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溶解する鏡面
官 F 1 9 溶解する鏡面 一- S o n g sa n dS o n n e t s試論一一 阿部曜子 1.ウォルトンの L i v e so f Jo h nDonne ,e t c .以来、ダンの評 示すもの」と「指し示されるもの」という関係を内在 伝は一貫して、信仰を求めて苦悩するという詩人像を させる、あらゆるイメージによって表される。 例えば、 強調してきた f ダンにとって信仰の獲得が容易な過程 硬貨に刻印された肖像、詩や書物などの文字による表 ではなかった要因としては、多くのカトリック殉教者 象、また、特にダン独特のものとしては、「死」にまつ を輩出した家系に生まれたという伝記的事実や、彼が わる一連のイメージとして、死者という不在者を指し 生来強い壊疑主義的精神を持っていたという点などが 示す「墓」、「墓碑」、「遺骨」等がある。この一連のイ 指摘されている。ダンの生きた時代が、世界観の大き メージ群と新プラトン主義的宇宙観との関連は一目瞭 な変動を経験したという事実も、無論、看過できない。 然だろう。被造物の世界に元来刻印された永遠不変の 天地が互いに照応し合いつつ調和を成すという旧来の イデアが、逆にそこからの抽出・抽象化によって認識さ 世界観が崩壊しはじめ P科学と宗教、地上界と天上界、 れるーこのプロセスを視覚化するのに、鏡援を代表と 「もの」と「ものの意味」との断絶が進んだ時代にあっ する反映のイメージがいかに重要であるかは、「、洞窟の て、信仰がいかに難しいもので、あったかは、想像に難 比職」を思い起こせば明らかである。事実、A.o .ラヴ ジョイによれば、鏡のイメージは、新プラトン主義者 くない。 本論の目的は、このような詩人像を踏まえつつ、 S o n g s たちの常用したものである♂しかし、ダンの作品にみ a n d S o n n e t sにおける信頼の成り立ち及びその崩壊を、「反 られる「反映」の特徴は、そのイメージが、それが本 映」と「流動 Jという措抗するこつの力を手がかりと 来内包する矛盾を抱えたまま用いられていることにあ して探ることにある。恋愛詩に見られる、恋人に対す る。「反映Jは、自己完結的な唯一者を指し示すもので ' f a i 出')への渇望は、宗教的な信仰(‘ f a i t h ' )への渇 る信頼 ( ありながら、同時に、唯一者の十全な自己実現には、創 望と同様に、移ろいゆく地上的存在の中に絶対者を求 造物界が必要であることを明らかにする。この矛盾の める探求として表れる。「流れるもの」の説得力と、「映 ために、「反映」のイメージは、異なる性質を持つ二種 し合うもの」の恒常性との聞で揺れ動きながら、絶対 の絶対性を包含することになる。一つは、「反映」を通 者の在処を探る詩人の姿を通して、ダン特有の感性の して、階層構造の頂点をなす超越的な唯一者(プラトニ 一端を示すことができればと思う。 1 .r 反映」と「流動」 ズムのイデアやキリスト教の神)に遡り、それを支えと .パシュラールの言 する絶対性である。もう一つは、 G うような、「反映の絶対性J( γ a b s o l ud ur e f l e t')である。こ れは、「映された」唯一者にではなく、むしろ、「映し 一方は「静止」あるいは「死」、他方は「動き」ある ・映される」関係の限りない相対性の中に、逆説的に見 いは「生」によって特徴づけられる、「反映」と「流動J o n g s いだされる絶対性を指す♂後に考察するように、 S というこつの力は、詩の中のイメージのみならず、語 a n d S o n n e t sにみられる絶対性も、このような、「反映の りのモードや韻律においても相対しながらダンの恋愛 絶対性」を拠り所としている。「映し合い」という感覚 詩の世界を形づくっている。 を超越した、確固たる信頼の核があるわけではないと 「反映」は、直接、知覚はできない「絶対的なもの J いう点に、ダンにおける信頼の脆さの表れを見ること をこの世に映し出す手段である。この過程は、鏡像を ができるのである。このことは、‘同時に、ダンが新プ はじめとして、「映すもの」と「映されるもの」、「指し ラトン主義的形而上学から演鐸的に反映のイメージを 20 生み出した(或いは借用した)のではなく、反映のイメー 的時間の長大さ(永遠)に神の特性を見るという審美的 ジを通して、帰納的に、彼自身の恋愛の形市上学を思 態度{めーを予感させる、めくるめく存在の謡歌とでも言 考していたということをも示す。このような意味では、 うべき詩情の萌芽がみられる。しかしながら、続く詩 T . S .エリオットが指摘した、ダンの持情における思考と 行が示すように、二人の恋人が互いの誠実さを見いだ の(その後のエリオットの訂正 感覚の融合という要素は J すのは、互いの目に映る像の中である。つまり、後に はともあれ)やはり否定することはできないだろう。 考察するように、「拡張」の魅力は「流動」の不安と表 「反映」の原理が、このようなイデア界と創造物界、 裏一体であり、ダンの作品において、「絶対的なもの」 天上界と地上界、オリジナルとそのコピー等より成る (恋人に対する信頼、神に対する信仰)は、最終的には、 二層構造の世界観を表す一方で、「流動」の原理は、(ベー 「反映」の中に宿るとされるのである。 コン主義的な)人間精神による探求の舞台としての、平 「流動」を経て、その対抗手段としての「反映」に至 面的・一元的な世界を表すものである。能動的な生をモ n n i v e r s a r i e 'と ‘ TheC a n o n i z a t i o n 'を る過程を、まず‘ TheA デルとするこの世界は、絶え間ない変転を経ながら、現 n n i v e r s a r i e 'の力(翻って短所と 例に見てみたい。‘ TheA 世的時間・現世的空間の中の運動性として現前する。こ もなり得るのだが)は、高らかな愛の称揚ではなく、逆 付加」 の世界を表現するのに用いられるのは、「拡張 Jr に「流動 Jの原理の前に敗北した語り手の聞き直りの 「更新」等のイメージである。平面的な拡張の感覚は、 レトリックのうちにある。第一連において、愛は絶え 無論、十七世紀の専売特許ではないが、めざましい地 間ない「更新」によって、永遠に近づこうとする。 上的世界の拡張一様々な地理上の発見、また、宇宙に おいては、望遠鏡を用いた観察を通しての、複数の世 界(居住可能な星々)の存在の可能性の認識ーが人々の 想像力に及ぼした影響は疑い得ないだろう f特に後者 T h i s[ o u rl o v e ],notomo汀 owh a t h,n o ry田 t e r d a y, Runningi tn e v e rr u n sf r o mu saway, B u tt r u l yk e e p 田 h i sf i r s t,l a s t,e v e r l a s t i n gd a y . ( 8 1 0 ) は、それまで地球の(空間的のみならず)構造的上方に 広がっていた宇宙を、地球の延長線上の拡がりに置き ‘ Runningi tn e v e rr u n sf r o mu sa w a y 'の一行には、問題の核 なおしたという点で、計り知れない影響力を持ったと 心となるパラドクスが呈示されている。「走る Jという 推察できる。 動きは、他のいくつかの自動詞で表される行為ととも 二つの原理の対照は、‘TheGood-morrow'の以下の詩行 に簡潔に現れている。 に、生起しては消えていく現世的存在を象徴するもの である。「遊る」情熱にその本質を持つ「愛」は、どう 言い繕ったところで、結局は「走り去って」しまわざ L e ts e a d i s c o v e r e r st oneww o r l d sh a v egone, るを得ない。愛を「走るもの」と規定した瞬間、愛と L e tMapst oo t h e r s,w o r l d sonw o r l d sh a v eshowne, 永遠性とは相容れないものとなるのである。それゆえ、 L e tu sp o s s 回目 o u rw o r l d,e a c hh a t ho n e,a n di so n e . 第二連は、第一連を暗黙のうちに訂正する。‘Twog r a v 邸 m u s th i d et h i n ea n dmyc o a r s e, '( 1 1 )‘ A la s,a sw e l la so t h e r h i n ei nminea p p e a r 田, Myf a c ei nt h i n ee y e,t Andt r u ep l a i n eh e a r t sdoei nt h ef a c e sr e s t, Wherec a nwef i n d etwob e t t e rh e m i s p h e a r e s W i t h o u ts h a r p eN o r t h,w i t h o u td e c Ii n i n gWest? ( 1 2 -8 1 ) η P r i n c e s,wee,...Mustl e a v ea tl a s ti nd e a t h,t h e s ee y 回 , a n d e a r e s, '( 1 3,1 5 )語り手は、遊る生の力も、死を前にして は無力であることを認め、今度は、逆に、死を通して の永遠性の獲得を試みる(‘ Buts o u l回 wheren o t h i n gd w e l l s b u t l o v e 'e t c .17-21)。しかしながら、来世で至福を得る こ こ で 、 複 数 の 新 た な 世 界 を 求 め て 旅 立 つ ‘s e a - という静的な愛の成就は、結局語り手を満足させず(‘ But d i s c o v e r e r s 'は、無心の前進や無限の拡張への志向を代表 weenomore,t h e na 1 1t h er e s t , ,2 2 )、この詩は、最終的には、 する。 ' L e t . ..'の表現(このような呼びかけ態は S o n g sa n d ' L e t 「更新」に表される生の原理に立ち戻ることになる ( S o n n e t s~こ頻出する)に見られる直情の吐露には、ダンの、 u sl o v en o b l y, 'a n dl i v e ,a n da d d ea g a i n e/Y e a r e sa n dy e a r 出 熱情家という魅力的なー側面と同時に、能動的な生の u n t oy e a r 遊りを肯定するかのような態度が感じられる。ここに に完全には身を任せてしまえないことが、言わずもが 邸 "28-9)。それでもなお、ダンが「流動」の力 は、やがて十七世紀後半になって現れることになる‘ a田 - なの ' t i l lwea U a i n e/Tow r i t et h r e e s c o r e '( 2 9 -3 0 )を付け加え t h e t i ω o fi n f i n i t y '一地上的空間の広大さ(無限)や、地上 ていることにより暴露される。流動の運動性・現在性を 署F 2 1 謡歌した次の瞬間にも、流れ行く先に目を向けずには 「 死 Jが顔を出さずにはいられない。第四連冒頭で、詩 いられないダンにとって、流動はやはり愛の勝利では 人が開き直って「死」を受け入れるのもこのためであ なく、敗北なのである。流動の真の終着点である「死」 る ( ‘ Weec a ndyebyi t,i fn o tl i v ebyl o v e ' )。ここに至って、 を覆い隠す「六十になるまで Jという言葉が、ある種 「更新」により正当化されていた「流動」の原理は捨て 拍子抜けの印象を与えるのも当然かもしれない。 られ、代わって、愛に内在する変化を超越するための a n o n i z a t i o n 'は、同様な出発点から論理を展開し 寸heC 「死の原理」が取り上げられる。(このことは、各スタ ながらも、「流動」の原理から「反映」の原理への転化 ンザを締めくくる‘ l o v e 'の語が、一・二連の動詞から三 が見られる詩である。第一連では、問答の相手である 連以降は名詞に替わっていることからも予感される。動 俗物らしき友人と、恋する話し手の態度が対照的に取 的な愛から静的な愛へ、具体的な愛から観念としての り上げられている。 愛へと主題が移ったのである。)つまり、二人の恋人は、 死んで‘ l e g e n d '‘ s o n n e t s '‘ h y m n e s 'を残すことによって、言 F o rGodsakeh o l dy o u rt o n g u e,a n dl e tmel o v e, Orc h i d emyp a l s i e,o rmyg o u t, い換えれば、それらの背後に身を隠し、それらの中に 指し示されるもの」として生き延 「意味されるもの Jr Myf i v eg r a yh a i r e s,o rr u i n 'df o r t u n ef l o u t, びることによって、はじめて地上的変転を超越し、永 Withw e a l t hy o u rs t a t e,y o u rmindew i t hA r t si m p r o v e, 遠性を獲得するのである。恋人達の、このような抽象 Takeyouac o u r s e,g e tyouap l a c e, 世界への離脱は、最終連において、話し手が後世の声 O b s e r v eh i sh o n o u r,o rh i sg r a c e, に叙述を譲って、自らは、今度は「語られる」存在に Andt h eK i n g sr e a l l,o rh i ss t a m p e df a c e p p r o v e, C o n t e m p l a t e ;whatyouw i l l,a Soyouwi I ll e tmel o v e . なることにより、決定的となる。 愛が死を通して不変性を獲得するとは、あまりにも 陳腐なテーマのようであるが、 SongsandSonnetsにおい て注目すべきなのは、「死」とは、象徴や表象の背後に ここで目につくのは、相手のとるべき行動が全て「他 隠れることを意味し、自に見えぬもの(死者)が物質的 動詞・目的語」の様々な組み合わせにより表現され、し 存在(遺骨、墓等)の中に映し出されるという構造の醸 かも、行中心の区切りや交差配列を多用して、一行の し出す安定感の中にこそ、永遠性が見いだされるとい 前後の均衡を強調する構文が用いられていることであ うことである。無論、 SongsandSonnetsに強く見られる る。これによって、命令文の畳み掛けの激しさにもか 死への傾倒は、一つには、死の持つ不動性に由来する。 かわらず、全体としては、前後の重みを測りながら、ま 永遠の愛の追求にとって、変転を免れ得ない生身の身 た、発した語句を一つ一つ受けとめながら進む、とい 体性がいかに邪魔であるかは、寸heC a n o n i z a t i o n '寸he った印象が生み出される。文の前半と後半、動詞と目 e l i q u e '‘ AN o c t u r n a l luponS .L u c i e sDay' な F u n e r a l l '寸 heR 的語など、二つの要素の対崎より生まれる均衡は、後 ど、恋する語り手の死を仮定した作品の多いことから に考察する、 SongsandS o n n e t sにおける向き合う恋人達 も明らかである。寸'wicknamGarden'の語り手の‘ s t o n e の静謡、とともに、ダンの作品の世界における安定性の x t a s i e 'の恋人達が‘ s e p u l f o u n t a i n e 'への変身や、‘TheE 基盤となる。これとは極めて対照的に、一・二連を通し c h r a l ls t a t u e s 'のように横たわっていたという描写なども、 ての話し手の行為は、「愛する」ことのみであり、しか 同じような死の静けさへの志向を表す。しかし、同時 もこの言葉は、‘ l e tmel o v e '( 1, 9 )‘ s h ea i 1d1d ol o v e '( 1 8 )と に重要なのは、死んで肉体を剥ぎ取られ、魂という純 いったように、自動詞として用いられている。つまり、 粋なエッセンスに昇華することによって得られる永遠 この‘ l o v e 'は、目的語という終着点を持たない‘ l o v e 'で 性である。瞬間瞬間の自発的かっ自足的な存在である n n i v e r s a r i e 'に見られる‘ R u n n i n g '' L e tu sl o v e あり、寸heA 自動詞的な「遜る」愛を抜け出た語り手は、今度は不 n o b l y, 'a n dl i v e '等の自動詞と同様、「遊る」という肯定的 変のイデアと化して、「映し・映される J二重構造の中 側面でとらえられてはいても、あくまで「流動する」存 に入り込むのである。この意味で、語り手の死を想定 在としての愛を体現するものと言える。第 3連の、 'Wee した詩には、必ず、残された詩や遺骨や噴水等の意味 d y ea n dr i s et h es a m e ' も、寸h eA n n i v e r s a r i e 'の基盤となっ を「読む J第三者が登場することは注目に値するだろ ている「絶え間ない更新」のテーマの変奏であるが、こ T h eC a n o n i z a t i o n 'で二人の恋人の伝説を読んで規範 う 。 ' のパラドクスにもまた、「流動」の必然的な帰結である e l i q u e 'で、語り手の死後も変わらぬ とし、また、寸heR 22 愛を願うまじないである‘ ab r a c e l e to fb r i g h th a i r ea b o u tt h e 拠になっていることは、ダンの説教の次のような一節 b o n e '( 6 )を聖遺物として敬う後世の人々、寸wicknam にも窺われる。 G a r d e n 'で、石の噴水となった語り手の涙を、恋人の涙 の真贋を見極めるための試薬として持ち帰る人々、‘ The ...a st h a twhichs e ei nag l a s s e,a s s u r , 田 u s,t h a ts u c hat h i n g E x t a s i e 'で、身体より抜け出た二つの魂の会話を耳にし、 t h e r ei s,( f o rwec a n n o ts e eadreamei nag l a s s e,n o raf a n c y , 「新しい妙薬」を飲んだかのように魂を清められる、通 n o raC h i m e r a )s ot h i ss i g h to fGod,whicho u rApos t 1es a y e s りすがりの人物(‘ He.../Mightt h e n c eanewc o n c o c t i o n weh a v ei nag l a s s e,i se n o u g ht oa s s u 同 u s,t h a taGodt h e r e t a k e,/Andp aは f a r r ep u r e rt h e nhecame'2 5-8 )ーこれらは i s .(イタリックは原著者 y 問 皆、抽象化された愛の精髄を事物から読み出す役を担 2 .対崎 っている。永続する愛は、事物の彼方にあるものとし て映し出され、あるいは指し示されなければならず、こ れが現世に顕現するためには、映し出す物質や解読す SongsandS o n n e t sに登場する恋人達の典型的な情景と a r a d o x 'のような作品 る人が必要となるのである o 'TheP して、二人の対面の場面が挙げられる。これは、寸he を見れば、激情の遊りが反映の二重性・表象行為の二重 E x t a s i e '' t h eGood-morrow'‘ AV a l e d i c t i o n :ofWeeping'など 性と相容れず、逆に死の静止を経て二重構造の中に組 に見られる情景だが、それは一様に静寂、不動、集中 み込まれて、はじめて永遠性に到達するという認識が の一瞬として描かれている。「対崎 Jの醸し出す安定感 ダンにあったことは明らかになるだろう。「愛する」こ が、第ーには、このポーズの、あたかも死の不動を摸 a i t h, とと「語る」ことの聞の矛盾を示すこと(‘ NoLovers 倣するような動きの欠如に由来することは、例えば寸he 1l o v e '1 , ‘ 1c a n n o ts a y1l o v ' d,f o rwhoc a ns a y/Heewask i l l ' d E x t a s i e 'の ‘s e p u l c h r a l ls t a t u e s 'という表現にも見て取れる y白 t e r d a y ? '5-6 )から始まるこの詩は、次のような結論に だろう。同時に重要なのは、凝視するという行為に特 達する。 x t a s i e 'の恋人たちの、糸 有の集中の感覚である。‘ TheE で、繋がれたような目(‘Oureye-beam田 t w i s t e d,a n dd i dt h r e d /Ourey回, u p o noned o u b l es t r i n g '7-8 )は、固く結び合わさ Once1l o v ' da n dd y e d ;a n damnowbecome a l e d i c t i o n :o fmyName れた二人の心を思わせ、また、 'AV MineE p i t a p ha n dTombe. i nt h eWindow'では、ガラスに刻まれた恋人の名を見つ Hered e a dmens p e a k et h e i rl a s t,a n ds odo1 ; L o v e s l a i n e,l o e,h e r e1l y e . ( 1 6 9 ) めることによって、残された女性は貞節を守ることが できるとされている。これらのイメージには、単なる l o v ' da n dd y e d 'は、自動詞的な逝る愛 言うまでもなく、 ' 奇想以上の真実が含まれている。固定や安定の感覚が、 とその結果を表す一方で、「自分」が「自ら」の墓碑銘 いかに深く凝視のイメージに依存しているかは、見る や墓となるという表現に含まれる反省的屈折は、表象 ものを石に変えるゴルゴーンの神話、或いは日本語の 行為に内在する二重性を体現するものである。 「凝」視という表現そのものなどを思えば明らかであろ SongsandS o n n e t sに登場する様々な「もの」の存在意 う。当時の文学に頻出する、旅立つ恋人に肖像を渡す 義は、「もの」の向こうにあるより高次の存在を指し示 l e g i e :H i sP i c t u r e '等)も、 という習慣(ダンの作品では、‘ E すサインとしての機能にあることが、以上より明らか 実物の恋人と向き合い、見つめ合って、互いの忠誠を であろう。この機能は、R.チューヴが述べるルネッサ 確認することの代替行為と考えられる。つまり、視線 ンス的イメージの概念、すなわち、「具体」が「抽象」 を特定の人に向けて固定することによって、心も固定 を語り、「個別 Jが「普遍」に声を与え、「もの Jと「も されるのである。 のの意味」とのたやすい互換が起きる精神構造仰が前提 ダンの恋愛詩において、さらに興味深いのは、対時 になっていると考えられる。この精神構造は、万物有 や凝視の生み出す安定感が「映し合い」の永遠性によ 霊の自然観(キリスト教的文脈においては、創造物界を、 って補強されていることである。これらの場面の第一 その中に神を読み込む‘ Booko fC r e a t u r e s 'とみなす思想) の特徴として、二人の恋人が互いに似かよい、同じよ の一貫として、「照応」の世界観と根を同じにするもの うな動きをするということが挙げられる。この特徴は、 である。鏡像をそのプロトタイプとするあらゆる表象 言語レヴェルでは、鏡で映しあったような対称性を持 の有効性が、地上的世界における全ての意味づけの根 った構文という形で現れる。例としては、‘ Hereyousee '田園 2 3 mee,and 1am y o u '‘ (A V a l e d i c t i o n :o fmy Namei nt h e 他方では別離と対比されていると言える。身体的別離 2 )‘ Myf a c ei nt h i n eeye,t h i n ei nminea p p e a r 田' Window' 1 は言うまでもなく、完全な身体的合ーも地上的変転を ( 寸heGood-morrow' 1 5 )‘Tumet h o ug h o s tt h a tway ,a ndl e t 免れないことは、肉欲のはかなさを扱った数多くの詩 metumt h i s '( ' T h eE x p i r a t i o r γ 3 )等が挙げられるだろう。合 ばかりでなく、よりプラトニックな詩においても、「遜 わせ鏡のように立つ二人の「映し合い Jは、目や涙に る」愛は必ず死に至ることより明らかである。「対崎」 互いの姿が映し出されるという現象によってさらに強 というポーズに対するダンの思い入れは、彼が、合わ 調される。これらの「反映」は、パシュラールの提示 せ鏡のように立つ二人の絶対的反映の均衡の中に、流 する、「反映する水」は「幻影が現実を訂正するという 動する世界の中の特権的な一瞬ー永遠が顕現する瞬間 体系的な観念化Jをもたらし、「創られた世界」に「プ ーを見いだしたことからくるのだと言えるだろう。 ラトン的威厳を与え j るという法則{川こ従っている。つ 3 .溶解する鏡面 まり、映像は、死を通しての表象などと同様に、一種 の純化の機能を果たすのである。一般に‘ Imageand Dream'と呼ばれる詩においては、心に映る恋人の像は ダンが流動に対する強い不安を抱いていたことは、ケ fh e rwhom1 l o v e , 実物を理想化したものであり(‘ lmageo アリーが既に指摘している。(12)この不安がいかに大きな moret h e ns h e '1 )、 ' T h eC a n o n i z a t i o n '最終連にみられる錬 n n i v e r s a r i e 'の中の、次 ものであったかは、‘TheSecondA 金術の比犠(‘ Whod i dt h ewholewo r 1d ss o u l ee x t r a c t,and のような印象的かっグロテスクなイメージにも読み取 d r o v e/l n t ot h eg l a s s e so fyoure y e s,/.../C o u n t r i e s,Townes, れるだろう。 C o u r t s ' 40-1 .4 4 )では、恋人達の眼球に映る風景は、現 実の世界を蒸留したエッセンスである。同様に、‘The ,t h i n ei nminea p p e a r e s,/ Good-morrow'('Myf a c ei nt h i n eeye 均l dt r u ep l a i nh e a r t sdoei nt h ef a c e sr 田 ピ 1 5 -6 )では、映し出 された「顔」の中に、より純粋な存在である「心Jが 宿っているとされる。 Nora r e ,( a l t h o u g ht h er i v e rk e e pt h ename) od a i e st h es a m e . Y e s t e r d a i e sw a t e r s,andt h i n ee i e s,n e i t h e rnow Sof l o w e sh e rf a c e,andt T h a ts a i n t ,n o rP i l g r i m e ,w hichyourl o v i n gvow e m a i n e s ;b u twhi l 's tyout h i n k eyoub e e Concemd,r このように、表象を媒介とした相手の間接的所有が、 o u 'a r eh o w r e l yi ni n c o n s t a n c e e . C o n s t a n t,y ( 3 9 3-4 0 0 ) < 助 より純粋で精神的な関係として、直接的・肉体的所有と t a s i e 'の次の詩行にも見 対比されていることは、‘TheEx これまでの考察から、ダンの作品において、流動の不 て取れるだろう。 安が鏡面の崩壊の不安という形で表れることは、当然 a c e,andt h i n ee i 回'のグロテ とも言えよう。‘ Soflowesherf スクさは、流動する世界の中で唯一の永遠を体現する Sot o 'e n t e r g r a f to u rh a n d s,a sy e t ││i│ 状況が、流されてしまっていることに起因するのであ 回 t omakeu sone, Wasa 1 1t h emean る 。 Andp i c t u r e sono u rey 出 t og e t • Wasa 1 1o u rp r o p a g a t i o n . ( 9 -1 2 ) AV a l e d i c t i o n :o fmyNamei nt h eWindow'は、鏡像及び ‘ ' 表象のイメージを様々に展開させた、いわゆる‘ conceit ここでは、互いの目に見入るという疑似的な身体の結 を多用した詩である。詩の中で、語り手は、自らが不 合 ('Oureye-beamest w i s t e d,andd i dt h r e a d/Oure y 田, u pon 在の問、恋人を不実な行いから守るために、自分の名 oned o u b l es t r i n g '7-8 )は、互いの目のうちに像を生み出 を窓ガラスに刻んで残すのだが、このまじないの効力 すという疑似的な「子づくり J( ' p r o p a g a t i o n')へとつなが は、全て「反映Jの有効性にかかっている。例えば、第 る。つまり、二人の恋人が向き合い、互いの目に顔を 二連では、ガラスに彫られた名前と、そこに映った恋 映し合うという情景の中に、肉体的結合の代替となり、 人の顔との重ね合わせより、「二人が一つである J('But かつそれを純化した関係としての精神的結合が体現さ o v e smagiquec a nundoe,/Hereyous e emee, a 1 1s u c hr u l e s,l れるのである。そうして、興味深いことに、恋人達の and1amy o u '1 1-2 )という誠実な愛の根拠が導き出され 「向き合い」の情景が見られるのは、 'TheGood-morrow' るのだが、これは、(第一連に既に見られる)名前と語 のような後朝の歌、或いは、恋人達の別離の歌の中で り手本人、映像と恋人本人との同一視が大前提となっ ある。つまり、二人の対崎は、一方では身体的合ーと、 ている。或いは、彫られた名前は、恋人の見倣うべき ι 正~司 筏' l , '亨 24 忠誠、愛、悲しみ等の模範 ( ' p a t t e m e ' )になるとされるの 要なのは、ここで同時に、涙によって目と鏡の中の像 だが、窓ガラスに付与されたこれらの資質も、刻まれ との対時が流され、解体されてしまうことである。こ た名前と、その名前の主との重ね合わせを根拠として のように、「映し・映される」関係の中に愛の確証を得、 いる。六・七連で、「模範」の働きを説明するのに、「照 その関係の(特に流動する水による)崩壊の中に愛の終 応」の世界観の理論的な支えの一つである、「感応力」 罵・限界を見るという図式がダンの恋愛詩には見て取れ ‘ (i n f l u e n c e ' )の考えが持ち出されていることは、注目すべ る 。 ; !H j ilt431 きだろう。天と地との映し合いが、語り手とガラスに 'AV a l e d i c t i o n :ofWeeping'では、この図式は涙の二つの 彫られた名前、さらには名前とそれを読む恋人との聞 形態、すなわち、ものを映す鏡面をもった球体として )を の様々な価値(忠誠、愛等)の映し合い(移し合い 7 の形態と、不定形の流動体としての形態とのうちに示 される。この詩は、ダンに特徴的な、別れを前にした 裏書きしているのである。 d l e ところが、最終連では、この一連の奇想は覆され、‘ i 恋人が向き合って、互いの目に見入っている情景を扱 t a l k e 'の語で一蹴されてしまう。詩全体の基盤となって っているが、そこで焦点、を当てられるのは、互いの涙 いた象徴及び表象(彫られた名前、ガラスに映った顔) に顔が映り、次に涙が流れてその像が消えるというこ の物質性に焦点が当てられ、それによって、それらの つの現象である。一・二連では、この二つの現象は、そ もつ象徴としての機能が否定されるのである ( ' B u tg l a s s e, れぞれ最初の七行と最後の二行を占める。 andl i n e smustb e e,/Nomean田 o u rf i r m es u b s t a n t i a l ll o v et o L e tmepowref o r t h k e e p e ;' 6 1 -2 )。ここで注目すべきなのは、‘ s u b s t a n t i a l l' と いう言葉が、両刃の剣となり得るということである。永 田 b e f o r et h yf a c e,w h i l 's t]s t a yh e r e, Myt e a r a づヨ 民諸HHun-33H o v 田 m a g i q u e 'は、二人の、映像や表 遠の愛を保証する‘ l F o rt h yf a c ec o i n e sthem,a n dt h ystampet h e yb e a r e, 象を通しての重ね合わせのうちに実現する。これは、ガ Andbyt h i sM i n t a g et h e ya r es o m e t h i n gw o r t h, F o rt h u st h e yb e e ' g l a s s e ,a n dl i n e s ' )が「物質的」 ラスやそこに刻まれた線 ( P r e g n a n to ft h e e ; ( 's u b s t a n t i a l l')でないことを拠り所とする。それゆえ、鏡 としてのガラスや名前としての線を、単なる「物質」に 'substan庇めることは、一方では、彼らの愛が「実質的J( a e -gzaBM t i a l l ' )であることの証しとなるかもしれないが、同時に、 F r u i t so fmuchg r i e f et h e ya r e,emblemeso fmore , Whenat e a r ef a l l s,t h a tt h o uf a l l swhichi tb o r e , Sot h o ua n d1a r en o t h i n gt h e n,whenonad i v e r ss h o r e . l o v 回 m a g i q u e 'を解いてしまう行為でもある。その結果、 ‘ Onar o u n db a l l 語り手の男は、結局恋人の誠に関する保証を何一つ得 られないまま旅立たなければならないのである。 E l e g i e s lこ収められた‘ Saphot oP h i l a e n i s 'も同様に、鏡像 を通しての空想上の愛の成就とその崩壊を描いた作品 である。(14) Aworkemant h a th a t hc o p i e sby,c a nl a y AnEurope,A f r i q u e,anda nA s i a, Andq u i c k l ymaket h a t ,w hichwasn o t h i n g,A l l, Sod o t he a c ht e a r e, Whicht h e ed o t hweare, Ag l o b e , y e aw o r l dbyt h a ti m p r e s s i o ngrow, L i k e n e s s eb e g e t ss u c hs t r a n g es e l f ef l a t t e r i e, T i l lt h yt e a r e sm i x tw i t hminedoeo v e r f l o w T h a tt o u c h i n gmys e l f e,a l lseemesdonet ot h e e . a t e r ss e n tfromt h e e,myh e a v e nd i s s o l v e d T h i sw o r l d,byw ,a n dmineowneh a n d s]k i s s e, Mys e l f e] 'embrace s o . Anda m o r o u s l yt h a n k emys e l f ef o rt h i s . Me,i nmyg l a s s e,1c a l lt h e e ;Buta l a s, When1wouldk i s s e,t e a r 邸 d immeminee y e s,andg l a s s e . ここで¥‘ n o t h i n g 'を ‘ somethingw o r t h '或いは‘ a l l 'にするの ( 5 1 -6 ) は、涙に映った恋人の顔や、球に写された世界地図で ある。すなわち、あらゆる価値付けや意味付けは、映 鏡に映った自分の姿を恋人と重ね合わせることによ 像の中に生じ、逆に、これらの映像の消滅により、二 って、語り手は不在の恋人と対面するが、鏡の中の似 人の世界は「無」に帰すのである。 W.エムプソンは、‘ t h a t 姿に接吻をした瞬間、冷たいガラス面としての鏡の物 t h o uf a l l s I版によっては f a l s t ] '( 8 )のうちに、涙が流れるこ 質性が暴露され、愛のまじないは解かれてしまう。重 とと恋人が不実になることとの重ね合わせを読み、次 25 の行とともに、「男が去ってしまえば、女は不義をはた ‘ l e g e n d s " s o n n e t s " h y m n e s 'の中に、さらには、互いの目に らくかも知れない」という含みがあることを指摘して 映る反映の中に、永遠に静止した恋人たちを称揚する ' T h e r ei snoneo ft h eP l a t o n i cp r e t e n c eDonnek e e p sup いる ( 一方で、永遠性とは相容れないにしても、愛を生きた e l s e w h e r e,t h a tt h e i rl o v ei si n d e p e n d e n to fb e i n gt o g e t h e r ' )。 聞 ものにする「あふれる思い Jを、後世の人々の語りに これまで見てきたように、ダンの ' P l a t o n i cp r e t e n c e 'は 、 譲り渡すことによって保存するという巧妙な仕掛けが、 ひとえに反映や表象の有効性にかかっていた。つまり、 この連には施されているのである。このようにして、ダ この詩にみられる暖昧さは、涙という流動する鏡面を ンの作品に、(しばしば賞賛の対象とされる)鮮やかな 主題にしたことの必然的な帰結であるとも言える。 現在性を与える「流れるもの・遊るもの」の説得力は、 事実、詩全体の調子は、水という物質の振る舞いに 反面、流動の必然性という形で、彼を絶望に追いやる よって規定されている。各スタンザ中程の短い二行は、 ものでもある。‘Omo陀 t h e nMoone'の詠嘆は、このよう 目にたたえられた涙が落ちる寸前の緊張感を模倣し、そ な、流れる水のイメージの、両義的な力をその底流に れに続く三行連句は、流動する涙を体現するかのよう ひそませているのだと言えるだろう。 に、ゆったりと流れる韻を踏みながら、二行の五歩格 から・最終行の七歩格へと酒々と流れ込む。この流れる 結び o r l d 'の行跨り ような動きは、第二連の‘ overflow/Thisw ( e 吋ambement)において特に顕著である。寸heAnniver- Butf o rt h o s eo b s t i n a t eq u e s t i o n i n g s tu sl o v en o b l y,a n d s a r i e '第三連を締め括る三行連句(‘Le Ofs e n s ea n do u t w a r dt h i n g s, l i v e,andaddea g a i n ee t c . '28-3 0 )にも、‘ a n d 'の多用や行跨 P a l l i n g sfromu s,v a n i s h i n g s ; りによって、先へ先へと駆り立てるような動きが出さ Blankm i s g i v i n g so faC r e a t u r e れているが、‘ AV a l e d i c t i o n :ofWeeping'の韻律も、これと Movinga b o u ti nw o r l d sn o tr e a l i z e d ( 1 4 2 -6t6l 同様の働きをしていると言えるだろう。(これと対照的 なのは、‘TheA n n i v e r s a r i e 'の中でも、「死」の原理を提唱 ダンの作品にみられる溶解する鏡面の不安は、後に する第二連の三行連句である。そこでは、最終行の六 ワーズワースが ' I m m o r t a l i t yOde'の一節で表している 歩格に中心の行区切りをおき、対句の安定した形を与 ‘ a b y s so fi d e a l i s m'と比較できるもののように思われる。ダ えることによって、「流動」の堰止めが体現されている。 ンの恋愛詩において、流れる先の見えない水や、反射 'Whenb o d i e st ot h e i rg r a v 出, s o u l 田 fromt h e i rg r a v 出 向m ove' する鏡面を失った水によって表されているのは、盲目 2 0 ) 的に突き進む主体が他者や外界から何の手ごたえも得 ‘ AV a l e d i c t i o n :o fWeeping'においては、水の持つ抗し難 られない不安であると考えられる。‘ Blankmisgivingso f い流動性が生み出す詩全体の哀調は、三連冒頭の・omore aC r e a t u r e/Movinga b o u ti nwo r 1 d sn o tr e a l i z e d 'によって表 t h e nMoone'の詠嘆に極まる。鳴咽を模倣するような m音 現されているのは、まさに、そのような、主体の能動 や O音によって表される嘆願の悲槍感は、涙が流れ、映 的意識のみで構築された世界を前にしての、主体の戸 像が消えるという素朴な現象には、一見不釣り合いの 惑いであろう。ワーズワースが肯定的にとらえている ようにさえ見えるかもしれない。しかし、流動の絶望 この幼時の感覚は、ダンにとっては幾ばくかの魅力と につき動かされたようなこの詠嘆は、 ' P o rGodsakeh o l d 同時に、ある根源的な不安を呼び起こすもののようで your t o n g u e,and l e t me l o v e '( ' T h eC a n o n i z a t i o n ' ) や‘ I ある。逆に、「反映 Jのイメージは、内的世界と外界と wonderbymyt r o t h, whatt h o u, and1/Did, t i l lwel o v 'd ? ' の相互依存の中に、実存の感覚が生み出される過程を ( ' T h eGood-morrow')や古田i eo l df o o l e,u n r u l yS u n n e '( ' T h e 表すものである。このような意味で、ダンの恋愛詩の SunneR i s i n g ' )等の、勝ち誇った呼びかけと対を成して、 中の主人公たちの、恋人と向き合うという行為は、自 ダンの作品における「流れるもの」の持情を作り上げ らを現実に呼び戻すために壁や木に手をのばした、子 ている。流動の要請がいかに強いものであるかは、最 供時代のワーズワースの行為。η と同じ意味を持っと言え 終的には「反映・静止・死」の原理に落ちつく寸heCanoni- る。他者の存在の手応えのうちに、自己の存在を確認 z a t i o n 'でさえも、最終連の語りのモードでは、冒頭の呼 することへの執着が、ダンの作品における「対峠」や びかけの熱情を取り戻していることにも窺えるだろう 「反映」の一つの基盤となっているのである。 ‘ (Beg from above /A patteme o fyour l o v e ! '4 4-5 )。 一方で、この流動の不安という持情の、歴史的展望 ' 市 司『聖 夜「 26 のもとでの位置づけを試みることも可能だろう。ジョ R i c h a r d Hooker , George H e r b e r t ,& c . Temple ン・ダンが生きたのは、人々が世界観の大きな変動を経 ,1 8 9 8 ) .最近では、 J .ケアリーがその C l a s s i c s( D e n t 験した時代であった。A.o .ラヴジョイや M.H.ニコルソ 伝記的批評の中で、ダンと変転との関係を詳細 ンらの考察によれば、この変動は、大まかに言って静 JohnDonne:L仇 に検証している。 JohnCarey, 的な秩序から動的な秩序への移行と表現できる一面を 持つものである。ニコルソンが検証するのは、十七世 紀において、天地人が互いに照応しあい調和を成すと i r c 1eo f いう、旧来の世界観における美的理念であった‘ c p e r f e c t i o n 'が崩れ、これに代わって、地理上・天文学上 のさまざまな発見を契機とする、広大さと無限の美学 ‘ (a 田thetiωofi n f i n i t y ' )が誕生する過程である JIS}同じ変動 を、ラヴジョイは、二つのプラトン的神一時を超越し た、自己完結的な、永遠不変の絶対者としての「あの 世的」神と、創造界の多様性の中に顕現し、あらゆる 可能態の現前を志向する、時の中での絶えざる変転、生 MindandArt ,Newed.( F a b e r ,1 9 9 0 ) . 照応の世界観の崩壊の、文学における表れに ( 2 ) つ い て は 、 M.H. Nicolson,TheB r e a k i n g0 1t h e C i r c l eに詳しい ( R e v i s e de d ., ColumbiaUP,1 9 6 0 )。 A .O.Lov吋oy,TheGreatChain0 1B e i n g :AS t u d y0 1 ( 3 ) H a r v a r dUP,1 9 4 2 )6 3 . t h eH i s t o r y0 1a nI d e a( ガストン・パシュラール、『水と夢J 、小浜俊郎 ( 4 ) ・桜木泰行訳、国文社、 1969年、 76-9頁参照。 T .S .E l i o t ‘ ,TheMetaphysical P o e t s 'i nS e l e c t e d ( 5 ) ,1932)287-8参照。 E s s a y sσaber TheG r e a tC h a i n0 1B e i n g ,Chap.IV参照。複数の ( 6 ) 成への衝動の体現で‘ある「現世的」神ーのうち、後者 世界の存在については、 W.エムプソンが、ダン が次第に前者を凌駕し、ロマン主義の屋台骨となるに の信仰の正統性の問題と関連づけて興味深く論 じている。 WilliamEmpson ‘ ,Donnet h eSpaceMan' 至る過程の中にとらえている otW} この歴史的過程におけるダンの位置はどのようなも のだろうか。ダンといえば、その作品において、マク ( K e n y o nReview1 9,1 9 5 7 )337-9 9 . 引用は、すべて HelenGardner, e d ., TheE l e g i e sand 用した、「照応 J‘ (co汀田pondenc田')の詩人という印象が C l a r e n d o nP r e s s,1 9 6 5 )に拠っ TheS o n g sandS o n n e t s( 強い。側パトロンの娘の死を悼んで書いた二篇の‘ Anniv保 s a r i 白'では、照応しあう完全な球体の天地より成る旧秩 I~[ 本論中の SongsandS o n n e t sおよび、 E l e g i e sからの ( 7 ) ロコズムとマイクロコズムの映し合いのイメージを多 戸 わ. . . . 0 TheB r e a k i n g0 1t h eC i r c l eお よ び M.H.N i c o l s o n, ( 8 ) 序の崩壊を、哀惜の念をもって記録したことでも知ら M o u n t a i nGloomandM o u n t a i nG l o r y( N o r t o n,1 9 6 3 ) れている。照応の世界観が、その基盤となる「反映」の 参照。寸heGood-morrow'のこの部分と、ニコルソ イメージの内包する安定性・永遠性の感覚を通して、ダ e s t h e t i c so fi n f i n i t y 'の先駆の例として引いて ンが‘ a ンの詩的感性に強く訴えたことは確かだ石う。しかし、 ・I n f i n i t yo fW o r l d s 'の中の一節 いる、 HenryMoreの 「照応」のイメージが多用された背景には、逆に、(好 との比較から、ダンの思想史上の位置を推察す むと好まざるとにかかわらず) r 流動」および「拡張」 ることも可能だろう。 f a r r eaboven への強い要請が働いていることも否定できない。ダン にとっては、ロマン派的な「生の原理 J( ' t h es p o n t a n e o u s , F u r t h e rt h e nf u r t h e s tt h o u g h to fmenc a nt r a v e r s e o v e r f l o w ' )を肯定することは、地上的存在の免れえない S t i l la r eneww o r l d sabovenandaboven 「流動性」や「変転」の前に屈することを意味し、これ I nt h ' e n d l e s s eh o l l o wHeaven ( T h eB r e a k i n g0 1t h eC i r c l e ,163) は根本的には旧秩序に属するダンの容認するところで はなかった。しかしながら、 SongsandS o n n e t sに見られ ( 9 ) 9 4 7 )5 3 . I m a g e r y(ChicagoUP,1 る持情の、ある重要な部分は、「流れるもの」の持情に 依拠しており、「反映」の永遠性と表裏一体を成して、 ダン特有の詩情を形づくっているのである。 Rosemond Tuve ,E l i z a b e t h a n and M e t a p h y s i c a l .P o t t e randE .M.Simpson,e d s .,TheS ermons G.R ( 1 0 ) ,1 0v o l s .( C a l i f o r n i aUP,1953-6 1 )Vo . l 0 1 JohnDonne V I I I,2 3 3 . ( 1 1 ) 註 ( 1 3 ) ( 1 ) I z a a kWalton,L i v e s0 1JohnDonne ,HenryW o t t o n , r 水と夢 J 、 79頁 。 ( 1 2 ) " L i f e ,Chap.6,' C h a n g e '参照。 W.M i l g a t e ,e d TheE p i t h a l a m i o n s ,A n n i v e r s a r i 叫 吋 andE p i c e d e s( C l a 陀 n donP r e s s,1 9 7 8 ) . ~ 2 7 Gardnerはこの詩を、状況的証拠によらず、テー ( 1 4 ) マや文体の‘ i n t e r n a le v i d e n c e 'を理由に、ダンのも のではないと結論づけ、 Dubiaに分類している。 他の主だった版は、最も新しい版である John d .,JohnDonne( O x f o r dA u t h o r ss e r i e s,Oxford Carey,e UP,1990)を含めて、この作品を収録している。 W i l l i a mEmpson,S e v e nT y p e so fA m b i g u i t y ,2 nde d . ( 1 5 ) 9 7 3 )1 6 6-72参照。引用は 1 6 6頁より。 ( P e n g u i n,1 J o h nO .Hayden,e d .,W i l l i a mW o r d s w o r t h :Poems , ( 1 6 ) Volume1( P e n g u i n,1 9 7 7 ) . ‘ I m m o r t a l i t yOde'に関する ( 1 7 ) I z a b e l l aFenwickN o t e s に以下のようにある 1waso f t e nu n a b l et ot h i n ko fe x t e r n a lt h i n g sa s n d 1communedw i t ha l l h a v i n ge x t e r n a le x i s t e n c e,a u ti n h e r e n ti n, t h a t1sawa ss o m e t h i n gn o ta p a r tfrom,b myowni m m a t e r i a ln a t u r e . Manyl i m e sw h i l eg o i n gt o s c h o o lhave1g r a s p e da taw a l lo rt r e et or e c a l lm y s e l f Poems,9 7 8 ) fromt h i sa b y s so fi d e a l i s mt ot h er e a l i t y .( TheB r e a k i n go f t h eC i r c l e ,C h a p s .IV,V参照。 ( 1 8 ) ( 1 9 ) T h eG r e a tChaino fB e i n g参照。二つのプラトン 的神については、特に第三章に詳しい。 ( 2 0 ) 川崎寿彦氏は『ダンの世界』において、「照応」 の詩人としてのダンを詳細に検証している(研究 社 、 1967年)。