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図 2-1-62 可 視 頻 度 図 ( 23) 2-121 2-122 図 2-1-63 高田松原における可視解析結果(見本) 2-123 2-124 ③過去の土地利用変化と生物多様性保全上重要な環境 概ね 1945 年以降の土地利用の変化について調査し、生物多様性保全上重要な環境の変化につ いて解析した。 過去の年代に発行された地形図と現在(震災前)の地形図及び、震災後の標高データを比較す ることにより、重要な環境の変化を解析した。使用する地形図は国土地理院発行のものとし、閲 覧・比較にはフリーソフトである時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ2」※を使用した。また、 震災後の標高データについては、国土地理院より提供を受けた 10m メッシュの標高データを使用 した。 表 2-1-63 に分析地点一覧と結果概要を、 図 2-1-64~図 2-1-68 に調査地点位置図を示す。また、 自然再生の候補地となりうる地域については、詳細な分析結果を表 2-1-64~表 2-1-65 に示す。 ※ 時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ2」 ( 埼 玉 大学教育学部 谷 謙 二 URL: http://ktgis.net/kjmap/) 表 2-1-63 No. 地 点 名 都道府県 市町村 生物多様性保全上重要な環境等の改変状況の分析地点一覧と結果概要 既存の 自然公園 1 種市 岩手県 洋野町 - 2 久慈湾 岩手県 久慈市 - 3 三崎久喜 岩手県 久慈市 陸中海岸国立 公園 4 十府ヶ浦 岩手県 野田村 陸中海岸国立 公園 5 安 家 川 下 岩手県 流部 野田村 - 6 普 代 川 河 岩手県 口部 普代村 陸中海岸国立 公園 7 明戸浜・机 岩手県 浜 田野畑村 陸中海岸国立 公園 分析結果概要 種市周辺の海岸は 1950 年頃まで自然海岸であったが、1970 年代ごろには港湾が整備された。東日本大震災においては、 地形そのものの大きな変化は見られなかった。 久慈湾は長内川の河口となっており、1950 年頃には長大な 砂洲が形成されていたほか、河川周辺には湿地も形成されて いたと推定されるが港湾整備等により、その多くが失われて いる。東日本大震災においては、僅かに残された自然海岸部 の砂洲や河口部の中洲の形状が変化した。 1950 年台頃までは自然海岸であったが、2000 年代頃までに は港湾が整備された。東日本大震災における大きな地形の変 化は見られない。 現在も長大な砂浜が残されているが、1950 年代頃と比較す ると、後背部の宅地開発等が進んでおり、湿地等が失われた 可能性がある。東日本大震災においては、砂浜沿いの松林が ほぼ壊滅状態となり、海岸線の形状も変化した。 安家川は現在も人工構造物が少なく自然性が高い河川であ るが、1950 年頃と比較すると河川沿いの宅地が増加してお り、河口付近にサケ孵化場や港湾も整備されている。東日本 大震災ではこの孵化場等が大きな被害を受けた。 普代川河口部付近は 1950 年頃まで農地や荒地であったと 読み取れるが、1970 年代までに防潮林が、2000 年代までには 防潮堤も整備された。東日本大震災においては防潮堤より下 流部の防潮林が流出したほか、河口部の砂浜の形状が変化し た。 明戸浜は砂浜海岸であるが、1970 年代までに防潮林、防潮 堤が整備されている。東日本大震災においてはこの防潮林が ほぼ壊滅状態となった。また、自然景観ではないが、机浜の 番屋群はすべて流出した。 2-125 No. 地 点 名 都道府県 市町村 8 小本港 岩手県 岩泉町 9 摂待 岩手県 宮古市 10 田老 岩手県 宮古市 11 栃内浜 岩手県 宮古市 12 津軽石 岩手県 宮古市 13 折笠 岩手県 山田町 14 船越 岩手県 山田町 15 大浦 岩手県 山田町 16 浪板・吉里 岩手県 吉里 大槌町 17 大槌湾 岩手県 大槌町 18 根浜 岩手県 釜石市 既存の 自然公園 分析結果概要 小本川の河口部であり、1950 年頃までは砂洲や湿地が形成 陸中海岸国立 されていたと推定される。2000 年代までには港湾、宅地、農 公園 地等の整備が進み、多くが改変された。東日本大震災におい ては、河口部の砂州や中洲等の形状が変化している。 1950 年頃までは、河口付近に潟湖が形成されていた。2000 年代までには港湾等が整備され、河口の流路の形状も改変さ れている。東日本大震災における大きな地形の変化は読み取 れなかった。 1950 年頃までは海岸線が自然の浜となっていたが、1970 年代頃までには港湾整備が進められ、2000 年代までにはその 大部分が失われた。東日本大震災においては、これらの港湾 施設等が大きな被害を受けた。 現在も人工物がほとんどない自然海岸であり、地形図上は 陸中海岸国立 1910 年代とほとんど変わらない。東日本大震災においては、 公園 谷底や岩壁の植生を中心に大きな被害を受けた。海岸線も若 干後退したことが読み取れる。 宮古湾湾奥部の津軽石川河口部に位置しており、かつては 砂浜、干潟、湿地等が形成されていたと推定されるが、1970 年代頃までに宅地・農地開発等が進み、多くが失われたと考 えられる。東日本大震災においては、河口部の海岸線の形状 等が改変された。 折笠川の河口部に位置し、現在も干潟が残されている地域 であるが、1950 年代頃の海岸線は現在よりも自然性の高いも のであったと読み取れる。東日本大震災においては、海岸部 の泥等が持ち去られた可能性があり、干潟への影響が懸念さ れる。 船越半島の付け根に位置しており、トンボロであると考え られる。トンボロ上には池があり、かつては周辺に湿地が形 成されていたと推定される。東日本大震災においては、船越 地区全域が津波により浸水しており、海岸線の形状等が大き く改変されている。 1950 年頃は自然海岸であったが、山が迫る、集落適地が少 ない地形からか、比較的早い段階で港湾・宅地開発が進んで おり、2000 年代には自然海岸は消失している。東日本大震災 においては港湾施設等が大きな被害を受けた。 浪板・吉里吉里ともに、現在も海水浴場として利用される 陸中海岸国立 海岸であるが、1950 年代頃と比較すると、港湾整備により自 公園 然海岸は減少している。東日本大震災においては、浪板海岸 の砂浜がほぼ消失した。また、周辺の松林も流出している。 大槌川・小槌川の 2 河川の河口部となっており、1950 年頃 は河口部が護岸されておらず、砂浜・干潟や後背の湿地等が 残されていたと推定される。1970 年代頃には河口部の大部分 は護岸され、これらの環境は失われた。東日本大震災におい ては、港湾施設等の人工構造物が大きな被害を受けた。 鵜住居川河口部が砂洲によってせき止められ、1950 年代頃 には潟湖や湿地が発達していたと考えられる。1970 年代頃ま でに河川周辺で、農地・宅地等の開発が進んだ。東日本大震 災においては、砂洲が完全に消失し、海岸線が大きく後退し た。 2-126 No. 地 点 名 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 既存の 自然公園 分析結果概要 水海川河口部の海岸線で、1970 年代頃まで自然海岸が残さ れていたが、2000 年代までに防潮堤が整備された。東日本大 震災による大きな地形の変化は読み取れなかった。 鎌崎(釜石大観音)の南側の入り江で、1910 年代頃は自然 海岸であったが、1950 年頃には港湾整備が始まっており、 釜 石 湾 南 岩手県 1970 年代頃までに湾奥部の大部分が埋め立てられた。さら 部 釜石市 に、2000 年代までに鎌崎の南側まで埋め立てられている。東 日本大震災による大きな地形の変化は読み取れなかった。 1950 年代頃の片岸川・熊野川の河口部は護岸されておら ず、干潟が形成されていたと推定されるが、1970 年代までに 岩手県 唐丹湾 護岸化が進んだ。熊野川については、河川は護岸されたもの 釜石市 の、河口部の浜は残されている。わずかに残された自然の浜 の形状が東日本大震災により改変された。 吉浜は現在も海水浴場として利用される砂浜であり、地形 岩手県 吉浜 図上は 1910 年代頃から大きく変化していなかったが、東日本 大船渡市 大震災によって砂浜が浸食され、海岸線が大きく後退した。 1950 年代頃には自然海岸が残されていたが、1970 年代頃ま 岩手県 綾里 でに港湾整備が進み、大部分が失われた。東日本大震災によ 大船渡市 る大きな地形の変化は読み取れなかった。 現在の大船渡港がある盛川河口部は、1910 年代頃は複雑な 自然海岸が形成されており、干潟や湿地等も存在したと推定 岩手県 されるが、1950 年代頃には港湾整備等がはじまり、1970 年代 盛 大船渡市 頃までにはこれらの環境は失われた。東日本大震災により港 湾施設や盛川の中洲の形状等が改変されているが、大きな地 形の変化は読み取れなかった。 1970 年代頃まで湾全体が自然海岸となっていたが、2000 岩手県 門之浜 年代に港湾が整備された。しかしながら、現在も自然海岸部 陸前高田市 は残されている。 気仙川河口部に潟湖である古川沼が形成されており、1950 年頃はこの沼の周囲に湿地が広がっていた。高台にあった市 岩手県 陸中海岸国立 陸前高田 街地が徐々に海側にも広がり、古川沼の周囲にも農地等が整 陸前高田市 公園 備された。東日本大震災では、砂洲及び松原が消失したため、 古川沼も海と一体化してしまった。 1970 年代頃までは概ね自然海岸であったが、2000 年代まで 岩手県 泊 に港湾整備が進み、全体が護岸化された。東日本大震災によ 陸前高田市 る大きな地形の変化は読み取れなかった。 1950 年代頃までは広田湾の付け根の小さな入り江であっ 岩手県 小友 たが、1970 年代までに干拓され、陸地化した。東日本大震災 陸前高田市 では津波により干拓地の海岸線が浸食された。 舞根周辺は複雑な自然海岸が形成されていたが、1970 年代 宮城県 気仙沼県立自 舞根 頃までに多くの海岸線が護岸化された。東日本大震災により、 気仙沼市 然公園 舞根地区や浦地区の標高が一部、海抜 0 以下となっている。 舞根周辺と同様に、1950 年頃まではほとんどが自然海岸で 陸中海岸国立 宮城県 あったが、1970 年代頃までに、主要な港湾部等は護岸化され 大島瀬戸 公園/気仙沼県 気仙沼市 た。東日本大震災による大きな地形の変化は読み取れなかっ 立自然公園 た。 19 両石湾 20 都道府県 市町村 岩手県 釜石市 - 2-127 No. 地 点 名 都道府県 市町村 31 気仙沼湾 宮城県 気仙沼市 32 大島南部 宮城県 気仙沼市 33 岩井崎・御 宮城県 伊勢浜 気仙沼市 34 大谷海岸 宮城県 気仙沼市 35 赤崎海岸 宮城県 気仙沼市 36 長須賀 宮城県 南三陸町 37 伊里前湾 宮城県 南三陸町 38 志津川 宮城県 南三陸町 39 折立・水戸 宮城県 辺 南三陸町 40 長面 宮城県 石巻市 41 雄勝 宮城県 石巻市 既存の 自然公園 分析結果概要 1910 年頃は、入り組んだ複雑な海岸線が形成されており、 特に現在の南気仙沼駅周辺には小さな入り江が多数あった。 しかし、1950 年頃にはこれらの入り江は埋め立てられた。そ の後、1970 年代頃までに港湾整備が進み、自然海岸は失われ た。東日本大震災の後は、埋立地を中心として、地盤沈下に より海抜 0m 以下となった土地が散見される。 東岸の小前見島、大前見島周辺は 1910 年代頃から大きな変 陸中海岸国立 化は見られない。一方で、西岸は要害地区、中沢地区等では 公園 護岸化が進んだ。東日本大震災による大きな地形の変化は読 み取れなかった。 当地域の周辺は 1910 年頃は自然海岸であり、岩井崎の付け 根には小さな入り江があった。1950 年頃にはこの入り江は半 陸中海岸国立 分ほど埋め立てられ、1970 年代頃までに岩井崎周辺の護岸化 公園/南三陸金 が進んだ。御伊勢浜は現在も海水浴場として利用されている。 華山国定公園 東日本大震災により、御伊勢浜の砂浜が浸食され、海岸線は 大きく後退した。 大谷海岸は現在も海水浴場として利用される砂浜であった 南三陸金華山 が、東日本大震災により砂浜が浸食され海岸線が大きく後退 国定公園 した。 津谷川の河口部であり、1950 年代頃には砂浜の後背部に湿 地が形成されていたと推定される。1970 年代頃までに農地整 南三陸金華山 備等が進み、湿地は失われたと考えられる。海岸線は大きく 国定公園 変化することなく、海水浴場として利用されていたが、東日 本大震災により、砂浜の大部分が水没した。 2000 年代頃までに離岸堤が整備されたが、海岸線について 南三陸金華山 は大きな改変はなく残されている。しかしながら、東日本大 国定公園 震災により砂浜海岸が大きく浸食された。 1950 年頃は湾内全体が自然海岸であったが、2000 年代頃ま でに港湾整備が進み、湾奥部の自然海岸は消失した。東日本 大震災による大きな地形の変化は読み取れなかった。 1910 年頃までは自然海岸が残されていたが、1950 年代頃に は既に港湾整備が進んでおり、自然海岸は失われていた。港 湾部を中心に、海抜 0m 以下となった土地が散見される。 1950 年頃は折立川及び水戸辺川河口部は自然海岸となっ ており、比較的大きな干潟が存在したと考えられる。1970 年 代頃までに概ね護岸化され、周辺の海域は養殖場となってい る。東日本大震災により、いずれの河口部についても地盤沈 下の影響が見られる。 北上川河口に三角州が形成されている地域で、1950 年頃に 南三陸金華山 は川の周辺に湿地も残されていた。その後、1970 年頃までに 国定公園 河川や農地の整備が進んだ。東日本大震災では三角州の大部 分が水没し、地形が大きく改変された。 雄勝湾奥部は 1950 年頃まで自然海岸が残されていたが、 1970 年代頃までに港湾整備が進み、消失した。東日本大震災 においては、人工構造物が甚大な被害を受けたが、大きな地 形の変化等は読み取れなかった。 2-128 No. 地 点 名 都道府県 市町村 既存の 自然公園 42 万石浦 宮城県 石巻市 硯上山万石浦 県立自然公園 43 渡波 宮城県 石巻市 - 44 石巻港 宮城県 石巻市 - 45 矢本 宮城県 石巻市 - 46 東名 宮城県 東松島市 松島県立自然 公園 47 潜ヶ浦 宮城県 東松島市 松島県立自然 公園 48 波津々浦 宮城県 東松島市 松島県立自然 公園 49 陸前大塚 宮城県 松島町 松島県立自然 公園 50 手樽 宮城県 松島町 松島県立自然 公園 51 東塩竃 宮城県 塩竃市 - 分析結果概要 1950 年頃までは平野部(渡波地区)と接している西岸にも 自然海岸が残されており、大きな干潟が形成されていたと考 えられる。しかし、1970 年代頃までに護岸化された。東日本 大震災では、標高データからは大きな変化が読み取れなかっ たが、僅かな地盤沈下であっても干潟の干出に影響している 可能性が考えられる。 1950 年頃までは北上川河口と万石浦に挟まれた広い砂浜 であり、後背部には海岸林や農地が広がっていた。1970 年代 頃までに港湾整備され、後背部も市街地、宅地、農地、道路 網等が整備され、環境は大きく改変された。しかしながら、 残された砂浜は海水浴場となっている。東日本大震災におい ては、海岸線等の大きな変化は読み取れないが、後背部の農 地で地盤沈下の影響が見られる。 現在、石巻港がある地域は、1950 年頃には砂洲や湿地、海 岸林等が広がっており、生物多様性も豊かであったと考えら れる。しかし、1970 年代までには港湾整備が進み、砂洲の大 部分が護岸化され、湿地や海岸林は消失した。東日本大震災 においては、港湾等の人工構造物が大きな被害を受けた。 1950 年頃は、北上運河と仙台湾に挟まれた長大な砂浜であ り、人工構造物はほとんど存在しなかったが、その後、場所 によっては堤防や道路等が整備された。東日本大震災におい ては、全域に津波が到達しており、至る所で土地が浸食され ている。 1950 年頃の東名地区は概ね自然海岸となっており、陸地は 農地や湿地となっていたが、1970 年代頃までに護岸化が進ん だ。東日本大震災においては、東名地区全域に津波が到達し ており、また、地盤沈下も大きく、広い範囲が水没した。 潜ヶ浦は、1950 年頃までは宮戸島北端部の入り江であった が、1970 年代までに埋め立てられ、農地となっていた。しか し、東日本大震災の津波もしくは地盤沈下の影響により、再 び水没した。 1950 年頃の波津々浦は、複雑な海岸線が形成されており、 小さな入り江が複数存在していた。1970 年代頃までに小さな 入り江は埋め立てられ、農地となった。東日本大震災におい ては、これらの埋立地が再び水没した。また、波津々浦の東 側の陸地も水没した。 陸前大塚の東部及び古浦地区は 1910 年頃まで入り江であ ったが、1950 年頃までに埋め立てられている。これらの埋立 地が東日本大震災の地盤沈下の影響を受け、海抜 0m 以下とな っている。 現在の手樽駅周辺は 1950 年代頃まで入り江であったが、 1970 年代頃までに埋め立てられている。東日本大震災の後、 この埋立地が海抜 0m 以下となっている。 現在の塩竃市新浜町周辺は、二つの半島に挟まれた入り江 となっていたが、1970 年代頃までに埋め立てられている。東 日本大震災による大きな地形の変化等は読み取れなかった。 2-129 No. 地 点 名 都道府県 市町村 52 波多崎 宮城県 七ヶ浜町 53 仙 台 港 北 宮城県 部 仙台市 54 蒲生 宮城県 仙台市 55 井戸浦 宮城県 仙台市 56 広浦 宮城県 名取市 57 相の浜 宮城県 名取市 58 岩 沼 海 浜 宮城県 緑地 岩沼市 59 鳥の海 宮城県 亘理町 60 牛橋河口 宮城県 山元町 61 新浜 宮城県 山元町 既存の 自然公園 分析結果概要 現在の波多崎の西側は、1950 年頃までは代ヶ崎浜と呼ばれ 松島県立自然 る海岸であったが、1970 年代頃までに埋め立てられ、火力発 公園 電所が建設されている。東日本大震災においては、埋立地よ りも内陸側の谷底部が海抜 0m 以下となっている。 七北田川河口部より北側の地域には、1950 年頃まで自然海 岸であった。しかし、1970 年代頃までに埋め立て等の港湾整 備が実施され、海岸線は大きく改変された。東日本大震災に おいては、港湾施設等が大きな被害を受けた。 蒲生地区は現在も砂浜・干潟が形成されているが、1950 年 頃は、七北田川河口が現在より北部にあり、自然海岸も長く 続いていた。東日本大震災においては、砂洲の形状が大きく 改変した。これにより、汽水域の生態系に大きな影響が及ん だと予想される。その後も台風の影響等があり、変化を続け ている。 名取川河口に形成された潟湖であり、その形状等は 2000 年代になっても大きくは変わっていない。東日本大震災にお いては、井戸浦と仙台湾を隔てる砂洲が改変され、井戸浦と 海が一体化した。蒲生と同様に、水中の生態系に大きな影響 が及んだと考えられる。 名取川河口の南側にある潟湖で、1950 年頃は湖岸が自然状 態であったが、名取川の本流に近い部分では港湾整備が実施 された。また、陸地でも開発が進み、湿地は減少したと考え られる。広浦の形状に関しては、東日本大震災による大きな 改変は読み取れなかったが、より内陸部の農地が広い範囲で 海抜 0m 以下となっている。 貞山堀と仙台湾に挟まれた地域で、1950 年頃には、砂浜の 後背部に多数の湿地が存在していたと推定される。1970 年代 頃までには、湿地は道路網の整備等によって姿を消したと考 えられる。東日本大震災において、海岸林は大きな被害を受 けた。 砂浜の後背部に赤井江と呼ばれる池が形成されており、 1970 年代頃までは周辺に湿地が形成されていたが、2000 年代 頃までに緑地等が整備されたことや、自然の陸地化により多 くは姿を消したと考えられる。東日本大震災においては、海 岸線や周辺の土地が浸食された。 1950 年頃の鳥の海は湖岸が自然状態となっていたが、1970 年代頃までにはほぼ全域が護岸化された。東日本大震災にお いては、鳥の海と仙台湾を隔てている砂洲の形状が改変され たほか、周囲の農地等が広範囲で海抜 0m 以下となっている。 砂浜の後背部に池及び湿地が形成されており、現在も残さ れているが、1950 年頃と比較すると規模は縮小しており、ま た、護岸により囲まれた状態となっている。東日本大震災に おいては、池や水路沿いの土地が浸食された。 1950 年頃までは砂浜の後背部に池や湿地が形成されてい た。しかし、1970 年代頃までには宅地や農地が整備され、そ の多くは消失している。東日本大震災においては、付近の海 岸線が大きく浸食された。 2-130 No. 地 点 名 62 松川浦 都道府県 市町村 福島県 相馬市 既存の 自然公園 分析結果概要 1950 年頃の松川浦の湖岸は概ね自然状態であり、宇多川の 河口部には広い湿地が形成されていたと考えられる。しかし、 松川浦県立自 1970 年代頃までには、砂州である東岸を除いた大部分が護岸 然公園 された。東日本大震災においては、砂洲の形状が改変され、 また、西側の農地が広い範囲で水没した。 2-131 図 2-1-64 生 物 多 様 性 保 全 上 重 要 な 環 境 等 の 改 変 状 況 の 分 析 地 点 位 置 図 (1) 2-132 図 2-1-65 生 物 多 様 性 保 全 上 重 要 な 環 境 等 の 改 変 状 況 の 分 析 地 点 位 置 図 (2) 2-133 図 2-1-66 生 物 多 様 性 保 全 上 重 要 な 環 境 等 の 改 変 状 況 の 分 析 地 点 位 置 図 (3) 2-134 図 2-1-67 生 物 多 様 性 保 全 上 重 要 な 環 境 等 の 改 変 状 況 の 分 析 地 点 位 置 図 (4) 2-135 図 2-1-68 生 物 多 様 性 保 全 上 重 要 な 環 境 等 の 改 変 状 況 の 分 析 地 点 位 置 図 (5) 2-136 表 2-1-64 小友における分析結果 各年代の地形図等 概要 <1901-1912> 小友浦(三日市浦)は広田半島の付け根に 位置し、広田湾に湾口を向ける入り江であっ た。平坦な地形が海と接していることから、 湾奥には干潟が形成されていたと考えられ る。 <1951-1953> 昭和初期になると付近に鉄道が整備される が、小友浦には大きな変化はない。 2-137 各年代の地形図等 概要 <1962-1982> 昭和後期になると、入り江であった部分が 干拓され、陸地化した。一定の面積の浅海域 が消失し、海との接点は堤防となったため、 干潟のような海から陸への移行帯が形成され なくなったことから、海洋生物の生息には大 きな影響があったと推測される。 <1990-2008> 昭和後期の頃から変化していない。 <震災後> 小友地区には東西両側から津波が押し寄 せ、広田半島は分断された。小友浦の堤防は 崩壊し、干拓地は一部が津波により浸食され た。陸前高田市の復興計画においては、自然 再生の対象地とされている。 2-138 表 2-1-65 潜ヶ浦における分析結果 各年代の地形図等 概要 <1901-1912> 潜ヶ浦は奥松島の宮戸島北部に位置する、 入り組んだ複雑な海岸線からなる入り江であ った。 <1951-1953> 昭和初期には、潜ヶ浦の西南側の小さな入 り江(図中の )が陸地化した。 2-139 各年代の地形図等 概要 <1962-1982> 昭和後期になると、潜ヶ浦の入り江はすべ て埋めたてられ、陸地化した。 <1990-2008> 昭和後期の頃から変化していない。 <震災後> もともと入り江であった土地は津波により 浸水した。また、地盤沈下の影響が比較的大 きかった地域でもあり、かつて入り江であっ た部分は標高 0m 以下となっている。 2-140 ④自然環境の改変に関する歴史的事業 i. 北上川の改修 北上川を利用した水運は平安時代には行なわれており、非常に古くから行なわれていた。江戸 時代には米を運ぶための要衝として水運が栄え、船の航路確保、洪水防止、灌漑用水確保等を目 的として河川の改修が行なわれた。主な改修事業を以下に示す。 ・慶長 10 年~15 年(1605~1610) 分流域である袋中地区の氾濫を防ぐために、河川を湾曲させ、西方(吉田)への流路を閉塞。 これに伴い、大泉村(現登米市中田上沼)小名倉山から水越村(浅水)長谷山に至る北上川右岸 に 6.65km の堤防を築く。石(伊達)相模守宗直の名にちなみ「相模土手」と呼ばれる。また、 浅水村曲袋地区では川底を掘り下げる整備を行なったほか、かつて氾濫原だった温湿地を新田に 開発した。 ・元和9年~寛永3年(1623~1626) 柳津-飯野川間の遮断と、北上川・迫川・江合川の三大河川の一本化を行った。これにより盛 岡から河口石巻までの舟運が可能となり、流域の河川利用が飛躍的に発展した。新田開発も同時 に進み、石巻は藩米の集積地となった。石巻は江戸廻米の基地として奥州経済の中心的な港とし て発展していった。 ※仙台藩は享保 2 年(1717)には実高 100 万石に成長し、増産した米は江戸廻米として江戸に輸 出され、藩経済を繁栄させた。 ・明治 11 年~(1878) 明治政府(大久保利通)が富国強兵のために着手した東北拓殖の一環として航路改良を目的と した低水路工事が行なわれた。明治 11 年に石井閘門(北上運河のと北上川の接点)に着手し、 明治 13 年(1880)から 35 年にわたり、北上川を改修(盛岡―石巻の 196km)。あわせて、野蒜築港、 北上・東名運河開削、道路建設などが遂行された。これにより石巻から一関まで、汽船による運 行が可能となった。 ・明治 44 年~(1911) 東日本全域を未曾有の洪水(明治 43 年 8 月)が襲う。これをきっかけに、国をあげた全国河 川の抜本的な改修が始まる。北上川は、翌明治 44 年(1911)から 11 ヵ年継続、区間は宮城県と 岩手県境から海までとして計画された。これにより、柳津から飯野川まで 12kmの新水路(新北 上川)開削が行なわれたほか、追波川の拡幅などが行なわれ、流域の湿地帯が農地へと利用され るようになった。 ・昭和 20 年代~(1945) 2 度の大きな台風(S22 年カスリン台風、S23 年アイオン台風)の後、従来の治水計画を再検討 し、岩手県内には石淵ダム(S28)、田瀬ダム(S29) 、湯田ダム(S39) 、四十四田ダム(S43) 、御 所ダム(S56)の 5 大ダム、下流部でも洪水調整のためのダムが建設され、洪水の抑制機能の増 強が図られている。 2-141 【江戸時代:慶長時代の改修後】 【慶長時代以前】 【江戸時代:元和時代の改修後】 【明治時代以降】 図 2-1-69 出典:国土交通省 北上川の改修の変遷 東北地方整備局 北 上 川 下 流 河 川 事 務 所 HP <参考文献> ・北上川・鳴瀬川の概要と歴史-改修の歴史-(国土交通省北地方整備局北上川下流河川事務所 HP http://www.thr.mlit.go.jp/karyuu/kitakami_naruse/gaiyo_rekishi/rekishi_index.htm) 2-142 ii. 貞山堀の開削 貞山堀とは、南は阿武隈河口から北上し、名取川、七北田川をつなぎ、塩竈湾とを結ぶ 32.5km の運河(堀)の総称である。この運河は、河川水路を横につなぐ連絡路として、仙台北部地区及 び仙台南部地区と仙台城下をむすぶ重要な水運幹線路であるとともに海岸砂丘の後背湿地の新 田開発のための排水路としての機能を持っていた。この運河は今から約 410 年以上前の慶長年間 に掘り始められ、明治 5 年まで約 280 年の歳月を費やして建設されたものである。 貞山堀は江戸時代から明治時代にかけて、区間ごとに開削延長された複数の堀(運河)を一続 きに整備したものであり、木曳堀・御舟入堀・新堀の 3 つをあわせて、貞山掘または貞山運河と 呼ばれる。この貞山掘という名称は明治時代以降の呼称であり、最初に建設された木曳堀は伊達 政宗の命により開削されたことから、彼の偉業をしのび、伊達政宗の追号である「貞山」からそ の名称がつけられている。以下に貞山掘の主な事業について記載した。 ・木曳堀:慶長 2~6 年(1597~1601) 貞山掘のなかでも最初に建設された部分であり、阿武隈川河口の荒浜から名取川河口の閖上 (15km)の区間である。伊達政宗の命により行なわれ、仙台城と周囲の城下町の建設にかかる木 材輸送と、沿岸の名取谷地の開発のために建設された。 ・御舟入堀:万治元~寛文 13 年(1658~1673) 塩釜の牛生から七北田川左岸の蒲生までの北部水路(7km)であり、藩領北部と仙台城下を結 ぶ年貢米を主とした物資輸送路として開削された。これにより舟が花渕崎沖の外洋を回らず、松 島湾から大代に行くことができるようになった。 ・新堀:明治 3~5 年(1870~1872) 蒲生・閖上間(9.5km)これにより南の木曳堀と御舟入堀が水運で結ばれた。また、士族の生 活安定のために行われた仙台藩庁の公的事業であったという説もある。 貞山運河は明治に入りさらに以下の運河とも接続し、延長された。以下のように区分けされる が、これらの運河もあわせた総称として貞山運河という呼称が用いられる場合もある。 ・北上運河:明治 11~14 年(1878~1881) 石井閘門(旧北上川との接点)~鳴瀬川河口 13.9km。鳴瀬川河口に野蒜築港が建設されること になり建設された。 ・東名運河:明治 16~17 年(1883~1884) 鳴瀬川河口~松島湾(3.6km) 。鳴瀬川河口に野蒜築港が建設されることになり、石巻港-松島 湾も建設された。 2-143 図 2-1-70 貞山運河の分類 (出典:貞 山 運 河 事 典 ( 貞 山 運 河 事 典 編 集 委 員 会 HP) ) < 参 考 文献> ・ 貞 山 運河事典(貞山運河事典編集委員会 HP http://teizanunga.com/default.aspx) 2-144 iii. 三閉伊一揆 三閉一揆とは岩手県北東部に位置する三閉伊地方から始まった大規模な一揆である。この地方 は「やませ」によって冷夏に見舞われ、しばしば飢饉に見舞われる地域であった。飢饉の年には 草木の根を掘り、緑の物を探してはいずり回る悲惨な状態であったとされ、農民たちは困窮した 生活を送っていた。一方で盛岡藩は増税を繰り返し、様々な物に税金を課していった。田野畑村 の切牛地区生まれの佐々木弥五兵衛は、沿岸部でとれた塩を内陸部に運ぶ塩売り商人で、行商を 行ないながら農民に一揆の必要性を説いて回った。1847 年には一揆が起こり、三閉伊から始まっ た一揆は村を通る毎に人を増やしながら、宮古、そして遠野方面へと進んでいった。当時の盛岡 藩の家老新田小十郎は、善処することを約束し、一揆は収まったが、佐々木弥五兵衛はその後、 藩が差し向けた刺客に襲われ、囚われ処刑される。 1853 年には田野畑の畠山太助らを先導者とし、2 千人が決起し、再び一揆が起こった。一揆は 時間がたつにつれ人数を増し、その人数は 1 万人を超えたとされる。一行は、南部藩ではなく仙 台藩に訴状を差し出し、藩の悪政を訴えた。仙台藩は盛岡藩に藩政を改めるよう訴えるが、盛岡 藩はそれを聞き入れず、交渉は長期に渡った。仙台藩は幕府に事の顛末を伝え、盛岡藩は藩政を 改めるに至り、農民たちの訴えは聞き入れられ、一揆は成功した。 <参考文献> ・三閉伊一揆(田野畑村ホームページ ttp://www.vill.tanohata.iwate.jp/01gaiyo/cat22/cat79/) ・三閉伊一揆録(吉浜佐惣太) 2-145 ⑤三陸沖漁場形成の環境要因 東北太平洋沿岸地域は水産業を主産業とする地域が多く(参考:2-107 ページ、(2)産業) 、こ れは、日本有数の豊かな漁場である三陸沖漁場から近いということが主たる要因であると考えら れる。三陸沖漁場は国内レベルではなく、世界的に見ても豊かな漁場であり、世界三大漁場のひ とつとされている。世界三大漁場は北東大西洋海域、北西大西洋海域、北西太平洋海域の 3 箇所 であるが、北西太平洋海域の中に位置するのが三陸沖漁場である。三陸沖が豊かな漁場となって いる要因は複数あると考えられる。三陸沖漁場に関する情報は、東北太平洋沿岸の自然・社会を 俯瞰する上で重要な情報であると考えられることから、文献調査により、この要因をとりまとめ た。収集した文献は表 2-1-66 に示す通りである。 表 2-1-66 発行年 著者 三陸沖漁場に関する文献一覧 文献名 1994 堀井久義、田中仁、 志津川湾における湾水交換の現地観測 渡邊健二、首藤伸夫 1994 岡嵜守良 2000 2004 2006 2008 2009 2009 掲載誌 発行者 海岸工学論文集 41 土木学会 沿岸海 洋研 究 ノート 日本海洋学会 32(1) 乙 部 弘 隆 、 都 木 靖 三陸沿 岸へ回 帰し たサ ケの 遡上 に至る までの 日 本 水 産 学 会 誌 日本水産学会 彰、安保綾子 行動と海象・気象との関係 66(4) 三陸の海と生物 フィ ール ドサイエンスの新しい サ イ エ ン テ ィ スト 宮崎信之(編) 展開 社 長沼毅 深層水「湧昇」、海を耕す! 集英社新書 熊谷雅也、朝日田 イ ー・ ピ ッ クス出 奇跡の海 三陸 –めぐる命と浜物語卓、八木健一郎 版 水産庁 平成 21 年度水産白書 水産庁 Hirotaka OTOBE, Hiroji ONISHI , Masakatsu INADA, , Yutaka MICHIDA , and Makoto TERAZAKI 三陸沿岸の海湾における海水交換と変動現象 Estimation of water circulation in Otsuchi Bay, Coastal Marine Japan inferred from ADCP observation Science33(1) 東京大学海洋研 究所国際沿岸海 洋研究センター 番号 1 2 3 4 5 6 7 8 ※:番号は文中に上付きで付与した番号と対応 文献調査の結果、主に以下の 5 つの項目が三陸沖に豊かな漁場が形成されている要因となって いることが推定された。 i. 二つの海流が出会う海域 三陸沖が豊かな漁場となっている要因の一つとして、二つの海流が出会う海域であるというこ とが挙げられる。 平成 21 年度水産白書によると、 「北西太平洋海域(三陸沖や常磐沖)では、栄養素を豊富に含 んだ寒流の親潮が、南から流れてくる暖流の親潮にぶつかり、潮目を形成するため、プランクト ンが大量に発生し、それを食べる小魚、さらにその小魚を餌とするサンマ、カツオ、サバ等の多 種多様な魚が集まると」されている。 また、朝日田(2008)※6によると、 「北からの寒流である親潮は、その名の通り生き物にとっ ては親のような潮流であり、様々なミネラルを始め栄養分に富み、圧倒的なプランクトンを産み 出す」とされており、ワカメやコンブ等の海藻類も親潮が来なければ成長できないとされている。 一方で、 「南からの暖流黒潮は、多くの回遊性魚類を三陸に連れてくる。」とされている。親潮と 2-146 黒潮がぶつかる潮目を海洋前線と呼んでおり、この前線が三陸沖で季節によって南北に移動する ため、長期間にわたって豊かな漁場に恵まれるとされている。 乙部(2004)※4は、「異水塊がぶつかるところは海水が鉛直的によく動き、深いところの栄養 に富んだ水が表層に供給され、植物プランクトンがよく育つ。植物プランクトンが育てばそれを 餌とする動物プランクトンも育ち、順繰りに魚やイルカ、鯨と集まって増えてくる。このような わけで三陸沖は世界でも有数の漁場として知られている。」と記述しており、海流が出会う場所 の重要性について言及している。 ii. 多様な環境を有する海岸線 朝日田(2008)※6 によると、「穏やかな入り江や大きな砂浜、波が洗う岩礁や碁石を敷き詰め たような砂利浜、浅い湾や岸から急に深くなる海、ありとあらゆる海岸地形が凝縮された多彩な 環境が多彩な魚介類を提供するのである。また、岸から 10~20km ほどで水深 200m に達する場所 が多い三陸では、冬の季節風が日本海溝へ連なる深海から栄養豊富な深層水を表層に運び、豊か さを裏で支えている。 」とされている。複雑なリアスの海岸線は多様な環境を有しているため、 アワビやカニ等の沿岸部の水産物にも恵まれ、また、水深 200m 前後の深い場所に生息するタラ 等も周年生息することから、回遊魚が少ない冬季においても、多様な水産物に恵まれるとのこと である。また、「波うちぎわなど沿岸のごく浅い場所は、様々な魚介類の子供が育つゆりかごで あることが我々の研究によって明らかになっている。」とも記載されており、沿岸部の産卵場と しての重要性が示されている。 iii. 山からもたらされる栄養分 朝日田(2008)※6 によると、「急峻な山が多い三陸には大きな川は数えるほどしかないが、こ の海の間近にある山には広葉樹を初めとした木々が生い茂り、多くの小河川が存在する。名もな い沢を含めると無数と言ってよいほどある川が海にもたらす山の栄養が、海の生き物を育むので ある。」とされており、海に迫る山と陸水、小流域の重要性を示している。 長沼(2005)※5 は、「鉄分が不足すると人間が貧血になるように、植物プランクトンも成長し なくなります。鉄が不足すると植物プランクトンは窒素を吸収しにくくなったり、葉緑素を合成 できなくなったりするからです。そして、鉄は主に陸地から供給されます。」と、植物プランク トンの発生において鉄が重要であることを示すと共に、 「しかし、いくら鉄が豊かでも、河床に 沈殿したのでは海までたどり着きません。河床が真っ赤に燃える火のようだから「火の川」、そ れが揖斐川や日野川というのは、海洋生物としては喜べません。ところが、自然の妙というので しょうか、放っておけば沈殿してしまう鉄分を、沈殿しないように保護してくれる物質があるの です。そういう物質を鉄キレーターあるいはシデロフォアといいますが、自然界にあるシデロフ ォアは腐葉土に含まれる腐食質です。ブナやミズナラなどの落葉広葉樹の落葉が腐食質の素で、 それを川が海に運んでくれる。海の生物生産というのは、実は山川海森が一体となって初めてそ の最大限のパワーを発揮するのです。」と、海洋生産における流域の重要性について記述してい る。また、このことに気づいて樹を植え始めた漁師として、畠山重篤氏が紹介されている。ただ し、結びは「畠山さんの直感をなんとかして-あの鉄仮設の検証のように-科学的に証明したい と努力しているところです。 」とされており、依然、研究途上の分野であることが伺える。 2-147 iv. 湧昇流が発生する海域 長沼(2005)※5 によると、 「海洋の生物生産、すなわち植物プランクトンの光合成の最大の問 題は「光と栄養の剥離」です。光は表層にあり、栄養は深層にあるということです。 」とされて おり、また、 「植物プランクトンが活発に光合成して増えるのは「光とミネラル」、すなわち「表 層水と深層水」が出会うところです。深層水が表層まで上がることを湧昇といいますが、まさに 湧昇こそ海洋生物生産の鍵であり、生物海洋学という学問分野の中心テーマ、そして、持続可能 な 100 億食への切り札です。」とされており、海洋における生産性は、湧昇流が重要であること が示されている。当文献には、直接的に三陸沖での湧昇については触れられていないが、三陸地 域の地形や海流の状況を勘案すると、陸陰効果・島陰効果と呼ばれる現象と関係性が深いと考え られる。これは比較的規模の小さい地形的範囲で起き得る湧昇である。半島等の陸地に海流がぶ つかると、ぶつかった側とは反対側の海域では、海流によって表層水が引きずられて陸から離れ るように運ばれていき、その補充として深層水が湧き上がる。この現象が陸陰効果として説明さ れている。また、小さな島でも同じメカニズムでの湧昇があり、これを島陰効果としている。三 陸海岸は多数の半島と島が存在する海域であることから、陸陰効果・島陰効果による湧昇が漁業 資源の豊かさに関係している可能性が考えられる。 乙部(2004)※4は、「異水塊がぶつかるところは海水が鉛直的によく動き、深いところの栄養 に富んだ水が表層に供給され、植物プランクトンがよく育つ。植物プランクトンが育てばそれを 餌とする動物プランクトンも育ち、順繰りに魚やイルカ、鯨と集まって増えてくる。このような わけで三陸沖は世界でも有数の漁場として知られている。 」としており(再掲) 、湧昇という言葉 は用いていないものの、海水の鉛直方向の動きの重要性について言及している。また、乙部らは 大槌湾をモデルとして海水交換の研究を実施しており※4、8、大槌湾内における鉛直・水平方向の 海水の流れが明らかにされつつある。乙部ら(2000)※3 は、三陸の漁師の間には「大雨が降ると 大漁」 「西風が吹くと大漁」という諺があるが、漁期で最大の降雨時及び強風があった直後は好 漁であったこと(2 回の事例)についても示している。岡嵜ら(1994)※2は、「宮古湾の海水交 換の主体は鉛直循環であり、低層からの海水流入は「表層流出の補流」と考えられる」ことを示 しており、また、唐丹湾と広田湾の海水交換にもある一定のパターンがあることを示している。 堀井ほか(1994)※1 は、志津川湾において、湾奥から湾口に向けて吹く風による吹送流に呼応し て湧昇流が生じることについて言及している。 v. 豊富なサケ科魚類 朝日田(2008)※6 によると、春に大漁に漁獲されるカラフトマス、サクラマス、マスノスケ、 春から夏にかけて漁獲されるトキシラズ(シロザケの別名で、河川への遡上ではなく、餌を食べ るために回遊してきたもの) 、晩夏から初冬にかけて漁獲されるシロザケと、ほぼ年間を通じて サケ科魚類を漁獲することができ、「サケ科の魚だけをとっても四季を通じて様々なものが獲れ る」ことが三陸の豊かさの象徴であるとしている。 2-148 ⑥東北太平洋沖地震後の自然環境の改変状況 i. 植生の被害状況 調査対象地域において、現存植生図(第 3~7 回自然環境保全基礎調査、環境省)と津波浸水 範囲(国土地理院提供) を GIS ソフトを用いて重ね合わせ、 植生区分ごとの浸水面積を算出した。 算出結果を表 2-1-67 に示す。 調査対象地域では 47,416ha が浸水し、うち、耕作地が 25,646ha(54%)と最も多く、続いて 市街地が 14,375ha(30%)であった。耕作地、市街地及び牧草地・ゴルフ場・芝地以外では、 植林地が 2,501ha(5.3%)、湿原・河川・池沼植生が 942ha(2.0%)、二次草原が 887ha(1.9%) 、 砂丘植生が 657ha(1.4%)、落葉広葉樹林が 319ha(0.7%)と、浸水被害が多かった。 また、沿岸部の自然公園及び国指定鳥獣保護区における植生の被害状況を表 2-1-68 に示す。区 域面積に対して被害が大きかったのは、県立自然公園松島(39.6%) 、松川浦県立自然公園(34.0%)、 磐城海岸県立自然公園(30.6%)であった。多くの自然公園等で、浸水被害が大きかったのは耕 作地、市街地等、植林地であり、砂丘植生、湿原・河川・池沼植生等についても比較的被害が大 きかった。 表 2-1-67 都道府県 50 49 青森県 25 (三沢市、おいら 47 せ町、八戸市、 24 階上町) 22 岩手県 宮城県 58 57 54 41 22 32 18 29 49 47 50 25 26 56 13 16 55 57 58 54 47 都道府県別の浸水面積算出結果 植生区分(大区分) 海岸断崖地植生 砂丘植生 二次草原 湿原・河川・池沼植生 落葉広葉低木群落 落葉広葉樹二次林 合計 市街地等 耕作地 植林地 落葉広葉樹二次林 落葉広葉樹二次林 河辺林 河辺林 岩角地・海岸断崖地針葉樹林 砂丘植生 湿原・河川・池沼植生 海岸断崖地植生 二次草原 伐採跡地群落 牧草地・ゴルフ場・芝地 落葉広葉樹林(太平洋型) 渓畔林 竹林 合計 耕作地 市街地等 植林地 湿原・河川・池沼植生 2-149 植生自然度 10 10 4,5 10 7 7 1,2 2,3,4,5 6 7 7 9 9 9 10 10 10 4,5 4 2 9 9 7 2,3,4,5 1,2 6,7 5,10 浸水面積(ha) 192.73 134.87 26.30 16.51 2.25 0.01 1530.43 2506.74 1945.09 290.66 117.37 82.94 81.92 72.39 70.36 53.88 47.10 30.05 15.31 8.30 6.49 2.33 1.74 0.08 5380.82 17036.02 8288.34 1841.92 722.63 都道府県 56 25 57 49 41 23 18 48 32 29 22 43 34 55 50 26 27 30 17 28 5 16 福島県 57 58 54 49 25 47 42 23 56 41 48 45 46 43 29 32 22 55 28 18 植生区分(大区分) 牧草地・ゴルフ場・芝地 二次草原 市街地等 砂丘植生 落葉広葉樹二次林 常緑針葉樹二次林 河辺林 塩沼地植生 河辺林 岩角地・海岸断崖地針葉樹林 落葉広葉樹二次林 タケ・ササ群落 海岸風衝低木群落 竹林 海岸断崖地植生 伐採跡地群落 常緑広葉樹林 落葉広葉樹林 沼沢林 暖温帯針葉樹林 亜高山帯針葉樹林 渓畔林 合計 耕作地 市街地等 植林地 砂丘植生 二次草原 湿原・河川・池沼植生 常緑針葉樹二次林 常緑針葉樹二次林 牧草地・ゴルフ場・芝地 落葉広葉樹二次林 塩沼地植生 二次草原 伐採跡地群落 タケ・ササ群落 岩角地・海岸断崖地針葉樹林 河辺林 落葉広葉樹二次林 竹林 暖温帯針葉樹林 河辺林 合計 表 2-1-68 名称 陸中海岸 国立公園 (12,212ha) 植生自然度 2 5 1,2 10 7 7 9 10 9 9 7,8 5 9 7 10 4 9 9 9 9 9 9 2,3,4,5 1,2,6 6,7 10 5 10 7 7 2 7 10 5 4 5 9 9 7 7 9 9 浸水面積(ha) 667.31 638.08 477.50 218.11 166.50 144.91 89.81 81.88 70.09 45.58 42.81 34.24 15.77 9.00 8.86 8.04 5.61 3.84 1.54 1.10 0.41 0.01 30619.91 6526.65 2185.98 368.70 249.80 207.22 155.72 92.75 56.46 46.22 34.72 28.22 17.96 4.86 4.00 2.14 1.84 0.41 0.24 0.20 0.15 9984.26 自然公園別の浸水面積算出結果 植生区分(大区分) 57 耕作地 54 植林地 49 砂丘植生 2-150 植生自然度 浸水面積(ha) 111.79 2,3,4 100.69 6 55.23 10 名称 58 41 29 22 50 25 32 26 47 13 27 16 18 南三陸金華山 国定公園 (13,902ha) 種差海岸 階上岳 県立自然公園 (2,406ha) 県立自然公園 気仙沼 (21,079ha) 57 58 54 49 47 41 29 25 23 34 50 26 30 55 27 28 32 58 50 54 25 49 57 47 56 22 57 58 54 29 41 49 50 25 55 植生区分(大区分) 市街地等 落葉広葉樹二次林 岩角地・海岸断崖地針葉樹林 落葉広葉樹二次林 海岸断崖地植生 二次草原 河辺林 伐採跡地群落 湿原・河川・池沼植生 落葉広葉樹林(太平洋型) 常緑広葉樹林 渓畔林 河辺林 合計 耕作地 市街地等 植林地 砂丘植生 湿原・河川・池沼植生 落葉広葉樹二次林 岩角地・海岸断崖地針葉樹林 二次草原 常緑針葉樹二次林 海岸風衝低木群落 海岸断崖地植生 伐採跡地群落 落葉広葉樹林 竹林 常緑広葉樹林 暖温帯針葉樹林 河辺林 合計 市街地等 海岸断崖地植生 植林地 二次草原 砂丘植生 耕作地 湿原・河川・池沼植生 牧草地・ゴルフ場・芝地 落葉広葉樹二次林 合計 耕作地 市街地等 植林地 岩角地・海岸断崖地針葉樹林 落葉広葉樹二次林 砂丘植生 海岸断崖地植生 二次草原 竹林 2-151 植生自然度 浸水面積(ha) 1,2 45.54 7 38.24 9 30.55 7 20.17 10 18.32 5 4.76 9 2.12 4 1.06 10 0.60 9 0.55 9 0.23 9 0.14 9 0.01 430.01 2,3,4 391.48 1,2,98 124.08 6 119.27 10 113.03 5,10 62.58 7 47.25 9 44.47 5 12.76 7 11.26 9 10.69 10 9.71 4 2.99 9 1.87 7 1.17 9 1.14 9 0.75 9 0.23 954.72 1,2 51.50 10 50.88 6 10.88 4 4.28 10 4.13 2 3.48 10 3.01 2 1.39 7 0.00 129.55 2 534.21 1 148.02 6 44.96 9 20.70 7 15.20 10 12.11 1.43 10 0.93 5 0.25 7 名称 硯上山万石浦 県立自然公園 (9,333ha) 県立自然公園 松島 (5,410ha) 松川浦 県立自然公園 (979ha) 勿来 県立自然公園 (1,396) 18 57 58 54 41 23 26 34 22 30 47 25 55 49 57 58 54 47 23 25 56 41 49 22 34 30 50 55 27 18 26 28 54 58 57 25 48 23 49 47 56 22 43 49 58 54 47 植生区分(大区分) 合計 河辺林 耕作地 市街地等 植林地 落葉広葉樹二次林 常緑針葉樹二次林 伐採跡地群落 海岸風衝低木群落 落葉広葉樹二次林 落葉広葉樹林 湿原・河川・池沼植生 二次草原 竹林 砂丘植生 合計 耕作地 市街地等 植林地 湿原・河川・池沼植生 常緑針葉樹二次林 二次草原 牧草地・ゴルフ場・芝地 落葉広葉樹二次林 砂丘植生 落葉広葉樹二次林 海岸風衝低木群落 落葉広葉樹林 海岸断崖地植生 竹林 常緑広葉樹林 河辺林 伐採跡地群落 暖温帯針葉樹林 合計 植林地 市街地等 耕作地 二次草原 塩沼地植生 常緑針葉樹二次林 砂丘植生 湿原・河川・池沼植生 牧草地・ゴルフ場・芝地 落葉広葉樹二次林 タケ・ササ群落 合計 砂丘植生 市街地等 植林地 湿原・河川・池沼植生 2-152 植生自然度 浸水面積(ha) 777.82 9 0.06 2,3,4 72.05 1,2 50.61 6 12.98 7 5.80 7 2.23 4 1.01 9 0.61 7,8 0.50 9 0.41 10 0.38 5 0.30 7 0.02 10 0.00 146.96 2,4 894.16 1,2 673.06 6,7 155.20 5,10 99.35 7 78.53 5 75.72 2 72.21 7 48.22 10 21.05 7 9.57 9 8.96 9 2.72 10 2.59 7 1.31 9 1.27 9 0.47 4 0.05 9 0.03 2144.47 6,7 123.61 1,2 91.27 2,3,4 24.90 5 22.76 10 19.14 7 17.10 10 12.02 10 9.17 2 2.26 7 0.41 5 0.14 322.77 10 51.89 28.27 1,2 7.16 6 3.65 10 名称 45 42 57 41 磐城海岸 県立自然公園 (710ha) 仙台海浜 国指定 鳥獣保護区 (7,596ha) 49 58 54 57 42 47 41 29 28 45 54 58 57 48 49 47 25 23 56 18 43 17 32 34 植生区分(大区分) 二次草原 常緑針葉樹二次林 耕作地 落葉広葉樹二次林 合計 砂丘植生 市街地等 植林地 耕作地 常緑針葉樹二次林 湿原・河川・池沼植生 落葉広葉樹二次林 岩角地・海岸断崖地針葉樹林 暖温帯針葉樹林 二次草原 合計 植林地 市街地等 耕作地 塩沼地植生 砂丘植生 湿原・河川・池沼植生 二次草原 常緑針葉樹二次林 牧草地・ゴルフ場・芝地 河辺林 タケ・ササ群落 沼沢林 河辺林 海岸風衝低木群落 合計 植生自然度 浸水面積(ha) 5 2.66 7 1.44 2 1.25 7 0.72 97.04 10 78.81 1,2 73.57 6 32.74 2 20.87 7 8.97 10 1.79 7 0.38 9 0.13 9 0.11 5 0.00 217.36 6,7 692.35 1,2 385.43 2,4 372.43 10 70.02 10 69.48 10 66.86 5 48.39 7 31.30 2 6.56 9 4.99 5 4.87 9 1.35 9 0.91 9 0.13 1755.10 ii. 国指定鳥獣保護区の被害状況 ア.国指定日出島鳥獣保護区 当保護区は、環境省レッドリストにおいて絶滅危惧 IA 類(CR)とされているクロコシジロウ ミツバメ等の海鳥の繁殖地として 8ha が指定されている(全域が特別保護地区) 。 震災後は平成 23 年 6 月 16 日(木)~17 日(金)に調査が実施された。 斜面が V 字型に入り組んだ箇所や、島の一部では植物が茶色く変色する等、津波の到達を示唆 する箇所があったが、オオミズナギドリ等の巣穴については、平年通りの状態が見られ、津波の 影響は確認できなかった。 クロコシジロウミツバメは、平年よりも調査時期が早い(平成 22 年は 7月 20 日頃に実施)た めか、確認された個体数が多かった。オオミズナギドリは、平年よりもやや数が少なく感じられ たが、この時期はつがいの形成期であり、巣の中で過ごしている個体が多い時期でもある。 イ.国指定三貫島鳥獣保護区 当保護区は、オオミズナギドリ及び、ヒメクロウミツバメ(環境省レッドリスト:絶滅危惧Ⅱ 2-153 類)等の海鳥の繁殖地として 25ha が指定されている(全域が特別保護地区) 震災後は平成 23 年 6 月 20 日(月)~21 日(火)に調査が実施された。 その結果、地震による崩落箇所が 3 箇所ほどで見られ、津波によると思われるタブノキの枯死 が数本点在していたが、大きな被害はなかった。土壌の大きな流出もなかった。 ウミツバメ類 3 種は例年通りの規模で確認された(クロコシジロウミツバメ 10 羽余り、コシ ジロウミツバメ 20 羽、ヒメクロウミツバメ 15 羽)。 ウ.国指定仙台海浜鳥獣保護区 当保護区は、コクガン、コアジサシ(共に環境省レッドリストで絶滅危惧Ⅱ類とされている) 等の渡り鳥の集団渡来地として 7,596ha(うち、特別保護地区 213ha)が指定されている。 震災後は、約 1 ヶ月に 1 回ほどの頻度で、継続的な調査が実施されている。 震災直後は大規模に地形が変形し、干潟環境であった潟湖が土砂で埋まり、砂浜海岸が流出し たが、現在は潟湖、砂浜海岸ともに、元の地形に戻りつつあり、現在も地形が変化し続けている。 地震後も渡り鳥(シギ・チドリ類、カモ類)の飛来が継続的に観察されており、渡り鳥の種数 及び種組成は、大きな変化は見られない。 今後も引き続きモニタリングし、状況を注意深く観察していく必要がある。 iii. 鳥類(シギ・チドリ類)の渡りの被害状況 春季(4・5月)に飛来状況調査を実施しており、東北地方沿岸には宮城県蒲生干潟、鳥の海 及び福島県松川浦戸等に調査サイトを設定し、飛来数等を調査している。 平成 23 年度は 4 月 17 日に蒲生干潟で、4月 3 日に鳥の海で調査を実施したが、松川浦では実 施しなかった。 蒲生干潟及び鳥の海では、2008 年より毎年継続して調査を実施しており、最大飛来数(調査 期間内に記録された個体数の最大値)の変化は以下の通りである。また、種組成については大き な変化は見られていない。 表 2-1-69 調査地点 項目 出現種数 蒲生干潟 個体数 出現種数 鳥の海 個体数 シギ・チドリ類の最大飛来数 H20 春季 H21 春季 7 160 13 411 8 31 15 337 H22 春季 7 54 17 299 H23 春季 7 31 14 249 iv. 干潟及び藻場の被害状況 ア.松川浦(干潟) 平成 23 年 6 月 16 日に松川浦東部及び南部にて調査が実施された。 地震・津波直後は、潟湖の海側の砂洲が数箇所で破壊され、海水が直接流れ込むようになった (現在は補修中) 。干潟の砂泥底も大きく撹乱され、その多くは底生動物とともに持ち去られた。 鵜の尾付近の調査地点では、潟湖干潟の通水路の近くに位置する入り江状の干潟は、津波直後 と比較すると、いくらか干潟が干出するようになった。アサリやソトオリガイは消失し、高密度 2-154 で生息していたホソウミニナも非常に少なくなった。マツカワウラカワザンショウは確認されな かった。ユビナガホンヤドカリ、ケフサイソガニ等は生存が確認された。塩性湿地やヨシ原は消 失した。 磯部付近の調査地点は松川浦の最奥部に位置する平坦な干潟であり、面積は狭くなったが干出 が確認された。カワゴカイやニホンドロソコエビなど少数の種の生息が確認された。オキシジミ とサビシラトリガイの死殻が表面に見られたが、生貝は少数確認されるに留まった。残された小 面積のヨシ原では少し芽が出始めていた。外来種のサキグロタマツメタは確認されなかった。 両地域とも面積は減少したが、干潟は残存している。底生動物も 30 種以上確認されたが、各 種の個体数は減少していた。 イ.志津川(藻場(アラメ場) ) 平成 23 年 6 月 20 日に、志津川湾に浮かぶ椿島の概要部にて調査が実施された。 岸寄りではエゾノネジモクが優占するが、基本的にはアラメ主体の群落であった。地震・津波 の影響が心配されたが、調査区域とその近傍で、群落の景観が著しく変化した場所はなかった。 ただし、アラメ群落内に設置された永久方形枠とその周辺部で、大きなダメージを受けた複数の アラメ個体が発見された。津波の影響を受けた可能性が考えられる。 2-155