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執着攻めと平凡の短編集

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執着攻めと平凡の短編集
執着攻めと平凡の短編集
松本
!18禁要素を含みます。本作品は18歳未満の方が閲覧してはいけません!
タテ書き小説ネット[R18指定] Byナイトランタン
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁ノクターンノベルズ﹂﹁ムーンライトノ
ベルズ﹂﹁ミッドナイトノベルズ﹂で掲載中の小説を﹁タテ書き小
説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は当社に無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範囲を超え
る形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致します。小
説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
執着攻めと平凡の短編集
︻Nコード︼
N7660CA
︻作者名︼
松本
︻あらすじ︼
攻めが受けに執着し溺愛する、似たり寄ったりな話ばかり。
完全無欠の攻めと、平凡な受けが好きで、気がつけば攻めはいつも
微妙にヤンでるかもです。
長くても3話以内の短編ばかりで、のんびり更新です。
自サイトからの転載です。
1
Calling [売れっ子歌手X平凡一般人]︵前書き︶
ゴミ溜め生まれ、施設育ちの俺と、100万人のために歌う男の話。
出遭ったのは偶然だった。
お互い独りには慣れているはずだった。
けれど共に過ごしているうちに、この瞬間がまるで永遠に続いてい
/
街をジャック!
孤児院育ちの男
/
x
居候
/
歌えない
夢は必ず覚めるのだと、痛いくらい知っていたはずなのに。
くような甘い夢を見た。
︱︱
歌手
公開告白
;
/
key
歌手
2
Calling [売れっ子歌手X平凡一般人]
この夜を漕いで君の元へ。
誰かが唄った歌詞じゃないけど、でもあの男は確かに100万人
のために歌を唄う男だった。100万人以上のファンが、男の作る
歌と、男の書く歌詞を待ち望んでいた。男はまさに皆から切望され
る存在だった。そしてそんな男と比べて俺はというと、ゴミ捨て場
生まれの、施設育ちで、定職にもついていない人間のクズのお手本
のような人間だった。なぜ生まれてきたのかが分からなければ、こ
んな俺を誰が生んだのかさえ、果たしてその親は今生きているのか、
それとももうこの世にはいないのかさえ知らなかった。
俺は男と出会うまで本当の独りきりだった。そしてそれは、俺に
とって当たり前のことだった。
16になった年に施設を出てから一年半余り、碌なものを食べて
なかった俺。浮いたあばらとこけた頬は見るも無残で、まるで生き
ながら死んでいるみたいだった。
道端で力尽きへたり込んでいた俺。そんな俺を男はまるで捨て猫
を拾う子供みたいな手つきで抱え上げ、そしてそのまま何故か自分
の家へと連れ帰り、食事を与え、フロに入れ、髪を乾かし、自分と
同じ布団で眠らせた。
男に俺は何故こんなことをすると聞いた。その俺の問いに男は、
気まぐれでだよ、とだけ答えた。しかし気まぐれに拾ったにしては、
3
男の俺を世話する手つきは余りに柔らかすぎた。直ぐに放り出され
ると思っていた男の家に未だにとどまっている俺。しばらく経って
からまた同じ問いを重ねた俺に、男は今度は少し真剣な表情で、そ
れでもしかしまた、気まぐれだよ、と前と同じ答えを返した。
そしてそれから暫くして俺は唐突に男が俺を拾った理由を知るの
だ。
同じにおいがするような気がしていた。
本当の孤独を知っているような、同じ穴の狢のようなにおいが。
男もまた俺と同じような境遇の人間だった。だがしかし、一人も
身内が居ない俺と違い、身内は居るが自らその繋がりを切った男は、
本当の意味で言えば同じではなかった。でもそれでも男からは俺と
同じ孤独のにおいがした。
俺を拾った男は決して此処に居ろとは言わなかった。けれども、
出て行けとも決して口にしなかった。ぼんやりと男の家で過ごすう
ち、俺は朝食がいつも二人分用意されていて、歯ブラシも箸もマグ
カップも、男の家にあるほとんどの食器が二人分になったことに気
がついた。初めちぐはぐだった俺の茶碗と男の茶碗が二つ揃いで食
卓に並べられているのを見たとき。洗面所の歯ブラシ立てに男の歯
ブラシと俺のそれが並んで置かれているのを見たとき。俺は決まっ
て目頭が熱くなる自分を感じずにはいられなかった。
男は決して此処に居ろとは言わなかった。
でも時折俺が折れそうなくらい強く抱きしめるその腕は、確かに
言葉より雄弁に俺にここに居ろと言っていた。男の腕は言葉少ない
男の意思を伝えるための一つの有効な手段だった。
4
男が歌手だと、それも飛び切り売れているトップーアーティスト
の一人なのだと知ったのは、俺が男の家で過ごすようになって一ヶ
月ほど経ったある日の夕刻だった。一人の男が男の家を訪ねてきた
のだ。
初めて見た男はひどく冷たい目をしてただ一言﹁まだですか﹂と
だけ男に向かって言った。同じ部屋に居た俺には、目もくれなかっ
た。
まだ唄えない、と男は言った。その声に初めてやってきた冷たい
目をした男はまた一言、声が出るようになったのはいつですか、と
少し苛立った声を零す。いつですか。いつから声が。冷たい目の男
はじりっと男の方へ詰め寄った。メールではそんな素振り一言も。
冷たい男のそれは、今度は何故か燃えるようにぎらついていた。
言う必要がないと思ったから言わなかっただけだ。声が出ても歌
は唄えない。俺はまだ商品としては使えない。だから、だ。燃える
熱と厚い壁一枚隔てた向こう側に居るみたいな熱の伝わらない冷め
た表情で男は淡々とそう言った。
﹁いつ﹂
聞いた男の目からはもう完全に熱は去っていた。
用は済んだだろう。もう帰ってくれないか。男は客である男の腕
を引っ張り無理矢理立たせるとそのまま引きずって廊下へ連れて行
く。
﹁一ヶ月前だ﹂
男の声が聞こえた。
﹁声が戻ったのは、一ヶ月前だ﹂
男の声には熱の欠片一つ見つからなかった。
男の声が戻ったのだという一ヶ月間。その月日の長さは、男と俺
が共に居る時の長さと偶然にも重なっていた。
5
夜には決まって悪夢を見た。
夢の中で俺はいつも鎖に繋がれ広い舞台に置き去りにされている。
そしてその舞台の周りには無数の目が光っていて、その目は何が可
笑しいのかは分からないが、それでもいつも愉悦を刻むみたいに少
しゆがんだ形をしている。
逃げたくても逃げられない舞台の上。飛び降りるには鎖が足りな
い。俺は立ちすくみ泣き喚く。周りを囲む目がまた愉悦と、今度は
侮蔑まで混ぜて歪む。
そこで俺はいつも飛び起きるのだ。体にじっとりかいた不快な汗
と、頬を伝う温い涙に顔を濡らして。
︱︱俺を囲んでいた目は道で倒れていた俺を見るともなく見てい
たあの周りの目にとてもよく似ていた。
息が少し苦しくて、動悸がする。そして少しの吐き気と、酷い倦
怠感を感じる。でもこれはいつものことだ。施設を出てからずっと
消えない悪夢。きつく自分の腕で抱く自分の体が小刻みに震える。
まだ此処が軟らかいベッドの上だからマシだ。冬の凍りかけた道路
脇なんかとは比べ物にならない。
ごそり。起き上がらせた体を倒し、布団にもぐりこむ。すると急
に背後からぐるりと腕が俺の体に巻きつき、その腕にぐいと体を後
ろに引っ張られる。まず腕が暖かい体温に触れ、その後体全体がそ
の温もりに包まれる。
﹁また眠れないの?﹂
また怖い夢みた?首の直ぐ後ろで話しているのか、男が声を発す
るたび息が首元にかかってくすぐったい。
﹁ごめん、起こして﹂
小さな声で謝った俺を、男は腕に力をこめてきつく抱きしめるこ
6
とで黙らせる。
初めてこの家にきてからずっと俺と男は同じベッドで眠っている。
一人暮らしをしているらしい男の家にベッドが二つあるわけでもな
く、俺は男と同じベッドで夜を過ごす。ソファで寝ると言い張った
俺を、初めの夜も同じベッドで寝たのだから、今更だろう、と男が
無理矢理自分のベッドに引きずり込んだからだ。
﹁いいよ。また見たの?﹂
まるでキリストの母のように、俺のやったこと全てを赦す男は、
その言葉の後いつものようにさりげない口調で、
﹁じゃぁ怖い夢見ないように子守唄唄ってあげるよ。﹂
そう云って、その後唐突にまた新しい、俺の知らない歌を唄い始
める。
ゴミ捨て場生まれの、施設育ちの俺が知っている曲は両手両足で
十分足りるくらい少ししかない。その俺の知っているどの曲よりも
男の唄う歌は綺麗で優しくて心地よかった。男の唄っていた歌は全
て男が作ったオリジナルの歌だった。
男の家に連れてこられ、同じベッドで初めて眠った夜から続く男
の子守唄。突然体を震わせ飛び起きた俺に男は理由を聞こうとはし
なかった。そして勿論俺も言おうとしなかった。突然沈黙が支配す
る夜の闇に、男の掠れた声が響いた。声は俺の知らない歌を唄って
いた。曲の名を聞くことも、何故男が急に唄い出したのかを聞くこ
とも、ありがとうと云うこともなく、ただ俺は男の伸ばす腕に埋も
れて目を閉じた。そうして男の唄う歌は俺から悪夢を綺麗さっぱり
取り払っていった。男の優しい歌声と暖かい体温に抱かれて俺はま
た眠りの森へ舟を漕ぐ。男のおかげでそのときも、その後も、そし
て今日も二度目の眠りに悪夢はやってこなかった。
またあの男がやってきた。
7
キシタニ
岸谷というらしい男は、今日もまたあの冷たい眼をして男と、そ
して今度は何故か俺までまるで睨み付けるみたいな目で見回した。
﹁歌は思い出しましたか﹂
岸谷という男の声は、目と同じくらい冷ややかな空気を孕んでい
た。まるでこの間のあの熱が嘘みたいに冷たい冷たい声だった。
﹁相変わらず﹂
男は一言だけそう返す。その言葉に岸谷という男は嘆息し、俺は
目を見開いた。
﹁そうですか。まだ歌えないままですか﹂
そろそろマスコミが気づき始めています。もう時間があまり残さ
れてません。岸谷という男がそうつらつら話すのを、男は何の表情
も浮かんでいない顔で見ていた。
そんな男を俺はどうしようもなく可哀想だと思った。
﹁相変わらず﹂
そう返した男はまるで酷い痛みを必死で堪えているような表情を
していた。きっと岸谷という男は、男の零した言葉の後に続くはず
だった言葉を取り違えている。
相変わらずそのことばかりなんですね。
男はきっとこう云いたかったのだろう。
男が噛み殺した言葉をおもって俺は俯き唇を噛んだ。
男が俺を拾った理由が唐突に分かった気がした。
男はきっと自分を見てくれる人間が欲しかったのだろう。男の持
つ才能︱︱最も俺はその才が何なのか知らないが︱︱ではなく、男
自身を見てくれる人間が欲しかったのだろう。何て可哀想で愚かな
人間なのだろうと思った。
8
噛み締める男の唇がかすかに震えている。それが怒りからくるも
のなのか、はたまた別の感情からくるものなのかは、俺には判断が
つかなかった。
ただ男が欲した人間が自分自身を見てくれる人間なら別に俺でな
くても良かったということが何故か少し辛かった。︱︱そしてその
理由から俺はあえて目を逸らした。気づかないふりをしたのだ。自
分自身がこれ以上傷つかないために。自分以外の誰も傷つけないた
めに。
それからまた少し経った。俺と男の付き合いは早や三ヶ月もの期
間に達していた。男が歌を思い出したことは、ついにこの間あの岸
谷という男に知られてしまった。キッチンでふんふん唄っていた男
の歌声を岸谷という男に聞かれてしまったのだ。
それからというもの、男は岸谷という男に連れられ毎朝決まって
同じ時間にどこかへ外出するようになった。毎日決まって朝九時半
過ぎから夕方五時過ぎまで男は家を空けた。男が出かけた後俺は男
の住む家に一人ぽつんと取り残された。何かすることがあるわけで
もなく、かといってどこかへ行くあてもない俺は、ただただ流れる
雲、色の変わる空、男の部屋の隅に置かれた観葉植物、水滴のつい
たグラス、少し錆びた灰皿、そういった男の部屋にあるもの、男の
部屋から見えるもの、俺の目に付く全てのものを男からもらった一
冊のスケッチブックに描いていった。
人を描くことは得意ではなかった。物を、花を、木を描くのが好
きだった。男から貰った12色の色鉛筆と2Bの鉛筆を使って俺は
ただひたすらに絵を描き続ける。そうすれば空腹も忘れることがで
きた。男の居ない家では食事を取る気にもならなかった。冷蔵庫に
あるものを好きに食べていいと云われていたが、俺がその食材に手
をつけることは一度もなかった。触れてはならない気がしたのだ。
9
冷蔵庫なんてもの、俺には似つかわしくなく感じられた。
ふと店の裏に置かれている残飯の詰め込まれたゴミ箱を思い出し
た。あれが俺にはお似合いなのかもしれない。そう思って、直ぐに
その思いをかき消そうと手に握った色鉛筆を画用紙に滑らせた。思
った以上に空の色は濃くその紙の上に刻まれ溶けた。
スケッチブックが二冊目になったある日のことだった。突然男の
家の玄関が開き、今まで一度も朝に男を迎えに来る以外顔を見せる
ことのなかった岸谷という男がやってきた。男は相変わらず部屋の
ベランダで空を描いていた俺を睥睨すると、そのままつかつかと俺
に歩み寄り、そしてグイと俺の腕を無言で引っ張るとそのまま何も
云わず俺を男が今しがた通ってきた玄関へと連れて行く。手に持っ
ていた色鉛筆が床に音を立てて落ちた。
岸谷という男が云った。こんな得体の知れない子供をいつまでも
家に置いておくなんて。岸谷という男は俺の手からスケッチブック
と鉛筆をもぎ取ると、その換わりみたいに数枚の紙幣を空いたそこ
に突っ込んで俺の背中をドンと押した。気づけば玄関の外に放り出
されていた。
﹁あなたもそろそろ自分の居るべきところへ戻りなさい﹂
岸谷という男が俺にかけた最後の言葉はそれだった。そうして俺
はまるで手切れ金みたいな金を掴まされ、靴も履かされぬまま男の
家から追いやられたのだった。
オートロックの鍵が音を立てて閉じた。一度出たらもう二度と入
れない男の家。その家のポストに無意識のうちに今しがた握らされ
た紙幣を突っ込んだ。そしてそのまま踵を返し、俺は男のマンショ
ンを後にした。外に出て初めて見上げた男のマンションは酷く高か
った。今さっきまであの窓のどこかから下を見ていたなんて思えな
10
いほど、そのマンションは俺を完全に拒絶していた。知らない建物
だった。このマンションのどこかに男の部屋があるなんて思えない
ほど、その建物はよそよそしかった。
裸足の足が痛い。こんなことならあの金を少し貰ってくるんだっ
たと思ったが、しかし手元に置いておいたところでどうせそこらの
ゴミ箱に捨ててしまうだろうことは何故だか容易に想像できた。あ
んな金使おうとも思わない。仕方なしに裸足のまま暫く歩く。3時
間くらい歩きに歩いてようやく見慣れた街に出た。そのまま街に入
って懐かしいゴミ捨て場から履けそうな靴を引っ張り出す。そして
その靴を履いて俺は街の裏地へ溶けていく。
男のマンションなんかより、こっちのほうがよっぽど俺には似合
っていると思った。だがしかし、何故かその考えに胸が少し痛んだ。
そうして唐突に夜が怖いと思った。
これは以外に堪えるかもしれないと思った。それは手元に何もな
いからではない。勿論裸足だからでもない。男が傍に居ないからだ。
こんなことでは夜もろくに眠れない。少し前までは、男に出会う前
までは少なくとも俺はこんなに弱くはなかった。
男に出会う前も、男に出会った後も、俺は相変わらず悪夢を見た。
しかし男に出会った後は俺はその悪夢を毎夜引き連れてくる夜に怯
えることはなかった。夜が覚めれば、夢が明ければ、男が傍らに居
てくれることを知ったからだ。だから夜も怖くはなかった。
だがしかし今日からはまた男の居ない夜に逆戻りする。果たして
俺は今日から無事に夜を越えることができるのだろうか。男の温も
りを知ってしまった今、俺は一人でこの冷たい路地の上で眠ること
ができるのだろうか。出来ないかもしれないと思う。でも出来なく
ても無理して眠るほか方法はない。もう男は居ない。男なしで眠れ
なければならないのだ。
まるで夢を見ていたみたいだ。それもとびきり上等の酷い悪夢を。
11
男の存在も、男と過ごした日々も全部が夢みたいだった。そして今
はその夢が覚めただけ。現実の世界に戻っただけなのだ。だから何
ともない。
夢というものはいつかは覚めるものなのだ。たとえそれがどんな
にいい夢でも、どんなにその夢の中に居たいと願っても、朝が来れ
ば自然と覚めるものなのだ。
たとえ俺がそれを必死で食い止めようとどれだけ無駄に足掻いて
も、それは無駄なことなのだ。
明けない夜がないのと同じように、覚めぬ夢もまた存在しない。
男と最後に言葉を交わしてからだいぶ経った。その間に俺の体は
男と出会って少しは付いた肉を完全に削ぎ落とし、以前と全く同じ
体つきに戻っていた。あばらは完全に浮き上がり、少し力を入れら
れれば直ぐにでも折れそうだった。
日払いのバイトをいくつか掛け持ちして何とか糊口を凌ぐ日々を
送っていた。そして今日もまた日払いのティッシュ配りのバイトを
朝から夜まで立ちっぱなしでやることになっていた。この炎天下の
中立ちっぱなしは少しきついなと思ったけれど、それでも食べてい
くためには仕方がないことだと我慢するほかなかった。体を売れと
いわれないだけまだマシだと思った。
男と離れてからいろいろと男のことを考えた。そういえば名前も
聞いていなかったということに気づいたのは、男と別れてからだい
ぶ経ってからのことだった。それまで男と暮らした日々を思い返す
ことで手一杯でそのことにまで頭が回っていなかったのだ。なんと
いう名前だったのだろうか。男もまた俺の名を知らない。お互い何
かの偶然で出会っても名を呼び、呼び止めることもかなわない。何
12
だかそれは少し悲しいかもしれないと思った。でもそう思っても俺
にはどうしようもないことだった。
男に会いたいとずっとずっと思っていた。男に会えるならタダで
ビラを何千枚配ってもいいとさえ思った。ティシュだって配る。男
の優しい腕が死ぬほど恋しかった。もう一度抱きしめて欲しいと思
った。男の声をもう一度聞きたいと思った。
男のことが好きなのだと、俺には男が必要なのだと、死ぬほど実
感した。
︱︱でもそんなこといくら思ったところで所詮無駄なだけだった。
まるで絵の具で塗ったみたいに青い青い空だった。雲は綿で作っ
たみたいに真っ白だった。四方をビルに囲まれた大きな通りでティ
ッシュをいやになるくらい配った。しかし配っても配っても箱の中
身は一向に減る気配を見せなかった。支給された帽子が唯一の助け
だった。帽子を目深にかぶればかんかん照りの日光を少しは避ける
ことが出来た。おかげで日射病で倒れるなんて醜態をさらすことは
なかった。
静かに夜の帳が降り始めていた。
空が藍色に染まり、気温が少し下がった。風が温くなり、辺りの
ネオンが灯り始めた。
何故かぞろぞろと人が俺のティッシュ配りをする通りに集まり始
めていた。何かイベントでも行われるのだろうかと思って辺りを見
回したが、周りにそれらしき設営は見当たらなかった。集まってき
た人々は皆一様に空を見上げていた。こんな汚れた街では星なんか
見えはしない。一体そんなに首を傾けて何を見ているのだろうかと
思った。立ち止まる人間が増えたおかげでティッシュは思った以上
13
に早く無くなっていった。
7時前になった。通りはすごい人だかりになっていた。本当に一
体此処で何があるんだと思った。こんなに人が集まると身動きが取
れない。少し息苦しいと思った。
7時きっかりに通りに面して設置されていた巨大スクリーンが全
て消え、その周りの電飾も皆同じように明かりを消した。立ち止ま
っていた人々がざわめいた。
そしてその後直ぐに辺りは音の洪水に巻き込まれた。
通りにあるスクリーン全部が同じ映像を写していた。聞こえてく
る音もどうやら一つだけのようだった。
聞こえてくる音も、浮かんでいる映像も、どちらも酷く懐かしく、
見覚えのあるものだった。浮かんでは消え浮かんでは消えしている
絵は俺の描いたあのへたくそな絵で、聞こえてくる声は間違えよう
のないあの男のものだった。
なぜ、と思った。
なぜこんなことになっているのだろうか。
男の唄う歌は俺が好きだといったあの子守唄の一つだった。男の
声は、最後に聞いた行ってきますの声とそっくりそのまま同じだっ
た。浮かぶ絵は俺が男の家で描いた空の絵ばかりだった。青空、飛
行機雲、夕焼け。全部俺の描いた絵だった。
何故か涙が溢れてとまらなかった。
もう二度と聞けないと思っていた男の声。それがこんなところで
14
聞けるなんて、何て偶然だろうかと思った。これで暫くの間はやる
気を絶やさず生きていける。現金なことに体に力がみなぎってくる
ように感じられた。
男の名前を死ぬほど呼びたいと思った。でも俺は男の名前を知ら
なかった。だから声にならない名前を咽で押し殺してぼろぼろ泣き
続けた。この男が好きなのだと、どうしようもないくらい心のそこ
から実感した。この感情をほかの人は何と呼ぶのだろうか。こんな
に胸が痛くて、切なくて、苦しくて。もう息が出来ない。こんな思
いを人は何と呼ぶのだろうか。
こんな痛み、今まで感じたことない。
今日がティッシュ配りのバイトでよかったと心底思った。おかげ
でティッシュは余るほどある。早速一袋封を切ってぐちゃぐちゃの
顔を拭う。俯いてごしごし顔を拭いている俺の耳にまた新しいざわ
めきが聞こえた。ざわり。そしてそのざわめきは直ぐにおかしな沈
黙に変わった。
鼻水の詰まった鼻にも充分に香る濃厚な花の匂いが直ぐ傍から漂
った。
ガサリと近くで紙か何かが擦れるような音がした。恐る恐る顔を
上げてみると、上げたその視界を真っ赤な何かが埋め尽くす。何だ、
これ。涙で濡れた視界が序所にはっきりしてくるにつれその赤い何
かの正体もおぼろげにだが明らかになる。
バラ、だ。それも赤い赤いバラ。それが何故俺の目の前にこんな
にもたくさんあるのだろうか。気づけば俺の周りからは人がすっか
り居なくなっていて、その居なくなった人たちは少しはなれたとこ
ろでまるでかごめかごめをするような感じで俺を囲んでこっちを凝
視している。
15
バラが視界から消えた。そしてその消えたバラの向こう側に立っ
ていたのは、俺と同じように帽子を目深に被った一人の背の高い男
だった。
まさか、と思った。
何故この男がこんなところに居るのだ。
﹁どの花が好きか分からなかったから、プロポーズに一番人気の
花をあるだけ貰ってきたんだけど﹂
久しぶりに聞く男の話声。歌声とは違い、少し甘く掠れる男の声
は、忘れたくても忘れられなかったあの日の声と何一つ変わってい
ない。
﹁気に入らなかった?﹂
男はゆっくりとした動作で帽子を脱ぎ、俺ににっこりと笑いかけ
た。
﹁何で、﹂
体が恐ろしいくらい小刻みに震えた。
﹁何で、こんなとこに、あんた、有名人なんだろ、こんなとこに、
なんで、なんでこんなこと、何で、何で、﹂
﹁もう二度と会えないと思ったのに、何で﹂
男の手がバラの花束を握ったまま俺を自分の方へ引き寄せた。
﹁うん。ごめんね。さびしかった?ごめんね、これからはずっと
一緒に居るから﹂
バラの匂いより強く嗅ぎなれた男の淡いコロンの匂いが俺を包む。
16
﹁さびしくなんか・・・﹂
無いに決まってる。そう云おうとして咽が嗚咽で詰まって言葉が
途中で掻き消えた。俺の指がすがり付くみたいに男の服を固く握る。
﹁もう絶対に一人になんかしない。だから僕と一緒に逃げてくれ
ないかい?﹂
男がとびきりの悪戯を話すみたいに弾んだ声で、俺の耳元にそう
囁く。
﹁逃げるって、どういう﹂
通りは水を打ったみたいに静まり返っていた。まるで男と俺しか
存在しないみたいに、誰も何も話さない。
﹁そのままの意味だよ。僕はもうこの世界に居たくないんだ﹂
君と一緒がいい。一緒に居たいんだ。
男はそう云ってあの優しい腕できつくきつく俺を抱く。
﹃一人にしないでくれ。一緒に居て。君が居ない夜はもう耐えら
れないよ﹄
スクリーンから聞こえる男の声がそう唄い上げ、
﹁君とならどこでだって生きていける﹂
君さえ居れば他にはなにもいらないんだ。
17
目の前に居る男がそう云って笑う。
﹁嫌だと云っても攫っていくつもりだから﹂
バラの匂いと男の強い腕のせいで息が出来ない。
﹁あの日からずっとずっと探してた﹂
﹁もう二度と一人になりたくないんだ。君が居ないと息も出来な
い﹂
﹁君が必要なんだ﹂
﹃だから傍に居てくれないか﹄
これは本当に現実なのだろうか、と思った。俺はまた夢を見てい
るのではないのかと。
男に触れる指も、抱きしめられる体も、香る匂いも、全て夢のよ
うで。
ただひたすら聞こえる男の声だけが、胸に痛い。
この痛みは果たして現実の痛みなのだろうか。
もうどっちでもいい、と思った。
これが夢であれ、現実であれ、男さえ居ればどちらでもかまわな
18
いと。
だから目の前に立つ男に思い切り強く強く抱きついた。骨の一本
くらい持っていってやるくらいの勢いで、だ。
﹁俺だってあんたさえ居れば他はいらない﹂
何だか妙に声がかすれているなと思った。気づけば俺はまるで子
供のように涙を流し顔をくしゃくしゃにしてまた泣いていた。
﹁あんたが居れば、他には何もいらないんだ﹂
震える俺の指がもう二度と逃がさないというみたいに男の服の下
にある肌に食い込んだ。
男さえ居れば何もいらないと、そう本気で思った。
男の名前を呼びたいと、思った。
誰が見ていようと、この先にどんなことが待ち受けていようと、
男さえいれば怖くないと思った。
夜なんかもう怖くない。
男さえいれば、もう、何も。
19
何も怖くなどない。
20
Calling [売れっ子歌手X平凡一般人]︵後書き︶
お読みいただきありがとうございました。
21
淳の言いつけ通り、いい子に
待て
、してたでしょう?﹂
Stay and Good [氷の風紀委員長X平凡一般生徒
↑生徒会長]︵前書き︶
﹁︱︱
衆人環視の中交わされたキスは、俺と奴との関係を一瞬で粉々に打
ち砕いた。
/
横恋慕
↑生徒
そして後に残ったもの、それはいつの間にか傍にいることが当たり
裏切り
平凡だけど腕っ節は強い男
/
x
前になっていたその存在だった。
風紀委員長
飼い主と飼い犬
:
/
key
会長
22
よし、﹂
Stay and Good [氷の風紀委員長X平凡一般生徒
↑生徒会長]
﹁︱︱︱
浮気と本気の境目はどこにあるのだろう。
彼氏、だと思っていた男の、オマエだけが大切なんだと今朝俺の
耳元囁いたその唇が、少し離れたところで今まさに季節はずれの転
校生であり、そしてまた生徒会にかかわる全ての生徒の心をいとも
簡単に掴み、翻弄する見た目はただの野暮ったいだけの男のそれと
重なろうとしていた。
周りからは嫉妬にも嬌声にも聞こえる甲高い声が挙がっている。
まるで女子のそれに似た声に、無意識にも眉間に力がこもるのが
分かる。ここは確か男子校だったような気がするとふと周りを見回
して、やはり男しかいないことを確認して、そのやりきれなさにた
23
め息が漏れた。︱︱抱きたいだの、抱かれたいだののランキングに
本気で踊らされている生徒が大半のこの学園で、男らしいだの女々
しいだの考えることすら馬鹿らしい。
ツカサ
好きだと言われて、俺もだと返した。それが︱︱今この終わりの
ウリュウ
宇笠 司。一度も染め
瞬間へ向かう一歩目だったのかもしれない。
抱かれたいランキング2位、生徒会会長
たことのない烏の羽のような黒髪に、同じぐらい黒々とした眼をも
つ、誰もが振り返るいい男。俺様な手腕は確かに敵も多かったけれ
ど、それでもそいつらを黙らせるだけの鮮やかな手腕は、見事だと
しかいいようがないものだった。一族全てが政界入りするという筋
金入りの政界一家に生まれたサラブレッド。持って生まれたその統
率力は、やつの進む未来を鮮明に思い描かせた。
そしてそんなサラブレッドの横に3ヶ月もの間のうのうと居座り
続けた︱︱どこの馬の骨とも知れぬ男、それが俺だった。
宇笠と特別な関係になった次の日には、なぜかその関係は全校生
徒の知るところとなっていた。
俺様専制君主の横に立つ、何のとりえもない一般生徒。
その日の朝は、寮から校舎までをまるで針の上を歩いているよう
な気分で歩き、一日中見世物パンダになったかのような気分でイス
に座り、放課後には人気の無い校舎裏で殴られかけ、とどめに夜は
君主様の部屋に引きずり込まれた。唯一誰にも咎められずに息がで
きたのは、部活の時間だけ。あとはどこへ行くにも何をするにも人
目がついてまわり、そして時には襲われかける。
24
まったくついてない一日だった。そう思ってため息を吐いたその
悪夢のようなローテーションが、まさか3ヶ月間ほぼ毎日のように
続くとは思ってもみなかった。
幸いケンカには自信があった。だからなんとか殺されずにいられ
るようなものだった。
逃げ出したいと毎日思っていたけれど︱︱宇笠のことが好きだっ
たから、それでも必死に学園に喰らいついていた。
だがしかし、その俺の苦労が、まさかこんな形で報われるとは。
カフェテラスのど真ん中でキスする二人。それを囲んではやし立
てる生徒ども。何もかもが馬鹿馬鹿しく思えて、︱︱瞬き一度した
後には、もう全てを捨てる決心がついた。
最後に一度殴ってから学園を去ろう。暴力事件は理由如何を問わ
ず、退学処分をくだすこの学園で、誰かを殴るというのは、そうい
うことだ。つまり退学覚悟。けれどそれぐらいしても、許されるは
ずだ。知らぬ間に握り締めていたらしい手のひらに爪が食い込む鈍
い痛み。滴り落ちた雫が、まるで涙みたいだなんてセンチメンタル
にもほどがある。
一歩踏み出した足。そのまま突き進むために前のめりになる体を
押しとどめるかのように、尻ポケットに入れていたケータイが震え
る。けれどそんなものに気をとられている暇はない。
ざわりと揺れる空気に、ひどく凶暴な気分になる。その気分に引
きずられて口元が歪むのがわかる。宇笠が眼を見開いてこちらを見
25
ている。キスの余韻で湿った唇は、間抜けにもほんのわずかに開い
ていた。その横に宇笠にすがりつくようにして立ち、こちらを睨み
付ける宇笠の次の相手。︱︱なんという茶番。
﹁ ﹂
宇笠が俺を呼んだ︱︱気がした。けれどその声は俺がやってきた
ときよりも、二人がキスを見せ付けていたときよりもでかい喚声に
あっけなく飲み込まれた。
潮が音を立てて引くさまを見るように、人だかりが二つに割れて
真ん中に道を作る。その出来立ての道を悠々と歩いてやってきたの
ヒガキ
レイ
は、この学園で不動の抱かれたいランキング1位を誇る風紀委員長、
檜垣 黎だった。
鬣にも似た金の髪を風に遊ばせて、まるで王のごとき足取りでこ
ちらへ近づいてくる檜垣。その檜垣に右手を掴みあげられ、ぐいと
後ろに引かれる。硬質な雰囲気のする宇笠とは正反対の甘ったるい
顔が、俺を覗き込む。そこに浮かんでいた、まるでいたずらをした
ペットをしかるときのような表情に、俺は音を立てて唾を飲み込ん
だ。
視線は俺を捕らえたまま、檜垣は掴んでいた俺の右手を強引に開
かせる。そこには未だ血の止まらぬ出来立ての傷がある。それを見
て一瞬眉を顰めた檜垣。けれどその後には見るもの全てを虜にする
甘ったるい笑みを浮かべて、
その出来立ての傷に、舌を這わせた。
26
ぐり、と先を尖らせた舌で傷口を抉られて、それほど大きくなか
った傷が、ありがたいことにその深さを増したようだ。その証拠に
流れる血が、確実に量を増している。
痛みにもがく俺を片腕でいとも簡単に押さえつける檜垣。背後か
ら体ごと抱きこまれ、まわされた腕が、まるで檻のように俺の体を
囲う。
ジュン
﹁淳、おれもう結構我慢の限界なんだよね﹂
そう言って覗き込む色素の薄い眼はまるで、目の前にご馳走をち
待て
、してたでしょう?﹂
らつかされて、けれども待てをコマンドされた犬のようだ。
﹁淳の言いつけ通り、いい子に
今にも餌に頭から突っ込んでいきそうな、︱︱もう一秒たりとも
待てないと言わんばかりのその顔を見て、これが周りから修羅のご
とく恐れられる天下の風紀委員様のする面かと、腹を抱えて笑い転
げそうになった俺は、周りの状況も忘れてついうっかりそのコマン
ドを解除してしまった。
よし
﹁そうだな。じゃあ、もう良いだろう﹂
声が零れたのが早いか、はたまた檜垣が動いたのが早いか。
背後から俺を抱きこんだその姿勢のまま、︱︱︱上から覆いかぶ
さるように口付けてくる檜垣。
27
ミルクを舐める犬のように、伸ばした舌を俺の口の中に突っ込み
掻き回すその行動に、すっかり忘れていた辺りのギャラリーが一斉
に悲鳴を上げた。
ヤツから思いを告げられたのは、俺と宇笠が関係をもってすぐの
ことだったから、かれこれ3ヶ月も前のことになる。
出会いはなんてことないことがきっかけだった。
家庭科部栄養研究会なんていう名前だけはたいそうな、それでい
て部員はたった俺一人の廃部寸前の部活の、定例の栄養研究と題し
たただの夜飯作りのせいで、旧校舎の2階の廊下に充満していたし
ょうが焼きの匂い。それにつられた見回り途中の檜垣が、のこのこ
部室へ乗り込んできたのが全ての始まりだった。
それまでの俺が持っていた檜垣のイメージは、誰にも懐かない血
統書つきの犬。そんな感じだった。
甘い見た目と、それにつりあった甘い声。すらりと伸びた四肢に、
明晰な頭脳。1年の2学期にはもう既に次期風紀委員長と噂される
ほどの統率力と実力。
誰にでも薄い紅茶色した眼をゆるく眇め、尻尾を振って愛想を振
28
りまいているようで、その実瞳の奥深くを凍てつかせたまま、緊張
をはらんだまま日を暮らすその姿が、俺にはただひたすら飼い主の
命令だけを忠実に守るよく訓練された犬のそれように見えた。
けれどもそんな風に感じていたのはどうやら俺だけだったらしく、
まわりの檜垣の評価といえば、委員長の地位に驕ることなく誰も彼
も平等に扱い、いつも甘い笑みを絶やさず、そしてまたいつ何時話
しかけてもその笑みと同じだけの甘い声でやわらかく対応してくれ
る、公明正大なよく出来た男。生徒会長に並ぶ文句のつけようのな
い男、そんなところだった。
そして今回宇笠と全校生徒の前で堂々とキスをぶちかます転校生
が学園にやってきたのもまた、俺と宇笠が関係を持ったのと丁度同
時期だった。今思い返せば、その頃は全く持って忙しい時期だった。
俺は宇笠との関係にあくせくし、学園は転校生が生徒会の役員を次
々に惚れさせていくのに震撼し、檜垣はその生徒会が起こす不祥事
に近い事態を解決するために風紀の仲間と共にあちこち奔走してい
た。
休む暇もなければ、ゆっくりと食事を取ることもままならないほ
ど仕事に忙殺される日々を送っていた檜垣。
その日もランチを取り損ねたらしい檜垣が、廊下に充満する夜飯
の匂いにつられてのこのこ部室に侵入してきたのは、まぁ仕方がな
かったといえばそうなのかもしれない。
29
白飯とわかめサラダ、それにしょうが焼きとみそ汁。
俺が作ったなんてことない料理を、死ぬほどうまいといってほお
ばった檜垣は、まるでおあずけの解除された犬のようだった。
そしてその日を境に、檜垣は毎週水曜日と決めていた栄養研究の
日︱︱つまり俺が夜飯を作る日には必ず顔を出すようになり、そし
て水曜以外の日にもいつの間にか食材を持ち込み食べたいものをリ
クエストするようになり、気づけば宇笠と過ごす時間以外のほとん
どの時間を、俺は檜垣と共にするようになっていた。
男を落とすには胃袋を掴むのが一番。その言葉通り、檜垣は出会
って1ヶ月後に俺に好きだと告げた。
けれど俺はそのとき宇笠と付き合っていたし、宇笠に思いを寄せ
ていた。だから檜垣の気持ちは、もちろん受け取れるはずもなかっ
た。
悪い、とすぐさま断った俺に、あきらめるつもりはないと言って、
その後も変わらず部室に息抜きがてらやってくる檜垣。ウィットに
富んだ檜垣との会話は俺を満足させ、初めは思いを断ったことに罪
悪感を感じていた俺が、その気持ちをすっかり振り切りいつしか奴
が部室を訪れる日を楽しみに待つようになったのは、ごくごく自然
のなりゆきだった。
犬みたいだな、おまえ。
毛並みのいい、よく躾された犬が、行儀よく食事する。見えるは
ずのない尻尾がその後ろに見えた気がして、気づけばそう檜垣に向
30
かって告げた俺に、じゃあ淳が俺の飼い主だね、と笑って答えた檜
垣。
餌付けしたのは淳なんだから、最後までちゃんと面倒みてよね。
茶碗に山盛りよそった白飯をきれいに平らげて、にこにこ笑った
まま俺のコメカミに口付けた檜垣。くすぐったさに身をすくめた俺
に気をよくした奴が、そのまま唇にも同じことをしようとしている
のに気づいて、まてをコマンドしたのはいったいどれぐらい前のこ
とだっただろうか。
それからも戯れにキスしようとする檜垣に、唇以外ならと許して、
それでもそこだけは宇笠が大切だからとまてのコマンドを続けた俺。
飼い犬はつらいよね、としょんぼり尻尾を力なく振る檜垣に、嫌な
ら他の家の子になってもいいんだぞと、悪戯のように笑って告げれ
ば、奴はやだやだ捨てないでと、天下の風紀委員長形無しの、今に
も泣きそうな顔で体に抱きついてきた。
あの時泣きそうにゆがんでいた眼が、今は満面の笑みを象ってい
る。
﹁淳﹂
溺れそうなぐらい執拗なキス。その合間に縋るように俺の名を呼
ぶ檜垣。後ろから抱き込まれた無理な体勢のまま、檜垣の髪をくし
ゃくしゃかき混ぜてやると、それに気をよくしたのか、檜垣がさら
に強く唇を押し付けてくる。
﹁﹁︱︱淳﹂﹂
雨のようなキス。その中で再び呼ばれた俺の名。
31
呼んだ一人は檜垣。
そしてもう一人は、
﹁おれの淳の名前、気安く呼ばないでくれる?宇笠﹂
少し前に過去になった、男。
﹁どういう、つもりだ、淳﹂
宇笠が何か言っている気がするが、檜垣のキスに気を取られてき
ちんと聞き取りきれない。
いい加減にやめろと、かき混ぜていた手を止め、そのまま髪を引
っ張って引き剥がす俺に、いやいやをするように鼻先を俺の首筋に
こすりつける檜垣。
﹁答えろ、淳。一体どういうつもりなんだ﹂
いつの間にか目の前まで来ていたらしい宇笠。その右腕には、相
変わらずの転校生がぶら下がっている。
﹁それはこっちのセリフだ﹂
背後に檜垣をくっつけたまま、宇笠に視線をやる。先ほど感じた
32
燃えるような怒りは、檜垣のおかげでだいぶおさまっている。
今感じるのは、目の前に立つこの男は最早赤の他人でしかないと
いう、ただそれだけのシンプルな気持ち。
﹁お前が好きだったよ、宇笠。今までどうもありがとな﹂
さよなら。
好きだったと告げたときに、びくりと体を震わせた檜垣。それを
なだめるようにまた頭を撫でてやると、こらえ切れないというよう
に、俺の首を吸い上げ跡を残す。
﹁俺は別れるつもりなんてない。それにお前は俺のものだろう、
淳﹂
パンと乾いた音を立てて、檜垣の頭を撫でていた俺の手を掴みあ
げる宇笠。掴んだ俺の指先にゆっくり唇を寄せるその姿が、スロー
モーションのように視界に映る。
﹁寝言は寝てから言いなよ、宇笠﹂
ぐいと体ごと引っ張って強引に宇笠の手から俺の指を引っこ抜く
檜垣のその声は、氷のようにつめたい。
33
﹁お前は淳を裏切った。宇笠がいるからおれの気持ちには答えら
れないって言って、ずっとずっとお前を信じ続けた淳を、お前はい
とも簡単に切り捨てただろう?﹂
そのときからもう淳はお前のものじゃなくて、俺の大切な人にな
ったんだよ。
﹁分かる?お前は淳を切って、信じがたいくらい愚かな道を選ん
だんだ﹂
﹁お前はせいぜいそいつとよろしくやってな﹂
俺はこれから淳にめいっぱい甘やかしてもらうからさ。
ぎゅうぎゅう力いっぱいに抱きしめてくる檜垣。
そんな檜垣がどうしようもないほどかわいく思えてくる俺は、も
はや末期だろう。
34
﹁ね、淳?﹂
目の前で唇をきつく噛み締める宇笠。その横で俺を燃えるような
瞳で睨み付ける転校生。
﹁そうだな﹂
それを全て振り切って、俺は俺を抱きしめる檜垣の鼻の頭にゆっ
くりと唇を寄せた。
35
俺たちを遠巻きに囲む生徒たちが、あの檜垣委員長がたった一人
を特別にするなんて、だとか、宇笠会長を捨てるなんて、だとか、
いろいろ好き勝手にはやし立てている。けれどそんな周りを露とも
気にせず、檜垣は保健室行って手当てしよう、と俺の手を引き、そ
の輪から抜け出そうとする。
ねぇ。
檜垣が甘い声で一声呼ぶと、いつの間にか傍に来ていたらしい風
紀の連中が、はい、とすばやい返事を返す。
﹁あとはよろしくね﹂
そういい残し場を後にする檜垣に頭を下げて応えたメンバーは、
集まっていた生徒たちを見事な手腕で片付けていく。
﹁じゃ、いこ、淳﹂
俺をまっすぐに見つめて甘い紅茶色の瞳に笑みを浮かす檜垣。そ
こに凍りついた色は、ない。
36
あるのはひたむきに飼い主を慕う、熱だけだ。
37
Stay and Good [氷の風紀委員長X平凡一般生徒
↑生徒会長]︵後書き︶
お読みいただきありがとうございました。
38
やっと捕まえた [人気者大学生X精神不安定平凡]︵前書き︶
[腹黒人気者が、周りを利用して自分に依存していくようにしむけ
る話が読みたい]
というリクエストから出来た話です。
※イジメのような表現のシーンがあります。
不快に感じられる方は、ブラウザを閉じてください。
3話あった話を、1話の中にまとめました。
内容に変わりはありません。
39
やっと捕まえた [人気者大学生X精神不安定平凡]
奴との出会いがどんな風だったのかなんて、そんな事とうの昔に
忘れてしまった。
何ということもない出会いだったはずだ。ごくごく普通の出会い。
なのにどうしてだろう。
そこに特別なものなんて何もなかった。
︱︱
柚山
慧
/
Satoshi
この関係が、特別な何かに名前を変え出したのは。
side
最近皆に見られている気がする。
Yuyama
︱︱
皆っていうのは、言葉の通り皆、全員にだ。
誰か一人ではなく、すれ違う人にちらちら見られている気がする。
40
一体いつからこうなったのかなんて覚えていないし、それに原因
だって勿論分からない。
ただ何をしていても見られている気がして落ち着かないし、研究
会の発表だって前日に何度も読み込んでおかしなところなんか無い
はずなのに、なのにクスクス笑われている気がして全然集中できな
い。
ご飯食べているときも、箸の持ち方が変じゃないか気になるし、
果ては普通に歩いているだけで歩き方がおかしくないか不安で仕方
がない。
毎日大学に通うのが苦痛で仕方がない。
何でこんな風になってしまったのか、全然分からない。
ある日突然こうなってような気もすれば、ずっと前からこうだっ
た気もする。
とにかく四六時中人目が気になって仕方がない。
落ち着けるときは、もうほとんど僅かしか残っていない。
ユイト
梅崎 惟斗と居る時は、なぜかそういった視線
ウメサキ
一人でどこかに閉じこもっているときか、それか︱︱。
親友の惟斗︱︱
をほとんど感じないで済む。
だから悪いと思っていても、惟斗の傍から離れられない。
惟斗の傍に居れば安心できる。
それに惟斗自身、俺が周りの視線を恐れていることを察してくれ
て、さり気なく周りのそれから庇ってくれたりもする。
41
それでいて何でもない風に俺に声をかけ、俺が気を遣わなくて済
むようにしてくれる。
実際何人かには直接、惟斗から離れるように言われたこと
本当にいい奴過ぎて、俺なんかにはもったいないと思う。
︱︱
もある。
何であんたなんかと。
あんたと居ると、梅崎君が穢れる。
惟斗を解放しなさいよ。
一時は本当に酷くて、ほぼ毎日のように女たちの群れに、また時
には男に呼び出され、周りを囲まれてそう叫ばれた。
だから頷かずに、曖昧に言
でもその時は、そういうことは俺が決めるんじゃなくて、惟斗自
身が決めるべきだと思ったから、︱︱
葉を濁すだけで終わらせていた。
毎日毎日頭が痛くて、胃だっておかしくなった。
そのせいで見るからに痩せて、そこで初めて惟斗が俺の異変に気
付いた。
一人暮らししている俺のマンションに押し掛けて、何があったん
だと一晩かけて全部吐かされた。
そして全部惟斗に告げたその次の週から、俺への呼び出しはピタ
リとまるで今までのが全部夢だったみたいに止んだ。
それがなぜなのかは分からないし、惟斗に聞いても知らないとし
惟斗は
か答えないから、それ以上のことは分からないまま終わっている。
多分きっと惟斗が何かをしたんだとは思うけれど、︱︱
42
俺に言わないと決めたら、その欠片も悟られないぐらい完璧に隠し
通す。
それに俺には惟斗以外の友達もいないから、誰かに聞くなんてこ
ともできない。
だから俺が知りたいと願っても、きっと無駄なことだろう。
惟斗はこの大学でもかなり名が売れている。
顔も頭も性格もいい惟斗。
何で俺なんかとつるんでるのかが分からないぐらい、惟斗は周り
から常に求められている。
俺は別に頭の出来も、顔も普通だし、性格に至っては普通どころ
side
梅崎
惟斗
/
Yu
だから惟斗が傍に居てくれるだけで、俺は世界でほんの少
か暗くてそれに度が過ぎるマイナス思考だから鬱陶しいことこの上
ない。
︱︱
Umesaki
し息がしやすくなる気がした。
ito
この世の中は笑いたくなるほど単純で、且つ馬鹿馬鹿しいことば
43
かりだ。
コップ一杯の奇麗な水に青いインクを一滴落とすと、その水はど
うなるだろう。
一滴ぐらいでは何も変わらないだろうか?
より強い反応を返す。
仮に見た目に変化はなくとも、中に青いインクが落ちたことに変
わりはない。
そしてそのインクは次に落ちる滴に︱︱
二滴目のインクは、きっとコップの中に変化をもたらす。
水は青に傾き、三滴目の滴を静かに待つだろう。そして少しずつ
インクが足されれば、コップの水は青へ移ろう。
けれど忘れてはならないのが、コップの水を青くしたのは決して
二滴目のインクなどではないということだ。
最初の階。
何も変わらなかったように思われる一滴目のインク。
それこそが、この変化の︱︱
誰にも知られず、けれど、二滴目の反応
慧を手に入れるために行ったことは、まさに
一滴目のインクは︱︱
柚山
の呼び水となる。
僕が彼︱︱
この一滴目のインクを落とすことだった。
慧を孤立させるには、ほんの少し波風を立てるだけで十分だった。
44
彼は元々人に好かれるほうではなかったし、それに加えて僕が長
く傍にいるせいで、彼は周りからの反感をかなり買っていた。
そして周りのフラストレーションが最高潮に達したその時を見計
らって、僕は慧の根も葉もない噂を一つ、刺激に飢えた構内に放っ
た。
終いには
何とかして彼から僕を引き離そうとしていた周りの連中は、その
噂に一も二もなく飛びつき、
そして後は青いインクと同じ。
次から次へと落ちるインクが、コップの水を青く︱︱
黒に変えていった。
今では慧の一挙手一投足に人目がついて回るようになった。
彼は大学に来ることを嫌がり始め、そして周りの目から逃れるよ
彼の指が僕の服の端を頼りなさげに掴んだ、その時の僕の
うに僕の背に隠れだした。
︱︱
気持ちと言ったら!
僕の理性が後僅かにでも失われていたら、慧を廊下に引きずり倒
してそのまま抱いてしまっていただろう。
それぐらい僕の中では、彼が僕に無意識のうちに縋りついてきた
というのは大きなことだった。
仕掛けはほぼ完成していると言ってもいいところまで、出来上が
45
っていた。
side
other
話し声や笑い声、ときに怒鳴り声が混ざり合う学食。その中の片
隅で誰にも気付かれないことを願うように、ひっそりと食事をとる
のは、構内では悪い意味で名の売れた柚山だ。
彼は誰にも顔を見られないように俯いて、黙々と食事を続けてい
る。
隣に座る者はいない。それどころか四方全てが空いている状態で、
誰もが遠巻きに柚山を見て嘲笑っていた。
そしてそ
構内にはいつからか彼にとってあまり良くない噂がいくつも流れ
るようになった。
そしてそれらの噂は彼をよりいっそう孤立させ、︱︱
の孤立は、また更なる噂の火種となった。
最悪の悪循環だ。
彼はいつしか俯いてばかりいるようになり、そのせいでか彼の顔
を誰もはっきりと思い浮かべることはできなくなった。
46
ただ一人、梅崎
惟斗という男を除いて。
梅崎は柚山にどれほどの噂が流れようと、決してその隣から動く
ことはなかった。
それどころか彼らの距離は、噂が流れてから以降より一層近づい
たようにさえ見えた。
梅崎は人を惹きつけることに長けた男だ。
彼の周りにはおのずと人が集まる。
少なくとも、柚山が現れるまでは。
けれど決して自分の深いところへは立ち入らせない。それが梅崎
という男だった︱︱
自分の欲しいものが手に入らないからと、小さな子供がするよう
な些細な嫌がらせを繰り返す大人。
嘆かわしいことだが学内にはそういった者が、少なからずいる。
そしてそんな彼らが求めているものはただ一つ。
そしてそれ故に、
特別を持たない、誰も自分の深いところへは招かない男、梅崎だ。
彼らは学内に蔓延する噂を鵜呑みにし、︱︱
梅崎に害をなすその存在を排除することに決めたようだった。
﹁あっ、ごめぇん、気配ないから気付かなかったぁ﹂
47
一人の女子学生が笑いながら、柚山を見る。周りには彼女の連れ
らしき数人の学生が二人を囲むように立っていて、柚山の逃げ道は
断たれていた。
茫然と女を見る柚山。
その頭から湯気を立てた紅茶が滴り落ちる。
そんな柚山の姿を見て、二人の周りに立つ学生だけでなく、近辺
に居た学生もつられたようにクスクスと忍び笑いを零す。
一呼吸遅れて、熱っ、と柚山が自分にかかった紅茶を払う。
座って食事していた彼の頭上から一息にかけられた紅茶は、柚山
の顔を濡らし、首筋を伝って背中まで焼いたようだ。
未だ冷めぬ熱さから逃れようと、服の袖で顔を拭う柚山。
﹁おい、大丈夫かっ﹂
続いてかけられた声は、顔に叩きつけられた水と共に柚山に届い
た。
これで冷えただろう。
笑い声とともに届いた言葉で、柚山は先ほどとは別の誰かに、今
度は水をかけられたのだと知る。
滴り落ちる水は確かに冷たかったけれど、火傷を冷やすほどでは
ない。紅茶が流れた柚山の首筋は、未だ赤く、熱を持っているよう
だ。
けれど、こ
四方からクスクスと笑う声が、柚山を飲み込むように響く。
顔を真っ青にし、体を小刻みに震わせる柚山。︱︱
48
こには彼を庇うものは、誰一人として存在しない。
食堂で一人びしょ濡れになっている柚山。
そんな彼を見て、周りの者たちはおかしくて仕方がないというよ
うに、笑い声を立てる。
俯く彼の視線は、誰を映すこともない。
震える男と、それを面白そうに見る者たち。
時間にすればほんのひと時だったかもしれない。
柚山に再び水の入ったコップが向けられ、それを持った男
けれど柚山にとっては、一生分に等しい時間が流れたそのとき、
︱︱
が手を振りかぶる。
パシャリと水の跳ねる音がする。
思わず目を瞑る柚山。
けれどその水は柚山の元へは届かず、振り切るはずだった男の手
梅崎﹂
は、突如として現れた男によって止められていた。
﹁︱︱
49
誰かが思わずといったように、その男の名を口にする。それを聞
いた周りが、一瞬のうちにざわめき立つ。
そ
そしてその瞬間、柚山とその周りの時間が一気に動きだした。
﹁慧﹂
俯く柚山に、聞きなれた梅崎の声がかかる。
その声に促されるように、ゆっくりと顔を上げる柚山。︱︱
の顔は、死人のように生気がなく、青白い。
﹁そんな顔してないで、こっちにおいで﹂
梅崎は掴んでいた男の手を離し、柚山に向かって腕を広げる。
にこりと笑う梅崎は、柚山がびしょ濡れであることに何の言及も
しない。
広げられた腕を見て、そしてそのあと周りにほんの一瞬だけ視線
を走らせる柚山。
慧﹂
そこにある憎悪の視線を見てとって、柚山は再び視線を落とす。
﹁︱︱
自分からは決して近づこうとしない梅崎。けれどその声は、聞く
者が赤面するほどの甘い毒を孕んでいる。
50
﹁僕が守ってあげるよ﹂
この世のすべてから、慧、君を守って
唆すように告げるその声に、柚山の体がピクリと反応する。
﹁慧が僕を選ぶなら︱︱
あげる﹂
その声にはじかれたように顔をあげる柚山。
視線の先にある梅崎の笑みをみた瞬間、柚山は椅子から立ち、広
誰にも聞こえないぐらい小
げられたその腕の中へまるで突進するように進む。
﹁ ﹂
柚山が腕の中へ落ちたその瞬間︱︱
さな声で、梅崎から零れ落ちたその声には、
漸く柚山を手に入れた男の、殺しきれない愉悦が溶けている。
痛いぐらいの抱擁の後、梅崎は柚山の体を小さい子供を抱えるよ
うな気軽さでその腕に抱いて、食堂を後にする。
柚山は抱きあげられたことにも、連れ浚われることにも何一つと
して口を開かず、ただ縋りつくように梅崎の首元に回した手に力を
込める。
51
知らず体を震わせるほど、冷徹な
首元に回ったその腕に小さなキスをひとつ落として、去り際に一
度だけ振り返った梅崎。
その向けられた視線は、︱︱
もので。
それを受けた者たちは、皆思わず息を飲んだ。
構内の駐車場に止めてある車まで、柚山を抱えたまま歩く梅崎。
腕の中に収まる柚山はぐったりとしており、抱かれていることに
対して逆らう意思すらないようだ。
オートでキーロックの解除された助手席のドアを開け、柚山をそ
こへ細心の注意を払って降ろす。
梅崎の体が完全に離れようとしたそのとき、思わずといった風に
手を伸ばした柚山に、梅崎の口元が愉悦を刻む。
﹁少し眠っておいで﹂
口調はこれ以上ないぐらいに甘く、伸ばした手でさらりと柚山の
髪をなでてドアを閉める梅崎。
運転席に回り発進させる車は、知らない者のいないほど名の知れ
た高級車だ。
52
ほとんど音も立てず、静かに進む車。
もう逃がさないよ﹂
その助手席に座る柚山の瞼は、完全に閉じられている。
﹁︱︱
大学からほど近いマンションの駐車場に車を入れエンジンを切り、
再び助手席に回って梅崎は柚山を抱き上げる。
消え
深い眠りについているのか、柚山は目覚める気配をみせない。
﹁ここが君を飼う檻だ﹂
額に口づけて、ゆっくりと玄関を通り過ぎる梅崎。
その後ろで、オートロックの施錠が落ちる音が響いて︱︱
た。
53
やっと捕まえた [人気者大学生X精神不安定平凡]︵後書き︶
お読みいただき、ありがとうございました。
54
Pay
It
Forwardを観た後、書きなぐった話で
Pay It Forward [人気者大学生 X 病弱平凡
]︵前書き︶
映画
す。
55
Forward
!
身を引くことが最善の手だと信じていた。
it
Pay It Forward [人気者大学生 X 病弱平凡
]
Pay
︱︱
次に渡せ
は完了するのだと。
それこそ、頑ななまでに必死で、それが最善の手だと。
それで男は幸せになり、俺の
56
映画を見た。正月の深夜にやっていた、いつかのロードショー。
その映画では、﹃世界を平和にするためにはどしたらいいか﹄とい
う問いが課され、そして主人公の少年によってその答えが示されて
いた。
答えは意外なほどシンプルなものだった。幼い少年が描く平和の
連鎖。その答えを聞いて、俺は心を決めた。
世界を平和にしようなんて思ったわけじゃない。けれど、あの男
pay
it
Forward.
は幸せにしてやりたかった。
普段なら出来ない難しいことを相手にしてあげて、それを3人の
人間に渡す。
57
it
Forward
は永遠に続いて
受け取った3人は各々同じように、普段なら出来ない難しいこと
Pay
を別の3人の人間にしてあげる。
そうしてその
いき、世界はほんの少し平和になる。
してあげることは人それぞれだ。たとえばそれは救いであったり、
そしてまた赦しであったり、恵であったりする。その人の望むこと
だった。
Pay
it
Forw
を、それも普段の自分なら進んで行わないようなことをしてあげる。
次へ渡せ
それが少年の描いた平和の連鎖。︱︱
ard.
幸せにしてあげたかった。俺ではもう望むべくも無い希い︵ねが
い︶を、叶えてやりたかった。だから決めた。自分ではもう彼を幸
せにはしてやれない。俺が傍にいると、彼を傷つけるだけで、少し
も彼は幸せにはなれない。
映画に託されたメッセージを理解した瞬間、唐突にこのままでは
漸く
だったのかもしれない。
いけないと気づいた。それは俺にとっては唐突だったけれど、きっ
とあの男にしてみれば
だから、決めた。
あの男に、自由を返してやろうと。
本当はその映画の結末を、俺は見終わる前に朧気ながら知ってい
た。
58
その映画は、公開当初に俺がいつもの我侭を言って、嫌がる男を
強引に連れていったそれだった。今となってはもう懐かしい思い出
だけれど、あの時はこんな風に何かを強く決意したりはしなかった。
それどころか傍に男が居るという、ただそれだけの事実に舞い上が
って、映画の内容もろくに覚えちゃいなかった。
あの頃は何もかもに浮かれていた。男と俺とはもともと面識とい
う面識もなく、それゆえに告白なんてものは、当たり前のごとく勝
算のない賭けをするも同然だった。
あの有名な男に、よりにもよって何の変哲も無い、それどころか
男が抱ける女ですらない男が告白を。それも今時流行らない手紙を
別れてやるよ。これが俺の
ペイ
フォワード
だ。
使っての告白だ。受け入れられると思うほうがどうかしている。
︱︱
最後の言葉は、何が相応しいかあんなに考えたのに、そんな素っ
気無いことしか言えなかった。
思い返せばずいぶんと長い間、男を俺の我侭に付き合わせていた
気がする。今はもうすっかり元気だけど、あの頃の俺は喘息で倒れ
ることなんかしょっちゅうで、救急の受付とも馴染みの虚弱児童だ
った。腕なんか肘の辺りまでは余裕で片手で握れたし、足も鳥のさ
さ身の方がまだ肉が付いてるっていうぐらいガリガリに痩せていた。
まさしく今にも死にそうな
俺に思いつめた顔なんかで
あばらも勿論浮いてたし、眼窩も窪んで、とにかく最低だった。
そんな
断れるはずがないだろう。
告白されてみろ。
︱︱
59
勿論今も泣きたくなるぐらい
断ったら即死にます、みたいな顔をしてきっと告白したんだろう。
あの時の俺は、男にぞっこんで︱︱
好きだけど︱︱周りなんか見えちゃいなかった。だから俺の告白を
受けて男がどんな表情を浮かべたかも、聞いていた周りがどんな顔
あーあ!
みたいな顔
をして俺たち二人を見たかも、何にも見えちゃいなかった。
でも今なら分かる。きっと周りはみんな
をして、俺を見ていたに違いない。そしてそれと同じぐらいの数の
あーあ!
で、男には同情が似
同情の視線が、男に寄せられていたのだろう。
確かにその通りだ。確かに俺は
合う。
引きつった顔で男は俺からの手紙を受け取ったのだろうか。それ
とも表情なんか浮かべていなかった?無関心だったのだろうか。そ
れとも、どうでもよかった?
好きだと告げたとき、男は何という返事を返しただろうか。あの
うん
とは頷かなかったはずだ。
時は舞い上がりすぎて、今となってはもうほとんど何も覚えていな
いけれど、たぶん男は
ただ今にも倒れそうな俺を助けた俺の周りの友達が、男に強引に
交際を迫っていたのは覚えている。男はその気迫に圧されて、俺と
付き合い始めたのだろうか。
あの時緊張のしすぎで途切れたかつての自分のか弱かった神経が
恨めしい。もう少し長くもっていれば、男が何と答えたのか知れた
だろうに。
もしも
の仮定は好きではないけれど、でももしも俺が男
肯定の返事でなくてもいい。男が俺について何と言ったのか知り
たい。
it
Forward.なんかに頼らなくても、男には
のその返事を知っていたならば。
Pay
60
初めから自由が用意されていたかもしれないのに。
あんな風に強引に始まった付き合いだったけれど、気づけばもう
3年も経ってしまっている。
大学1年の冬から今に至るまでだから、俺は男の四季の移り変わ
りを3度も奪ったことになる。花見も、海も、紅葉も、スノボも。
全部俺の一方的な思い出だった。記念日だった。
全部俺にとっては幸せな記憶だった。願わくば男の中にほんの一
欠けらでいいから、その俺の幸せだと思ったあの記憶が残っていま
すようにと。ただそれだけを、一心に。
後は憎まれていてもいい。むしろ憎まれて、恨まれて当然なのだ。
それだけのことを俺はしでかした。時計の針は永遠に逆には回らな
い。俺がどれだけ男に俺が奪った時を返してやりたいと願っても、
そうはできない。だからきっと男は長い間俺を恨み続けるだろう。
どうか願わくばその恨みの中にほんの一筋の光がありますように。
ほんの僅かでも光の記憶があれば、俺はそれだけで後はもういくら
彼に恨まれようが、それを全て受け入れることが出来るだろう。ど
んな責め苦も受け入れる。
男の中に残る一筋の光の記憶が、俺を照らす一筋の光となる。
男に好かれているとは思わなかった。嫌われてもいないと思って
いたけれど、それは俺の勝手な思い上がりだったのかもしれない。
男は決して俺を好きだとは言わなかった。だから俺もまた、好きだ
とは言わなかった。望まぬ関係を強いていることは、周りの目を見
れば一目瞭然だった。男との交際に浮かれて居た俺でさえ気づいた、
あの周りの哀れみの視線。愚かな俺と、可哀想な男。あの視線を見
れば、男がこの関係を望んでなど居ないことは明らかだった。
61
好きだと言ってこれ以上縛りたくはなかった。それに好きだと告
げてしまえば、嫌々にも差し出されるその手を、もう二度と離せな
決心が、鈍る気がした。
くなる気がした。
︱︱
男と付き合う前からこれだけはと決めていたことがあった。それ
は理由がなんであれ、男が別れを切り出したときには、文句は絶対
に言わずにその全てを受け入れようと。
俺なんかには勿体無い人だから、男もじきに俺なんかでは物足り
なくなるだろうと思った。だから男が俺に飽きたときは直ぐに離れ
てやれるように、いつでも別れられるような心積もりをしておきた
かった。
そのために、男には一度も好きだと言わなかった。
男に好きだと告げたのは、生涯たった一度きり。
衆人環視の中で告白したあの時だけ、俺は男に好きだと告げた。
言葉を、気持ちを、止められなかった。
本当は面と向かってさよならを言いたかったけれど、そんな勇気
はどこにも無かった。映画が感動のエンドを迎えたとき、その勢い
のままケータイでダイヤルし、エンドロールが途切れる前に電話を
終えた。
男の返事は聞く前に切った。それは聞かなくても分かっていると
いうのもあったけれど、一番は聞きたくないからだった。俺はこん
なときでさえ自分のことしか考えていない。それを思うと、自分に
嫌気がさす。そしてただもうひたすら男に申し訳ない気持ちになっ
62
て、この世界中の言葉を尽くして謝りたくなった。
もっと映画みたいに劇的に何かを変えたかった。
あの幼い子供のように、必死になって何かを救いたかった。結果
幸せ
になれただろうか。男はこ
それで命を落とすようなことになっても、今の俺には少しも構わな
い気がした。
俺の差し出した言葉で、男は
の幸せを、次に伝えてくれるだろうか。男がこの映画を見たことを
覚えてくれていればいいのだが、どうだろう。俺と同じようにもし
かしたら男も何も覚えていないかもしれない。無理やり連れて行か
れた初めてのデート。嫌々観ていたのならきっと内容なんか碌に覚
えているはずがない。
いや本当は次になんて伝えてくれなくてもいい。男が幸せになり
Forward.
さえすれば、それだけでもう十分だ。
it
次に渡せ。
Pay
︱︱
願わくば男がこれで幸せを取り戻せますように。
通話を終えて、一人暮らしのマンションに静寂が戻る。映画もも
う終わってしまいテレビを消した今では、時計の針の音だけが部屋
に響くBGMだ。
我侭を言って、まだ体が丈夫でなかった頃から一人暮らしをさせ
てもらった。実家はそう遠くない場所にあるが、それでも一人暮ら
しをしてからは一度も三箇日に実家に帰ったことはない。
63
男と付き合い始めてから今回で3度目の正月だが、その間一度だ
って男と二人で過ごしたことはなかった。男は有名人で、人気者だ
もしかしたら
という一縷の望みに掛けて、こう
ったから引く手数多で、俺なんかのところに顔を見せるはずがなか
った。それでも
男もまた
して一度も実家に帰らず男を待つ俺は、きっと誰の目にも愚か者と
して映るのだろう。
3年も付き合ったのに、お互いのマンションには︱︱
お互いのものがほとんど置かれていなかった。あるのは食器ぐ
一人暮らしだ。俺はその部屋に数えるほどしか行ったことがない︱
︱
らいだ。それもペアで揃えたんじゃなくて、食い扶持が増えた分仕
方なしに何枚か買い足した不揃いの食器。それぐらいしか、俺の部
屋には男のいた記憶を思い出させるものはない。
思い返せば、明けましておめでとうも言わずに、言いたいことだ
け自分勝手に言って電話を終えてしまった。きっと常識知らずと眉
を顰めただろう。それとも漸く開放されたわが身を喜ぶあまり、そ
んな些事など気にしない?
本当にとんだピエロだ。
勝手に浮かれて舞い上がって勘違いして。それがどんなに男にと
っての苦痛だったか、少しも考えずに自分のいいように振り回して。
挙句の果てに、自分から男を振るなんて暴挙までしでかして。
本当にとんだピエロだ。
そろそろ夜も遅いし、それにこれ以上起きていると色々と考えて
64
しまいおかしくなりそうだから、もう無理やりにでも眠ろう。
そう思って部屋の明かりを消し、ベッドに潜り込む。男にはこの
ベッドで何度か抱かれたことがある。誰かと一緒に眠れる日がくる
なんて考えたこともなかったから、ベッドは当然のごとくシングル
で、だから眠るときは寄り添うように抱き合って眠るしかなかった。
狭い狭いと男は文句を言ったけれど、その顔は笑っていて、俺はも
うただそれだけで幸せな気持ちになれた。
目を瞑ればそんな楽しかった日の記憶が次々と思い出されて、知
らないうちに涙まで零れた。
あと何度こんな風に泣きながら眠る夜を過ごせば、男のことなど
思い出さずに過ごせる日が来るのだろう。きっと一ヶ月や二ヶ月ぐ
らいでは到底足りない。
そんなことを思いながら漸くうとうとし始めた俺は、突然鳴り出
したケータイと、マンションの廊下を忙しなく走る音、そしてその
次に聞こえた部屋のドアを乱暴に閉じる音にその眠気を吹き飛ばさ
れ、目を覚ます。
一体誰だと目をこすりながらケータイに手を伸ばすと、そこには
非通知設定の文字が浮かんでいる。時間が時間なだけに何だか妙な
恐怖を感じた俺は、その電話には出ずに先ほど開く音の聞こえたド
アの方へ視線を投げた。
未だに鳴り続ける非通知の電話も恐怖だが、それ以上に誰だか分
からないが明らかに侵入者の気配があるその玄関先のほうがよほど
恐ろしい。侵入者は玄関先で靴を脱いで、今まさに部屋へと侵入し
ようとしているところだった。
ガラス戸の向こうにその姿が透けるのがより一層恐怖を煽る。
戸には鍵なんてもの付いていないから、俺は布団に包まることで
しか、その侵入者から身を隠すことが出来ない。開くな、開くな、
65
というその願いも空しく、その扉は簡単に開かれ奥から誰かが侵入
してきた気配がする。
よほど興奮しているのかその息は荒く、それがまた余計に恐ろし
く思えて、情けないことだが涙まで浮かんできた。
恐怖でいっぱいの頭の中に浮かぶのは、やっぱりあの男の顔だけ
だった。助けて欲しいと願うのも、やっぱりその男だけだった。そ
の一方で、男を失ったのだからもうどうなってもいいという気持ち
があるのも事実だった。
けれどもその願いがまさかこんな形で叶うとは。
最後に男に一目会いたかった。そんな風にさえ思った。
︱︱
強引な手つきで布団をはがした侵入者は、恐怖のあまり目も開け
ない俺に、何故か恐怖の真っ只中に居る俺でも優しいと感じるキス
を落とした。
その優しいキスの感触に促されるように目を開いた俺は、そこに
先ほど会いたいと願った男の姿を見つけて、驚愕に目を見開く。な
ぜ男がここに。驚きのあまり言葉も出ない俺に、男は今度は先ほど
の優しいキスが嘘のような激しいキスをしかけた。
そのキスの激しさに、思わずもがいた俺の手を、男はキスとは裏
腹な優しい手つきで繋いでシーツに縫いとめる。その手に縋るよう
に力を込めて、俺は生理的に浮かぶ涙で曇る視界に男を映す。霞ん
it
Forward
?﹂
だ視界に映る男は、何故かこの寒さにも拘わらず汗だくだった。
﹁Pay
キスを止めた男が発したのは、先ほどの荒々しいキスが嘘みたい
な静かな声だった。
66
未だに繋がれた手が、男のかすかな震えを伝えた。上に圧し掛か
られる形になっている男の額から、汗の粒がぽたりと俺の目元に落
ちた。
﹁それが、別れよう?﹂
男の声はただ静かなだけなのに、なぜだか俺にはそれが泣いてい
るように聞こえた。
それがなぜなのか、
勿論実際には男は泣いてなどいなかった。けれどもなぜだか俺に
は男が泣いているような気がしたのだ。︱︱
理由なんてものは分からなかったけれど。
男の声に、俺は何の返事も返さなかった。いや、返せなかった。
まさか男がこんな風に別れの真意を確かめに来るとは思っていな
かったので、心の準備が出来ていなかった。だからか、口を開けば
今にも泣き出してしまいそうな気がして、それが怖くてどうしても
男の問いかけに答えることが出来なかった。
男が泣いて縋るなど、みっともなくて笑い話にもならない。
そんなことを考えながら唇を強く噛んでいると、唐突にまた一つ
ぽたりと滴が頬に落ちた。
また汗だろうか。そんな風に思いながら、その滴に促されるよう
に視線を上げると、目の前に飛び込んできたのは、涙に濡れる目元
!﹂
を隠しもせずに泣く男の姿だった。
﹁︱︱
思わず目を見開いて男を凝視する俺には構わず、男はまた静かな
声を発した。
男の発したその声はじきに周りの空気に溶けて消えてしまうよう
67
な、そんな小さくてか細い声だった。︱︱
それは、普段の溌剌と
した男からは想像も出来ないほど、弱弱しい声だった。
﹁そんなの、僕は全然幸せじゃない﹂
男は言ってまた一つ涙の滴を俺の頬に落とした。
音も無く涙する。男の泣き方は、そんな表現がぴったりくるよう
次に渡せ
は、渡す相手を幸せにする行いをするんだよね?
な泣き方だった。
﹁
あれは僕の見間違いだっ
昔一緒に映画観たから覚えてるよ。あの日は初めてのデートだった。
僕は幸せで、君も幸せそうだった。︱︱
た?それとも、長く付き合ったから、僕にもう飽きてしまった?﹂
男は涙に濡れる目で真っ直ぐに俺を見て言った。
幸せ?﹂
そして俺は男のその言葉に、驚きに目を見開いた。
﹁︱︱
どうしてこの男はそんなこと言うのだろうか。嫌々付き合ってい
たのに、どうして幸せだっただなんて。それに今の男の言い草では、
まるで男も俺のことを好きだったように聞こえるではないか。
そんなこと、万に一つもないはずなのに。
﹁勿論、幸せだったよ。だって僕は君が好きだったんだ。告白さ
68
れて本当に嬉しかった。だから付き合った。君も同じ気持ちだと思
っていたけれど、そうじゃなかった?﹂
男は相変わらずその澄んだ目から、綺麗な涙を流し続けている。
男が泣くという姿も信じられないが、俺はそれ以上に男の発する言
葉の方が信じられなかった。
男は俺を好きだと言った。告白されて嬉しかったと。
これは俺が見せた都合のいい夢なのだろうか。
﹁同じなわけ、ないだろうっ・・・!!﹂
そう、思った瞬間、頭の中の何かが弾けて、今まで溜め込んでい
た言葉が堰を切ったように溢れ出す。ついでのように涙まで溢れて、
またもや視界は霞がかる。
﹁おまえと俺の気持ちが同じだって・・?そんなはずないだろう
!俺はおまえのことが好きだった。好きで好きで仕方が無くて、だ
から告白もした!けどおまえはそうじゃないくせに!俺のことなん
か、何とも思ってないくせに、なのにどうして付き合ったりなんか
したんだ!おまえが俺と付き合ったりするから、だから俺は諦めら
れなくて、今までこんなに長い間おまえを独り占めして・・!﹂
﹁それがどんなに愚かで空しいことなのか、ずっと分かってたよ
!いつもいつも浮かれてたのは俺で、おまえはずっと詰まらなさそ
うだった!当たり前だよな!おまえは無理やり付き合わされてたん
だ、楽しいと思うほうがどうかしてる!なのに俺はいつだって馬鹿
みたいにはしゃぎ回って・・・!ほんと馬鹿みたいだよ!﹂
69
﹁おまえだって俺をもっと早くに振ってくれればよかったんだ!
いつも影で何て言われてたか知ってるか?俺とおまえが別れる日の
賭けが、どんなに関心を集めてたか、おまえ知らないだろ!一番オ
ッズが高かったのは一ヶ月未満だとよ!この間言われたよ、お前ら
さっさと別れろ、あいつも迷
いつ別れるんだ、だってさ!俺らが早く別れねぇから俺は損しちま
ったじゃねえかよ、だってさ!︱︱
惑してんだよ、だって、!﹂
その後に続くはずだった言葉は、男のキスに飲み込まれて消えた。
何度も何度も、喰らい尽くされそうなほど激しいキスをされた。
うまく息が出来なくて、苦しさのあまりキスから逃れようとするこ
とさえ許さないというように、男は何度も何度も唇を寄せて深いキ
スをする。
宥めているにしては、激しすぎるキスだ。まるでそのキスは隠し
切れない激情をただぶつけているだけだと言ったほうが相応しい。
それぐらいそのキスは深くて、また荒々しい。
﹁好きだ、愛してる、別れたくない。傍に居て。ねぇ、好きだ、
愛してるよ﹂
キスを終えた男は、熱に浮かされたような口調でそう言いながら、
顔中至る所にキスを落とす。
70
﹁お、おい、ちょっ・・・ま、まてって・・・・!﹂
目元、まぶた、こめかみ、眉間、唇、鼻。ありとあらゆるところ
に啄ばむようにキスを落として、男は好きだの愛してるだの囁く。
前にも言ったけれど、男に好きだと言われたことは一度も無かっ
た。勿論愛してるなんて言葉も貰ったことがない。
と
愛してる
を繰り返す。
、そして
別れ
ただ一言好きだって言ってく
Forwardするなら、それは
別れたくない
it
好きだ
男は俺の事なんか好きでもなんでもないはずだった。それなのに、
、
男は今壊れたレコードのように
傍に居て
﹁僕にPay
の言葉をくれることじゃない。︱︱
れるだけでいい。それだけで僕は幸せなんだ﹂
﹁本当は影で君が何て言われてたか知っていたよ。けれど僕はそ
れを否定しなかった。なぜだか分かる?僕は周りに非難されて孤立
する君を見て喜んでいたんだ。・・・最低だろう、でも僕はそうま
でして君を僕だけのものにしたかった﹂
﹁君から思いを告げられたときは、夢を見ているのかと思ったよ。
だから、こんなこと、ありえない、と必死で自分に思い込ませて、
目の前で青い顔をして手紙を差し出す君を、呆然と見ていることし
か出来なかった。君は僕にとって触れれば覚める夢のような存在だ
ったんだ﹂
﹁だから君が僕の中に倒れてきたとき、僕はまるで君の全てを手
に入れたような気持ちになった。君が自らその身を僕に捧げてくれ
たような気がしたんだ。勿論それは僕の勝手な思い込みだったけれ
71
ど、それでも僕は十分に幸せだった﹂
けれどもその後もずっと僕にとっての君は、触れれば覚める夢の
ような存在と言うのは変わらなかった。
男は泣きながらもいつにない饒舌さで、俺に口を挟ませる隙を作
らずそう一気にまくし立てる。
﹁君に触れるときはいつだって恐怖と欲望の板ばさみだった。僕
は君が好きなんだ。だから触れたいと思うし、抱きたいとも思う。
けれど君はいつだって瞬きした間に消えてしまうような、そんな雰
囲気があった。そのうち僕は君が望んで僕の傍に居てくれるのかど
うかさえも分からなくなった。君は僕に好きとは言ってくれないし、
だから僕もまた君に好きだとはいえなかった﹂
﹁本当はずっと傍に居たかった。恋人同士なのにどうして大切な
イベントも一緒に過ごせないのかと、いつもずっと悩んでいた。誘
いをかけようとずっとずっと思っていたけれど、そんな勇気はなく
て、いつも君のマンションの外をうろうろするだけでイベントは終
わっていった。ストーカーだと思う?僕もそう思うよ。これじゃま
るでストーカーだ。でも分かっていても止められなかった﹂
﹁僕は君が思う以上に君のことが好きで、だから、﹂
男は今にも消えてなくなりそうな小さな声で、
だから別れようなんていわないで。
そう言って、また一粒涙を零した。
72
何もかもをぶちまけてすっきりしたらしい男は、圧し掛かった体
勢のまま俺に口付け、そしてそのまま俺の服の中に手を突っ込み体
を弄り始めた。
﹁え・・ちょ、まっ・・・﹂
男の急な行動にどうしていいか分からなくて、思わず男を押し返
した俺の手を、男は片手一本で緩く拘束し、俺の頭の上にそれを置
く。
いつにない乱暴な手つきで俺の服を剥ぎ取る男は、次々に現れる
Pay
it
Forward
し
肌に唇を落としながら、視線だけは俺に向けて、歌うような口調で
こう言い、笑った。
﹂
﹁もしも君がもう一度僕に
てくれるんだったら︱︱
それに君だって僕は
それはただ単純に君から僕を誘ってくれるだけ、ただそれだけで
いい。
﹁それだけで僕はもう充分幸せだし、︱︱
幸せにしてあげることが出来るよ﹂
73
︱︱
体、でね。
完結
しないようにと、俺の
男はその夜そのままの笑みを崩さず俺を思う存分抱き、次の日に
は俺がもう二度と一人で考え込んで
住むマンションに自分の持ち物を次から次へと運び入れ、俺が止め
るのも聞かずに、暫くここから大学に通わせてもらうよ、と言って
笑った。
男が俺と半同棲のようなことを始めたというニュースは、瞬く間
に学内に広まり、今回もまたいつ二人が同棲を解消するかという賭
けが催されたようだった。けれども今回の賭けがいつものそれと違
ったのは、その元締めとなった人物が他でもないあの男自身だった
ということだった。男は自ら、どうせ賭けが行われるなら俺が取り
何し
仕切る、と言って、周りから半ば一方的に金を巻き上げると、その
後その巻き上げた金で新しいマンションの契約を済ませ︱︱
今度は俺の荷物
ろ100人近い人間から集めたのだと、男は言っていた。その総額
がいくらになったか、俺には想像も付かない︱︱
も勝手にそのマンションへ移し入れて、強引に、今度は完全な同棲
生活をスタートさせた。
俺が恐る恐るこんな風に金を使って良いのかと聞くと、男はどう
せ僕の一人勝ちだからいいのだと笑う。
なぜ、と俺が問うと、男はこう言って笑って俺に唇を寄せた。
74
﹁僕は君と一生同棲することに賭けたんだ。一生なんてお互いが
どうせ僕たちは一生一緒にいるんだ。賭けは僕たちが
死ぬまで結果は知れないんだ、だったら先に使ったって構わないだ
ろう?︱︱
勝つに決まってるよ﹂
END
!?
その言葉を聞いて、今度は俺が笑う番だった。
HAPPY
75
Pay It Forward [人気者大学生 X 病弱平凡
]︵後書き︶
お読みいただき、ありがとうございました。
76
酷い男 [遊び人モテ男 X 強面平凡]︵前書き︶
77
酷い男 [遊び人モテ男 X 強面平凡]
どうしても欲しかった。でもそれはどうやっても自分の手には入
らない。
なのになぜあの男の手には、ああも簡単に落ちるのだ。
それが悔しくて悔しくて仕方がない。
78
好きです、そう顔を真っ赤にして告白する色の白い華奢な形をし
たまるで女のような男子生徒。
下級生だろうか。喉元を堅苦しく締めるタイの色が、告白された、
いかにも遊んでそうな色男と違う。
付き合ってください。下級生のその青年は、そう言って少し潤ん
だ瞳で男を見上げた。リップでも塗っているのか、彼の唇が濡れた
様な艶を放つ。
まるでキスしてくれと誘っているようだ。告白された男は目元と
口元を少し緩めて、青年を見やる。それが故意なのかそうでないの
かは、男にとってさほど興味もないことだった。
狙っているならキスしてやるまで。そうでなくとも、自分に告白
しにきたのだ、キスされて喜ばないわけがない。
外道な男は青年の顎を細く綺麗な指で掴みあげて、にこりと笑う。
そんな男に青年は顔を真っ赤に染めて、目を閉じた。そんな青年の
様子に、男は少し詰まらなさそうな顔をして、それでも首を傾けゆ
っくり青年のほうへ顔を寄せる。
此処で少し恥らって拒絶でもすれば、もう少しキスを伸ばしてや
ったかもしれないのに。そんなことを考えながらふと青年の後ろを
見た男。その男の視界を一人の男が横切った。
79
手持ち無沙汰にスマホを弄りながら歩く男は、しゃんと背筋を伸
ばせばそれなりに背も高い色男だ。けれどもその凶暴な眼つきと、
歯に衣着せぬ物言いで男の周りに立つことの出来る人間は、ほとん
ど数えるほどしかいなかった。色男といえども、今まさに可憐な青
色物
ばかりが集
年にキスしようとしている外道な男とは、似ても似つかぬ境遇だっ
た。
男の周りには、この外道な色男を始めとする
まった。
学園一の天才、完全無欠の生徒会長、国体優勝経験を持つエース
スプリンター。数えれば10にも満たない人数だが、しかし男の周
囲は常に賑やかで人目を引いた。所謂選ればれた者たちが、なぜよ
りにもよってこの凶悪な男とつるんでいるのか。周りはいつも男と
その周囲の関係を好奇の眼で見た。時にはあからさまな嫉妬で男に
詰め寄る者も居たが、そういった者は先に言ったとおりの男の歯に
衣着せぬ物言いで二度と男に関わる気さえ起きぬくらいまで罵倒さ
れた。
そんな男の手にあったスマホがピリリと大きな音を立てて鳴る。
その音に驚いて眼を閉じていた青年はキャッと声を上げて眼を開き、
男と男が今まさにキスをしよ
その青年の上げた声にスマホの持ち主は弾かれたようにそちらを見
やった。
猫背の男は見やった先の光景︱︱
︱︱に顔を派手
うとするかのごとき体制で密着しているその光景だ。しかもその内
の一人は紛れもない自分の知り合いだという事実
に歪めて、そして見なかったことにしたのか、スタスタとその場か
ら遠ざかる。男の手の中では相変わらず煩くスマホが鳴いていて、
それに辟易したのか、男はしぶしぶといった体でそれの通話ボタン
を押して銀の塊を耳に当てた。
うん、いや、うん、今?一人、・・・アジは一緒じゃねぇけど、
80
いや、違う、直ぐそこに、うん、いや、違う、この間とは別の、あ
ー、うん、・・・え?こっちに、・・・別にいやじゃねぇけど、オ
マエ授業は?・・あぁ、まぁそうだろうな、分かった、それじゃい
つもんとこで待ってる、あぁ。
男はそのままスマホの電源を落として、ポケットに突っ込み裏庭
のほうへと消えていく。それを外道な色男は面白そうに見て、そし
て一言、ウタ!と声を上げた。その声に男の目の前に居た青年は驚
いて目を丸くし、そして猫背の男は酷く嫌そうな顔を浮かべて立ち
止まり、もう一度男たちのほうへ視線を向けた。男の鋭い目つきに
青年は驚いて身を硬くし、そんな青年を見て男はハァと小さく息を
吐いた。
何か用かよ。
呼ばれた猫背の男、ウタは、さっさとしろと言いたげな顔で自分
を呼んだ男を見る。そんなウタに男はちょいちょいと指を曲げて、
此方へ来いとジェスチャーする。それを見てウタは心底嫌そうな顔
を、そして未だ男の手が顎に添えられたままの青年は酷く怯えた顔
をして、男を見た。そんな双方の視線を受けた男は、ニコリと心底
楽しそうに笑って、そして青年から手を離し、そのままそれをウタ
の後頭部に廻してグイとウタを体ごと自分のほうへ引きよせ、そし
て近づいたウタの顔に自分の唇を合わせて、強引なキスをした。
﹁んぅっ!!﹂
眼を見開いて自分にキスする男を殴りつけようと拳を作ったウタ。
そのウタの手を男はいとも簡単に拘束して、より深く唇を合わせる。
間近で聞こえる卑猥な水音と、視界にちらつく赤い舌が、青年の
顔を赤くさせ、そしてまた青白くさせた。青年の目じりには薄く涙
さえ浮き、それを見て男はにこりと笑い、見せ付けるようにしてウ
タの唇の端に噛み付いた。
81
この野郎!ウタがコメカミに青筋を立てて怒るのを見て、男はご
めんごめんと軽い口調で誤り、その青筋立ったコメカミに音を立て
てキスを落とす。いい加減にしろ!ウタは自分を拘束する外道から、
まるで飛び退くように離れる。酷いなぁ、そんなに嫌がるなんて。
少しも悪びれた素振りを見せない男に、切れたウタが殴りかかろう
と右手を後ろに振りかぶる。
その手をガシっと掴まれ後ろに引かれたウタ。ドンと音を立てて
ウタの体は誰かの胸板にぶつかった。
いつもの場所に居ると言っただろう。ウタの手を引いた端正な容
貌をした男はそう苦笑してウタを見る。
え、あ?まるで背後から抱きしめられるように抱かれて、ウタは
ほんの少し唖然とした顔で背後を振り返る。振り返って見上げた先
に居た男、ミカに掠めるようにキスされて、ウタは眼を見開き、顔
を真っ赤にする。
ミカサ
﹁三笠生徒会長﹂
青白い顔で事の成り行きを見守っていた青年が、ウタの背後に立
つ男に向かって呆然と声を発する。いつもなら笑顔で振り返る三笠
だが今日は違ったらしく、今は呼ばれたことを無視するどころか、
初めから青年など存在しなかったとさえいうような素振りで、ただ
自分の腕の中に居るウタだけを見てやさしく微笑む。
そんな三笠にウタはげんなりした顔で頷き、それを見た色男が、
ミカだけずるい、俺がキスしたときは殴ろうとしたくせに、と声を
上げた。もはや青年の存在は忘れられたに等しかった。
﹁此処に居たら邪魔のようだし、いつもの場所に行こうか﹂
ウタの腕を引いて三笠は何事もなかったかのごとくその場から去
っていく。ウタは疲れた表情で三笠に引かれる腕を振りほどきもせ
82
ずについていく。それを残された二人はそれぞれの表情で見送って、
その二人の後姿が消えるか消えないかのところで告白された男は口
を開いた。
﹁そういうわけだから、君の告白には応えられない﹂
一体どういうわけだと青年は思った。それをちゃんと説明しろと。
それにそんな簡単な言葉でフラれて納得できるほど、青年の男に対
する気持ちは軽いものではなかった。けれどもその言葉を青年が発
する前に男は青年を置き去りにして場を立ち去り、先ほど消えた二
人の後を小走りで追って行ってしまう。引きとめようと伸ばした青
年の指は、男にかすることなく宙ぶらりんになったまま頼りなさげ
に揺れる。
そんな、と青年は涙を零すけれど、それを慰めてくれる者は誰一
人としていない。
先ほど自分に気まぐれにキスしようとしたあの男も、全校生徒か
ら慕われる生徒会長も、慰めるのは自分ではなくあのウタなのだ。
そう思うとまた目頭が熱くなって、青年はとめどなく溢れる涙を
押し殺すことが出来ない。
誰でもいいから慰めてくれ。青年はそう大声で泣き叫びたい気持
ちになったけれど、しかし本当に慰めて欲しい人は他でもないあの
男ただ一人なのだと思うと、あまりのやりきれなさにおかしくなり
そうだった。
83
酷い男 [遊び人モテ男 X 強面平凡]︵後書き︶
こういうのが好きみたいです。
お読みいただき、ありがとうございました。
84
大丈夫、俺は優しいよ [病弱弟↓優等生家庭教師X平凡兄]
体の弱い弟。
家の者すべてが彼を心配した。
もちろん、彼もしかり。
俺はせき込むのをぐっとこらえる。
喉に血がたまるのを他人事のように感じる。
あぁ、もうそろそろか。
倒れる。
誰か。
伸ばす手をつかむものはいない。
85
背が固い地面に叩きつけられ、その弾みで口元から血が零れた。
まるで堪え切れなかった涙のように。
諦めることには慣れているはずだった。
家の者の関心の全ては、いつだって2つ下の弟に集まった。仕方
がない。生まれつき体が弱く、幼い頃にはハタチまで生きられない
かもしれないと言われていた。だから家族はこぞって弟を心配し、
それは弟が無事に20を向かえ、それから加えて2年が経った今で
も同じことだった。
優だった。
ユウ
弟にはまさに箱入りという言葉が相応しい。雨からも風からも日
の光からも守られ慈しまれて生きる。それが俺の弟︱︱
優はほとんど学校に通っていない。体調をすぐ崩す優を心配した
アキヒト
両親があまり行かせたがらなかったからだ。けれどもその代りに優
には有能な家庭教師が用意された。
それが俺より二つ上の従兄である彰人さんだった。
86
幼い頃はよく二人で遊んだけれど、しかし人見知りのきらいのあ
る優が珍しく家族以外の人間である彰人さんを気に入ったことから、
家族は彰人さんを優の傍に置くようになった。彰人さんがうちにや
ってきても俺に報せはなく、家族が優と彰人さんを囲んで盛り上が
るその声で始めて、彼がうちにやってきていたことを知るくらいだ
った。
基本的に家族の団らんに俺は加えられない。
なぜならそれは、優が俺の同席を嫌がるからに他ならない。
俺に家族を奪われるとでも思っているのか、優は俺が傍によると
しきりに気分が悪くなると繰り返した。
おかげで俺は家族から疎まれ、今では俺のことを気に掛ける人間
は誰もいない。
そろそろ家を出るべきかとも思っていたが、けれども家を離れて
しまえば家族の縁はもとより、俺と彰人さんを繋ぐ細い糸まで切れ
てしまうことになる。
家族の縁はどうでもよかったが、彰人さんとの繋がりだけはどう
しても切りたくなかった。
彼からも家族同様疎まれていることは十二分に理解していた。
それでも、この気持ちは止めることができなかった。
好きだった。
幼いころからずっと。
幼い頃は彼だけが、唯一俺の味方だった。
彰人さんだけが、俺自身を見てくれていた。
87
今はもう言葉を交わすことすらないけれど、それでもやはり俺は
彼のことが好きだった。
この冷たい家に未だにこうして未練がましくとどまり続けるぐら
い、彼のことが好きだった。
ここのところ最近体調が良くない。
咳が止まらず、体もだるい。家族はカゼだと言って、優にうつる
といけないから俺に自室から出るなと厳命した。
はじめは俺もカゼだと思っていが、最近では違う気もする。この
間咳きこんだときに、唇の縁を血が汚した。食欲もなくなり、体重
もずいぶん落ちた。
けれどももはやそんなことはどうだっていい。
この体はゆっくりと朽ちていっている。このまま果てれば、彰人
さんへの思いも同じように消えてなくなるだろう。
最近はそれもいいなと思うようになった。
体が思うように動かないのはつらいが、それもあと僅かばかりの
我慢と思えば、大したことではない。
リビングがずいぶんと賑やかだ。彰人さんでも来ているのだろう
か。顔を一目見たいが、向こうはそうは思わないだろう。
暫くして部屋の戸をノックする音が聞こえた。ハイと返事をして
立ち上がり、ドアを開けようと扉へ向かう。
けれども途端にぐるりと視界が回り、そして喉の奥からいつもの
あれがせりあがってくるのを感じた。
88
ごほっとせき込むと、口元を押さえた手が赤く染まる。ドアの取
っ手まであと少しだ。けれどもたぶんその扉は開かない。足元から
崩れる感覚。もはやまっすぐに立つこともままならない。
ぐらりと傾く体を他人事のように感じる。ゆっくりとまるでスロ
ーモーションのように景色が移り、その終わりは体が床にたたきつ
けられてやってきた。
明滅する視野に、ドアが開いたのが映りこむ。中に滑り込んでき
た人影に、俺は息をのんだ。
なぜ、この部屋に俺以外の人間がやってくるのだ。
ヨウ
﹁耀!!﹂
俺の名を呼ぶ声がする。心配しているような、せっぱつまった声。
翳った視界に、彰人さんの顔が映る。ぐっと首の後ろ側を持ち上
げられて、体を抱き起こされた。
﹁︱︱大、丈夫﹂
こんな風に体がいうことをきかなくなることには慣れていた。急
に倒れることにも、血を吐くことにももう慣れた。
突然途切れる意識のおかげで、体からは痣が消えなくなった。だ
がそれももうしばらくの辛抱だろう。この身はあと僅かで朽ち果て
る。
昔から死というものに脅かされるのは、いつでも俺ではなく弟の
方だった。
89
けれども慢心が災いを呼んだのか。
どうやら死神に目を付けられたのは、弟でなく俺の方だったらし
い。
﹁じきに、治る﹂
これでは死なない。
慣れた感覚で、その症状の重さも瞬時に判断できるようになった。
今回のは、まだ軽い方だ。
これでは、死ねない。
﹁じきにって、どういうこと?だって、耀、お前、その手、﹂
彰人さんの混乱した声が、なぜか遠くに聞こえる。まるで夢の中
にいるように、現実感がない。
けれども俺を支える彼の手が酷く震えていることだけが、妙にリ
アルだ。
﹁大したことない。いつものことだから﹂
だから、心配しないでいい。
ゆっくりと深呼吸して、体に酸素をいきわたらせる。四肢に血が
戻り始めると、頭もゆっくりと回り始める。
﹁いつもって、どういう・・﹂
まるでキスでもするみたいに、俺の顔に彰人さんが自分のそれを
寄せる。目の奥にある心までも覗き込んで、全ての真実を見透かそ
90
うとするみたいに、彰人さんは俺をまっすぐに見る。
その視線の強さに負けて、俺は顔を少しそらす。けれどもそんな
ことは許さないというように、彰人さんは俺の顎を指で捕らえて、
再び視線を合わせる。
﹁軽い貧血だから、大丈夫。心配しなくてもいいってこと﹂
咄嗟に出たのはそんな言葉だった。
嘘とまではいかないけれど、でも真実でもない言葉。心の奥には
いつも泣き喚く俺がいる。助けてくれと無様に、死にたくないと惨
めに泣き喚く俺が。
けれども誰にも伝えることはできない。ただでさえ疎まれている
のに、これ以上嫌われたくない。
けれどもそんな俺の言葉を聞いて、彰人さんの表情は一瞬にして
険しくなった。
﹁軽い貧血だって?悪いが俺にはそんな風には見えない。それに
お前今の自分の顔色わかって言ってるのか?﹂
そんな顔して、どうして大丈夫だなんて言える。
与えられるきつい視線に一瞬怯みそうになる。だがここで泣きつ
くわけにはいかない。
この人は優のものだ。
優に与えられた人。
奪ってはいけない。縋ってはいけない。
﹁分かってる﹂
91
でもいいんだ。
諦めたくない。けれど、仕方がない。胸の中がやり切れなさで満
ちる。そのおまけのように目じりから涙が落ちた。
﹁泣くぐらい辛いくせに、どうして誰にも助けを求めないんだ﹂
焦燥の入り混じった声。彰人さん、あんたは本当に人がいい。
この家の誰に助けを乞えというんだ。この家にもはや俺の居場所
はない。
﹁誰が助けてくれるって?﹂
ゆっくり体を起して、彰人さんの手から自分の体を開放する。ま
だふらつくが、倒れるほどではないだろう。
向かい合って真正面から彰人さんを見る。涙がまた一筋零れた。
全く忌々しい。自分の体なのに思うようにコントロールできない。
﹁期待するだけ無駄だってことは、俺が一番よく知ってる﹂
唇がゆっくり弧を描く。俺は果たしてうまく笑えたのだろうか。
向かい合う彰人さんの顔から、少しずつ表情が消えていく。そし
て残ったのは、何かを思案しているような顔。
いつもの彼らしからぬ、熱を感じさせない表情。
彰人さんは俺を見つめたまま、ゆっくりと自分の胸ポケットに手
を滑らせる。中から取り出したのは、見慣れぬ白い錠剤だ。それを
アルミから出して、見せつけるように自分の口に落とし込む。
92
彰人さんもどこか悪いのだろうか。そんな風に思ってただただ見
ているだけの俺の首元を、急に近付いた彼の手がぐいと自分の方へ
引き寄せる。
焦点がぼけるほど近づいた彰人さんの顔。
ぐっと押しつけるように合わさった彼の唇から覗く舌が、俺の閉
じた唇をこじ開ける。
押し込まれるように与えられた小さな塊の正体は考えなくてもわ
かる。さっきのあの錠剤だろう。どんな効能かは知らないが、わけ
のわからない薬を与えられて、これ以上ガタがきてはたまらない。
必死になって飲み込まないよう押し返す俺の舌を絡め取って、唾
液を流し込む彰人さん。口の中がいっぱいになって、反射でそれを
嚥下してから、しまったと思った時にはもう遅かった。
ぐらりと、いつもの眩暈とは違う感覚でぶれた視界に、彰人さん
のにこやかに笑う顔が映る。
﹁じゃあ、俺が助けてあげるよ﹂
傾いだ体を彰人さんに掬いあげられる。横抱きにされて、開けっ
放しのドアから荷物みたいに運び出された。
意識はあるけれど、体の自由が利かない。声も出ない。けれども
不快感はない。一体どうして。
彰人さんに薬を盛られたのは確実だ。だが彼がこんなことをする
理由がわからない。
抱きあげられたまま家族が集うリビングに連れ込まれれる。逃れ
93
ようと精一杯もがくけれど、その動きは微々たるもので、それは精
々縋るように彰人さんの腕を掴むことが関の山だ。
リビングには彰人さんを待っていたらしい俺の家族の姿があった。
その中にはもちろん優もいる。
優が彰人さんの腕の中にいる俺に気付いて、音をたてて立ち上が
る。
父と母は急に立ち上がった優をおろおろと見るばかりだ。
皆が彰人さんの言葉を待っていた。そしてそれは唐突に、思いも
がけない言葉で与えられた。
﹁耀君を僕にください﹂
まるで結婚の挨拶にきた男のようなその台詞を、しかし誰も何を
ばかなことを言っていると笑って流すことができないのは、彼の眼
が何よりも雄弁にこれが冗談ではないと告げているからだ。
けれどこれが冗談でなければなんだという。
﹁彰人さん、一体何を言ってるの?﹂
優が蒼い顔をして彰人さんの方へ一歩踏み出した。そんな優には
目もくれず、彼は父に返事を求める。
﹁耀君を幸せにするには、あなたたちでは力不足だ﹂
淡々と語られる言葉に、いつもの彼らしい柔らかい響きはない。
﹁僕なら耀を大切にしてあげられる﹂
94
大丈夫、俺は優しいよ。
そう言って腕の中にいる俺を覗き込む彰人さん。だんだんと近づ
く顔から目が逸らせないのは、薬のせいだけではない。
二度目のキスは、触れるだけの子供がするようなキスだった。
啄むように重ねられるキスに、なぜだか自然と瞼が落ちてくる。
眠りたくないのに、目があかない。
おやすみ、と彰人さんの声が唇に囁くように落とされて、もう何
も考えられない。
遠くで優の悲鳴が聞こえる。泣き喚く声。俺を詰る声。だがだん
だんそれも遠くなって、次第に聞こえなくなる。
﹁やっと手に入れた﹂
意識が飛ぶ前に聞こえた囁きは、誰かに必要とされたいと願う俺
が作り出した願望だったのだろうか。 95
大丈夫、俺は優しいよ [病弱弟↓優等生家庭教師X平凡兄]︵
後書き︶
最近平凡がゲシュタルト崩壊している気がします。
それはさておき、お読みいただき、ありがとうございました。
96
きみをてにするためならなんだって。 [モテ男の兄 X 平凡
大学生 ↓モテ男]︵前書き︶
モテる兄弟の弟が好きな主人公が、その兄に落とされるまでの話。
97
きみをてにするためならなんだって。 [モテ男の兄 X 平凡
大学生 ↓モテ男]
誰でもいいと言ったのは、半分嘘で、けれども半分は本当だった。
お前以外なら誰でもよかった。
お前じゃなきゃ、意味がない。
だから半分本当で、半分嘘というわけだ。
﹁お前また別れたんだって?﹂
キミジマ
ヒビキ
その甘い声は耳のすぐ傍でまるで囁くように聞こえた。
﹁あぁ、うん、まぁな﹂
曖昧な返事。そんな俺にその声の持ち主、君島 響は、まったく
お前はいつも早いなと苦笑交じりに零す。
﹁一体これで何人目だよ。オマエいい加減にしないといつか刺さ
れるぞ﹂
すっと音もなく伸びた手で、頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜられる。
まるで聞き分けのない弟にするような仕草。
﹁俺はフられたほうだよ﹂
その手から逃れるように首を振って、窓の外に広がる緑に視線を
98
移す。
﹁それでも、オマエが悪い﹂
どうせいつもの決まり文句でフラれたんだろう。
せっかく逃れたのに追いかけるように伸ばされた掌が、また髪を
ぐしゃりと乱す。
﹁そういうお前はどうなんだよ﹂
今度はその手から逃げずに、後ろに立つ君島を仰ぐ。
そもそも俺の女のサイクルをどうのこうの言う権利など、この男
には微塵もあるわけがない。
来るもの拒まず、去る者追わず。
常に何人かの女と同時に関係をもつ君島は多分、自分が今誰と付
き合っているのかさえも正確には把握していないだろう。
自称彼女。そんな女がこの構内に一体どれほどいるのか、考える
だけでばかばかしい。
一応、付き合っている彼女は一人に絞り、その子を好きになろう
と努力する俺は、君島なんかよりはよほどマシなはず。
そう考えてはみるものの、結局その子を幸せにしてやることがで
きないという点では、俺も君島も似たようなものかと苦笑が漏れる。
﹁俺?俺はいつも通りだけど?﹂
いつも通りとはふざけた野郎だ。同時に何人もの女と付き合うこ
とが、この男の言ういつも通りのことだというならば、刺されて然
るべきはこの男だと言える。
﹁あぁそうかよ﹂
けれどもこの男以上にふざけているのは、そんな男に馬鹿みたい
に何年も片思いしているこの俺自身だ。
99
心はとっくの昔に奪われている。目も耳も、俺の体をつくる全て
が、この君島という男を何よりも優先し求める。
それゆえに、いつもの振られ文句は、﹁他に好きな人がいるんで
しょう?﹂これに決まりだ。
他になんかじゃない。そこにしかいない。
けれども君島しか欲しくないといい、いつまでも叶わぬ願いを持
ち続ける俺はもういない。
君島でないなら、誰だって同じだ。
だから俺は君島の欠片を探しながら、他の女に恋しているフリを
する。
構内のカフェはいつだって人でごった返している。その中の一番
端の、窓に一番近い、日当たり抜群の席を俺は勝手に指定席にして
いる。
今の季節は緑がとても綺麗で、葉に透けて差し込む日差しは柔ら
かで心地よい。
少し肌寒いくらいに効いたエアコンだけが難点だが、それも少し
我慢すればなんてことはない。
テーブルにお気に入りのラテのパックを置いて、提出の迫ったレ
ポートを睨む。
気づけば君島は少し離れたところで、何人目かの彼女と楽しそう
に話し込んでいる。
そうだ。君島の隣にはかわいい女の子こそが似合う。
そう思い聞かせ、自分の気持ちに蓋をする。思い出すなと自分を
100
諌める声。目を閉じ、耳を塞ぐ。
君島は友達だ。そう言い聞かせることになんの意味があるのか。
けれどもやめることはできない。
﹁やっぱりここにいたか﹂
甘い声。
カオル
クスクスと笑う、君島によく似た声の持ち主は、他でもないあの
君島の2つ年上の兄、馨さんだ。
声だけではない。君島と馨さんは姿形が驚くほどよく似ている。
君島を少しだけシャープにしたら馨さんになり、馨さんを少しだ
け甘くすれば君島になる。
だからというわけではないが、勿論この馨さんからも女の噂は途
切れることがない。
﹁馨さん﹂
ヨシヒサ
テーブルに置いてあったラテのパックを取って、勝手に飲み干し
た馨さんは、嘉久も大概マゾヒストだね、と笑う。
﹁あんなに見せつけられても、まだ響のことが好き?﹂
その視線の先にある光景を思い描いて、情けなく眉が下がるのが
わかる。
遠くから馨さんを呼ぶ、甘ったれた女の声がいくつも聞こえてい
る。
﹁呼んでますよ﹂
レポートに意識を戻すフリをしながら、ほんの少しだけ滲んだ目
もとをさりげなく拭う。
﹁そんなの、どうでもいいよ﹂
馨さんの声が少し遠くで聞こえたと思った瞬間、このテーブルに
101
一番近い窓がガラリと開けられ、吹き込んだ風に白いカーテンが大
きくはためく。
視界が白で覆い尽くされたそのとき、さっきは離れたところで聞
こえたその声を、今度は驚くほど近くで拾う。
﹁俺は嘉久が好きだよ。いい加減振り向いてくれてもいいじゃな
い?﹂
嘉久もよく知ってると思うけど、我慢強いほうじゃないよ、俺。
そのままグイと髪を掴まれ、顔を無理やり上げさせられる。
あ、と思った瞬間にはもうキスされていた。
反射的に顔を逸らそうとして、それをいとも簡単に抑え込まれる。
髪に差し込まれた手。ぐしゃりと撫でた君島の指。それをかき消
すように、ぐっと抑え込む馨さんの掌。
唇の端から飲み込みきれない唾液が零れる。
冗談なんかじゃないと知らしめるような、噛みつくようなキス。
ざわめくカフェ。けれどもその喧騒がいまは遠い。
最後に戯れのように一つ軽いキスを落とされて、唇は唐突に解放
される。
けれども髪を押える手はそのままで、そこから首筋へと掌は滑り、
そこを一撫でして、体もまた解放された。
﹁馨さん﹂
﹁俺は本気だよ。響なんかに嘉久はもったいない﹂
甘えればいい。そして俺を利用すればいい。
102
唆すように囁く馨さんの声。
﹁そんなこと、できない﹂
響によく似た、それでいて、響のものではないそれ。
﹁いいんだよ。俺がいいって言ってるんだ。嘉久はただ任せてく
れるだけでいい﹂
俺が嘉久の中から響を消してあげる。
﹁馨くーん﹂
また遠くで馨さんを呼ぶ声がする。
けれどもその声に、馨さんはぴくりとも反応しない。
﹁馨さん、呼んでますよ﹂
促しても、馨さんは俺を真っ直ぐに見たまま少しも視線を逸らそ
うとしない。
﹁俺は誰よりも嘉久を選ぶよ﹂
そう言って視線の先で、にこりと笑う。
﹁でも、﹂
そして有無を言わさず、テーブルに広げっぱなしだったレポート
を勝手にしまい、俺の腕を引く。
視界の隅を、こちらをあっけにとられた表情で見ている響がかす
める。
追いかけようとしたのか、一歩踏み出したその先を、囲うように
103
立つ女たちが塞ぐ。
掴まれている腕が、驚くほど熱い。
﹁誰よりも幸せにしてあげるよ、嘉久﹂
だからこの手に落ちておいで。
馨さんを呼ぶ声がまた遠くで聞こえる。
けれども振り返らない馨さん。
遠くでかすかに俺と馨さんを呼ぶ、響の声が聞こえた気がした。
104
きみをてにするためならなんだって。 [モテ男の兄 X 平凡
大学生 ↓モテ男]︵後書き︶
お読みいただき、ありがとうございました。
105
きみをしばるためならどんなてだても。[きみをてにするためな
ら 続編]︵前書き︶
[きみをてにするためならなんだって]の続編です。
106
きみをしばるためならどんなてだても。[きみをてにするためな
ら 続編]
自分の兄でありながら、この男は生涯誰も本気で愛することはな
いのだろうと、そう思っていた。
そしてそのままきっと誰のものにもならず、誰にも心を砕かず、
それでいて本当にいとおしむような顔で愛を語り、女を虜にして生
きていくのだと勝手に決め付けていた。
それはさながら自分も同じで。
同族嫌悪というにはあまりに苦い。
けれどもどこかで目をそらさずにはいられない何かを、俺はずっ
と馨に対して持ち続けていた。
かおる
夏も終わりに近づいたある日のことだ。
久しぶりに実家に戻った兄、馨の指で見慣れぬシルバーのリング
が鈍い光を放っていた。
﹁どうしたの、それ﹂
107
どんな美しい女に強請られようとも、どれほどの才女に懇願され
ようとも、兄が決して誂えることのなかったそれ。
縛られることを誰よりも疎む兄の行動とは思えないそれ。
﹁無理やりでも持たされた?﹂
聞いておきながら、そんなはずがないということは言われずとも
わかっていた。
鍵がかけられているわけでもないそれは、自分の意志で容易く外
すことができる。
にもかかわらず兄のその指で光っているということは、そのリン
グをはめているのが紛れもないこの兄の意志だということだ。
﹁いや。無理やり持たせてるのは俺のほうだよ﹂
左手の薬指に視線を走らせて笑うその顔から、今ここにはいない
誰かのことを想っているのが伝わってくる。
﹁⋮へぇ、意外だな。兄貴はそういうの、あんま好きじゃないと
思ってたけど﹂
違ったんだ。言外に俺はごめんだねと滲ませて、兄を見る。
そんな俺を兄は、俺も昔はそうだったよ、と小さい子供を見るよ
うな眼で見た。
﹁誰と揃えてんの?俺も知ってる子?﹂
聞いたのはほんの興味本位からで、相手が知れるかどうかは実際
のところどうでもよかった。
108
ただ心のどこかでほんの僅かに小波が立つ。
もしかして、と脳裏をかすめる、夏の日の記憶。
人の多いカフェで手を繋ぎながら立ち去った兄と親友の姿が浮か
び上がる。
そんなはずはない。そう咄嗟に否定して、それでも心の奥底の深
い場所を、もしかしたら、という薄い不安の膜が覆う。
そうであってほしくないと思うのは、自分にはそんな相手がまだ
を
見つかっていない焦燥からなのか、それともそれとは他の理由から
なのか。
フリ
この兄に男同士という垣根はあってないようなものだ。
気に入ればいつでも誰とでも。
自分を求めるものには、いつだって平等の愛を与える
する兄。
穏やかな、それでいてぞっとするほど冷たい兄。 誰のものにもならないと思っていた孤高の兄。
その兄と比べられることが厭わしく、いつだって反発ばかりして
いた。
この兄に、誰かと二人きりで過ごす穏やかな日々は似合わない。
兄の指を飾る華奢な指輪。
その指輪の対が知りたい。
109
普段は兄が何をしていようが、今の相手が誰であろうが気にはな
らない。けれど今回ばかりはどうしてか胸騒ぎのようなものが、心
の奥底をじわじわ侵食してやまない。
ひびき
﹁響もよく知っている人だよ﹂
少し間をおいて返った声はあまりに甘く。
﹁へぇ、⋮ならなおさら気になるな﹂
返す答えにとけた言いようのない苦さが、ことさら際立って聞こ
えた。
あいぞめ
よし
大勢の人で賑わう構内のカフェ。その中の一区画はいつ、誰が決
ひさ
めたのかは知らないが、気づけば俺の数少ない友人である藍染 嘉
久の指定席になっていた。
窓際の一番後ろのテーブル。
何気なく視線を巡らせたそのとき、そこから兄の馨に手をひかれ
て退出した嘉久の姿がフラッシュバックし、そして唐突に消える。
その後に残ったのは、ほんの僅かに眉間に皺を寄せてレポート用紙
に向かう、いつもの見慣れた嘉久の姿だけだった。
﹁よぉ﹂
嘉久の向かい側のイスを引いてそこに座る俺に、嘉久は目線を上
げずに、おぅと返す。あの日から季節はいつの間にか移り変わり、
110
気づけばもう冬も間近に近づいていた。
﹁今日は何現まで?﹂
嘉久の前に置かれた見慣れたカフェラテのパック。それに伸びる
指に、視線が吸い寄せられる。指先を見てほっと息をこぼしたのは、
そこにあの兄と揃いのそれが飾られていなかったからなのか。
嘉久はあからさまに安堵の色を見せる俺を訝しげに見る。
﹁今日はもう終わった﹂
時計をちらちらと確認するそのしぐさはまるで、誰か待ち人でも
いるかのようだ。
﹁なら待ち合わせ?﹂
聞くとやはりまぁなと肯定の返事が返る。
﹁誰と?﹂
いつもなら、ああそう、で終わる会話が、まだもう少し続きそう
な様子に不思議そうな顔をする嘉久。それがまるで自分以外のもの
には対して関心を持たない俺の普段を言わずと現わしているようで、
そんな嘉久を見ておれの胸の奥にまた一滴黒いしみが広がるのを感
じる。
﹁珍しいな、響がそんなこと聞くの﹂
いつもは俺のことなんかどうでもよさそうなのに。笑っていう嘉
久の言葉が広がったシミをさらに濃くする。
﹁そう?﹂
口の中が苦い。無意識に嘉久の手元に置かれていたパックに手を
伸ばし、勝手に全部飲み干した。なにするんだよ、と正面に嫌そう
な顔をする嘉久が。そしてその奥、カフェの入り口あたりにケータ
イで誰かと話しながらゆっくりと歩く馨の姿が見える。
兄がカフェに現れたことで、ざわめきが一層深くなった気がする。
111
次から次へとカフェにいた者たちが兄に声をかける。そんな彼ら
に嫌な顔一つせず返事を返しているらしい兄の姿に、なぜか言いよ
うのない苛立ちを感じる。
﹁響もよく知ってる人﹂
突然聞こえた声にはっと我に返ったように嘉久を見た。
そのどこかで聞いたようなセリフに、ついこの間兄と交わした会
話が蘇る。
﹁知ってる人?﹂
答える声はどこか上滑りしていて、それがとても滑稽だ。
何をそんなに緊張する必要がある。おれと嘉久の共通の友人は多
い。きっとその中の誰かだろう。そう自分に言い聞かせても、胸の
内でそれを反する声が聞こえる。
﹁嘉久﹂
不意に呼ばれた声に、嘉久が顔をあげる。
義久の背後から、今しがたおれが飲み干したカフェラテと同じパ
ックを振って馨がやってくる。
そのまま嘉久の後ろに回り込んで、その首元にパックを押し付け
て笑う馨。パックについていた水滴が嘉久の首筋を伝い落ちる様が
やけに目につく。
冷た、と首を竦める嘉久のその首元から、見慣れないシルバーの
112
ネックレスがちらりとのぞく。首を竦めた反動でカチャリ、とトッ
プにつけられているらしい何かが揺れる音が聞こえる。
﹁馨﹂
アクセサリーをほとんど身につけない嘉久にしては珍しい。そう
思ってぼんやりそのネックレスに視線を集めていたおれの耳に届い
た嘉久の声。
﹁・・・・馨?﹂
その聞きなれない響に、ぼんやり霞みがかっていた思考が一気に
クリアになる。
馨さん
と、どこ
今まで嘉久にとって馨という存在は、ただたんに俺の兄であると
いうそれだけだった。だからいつだって嘉久は
馨でい
と答えていたはず
か他人行儀に兄を呼び、そう呼ばれるたびに兄は笑って、
いよ、嘉久はいつまで経っても俺になれないね
だ。
なのに今嘉久の口から零れたその音は、まるでずいぶん前から呼
んでいたかのように、とても嘉久の声に馴染んでいるように聞こえ
た。
﹁そう、待ち合わせしてたのは﹂
そこまで嘉久が言って、そのあとを引き継ぐように、
﹁俺だよ﹂
113
と馨が笑う。
だから嘉久は貰っていくな。兄の手が慣れた仕草で嘉久の肩を抱
く。
ちょっと待って、と嘉久は馨の手を拒むことなく、今まで机の上
に広げていたテキストをかき集めて鞄にしまいこむ。
うつむき加減で少しあわてた素振りの嘉久を、馨はひとときも視
線をそらさず見ている。
そんな二人から囚われたように視線が逸らせないおれに、馨がふ
と視線を上げて、その口元ににやりと人を食ったような笑みを浮か
べる。
突然なんだ?といぶかしむ俺に、馨は義久の首元にかけられてい
るシルバーのネックレスをグイと後ろに引っ張る。
わっと短い声を上げた嘉久に構わず、馨はひいたその鎖にゆっく
りと唇を落とす。まるで神聖なものに口づけるように眼を閉じた馨。
ネックレスが後ろにひかれたせいで、嘉久の首が少し少し締まっ
たらしい。痛い、と抗議するような声を洩らす嘉久には、どうやら
馨が今何をしているかは見えていないようだ。
絞められた首元が少し赤くなっている。そう思ってそこに視線を
合わせて、おれは思わず息をのんだ。
おれが息をのんだのと同時に、ちゃり、と小さく音を立てて、ネ
ックレスが嘉久の胸元に戻る。
未だ凍りついたように離れない視線の奥に、兄が音を立てずに口
114
を開いた姿が写りこむ。
﹁響も知ってる子だよ﹂
唇の動きだけでそう告げられた言葉。
そしてその意味をおれが完璧に理解する前に、兄は少し強引に嘉
久を立たせてカフェテリアから外へ連れ出す。
﹁響、またな!﹂
兄に引きずられながら嘉久がおれに手を振って別れを告げる。
その嘉久の姿に、先ほどの光景が重なる。
嘉久の首元から覗いたもの。
兄の言葉。
鈍い光を放つ銀の輪。
おれも知っている子
︱︱︱
まさか、と思わず席を立ったおれの視界に、兄に手を引かれてカ
115
フェから出ていく二人の姿がうつる。
それがいつかの日の光景に酷似していて、おれは思わず呆然とそ
の場に立ち尽くした。
突如として湧き上がる、おれのこの胸を覆うこの感情の名は何と
呼ぶのだろう。
黒く濁った水が胸を満たすこの感覚。
気づいたときには、時すでに遅し?
何故か俺の胸の内は、言いようのない敗北感で満たされた。
116
きみをしばるためならどんなてだても。[きみをてにするためな
ら 続編]︵後書き︶
お読みいただき、ありがとうございました。
117
アイツから奪ってやろうか? [強引な男 X 諦め平凡]︵前
書き︶
要は兄に全てを管理され、檻に囲われて暮らしている。
そこにやってくる人間は3人。要の兄と、その親友の金原
と、そしてもう一人金原の親友である男、ユウキだ。
けれど兄と金原が付き合いだしたことにより、そのバラン
スは少しずつ狂い始めていく。
118
アイツから奪ってやろうか? [強引な男 X 諦め平凡]
完璧に管理された部屋。
美しい景色。快適な温度。何一つ不自由のない暮らし。
その中で生き、そしてそこで死ぬこと。
それがたった一人の肉親である兄の願い。
生も死も、そのすべてを管理すること。
それが父と母を同時に亡くし、少しおかしくなってしまった兄が
願う、唯一。
僕という生き物を飼う、巨大な檻。
それが、この家。
119
﹁アイツから奪ってやろうか?﹂
天才と外では称される兄だ。そのやることにそつはなく、僕とい
う存在を外の世界から完全に抹消することなど、赤子の手をひねる
よりもた易いことのようだった。
僕は戸籍上では死んだことにされ、そのために僕はこの檻以外の
場所での生きる術を失った。
兄は若くして自身とそしてその親友たる人と、そしてその親友の
親友であるという人の3人で会社を興した。
それは兄が大学を卒業した年のことだから、今からちょうど6年
前のことになる。
120
兄が若くして起業した背景に、僕たちの両親の事故死がからんで
いた。
それなりに裕福な家庭で育ったために、二人の保険金は多額であ
った。
それを使って兄は起業し、そしてその次は天才とうたわれるその
頭脳を使って、今度はそれを大企業と呼ばれるまでに育て上げた。
そしてその社がその地位を不動のものとし、兄の手の中に多額の
金が落ちるようになると、それを使って兄は僕にこの完璧な檻を用
意した。
両親のように僕を兄の眼の届かないところで死なせないための、
檻。
それが、この家。
家には週に3度、兄と、兄の親友とその親友たる人が代わる代わ
るやってくる。
そ
︱︱︱人間に会いに来る
なぜ兄ではない人がこの家に僕などというどうでもいい︱︱
れどころか社会的には死んでいるような
のかというとそれは、こんなところに閉じ込めたくせに、兄は何度
も僕の生死を家まで確認しに行くことを面倒がり、家に監視カメラ
をつけると言い出したがために、それに反発した僕と、監視カメラ
までつけるのはあまりにかわいそうだと言って、僕の生き死にを確
かめに行くのを彼らが分担したためのことだ。
兄の親友とその親友である人には、それまで面識というものは全
くなかったけれど、それをきっかけに少しだけ話をするようになっ
た。
121
顔を見るだけみてさっさと帰っていく兄とは違い、その二人のう
ちの兄の親友の親友であるという人は、この檻の中でしか生きられ
ない僕にいろいろな外の世界の話をしてくれた。
それは外の世界とは完全に縁を切らされた僕にはあまりに眩しい
ものばかりだった。
懐かしんで、再び外の世界で生きたいと願ってしまうくらいに、
僕にはまぶしいものばかりだった。
兄の親友の親友であるという人、名前をユウキさんというのだけ
れど、その人が僕の前に現れるようになって丁度1年が経った頃の
ことだ。
その頃兄に久方ぶりの恋人ができた。相手は何ということもない、
兄の親友である金原という男だった。僕を週に1度見にやってくる
彼は、確かに言われてみれば線も細く、美しい顔立ちをしており、
あの面食いな兄のお眼鏡に適うだけはあった。
男であるということは、今までも何度か見た兄の相手で慣れてい
たので別段気にならなかった。
がしかし、僕はさほど気にしないことでも、彼の方、金原の方は
僕という存在をとても気にしているようだった。
いやむしろ、嫌悪しているといってもいいだろう。
この檻は僕を殺さず生かしておく、ただそれだけのために作られ
たというのに、それを兄の僕へのただ直向きな愛情ゆえにと勝手に
思い込んだ金原は、週に1度やってくる度に僕に何かしらの暴力を
加えるようになった。
122
それも服を着れば見えないところに巧妙に、だがしかし、執拗に
金原は僕に暴力を加えた。
僕を巡廻する順は、兄、金原、そしてユウキさんの順で、兄が家
にやってくるころにはその痣の痛みは薄れ、四肢を引きずることな
く兄の前に立てた。
それが災いしたのか、兄は僕と金原の関係に気付くことなく、顔
を見てそしてそそくさと家を去ることの繰り返しだった。
金原は自分のこぶしで僕を殴ることはしなかった。けれど硬い棒
のようなものや、家に置いてあった灰皿などで僕を執拗に殴った。
金原は僕を殴る時、いつも目が血走っていた。前はこうではなか
った。恋というものはここまで人を変えてしまうものなのか。恋を
したことのない僕には、到底分らない感情だ。そして前の金原を知
っている分、僕には金原に抗おうという気持ちは全くと言っていい
ほどなかった。
体は金原の暴力を受け入れていたが、心はどうやら受け入れなか
ったようだ。
しばらくすると僕の体は食事を受け入れなくなった。
無理やり食べても結局すべて吐いてしまうということを何度か繰
り返して、僕は食べることをやめた。
食べることをやめ、体力が落ちた僕。そこに加えられる金原の暴
力。しかも金原は週1度の憂さ晴らしでは飽き足らなくなったのか、
兄から与えられた合鍵を使って、そして忙しいという兄とユウキさ
んの二人に代わって僕を見回るという大義名分を得たかねえ原は、
決まっていた巡回日などまるでなかったことのように不定期に家に
顔を出しては、折檻を加えて去っていくようになった。
いつ来るかわからない金原におびえる毎日。そんな毎日が続くと、
今度は夜眠れなくなった。
123
少しの物音でも飛び起きる日々。
喉を通らない食べ物。
体はどんどん痩せ細ったが、これ幸いとばかりに家に寄り付かな
い兄は気付くはずもなく、金原はざまぁみろとばかりに暴力を浴び
せかける。
なんてつまらない人生。
僕は何のために生きているのか。
けれど死ぬには何かが足りない。
死にたいが、自分で命を絶つ勇気はない。
だがその悩みも、時が解決してくれることのように思えた。
実際体は弱り切っていたし、もう何日もまともに食事をしていな
い。
僕は緩やかな自殺をするように、日々を送る。
緩やかな自殺に向けての日々を送るさなか、兄は気付かなかった
僕の異変に、久方ぶりに僕の前に現れたユウキさんは気付いた。
ユウキさんは僕の顔を見て、そしてそのあと僕の四肢を見て、次
に何も言わず僕の着ていた服を捲って僕の体を見た。
その頃の僕はといえば、金原から加えられた暴力の跡が四肢にま
でおよび、夏でさえ長そでを手放せないようになっていた。
そんな状態の僕を見て、ユウキさんはにこりと笑うと、僕に向か
124
ってこう言ったのだ。
﹁アイツから奪ってやろうか?﹂
始めはユウキさんの言う意味が分からず、僕は首をかしげること
しかできずにいた。
奪うといっても、兄とともに起業したユウキさんの手元にもたぶ
ん有り余る金があるはずで、にもかかわらず窃盗というリスクを犯
してまでこの家からユウキさんが盗むほどのものなど、僕には到底
思いつかなかったためだ。
首を傾げたままポカンとする僕に、ユウキさんはまた笑って、
﹁オマエだよ、オマエを奪うんだ﹂
僕の腕をぎゅっと掴んだ。
ユウキさんのその顔は、確かに笑ってはいたけれど、瞳までは決
して笑んではいなかった。
それを見た僕は、金原の暴力に怯えていたとき以上の震えが体に
走るのを感じた。
決してうんと頷いてはならない。
そう脳が必死に伝令を送る。
けれども、絶えず心が悲鳴をあげるのだ。
ここに居ては死んでしまうと。
125
まだ、死にたくはないのだと。
﹁僕なんか奪ってもきっと何も得をすることはないと思いますよ﹂
久方ぶりに他人と話した僕の声はずいぶんと擦れていた。
それもそのはずだ。最後にまともに言葉を交わしたのは、このユ
ウキさんが家を去った時以来なのだから。
﹁そうかな?俺はオマエが欲しい。俺のためだけに生きる小鳥が
欲しいんだ。だからお前を手に入れることは得に繋がると思うが﹂
﹁ではまたユウキさんも僕を檻の中で飼うとおっしゃるんですね﹂
﹁まぁ、そういうことになるだろう。だが俺はアイツとは違い、
外の世界も見せてやることができる﹂
ユウキはまたも笑って握ったままのその手を自分の方へグイと引
く。
そうすると僕の体はユウキの方へ引っ張られ、自然とその広い腕
の中へと向かう形になった。
﹁僕には戸籍がありません。それをご存じですよね?それでも構
わないと?﹂
腕の中で硬直する僕に、ユウキさんはくつくつ笑って、オマエも
ともと痩せていたが、一段と酷くなったな、と僕の体を無遠慮にな
でまわす。
﹁それを言うなら今まで黙っていたが、俺は実は極道の出だ。オ
マエを手に入れたらそれを機に家に戻るつもりをしているが、それ
でも構わないのか?﹂
126
まぁその道のやつに頼めばオマエの戸籍なんかはどうとでもなる。
だから俺の方は別にオマエに戸籍があろうがなかろうが別段構いは
しない。
ユウキさんはしゃがんで僕と目線を合わせると、どうしたいかは
オマエが選べと言って、まるで中世の騎士が姫をダンスに誘うとき
のように恭しく手を差し出した。
この手を取れば僕は外の世界に。
取らなければ緩やかにこの檻のなかで朽ちていく。
選択肢は選ぶまでもなかった。
悩むそぶりもなく手を取った僕に、ユウキさんは奇麗に笑って、
そしておもむろに僕を抱き上げるとそのまま玄関に向かって歩いて
いく。
外側からか、もしくは合鍵がなければ開かない鍵があっけなく開
くさまに、僕は呆然と見入ることしかできない。
これが僕を今まで閉じ込めていた檻の姿か。
僕はユウキさんに抱かれたまま外の世界へと再び舞い戻る。
その後ろで厚い鉄の扉が閉じる音が聞こえる。
この音をいつもは檻の中で聞いていた。
けれども今日からは違う。
127
今日からは時折外の世界も見れるという。もちろんその言葉が真
実かどうかはわからない。
けれどもこの檻の中にいるよりかはどれだけかはましだろう。
マンションのエントランスを抜けると、いかにもといった黒塗り
の車が停められている。
その車にユウキさんが近付くと、助手席から男が一人が降りて、
後部座席を恭しく開いた。
ユウキさんはそこへ何も言わずに乗り込む。もちろん僕を抱えた
ままだ。
ユウキさんが乗り込んだあと、再び助手席に戻った男は、僕を見
てくつくつ笑う。
その笑みは僕を抱く男ととてもよく似ていた。
﹁漸く手に入れたんですね﹂
男は僕を見て、そのあとユウキさんを見て笑う。
それには何も答えず、ユウキさんは僕を隣に座らせる。
背後でもう一台車が停まる音が聞こえた。
振り返ると、見慣れた男、金原が車から降りたところだった。
金原の姿を見たとたん震える僕に、ユウキさんは笑って、あいつ
のこれからの顔が見ものだなと囁く。
まぁ最も、監視カメラでもつけておけばよかったと後悔する、お
前の兄の顔の方が見ものだろうが。
囁いたあと、出せと小さく命を下したユウキさんは、それきり金
128
原たちに興味を失ったかのように背後を気にするそぶりはなかった。
僕は遠ざかるマンションを見ながら、これからの暮らしに思いを
はせる。
どうなるかはようとして知れないが、それでもこの男はきっと悪
いようにはしないだろう。
何となくだがそういう気がして、僕は隣に座る男の肩にもたれか
かる。
﹁とりあえず着いたら食事だな。オマエの体を元に戻してから、
外の世界に連れて行ってやる﹂
男はそう言って、今はとりあえず眠れと、僕の瞼を大きな掌で覆
った。
眠れるはずがない。僕はずいぶんと碌に眠っていないのだから。
そう思ったもののわずか後に、僕を緩やかな睡魔が襲う。
その睡魔に抗うことなく、背中に男の体温を感じて、僕はゆっく
りと意識を手放す。
遠ざかる意識の中、男の話声が聞こえたような気がした。
電話でもしているのだろうか。
129
男の声は酷く楽しそうだった。
それを子守唄に、僕はゆっくりと眠りの淵へと沈んだのだった。
﹁あぁ、要は俺が貰う。その代り社はオマエに譲ろう。それでい
いだろう?﹂
﹁オマエには感謝している。俺は俺だけの小鳥が欲しかった。要
は従順でよく鳴くだろうよ﹂
﹁今度他の誰かのために檻をつくろうと思うなら、外から入る者
の出入りは厳選することだな﹂
﹁あれではまるで俺に奪ってくれと言っていたも同然だからな﹂
130
アイツから奪ってやろうか? [強引な男 X 諦め平凡]︵後
書き︶
お読みいただき、ありがとうございました。
131
俺と貴方の関係はなに?
だから、もう泣くな[寡黙なピアノ講師 X 強気高校生]
︱︱
ピアノを弾く節張った指が好きで、
少しクセのあるタバコを銜える唇が好きで、
何もかも見透かすような黒い眼が、どうしようもなく好きだった。
6つという年の差は、今の俺にとってはどんな壁よりも高い。
どれだけ努力しても追いつけないし、追い越せない。
大人ぶってみせても、あの男から見ればそれはただ子供が駄々を
こねているに過ぎない。
132
クゼ
﹁なぁ、久世﹂
何?﹂
好きだと打ち明けたのは俺からだった。
﹁︱︱︱
別に、﹂
好きだと言って、泣いて、喚いて、
﹁⋮⋮
言うことを聞かない子供の我が侭に付き合うような、
決してそれが本意ではないような、
そんなため息をひとつ落として、
﹁︱︱︱︱﹂
男は俺を受け入れた。
好きだというのはいつも俺だ。
キスを強請るのも、一緒にいたいと願うのも。
男は俺の望みを叶えるだけで、
自らの望みを口にすることはない。
133
24の男の眼に映る世界は、一体どんな風に見えているのだろう
か。
男から見た俺は、一体どんな風に映っているのだろうか。
我が侭の過ぎる子供?
それとも︱︱?
両親を若くして喪ったという男。
家族は年の離れた弟が一人。
今の俺と同じ年で二親を亡くし、それからというものその腕で生
計を立て、弟を養っている。
メインはピアノ講師。その他に、ピアニストとスタジオアシスタ
ントを少々。
それが俺の知る男の仕事。
今まで出会った誰よりも美しい男。
今まで聴いたどのピアニストよりも美しい音を生む男。
弟を養うために安定した収入が必要だったからという理由で、
華々しいピアニストへの挑戦をやめ、一介のピアノ講師へと落ち
着いた男。
けれども、本来ならばこんなちっぽけなピアノの講師に収まる男
ではないと、
その存在を求める者は引きを切らず、
今では講師の時間を削って、男の音を求める者に、その腕を貸す
久世。
134
名もこの世界ではかなり通るときく。
男の世界は広い。
その世界のどのあたりに、俺は立っているのだろう。
﹁何か言いたいことがあるなら言えば?﹂
スコアを広げて、ピアノの前に座る俺。曲はバッヘルベルのカノ
ン。
﹁⋮別に、何もないけど﹂
程近い窓にもたれるように立つ男。
﹁︱︱︱︱︱﹂
男の口からため息がひとつ。
﹁練習が足りなかった?ごめん、次からはもっとちゃんと︱︱﹂
知らず、体が震えた。
男のため息に、あの日の記憶が重なって、
︱︱
135
その後のレッスンは最低だった。
不安定な気持ちは、重なった和音に影響し、音はばらばらに崩れ
て落ちた。
音は正直だ。
弾く者の全てを、聴く者へと曝け出す。
何か聴きたいことがあるのではと、遠まわしに聴いた男。
俺の聴きたいことは、ピアノが全て話してしまっただろう。
誰よりもその才に溢れる男が、
もう一度言うけど、﹂
その訴えをとりこぼすはずもなかった。
﹁︱︱︱
逃げたいという気持ちが先走って、レッスンが終わるや否やスコ
アを鞄の中へ突っ込んだ。
ありがとうございました、と踵を返した俺の手首をとって、
﹁何か言いたいことがあるなら言えば?﹂
一文字一句違わずに言って、男は俺を真っ直ぐ見据えた。
136
本当はずっと聞きたかった。
久世は俺と付き合ってよかった?
ままごとのようなデート。
戯れのようなキス。
我が侭な子供と、それに付き合う大人。
でも聞いたら全てを失う気がしていた。
誰の目から見ても、この関係は恋人同士のそれではない。
︱︱
気付かないフリをして、
もう少し、あと少しと、
茜﹂
セン
確実に近付いているであろうその時を、必死になって引き延ばし
ていた。
﹁︱︱
カチリと聞きなれたライターの音がして、うす暗くなった外を映
す窓に、小さな明かりが灯る。
クセのある煙草の煙と共に、
137
男の声が俺の名を静かに吐いた。
冬の空は日が沈むのも早い。
うす暗かった外はもうすっかり闇に呑まれて、街灯が街を明るく
照らす。
何も言わない俺にまたひとつため息を零して、男はゆっくりドア
明かりを付けずに、聞いてほしい﹂
へと向かう。
﹁︱︱
視界がほとんど自由にならないそこでも、俺は男の指を見つける
この指にいったいどれだけ触れてほしいと焦がれたことか。
ことができる。
︱︱
ドアのすぐ脇にあるライトのスイッチへと伸ばした手を止め、男
が此方を振り返った気配がした。
﹁俺と久世の関係ってなに?﹂
138
何でもないことのように聞いてやろうと思っていたのに、
は?﹂
その言葉尻はみっともないくらい震えていた。
﹁︱︱︱
見えなくても分かる。
男は今盛大に眉を顰めているだろう。
声がとてつもなく不機嫌だ。
俯いた眼から、涙が溢れて膝に落ちた。
久世が好きだ。
誰よりも、何よりも、
この美しくて、やさしい男が好きだ。
それなら一分一秒早く、こんな子供のお守から解放し
けれどももしも俺の存在が久世にとって枷になるなら、
︱︱︱︱
てあげなくては。
139
いい見合いの話、来てるんだろ?﹂
﹁俺さ、聞いちゃったんだよね﹂
﹁︱︱
小さなピアノ教室だ。久世の見合いの噂は直ぐに俺の耳にも届い
た。
唯一俺と久世の関係を知っているもう一人の講師はそれを聞いて
も、大丈夫、安心しなよと笑ったけれど、
それでも少しも安心できなかったのは、
その縁談が久世にとって悪いものではないと、分かっていたから
だ。
強く、痛むくらい強く握った掌。部屋は十分暖かいのに、指先は
凍ったように冷たい。
﹁久世がその人を選ぶんなら、﹂
目から溢れた涙。凍った指に落ちたそれは静かに熱を指先に移し、
そして急速にまた冷えていく。
140
﹁別れてあげても、いーよ﹂
言った途端、言葉に逆らうように目からボトリと音がするくらい
大粒の涙が落ちた。
暗い部屋を久世が歩く。
伸ばされたその手から逃れるように、椅子を降り窓際に立つ俺。
窓に背を向けて立つ俺を囲うように、体の両脇に手を付き、
﹁茜﹂
茜﹂
男は静かに俺の名を呼んだ。
﹁︱︱︱︱
驚くほど近くに久世の顔がある。
そう思った刹那、久世がもう一度俺を呼び、
そのあと、宥めるように唇に落ちたのは、
141
間違えようもない、久世から贈られた初めてのキスだった。
﹁なん、で﹂
嬉しいと悲しいがごっちゃになって、次々と目から溢れる涙の跡
を、久世の少しかさついた唇がたどる。
それ
あんなに泣いて喚いて啖呵切ったくせに、あきらめるの
まるで慰めるように落とされるキスは、5回目以降数えるのをや
めた。
﹁︱︱
か?﹂
唇に優しいキスを落としながら話す久世。
声は与えられるキスと同じくらい、とても優しかった。
﹁久世が結婚しても、好きでいるぐらいはいいだろ﹂
言外に諦めるつもりはないと言っているも同然だが、ーー
と同時に身を引く覚悟があるという決意も込めている。
142
久世の髪が肌をこする。
夢に見るほど焦がれたキスを山のように与えられて、
これで失っても、しばらくはこの感覚を忘れないでいられそうだ
と、そんな風に思った。
﹁茜﹂
久世が俺を呼ぶ。
好きだ﹂
唇にもう一度、優しいキスが落ちて、
﹁︱︱︱
その瞬間、世界から音が消えた。
143
﹁︱︱︱
え、﹂
体が震えた。
指の先まで震えは広がり、ついには立っていられなくなってその
場に崩れるようにしゃがみ込む。
﹁これでもまだ諦めるつもりか?﹂
男は僅かに笑って、へたり込む俺を正面からとらえる。
﹁今の、本当?﹂
震える指で、男の服を掴む。
諦めたくないと、そこに指が白くなるぐらい力を込める。
﹁でなきゃ、一緒にいるかよ﹂
顎を掬い上げられて、上から落ちるキス。
そのまま唇を舐められて、あいた隙間から忍び込んだ舌は、俺の
不安を全部浚おうとするみたいに、あちらこちらを撫でまわす。
144
﹁久世、照れてんの?﹂
柄にもない強引なキスに、必死になってついていきながらそう聞
くと、
﹁ばかか﹂
なぁ、久世﹂
絡めた舌を軽く噛んで、笑う久世。
﹁︱︱
さっきと同じ言葉に、男は笑ってキスを落とす。
﹁何?﹂
俺のこと、好き?﹂
今ならきっと聞けるだろう。
﹁︱︱︱
145
答えは久世の甘いキスと共にうす暗い部屋に溶けて消えた
﹁当たり前だろ。だからもう、泣くな﹂
︱︱。
146
だから、もう泣くな[寡黙なピアノ講師 X 強気高校生]︵後
書き︶
漫画の[キス/マツモトトモ著]の設定を少しオマージュしていま
す。
お読みいただき、ありがとうございました。
147
バカだな、妬くことなんかないのに [色男 X 卑屈な男]︵
前書き︶
※受けがうじうじしています。
148
本当はこんなところになんか、来たくなかった。
バカだな、妬くことなんかないのに [色男 X 卑屈な男]
︱︱
どこかの偉い社長の一人娘の二十歳を祝うパーティーだというそ
の集まり。
招待された者たちは皆煌びやかに着飾って、男も女もグラス片手
に談笑しあう。
選ばれた者たちの、優雅な集い。
給仕を慣れた風に顎で使う女に、そんな女を颯爽とエスコートす
る男たち。
極々普通の家庭で育った俺なんかには、場違いも甚だしい、おと
ぎ話の中のような世界。
そこへ誘う招待状を受け取ったのは、勿論俺ではなく、俺の良く
知る男だった。
男はそんなところになど行きたくないと突っぱねた俺を、けれど
149
も強引に引きずってこの会場へ乗り込んだ。
そして今は俺を一人放り出して、集りの中でも一際目を引く集団
の中心で笑っている。
整った容姿に、ウィットに富んだ会話と洗練された仕草。
甘いマスクと、それにぴったりの甘い甘い声に、まるで蜜に誘わ
れる蝶のように人が集まり、そして男を中心に笑い声が溢れる。
男がさりげない仕草で、給仕からシャンパンのグラスを受け取る。
その伸ばされた左手の薬指で静かに主張する指輪。
それに男の周りの女達はチラリと視線を馳せ、それでもそんなも
のは関係ないとばかりに、甘えた声と妖艶な笑みを浮かべて、男に
群がりその気を惹こうと囀る。
去年のクリスマスに、僕には君だけだからと渡された揃いの指輪。
付けていれば虫よけになると笑った男。
けれどそんなもの、ちっとも役に立っていない。
リイチ
男にたとえ妻がいようと、女はそれでも彼を求める。
アガツマ
それぐらい魅力的な男だ。あの、我妻 理一という男は。
昨日の夜にも好きだと言われた。
一昨日の夜にも好きだと言われた。
今日の朝出かける前にも言われた。
愛してるとも言われた。
150
昨日の夜には自信があった。
あの我妻に好かれているという自信が。
今日の朝にもまだ残っていた。
我妻に愛されているかもしれないという望みが。
けれどもだめだ。
我妻を取り囲む美しい女たちを見て、そんな強がりは一気に砕け
散った。
美しい顔も、豊満な胸も、男を喜ばせてやれるものを俺は何一つ
として持っていない。
敵わないと手持ちのシャンパンにうつる顔を見てため息が漏れる。
いや、むしろ、勝負にすらならない。
初めに好きだと口にしたのは我妻だった。
けれども今では俺の方が彼に溺れきっている。
狭い狭い世界に生きる俺。
仕事は我妻に乞われて辞めてしまった。
疲れて帰ってきた家で、自分を癒すために待っていてほしい。
そう望まれて、少し悩んだけれど、最終的には受け入れた。
外で我妻が何をしようが、家で待つ俺にはわからない。だからま
だ傷つかずに済んでいた。
けれどもこんな風に目の前に突きつけられると、もう、だめだ。
151
欠片ほどではあったがそれでも確かに持っていたはずの自信が、
今はどこを探しても見つからない。
指輪を交わしてもう半年になる。
我妻の友人に言われた言葉が蘇っては消え、蘇っては消える。
付き合って3か月目に同棲、半年目に指輪、そしてその半年後に
別れを。
また同じことをするつもりなのかと笑ったその声に、今回こそは
今回こそは
違うよと返した我妻。
その言葉に俺がどれだけ傷ついたか、お前にはきっと一生わから
ないのだろう。
周りの女たちも皆そのことを知っている。そして男が指輪をしだ
してから今がちょうど半年だということも。
誰もが男の特別になりたいと願うけれど、残念ながらそのサイク
ルから逃れられた者は、未だかつて現れていない。
だから余計に女も男も、その男の周りに群がる。
彼らは知っているのだ。
どれほど美しい女も、どれほど才に溢れる男も、そのサイクルを
壊すことはできなかったのに、俺みたいな平凡を絵に描いたような
男が、それを成し得るはずがないのだということを。
だから彼らは、男の隣に立つ次の存在に我こそはと皆積極的にア
プローチする。
152
そんなことは、この目でわざわざ確かめずとも、分かりきってい
たことだった。
彼らがこの半年を今か今かと待ち侘びていたのと同じぐらい、俺
今回こそは
もまたこの半年が過ぎるのを戦々恐々と待っていたのだ。
今回
しかない。
選ぶ側の男には、前回も、今回も、そして次回もあるけれど、
選ばれた側の俺には、
だからこんなところ、来たくはなかった。
そしてその今回が、ついに終わりを告げようとしている。
ーーー
﹁よう、食べてるか?﹂
隅の方で料理をつついていた俺に近付いて、男が俺の手元の皿を
イザワ
井沢は、我妻の親友で、俺たちの関係を好意的に見る数
覗き込む。
男︱︱
少ない人間だ。
﹁うん、ここの料理うまくて食べ過ぎたかも﹂
153
ははと軽く笑ったつもりが、乾いた声しか出なかったのは、視界
の隅に映る我妻の腕に、しなやかな白い腕が絡まるのを見たからだ。
思わず目を逸らした俺の視線の先を追って、井沢は眉を顰め、そ
れから俺を可哀そうな者を見る目で見た。
﹁なぁ、井沢﹂
我妻の面食いは有名だ。
相手にと望まれていたのはいつだって美しい者達ばかりだった。
同時に身体の関係を掛け持つことがないだけ、まだマシな方なの
かもしれない。
けれどあからさまに向けられる好意を、何でも無い風を装って触
れられる手のひらを、笑って受け取るのは、俺にとっては掛け持っ
ているも同然だった。
俺は我妻に乞われたから、自分の居場所を捨てて、奴の元へやっ
てきた。
男のくせに仕事を捨てるということが、どういうことなのか、我
妻にも分かっていると思っていた。
女々しい男だと思われたくなくて、受け取ったスーツから香る移
り香にも、知らぬふりをした。
少しずつ遅くなる帰宅時間にも、気がつかないふりをした。
社会
を捨てたさせたくせに、などと、恨み言を言うような男
狭量な男だと思われたくなかった。
にはなりたくなかった。
154
最近は、めっきり身体を交わすどころか、口づけすらしなくなっ
た我妻。
徐々に減ってゆく会話。
その中で、好きだという言葉と、愛しているという言葉だけが、
俺たちの関係をつなぎ止めるためだけに浪費されていく。
終わりの見えている関係ならば、いっそ早く楽になりたいと思う
のは、そんなにおかしな事だろうか?
我妻の顔色ばかりを伺って、今日とも明日とも知れぬ別れに怯え
る日々は、もううんざりだった。
我妻の事が好きだ。
だから嫌いになる前に、別れたい。
嫌いになりたくないから、別れたい。
我妻の事を、好きなままで別れたかった。
そうすればずっと、一方的な片思いで居続けられる。
我妻から気持ちが返ってくるかどうかは、最早それほど重要な事
ではない。
重要な事ではない。
我妻が、次に誰を選ぶのかは、重要ではない。
155
俺には関係のない話だ。
だから、せめて、
次の相手を選ぶのは、俺の居ないところでやってほしい。
こんな風に、俺に見せつけるようにせずに、俺の知らないところ
でやってくれ、頼むから。
俯いて我妻にプレゼントされた艶々の皮靴の先を見て、それがだ
んだんぼやけるのを他人事のように感じる。
﹁俺、どうしたらいいと思う?﹂
うじうじと悩む自分が、本当は死ぬほど嫌いだった。
どうにかして変えたいとずっとずっと思っていたけれど、そうし
て我妻に嫌われるのが怖くてずっとずっと我慢していた。
﹁したいようにすればいいと思うぜ﹂
井沢の言葉が俺を後押しする。
どうしたらいい、なんて聞いておきながら、したいことはもうと
っくの昔に決まっていた。
その背中を、誰かに押してほしかっただけで、井沢に聞けば、聡
い奴の事だから俺の望む応えを返してくれるだろうことも、分かっ
ていた。
156
分かっていて、あえて、そう聞いたのだ。
手に持った皿を井沢に押し付けて、給仕から新しいシャンパンを
受け取る。
なみなみと注がれた黄金色したシャンパンが揺れるグラスを持っ
て、談笑する集団の中心へと近づいていく俺。
まだ視界はぼやけていたけれど、それを空いているほうの手で拭
って、我妻へ近づく。
ウメ
﹁梅﹂
我妻が目の前に立った俺の名を呼ぶ。
奴の腕は、隣に寄り添うように立つ女の腰に回されている。
我妻。
お前にとってその距離が普通ならば、俺はもうお前とは一緒に居
られない。
俺は、俺以外の、誰にも指一本触れてほしくない。
それに嫉妬深いと眉をひそめるのならば、俺たちは同じ道を歩く
誰かを抱き寄せたその腕で、俺を抱きしめようとしない
事は出来ない。
ーーー
でほしい。
157
梅だって。
後ろで男がくすくす笑う。
何この男。
別の女が少し苛立った声をたてる。
俺より15センチも背が高い我妻。少し見上げるようになるのが
癪だが、まぁこれも最後だからと自分をなだめる。
﹁どうしたの?﹂
女を抱いていない方の手を、俺に伸ばす我妻。
それを叩き落として、にやりと笑う俺。
突然現れた俺の暴挙に、目を見開く周囲と我妻。
﹁さようなら﹂
我妻の奇麗な顔に向って、もらったばかりのシャンパンを浴びせ
かける。
俺と我妻を囲んでいた女たちの悲鳴が煩くて俺は顔をしかめ、そ
れからくるりと踵を返し、扉のほうへ向かう。
我妻さん大丈夫ですか?
女たちのきれいにプレスされたハンカチでスーツや髪を拭われる
我妻をちらりと視界の隅に映して、俺は玄関へ急ぐ。
逃げるように走り去るのはプライドが許さない。
158
だからことさらゆっくり歩きながら、我妻に貰った指輪を薬指か
ら抜く。
するりと抜ける指輪を光にかざして、その内に掘られた言葉を見
永遠なんて言葉、知りもしないくせに﹂
て少しまた視界がぼやける。
﹁︱︱
くそったれ。
ぐっと掌に握りこんで、そしてそれを遠くに投げようと振りかぶ
った腕を、濡れた手のひらが押しとめる。
そのまま引きとめるように腕を引かれて、近くにあった部屋へ連
れ込まれた。
後ろから抱きすくめられて、頭のてっぺんにキスが落ちる。
それから逃れようとがむしゃらに暴れるけれど、少しもその腕が
緩む気配はない。
﹁梅﹂
甘い匂い。
女たちの香水の匂いをかき消す、甘いシャンパンの匂い。
それに負けないぐらい甘い、男の声。
159
﹁放せ﹂
じたばた暴れる俺の頭中に、男はくすくす笑ってキスを落とす。
﹁梅﹂
ぐるりと腕の中で体を回転させられて、男と向き合う形になる。
囲われた腕の強さはそのままに、片方の手で顎を持ち上げられて
眼尻に溜まった涙にも唇が落ちる。
﹁ばかだな、妬くことなんかないのに﹂
泣くくらい嫌なら、そう言えばいいのに。
そう言って唇を重ねてくる我妻に、誰が妬いてなんかと返すけれ
ど、その言葉はやつの口の中に吸い込まれて届かない。
﹁梅が泣くの、久しぶりに見た﹂
何度も触れるだけのキスを落として笑う我妻。
﹁久し振りだからかな?ちょっと興奮する﹂
家に帰ったらたくさんシヨうね。
流れた涙の跡に舌を這わせて囁く我妻を睨みつけて、
﹁俺、オマエとはさよならしたんだけど﹂
そう言った俺に、我妻は、聞いたけどうんって言ってないよ、だ
から無効。
160
﹁梅はまだ僕のものだよ﹂
俺の掌に握りこまれた指輪を取り出して、また唇にキスを落とす。
﹁振られるのがいやなんだったら、オマエから振ってくれてもい
いぜ﹂
その唇から逃れて、まっすぐに我妻を見る。
瞬きしたら目じりからまた涙が流れて、思わず舌打ちしたくなる。
﹁やっぱりお前の隣は奇麗な奴のが似合うと思う﹂
俺なんかじゃだめだ。
﹁でも僕は梅がいい﹂
梅じゃなきゃいやだ。
我妻はそう言って俺の左手を持ち上げ、薬指にそっと指輪を戻す。
﹁もう半年だ。そろそろ飽きて︱︱﹂
飽きてきたんじゃないか。そう言おうとした言葉は、我妻の冷た
い視線に晒されて口の中で凍りついた。
161
﹁聞きわけないことばっかり言ってると、﹂
梅の大好きなオシオキ、しないといけなくなるけど、いいの?
身動き一つ取れなくなるような、冷えきった視線。
なのにその奥で、飲み込まれそうになるほど昏い炎が見え隠れす
る。
それはまるで狂気にも似ていて、
俺は必死になってその言葉にガクガク首を横に振る。
そんな俺を、昏い瞳のまま見つめる我妻。
瞳を、喉元を、胎を、足を、舐めるように見られて、思わず俺は
唾を飲む。
﹁じゃあ、もうそんなこと言わないよね?﹂
そして今度は壊れた人形みたいに首を縦に振る俺。
そんな俺に我妻はにこりと笑って、戻した指輪に唇をあて、
それじゃ、帰ろうか。
そう言って俺の手を引き、玄関へと向かう。
後ろから女が何人か縋るような視線を送ってきていたけれど、そ
162
れを奇麗に無視して颯爽と歩く我妻。
いいのか?
チラチラ後ろを振り返る俺に、
いいよ。だって家に帰ってすることがたくさんあるからね。
我妻は振り返りながら意味深に笑う。
﹁どうやら教え直さないといけないみたいだからね。梅は誰のも
のかってこと﹂
井沢とも仲良くしてたみたいだし。
ね?
その眼から未だに少しも狂気が去っていないことに気付いて、俺
は背筋に冷たい水が伝うのを感じる。
半年過ぎれば、我妻の興味は俺から失われるのだと思っていた。
だから我妻が切り出す前に、俺からさっさと離れてやるのが、俺
の為であり、そしてまた我妻の為にもなると思っていた。
なのにこれは一体全体どういうことだろう?
163
あれほどまで、これ見よがしに腕に抱えていた女を投げ捨てて、
俺の元へやってきた、そのわけは一体何なのだろう?
教え直し
と称した
頭の中を混乱でいっぱいにした俺は、その後引きずられるように
して我妻のマンションへ連れ帰られ、そして
セックスに一晩中泣かされるはめになる。
泣いても、哭いても終わらぬその響宴は、次の日の朝方まで続き、
ブラックアウト。
俺は何時意識を手放したのかさえも分からぬまま、迫り来る闇に飲
まれた。
ーーー
﹁嫉妬する梅はかわいいけど、でも別れるって言うのだけは許さ
ないからね﹂
だから我妻が俺の頭を撫でながら、未だに昏い瞳をしたまま、そ
う呟いていたことなど、知る由もないことだった。
164
165
バカだな、妬くことなんかないのに [色男 X 卑屈な男]︵
後書き︶
サイトからこちらに引っ張ってくるにあたり、少し修正しています。
166
妬いてくれないの?[人気者院生X平凡院生]
勝手に家に居座って、一人暮らしのワンルームを二人暮らしにし
て。
家賃は勿論折半しているけれど、料理ができるわけでもなし。
できることと言えば掃除ぐらいで、けれどそれだって俺よりもあ
いつのほうが要領もよくてうまかった。
狭いベッドに男二人がぎゅうぎゅうになって眠る夜は、少し息苦
しくて。
その理由が何でかなんて、本当は気づきたくなかったのに。
院に進んでからというもの、思うように時間のやりくりができな
くて、いつも終電を逃がして構内にこっそり泊まり込んでいた。
実家は大学から電車で1時間のところにあり、終電は思った以上
に早かった。
3日に1度帰ればいい方。
167
研究が山場に差し掛かれば、その頻度は1週間に1度に伸びるこ
ともざらだった。
ヒロオ
ナオアキ
そんな俺を見かねてうちに来ればいいと誘ってくれたのは、同じ
ゼミの広尾 尚明だった。
それまでほとんど関わったこともなかった広尾の家に、いきなり
お邪魔するのはどうかなとも思ったけれど、いい加減硬い床の上で
繊細な男。
寝るのも限界だったので、その時は深く考えずにその申し出をあり
がたく受け入れた。
広尾の構内での認識は︱︱
口数が少なく、親しい友人もいない広尾。
けれど頭の出来は大学創立以来の逸材とまで言われている。その
上抜群に整った容姿とくれば、それだけで近寄りがたいオーラが満
載だった。
俺もその時までは、広尾は少し取っつきにくい男だと思っていた
けれど、その日の晩広尾の家におじゃまして、その印象は百八十度
広尾はマメな男だった。
変わった。
︱︱
家に着くなり、風呂を沸かしてくれた広尾。
168
シャワーだけでもかなり嬉しかったが、その上湯船にまで浸かれ
た俺のテンションは最高潮に達していた。
しかも風呂を上がれば、テーブルの上にはごはんに豚汁にサラダ
にから揚げが用意されていたのだから、もう上げ膳据え膳とはこの
ことだろう。
ご飯は炊き立てでつやつやしているし、豚汁からは湯気にのって
いい匂いが漂ってくる。
揚げたてのから揚げはジューシーだし、サラダは俺の好きなじゃ
がいもがごろごろしたサラダで、味も抜群にうまい。
これを俺が風呂に入っていた間に全部準備して、その上風呂から
あがってきた俺の髪をタオルで拭いてくれるというサービスぶり。
さらに驚いたことに、家の中での広尾は構内よりもいくらか言葉
数が多く、おかげで普段より随分と話しやすい。
今までちゃんと聞いたことがなかった広尾の声は、耳触りのいい
低さで、その上ほんの少しだけ掠れている。
女の子なんか、この声で甘く名前を呼んでもらえばイチコロだろ
う。それぐらい広尾の声は上等だった。
暖かい飯にはしゃぐ俺を見てクスリと笑う広尾。
食事中も今まであまり話したこと無かったというのが嘘のように、
いろいろな話で盛り上がった。
眠るときは同じベッドだったけれど、その時もまだ話題が途切れ
ていなかったから、修学旅行みたいに布団の中に入ってからも二人
で向かい合いながら色んなことを話した。
169
広尾の見ている世界は俺よりも、少しゆっくり流れているみたい
だった。
周りに流されてばかばっかりやっている俺とは違う世界を生きる
広尾。
2時間ぐらい話したのは覚えているけれど、それ以降の記憶がぷ
次の日の朝、なぜか広尾に抱きしめられるような
つりと途切れてしまっている。どうやら話しながら眠ってしまった
ようで、︱︱︱
形で目が覚めた。
背が高い広尾と、普通より少し低いぐらいの俺。
だから別にいいかと、目が覚めてからもそのことについて
広尾の腕が長いせいか、抱きしめられていてもあまり苦しくなく
て、
︱︱
は何も言わなかった。
一泊させてもらったそのあとは、まさになし崩しで広尾の家に居
座り続けた。
一週間が過ぎたときに一度だけ、このまま広尾の家にずっといて
もいいのかと聞いた俺に、いいよと笑って返した広尾はストラップ
つきの相鍵をくれた。
三週間目に家賃を折半させてほしいと言えば、広尾は少し困った
170
顔でそんなのいいのに、と答えた。
広尾の家に着替えと、ほんの少しの荷物を置いたのは、広尾の家
に居ついて一カ月後のことだった。
家に帰ればおいしいご飯とあったかいお風呂。
狭いベッドに広尾と二人で眠る夜。男二人でなにやってんだろっ
て思ったこともあったけど、それ以上に広尾の腕の中が安心できた
から、深く考えるのはやめにした。
3カ月、広尾と一緒に過ごして、俺はゆっくりと広尾を知り、そ
してそのままごくごく自然な流れで広尾を好きになった。
広尾はいつだって優しかった。
だから告白なんかできるはずが
奴が女なら、何も考えずに告白していたかもしれない。
でも現実には広尾は男で、︱︱
ない。
広尾に振られるのは当たり前の前提で、そこにこの優しい生活と
の別れが待っているのだと思うと、考えただけで恐ろしくなった。
だから告白することで、
俺は別に広尾が甘やかしてくれるから好きなんじゃない。イケメ
ンだからでも、頭がいいからでもない。
広尾が広尾だから好きなだけで、︱︱
171
広尾との関係が崩れることだけはどうしても避けたかった。
どうせ告白しても、受け入れてもらえるわけがない。
ならば告白なんてせずに、この思いは俺の胸の内だけでとどめて
思うだけなら、俺の自由
おいた方がいいと俺が考えるのに、そう時間はかからなかった。
諦めるわけじゃない。
ただ気持ちを告げずにいるだけで︱︱
だろう?
最近大学でも広尾とよく話すようになった。
それはすれ違いざまだとか、食堂でばったり会ったときだとかで、
別にわざわざ待ち合わせまではしない。
どうせ家に帰れば、好きなだけ話せるし。
ここ最近、よく広
そう思えば、大学にいる間我慢するぐらいは大したことでもなか
った。
けれど周りはそうじゃなかったみたいで︱︱
尾との仲を取り次ぐよう頼まれることが増えた。
広尾は前言ったように、学内では寡黙な男だと思われている。
イケメンで天才だが、取っつきにくくて愛想も悪い。
その広尾が俺みたいなのと話しをしていれば、周りが色めき立つ
のも分からない話ではなかった。
俺は院生でありながら、教授の覚えもそれほどよくなく、居ても
居なくても分からない程度の学生でしかなかった。
172
そんな俺でも広尾と話しができると分かれば、周りが自分もと声
を上げるのは当然のことだろう。
本当は誰にも取り次ぎなんかしたくない。
広尾が俺を構ってくれてるのだって、よくよく考えれば奇跡みた
いなものなのに、それをどうして他人に分けてあげないといけない
んだろう。
けれどそれを決めるのは、俺じゃなくて広尾自身だ。
もしかしたら俺よりも話も合う誰かがいるかもしれないし、一緒
にいて楽しいと思える人間も増えるかもしれない。
そのチャンスを奪う権利が、俺なんかにあるはずがない。
﹁最近よく色んな奴と話ししてるね﹂
家に帰ってのんびり二人でご飯食べて、そのままぼーっとテレビ
見てたら突然横に座っていた広尾がそんなことを言い出した。
﹁え、そう?﹂
これは絶好のチャンスかもしれない。
俺としてはこの上な
広尾が言っている色んな奴っていうのは、多分広尾に繋ぎを付け
てほしいと頼んできた奴らのことだろう。
広尾自身が話を振ってくれるなんて、︱︱
いほどやりやすい展開のはず。
173
なのに、言いたくないなんて思うのは、やっぱり俺が広尾のこと
を好きだって思っているからなんだろう。
それでも優しい声。
﹁よく呼びとめられてるよね。飲み会の幹事でもした?﹂
少し顰められた眉。不機嫌そうな顔。︱︱
けれども声が喉に張り付いた
﹁いや、してないし、する予定もないよ﹂
ただ、
そこから先に繋げようとして︱︱
みたいに、上手く言葉が音にならない。
言ってしまえば、広尾の眼が外に向いてしまうかもしれない。
いやだ、言いたくない。
でもただの友人が、広尾にとってプラスになるかもしれない情報
を隠すのはどう考えたっておかしい。
﹁ただ?﹂
少し首をかしげて、俺の眼を覗き込むように見つめてくる広尾。
その声に後押しされるように零れた言葉に、
頼まれてるだけなんだ﹂
今度は盛大に顰めた。
﹁ただ、その、何ていうか。その、︱︱
広尾はまたもや眉を︱︱
174
﹁頼まれてるって、何を?﹂
険しい表情のままの広尾が、ほんの少し俺の方へ身を乗り出す。
﹁えーと、その、何言うか....広尾と、その、繋いでほしい
らしくて﹂
広尾の端正な顔がぐっと近づいてきて、その迫力になぜか逃げ腰
になった俺は、体をほんの少し後ろに逃がす。
﹁繋ぐって、誰と、誰を?﹂
けれどもそれ以上は許さないというかのように、広尾の手が俺の
手首を掴んで自分の方へ引き寄せる。
声は甘いけれど、雰囲気はこれ以上ないぐらい苦々しい。
﹁勿論広尾とそいつらに決まってるだろ﹂
﹁じゃあ何で直接俺のところに来ないわけ?﹂
﹁そんなこと、俺に聞くなよ﹂
大体、それはこっちが聞きたい。
俺の答えに納得がいかなかったのか、広尾の表情は険しいままだ。
175
﹁それで、増岡はどうするの?﹂
けれどそう続けられた言葉に、俺は︱︱
どうするって、そんなの決まっている。
思わず息を飲んだ。
広尾をあいつらに紹介する、それ以外無いだろう。
けれど咄嗟に言葉が出なかったのは、
広尾を誰にも渡したくないっていう、俺の勝手な独占欲が邪魔し
たからだ。
﹁増岡?﹂
零れたのは、言葉
促すように、もう一度名前を呼ばれて、俺は渋々口を開く。
﹁あいつらと、会って、﹂
やってほしい。
そう続けようと息を吸いこんだけれど、︱︱
じゃなくて、唐突にもりあがってきた大粒の涙だった。
それこそボロリと音がするくらい大粒の涙が、俺の目から落ちる。
176
見られたくなくて、思わず俯いた俺の顎を掬い上げて、
舐めた。
広尾は俺の目じりに溜まって、今にも落ちそうになっている涙の
粒を︱︱
﹁泣くくらい嫌なら、引き受けなきゃいいのに﹂
これは、キス?
苦笑しながら、俺の頬に伝った涙の跡に唇を寄せる広尾。
︱︱
広尾の唐突過ぎる行動についていけなくて、思考も行動もフリー
ズする俺。
一体何が起こっているっていうんだ?
固まって言葉も出ない俺には構わず、広尾はさらに言葉を重ねる。
﹁それに俺だって嫌だよ。増岡があいつらに使われてるのを見る
のは﹂
それに、
﹁嫉妬するしね﹂
177
はは、と軽い笑い声を立てて奇麗に笑う広尾。
嫉妬、って広尾が?
なんで?
友達を取られた気になるから?
友仁﹂
次から次へと湧いてくる疑問に、頭がごちゃごちゃになって、考
えがうまくまとまらない。
﹁俺のこと、好きだろ?︱︱
初めて広尾に名前を呼んでもらえたのに、その前にくっついてい
た言葉に思考のほとんどが持っていかれて、もう何が何だか分から
ない。
答えないと、今度は口にキスするよ。
そう囁くように言葉にして、徐々に顔を寄せてくる広尾。
少しずつ近づいてくるその顔に、流されそうになったその瞬間、
ハッと気づく。
広尾はこの言葉の前に、何て言った?
178
﹁すき?﹂
今度こそその意味をはっきりと理
俺の言葉にさも当然のように頷いて笑う広尾。
好きだろう?俺のこと。
もう一度言葉にされて、︱︱
解した。
そして理解した瞬間、顔に一気に熱が集まって、今にも倒れそう
になる。
俺が広尾のこと好きだって、知られてた?
鏡なんか見なくても、俺の顔が今真っ赤になってるのが分かる。
︱︱
言うつもりもなかった言葉を、まさか本人から聞かされるなんて
思ってもみなかった。
違うって返したい。何言ってんだよって笑って、前見たいな関係
に戻りたい。
広尾とどうにかなりたいわけじゃなかった。
むしろこの関係を、壊したくなかった。
高望みなんかしない。仲のいい友達の一人でよかった。
179
けれどこんなに顔を赤くしてしまえば、︱︱
の気持ちは広尾には丸わかりだろう。
言わなくても、俺
うぅ、とか、ああ、とか意味のない唸り声しか出せない俺を見て
広尾はくすくす笑う。
何で笑ってられるんだ。男に好きだって思われて、気持ち悪くな
いのかよ。
けれど笑う広尾から告げられた次の言葉は、俺の想像のはるか上
を行っていた。
﹁俺も好きだよ﹂
友仁。名前を吹き込むみたいに、そのまま広尾にキスされた。
﹁だから他の誰とも仲良くしないで﹂
妬けるから。
少し拗ねたように言って、もう一度キスしてくる広尾。
﹁ねぇ、友仁は言ってくれないの?﹂
180
唇をふれ合わせたまま、真っ直ぐに俺を見る広尾。
その眼がゆるりと笑みに形を変えた瞬間、押し出されるように俺
の口から言葉が零れた。
﹁俺も、好き﹂
その瞬間にもう一度深く、何度も何度も口づけられて、そのあま
りの心地よさに流されないように、溺れないように、広尾の服をぎ
ゅっと掴んだ。
キスが終わって何となく気持ちが落ち着いたそのとき、広尾が俺
の手をとりながら零す。
﹁俺は友仁が他の誰かと話してたら嫌だし、嫉妬するけど、﹂
向かい合って立つ俺と広尾。
持ちあげた俺の左手を、自分の口元に持って行きながら、広尾は
真っ直ぐに俺を見る。
﹁友仁は、妬いてくれないの?﹂
真摯な瞳に見つめられて、俺はまたもや顔に熱が集まるのを感じ
る。
181
それがまるで何かに祈っているように見えて。
ゆっくりと俺の手に唇を押しあてて、広尾はゆっくりと瞼を閉じ
る。
︱︱
﹁妬くに決まってる﹂
何かに突き動かされるように告げた言葉は、ちゃんと広尾に届い
ただろうか。
﹁だから紹介しないし、繋がない﹂
それでもいいよな?
誰にも渡したくないし、その権利を俺はもらえたってこと
少し寡黙で、けれど心優しい広尾。
︱︱
だよな?
俺の言葉を聞いて、その唇はゆるく弧を描く。
182
答えはきっとその広尾の、やわらかい笑みの中にある。
183
妬いてくれないの?[人気者院生X平凡院生]︵後書き︶
お読み頂き、ありがとうございました。
184
こころひとつ [執着攻めX病弱受け]︵前書き︶
※残酷描写を含みます。
お嫌いな方はお戻りください。
185
アレがホシイ
こころひとつ [執着攻めX病弱受け]
−−−−−−
ベルメはいつだって不安とともに暮らしている。
食に、生に、金に。何をするにも、何を成すにも、そこにはオマ
ケのように不安という言葉がひっそりと、それでもぴったりと彼に
貼りついて離れない。
小心者とベルメを指差し笑う誰かを、きっとベルメもベルメの友
も非難することは出来ないだろう。
事実彼は小心者だった。それは変えようのない真実だ。だがしか
し、ベルメがそれほどまでに不安を抱えているそのわけが、全部が
全部ベルメにあるわけではなかった。
16のベルメには、親と親戚が居ない代わりに、12になる弟が
186
一人居る。
そのたった一人の大切な肉親を護るために、ベルメはありとあら
ゆる事柄に気を配り、目を光らせていなければならなかった。
世界は驚くほど、他人に厳しい。
ベルメは自分たちに近寄ってくるもの全てを敵とみなし、その敵
から隠すように背に弟を抱えて、吹き荒れる嵐の中を必死で、それ
でも気丈に生きていた。
それは言い過ぎだと思うだろう。
けれど幼いベルメたち兄弟が、この厳しい世間の間で生きていく
には、それは言い過ぎではなくごく当たり前の事だった。
かつてはベルメも二親に護られ、安穏と暮らすただの子供でしか
なかった。
けれどその日々は突如として喪われ、ベルメは幼い弟と二人でこ
の冷たい世間に放り出されてしまう。
そのきっかけとなった、−−−彼らが両親を、喪うきっかけとな
った出来事。
それは、ベルメが12、ベルメの弟クリスチャーが8の時に起こ
ったある一つの事件が関わっていた。
詳しいことはよく分からなかった。
けれどそれはとにかく事故だったのだ、ということを、ベルメは
厭と言うくらい、ベルメの数少ない親族や、警察から聞かされてい
た。
だがしかし、当時は分からなかったことが、成長したベルメには、
成長した分、少しだけ分かる。
187
例えば何故事故で死んだはずの両親の死因が、警察によって物々
しく告げられたのかとか、何故自分たちが両親の死体との面会を頑
として許されなかったのか、とか。
その答えを大人達は誰も口にしようとはしない。
けれどベルメ自身は、当時あのベルメたちが住んでいた街で起こ
った﹃切り裂き殺人事件﹄にあるのだろう、と確信に近い強さでそ
う思っている。
全部で47人もの人々が、切り裂き魔と称する、たった一人に男
の手によって殺された。
その中にきっとベルメたちの両親も含まれていたのだろう。
切り裂き魔に殺された人々の体は全てがバラバラに解体され、小
さなパーツパーツに分けられ、道路や学校、森林というありとあら
ゆる場所に放置され、あるいはディスプレイされして、他の人々の
眼前に晒された。
ベルメたちの両親もきっとどこかに飾りたてられ、辱められたに
違いない。
そうでなければあの時期、二人の幼い兄弟があれほどまであから
さまな奇異や特異の目で見つめられ続けた理由や、葬儀の際両親の
棺が異常なまでに小さかったワケや、ただでさえ少なかった親類一
同にこぞって縁を切られ放り出された理由がわからない。
当時切り裂き魔のその魔の手は、狙ったターゲットの一族全てに
まで及ぶと噂されていた。
188
あれやこれやと適当な見出しをつけ、誌面はこぞってその血塗ら
れた事件について騒ぎ、囃し立て、捲くし立てた。
結論としてベルメたちが親族一同から切り捨てられたのには、そ
の誌面のある一枚の何の証拠もない、甚だ信憑性に欠ける記事が関
係していた。
何と言う題がついていたのか、今のベルメはもう既に忘れてしま
った。
けれどそこに書かれていた内容だけは、いつまで経っても忘れる
ことは無いだろうと、ベルメは思う。
﹃犠牲者が出たその一族を、切り裂き魔の魔の手から救うただ一
縁切り
つの方法がある。
それさえすれば、ある一部の人間を除く全ての一族の人間が、
それから助かることが出来る。
助からないのは、ほんの一部分。
殺された者より、生まれ出た者のみ。ただ、その人間だけ。
親が殺されたなら、その子供は助からない。
祖父が殺されたなら、その祖父の子供は助からない。勿論、そ
の子供から生まれた子供も助からない。
殺された者を生んだ者は、助かることが出来る。
ただし、縁を切らなければ、生む生まないを関係なく、全ての
人間が殺される。
既に、2つの家の人間が殺され、家を潰されている。
勿論、このことが本当だという証拠はどこにもない。
ただ、試してみる価値はあると思われる。
現に、一つの家は、この方法を使い、今も尚生き延び続けてい
る。
189
信じる信じないは貴方の勝手だが、それでも一度、助かるため
に、この方法を試してみるのはどうだろうか。﹄
ベルメの親族は、一も二もなくこの方法に飛びついた。運の悪い
ことにベルメの両親の親、つまりベルメの祖父母にあたる人間たち
は、ただ一人父方の祖母一人を残してあとは全て他界してしまって
いた。
その父方の祖母もまた、当時は床に臥したまま起き上がることす
ら叶わない状態だった。
つまり、その時ベルメたち兄弟を護る者はただ一人として存在し
なかった、ということだ。
結果から言えば、ベルメたちは血の繋がった物達によって縁を切
られた。
少量の金を渡され、家からゴミのような扱いで、その身一つで放
り出された。
それからだ。ベルメを襲う不安が、恐ろしいほど量を増したのは。
12のベルメと8つのクリスチャー。どう考えても、親なしで世
間に出るにはまだ早すぎる歳だった。
途方に暮れたベルメ。だがしかし帰る家はもうない。
頼れる両親も、血の繋がった親類も、誰一人としてもう彼らには
存在しない。
在るのは傍らでベルメの服の裾をぎゅっと握り締めて付き従うこ
としか出来ない弟のクリスチャーただ一人。
それ以外ベルメには何も残されてはいなかった。
190
それでもベルメは絶望せず、あちらこちらを彷徨い歩き、何とか
して生きていく術を得ようと必死に頑張った。
彼一人なら生きていくその術も、もう少し楽に見つけられたかも
しれない。けれどもベルメには何をするにも枷になる、たった一人
の肉親がいた。
捨てる事の出来ないその枷のために、ベルメの取れる手段の幅は
狭まり、まさに為す術もないといった状態まで陥った。
働く事も出来ず、けれど金だけは必要で。そうする間に手切れ金
のように手に握らされた札が小銭に換わり、そしてそれが泡と化し
たのを見て、ベルメは絶望しながら涙し、死を決意し始めた。
家を追い出されてから、2年が経っていた。
14でそれほど深く考えていたわけではなかったが、それでも金
の使い方にはそれなりに工夫したつもりだった。
食事を摂るにも何をするにも、重きを置くべきは弟で、いつだっ
てベルメ自身のことは蔑ろに、あるいは無視して金を使っていった。
おかげで金が尽きた今、弟のクリスチャーは家を追い出された頃
と何ら変わりない体躯をしているが、それに比べてベルメは、当時
の面影を一生懸命探しても、欠片も見つけ出すことが出来ないほど
やせ細っていた。
そんな時だ。
ベルメたち兄弟に、救世主とも、悪魔とも言える存在が現れたの
は。
191
空に輝く1等星と同じ名を頂く人間、その名に負けず、絶えず輝
き続けている人間、スピカが現れたのは。
スピカはベルメたち兄弟が流れに流れて辿り着いた町のボスのよ
うな存在だった。
何が気に入ったのかはわからないが、スピカはベルメとクリスチ
ャーを傍らに置くことに決め、そして彼等にありとあらゆるものを
惜しみなく与えた。
暖かい服。雨漏りのしない屋根つきの棲家。腹のふくれる食事。
昔は当たり前でも今ではもうベルメがどれほどに望んでも手に入
らないと思っていたそれら全てを、スピカは何の苦労もなしにベル
メたち兄弟に与えた。
いつかきっと今までかかったお金を返すから。
ベルメはスピカにそう云って、誓約書を書こうとペンを手に取っ
た。
けれどもスピカはそのベルメの訴えを、必要ないの一言であっさ
りと切り捨てた。
金は余るほどある。それになくなったらまた盗ってくればいい。
スピカはそう云ってその綺麗な顔でニコリと笑い、スッとベルメ
の頬をなでる。
192
夜の仕事を生業にしているせいか、スピカの肌は驚くほど白かっ
た。
そしてそのスピカと同じぐらいベルメの肌もまたスピカに負けず
劣らずの色をしていた。
ただしベルメのそれはスピカのように夜の仕事をしているからだ
とかそう云ったわけではなく、ただ単に今までの不摂生が祟って体
調がふるわず、外に出ることが叶わなかったからというだけなのだ
けれども。
ベルメの心配の一番の種の弟クリスチャーは、そんなベルメの心
配をよそに、ベルメたち兄弟がスピカの庇護下に置かれてからこち
ら、同じ年頃の友と遊ぶ機会が増えたため、歳相応の色︱︱つまり
はこんがりとした小麦色だ︱︱に焼け、体調も健康そのものだった。
そもそも季節が夏なのにも関わらず、雪のように白い肌を持つ二
人の方がおかしいといえばおかしいのだ。
ベルメはまだ体調が万全でないから、という理由からスピカに外
に出ることを一切禁止されていた。
弟のクリスチャーだけが自由に外と内とを出入りし、新しいもの
を吸収し成長していった。
ベルメだけがいつまで経っても取り残されたまま、家の中でしか
生きることを許されては居なかった。
外に出たがるベルメをスピカは宥め、ほとんどの時間をともに家
の中で過ごしベルメの気を紛らわせる。
ベルメよりも一つ歳が若いのに、そうは見えない落ち着きでスピ
カはベルメと接し、そしてまたベルメの弟クリスチャーを育てた。
それがベルメが14、クリスチャーが10、スピカが13の時の
193
話だ。
スピカに拾われて2年が経った頃ではもうすっかりクリスチャー
はスピカに懐き、そしてまたベルメもスピカに絶大なる信を置くよ
うになっていた。
相変わらずベルメはスピカの許可なしでは外に出られない身体だ
ったし、スピカはスピカで、いつも飽きることなくベルメの傍らで
時を過ごした。
二人で過ごしている時、ふと会話が途切れると決ってベルメはス
ピカにこう尋ねる。
﹁・・・スピカ。スピカは俺なんかと一緒に居て楽しいか?﹂
その問いは、スピカと暮らすようになってから絶えずベルメが重
ね続けてきていたものだった。
ベルメは不安で不安で仕方がなかった。
いつスピカが自分たち兄弟に興味を失うか分からない。
今だって何故スピカが自分たちを傍に置いているのか分かってい
ないというのに、これから先ずっと彼の傍に居続けられるなどとい
う保証はどこにもない。
スピカが自分たちを捨てるその時期を読み誤ってはいけない。
あの時、みたいに。
捨てられる時がいつかきっとやってくる。
−−−
﹁当たり前だよ。楽しくなかったら一緒になんかいないだろう?﹂
194
この答えもまた、延々と重ねられたものだった。
ベルメの問いにスピカは決ってそう答え、そしていつも戯れのよ
うにベルメの頬を撫でるのだ。
スピカは何かにつけてベルメに触れたがった。
誰に対してもスキンシップ過多なのかと思えば、そうではなくス
ピカがスキンシップをはかるのは主に、ベルメかそれか弟のクリス
チャーの二人だけで、あとの人間には別段そうでもないのだ。
﹁スピカの欲しいモノって、まだ手に入らないのか?﹂
スピカが11のときから続けているという夜の仕事。
何故そんなことをするのかというベルメのその問いに、欲しいモ
ノがあるから、とスピカが答えたのは出会って間もない頃。
スピカは夜の闇を狭間をすり抜けるようにして、ずっとドロボウ
を続けている。
戯れに盗んではいつもどこかでその盗品を換金し、街の身寄りの
ない子供や、貧しい家々に配り歩く。
絶対に貧しい家からは盗まない。盗むのは何かしら疚しいことを
している、どうしようもない貴族の家からばかり。
だから彼は15という若さで、町のボスという立場を維持し続け
ているのだ。
街の皆が彼を支持し、敬い、尊敬している。たとえ彼のしている
ことが正義とは相反するものだとしても、そんなものは飢えの前で
は何の意味も成さないことを、皆は誰よりもよくその身で知ってい
たし、第一正義というそれが、彼等を護ってくれるわけでもないこ
とを、彼等は厭というほど知っていた。
195
それは寧ろ、彼等に仇成すものでしかなかった。
﹁まだかな。でもあと少しで手に入りそうなんだ﹂
ベルメが居る部屋のベッド︱︱大抵ベルメはベッドで一日を過ご
すのだ︱︱にスピカが腰かける。
が手に入ったら、俺たちなんか要らなくなるのか?
背もたれに背を預け、ベルメとスピカがいつものように問いを重
それ
ねあう。
なぜ、俺たちなんかを手元に置く?
いつ捨てる?
おまえの欲しいモノは一体何なんだ?
訊きたいことは山ほどある。
でも訊けない。
訊いてその答えにショックを受けるのが怖い。
それに何より、要らぬことを訊いて、呆れられ捨てられるのが怖
い。
ベルメもそうだし、それに何よりベルメの弟クリスチャーがもう、
スピカなしでは生きられないようになってしまっている。
スピカなしの生活など、どう頑張っても思い描くことすら難しい。
もしかしたらスピカは、実の兄のベルメより、クリスチャーの心
の中で占める割合を大きくしているかもしれない。
クリスチャーにはスピカが必要だ。多分それは兄であるベルメよ
りも、もっと切なるところで必要なのだ。
196
生きるためにも、何をするためにも。思うように家から出ること
も叶わない役立たずの兄よりも、何をさせてもスマートにこなすス
ピカの方をきっと、クリスチャーも必要としているに違いない。
家を追い出された頃はベルメにはクリスチャーしか、クリスチャ
ーにはベルメしか居なかった。
だがしかし、今は違う。
クリスチャーには、スピカというかけがえのない存在が出来た。
無論クリスチャーほどではないが、ベルメだってスピカが必要だ。
けれどスピカは自分たちほど、二人の存在を望んではいない。
それが辛いなんてこと、死んでも云うつもりはないけれど。
久しぶりに外に出られるくらい体調がいい。この分ならスピカも
きっと外に出ることを許してくれるだろう。
ベルメは朝起きて自分の体調がいつもと比べて大分いいことを感
じ、一人小さく笑みを零した。
今年16になったベルメは、14でスピカと出会ってからこちら、
一人で外に出たことがない。
クスリをずっと飲み続けているのだが、その効果は一向に現れる
気配を見せず、ずっとベルメはスピカとともに家からほとんど出な
い生活を送っている。
ベルメが外に出られるのは、ベルメの体調が普通よりも大分よく、
それでいてスピカが外に用のないときのみになっている。
197
それ以外のときにベルメが外に出ることは、他の誰でもないスピ
カが許さない。
一体自分は何の病なのだろう。
体調のふるわないときは、腕に細い管を繋がれ、血を採られ、脈
を計られ、クスリを飲まされる。
1週間のうち、スピカが普通だとみなす日は、半分あったらよい
ほう。
けれどベルメには、自分の体の不調がいまいちわからない。
勿論ベルメ自身、身体的にはだるさや熱っぽさを感じることは確
かだ。
確かだが、そこまで深刻な病だとはどうしても思えない。
けれど肝心の我が身を侵すその病の名を、ベルメは一度だってス
ピカから聞かされたことはない。
不治の病なのだろうか、とベルメは思う。
だから心優しいスピカは自分にそれを黙っていてくれるのだろう
か、と。
もしもこのままずっと自分は治らず、こうして繋いでいるだけで
もお金がかかるようならば、その時はいっそすっぱりと自分のこと
を見捨ててくれるようスピカに頼もうと、ベルメは密かに決意して
いる。
それはベルメがこういったベッドから離れられない生活になって
間もない頃からずっと想い続けてきていることだ。
弟を頼む、なんて言うのは陳腐で使い古された言葉だ。
けれどもスピカにならその台詞を何のためらいもなく云えるよう
198
な気がする。
何しろクリスチャーはベルメの全てであり、そしてスピカもまた
ベルメの全てなのだ。
自分が欠けることは別段何の問題もない。ただ彼等がどちらか一
人でも欠けること。それだけがベルメには耐えられない。
﹁スピカ、今日外出てもいい?﹂
朝ベルメはころりと寝返りをうって、隣りに同じように眠るスピ
カに向かって言葉をかける。
16にもなって同じベッドで眠るのはどうかとベルメは思うが、
それでもスピカがベルメにもしものことがあった時、傍に居られな
いと不安だからというので、おとなしく二人寄り添うようにベッド
をともにしている。
﹁んー、ちょっと待って。熱がなかったら、今日は用もないし出
してあげられるかもね﹂
それに内心ベルメは、こうして声を掛けたとき直ぐ傍でスピカの
優しい声を聞けるのはとても嬉しいと、スピカには恥ずかしくてと
てもいえないが、そうひっそりと思っていたりもする。
熱があるときは一人でいることすら不安に襲われる。ましてや宵
闇迫る夜中に一人ベッドで震えているなど、想像するだに恐ろしい。
それを察してか、スピカはベルメがスピカに拾われてからこちら、
ずっと同じベッドで寝起きをともにしていてくれる。
初めは、そこにクリスチャーの姿もあった。
199
ただ人並みに成長したクリスチャーと、標準よりはいくらか細い
とは言え青年期を抜けようとする二人がともに寝るのでは、あまり
にベッドが狭すぎるということで、1年ほど前からクリスチャーは
ベッドを移り一人で眠るようになっている。
﹁やった!今日は俺自信あるぜ!絶対にないって!﹂
37度以下なら外に出してもらえる。37度以上なら問答無用で
ベッドの人に。それがベルメとクリスチャーが決めた約束事だった。
﹁それじゃぁ、ハイ、これ﹂
ベッド脇に置かれた、慣れ親しんだ体温計を手渡されベルメはそ
れを脇に挟む。
そうしてふとんにもぐったままおとなしく結果が現れるのを待つ。
﹁あー、どきどきする!﹂
実のところもし今日外に出ることが出来るなら、それは2週間ぶ
りの外出ということになる。
2週間もの間、ベルメはずっと家の外から一歩も出ずにただただ
ひたすら家の中ですごし続けたのだ。
﹁ふふっ、それじゃぁ僕は用意してくるから。おとなしくしてる
んだよ﹂
云ってベッドから抜け出し、スピカはまだふとんの中にいるベル
メの方に屈みこむ。
額に一つ、頬に一つ、スピカはベルメに慣れた仕種で軽いキスを
落とし、そして最後に顎をクイと持ち上げ唇を重ねあわせる。
200
いつから始まったかなどもう思い出すことも出来ないその朝の挨
拶は、スピカとベルメだけの、特別な挨拶だ。
スピカとクリスチャーの間にも、クリスチャーとベルメの間にも
ない、本当に特別な挨拶。
スピカが何を思ってそれを行うのか、ベルメには分からなかった。
けれどそれがベルメにはとてもとても大切な長い長い一日を始め
るための必要不可欠なことであるのは確かだった。
そこには深い意味などひとかけらだって存在しない。
そのことはベルメに少しの寂しさと、そしてまた少し安心を与え
た。
﹁久々の外だー!﹂
家のドアに手をかけるのも、そこを開くのも、そして開いたそれ
の向こう側に出るのも、何もかもが久しぶりで、ベルメは楽しくて
楽しくて仕方がない。
弟クリスチャーは毎日こんな生活︱︱望む時に外に出、望む時に
うちに篭る︱︱をしているのかと思うと、ベルメは弟が羨ましくて
羨ましくて仕方がない。
﹁あんまりはしゃぎすぎるとまた熱が上がるよ﹂
興奮してるベルメをスピカは軽くいさめて、そしてともに連れ立
って公園のある方向へと歩き出す。
201
擦れ違う大人たちが時々スピカに軽く頭を下げて通り過ぎていく。
何しろスピカはこの街のヒーローなのだ。英雄を崇めないわけが
ない。
﹁あー!スピカとベルメだー!!﹂
道端で遊んでいた子供たちが二人を見つけたらしい。
その証拠に手にしていた玩具を放り出していっせいに二人目掛け
て走り寄ってくる。
﹁久しぶり!今日は元気?ベルメ!﹂
8、9くらいの子供5人に囲まれてベルメは嬉しそうにくすくす
笑う。
﹁元気元気!俺も一緒に遊んでくれー!﹂
キャーと笑いながら逃げる子供たちを追いかけて、ゆっくりとで
はあるが走るベルメ。
あまり早く走るとまた熱が上がると心配しているのだろう。子供
たちが先ほどの玩具を手に持って、ベルメのほうへ駆け寄ってくる。
5人は道端にしゃがみこんでなにやらチョークで落書きをし始め
る。
何描く?何描く?そう囁きあい、笑いあって遊ぶ彼等は酷く楽し
そうで。
それを一人離れたところで見ていたスピカは、独り薄く笑みを浮
かべた。
202
﹁スピカ﹂
呼ばれた名にスピカが振り返れば、そこにはいつも何かとつるむ
スピカの友が5人ニヤニヤと笑いながら立っている。
﹁あぁ、お前等か﹂
今まで一身にベルメばかりを映していたその視線を少しだけずら
し、スピカは仲間の姿を認め再び薄く笑む。
﹁お散歩か?﹂
クイと友の一人が顎で指し示す先には、子供たちと楽しそうに戯
れるベルメの姿がある。
﹁あぁ。時々こうして外に出してやらないと、ぐずるからな﹂
指された先にいたベルメにまた再び視線を戻したスピカ。
そんなスピカにベルメが気付き、楽しそうに満面の笑みでもって
手を振り回す。
﹁あぁーあ、無邪気に笑っちゃって﹂
なぁんにも知らないで。
そう云って笑うのは、先ほどベルメを指した男の左隣に居た男だ。
﹁当たり前だ﹂
知らせるつもりなど毛頭ない。
203
スピカはそう冷たく言い放ち、そして手を振るベルメに向かって
最上級の微笑みつきで手を振り返す。
﹁お優しいこって﹂
そんなスピカを見た仲間の一人が冷やかし混じりでそう囃し立て
る。
何にも知らないベルメ。
全てを知っていて尚何も云わないスピカ。
何も知らない町の子供。
全てを知り、全てを封印された町の青年。
何も知らないクリスチャー。
何も知らずに殺された哀れな道化師。
﹁一生あのお姫様は知らないまま過ごすのか?﹂
﹁あぁ、﹂
﹁可哀相に﹂
﹁あの様子じゃ、落ちる日も近いみたいだし﹂
﹁まさにオマエの願ったり叶ったりじゃないか﹂
﹁・・・・・・・﹂
﹁お姫さんはずっと知らされないまま、毒入りのクスリを飲まさ
204
れ、ずっとずっと飼われつづけるのか﹂
殺し﹂
﹁自分たちの両親を殺した、切り裂き魔と一緒に﹂
﹁・・・・・・・・﹂
﹁スピカ、オマエはもうやらねぇの?
﹁メリットがない。それに、もう欲しいモノは手に入れた﹂
﹁あーぁこれだから我等がリーダーはやんなっちゃうよな。自分
あの時
だって、今だって、自分の都合だけで決めちまうん
だけだよ、いっつも﹂
﹁
だからさぁー﹂
﹁・・・・・・・・・﹂
ハァと仲間が吐く息が白く翳る。その息の中に昔の記憶がふっと
浮かんで、そしてまたふっと消えた。
スピカが11の頃は何かにつけてあたりは物騒だった。強盗、レ
イプ、殺し。ありとあらゆるものがそこらじゅうの至るところに転
がっていて、好奇心旺盛だったスピカを筆頭とする子供たちは、そ
れらを簡単に手にすることが出来た。
205
例えば、レイプ。
狙うのは主に14、15くらいの女ばかりだった。
それくらいの女なら、まだ成長しきっていないスピカたち子供で
も充分押さえ込むことが出来た。死にたくなるくらい酷い手段で女
を犯し、道にゴミ同然に投げ捨てた。ヤった女がこの先どうなろう
と知ったことではなかった。
全ては好奇心から始まり、その好奇心が満たされればまた新たな
好奇心を求め、別の犯罪に手を染めた。
例えば、強盗。
銃なんてものは裏道に少し入るだけでどこでも手に入った。
店におしいり監視カメラを壊し、定員を殺し金を奪った。
スリルが欲しいというただそれだけのことが、彼等を駆り立てた
理由だった。
ただ強盗なんてのはあまりにつまらなさ過ぎて1、2度やっただ
けで直ぐ飽きて、別のことに興味の対象を移した。
﹃切り裂き魔﹄
ある日スピカが人の体はどれぐらいのパーツに分けられるのだろ
うと、友の一人ダニエルに問うた。
ダニエルは分からないといい、その隣りに居たダニエルとスピカ
の友キリーが、なら試してみればいい、といった。
だから試した。
206
手始めにその辺りにゴロゴロいる中流家庭のオヤジを一人殺した。
そしてその家にあった包丁やのこぎりで、男の身体を刻みあたり
にバラまいた。
そこへ男の妻が帰ってきた。
男の妻はその部屋の惨状に目を回しその場で気絶した。
スピカたちは女をロープで縛り、暴行を加え無理矢理目を覚まさ
せた。
そして今度はその女を生きたまま解体した。
スピカはその行為︱︱人をバラバラにするということ︱︱を特別
好んでいたわけではなかった。
それに既に一人目の男でスピカの探究心︱︱人はどれくらいのパ
ーツにわけられるのか、というもの︱︱は満たされていたし、そし
て別段それ以上のものを求めるつもりもなかった。
ただ、仲間がこの行為を酷く気に入った。だからスピカも仕方な
しにそれに付き合うことに決めた。
初めは5人だけで行っていたゲームだった。
それがいつのまにか街全部の子供を飲み込んでのゲームと化した。
子供たちは何かにつけて飢えていた。
その飢えを満たすのが、他の何でもない狂気だった。
どうせ殺すなら一族全員を殺してやろう。
初めにそう云ったのは他の誰でもないスピカだった。
スピカはある日突然そんなことを云い始めたのだ。
仲間は何の疑問も抱かずただ面白そうというその理由だけでスピ
カのその提案を受け入れた。
そうして、一族郎党を皆殺しにするゲームが始まった。
207
あと数人で子供たちが殺してばらばらにした人間の数が、50に
達しようとしていたそのころだった。
スピカが突然ゲームの中止を告げたのは。
街は騒然とし、スピカにその理由を求めた。だがスピカは決して
その理由を明かさなかった。
子供たちは自分たちの中でいまだに燻る炎を持て余した。
だがスピカの命令は絶対で、彼らはそれに従うほか術を持たなか
った。
それに何より、殺しの計画はスピカとスピカの極近しい友人数名
のみが立てていたものだったため、計画なくしてあれほど騒がれて
いる中殺しを犯すには、リスクが大きすぎた。
その頃には警察も何もかもが動き始めていたし、手を引くには丁
度いい頃合かと思われた。
だからスピカはその辺りを浮浪していた男を一人捕まえ、街の外
れにある特別な館で一つの催眠をかけ、その男を﹃切り裂き魔﹄に
したてあげ、警察に突き出した。
警察はやっとのことで捕らえることが出来た切り裂き魔に狂喜乱
舞した。
208
そうして突然幕が上がった舞台は、それと同じくして突然幕を下
ろしたのだった。
﹁あれは今どの辺りにいる?﹂
切り裂き魔事件がその幕をあげてまだ間もないころの話だ。
スピカはアジトで︱︱と言っても、此処に入れる人間はスピカを
含めた6名という極少ない人間のみであったが︱︱たむろする人間
の輪の中へ、誰とも云わず問いかけた。
﹁ルランタウン﹂
輪の中からはっきりとした声でこの街からそう遠くない街の名が
語られる。
アジトの床辺り一面に散らばる計画書と地図。
そして机に一枚だけ広げられた赤い線が一本だけ、日付とともに
書き入れられた真新しい地図。
床に落ちた地図はゲームの計画書で、机に置かれた地図は、ある
兄弟の足取りを記したものだ。
兄弟には絶えず見張りがつけられ、彼等の行く先々で起こった事
件の細部に至るまでがこのアジトに報告された。
つけられている兄弟は無論そんなことは知らない。
ただひたすらにその動向を見張られているのに、彼等はそのこと
には微塵も気付く様子を見せない。
209
ある日のことだ。
スピカが、どうせ殺すなら一族全員を殺してやろうと言い出した
のは。
街の子供たちはそのスピカの提案に沸きに沸いた。
ただ、彼の極近しい友人たちは、そんなスピカの急な提案に疑問
を抱いた。
何故?
彼らは訊いた。
欲しいモノが出来たから。
問われたスピカはそう簡潔に答えた。
欲しいモノ?
また、彼等が訊いた。
あぁ、どうしても手に入れたい。
スピカは少し夢見心地でそう答えた。
何?金か宝石か?
彼等は困惑を隠しきれない。
この男が何かに深い興味を示すことなど、絶対にないと、この男
の心を揺らすことが出来る存在など、何一つとしてありはしないと。
そう内心硬く信じきっていたため、そんなスピカの言葉が酷く現実
離れして聞こえたのだ。
人間。
210
スピカは薄い笑みを貼り付けてそう答えた。
・・・・・人間?
まさか、と彼等は思った。
この男がまさか人間などに興味を持つとは。
を縛る全ての鎖をまずは断ち切る。
そのためのゲームだ、と男は言う。
あれ
どうしても手に入れたい。
だから
−−−−−
あれ
を残す全ての一族を殺し、路頭に迷
その人間の為に、男は仲間に一族全員を殺そうなどといった提案
を持ちかけたのだ。
スピカの予定では、
わせてから保護し、手にいれるはずだった。
だが事態は思ったよりスピカに有利に働いた。
﹃縁切りさえすれば、親は助かる﹄
どこぞの莫迦がそんなことを突然言い出したのだ。
スピカは一人ほくそえんだ。
これで、手間が省ける、と。
スピカはまた再び仲間に命令した。
211
縁切りした家族は、殺すな
と。
命乞いくらい、好きなだけさせてやれ。殺すべき人間など、吐い
て捨てるほどいる。
次の提案にも、スピカの仲間は何ら異論を唱える者は居なかった。
何をするにも何を成すにも、スピカが重要で、彼等はそれに逆ら
う術を手にしては居なかったからだ。
いつからスピカのその計画がはじまっていたのか。
その計画の始まりに気づいた者は誰一人としていなかった。
それ
それ
はスピカの計画通り、
の両親を殺し、切り裂き魔の恐怖をあたり一面に植え付
だが、スピカの計画は着実に進んでいた。
けた。
そうしてその撒いた種が花開く頃、
路頭に迷うこととなった。
それ
は知る由もない。
無論ことのことを、スピカの仲間︱︱とは言え5人の人間を除く
︱︱と、
スピカという名の悪魔に見初められたのが運の尽きだった。
スピカの側近たちは、地図に記された赤い道を見つめて物思いに
耽る。
212
何の変哲も無い家族が、旅行でこの街に訪れた。
仲睦まじい二親と、わんぱくな子供、そしてその子供を宥める−
−−どこにでも居そうな、平凡な少年。
その少年がスピカの前を走って横切ってゆく。
軽く弾む息。
薄く色づいた唇から漏れでるその吐息が耳に届いたその瞬間、ス
ピカの胸の中を満たしたどろりと滴りおちる何か。
ホシイ。
少年の視線は一直線に、腕白な振る舞いをする幼い子供に向けら
れている。
その視線の先に居る子供が笑って、少年に手を伸ばす。
それを受け止めるために、同じ様に伸ばされた少年の腕。
日に焼けていない、生白い肌。
薄い唇から零れる息。
アレが、ホシイ。
真っ直ぐに子供を見つめる、剛くて優しい瞳。
−−−−−−
どこが気に入ったのかではなく、その少年の全てが欲しくなった。
そしてその一人を手に入れるために、結果的には50
だから手に入れるために、スピカは緻密にして大胆な計画を練り、
−−−−−
213
人近い人間を殺した。
そんな計画が進んでいるとも知らぬ
それ
それ
、正確には
それら
はもう既に酷く衰弱してい
そ
が死ぬ思いをして歩
の行ける道を塞ぎ、そしてようやく
いた道のりは、全てスピカが敷いたレールだった。
それ
を自分の懐へと誘い込むことに成功した。
スピカは序序に
れ
その頃
それら
を今まで誰も入れることのなかった我が家に
て、特に片方はもう今にも死にそうなほどだった。
スピカは
迎えた。
それら
はスピカに懐柔されていった。ゆっくりと呆れるほど
勿論街に衝撃が走った。がしかし、スピカはそれらを黙殺した。
長いときをかけて、スピカは自分の望むモノを手にいれていった。
そうして、今に至る。
﹁かわいそうに。あの姫君はいつまで経っても自由を手に出来な
い﹂
﹁酷い王様が、姫君の躯に毎日せっせと毒を流し込んでいるから﹂
﹁切り裂き魔に見初められたが運のつき﹂
214
﹁弟さえも贄に取られ﹂
﹁そうしてついには心さえも奪われようとしている﹂
うん、﹂
﹁そろそろ帰ろう、ベルメ﹂
﹁︱︱︱︱︱
スピカがしゃがみこんで夢中になって遊んでいるベルメの元へや
ってくる。
そのままベルメをひょいと抱え上げて、腕の中に抱き子供からベ
ルメを遠ざける。
軽い軽いベルメ。
いつまで経ってもその重さは増えることがない。背だってスピカ
に拾われてから此方、3センチと伸びていない。
﹁家に帰ったらクスリ飲まなきゃね﹂
スピカがベルメを抱いたまま、ゆったりとした歩調で路地を歩く。
ベルメを取り上げられた子供たちは、酷く残念そうな表情で立ち
去る二人を見送っている。
本当はもっと遊びたい。それが両者︱︱子供たちとベルメ︱︱の
偽らざる本音だ。
だがスピカがもう帰らなければならないというから、自分はそれ
に従うほか方法がない。
215
スピカが云うから。従わなくてはならない。
スピカが云うから。
それはまるで、王様と従者の関係のようで。−−−
赤いクスリは飲みたくない﹂
従者は王に
逆らう術を持たない。もとより逆らうことなど考えも付かない。
﹁−−−−−
あれはなぜかおかしな味がするから。
そう云ってスピカの腕の中で眉を顰めるベルメに、スピカが、でも
飲まなきゃ治らないでしょう、と、まるで聞き分けのない子供を諭
すような声音で語りかける。
﹁でも・・・・・・﹂
そう云って頑として首を縦に振らないベルメ。
﹁じゃぁ口移しで飲ませてあげる。それなら飲めるでしょう?﹂
噛み砕いて、飲まなくては居られないようにしてから、与えてあ
げる。そうしたらきっと、お前の体はまた再び病を思い出す。
青いクスリにはビタミン剤を。
赤いクスリには、少量の毒を。
本当のところ、スピカはベルメの病気を治す気などさらさらない。
それどころか彼が、ベルメの病を重くし、治らないよう手を加え
ているのだ。
216
全てはベルメを。
あのゲームでたまたま偶然見つけた一人の人間を手に入れるため。
その手のうちから二度と逃がさないための、細工でしかない。
何故ここまで深く惹かれたのか、スピカには分からない。
ただ惹かれ欲したからには、何をしてでも手に入れてみせる。
初めて手に入れたいと思った。
だから何が何でも手に入れる。
スピカがその気になれば、得られないモノなど何一つないに違い
ない。
手に入らなければ、奪ってでも手に入れる。
そのために、わざわざこんな計画を練ったのだ。
217
ベルメただ一人を得るために。
218
こころひとつ [執着攻めX病弱受け]︵後書き︶
サイトに載せているものに、加筆しています。
お読み頂き、ありがとうございました。
219
ティンダロスの猟犬 ︻執着系上官×逃亡した部下︼︵前書き︶
残酷な描写があります。
お嫌いな方は、お戻りください。
220
ティンダロスの猟犬 ︻執着系上官×逃亡した部下︼
次にお前を見つけたときには、もう二度と逃がしはしないよ。
いわく
曰く付き
を
両手首と両足首に嵌め込まれた銀の枷。服は擦り切れてボロボロ
になり、目の下には深い隈が浮いている。
気まぐれだったとは言え、何でこんな見るからに
同類相憐れむ?
助けたのか。
̶̶︱︱
シュールすぎて笑えやしない。
小さな体だった。
でもそれは栄養不足によるものではなく、これから成長していく
であろう、その編成途中にある小ささだった。
肉付きも、スラムの子供と比べればよほどマシだったし、今はぼ
ろ布同然の衣服ではあるが、その布地もまたこの辺では滅多にお目
にかかれない上物だった。
221
夜も更けた深夜、仮住いにしていたこの家に、見るからに脱走し
てきたと言わんばかりのこの子供が飛び込んできたのは、今をさか
のぼること数時間前のことだった。
急な侵入者に思わず抜きそうになった剣。
過去に疚しい傷を持つ俺は、常にそういった急な来訪者の影に怯
えている。
その俺が抜きかけた剣から手を離し、飛び込んできたときの勢い
のまま抱きついてきた子供を抱きとめるために腕を広げたのは、そ
の子供の眼があまりに過去の自分のそれと似ていたからだ。
腕の中にすっぽり納まる小ささのその子供の両手足に嵌め込まれ
た枷には見覚えがあった。
罰則
を食らったときに、
この広い帝国領土の丁度中心部に位置する、帝国軍の士官候補生
を育てるために作られたアカデミーで
独房へ放り込まれると同時に架せられる枷。
アカデミーに籍を置く者たちは、ほとんど全てが心技体のいずれ
かに優れている。
オリジナル
の枷をその両手足首
中でも体術に自信のあるものが多いために、その技を使って独房
から抜け出さぬよう、帝国軍
に嵌め込むのだ。
その忌々しい帝国軍オリジナルの枷は、特殊な鍵でなければ開か
ない仕組みになっている。
枷をかける権限と、その枷を開ける鍵を持つ資格を得ているのは、
軍の上層部に位置する場所にいる一握りの人間だけだ。
鍵を持たない者が無理をして枷を外そうとすれば、枷は即座に爆
222
発する仕掛けになっている。
アカデミーに入れる人間は、帝国領土内でも選ばれた人間のみだ。
無能はアカデミー内に足を踏み入れることすらかなわない。
だからこそアカデミーに在籍する生徒は、そこに存在する自分に
誇りを持っている。
そしてそれ故にアカデミーの生徒たちは、帝国軍に絶対の忠誠を
誓う。
軍の意思に反することを行うことは、すなわちアカデミーからの
退校を意味する。
アカデミーはあくまで軍の直属の機関であり、軍規反する者を飼
うほどお優しくはない。
だからアカデミーでは懲罰を受けるものの数も極端に少ない。
懲罰を受ける生徒のほとんどを、半ば攫われるようにして親元か
ら引き離されアカデミーに放り込まれた生徒か、その能力を見出し
た親によって軍に売られた生徒が占める。
使える
人材が
そういった生徒は軍に反抗的であるが、他のペーパーテストなど
をクリアした平均的なアカデミー生よりはよほど
多い。
なのでアカデミーはそういった生徒らを放校せずに、独房で飼い
ならし軍の意に沿う様に調教していく。
歩兵
を意のままに操り戦場に繰り出す。
そうして軍は、優秀な士官を作り出し、そういった士官らは一般
市民の有志で募った
現在将校といった幹部クラスの位に着く人間のほとんどが、昔何
度も独房に放り込まれた人間だと聞く。
223
アカデミー内で独房に入ること、それは懲罰を受けるのと同時に、
軍に将来を期待された人間であることを証明する一つの手段となっ
ている。
軍は使えない人間を飼うほどお優しくはない。
だから不要な人間や、反抗的な人間、軍に相応しくない人間は、
たとえそれが高官の子息であったとしても、即刻退校を命じる。
退校させられずに、独房に放り込まれ、飼いならされる人間。
それは軍が多少の時間と労力を要しても、その存在を軍にとどめ
ておきたいと思っていることを指す。
それはすなわちその人間が軍に認められているということを示し、
将来は将校や隊長などといった幹部クラスの役職に名を連ねること
を約束されたに等しい。
勢いのまま飛び込み、腕の中に納まって震える子供の手足で擦れ
て煩く鳴る枷に見覚えがあるのは、昔俺がその枷によって始終拘束
されていたからだ。
昔何十回とアカデミーから脱走しようとし、その度に捕らえられ
連れ戻された過去。
独房から俺を連れ出す担当官は、いつも決まってあの男だった。
アドルフ=ルイステン
224
あの頃、俺がまだアカデミーに居た頃は、第一隊隊長だった男。
確かその当時、最年少で第一隊隊長に上り詰めた天才だと噂され
ていた。
一般人の背丈を軽く越す俺よりもはるかに高いそれを持つ男。
それでいて肉付きは痩せ気味の俺と変わらないぐらいか、それよ
りも少しがっしりした程度でしかなく、まるで人形のように整った、
と、よく喩えられる顔、女のようなと表すのではなく、本当に良く
出来た人形のようなと喩えるに相応しい顔を持つ、何もかもが良く
出来た人間、それがアドルフ=ルイステンという男だった。
その男の傍に居たくなくて逃げ出した日のことを、今もまるでつ
いさっき起こった出来事のように、はっきりと鮮明に思い出すこと
全て飲み込まれてしまう気がしたのだ。
が出来る。
︱︱
自分の意思も、自由も、考え方も何もかも全て。
体でさえ自分のものでなくなるような気がした。
そしてそんな風に男によって蝕まれていく自身を俺が止めるでも
なく、むしろその、全てを男に飲み込まれて一つにさせられてしま
うそれを、自分が快感として受け入れていたこと。
それが何よりの恐怖だった。
だから、逃げた。
225
右手の人差し指の爪だけを少し伸ばしてヤスリで尖らせ、その爪
でアドルフの喉元を掻き切った。
アドルフが倒れた床はすぐに血溜まりとなったけれど、そんなこ
となど気にも留めず、俺は倒れたアドルフから枷の鍵がなどがジャ
ラジャラ付いた鍵束を奪って脱走した。
逃げるとき、アドルフが苦しそうに呻いたのを聞いて、一応軽い
応急手当だけはしておいた。
良心がとがめたといえばそうだし、もっと別の理由からだと言え
ばそれもそうだった。
その後奴が死んだのか、それとも今もまだ生きているのか、俺は
知らない。
でも多分死んではいないだろうという、確信に近い予感がある。
男は、アドルフはきっと生きているだろう。
あの男はあんなところで死ぬたまではない。
︱︱
戸棚の中から懐かしい銀の鍵を出して、子供の手足を繋ぐ枷を外
す。
あれから5年も経ったのだ。変えられていると思っていた鍵はま
だあの時のまま使われてるらしい。
容易く開いた鍵を見て、子供が目を瞬かせて俺を見た。
なぜ、とその眼が煩いくらい語っていたけれど、俺はそれに気づ
かないフリをした。
226
子供は自由になった両手を見て、一瞬その表情に深い後悔を滲ま
せた。
自由になれて嬉しいのではないのか?そう聞こうとして、はたと
昔の自分を思い出して思わず口を閉じた。
あの時、あのアドルフから鍵を奪い、枷を外しアカデミーの外へ
と逃げたとき、俺は確かに嬉しかったが、その嬉しさの裏側に少し
の後悔が滲んでいたこともまた確かだった。
この子供にも俺のような過去があるのだろうか。
そう思うと、簡単にその問いかけを口にしてはならないような気
がして、俺は口を閉じて子供を見た。
子供が枷を手にとって力なく笑う。
﹁自由になりたかった。僕だけが好きでいるのに、もう耐えられ
なかった。どんなに頑張っても、居ない人間には勝てないんだ﹂
でも、と子供は涙を零した。
﹁でも、僕は、﹂
子供が息をしゃくりあげたその瞬間、仮住まいのドアが今にも壊
れそうなほど大きな音を立てて開かれた。
227
開いた瞬間、俺と、そして今まで泣いていた子供は、弾かれたよ
うに戦闘に備えて身を構えた。
けれども中に押し入ってきたのは、俺と子供がよく見慣れた帝国
!﹂
軍、それも第一隊の制服に身を包んだ男たちだった。
﹁︱︱︱︱︱︱︱
なぜ、と思って俺は咄嗟に隣に立つ子供を見た。
あの狭い箱から逃げ出して5年。
1年目は追っ手が怖くて夜もまともに眠れなかった。 3年目でさえ、外を歩くときはいつもびくびくして歩いた。
いつ不意に腕を引かれるかと思うと、当ての無い外出など自殺行
為に等しいとさえ思った。
自意識過剰だ。
あの男は俺なんてもう捜してはいないだろう。
5年目にして漸くそう踏ん切りをつけることが出来たというのに。
なのに、なぜ今になって。
俺の隣に立つ子供もまた、俺同様目を見開いて制服姿の男たちを
見ている。
228
頭の中が真っ白で、碌な考えが浮かばない。
けれどもこの場に居てはまずいことだけは分かる。
だから、とりあえず逃げる。
だから、
︱︱
俺はざっと部屋の中と窓の外を見回して、ぐっと足に力を混める。
逃げるなら、窓からだ。
隣に立つ子供には悪いが、俺は今ここで捕まるわけにはいかない。
一緒に逃げてやりたいが、この人数に囲まれた中子供を庇いなが
ら逃げるのは、どう考えたって不可能だ。
それに相手は帝国軍の中でも一番の戦歴を誇るあの一番隊だ。
なぜ一番隊ともあろう精鋭部隊がここにいるのかは分からないが、
今はそんな些細なことに気を散らしている場合ではない。
逃げるなら、今しかない。
ぐっと足にこめた力を外に押し出し、窓に向かって足を踏み出す。
そのまま窓に突っ込もうとして、その進路を邪魔するいくつかの
影に手刀を振るう。
何人か倒し、あと少しで窓というところまできたとき、俺と窓の
229
間にスルリと入り込む新たな影を視界に捕らえる。
その影にもまた、嫌と言うぐらい見覚えがあった。
﹁﹁リチャード︵副官︶﹂﹂
小さく呟いた俺の声にかぶさって、後ろの子供が目を見開いたま
ま、そう口にする。
知り合いか?
子供の声に気をとられて後ろを振り返ってしまったがために出来
た一瞬の隙。
その隙を突かれて、リチャードに背中をとられる。
腕を背中側に捻り上げられ、片足を押さえ込まれて、俺はリチャ
ードの完全な拘束状況下に置かれた。
﹁クソッ!﹂
小さく吐き捨てた俺にリチャードが笑って、
﹂
﹁こんなところでお会い出来るとは思ってもいませんでした。
フェイラン=ルイステン中佐
リチャードの言葉に、後ろの子供と周りの第一隊兵士の何人かが
ざわめいた。
こんなところで会った相手が、よりにもよってこの男とは。
230
昔アカデミーに居た頃から何かと関わりのあった男なだけに、今
ここでこのまま留まると最悪、このいけ好かない男直々にあの男に
引き渡されるという可能性も出てくる。
その可能性だけは絶対に避けたい。
とりあえず男の拘束をとかなければならない。
俺は自由なほうの腕を軽いモーションで振り上げ、リチャードの
わき腹狙って叩きつける。
手ごたえはない。
当たり前だ。振り下ろしたはずの腕は別の男の手によって押さえ
られ封じ込められていた。
俺の腕を押さえ込んだ男を振り仰ぐ。
視界に飛び込んだ顔に、俺が言葉を発する前にリチャードが笑い
を含んだ声でその名を呼んだ。
﹁ユリウス隊長﹂
男はリチャードの言葉を受けて緩く頷き、俺に向かってにこりと
笑いかける。
﹁隊、長?﹂
懐かしい男の登場に、封じたはずの過去が一気に蘇ってくる。
あの頃この男はまだ隊長になれる階級ではなかった。
231
それどころか階級の低い俺の直属の教育係などをしていたくらい
だ。
俺が逃げ出してから、男もまた随分と昇進したらしい。
﹁今は、ね﹂
笑いながらユリウスがそう返事を返す。
そのユリウスの言葉の後に、後ろに控えていた第一隊の3分の1
ほどが膝を付いて頭を下げる。
﹁お久しぶりです、ルイステン中佐﹂
隊列の一番先頭に居て、今は膝を付き頭を下げる男がそう言って、
もう一度深く頭を垂れる。
その男に倣って、男より後ろに控え膝を付いていた者全てが頭を
下げた。
﹁リチャード、どういうつもりだ﹂
今も俺の手足を拘束したままクスクス上品でクソむかつく笑い声
を立てている男に声をかける。
久しぶりだね、フェイラン﹂
けれどもその返事は男が答える前に別の場所から返った。
﹁︱︱︱︱︱
232
返った声は、聞きなれた声だった。
﹁アド、ルフ?﹂
その声に囚われるのが怖くて逃げた。
その声に命じられれば何だってしてしまいそうな自分が恐ろしく
て逃げた。
男しか要らないと、そう思うことでしか己を守れない小さい自分
が嫌で逃げた。
自分から男を引いたら何も残らないのではないか。
そう思った瞬間に体中を駆け巡ったなんとも言えない恐怖に、飲
み込まれるのが怖くて、逃げたはず。
なのに、なぜその手から逃れたはずの男がこんなところに居るの
だ。
﹁何で、ここが、﹂
233
歯の根がうまく噛み合わない。
体の心から冷えていくこの感覚。
俺はこの男か逃げるために全てを捨てたはずなのに、なぜこの体、
心は男の全てをこんなにも記憶しているのだろうか。
これは俺の勝手な想像が作りだしたただの幻で、実際にアドルフ
はこんな辺境くんだりまでわざわざ足を運んだりはしていないのか
もしれない。
そう軽い現実逃避もしたけれど、先ほど俺に頭を下げていた第一
隊の面々全てが立ち上がり、敬礼の仕草を取った事で、その夢はあ
っけなく割れて消えた。
﹁GPSだよ﹂
男、アドルフは事も無さ気にそう言って嗤う。
﹁誰かさんが私の元から逃げ出してくれたおかげで、帝国軍は追
尾システムを再開発せざるを得なってね。
ソレは、鍵は昔使っていたものと同じものを使用しているけれ
ど、中身は昔のただの手足に噛み付いていただけの、可愛らしい玩
因みに、鍵が変わらなかったのは、私の
我侭
が軍
具とは比べ物にならないほど進化しているんだよ、フェイラン﹂
̶̶︱︱
に通ったからだ。
アドルフが小さく笑うのを、ユリウスが聞きとがめて、通ったん
234
じゃなくて無理矢理通したんでしょうが、と呆れ果てたような溜息
を吐く。
はお前だけが
特別
らしい。
全くフェイのことになれば見境をなくすんですから。
大将
ユリウスは困った人だ、と苦笑して俺を見る。
今も昔もルイステン
ユリウスがそう言うのを、俺は信じられない思いで聞く。
アドルフの下から逃げ出して5年も経ったのだ。
その間中この忙しい男が俺を忘れずに居たなんてこと、容易には
信じられない。
それにユリウスはアドルフが特別なのは今も昔も俺だけと言った
けれど、過去をどれだけ振り返ったところで、俺の記憶にアドルフ
に特別に扱われたことのそれは残っていない。
興味が無い
。
アドルフの中では、俺もユリウスも皆が平等だ。
アドルフは誰にも平等に
﹁フェイラン、﹂
俺の意識が自分から逸れたのを感じたのか、アドルフが昔と変わ
らない呼び方で俺を呼ぶ。
親に付けられたフェイという名を、アドルフは自分の籍に俺を移
235
す際、勝手に改名させフェイランと名乗らせた。
どうしてそんなことをしたのか、アドルフに聞いてもまともな答
えは一つも返ってこなかった。
ユリウスはきっとルイステン中将︱︱昔は中将だった。どうやら
また昇級したらしい︱︱は嫉妬なさったんだろうと言って笑ったが、
あの男が嫉妬なんてものを知っているかどうかも疑わしいので、俺
はそんなユリウスの言葉などにはまともに取り合わなかった。
名前は親が子に一番先に与える愛情だと言う。
ルイステン中将は、お前に残る親の愛情の記憶でさえ気に入らな
いのだろうよ。
アドルフを底なしの狭量な男だと勘違いしているらしいユリウス
は、自分の直属の上官にあたるアドルフのことをそんな風に言って
笑っていた。
﹁フェイラン、お前の両手両足には今もまだ私の架した枷がかけ
られているんだよ。
けれどどうやら獰猛な猟犬を飼いならすには、それだけでは足
向こう
に帰ったら、飼い主が一目で分かる首輪と、帝国軍第
りなかったようだ﹂
一級犯用の鎖を特別にそれに繋いでリード代わりにしてあげよう。
﹁そうしてもう二度と私の元から逃げ出す気など起こらぬように、
きつい仕置きと躾を為直さなくてはならないね﹂
236
アドルフがそう言って嗤うのを、俺は青ざめた顔で聞いている。
けれどもその色の無い顔をしている俺の横に居る子供は、俺より
ももっと青白く生気の無い顔をして床に辛うじて立っているという
風体だった。
それに思い返せば高々子供一人の脱走に、わざわざ第一隊の面々
が動員され確保に動いているのだ。
この子供は何か特別な子供なのだろうか。
一隊の奴らが態々動いて確保に回る必要があるほどの何かが、こ
の子供にはあるというのだろうか。
子供を見て浮かんだ疑問。それは俺が色々な考えを廻らせる前に、
あっさりと答えがアドルフの口から紡がれる。
﹁それにしても、私はどうしてこうも飼っていたペットに逃げら
れる運命にあるのだろうねえ﹂
その言葉を聴いた子供の肩が大げさなくらい震えたのが見て取れ
た。
﹁ア、アドルフ様、﹂
子供が青い顔をしてアドルフの名を呼んだ。
けれどもアドルフはそんな子供には少しの眼もくれない。
237
﹁これでも愛情混めて可愛がっていたつもりだったのだけれど、﹂
クリス、お前には失望したよ﹂
そう言って嗤うアドルフに、子供は今にも泣き出しそうな顔を向
ける。
﹁︱︱︱
アドルフの言葉を聴いて、クリスと呼ばれた俺の隣に立つ子供が、
体を大げさなぐらい振るわせる。
クリスがふらつく体でアドルフの下へ近づいていく。
それをアドルフは何の表情も浮かばぬ顔で見る。クリスは小さな
しゃくりをあげる。
それでもアドルフの表情が動かない。泣き出したクリスを、アド
まるで虫けらでも見るような、いつものあの冷たい目
ルフは凍りついた表情で見ている。
̶̶︱︱
で。
クリスがアドルフまであと一歩というところまで来たところで、
今までじっとしていたユリウスが動く。
ユリウスが部下の一人に目配せすると、その命を受けた部下が流
れるような動作でクリスを拘束する。
238
クリスは目を見開いて、すぐ近くに居るアドルフを見る。
﹁アド、ルフ、様・・・?﹂
アドルフはそんなクリスを見て、漸く表情を動かした。
﹁お前はもう、不要だよ、クリストファー・ライゼンブルグ﹂
にこりと嗤いそう言ったアドルフに、クリスは息を呑んだ。
まるでそれはいつも、私が傍に置くのはお前だけだよ、とアドル
フがクリスに囁くときのような綺麗な笑みだった。
温度の無い、飾り物のような笑顔。
﹁なぜですか、アドルフ様!﹂
あんなに大切だと、僕が必要だとおっしゃってくださったじゃな
いですか!
茶番
を見守る第一隊の面々の顔に、同
クリスは泣き声の混じった声で叫んで、アドルフに必死に訴える。
床に膝をつき、一連の
情の色はない。
239
そしてそれは勿論アドルフも同様だ。
子供の叫び声は、彼らにかすりもせずに、ましてや傷つけること
などなく、辺りの空気に溶ける。
後に残ったのはヒクリとしゃくりあげるクリスの泣き声だけだ。
そんなクリスに追い討ちをかけるように、アドルフは嫌に優しげ
な声で囁く。
まるで秘密の話をするように、厳かに、けれど酷く楽しそうに。
本物
が戻った今、イミテーションはも
それは聞かされる相手のことなど微塵も考えていない、刃物のよ
うに鋭い言葉だった。
﹁お前は代わりだよ。
う必要ないからね﹂
イミテーション
を元に造られた、
偽物
そしてそれはアドルフの狙い通り、確実にクリスの胸を刺し貫い
と
誰か
オリジナル
た。
初めに居た
240
﹁ほん、もの・・・﹂
ただただ涙を流して泣くクリスを、慰める者など誰一人として存
在しなかった。
せめて俺がその涙をぬぐってやろうと、そこへ向かって手を伸ば
そうにも、リチャードが未だに拘束を解かないために、腕を持ち上
げることすらままならない。
ねぇ、フェイラン?﹂
﹁そう、本物だよ﹂
﹁︱︱
アドルフが踵を鳴らしてこちらに近づいてくる。
本体
を見た感想は
それを追って、クリスの凍りついた目がこちらへ向く。
﹁お前は彼の代わりだったんだよ。自分の
どうだい?クリス﹂
アドルフの言葉に促されて、クリスのガラスのような瞳が俺を映
す。
241
略奪者
と
瞬きを数度繰り返したそれは、次に音もなく水滴を零し、そして
その後そこへ燃えるような炎を灯した。
その瞬間クリスは俺を、自分の在るべき場所を奪う
して認識したのだ。
﹁これ、が、﹂
クリスの瞳は、今や俺を射殺しそうなほど強い光を放ち、俺の一
挙手一投足を捉えて離さない。
俺はその視線から逃れるように目を伏せ、未だ自由にならない四
肢に苛立ったように舌打ちする。
そんな俺を見て心底楽しそうに嗤ったアドルフは、そのまま傍に
控えるユリウスに目配せする。
フェイラン=ルイステン
中佐﹂
それを受けてユリウスは自分の懐から、ある一枚の書類を取り出
した。
﹁︱︱
クリストファー・ライゼンブルグの確保に貢献
ユリウスがその書類を淡々と読み上げる。
﹁貴殿は脱走兵
し、且つ、五年もの長きに渡る極秘遠方監視員の任を本日終えられ
アドルフ=ルイ
付き護衛官に任命する所存である﹂
極秘、遠方、監視員?﹂
大将
たことに敬意を称し、本日付けでその任を解き、
ステン
﹁−−−
242
聞きなれない台詞に、嫌な予感をひしひしと感じる。
まさかこの男たちは、俺の決死の思いでの逃亡をすべてなかった
ことにする気なのだろうか。
極秘遠方監視員などという大層な大義名分まで用意したのは、ま
さかそのためだとでも?
目を見開いて辺りに視線を投げる俺。
その視線ににこりと笑って頷くユリウスが映りこんだ瞬間、否定
大将付き士官候補生の権利を永久剥奪し
クリストーファー・ライゼンブルグは、本日付け
して欲しかったその問いの答えが、覆ることなくもたらされたこと
を知る。
﹁尚、脱走兵
でアドルフ=ルイステン
た後、軍法会議により処分を決定するものとする﹂
淡々と読み上げられるその内容から、懐かしい言葉を拾い上げて、
アドルフ=ルイステン付き士官候補生
俺の口元は知らず笑みを刻んだ。
懐かしすぎる単語だ。
昔、嫌と言うぐらい、その名前で呼ばれていた自分を思い出す。
とも言える立場だが、裏を返せば
というくだらない意味しか持っていなか
アドルフの後継者
アドルフの稚児
表向きは
それは
った。
当然その意味を知る者たちからは、卑下にされることなどしょっ
ちゅうだった。
243
けれどもその立場を望む者が多かったこともまた、確かな事実だ
った。
しかしアドルフは、多くの者が望むその立場を、まるでペットで
も飼うような気軽さで、何の後ろ盾も持たずただ言われるがままの
指令をこなす俺に与えた。
今となってはもう何がきっかけであったのかさえ忘れてしまった
し、勿論俺の何が気に入られてその地位を与えられたのかさえ知ら
ないまま、俺はアドルフの下から逃げ出した。
その立場に、今はこの少年が就いているというのか。
﹁なぜですか!﹂
少年の悲鳴が周囲の張り詰めた空気を切り裂いた。
けれどもその悲鳴に笑って答えたのは、
﹁なぜって、当たり前だろう。君は任務の最中であるにも関わら
ず、勝手な行動を取った。
それだけで厳罰に値する行為の上、君は処罰が下るのを恐れて
脱走まで図った。
これでもまだ君はルイステン大将閣下の下にいられると思って
いたのか?﹂
少し会わぬ間に隊長にまで上り詰めたらしい、ユリウスその人だ
った。
244
そんな、とクリスが青ざめた唇を噛む。
多分きっとこのまま軍に帰ればクリスには良くて降格処分が、悪
ければ放校処分さえもが下されるかもしれない。
それを分かっているのか、クリスは引き上げようとドアに向かう
一隊の面々とは背を向けたまま、一歩もこの家から出る気配を見せ
ない。先ほどの拘束は、今はもう解かれていた。
仕方が無いなとでも言うかのように、ユリウスが溜息を吐いて部
下に目線を投げる。
っ!!!﹂
それを受けて一隊の一人が動いてもう一度クリスを拘束しにかか
った。
﹁︱︱︱︱
一隊の腕が伸びる。
クリスはその腕を掻い潜るように身を翻した。
一隊の手元に赤い筋が、その後そこから溢れるように赤い水が流
れ落ちる。
床に赤い染みを作るそれは、紛れも無い血だ。
クリスは懐から取り出した小型のナイフを持ち、低い体制で構え
これは軍で一番初めに習う基礎の型だ。
ている。
︱︱
攻撃に瞬時に対応でき、且つすぐに攻撃に転じられる、攻守共に
秀でた型。
245
クリスは体の正面をアドルフに向ける。
そのまま真っ直ぐに向けた視線には、最早先ほどクリスが見せた
最早、濁っているのだ。
あの澄んだ輝きは微塵も無かった。
̶̶︱︱
﹁私に刃物を向ける意味、本当に分かっているのかい?﹂
その視線を真っ直ぐに受けて、それでもアドルフは笑みを崩さな
い。
その笑みに触発されたように、クリスの目がカッと見開かれた。
クリスのナイフを握る手に力が篭ったのが遠目に見ても分かった。
クリスの体が深く沈む。
そのまま一歩踏み出して、アドルフの下へと踏み込む。
まるでその動きが、スローモーションのように見えたと思ったら、
その瞬間、俺の体は拘束していたリチャードの腕をすり抜け、クリ
スとアドルフの間に滑り込んだ。
クリスが息を呑むのが間近に見えた。
その視界の隅に、リチャードの半ば呆気に取られたような顔が映
る。
拘束を解かれたことをよほど驚いたらしい。
246
背後でアドルフが笑う声が聞こえた。
﹁そこを、どいてください﹂
クリスがもう一度ナイフを構える。深く踏み込めば容易く一歩で
到達する距離だ。
ナイフを持つ手のリーチを考えると、一歩と言わず半歩で足りる。
切り込もうと思えば、今すぐにでもそうできるのに、あえてせず
に声をかけるクリス。
その甘さが命取りになるのだと、軍では習わなかったのだろうか。
クリスの背後をじりじりと第一隊の面々が詰め寄る。
それを目で制して、俺はクリスの方へ利き腕を伸ばした。
アカデミーでは習わない、挑発の仕草だ。
そのまま手のひらを仰向けに開き、指先で手招く仕草を取る。
−−−
案の定それに触発されたクリスが、一歩前に飛び出し、ナイフで
腕を切りつけにかかる。
それを避け、揺らいだクリスの体へ拳を叩き込む。狙うは一点の
み。
拳をクリスの右腹に叩き込む。
この場所にあるのは、人体の急所とも言える肝臓だ。
247
肝臓は強打されると、激しい痛みが全身を貫く。
打たれたクリスはそこを抑えて地面に崩れ落ちる。
足が折れたその瞬間を見計らって、クリスの手に握られていたナ
イフを蹴り飛ばして遠ざける。
クリスが顔を上げて俺を見た。
目には涙すら浮かんでいる。
その目が語る、なぜ、と。
その視線から目を逸らす俺。
いくら問われても、答えようがない。
むしろそうした俺自身が、その理由を知りたかった。
﹁どうして助けた?フェイラン﹂
そんな俺の葛藤を知ってか知らずか、背後でアドルフが楽しげに
笑う。
﹁私が死ねば自由になれたというのに、どうして助けたりしたん
だい?﹂
アドルフの手が俺の体に伸びる。
そのままゆっくりと向きを変えさせられ、アドルフと向かい合う
形に体を持っていかれる。
248
後ろで地面に崩れ落ちたクリスが、一隊の面々に取り押さえられ、
また新たな枷をかけられていた。
﹁答えられない?﹂
アドルフの細い指が俺の顎を捉える。
ゆっくりと近づいてくるアドルフの整いすぎた顔が、今から何を
しようとしているかなど、考えなくとも分かることだった。
赤い舌がその唇から覗き、それが俺の唇の上を這い回る。
俺はゆっくりとまぶたを閉じる。
閉ざされた視界は他の感覚を鋭くさせ、その結果アドルフの舌の
感触をより鮮明に伝える。
あそこでアドルフとクリスの間に体を投げた瞬間から、もっと言
えば、アドルフに背を向け奴を庇った瞬間から、俺の運命は決まっ
たも同然だったのだろう。
なぜ、と問われても答えられないくせに、体だけは動くのだ。
それはもう本能にも近い、反射付けられた行動だった。
5年のブランクなど、微塵感じなかった。
249
この男、アドルフを守ることも、そしてその男からこうしてキス
を受けることも、何一つ懐かしいとは思わないのだ。
むしろ当たり前としか思わない自分に、反吐が出そうだった。
帰ろうか、とアドルフが笑う。
軽やかに踏み出される一歩は、後ろを俺が付いて来ると信じて疑
わないように見える。
そしてそれは決して間違ってなどおらず、俺は昔のようにアドル
フの背後に付き従い、借家を後にする。
昔独房に放り込まれた後も、こうしてアドルフは俺を迎えにやっ
てきた。
幾度となくその部屋に入った俺を、アドルフはなぜか自分自ら迎
えにやってきて、自室へと連れ帰った。
そこに深い意味などないと思っていた。
しかしそれによって救われていたのも多分本当なのだ。
全てを奪われる前に逃げ出さなければと思っていた。
けれど逃げ出して5年、その年月の間、アドルフを思い出さぬ日
は一日たりともなかった。
250
それこそがもう、既に俺がアドルフに全てを奪われていたという
何よりの証拠ではないのか。
俺の背後に回ったリチャードが何も言わずに軍服の上着を差し出
す。
それに視線で礼を言って受け取り、袖を通す。アドルフが立ち止
まってその軍服の襟元を正す。
﹁外の世界は充分楽しんだだろう?フェイラン。
これから暫くは、この世界ともお別れになるだろうから、よく
目に焼き付けておくといい﹂
軍に帰ったら、外に一歩も出さず、私の部屋に監禁してあげよう。
正面で笑ってそう言うアドルフに、俺は何も言わず目を伏せた。
否、何も言えるはずが無かった。
251
ティンダロスの猟犬 ︻執着系上官×逃亡した部下︼︵後書き︶
お読み頂き、ありがとうございました。
252
MERRY BAD END [優等生の兄X平凡な弟]︵前書
き︶
※メリーバッドエンドです。
※暴力的な表現、レイプ表現、いじめ表現があります。
上記の内容がお嫌いな方は、ご注意ください。
253
MERRY BAD END [優等生の兄X平凡な弟]
おれには兄貴が居る。
出来が良く、見目麗しい、二つ歳の離れた兄貴が。
兄貴はとにかく俺の世話を焼きたがった。
寮のある高校に入ったくせに、週末になれば必ず帰宅し、俺を構
う。
生徒会の役員だというのに、家に帰るために徹夜で仕事をこなし
ているのだと、俺の耳元で囁く兄貴に、そこまで無理しなくてもい
いと返した俺は、その時はまだ正常だった。
時は過ぎ、俺も兄貴と同じ高校に入学した。
兄貴と違い、出来も見た目も悪い俺。
兄貴と離れて暮らした二年の間に、耳にタコができるほど兄貴と
比べられて、高校に入る頃には兄貴という存在自体に、心底うんざ
りしていた。
だから、高校入学から少し経った頃、俺は兄貴を切り捨てた。
254
これ以上兄貴と比べられ続けることに我慢できなかったからだ。
ちっともデカくならない俺を置き去りにして、どんどんデカくな
る兄貴。
ベッドに腰掛ける兄貴の、足の間に抱き込まれて、一週間の出来
事を月曜から順に逐一報告させられるのにも飽き飽きしていたし、
耳や項を噛まれたり、肌を撫でられるのも、暑苦しくて鬱陶しかっ
た。
﹁校内ではもう俺に構うな﹂
兄貴に向かって吐き捨てる俺に、そんなこと言っていいの?と嗤
う兄貴。
その笑い顔が心底ムカついて、返事もせずに兄貴に背を向けた俺。
その俺の背中を兄貴の声が追いかけてくる。
﹁後悔するよ﹂
兄貴と決別してから、俺の靴がしょっちゅう消えるようになった。
机の中に虫の死骸や、生ゴミもぶち込まれるようになり、寮のド
アはひっきりなしにノックされて、その煩さに徐々に不眠になった。
すれ違う見知らぬ生徒に睨まれたり、足を引っかけられたり、階
段から突き落とされそうになったりした。
友達だと思っていた奴らも、気がつけば俺なんか居ない人間のよ
255
うに振る舞うようになって、授業中に教師から一度も指されず空気
のように扱われるようになった。
まるで俺という存在が消えてしまったかのように振る舞う、友達
だった人間と、
俺を敵のように執拗に追いかけ、追いつめる、見知らぬ人間たち。
学内に居ても、寮内に居ても、どこに居ても気が休まる時が無い。
息苦しくて、泣きそうになる日々。
誰かに相談したいけれど、そんな相手は一人も居ない。
そしてついには、
﹁や、やめろ、やめろやめろ、止めてくれ、たのむ、たのむから﹂
名も知らぬ生徒たちに、手足を押さえつけられて、制服を破り捨
てられ、埃にまみれた床に押し倒され、
﹁うるせえな、黙れよ、このクズ﹂
殴られ、噛まれ、引っ掻かれ、無理矢理口に奴らの性器を突っ込
まれ、
256
﹁う、うぐっ、うえ、あ、や、やめ﹂
ダッチワイフのように、娼婦のように、犬のように、扱われ、
﹁お前なんか、死ねばいいのに﹂
顔に、身体に、汚い液体をぶっかけられて、
﹁何で生きてるの?﹂
まるでゴミのように、丸めてぽいと捨てられた。
ぐえ、ぐえ。
胃から、酸っぱい液体が競り上がってくる。
それが喉の奥に張り付いた、粘りのある液体を押し上げて、口か
ら零れ落ちる。
汚い床に這いつくばって、涙と精子でどろどろの口から、止めど
なく胃液を吐きまくる俺。
何でこんなことになったのか、全然分からなさすぎて、死にたく
なる。
物がなくなるのも、部屋に奇襲をかけられるのも、友達だった奴
らに無視されるのにも、何とか耐えられた。
だけど、こんな風に扱われるのだけは、耐えられないし、今日は
257
まだやられなかったが、次は突っ込まれるかもしれないと思うと、
それだけでまた胃からゲロが競り上がってくる。
床の木目に、俺の吐瀉物が散る。
涙が止めどなく溢れて、それもそこに混ざって消える。
おれ、なんで、こんなことに。
俯いたまま、べそべそ、ぐえぐえやっている俺。
その俺の視界に、上履きのスリッパが映り込む。
また、だれか、きた。
また、ひどいこと、される。
また、ひどいこと、いわれる。
咄嗟に身体を丸めて、小さくなる俺。
恐怖のせいでか、はっはっと漏れる息は、まるで犬みたいで、死
にたくなる。
﹁どうしたの﹂
その犬みたいな俺の頭を、誰かが撫でる。
いや、誰か、なんかじゃない。
この聞き覚えのある声は、
﹁あに、き﹂
バッと顔を上げる俺の目の前に飛び込んできた、懐かしい兄貴の
258
顔。
涙とゲロでぐちゃぐちゃの俺の顔とは対照的に、兄貴の顔は微か
に眉が寄っているぐらいで、いつも通り美しく整ったままだ。
﹁なにか、酷い事されたの?﹂
兄貴の指が音も無く伸びて、俺の唇の端を拭う。
﹁可哀想に。怖かったね、﹂
左手で、俺の頭を撫で、右手で俺の唇を、目元を拭う兄貴。
あんなに酷いことを言った俺なのに。
あんなに、自分勝手に、兄貴を切り捨てた俺なのに。
なのに兄貴は、
﹁うあああああああああああ﹂
俺は兄貴の足下に縋り付いて、大声で泣き喚く。
ごめんなさい、ごめんなさい、おれがわるかったです、ごめんな
さいあにき、
兄貴の脛に額をこすりつけて、うわごとのように繰り返し、縋り
付いた手を離さない俺。
そんな俺の身体に手を這わせ、膝裏に手を差し込むと、そのまま
259
抱き上げてくれる兄貴。
疲れただろうから、すこし休んでおいで。
後は僕に全部任せて。悪いようにはしないから。
ゲロまみれの俺を気にした素振りも無く抱き上げて、胸元へ頭を
押し付けさせる兄貴。
少し前まではずっと傍にあったその声に、俺は安心して目を閉じ
る。
兄貴が居てくれればもう大丈夫。
兄貴の傍に居ればもう、何も怖くない。
兄貴が全部やってくれる。
﹁だから言ったろ。後悔するって﹂
うん、本当だね、兄貴。
本当に、俺が悪かったです。
ごめんなさい、兄貴。
260
﹁ーーー
やっと手に入れた、﹂
261
MERRY BAD END [優等生の兄X平凡な弟]︵後書
き︶
お読み頂き、ありがとうございます。
262
箱庭の中に楽園︻美貌のヤクザ×双子の片割れ︼︵前書き︶
※暴力表現があります。
苦手な方は、お戻りください。
263
箱庭の中に楽園︻美貌のヤクザ×双子の片割れ︼
その選択が、俺の人生のまさしく岐路だったと言えよう。
お前達に選ばせてやる、と肥えた男は言った。
﹁ペットと愛人、好きな方を選べ﹂
男の言葉が黒塗りの床にべしゃりと落ちる。ひっひっひと耳障り
な声で笑う男の歯は、黄ばんだ上に所々が溶けたように欠けている。
男の言葉に、え?と小さな声で戸惑った様に聞き返した俺の片割
れ。
片割れの目には真珠のような涙が溜まり、瞬きするたびそれが目
尻から次々と零れ落ちて頬を伝う。
﹁俺の愛人になるか、犬になるか、お前達に選ばせてやるって言
ってるんだ﹂
男は床の上でカタカタと震える片割れに向かって、にたりと笑う。
264
﹁借金のカタに売られたお前達には、過ぎた扱いだろ﹂
もっと泣いて喜べよ。
男の手が俺の前髪を掴んで、そのまま体ごと床の上を引きずり回
した後、まるでゴミを捨てるみたいに放り投げる。
掴まれた前髪が、引きずられた体が、角張ったテーブルにぶつけ
た背中がひどく痛むけれど、泣くほどではないなと思う俺の目から
は、片割れのような真珠は生まれず、それがまた気に入らないとば
かりに男は俺の背中を踏みつけて、クソ忌々しいな、と吐き付ける
ように零す。
ヒクヒク泣いている片割れは、俺の惨状を横目でチラリと見たが、
助けるつもりなど微塵も無い素振りで哀れっぽく振る舞い、俺と同
じ災いが自分の身に降り掛かるのを必死で避けようと小芝居を打っ
ている。
広くもないが、かといって狭いわけでもない部屋にあるのは、黒
黒いスーツに
塗りのテーブルとソファ、そして肥えた男と俺と俺の片割れ、更に
は壁に凭れて此方を興味無さげに見つめる−−̶̶
身を包んだ、ぞっとするぐらい美しい男という4人の人間。
目の前に立つ肥えた男は、俺たち双子を生んだくそ女が金を借り
た相手で、俺たちは女がその借りた金を返す目処が立たない為に、
男へ売られたいわゆる借金のカタというやつだった。
見目の良い片割れと、その片割れとは似ても似つかぬ凡庸な容姿
をした俺。
片親で育てるには食費も学費も嵩む金食い虫の男の双子。そんな
俺たち二人を水商売をして食わせていた女は、母というよりは雌だ
った。奴は男と見れば尻尾を振って纏わり付き、家に連れ込んでは
265
腰を振り、そして最後には散々金も体も貪られて捨てられる、どう
しようもない女だった。
頭と尻は軽いが、それでも俺たちを一応ながらにも育てていく気
彼氏
だという優男。
はあるらしかった女。その女をいとも簡単に手玉に取り、水商売よ
り更に濁ったヘドロの泡へと沈めた、女の
優男は我が物顔で俺らの家に入り浸り、女に金をせびっては俺に
タバコの火を押し付けてニヤニヤ笑う。
お前らはホントどうしようもねえな。
優男は笑いながら俺たちに向かって、そう吐き捨てる。
タバコの火が背中の皮膚を焼いて、辺りに何とも言えない匂いが
立ちこめる。その匂いに気付かぬ振りをするずる賢い片割れと、本
当に何も気付かない馬鹿でどうしようもない女。
水商売からソープへと仕事場を変えた女。家に入り浸る女の彼氏
である優男。優男から少しでも離れようと深夜まで家に帰り付かぬ
俺と片割れ。
何も変わらぬ膿んだような日々は、永遠に続くかと思われた。な
のにそれがまさかあんなに簡単に崩れさるとは、思ってもみなかっ
た。
時計の短針が頂点に差し掛かる時間に家に帰り着いた俺。いつも
通り音を立てないように開いたドアの向こう側で待ち構えていたの
は、黒光りする靴を履いた物々しい男達だった。
いつもは我が物顔でリビングのソファに横たわる優男が、顔の原
型が分からないぐらい殴られ、血溜まりに横たわっている。そして
いつもは自分の部屋に閉じこもって勉強ばかりしている片割れが、
部屋から引きずり出されたのか、リビングの隅で小さくなって震え
ている。
狭いリビングには黒服の男が5人、靴も脱がずに立ちはだかって
266
いる。
今日は風呂屋も休みなので自宅に居るはずの女がおらず、居るは
ずの無い見知らぬ男達が我が物顔で居座る光景は、どこか現実味に
欠けていて俺を戸惑わせる。
﹁お前が出来損ないの方か﹂
ドアに手をかけたまま立ちすくむ俺に向かって、肥えた男が部屋
の中央でニヤニヤと黄色い歯をむき出しにして笑う。
男がさっと視線を走らせると、部屋の隅に居たらしい黒服の男が
俺の首を掴んで、有無を言わせず床に引きずり倒す。倒された床の
目と鼻の先に、血溜まりに浸かる優男の姿がある。
﹁この男が作った借金の連帯保証人が誰か分かるか?﹂
肥えた男が、血溜まりに沈む優男に唾を吐きかけながら、美しい
折り目で三つ折りにされた白い紙を俺の目の前にちらつかせる。
開かれた白い紙の内側には、見慣れた字でこの場には居ない女の
名前が記入されている。
尻と頭の軽いどうしようもない女。母というよりかは雌と呼ぶに
相応しい、男に縋り付いて生きる女。その女の名前の記入された白
い、白い用紙。皆まで言われずとも分かる、そこに記されたその名
前こそが、目の前で笑う肥えた男の問う、連帯保証人の名前だとい
うことが。
﹁あのくそ女﹂
俺の喉から漏れる低い呪詛を溶かしたような声に、リビングの壁
にもたれて興味無さそうな顔をして事の成り行きを見守っていた男
が視線を上げる。
肥えた男を除いた残りの4人のうち、暴力ばかりを食って生きて
いると言わんばかりの屈強な体躯を持つ男たち3人とは、一線を画
した容姿をした黒ずくめの男。
滑らかな乳白色の肌と、墨を流し込んだような深い黒をした髪と
瞳を持つその男は、一度見れば忘れられぬほど美しい顔立ちをして
いる。その男のさも退屈だと言わんばかりの瞳が、僅かに興味を持
267
ったように瞬く。
﹁出来損ないでも、現状把握ぐらいはまともにできるようだな﹂
此処には居ない女と、その女の名前が書かれた用紙と連帯保証人
という言葉。血溜まりに沈められた男と、その男の情人だった女。
小学生でも分かるクソみたいな問いの答えは、
﹁じゃあ俺が言いたい事も分かるよな?クソみたいに逃げたクソ
女のツケはお前らが払うんだよ﹂
やはりこれ以上無いぐらいクソッタレたものだった。
分かったか?クソガキ共。
俺に向かって肥えた男が、忌々しげにそう吐き捨てる。その男の
向こう側で、ぞっとするほど美しい男が、俺を真っ直ぐに見つめて
ほんの僅かに唇の端を持ち上げるのが見えた。
今後の話をするために、場所を変えるぞ。
俺たち双子に向かってそう吐き捨てた肥えた男は、そのまま部屋
の隅に控えていた男達に視線を送る。それを受けた男達によって、
俺と片割れはボックスカーにぶち込まれて、この黒塗りの部屋まで
引っ立てられた。血溜まりに沈んでいた優男は、俺たちと同じ車に
は乗せられず、別の車へ引きずり込まれていった。車のドアが閉ま
るギリギリに見えた、優男の絶望で塗りつぶされた瞳。
董が立ちすぎてるから、バラしても大した金にはならねえな。
優男を飲み込んだ車のドアが閉まった後、肥えた男は詰まらなそ
うな声を辺りに響かせる。
詰まらなさそうな、どうでもよさそうな、そんな響きでもって男
の口から漏れ出たその言葉の孕む、残酷な意味に気付いた片割れが、
移動中から今に至るまでずっと、大げさなぐらいガタガタと体を震
わせている。
268
嫌だ、死にたく無い。ママ、どうして。震えながら、片割れが小
さな声で呟いたその言葉に、別の意味で体を震わせる俺。
これほどまでにあからさまに裏切られて、捨てられたあの女に、
どうしたもこうしたもないだろう。俺の様に憎しみを覚えるならま
ママ
などではなく、ただの
女
でしかない
だしも、裏切られたことに涙をこぼすなんて、愚かしいにも程があ
る。あのクソ女は
ことを、この片割れは未だに理解していなかったようだ。
クソ馬鹿馬鹿しいし、クソ忌々しい。
時折思い出したように女が与える気まぐれな愛情に縋る、愚かな
片割れ。ママからのプレゼントだよ、と渡される物を選ぶのは、い
つだって片割れの方だった。18年間生きて来た中で、片手で足り
彼氏
と出かけた旅先での土産に、水商売の
るくらいの回数だけ贈られた、誕生日プレゼントにクリスマスプレ
ゼント、女がヤツの
客から貰った高級菓子。はい、どうぞ。そう言って女が手渡し、選
択させるのはいつだって片割れで、俺はその後のおこぼれに預かる
だけで、女から直接何かを与えられるということはなかった。
はらから
しかしそれもそうだろう。俺と片割れは、同じ女から同時に膿ま
れた同胞だと言うにも拘らず、その出来には天と地ほどの差がある
のだから、女がそう振る舞うのも当然のことだと言える。
お前が出来損ないの方か。
先ほど肥えた男が言った言葉が、俺たち二人の関係を端的に表し
ている。
片割れが優秀な方、そして俺が出来損ないの方。頭の出来も、容
姿も何もかもが出来損ないなのが俺。だから優秀な片割れには気ま
ぐれには与えられていた女の愛情とやらも、俺には欠片も与えられ
たことが無いのは当たり前のことだった。
あの優男より若い俺たちは、バラバラになったら優男より少しは
高く売れるのだろうか。
269
震える片割れと、その片割れの横でそんな詮無い事を考えていた
俺。
押し込まれるように連れてこられた、黒で塗り潰されたこの部屋
に居るのは、俺たち双子と、肥えた男、そしてぞっとするほど美し
い男の4人だけだ。
ガタイの良い男達は部屋には入らず、けれどドアの外側で身じろ
ぎもせずに待っている。
黒い床の上に踞る俺たちの上から下まで、舐めるような視線を往
復させた肥えた男。その男が零した言葉。それこそが、俺の運命を
決める最後の選択肢だった。
﹁お前達に、選ばせてやる﹂
ペットと愛人、好きな方を選べ。
男の言葉に、え?と小さな声で戸惑った様に聞き返した俺の片割
れ。片割れの目には真珠のような涙が溜まり、瞬きするたびそれが
目尻から次々と零れ落ちて頬を伝う。
﹁俺の愛人になるか、犬になるか、お前達に選ばせてやるって言
ってるんだ﹂
男は床の上で未だに震え続ける片割れに向かって、にたりと笑う。
﹁借金のカタに売られたお前達には、過ぎた扱いだろ﹂
もっと泣いて喜べよ。
男の手が俺の前髪を掴んで、そのまま体ごと床の上を引きずり回
した後、まるでゴミを捨てるみたいに放り投げる。
掴まれた前髪が、引きずられた体が、角張ったテーブルにぶつけ
た背中がひどく痛むけれど、泣くほどではないなと思う俺の目から
は、片割れのような真珠は生まれず、それがまた気に入らないとば
かりに男は俺の背中を踏みつけて、クソ忌々しいな、と吐き付ける
ように零す。
270
ヒクヒク泣いている片割れは、俺の惨状を横目でチラリと見たが、
助けるつもりなど微塵も無い素振りで哀れっぽく振る舞い、俺と同
じ災いが自分の身に降り掛かるのを必死で避けようと小芝居を打っ
ている。
広くもないが、かといって狭いわけでもない部屋にあるのは、黒
黒いスーツに
塗りのテーブルとソファ、そして肥えた男と俺と俺の片割れ、更に
は壁に凭れて此方を興味無さげに見つめる−−̶̶
身を包んだ、ぞっとするぐらい美しい男という4人の人間。
この血なまぐさい場に相応しからぬあの美しい男は一体誰なのだ
ろうか。
愛人
とやらが
男の足を背中に感じながら、視線の先にいる男の事を考える。
造形の美しさから言えば、この肥え太った男の
妥当だろう。だがしかし、男の此方を見る黒々とした瞳の奥に見え
隠れする深い闇は、愛人というよりも、死神といった方がより相応
しいとすら思えるほど、昏く澱みきっている。
男の正体が一体何者なのか気にはかかる。けれどそれもどうせ直
に無くなる命ならば、そんな事気にした所でどうにもならないだろ
う。
愛人であれ死神であれ、俺にとって関係のない人間だということ
には変わらない。
美しい男をチラチラと気にしながらも、片割れは与えられた選択
肢のうち、どちらがマシか必死で考えているようだ。無意識に唇を
舐める仕草をする時の片割れの頭の中にあるのは、いつだって自分
の利だけで、他の事など何一つとして無い。
人ひとりをバラすのに、大した金にならないとのたまう男がちら
271
つかせる選択肢だ。どちらを選んでも待っているのは地獄だという
ことに、この頭は良いが自分勝手な片割れはまだ気がつかないらし
い。
あい、とまで口にして、いや、やっぱり、と訂正する片割れ。や
っぱり、ペッ、でも、いや、そっちじゃなくて。小さな声でぼそぼ
そ呟く片割れに、肥えた男は俺の背から足を外すと、ああ?と低い
声を発して片割れの元へ詰め寄っていく。
男の声に、ひっと息を呑む片割れ。ガタガタ震える片割れを上か
ら見下ろすように見る肥えた男。その男の視線が、片割れの上から
下までをもう一度舐めるように這ってゆく。
片割れが必死になって考えているその傍ら、床に伏せたまま何の
反応も示さない俺を、壁にもたれた美しい男がじっと見つめている。
男の視線には、まるで底なしの闇のような昏い靄が纏わり付いて
いる。人を搦め捕って、堕落させるような、そんな、ともすれば色
香のような靄を纏う男の視線。それに呑まれそうになった俺は、男
から視線を外して、片割れの方へと戻す。
﹁愛人が、いい、です﹂
今にも消えそうなほど小さな声で、肥えた男に答えを返す片割れ。
その言葉に肥えた男と、そして何故か俺の方へと近づいて来た美し
い男の両方が、唇を吊り上げて笑う。
カツカツと音を立てて床を弾く男の革靴が、倒れたままの俺の目
の前でぴたりと止まる。
﹁ねえ、君は?﹂
止まった革靴の歌声の代わりに聞こえたのは、ぞっとするほど美
しい男のものであろう深みのある声だ。
﹁は?﹂
男はほんの僅かに膝を曲げると、そのまま手を伸ばして俺の髪を、
272
先ほど肥えた男が俺のそれを掴んだときより更に強い力で掴んで、
引きずり上げる。
ぐっ。俺の息を呑む間抜けな音が、静まり返ったフロアに落ちる。
そんな俺になど構う素振りも見せずに、男は筋肉など無いように見
える肢体からは想像も付かないほど強い力で、俺を掴み上げて無理
矢理顔を上げさせる。
﹁ねえ、君は?﹂
片手で俺を掴み上げて、視線を再び無理矢理合わせる男は、唇を
吊り上げて、
君はどちらがいいですか?
俺を掴み上げているとは思えないほど平坦な声で、俺に向かって
問いかける。
俺たちのやり取りを、肥えた男が何故だか神妙な顔をして見つめ、
そしてその更に奥では俺の片割れが、固唾をのんで見守っている。
目の前の美しい男、そしてその奥の肥えた男と俺の片割れの3人の
視線に晒されながら口を開く俺。
そんな俺が返した答えを受けて、目の前の男が満足げに頷き、嗤
う。
﹁俺に選択肢なんかないだろ﹂
そうですね。
俺の答えに、男が頷きながら場に似つかわしく無い穏やかな声で、
では決まりましたね、と小さく返す。
あちらの彼がこの男の愛人。
美しい男は俺の片割れを見ながら、その隣に立つ肥えた男を、こ
の男、と指し示す。
指された男は、片割れを見ながらにやりと唇の端を歪めて笑い、
その笑みを見て片割れは顔色を青ざめさせる。
273
絶望を溶かしたような片割れの表情。その表情に欠片も興味を示
僕のペットです﹂
した素振りの無い美しい男は、そのまま、
﹁そして君が、−−−−−
片手で俺を掴み上げたまま、可愛がってあげますね、そう言って
うっそりとした笑みを零す。
えっ、
部屋の隅で息をひそめて事の成り行きを見守っていた片割れが、
男の決定に小さく声を漏らす。思わず漏れてしまったかのような、
小さな小さな声。それに眉を顰める肥えた男と、欠片も表情を変え
る事の無い美しい男。
男の俺の髪を掴む手とは逆の手が、俺の首回りを意味ありげに撫
でる。何かを計るような仕草に、皮膚がぞわりと粟立つ。
﹁ぼ、僕、やっぱりペットが、﹂
男の手の感覚から逃れたくて、首をフイと横にして顔を背ける俺。
その俺の行動にあからさまに顔を青ざめさせる肥えた男と、ほんの
僅かにだが口元を吊り上げる美しい男。男は自分の手から逃れよう
とした俺を、嗤いながら再び掴み上げて、無理矢理自分と視線を交
わらせる。
俺たちのやり取りを顔を青ざめさせたまま、食い入る様にして見
つめる肥えた男。そして俺を掴み上げる男に懇願するように口を開
く俺の片割れ。
肥えた男の愛人と、美しい男のペット。そのどちらかを選ばなけ
ればならないのならば、美しい男にかしずく方がまだマシだとでも
思ったのか、片割れは美しい男の足下へ這う様にして近づいてくる。
その片割れの行動を、何故か肥えた男が顔色を紙の様に白くして凝
視している。ごくり、と誰かの喉が鳴る音が聞こえかと思ったら、
その音を掻き消すほど大きな衝突音が部屋に響く。そしてそれに続
いて聞こえる、ざり、だか、ごり、だか、そんな何かが磨り潰れる
ような音。
274
音の出所を視線で辿る俺。未だ美しい男によって髪を掴み上げら
れているために、視線しか自由にならないのが酷くもどかしい。
辿った視線の先から、うう、と呻くような声が聞こえる。呻き声
の主は、他でもない俺の片割れで、その片割れの頭に曇り一つない
黒の革靴を乗せて、思う様力を込めていたのは、俺を何でもない顔
で掴み上げている目の前の、この男だ。
右手で俺掴み上げ、右足で俺の片割れを踏みつける美しい男。
男の眉が微かに顰められ、視線が部屋の中央で立ち尽くす肥えた
さかき
男の元へ向けられる。視線を受けた肥えた男は、ビクリと震えて顔
を更に白くする。
﹁ペットの躾がなっていませんね、榊﹂
抑揚のない静かな声音で告げられた言葉に、榊と呼ばれた肥えた
男は、申し訳ございません、と体を震わせて腰を90度に折り曲げ
頭を下げる。
なん、で。
男の足下でまだ懲りていないらしい−−−もしくは、未だにこの
現状を正確に把握していないらしい片割れが、呻きながらも自分を
踏みつける美しい男の足に縋り付き、
﹁僕は貴方の﹂
ペットになりたいんです。
そう哀れっぽく口を開く。その片割れの得意とする哀れさを滲ま
せた表情と声。かわいげが無いと扱き下ろされる俺とは違い、世渡
りの上手い片割れがよく使うその常套手段は、いつだって周囲の者
の心に付け込んで、時に結論を、あるいは過程を、自分の良い様に
捩じ曲げて来た。
見目も頭も良い片割れ。今までは片割れが望めば大抵の事は、そ
の通りになってきた。だから今回もいつも通り上手く行くだろう。
周囲に甘やかされてきた片割れが、今回のケースもそう考えるのも
無理からぬことだった。
275
だが、それがいかに愚かな考えなのか、未だに理解していない片
割れに降り注いだ言葉は、片割れの体を竦ませ、肥えた男を震わせ、
俺の背筋に冷たい汗を流させる。
﹁家畜の分際が、誰に向かって口をきいている﹂
氷の様に冷たい声が、黒塗りの床に落ちて割れ広がる。ぞっとす
るようなその声音に、片割れがひぃ、と小さく悲鳴をあげる。
﹁榊﹂
男が肥えた男を呼び、この駄犬にきちんと躾を施しなさい、片割
れの頭を踏みつけたまま、そうのたまう。
﹁覚えが悪いようならその時は−−−分かっていますね?﹂
男は榊と呼ばれる肥えた男に語りかける口ぶりで、その実視線は
冷たく片割れに向けてそう口を開く。
まだ若いから、色々と使い道はあるでしょう。沈めるもよし、バ
ラすもよし。方法は榊、貴方に任せます。
氷のように凍てついた男の言葉にみっともなく震える片割れ。そ
の片割れを肥えた男が部屋の片隅へと引きずって行く。
﹁君も選択を変えますか?﹂
今なら望みを叶えて差し上げますよ。
首を微かに傾けて、俺の目を覗き込むように見つめる美しい男。
﹁どっちを選んだって、同じだろ﹂
その男に向かって吐き捨てる俺に、男は薄い唇を歪めて嗤う。
愛人にしろ、ペットにしろ、選んだ瞬間、地獄に落ちることに代
わりはない。
﹁いいでしょう、なら君は僕のペットのままです﹂
これ以上無いぐらい、可愛がって差し上げますよ。
276
君の首元を飾る鈴を用意しないといけませんね。
男は唇の端を緩く吊り上げて、俺の首周りに指を這わせる。
肌をまるで舐める様に這う指の感触が不快で、フイと体を逃がす
俺を美しい男は愉快そうに見つめている。先ほどの、弁えぬなら処
分せよ、と俺の片割れに向けた氷のような視線とは、打って変わっ
たそれ。愉しくて仕方がない、そんな風にさえ映る男の表情に、訝
しげな視線を送る俺。
﹁愛猫家のモットーをご存知ですか?﹂
そんな俺の顎を、男はすらりと伸びた指で掴み、無理矢理自分に
視線を向させにこりと嗤う。
知るわけ無いだろう、そんなどうでも良い事。
口には出さずとも、俺が浮かべる表情で何を思っているのかを読
み取ったらしい男は、俺のその態度を目を細めて見つめている。
親指と人差し指で掴んだ俺の顎のすぐ下、喉元の辺りを空いてる
薬指でくすぐる様に撫でる男は、俺を本当の猫かなにかと勘違いし
ているのではないだろうか。
﹁やめろ﹂
むずかるように首を振って指から逃れようとする俺を、強引に−
−−けれどそうとは欠片も見えぬ手つきで押さえつけた男は、この
世の愉悦を溶かしきったような声音を、囁く様に零す。
﹁爪を立てられても、噛まれても、とにかく可愛がる﹂
それが愛猫家のモットーなんですよ。
だから君が僕を嫌おうが、憎もうが、そんなこと僕にとっては些
細な事なんです。
してあげますよ。
飢えた眼をする君に溺れるぐらいの愛情を与えたら、どんな眼に
猫可愛がり
なるのか気になって仕方が無くて。
だから−−−−−文字通り、
俺の髪を片手で掴み上げて無理矢理引きずり上げたのと同じ手で、
277
喉元をくすぐるように撫でる男。その男の瞳に沈む深い闇が、男が
瞬くたびに少しずつ零れ出して、俺の足下を浸してゆくようだ。誰
とも分かり合えないと思っていたどうしようもない孤独。それと良
く似た匂いを放つ闇。いずれ俺はこの闇に呑まれて、跡形も無く消
えて行くのだろうか。それとも闇と同化して、違うものになるのだ
ろうか。
﹁まずは君に似合いの首輪を誂える所から始めましょうか﹂
どれにするかは、君に選ばせてあげますよ。それにどれを選んで
も、きっと君にはよく似合う。
男が甘い声で俺に囁く。
どれを選んでも、きっと君には、
︵その選択が、俺の人生のまさしく岐路だったと言えよう。︶
278
箱庭の中に楽園︻美貌のヤクザ×双子の片割れ︼︵後書き︶
お読み頂き、ありがとうございました。
279
くらいところにすむけもの︻執着兄×擦れた弟︼
罠にかかったのは、果たしてだれ?
繁華街の雑踏は、どんな人間にも平等に興味が無い。
赤く頬を上気させた酔っ払いも、青ざめた顔色した女子高生も、
クスリでラリってトンでる奴も、何もかも平等に呑み込んでいく。
数えるのも億劫になるほどの人々が、次々とあちこちの店に吸い
込まれては吐き出され、その度にネオンの光が届かない仄暗い場所
で、ほんの僅かな諍いが起る。
知らないフリ
をして通り過ぎて行く。
喧嘩、カツアゲ、リンチ。通りすがる奴らは、脇道で起るそれら
に気がついているけれど、
それ
を飯の種にしている、俺たちを除
それもそうだろう。好き好んでこんな厄介事に顔を突っ込む奴はい
ない。ただし、−−−
いて、の話ではあるが。
店が建ち並ぶ大通りから一本逸れた脇道。スプレーで落書きされ
た壁に背を預けて、光の届かない場所にのこのこと迷い込んでくる
カモを待つ。
280
フラフラした足取りで、昏い道に迷い込む酔っ払い。男が身に纏
うスーツのブランドを見て、汚い地面に座り込んでいた仲間ふたり
が唇の端を吊り上げる。
仲間の一人が立ち上がり、ふらつく酔っ払いの肩にすれ違い様に
ぶつかる。痛てえ、と態とらしい声をあげ、振り向き様に酔っ払い
の胸ぐらを掴み上げる。
何をするんだ、やめなさい。震える酔っ払いの声が、暗い路地に
溶けて消える。すぐそこには光と音で溢れかえる大通りがあるのに、
一本脇道に逸れただけのここは、こんなにも静まり返っている。
おっさんのせいで、俺の肩イカレちまったじゃねえかよ。どうし
てくれるわけ?なあ?
低く唸るような仲間の声に、酔っ払いはヒイと情けない声をあげ
て震えている。その無様な姿にケタケタ嗤い声をあげる俺の背後に
座るもう一人の仲間である男。多勢に無勢。まるでライオンが獲物
を甚振って捕食するように、仲間は目の前の酔っ払いを追い詰める。
﹁た、助けてくれ、﹂
喉元を締められている酔っ払いの声は、とても微かなものだった。
誰も助けちゃくれねえよ、震える酔っ払いの声を、嗤い声が掻き
消して行く。
ガタガタみっともなく震える男は、軽く脅して強請れば、そのス
狩り
は終わりだ。スリルも興奮も、欠片も感じ
ーツに見合う額を落として逃げて行くだろう。
それで今晩の
ることなく終わるそれは、まるで一種の事務作業のように味気ない。
この後そのまま飲みに行って、クラブに流れて、朝まで音にのま
れて始発で帰るか。頭の中で考えていた次のプラン。目の前の男に
否、俺の運
など、最早欠片も興味は無く、何事もなく終わるはずだった。
けれど、男の零したたった一言が、俺たちの−−−
命を変えることになるとは。
281
﹁助けてくれ、 ﹂
掠れきった声で男が誰かの名前を呼んだ気がした、−−−
瞬間、暗闇の中から一人男が現れる。
その
まるで暗闇から這い出したかの如く現れたのは、皺一つ無い黒い
スーツを身に纏った、目を見張るような整った顔をした男だ。
男は冷めた目つきで、自分を呼んだ男を掴み上げる俺の仲間に視
線を投げると、そのまま節くれ立った指先で、目元を隠す眼鏡のフ
レームに触れ、そしてそのままその手をゆっくりと口元に運ぶ。
どこか愉しげに歪んでいた気がして、その得体の知れなさ
男の掌で隠される前に微かに見えた口元は、この状況にも拘らず
−−−
に俺の背筋を一筋冷たい雫が伝い落ちる。
歪む唇と、爪先まで美しく整った指。シャープな顎とレンズの向
こう側で瞬く瞳に、頭の奥で既視感のようなものが微かに揺れる。
けれどそれに意識を向ける余裕は、男が音も無く動き、そして酔っ
払いを掴み上げる俺の仲間を蹴り飛ばしたのを見た瞬間、跡形も無
く消え去った。
目にも留まらぬ、とはまさしくこの事だと言わんばかりの男の蹴
りの早さに、俺も俺の背後に居る他の仲間も誰一人として動くこと
が出来なかった。
男の蹴りをまともに受けた仲間は、ガンと鈍い音を立ててフェン
スに激突する。そのまま身体は起き上がることなく、それどころか
ズルズルと電池の切れた人形のように壁を伝って地面にずり落ちて
行く。
呻き声一つ上げることなく、意識を失った仲間。それを横目で見
敵
だ。
ながら、俺とその他の仲間は目の前の黒いスーツを纏った男に意識
を向ける。
潰せ、こいつは
282
仲間に目配せし、男に飛びかかるタイミングを計る。
今だ。
俺の背後に立っていた仲間のコメカミに、男
吸い込む息を合わせ、飛びかかろうと準備し、瞬き一つして、目
を開いた瞬間−−−
のストレートが叩き込まれる。
な、
小さな呻き声をあげた仲間は、目を見開いて口から泡のような唾
の塊を吹いて倒れていく。
慈悲のかけらすら見せずに、真っ直ぐに振り抜かれた男の右腕。避
けるどころか、気づくことすらできなかった男のそれが、今度は俺
に向かって伸びてくる。
ジャリと男の足下のアスファルトが鳴き声を上げたと思えば、そ
の刹那、俺の喉元に男の指先が絡み付き、そのまま後ろの壁に腕一
歩で押し付けられる。
避ける為に重心をずらしていたにも拘らず、まるで猫の子を掴み上
げるようにいとも簡単に急所をその手の中に握られて、そのなす術
のなさにギリっつと奥歯を強く噛みしめる。
ギリギリと圧迫される喉元から生まれる苦痛で、生理的な涙が目
尻に浮かぶ。ヒュウヒュウと無様に擦れた呼吸音の全てを聞き取ろ
うとするみたいに、男が俺との距離をぐっと縮めてくる。
目の前に迫る硬質な容貌から逃れたくて、喉元を締め上げる男の
手に爪を立て、足下をばたつかせて暴れてみせる。
それどこか、口元に笑みさえ浮かべて、まるで俺の目
立てた爪が男の皮膚を破る感覚がしたけれど、男は顔色一つ変え
ずに−−−
の中を覗き込むように顔を近づけてくる。
283
﹁ ﹂
男の薄い唇が、−−−
どうして。
名乗ってもいない、俺の名前を象る。
目を見開いて目の前の男を凝視する俺に、男は空いている手で目
元を覆う眼鏡を外して、一言、
﹁まだ気付かないのか?﹂
そう言って、低い嗤い声を立てる。
眼鏡を外した男の顔。
目尻に一つ、ぽつりと浮かぶ婀娜めいたホクロ。
頭の中で揺れる、既視感のような、何か、
硬質な容貌。
−−−−−
まさか、
辿り着いた答えが、どうしても信じがたくて、目の前で自分の首
を締め上げる男を凝視する俺。その俺の口が勝手に動き、擦れた声
で目の前の男を呼ぶ。
あにき、
その擦れた声を吸い取るように、唇に薄い笑みを浮かべたまま俺
の唇に自分のそれを重ね、そのまま舌を突っ込み中を蹂躙する男。
あにき。
その存在は俺たち家族の中から、とうの昔に消え去ったはずだっ
284
た。
離婚した母親が、再婚相手に選んだ男と、その元妻の間に生まれ
た手の付けようの無い問題児。
かつては髪を金に染め上げ、家にもほとんど寄り付かず、喧嘩と
女遊びに明け暮れていたどうしようもない男。
男は問題事を起しては、その度に義理の父と揉め、ついには家を
飛び出したきり戻らなくなった。
あの男のことは忘れよう。最早家族でも、何でもないのだから。
父は遠い目をしながらそう言って、その後一切兄であった男の話
昔から整った顔立ちをしていたが、けれどもその時
を口にする事は無かった。
兄は−−−
に纏っていたチャラついた雰囲気と今この目の前に立つ、硬質な雰
囲気とがあまりに違いすぎて、どうしても直に受け入れることがで
きない。
けれど、
﹁ ﹂
俺の名を呼ぶその声が、目元を彩るそのホクロが、俺の記憶の中
おいた
もほどほどにしないと、身を滅ぼすぞ﹂
に棲む兄の姿と重なって揺れる。
﹁
ぴちゃりと耳障りな音を立てながら、俺の口を解放した兄は、ゆ
っくりと外した眼鏡をかけ直す。
兄は俺の喉元を締め上げる指の力を緩めず。それ故に、少し
口の中を蹂躙する間も、今こうして目の前で嗤う間も、ずっと−
−−
ずつ頭に酸素がまわらなくなってきた俺の意識は、徐々に白い靄の
中に沈み始める。
285
霞む視界。
その向こう側で、−−−
見える。
兄貴が己の唇を、舌先で湿らせるのが
まるで肉食の獣が獲物を前にして、舌舐めずりするかのようなそ
の姿。それを見た俺の身体を寒気のようなモノが走り抜ける。
喰われる。
闇の中。
頭の中に唐突にその一言が浮かんだ瞬間、唐突に意識が途切れ、
そこから先は−−−
︵闇の中で獲物を待っていたのは、俺たちではなく、−−−−−
兄である、この男だったのだ︶
﹁可愛い弟さんだね﹂
であった男。
暗い路地の上で、先ほどまで見せていたおどおどとした態度を、
奇麗さっぱり払拭してにこやかに嗤う酔っ払い−−−
その男が、黒いスーツの男の腕の中で意識を飛ばす若者に手を伸
ばす。
﹁触るな﹂
手が触れる前に、スーツの男はサッと腕に抱く若者を目の前の男
から遠ざける。そのあからさまな仕草に、酔っ払いのフリをしてい
た男は苦笑して見せる。
﹁君のために一芝居打ったというのに、その言い草は酷くないか
い?﹂
286
やれやれと言わんばかりの男に、−−−
の端をかすかに吊り上げて返事を返す。
これからどうするの?
黒いスーツの男は、唇
腕の中に抱く弟をただひたすら見つめる男。その男の瞳の奥で揺
れるどろりとした欲望。
そんなの、決まっているだろう。
躾
を﹂
その欲望を少しも隠さずに兄と呼ばれる男は、目の前の男に嗤っ
おいたをした罰と、
てこたえる。
﹁−−−
身体で覚えるまで、じっくりやってやるさ。
男の声が、昏い路地に落ちて消えて行く。
この腕から、逃しはしない。
そのために、これほどまでに遠回りしたのだから。
もう二度と−−−
なあ、 ?
欲望を孕んだ低い声が、暗い路地に溶け消える。そして男たち二
287
仲間
たちだけ。
人は、暗い路地の更に奥、闇の深い場所へと沈んでゆく。
後に残ったのは、殴られて意識を失う
そしてその日から彼らの仲間の一人の行方は杳として知れず、け
れど報復を恐れてか誰もその行方を探す事はなく、いつしかそんな
そして攫われた仲間は過去
猛獣の檻の中で、その身を、
仲間が居た事すら忘れられて̶̶̶̶
の人となった。
攫われた男は、−−−−−−
﹁あにき、どうして、﹂
﹁兄貴、ね。俺は一度だってお前を弟だと思った事はなかったよ﹂
﹁それは、どういう、﹂
﹁俺はいつだってお前が喰いたくて仕方が無かったってことさ﹂
俺に捕まっちまったんだから。
だから大人しく喰われてな。
お前はもう−−−
288
くらいところにすむけもの︻執着兄×擦れた弟︼︵後書き︶
お読み頂き、ありがとうございました。
289
Cafe ATLANTA︻翻訳家×サラリーマン︼
テーブルを挟んだ向こう側に座る男は、目が覚めるような整った
顔立ちをしている。
その男がゆっくりと俺に向かって手を伸ばす。
骨張った指が、俺の左手を取る。
恭しく、まるでエスコートするように掲げ持つ俺の手の薬指を親
ATLANTA
指で撫でて、微笑みながら象った唇の動きは、
Cafe
差し出される手に、向けられる笑顔に、どれだけ救われていたか。
高校の同級生などという曖昧な関係など、脆いシャボンの泡のよ
うに触れれば簡単に壊れてしまうと知っていた。
知っていた、けれど、知らないフリをして、目を瞑って隣に居座
り続けた俺は、なんて愚かなのだろうか。
高校を卒業し、進路が分かたれ、お互い別の未来に向かって歩い
ている最中、ふと隣を見やったとき、見慣れた男の姿が無いことに
こんなにも胸を痛めるとは思っても無かった。
290
少し仰ぎ見るように見つめる先にある、男の少し尖った顎のライ
ンが好きだった。
自分が憧れ、けれどもどれだけ頑張っても手に入れる事が出来な
いものを、両手に無造作に溢れさせて、けれども少しも満たされな
い子供のような顔をして立つのが俺の親友である男だった。
過ぎ行く季節をずっと隣で浪費し続けて、失った時に始めてそれ
がかけがえの無いものであった気付くとは。
後悔は後に悔やむとか書いてそれであるとは、まさしくこのこと
だったのかもしれない。
目の前に座る男は、過去の面影を僅かに残し、そして知らない男
のような顔をして嗤う。
僕と離れた6年間はどうだった?
久しぶりに交わす男の言葉が俺の皮膚の上を滑り落ちる。
肌が粟立つような言葉は、俺が必死になって目をそらし続けた過
去の記憶を否応無しに呼び覚ます。
高校の卒業式、男はこの先の道が別々に分かたれると分かってい
たのに、長年かけて築き上げた居心地の良い関係を、
一瞬でまるで塵芥のように消し去った。
きみがすきだ
最後に交わした言葉は、当時の俺には到底受け入れられるもので
291
はなく、
親友だと思っていた男から齎されたその言葉は、俺を混乱の渦の
中に突き落とした。
どうしてという言葉が、頭の中を浸食し、俺の胸の内に潜む本当
の気持ちを覆い隠してゆく。
ほんとうは、おれも、
乾いた唇が押し出そうとした言葉は、けれども音になる事無く、
胸の内へと溶けて消える。
手を伸ばせば摑み取ることが出来るすぐそこにある未来。
けれどその時の俺には、男同士で未来など欠片も見えない、昏い
海の底へ手を取り合って沈む勇気が無かった。
6年ぶりの再会は、唐突に送られて来た一通のメールがお膳立て
した。
登録したアドレスを、消す事も出来ず、自分のそれを新しいもの
に変えることもせず。
ただまんじりと過ぎるときを持て余しながら過ごす俺のもとに届
いたのは、日時と場所が書かれた男からの6年ぶりのメールだった。
末文に、久しぶりにあって話したいことがあるとだけ書かれてい
た愛想の欠片もないメール。
そのメールが示す場所にのこのこ足を運んでみせたのは、俺自身
が忘れ得ぬ過去と決別したいと思っていたからなのだろうか?
このカフェのオススメであるというラテを口元に運びながら、目
の前に座る男が唐突に口を開く。
久しぶりも、会いたかったも、最近どうしてたんだ、も。
292
そんな言葉など、何一つ無く、唐突にふわりと投げられた言葉が
俺の中に落ちてくる。
僕と離れた6年間はどうだった?
もういい加減意地を張るのはやめたらどうだ?
男が何もかも見透かしたような顔で、俺に囁きかける。
まるでその言葉は悪魔の囁きさながらに、俺の心を鷲掴みにして
揺さぶってゆく。
隣に立つ男。
足下に伸びる影。
笑う唇。
俺に向かって伸ばされる指。
最後に言葉を交わしてから6年間、二人きりで会うことは一度も
無かった。
俺が頑に避けていたということもあるが、男が俺と会う機会を作
ろうとしなかったことも俺たちが席を共にしなかった理由の一つだ。
俺が必死になって目をそらし続け、見ないフリを、気がつかない
意地を張っていた
フリをしていたそれを、
たった一言で済ました男は、余裕のある男の顔をして、俺に向か
って手を伸ばす。
骨張った指が、俺の左手を取る。
恭しく、まるでエスコートするように掲げ持つ俺の手の薬指を親
指で撫でて、微笑みながら象った唇の動きは、
﹁いい加減、僕のとこにおいで﹂
293
重ねられた手の熱が、過去の俺たちの姿を脳裏に焼き付ける。
会わない期間、ぽかりと空いた空洞から鈍い痛みを訴え続けた胸
が、男が俺に向けたたった一言でゆっくりと塞がっていくのを感じ
る。
単純だなと、かつての俺に向けたのと同じ目を細める笑みで見つ
めて、砂糖をこれ以上無いぐらい溶かしたような甘いあまい声で俺
に向かって囁く男。
すきだ、と言われた言葉に、一言も返事を返さず、それどこか背
を向けて逃げた俺。
そこから6年という月日を経て再会した後、もたらされた言葉は
過去に戻りやり直す言葉などではなく、俺たちの新しい関係を作る、
魔法の言葉で。
小さなカフェのテーブルの上でそっと重ねられた手から移る温も
りが、俺たちの間に流れていったときを溶かしてゆく。
ずっと一緒にいよう。
目を細めて笑う、その顔をどれだけ恋しいと思ったか。
本当は俺も好きだった。ずっと一緒にいたいと思っていた。
けれどその手を取る勇気が出せず、こんなにも遠回りした上に、
今でも本当に差し出される手を取っていいのか、まだ迷ってぐずつ
いている。
男を見つめながら、口を開いては閉じ、開いては閉じする俺に、
男が唇の端を緩く吊り上げ笑う。
仕方が無いな。
男が小さく呟いて、重ねた手をぐっと自分の方に引き寄せる。
294
そんなものは、唐突に重なった唇の熱が溶かして消
キャア、と誰かの叫び声が耳の奥に届いた気もしたけれど、
−−−−−
し去ってゆく。
﹁じゃあ、逃げ道を僕が無くしてあげる﹂
唇を重ね合わせたまま、その上で男が小さく囁く。
これでもうどこにも行けないね。
ゆっくりと離した唇を、親指で意味ありげに撫でて、男は周囲に
ざっと視線を流す。
男の視線を受けて、周囲がボッと顔を赤らめる。
濡れた唇を舌でこれ見よがしに舐め上げて、男は重ねた俺の左手
を掲げて、薬指に唇を落とす。
﹁あいしてるよ﹂
その言葉は、かつての俺たちには無かった言葉で、
﹁俺も、﹂
Cafe
ATLANTA
俺たちの新しい未来を作る言葉。
ここは
出会いと別れがラテの泡のように混じり合う場所。
295
be
continued
そこではどんな意地も、泡のように溶けてきえてゆく。
to
296
Cafe ATLANTA︻翻訳家×サラリーマン︼︵後書き︶
J.GARDEN39の無配ペーパーとして配布したものです。
お読み頂き、ありがとうございました。
297
のがれられない︻優しい意地悪×臆病な平凡︼
﹁僕が暖めてあげる、﹂
一介の大学生が住むには違和感が勝る高層マンションの一室を使
い、男の友人たちの幾人かと開いた飲み会。
家主はゼミでも、また大学内でもよくよく目立つ男で、僕はそん
な男の隣になぜだかよく座り講義を受ける、どこにでも居るような
平凡な大学生の一人でしかなかった。
常に幾人かの取り巻きを纏わり付かせて構内を闊歩する男は、な
ぜだか僕と重なるゼミの時だけはいつも一人だった。
窓際の後ろから2列目に座るために少し早く教室のドアを開く僕
と、いつも最後の方にやってきて空いている席に腰掛ける男との初
めての会話は、﹁いつも君の隣だけ、不思議と空いてるね﹂だった。
切れ者で金持ちで、また目を引く容姿を持つ男の声は、ノートに
視線を落としていた僕の耳に驚くほど自然に滑り込み、柔らかなト
ーンで僕の頭の中で響いた。だからか少し人見知りの気のある僕は
その声に、たしかに、と自分でも意図せずに相槌を返していて、そ
んな僕に男が思わず小さく吹き出して笑って、君おもしろね、と僕
の肩を叩いた所から、僕たちの関係は始まったのだった。
前髪を長く伸ばし、いつも俯きがちでいる僕と、すっきりと整え
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られた髪型に、顎を上げて真っ直ぐに正面を見つめる男の組み合わ
せは、他人から見ればきっと異色の組み合わせでしかなかっただろ
う。
僕は決して男の取り巻きには加わらず、たまに彼が一人でいると
きに例えばランチを共にしたり、カフェでお茶を飲んだりして偶然
に重なる時間を過ごしていた。
けれども、ほんの僅かな強引さを持ってひらいていった。
男の声はいつも穏やかで、狭く閉じていた僕の世界を優しく̶̶
̶
偶然に空いている時間が重なるときだけ一緒に過ごす関係が、気
がつけば男の柔らかな声にひかれて、わざわざ時間を作って大学外
ごく普通な友人としての関係が続いてゆくと
で会う関係に変化してゆくのは、極々自然な流れだった。
極々自然で̶̶̶
思っていた。
あまり親しい人間の居ない僕にできた、親友と呼ぶことのできる
相手。初めての親友という存在に浮かれていた僕は、だからこそそ
の相手との関係が微かに崩れる兆しを見せ、新しい何かに変化しよ
過ち
が、僕の今のどうすることもできない状態を
うとしたその時に、差し出された手を振り払う事ができなかった。
そしてその
招いていた。
正方形にカットされたケーキの角に、ゆっくりとフォークを沈め
てゆくような。美しい形を無粋なシルバーで削り、欠けた何かに変
えてしまうようなそんな瞬間は、男が何人かの友人達を集めて男自
身の部屋で開いた飲み会で訪れた。
あまりアルコールに強く無い僕は、大抵飲み会ではソフトドリン
クを舐めて過ごすことが多かった。そんな僕を見かねて隣に座って
いた男が、君でも楽しめるものを一緒に探そうか、と言って、男の
部屋で開かれた飲み会で、いくつかのリキュールとソフトドリンク
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を混ぜて作ってくれたカクテル。
﹁飲みやすいはずだよ﹂
柔らかい声で差し出されたアルコールは、確かに男が言う様に飲
みやすく、するりと僕の喉を滑り落ちて胃の中に微かな熱を灯した。
これはどうかな?そんな風に次から次へと差し出されるグラスを受
け取り、勧められるままに口づけその中身を空にした僕は、気がつ
けば自分ではまともに座っていることもできない程酔っぱらってし
まっていた。
意識は在るけれど、身体の自由が利かない。理性はほんの僅かに
残り、大部分は本能が剥き出しになっている。そう分かっていても
どうすることもできず、肩を貸してくれている男に寄りかかり、差
し出されるグラスに手を伸ばした僕は、受け取ったと思ったグラス
を掌から落として、胸元に甘ったるい匂いのするアルコールをぶち
まけてしまう。
おっと
男の驚いた声が聞こえたと思ったら、グイと身体を担ぎ上げられ
て、僕の身体は別の部屋へと運ばれた。
どうしたの?どうして僕を運んでいるの?どこに運んでいくの?
僕が飲み物を零したから怒ったの?
ん?どうもしないよ。君が飲み物を零したから。運ぶ先?さあ、
どこだろうね。怒ってないよ、だからそんな顔しないで。
ガチャリとドアノブが回る音がして、ドアが開かれる。空いた隙
間に身体を滑り込ませるようにして、男は僕を担いだままそこを擦
り抜け、迷いの無い足取りで真っ直ぐに進んだ部屋の端の暗闇の上
で、僕の身体から手を離す。
柔らかいスプリングと、ふかふかした布団の上に音を立てて落ち
た僕。その僕の身体の上に覆い被さる男。
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﹁濡れた服を脱がなくちゃね﹂
僕の服に手をかけ、慣れた手つきで脱がしてゆく男。背中を浮か
せて男の作業を手伝う僕に、男が喉の奥で小さな笑い声を立てる。
﹁寒い?﹂
耳朶に唇を付けて、擦れた声で囁く男。その声が脳内に届いた瞬
間に、ブルリと身体を震わせた僕に男は、震えてる、と呟いて、僕
僕が暖めてあげる﹂
の身体に熱い手を這わせる。
﹁̶̶̶
だから安心して。
男の声が頭の奥でリフレインする。アルコールの回っている頭で
は、男が何を言っているのかきちんと理解できない。理解できない
けれど、男の熱い手が身体を撫でてゆく感覚があまりに心地がよす
ぎて、僕は首を振ってその感覚から逃れようと、覆い被さる男の背
中に爪を立て抗う。
﹁いやだ、たすけて、﹂
ギリギリと爪を立てる僕に、男が微かに笑い囁きかける。
﹁ ?﹂
その言葉に返事を返さない僕を、男が目を細めて見つめている。
男のその視線から逃れたくて、目を閉じた僕。完全に暗闇と同化
した僕の視界の向こう側で、男の気配が揺れる。唇にかすかに湿っ
た何かが触れて、その濡れた何かは僕の身体のあちこちに落ちて、
串刺しにされて、一晩中揺さぶられ続けた。
舐めて、噛んで。そして熱い男の手で身体中の至る所に触れられ、
掻き混ぜられ̶̶̶
アルコールのせいにして、無かったことにしたかったその過ち。
親友だと思っていた男に、触れられ掻き混ぜられて善がり狂い、
もっと、とはしたなくねだって縋り付いた記憶を無かったことにし
たかった。
何故こんなことになったのかなんてどうでもよかった。ただもう
二度と同じ過ちは繰り返さずに、もとの関係にただただ戻りたかっ
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た。
﹁昨日何があったか覚えてる?﹂
男が僕の目を見つめて、目元にかかる髪の毛をそっと払いのける。
微かに移る男の熱に、瞼を閉じた僕の唇から零れた言葉。
男は僕のその言葉の意味を正確に理解し、僕の願いを叶えた。
﹁いいや、何も覚えてない﹂
彼はその後も、僕に対して以前と同じ様に振るまってくれていた。
それは正しく僕が望んだことで、だから僕たちはただの友人関係に
戻ったはずだった。
僕は同じ過ちを二度と繰り返すまいと、以降の飲み会では決して
再び訪
アルコールを口にせず、付き合いが悪いと周囲に眉を顰められても、
ソフトドリンクだけ流し込むことを徹底していた。
そして幾度かの飲み会を何事も無くやり過ごし、̶̶̶
れた、男の家でひらかれる飲み会。
男の友人たちにどれだけ甘い言葉で唆されても、僕は決してアル
コールには手をつけず、男が用意してくれたソフトドリンクばかり
を口にした。そんな僕を男は目を細めて見つめ、手元で揺れる琥珀
色の液体を自分の喉に流し込んでゆく。
。それに気がつかないフリをして、僕は男の空いたグラス
目元を微かに染めて、僕を見つめる男。その男の瞳の奥で揺れる
何か
に琥珀を流し込む。
気がつけば時計は深夜一時を指していて、周囲を見回せばそここ
かしこで潰れている男達の屍が転がっている。
﹁もうこんな時間だ﹂
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男がグラスを持ちながら、立ち上がる。いつもと変わらぬ口調で
僕に囁きかける男は、けれども一歩踏み出した瞬間ぐらりと傾き、
倒れそうになる。あ、と思った瞬間に立ち上がった僕は、倒れ掛か
る男の身体を支えて、男の顔を覗き込む。
目を閉じて眠そうにしている男は、申し訳ないけど、寝室に連れ
ていってくれないか?と唇を微かに動かして、ぐっと僕に体重を預
けてくる。
足がもつれてうまく歩けないんだ。
アルコールの溶けた男の吐息が、僕の耳元をくすぐって通り過ぎ
る。
しょうがないね。
僕は前後不覚の男を抱えて、半ば引きずるように運び男の寝室の
ドアノブを回す。
がちゃりと音を立てて開いたドアの隙間に身体を滑り込ませて、
部屋の角にある男のベッドに酔っ払いを落とす僕。
ボスッと音を立てて、柔らかなシーツの海に沈んだ男は、擦れた
声で何事かを呟く。
﹁え?﹂
男が何を言ったのか、うまく聞き取れなかった僕は、身を屈めて
男の口元へ耳を近づける。
水でも欲しいのだろうか?そう思って耳を澄ます僕に、男は手を
伸ばして、昏い海へと引きずり込む。
あのとき
やめろ、と吐いた言葉は、男の熱い唇の中に呑み込まれ、̶̶̶
そして、あっという間にひっくり返された身体は、
のように男の身体の下に抑えこまれて、身動きがとれなくなる。
熱い男の身体に抑え付けられ、フラッシュバックする記憶に身体
を振るわせる僕。
寒いの?﹂
そんな僕に、男が優しい声で囁く。
﹁震えてるね、̶̶̶
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アルコールの溶けた息が、僕の唇の上に落ちる。ああ、と小さく
息を零す僕は、この先に続く言葉を知っている。
知っていて、更にはこの先に待つことも分かっている。
分かっているけれど、逃れられない。
のがれられない。
﹁じゃあ、僕が暖めてあげる﹂
アルコールで理性を飛ばした男に一晩中揺さぶられ続けた僕は、
ボロボロ雑巾みたいにくたびれて意識を失った。
そして再び意識が戻ったとき枕元にいたのは、僕を好き勝手に扱
った男だった。
男は真っ直ぐに僕を見つめて、ゆっくりと唇を開く。
﹁昨日何があったか、覚えてる?﹂
僕は男の言葉に、首を横に振る。そんな僕を見て、男は微かに唇
を吊り上げ、そう、と小さく呟く。
じゃあ仕方が無いね。
男は柔らかな声で囁いて、僕の頭を優しい手つきで撫でてゆく。
男の掌が髪をすき、耳朶をくすぐり、首筋を意味ありげに撫でる。
けれども、その全てを受け入れる僕の望みを、
親友同士のふれあいにしては、濃密すぎるそれに気がつかないフ
リをして、̶̶̶
きっと彼は正確に理解している。
次はどうしようか?
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男の楽しげな声が頭の奥で響いている。
次
に待っていることを、知っている。
その男の声に、僕はほんの僅かに唇の端をあげて、答えを返す。
僕は男の言う
知っているけれど、逃れられない。
のがれられない。
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のがれられない︻優しい意地悪×臆病な平凡︼︵後書き︶
お読みいただき、ありがとうございました。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://novel18.syosetu.com/n7660ca/
執着攻めと平凡の短編集
2016年7月24日22時00分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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