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溶解する鏡面

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溶解する鏡面
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溶解する鏡面
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s試論一一
阿部曜子
1.ウォルトンの L
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.以来、ダンの評
示すもの」と「指し示されるもの」という関係を内在
伝は一貫して、信仰を求めて苦悩するという詩人像を
させる、あらゆるイメージによって表される。 例えば、
強調してきた f ダンにとって信仰の獲得が容易な過程
硬貨に刻印された肖像、詩や書物などの文字による表
ではなかった要因としては、多くのカトリック殉教者
象、また、特にダン独特のものとしては、「死」にまつ
を輩出した家系に生まれたという伝記的事実や、彼が
わる一連のイメージとして、死者という不在者を指し
生来強い壊疑主義的精神を持っていたという点などが
示す「墓」、「墓碑」、「遺骨」等がある。この一連のイ
指摘されている。ダンの生きた時代が、世界観の大き
メージ群と新プラトン主義的宇宙観との関連は一目瞭
な変動を経験したという事実も、無論、看過できない。
然だろう。被造物の世界に元来刻印された永遠不変の
天地が互いに照応し合いつつ調和を成すという旧来の
イデアが、逆にそこからの抽出・抽象化によって認識さ
世界観が崩壊しはじめ P科学と宗教、地上界と天上界、
れるーこのプロセスを視覚化するのに、鏡援を代表と
「もの」と「ものの意味」との断絶が進んだ時代にあっ
する反映のイメージがいかに重要であるかは、「、洞窟の
て、信仰がいかに難しいもので、あったかは、想像に難
比職」を思い起こせば明らかである。事実、A.o
.ラヴ
ジョイによれば、鏡のイメージは、新プラトン主義者
くない。
本論の目的は、このような詩人像を踏まえつつ、 S
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たちの常用したものである♂しかし、ダンの作品にみ
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sにおける信頼の成り立ち及びその崩壊を、「反
られる「反映」の特徴は、そのイメージが、それが本
映」と「流動 Jという措抗するこつの力を手がかりと
来内包する矛盾を抱えたまま用いられていることにあ
して探ることにある。恋愛詩に見られる、恋人に対す
る。「反映Jは、自己完結的な唯一者を指し示すもので
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出')への渇望は、宗教的な信仰(‘ f
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)への渇
る信頼 (
ありながら、同時に、唯一者の十全な自己実現には、創
望と同様に、移ろいゆく地上的存在の中に絶対者を求
造物界が必要であることを明らかにする。この矛盾の
める探求として表れる。「流れるもの」の説得力と、「映
ために、「反映」のイメージは、異なる性質を持つ二種
し合うもの」の恒常性との聞で揺れ動きながら、絶対
の絶対性を包含することになる。一つは、「反映」を通
者の在処を探る詩人の姿を通して、ダン特有の感性の
して、階層構造の頂点をなす超越的な唯一者(プラトニ
一端を示すことができればと思う。
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反映」と「流動」
ズムのイデアやキリスト教の神)に遡り、それを支えと
.パシュラールの言
する絶対性である。もう一つは、 G
うような、「反映の絶対性J(
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t')である。こ
れは、「映された」唯一者にではなく、むしろ、「映し
一方は「静止」あるいは「死」、他方は「動き」ある
・映される」関係の限りない相対性の中に、逆説的に見
いは「生」によって特徴づけられる、「反映」と「流動J
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いだされる絶対性を指す♂後に考察するように、 S
というこつの力は、詩の中のイメージのみならず、語
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sにみられる絶対性も、このような、「反映の
りのモードや韻律においても相対しながらダンの恋愛
絶対性」を拠り所としている。「映し合い」という感覚
詩の世界を形づくっている。
を超越した、確固たる信頼の核があるわけではないと
「反映」は、直接、知覚はできない「絶対的なもの J
いう点に、ダンにおける信頼の脆さの表れを見ること
をこの世に映し出す手段である。この過程は、鏡像を
ができるのである。このことは、‘同時に、ダンが新プ
はじめとして、「映すもの」と「映されるもの」、「指し
ラトン主義的形而上学から演鐸的に反映のイメージを
20
生み出した(或いは借用した)のではなく、反映のイメー
的時間の長大さ(永遠)に神の特性を見るという審美的
ジを通して、帰納的に、彼自身の恋愛の形市上学を思
態度{めーを予感させる、めくるめく存在の謡歌とでも言
考していたということをも示す。このような意味では、
うべき詩情の萌芽がみられる。しかしながら、続く詩
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.
S
.エリオットが指摘した、ダンの持情における思考と
行が示すように、二人の恋人が互いの誠実さを見いだ
の(その後のエリオットの訂正
感覚の融合という要素は J
すのは、互いの目に映る像の中である。つまり、後に
はともあれ)やはり否定することはできないだろう。
考察するように、「拡張」の魅力は「流動」の不安と表
「反映」の原理が、このようなイデア界と創造物界、
裏一体であり、ダンの作品において、「絶対的なもの」
天上界と地上界、オリジナルとそのコピー等より成る
(恋人に対する信頼、神に対する信仰)は、最終的には、
二層構造の世界観を表す一方で、「流動」の原理は、(ベー
「反映」の中に宿るとされるのである。
コン主義的な)人間精神による探求の舞台としての、平
「流動」を経て、その対抗手段としての「反映」に至
面的・一元的な世界を表すものである。能動的な生をモ
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'と
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る過程を、まず‘ TheA
デルとするこの世界は、絶え間ない変転を経ながら、現
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'の力(翻って短所と
例に見てみたい。‘ TheA
世的時間・現世的空間の中の運動性として現前する。こ
もなり得るのだが)は、高らかな愛の称揚ではなく、逆
付加」
の世界を表現するのに用いられるのは、「拡張 Jr
に「流動 Jの原理の前に敗北した語り手の聞き直りの
「更新」等のイメージである。平面的な拡張の感覚は、
レトリックのうちにある。第一連において、愛は絶え
無論、十七世紀の専売特許ではないが、めざましい地
間ない「更新」によって、永遠に近づこうとする。
上的世界の拡張一様々な地理上の発見、また、宇宙に
おいては、望遠鏡を用いた観察を通しての、複数の世
界(居住可能な星々)の存在の可能性の認識ーが人々の
想像力に及ぼした影響は疑い得ないだろう f特に後者
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は、それまで地球の(空間的のみならず)構造的上方に
広がっていた宇宙を、地球の延長線上の拡がりに置き
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'の一行には、問題の核
なおしたという点で、計り知れない影響力を持ったと
心となるパラドクスが呈示されている。「走る Jという
推察できる。
動きは、他のいくつかの自動詞で表される行為ととも
二つの原理の対照は、‘TheGood-morrow'の以下の詩行
に簡潔に現れている。
に、生起しては消えていく現世的存在を象徴するもの
である。「遊る」情熱にその本質を持つ「愛」は、どう
言い繕ったところで、結局は「走り去って」しまわざ
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るを得ない。愛を「走るもの」と規定した瞬間、愛と
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永遠性とは相容れないものとなるのである。それゆえ、
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第二連は、第一連を暗黙のうちに訂正する。‘Twog
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)語り手は、遊る生の力も、死を前にして
は無力であることを認め、今度は、逆に、死を通して
の永遠性の獲得を試みる(‘ Buts
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.17-21)。しかしながら、来世で至福を得る
こ こ で 、 複 数 の 新 た な 世 界 を 求 め て 旅 立 つ ‘s
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という静的な愛の成就は、結局語り手を満足させず(‘ But
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'は、無心の前進や無限の拡張への志向を代表
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2
)、この詩は、最終的には、
する。 '
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..'の表現(このような呼びかけ態は S
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「更新」に表される生の原理に立ち戻ることになる (
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s~こ頻出する)に見られる直情の吐露には、ダンの、
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熱情家という魅力的なー側面と同時に、能動的な生の
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遊りを肯定するかのような態度が感じられる。ここに
に完全には身を任せてしまえないことが、言わずもが
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"28-9)。それでもなお、ダンが「流動」の力
は、やがて十七世紀後半になって現れることになる‘ a田 -
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)を付け加え
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'一地上的空間の広大さ(無限)や、地上
ていることにより暴露される。流動の運動性・現在性を
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謡歌した次の瞬間にも、流れ行く先に目を向けずには
「
死 Jが顔を出さずにはいられない。第四連冒頭で、詩
いられないダンにとって、流動はやはり愛の勝利では
人が開き直って「死」を受け入れるのもこのためであ
なく、敗北なのである。流動の真の終着点である「死」
る
(
‘ Weec
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'
)。ここに至って、
を覆い隠す「六十になるまで Jという言葉が、ある種
「更新」により正当化されていた「流動」の原理は捨て
拍子抜けの印象を与えるのも当然かもしれない。
られ、代わって、愛に内在する変化を超越するための
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'は、同様な出発点から論理を展開し
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「死の原理」が取り上げられる。(このことは、各スタ
ながらも、「流動」の原理から「反映」の原理への転化
ンザを締めくくる‘ l
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'の語が、一・二連の動詞から三
が見られる詩である。第一連では、問答の相手である
連以降は名詞に替わっていることからも予感される。動
俗物らしき友人と、恋する話し手の態度が対照的に取
的な愛から静的な愛へ、具体的な愛から観念としての
り上げられている。
愛へと主題が移ったのである。)つまり、二人の恋人は、
死んで‘ l
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'を残すことによって、言
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い換えれば、それらの背後に身を隠し、それらの中に
指し示されるもの」として生き延
「意味されるもの Jr
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遠性を獲得するのである。恋人達の、このような抽象
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世界への離脱は、最終連において、話し手が後世の声
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に叙述を譲って、自らは、今度は「語られる」存在に
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なることにより、決定的となる。
愛が死を通して不変性を獲得するとは、あまりにも
陳腐なテーマのようであるが、 SongsandSonnetsにおい
て注目すべきなのは、「死」とは、象徴や表象の背後に
ここで目につくのは、相手のとるべき行動が全て「他
隠れることを意味し、自に見えぬもの(死者)が物質的
動詞・目的語」の様々な組み合わせにより表現され、し
存在(遺骨、墓等)の中に映し出されるという構造の醸
かも、行中心の区切りや交差配列を多用して、一行の
し出す安定感の中にこそ、永遠性が見いだされるとい
前後の均衡を強調する構文が用いられていることであ
うことである。無論、 SongsandSonnetsに強く見られる
る。これによって、命令文の畳み掛けの激しさにもか
死への傾倒は、一つには、死の持つ不動性に由来する。
かわらず、全体としては、前後の重みを測りながら、ま
永遠の愛の追求にとって、変転を免れ得ない生身の身
た、発した語句を一つ一つ受けとめながら進む、とい
体性がいかに邪魔であるかは、寸heC
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'寸he
った印象が生み出される。文の前半と後半、動詞と目
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的語など、二つの要素の対崎より生まれる均衡は、後
ど、恋する語り手の死を仮定した作品の多いことから
に考察する、 SongsandS
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sにおける向き合う恋人達
も明らかである。寸'wicknamGarden'の語り手の‘ s
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の静謡、とともに、ダンの作品の世界における安定性の
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'の恋人達が‘ s
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'への変身や、‘TheE
基盤となる。これとは極めて対照的に、一・二連を通し
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'のように横たわっていたという描写なども、
ての話し手の行為は、「愛する」ことのみであり、しか
同じような死の静けさへの志向を表す。しかし、同時
もこの言葉は、‘ l
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に重要なのは、死んで肉体を剥ぎ取られ、魂という純
いったように、自動詞として用いられている。つまり、
粋なエッセンスに昇華することによって得られる永遠
この‘ l
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'は、目的語という終着点を持たない‘ l
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性である。瞬間瞬間の自発的かっ自足的な存在である
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自動詞的な「遜る」愛を抜け出た語り手は、今度は不
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'等の自動詞と同様、「遊る」という肯定的
変のイデアと化して、「映し・映される J二重構造の中
側面でとらえられてはいても、あくまで「流動する」存
に入り込むのである。この意味で、語り手の死を想定
在としての愛を体現するものと言える。第 3連の、 'Wee
した詩には、必ず、残された詩や遺骨や噴水等の意味
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'の基盤となっ
を「読む J第三者が登場することは注目に値するだろ
ている「絶え間ない更新」のテーマの変奏であるが、こ
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'で二人の恋人の伝説を読んで規範
う
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のパラドクスにもまた、「流動」の必然的な帰結である
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'で、語り手の死後も変わらぬ
とし、また、寸heR
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愛を願うまじないである‘ ab
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拠になっていることは、ダンの説教の次のような一節
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)を聖遺物として敬う後世の人々、寸wicknam
にも窺われる。
G
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'で、石の噴水となった語り手の涙を、恋人の涙
の真贋を見極めるための試薬として持ち帰る人々、‘ The
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'で、身体より抜け出た二つの魂の会話を耳にし、
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「新しい妙薬」を飲んだかのように魂を清められる、通
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)ーこれらは
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.(イタリックは原著者 y
問
皆、抽象化された愛の精髄を事物から読み出す役を担
2
.対崎
っている。永続する愛は、事物の彼方にあるものとし
て映し出され、あるいは指し示されなければならず、こ
れが現世に顕現するためには、映し出す物質や解読す
SongsandS
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sに登場する恋人達の典型的な情景と
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'のような作品
る人が必要となるのである o 'TheP
して、二人の対面の場面が挙げられる。これは、寸he
を見れば、激情の遊りが反映の二重性・表象行為の二重
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性と相容れず、逆に死の静止を経て二重構造の中に組
に見られる情景だが、それは一様に静寂、不動、集中
み込まれて、はじめて永遠性に到達するという認識が
の一瞬として描かれている。「対崎 Jの醸し出す安定感
ダンにあったことは明らかになるだろう。「愛する」こ
が、第ーには、このポーズの、あたかも死の不動を摸
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h,
とと「語る」ことの聞の矛盾を示すこと(‘ NoLovers
倣するような動きの欠如に由来することは、例えば寸he
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'という表現にも見て取れる
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'5-6
)から始まるこの詩は、次のような結論に
だろう。同時に重要なのは、凝視するという行為に特
達する。
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'の恋人たちの、糸
有の集中の感覚である。‘ TheE
で、繋がれたような目(‘Oureye-beam田 t
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'7-8
)は、固く結び合わさ
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れた二人の心を思わせ、また、 'AV
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eWindow'では、ガラスに刻まれた恋人の名を見つ
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1
6
9
)
めることによって、残された女性は貞節を守ることが
できるとされている。これらのイメージには、単なる
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da
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'は、自動詞的な逝る愛
言うまでもなく、 '
奇想以上の真実が含まれている。固定や安定の感覚が、
とその結果を表す一方で、「自分」が「自ら」の墓碑銘
いかに深く凝視のイメージに依存しているかは、見る
や墓となるという表現に含まれる反省的屈折は、表象
ものを石に変えるゴルゴーンの神話、或いは日本語の
行為に内在する二重性を体現するものである。
「凝」視という表現そのものなどを思えば明らかであろ
SongsandS
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sに登場する様々な「もの」の存在意
う。当時の文学に頻出する、旅立つ恋人に肖像を渡す
義は、「もの」の向こうにあるより高次の存在を指し示
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'等)も、
という習慣(ダンの作品では、‘ E
すサインとしての機能にあることが、以上より明らか
実物の恋人と向き合い、見つめ合って、互いの忠誠を
であろう。この機能は、R.チューヴが述べるルネッサ
確認することの代替行為と考えられる。つまり、視線
ンス的イメージの概念、すなわち、「具体」が「抽象」
を特定の人に向けて固定することによって、心も固定
を語り、「個別 Jが「普遍」に声を与え、「もの Jと「も
されるのである。
のの意味」とのたやすい互換が起きる精神構造仰が前提
ダンの恋愛詩において、さらに興味深いのは、対時
になっていると考えられる。この精神構造は、万物有
や凝視の生み出す安定感が「映し合い」の永遠性によ
霊の自然観(キリスト教的文脈においては、創造物界を、
って補強されていることである。これらの場面の第一
その中に神を読み込む‘ Booko
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'とみなす思想)
の特徴として、二人の恋人が互いに似かよい、同じよ
の一貫として、「照応」の世界観と根を同じにするもの
うな動きをするということが挙げられる。この特徴は、
である。鏡像をそのプロトタイプとするあらゆる表象
言語レヴェルでは、鏡で映しあったような対称性を持
の有効性が、地上的世界における全ての意味づけの根
った構文という形で現れる。例としては、‘ Hereyousee
'田園
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3
mee,and 1am y
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他方では別離と対比されていると言える。身体的別離
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Window' 1
は言うまでもなく、完全な身体的合ーも地上的変転を
(
寸heGood-morrow' 1
5
)‘Tumet
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免れないことは、肉欲のはかなさを扱った数多くの詩
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3
)等が挙げられるだろう。合
ばかりでなく、よりプラトニックな詩においても、「遜
わせ鏡のように立つ二人の「映し合い Jは、目や涙に
る」愛は必ず死に至ることより明らかである。「対崎」
互いの姿が映し出されるという現象によってさらに強
というポーズに対するダンの思い入れは、彼が、合わ
調される。これらの「反映」は、パシュラールの提示
せ鏡のように立つ二人の絶対的反映の均衡の中に、流
する、「反映する水」は「幻影が現実を訂正するという
動する世界の中の特権的な一瞬ー永遠が顕現する瞬間
体系的な観念化Jをもたらし、「創られた世界」に「プ
ーを見いだしたことからくるのだと言えるだろう。
ラトン的威厳を与え j るという法則{川こ従っている。つ
3
.溶解する鏡面
まり、映像は、死を通しての表象などと同様に、一種
の純化の機能を果たすのである。一般に‘ Imageand
Dream'と呼ばれる詩においては、心に映る恋人の像は
ダンが流動に対する強い不安を抱いていたことは、ケ
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実物を理想化したものであり(‘ lmageo
アリーが既に指摘している。(12)この不安がいかに大きな
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'の中の、次
ものであったかは、‘TheSecondA
金術の比犠(‘ Whod
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れるだろう。
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.4
4
)では、恋人達の眼球に映る風景は、現
実の世界を蒸留したエッセンスである。同様に、‘The
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1
5
-6
)では、映し出
された「顔」の中に、より純粋な存在である「心Jが
宿っているとされる。
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このように、表象を媒介とした相手の間接的所有が、
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)
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より純粋で精神的な関係として、直接的・肉体的所有と
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'の次の詩行にも見
対比されていることは、‘TheEx
これまでの考察から、ダンの作品において、流動の不
て取れるだろう。
安が鏡面の崩壊の不安という形で表れることは、当然
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とも言えよう。‘ Soflowesherf
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eWindow'は、鏡像及び
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表象のイメージを様々に展開させた、いわゆる‘ conceit
ここでは、互いの目に見入るという疑似的な身体の結
を多用した詩である。詩の中で、語り手は、自らが不
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在の問、恋人を不実な行いから守るために、自分の名
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'7-8
)は、互いの目のうちに像を生み出
を窓ガラスに刻んで残すのだが、このまじないの効力
すという疑似的な「子づくり J(
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n')へとつなが
は、全て「反映Jの有効性にかかっている。例えば、第
る。つまり、二人の恋人が向き合い、互いの目に顔を
二連では、ガラスに彫られた名前と、そこに映った恋
映し合うという情景の中に、肉体的結合の代替となり、
人の顔との重ね合わせより、「二人が一つである J('But
かつそれを純化した関係としての精神的結合が体現さ
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れるのである。そうして、興味深いことに、恋人達の
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1-2
)という誠実な愛の根拠が導き出され
「向き合い」の情景が見られるのは、 'TheGood-morrow'
るのだが、これは、(第一連に既に見られる)名前と語
のような後朝の歌、或いは、恋人達の別離の歌の中で
り手本人、映像と恋人本人との同一視が大前提となっ
ある。つまり、二人の対崎は、一方では身体的合ーと、
ている。或いは、彫られた名前は、恋人の見倣うべき
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正~司
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l
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'亨
24
忠誠、愛、悲しみ等の模範 (
'
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'
)になるとされるの
要なのは、ここで同時に、涙によって目と鏡の中の像
だが、窓ガラスに付与されたこれらの資質も、刻まれ
との対時が流され、解体されてしまうことである。こ
た名前と、その名前の主との重ね合わせを根拠として
のように、「映し・映される」関係の中に愛の確証を得、
いる。六・七連で、「模範」の働きを説明するのに、「照
その関係の(特に流動する水による)崩壊の中に愛の終
応」の世界観の理論的な支えの一つである、「感応力」
罵・限界を見るという図式がダンの恋愛詩には見て取れ
‘
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)の考えが持ち出されていることは、注目すべ
る
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きだろう。天と地との映し合いが、語り手とガラスに
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彫られた名前、さらには名前とそれを読む恋人との聞
形態、すなわち、ものを映す鏡面をもった球体として
)を
の様々な価値(忠誠、愛等)の映し合い(移し合い 7
の形態と、不定形の流動体としての形態とのうちに示
される。この詩は、ダンに特徴的な、別れを前にした
裏書きしているのである。
d
l
e
ところが、最終連では、この一連の奇想は覆され、‘ i
恋人が向き合って、互いの目に見入っている情景を扱
t
a
l
k
e
'の語で一蹴されてしまう。詩全体の基盤となって
っているが、そこで焦点、を当てられるのは、互いの涙
いた象徴及び表象(彫られた名前、ガラスに映った顔)
に顔が映り、次に涙が流れてその像が消えるというこ
の物質性に焦点が当てられ、それによって、それらの
つの現象である。一・二連では、この二つの現象は、そ
もつ象徴としての機能が否定されるのである (
'
B
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れぞれ最初の七行と最後の二行を占める。
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-2
)。ここで注目すべきなのは、‘ s
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と
いう言葉が、両刃の剣となり得るということである。永
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'は、二人の、映像や表
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象を通しての重ね合わせのうちに実現する。これは、ガ
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)が「物質的」
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としてのガラスや名前としての線を、単なる「物質」に
'substan庇めることは、一方では、彼らの愛が「実質的J(
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)であることの証しとなるかもしれないが、同時に、
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'を解いてしまう行為でもある。その結果、
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られないまま旅立たなければならないのである。
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lこ収められた‘ Saphot
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'も同様に、鏡像
を通しての空想上の愛の成就とその崩壊を描いた作品
である。(14)
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'或いは‘ a
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'にするの
(
5
1
-6
)
は、涙に映った恋人の顔や、球に写された世界地図で
ある。すなわち、あらゆる価値付けや意味付けは、映
鏡に映った自分の姿を恋人と重ね合わせることによ
像の中に生じ、逆に、これらの映像の消滅により、二
って、語り手は不在の恋人と対面するが、鏡の中の似
人の世界は「無」に帰すのである。 W.エムプソンは、‘ t
h
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姿に接吻をした瞬間、冷たいガラス面としての鏡の物
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]
'(
8
)のうちに、涙が流れるこ
質性が暴露され、愛のまじないは解かれてしまう。重
とと恋人が不実になることとの重ね合わせを読み、次
25
の行とともに、「男が去ってしまえば、女は不義をはた
‘
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"
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'の中に、さらには、互いの目に
らくかも知れない」という含みがあることを指摘して
映る反映の中に、永遠に静止した恋人たちを称揚する
'
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一方で、永遠性とは相容れないにしても、愛を生きた
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)。 聞
ものにする「あふれる思い Jを、後世の人々の語りに
これまで見てきたように、ダンの '
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'は
、
譲り渡すことによって保存するという巧妙な仕掛けが、
ひとえに反映や表象の有効性にかかっていた。つまり、
この連には施されているのである。このようにして、ダ
この詩にみられる暖昧さは、涙という流動する鏡面を
ンの作品に、(しばしば賞賛の対象とされる)鮮やかな
主題にしたことの必然的な帰結であるとも言える。
現在性を与える「流れるもの・遊るもの」の説得力は、
事実、詩全体の調子は、水という物質の振る舞いに
反面、流動の必然性という形で、彼を絶望に追いやる
よって規定されている。各スタンザ中程の短い二行は、
ものでもある。‘Omo陀 t
h
e
nMoone'の詠嘆は、このよう
目にたたえられた涙が落ちる寸前の緊張感を模倣し、そ
な、流れる水のイメージの、両義的な力をその底流に
れに続く三行連句は、流動する涙を体現するかのよう
ひそませているのだと言えるだろう。
に、ゆったりと流れる韻を踏みながら、二行の五歩格
から・最終行の七歩格へと酒々と流れ込む。この流れる
結び
o
r
l
d
'の行跨り
ような動きは、第二連の‘ overflow/Thisw
(
e
吋ambement)において特に顕著である。寸heAnniver-
Butf
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'第三連を締め括る三行連句(‘Le
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e,andaddea
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'28-3
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)にも、‘ a
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'の多用や行跨
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りによって、先へ先へと駆り立てるような動きが出さ
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れているが、‘ AV
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2
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同様の働きをしていると言えるだろう。(これと対照的
なのは、‘TheA
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n
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'の中でも、「死」の原理を提唱
ダンの作品にみられる溶解する鏡面の不安は、後に
する第二連の三行連句である。そこでは、最終行の六
ワーズワースが '
I
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m
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yOde'の一節で表している
歩格に中心の行区切りをおき、対句の安定した形を与
‘
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m'と比較できるもののように思われる。ダ
えることによって、「流動」の堰止めが体現されている。
ンの恋愛詩において、流れる先の見えない水や、反射
'Whenb
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出 向m
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する鏡面を失った水によって表されているのは、盲目
2
0
)
的に突き進む主体が他者や外界から何の手ごたえも得
‘
AV
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fWeeping'においては、水の持つ抗し難
られない不安であると考えられる。‘ Blankmisgivingso
f
い流動性が生み出す詩全体の哀調は、三連冒頭の・omore
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'によって表
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nMoone'の詠嘆に極まる。鳴咽を模倣するような m音
現されているのは、まさに、そのような、主体の能動
や O音によって表される嘆願の悲槍感は、涙が流れ、映
的意識のみで構築された世界を前にしての、主体の戸
像が消えるという素朴な現象には、一見不釣り合いの
惑いであろう。ワーズワースが肯定的にとらえている
ようにさえ見えるかもしれない。しかし、流動の絶望
この幼時の感覚は、ダンにとっては幾ばくかの魅力と
につき動かされたようなこの詠嘆は、 '
P
o
rGodsakeh
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同時に、ある根源的な不安を呼び起こすもののようで
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ある。逆に、「反映 Jのイメージは、内的世界と外界と
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の相互依存の中に、実存の感覚が生み出される過程を
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eGood-morrow')や古田i
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表すものである。このような意味で、ダンの恋愛詩の
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n
g
'
)等の、勝ち誇った呼びかけと対を成して、
中の主人公たちの、恋人と向き合うという行為は、自
ダンの作品における「流れるもの」の持情を作り上げ
らを現実に呼び戻すために壁や木に手をのばした、子
ている。流動の要請がいかに強いものであるかは、最
供時代のワーズワースの行為。η と同じ意味を持っと言え
終的には「反映・静止・死」の原理に落ちつく寸heCanoni-
る。他者の存在の手応えのうちに、自己の存在を確認
z
a
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i
o
n
'でさえも、最終連の語りのモードでは、冒頭の呼
することへの執着が、ダンの作品における「対峠」や
びかけの熱情を取り戻していることにも窺えるだろう
「反映」の一つの基盤となっているのである。
‘
(Beg from above /A patteme o
fyour l
o
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e
!
'4
4-5
)。
一方で、この流動の不安という持情の、歴史的展望
'
市
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夜「
26
のもとでの位置づけを試みることも可能だろう。ジョ
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d Hooker
, George H
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. Temple
ン・ダンが生きたのは、人々が世界観の大きな変動を経
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9
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)
.最近では、 J
.ケアリーがその
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t
験した時代であった。A.o
.ラヴジョイや M.H.ニコルソ
伝記的批評の中で、ダンと変転との関係を詳細
ンらの考察によれば、この変動は、大まかに言って静
JohnDonne:L仇
に検証している。 JohnCarey,
的な秩序から動的な秩序への移行と表現できる一面を
持つものである。ニコルソンが検証するのは、十七世
紀において、天地人が互いに照応しあい調和を成すと
i
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f
いう、旧来の世界観における美的理念であった‘ c
p
e
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'が崩れ、これに代わって、地理上・天文学上
のさまざまな発見を契機とする、広大さと無限の美学
‘
(a
田thetiωofi
n
f
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n
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'
)が誕生する過程である JIS}同じ変動
を、ラヴジョイは、二つのプラトン的神一時を超越し
た、自己完結的な、永遠不変の絶対者としての「あの
世的」神と、創造界の多様性の中に顕現し、あらゆる
可能態の現前を志向する、時の中での絶えざる変転、生
MindandArt
,Newed.(
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,1
9
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)
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照応の世界観の崩壊の、文学における表れに
(
2
)
つ い て は 、 M.H. Nicolson,TheB
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eに詳しい (
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)。
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ガストン・パシュラール、『水と夢J
、小浜俊郎
(
4
)
・桜木泰行訳、国文社、 1969年、 76-9頁参照。
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,TheMetaphysical P
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(
5
)
,1932)287-8参照。
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,Chap.IV参照。複数の
(
6
)
成への衝動の体現で‘ある「現世的」神ーのうち、後者
世界の存在については、 W.エムプソンが、ダン
が次第に前者を凌駕し、ロマン主義の屋台骨となるに
の信仰の正統性の問題と関連づけて興味深く論
じている。 WilliamEmpson
‘
,Donnet
h
eSpaceMan'
至る過程の中にとらえている otW}
この歴史的過程におけるダンの位置はどのようなも
のだろうか。ダンといえば、その作品において、マク
(
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9
5
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)337-9
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.
引用は、すべて HelenGardner,
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.,
TheE
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用した、「照応 J‘
(co汀田pondenc田')の詩人という印象が
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9
6
5
)に拠っ
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強い。側パトロンの娘の死を悼んで書いた二篇の‘ Anniv保
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白'では、照応しあう完全な球体の天地より成る旧秩
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本論中の SongsandS
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sおよび、 E
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sからの
(
7
)
ロコズムとマイクロコズムの映し合いのイメージを多
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.
.
.
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(
8
)
序の崩壊を、哀惜の念をもって記録したことでも知ら
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3
)
れている。照応の世界観が、その基盤となる「反映」の
参照。寸heGood-morrow'のこの部分と、ニコルソ
イメージの内包する安定性・永遠性の感覚を通して、ダ
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'の先駆の例として引いて
ンが‘ a
ンの詩的感性に強く訴えたことは確かだ石う。しかし、
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'の中の一節
いる、 HenryMoreの
「照応」のイメージが多用された背景には、逆に、(好
との比較から、ダンの思想史上の位置を推察す
むと好まざるとにかかわらず) r
流動」および「拡張」
ることも可能だろう。
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への強い要請が働いていることも否定できない。ダン
にとっては、ロマン派的な「生の原理 J(
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)を肯定することは、地上的存在の免れえない
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「流動性」や「変転」の前に屈することを意味し、これ
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wHeaven
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l
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,163)
は根本的には旧秩序に属するダンの容認するところで
はなかった。しかしながら、 SongsandS
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sに見られ
(
9
)
9
4
7
)5
3
.
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y(ChicagoUP,1
る持情の、ある重要な部分は、「流れるもの」の持情に
依拠しており、「反映」の永遠性と表裏一体を成して、
ダン特有の詩情を形づくっているのである。
Rosemond Tuve
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(
1
1
)
註
(
1
3
)
(
1
)
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kWalton,L
i
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s0
1JohnDonne
,HenryW
o
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,
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水と夢 J
、 79頁
。
(
1
2
)
" L
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,Chap.6,'
C
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'参照。
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7
8
)
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7
Gardnerはこの詩を、状況的証拠によらず、テー
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1
4
)
マや文体の‘ i
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'を理由に、ダンのも
のではないと結論づけ、 Dubiaに分類している。
他の主だった版は、最も新しい版である John
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.,JohnDonne(
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s,Oxford
Carey,e
UP,1990)を含めて、この作品を収録している。
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(
1
5
)
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7
3
)1
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6-72参照。引用は 1
6
6頁より。
(
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(
1
6
)
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)
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7
)
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.IV,V参照。
(
1
8
)
(
1
9
)
T
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eG
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tChaino
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g参照。二つのプラトン
的神については、特に第三章に詳しい。
(
2
0
)
川崎寿彦氏は『ダンの世界』において、「照応」
の詩人としてのダンを詳細に検証している(研究
社
、 1967年)。
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