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バー君主
ィ; Jヽ 称; ︱︱ ﹁君 主 の心 得 ﹂ と桓 公 の最 期 ︱ ︱ この篇 は、前 二章が、管仲 の説 いた ﹁ 君主の心得﹂であり、後 二章 は、かれの死後、その忠 こ と ば 言を いれずに非業 の最期を遂げた桓公 の物語 である。 ﹁ 身 の不善 をこれ思えよ。人 のおのれを知 るなきを思うるなかれ﹂ ﹁ われに過為あり、而して民に過命なし﹂ ﹁ 善く身を罪する者 は、民罪するを得ぎるなり﹂ ﹁ 為を務むるは久しからず、虚を蓋う は長からず﹂ 人民 の目 は 公平 であ る 。 、 人 に理解 され な いから と い って案 ず るよりも 自分 の至 ら な さを恨 め 。 のあり かを探 り当 て る。 丹 青 は奥 深 い山 にあり 、美 し い珠 は水 中 深 く沈 ん で いる それ でも人 々はそ 、人民 はそれ を見 逃 さな い。 人民 の目 は ふし穴 ではな い。 それ と同 じ よう に、君 主 が過 ちを犯 せば 。 を しけば人民 は 、 政 人 日 の つか ぬと ころ で悪事 を は たら いても 隠 しお お せ るも のではな い 君 主 が善 。 難 は、 君主 が側 非 や す ぐ さ ま それ を賞 賛 す る し、過 ちを犯 せば ただ ち にそれを非 難 す る 人 民 の賞 賛 、 。 れ た のだ。 近 にた し か め て み るま でも なく、 当 を得 て いる だ から こそ 音 の明 対 は人民 を恐 、 。 は必ず 滅 び る。 人民 か ら賞 賛 され慕 われ る者 は必ず 栄 え る 反 対 に 人民 から非 難 され嫌 われ る者 、領 土 を失 う破 目 におち いる。 天 子 や諸 侯 にし ても同 じ こと で、評 判 を おと し て人民 の支持 を失 えば だ から こそ、音 の明藩 は人民 を 恐 れ た のだ。 。 独裁者﹂にヒットラーの背伸びを諷刺するシーンがある 独裁者の虚勢 チャップリンの映画 ﹁ っ る。二人が ムッソリー ニが握手をしようとすると、背の低いヒットラーは踏み台をも てこさせ ッ ろそうと パーのカウンターに坐ると、 ヒットラーは回転椅子を回して大男のム ソリー ニを見下 。カウ 。 する。ムッソリー ニも負けまいとして椅子を高くする かくして両人とも天丼にまで届く 。 ンターははるか下のほうにあり、グラスをとろうとしてもとれない⋮⋮ 、 。 じっ ″ 君主″というものは、自己を実力以上に見せたがる性質をも つ しかし その本当の姿を 管子日、身不善之患。母忠人莫己 管子曰く、﹁ 身 の不善をこれ忠えよ。 人 のおのれを 知 るなきを患 と見 ているも のが いるのだ。 知。丹青在山、民知而取之、美珠在 淵、民知而取之。是以我有過為、而 。 を捐 てて走る。故 に先工は民を畏る﹂ 天子諸侯ありといえども、民 みな名を操りてこれを去れば、その地 なわち帰りて家 に問うなし。故 に先王は民を畏る。名を操り人を従 う、彊 ならぎ るなきなり。名を操り人を去 る、弱ならぎるなきなり。 過ちあれば、立ちどころにわれを毀る。民の毀誉に当たり てや、す べからず。故 にわれに姜あれば、立ちど ころにわれを誉む。われに うるなかれ。 丹青、 山に在れば、民知り てこれを取り、 美珠、 淵 に在れば、民知り てこれを取る。 ここをも ってわれに過為あり、而 して民に過命なし。民 の観るや察なり。遁逃しても って不善をなす 民母過命。民之観也察突。不可遁逃 以為不善。故我有善、則立誉我。我 有過、則立毀我。当民之毀誉也、則 英帰間於家尖。故先王畏民。操名従 人、無不彊也。操名去人、無不弱也。 雖有天子諸侯、民皆操名而去之、則 綱其地面走央。故先王畏民。 過失は自己に、功績は臣下に 自分 で罪をかぶろうとす る君主 には、人民 は罪をか ぶせな い。人 に罪をかぶせようとする君主 には、 人民 は罪をかぶせる。 自分 の行な った悪政を認 める君主は勇気 のある君主 である。善政 に つとめる君主 は賢 明な君主 であ る。そして、罪を人 になすり つけな い君主 は情深 い君主 である。明君 は、悪政 の責任 は自分 がとり、 。 、 善政 のてがらは人民 のも のにする。悪政 の責任を自分 がとれば わが身 の戒 めとな る 善政 のてがら 、 、 を人民 のも のにすれば、人民 は喜 ぶ。 わが身 を戒 め 人民を喜ばす これ こそ明君が人民 の支持を得 るゆえんであ る。 、 。 と ころが、暴君 の架王 や紺王はそう ではなか った かれらは善政 のてがらはひとり占 めにし 悪政 。 、 の責任 は人民 に転嫁 した。責任を人民 に転嫁すれば 人民 の怒りを買う 善政 のてがらを ひとり占 め 。 、 にすれば、自分 は傲慢 になるばかりだ。人民 の怒りを買 い 自分 はますます倣慢 になる これ こそ暴 君 が身 を滅 ぼす ゆえんである。 。 明君 ともなれば、人民 の声 に耳を傾 け、人民 の表情 に目を向けるも のだ これで こそ天下を保 つこ 善く身を罪する者は、 民罪するを得ぎるなり。 身を 管子曰く、﹁ 管子日、善罪身者、民不得罪也。 。 とができ るのである。為政者 たる者 は、 この点 に心す べき であろう 。 たとえば、大 工は道具を手足 のよう に使う。だから寸分 の狂 いもなく し ごとを仕上げ る 弓 の名人 。 算 は、弓矢を手足 のよう に使 った。 だからねら いを はずす ことがなか った 名御者 の造父はたづなを 。 、 手足 のよう に使 った。だから獣 よりも速く馳り どんな に遠く へでも行く ことが できた 。 、 為政者 にと って、道具 や弓矢 やたづな にあた るのが 人民 の声 と表情 であ る 天下 は治まるときも 。 、 あ るし、乱れ るときもあ る。 明君が位 に つけば治ま るが 暴君が位 に つけば乱れ る 明君が天下を治 。 めるのは、人民 の声 に耳 を傾 け、人民 の表情 に日を向 けるからであ る 子 称 彊也。治身之節者恵也。不以不善帰 不能罪身者、民罪之。故称身之過者 は仁なり。故 に明王過ちあれば これを身 に反し、善あれば これを民 彊 なり。身 の節を治むる者は恵なり。不善をも って人に帰 せざ る者 罪する能わぎ る者は、 民 これを罪す。 故 に 身 の過ちを称する者は 7有以感弓矢。故般可得中也。造父 乎。匠人有以感斤概。故縄可得料也。 以感日。以此 二者有天下尖、可母慎 以失身也。故明王側声以感耳、燿気 身則身騎。往怒民、来騎身。此其所 帰之於民。帰之於民則民怒、反之於 梁付不然。有善則反之於身、有過則 常乱なく、常治なし。不善人在れば乱れ、善人在れば治まる。 こと 轡笈に感ずるあり。故 に返獣及ぶべく、送道をも致す べし。天下は う。故に毅中 るを得 べし。造父はも って ” はも って弓矢 に感ずるあ︱ けんや。匠人はも って斤福 に感ずるあり。故 に組、料 るを得 べし。 燿気も って日に感ず。 この二者をも って天下を有 つ、慎むなかるべ これその身を失うゆえんなり。故 に明王は、燿声も って耳 に感じ、 れを身 に反 せば身鷹 る。往きて民を怒らし、来たり て身を騎らす。 民を治む るゆえんなり。今それ粂紺 は然らず。善あれば これを身に 反し、過ちあれば これを民に帰す。 これを民に帰すれば民怒り、 こ 帰 せば民喜 ぶ。往き て民を再ばし 、来たり て身を性る、これ明工の に帰す。過ちありてこれを身 に反 せば身情る。善あり てこれを民に 人者仁也。故明工有過則反之於身、 有善則帰之於民。有遇而反之身川身 燿。有善而帰之民則民喜。往荘民、 有 以感轡箕。故遺獣可及、遠道可致。 ごとく これを感ず るゆえんを善くするに在るなり﹂。 来悧身、此明王之所以治民也。今夫 天下者無常乱、無常治。不善人在則 乱、善人在則治。在於既善所以感之 也。 管仲の死と桓公の最期 、 管仲 が病気 にな った。見舞 いにい った桓公は 、 。 ﹁仲父 よ、 おまえ の病状 ははかばかしくな い この際 な にか いい残す ことはな いか﹂ 。 し、おきさ いれ ﹁お つし ゃられ るまでもなく、わたしのほうから中 し上げ た いことがあります しか になるかどうか⋮⋮﹂ 。 。 いう こ ﹁そんな ことはな い。東 に行 けというなら東 に行く 西 に行 けと いうなら西 に行く おまえの とならなんでもきく﹂ 管仲 は、起 き上が って衣冠を正した。 、 。 とし ﹁どうか易牙、竪 刀、 当聴ヽ公子開方 の四人をおそば から遠 ざ けてくださ い 易牙 は 料理番 赤ん坊 の蒸 し焼きだけはまだ食 べた ことがな い﹄ と い つかあなたが、﹃ てあなたに仕 えていますが、 。 し はかわ お っし ゃ ったと ころ、かれは自分 の長男を蒸 し焼き にして献上 しました 人間だれ もわが子 、 まし ょう いいはず です。 わが子を愛す ることさぇできない男が どうし て主君を敬愛す ることが でき カ 、 。 し あなたは女 がお好 き ですが、嫉妬心もお強 いほう です そ こに つけ こん で竪刀は わが身を去勢 。 いはず です。 てあなたを安心さ せ、後宮 の要職 にとりた てられま した 人間だれしもわが身 はかわ い 。 ょ 自分 で自分 を傷 つけ るような男が、どうし て主君 のために つくす ことが できまし うか また、衛 の公子開方 は、 あなたに仕 えて十五年 になりますが、そ の間 一度も親もと に帰 っておりま せん。斉 から衛 まではわず か数 日 の行程 にすぎま せん。自分 の親 さえ十 五年もかえり みな いような男 が、どうして主君を慕 っていると いえまし ょう。 ﹃作為 は い つまでも続 かな い。虚偽 は い つま でもかく しおおせな い﹄ とか中 します。 かれら のように、 主 君 のごきげんをと るためにおのれを い つわ る人間 は、 い つかは化 けの皮をあらわします。手をかま れ ぬうちに追放す べき です﹂ ﹁な るほど﹂ と、桓公はうなず いた。 まもなく管仲 は死んだ。桓公は管仲 の葬式をすますと、遺言どおり四人 の者を追放 した。 と ころが、医者 の堂巫を追放 してから桓公 の持病 である皮膚病 がぶりかえし てきた。易牙が いなく な ってから料理がまずくな った。竪ヨを追 いだし てから後宮 の風紀 が乱れ てきた。公子開方を追放 し てから朝廷 の政務が滞 るよう にな った。 ﹁ああ、管仲 のような聖人 でも判断を誤 ることがあ った のか﹂ 桓公は、四人 の者を呼 び戻す ことにした。 それから 一年後 のこと、 四人 の者が叛乱を起 こし て桓 公を 一室 に監禁 する事件 が発生した。 たまた ま宮女 のひとりが、 ぬけ穴 から桓公 のところにし のび こんだ。桓公はもう息 もたえだえにな っていた。 ﹁わ た しは飢 えと渇 き で今 にも死 にそうだ。 飲 み食 いも さ せてく れ ぬとは、 な に ごとか﹂ 宮 女 が こた え るの には、 ﹁易 牙、 竪 刀、堂 巫、 公 子開方 の四人 が坂 乱 を起 こし た のです。 公子開方 は 一万 七千 五百 戸 の領 土 を も って衛 に降 伏 しま した。一 父通 が とだ え てから、 も う十 日 になり ます。 食 べ物 ど ころ では あ り ま せ ん﹂ 桓 公 は、 はら はら と涙 を流 した。 ﹁ああ、 聖 人 の ことば は やはり 正 しか った。 地 下 の管 仲 が この ことを知 った らな ん と いうだ ろう。 あ の世 で管 仲 に会 わす顔 が な い﹂ と、 いう なり桓 公 は、 自布 で顔 を掩 い、 そ のまま息 た えた。 桓 公 の死ん だ ことを外 部 の者 は、 は じ め知 ら な か った。 死後 十 一日、 死体 にわ いた蝸 が外 に這 いだ 門の名︶の扉 で掩 いかく し て す に至 って、 や っとそ の ことが わ か った。 宮 中 の者 は桓 公 の死体 を楊 門 ︵ 葬 った。 なぜ桓 公 は、 このよう に死後 十 一日、 蝸 が外 に這 いだ す ま で放 っておかれ た のか。 ほ か でも な い、賢 人 の献策 を最 後 ま で実 行 しな か った から であ る。 ︿ 易牙﹀ 葉の人、名は巫、易牙は字、狭牙ともいう。料理がうまく桓公のコック長として寵愛を 一身にうけた。料理の神様としてあがめられ、今でも大きな料理店のコック部屋には、その像を 掲げている。 称 。 ︿豊η﹀ 桓公の後宮係り の役人。かれはみず から去勢して、桓公を安 心させた 常之巫﹂ にな っている。祈蒔師 で、 諸病を祈蒔 で治していた。 桓公 呂氏春秋﹄ では ﹁ ︿堂巫﹀ ﹃ のお気に入り のひとり。 。 ︿開方﹀ 衛 の国 の公子。桓公にかわ いがられていたが、後 に衛 に寝返 った 管仲有病、桓公往間之。日、仲父 之病病実。若不可諄、而不起此病也、 。管仲対えて曰く、﹁ 君 の臣 に命ず るなきも、 寡人 に詔げんとする﹂ もし諄む べからずして、 この病より起たずば、仲父また何をも って 仲父 の 病 病なり。 管仲病あり、桓公往きてこれを間う。曰く、﹁ 仲父亦将何以詔寡人。管仲対日、微 ざらん﹂。公曰く、﹁ 仲父、寡人 に東を命ずれば、寡人束し、寡人に 寡人束、令寡人西、寡人西。仲父之 命於寡人、寡人敢不従乎。管仲摂衣 君 の易牙 ・竪ヨ ・堂巫 。公子開方を遠ざけん ことを。それ易牙は、 。管仲、衣冠を隧 し、起ちて対えて曰く、﹁ 臣願わくは わざらんや﹂ 西を令すれば、寡人西す。仲父 の寡人に命ず ること、寡人あえて従 もとより臣 これを謁げんとす。然りと いえども、君なお行なう能わ 君之命臣也、故臣且謁之。雖然、君 猶不能行也。公日、仲父命寡人東、 冠、起対日、臣願君之遠易牙、堅ヨ、 ず。人情 その子を愛 せざ るにあらぎ るなり。子においてこれを愛 せ 調和をも って公に事う。公口く、ただ嬰児を怒したるもの、 これを いまだ嘗 めず、と。 ここにおいて、その首子を悉してこれを公に献 公日、惟悉嬰児之未嘗。於是、悉其 首子而献之公。人情非不愛其子也。 ず、はた公に何かあらん。公、宮を喜びて而も妬む。賢ヨ自ら刑し て公のために内を治む。人情、その身を愛 せざ るにあらぎ るなり。 堂巫、公子開方。夫易牙以調和事公。 於子之不愛、将何有於公。公喜宮、 而妬。堅刀自刑而為公治内。人情、 30ラ 於公。公子開方事公十五年、不帰視 非不愛其身也。於身之不愛、将何有 を容れず。臣 これを聞く、為を務むるは久しからず、虚を蓋うは長 。 桓公日 からず、と。その生長からざ る者 は、 その死必ず終らず﹂ 事うること十五年、帰り てその親を視ず。斉 。衛 の間は、数 日の行 身 においてこれを愛 せず、はた公に何かあらん。公子開方 は、公に 管仲死し、す でに葬る。公、四子の者を憎 み、 これが官を廃す。 其親。斉衛之間、不容数日之行。臣 聞之、務為不久、蓋虚不長。其生不 管仲死、己葬。公、憎四子者、廃 堂巫を逐 いて、苛病起り、易牙を逐 いて、味わい至らず。竪刀を逐 善し﹂。 く、﹁ 之官。逐堂巫、両苛病起、逐易牙、 長者其死必不終。桓公日、善。 而味不至。逐竪刀、而宮中乱、逐公 処 ること期年 にして、四子難をなし、公を 一室 に囲 み、出ず るを 、 朝治まらず。 桓公曰く、﹁ いて、宮中乱れ、公子 方を 開 逐 い て あ 。すなわち四子の者を復す。 あ、聖人もとより惇 ることあるか﹂ 子開方、而朝不治。桓公日、嵯、聖 人固有惇乎。乃復四子者。 らず。その故は何ぞや﹂。婦人対えて曰く、﹁ 易牙 。豊刀 。堂巫 。公 処期年、四子作難、囲公 一室、不 得出。有 一婦人、遂従賓入、得至公 所。公口、吾飢而欲食、渇而欲飲、 子開方 の四人、斉国を分ち、塗十日通ぜず。公子閉方、書社七百を 。公曰く、﹁ も って衛 に下る。食、得ざらんとす﹂ ああ、聖人の言は 得ざらしむ。 一婦人あり、 ついに賓より入り、公のところに至るを 得。公曰く、﹁ われ飢えて食を欲し、 渇して飲を欲するに、 得 べか 不可得。其故何也。婦人対日、易牙、 竪刀、堂巫、公子開方四人、分斉国、 。すなわち 素崚を援りも って首を裏 みて絶 りて仲父を 地下 に見ん﹂ 長さかな。死者知るなくば己む。も し知 るあらば、われ何 の面目あ 塗十日不通実。公子開方、以書社七 百下衛実。食将不得夫。公日、嵯荻 乎、聖人之言長乎哉。死者無知則己。 。 若有知、吾何面日以見仲父於地下 乃援素崚以裏首面絶。 死十 一日、虫出於戸。乃知桓公之 扇。桓公之所以身 死也。葬以楊門之一 死十 一日、虫出戸而不収者、以不終 用賢也。 す。 。 死して十 一日、虫、戸より出ず。すなわち桓公の死を知れり 葬 、 、 るに楊門 の扇をも ってす。桓公の身死して十 一日 虫 戸より出 で 。 て収 めぎ るゆえんは、賢を用うるを終えぎ るをも ってなり 飽叔 牙の忠言 桓公がまだ勢威さかんだ ったころの話。 、 。 桓公と管仲、飽叔牙、客戚 の四人が酒盛りをしていた 宴 も たけなわにな った ころ 桓公は飽叔牙 に向 か って、 ﹁ひと つ、祝 いのことば でも い ってくれな いか﹂ 。 、 飽叔牙はさかずきをう やう ゃしくもち 立ち上が ってこう い った 。 ﹁わが落は、国を離 れて菖 に亡命 され ておられた ころ の御苦労をお忘れ にな ってはなりま せん 管仲 、 、 じ は魯 の国 に亡命 していた ころ の つらさを また算戚 は 牛車 の下 で飯をた べていた貧 しいころ のみ めさを忘れ るなよ﹂ 桓 公 は 席 を はず し、 頭 を下 げ て つぶ や いた。 ﹁わ た し と管 仲 、 客 戚 が 飽 叔 の こと ば を 肝 に銘 じ て い る か ぎ り 、 こ の国 は い つま で も 安 泰 で あ ろ う ﹂ ︿箕戚﹀ 桓公の重臣 のひとり。家が貧しく、若 い時 には牛車 の御考 にな って、ほそぼそと暮して いた。 忘るることなからしめん これはティピカルな束洋的 モラルの物語 である。日本 でも中国 でも、 苦労して天下をと った後 には、必ず家老や忠臣がでてきて、﹁ 殿 には、古日のお苦しみをお忘れな きように﹂と いうクダリがある。そして、 幸か不幸か、 多く の場合、君主はこの忠言を いつしか忘 れて、 身を滅 ぼす。桓公も この例 にもれない。それがかえ って、 この挿話をおもしろくさせている。 この エピ ソードを付したのは、﹃ 桓公の非業 の死を述 べたあとに、 管子﹄ 編者の期 せぎ る皮肉 である。 桓公、管仲、飽叔牙、客戚四人飲。 桓 公 ・管仲 。飽叔牙 ・算戚四人飲む。飲 一 酷 にして、桓公、飽叔 飲酬、桓公謂飽叔牙日、閣不起為寡 牙に調 いて曰く、﹁ なんぞ ちて寡人の寿をなさざるか﹂。絶叔牙、 起 人寿乎。飽叔牙、本盃而起日、使公 盃を奉じて 起ちて 曰く、﹁ 公をして出 でて菖 に如きし時を忘るるこ 冊忘出如菖時也。使管子母忘束縛在 となからしめん。管子をして束縛 せられて魯 に在りしを忘るること 魯也。使簿戚母忘飯牛車下也。桓公、 なからしめん。算戚をして牛車 の下に飯 せしを忘るることなからし 辟席再拝日、寡人与 二大夫、能無忘 めん﹂。桓公、席を辟け再拝して日く、﹁ 寡人と 二大夫と、よく夫子 。 夫子之言、則国之社程必不危尖。 の百を忘るることなくば、国 の社程必ず危うからじ﹂ 者 者 協 望 大 株 徳 松 ﹃ 中国 の思想﹄3 間 間 本 書 康 一 店 落 丁 ・乱 丁 は お取 替 え いた し ま す ︿検 印 廃 止 ﹀ 0 東 京 都 港 区 新 橋 4 の1 郵 使番号 一 〇 五 電 四 三二 上 ︿ 二 三 一 振 替 東 京 四︱ 四 四 三 九 二 函 布 本 刷 昭和 四十 年 〓一月 一 日 第 一版第 一刷 昭和四十八年 十 月 二十日 第 二版第 一刷 昭和五十 一年十二月二十日 第二版第二刷 訳 発 行 徳 快 男 社 社社所 行 紙 発 製 表 製 印 中 ﹄ の思 想 霞 需 版 松枝茂夫 ・ 竹内好/監修 一ヽく さく 、 全2 1巻 弱肉強食 の戦国時代 に、策をひ つさげ弁 舌ひと つで各国 を渡 り歩 いた論客たち。今 日流 にいえば経営 コンサ ルタ ントの権謀術数を伝える言行録。 戦国末期 韓 の国 の公子だ った韓非が説 いた 、 人を支配 ① 韓非子機◎磯鍮磯 摺広警 村 、 な し 理 は 秦の 始 皇 喘 ﹄ 鰤 印 科 和 締 款 鵜 一 は は れ 調 満 つ ・ せん ② 戦国策磯機0磯鬱 屋 洋訳 し ろう し 為自 よる の主体性確立を説く ≒っ 期 ︼ 螂 ﹁ 醐 裁 墟 帷 ゆ 好 ⑥ 老 子 o 子機動機 構益 ゲ 婢訳評 パ霧、毅 列 智 。 をあざけり 無 然に 英 ﹁ 殺人は死刑となるのに、 侵略戦争は大手柄とされると は何事か﹂と絶叫し、戦国動乱のなかで非戦論をとなえ 庶民の共感をよんだ異色 の思想家/ . 権力争奪と功利の渦まく時代 に、どう生きるべきか? ③ 孟子⑬磯③鬱③③ 童 禎訳 翻 、 こ の を ぼ 減 す と 鎚 ︲ 鋤 ﹃ 略 り 紗 諦 ・ な 識 助 助 い い ﹃ 燎 鶏 ﹁ ヽ 力 ド 州 錮 ④ 荀子③鬱⑬鬱醸⑬ 髪達委 輸 ﹁ ﹃川 赫 ﹃ [ 悧 一 ¨ 勒 T 辞 ﹄ ¨ 岬 中 嘲 融 ﹄ ¨ はく し も 墨子0の機OO機 留番訳 ⑤ 夕llt