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日本語訳要旨(PDF)
民主主義とグローバリゼーション――トルコの場合 Hüseyin CICEK ムスタファ・ケマル・アタチュルクによって 1923 年に設立されたトルコ共和国は、そ の設立以来、 民主主義的政治システムを根付かせようと努力してきた。 今日までトルコは、 国内の反民主主義な権力者やエリート層との格闘を続けている。ドイツが国家社会主義へ と向かいつつある間、トルコの政治・経済関係はナチス支配下の政治システムと非常に接 近した。イスメト・イノニュ(大統領在職 1938-1950)は、ドイツの国家社会主義的政 策に感銘を受けていたため、トルコにおいて民主主義、自由主義、宗教政党の設立を禁止 した。ユダヤ人、クルド人、アルメニア人、非トルコ人は、2 級市民かそれ以下の存在の ごとく扱われた。1941 年度の国家機密文書においてトルコ政府は、仮にスターリングラー ドの戦いでヒトラーの軍隊が勝利した場合は、ドイツ支持国として参戦しようとまで断言 していた。 ヒトラー施政下のドイツが敗北し冷戦が幕を開けたためトルコの政治指導者は、アメリ カ合衆国の反共政策にならった国内政策・外交政策を指向した。NATO のメンバーとして、 そして、合衆国の経済的パートナーとして、トルコの政治システムは民主主義的政治過程 の影響を受けやすいものであった。1950 年に最初の実質的民主選挙が行われ、1923 年以 降はじめて、アタチュルク主義エリート層は政権を分け与えなければならなくなった。民 主党(DP)が政権につき、政治システムをより民主主義的な方向へと改革した。報道機関 はもはや国家の検閲下に置かれなくなった。そして大学も教育システムの内部においては 比較的自由であった。さらには、 「祈祷者の要求(call of prayer)」のような宗教的慣行が 再び喧伝された。しかしながら、いわゆるマッカーシズムが 1950 年代のアメリカで拡大 したとき、トルコにおいても同様に強い反民主主義運動が拡大した。DP は、スターリン 体制と協力していると非難され、トルコを共産党支配下のソビエト連邦の衛星国家にする という企てに協力していると非難された。1960 年代のはじまりとともに、最初の軍事的政 変が起った。合衆国主導による西側諸国の反共同盟へのトルコの参加は、トルコに民主主 義的効果をもたらしたが、冷戦時代においては、それを支持する政治メンバーによる専制 (tyranny)にも帰結するものだった。 冷戦終結以降のトルコの政治・経済システムは、ジェットコースターに比較されうる。 トルコの国土は、ワルシャワ条約が終結し、合衆国が旧ソビエト連邦諸国との新しい戦略 的協力関係を目指して以降、その時まで有していた戦略的重要性を失った。ラディカルな 政治家達が、トルコの民主主義政体において権力を掌握しつつあった。例えば、トルコの 政治家であるネジメッティン・エルバカンは、冷戦以降世界で進行している変化に対する 解決策として、イスラム教のラディカルな形式を説きすすめていた。国家主義的思想を持 つ政治家は、アジア系トルコ人を含めた「大トルコ連合(a great Turk Union)」の理念を 支持していた。高級軍人層も、よりケマル(=ムスタファ・ケマル・アタチュルク)主義 的方針に向かうようにと主張して、日常の政治に携わった。イスラム主義、国家主義、軍 人層によるラディカルな政治対立の内部で、レジェップ・タイイップ・エルドアンは、AKP (公正発展党)を設立した。この政党のメンバーは、アルメニア人虐殺問題、クルド人問 題、非ムスリムのトルコ人市民と民主主義教育について、トルコ史上はじめて真剣に取り 組んでいる。彼らはスケープゴートの政治(ジラルダンの言葉として理解されている)を 放棄し、今日の世界の複雑な現実の問題を扱おうとしている。 本稿は、トルコの民主主義的政治過程に影響を与えるグローバル政治が、どのようにし てトルコの歴史的・政治的発展に作用するのかを示そうとするものである。政治・文化・ 個人・経済システムの網目として理解されるグローバリゼーションは、民主主義的政治過 程を可能にするとともに、反民主主義的政治へと導きうる、ある「階級(class)」に属す るメンバーを、排斥するものでもある。 (訳 角崎洋平)