術専 門家の養成のための教育機関と比べてきわめてレベルが低く、教育の方法も適宜ではなかった。 美術の普及は難しい、その原因は美術教員の数が少ないことにある、と天心は指摘している。 さらに、美術は国家の経済にも重大な関係があると天心は考えていた。明治中期の日本の実情 として、工業技術はまだそれほど発達していなかったので、日本の経済が発展するための支えに ならない。そのかわりに、外国で需要が急増している日本の美術産業を利用して「美術商業」を 繁栄させるべきだ、というのが天心の意見である。しかし、そのためには美術教育を充実させる 必要性があった。古美術品は海外流出を防ぐために輸出することができなかたので、伝統を守り ながらの美術工芸品を新たに製作することが重要になる。デザインや品質が悪い美術作品を量産 するのではなく、美術品製作に関する専門人材を養成して、外国人の興味を引くような優れた作 品を作るのが「百年の大計」である、と天心は考えていた。 専門の美術家の養成、美術の普及における「美育」の重視と美術教育者の養成、そして美術の 振興における「美術商業」、これらの三点の分析r論考を通じて、天心は美術教育の必要性を痛感 していたことだろう。美術教育は美術の興隆や向上のために重要な一環だと考えた。それらを認 識すると同時に、天心は東京美術学校長として七年目を迎えた明治30(1897)年、自己の経験や 考えをまとめる形で、美術教育の施設について具体的な改善方策も提案した。それは「美術教育 の施設に就きて」と題された小論である。 この提案は欧米の教育施設を詳しく分類した上で、日本の美術教育のあり方を探るものであっ た。「泰西自づから泰西の情勢あり、本邦自づから本邦の必要あり」という考え方を前提として、 欧米の美術教育と区別しながら、「本邦に施すべき美術教育の標準」について論じている。たとえ ば、欧州の美術は「純正美術」(又は高等美術)と「工業美術」(装飾美術又は応用美術)に分類 されているが、日本においてはこのような区分はできない、と天心は述べる。フランスのように 「高等美術を学ぶべき国立美術専門学校」の他に装飾美術学校を設置しており、イギリスは「サ ウス・ケンシングトン美術師範学校」のように、美術院付属の美術学校の他に美術師範学校を設 置しているが、日本ではそれらを合併した美術学校を設置する必要性があるだろう、と天心は主 lO 張している。 天心は、日本の国の現状に留意しながら、日本の美術教育に必要な施設を総合的に構想し、以 下のように列挙している。 第一、 r高等美術学校」 第二、 「技褻学校」 第三、 「美術院」 第四、 「地方参考館」 第五、 r国立博物館」 天心の構想によれば、「高等美術学校」は、専門美術家と地方の技褻学校の教員を養成する機関 であり、文部省に所属し、国費で維持する。「技薬学校」は、主として美術的実業に従業する人を 養成する機関であり、地方庁に属しており、地方費で維持され、国は補助する立場である。現代 に置き換えるならば、国立・公立の高等教育機関として美術・工芸学校を数多く設置し、そこで 専門的な美術家と美術の教員が養成される、ということになろう。「美術院」は、全国の有名な画 家たち及び匠たちを集めて、国の美術と工褻の最高のレベルを示す。ヨーロッパ18−19世紀の美 術アカデミーに近い。宮内省もしくは文部省に属し、外国に留学するチャンスもある。「地方参考 館」は、地域の美術品を収集し展示するための施設である。技褻学校と同じように、地方庁に所 属し地方費で維持する。「国立博物館」は、地方から収集した古今の名品を手本として展示する施 設であり、宮内省もしくは文部省に所属している。専門家による研究のため、また、国の文化・ 歴史を示すためにも役立つべきものとして位置づけられる。 美術教育の施設について、天心は学校以外に「地方参考館」と「国立博物館」も配置するべき だと考えた。東京美術学校校長としての立場と経験に加えて、天心はかつて「帝国博物館」に美 術部長として勤務した経験があり、これら二つの職務経験を踏まえてより説得力のある提案を打 ち出すことができたと考えられる。 このようにして、天心は「博物館」あるいは美術館をめぐる事業に大きな関心を寄せた。当時 の東京帝国博物館の理事や美術部長として実務にあたるほか、アメリカの「ボストン美術館」の 東洋美術部部長としての活動まで、天心は博物館美術館の発展に晩年まで尽力したと見られる。 天心はなぜそれほど博物館美術館を重視していたのか。また一方で、フェノロサは「美術館」に どのような考えを持っていたのだろうか。第2章では、それらをさらに具体的に比較し分析して いきたい。 第2章 岡倉天心と博物館美術館 前章で述べたように、岡倉天心は明治21(1888)年に書いたr博物館に就て」の中で、美術館 の機能と美術館教育の対象について考えていた。この頃から、すでに美術館と美術館教育に関心 を持っていたと考えられる。なお、岡倉天心と深い関係のあるフェノロサは日本美術の発見者で 知られているが、くわえていうと、フェノロサが美術館に言及する観点を発表するのは明治19 (1886)年であり、天心より早い時期から美術館と美術館教育に深い関心を持っていたことが分 かる。 それでは実際に、日本の博物館や美術館はいっごろ成立したのだろうか。 まず、保存機能を持った施設としては、奈良時代に仏教の伝来とともに建てられた寺院(仏像・ 11 仏画・供養に用いた品物などを保存)や、常設の施設として神を祭るような機能を持った神社(武 器・武具などを保存)がある。保存だけではなく、展示の機能も持った施設として神社には絵馬 堂があり、平安時代頃から見られる。 なお、鎌倉時代には、禅院での茶礼、門前での民衆の飲茶に加えて、武将達も収集した唐物道 具や書画を見せ合うために、主人のプライベート客間である「会所」での喫茶・茶の湯を楽しみ、 その後の「わび・さび」文化による茶の湯文化が発展した。それによって生み出された、様々な 物具を収集・展示し、鑑賞するための施設として、「書院」「会所」などの建築空間が充実したの である。 さらに江戸時代には、武士・農民・町人(職人、商人)という身分がはっきりと分けられ、町 人は身分が低いとされたが、技術や財産は武士より次第に豊かになり、独自の町人文化を形成す るようになる。町人文化の発達により様々な文化、娯楽の施設が現れ、その中には、寺社が一般 庶民に一定期間にわたり秘仏や宝物を公開して拝観の機会を提供するという催事があり、寺社の 本拠地で行うr居開帳」(いがいちょう)と、他の場所に出かけていって行うr出開帳」(でがい ちょう)があったことが知られる。開帳される寺社の境内のほか、付近の盛場には、看板、見世 物小屋、茶店などが設置され、祝祭的な賑わいを呈したり、珍しいものが陳列されている「博物 館」の展覧・展示のような様相を呈するようになっていったことだろう。江戸後期には、町人の 間でr物産会」の開催が流行し、自然あるいは人工の珍しい物品を集めて展覧し、好奇心を満た しながら知見を高める、という形で研究が始められ、それが日本における「博物学」が発達する 基ともなった。 明治5(1872)牛になると、日本最初の博物館として文部省博物局が東京湯島聖堂構内に恒久 的に公開するための施設を発足させた。その後17年をかけて制度や管轄が移り変わり、展示の機 能も発展していった。展示されたものは書画、骨董、動植物の剥製や標本、鉱物など多種多様で あり、いわば物産会に近かったが、国が設置したという意味では総合的な博物館展示であったと いうことができる。 このように日本の歴史を振り返ってみると、博物館的な機能は、収集収蔵・保存から、研究、 そして展示まで、日本固有の事情のもとで段々と進展してきたことがわかる。また、欧米の博物 館の発展と同じように、かつては特権階級だけに限定されていたが、徐々に、誰もが自由に博物 館に出入りできるように、一般に広く開放していく方向へ進んできたとみなすことも可能だろう。 現在、美術館と通称されている施設は博物館の」種であり、「美術系博物館」の略称である。日 本で最初に「美術館」と称した施設は、明治10(1877)年に東京上野公園で開催された第1回内 国勧業博覧会において、展示館の1つとして建設された建物である。その建物は大正11年の関東 大震災で大破し、現存していないが、そこで展示されたのは、彫刻・書画・版画・写真・図案・ 工芸などであり、その後繰り返される内国勧業博覧会において、作品展示のための施設として活 用されていたが、収蔵すなわち保存の機能は持っていなかった。明治22(1889)年、上に述べた 明治5(1872)年発足の博物館は「帝国博物館」と改称された。九鬼隆一が総長となり、アーネ スト・フェノロサも美術部理事を務めた。すでに述べたとおり、天心は美術部長に務めている。 この頃から、日本において美術館の形が次第に見えてくることになる。 博物館美術館をめぐって、岡倉天心とフェノロサはそれぞれ建議書を提出し、以下の表に示す とおり、さまざまな講演を行った。天心は美術館に関心を持っていると前章で説明したが、具体 的にどんな考え方であったのだろうか。フェノロサと比較しながら分析していきたい。とりわけ、 博物館美術館の教育的な機能についての二人の考え方の異同について調べていく。 12 著者 発表年代 明治19(1886)年 フェノロサ 出典 題目 「博物館構想」 近畿地方美術調査から帰京し てから、宮内省に提出した報 告書。 明治2!(!888)年 岡倉天心 「博物館に就て」 近畿地方宝物調査中に行った 演説。 明治29(1896)年 フェノロサ 「美術館論」 雑誌『ロードス』(五月、九月 号)に発表 * 明治23一(1890)年に帰国、ボ ストン美術館目本部(後東洋部)の 初代部長となる。 明治41(1908)年 岡倉天心 「中国日本美術部の 現状と将来」 記載なし * 明治37(1904)年にボストン 美術館の東洋部顧問に就任 大正元(1912)年 岡倉天心 「美術館案内制度に 記載なし 関する幾つかの提 案」 第1節 美術館の目的と機能 まず、当時の日本において唯一の国立の展覧施設であった第1回内国勧業博覧会の展示建物一 一美術館としての機能をある程度担っていた一を、明治22(1889)年にr帝国博物館」に改名 する直前の時期の、二人の考え方から見ていくことにする。比較検討するのは、明治19(1886) 年のフェノロサのr博物館構想」という報告書と、明治21(1888)年の天心のr博物館に就て」 という演説の原稿である。報告書と演説原稿という形式の違いがあるため、比較はしにくいが、 両者が美術館の目的と機能などについてどのように論じていたか、とりあえずそれと見られると ころを紹介する。 天心のこの演説の内容は第1章ですでに一部紹介したどおりだが、美術館の機能について「(甲) 保存の点と、(乙)考究の点と、(丙)都府の盛観となすべし」の三点を挙げていた。すなわち、 美術品の保存と研究の以外に、首都東京などの都市のイメージを高めるということである。他方、 フェノロサの報告書では美術館の目的として「美術資料の保存、研究、世界への紹介のため」と 述べている。両者の見解をまとめて換言すると、美術館は、保存を通じて日本の伝統美術の衰退 を止め、研究を通じて伝統美術を受け続き、世界に紹介を通じて伝統美術のよさを大いに発揚す ることを実現する施設である、というところだろう。美術館は日本の美術を世界に紹介するため に理想的な機関であると考えられていたのである。当時の日本美術の衰退に対して、’二人の考え には似通った部分がみられる。上述のような三項目を通じて、明治初期の美術現状を改善するこ とが最も必要だと二人が考えていたことがわかる。 なお、美術品を保存する方法として挙げた四点のうち、最も優れているのは博物館における「保 存」だと天心が考えていたことは前章で紹介した通りである。その理由について、天心は更に四 つの理由を述べた。第一には「散逸の患なし」、第二には「頽廃の患なし」、第三には「行政の手 数なし」、第四には「美術品自存の道立つなり」。すなわち、」つのところに集めるのは、美術品 流失を防ぐほか、美術技法などが失われるのを防ぎ、伝承・継続をすすめ.られるし、美術品の管 理に多大な行政手続きは必要がない。収蔵・保存さえできれば、美術品それ自体が価値を発揮し 13 て自存し、新たな発展を導くのであり、どのような面から見るにしても博物館美術館で保存する のがいい方法だ、と語るのである。天心は、美術系博物館において美術品を保存する必要性と、 美術館施設そのものの重要性を強調した。 また、天心は「美術館の作用」について「蒐集」、「陳列」、「考査」、「教育」、咄版」、「摸写」 の六点をあげた。現代語では「収集」「展示」「研究」「教育」「出版」「模写」である。天心は、東 京の博物館では江戸幕府時代の優れた美術品を収集する以外、日本の首都という立場から日本を 代表してアジアの美術品も収集するべきだと主張した。京都の博物館については、その特性に即 した収集として、平安時代から江戸時代前の美術品の収集が望ましいとし、また、奈良の博物館 には奈良時代の美術品を収集するべきであると記している。このように、東京、京都、奈良の三 つの地域の博物館が、それぞれ自分の個性をもって収集する方法を天心は構想していた。さらに、 収集の方法については、「購求」咬換」「寄贈」「貸付」の四つを考えた。続いて、天心は展示の 目的を四つの観点から論じている。すなわち、「時世を示し」、「名家大家を示し」、「流派を示し」、 「全体の関係を示す」ことである。これは、当代の美術の現状や傾向を、展示を通じて世に示す こと、有名な画家の作品を展示しその優れた技を世に示すこと、画家の諸流派を世に示すこと、 伝統画法を受け継いでいる状態を世に示すことを意味する。歴史と現在、個人と全体というよう な、天心の考える全面性はきわめて珍しいと思われる。 美術館の作用について最後に挙げているr出版」とr模写」に関して、天心はそれらを美術館 の収入の重要な部門だと語っている。写真や著述、写しの収益や模写の許可料・写料によって運 営費を賄おうとする、天心のこのような深い考えはフェノロサの言論には見られない具体性をそ なえたものだった。 この時期、教育の観点について、天心は美術館の公衆における教育を考えていた。フェノロサ も「博物館構想」の文章に美術館の組織構想案を挙げるとき、この点について自分の考えを述べ ている。フェノロサは、組織の部門の中に、r保存と展示」とr編集と出版」の部門を設定し、こ の二つの部門の後ろにそれぞれr一機能一」というように標示しているが、その委細については 後続の第2節で述べることにする。なお、「編集と出版」については、美術学校の生徒・学生を対 象とした出版物を編集・発行すると述べており、美術館の教育機能あるいは美術教育に関する意 識があった、という点は注目するべきだろう。詳細は第3節に紹介する。 以上のような提言と、後の美術館での経験を重ねて、フェノロサと天心は、それぞれ新しい論 著で美術館を論じている。一フェノロサは明治29年にr美術館論」を発表し、岡倉天心は明治41 年に沖国目本美術部の現状と将来」を考えた。では、この二つの説は美術館の機能などについ てどのような新しい観点を述べているだろうか。 フェノロサは「美術館論」の中で、美術館の機能を「収集、保存(管理)、原物研究、民衆教育」 の四項目として列挙している。明治19(1886)年の「博物館構想」と少し異なるのは、「民衆教 育」について述べる点である。美術館における教育の対象を、日利きの美術愛好家や専門的な美 術家育成といった狭い範囲から社会の広い範囲に注目して論じるのであり、この点については第 3節でさらに考察することにしたい。 他方、明治37(1904)年に天心はボストン美術館の中国日本美術部に勤務して東洋美術の蒐集 を担当したことから、アメリカの美術館員としての経験を踏まえて、明治41(1908)年の「中国 目本美術部の現状と将来」のなかでは、とくに美術館における一つの部門として「保管、収集品 の説明、コレクションそのものの発展」の機能を論じている。もちろん、天心はボストン美術館 の中国日本美術部門を一つの独立した美術館になるように充実させるという目標を掲げて論じて いるのだが、その詳細を読むと、彼が述べるr保管、収集品の説明、コレクションそのものの発 展」という構想は、ある一つの部門に限られたものではなく、美術館の全体的な機能にかかわる 14 ものであると理解できるだろう。 第一に挙がる「保管」とは、蒐集された美術品の保存と管理のことを指すだろう。いわゆる保 存とは、広辞苑で「そのままの状態を保って失わないこと。原状のままに維持すること」である。 明治初期には、美術品の損失・流失の状況が厳かったため、美術品の保存が強く訴えられていた わけだが、それに付け加える形で当時の天心は、美術品の日常保存に加えて「登録順目録」、「所 在目録」、「評価目録」の作成を通じて管理する必要があると語る。「収集品の説明」という機能も また、以前の観点とはやや異なる。これは一般参観者と学生に対して、収蔵品を理解させること を目的としており、当時ボストン美術館では、欧米のアジア美術に対する理解不足という状況を 改善することが求められていたため、収集品を展示することにくわえて、説明するという教育的 な工夫が新たに必要であり、重要であると考えられたのだろう。第3節に詳しく分析するが、こ の点は美術の普及教育と繋がっていると思われる。 第二に挙がる「収集品の説明」の手段として、天心は以下の項目を挙げて説明している。 「(a)美術品の展示を知的に行うこと。 (b)特別展覧会。 (C)一般展示物の目録(手引き)。 (d)特別展示物の目録。 (e)会議と講演 (f)東洋美術に関する独創的な調査の成果の出版。 (g)他の教育機関への、東洋美術を展示するための会場の提供。」 ここでは展示、目録、会議と講演、出版物などが説明の手段として挙げられている。特に最後 の二点(f)と(g)はきわめて重要だろう。 明治期には、美術品や美術史や美術教育など美術に関する研究が体系化し始められ、それによ って様々な観点や視点が現れることになる。だが、主体的に研究を行う研究者や目利きの蒐集家 たちに比べると、一般の人は美術に関して、どんなに興味があっても受動的に情報を受け取る立 場にあった。また、専門外の領域の美術品や異文化圏の美術となると、美術研究者と一般市民の 立場は似たものとなり、当該の専門家による見解や知識情報・解説などをある程度必要とするこ とになる。明治期において、分野の異なる研究に関してより早くその研究成果を知るには、それ について述べられている出版物に頼るしかなかったことを考えると、天心が出版を重視したのは、 まさに教育のためであったということができる。また、(g)のように、r他の教育機関」すなわ ち美術学校などのために、指導する美術家と、美術家を日指す生徒・学生たちが作った伝統工芸 品・伝統美術品を「東洋美術」の作品として展示する場所を提供すること、美術博物館内でそれ らの展示をすることは、当時必要とされた方法なのではないだろうか。 所蔵品の展示やそれに関わる説明などは、美術品をより多くの人が理解できるための重要な手 段である。また、古物・名品だけではなく同時代の美術団体や個人の美術作品を展示することに より、同時代の美術のレベルの向上をはかることができるうえ、美術愛好者の積極性や批評の高 まりを引き出すこともできる。これらの点から、(f)と(g)は美術教育の普及や推進に役立つと 思われるのである。 同時代の美術家・美術学生のための展示会場の提供という項目からは、現在の日本の美術館に おける「貸し会場」または「貸館制度」との共通点が見てとれるだろう。各種美術団体・美術愛 好者の市民グル]プなどが、美術館の展示会場を一部借りて展示をおこなう仕組みは、日本の美 術館特有の仕組みであって、欧米では稀である。また、美術系以外の博物館施設、たとえば歴史 博物館や科学博物館などでは、展示空間の賃貸はほとんど見られない。おそらく、美術館が美術 15 学校や美術団体の作品展示の場を提供する仕組みの源流は、天心の構想にあったと考えられるの である。 なお、現在の美術館での貸館制度では、会場の利用にあたって、学芸員の専門的な指導やアド バイスを受けることができず、事務的に空間を賃貸するだけになっているようだが、それは適切 ではないようにと思われる。天心の考えに回帰するなら、貸館制度は、ただ会場を安価に貸し借 りするだけではなく、本来は、美術館・専門研究者と、他の教育機関とのあいだの交流を高める ものでなければならないだろう。対象になる学生たち、美術団体の会員たちは「美術館」という 名前に満足するだけであってはいけないし、また、美術館はもっと彼らを積極的に支持していか なければならないのではないだろうか。 第三に挙げた「コレクションそのものの発展」の点について、天心は「購入」、「交換」、「寄贈」、 「調査と発掘」の四つの視点から説明している。「調査と発掘」は美術館における活動の自発性を 強調していると思われる。現在の状態を維持するだけでなく、積極的に新しい調査をすることも 必要であろう。現代の美術館もその点を重視している。たとえば、京都国立博物館は毎年調査の 活動を計画的に行っている。作品に即した調査と研究が主となるが、館外での調査も毎年続けら れている。研究員の個人やグループによる、研究テーマに基くもののほか、全員で京都の社寺に 総合調査を行うことがある17。また、付属の文化財修理所で、修理されている国宝・重要文化財 の各作品の調査を行い、銘文などを採録している。なお、仏教美術研究上野記念財団が行う調査 研究にも研究員全員が参加している。様々な調査を通じて成果を重ねることで段々成長していく、 将来に続く道すじを作るのが、研究の充実とコレクションそのものの拡張、美術館の発展に結び つく、もっとも重要な手段だと思われる。 このように、岡倉天心が描いた自国の美術館の機能と目的に対する構想は、日本その国の明治 期の状況と、民族の伝統美術を考えた上で論じられたものであった。外国人の視点から日本の美 術に対する提言を出すフェノロサの観点に比べると、その範囲は決して広くはないが、現実的に 深く掘り下げて考えられているように思われる。そして、岡倉天心自身も美術館の仕事をする前 後では、異なる立場から美術館について論じており、そのために意見の変化が見られる。では、 実際的な美術館の運営に関わる組織と人員の構成について、二人はどのように考えていたかのぞ いてみよう。 第2節 美術館の組織と人員構成 明治!3(1880)年の古美術調査と明治19(1886)年9月からの欧米美術調査を通じて、 フェノロサは日本の美術から幾つかの問題を見いだしていた。たとえば、日本美術に対する海外 の関心と興味が急激に高まったために生じていた、国宝級の重要な美術品の国内外での散逸・流 失や、それに伴う研究の困難である。このため、明治19(1886)年の「博物館構想」において、 フェノロサは当時東京上野公園に設置されていた総合的な博物館とは異なる、美術晶だけを扱う 「帝国美術博物館」を設立すべきだと考えた。 その組織と人員構成について、次のように考えている。 組織 r館長 幹事 二名 17 椏s国立博物館のウエブサイト(http:〃ww.kyohaku.go.jp/)により(2009年8月)。 16 部長 四名 部門 I、調査・収集 1I、保存・展示一機能一 皿、編集・出版 一機能一 IV、会計」 人員構成 「美術博物館局長 収集調査部長 学芸部長 資料部長 出版部長 会計部長」 フェノロサはr学芸」という現在も使われている用語で、業務内容をあげた。フェノロサはr学 芸」を具体的に説明してはいないが、美術館業務のすべてに関わるのではなく、収集調査とは区 別した、美術館の研究の一部門だということは確かだろう。r学芸員は、博物館資料の収集、保管、 展示及び調査研究その他これと関連する事業についての専門的事項をつかさどる」と現行の「博 物館法」には定められている。 岡倉天心も、フェノロサと同じく古美術の調査に参加し、美術調査員として欧米に出張した。 帝国博物館の組織に関する天心の直接的な発言や意見は、現存する記録には特に見当たらないが、 明治22(1889)年に帝国博物館、帝国京都博物館、帝国奈良博物館の設置が準備されている時期 に、こうした組織案を多く作成したようである。帝国京都博物館の人員構成については、明治22 (1889)年の「京都博物館組織」に以下のように書かれている。 r長 一名 考査委員 十二名 書記 四名」 また、文章の中で一つ特別な組織を紹介しており、それは「評議委員会」である。評議委員会 は「本館重要ノ事項ヲ審議」するものであり、以下がその組織の人員構成である。 「長 宮内省奏任官ノ内ヨリ兼任セシム 副長 京都博物館長 委員 京都府会長常置委員 社寺総代 京都府勧業課長 京都府画学校長 京都博物館考査委員」 「評議委員会」の組織について、前身を京都博物館とする京都国立博物館では見当たらないよ うだが、昭和8(1919)年に建設された京都市美術館にはこれに類する組織が存在する。これに 17 ついて第3章で論じたい。 なお、明治22(1889)年の「京都博物館組織」の約20年後の明治41(1908)年、沖国日本美 術部の現状と将来」の申で、天心は、ボストン美術館中国目本美術部(東洋部)の人員構成につ いて以下のように考えている。 r(1)部長[ボストン美術館中国目本美術部(東洋部)l I 保管 (2)コレクションの保管係 (3)保管係助手 (4)助手 (5)修理係 皿 説明 (6)副部長 (7)研究員 (8)日本人学者 皿 収集 (9)収集係 (10)副収集係 (11)助手 (12)海外購入担当」 これに続いて、天心はそれぞれの資格と責任を述べる。「部長」は「著述や講演を通じて人々の 興味を引きつける能力のある人物が極めて望ましい」。部長は豊かな専門分野の知識を持ち、常に 新しい情報について敏感であるべきなのである。rコレクション保管係」は職場に常にいることが 必要であり、収蔵品の修復や展示などの取り扱いについて指導できなくてはならない。r保管係助 手」、「助手」、「修理係」は保管係の補助を職務とする。「副部長」は美術品の展示方法に責任を持 ち、美術に関する講演や会議を主催するべきである。r研究員」は複数の各分野の専門家であり、 コレクションの説明を行うにあたって、部長や副部長の補助をする役目を担う。非常勤という形 で勤務をするのもよいと語っている。r日本人学者」はボストン美術館館の東洋収蔵品を分析して、 目録や講演を作成する。取集係」は分野に関する専門家であり、下にはr副収集係」r助手」が あるべきである。なお、美術市場を監視するため「海外購入担当」も必要である。天心が考えた この美術館の人員構成には、r助手」が多く存在しており、r収集係」と同じく正式に美術館で働 く者とみなされていることが分かる。しかし、現在の日本の美術館で「補佐係」に相当する人々 の多くは非常勤やインターン、アルバイトなどである。美術館の運営経費に多くの問題があるこ とが、その原因だと考えられよう。 以上のように、天心らは保存と展示、研究だけでなく、博物館美術館の教育作用にも目を向け ながら、具体的な組織に関する構想をたてていた。その理由は、天心の以下の」言から理解でき るのではないだろうか。それは博物館美術館が担う機能や使命とは「過去に係る保存と現在に係 る実業と将来に係る教育」である、という言葉である。過去の保存・保管、研究と展示などの活 動、実際的な人員組織機構の創立については、本節ですでに天心の考え方を分析したとおりであ る。では、「将来に係る教育」にどんな考えがあるか第3節で詳細に見ていきたい。 18 第3節 美術館教育について 天心は明治21(1888)年の「博物館に就て」の文章の冒頭で博物館について、一言で「過去に 係る保存と現在に係る実業と将来に係る教育」であるとまとめた。しかし、当時は美術館の機能 としての「将来に係る教育」という役割は、実際にはあまり重要視されていなかったようだ。も ちろん、明治初期、先代の知恵を濃縮した伝統の美術を保存して継続していくのは緊要なことだ と考えられていた。なぜかというと、伝統美術は本国の独特のものであり、過去の伝統を知らな いと、現在に応用できず、将来の発展に何の影響も及ぼすことができないからである。だが、伝 統美術の継承は工房や徒弟関係のなかでおこなわれるものという考えが従来一般的であったから、 美術館による「将来に係る教育」教育という考え方は珍しく、そのような考え方に対して、一般 の人々は美術館の機能を、美術品の保存という役割しか知らない状態のままであったといえるだ ろう。このような背景のもとで、天心は将来に係る博物館美術館の教育作用をどう思っていたの だろうか。 第1節において言及したことに付言すると、天心は、美術館は専門家が研究できる場というだ けでなく、「公衆に於いて博物館に遊ば∫学校外の美術教育も出来る」場になるだろう、と説明し ていた。公衆が好む美術品のレベルが高ければ高いほど、高名な画家の作品を鑑賞したいという 要求が生まれ、また、優れた美術作品を見ることによって、公衆の教養や鑑賞眼をさらに高める ことができる。この様な要求に応じて、高いレベルの美術作品を収蔵する美術館を設立すれば、 公衆はかならず見に行こうとするだろう。天心はこのような考えから、美術館を、美術作品の鑑 賞を通して行われる、学校外での美術教育を実現させる場であると考えた。すなわち、美術館は 学校の外にあって、公衆のための美術教育施設であるということを、明確に主張した。明治20 (1887)年10月から開校の準備が進められ、明治22(1889)年に開校する東京美術学校をきっ かけとして、天心が美術教育について学校の美術教育を多方面から考察・検討していたが、この 段階では美術館の教育には重点を置いていない。天心は美術館の作用について「蒐集」、「陳列」、 「考査」、「教育」、「出版」、「摸写」を挙げたがが、その「教育」作用に関しては説明も少なく、 ただ欧米の美術学校と博物館美術館の設立形態について、三つのパターンを紹介するのみであっ た。その第一は博物館美術館に美術学校を付属させるもの、第二は美術学校に博物館美術館を付 属させるもの、そして第三は、美術学校と美術館博物館を別々に自立させる形態であり、天心は 第一の実例として、イギリスのロイヤル・アカデミーに美術学校が付属して設立されていること に言及している18。だが、当時の日本では、東京美術学校が東京帝国博物館と組織的に関連付け られることはなく、実質的には第三の形態、つまり美術学校と美術館博物館を別々に自立するか たちとなった。 フェノロサは美術館の教育的な機能を重視している。彼は明治19(1886)年の「博物館構想」 で「国立美術館の偉大な目的は単なる収蔵庫ではなく、歴史的実際的知識の研究と普及のセンタ ーとなることである。即ち、その教育的機能が主である」と述べる。彼は欧米の美術学校と博物 館美術館の設立の形態について、天心よりも深く理解していたこ一とだろう。そのため、フェノロ サは日本の美術館と美術学校の両立状態に対して、美術館が「美術学校との緊密な提携関係」を 持つべきと提唱した。また、「博物館は美術学校の近くにあるべきだ」と指摘し、学生や美術関係 者には無料で利用できるようにするべきだと説いている。明治29(1896)年に発表した「美術館 1壇 sRoya1Acade皿y of什ts》英国の王立美術院。1768年、絵画,彫刻,建築の諸芸術の育成・向上を目的とし て設立。毎年展覧会を開催し、美術学校も経営。 19 論」では、フェノロサは美術館のr民衆教育」の機能について述べ、美術館のもつ教育機能とは、 単に展示を通じて実現されるものではなく、様々な形で発揮されることが可能であると語ってい た。たとえば、整理し編集した所蔵品目録、美術館のオリジナルな調査の発表、「一般民衆」に向 けた美術講座などである。美術館の所蔵品や研究を利用し、上記のようなあらゆる方法を用いて 人びとに美術の知識を普及することができると考えていたのだろう。明治23(1890)年にボスト ン美術館の日本部(後東洋部)の初代部長を務めたフェノロサは、美術館の仕事を体験してから、 美術館の普及教育を重視しはじめたと思われる。 天心がボストン美術館東洋部の顧問として働いたのは明治37年からであり、その立場から明治 41年に「中国目本美術部の現状と将来」を提出した。前節で述べたとおり、天心はその中で「コ レクションの説明」の手段を七点挙げていたが、よく考えると、これは美術館における教育の実 現手段であるとも言えるだろう。まとめて言えば、その手段は展示、目録、講演、出版物、そし て貸し会場としての展覧会の開催である。貸し会場としての展覧会の場を提供する対象は美術学 校や美術団体であり、これもまた、教育的な取り組みの一環であったと考えられる。 明治43(1910)年、天心はボストン美術館の中国目本美術部(東洋部)の部長となり、「美術 館の教育的側面」に力を入れ始めた。2年後の明治45(1912)年には、一般参観者に近づく最も 重要な手段として、「美術館案内制度に関する幾つかの提案」を書きあげている。当時のアメリカ では、美術館による研究や運営・活動の体制などは、創成期よりはるかに体系化されていた。社 会の二]ズによって、美術館の事業の重点も変化してきており、早くも美術館の公衆の教育など 普及教育機能が強化されていることに気づいた天心は、美術館に来る人に注目した。来館者・美 術館を利用する人々が、より美術館を有効に活用できるように、案内する方法などを検討したの である。 まず、天心は当時のボストン美術館制度の主な欠点を三つ述べた。 第一に、「美術館案内制度は、一般参観者の資格や知識を吸収する力に関わりなく、その対象が 漠然としていること」。 第二に、r美術や工褻の学校との定期的な連絡に欠けること」。 第三は、「当コレクションを学童や一般大衆に見せるに当って、特別な訓練を施した美術館案内 係を提供していないこと」。 次に、天心は一般参観者を五種類に分けて分析した。 ra、学童 b、一般大衆 C、美術学校の学生 d、美術全般ないしはその特定分野に特別な関心をもっているひと e、美術鑑賞家および収集家 」 この五種類の対象に関しては、それぞれ案内の方法が違うと指摘し、適切な案内方法について 以下のように述べる。 学童に対しては、無意識的に美術の楽しさを感じさせ、美術は生活に関わり、生活の一部分で あることを実感させるべきである。一般大衆では、美術の知識をほとんど持たないので、彼らの 興味を起こさせることを目的とし、「美術品の人間的な面の関心が技術的な面での関心よりも強調 されるべきである」。美術学校の学生には、定期的な美術の様々な分野の知識を教える講座が必要 であり、このような講座が学校で行われるよりは、実際の展示をともなう美術館の方がもっと効 20 果的である。美術のすべての分野に興味がある人は、美術館でどんな講義が行われるかには関係 なく、講義があるかどうかに関心を持つだろう。美術に詳しい鑑賞家・収集家などの専門家たち については、特別な主題に関する講義が望まれる。 天心は参観者の立場から見て、多様な参観者のいずれも受け入れるための対応方法を考えてい たといえよう。 明治期は日本による博物館美術館について正式な法律・法規がまだ十分に定められておらず、 学者の意見も多岐に渡り一致してはいなかった。以上に述べたように、フェノロサとともにあり、 フェノロサに導かれたといってよい天心の見識は、日本の博物館美術館のあり方について、多大 な影響をあたえたということができるだろう。 その後少しずつ、日本の博物館美術館の数は増加していくことになる。 明治以降、大正・昭和初期までに重ねられた美術品の管理と博物館美術館の体制の混乱を避け るため、第二次大戦後の昭和26(1951)年に「博物館法」が教育法として発布され、昭和27(1952) 年にr博物館法施行令」、昭和30(1955)年にr博物館法施行規則」が発布された。 第3章では、そうした過程を経験した幾つかの古い国公立美術館の中から、昭和8(1919)年 に創成した京都市美術館の例を主として分析し、相関する法律・規則を参考し、日本の博物館美 術館の現状と特性を把握してみよう。 第3章 日本の博物館美術館の現状と特性 前章では、明治初期に日本の美術のために力を尽くした岡倉天心が、日本の博物館美術館の設 置に関し、きわめて重要な観点や具体的な構想を示していたことを分析した。では実際に、日本 の現存の美術館はどんな状態だったのだろうか。現在全国には何百館という美術館が存在してい る。大規模な国立美術館、県立美術館から私立美術館、法人が運営する美術館、市町村立美術館 など、規模も運営母体も保存資料内容も多種多様である。そこで本論では、天心の構想の価値を はかる上でも、日本の古い美術館の例として、京都市にある三つの国公立博物館美術館について、 資料収集と現地見学を通じて調査した。京都市は日本の美術・工芸中心地であり、観光の聖地で もあり、同市の主要博物館美術館としては、現在、文部科学省文化庁所管となっている「京都国 立博物館」と「京都国立近代美術館」、そして京都市の文化市民局所管の公立の「京都市美術館」 がある。 京都国立博物館は、独立行政渉人国立博物館(2001年発足)と独立行政法人文化財研究所(2001 年発足)が2007年に統合して設置された「独立行政法人国立文化財機構」に所属する。この機構 に所属する施設とそれぞれの創立年代は次のとおりである。 東京国立博物館 東京都、明治5(1872)年草創、昭和27(1952)年現名に改称 奈良国立博物館 奈良市、明治28(1895)年開館、昭和27(1952)年現名に改称 京都国立博物館 京都市、明治30(1897)年開館、昭和27(1952)年現名に改称 九州国立博物館 福岡県太宰府市、平成17(2005)年開館 東京文化財研究所 東京都、昭和5(1930)年創立、昭和29(1954)年現名に改称 奈良文化財研究所 奈良市、昭和27(1952〕年創立、昭和29(1954)年現名に改称 京都国立近代美術館は2001年に発足した「独立行政法人国立美術館」に所属する。この機構に 21 所属する施設とそれぞれの創立年代は次のとおりである。 東京国立近代美術館 東京都、昭和27(1952)年開館、昭和45(1970)年現名に改称 京都国立近代美術館 京都市、昭和38(1963)年開館、昭和42(1967)年現名に改称 国立西洋美術館 東京都、昭和34(1959)年開館 国立国際美術館 大阪市、昭和52(1977)年開館 国立新美術館 東京都、平成19(2007)年開館 日本の美術文化財に関する保存・展示・研究・教育を、より一層効率的かつ効果的に推進する ため、独立行政法人国立文化財機構と独立行政法人国立美術館が創立された。以上に挙げた施設 は、東京文化財研究所と奈良文化財研究所を除くと、現在日本には九つの国立の博物館美術館が あるということになる。 京都市美術館は、昭和8(1933)年大礼記念京都美術館として開館し、昭和27(1952)年現名 に改称した。公立美術館としては東京都美術館に次ぎ日本で二番目であるが、創設当初の建築の 構造を保つ公立美術館としては最も古い。なお、教育委員会が文化財行政(文化財保護行政)を 担当するのが通例であるが、京都市美術館の場合は、京都市の教育委員会ではなく文化市民局の 所管である。これは、大多数の地域において、文化財行政は教育委員会が所管し、さらには生涯 学習の一環として位置づけられているのに対し、京都市では文化財行政は観光行政と切り離せな いものと見なされているからである。また、設立当初の大礼記念京都美術館は、竹内栖鳳らを初 めとする京都の多くの美術家たちや美術を愛好する教養ある市民の寄付によって作られたという 経緯があり、学校教育を中心とする教育委員会と直接結びつくことは少なかったようだ。京都市 では現在も、文化財行政は市長部局の「文化市民局(文化芸術都市推進室文化財保護課)」が所管 している。 これら三つの美術館の地理位置を見てみよう。京都市美術館(左京区)は平安神宮の赤い大鳥 居の前にある道路の左側にあり、京都国立近代美術館(左京区)は道路をはさんで京都市美術館 の真向かいに建っている。京都国立博物館(東山区)は京都市の東大路通で京都市美術館と繋が り、電車では30分程の道のりである。また、京都市には美術専門及び美術関連の学校が少なくな い。たとえば、国立の京都工芸繊維大学(左京区)、京都教育大学(伏見区)、公立の京都市立芸 術大学(西京区)、私立の京都精華大学(左京区)、京都造形芸術大学(左京区)、京都嵯峨芸術大 学(右京区)などがある。京都市美術館から最寄りの地下鉄駅まで徒歩で10分、最も近いバス停 までは約1分の距離である。上述の美術学校から京都市美術館まで公共交通機関を使うと、最も 遠くにある美術学校では約50分、近隣の美術学校からでは40分程である。いずれにせよ、美術 を学ぶ学生が1時間もかからない距離で美術館を利用できる。京都国立博物館はJR京都駅からは 車で5分、徒歩では20分程かかる。京都市美術館だけに限らず、交通の便が比較的良いという利 点は三つの博物館美術館に共通している。 次に、各館の活動の特性をみてみよう。京都国立博物館は、明治30年に「帝国京都博物館」と して開館する。明治22(1889)年に天心が発案した「京都博物館組織」の中に見られる活動の狙 いとほぼ同様に、主に平安時代から江戸時代にかけての京都の文化を中心とした文化財を収集・ 保管・展示し、文化財に関する研究、普及活動を行っている。京都国立近代美術館は、昭和38(1963) 年に「国立近代美術館京都分館」として粛館する。古代・中世および近世を除く日本の近代美術 史全般に配慮しながら、京都を中心に関西・西日本の美術に比重を置き、京都画壇の日本画、洋 画および近代工芸美術などを積極的に収集、展示している。京都市美術館は、昭和8年に開館し て以降、近・現代の美術作品を収集、展示しており、それらに関する独自の調査研究と普及活動、 作家活動の助成も行っている。 22 本章ではさらに、この三つの博物館美術館を例にして天心が重視された美術館の保存・修復、 展示、教育普及の面からそれぞれの現状について考察する。また、京都市美術館の「貸節制度」 に重点において具体的に分析する。 第1節 保存・修復と展示の性格 明治期には、日本の美術に対する海外の関心が高まるに従って、ますます文化財が他国に流失 する上うになった。また、廃仏殿釈の考え方から、寺社のなかの仏像や美術品などが廃棄もしく は売買され、日本の美術文化財は、この時期、散逸の危険に晒されていたといえる。この事態を 回避し、美術文化財に対する政府及び公衆の関心を引きつけることを日的として、美術館は早期 から保存・修復だけでなく展示の機能を持っていた。しかしその後、大正12(1923)年の大震災 と昭和14(1939)年の第二次世界大戦の影響もあって、美術館がそれ以上の質的な発展を示すこ とは少なく、実質的には展示会場と保存施設としての機能しか求められていなかったようにも思 われる。戦後の日本では、経済面、文化面において急速な復興が進み、数多くの美術館が建設さ れるとともに、早いぺ一スで発展を遂げていくことになる。博物館美術館の増加と発展により、 相関する法規が幾つか制定された。例を挙げると、昭和25年の「文化財保護法」、昭和26年の「博 物館法」などがある。では、現在に至って、日本の博物館美術館の保存・修復と展示の機能はど んな状態なのだろうか。 (1) 保存・修復 京都国立博物館の組織(付録2)を見ると、特別に「保存修理指導室」と「文化財管理監」を設 けているので、美術文化財の保存と管理に力を入れていると考えられる。館の収蔵品も年々増え 続けており、平成20年度には160万円以上の文化財を8件購入している。付属施設の「文化財修理 所」では、国宝・重要文化財やそれに準ずる名品が数多く修理されており、文化財の保存と修復 については、他の国立博物館にまさる重要な殺害■」を果たしている。歴史的な有形文化財にはおよ そ100年に1回の「本格修理」が必要であり、収蔵品の経年損傷の進行状況にあわせた計画的な本 格修理を多数実施するほか、日常的な展示・保管のための緊急修理も実施している。また、博物 館関係者、修理・修復技術者等を対象とした研修プログラムを実施し、国内外の文化財の修理・ 保存処理の充実に寄与している。 京都国立近代美術館はコレクションの整理・修復を行い、系統的分類・整理の秩序を構築した。 所蔵作品や関連する館外の美術品及び保管・修理に関する調査研究を常に行っているほか、保管 施設の修繕や防災・消火訓練を重視している。 京都市美術館は美術品の収集、保管及び展示を、京都市美術館条例(昭和27年交付)の冒頭に 活動指針として掲げている。また、同じく文化市民局に所属する文化財保護課は次のような文化 財に関する事業を行っている。 1.みやこ文化財愛護委員,文化財マネージャーの育成 2.世界遺産の追加登録に向けた調査・検討 3.文化財保護事業の助成 4.文化財に係る普及啓発 5.埋蔵文化財の発掘調査 6.考古資料館の運営 7.文化財建造物保存技術研修センターの運営 23 このようにしてみると、運営母体や組織の違い、活動指針には微妙な違いがあるわけだが、京 都国立博物館・京都国立近代美術館・京都市美術館の三つの博物館美術館は、同じ京都市域にあ って、それぞれの実情に即したかたちで美術文化財の保存・修復に尽力していることが分かる。 とりわけ現代においては、明治期の博物館美術館制度から急速に始められた美術文化財の収集・ 保存・管理について、より質の高い取り組みが望まれることだろう。現在、日本国内に多数ある 博物館美術館では、保存・修復を高度な配慮と質をもって十全に実施できる館が少なく、運営資 金や職員の能力の乏しさが問題となっている。こうした問題の改善のためには、政策による支持、 市民公衆の支持、技術的な支持・支援などが必要であり、現在の博物館美術館が置かれている厳 しい状況を意識して課題を解決していかなければならない。 (2)展示:展覧会の種類について 京都国立博物館における展示には、大きく分けて平常展、特別陳列、特別展・共催展、海外展 がある。平常展は平常展示館で開催し、おおむね近世までの美術工芸品を、展示室ごとに絵画・ 彫刻・工芸・書跡・考古等の各分野にわたり、定期的に陳列換え(年50回程度)を行いながら年 間約2,000件を展示している。特別陳列は平常展示館の一部を使用するが、これは特定の企画テー マに基づいて開催するものである。同様に特定の企画テーマにもとづくが、とくに大規模な特別 展・共催展、海外展は特別展示館で開催する。学術的な水準の高い、時宜に応じた魅力的な展覧 会を開催する基盤として、継続的に実施している文化財調査や日常的な研究の成果の蓄積と、国 内外の博物館、美術館等と連携協力があることを忘れてはならない19。 京都国立近代美術館の展示には、所蔵作品展(常設展、小企画、テーマ展)、企画展(自主企 画展、共催企画展)、巡回展がある。また、国立美術館の相互協力による共同企画展、交換展が 行われることもある。所蔵作品展はコレクション・ギャラリーで開催し、収蔵品のなかから日本 画、洋画、版画、彫刻および陶芸、染織、金工、木竹工、漆工、ジュエリーなどの工芸、写真等 を、適宜展示替(年20回程度)しながら展示する。日本の近代美術の代表作や記念的な作品を中 心とするが、欧米の近・現代の作品もあわせて展示している。また、同時期に開催の企画展と連 動した「関連展示」を行なうこともある。企画展は京都を中心としたものから、海外の美術・工 芸作品、建築やデザイン、そして現在活躍中のアーティストの作品まで、取り上げるテーマ・作 品は非常に多岐にわたる。巡回展は各県・市・地方の美術館で開催する展示である。所属する独 立行政法人国立美術館では、所属の五つの国立美術館が所蔵する作品を効果的に活用し、広く国 民の鑑賞機会の充実を図るとともに、近・現代美術振興に資するため、「国立美術館巡回展」を実 施するのである。開催館及び開催地は、道府県・政令指定都市教育委員会の希望、施設等の適否、 その他を勘案し、国立美術館が決定している 20。 なお、近現代美術を扱う美術館として、メディアミックスの芸術表現と美術館展示活動の再定 義を試みた企画「ARTRULES KYOT0」展 21(2008年度)、紹介文やキャプション等を一切排除し作 家等と直接議論する場を多く設けた。「椿昇2004−2009」22展(2009年度)などは、マルチメデ 19 ニ立行政法人国立文化財機構(http:〃ww.nich.go.jp/)と京都国立博物館(http:〃㎜.kyohaku.go.jpノ) のウェブサイトより(2009年9月)。 2。 ニ立行政法人国立美術館(http:〃㎜.artmuseums.go.jp/)と京都国立近代美術館(http://w㎜.momak.go.jp/) のウェブサイトより(2009年9月)。 21「ART RULES」とはニューヨーク近代美術館やパリ(ポンピドーセンター)など世界5各国に置いて今まで行わ れてきた女性たちによるART SHOWである。 22 椏sに拠点を置き、1980年代初頭から現在まで美術と社会との関係を間い直す衝撃的な作品を発表し、日本の 現代美術を代表する一人として世界的な注目を集めている美術家・椿昇(つばき・のぼる:!953年生)の最新 作を紹介する展覧会です。 24 イアを駆使した新しい芸術表現を美術館で紹介するための新しい展覧会形式を提案したものとし て評価されるだろう。 京都市美術館の展示には、主催展、公募展、共催展がある。主催展には常設展と特別展があり、 常設展は「京都市美術館コレクション展」として年間数回に分け、収蔵品の中からテーマを設け て展示する。特別展は近・現代美術に関して、特別なテーマに基づいて企画構成する。公募展は 「京展」と「日展(日本美術展覧会)」のふたつである。 「京展」は昭和10年より開催していた 「帝展」を継承し、戦後の昭和20年以来毎年開催している全国規模の総合公募展である。日展は、 明治期の国家主催の公募展「文展(文部省美術展覧会)」(明治40[1907コ年)に起源をもち、「帝 展(帝国美術院展覧会)」(大正8[1919コ年以降)の時代を経て戦後へ、そして現在は社団法人目 展による全国規模の総合公募展となっているもので、戦前からおこなわれていた京都巡回展とし ての伝統ある展示が「日展」として受け継がれているといえよう。共催展は、新聞社・テレビ局 などをはじめとする外部諸機関との運営協力共催により、国内・海外の近現代美術を紹介・展示 する各種の展覧会のことである 23。 なお、日本で現在行われている主な公募展には、日展(日本美術展覧会、昭和21[1946コ年か ら)のほか、院展(日本美術院、明治3![1898]年から)、二科展(二科会、大正3[1914コ年か ら)、国展(国画会、昭和元[1926コ年から)など、さまざまな美術団体による公募展が数多くあ る。京都市美術館は、主催共催の公募展である「京展」と「日展」のほか、貸し会場制度である r貸館」事業を通じて、多様な美術団体の展示を数多く受け入れている。 以上、各館の展示・展覧会の形態を概観してきたが、岡倉天心の構想に立ちもどり、日本の美 術品とその伝統の保存や、日本における美術の振興について考えるならば、とくに注目しなけれ ばならないのは、各美術館において収集・保存されている所蔵品の展示であろう。興味深いこと に、京都国立博物館の平常展では、所蔵品を年50回程度で陳列換えして展示している。京都国立 近代美術館の所蔵作品の常設展は、年20回の展示替を行っている。京都市美術館の主催展の中の 常設展は、所蔵品の一部を、年間数回の期間限定で展示している。これらのいずれにしても、言 葉のうえでは常設展・平常展示と言うが、実は完全な通年常設展示ではないのである。むろん、 木製・岩絵具・絹本など、繊細な材質からなる日本の美術品は、欧米の美術館にみられるような 完全な常設展示には適さないであろう。とはいえ、数千、数万件にのぼる所蔵品・文化財・美術 工芸品の僅かしか展示されていないこと、一度その展示を見逃せば、数年は見ることができない、 という点には注意が必要だろう。 とりわけ京都市美術館の場合は一定の常設スペースすらも確保されていない。これでは、現代 の美術館にふさわしい様々な機能が、その一部分しか実現できない状態にあるといえよう。京都 市の観光行政と切り離せないものと見なされていながらも、京都市美術館は市の観光調査報告(平 成20年)によれば、上位10位内にも入っていない。 次に、展示や展覧会を訪れる多くの]般来館者がとくに興味をもつ事柄として、観覧料やミュ ージアムショップについて付記しておこう。 京都国立博物館の入館・観覧料は、大人と大学・高校生によって観覧料が異なっており、障害 者とその介護者は無料、70歳以上、中学生以下は平常展については無料としている。また、「京 都国立博物館の日」として、毎月第2・第4土曜日、国際博物館の目(5月18目)及び敬老の目は、 平常展のみならば誰でも無料で観覧できる。 京都国立近代美術館の入場券は,まずどんな種類でも個人と団体によって料金が違う。また、 所蔵作品展(常設展)及び自主企画展について,中学生以下、満65歳以上の高齢者、障害者と付 添者1名は無料で観覧できる。特別展・共催展は、そのつど料金が定められるようになっているが、 「関西文化の目」 (11月17目,11月18目)には、全ての展覧会が無料で観覧できるようにな 23 椏s市美術館のウェブサイト(http:〃ww.city.kyoto.jp/)より(2009年9月)。 25 っている。なお、所蔵作品展(常設展)の観覧料は一般と大学生によって異なり、高校生以下、 もしくは18歳未満の入場者は無料である。企画展の観覧料は各展覧会によって異なるが、企画展 の観覧券で所蔵作品展も観覧できる。以上、二つの国立博物館・国立近代美術館では、義務教育 年齢の小中学生はすべて無料となる。 京都市美術館の入場券料金は、一般、小中生、高大生によって異なり、それぞれ個人と団体の 料金も違う。ただし、京都市内在住に限らず、70歳以上の高齢者、障害者等、小中高校生等は展 覧会あるいは指定された目によって無料で観覧できる場合がある。また、貸し会場での各種美術 団体の展示には無料のものも含まれるため、無料で鑑賞する機会がより多いのは、京都市美術館 である、ということもできよう。無料制度のあり方は国立の美術館と公立の美術館とで異なり、 具体的な対象年齢などの諸条件が微妙に違うが、市立・県立など地方公共団体が運営する公立の 美術館は、その地域に居住する市民に特別優遇して無料する制度がある。 このように、三つの節とも共通して障害者、高齢者、小中学校の学生が無料で観覧できるよう に、教育的・社会的な配慮をしていることは明らかである。しかしながら、イギリスの大英博物 館にみるように、欧米の美術館で実現されている全員無料の制度と比べるならぱ、やはりまだ課 題はあると思われる。 近年注目されている展示関連のミュージアムショップは、博物館美術館の収入源の一つにもな っている。図書室やレストラン・カフェと並んで、ミュージアムショップは博物館美術館にはな くてはならない付帯設備となりつつあるといえよう。運営形態やその主体については直営、外部 企業への委託、関連外郭団体による運営などがある。 たとえば、京都国立博物館の南門そばの施設にあるミュージアムショップの運営、ミュージア ムグッズの企画や開発に力を注いでいるのは博物館自身ではなく、「便利堂」という企業である。 この企業は美術品に関する複製印刷、企画、編集、商品開発、販売などを請け負っている。京都 国立近代博物館のミュージアムショップでは、館で開催された展覧会図録や、美術書、収蔵品の ポストカード、オリジナルグッズに加え、ガラス工芸品や海外のミュージアムグッズなどが販売 されている。京都市美術館では、所蔵品の絵はがきと便箋と目録程度の品揃えであり、ミュージ アムショップとしてはかなり小さな規模で設置されている。 第2節 美術館における教育活動 戦後、社会教育に対する認識が高まってきたことで、昭和24(1949)年に社会教育法が制定さ れた。社会教育法は、昭和22(1947)年の教育基本法の精神に則り、「社会教育に関する国及ぴ 地方公共団体の任務を明らかにすることを目的としている。社会教育法は、学校教育法で定める 学校の教育課程として行われる教育活動を除いた組織的な教育活動を法律上の社会教育として定 義し、各種の事項を規定している」ものだ。 昭和26(1951)年に制定された博物館法は、上述の社会教育法の精神に基き、「博物館の設置 及び運営に関して必要な事項を定め、その健全な発達を図り、もって国民の教育、学術及び文化 の発展に寄与することを目的とする」。この法律の制定により、日本の各博物館美術館が改名や組 織運営形態の調整を進めて、再整備されることになった。 さらに、博物館美術館の体制は、平成13(200!)年4月に施行された独立行政法人化や、同年 12月に成立された文化芸術振興基本法によって大きな変革期を迎えることとなった。21世紀型の 「開かれた美術館」24のあり方を考え、活用していくためには、関連の法律・政令・省令・条例 別 「開かれた美術館」:1977年にパリに開館したポンピドゥー・センターが提唱した。閉鎖的な美術館のイメー ジを脱却し、生活に密着した、生き生きとした創造の場へと変えていこうとする動きのなかで、理想の美術館 を意味する言葉として用いられる。 26 の存在を知ることが必要であり、それによって美術館の社会的意義や可能性を再確認することが できる。これまでの閉鎖的な美術館のイメージから脱却し、公衆の生活に密着した活動が始めら れている。生涯学習の場としてだけでなく、学校での美術教育が減少または削減の傾向にさらさ れている現在、博物館美術館の重要性がかえって高まりつつある、ということもできるだろう。 京都国立博物館は、土曜日に研究員が展覧会や展示品に関連した「土曜講座」を行っており、 テーマによっては外部講師を依頼している。また、毎年夏に3日間連続で、さまざまな分野の研 究者が一つの共通のテーマに沿って、最新の研究成果を盛り込んだ発表を行う「夏期講座」を開 催している。「少年少女博物館くらぶ」は小中学生を対象にした鑑賞プログラムで、展示をもとに 設定されたテーマについて、参加者は作品を鑑賞しながらわかりやすい説明を受けることができ る。なお、数多くの展覧会図録、収蔵品図版目録を製作するほか、毎年研究紀要として「学叢」 を発行し、研究員による専門研究論文や調査報告、随筆評論などを発表・公開している。さらに は、子供を対象とした「博物館ディクショナリー」が美術館ホームページに掲載されるようにな った。 京都国立博物館内でミュージアムショップを運営する便利堂は、元は美術印刷を専門とする業 者であったため、数万点にのぼる写真原版を保管しており、文化財の普及と教育に資するため、 こうした文化財写真の一部を、ミュージアムグッズの製作に活用したり、写真図版の貸出し業務 を行っている。 京都国立近代美術館は、所属する独立行政法人国立美術館の体制で、他の国立美術館とともに 次に掲げる教育及び普及の事業を行っている 25。 (教育及び普及) 一、講演会、講座、シンポジウム、列品解説等。 二、定期刊行物、展覧会目録、研究論文、調査報告書、パンフレット、ガイドブック等の刊行。 三、その他の事業。 また、学校教育において美術館が有効に活用され、全ての学生や教職員が美術に親しむ機会を より多く提供することを目的として「国立美術館キャンパスメンパーズ」という会員制度を設け ている。この制度は大学、短期大学、高等専門学校、専修学校、各種学校、あるいは学部等の単 位でも利用ができ、メンバーとなった学生や教職員には、次のような特典がある。第一は、所蔵 作品展の無料観覧であり、メンバー区分に応じて各館の所蔵作品展(国立新美術館を除く)を、 メンバー登録の期間中、無料で何度でも観覧できる。第二は、特別展・共催展の割引観覧であり、 メンバー区分に応じて各館の特別展・共催展を割引料金(「学生」または「一般」の団体料金) で観覧できる。 料金については展覧会により異なるが、たとえば、学生料金が通常800円とすれば、会員割引 後500円となり、一般の大人料金が通常1300円とすればだったら、教職員会員の割引後の料金は 900円になるという。なお、フィルムセンターは展示室のみ無料観覧が可能で、上映の観覧は割 引の対象外になっている。メンバーには、各館のニュースや所蔵品目録等を随時配信している。 会費は学生数、メンバー区分によって異なり、以下のようになっている。 25 ニ立行政法人国立美術館のウェブサイト(http:〃w岬.。rtmu.eums.go,jp/)に掲載した「業務方法書」(平成 13年)より。 27 メンバー区分 学生数 2000人未満 2000人以上 5000人未満 5000人以上 1万人未満 1万人以上 5館利用年会費 3鰭利用年会費 2館利用年会費 1館利用年会費 (関東ブロック) (関西ブロック) 20万円 18万円 16万円 10万円 (16,700円) (15,000円) (13,400円) (8,400円) 40万円 36万円 32万円 20万円 (33,400円) (30,000円) (26,700円) (16,700円) 60万円 54万円 48万円 30万円 (50,000円) (45,000円) (40,000円) (25,000円) 100万円 90万円 80万円 50万円 (83,400円) (75,000円) (66,700円) (41,700円) *独立行政法人国立美術館ウェブサイト(http1〃ww.artmuseums.go.jp/)から引用(2009年9月) なお、国立美術館の各館では,美術教育関係者を対象として、教育普及事業の実践に当たる人 材の育成や地域における学校と美術館の連携を目的とした鑑賞教育のための研修を実施している。 京都市美術館では、社会教育事業としてr市民美術講座」とrワークショップ(体験型講座)」 を行っている。市民美術講座は美術に対する理解と教養を深めるため、展覧会に対する新たな視 点を見つけるための美術講座であり、ギャラリー・トークを実施する。ワークショップは作品が 生まれる過程に立ち会ったり、自ら制作を体験したりする中で、美術に対する新しい見方、感じ 方を発見する機会を提供することを狙いとしている。 なお、京都国立近代美術館と京都市美術館は「友の会」を設けて、美術に興味のある人からな る会員を集めて、多彩な活動を行っている。 第3節 「貸館」制度 現在、人々が美術品を目にすることができる身近な場所としては、私営のギャラリーや画廊が 数多くある。作家たちあるいは美術グループがギャラリーや画廊を借りて、自分たちの作品を展 示する。こうした画廊には貸画廊、企画画廊、商業画廊があり、貸画廊は、新人や若手の作家で .も比較的手軽に利用でき、交通の便や観覧客の数を考えても、発表の場として一番有利だろう。 これは、多くの市民がより多くの美術品を鑑賞し、売買する機会をつくることを狙いとして成立 したものであり、美術骨董商の商品陳列ウィンドウや貸画廊のスペースを原型として、これを大 型化したところに、美術館の貸館制度があると見なすことも可能だろう。なお、明治期には物産 会の伝統と博覧会の流行があり、最も古い創立期の上野の博物館や、昭和初期の京都大礼記念美 術館は、博覧会用の陳列会場として建物が建設されていた。かつては、美術家たちがまとまって その作品を発表できる空間はきわめて少なく、また、「洋画」の展示に適した西洋風の建築空間も 少なかったため、貸し画廊の空間や美術館における貸し会場の習慣が広がったと考えられる。 大正15(1926)年に開館した東京都美術館は、日本で最初の公立美術館である。当初から美術 晶のコレクションはほとんど持たず、美術界の要望もあって国展や二科展といった公募展やフラ ンス現代美術などの企画展を中心として運営していた。このため、豊富なコレクションを持つ欧 28 米の美術館に比べると、収蔵品は貧弱であり、特定の美術団体が優先的に使用する貸し館に過ぎ ない、などという批半1」も繰り返された。博物館美術館が備えるべきものとして、コレクションと いう歴史的資産の常設展示を重視する欧米の美術館と異なり、借りてきた作品を一時的に展示す る企画特別展での動員人数を重視するなど、見かけだけの展覧会場的な要素ばかりに注目する傾 向は、これ以降、日本各地に乱立する美術館の運営方針を支配することになる。 昭和8(1933)年に開館した京都市美術館は、東京都美術館に次いで建設され、コレクション を持った近代美術館として登場した。東京都美術館と同様に公募展の貸し会場となったが、それ でも京都の美術家たちの作品を中心とする独自のコレクションを形成し、常設展も開始した。創 設初期から、作家の制作活動の援助のみならず、公衆の鑑賞活動を目標としている。現在、本館 の陳列面積は5039平方メートル、展示室数は24室あり、別館の陳列面積は926平方メートル、 展示室数は2室である。このように広い展示室を持つことで、「貸館」事業を企画展の開催と並ん で継続させており、「貸館」事業には、美術館主体の企画展と同程度の重要性が与えられているよ うだ。以下、美術館の転換期に開館することになった京都市美術館の例を通じて、日本の美術館 独自のものである貸館制度の委細やその意義について考察しておこう。 まず、京都市美術館の貸館としての展示室の使用率について述べるが、戦前期は、主催展共催 展をあわせても、特に夏期は展示室の使用率が低い。空調設備が整わなかった時代で、夏に美術 館を訪れる人も少なかったからであろう。貸館に限ってみると、昭和11(1936)年度頃から14 (1939)年度頃までが最も使用効率の高かった時期である。昭和15(1940)年より美術館の常設 展示がはじまり、その展示期間や回数が多くなると、貸館の件数はやや減少している。この当時 の貸館の申し込みは、いちいち美術館の評議員会で審議され、許可をうける必要があった。この 評議員会については開館当時に発布された「大稽記念京都美術館規貝■」」(昭和8[1933コ年)26に おいて、以下のように書かれている。 「第七條本館二評議員若干人ヲ置ク 評議員ハ美術家及美術二關シ識見アル者ノ中ヨリ市長之ヲ委囑ス 第八條 評議員八重要ナル館務二關シ館長ノ諮問二魔ジ又ハ意見ヲ開陳スルモノトス」 評議員は、美術家及び美術に関する見識を持った人が市長の依属によって任命され、評議員会 を構成していた。この評議員会に関しては、天心が明治22(1889)年に執筆したr京都博物館組 織」の中で、評議委員会は「本館重要ノ事項ヲ審議」する組織であると述べていたのと同様のも のであるといえよう。開館当時の京都市美術館(大礼記念京都美術館)では、貸館は評議員の許 可をもらわなければ実行できない、すなわち、一定のレベルのある美術家あるいは美術団体しか 美術館を借りることができないようになっていたのである。 戦後、大礼記念京都美術館は二時駐留軍に接収され、展覧会の開催と同様に貸館業務は困難を きわめた。だが、この時期の貸館件数はひどく落ちこんとはいえ、それでも貸館業務が途絶える ことはなかった。 昭和27年、接収解除を機に京都市美術館と改称し、美術館活動が全面的に再開された。主催展 と共催展の使用率が高くなって、貸館展の多くが姿を消した。この時期の美術館業務の特徴とし ては、以下の二点が挙げられる。一つは、貸館の手続きについて、評議員会に諮ることはせず、 美術館内で事務的に許可・決定するようになったことであり、もう一つは、貸館制度の利用者に 教育すなわち学校関係者が多くなってきたことである。戦前から美大展が開かれていたが、この 時期になると、美術科を持っ教育大学、短期大学、大学の美術部や書道部なども貸館の対象にな 26 椏s市美術館は、1928年(昭和3年)に京都で行われた昭和天皇即位の礼を記念して計画が始まったため、当 初は大礼記念京都美術館という名称であった。 29 った。 現在の京都市美術館では、貸館による団体展・グノレープ展などが年間100件前後となっており、 貸館は京都美術館の一つの重要な機能であることが分かる。貸館展示における展示作品の作者、 出品者の人数は、計上不可能だが、膨大な数にのぼるのである。だが他方、京都市美術館の貸館 事業は商業化しており、美術館本来の役割と離れつつあるようにも思われる。 「貸館」という名 の通り、展示室スペースの賃貸をするだけで、現実には、美術館と、展示室を利用する団体やグ ループの間に連携や交流などは見られない。美術館で貸館事業を担当するのは、事務手続きを担 当する総務課の行政職員だけで、学芸課の学芸員は貸館によって行われる団体展・グループ展と は一切関わりを持たないのである。 京都市美術館の貸し館は、原則として誰でも利用できるので、貸館事業を通じて美術館が市民 あるいは学生たちと接する機会が増えたということでもある。しかし、時代が下ると安価な貸館 には申し込みが殺到し、対応しきれないという問題も生じた。しかし、美術館で誰もが自分たち の作品を展示できるということは、美術館で展示する美術作品の基準が設定されていない、言い 換えればそれほど優れていない作品でも展示できる、ということであろう。美術館を訪れる人々 や貸し館で展示する人々は、そこに展示されている作品について、ある一定以上のレベルのもの であると無意識に思い込んでしまうか、または、出品作品の価値があがることを期待しているの ではないだろうか。そのような先入観があるとすれば、たとえ貸館による展示にせよ、作品の優 劣に関して誤解を生む危険性が考えられるレ、 「美術館」という名前だけの空虚な建物施設と化 す恐れも少なくないのである。この点は、今後貸館事業の課題にもなるのだろう。 六本木に新たに開設された国立新美術館(平成19[2007]年)は、各種美術団体による展示を 重視する施設である以上、戦前から日本で続けられてきた、美術館の貸館展示の発展形を示すも のとなるだろう。 京都国立近代美術館の場合は、「各美術館を芸術その他の文化の振興を目的とする事業の利用 に供することができる」と条例 27で規定されており、また、「各美術館を国立美術館以外の者 の利用に供する場合には、別に定める料金を徴収することができる」となっている。すなわち、 京都国立近代美術館でも原則的には貸館が可能とされているようだ。だが、歴史的に美術家たち や市民と深くかかわってきた京都市美術館のように、貸館制度が国立の美術館業務の重要な事業 の一つと見なされているわけではなく、現実にみると、京都国立近代美術館・京都国立博物館で は貸館事業を行っていない。 時代の発展とともに、個々の博物館美術館はそれぞれの展開を遂げており、明治期の岡倉天心 が抱いた日本の博物館美術館に関する構想と、現在の美術館の様子には、少なからぬ違いがある だろう。だが、ここに挙げた貸館制度の成り立ちや実情に見るとおり、特徴的な制度やその差異 の成り立ち、実情を調べ考察することから、現在の日本の美術館にみられる特性や課題・問題点 を発見することができるのである。 もちろん、美術文化財資料の収集保存、美術文化財資料の展示、美術文化財資料に関する教育、 という博物館美術館における事業活動の本質的課題は、岡倉天心の時代から大きく変わってはい ない。ということも可能だろう。しかし、戦後の日本は高度経済成長期をへて高齢化社会へと推 移するにつれて、社会教育や生涯学習の観点、さらには公共サーヴィスという観点が強調される ようになり、博物館美術館に何を求めるのか、博物館美術館は何を市民に提供するべきなのか、 いわば「需要と供給」のかたちについて、再び議論が高まりつつある。新しい需要、人びとが博 物館美術館に求めている事柄は何なのか、そこに生じている新たな問題や課題は何なのかという ことについて、さらに第4章で分析する。 27 @「京都市美術館条列施行規則」 昭和43(1968)年 30 第4章 日本の博物館美術館の課題 前章で紹介したとおり、京都国立博物館と京都国立近代美術館はそれぞれ独立行政法人国立文 化財機構と独立行政法人国立美術館に所属し、同じ機構に属している他の国立博物館・国立美術 館とそれぞれ連携して、毎年巡回展を開催している。京都市美術館は公立美術館のネットワーク 組織である「美術館連絡協議会(美連協)」に入会しており、加盟館間での巡回展を行っている。 美術館連絡協議会(美連協)は、全国の公立美術館が互いに協力し合いながら活動を活性化させ ようと、昭和57(1982)年12月、35館が参加して設立されたもので、2009年4月現在の加盟館 数は124館、主な事業には、美術展の共同企画や巡回展の開催、美術館員の海外研修派遣、優れ た企画に贈る「美連協大賞」及び図録に掲載された優秀な論文・解説に対するカタログ論文賞な どの顕彰事業、美術館の地域活動や学芸員の調査・研究活動に対する助成などがある。 現在の日本では、博物館美術館の事業をより効果的、活性的に発展するため、様々な美術館の 関連機関が設立されており、上述の美術館連絡協議会(美連協)のほかに、全国美術館会議、財 団法人目本博物館協会などがある。 全国美術館会議は、日本各地の美術館がともに考え、ともに行動することをめざして、昭和 27(1952)年に設立された。美術館の使命の実現を支え、その活動を社会的にしっかり根付かせる ため、総会、総会記念フォーラム、講演会、学芸員研修会、研究部会などを毎年開催し、その成 果を会員館や、広く美術関係者、また、一般の人々と共有するこ.とを員指している。財団法人目 本博物館協会は、昭和67(1986)年7月31日に設立された文部科学省所管の公益法人である。 青少年及び成人による生涯学習の進展を図るため、博物館振興のための調査・研究開発並びに指 導・援助を行い、我が国の文化の発展に寄与することを目的として活動している。 美術館に関連する各機関の共存は、美術館の活動・事業に利するだけでなく幾つかの問題点や 欠点をはらむこともあるだろう。美術館と美術館の間、人びとと美術館の間には、なおも様々な 課題や問題点が存在している。 前章では、三つの国公立博物館美術館を通じて現在の日本の美術館で展開する様々な活動・事 業の計画や制度、その特徴やそれにともなう課題・問題点を論じたが、本章ではさらに、いくつ かの展覧会と美術館の社会教育活動を分析し、前三章に紹介した岡倉天心の観点や日本の博物館 美術館に関する制度・法規などを参考に、日本の現在の博物館美術館が抱える具体的な課題・問 題点をまとめて論考したい。 第1節 文化財保存の問題 平成21(2009)年4月25目から7月5日まで、東京都美術館では「日本の美術館名画展」が 開催された。全国の公立美術館約100館が参加し、その膨大なコレクションの頂点をなす、還り すぐりの名品を一堂に公開するものだった。同展は、美術館連絡協議会の創立25周年記念展でも あり、教科書に掲載されている作品から、所蔵美術館から外部に出品されたことがない秘蔵の作 品まで、西洋絵画50点、日本近代洋画70点、日本画50点、版画・彫刻50点の220点が集めら れた。他方、同展に関連して同年10月15目の「読売新聞」文化欄に掲載された記事「所蔵品修 復ままならず/公立美術館」では、日本の公立美術館の美術品保存の現状と問題点について論じた。 この記事の中で、「日本の美術館名画展」のために集められた作品の状態のチェックを担当した絵 画修復家、岩井希久子氏は、公立美術館の作品保存について以下のような事柄を述べている。 ・収蔵から何十年もそのまま、と感じさせるものが多かった。 31 ・現状や修復歴を記録し、病院のカルテに当たるr状態調書」 (コンディション・リポート) を添えた作品も2∼3点のみ。絵画修復家は展覧会の前後に作品を調べ、異変がないかと うか確認するが、その基本データが不十分だった。 ・予算も人も削減される中、所蔵品の保守は後手に回っているのが現実だ。 ・「名品展」を主催した美術館連絡協議会が加盟124館に行ったアンケート調査(回答99 館)によると、 「保存修復担当の学芸員がいる」との回答は19館あった。 ・日本の公立美術館では、予算も協賛金集めも、国内外から作品を集める企画展が優先される。 「欧米は日本と逆で、コレクションをきちんと見せることが柱になっている。」 「日本の美術館名画展」のように、美術館が多数連携する企画展覧会を通じて、それぞれの館 だけでは認識されにくい、または調査しにくい問題が発見されたということができよう。明治以 来、美術館の数は増え続けたといえるが、実際の内情に眼を向けてみると、美術館の運営状況、 とくに所蔵品の保存管理について満足のいく水準にある館は少ないのである。上記の5項目と、 岡倉天心の考えとを比較してみると、美術品保存・修復をめぐる現在の問題が、よりはっきりと 理解されるだろう。 岡倉天心は、「美術品保存二付き意見」の中で、美術品の蒐集や保存修復に必要な十分な予算と 「権力」、すなわち行政上の制度の充実や強力な運営体制が必要となることを指摘していた。すな わち、運営資金も人材も不足している現在の美術館では、美術品の保存・修復はきわめて困難で あるといえるのではないだろうか。 また、「中国目本美術部の現状と将来」の中では、天心は美術品の日常保存に加えて「登録順目 録」、r所在目録」、r評価目録」の作成を通じて管理する必要があると語っている。これについて も、現在の美術館では人員が不足しており、それらの美術品の基本データを正確に作成・管理す ることが不十分なままとなっているのである。 美術館の人員構成について、「コレクション保管係」「保管係助手」、「助手」と「修理係」を置 く必要があるというのが、ボストン美術館での実務経験をもつ天心の考えである。こうした考え をしっかりと理解する人材やその十分な人員の配置が、日本ではまだできていない、ということ でもあろう。前章で紹介した京都の三つの博物館美術館は、歴史も影響力も名声もあるが、その 三つの館の申で唯一、京都国立博物館しか美術品の保存・修復部門が整備されていないのが現状 である。 第2節 展示の問題 天心はとくに、収集・保存された美術晶より多くの人々・国民が鑑賞できるように展示する必 要があり、それによって、日本という国の伝統文化の価値を諸外国に示し、名誉を得ることが重 要だ、と考えていた。すなわち、美術館の所蔵コレクションに更に力を入れ、行き届いた保存・ 修復のもとで一般公開することが重要だと考えていたのだろう。 周知の通り、日本の博物館美術館では、作品保護のため展示の期間が短く制限され、会期を何 回かに分けて作品を取替えざるをえない。博物館美術館での展示について、常設展の展示替えの 多さが問題点の一つになっているが、常設展に限らず、日本美術の企画展についても同じことが あてはまる。このほか、美術館が所属する機構の違いによって共催展の開催が難しくなること、 美術館をただの展示会場とみなして賃貸する「貸館」制度、入館料の無料制度なども、展示すな わち、人びとの鑑賞や見学の機会とその質に関わってくる重要な問題点に数えられるだろう。 ■展示替え 32 たとえば、平成19(2007)年に京都市美術館で開催されたr特別展 京都と近代日本画」とい う展覧会では、会期を前期と後期に分けていた。展示された美術作品は総計で109件、通期で展 示したのは61件、前期のみの展示は23件、後期のみは25件である。平成18(2006)年に京都 国立近代美術館で開いた「プライスコレクション 若沖と江戸絵画展」では109件の美術品が集 められ、前期展示と後期展示とのあいだで、8件が展示替えされた。京都国立博物館では、今年 (2009)、「京都御所ゆかりの至宝」特別展覧会が開催されたが、期間中の展示替えにくわえて6 曲1双の屏風2件について、対となる屏風1双をそろえた状態ではなく、左隻・右隻を分け、違 う期間で展示したことは、良くも悪くも特筆に価することであった。一方は江戸時代の「立花図 屏風」六曲一双、もう一つは江戸時代寛永19(1642)年、狩野探幽筆の「源氏物語図屏風」」六 曲一双で、それぞれの左隻・右隻が片方ずつ、前期・後期に展示されていたのである。展示期間 の制限の必要性は理解できるが、一対の屏風を分断し、二回に分けて展示するのはなぜなのだろ うか。 さらに理解に悩むのは、平成21(2009)年7月25目から9月6日まで、東京のサントリー美術 館で開かれた「美しきアジアの玉手箱/シアトル美術館所蔵 日本・東洋美術名品展」である。シ アトル美術館は目吾和8(1933)年にアメリカのシアトル市で設立され、7000件に及ぶ日本・東洋 美術コレクションを保有する美術博物館である。上記の展覧会では、時代もジャンルも多岐にわ たる名品約100件が公開された。シアトル美術館の同コレクションがアメリカ国外でまとまった かたちで公開されるのは世界初のことであり、重要な展覧会として高い関心を集めたが、《度下絵 和歌巻》の展示とその展示換えについては、やや問題があったと思われるのである。 《度下絵和歌巻》は当初一巻の長大な巻物であったが、前半部分が細かく切断された。後半部 分は幸いにも裁断をまぬがれてシアトル美術館に伝存するが、前半部分は美術館や個人コレクシ ョンに分蔵されている。上述の展覧会では、シアトル美術館所蔵の後半部分と、前半部分の断簡 のうち数点が同時に展示されるといわれていた。しかし、実際の展示の状況、その期間は下の表 のとおりであった。 員数 一巻 8/5−8/10 8/12−8/17 8/19−8/24 8/26−8/31 O ○ O O ○ O O O O O 個人 O 個人 ○ サントリ ○ O O O O O O O ○ O O ○ ○ ○ ○ O シアトル 山種 ?p館 [美術館 五島 ?p館 一巻 9/2−9/6 7/25−8/3 ?p館 一幅 展示期間 所蔵 MOA ?p館 一幅 O 個人 *展覧会の出品リストに基づく、筆者作成 33 せっかく日本の美術品が里帰りし、それらをすべて一緒に見ることのできる機会だったのにも 関わらず、展示期間の違いにより、別々に見るしかなかったのである。この展覧会では、《度下絵 和歌巻》28の現存する画巻すべてが揃えられていたわけではないが、集められた分だけでも、す べてを一同に展示する期間が僅かでもあれば、観覧者に全体的な印象をより伝えやすくなったの ではないだろうか。展示期間の制限と展示換えの問題にくわえて、公衆の本当の二一ズを考えて 展示すれば、もっと人の目を弓1き付けることができるのではないだろうか。 ■共催展 竹内栖鳳(元治元[1864コ年11月22日一昭和17[1942コ年8月23目)は明治期から昭和期 までの日本画家であり、幸野楳嶺門下で傑出した日本画家たち、「楳嶺四天王」の筆頭とみなされ たほか、大正2(1913)年に「帝室技芸員」に推挙されることで、名実共に京都画壇の重要な地 位を確立した。代表作品は《絵になる最初》、《秋興》、《斑猫》などである。 栖鳳は京都市美術館のコレクションを代表する画家のひとりであり、同美術館では創設以来、 様々な企画のもとで栖鳳の作品を展示してきた。たとえば、昭和45(1970)年9月5日から9月 27目までの「竹内栖鳳とその後の展開」特別展、昭和58(1983)年9月3日から10月2目まで のr半世紀のコレクション」記念特別展、平成19(2007)年10月6目から12月9目まで開催し た特別展「京都と近代目本画」などがある。また、今年(平成21[2009コ年)の1月24日から3 月29目まで開いた「京都市美術館所蔵品展 画室の栖鳳」という「企画常設展示」では、栖鳳の 代表作と共に画家の使用したスケッチ帖や素描、本画にいたるまでの準備段階を示す下絵などを 併せて展示した。学芸員の精密な調査研究と展示構成プランによって、良心的で質の高い展示が 実現していたと評価できる。 しかし、京都市美術館は、栖鳳の代表的な作品である《秋興》と《斑猫》を所蔵していない。 このことは、展覧会を見に来る人にとって非常に残念なことであ一る。 調べてみると、京都市美に隣接する京都国立近代美術館は竹内栖鳳の作品を23件収蔵しており、 その中には《秋興》、《雨霧》などの代表作も含まれる。京都国立近代美術館は平成14(2002)年 の「日本画への招待」展、平成17(2005)牛の「ポール・クローブルと京都画壇」展、平成18 (2006)年の「揺らぐ近代 日本画と洋画のはざまに」展などで竹内栖鳳の作品を展示している のである。 しかし、この二館が竹内栖鳳の作品をお互いに貸し借りすることは比較的少なく、また、両美 術館は一度も竹内栖鳳の共催展を開催していない。『京都市美術館四十年史』の中では、「共催展 とは京都市が他の団体(たとえば他の美術館、新聞社、財団法人など)と共同して主催した展覧 会のことである」と説明しているが、どうして二館が竹内栖鳳の作品の共催展を企画しないのだ ろうか。これには、所属の機構の違いから行政上連携しにくいという理由が考えられる。すなわ ち、共催展を企画する際に、国立・公立の別といった制度上の判断が強く働き、参観者の立場か ら考えるという意識が弱いのではないだろうか。 第2章で論じたとおり、博物館美術館に収蔵する美術品は地域あるいは各館の特長を持つべき だ、というのが天心の考えである。東京の博物館では、江戸幕府時代の優れた美術品を収集する 以外に、日本の首都という立場から日本を代表してアジアの美術品も収集するべきである、また、 京都の博物館では平安時代から江戸時代以前の美術の美術品を収集し、奈良の博物館には奈良時 代の美術品を収集するべきである、と天心は述べていた。このように、東京、京都、奈良の三つ の地域の博物館が、それぞれ地域の特性をもって収集するという天心の考えに照らしてみると、 s度下絵和歌巻)):紙本金銀墨書、1610年代(桃山一江戸時代)、本阿弥光悦書・俵屋宗達画。鹿のみを描いた 巻物に新古今集の秋の歌を書写した作品。 2呂 34 いくら所属する機構の違いがあるとしても、展覧会の展示内容を深めるためには、地域の違う美 術館の連携より、同一または近隣地域の博物館美術館の連携が有利であると思われるのである。 天心は展示の目的を四つの観点から論じていた。第一には、同時代の美術の現状を展示に通じ て世に表すこと。第二には、有名な画家の作品を展示しその優れた技を世に表すこと。第三には、 画家の流派を世に表すこと。第四には、伝統画法を受け続く状態を世に表すこと。しかし、様々 な制限から、これらの観点に沿った展示が困難な場合がある。先に挙げた幾つかの展覧会の例は、 自国の人の目さえ十分に満足させられない、注目を集められないのに、外国人をどうやって引き 付けるのだろう。 なお、日本の美術館では外国から作品を集めて紹介する企画展ばかりが優先され、参観者の多 くも日本美術の展覧会より西洋の美術品を取り上げた展覧会に魅力を感じているようだが、しか し、以下にみるような京都国立近代美術館の展覧会の例では、来館者が自国の優秀な画家の作品 に深い興味関心を抱いていることが分かる。 年代 展覧会名 平成 所蔵品展 開催日数 305 274,268 123,000 平均入館者数 899 18 藤田嗣治展 48 224,297 75,000 4672 年 (企画展) 38 110,419 25,O00 2905 264,680 231,000 1171 182,354 201,000 3315 プライスコレクシ 展示替回数 14 入館者数 目標数 ヨン若沖と江戸絵 画展(企画展) 所蔵品展 226 19 ルノワール十ルノ 55 年 ワール(企画展) 平成 11 *独立行政法人国立美術館の「平成18年度業務実績報告書」に基づく、筆者作成 日本出身だがフランスで成功を収めた画家、藤田嗣治(1886−1968)の展覧会と、印象主義の 画家ルノワール(1841−1919)とその息子の映画監督の作品を扱った展覧会では、入館者数がほ ぼ同じ程度となっているが、設定されていた目標数値を見るとなんと2倍以上の差がある。日本 の美術館が西洋美術の企画展覧会に過大な期待をかける傾向にあることが、よくわかるだろう。 しかし、実際にはルノワールは目標数を達成できず、他方、藤田嗣治展は目標あるいは予想数値 をはるかに超える、2倍以上の来館者を得ている。また、日本の伝統美術を扱った「若沖と江戸 絵画」の入館者数は、目標数の4倍以上に達した。つきつめてみるなら、市民・国民の関心を捉 えた中身のある展示内容、優れた展示構成によって来館者数は大きく変化するものでもあろう。 来館者数の目標数値設定と、実績とのあいだに大きなずれがあるということは、展覧会の企画や その内容について、美術館白身の予測的な評価が間違っているということ、さらには企画に関わ る学芸員・専門研究者たちの自己評価や予測が不確かで、社会の二一ズに結びついていない、と いうことをも意味するだろう。 なお、企画展の観覧料は、平均して所蔵品展(常設展示)の観覧料の約3倍だが、企画展の来 館者数は所蔵品展の3−5倍となる。所蔵品展は通年の常設展示であるからいっでも見ることが できる、という考え方があるためか、所蔵品展示の来館者は少なくなりがちであるようだ。しか し、展示換えによって所蔵品展示が少しずつ順番に入れ替えられていくこと、しかも所蔵品の中 に優れた日本の美術作品が数多くあることに留意するならば、所蔵品展示の観覧者数は少なすぎ ると思われる。企画展・特別展と、常設展・所蔵品展示との差は、大きな問題ではないかと考え 35 られるのである。 京都市は、京都市美術館の活動を観光行政の一環とみなし、文化市民局の所管としてきた。し かし、展示の問題などにもよるだろうが、平成20(2008)年の「京都市観光調査年報」に掲載さ れた「市内訪間地調」によれば、京都市美術館に行く訪間者は京都に旅行へ行く人の全体の4.4% で、18位だった。清水寺、金閣寺など上位を占める古跡を除いても京都市美術館は比較的下位と なる。明治期、「国の盛観を現すことができる」施設として天心が構想していた美術館の姿はどこ にいったのだろうか。国の美術文化を示す代表的な美術館博物館、フラッグ・ミュージアムの地 位を担うのが国立の博物館であるとしても、現在、数多くの公立私立の美術館が林立するに至っ ては、今一度、地域におけ・るそれぞれの美術館のあり方やその位置付けについて、慎重に再検討 することか必要となるだろう。 ■無料制度 第3章で紹介した美術館の無料観覧制度は、美術館がより多くの人を招くために制定されたも のだろう。しかし、欧米の博物館や美術館の多くは入館料を無料としており、とくに学生は制限 なしで無料である。たとえば、ロンドンの大英博物館では入館料は無料であり、その運営は入館 者や支援協力者の寄付で成り立っている。フランスのパリ市が運営している15の博物館美術館は 全て入場料無料(特別展を除く)で、ルーブルやオルセーなどの国立美術館も毎月第一日曜目は 無料である。この日以外に、7月14日の革命記念目や9月半ばの週末に設定される文化遺産の日 でも、普段は有料の美術館が無料になる。これらに関して、欧米の美術館の収蔵品の多くは植民 地時代に海外から略奪してきたものであり多大な資金を要していないので無料で公開する、これ に対し日本の収蔵品は購入によって集められたものであるから資本の回収として料金を徴収する のだ、という解釈がなされることがある。しかしその根底にあるのは、芸術文化産業に対する人 びとの資金の使い方のちがいであろう。日本では文化施設の建設も多く行われているが、情けな いことに、建物を作るだけで、運営していくための維持予算はごくわずかである。 日本の「博物館法」の第三章には、公立博物館の入館料等についての記載がある。「第23条公 立博物館は、入館料その他持物館資料の利用に対する対価を徴収してはならない。但し、博物館 の維持運営のためにやむを得ない事情のある場合は、必要な対価を徴収することができる」。すな わち、公立の博物館美術館は運営資金が足りない時にのみ入館料を徴収できるのである。諌言す るならが、運営予算の不足が常態化しているため、入館料や観覧料の徴収が習慣化しているので ある。 もちろん、入館料を全て無料にすると、参観者が増加して社会的な教育効果を高められるのだ が、その反面、運営資金の不足が問題になる。現時点においては、入館料の徴収以外の方法がな く、このことは学芸員たちの悩みの一つでもある。 学生、高齢者、障害者に対する無料制度の他に、「国立美術館キャンパスメンパーズ」という会 員制度や、京都国立近代美術館と京都市美術館の友の会における入館料の免除等の優遇制度が設 けられている。しかし、日本の無料制度あるいは優遇制度の現状では、全ての国民を惹きつける ことは難しいだろう。 第3節 教育活動の問題 昭和26(1951)年制定の博物館法により、博物館美術館が「社会教育のための機関」として、 位置付けを定められた。各館では、社会教育を実現するため、展覧会とともにテーマ講演会やワ 36 一クショップを行うことが多い。ただし、京都国立博物館のように定期的に小中学生を対象とし て体験型の活動を実施するところは多くはない。小中学生を案内・指導する専門的なプログラム の準備には手数がかかるので、人員不足の美術館には敬遠されがちなのだろう。 講演会は、その館あるいは他の美術館の館長や学芸員のほか、美術史学の研究者、美術家・美 術学校の教授など関連分野の専門家が講師を担当する。岡倉天心は「美術館案内制度に関する幾 つかの提案」の中で、美術学校の学生、公衆、専門家によって、講演あるいは講座の内容が異な るべきだと述べている。美術学校の学生には、美術の様々な分野の知識を教えるための定期的な 講座が必要であり、すぐれた作品の展示がある美術館で、その作例に関して専門家が講演するよ うな講座は、学校で行われるより美術館の方が効果的な場合がある。美術のすべての分野に興味 がある人、いわゆる美術愛好者で、美術に関するあらゆる知識や教養を深めたいと考えている人 びとは、美術館でどんな講演が行われるかではなく、むしろ講演会の有無に関心を持っている。 美術の専門家たちには、特定の作品・作者や専門的なテーマに関する講義が望ましい。現在の博 物館美術館では、開催中の展覧会の内容に関わる講演会が多く、対象別で講義をする館は少ない といえよう。 ではさらに、美術館において近年盛んに行われている「ワ]クショップ」について分析してみ よう。ワークショップ(Workshop)を「広辞苑」で調べると、本来の語義は「仕事場、作業場」 であり、「所定の課題についての事前研究の結果を持ち寄って、討議を重ねる形の研修会。教員・ 社会教育指導者の研修や企業教育に採用されることが多い」と説明されている。体験型の講座、 という意味でのワークショップは、受講者・参加者がみずからの経験を通じて問題解決やトレー ニングをはかるものであり、アメリカのハーバード大学において、ジョージ・P・べ一カー(George Pierce Baker/1866−1935年)が1905年から担当した戯曲創作を共同で実践する授業に起源を 持っとされる。 現在の日本の美術館におけるワークショップがどのような展開をしているのか、ごく一般的な 例として、京都市美術館の所蔵品展「画室の栖鳳」の開催期間中に開かれた以下二つのワ]クシ ョップを通じて問題点を覗いて具体的に分析してみよう。 ■ワークショップrあなたも画室の栖鳳!下絵に挑戦」29 (1) 目 時 平成21年2月28目(土) 午後1時30分∼4時30分 (2)講 師 山本太郎(ニッポン画家) [表記ママ。講師自身による公称コ (3) 内 容 目本画を描くのに欠かせない小下絵、大下絵づくりを体験し、下絵は日 本画制作になぜ必要なのか、本画と下絵はどのような関係にあるのか を考える。 (4) 参加費 1,000円(材料費) (5) 対 象 中学生以上 (6) 定 具 (7) 申 込 20名(応募者多数の場合は抽選) 往復はがき(返信面には自分の住所氏名を記入してください)、FAX、 電子メール(bijutsukan@city.kyoto.jp)にて申込を受け付けます。 何れも,参加者の住所,氏名,電話番号を記載して,〆切(2月18 目[水コ必着)までに送付してください。 2蓼 椏s市美術館のウェブサイト(http:〃ww,city.kyoto.jp/)より(2009年9月)。 37 発表者はこのワークショップに参加した(付録3)。参加者は15名で、学生2名、中年者4名、 高齢者9名だった。講師、山本太郎氏は日本画を学んだ画家だが、日本画の伝統的なモティーフ や構図のなかに現代性を加味することで注目・評価されている新世代の画家であり、「ニッポン画 家」を自称している。京都市美術館の学芸員、後藤結美子氏が講師を依頼し、ワークショプの企 画内容について山本氏を補助し、画具画材や資料の準備・配布などにあたっていた。場所は京都 市美術館の増築部分にあたる小さな「講演室」である。 講師が自分の作品を映像で紹介したうえで、その下絵を小下絵から大下絵まで示し、日本画の 下絵の準備や制作過程について説明したので、理解しやすい。しかしながら、講師が自分の作品 を紹介しすぎて、主題の「栖鳳」と関係がないワークショップのようにも感じられた。参加者が 実践した内容は、小さな写真をトレースして輪郭線を作ること、その線描画を拡大転写しながら 線を改良し、作品の下絵として、さらに水彩で着彩して自己の絵画を作り上げることである。講 師は日本画における線描、輪郭線を取ることの重要性を説明し、美術館からはトレースに用いる 写真として、竹内栖鳳旧蔵の写真資料から舞妓や風景の白黒写真を提供していたが、しかし、写 真は参加者が自分で用意してもよいことになっていた。描きたい風景あるいは人物、動物の写真 を持ってきて、それを使って下絵を練習するのである。ただし、どんなものが練習に適している のか分からない参加者に対し、講師が適当な材料を用意するべきではないだろうか。また、日本 画の絵筆の使い方や竹内栖鳳の描線、日本画の特質についてはやや説明不足がと.思われた。 ワークショップは学校の教育とは異なり、体験内容を継続して行うことがあまりない。という わけで、三時間という短い時間を最大限有効に使うには、参加者にとって充実した体験にするこ と一実体験としての制作活動の時間 が一番重視されることになる。しかし結局、このワー クショップでは、トレースから下絵、そして着彩仕上げまでの全過程を体験できない人も多かっ た。講演内容、制作の時間配分など、こうした問題はすべての美術館のワークショップに存在す るわけではないが、実情として、よくあることだろう。 ワークショップは、美術の専門的な領域を市民・公衆の生活と密接に結びつけるための有効な 方法の一つである。天心によれば、一般大衆は美術の知識をほとんど持たないので、彼らの興味 を起こさせることを目的とし、「美術品の人間的な面の関心が技術的な面での関心よりも強調され るべきである」という。すなわち、ワークショップにおける教育活動は、公衆の興味を起こす方 法を考えながら計画するのが望ましい。つまり、京都市美術館の上記のワ]クショップは、市民 の関心や興味を起こさせるという意味においては、ある程度良心的で誠実な試みであったという こともできるのである。 京都市美術館でおこなわれたもう一件のワークショップは、小学生とその保護者を対象とした 「子どもワークショップ『親子で楽しくリサイクル!ポスターバッグ』」(平成21年2月22目) である。天心は学童に対して、無意識的に美術の楽しさを感じさせ、美術は生活に関わり、生活 の一部分であることを実感させるべきだと強調していた。この二件目のワークショップは、美術 大学の学生の指導のもと、展覧会ポスターを使って紙袋を作るもので、開催中の栖鳳の展覧会の テーマとはほとんど関係がないと思われたが、天心の考えの通り、小学生の興味と特徴を重視し た企画だということもできよう。 美術館でのワークショップには、知識層に限らず、幅広い年齢の人が自由に参加できる。その 点はワークショップの有利な面だが、実施の際には様々な問題が派生しやすい。多様な参加者の 資質、制作作業の速度の違いにどう対応するかなど、これらの問題を解決するには経験を重ねて 方法を探すしかないのである。 また、展覧会場内で当館学芸員による解説会は期間中わずか2回だった。これは学芸員が多忙 であるためだろう。解説内容についてある程度訓練を受けた会場係、アデンタント・スタッフや 38 ボランティア・スタッフを養成することが必要なのではないかと思われるが、それは、既に明治 期にあって天心が、美術館の「案内係」が特別な訓練をやらなくてはならないと強調したことで もあるだろう。京都国立近代美術館のように、教育普及事業の実践に当たる人材の育成、学芸担 当職員の専門知識の向上等を図る研修などを行う組織体制が、今後さらに数多く設けられていく ことが望ましいのである。 本章では、日本の博物館美術館の現状と問題点をいくつかの事例を通じて分析してみた。美術 品の保存・修復から、美術品の展示、美術品に関する教育の問題、特に日本の美術館の貸節制度 などの遠景には、岡倉天心の当初の構想と、その後の相関する法律、美術館博物館の組織制度の 展開がある。明治期以来、日本の博物館美術館が独特の発展を遂げるとともに、今もなお、幾つ かの問題や課題を抱えていることは理解できるが、それらをこれからどう解決するのか、どのよ うな方向や位置付けに向かうのかは、大きな課題であるだろう。 結 岡倉天心の考えにより、第一、美術文化財の保存は国の栄耀を示すので、重視するべき。なお、 美術文化財の保存は博物館美術館で行った方がより有利であると述べた。第二、博物館美術館の 展示について、展示の内容が美術館の特性、地域の特性を持つべき。また、参観者のレベルによ って展示の説明が異なるべき。第三、美術教育について、岡倉天心は専門の美術家の養成、美術 の普及における「美育」の重視と美術教育者の養成、そして美術の振興における「美術商業」、こ れらの三点の分析・論考を通じて、美術教育の必要性を痛感し、美術教育は美術の興隆や向上の ために重要な一環だと考えた。そして、美術教育の必要な施設として博物館を列挙,した。天心は r博物館」あるいは美術館をめぐる事業に大きな関心を寄せた。 現在、日本国内の国公立・私立の主要な博物館美術館が加盟する「全国美術館会議」では、人々 と美術館の関係を以下の六つの項目にまとめている 3。。 r学ぶ 美術館で知る、わかる! 体験する 五感を使って感じる、考える! 表現する 思い(イメージや考え)を言葉や形に! 伝える 言葉を通じて生き生きと! 育てる 美術を未来へつなぐサポーター! 支える 美術館はみんなの力で立ってます!」 すなわち、美術館は市民・公衆にとってなくてはならない施設である。とりわけ、美術館にお ける市民・公衆の教育は、現在もっとも注目される重要な機能であろう。現在の博物館美術館が それを重視し始めたが、実際には様々な不足点がある。たとえば、展示替えの頻度が高い、日本 独特の「貸館制度」を通じて学校の美術教育と繋がる問題、教育活動の企画が不十分などである。 これから、日本の博物館美術館にはもっと参観者の立場から考えて活動をする必要があるだろう。 ヨ。 S国美術館会議のウエブサイト(http:〃ww.zenbi.jp/)により(2009年9月)。 39 参考文献: 岡倉天心 著『岡倉天心全集』 安田靱彦・平櫛目ヨ中監修、隈元謙次郎・岡倉古志朗・木下 順二・河北倫明・橋川文三編集、全8巻、平凡杜、1979−1981年。 村形明子 編訳『アーネスト・F・フェノロサ資料』(全4巻) ミュージアム出版、1982年。 山口静一 編『フェノヒサ美術論集』 中央公論美術出版、昭和63(1987)年。 『明治文學全集79明治褻術・文學論集』 筑摩書房、昭和50(1975)年。 木下長宏 著『岡倉天心一物二親スルハ寛二百無シー』 ミネルヴァ書房、2005年。 椎名仙卓 著『明治博物館事始め』 思文閣出版、1989年。 椎名仙卓 著『日本博物館発達史』 雄山閣出版、1988年。 『博物館学ハンドブック』 高橋隆博、森 隆男、米田文孝編著、関西大学出版部、 2005年。 『現代美術館学』 並木誠士、吉中充代、米屋優編著、昭和堂、1998年。 佐藤道信 著『〈日本美術〉誕生』 講談杜、1996年。 京都市美術館『京都市美術館四十年史』 『東京芸術大学百年史』東京美術学校篇 財団法人 芸術研究振興財団、東京芸術大学百年 史刊行委員会編集、昭和62(1986)年。 「フェノロサの美術館論一美術博物館とその一般市民との関係」斉藤千蘭、『LOTUS』第22号 日本フェノロサ学会、平成14(2002)年、p.31−p.49。 参考図録: 一 『ボストン美術館東洋美術名品集』 ボストン美術館東洋部責任編集、1991年。 一 『岡倉天心とボストン美術館展』 名古屋ボストン美術館編集、1999年。 付録: 1.岡倉天心の活動(略年譜) 『岡倉天心全集』(別巻)に基く。筆者作成。 2.京都国立博物館組織 独立行政法人国立文化財機構(http://㎜.nich.go.jp/)より引用(2009 年9月)。 3.京都市美術館、平成21(2009)年12月28目に開かれたワークショップ「あなたも画室の栖 鳳!下絵に挑戦」の現場写真、筆者撮影。 40 付録1.岡倉天心の活動(略年譜) 『岡倉天心全集』(別巻)に基く。筆者作成。 和暦 西暦 職歴 主な活動 明治13年 !880 文部省音楽取調掛 フェノロサの通訳と (1O月) 主な論著 して京都・奈良の古 社寺に訪問(8月) 明治14年 1881 文部省専門学務局 勤務、音楽取調掛 兼務(11月) 明治15年 1882 音楽取調掛の兼務 九鬼隆一文部少輔に 辞任 従い京阪近畿地方方 「書ハ美術ナラスノ論ヲ 訪ム」(8月) 文部省内記課勤務1 社寺を調査(9月) (6月) 専修学校に出講 フェノロサの通訳と して狩野芳崖に訪問 (11月) 明治17年 1884 鑑画会会員(2月) 九鬼隆一の学事視察 (長崎、佐賀)に随 大目本教育会会員 行(2月) 龍池余録事(1月) 東洋絵画会学術委 京阪奈良の古社寺調 査、フェノロサが顧 員(7月) 間として参加(6月) (4月) 文部省図画教育調 査会委員(12月) 明治18年 1885 文部省学務一局詰 「美術ノ奨励ヲ論ス」(1 月) (準判任官)(2月) 「絵画配色ノ原理講究セ 同局の図画取調掛 サルベカラス」(5月) 委員(12月) r日本美術ノ滅亡坐シテ 文部下等属、文部 大臣(森有礼)官 侯ツヘケンヤ」(1O月) 房詰(12) 明治19年 1886 「文部省二美術局ヲ設ケ 主幹(2月) 古美術調査のため大 阪・奈良へ出張(4 文部属(3月) 月) 「東洋絵画共進絵批評」 判任官(5月) 京阪地方の古美術調 (4月) 文部省美術取調員 査(8月) 「美術品保存二付意見」 美術調査員として、 (4月) 文部省図画取調掛 (9月) ラレ度意見」(草稿、3月) フェノロサと共に欧 米出張(9月) 明治20年 1887 東京美術学校幹事 欧米から帰国(10月) (10月) 文部省褒賞画取調 委員(10月) 41 「鑑画会に於て」(11月) 専門学務局兼務 (11月) 明治21年 !888 宮内省臨時全国宝 京都、滋賀、大阪、 物取調局取調掛(9 奈良、和歌山に古美 月) 術調査(4月) 帝国博物館学芸委 関西地方古美術調査 員(10月) 明治22年 明治23年 1889 1890 「博物館に就て」(8月に 講演、9月に掲載) 「京都博物館組織案」(草 稿) (5月) 帝国博物館理事兼 古器物調査のため、 美術部長(5月) 茨城に出張(7月) 「美術展覧会批評」(4 月) 古美術調査のため、 「円山応挙」(10月) 栃木に出張 「狩野芳崖」(11月) 東京美術学校幹事 を免ぜられ、教諭 京都・奈良の帝国博 となる(8月) 出張(1月) 東京美術学校校長 兼務、同月教授と 京都市画学校に見学 なる(10月) 奈良地方へ出張(12 専門学務局兼務辞 月) 物館の準備のため、 「説明東京美術学校」(8 月) 「支那古代ノ美術」(11 月) (1月) 任(7月) 明治24年 189! 明治25年 1892 東京美術学校校長 兼教授 日本青年絵画協会 会頭(11月) 東京彫工会副会頭 (3月) 東京専門学校(現 早稲田大学)の科 京都・奈良の帝国博 物館の準備のため、 「シカゴ博覧会出品画に 望む」(3月) 出張(3月) 外講師(9月) 明治26年 1893 明治27年 1894 清国に漫遊 」「支那美術品蒐集二係ル 意見」(3月) 「美術教育二付意見」(6 月) 明治28年 1895 「美術会議設置二代意 見」(草稿、11月) 明治29年 1896 帝室技芸員選択委 貝に任命され(3 古社寺保存会より京 都、奈良、滋賀、和 月) 歌山へ出張(9月) 日本絵画協会副会 頭(4月) 古社寺保存会委員 (5月) 42 「宗教行政二関スル私 見」(草稿、1月) 明治30年 1897 京都、奈良へ出張(宮 内省、3月) 「美術教育の施設に就き て」(8月) 「日本絵画史図説」 明治31年 1898 帝国博物館・東京 「日本美術院創設の趣 美術学校辞任(3 旨」 月) 日本美術院院長 (!0月) 明治32年 1899 東京彫工会副会頭 辞任(1月) 宝物調査のため、九 州に出張(内務省、6 仇州博物館の必要」(2 月) 月) 明治33年 1900 明治34年 1901 飛弾地方へ古社寺調 査(5月) 国宝調査のため、京 都、奈良へ出張(内 務省、7月) 明治35年 1902 帝国教育美術部常 「現代日本美術について の覚書き」(3月) 議員(3月) 明治36年 1903 鳥取、島根、山口の 古社寺調査(3月) 明治37年 1904 ボストン美術館東 「絵画における近代の問 洋部顧問(3月) 明治38年 1905 題」(9月) ボストン美術館の美 術品収集のため京 都、奈良に滞在(5月) 京都、奈良ヘボスト 明治39年 ン美術館のため美術 品を購入(4月) 明治40年 1907 「公設美術展覧会に対す 国画玉成会会長(9 希望」(12月) 月) 明治41年 「中国目本美術部の現状 !908 と将来」(5月) 明治43年 1910 東京帝国大学文科 講師(4月) ボストン美術館の 中国目本部長(5 月) 明治44年 明治45年 !91! ボストン美術館のだ め観音像などを購入 1912 「東洋褻術鑑識の性質と 価値」(4月) 「美術館案内制度に関す る幾つかの提案」(12月) 43 付録2.京都国立博物館組織 独立行政法人国立文化財機構(http://㎜.nich.go.jp/)よ り引用(2009年9月)。 ■京書8立構構録1 鰯 鎚 {蛇蛯・■^旧引 糠鯖係蔓 戯・・1=長 幸吋湾係災 鰍十痛1脹 蟻暖潔簡{弄疑 蜘I■1服隠㈱蛇箏絹州州 i1減1雀疑 ク1帆管理噌災 越籏脇わ繕藁 隙f刈卵£倫蟻室長 三…術箏農 定’葦け.理監 付録3.京都市美術館、平成21(2009)年12月28日開催ワークショップ「あなたも 画室の栖鳳!下絵に挑戦」の現場写真、筆者撮影。 ワークショップの室内情景 44 講師が自分の作品を教材として紹介・説明 45 参加者は持参した写真で下絵を制作して描く 46