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Page 1 宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」論 ー冷害から見た主人公の死

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Page 1 宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」論 ー冷害から見た主人公の死
論
大 島
丈
志
ぐ為に 一人'火山を爆発させて爆死し、火山 の爆発による気温
ド島」 でプドリは、再び や ってきた 「
恐ろし い寒 い気候」を防
なり'様 々な自然災害 を克服す る。そして終章 「
十、カルボナー
の克服と いう目標を与える。成長したブドリは火山局 の技師と
宮沢賢治 「
グ スコープドリの伝記」
- 冷害 から見 た主 人公 の死-
はじめに
宮 沢賢治と いう知識人は農業と いかに関わり'そこからど の
なぜ 「
グ スコープドリ の伝記」は、「
冷害」と いう農 民にと っ
の上昇によ って人 々を救 うのであ る。
て苛酷な自然災害 を内包し ている のだ ろうか。本稿 は' この冷
「
グ スコープドリの伝記」は'宮沢賢治 の晩年 の作品であり'
ような作品を生 み出したのであろうか。
彼 の数少な い生前発表作品として昭和七年三月十 日﹃
児童文学﹄
害に着目して'冷害 の側面から主人公ブドリの 「
死」を位置付
けていく。
当時」と呼 ぶ)の
九年∼昭和八年 ・一八九六∼ 一九三三 以下 「
を舞台とした 「
ペンネ ンネ ンネ ンネ ン ・
ネネ ムの伝記」(
以下 「
ネ
「
グ スコープドリ の伝記」は、先駆作品としてばけも の世界
「
グ スコープドリ の伝妃」と冷害 の位相
て飢健が発生す る。 この飢健によ ってプドリ の両親は死に'妹
ネムの伝記」と省略)と、下書稿 「
グ スコンプドリ の伝記」を持
一
第 二冊に発表された。この作品には'賢治 の生存期間 (
明治 二十
反映した場面が多く存在す る。第 1章 「1、森」 では'主人公
岩手県における苛酷な自然災害と農業 の実態、特に 「
冷害」を
のネリは人さら いにさらわれて離れ離れにな ってしまう。 この
プドリの暮らすイー ハトーブ に冷害 が発生し'穀物が大減収し
冷害 による家族 の崩壊という体験は'プドリ の人生に自然災害
31
きな改作を経て∧
、
グ スコンプドリ の伝記」 (
大正十 四 ・
2下
V書稿 「
十 五年成立と推定)となり、さらに筋立 てに殆ど変化は無 いも の
冷害 そのも のに ついて の叙述 は少な い。そのため真壁 の考察 は
とな っている。
しかし両者 の論考 では、 その根拠 となる冷害 ・凶作 ・飢健に つ
きな影響 を与えていると い った指摘 は肯定出来 るも のであ る。
の'量的に約三分 の二と大幅 に縮 小されて'発表 形の<
「
グ
へ
J
Vスコー
プドリの伝記」 (
昭和六年 一月以降 八月以前成立 と推定)が成立
∧
-V
つ。母胎作品 「
ネネ ムの伝記」 (
大 正十 一年成立 と推定)から大
した のである。なお、「
ネネ ムの伝記」から 「
グ スコンプドリ の
ている。
自身 の「
農 の思想」を論述す るには不充分なも のとな ってしま っ
品中 の冷害 の描写から本作品 の背景となる賢治 の原体験を探 る
「
グ スコープドリ の伝記」 の冷害に対する研究は'従来'作
究を行 った上で、「
グ スコープドリ の伝記」に ついて論じたも の
かわらず'当時 の岩手県 の冷害とその被害 に ついての実証的研
このように'「
冷害」が本作晶 の重要な構成要素 であ るにもか
また'
真壁 の調査 の主眼は冷害研究 の歴史と品種改良 にあり'
いての実証的な考察が行われておらず、裏づ けが欠如したも の
主人公とした創作 メモが現存している。
伝記」 への過渡的段階を示すも のとして 「
ペンネ ンノルデ」を
と いう手法がとられ てきた。
本稿 では'まず 当時 の岩手県 の冷害と農村状況を'﹃
岩手県統
は殆ど見られな い。
く、作品 の最大 の主題は'「
イー ハト-ブ地方 の冷害をどうする
計書﹄﹃
岩手日報﹄等を使用して実証的 に考察す ることによ って、
境忠 1は 「
グ スコープドリ の伝記」は賢治 の自伝的要素 が強
かと いう、賢治が幼年時代 から経験∧
し
た現実上 の深刻な問題を
4V
作品 の上 で解決す るという点 にある。
」として、当時 の岩手県 の
の過程 で'境 ・高 田 ・真壁らの考察に裏づけを与えることとな
る。
「
グ スコープドリ の伝記」の成立背景を明らかにす る。この作業
冷害 と 「
グ スコープドリ の伝記」に密接な関係 のあることを指
摘した。
類似した構成を持 つ下書稿 「
グ スコンプドリ の伝記」とを比較
す ることによ って、「
グ スコープドリ の伝記」における冷害 から
さらに この考察 を基盤 として' 「
グ スコープドリ の伝記」と'
アリティ」は苛酷な自然に苦しめられた農民を目 の当たりにし
高 田務 はこの作品に 「
サイ エンス ・フィク∧
シ
ョンでは看過 で
5V
きな いリアリテ ィのあることも否定 できな い。
」と述 べ、この「
リ
見た主人公 の 「
死」 の位置付けを行う。
東北地方では'江戸時代 から冷害 (
気温 の低下等 による農作物
二 岩手県 の農業と冷害
た賢治 の原体験に支えられているとした。
真壁仁は本作品 の背景にふれ、「
賢治 の中
の
技術'村'民 の三
∧
ノ
○
∨
つにかかわる農 の思想がこの作品に集中され」ていると指摘し、
境の 「
現実上 の問題」
、高 田による 「
リアリテ ィ」が作品に大
冷害研究史および稲 の品種改良 に ついての調査 を行 った。
3
2
水稲 の生育
の被薯)
に悩まされ てきた。冷害 が主要農作物 である
二回 の大 凶作、 一
は'冷害 によ って
不
作
これは春先 から夏期' つまり水稲 の生育期 にかけ て、オホー
せ型冷夏)が挙げ られ る。
この第 1種 型冷 夏は、強 く て長 いと いう特徴 を持 っており、長
ツク海海上 のブ ロッキ ング高気 圧 から吹く冷涼多湿な風 「
やま
︰
mv
せ」が三陸海岸 に流れ込 み気 温 の低下を引き起 こすも のであ る。
を発生さ せた。 これ に対し'同じ東北地方 でも、 日本海側 の第
期 にわたる気 温 の低下 は稲 の成長 ・登熱 を阻害 Lt頻繁 に凶作
二種型冷夏 (
やませによらな い冷 夏)は'ゆるく'弱 いと いう特
第 1種型冷夏 による冷害 は、水稲 の生育初期 に気温が低下す
徴を持ち、太平洋側 に比 べ被害 が少なか った。
害 の三 つに分けられる。特に混合型冷害 は単独 の型 よりも被害
∧
〓∨
が大 きくな った。さらに冷害 は' イ モチ病 を誘発し て'水稲 の
る遅延型'出穂 ・開花期 の障害型、遅延型と障害型 の混合型冷
生育 に大 きな被害 を与 える場合 もあ り、イモチ病 が多発した場
回の凶作、三回 の
∧
8V
不 作 を経 験 し て
に は悲 惨 な 飢 健
おり'大 凶作 の際
合 は、 イモチ型冷害 とも呼ば れた。
以上 のように岩手県には、第 一種型冷 夏 (
やませ型冷 夏)と い
の状 況 が 発 生 し
う水稲 に甚大な被害 を及ぼ す気象上 のシステムが存在し ていた
ていた。グ ラ フ①
に 岩 手 県 の農 作
のであ る。
よう に描 かれ ている。
「
グ スコープド リ の伝記」第 一章 では、冷害 の発生 が'次 の
物 の収 穫 高 を 挙
げ る。
こ の頻 繁 な 冷
と ころがど う いふわけ です か' その年は'お日さまが春 か
害 の発 現 原 因 と
し て、岩手県など
ら変 に白く て、 い つもなら雪がとけ ると間もなく、 ま つし
ろな花を つけるこぶし の樹 もまるで咲 かず' 五月にな って
もたび たび実 がぐ しゃぐ しゃ降 り'七月 の未 にな っても 一
V
一種 型冷 夏 (
やま
東 北地方 太 平洋
∧
9
側 に出 現 す る第
33
で る。 天明
期 に発生し て凶作となり、飢健 を引き起 こした のあ
く餓死者 を
の飢健 は冷害 による大凶作 の最た る例 であり、多の
発'出現頻
出し' 一校 を引∧
き
起 こしたO それ以降 も冷害 は頻し
7V
度 は約 四年 に 一回 の割合 であ った。冷害 が繰 り返れ
さることに
恐怖」に曝さ
れていたで
の
ある。
よ って'岩手県 の農 民は常 に 「
ろ
う
か
l
3
9
7
3
目r
岩手九は計暮J
より作成
.
)
5
1
1 相
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では宮 沢賢治 の存命中 の岩手県はど うだ った のだ
。
当 時 の岩 手 県
作
T ,t
・t
大
凶
大
凶
不
一作
作
-
凶
作
不
作
y
.
…
_
.
グラフ① 岩手札のJE
作物収胡高
(
万石)
向 に暑さ が来 な いために去年播 いた麦 も粒 の入らな い白 い
が併発し た混合 型冷害 による被害 であ った。加え て九 月に暴 風
であ った。やませが絶 えず 東 の方角 から吹 いてきたため'霧雨 ・
雨が発生し て大 凶作 となり、収穫高 は平年作 に比 べて約六十 二
低 温が発生し'稲 の出穂 が遅れた。 これは遅 延 ・障害型 の冷害
%(
水稲陸稲 の合計)の大減収 であ った。また、畑作 も減収し、麦
穂し かできず'大低 の果物 も'花 が咲 いただ けで落ち てし
そし てたうとう秋 になりましたが' や っぱ り栗 の木 は青
を除 き五割程度 の減収とな った。
ま った のでしたO
いから のいがば かりでしたし、 みんな でふだ んた べる いち
この描 写 からは'春先 から夏期 にかけ て混合 型 の冷害 が発生
ため不稔 にな ってしま った。さらに追 い討ち をかけ るよう に九
稲 の出穂期 には雨 が激しく'雨 の切れ間に開花し ても、低 温 の
た. 七月中旬頃より やませが吹 き、 霧雨 ・低温が発生' 八月 の
明治 三十 八年 は、第 一種型冷 夏によ って障害 型冷害 が発生し
ば ん大切なオリザ と いふ穀物も、 一つぶも できませんでし
∧
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た。
し、穀物 が不稔 となり、大 凶作となる様 子が読 み取れ る。 よく
s
a
t
i
v
a」からと ったも のであり'「いちば ん大切なオリザと いふ穀
明 ・天保 の飢健 とほぼ 同じ作柄 であ った。加え て'稗 ・粟等 の
月に暴風雨が∧
襲
_来
> し'大 凶作とな った。稲 の収穫高 は平年作 に
比 べて六十 七 % の大 減 収 であ り、 何 万人も の死者 を出 し た 天
知 られ ているように 「
オ リザ」 は稲 のラテ ン静 の学名 「
o
r
y
N
a
のであ った。
物」 は、当時 の岩手県 の主用農作物 であ った稲を背景としたも
にかけ て'農村部 では食 べるも のがなく'飢健 とな ってしま っ
うち に再び大 凶作とな った為'明治 三十 八年 の冬 から翌年 の夏
岩手県 では明治 三十 五年 の大 凶作 のダ メー ジから回復しな い
雑穀も三割強減収し、
畑作も明治 三十 五年 に続く減 収とな った。
宮 沢賢治 の生存期間に発生 した冷害 の中 でも明治 三十 五 二二
た。当時 の惨状 を ﹃
岩 手 日報﹄(
明治 三十 八年十 一月十 七 日)は'
次 に'当時 の冷害 の被害 を具体的 に見 て いこう。
によ る水稲 の被害 は、天明 ・天保 の飢健 と同程度 (
平年作 に比 べ
克 明に伝え ている。
十 八年は被害が大 きく'飢健 を引 き起 こし ている。 両年 の冷害
六割 以上 の減収)であり、
グ ラ フ① からわかるように主要農 作物
東北 の凶作実 況
の米だ け ではなく稗 ・粟等 の雑穀 (
麦 以外)も減収したため、冷
害 によ ってー殆ど の食糧 が枯 渇し てしま った。 そ のため、農村
等 を拾収し居りLも今 や全 く山野を掃蕩し て余片 を止 めざ
凶作に際し て荘然策れ施す べきなく 1時 は楢実、山牛華 の葉
反し惨状実 に言語を絶す るも のあり (
中略)農 民は未曾有 の
予が巡回したる宮城'岩手 両県 の凶作 は予て想像し たるに
冷害 によ る凶作 はど の様 に発生 した のか'例として明治 三十
部 では栗 や楢 の実 を採 取し て生活す ると いう惨状 が生 じた。
明治 三十 五年 は、第 一種型冷 夏によ って春 以降'気候 が不順
五 ・三十 八年 の凶作状 況を挙げ、 その詳細 を探 る。
3
4
状況に陥り小盗頻りユ横行して官民 1層 の苦心を加ふれども
る状態なり'
故E
i其 日暮らし の小民に至りては最も悲惨なる
地民 の子女を誘拐 せむと種 々の手段を以て巧みに奔走し居
関東地方幾多 の悪漢が同地方 の各 工場と気脈を通じて凶作
東北各地方民は昨年 の凶作にて大 いに困窮し居るに付込み
「
グ スコープドリ の伝記」第 一章 では'主人公プドリ の妹ネ
せらる 1も決して其好手段に乗 ちぎ る様注意す べし
るも のあり (
中略)凶作地 の窮民は如何なる甘言巧辞を以て
警察 にては手 の下す べきなきに苦しみ居れり
この大凶作 では江戸時代と違 い死者 こそ記録されなか ったも
のの'生活 のために身売りをす る子女も多く'離農 や離散 を余
儀なくされた農家 が多く発生した。また困窮 のために児童が学
リは、龍をし ょ った眼 の鋭 い男に誘拐されてしまう。
るんだ'食 べるんだ。
」とまた云ひました。二人が こわご わ
べなさ い。
」 二人はしば らく呆れてゐましたら、 「
さあ喰 べ
「
私はこの地方 の飢健 を救けに来 たも のだ。さあ何 でも喰
実や'葛やわらび の根 や、木
の
柔らかな皮 やいろんなも のをた
<
_4
v
ベて'その冬をすごしました。」とい った当時 の岩手県に酷似し
校に来れず 、閉鎖 を余儀なくされる学校もあ った。
「
グ スコープドリの伝記」第 一章には、「
みんなは、こなら の
た飢鐘 の惨状が描 かれている。 この飢健 によ って'ブドリ の両
た べはじめますと、男はじ っと見 てゐましたが'
プドリ の伝記」まで 一貫して使用されている。 この事は、自然
の家族が離散す ると いう設定は、「
ネネムの伝記」から 「
グ スコー
んと 7緒に町 へ行 かう.毎日パンを食 べさしてやるよ。」そ
まえは ここにゐても'もうた べるも のがな いんだ。おぢ さ
子は強 いし'わしも 二人は つれて行けない。おい女 の子'お
では何にもならん。わしと 一緒 に ついてお いで。尤も男 の
「
お前たちはい 1子供だ。けれども い ∼子供だ と いふだけ
親 は死に'妹 のネリは人さらいに誘拐されてしまい'家族 は離
災害 に苦しむ当時 の農村状況を描き出す事 が 一連 の作品 の基盤
してぷい っとネリを抱きあげ てt、
せなかの寵 へ入れて、 そ
散す る。天候不順により大 凶作が起 こり、飢健 とな って主人公
飢健 の他 にも、当時 の岩手県では、窮民 の弱みに つけ込んだ
であり'そこに作者 の強 いこだわりがあ った ことを示している。
「
グ スコープドリ の伝記」まで 1貫しており'凶作地における子
よ って妹 が誘拐されるという設定 もまた 「
ネネムの伝記」から
口減らしや'金銭 のために身売りをす るのではなく'甘言に
のま ゝ'「
お ∼は いはい。お 1ほ
い
∧
15
vほ い。」とどなりながら'
風 のやうに家を出 て行きました。
日)は'凶作地 の子女 に警告 を発している。
嵯
子女 の誘拐 が横行していた。 ﹃
岩手日報﹄ (
明治三十九年 一月十
凶作地 の子女 は注意せよ
峨正 一
防疫委員本部熊官屯出張所 十 二月 二十 一日 看 護卒
3
5
周期的 に強く て長 い第 一種型冷 夏が発生し、やませが吹き'
冷
女誘拐 が場面成立 の背景とな っていることが考察 され る。
害 が起 こ って六割 以上 の大減収となり飢健 が発生す る。人 々は
この惨状 こそが、賢治 の目 の当たりにした 「
現実上 の問題」 ・
なすす べもなく食糧 を求 めて山野をうろ つき'
家族 が離散す る。
「
リアリテ ィ」 であり' 「
グ ス コープドリ の伝記」成立 に反映さ
れた当時 の岩 手県 の農村状況だ った のであ る。
三 飢鐘発生 の農業形態
ではなぜ冷害 が発生す ると岩手県 では飢健 が起 こる のか。関
東地方 の典型的な農業 形態 であり、米穀 の大減収 を経験し てい
∧
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るにも関わらず飢健 が発生 しな い'埼玉県 の農業 形態 と岩手県
のそれとを比較 し'岩手県における飢催発生 の仕組 みを考察す
る。
か
叫
的仰
仙
○
即
臥
要因とな った。 なお'大 正三年 以降は'米穀 の収穫量が必要量
佃
を比較し'岩手 県 の農業 形態 の特徴と飢健と の つながりを考察
す る。
県には飢健 の心配はなくな ったと いえ る。
を下 回ることはなくな っており、米穀 の収穫高 から見れば岩手
年 ・大 正 二年 にお いて'必要量を大 きく下 回 っていることが分
では'埼 玉県 の場合 はど うであ ろうか。グ ラ フ③ より、 調 べ
の大 きな減収を経験し ている。また同グ ラ フより大 正八年 ま で
グ ラ フ③ より埼 玉県 では明治 三十 五年、明治 四十 三年 に米穀
てみる。
為、右 の三年 の場合、岩手県は'県内 で米穀 の自給 を行 う こと
の埼 玉県 の米穀収穫高 は必要量を常 に下 回 っていることが分 か
前述したようにー米穀 は岩 手県 の主要農産物 であ った。 その
かる。
る ことは'岩手県 の貧 し い農 民を餓えさ せ、飢健 を発生 させる
が出来な い状態 にあ ったと言える。米穀収穫高 が必要量を下 回
- 36-
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グ ラ フ② より、岩手県 の米穀収穫高 は、明治 三十 五 二二十 八
まず 両県 の米穀収穫高 と県人 口から算出した米穀 の必要量と
グラフ② ★手書の*k収群書と必暮J
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日
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年は、大雨 ・
洪水 ・
竜
るo特 に明治 四十 三
農業 形態 であ った。
収穫高 が均衡し ており'水 田中心 の稲作 と畑作 を同程度 に行 う
それ に対し'埼 玉県は、グ ラ フ④ から分 かるように米穀と麦 の
グ ラ フ④ より、埼 玉県 では明治 三十 五 ・四十 三年 の米穀 の大
に見舞 われ、 平年作
る。そのため'埼玉県では、洪水など によ って米穀 が凶作 にな っ
凶作時にお いても、百万石を上 回る麦 を収穫し ていた事 が分 か
に比 べ七十 % の大減
収 であ った。米穀収
える ことが出来 た為'飢健 を回避 できたと考 えられ る。
た場合 でも'被害 の少な い麦 を食糧 とし、 それを売 って金 に替
穫高 七十 % の減収と
いえば、岩手県で起
一方、岩手県 の麦 の収穫高 は大 正初期 まで約三十 万石と埼 玉
こ った明治 三十 八年
の大 凶作 を上 回る米
は出来なか った。 つまり'当時 の岩手県 の農業 は'冷害 によ っ
県 の三分 の 一以下 の為、 それを換金し て米穀 の減収 を補う こと
て水稲 が被害 を受けると'その代 用とな る作物 が存在 しな いた
さらに'埼 玉県 では
めに' 一挙 に農家 の疲弊 ・飢健 に つな が ってしまうと いう、冷
穀 の大 減 収 で あ る。
米穀 の収穫高 が県 の
大 正八年 以降 も度 々
害 に非常 に脆 い農業 形態を持 っていた のであ る。
県史﹄ から検討す る限り、当時埼 玉県に飢健 が発生した記録 は
次 に冷害 による米穀 の大減収以外 に、岩手県 の農 民を苦しめ
当時 の岩手県にお いて飢健 の惨状 は'単 に冷害 のみによ って
た当時 の経済 ・社会的事情 を検 証す る。
がや って こなく ても、常 に生活す ること自体 がぎ りぎ り の状態
引き起 こされたも のではなか った。当時 の貧 し い農 民は'冷害
なれば、木 の根を食 べ、娘を売 るはかにはなか った のであ る。こ
の中 にいた のであ る。 そ の為、 ひとたび冷害 が発生し て凶作と
であり'日常的 に飢健 の恐怖に脅 かされ ていると いう農村構造
いのであ ろうか。 この原因は'両県 で生産 され る作物 の種類あ
岩手県は、前述 したグ ラ フ① からわかるように米 の収穫高 が
る。グ ラ フ④ に埼玉県 の米 と麦 の収穫高 を上げ る。
わらず'なぜ岩手 県では飢健 となり'埼 玉県 では飢健 にならな
米穀が同程度減収Lt必要量を大 きく下 回 っているにもかか
無 い。
四 冷害 以外 に岩手県 の農家を苦 しめたも の
必要量を下 回 ってい
る。岩手県 の場合 と
治
紺
t
;
比較す るならば' 当
0
■
「
正3
大
小
1 9 1
2元 4 7
■
l
和
注V)
r
新編埼玉れ史』
より作
成
他 の農作物に比 べて群を抜 いて高 い稲作中心 の農業 形態 である。
37
y
苗r
oo 仙 約 8
kd
然埼 玉県 でも飢健 が起 こる可能性 が考えられる。しかし'﹃
埼玉
滞
グラフ④ 埼玉g
tの米と未
の観点 からすれば'当時 の岩手県 の飢健 は、人災 の側 面も持 っ
ていたと いう ことが出来 る。
身 分によ る被害 の差異 の主因とし て、当時 の岩 手県農村 にお
ける地主 小作制 が挙げ られる。当時、岩手県 の農業 は、地主 小
の過半数 に のぼ る小作人 ・自作兼 小作 人が存在し ていた。賢治
作制 を主体とし ており' ほん の⊥ 握 り の地主層 の下 に'耕作者
の実家 は質 ・古着商 であ ると同時 に、自らは農 作業 に関 わらず
当時 の岩手県 の貧し い農 民を常 にぎ りぎ り の生活に陥 れ てい
れら 四 つはお互 いに連動し'結果とし て冷害時 に飢健 の被害 を
農耕 地を小作人 に貸し、小作米 をと る寄生地主 であ った。通常、
た農 村構 造 を次 の四 つに分け て考察す る。言うまでもなく' こ
(
1)地主 小作制
増大 させた。
五町 以上 の土地を所有 し ていれば寄生地主と成 り得 る。大 正 四
∧
_7v
年 の調査 で、賢治 の生家 は' 田畑 を約十町所有 し ており、中程
ている こと に ついて'昭和七年 六月 二十 1日 の母木光宛 の書簡
賢治 は、地主 小作制 の上部 に位置す る環境 を自 ら の基盤 とし
百 二十九町 を有す る大地主 であ った。
度 の地主 であ った。さらに母方 の実家'宮沢善治家 は、 田畑約
凶作地衛生実態
﹃
岩手 日報﹄ (
明治 三十九年 四月七日)には大 凶作時 の農村 の
生 活状況が次 のように記され ている。
被服臥具 の概 況
で、次 のように述 べている。
何分 にも私 は この郷里 では財ば つと云はれ るも の'社会的
を着す る (
中略)村落 の上等 の部 にては老幼者 のみ綿 入れを
市街地 に於 て上等 の部 に属す るも のにし ては普通 の綿 入れ
著 し壮年者 は大概労働服 のみ着 し (
中略)市街 の中等 の部 に
被告 のつながりには い ってゐる ので'目立 った こ
とv
があ る
∧
18
と い つでも反感 の方 が多く'じ つにいやな のです。
賢治 に自分 の実家 を社会的被告 と言わしめた当時 の地主 小作
属す るも のにては櫨積 の綿 入れを纏 ひ居れり (
中略)
村落 の
中等部 にては市街と大差 なきも単 に程積 を身 に纏 ふに過ぎ
尻を著し 一見乞 巧同様 の有様なり (
中略)村落 の下等部 にて
ざ る のみ市街 の下等部 にては綿 入れを着 せず櫨樽 の労働無
べてみると'岩手県 の耕 作地 のうち 田の約 四十 %が小作地 であ
∧
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賢治が農村実践活動 を始めた昭和元年 の耕作地 反別状況を調
制 に ついて'より詳 しく検 討す る。
この記事 から、大 凶作 の被害 は'都市部と農村部 で格差 のあ
の全耕作地 の実 に三十 四・
七%は小作地 であ ったと いう ことが出
り、畑 の約 三十 二%が小作地 であ る。 田畑 を合 わ せると岩手 県
は市街地と格 別差 異を認めず 不潔 の差あ るのみ
る こと'上 ・中 ・下 の身 分 によ って大 きな差 のあ ることが見 て
来 る。
取れ る。 そし て村落 の中∼下等部 に属す る人 々の生活が いかに
貧し いも のであ ったかが写し出され ている。
3
8
さ らに耕 地戸数 の分布より'全体 の約 六十 四%が小作 人もし
くは自作兼 小作 人 であ る事 がわかる。 それに対し'賢治 の実家
を含 む五町 以上 の土地を所有す る地主層 は、耕作地所有 戸数 の
約 三 %に過ぎ な か った。そし てこの地主 小作制 は第 二次世界大
戦後 の農地改革 ま で継続 された のであ る。
では'小作 と地主と の関係 はど のようなも のであ った のか。
小作人は、 地主 から土地を借 り' そ の土地 を自ら耕作 Lt農
作米 とし て納 めなければならず'また残 りを売 って自ら の生 活
業 を営 んだo彼 らは' そ の年 の収穫米 の約五∼六割 を地主 に小
を支 えなければ ならなか ったo 小作米 の他にも'生活必需品 ・
があ り'普段 から小作人 の暮らしはぎ りぎ り であ った。また'自
肥料 の購 入や'納税 (
小作米に含 まれ る場合 もあ り)など の出費
が出来ず'小作地 の収穫 に頼 らねば ならな い状況 であ った。
作兼 小作 の貧農 にしても'自ら の所有地だ け では生活す ること
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は下落'大 正十 四年
九年 をピークに米価
のの' それ 以降 は米
にはやや持ち直す も
穀収穫高 の上昇と反
をたど っている。 昭
比例 し、下落 の 一途
和 八 年 に い た って
は'大豊作 であ った
の三分 の 一程度に下
が米価 は大 正十 四年
落 Lt 明治 四十年代
の価格 にまで落ち込
んでしま ったO
岩手県 の約六割 を
占める自作兼 小作 ・小作 の貧し い農 民は' 小作米 の支払 いや生
抑
作 ・自作兼 小作 ら の貧し い農 民にと っては'米穀 の 1割∼ 二割
のような状 況にあ る貧 し い農 民にと って'米価 の低 下 は'痛手
だ った。
岩手県の米価は第 一次世界大戦からシベリア出兵 の際には異常
なければ 何 も買う事 が出来 な い。だ からたとえ安価 であ っても
体 がぎ りぎ り のため、余分 な米 など無 く、米 を売 ってお金 にし
を待 てば よ い。しかし、前述 した自作兼 小作 や小作 は、生活自
もし持ち米に余裕 があ るならば、米価 の低 下を見送 って高値
な高値 にな っている。シベリア出兵前'大正五年 からわず か三年
て検 証す る。
岩手県 の米価 の変動 と'農村 の困窮 に ついてグ ラ フ⑤ を用 い
(
2)米価 の下落
活必需品 の購 入、納税 のために収穫米 を売 ってお金 に代えなく
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の減 収 であ っても、彼等 の生命 を脅 かすも のとな った。 まし て
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の状態 では、余分 に蓄 え ておく持ち米 があ ろうはず もな い。 そ
30
間 の間に、米価は約 四倍 以上 にな った。しかしそ の後、大 正八 ・
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てはならず '自分 たち の口に入る米 は殆どなか った。まし てそ
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冷害 による大減収 があれば、すぐ に飢健 に陥 ってしまう状態 が
普 段 か ら こ のよ うな状 況 であ った から' 約 六割 を占 め る小
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日常的 に存在した のであ る。
グラフ⑨ 書手■の米や収7
1書と兼併の*h
米 を売らざ るをえず、結果とし て収入が減少し て生活が困窮す
れる。
活がよくならな い事 を賢治 が痛感 し、憂 いていた こと が読 み取
て窒素 肥料 を降 らすと いう場面があ る。 これは昭和初期 の農村
たりにした。「
グ スコープド リ の伝記」には、空中 から雨 に のせ
て、米 が取れ ても貧 しく、肥料 の買えな い農 民を賢治 は目 の当
以上 のように'冷害 に苦 しめられ、米価 の下落 ・不景気 によ っ
る事とな った のであ る。特に大 正十 四年 から の米価 の下落 は'当
時 の不景気 と併 せて'
岩手県 の農業 に大 きなダ メージを与 え'
農
村 不況を引き起 こした。
米価 の下落 に悩 む農家 の様 子を ﹃
岩手 日報﹄(
昭和六年九月 二
十 六 日- 日刊-)より挙げ る。
と いう自然科学的解決と いう形で表現されたも のと考えられる。
恐慌 が'作者 の中 で問題化され'大気中 から窒素 肥料 を降 らす
満州事変 の悪戯 農家 を泣 かす
(
3)重 税
を越えるようにな っており、昭和 四年 以降は百 二十 万前 後 の歳
た岩手県 の地租歳 入は'年 々上昇し、大 正十 1年 以降 は百万円
﹃
岩手県統計書﹄ によれば、明治 三十年 に約十 二万円 であ っ
米 は下がる 一方な のに 満州 から の大 豆粕 は上がる
の へてゐるが昨今満州事変 の突発 で満州から移 入され てゐ
入とな っている.年 によ って増減 はあ るも のの、岩手県 の主要
県下各地 の農家 では明春使 う大 豆粕 の買 い入れ準備 をとと
てしま った農家 は米 さ へ高 か つたら大 豆粕 の値上 がりなぞ
た大 豆粕 一枚 一円四銭 であ ったも のが 一円十 五銭 に上 が っ
な税収 であ る地租 は明治後期 から 昭和初期 にかけ て約十 倍 と、
盤 とし て計算す るた め、 米 穀 収穫高 の増 加 と連 動 し た も ので
急速 に増加していることがわかる。地租 は、前年度 の実 収を基
あ った。し かし'前述したように大 正後期 以降 の米価 の下落 に
たにも拘 らず 米 の値段 は上 がる虚 か却 って反落 二十 五日な
どは十 八円三十銭 の取引 でこの相場 の悪戯 に農家 では皆大
弱り であ る
民 にと っても、 地租 の増 加 が 小作料 の増加 に つな がり負担 と
租は大 きな負担とな った。 また、 小作料 に地租 を含 んでいる農
は決 し て恐れな いと云 ってゐるが何し ろ大 豆粕 が高くな っ
この記事 からは、
米価 の低下 によ って肥料 の大 豆粕 (
主 に満州
とが出来 る。宮 沢賢治は、米価 の下落 に ついて'花巻農学校 の
な った。
よ って、 たとえ実収 が多 くとも農 民 の生活は豊 か ではなく'地
から移入)を買うにも苦労する不況下 の農家 の実態を窺 い知 るこ
教 え子であ る菊地信 1に宛 てた書簡 (
昭和五年辻 ∨
月十 八日)で
「
米 はとれ ても廉 くてみんな困 ってゐるやう です。
」と述 べてい
る。
八年 のそれは'明治 三十 一年 に比 べて約 二・
五倍 にな っている。
ど によ って増減 はあ るも のの、基本的に増加傾向 にあ り、昭和
前述 のグ ラ フ① からわかるように'米穀 の収穫高 は'凶作な
(
4)水 稲 品種 の改良
この書簡 からは'単に米穀 の増収 を目指す のみでは人 々の生
4
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米穀収穫高増加 の要因と
品種 は 「
︹
あす この田はねえ︺
」「
塩水撰 ・浸種」とい った詩作 の
二号を積極的に推薦していたことを回想している。さらにこの
中にも登場する。 この事 から岩手と いう周期的な冷害 の風土に
れ、主としてそれによ って設計されたが、その人達 は他所 の減
マ
マ
∧
2ーv
収ど ころが大抵 二割方 の増収を得」たと述 べ'賢治が陸羽 二二
が挙げ られ る。そこで品種
あ って、陸羽 1三 二号が賢治にと っていかに期待された新品種
して'品種改良 によ って冷
改良 の変遷 を表① に挙げ、
いという特性を持 っていた
れは、「
亀 の尾」が冷害 に強
の尾」が'大正十 一年には
八二1
%しかなか った 「
亀
た農村を急速 に商品経済 に組み込むこととな った。しかし、せ っ
消費量が増えている。 これらの肥料 の購 入は自給自足的 であ っ
粕が三・
七倍,石灰窒素 は実 に 二十 四・
五倍と, それぞ れ大幅 に
であ った。この新品種 の採 用は'農家 に、大豆粕 ・過燐酸石灰 ・
魚粕 ・石灰窒素等 の金肥 の使用量を増加させた。陸羽 二二二号
<
22v
誕生以前 の大正八年と昭和六年 の金肥消費量を比較す ると、消
費量 の多 い順から大 豆粕 が 一・
九倍'過燐酸石灰が 一・
八倍'魚
め'多肥性 の品種 であり'多く の購 入肥料 =金肥 の投下が必要
一
41
だ が'陸羽 一三 二号は'近代化学肥料によ って育成されたた
ためであ った。ただ'この
かく金肥を投下し て豊作とな っても'米価 の下落 で'豊作貧乏
していることがわかる。こ
菊地信 一は、「
石鳥谷肥料相談所 の思ひ出」のなかで'昭和 三
占めるに至 っている。
た。「
陸羽 二二二号」は急速に普及し、昭和七年 には五十 二%を
悩 まされた岩手県 の農民にと っては'待ちに待 った品種 であ っ
品種 は耐寒性があり、イモチ病 にも強 いと いうことで'冷害 に
2
3
4
5
五十 一二ハ%と急激 に普及
品種は冷害 に強 いが冷害 に
元
昭和
以上 の様 に、冷害 による米穀 の減収以外にも (
-)
∼(
4)の状
方 で、同時に農家 を困窮させる事とな った のであ る。
況が重なることによ って農村は困窮してい った。特に、昭和前
期 ・宮沢賢治 の人生 の後期 にお いて'農村は困窮 の度合 を強 め
てい った のである。
一
誘発されるイ モチ病には弱 いという弱点を持 っていた。そこで、
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大正 1
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年三月 の賢治 の肥料設計にふれ 「
陸羽 一三 二号種 を極力勧めら
つまり、「
陸羽 一三 二号」の出現は'米穀 の収穫高を高 める 1
となり、肥料購入費 が負債となることによ って小作など の貧し
表①より、大正 二年には
影響を考察す る。
であ ったかが読 み取れる。
当時 の岩手県農民に与えた
害に強 い稲が誕生したこと
注 l 『岩手近代百年史1 よ り作成
「
愛国」 のイモチ病 に強 いという特性と、冷害 に強 い 「
亀 の尾」
l
l,
4
い農家 は困窮す る事とな った。
表① 岩手県水稲品種改良の変遷 (
指数)
をかけ合わせた 「
陸羽 一三 二号」 が誕生したのであ った。 この
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計
睦羽 1
3
2号
豊国 愛国
早生大野
開山 亀 ノ尾
年
五 宮 沢 賢治 の冷 害 知 識
宮 沢賢 治 は'冷 害 に対 し てど のような知 識 を持 って いた ので
あ ろう か。
亀 井 茂 は'盛 岡高 等 農 林 学 校 の関 豊太 郎 教 授 が海 水 にお け る
寒 流 の変 動 に よ る冷 害 の予報 研究 行 って いた こと を述 べ'賢 治
六 冷害から見主
た人公の死
英
- 雄の死か恐
ら怖の
克
服へ
ー
「
グ ス コープ ド リ の伝 記」 は' 周期 的 に発 生 す る冷 害 と、 冷
害 によ って引 き起 こさ れ る飢 健 を経 験 す る農 村 を基 盤 と し て成
因 と な り'最終 章 では、 主 人 公 の死 の直 接 の要 因 と な る。
立 し て いた。 そし て冷 害 は、 第 一章 では主 人公 一家 の離 散 の原
にLt冷 害 の側 面 か ら主 人公 の死 を位 置付 け て いき た い。
冷 害 と 主 人公 の死 に ついて触 れ た先 行 研究 の問題 点 を 明 ら か
の学 説 や、 そ の延長 線 上 の学 説 が 「
グ ス コープ ド リ の伝 記」 の
主 人 公プ ド リ の死 を 「
自 己犠 牲 的」 と解 釈す る のが従 来 の定 説
の冷 害 知識 の基 盤 に関 の学 説 があ る こと を指 摘 し た。 さ ら に関
「
北 の方 の海 の氷 の様 子」と いう冷 害 予報 の表 現 に 反映 さ れ て い
∧
21
る こと を論 じ た。
し かし' 下書稿 「
グ ス コンプ ド リ の伝 記」 と の比較 よ り、 主
て、「
ひたす ら必 然性 を も たな い自 己犠 牲 へと突 っ走 った こ の作
∧
2>
品 は'完 全 な失 敗 作」 と批 判 し た。
子 が描 かれ る結 末部 分 を 比較 し、「
グ ス コープ ド リ の伝 記」では、
境 忠 1は、第 1章 の冷 害 の描 写 と'プ ド リ の死後 の人 々 の様
人公 の死 を自 己犠 牲 とす る解 釈 に異論 が出 て いる。
であ る。 鳥越 信 は' 主 人 公 の死 が自 己犠 牲 であ る事 を前 提 と し
「
グ ス コープ ド リ の伝 記」 の主 題 は、 「
冷 害 の克 服」 であ り、
当 時、冷 害 は予報 は出来 ても'克 服 は出 来 な い自 然災 害 であ っ
大 塚常 樹 は'プ ド リ が気 温上 昇 を求 め て火山 を爆 発 さ せた背
∧
24v
景 に ア レ ニウ ス の ﹃
宇宙 発 展 諭﹄ にお け る、 火山 の爆 発 によ る
∧
25v
地 球 の気 温上 昇 説 があ った事 を指 摘 し た。
た。 こ の状 況 は基 本 的 に現在 も変 わ らな い。 当時 の農 家 は' 冷
下書 稿 「
グ ス コンプ ド リ の伝 記」 にあ った悲 惨 な冷 害 の描 写 が
害 の被 害 を最 小限 にす るた め に、 経験 によ って、 品種 選択 ・水
うな 冷 害 に は太 刀打 ち出来 な か った。
管 理 を行 った。 し か し' こ の経 験 も 明治 三十 五 ・三十 八年 のよ
こと を指 摘 し、「
グ ス コープ ド リ の伝 記」では主 人 公 の自 己犠 牲
省 かれ、 人 々がプ ド リ の死 に哀 悼 を 示す描 写 が削 除 さ れ て い る
的 な 死 の欺 備性 が減少 し て いると指 摘 し た。 そし て宮 沢賢 治 に
こ の現 状 を 目 の当 た り にし た賢 治 は'冷害 克 服 のため に、 当
を利 用し、「
グ ス コープ ド リ の伝 記」にお いて'火山 の爆 発 によ
時 考 え られ る限 り の理想 的 な 科 学 操 作 とし て アレ ニウ ス の学 説
る気 温上 昇 と いう冷 害 の克 服 を描 いた のであ った。
高 田務 は、 境 と 同様 に 両作 品 の冒 頭 と 結 未 を 比較 し、 「
グス
と っては 「
農 民と自 己 を結び つけ る媒 体 と し て のグ ス コープ ド
∧
27v
リに生 長 し て い った」 こと を論 じ た。
42
コープドリ の伝記」 では' 「一人 の人間 の英雄的な行為よりも'
∧
28>
多 く の人たちが喜 ぶ姿 に賢治 の意識 が集中し ている」とした。
て' それがいまはじ の方 からとけ てイー ハト-ヴ の東 の方
ノ
t
J
へど んど ん流れ出 してゐると いふ ことを話しました ︹
。︺
帰 って来 て'今年 は北 の海 はまだ 氷 が い つも の五倍 もあ っ
(
「
グ ス コンプ ドリ の伝記」 二 、森'
」
)
う っと北 の ︹
︺方 へた のまれて樹 を伐りに行 ってゐた人が
工藤哲夫 は、境 の見解 を発展さ せ、「
グ スコープドリが死んだ
∧
29v
のは' ただ ﹃
自分 でできることをし﹄たに過ぎ な い」 と結論付
植 田信子は' 「
グ スコープ ドリ の伝記」第 一章 の冷害 に触 れ'
け'主人公 の自己犠牲的死を否定 した。
生を予報す る描写が克 明に描 かれ る。 一方'「
グ スコープドリ の
このように 「
グ ス コンプド リ の伝記」 には'人 々が冷害 の発
伝記」第 一章 では この描 写は削除 される。真壁仁 は この削除 を
残念 でならな いとし、 そ の理由 とし て、 「
なぜ 夏も寒 い気象 が
「
前半生 での原体験 が彼 の課題 を生 みだ し、そ の課題解遷 ,対す
る意 思 の強 さが、最後 の状 況 の中 での ﹃
死﹄ を決断さ せた」と
以上 のよう に' 主人公 の死を自 己犠 牲 とす る定 説 に対 し て
し て、主人公 の死 の 「
必然性」 をブドリ の前半生 に求 めた。
数 々の異論 が唱えられ ている。 しかし'両作 品 の比較にお いて
ス コープ ドリ の伝記」第 一章 では現実 の冷害 の悲惨さ が薄 めら
この冷害 の描 写 の減少 から'境 ・高 田が指摘す るように'「
グ
スコープ ドリ の伝記」第 一章 では'冷害 の予報 のみではなく'飢
健 の悲惨な描 写も 三分 の二に削 られ ている。
や ってくる のか、 そ のもとを明らかにす ることは'じ つは賢治
<
?>
の研究 の課題 でもあ った筈だ からであ る。」と述 べた。さらに 「
グ
は、 冒頭 ・結末部分 のみが注目されており'ブ ドリ の死 の直接
の原 因であ る'最終章 の冷害 の描 写には殆ど ふれられていな い。
そ こで、 具体的 に下書稿 「
グ スコープ ドリ の伝記」 と 「
グス
そ のため、プ ドリ の死 の位置付けは暖味 なままであ る。
コンプドリ の伝記」 両作 品 の第 一章 と最終章 の冷害 の描 写を比
「
グ スコンプ ドリ の伝記」 「
八'次 の寒さ。
」
次 に両作 品最終章 の冷害 の描 写を比較す る。 (
傍線論者)
終章 の冷害 の描写部分も考慮しなければならな い。
れて いると言える。しかし、冷害描写 の減少 を述 べる為 には'最
両作品 の第 一章 を比較す ると'「
グ ス コンプド リ の伝記」から
較 し、主人公 の死を改 めて冷害 の側 面からとらえ直し ていく。
「
グ ス コープ ドリ の伝記」への改稿 にお いて冷害 の予報 の描 写が
お いて削除 された部分を、「
グ ス コンプ ドリ の伝記」より挙げ る。
削除 され ている事 がわかる。次 に 「
グ ス コープ ドリ の伝記」 に
その年 の春測候所 では今年 も丁度ブ ドリ の十 二の年 と矧5
それ から 二年 過ぎ まし た。
ではもう非常 にみんなさわざ 出しました。
苛
野原 の方 では いろいろな噂 がありました。あ る人は これは
地震 のしらせだ と いひあ る人は今年 はもう穀物 は 一つぶも
が来 る ︹
と︺ いふ ことをみんなに知 らせました。 野原
と れ な いだ ら うと いひまし た。ブ ド リ の家 の近処 でもず
43
「
早魅ならば何 でもな いが、寒さとなると仕方な い」とだ
大博士も
の伝記」に至る 1連 の作品 の成立背景 には当時 の岩手県 の冷害
加し ている事がわかる。「
ネネ ムの伝記」から 「
グ スコープドリ
の冷害 の描写は'「
グ スコンプドリ の伝記」に比 べて、分量が増
い点 であ る。特に'冷害予報 に関しては 「
太陽 の調子や北 の方
があり'冷害 の描写 の増加は作品理解 の上 で見逃してはならな
けしか云はなか った のでした。ところが五月も過ぎ 六月も
過ぎ てそれでも緑にならな い樹 を見ますとプドリはもう居
<
=
(
>
ても立 ってもゐられませんでした。
の海 の氷 の様子」という根拠を示して具体的に描写されている。
作品内における冷害予報 の描写の移動を考えるならば'「
グ スコ
く、最終章 に測候所 の予報と いう形で移動したものと言える。つ
いて削 られた第 一章 の人 々の冷害 予報は、削除された のではな
「
グ スコープドリ の伝記」 「
十、カルボナード島」
そしてちゃうどブドリが 二十 七の年 でした.どうもあ の融
ンプ ドリ の伝記」から 「
グ スコープドリ の伝記」 への改稿 にお
ろし い寒 い気候がまた来 るやうな模様 でした。測候所 では、
コープドリ の伝記」 にお いて、その記述す る位置が移動し減少
まりー冷害予報 の描写は'「
グ スコンプドリ の伝記」から 「
グス
した のみで'決し て消滅していないのであ る。
太陽 の調子や北 の方 の海の氷 の様子 からその年 の二月にみ
にな ってこぶし の花が咲 かなか ったり'五月に十 日もみぞ
んな へそれを予報しました。それが 一足づ つだ んだ ん本続
も、たび たび気象や農業 の技師たちと相談したり、意見を
ひ出して生きたそらもありませんでした。クーボー大博士
さ」 ・ 「
恐怖」 が強 調されている。さらに冷害 に対す る人 々の
い寒 い気候」に、 「
寒さ」が 「
烈しい寒さ」になり、冷害 の 「
強
冷害 に対す る形容に大 きな変化があ る。「
同じ寒さ」が 「
矧 ろtu
また' 「
グ スコープドリ の伝記」 では、傍線 で示したように、
新聞 へ出したりしましたが、や っぱ り この烈し い寒さだけ
反応は'「
非常にみんなさわざ 出しました」から 「
生きたそらも
れが降 ったりしますと、 みんなはもう、 この前 の凶作を思
はど うともできないやうす でした。
強調する表現にな っている。
くるも のであ った。知 ることはできるが防げずー周期性があ る
当時冷害 は'予報は出来 ても防げず'そし て周期的にや って
ありませんでした」に書きかえられ'冷害 に対す るの 「
恐怖」を
ところが六月もはじめにな って、まだ黄 いろなオリザ の
苗や、芽を出さな い樹 を見ますと'プドリはもう居 ても立
<
?
,
>
ってもゐられませんでした。
この比較 より 「
グ スコンプドリ の伝記」から 「
グ スコープド
ドリ の伝記」最終章 にお いて'冷害 予報 が克明に描 かれ'「
恐ろ
と いう性質は'農民を常 に 「
恐怖」に曝していた。「
グ スコープ
しい寒 い気候」や 「
烈しい寒さ」「
生きたそらもな い」とい った
リ の伝記」 への変遷にあた って'全体 の分量が約 三分 の二に圧
縮されているにもかかわらず、「
グ スコープドリ の伝記」最終章
4
4
民の 「
恐怖」 を強 く表現 している。 そし てこの 「
恐怖」 は'当
描写に改稿された ことは'まさに繰り返され る冷害 に対す る農
る主人公 の死は、多 く の論者 が述 べるように冷害 の克 服を主人
造型し ている。 このことより 「
グ スコンプドリ の伝記」 におけ
半生 を思 いだ し 「
居 ても立 っても ゐられ」なくな る主人公像 を
され'主人公 の自 己犠牲的 死 ではなく、人 々の喜 ぶ姿 に視点 が
飢健 の悲惨 な描 写を減少 させることによ って'現実 の岩 手県農
それに対し て'「
グ ス コープ ドリ の伝記」は、第 一章 の冷害 と'
とができ る。
公 の個人的体験 に直結 さ せた自 己犠牲的な死 であ ったと いう こ
時 の岩手県 の冷害 の 「
恐怖」 に裏打ちされたも のであ った。
境 ・高 田は、第 一章 の冷害描 写 の減少をもとに 「
グ ス コープ
移 っていると結論付けた。 しかし、最終章 の冷害描 写が作 品全
民 の貧困を前面 に出す ことを抑 え、プド リ の悲惨な前半生と彼
ドリ の伝記」 では'現実 の悲惨な状況が前面に出 ることが回避
体 の分量 の減少 に反し て増加し、 さらに 「
グ スコンプ ドリ の伝
の死を分離 させた。
た反面、最終章 の冷害 の描 写が'「
生 きたそらも」な いと いう冷
さらに 「
グ スコープド リ の伝記」 では、第 一章 の記述 を抑 え
記」 にはなか った 「
恐ろし い寒 い気候」 や 「
烈し い寒 さ」
'「
生
害 に対す る農 民 の 「
恐怖」を前面 に押し出し ている。「
恐怖」す
きたそらも」な いと い った描 写が加筆され て いる ことから判断
は出来な い。
簡略 化Ltそ のことによ って冷害 の現実性 は薄 められ ている。し
て'「
グ ス コープド リ の伝記」第 一章 では、冷害 と飢健 の描 写が
繰り返し て言うが下書稿 「
グ ス コンプ ドリ の伝記」と比較し
いう事 ができる。プド リ の死は、冷害 に 「
生 きたそらも」な い
の死は決し て 1人 の英雄 の自 己犠牲的な 「
死」 ではなか ったと
怖」 におび える農 民に共感す る人間であり、 そ の意味 から、彼
ならば 「
グ スコープドリ の伝記」の主人公ブ ドリは、冷害 の 「
恐
民 への共感 にあ ると考察され る。 つまり、冷害 の側面 から見 る
はt
t自 ら の前半生 の回想 よりもむしろ'冷害 に 「
恐怖」す る農
以上より、ブドリ の 「
居 ても立 っても ゐられ」なくな る要因
められ、彼 は' 一人 の火山局技 師とな る。
る農 民に重点 が移 ることによ って、主人公ブ ドリ の英雄性 は薄
す るならば'単純 に冷害 の悲劇的要素 が減少し たとみなす こと
冷害描 写 から見 るならば'「
グ ス コープドリ の伝記」最終章 に
お いては'「
多 く の人たちが喜 ぶ姿」ではなく'むし ろ冷害 の烈
しさと' それに対す る農 民 の 「
恐怖」 に重点 がお かれ ていると
かし そ の反面'最終章 にお いては'冷害 の烈しさ ・恐ろしさを
考察 され る。
強 める形で描 かれ、ここにお いて冷害 に対す る農 民 の 「
恐怖」へ
ほど 「
恐怖」す る農 民に共感す る 一人 の技師 とし て の 「
でき得
察す る。
最後 に宮沢賢治 の自伝的側面より主人公 の人間像 の変遷 を考
る限り の自然科学的操作」だ った のであ る。
重点 の移動 が行われた のであ る。
下書稿 「
グ ス コンプドリ の伝記」 は、第 一章 の冷害 の予報と
それによ って引き起 こされる悲惨な飢健 の惨状を詳細 に表現し
た。 そし て、最終章 では、冷害 の再来 に対し て自ら の悲惨 な前
4
5
しかし'筋立 てに大 きな変化は無 いも のの'英雄伝 「
グ スコン
県 の冷害 を背景とした 「
グ スコンプドリ の伝記」への変遷は'作
ぱ けも の世界を舞台とした 「
ネネムの伝記」から当時 の岩手
なも の」 が 「
賢治と農 民を へだ てているという認識 が彼 に絶望
∧
37>
をもたらした。
」と論じた。しかし'ではなぜ賢治晩年 の 「
グス
うかがえる。持 田恵三は、農民と自己 の断絶'「
ま っくらな巨き
この部分からは'自分と農民と の間 の断絶に対する絶望感 が
農村実践活動期 に描 かれた 「
グ スコンプドリ の伝記」には 一
者宮沢賢治 のリアリズ ム への移行として解釈す る事ができよう。
死を目 の前にした時期 に改稿された 「
グ スコープドリ の伝記」に
コープドリの伝記」に農 民に共感す る主人公が描 かれた のであ
は農民と恐怖を共感す ること の出来 る主人公が描かれる。 この
ろうか。
きな変化を抱えている。農 民を救 う使命 を持 つ主人公から'農
主人公像 の変遷には'農村実践活動において断絶 を経験し'農
プドリ の伝記」 への移行もまた、作者 の側面から見るならば大
民の 「
恐怖」を共感 できる主人公 の造型は' その変化を端的 に
示し ている。
民にと って自らは他者 であ ることを認識した上で、彼らに共感
プドリの伝記」 から農民 の 「
恐怖」に重心を置 いた 「
グ スコー
昭和元年 四月から昭和三年 三月まで'賢治は農村実践活動を
していこうとす る賢治 の自己認識 の変遷が反映されている。そ
など の読菜栽培 を行 った賢治には'農民から多く の冷 ややかな
も、寄生地主 である実家 を経済的基盤とし'当時珍しいト マト
であ る。
する宮沢賢治 の現実 への冷静な視線を読 み取ることが出来 るの
他者とし て、さらに言うならば知識人として関わ っていこうと
こからは、自己と農 民と の断絶に絶望す るのではなく、農民に
人 の農民 の英雄が措かれ る。 一方'農村実践活動から身 を引 き、
い断絶 であ った。 いくら百姓にな って働く決意 があ ったとして
行 った。しかし'そこで賢治を待 っていた のは'「
そのま っくら
∧
15v
な巨きなも の」
'
農民と自己と の間に横たわるいかんともしがた
視線 がそそがれた。当時 の賢治 の心境は 「
春 と修 羅 第 三集」に
日)からその部分を挙げ る。
プドリは'農民 の 「
恐怖」に共感す る 1人 の技師とし て 「
でき
凶作となれば飢健が発生す る。 この冷害 を背景とし て、主人公
冷害は周期性 があり予報は出来 ても防ぐ ことができな い。大
人公 の死 の位置付けを行 った。
以上、冷害 の側面から 「
グ スコープドリ の伝記」 における主
おわUに
表出され ている。 ︹
同心町 の夜あけがた︺ (一九 二七年 四月 二 一
われわれ学校を出 て来 たも の
われわれ町に育 ったも の
それ全体 への疑 ひや
われわれ月給 をと った こと のあるも の
漠然とした反感ならば
∧
3>
容易にこれは抜き得な い
4
6
る必要があ る。高 田務 「
宮沢賢治 ﹃
グ スコープドリ の伝記﹄成
言より 「
昭和六年九月以降説」 を提出しており'今後検討す
﹃
橘女子大学研究紀要﹄第十
立考- ひと つの仮説 の試み-」 (
得 る限り の自然科学的操作」 を行 い死んだO農 民を救 う英雄 で
号 橘女子大学
はなく'農 民 の 「
生 きたそらも」 な い 「
恐怖」を共感す る事 の
できる主人公ブ ドリ の造型 には'賢治 の現実 に対す る冷静 な視
∧4 V境忠 1 「
﹃
グ スコンプドリ の伝記﹄と ﹃
グ スコープ ドリ の伝
一九八 二年七月十五日)
線 が投影され ている。 この主人公 の造型 こそが、 一人 の知識 人
宮沢賢治 が農村と関わりそこから作品化した 一つの結論 であ っ
一九七六年 二月 二十 日)一二二頁
記﹄」(
司日本児童文学別冊 宮沢賢治童話 の世界﹄すぼ る書房
つの到達点 と言える のであ る。
た。この意味 で、「
グ スコープドリ の伝記」は宮 沢賢治作 品 の 一
∧5 V高 田務 「
宮沢賢治 ﹃
グ スコープドリ の伝記﹄成立考- ひと つ
の仮説 の試 み-」 (
﹃
橘女子大学研究紀要﹄第十号 橘女子大
一六頁
宮沢賢治拾遺﹄秋 田書房
一九八 二年七月十五日)七三頁
学
1V 「
ネネ ムの伝記」成立時期 の推定は この作品 の 一部を筆写し
∧
月三十 日
∧6 V真壁仁 ﹃
修羅の渚
その構造と農家 の対応﹄明文書房
二四貢
海側 に比 べ著しく高 い。関正治 (
注7同書
一九八六
二二∼ 二三頁)に
∧9 V東北地方 の冷害 の発生数、頻度'連続性は、太平洋側 が日本
六割未満 の減収を凶作、六割 以上 の減収を大 凶作とする。
∧8 V平年作 (
過去 三年間 の平均値)から約 二割未満 の減収を不作'
年九月十 五日
∧7 V関正冶 ﹃
冷害
一九八五年八
(
注)
た関鉄三が宮沢家 に勤務していた時期 による。(
宮沢賢治 ﹃
新
一三五∼ 一三七貢)
Ⅰ︺ 校異篇﹄筑摩書房
校本宮沢賢治全集 第八巻 童話 ︹
一九九五年五月 二十五日
げ られるO 西田説は、飛行船 の来 日と賢治 の健康状態より考
∧2 V西田良 子 の昭和五年説' 西岡教子 の大 正十 四 ・十 五年説 が挙
大正十 四 ・十五年説に賛成 である。西田良子 「
グ スコープド
察したも のだ が'客観的根拠に乏し いO現時点 では'西岡 の
1九八二年 二月 二十 日)二 二頁/西岡
リの伝記 悲願 の結晶 」 (
﹃
国文学解釈と教材 の研究﹄第 二
十七巻三号 学燈社
度は四年に 一回。 日本海側山形県 では'五十八回'頻度は六
よれば、凶作 ・飢鐘 の発生 回数は、慶長五年∼昭和八年 二 六
〇〇∼ 一九三三)の三三三年間 の間に'岩手県で八十五回'頻
年に 一回であ る。また凶作 の連続は'岩手県が山形県 の二倍
敦子 「
﹃
グ ス コープ ドリ の伝記﹄- 主題 をめぐ る諸 開港- 」
一九九 二年三月三十 一日)一六五頁
(
﹃
宮沢賢治 An
n
ual
﹄第 二号 宮沢賢治学会 イー ハトIブ セン
ター
∧IO vやま せが発生す ると 「
日中 でも電灯が欲しくなるほど暗くな
とな っている。
記した書簡より現時点 では、昭和六年 一月以降八月以前執筆
りtか つ五∼十度も気温が低下」す る。 (
﹃
地域 の安全を見 つ
3V﹃
児童文学﹄に賢治が推薦された時期'原稿を送 ったことを
∧
説が主流 である。ただ し'高 田務は賢治 の病状 ・弟清六 の証
47
める
地域別 「
気象災害 の特徴」﹄日本損害保険協会
一年 八 月三十 日)九 二頁
二七 二頁
1九九
二〇
関東 地方
杜陵 印 刷)五 四〇貢
一「
石鳥谷 肥料 相 款所 の思 ひ出」 (
続橋立 雄 編 ﹃
宮沢
二九 七頁
日復刻 版 (
初 版 一九 六 四年 八 月 三十 日
∧1
2 v菊 地信
∧20 v注 18 同 書
一九七九年 一月 三十 一日
洋 々社
一九九 六年十 一月 一日)一六 一∼
「
﹃
グ ス コープ ド リ の伝記﹄」 (
﹃
国文学解 釈 と鑑賞 ﹄
解釈 と鑑賞﹄第
一九 七 三年十 二月 一日)七九 貢
「
グ ス コープド リ の伝記」 (
﹃
国文学
1二六頁
至文堂
∧2 1注4同書
京都女 子大学 国文 学会
一九 八六年十 二月
名
﹃「
グ ス コープ ド リ の伝記 」 試論- プ ド リ の 「
死」 をめぐ っ
てー ﹄ (
﹃
名古 屋女 子大学 紀 要 (
人文 ・社会 編)
﹄ 四十 一号
v
十 五 日)一 一 一貫
大 国文﹄ 第 百号
「
二 つの英雄像-デ ク ノポ ーとプ ドリとー 」 (
﹃
女子
七 四頁
∧30
∧2
9 v工藤哲夫
∧28 v注5 同書
三十 八巻 十 五号
∧26 v鳥越 倍
一六 二頁
第 六十 一巻十 一号 至文堂
∧25 v大 塚常 樹
一九 一四年 九 月十 四日
∧24 vs ・A ・アレ ニウ ス (二戸直裁 訳) ﹃
宇宙発展論﹄大倉 書店
一九 八八年十 一月十 日)五〇∼六 四貢
究 の流 れと盛 岡高 専農 林 学校」 (
﹃
宮 沢賢治﹄第 八号
∧23 v亀 井茂 「﹃
グ ス コープ ド リ の伝記﹄ の背 景 初 期冷 害 気象 研
二六 四貢
∧22 v森嘉兵衛 ﹃
岩 手県農業史﹄岩手県
刷)(
初出 ﹃
宮 沢賢 治追 悼﹄ 昭和 九年 1月)七 二∼七 三貢
1九 九 六年
二月 二十 五 日初 版第 二刷 ・一九 九 二年 六 月 二十 五 日初 版第 一
賢治 研究資料 集 成﹄第 1巻
五 一頁 ・九 一貫)
一九九 五年十 一月 二十 五 日
一九 七 二年 五 月 二十 五日
一九 七 二年十 二月 一
四〇六頁
日本 図書 セ ンター
湿 潤な環境 で多 く発生す る。気 温だ け でな く、窒 素 肥料過多
一九 五八年 三月 三十 日
本 文篇﹄ 筑摩書 房
>宮 沢賢治 ﹃
新 校本宮 沢賢治全集 第十 二巻 童 話 Ⅴ ・劇 ・そ
店
も原因とな る。 (
橋 岡良夫 ﹃
最新農業 訴座 ・6 病害﹄朝倉書
実 が稔 らなくな る。 これ は糸状菌 の寄 生 によ るも ので、冷 涼
∧H Vイ モチ病 (
稲熱病 )にかか った稲 は'葉 や茎 が赤色 に変 色 し'
∧l
の他
〇頁
れ るため' 明治 三十 二∼ 三十 四年 を平年作 とし て計算 す るO
∧13v明治 三十 八年 は平年作 に大 凶作 のあ った明治 三十 五年 が含 ま
二〇 一
∼ 二〇 二頁
∧14 v注 12 同書 同頁
∧5
1 v注 12 同書
∧1
6 v大 正元年 の統計 によれば、 埼 玉県 は関東地方 (
千葉 ・茨城 ・
栃木 ・埼 玉 ・群馬 ・神奈 川 ・東京)の中 で上 から'水稲 が三位'
大 麦 ・裸麦 が 二位' 小麦 が 一位 であ る。 畑作 がやや多 いも の
第 五巻
の、 稲作 と畑作 を同程度 に行 う関東地方 の農 業 形態 の特徴 を
七〇貢)
備 え ている。(
日本地誌 研究所 ﹃
日本地誌
総論 茨城 県 ・栃木 県﹄ 二宮 書店
刊行会
宮 沢賢 治 と そ の周辺﹄宮 沢賢治 と そ の周辺
∧ー>川原仁左 工門編 ﹃
名著出版
一九九 五年 十 二月 二十 五 日
∧ー >宮 沢賢治 ﹃
新校本 宮 沢賢治全集 第十 五巻 書簡 本 文篇﹄
筑摩 書房
岩 手県史﹄第 九巻
∧19 v岩 手 県 ﹃
48
古 屋女 子大学
一九九 五年 三月 一日)三 二七頁
二四頁
注(
⋮
皿)同書
(Ⅴ )
名著出版
二四六∼ 二五 一貫
(
"
Ⅷ)岩手県 ﹃
岩手県史﹄第九巻
(
.
Ⅵ
)注 (i)同書
一九七 二年十 二月 一日
四貢
復刻版 (
初版 一九六 四年 八月三十 日 杜陵印刷)五〇七∼五 四
一九九 六年 一月 二十 五日
﹃
新校本宮 沢賢治全集 第十 1巻 童話 ︹
Ⅳ︺本文
一二四頁
篇﹄筑摩書房
∧ 3 >宮 沢賢治
六六頁
一九九七
(
おお しま
千葉大学大学院社会文化科学 研究科博 士課程在学 )
たけ し ・
七〇三頁
(
Ⅰ)
森嘉兵衛 ﹃
岩 手近代 百年史﹄熊谷印刷
表 ︻
注︼
∧ 32 v注6 同書
一九九五年十 月 二十 五日 七 三頁
一九 七 四年 二月十 五日
∧3
3 v注31同書
二二八頁
「︹
みんな食事 もす んだ らしく︺」下書稿 (こ 「
境内」 では'
34 v注12同書
∧
∧5
3 v
農村と自 ら の間に横 たわる断絶 を 「
そ のま っくらな巨 きなも
第五
一九九五年 八月 二十 五 日 九
の」 と表 現し ている.宮 沢賢治 ﹃
新校本宮 沢賢治全集
巻 詩 Ⅳ 校異篇﹄筑摩書房
六∼九 八頁
摩書房
二二 1頁
v持 田恵 三 ﹃
近代 日本 の知識 人と農 民﹄家 の光協会
37
∧36 v宮沢賢治 ﹃
新校本宮沢賢治全集 第 四巻 詩Ⅲ 本文篇﹄筑
∧
年六月 1日
グラ フ ︻
注︼
一九〇 二年 三
1九
7九八 1年三月
昭和 八年岩手県統計書﹄ 一九 三五年 三月三十 日
月十 五日∼ ﹃
(
-)岩手県 ﹃
明治三十 五年 岩手県統計書﹄岩手県
(⋮
二十 日
九 一年九月 1日改定第 三版 (
初版 1九 八 1年十 l月三十 日)二
矢野恒太郎記念会 ﹃
数字 で見 る日本 の100年﹄国勢社
)
m)埼 玉県 ﹃
新 編埼 玉県史﹄別編五統計 埼 玉県
(
H
j)
注-同書
( .Ⅳ
〇七 頁
49
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