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植民地時代下の詩の翻訳 - Publications

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植民地時代下の詩の翻訳 - Publications
論文 要 旨
論文 要旨
金素勇
云訳 ﹃
朝 鮮詩 集 ﹄ の場合
植 民地時代下 の詩 の翻訳
-
(
︻
容澤
︼ 内 は キ ー ワ ード )
林
金 素 雲 訳 ﹃朝 鮮 詩 集 ﹄ は植 民 地 時 代 に刊 行 さ れ たも ので 、 様 々な 意 味 合 い
子 (一九 〇 六 )を 友 人 と と も に 出 版 し た。 翌 年 に は 俳 句 仏 訳 論 文 ﹁ハイ カ イ ﹂
(日本 の詩 的 エピ グ ラ ム) を フ ラ ソ ス文 芸 誌 に連 載 し た 。 そ こ に 俳 句 の 特 質
と し て ﹁大 胆 な ほど の単 純 化 ﹂ ﹁日 本 風 の素 描 ﹂ な ど を 挙 げ 、 一五 八 の 俳 句
を仏 訳 ・解 説 し て い る 。 一九 一六 年 に は 、 同 論 文 ﹁ハイ カイ ﹂ を ﹁日 本 の抒
さ れ た 。 同 書 に は、 俳 句 を 、 浮 世 絵 と対 比 し 、 日本 の芸 術 と し て、 し か も 普
情 的 エピ グ ラ ム﹂ と し て再 録 し た著 書 ﹃アジ ア の賢 人 と 詩 人 ﹄ が パ リ で 刊 行
遍 的 な ポ エムと し て紹 介 し て い る。 第 一次 大 戦 中 に刊 行 さ れ た ク ー シ ュー の
書 は彼 の俳 句 活 動 と と も に、 フラ ン ス の文 人 た ち に ハイ カイ 創 作 への啓 示 を
度 で、 そ れ によ って、 韓 国 と 日 本 の文 化 は根 本 的 に同 質 だ と みら れ る可 能 性
ー ラ ン、 ポ ー ル ・エリ ュア ー ル、 ジ ュリ ア ン ・ヴ ォカ ン ス、 ジ ャ ン "リ シ ャ
が パ リ で推 し 進 め ら れ て い た時 期 に、 同 誌 に は、 詩 人 や 作 家
巻 頭 に ﹁ハイ カ イ﹂ ア ソ ソ ロジ ーが 花 開 い た の であ る 。 ダ ダ の芸 術 革 新 運 動
一九 二 〇 年 九 月 に は 、 二 〇 世 紀 フラ ン ス文 学 を担 った ﹃N ・R ・F ﹄ 誌 の
与 えた。
が あ る。 現 に、 本 稿 で取 り 上 げ た、 佐 藤 春 夫 の跋 文 と藤 島 武 二 の扉 絵 が そ れ
ー ル ・ブ ロ ックな ど 一二 人 に よ る フラ ン ス ・ ハイ カ イ 八 二 篇 が ク ー シ ューを
を 持 って いる 。 韓 国 入 か ら 見 て気 に な る のは 、 日 本 的 情 感 に密 着 し た翻 訳 態
を 裏 付 け て お り 、 彼 ら は、 は っき り と 日本 優 越 主 義 的 な視 線 で同 詩 集 を眺 め
筆 頭 に 発表 さ れ た。 こ れ は フ ラ ン スに お け る詩 歌 のジ ャポ ニス ム の開 花 と も
以 上 、 資 料 を 検 討 す る こ と に よ って、 次 の こと が 浮 き 彫 り にさ れ た。
び 筆 者 が 収 集 し た ク ー シ ュー の未 発 表 書 簡 他 であ る。
ル ナ ー ル ・バ イ ヨー に よ って近 年 発 表 さ れ た ク ; シ ュー や ポ ー ラ ン の書 簡 及
刊 行 以 後 を 軸 に、 関 係 一次 資 料 を たど り な が ら 、 考 察 す る 。 主 な 資 料 は 、 ベ
に つ いて 、 ク ー シ ュー の俳 句 紹 介 の活 動 、 特 に著 書 ﹃アジ ア の賢 人 と詩 人 ﹄
本 稿 で は、 ﹃N ・R ・F ﹄ 誌 に ﹁ハイ カ イ﹂ の掲 載 が 実 現 す る ま で の過 程
を 越 え て音 楽 の分 野 に も 波 及 し て い った 。
ら に俳 句 の受 容 は リ ル ケな ど ヨー ロ ッパ の芸 術 家 た ち に も 及 び 、 文 学 の領 域
ど の優 れ た ハイ カ イ集 や 二 八三 篇 の ハイ カイ 選 集 など が 次 々 と 発 表 さ れ 、 さ
ジ ャ ン ・ポ
て い る。 し か し 、 訳 者 に は祖 国 の詩 心 の優 秀 さ を 当 時 の 日本 人 に知 ら せ よ う
呼 ぶ べ き 、 画 期 的 な出 来 事 であ った と考 え ら れ る。 同 誌 の刊 行 さ れ た 一九 二
柴田
藤 島 武 二︼
と す る目 的 が あ った よう に 思 わ れ る。 し たが って、 こ の訳 詩 集 を 当 時 の日本
佐藤春夫
文 学 に主 体 的 に同 化 し よ う と し た も の と見 做 す のは 間 違 って い る 。 ﹃
朝鮮詩
マイ ナ ー
イ カ イ ﹂ 掲 載 が 導 火 線 と な っ て、 フラ ン スで は 一九 二 〇 年 代 に、 ﹁
詩 法﹂な
金素 雲
〇 年 を 、 フ ラ ン スの文 芸 評 論 家 は ﹁ハイ カイ の年 ﹂ と 呼 ん で い た。 こ の ﹁ハ
植 民地
集 ﹄ か ら は、 日 本 語 と い う "権 力 " の言 語 を も って祖 国 の詩 の存 在 性 を アピ
朝鮮
(一九 二 〇 )
依子
ー ルす る と いう 戦 略 的 意 味 合 いを 読 み取 る べ き であ る。
︻翻 訳
﹃N ・R ・F ﹄ 誌
詩 歌 のジ ャポ ニス ム の開 花
ク ー シ ュー と
﹁ハイ カ イ ﹂ ア ン ソ ロジ ー 掲 載 の経 緯
ー
一九 世 紀 後 半 に日 本 の美 術 ・工 芸 品 が 輸 出 さ れ てジ ャポ ニス ム の流 行 を も
た ら し、 フ ラ ソ ス の印 象 派 の画 家 たち に多 大 な 影 響 を 与 え た 。 そ の流 行 が 終
わ る頃 の 二〇 世 紀 の初 頭 に、 俳 句 (
俳 諧 ) は ヨ ー ロ ッパ に紹 介 さ れ た。
啓 示 し 、 ハイ カ イ の創 作 活 動 を 触 発 し た 。 同 書 を読 ん だ ポ ー ラ ンは 、論
ω ク ー シ ュー の書 は フ ラ ソ ス の詩 人 や作 家 た ち に新 し い詩 のヴ ィジ ョ ンを
り つ めら れ た 詩 ﹂ と し て共 感 し 、 ﹁日 欧 の人 々が 共 有 す る 感 動 の言 語 を
文 ﹁日 本 の ハイ カ イ ﹂ (一九 一七 ) を 発 表 し、 俳 句 に ﹁
純粋 な感覚 にき
そ の先 駆 者 の 一人 であ る ポ ー ル ー ルイ ・ク ー シ ュi (一八 七 九 1 一九 五九
三 ー 一九 〇 四 ) し 、 俳 句 を フ ラ ン ス へ移 入 し てか ら 、 本 年 二 〇 〇 四 年 は 一〇
哲 学 者 、 精 神 科 医 ) が 、 青 年 期 に ﹁世 界 周 遊 ﹂ の給 費 生 と し て来 日 (一九 〇
〇年 を 迎 え る。 帰 国 後 、 ク ー シ ュー は最 初 の フ ラ ン ス ・ ハイ ヵイ 創 作 の小 冊
7
詩 人 エリ ュアー ル に、 注 目 す べ き 同 書 の こ と を 一九 一九 年 三 月 に書 簡 で
創 造 す る こ と﹂ と いう 普 遍 的 な ポ エムを 感 得 し た 。 彼 は、 友 人 のダ ダ の
ー ラ ソ の ハイ カ イと い う あ た ら し い詩 へのヴ ィジ ョ ンが 、 ま た ハイ ジ ン
同 ア ン ソ ロジ ー の発 刊 の背景 に は ク ー シ ュー の書 や会 合 に 啓 発 さ れ た ポ
の よう な新 し い詩 の領 域 を開 く こと へ の冒 険 と 期 待 も 表 明 さ れ て い る。
俳句
第 一次 大 戦
(
俳諧) 浮世絵
エリ ュア ー ル
ハイ カイ
﹃ア
偉
ヴ ォカンス
ハイ ジ ン (
俳 人 ) ﹁ハイ カ イ﹂
ダ ダ の運 動 ︼
ポーラソ
フ ラ ン ス ・ ハイ カ イ
リ ヴ ィ エー ル
西槇
民 国 期 の中 国 に お い て豊 子 榿 (一八九 八 1 一九 七 五 ) は 、 西 洋 美 術 の紹 介
ゴ ッホ作 品 を 通 し て の伝 統再 発 見
豊 子 愃 と ゴ ッホ
者 と し て活 躍 し 、 ま た文 学 者 、 画 家 と し て も 知 ら れ る。 今 ま で、 そ の絵 画作
ー
ク ー シ ュー
を 初 め とす る ハイ ジ ン の活 動 成 果 を 文 壇 に いち 早 く 提 示 し た か った の で は な
た よう に、 将 来 、 詩 の分 野 に 革 新 を も た ら す 可 能 性 を 予 見 し て、 ク ー シ ュー
ポ ー ラ ンは、 フ ラ ン ス ・ ハイ カイ が 、 浮 世 絵 が フ ラ ソ ス絵 画 に革 命 を 促 し
た ち の新 文 芸 への情 熱 が 反 映 し て い る こ と が 考 え ら れ る。
知 ら せ て お り 、 そ の書 に関 心 を 抱 い て い た エリ ュア ー ルは同 書 を 読 んだ
って い る。 ま た 作 家 ブ ロ ック も 一九 二〇 年 一月 に ク ー シ ュー の書 を 読 み、
ら し く 、 同 年 五 月 に自 作 の ハイ カイ 作 品 を手 書 き で記 し、 ポ ー ラ ン に送
啓 発 され て多 く の作 品 を創 作 し て い た。
いだ ろう か。
② ク ー シ ュー の俳句 活 動 の全 容 、 俳 句 の紹 介 と 創 作 の他 に、 ハイ ジ ソ の会
︻詩 歌 のジ ャポ ニ ス ム
ジ ア の賢 人 と 詩 人 ﹄
の任 にあ り な が ら 、 ハイ ジ ン の会 合 の開 催 に も 心 を 傾 け 、 大 戦 後 一九 一
ア ン ソ ロジ ー
合 を も 主 宰 し て い た事 情 が 明 ら か にな った。 ク ー シ ュー は大 戦 中 、 軍 医
九年五月 =
ブ ロ ック
日 に自 宅 に ハイ ジ ン た ち を食 事 に招 き 、 初 会 合 を 催 し た。
そ の招 待 状 を ポ ー ラ ン と ヴ ォ カ ン ス に送 って い るが 、 エリ ュア ー ルら を
﹃N ・R ・F ﹄ 誌
含 め て六 人 を 招 い て い る。 ク ー シ ュー は フ ラ ン ス ・ ハイ カ イ の ﹁座 ﹂ の
結 成 とも いえ る 活 動 も 行 っ て いた の であ る 。
㈹ 興 味 深 いこ と に は、 エリ ュア ー ルが 自 作 の ハイ カイ 作 品 を ポ ー ラ ン に送
って い る時 期 は 、 こ の会 合 の後 、 五 月 末 のこ と であ り、 ポ ー ラ ンも そ の
返 事 に自 作 の作 品 を 添 え て い る。 翌 一九 二 〇 年 初 め に は 、 エリ ュア ー ル
はな く、 ダ ダ の集 会 に出 席 し て い る。 ハイ ジ ン の集 いが 契 機 と な って、
品 と竹 久 夢 二 (一八 八 四 - 一九 三 四 ) と の関 連 が さ まざ ま な 見 地 か ら論 じ ら
の誘 い を 通 じ て、 ク ー シ ューと ヴ ォカ ン ス の 二人 が 、 ポ ー ラ ンぽ か り で
ハイ カ イ の創 作 意 欲 や ハイ ジ ン た ち の文 学 交 流 も 次 第 に 深 ま って い った
を ﹁ハイ カ イ ﹂ア ン ソ ロジ ー の企 画 へと 発 展 さ せ た のは、 秘 書 のポ ー ラ ン
た。 ゴ ッホ の ﹁二 人 の 子 ど も ﹂ か ら 豊 子 憧 は ﹁姉 妹 ﹂ や ﹁
兄 弟﹂ を描 き、
ー フを ミ レ ー から 継 承 し た ゴ ッホも 、 あ る 程 度 豊 子愃 に イ ン パ ク ト を 及ぼ し
ラ ン ソ ワ ・ミ レ ー (一八 一四 - 七 五 ) か ら 強 い感 化 を 受 け た 。 こ れ ら の モ チ
まず 、 ﹁労 働 ﹂ ﹁子 ど も ﹂ ﹁
宗 教 ﹂ モ チ ー フに お い て、 豊 子 愃 は ジ ャ ン ・フ
子 榿 作 品 にお け る ゴ ッ ホ の影 響 を 明 ら か に し よう とす る も の であ る。
れ てき たが 、 西 洋 美 術 の影 響 に は ほ と ん ど 言 及 さ れ て いな か った。 本 論 は豊
こと が う かが え る。
ω ﹃N ・R ・F ﹄ 誌 ﹁ハイ カイ ﹂ 掲 載 の経 緯 に つい て であ る が 、 そ の 口 火
を 切 った の は、 ブ ロ ック であ る。 彼 は同 誌 編 集 長 ジ ャ ッ ク ・リヴ ィ エー
であ った 。 彼 は リ ヴ ィ エー ルや ヴ ォカ ソ ス の支 持 や協 力 を 得 て、 そ の編
ルに、 一九 二〇 年 三 月 、 自 作 の ハイ カ イ を 送 って いた。 同 年 五 月 、 こ れ
集 を同 年 九 月 の発 刊 ま で ひ たむ き に手 が け た の であ る。 こ の ア ン ソ ロジ
﹁一足 の靴 ﹂ から ﹁1 ! ! ﹂ の モ チ ー フを 得 たと 思 わ れ る 。
に は、 ハイ ジ ソ の会 合 の招 待 者 六 人 全 員 の作 品 が ク ー シ ューを 筆 頭 に 掲
き 、 鮮 明 な 色 彩 対 照 も試 み た。 そ の文 人 画 的 な 肖 像 画 や静 物 画 は ゴ ッ ホ作 品
な 用筆 ﹂ と と ら え た豊 子 愃 は、 毛 筆 の線 の タ ッチ を特 色 と す る肖 像 作 品 を 描
り 入 れ て い った。 ゴ ッ ホ作 品 の特 徴 を ﹁鮮 や かな 色 彩 の コソ ト ラ スト と 奔 放
し か し 、 ミ レ ー と は 異 な る ゴ ッホ作 品 独 特 の用 筆 法 や 構 図 を 、 豊 子榿 は 取
ー の発案 と そ の編 集 の大 き な 契 機 と な った の は、 彼 が 参 加 し た ハイ ジ ン
載 さ れ 、 そ の前 書 き に ﹁ク ー シ ュー のも と に、 ハイ カ イ の作 り 手 一〇 人
の会 合 や ク ー シ ュー の活 動 であ る こ とが う かが え る。 こ の ア ン ソ ロジ ー
が 初 め て こ こ に集 い﹂と 記 さ れ て い る 。 ま た、 将 来 ハイ カ イが ソネ ヅ ト
8
論文要 旨
の刺 激 を 受 け て誕 生 し た と い え る。
そ し て、 人 物 群 像 や 空 間 表 現 に も ゴ ッ ホ作 品 と の関 連 が 見 ら れ る 。 ﹁馬 鈴
薯 を 食 べ る 人 た ち ﹂ の構 図 が ﹁人 散 後 、 一鉤 新 月 天如 水 ﹂ (一九 二 四 年 ) に
語 の熟 語 と し て は あ ま り 使 わ れ て いな か った 。 し たが って、 ︿
修 養 ﹀ は、 古
典 的 な 儒 教 道 徳 の意 味 を 担 った言 葉 で はな く、 近 代 的 な 用 語 と し て誕 生 し た
東 西 の学 問 を身 に つけ た 知 識 人 が 、 ︿修 養 ﹀ を 近 代 的 な新 し い倫 理 の 理 念 と
︿
修 養 ﹀ が 、 伝 統 と 近 代 、 東 洋 と 西 洋 と が 衝 突 す る 時 代 に、 広 ま って い った。
伝 統 的 な 道 徳 が 崩 壊 し 、 新 し い道 徳 の建 設 の た め に、 個 人 を 中 心 と し た
の であ る。
人 物 ポ ーズ や 構 図 を ゴ ッホ か ら摂 取 し な が ら 、 豊 子 榿 作 品 は しぼ し ぼ 詩 句
用 いられ、ま た ﹁
置 酒 慶 歳 豊 、 酔 倒 嫗 与 翁 ﹂ (一九 七 〇年 頃 ) と類 似 す る。
を 題 と し 、 文 学 と結 合 す る傾 向 を見 せ る 。 図 像 モチ ー フが 文 学 と出 会 う こと
し て取 り 入 れ た の であ る。
︿
修 養 ﹀ 提 唱 者 と し て活 躍 し た人 物 や そ の著 作 を 分 析 し 、 ま た修 養 団 体 の活
が 修 養 理念 を 流 行 さ せ、 定 着 さ せ た 。 本 稿 で は さ ら に、 ︿
修 養 ﹀ の時 代 に、
︿
修 養 ﹀ の流 行 に伴 って、 修 養 運 動が 広 ま り 、 ベ ス ト セ ラ ー に な った 修 養 書
に よ り 、 さ ま ざ ま に再 構 成 さ れ 、 作 品が 制 作 さ れ る。 そ れ が 豊 子愃 作 品 の特
徴 の ひ と つと 思 わ れ る 。 さ ら に彼 は類 似 モ チ ー フを伝 統 絵 画 に求 め、 そ れ を
も 創 作 に加 味 し た り、 伝 統 モ チ ー フを甦 ら そ う と し た り し た。
宗 教
教育
修養運動
岩井 茂樹
出 版 メデ ィ ア
動 の広 が り の実 態 を 調 査 す る こと に よ って、 ︿修 養 ﹀ の広 範 な 広 が り を 確 認
し たが って、 ゴ ッホ作 品 は 豊 子 榿 に多 大 な 影 響 を及 ぼ し た と い え る 。 特 に、
国 民道 徳
線 の表 現が 豊 子 榿 を ひ き つけ たが 、 そ れ は 文 人 画 に通 じ る も の であ り 、豊 子
修養論 者︼
o巳け
霞Φ 翻 訳
した。
中
︻
修養
伝統 再発見︼
中国 におけ る西洋美 術受容
愃 は ゴ ッ ホ作 品 に ﹁
東 洋 風 な 画 家 ﹂ の特 徴 を 見 出 し、 そ し て伝 統 を再 発 見 す
黒田重太郎
豊子愃
る に至 った の であ る。
文人画
︻フ ィ ソ セ ント ・ フ ァ ン ・ゴ ッ ホ
国近代美術
近 代 の茶会 にお いて
茶 道 と恋 歌 (二)
-
そ の中 でも 恋 歌 を 掛 物 と し て用 い た茶 会 を 抽 出 し、 そ の趣 向 を 明 ら か にす る
近 代 日 本 に お け る ︿修 養 ﹀概 念 の成 立
こ と を 目 的 と す る。 そ の理 由 は、 前 論 稿 で明 ら か に し た よ う に、 恋 歌 の掛 物
本 論 稿 は 、 明 治 時 代 以 降 に行 わ れ た 茶 会 に つい て論 じ た も の であ る 。 特 に、
本 稿 は漱 石 文 学 の読 者 相 を 解 明 す る た め に、 当 時 流 行 し て い た ︿修 養 ﹀ 思
を 用 いる こ と は、 他 の掛物 を 使 用 す る 場合 と は異 な り、 特 別 な 意 味 を持 つと
成
想 を め ぐ る 研 究 の 一環 で あ る。 先 行 の漱 石 研 究 で は、 ︿修 養 ﹀ を 無 視 し た た
王
って、 近 代 に お け る ︿修 養 ﹀ と い う 言 葉 が い つ、 ど の よ う に現 れ た か、 ︿
修
め に、 多 く の問 題 が 解 明 さ れ て いな い ので は な かろ う か と いう 疑 問 か ら始 ま
な ら ば 、 そ れ は 特 別 重 要 な 意 味 を も つと考 え ら れ る。 本 論 稿 で は、 明 治時 代
る こ と を 強 く 禁 じ て い た 。 も し 、 千 家 流 茶 道 に お い て恋 歌 が 用 いら れ て いた
考 え ら れ る から であ る。 特 に、 茶 書 に お い て千 家 流 茶 道 は恋 歌 の掛 物 を 用 い
以 降 の茶 会 記 か ら 見 出 し た 十 五 の茶 会 と、 前 論 稿 で既 に解 析 を 行 った 五例 を
養 ﹀ と いう 概 念 が いか に解 釈 さ れ た か、 ︿修 養 V を め ぐ る近 代 日 本 の言 説 空
であ る。
解 析 の結 果 、 以 下 の 四 つ の事 柄 が 明 ら か にな った。
た。
含 め全 部 で 二 十 の茶 会 に つ い て、 そ の趣 向 を 読 み解 き 、 目 的 別 に分 類 を行 っ
間 が ど の よ う に形 成 さ れ た か 、 と いう 課 題 に つ い て、 解 明 し よ う と し たも の
本 稿 で は、 明 治 から 大 正 に か け て は、 教 養 と いう 言 葉 よ り ︿修 養 ﹀ と い う
① 掛 物 が 名 物 であ る と いう 理 由 から 、 掛 物 が 用 いら れ た ケ ー スが 最 も 多 い。
言 葉 の ほう が よ く 使 わ れ て い た こと を 明 ら か に し た 。 中 村 正直 の ﹃
西国立志
いう 理 念 が 浸 透 し て い った。 ︿修 養 ﹀ は、 翻 訳 語 と し て現 れ る 以 前 に は、 漢
編﹄(
ω①一
州1一
宀Φ一
b) か ら 始 ま って、 自 分 自 身 を 修 練 す る ﹁自 修 ﹂ 的 な 教 育 と
9
これ は、 ﹁
恋 歌 であ る﹂ と いう 条 件 よ り も 、 ﹁名 物 であ る﹂ と いう 要 素 の
あ った と いえ る が 、 そ れ と 同 時 に、 米 国 移 民 社 会 の厳 し い現 実 と 困 難 と を あ
の作 品 は、 女 子 の渡 米 奨 励 の言 説 と 渡 米 熱 を 反 映 し、 そ れ を 支 え う る作 品 で
て描 か れ て お り 、 野 口 の批 判 や 不 満 が 表 出 し て い る。
ら わ し て いる 。 ま た、 米 国 社 会 に おけ る 日 本 文 化 認 識 の浅 薄 さ や 誤 解 に つ い
方 が 重 要 視 さ れ た場 合 が 多 か った、 と いう こと を 意 味 す る 。
千 家 流 茶 道 で は利 休 追 善 茶 会 に限 って恋 歌 が 掛 け ら れ て いた 。 利 休 追 慕
︻
野 口米 次 郎
② 次 に多 い のは 、 追 悼 の念 を 表 す た め に用 いら れ た ケ ー ス であ る。 特 に、
の念 を恋 歌 で表 現 し て いた の であ る。 千 家 流 茶 道 に と って、 利 休 追 善 茶
Oミ 移民隆盛 期 女子渡米奨 励論
祖国 日本 の再認識︼
米国憧憬
森 田登 代 子
両社会 における認識 の相 違
﹃
永代大雑書萬暦大成﹄ の内容分析 から
大 雑 書 は 平 安 時 代 以 降 の陰 陽 道 や 宿 曜 道 の系 統 を ひ き 、 八 卦 ・方 位 ・干
ー
大 雑書研究序 説
﹃
日 本 少 女 の米 國 日 記 ﹄ 搴 鳴匹§僑ミ § b罸建 9 黛 ミ § 8鳴
会 が いか に特 別 で、 重 要 な も の であ る か は 、 こ の 一事 を も って容 易 に 理
解 でき る 。
道 を基 礎 と し て い る に も か かわ ら ず 、 恋 歌 を 掛 け た茶 会 を 開 い て い た。
③ 近 代 茶 道 の牽 引 役 で あ った ﹁近 代 数 寄 者 ﹂ と 呼 ぼ れ る 人 々 は、 千 家 流 茶
彼 ら は 、 千 家 流 、 大 名 系 茶 道 の いず れ と も 異 な る茶 道 観 に基 づ き 、 彼 ら
独 自 の ス タイ ル で茶 会 を 行 って い た も のと 思 わ れ る。
げ ら れ る 。 江 戸 時 代 初 期 に、 徐 々 に で は あ るが 女 性 が 茶 会 に参 加 す る よ
な い、 男 女 の相 性 運 な ど を 内 容 と し た書 物 の こ と で あ る。 近 世 後 期 には 庶 民
支 ・納 音 ・十 二直 ・星宿 ・七 曜 な ど によ る日 の吉 凶 、 さ ま ざ ま な禁 忌 や ま じ
④ 千 家 流 茶 道 で恋 歌 が 禁 止 さ れ た理 由 の 一 つと し て、 女 性 の茶 会 進 出 が 挙
う に な った。 男 女 同 席 の茶 会 に恋 歌 を掛 け る の は 不適 切 であ る、 と 判 断
千家 流茶道
大名系 茶道
堀
まど か
近代数 寄者︼
社会 ・文 化 ・風 俗 ・生 活 を知 る手 が かり に な る こ と を 強 調 し、 ひ い て は江 戸
で あ った こ と を 明 ら か にす る。 ま た 各 大 雑 書 の特 徴 を あ げ 、 大 雑 書 が 近 世 の
己株 の書 籍 に新 し い情 報 を つけ く わ え 手 直 し編 集 し て出 版 し た も のが 大 雑 書
る 版 権 に大 き く左 右 さ れ た こ と を 、 大 坂 本 屋 仲 間 の記 録 を も と に 検 証 し、 自
萬 暦 大 成 ﹄ を も と に考 察 す る。 大 雑 書 に組 み込 ま れ た 内 容 は各 板 元 が 所 有 す
れ た 経 緯 から 、 天 保年 間 に出 版 さ れ た 代 表 的 な大 雑 書 の ひ と つ ﹃永 代 大 雑 書
の関 心 を ひく 生 活 情 報 を 加 え 内 容 を肥 大 化 さ せ百 科 全 書 の体 裁 を帯 び る よう
な つち ん
さ れ た の で は な い だ ろ う か。
掛物
に な った 。 これ が 大 雑 書 であ る。 ﹃
籃 籃内傳﹄ ﹃
東 方 朔 秘 傳 置 文 ﹄ な ど の暦 註
恋歌
本 論 稿 では 、 前 論 稿 を 含 め て これ ま で に明 ら か に な った 事 実 から 、 千 家 流
茶会記
茶 道 、 大 名 系 茶 道 、 そ し て近 代 数 寄 者 の茶道 の性 格 の違 い に つい ても 考 察 を
茶会
書 や 、 公 家 武 家 階 層 が 利 用 し た百 科 全 書 ﹃
拾 芥 抄 ﹄ を も と に大 雑 書 が 刊 行 さ
︻
茶道
行 って いる 。
野 口米 次 郎 ﹃日 本 少 女 の米 國 日 記 ﹄
ー 奨励される女子 の渡米と移民社会 の現実
﹃永 代 大 雑 書 萬 暦 大 成 ﹄ ﹃
籃 箟内 傳﹄ ﹃
東 方 朔 秘 傳 置 文 ﹄ な ど の暦
文 化 の シ ンク レテ ィズ ム を象 徴 す る も の であ った こと を 追 究 す る 。
︻大 雑 書
野 口 米 次 郎 の ﹃日 本 少 女 の 米 國 日 記 ﹄ (一九 〇 五 ) (
英 語 版 で は 冐 げ①
註書
﹃
拾芥抄 ﹄ ﹃
大坂本屋仲 間記録﹄ 陰陽道 ︼
諺BΦユo譽 U冨煢 o富 冒 冨 口ΦωΦ〇三 ﹄ (一九 〇 一)) に は、 国 家 間 を 生 き た作
と が でき る。 こ の作 品 は、 少 女 の視 点 で渡 米 ま で の心 境 や米 国 で の体 験 、 米
家 と し て の原 点 を 、 ま た 同 時 代 執 筆 者 に おけ る 野 口 の視 座 の特 異性 を み る こ
国 社 会 の状 況 な ど を 日 記 形 式 の散 文 で描 い たも の であ る。 主 人 公 の渡 米 憧 憬
は 、 女 性 の権 利 を 認 め る国 へ の強 い期 待 か ら く る も の であ り 、 背 景 に は移 民
隆 盛 の風 潮 の中 で の、 政 治 的 な 意 図 を も つ女 子 渡 米 奨 励 論 の実 態 が あ る。 こ
10
論文 要旨
日本 の領事報告 の分析を通じて
戦 前 期 花 莚 製 造 業 を め ぐ る日 本 ・中 国 間 制 度 比 較
四方 田雅史
本 稿 は 、 第 一次 大 戦 前 に、 日 中 両 国 にお い て主 要 輸 出 産 業 であ った花 莚 製
造 業 を 分 析 し たも のであ る 。 同 製 造 業 は 、 中 国 が 世 界市 場 に お い て先 ん じ て
発 展 し、 日 本 が 中 国 の取 引 慣 行 を 学 ん で中 国 に追 い つ こう と し た た め 、 研 究
の価 値 が あ る興 味 深 い題 材 であ る。 本 稿 は、 そ の特 徴 を 仔 細 に比 較 す る た め、
広東
ア ジ ア間 競 争
比 較 ・歴 史 制 度 分 析 ︼
領事 報告
粗 製濫造
小谷野 敦
同業 組合
に補 完 的 であ った と 結 論 づ け ら れ る 。 そ の た め、 日 本 と 中 国 の違 いは 、 第 一
買弁
藺莚 製造業
次 大 戦 以 降 に至 る ま で、 収 斂 す る こ と はな か った と 考 え ら れ る。
︻
花莚
輸出 品検査
﹁聖 な る性 ﹂ の再 検 討
信 夫 、 中 山 太 郎 と い った民 俗 学 者 が 、 遊 女 の起 源 を 巫 女 と み た と こ ろ から 生
い った 言 説 が 現 れ る よ う に な った。 こ う し た説 は 、 も と も と 柳 田 国 男 、 折 口
一九 八 七 年 頃 か ら 、 古 代 中 世 日本 にお い て女 性 の性 は聖 な る も のだ った と
こ れ ま で、 日 本 と中 国 は 、 ア メリ カ の花 莚 市 場 に お い て、 熾 烈 な ﹁アジ ア
と り わ け 各 国 の主 要 産 地 であ る岡 山 ・福 岡 ・広 東 に 焦点 を 当 て る。
間 競 争 ﹂ を 経 験 し た と考 え ら れ てき た 。 し か し、 そ の競 争 を 仔 細 に分 析 し た
一九 八 七 年 の佐 伯 順 子 ﹃
遊 女 の文 化 史 ﹄ 以 前 に は 見 ら れ な か った 。 日 本 民 俗
ま れ た も のだ が 、 ﹁聖 な る性 ﹂ ﹁
性 は 聖 な るも のだ った ﹂ と い う表 現 自 体 は、
学 は 、 柳 田 ・折 口 の言 説 を 聖 典 視 す る 傾 向 が あ り 、 こ の点 に つ い て十 分 な 学
結 果 、 日 本 と 中 国 は そ の市 場 で直 接 競 合 し て い た ので は な く 、 異 な る 品 質 ・
そ の違 い の 一部 は、 生 産 者 ・国 内 商 人 ・外 国 人 輸 出 商 間 の経 済 取 引 を 組 織 化
デ ザ イ ソ の製 品 を 生 産 す る と いう "
差 別 化 " 戦 略 を採 用 し た こ とが 分 か る 。
問 的 検 討 は加 え ら れ な か った憾 みが あ る。
の遊 女 等 藝 能 民 の地 位 に つい て の新 説 が 現 れ、 こ れ を 批 判 す る者 も あ った。
一方 、 一九 八○ 年 代 に は、 網 野善 彦 を 中 心 と し て、 歴 史 学 者 に よ る、 中 世
し て いた 諸 制 度 の違 い に帰 す こ とが で き よ う 。 そ のた め 、 本 稿 は、 両 国 の経
い。
済 制 度 と 経 済 的 パ フ ォー マン スが 対 照 的 にな った 理由 を 論 じ な け れば な ら な
え 、遊 女 に つい て も 、 後 藤 紀 彦 と と も に、 宮 廷 に所 属 し て い た と いう 説 を 唱
え た 。 脇 田 晴 子 ら は こ の説 を 批 判 し た が 、 豊 永 聡 美 の論 文 に よ って、 後 白
網 野 は 、 南 北 朝 期 以 前 に、 非 農 業 民 が 職 能 民 と し て天 皇 に直 属 し て い たと 唱
河 ・後 鳥 羽 両 院 政 の時 期 、 宮 廷 が 特 に高 級 遊 女 を 優 遇 し た と見 る のが 正 当 で
領 事 報 告 の記 述 を仔 細 に分 析 す る こ と によ って、 両産 地 の取 引 を規 律 づ け
国 の生 産 者 ・商 人 が 約 束 ・契 約 を遵 守 す る傾 向 が あ る 一方 、 日 本 の生 産 者 ・
て い る制 度 に対 照 的 な違 いが あ る こ と が 明 ら か に な った 。 そ の報 告 に は 、 中
商 人 は契 約 を 遵 守 し な いと の指 摘 が 頻 繁 に見 ら れ る 。 広 東 で は、 集 団 と し て
あ ろ う と いう 妥 当 な 結 論 が 出 た。
生 産 に 比 較 優 位 を 持 った 。 そ の反 面 、 広東 に存 在 し た メ カ ニズ ムが 存 在 し な
世 界 各 地 に現 れ る も の であ り、 こ と さ ら 遊 女 の起 源 を いず れ か に 求 め よう と
れぽ な ら な い と いう 前 提 が 奇 妙 な の であ り 、 売 春 と そ れ に付 随 す る 藝 能 は、
の起 源 を 朝 鮮 に求 め た た め批 判 を 受 け た。 だ が 、 そ も そ も 遊 女 に起 源 が な け
既 に法 制 史 の滝 川 政 次 郎 は、 遊 女 の巫 女 起 源説 を 批 判 し たが 、 同 時 に遊 女
行 動 す る 同 業 者 組 織 に代 表 さ れ る懲 罰 メ カ ニズ ムが 生 産 者 ・商 人 に契 約 を 遵
か った 日 本 で は、 中 国 と 比 べ、 粗 製 濫 造 と 無 秩 序 な 取引 と が 広 範 に 見 ら れ 、
守 さ せ た こ と が 考 え ら れ る 。 そ の結 果 、 中 国 は画 一的 で標 準 化 さ れ た花 莚 の
そ れ ら の問 題 を 解 決 し商 業 秩 序 を 再 構 築 す る た め、 産 業 界 と 政 府 が 、 新 た に
す る こと 自 体 が 誤 り だ った の であ る 。
と いう 表 現 は、 一九 八 六 、 八七 年 に、 阿 部 泰 郎 、 佐 伯 順 子 ら が 言 いは じ め た
年 に、遊女 の ﹁
非 日常性﹂ と ﹁
霊 力 ﹂ に つい て述 べ て い るが 、 ﹁聖 な るも の﹂
で は ﹁聖 な る性 ﹂ と いう 表 現 は、 ど こ から 現 れ た の か。 宮 田登 は 一九 八 二
同 業 組 合 を 組 織 し輸 出 品 検 査 を 導 入 す る 上 で協 力 す る こと にな った。 こ の よ
う な制 度 的 特 徴 に よ って 、 日 本 は多 様 な デ ザ イ ン ・種 類 の花 莚 の生 産 に比 較
本 稿 で指 摘 し た さ まざ ま な 特 徴 は、 各 産 地 の中 で 相 互 に連 関 しあ い、 相 互
優 位 を持 つ よう に な った の であ る。
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こ と であ る。 し か し いず れも 十 分 な 学 問 的 検 討 が な さ れ て い る と は 言 いが た
く 、 特 に佐 伯 の場合 、 ユソ グ 心 理 学 の ﹁聖 な る娼 婦 ﹂ と いう 原 型 の、 エ スタ
ー ・ ハーデ ィ ング によ る展 開 の影 響 を 受 け て いる が 、 これ は新 興宗 教 の類 で
あ って学 問 で は な い。
聖 な るも の
性
民俗学
折 口 信夫
柳田国男
中山太郎︼
即 ち 、 日 本 古 代 中 世 に おけ る ﹁聖 な る性 ﹂ は 、 学 問 的 に論 証 さ れ た こ と は
中世
な か った の であ る 。
︻
遊女
C M作家 の場所
1
十 五世 紀 中 期 の ﹁
花 ﹂ と連 歌 の 一様 相
生 成 期 に お け る ﹁た て花 ﹂
小林 善帆
十 五 世 紀 中 期 の ﹁た て花 ﹂ の生 成 期 に つ い て は詳 細 な研 究 が な され て お ら
か か わら ず 、 当 該 期 の ﹁
花 ﹂ に つい て は推 論 の域 を 出 る こ と は な か った。 本
ず 、 物 事 に お い て そ の発 生 期 を 明 ら か に す る こと は不 可 欠 のこ と であ る にも
稿 で は、 こ の時 期 の連 歌 ・和 歌 素 材 に ﹁
瓶 に挿 す 花 ﹂ が 使 用 さ れ た と い う こ
と を 糸 口 に、 ﹁た て花 ﹂ の生 成 期 の様 相 を 、 国 文 学 ・歴 史 学 の相 互 関 係 のな
そ こ か ら は 、 東 福 寺 禅 僧 で歌 人 であ った 正 徹 の和 歌 素 材 と し て ﹁瓶 に挿 す
か から 考 察 し た 。
花 ﹂ が 詠 ま れ た こ とと 、 東 福 寺 に お い て供 花 、 瓶 に花 を挿 す こ と 、 植 栽 、 観
奨治
花 、 ど れ を と っても 盛 ん にお こな わ れ て いた こと と は無 縁 では な か った と 推
山田
杉 山 登 志 は、 ︿作 家 ﹀ 性 を 帯 び た 最 初 のC M デ ィ レク タ ー だ と 評 価 さ れ て
- 杉山登志 の死と誕生
い る。 こ の論 文 は 、 杉 山 の資 生 堂 向 け C M作 品 の いく つか を紹 介 し 、 彼 が 不
察 さ れ る。
と ﹁花 ﹂ や ﹁池 坊 ﹂ と の 関 係 の 考 察 か ら は、 専 順 が ﹁
池 坊 ﹂ の人 であ り
初 の様 式 であ る ﹁た て花 ﹂ へと 発 展 し た こ と と は相 互 に連 関 が あ るが 、 専 順
他 方 、 連 歌 素 材 と し て ﹁瓶 に挿 す 花 ﹂ が 詠 ま れ た こ と と 、 ﹁花 ﹂ が そ の 最
可解 な 自 殺 を遂 げ た 後 に ︿作 家 ﹀ と し て評 価 さ れ て い った、 時 代 背 景 の解 明
そ こ から み え て き た こ と は、 C M 作 品 に対 す る く作 家 V 性 の付与 が 、 C M
﹁花 ﹂ と関 わ り が 深 か った と いう こ と は、 必 ず し も 確 か で は な い と いわ ざ る
を 試 み た。
の地 位 向 上 の た め の運 動 、 そ し て新 技 術 に よ っ て引 き 起 こ さ れ た業 界 の収 支
社 会 に お け る 慣 習 から 来 る も のと 考 え ら れ るが 、 連 歌 ・和 歌 に お い て ﹁
挿す
また ﹁
挿 す ﹂・﹁立 て る﹂ の使 用 の相 違 に つ い て は、 禅 僧 ・公 家 そ れぞ れ の
を 得 な いで あ ろ う 。
の悪 化 と い う時 代 背 景 のも と に 、 進 行 し た こ と であ った。
杉 山 は カ メ ラ の視 線 を 、 テ レビ の前 に い る ﹁受 け 手 ﹂ に置 い て いた 。 杉 山
花 ﹂ と詠 ま れ る も のが ﹁
花 ﹂ の様 式 と し て ﹁た て花 ﹂ と 呼ぼ れ る の は、 将 軍
が ︿作 家 ﹀ 性 を 帯 び る流 れ のな か か ら 、 ﹁受 け 手 ﹂ と いう 主 体 が 、 完 全 に見
落 と さ れ て き た 。杉 山 が ︿作 家 ﹀ 性 を 備 え た こ と は、 C M制 作 にお け る突 出
家 、 伏 見 宮 家 、 禁 裏 そ れ ぞ れ の座 敷 飾 り にお け る ﹁
花 ﹂ を扱 う 者 た ちが 、 慣
広告
大衆文 化︼
花 見 等 を し な が ら 行 う も の であ り 、 ﹁
花 ﹂ を 観 賞 し なが ら 連 歌 を 巻 く
(
する)
さ ら に 伏 見 宮 家 の連 歌 会 の在 り 様 か ら は 、 連 歌 と い う も のが 元 来 、 月 見 ・
習的 に ﹁
立 て る﹂ と い う表 現 を 使 用 し て いた た めと 思 わ れ る 。
し た 個 人 を ク ロ ーズ ア ップ さ せ 、 C M 文 化 に お け る ﹁受 け 手 ﹂ の位 置 を み ・
兄
杉山登志
いま 、 あ ら ゆ る 複 製 文 化 で起 き て い る、 こ の種 の問 題 の政 治 力 学 を 、 C M
にく く さ せ て し ま った。
作家 性
と いう ジ ャ ン ル で探 った。
︻テ レビ ・ コ マー シ ャ ル
の相 違 が ﹁瓶 に挿 す 花 ﹂ を 連 歌 は素 材 と し 、 和 歌 は素 材 と し な い と いう結 果
と い う こ と は 当 然 の形 で あ ったが 、 和 歌 に はそ の よ う な 形 は み ら れ な い。 こ
こ れ ら の こ と か ら は、 ﹁た て 花 ﹂ の生 成 期 を担 った の は ﹁池 坊 ﹂ と い う よ
を 生 み出 す 一因 と な った の であ ろう 。
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論 文要 旨
﹁
花 ﹂ ﹁瓶 に挿 す 花 ﹂ 座 敷 飾 り
禅僧
専順
挿す
立てる
りも、 むしろ禅宗寺院 や公家、禁裏、仙 洞、将軍家、 武家邸宅 という場やそ
和歌
こ に集 う 人 々 であ った と考 え ら れ る。
︻
連歌
十五世紀中 期︼
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