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第2章(抜粋)

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第2章(抜粋)
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東京日日新聞の社説より
第2章 福地源一郎研究序説
はじめに
(
止しようとしたのは、直接的な解決を尊ぶという意味での、「軍隊政府」であった。
五百旗頭 薫
を、あらゆる場面において攻撃した。民権派に対する論争も、彼としてはその一環であった。彼が生涯をかけて阻
問題を発見すると過激な解決策を唱え、これが実現しないと憤慨し、より過激な言動に訴えるという行動様式
(
批判している。福地はその時期の対外政策を批判しただけではなく、類似したメンタリティに基づく行動様式
─
─
)と
福地は、征韓論に揺れ、台湾出兵に暴走する政府で志を得ず、後にこれを「軍隊政府」( military government
の一貫性と突出した威信の前には、福沢諭吉や後の吉野作造も色あせてみえることがある。
となり、健筆を揮った。一八七四年から一八八一年頃までが政論家としての全盛期であり、この時期に示した主張
福地源一郎 (櫻痴、一八四一 一九〇六年)は、在野において穏健な立憲主義と協調外交を系統的に提唱した、近
代日本で最初の政論家であった。一八七四年に東京日日新聞の主筆 (後に同紙の経営母体たる日報社の社長を兼任)
−
国会開設、条約改正、殖産興業といった論点において、福地は日本の実力と地方の実態に適合した漸進的な進歩
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(
近年、福地を再評価する研究が蓄積され始めている。それらには、福地の思想・活動のより肯定的な側面を指摘
( (
する傾向があり、自由民権思想に偏っていた既存研究を補正するうえで有益である。その成果を踏まえつつ、本章
(
(
一八七四 八一年
─
への理解を深めるうえで有益と考える
は福地の成功と挫折の両面に光をあて、その由来を説明しようとする。それが福地本人を理解するうえで不可欠で
─
あるのみならず、彼が中心となって演出した時代
−
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を唱えた。彼は、東京日日新聞という、最も影響力のあった新聞の社説欄を占拠して、リアリズムを鼓吹した稀有
の存在といえる。
したがって、その主張に賛同するかどうかは別として、彼ほど重要な研究対象は少ない。ところが、研究が乏し
い。なぜそうであるのか。
第一に、福地は軽率であった。青年客気にあふれ、信頼できないという評判があった。彼は漸進主義を標榜して
民権派と度々論争したが、一八八〇年の北海道開拓使官有物払下げ事件においては政府を激しく非難し、民権派か
ら喝采を浴びた。ところが、翌年の明治十四年政変の後、立憲帝政党を結成して政府支持を鮮明にした。この間の
態度の振幅はきわめて不評であった。
第二に、福地の活動は拡散している。日日新聞の主筆として多忙を極めていた時代から、福地は実業界の組織化
(
が追随する、と言われていた。それだけ大量の文章の相当部分が退屈だとしたら、福地研究にとって打撃であろう。
(
そして第三に、筆者は福地の論説の多くが退屈であると考える。福地の執筆力は旺盛であった。一八八三年前後
になっても、新聞界で毎日のように社説を紡ぎ出す能力があるのは福地だけであり、かろうじて自由新聞の古沢滋
成功を見ないまま手を引くこととなった。あとにはしばしば、借金が残った。
囲が及んだ。そのうえ、花柳界での艶聞・醜聞が絶えなかった。そして多くの場合、多芸多才が災いして、十分な
躍した。さらに、時期や文脈を異にしつつ、演劇改良運動、言文一致運動、脚本・小説や史論の執筆にまで活動範
(東京商業会議所、東京株式取引所など)や東京府会での政治活動 (府会発足の後、一八八九年まで議長を務めた)に活
第Ⅰ部 立憲政の潮流
第2章 福地源一郎研究序説
からである。
一八七三年の明治六年政変によって征韓論を排除した新政府は、台湾への出兵 (一八七四年)や朝鮮への開国圧
力によって大陸経綸への意欲をアピールしつつ、いくつかの代替的理念によって自らの統治を正当化しようとし
た。まず、殖産興業である。次に、条約改正である。そして、立憲政の導入を長期的な課題としては認知してい
た。これらの理念に対する原則的な賛同は、国内に広く共有されていた。
しかし、これらの理念は優先順位をめぐる争いの原因となったうえに、それぞれの達成状況も国内的な不満の源
泉であった。たとえば、国会開設の時期が示されたのは、一八八一年の明治十四年政変によってであった。条約改
(
(
正は日本の提案がヨーロッパ諸国に拒絶されることの繰り返しであり、混迷しつつも一定の展開を見せるようにな
ったのは一八八二年の条約改正予備会議からであった。殖産興業は、財政難・インフレ・輸入超過に直面し、明治
(
投入してしまうことがあった。漸進主義の射程を測るためには、福地の活動を執念深く追わなければならないので
(
と自らを一体視することができたので、穏健なはずの持論を、明治国家の存在意義を賭けた非妥協的な争いの中に
これらの理念を性急に実現しようとすれば、福地の理解では、征韓論と同様の急進主義に陥りかねなかった。木
戸孝允や井上馨もこの危惧を共有しており、福地の言論活動の支援者であった。しかし木戸も井上も新政府の命運
十四年政変後の松方財政は、不換紙幣の消却を本格化するところから出発しなければならなかった。
(
ある。そこで得た知見が本章の内容となるが、まずは概略のみ示すと、以下のようになる。
福地の活動の主眼は、民意を政府に対して、あるいは日本の要求を条約国に対して、間接的ではあれ表象する装
置を育成・擁護することで、要求する側の不満や暴走を抑制するということにあった。単一かつオール・マイティ
の装置がない以上、装置群は社会の様々な領域において、それぞれ限定的な役割を帯びつつ、張り巡らされること
になる。福地の活動は拡散することになる。
ここでいう装置とは、一過性のイベントや集会に終わる場合もある。恒常的であれば、中間権力とか中間団体と
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(
第Ⅰ部 立憲政の潮流
(
ばならない。これももちろん膨大である。今は福地の演出や主張をできる限り明晰に分析・提示し、先達や隣接分
(
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呼ぶことができる。それらは重要だが、議論の対象としてはやっかいである。きわめて雑多な存在性格を持ち、そ
れらを横断的に理解しようとすると、様々な領域における差異を捨象して、定型的な議論を繰り返すことになる。
福地は、定型化を回避することよりも、表象する装置の必要性を訴え続けることを選んだ。福地の言説の退屈さ
の、一つの理由がここにある。
退屈に見えながら、その言説はあやうさをはらんだものであった。間接的な表象が機能するためには、理念の正
しさと現実の拙さのギャップについて、解釈を施す裁量の幅を福地が持たなければならない。あるいはギャップを
縮めようとすれば、間接的な表象をより直接的に機能させる冒険が必要である。いずれもマヌーバー ( maneuver
、
操縦)の側面を持つ。しかも、何らかの理由でマヌーバーの余地が失われると、理念が直接に現実に介入すること
を認めるか、現実を追認するか、の判断を迫られる。どちらも不都合があるので、一貫した判断を維持するのは難
しい。客観的には、軽率ということになる。
(
拡散も退屈も軽率も、福地の性格や資質だけでなく、福地の生きた時代とそれに対する彼の処方箋に由来してい
るということである。本章では、福地がその時々の状況に応じて、戦術的にどのような装置を用い、何をいかに表
象したかを追跡していく。それによって、様々な領域における表象の、概念的な区別はできないにせよ、戦術的な
(
であることに対応して、膨大な作業を必要とする。福地と共鳴・対抗した他の政論家・新聞との比較も深めなけれ
(
報や指示を受け、彼の主張が政府内にどのような影響を与えたか、を分析することが重要だが、福地の言説が膨大
最後に、福地研究の難しさの四点目は、同時代における福地の言説の独自性を測定することである。実効性を重
視し、政府との関係が密接であった福地の言論活動を理解するうえでは、彼が政府内の政策過程からどのような情
うえで、無意味ではないであろう。
位置関係についての、当時の代表的な認識を紹介することができる。それは、我々が世界をより具体的に認識する
(
野の研究者の批判と助言を仰ぐことを目標としたい。
一 論壇への登場 一八七四年まで
福地は一八四一年、長崎で生まれた。父の福地源輔 (苟庵)は青年期に各地を巡遊したが立身の糸口を見出だせ
( (
ず、長崎にて医師として生涯を全うした。世の役に立て、という苟庵の訓戒は、源一郎に深く刻印されたという。
(国立国会図書館 HP より)
40 歳の福地源一郎
六六年)に随行した。攘夷派の開国反対論に強く反発し、王政復古
ており、トルコ駐在ロシア大使イグナティフ ( Nicholas Ignativ
)
務 卿 ヌ バ ル・ パ シ ャ ( Nubar Pasha
)が イ ス タ ン ブ ー ル に 滞 在 し
ならなかった。オスマン・トルコに赴いたところ、エジプトの外
たが、国内は混乱しており、官員に対する聞き取り調査すらまま
ギリシアに赴いたところ、法律は整備され、裁判権も掌握してい
ことを田辺太一が建言し、福地が派遣されることとなった。まず
約改正交渉は難航していた。そのため、立合裁判を現地調査する
一等書記官としてパリまで随行した。周知のように、使節団の条
渋沢栄一の推薦で大蔵省に勤務し、一八七〇年には伊藤博文に随行して渡米し、銀行・会社・通貨・財政につい
ての調査に従事した。翌一八七一年からの岩倉遣米欧使節団に、
に際しては江湖新聞を発行して新政府に批判的な論陣を張ったため、逮捕されたことがあった。
−
六三年)
、慶應遣欧使節 (一八六五
幼い頃から漢詩に才能を示し、長じては蘭学や英学を学び、幕臣に起用されて外交実務に参与した。文久遣欧使節
(
の助言を受けつつ立合裁判制度の内容をめぐる多国間交渉に従事
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(一八六一
第2章 福地源一郎研究序説
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