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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
Title Author(s) Citation Issue Date URL 五四前夜天津學生の意識 - 南開學校『校風』を中心に - 片岡, 一忠 東方學報 (1989), 61: 387-421 1989-03-31 https://doi.org/10.14989/66691 Right Type Textversion Departmental Bulletin Paper publisher Kyoto University 五四前夜 天津畢生 の意識 はじめに 三八八頁 三八七頁 1 南開学校 ﹃ 校風﹄を中心に∼ 一 南開撃校 H 蕨修 と張伯苓 ⇔ 課外活動 二 ﹃ 校風﹄ の蒙刊・ ・ -・ ---・ -・ ・ ・ --・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 三九四貫 片 ﹃ 校風﹄ の論調⋮--︰ 目 畢生 の責任論-救国 一 二 目 帝制反対∼ 反表 白 校長張伯答 の激励1愛国 岡 一 二二九八貫 四 一六頁 おわりに に 飼 新文化連動 の旗手たち の激励-証脅改良 囲 再び畢生 の責任論- 「 合群」 め 目 刊行時期 の中国 じ ⇔ 誌面 の構成、そ の他 は 息 ( -) 天津 における五四運動 は、そ の昔初 より畢生が これを主導 した。南開学校、北洋大挙'師範学校'法政撃校'水産学校へ官 立中学'私立法政学校、高等 工業学校'甲種商業学校'新畢書院等 に学ぶ男子畢生'直隷第 一女子師範学校'中西女子学校' 貞淑女子学校'普育女子学校等 の女子畢生'それ にそれら の学校 の卒業生らは'連動 の中 で各自 の思想をみがき'運動を高揚 させてい ったのである。 五四前夜天津畢生 の意識 東 方 拳 では'運動勃発前- 報 三八八 それ は'内 にあ っては衷世凱 を頂鮎 とする軍閥政治 の時代 であり'外 からは日本 の侵署 の意園が明確 化された時代 であ-'そしてそ のほざまで閉塞 していた知識人 の前 に'陳猫秀が雑誌 ﹃新青年﹄をも って新文化を提起 した時 代 であ ったがI t天津 の畢生 たちはど のような意識 ・思想状況 にあ った のであ ろうか.本論 は'馬駿 ・周恩来 ら畢生'時子 周 ・馬千里ら の教員を運動 の指導者 として輩出 した南開畢校 の校内誌 である ﹃校風﹄ の記事を分析することによ って'右 の問 ( 2) 題 の解明 にせまらんとするも のである。 開 畢 校 以下'まず南開学校 の教育方針 と畢生 の課外活動を紹介し' ついで ﹃校風﹄ の葦到'そ の論調 の分析を おこなう。 一 南 H 厳 修、 と張 伯 苓 ( 3) 南開畢校 は' 一八九 八年 ( 光緒 二四) に厳修がそ の子弟 の教育 のために張伯答を招碑 して開 いた厳氏 の家塾 ( 巌館) にはじ ( 4) まる.巌氏は断江省慈糸粁出身 で'天津 に移 り住 み堕業 で成功 した家柄 である.巌修 ( 字 は範孫' 1八六〇I 一九 二九) は 一 八八三年 ( 光緒九) の進 士 (二甲第 一 〇名) で'翰林院編修 を経 て 1八九四年 から 一八九七年 の開貴州畢政とな った。 この畢 政在任中、康有馬 の公車上書 に刺激をうけて科馨制 に経済特科 を設けて人材登用 の途を開- ことを請 う上奏 を おこな い'襲法 支持 の態度 を表明した.戊戊政轡 の際、厳 は貴州畢政 の任を終えて天津 に締 っていたが (1八九 八年 三月)' 康有馬'梁啓超 らと の接鯖が少 な-'在京期間が短 か ったこともあ って'難 を免れた。厳館 を開 いたのはこの年 の 二 月 であ った。義和囲事 件後 のいわゆる 「 光緒新政」が おこると登用され' 一九〇四年直隷学務虚繰鮮'翌年 には畢部 の新設 にともな い右侍部 に任ぜ られ た (のち左侍郎)。 強 い中国 にするためには襲法が必要 であり'そ の襲法を おこなう人材養成 のためにまず新式教育を導 〇年病気を理 入すべき であ ると考えた巌修 は'科拳制 の廃止'近代教育制度 の導入など'清末 の教育改革 を推進 した。 一九 一 由 に職を解 して天津 にもどり'以後清朝政府さらに民閥政府 の要請 にもかかわらず ふたたび任官する ことな-'天浮 の教育文 化事業 に専念 した。 ( 5) い っぽう、張伯苓 ( 伯答 は字'名 は薫春. 一八七六- l九五 一) は天津出身 で'李鴻章が天津 に開 いた天津水師撃堂 ( 航海 料) に 1八九 一年 に入学 し、 一八九五年 に卒業 した。中国 の誇 った北洋艦隊 は前年 におこ った日清戦争 で壊滅的な損害 を被 っ ていた.張 はかろうじてのこ った軍艦通済暁 で見習 い士官 として勤務 したが' 1八九 八年彼が船 を離れるに至る事件が おこ っ たO この年 イギリ スは ロシア'ドイ ツへ フランスに倣 って清朝政府 に租借地を要求 して威海衛 の租借権を獲得 した.山東牛島 の先端 に近-潮海 に臨む威海衛 は日清戦争以来、日本軍 の占領すると ころとな っていたが、 ここに至 って 一旦清朝政府 に返還 されること になり'清朝政府 はそ の接収 のために通済窮 を派遣 した。張 は通済窮 に乗り威海衛接収 の 1部始終をみたのである。 すなわち'清朝 ( 中図) の接収 に際 しまず日本国旗が降 ろされて中国国旗が掲げられたが'翌日には威海衛 の中国 からイギリ スへの引 き渡 しが おこなわれ'中国国旗が降 ろされてかわ ってイギリ ス国旗が掲げられたのである. この光景 は張伯苓 ( 常時 二三歳) に大きな衝撃 とはげ しい憤 りをおぼえさせた。中国 はか-までも弱濃化 している のか、強化 しなければ中国 の存綾 は はかれな い。自強 の途 は新 しい人材を養成する ことであると悟り、 「 教育救国」 の事業 に身 を捧げ る ことを決心した。か-し て厳修 に招 かれた張伯苔 は巌館 において厳家 の子弟五人を相手 に教育費践 を開始 したのである。 厳館 は昔時 の新式教育 の要請と厳修 の撃望、そして張伯苓 の熱意 に支えられて襲展 した. 一九〇四年 には、張が別 に教授 し ていた王館 ( 天浮 の塵商王室章 の家塾)を合併 して'天津 で最初 の中学堂 「 私立敬業中学堂」となり ( 翌年 には私立第 一中学 堂と改構)へ さらに 一九〇七年 には畢生 の増加 にともない手狭 にな ったため'鄭柄動 ( 字 は菊如、天津邑紳) より寄附された 天津奮城西南郊外 の 「 南開窪」と呼ばれる土地 に'厳 修 ( 昔時学部左侍郎)'王室章 、徐世昌 ( 字 は菊人'天津出身'進 士' ( 6) 昔時民政部尚書)'慮靖 ( 字 は未着 '常時直隷捉学使)'巌義彬 ( 字 は子均、邑紳)'さらに衰世凱 ( 字 は慰亭'昔時直隷綬督) 三八九 ら'天津 の大官 ・邑紳 の援助を得 て新校舎を建 てて移韓 し ( 同年 二 月)'それを楼台 に校名を 「 南開学校」と改構 し た。清 五四前夜天津畢生 の意識 東 方 拳 報 三九〇 末 の混乱期 の財政困難 は厳修 の支援 と'慮靖 の後任 の提畢便博樹湘 ( 在任 一九〇 八- 一九 二 ) の指示 で天津客籍撃堂'長産 草堂を吸収 したことで雨草堂 に配分されていた官費がそ のまま南開畢校 に支給されたことなど で切 り抜け' 1九 1五年九月常 ( 7) 時 は教員五四人'畢生 八五 一人 の天津 で指折り の中撃校 に成長 していた。 南開学校 は厳修が創 立Lt在韓高官 ・邑紳 の援助 に支えられたとはいえ、張伯答が つ-り育 てた学校 であ る。張 は清未申図 図勢衰頬 の因 は中華民族 の五 つの大病- 愚'弱'貧、散'私t にあ ると考えた。 「 愚」とは'千絵年 の閲 に中国人 の心中深-八股文 の飴毒が ほいり こみ'保守的 となり'進歩を求 めな-な った。また教育 は普及せず、人民 の多- は無知蒙昧 で'科学知識 に妖 け'迷信的 である ことを指す。 「易」とは'文を重 んじて武を軽 んじ' 努働 を卑 しみ' ア ヘンの害毒が流行 Lt早婚 の弊害が除去され な いことで'それがために民族 の鰹力 は衰 弱し、民族 の志気 は 滑沈 していると いう. 「貧」とは'科学が興らず'災害が頻章 して生産力 は易-'ために生計 は困難 とな った.加えて政治が 腐敗 し貴汚 なることが流行して人民 の生活 は破産 の淵 に瀕 している ことを いう。 「 散」とは'二千年来中国人 は専制鰹制 の下 に塾居し、組織 する ことも圏結する ことも できなか った。 このために個人主義が いび つな形 で登展 Lt圏鮭観念 はきわめて薄 弱たるも のとな った.中華民族全鰻 は 1つの盤 の中 の砂 のようなも ので' 「釆まれば力強-'散すれば力易し」へ 「 分れれば則 ち折れ易-'合 せれば則ち推き難 し」 の理を悟 らな いことを いう。最後 の 「 私」、 これ こそが中華民族 の最大 の病根 であると' 張伯苓 ほいう。国民 は利己心が強-'公徳心が弱 い。 みる こと為す ことが短小浅近 で'目 の前 のこと ですぐ に将来 を推 しはか ってしまう。個人 の存在 は知 っているが'圏鰻を知らな い。そ の流弊 の及ぶと ころは民族思想 の蚊如'国家概念 の薄 弱 に到 っ ている。箕 に慨く べき ことである。 張伯苔 はこの民族 の五病 を矯正し'さらにすす んで図恥を雪ぎ自強 を囲 るための 「 救国建国 の人材」を育成する目的 ( 教育 救国) で南開学校を剣舞 した のであるo張 の教育方針 は 「三育」 ( 徳育、知育'睦育)と呼ばれ'時弊 に染らず新 し い道徳行 為 を身 に つけ'科挙的知識 と新思想を習得 Lt鰭育鍛錬 にはげむ ことで健強な身髄を つ- り、さらに囲健活動 に参加して組織 ( 8) 瀧力を身 につけ'も って格乗 の愛国事業 に取 り組 める人材 を育成するとした。 南開学校 は普時 としては相常 に規律 の厳格 な学校 のひと つであ った。日 々の身だしなみ'宿舎 の整理'清潔 の励行 にはじま り'賭博 ・女郎あそび ・早婚 (二 一歳未満) は厳禁 ( 違反者 は退学虞分) 、 飲酒'輿煙も禁止され違反者 は姓名を記録された と いう ( 悪質著 は退学虞分 にな ったとおもわれる) 。 張伯苓 はほぼ毎週水曜 日 の午後'畢生全員を講堂 に集 め' 「 修身班」と 「 教育 の 一事 はただ畢生 に讃害 し習字 させるだけ ではありません。完全な人格を形成することが重要 であ り'三青を井 科 して'古今内外 の故事、話題を取 りあげ ながら仁義'道徳'愛国精神 を説-講話 をおこな った.畢生 への教育方針 の徹底 を ( 9) 固ら んとしたも のである。二、三 の例を挙げれば'次 のとおりである。 O 「本校 の教育宗旨 は畢生 に清爽' ﹃通力合作 ﹄LT相互扶助することが でき'括夜勤奮 して ﹃自治治人﹄できる人材 を 進 させて偏廃させるべき ではありませんo 」(1九 一四年四月 二九 日) O 「冬休 みが間近 になり'諸君 の多く は節省するでし ょう。締れば社合 の悪習 に染 まるでし ょう。近頃世 の中 の風潮 はと o p e r a t i ve hum an bei ng です。 」(1九 1六年 一月 1九 日) 育成することです。英語 でいう'C? O どまると ころを知らず'邪行が荷ばれ'賭博 に至 ってはも っともあが められ'流行 して います。それ故 に諸君 の出登 に際 し私 はひとこと戒 めのことばを申さねばなりません。--」 (一九 一六年 二月二三日) 教育課程 は四年制 で'国文、英文'教学 は四年間必修 とされ'中国歴史地理'世界歴史地理'化学'物理'生物等 の科目が 設けられた。理科 の賓験設備 は日本をはじめ海外 から の輸 入器械が多-'学外 から多- の見学者が訪ずれるほど立派なも ので ( _o) あ った。さらにそれら の器械 は授業中教師が賓済するだけ でな-'畢生 一人 一人が賓際 に手 にと って賓験 できるほどにとと の 3 1 眼汎 えられていたという。それもあ って南開学校 の名 は中国全域 に知られ'各省 から有能 な学生を集 めたがへ授業料が年間 で三六 ( 12) ( 13) ( 旭) 元'寮費 は年開 二四元、さらに食費 として毎月四、五元を必要としたとすれば'誰彼 とな-自由 に入れる学校 ではなか ったこ とも確 かである。 五四前夜天津畢生 の意識 東 方 畢 報 三九二 鰹 青 は教 育方 針 「≡育 」 のひと つに奉 げ られ て おり' 「学 問 のでき る者 は健 全 な身 鰹 を も つべき であ る。道 徳 の高 い者 は健 ( 15) 全 な身 鰻 をも つべき であ る」 と '張 伯 苓 が いう と おり'厳 館 時 代 から重 視 され ' 正課 のひと つであ った。 はじ めは操身 と呼ば れ 、張 が学 んだ天津 水師 草 堂 のそれ に倣 い'柔 軟 鰭 操 や角 力 ' マット運 動 '喧 鈴 や梶 棒 を用 いて の鰻 操 が中 心 であ った。陸 上 課 外 活 動 競 技 やバ スケ ッ-ボ ー ル' サ ッカー' テ ニス等 の球 技 は課 外活 動 でお こな われ た。 ⇔ ( 16) 南 開畢 校 には正課 の外 に'課 外 活 動 が あ った。張 伯 答 が '私 利私欲 に走 り'圏結 ・共 同 しな い昔 時 のわ る い風潮 を改 め'協 力 し、自 己 の見解 をも ち他 人 の意 見 を き-精 神 を養 う た め には囲鰭 活 動 が重 要 であ ると し て奨 励 Lt いろ いろ と便 宜 を はか っ た こともあ って'課 外 活 動 は南 開 畢 校 の大 き な特 色 のひと つと な った。 課外 活 動 は スポ ー ツ活 動 と文化 活 動 へ それ に奉 仕活 動 に分 け られ る。 まず スポ ー ツ活 動 は鰻 膏 の専 任 教 員 が 一人 であ った こ と から' 一般 の教 員 や卒 業 生 が コー チ役 を買 って でて自 主的 に お こな われ た。運 動 器具 は充 賓 し、 グ ラウ ンドも よ-整 備 され て いて'毎 日放課後 のグ ラウ ンド は鰻 操 服姿 の畢 生 で埋 ま り、毎 週 ど こか のク ラ ス ( 班 )封 抗 の競 技合 が開 かれ たと いう。 さ ら に選抜 チー ムにょ る天津 の新撃 書 院 '北京 の清華 大草 の チー ムと の対 抗 試 合 も お こなわれ ' そ のな か から 一九 1七年 東京 で 開 かれ た第 三回極 東 運 動 合 への中 国代表 国 ( 囲 長張 伯 苓 ) に七名 の代表 選 手 を造 り こんだ のであ る。 文化活 動 では、敬業 契 群 合 '自 治 励学 舎 '青 年脅 '国 文畢 合 '英 文学 合 、軍 契 合 '音楽 禽 '唱 歌合 、演説 脅 '新 劇圏 等 の圏 鮭 が組織 され へ社 脅奉 仕活 動 圏鰹 と し て は義 塾服 務 圏 を挙げ る ことが でき る。 これ ら諸 国鰻 は大 部 分 が畢 生 ・教 員合 同 の組織 であ った。 敬業 柴 群合 は遊戯 '演 劇 '演 説等 を通 し て 「同撃 の感 情 を聯絡 す る」 こと を宗 旨 と し た畢 生 の娯 柴 的 親 睦 圏 鰹 で、 一九 一四 年 五月 一四 日 に正式 に成 立 し た。 自治励拳骨 は私立第 1中草堂時代 から の畢生 の撃術研究圏鮭 であるO文筆'科学、経済 、美術、演歌等 の部をもち、敬業梁 群合 に-らべて知識習得を前面 に出 したも のであ った。. 青年合 は 「キリ スト教 の要道を研究 し、徳 ・知 ・腔 の三青を吏達させる」 ことを宗旨とすと明確 にうた っているとおりtY McA の南開学校支部と いえる圏鰹 で、キリ スト教 の奉仕精神 から衛生演説脅'社合衛生圏'通俗教育圏等を組織 して社合奉 仕活動 にも参加した。校長 の張伯答が 一九〇九年 に洗蔭を受けてキリ スト教徒 になり'また教員 にもキリ スト教徒が幾人 かい たこともあ って、 一九 二 年頃 からキリ スト教徒畢生 の小グ ループが でき' 一九 一四年 に正式 に青年脅とな った。 演説合 は畢生 の話術 の訓練 と思想 ( 自己主張)襲表能力 の養成を目的 に組織 された。定期的 に公開演説合を催 した。学校 は 活 動 優秀な護表者を表彰 して奨励 した。 「 17) は' 一 九〇九年張伯答 の提唱 で彼 の作品を彼自身 の演出 で教員 ・畢生が演じたことに始まる。初期 は演説 の練 新劇圏 の 習が目的 で、そ の都度囲員を募集 して公演をしていた。民国以降 は毎年 一 〇月 一 〇 日 の国慶節 に新作 を登表 した。それが敬業 ( は) 奨群合が活動 の 一環として演劇を掲げ たことから' 一九 一四年 〓 月岡禽員を中心 に教員 ・学生合同 の新劇圏が正式 に成立し' 教員 の時子周が園長 に選ばれた。馬千里 ( 教員、清作部長)'周恩来 ( 布景部副部長)'馬駿'陳鋼 ( 編纂部副部長)等、 ﹃校 風﹄でも健筆 を ふるい、 のちには五四連動 で活躍する人物が女装もして熱演 した。公演 は校内だけでなく 天津 ・北京市内さ ら に河北 一帯 でおこなわれ'好評を博した。作品 は囲員 の自作自演 で、 ﹃恩怨緑﹄ (一九 一四年)' ﹃一元鏡 ﹄ (一九 一五年) ∼ ﹃1念差﹄ (l九 一六年)' ﹃ 新村正﹄ (一九 l八年)が有名 であ った。ともに奮思想'奮道徳'蓉制度 を批判 した内容 で あ ったといわれる。 l般民衆 への演劇 の影響力 は五四連動 の中 で如何な-葦揮された. 国文畢合'英文畢合'軍契合'書契合、唱歌圏 については説明を要 しない.最後 に、義塾服務国 は教員と畢生 の合同出資 で 天津市内 に義塾を設け ( 第 一義塾1 一九 1五年四月設立。第 二義塾- 1九 l六年 三月設立)、生活困窮 の未就聾者 にいわ ゆ る 三九三 「謹 み、書き'そろば ん」 の識字教育をほど こした。日常業務 は各班 (クラ ス) 二名 の幹事があた った。平民教育運動 の性格 五些 削夜天津畢生 の意識 東 方 学 をも有するも のである。 a 名 刊) ly 報 ( 牛年 刊) a i i 報 訣 行 圃鰻 名 競 数 ( 吏 行年 月 日 ) ︹l七年 六月︺) l∼ 四九 期 (1九 l四年 三 月 四 日∼ 一五年 六月 1四 日 六期 (1九 1四年 一 〇 月∼ l∼ 群 合 敬業 柴 1- 1二七期 (一九 一五年 八月 三〇 日- 1九 年 五月 二 ) ? 二期 (1九 一六年 二月∼ 九 1六年 1 0月) ( 1 三期 (1九 1五年∼ 一六年 ) 期 1- 一 校 風 報社 脅 一∼ 年 自 治 勘畢合 青 英 文 学舎 期 (一九 一六年 二 一 月) 五期 (1九 1七年 二 月∼ 二〇 年 1 1月 ) 一 l∼ ) 六 日 ) 報 三九四 敬 業﹄ ﹄ の三 ﹃ 紙 励 畢﹄ を合 併 ﹃ ﹃ 青年 一時 停 刊' 一 一月 七 日復刊 課外活動 の分野 でのもう 一つに出版活動があ った。右 に紹介 した諸囲髄 からも い- つかの出版物がだされ たが' ・いま五四以 ( 19) 前 に限 って列挙すれば次表 のとおりである。 誌 報 ( 週 業 ( 牛年 刊) 期 敬 風 星 校 畢 刊 ) 励 年 (週 青 N 英 文 季 報 ( TheN a n k Qu a r tar ) ( 不定 期 ) づhe n ka 南開思潮 これら の中 で ﹃校風﹄誌が車行期間「 .戟数 とも に他誌を断然歴倒 しているo ﹃校風﹄誌 は南開学校畢生 の課外活動 の 1部 で あるととも に学校誌的性格をも つ雑誌 であ る.次 にそ の ﹃校風﹄ の吏刊 の時代的特徴と誌面 の構成等 に ついてみてみよう。 別 二 ﹃ 校 風﹄ の 登 3: 刊行時期 の中国 ﹃校風﹄は 一九 1五年 八月三〇日'同じ-南開学校 の校内誌 の ﹃星期報 ﹄ の後 を継ぐ形 で創刊されたB五列 の週刊雑誌 で' 五四運動草生直後 の 一九 一九年五月 二六日に停刊 (l時的)するまで' 一二七期を刊行 した. この ﹃校風﹄刊行時期 は' ﹃校風﹄に年月遅れて創刊された ﹃ 青年雑誌﹄ (のち ﹃ 新青年﹄と改構) に代表される'新文化 連動 の時代とかさなるが、国民 にと っては政治的 には暗黒 の時代 であ った。すなわち' 1九 二 一 年 に成立した中華民国 の共和 政鰻 は衰世凱政権 にょ って形骸化されていた。 1九 1五年 には'そ の前年 よりはじま った第 1次世界大戦 のため欧米諸国が中 国 を顧 みる除裕を失 っていた時期をねら った日本 のいわゆる封華 二十 一力候要求が中国 に つき つけられていた。 これ に封 して 中国国民各層 は 一致 して要求拒絶 を求 め'反日運動を展開 した。運動 は五月九日に裏世凱政府が日本 の要求を 「 受講する」と、 最高潮 に達 したが'七月 にはほぼ終息 してしま った。日本 の中国便署 の意固が明確 にな った謬 であるが、同じ ころ園内 では' はじ めはひそかに ( 間接的 に)' そしてのちには公然 と ( 直接的 に)' 共和制麿止'帝制復活が衰世軌 によ って董策 されてい た。八月 には大総統顧問 のグ ッド ノウが'衷世凱 の御用新聞 ﹃亜細亜日報 ﹄に 「共和と君主 の論」と題する論文を襲表 し、そ のなかで中国 のような民智 の低 い園 においては共和制をたてる のは困難 であり、中国 の立憲 は君主制 にもとづ いておこなうべ き であると いう見解を出 して帝制導入 の必要性を強調すると'十数日 のうちに衷世凱 の帝制運動 を推進するための言論機関 で ある筆安倉が組織 された (八月 二三日成立) 。 買収 ・脅迫 'さもな-ば弾塵等 の手段 で新開をはじ め多- の報道機関を世論づ -り に利用 し'遂 には園膿決定投票 という 「民主的」な形式を経 て'そ の年 の 一二月表世凱 は皇帝位登極を受講 した。 この帝 制 に封する反封運動 の接鮎 の 一つが天韓 であ った。 か つては蓑政権 に協力 した梁啓超 や彼 の弟子 の 案 鍔 ら は'天津 ( 租界地 区) で反衰行動を密謀 した。帝制運動を非難 した梁 の文章 「異なる哉、所謂圃鰹問題なるも の」は天浮 で執筆 された。帝制反 封連動 は天津 での密謀 から雲南 を中心とした 「 護国戦争」 =第三革命 へと章展 Lt衰世凱政権内部 の足泣 みの不ぞろ いもあ っ て'翌 一九 一六年 三月 には帝制取消を勝 ち取 り'六月蓑 の死をも って終息 した。 衷世凱 ほ憤死したが'そ の後北京 の主 の座を争 ったのは、段瑛瑞 ( 安微涯)・漏園嘩 ( 直隷涯)ら の麦 の か つての 部下 たち 三九五 民図」 であ った 。 二 九 l七年 七月 には張動 にょる清朝復活をねら った復鮮 クーデ ターが おこ った。復静 は失敗 に終 ったが' 「 五四前夜天津畢生 の意識 東 方 畢 報 三九六 はふたたび動揺を おこした 。 これより前'段棋瑞 はドイ ツに宣戦 Lt参戦軍を編成することを名目 にして'日本 の援助 ( 西原 借款)を-けたが、自己 の軍隊 の摸大 に つとめ'賓際 に ヨー ロッパ戦線 まで軍隊を派遣することはおこなわれず'園内 の抗争 を激化させるば かりであ った。 1九 1八年 '大戦 は終結 した。 1兵卒 の派遣 をもしなか った中図 ではあ ったが、各 地 で盛大な 戦勝祝賀大倉が開 かれ' 一九 1九年 1月 からパリではじま った封 ドイ ツ講和合議 には連合国 の 1員 として代表圏を送 り、中国 におけるドイ ツ権益 の返還 に大きな期待をかけた のであ った。 このような政治社合状況 の下 で'新鮮 な表現と強烈な思想をも って登場した ﹃新青年 ﹄は多- の畢生 ・青年 の心をとらえた と いわれるが'それとは別個 に' この時期中図各地 では'畢生 らの手 によ って同人誌、校内誌 のちが いはあ るが'数多- の雑 ( 班) 誌が顎行され ていた。畢生 たちは閉塞 した状態 の中 から'そ こに何 か自己 の感情 の軍露 を求 めた のであ る。 ﹃校風﹄もそ のよ うな雑誌 の 1つであ った。もちろん ﹃校風﹄は南開学校 という天津 の 一中学校 の校内誌 にすぎず' ﹃新青年 ﹄と-らべると思 想'表現とも に幼稚 であるかもしれな い. また特定 の畢生が指導 し' 一貫 した主義 ・主張があ ったわけ でもな い。学外 への影 響も大き-なか ったであろ-。しかし'畢生 は畢校と いう枠 の中 から中園をみ'世界を聞 いて'思考 した のであ る。そ の限 り 誌面 の構成、そ の他 で' ﹃ 校風﹄は常時 の畢生 の様 々な意識 ・思想を反映 した出版物 であ ったと いえよう。 目 ﹃校風﹄は敬業栗群合 の ﹃敬業﹄や自治励畢合 の ﹃励畢 ﹄等 の畢生同好禽雑誌 とは異なり'南開畢校畢生全鮭 の雑誌 であ っ た。編集 の主鰻'校風報社 は各単年各班 から選出された代表 -社員 ( 各班二名)と教員代表 一名 から構成 された。組織 は大き -編帝都と経理部 に分けられ'編輯部 には線編輯'副編韓 の下 に後述する部門別 の 責任者 ( 絶主任 '主任各 1名)、数人 の職 員を置 いた。経 理部 には綬経理'副経理各 1名 と数人 の経理員を置き'さら に教員 一名が特別経 理員 として加わ った。敢員 は 牛年 ( 線編韓 、副編帝 ら の劇務 ポ スト)'な いし 一年 ( 主任以下 の職員) で改選 され た。 誌面 の構成をみると'言論 ( 祉論'代論)'紀事 ( 校閲)'警鐘、演説、文苑、課垂選録'小説、劉記、薙姐、各合報告等 の ﹃校風﹄ の主張- 昔時 の畢生 の意識- を博えるも のとして重要な文章 である。政論 に代 って掲載される 「 代論」は 欄が設けられ'それぞれ の捨富者が編輯 した。 ほぼ毎期 の巻頭を飾 る 「 政論」は繰編韓 か副編輯'とき に社員 によ って執筆 さ れた。 1般畢生 の癒募論文'または作文大合 での優秀作晶 である。 これまた重要な文章 である。時 には来賓 の演説録が載 る。「 紀事」 欄 には学校行事へ各合 の活動'人事異動 ( 教員'畢生)等 に関する記事が遊び'南開学校日誌 とも いえる。 「 警鐘 」は社員 の ヽヽヽ 執筆 ' 一般畢生、教員 の投稿論文 のちが いはあるが'とも に小社論 とでも いえる時事問題 を扱 った短文を収 める。 「演説」は 校内 でおこなわれた教員、畢生、来賓 の演説録 で'校長張伯苓 の修身班 での講話も この欄 に掲載 された。 「文苑 」 には旅行記' 詩評'さらには随想録と い った比較的文撃的色彩 の濃 い長文 の作品が収 められている。但 し旅行記 の中 には社台調査と い った も のが時 にみられる。 「 課蛮選録」に収録されるも のには閲文科 での提出論文中 の優秀作品 ( 教員 の コメントが付けられてい る)が多 か った。 以上 のような豊富な内容をも つ ﹃校風﹄は毎期 l六頁 から三〇頁前後 で'毎週月曜 日 (のち水曜日) に襲列された.夜行 は 畢年暦 に沿 い'人草式 のおこなわれる八月下旬 または九月上旬 から- 年末年始 の二'三週間を除-1 翌年 六月 の卒業式ご ろまでで'七月 から八月中旬 までの年度末期 は休刊 となり、 一年間 に約 三五期章行された。 誌代 は校内者 と校外者 の二本立てで'校内者 は牛年分銅元三三枚(のち四二枚 に値上げ)、校外者 は郵便切手 で三三分牛 (の ち に郵便切手 で四〇分'または銅元 で四九枚となる) であ った。南開学校畢生 は ﹃校風﹄ の購読が義務づけられており'投稿、 い 。 郵迭)- 七四'迭閲 社員 となる権利を有 していた。 一九 一六年九月時鮎 の購 読 者 数 は'教負- 五二'学生- 八〇 五'外寄 ( 「 F ; ) ( 寄胆)- 八五 の合計 一、〇 1六名 であ った。 へ ¶ ご 以下 に節を改 めて'第 一期 から第 二 一 七期 までの ﹃校風﹄所載論文 ・記事を言論欄掲載論文を中心 に検討することによ って' ( 刀) 五四前夜 の天津南開学校畢生 の意識 とそ の轡化 を明 らかにしていきた 五四前夜天津畢生 の意識 束 方 畢 報 三 ﹃ 校 風﹄ の 論 調 H 畢生 の責任論-救国 吾輩 は二十世紀 の競争 の時代 に生 まれt ,横 顔不振 の中国 に生 まれ'又た外侮 日に逼り自 ら顧 みるに暇なき危急 の時 に生ま れり。吾輩 は是 の時 に生まれり。是 の図 に生まれり。安- んぞ坐現 して 1に ︹ 中国を︺救 わざ るに忍び んや。-- 天下 の興亡'匹夫も責有 り.吾れ国民 たれば則ち図 の興亡と関係有 るに至る.然 らば則ち吾人 の責 は既 に重-且 つ大なり。 主 筆 陳 鉄 ) ( EQ ) 剤 っ た 。 (節) か つての士大夫 の国事 に関 吾れ此 に至りて始 めて敢決 して日く' 「 吾人 の目的 は賂来能-此 の重大 の責任を負 うを期するのみ」と。--吾輩畢生 の 学 生 は 責 は賓 に他人より重き こと数倍 なり。 ( 蝕) ﹃校風﹄第 一期 の巻頭 を飾 った' 鋼 ( 字は による 「茸刊詞」 の 1節 であ る。 ( 溺) '昔時 の中国社合 にあ っては立派 な知識分子 の 一員 であ 一五歳 から二〇歳前後 の中 あ る 2 。 わる意識 にも似 た気概 でも って'陳鋼 は 一九 1五年 の中国 の内外情勢 を直税 して'畢生 にまず国民として'畢生としての責任 ( 8) 陳鋼 はさらに 「 愛閲を説-」と題 した論文 ( 第 二期) の中 で' を全うすることを訴えた ので ・ 今'我が観 の人 々も亦 た皆な愛国を日えば'則 ち我が国固 より宜 し-蘇-且 つ盛 んにして'欧米を凌駕 Lt世人 の共 に仰 ぐ所と為 るべし.然 るに其 の結果'何ぞ其れ相反するや。・ -≡ 夫れ愛国とは空 言の以 て済す有 るべき にあらず'激烈 の以 て成 る有 るべき にあらず'旦夕 の以 て致す有 るべき にあらざ る なり。吾れ、夫 の国を愛する者を見 るに、東走西奔 して結薫立証 し、 ロに愛国 の言を絶 やさず'未 だ嘗 て人を動 かし 一時 を舷燈すべからず んばあらず。然れども其 の行事を考うれば'則 ち純然として其 の言語 と相反 し'愛国 の二字 に憤 りて以 て口頭辞と為 し'陰 に以 て其 の私欲を済す。 と のべて' 「 愛国」的政治家 の投機的行動 を非難 し' このような愛 は 「 愛 にあらず して'賓 に害 であ る」と断言 した。そして は 自 国家 と図民 の関係 に ついて、陳鋼 はそ の考えを次 のよう にのべている. おの ず と強 かる こと能 わず '人民強 - して図強 し。今 '其 の図 夫 れ、 一国 の成 は無数 の人民を標 みて以 て成 る老 なり。国 を強 う せんと欲すれば まさ に先ず同胞を強 うす べし。--同胞 を愛 し'賓事求是 Lt塵聾 を以 て相跨らず '己 の力 の鷹 に 行うべき の事 を壷- せ。 一人之れを唱え て'百人之 れ に和 し'十百人之れを唱え て千人之れ に和す。虚聾 を競 わず蔵だ賓 際 を求 めんのみ. 1国 の人、各 々其 の責 を轟- せば '遍国 の中皆 な強健 の分子 と成れ り。此 に至れば園 の不強 を欲す るも 豊 に得 ぺけ んや。則 ち愛国 の二字 は轟責 の謂 なり。故 に吾れ は謂う、能-其 の責 を壷-す者乃 ち虞 の園を愛 す る老 なりと0 園 は 1人 一人 の人民 の集合鮭 であ る。各人がそ の国民 として の責務 を轟- せば '国家が滅 亡する ことはな い。国民 は主権者 ( T ; ) な のであ る.陳鋼 は明確 に国民 たる意識概念 を提示 した のであ る。 さら に 「服役 心と塁別力」 ( 第 六期) では'閥民 と政府 の 関係 に ついて次 のよう にいう。 人 は服従 の心無 かるべからず。尤も強 き服役 の心無 かるべからず。惟 だ其 の始 めに於 いて其 の見解 の普香 を察 す べし。苛 し-も見解之れ不首 にして'服役 の心を誤用 し、生死を顧 みざれば 、終 には悪果を得 ん。 おの 入国 より壁別 の力無 かるべからず。其 の是非を察 し'其 の邪正を辞じ'胸中 に明瞭 なれば '取捨自ず と分 たる。然 る後其 の宗旨を定 め'堅強 の心を以 て服役之れを行う。之 を以 て事 を謀 れば '事 に成 らざ る無 し。之れを以 て団 を救えば 、園頼 りて以 て興れり。 そして 「 責任 を轟-す」ためには 「服役 の心」も必要 ではあ るが'盲従的 であ ってはいけな い。まず 「 壁別 の力 」( 判断力) を身 に つけるべき であ る。そ のためには畢生 は 「 謹書 を多- し閲歴を増す ことを以 て常務 の急 と薦 すべし」'と結 んだ. では' いかなる書物 を読 むべき か。陳鋼 は国学研究 を提唱 した のであ る。彼 はす でに 「 国学 に封す る感言」 ( 第四期) で' 次 のよう に記 している。 五四前夜天津畢生 の意識 東 方 学 報 四〇〇 西畢'固 より宜し-研究すべし。而 して国学 は我が国 の国粋為れば'亦 た未 だ偏麿す べからざ るなり.然れども畢校 は西 撃 を以て重 しと為 し'而 して畢生も亦 た中文を以 て軽 Lと馬 せり。故 に英文を教授 せらるる時 に於 いては則ち注意 して之 ほ ば れを聴き、惟 だ に 1字 の或 いは遺 せんことを恐る。国文を教授 せらるに及びてほ則ち署注意 せず。倦れ て陸れる老之れ有 り。他書を穿開 せる老之れ有 り。心に鴻鵠 を思う者も亦 た之れ有 るなり。⋮ま 今'列強 の属国を封待する の法 は首ず其 の人民 の本国 の文字 を習うを禁ず。蓋 し本国 の文字既 に絶ゆれば '則 ち人民へ復 た国家 の観念 を有すること無げれば なり。-≡ 吾れ膜わ-ば'自今以後多-国学を研究 し古人 の学問を聞茸 し以 て挽救 の策 と薦 さんことを。 一歳 ) そして'敢え て大撃 でいうとことわ って' 「園撃 は我が国 の精華 であ る」とも断言 した。文苑部主任 の童啓顔 (一九 1五年、 ( 訓) も 「 観撃 の関係を申諭す」と題する長文 の論文を葦表 して ( 第 五㌧七'一 〇t ll期 の四回に分 けて掲載)'国 学 を 二 「 国家 の霊魂」と讃 え、 「 此 の霊魂が 一たび失なわるれば'国家 は滑亡し種族 は願嘩す。塞魂がもし存すれば'国家弱き に至 マ マ るといえども人民 は到 りて柔 に'終 には後 興 の 一日有ら ん」 ( 第 五期)として'図撃 の保持を強調 した。 民国 の成立と王朝鰻制 の崩壊 によ って'新 しい共和政鰹、国民思想 の時代 の到来が期待されたが'そ の期待 は衰世凱政権 の 出現 によ ってもろ-も崩れ'しかもそ の衰政権を通じて外囲列強 は中国便署 ( 利権獲得)を董策 していたのである。陳鋼 ら畢 生 はこの外囲列強 の侵署 に封する抵抗 の核 '救国 の基礎 として、国学を提示 した のであ った。士大夫的存在 であ る畢生たちは 国学を外 から の政治的文化的侵署 に対抗 しうる'唯 一の中国俸統思想 として意識 した のである。さら にいえば'国学 は復古的 であるが故 に、外 への抵抗 の核 として逆 に普遍性をめざす原理となりえるも のであ った のであ る。 ⇔ 帝制反対-反衰 国学 は'外国列強 の中国便署 に封抗する思想として創出されたも のである。 では昔時最大 の園内問題 であ った衰世凱 の帝割 運動 に ついて'南開撃校 の畢生 はど のような態度 をと ったであろう か。 ﹃校風﹄ の誌面をみるかぎ り'衰世軌 の帝制問題 に直接言及 した記事 はな い。 一九 一五年九月 一六日 の衰世軌 の誕生日'さ ママ ( E 7 5 ) らに 一 〇月六日 (賓際 は五日) の孔子誕生日はとも に休校とな っている。童啓顔 は新入生 に封する歓迎 のことば の中 で次 のよ うにのべたが'昔時 の抑歴 され た状況を考慮すれば'相常 に思 い切 った撃 言であ ったと いえる。 亡国 の学派 は奴隷 の性根なり。其 の毒 の深 き こと其 の習 いの固き こと、直 ち に今 日 に至 り、飴熔固 お存す.故 に数十年来 人争えば我譲 り'人進 めば我退き'人令 を出 して我命 を受-。入刀過 して我魚肉 となりて'直 ち に今 日 の国勢維難 '四郊 はか 多重 '群盗入室 して臥楊牢 からざ るに至れ り。--厭 の由 る所 を携れば'皆 な此れ腐朽 の畢派、不強 の分子 の以 て之れを た ほ こ 致 す こと有 るなり。彼等固 より自ら聖人 の徒 、大道 の統為 るを詞 るも、孔子山 豆に嘗 て此 の畢説 を主 せLや。彼 叉た何ぞ 日 ( 32) ママ ( 3) な り 」と。蓋 し彼昏-'吾が国粋 の興国す る能 わざ る に あ う' 「 志 士'仁 を成 せり」' 「 戦陳 にて勇 なき ほ孝 にあらざ る らざ るを知らざ るなり。-- ( 第 三期 、言論 「 新同学 に潜 る」 ) 者 は孔孟 の説 に慣 りて以 て行うべ に 泥 む なず 衰世凱 を名指 しで攻撃 したも のでも'孔子 ・孟子 を否定 したも のでもな いにしろ、孔孟 の徒 を偏 る 一派を亡国腐朽 の学派 とよ んで、そ の欺隔性 を非難 した のであ る。 さら に帝制運動が最終局面 に入 った 一二月 六日発行 の ﹃校風﹄第 一五期 の言論 「 古 からず」 ( 副主筆孔繁霞) は' これ また 「 時政 を妄議 せず 」と間接的 な表現 ながら衰世凱批判 をより鮮明 に打 ちだ した。 況 んや今 の所謂国粋 を保存 せんとす る者'其 の宗旨 を吾 れ は敢 え て知らざ るも、其 の結果 は則 ち古 に泥む のみ。古 に泥む は新茶 の軌放 せし所以なり。顧 だ吾が学術 ・閲歴 は供 に浅 く、絶 えて敢え て時政 を妄議 せず。--古 に泥む者 は動もすれ ば孔孟を言うも'孔孟 の絶 え て古 に泥む者 にあらざ るを知 るを要す。古 に泥む者 は孔孟 の徒 にあらざ るなり。 衰世凱 のいう孔敦 は具 の図枠 =国学 ではな い'彼 らは孔孟 の徒 ではな い、と いう のであ る。 しかしながら'そ こには国学 =国 四〇 1 粋 に操 って'同じ-図畢 =孔数 を利用す る帝制運動 に反対 すると いう'きわめて歯切れ のわる い封鷹が みられ た。 五四前夜天津畢生 の意識 東 方 学 報 四〇二 二1 月 〓 盲 へ衰世凱 ほ登極を受諾 した. 「 中華民閥」は 「 中華帝図」となり'翌 1九 一六年 は中華民図五年 ではな-、洪 憲 元年 と改元された。 この襲化 に南開学校畢生 は 「 従順」 ではなか った.多- の新聞が つぎ つぎ と衰世凱新皇帝 を讃 える記事 を掲載 LTそ の襲行 arc h1 3 .1 9 1 6 " ) に孔繁霜 は 「隠士と英雄」と いう'従来 のも のとは趣きを異 にする題目 の論文を 孝 表 し 年に 「 洪憲」 の元坂を用 いる中 で' ﹃校風﹄はそれまでの 「 中華民国」にかえて西暦年 を用 いたのである。そしてそ の第 二 一 期 ( 孝行日は "M た。すなわち' 「隠 士」と いう術語 は老荘思想 の用語 であ って、少な-とも図撃 のことば ではな い。また 「英雄」 の出現も孔 子 の望むと ころではな いから であ る。 さ む 鳴呼'風 は大地を湊 うLt血は九州を潰す。世人'英雄を思うも'我 は則ち尤も隠士を思う。︰-・ 夫れ'治世 は道を以 て し、未だ術を以てして能-久しうするを聞 かざ るなり。英雄 は術を以 てLt而るに君子 は道 を以 てす。︰-・ 世愈 いよ乳 る れば、則ち英雄愈 いよ多-'君子愈 いよ少 なし。而 して天下 は道 を以 て虚妄 と為 し'術を以 て常経 と薦 せり。術 の言を為 い( .ハ す ほ詐なり。 詐 れば則ち人 の馬 にするを知らずして'但だ己 の馬 にするを知 る のみ。図を挙げ て己 の為 にすれば'則ち上 と きわ ま 下交ごも征 り'而して囲託する所な- して'乱れ ' 困 り'亡ぶ。 それ故 にへ 「 英雄 の輩出 は国家 の幸福 にあらず」と許 し、そして 「 英雄泣起 の日は即 ち神州陸沈 の時 なり」と結 んだ。 「 英 慰亭堂」と刻された 1枚 の匠額が掲げられ 雄」 =衷世凱 に封する痛烈な批判 であ る.ところで、南開畢校 の薩堂 の入 口には 「 ていた。慰事 とは衰世凱 の字 であ る。 一九〇 七年 に表 の損助 を得 て薩堂を建築 したことを記念 したも ので'南開畢校と の関係 を象徴するも のであ った。しかし裏が皇帝を稗すると'畢生 たちはそ の院額 を取 りはずす ことを学校普局 に要求 し'撤去させ ( 弘) たのであ っ た 。また 「隠士と英雄」を掲載 した同じ第 二 一期 の詳叢欄 には 「世界最小 の共和国」と題する' ヨー ロッパの小国 ヽヽヽヽ サン マリ ノ園 の紹介文が みえる。あたかも世界最小 の共和国 の安定 と繁栄を引 き合 いに出 して'世界最大 の共和国 であ った中 国 の混乱 と破滅 を悲 しんだかのよう である。 これまでみてきた ﹃校風﹄掲載記事 は'陳鋼 ( 主筆)'孔繁育 ( 副主筆)、童啓顔 ( 文苑部主任) の執筆 にょるも のが多 い。 因みに言論欄執筆者 についてみると'衰世凱 の帝制取消 (一九 一六年 三月二二日)までの二二期中 一九簾が前記三人 の執筆 で あ った (六月末陳鋼ら の卒業 ︹ すなわち校風報証職員改選︺までの三五期分 についても二五簾を執筆) 。荘(26) でも記 したと おり'陳鋼ら年長畢生 は真性凱 の帝制運動'中国 の現状 に対 して強 い危磯意識をも っていた。そ のおも いを ﹃校風﹄誌 上での べたが、陳猫秀ら ﹃ 新青年﹄ の執筆者 のように古今東西 の思想文化 に精通 していた謬 ではなく 勢 い図畢 -国粋 に依嫁するこ と で間接的な表現ながら時局 に撃 言したのであ った。それは外部 に対 してではなく、中華民国 の成立 による 「 光明」をみるに は幼さすぎ'自覚 した時 にはす でに衰世凱 の専制 という 「 暗黒」 の下 にいた多- の後輩 の畢生 に封 して語 られた のである。そ して今'畢生たちは国学 から の自立'国学 にかわる新 しい揺 りど ころを模索 しはじ めた のであ った。 帝制取消後 の五月'校風報社 は 「 誠能動物論」と いう テー マで論文を募集 し'そ の優秀作晶として周恩来、馬粋 の 論 文 が ﹃校風﹄に掲載された ( 第 三〇、三 一期) 。 周論文は孔子、 キ- ス-'樺迦 と い った東西 の聖人 のことば を援用 Ltまた馬論 文 は亮、舜ら の中国 の聖人 の名を挙げ るようなも のであ ったが'両者とも にリソカーンの演説 の有名な 一節を引用 した。 すべての人 々をしばらく の閲愚弄するとか、少数 の人 々を常 にいつまでも愚弄することはできます。しかしすべての人 々 ( 35) を いつまでも愚弄することはできません。 この 一節 は同じ第 三〇'三 一期 に連載された張伯苔 の修身班 での講話 にもみえる。 この引用 の意囲する所 は讃者 に明白 であ っ たに ち が いな い。 第三 六月六日 '衷世凱 は死去 し、翌日'副総統 の賓元浜が大総統 に就任 した。 この新香大総統 の慶弔 に ついて' ﹃校風﹄ ( 四〇三 四期) は紀事欄 に 「 懸旗慶賀 」 の小見出 しで次 のよう に報じている ( 周恩来執筆) 。 これ マ マ 先週 の水曜日 ( 七日) は大総統賓公元浜 の受任 の翌日為 り。各校校長'巡按使署 に斉集 し慶賀 せり.校長張先生も亦 た 鴛 あず かれ -。校中 は是 の日特 に旗 を懸げ株 を結 び'以 て慶幸 を表 せり。而 る に時 を同じう して復 た牛旗 に下 せり。蓋 し前 に 興 五四前夜天津畢生 の意識 東 方 畢 報 の総統衰公世凱 の逝世を追悼 すれば なり。 六月 二八日' この日北京 では衷世凱 の葬儀 が おこなわれ ていたが'天津 の南開学校 では第 八回卒業式が挙行 され た。そ の席 に 塗 上'張伯答 は衰世凱 を許 して、 「東前総統 は物事 を おこなう に塊力 に富 み'機 敏 であ るために外囲人 は 口々にはめそやしまし まみ れ ました。 そ の最後 にお いて' たとえ相親相善 の僚友 であ っても相信 じ る ことが でき な か った のは不誠 た。然 るに 一敗地 のためであ ります。 1世 の雄 の衰氏を以 てしてもそ の最後 を善 -す る ことが でき なか った のです。況 んや衰氏 のよう でな いも のにおいてを やです」。 1万 ' 「現総統 の賓 氏 は才署 は麦氏 に及び ません. しかしなが ら即位 して十 日'全図 は統 1の勢 いに 5 1 斬 g : ことが でき ますが'世界 を寓世 に至るまで欺 - こと はでき ません。不誠 なる者が よく永 らえ' あ ります。 これ は誠 に悼 んだためです。 一は誠 を以 て成功 し' 一は不誠 を以 て失敗 した のです。 」、と のべた後 '前出 のリ ソカ を 欺 - ー ンの演説 の 1節 を援用 して' あ ぎむ 穫術 は 一時的 に 1世 失敗 しな いでいる こと は決 してあ りません。 校長張伯答 の激励-愛国 と いい'何事 を おこなう にも 「 誠 」 の字 を基準 とする ことを求 め'卒業生 へのはなむけ のことば とした のである。 自 <放暇褒誌> 園慶紀念 日 は適 々日曜 日 に値 り'特 に前 日 の土曜 日 に 一日を放暇 せり。 ( 第七期) <慶賀盛事> 先週 の火曜 日 は吾園 の革命告成 してより第 五年 の園慶紀念 日為 り。方今 、陰緊全 て沿 え'洪光重 ね て現 わ れ り。故 に此 の讐十 の佳節 に値 り、国民 の歓欣 ・歌項 の盛況、往年 に益倍す。本 日'行政公署由 り各校 に通函あ り'斉装 整除 し公署 に前往 して慶賀 す べLと。本校同畢数 百人も亦 た是 の目早 八鐘 に操衣を著 し全装 して操 場 に在 りて斉集 し、辛 樹人 ・王香庭 の諸先生由 り引導前往 せり。突撃悠揚 '旗 職招展 ' 1路陳列 を厳明 にLt精神 を勤粧 して直 ち に公署 に至れ り。国旗 の前 に在 りて鞠窮 して敬 う に到 -、三たび寓歳 を呼 べり。後 に公署由 り紅花 を分給 せられ以 て紀念 と作 せり。蹄 途 ほ喜気盈洋、頗 る 一時 の盛況 を極 めり。 ( 第 四二期) 前者 は l九 一五年 、後者 は 一九 1六年 の、とも に国慶節 に関する ﹃校風 ﹄ の紀事 であ る。両者 のちが いはまさ に 1日瞭然o 前者 の記事 の事務的表現 に-らべると'後者 の記事 の詳細 さは衷世凱 の死去 によ って専制 の暗雲が ふきとは され たと人 々が感 じ' 「民国」を春歌 して いる様子を十分 にう かが わせるも のであ った。 き た 。 さ て、 ﹃校風 ﹄ の論調をみると'それま でさ かんに唱えられ て いた国学 、国粋 の語が ここに至 って ﹃校風 ﹄誌 上 から姿 を消 i ( == ) した。 これ にかわ って校長張伯苔が修身班 の講話 を通 して' 「 愛国」 の語 を前面 に出 して畢生 に 〝新 し い ″創造 を求 めて 中国人 は愛国心 に乏 し い。--園 とは人民 の組織 して成 ったも のであ ります。--現在 は共和 の時代 です。中国人 の愛国 心 は僅 か五分間だけ のも のだと日本人 は い って います。 --西洋各国 は文豪 の鼓吹'教育家 の提唱 によ って各方面 で人民 国 民 を ・ ・ 昔 の愛国観念が造成 されて います。中国 はと いうと'国家が人民 に愛国 心を提唱 して いますが'どうしてでし ょう 。 - ・ ( 38) 新造 し'新園 を造 るべき であ りますoそ の事 は誠 に難 し いこ の人 は国民 を喚醍 せんと欲 しましたが'今 は則ち虞 の とですが' この難 の字 を習慣 とすべき であ ります。西洋 の諺 に 「 両 は自 ら助- る者を助-」と いう でし ょう。 --我 々は 国家 のため'人道 のためを掲げ て'購乗 の大同 に備えるべき であ ります。 この意識 をも って前進すれば、愛 国 の心はまさ にいまより倍加するであ りまし ょう. ( 九月 1三日-第 三八期) 中国 を強- せんと欲すれば、保守 を打破 し'改 めて進取 を持 たなければ なりません。--中国 を強 く せんと欲 すれば '新 し い中国 を建 てなければなりません。 ( 九月 二〇 日-第 三九期) さら に' 二 月 一日 の修身班 では、開 口 一番 「今 日 の題目 はすなわち愛国 の二字 です」と護 して'八年前 (1九〇 八年) の 欧米教育事情視察旅行 の際 ' アメ-カの小学校 での見聞 として'校長が毎朝畢生を率 いて国旗 にむ か って敬薩 をし、畢生 の愛 国 の念 を養 っていたことを引 き合 いにだして、本校 でも今 日から水曜 日 にはまず国旗 にむ か って≡鞠窮薩 をす ると 宣 言 し た ( 第四四期)。 五四前夜 天津草生 の意識 東 方 学 報 四〇六 ここにいう 1連 の 「 愛国」 の封象 とされる図とは'以前 ( ﹃ 校風﹄初期- 1九 1五年)陳鋼 らが主張 した'蘭学 の外国 に 対 ( 39) と'張伯苓 はいう。さら に張 は校風報 社 社 抗するための国学 の中国と い ったも の ( 救国) ではな-'人民 の図 - 「民団」を表現したも のであるO愛国心とは中国を愛す る'民国をまもる気概 という'内 にむけられたも のであ った。 では、愛国'新中図 の建設 はだれが塘 う のか。 「 新少年」'君たち畢生だ。員を前 にいう。 中国近来 の巨息 は有形 の物質問題 に在 る のではあ りません。無形 の精神問題 に在 る のです。精神が宋まれば'亡びても虞 ち に亡びる ことはありません。精神が 換 れば '亡びず とも必ず や亡ぶ ことになります。我が国 の人心は須磨 して久 しいので す。 ( 第 三九期) されば'人心を括 りうごかす必要がある.そ の 「利春」 は二 つある。 一つは 「演説」 であ り' いま 1つは 「報紙」 であ るとし' 私 は諸君 に望むところは他 でもありません. この練習 に籍 りて賂乗 に備え'苦 口婆 心'正言勘世して以て国民 の新精神 を 振 い起 こし'以 て重ねて国家 の新運命を緯けしめることだけ です。 ( 同前) 張伯苔 は 「 愛国」 の語 ととも に' 「新」をさかんに連夜 した。 日-、新中囲'新国家'新少年へ新精神 '新運命'等 々であ る。 これ は同じ頃'陳猫秀が ﹃新青年 ﹄誌上 で'新国家'新政治'新教育'新政合'新信仰等 の語 を用 いた ことを連想させる。 しかし'両者 の用語 の意味すると ころ にはちが いが存 した。 たとえば陳猫秀 は 「憲法 と孔敦」(﹃ 新青年﹄第 二巻第 三競' 1九 1六年 二 月) で次 のよう にいう。 われわれがもし'中国 の法 ・孔子 の道 はわが国家を組織 Ltわが社合を交配 し'今 日 の生存競争 の世界 に適癒させること が できるも のであると考える のならば'共和憲法 を麿すべき である のみならず'およそ十飴年来 の襲法維新 '流血革命へ 園舎開設'法律改正 ( 民国以前 に行なわれた大清律 は 一俵 として孔子 の道 でな いも のはな い) ' および 一切 の 新政治 ・新 教育 は、 一つとして飴計 な こと'誤 ったこと でな いも のはなく 悉-廃止してわれわれ の財力 の乱費 を防が ねば ならな い。 高 一この本分 に安 んぜず'西洋式 の新開家 を建設 し'西洋式 の新社台 を組織 して'現在 の生存 に適麿 しょうと いう野 心を な い 。 抱く ならば'根本問題 として'まず西洋式 の社脅 ・国家 の基礎 、 いわゆる平等 ・人権 の新信仰 を輸 入しなければ ならな い。 ( 胡) この新社台 ・新国家 ・新信仰 と相容れな い孔敦 に封 しては、徹底 した覚醒'勇敢 な決意 を持 たねば なら 陳猫秀 の主張が孔敦問題 と民国 の存 亡と に関 して登表 され'しかも西洋 の概念 を直輸 入的 に持 ち こんだ のに対 して'張伯答 は外囲 の使者と民国 の存績 と の二 つの問題 に関 して雪 白Lt欧米 の諺 や事例を援用 しながらも' 「 愛 国」を基本とする絶 ゆま ぬ進取'自強 を求 めた のであ った。さら に張 はいう。 今 日中図 の第 一の重要 な政策 は'教育 にあ ってほ才能 のあ る領袖 を培養 して強 い公正無私 の政府 を養成す ること であ りま す。そうすれば外 ︹ 園 の使者︺ を禦ぐ ことが できます。そう ではな- て以前 と同じ よう に怠惰 であ ると'人が我 を亡ぼす のではな- て我自 ら亡ぶ こと になります。 ( 第 四八期) 強力 な指導者 の出現 を期待するとは'張 の危機意識 の高 まりを暗示す るも のであ る。 ( 41) このような張伯答 の激励 に呼慮する論文が ﹃校風﹄誌 上 にあらわれた。周恩来 ( 紀事類総主任) は 「 中国現時 の危機 」と題 す る論文 ( 第 四五期) で'中国 の危機的状況 を事賓 の問題 と精神 の問題 とに分 けて論じた。まず事案 の問題 として内患 につい て' 今 日'園舎 に聾 なく'輿論 は寂然とLt府 ・院 の未 だ 一議を建 つるを聞 かず '各省 の未 だ 三百を車す るを聞 かず.豊 に今 日 の中国'巳 に員 に安 んぜ りや。 と いい'外患 に ついては' 日俄協約 '中 日合同 (二十 一力健保約)'鄭家電 の交閑 の種 々の憤 心動塊 の事'均 し-吾が国家 をして困難 の境 に入 ら し む。 四〇七 また精神問題 に ついては' 「吾が閥国民 の道徳 '既 に冷喪 の極 に達 せりと謂 うべし」と いい'次 のよう に呼 びかけて結 んだ。 五四前夜天津畢生 の意識 東 方 畢 報 四〇八 願 わ-ば吾が最 も敬愛 す べき同撃 よ、聞き て鶏鳴起舞 の感 '天下 の興亡 は匹夫 も責有 る の念 を興 こせ。弱冠 ( 青年) の請 牒 ( 従軍 を志願す る) の撃有 ら んことを欲 せざれば '国事 に大 いに補す る ことなし。幸甚 なるかな'幸甚 なるかな'吾れ 弦 に校長 の言を以 て吾が篇 を絡 t りんことを請 う. 「何事 かなす べき時 に何事 かをな せ」。 ( 舶) 胡け て 1九 l七年 の 一月 三 日'反衰運動 で大きな役割を演じた梁啓超が、南開学校を訪ずれ講演 した。 そ の中 で梁 は'衷 世凱 の死後 もな お つづ-時勢 の危機的状況 と中国社合 によどむ悪習 を奉げ て、畢生 に意志 の練磨 と学問 の修得 を求 めた。そ の 翌 日二月 一日 に奉行され た ﹃校風 ﹄第 五二期 に'新 し-線編嘩 とな った李 輪蓑が論説 「 畢 生 の能力 と証合 の潮 流」を書 いて い る。李 は'畢生 は証合 に出 てい-前 は 「 光風雰 日へ寓里雲なし」と い った状態 にあ る のに'証合 に出 た のち ほたちまち 「煙霧 腹 膜'陰覆 四合」 の状態 におかれ てしまう。すなわち'今 日 の中国社合 の潮 流 は lつの悪 い潮 流 であ る.われら畢生 の能力 を 消滅 さ せてしま って いると いい、社合 の悪弊 として私 ・詐 ・詣 ・騎 ・怯 ・僻 の六鮎 を奉げ て こう いう。 国家 の強 ・不強 は証合 に根 ざ せり。社合 の善 ・不善 は畢生 に根ざ せ-。以 て畢生 の能力 か'証合 の潮 流 か'執 れが勝 ち執 れが敗れ る.&'乃 ち国家 の強弱 ・存 亡 の 一大閲鍵 なるを知 るべし。 --請 う'其 の全力 を用 いて以 て敢合 の悪 しき潮流 と 戦 わ んことを。 この主張 は前 日 の梁啓超 の講演 の趣旨 と似 たも のであ った。それ ま で国家-畢生 と いう形 で論じられ て いた責任論が'国家( 4) 社合-畢生 と いう形 で' 「社食」 の概念 を挿 入さ せた のであ る。社台改良 のためには畢生 はさら に刻苦勉 励す べき であ る、 と に 存 して、 「 畢生 に忠告す」 ( 副編輯遁世純-第 五三'五四期 ) は'著廉 を戒 しめ'惰性 を除き'盲従 を憤 しみ'早婚 せぬ ことを やし な わ る の説 」( 第 六〇期) 求 めた。﹃ 孟子 ﹄ の 一節 を題名 とした丁履進 の 「人 の徳慧術知有 る者 は、恒 に灰疾 ( 災息 にあ る人) も同様 の考 え にもとづ-も のであ ろう。 そ んな新 し い模索 を はじ めた畢生 たち の前 に'北京大草 にあ っま った いわゆる新 文化連動 の旗 手 たちがや ってき た。な お、 畢生 に強 い影響 を興え て いた張伯苓 は、 1九 一七年 八月' アメ- カ合衆国 コロンビ ア大挙大学院 での教育研究 と教育施設観察 のために南開学校を離 れ (l九 l八年 l二月師団)、 かわ ってそ の前年 に七年間 (一九 一 〇- 1九 l六) のアメ-カ留学を終 ( 鶴) え て師団 し、専門部主任 として張伯答を助 けて いた賓弟 の張彰春が校長代理とな った 。 囲 新文化運動 の旗手 たち の激励-証合改良 l九 一七年 に入 って南開学校 の畢生数 は 1千人を越え'名賓 とも に華北 はおろか'中国を代表 しうる中学校 の 一つとな ったo 氏 (※ 印 は 北 京 演 題 目 [ ] 事 校童 であ る徐世昌を除-と'他 は 反衰運動 に関係 した人物 か、北京大 学関係者 であ る。とも に常時 の南開 掲 載 誌 名 校風56 ・57 あ る。南開学校 はそ の意味 でも優秀 「すぐれ た畢生」をあ つめる必要が あ るも のにす るには教授陣 ととも に 京大学側 からすれば '大学改革 を賓 -。南開学校側 の意向と はいえ、北 北京大学関係者が多 いことが目 に つ 結果 の人選 であ ったとおもわれるが' 撃校 の教員 ・畢生 の意識 を反映 した 新青年3- 5 校風67 ' 敬 業6 近代 西 洋教 育 校風85 要 は内 容 説 明 重 講 者 と草 間 の鍛 錬 は学生 の ︺ 名 係) 志 に ついて︺、 ︹ 思 想 の自由 関 大 ︹意 青 新 国 家 と新 政 治 校風81 ︺ 最 三 ︹ ( 講 演 せず) ︹ 留 傍 勘 工倹畢連 動 に つ い て 新 国 家 と新 政 脅 校風82 ( ?) 新 国 家 と新 文 学 ︺ そ の南開学校 を中国内外 から多- の名 士が訪ずれ'そして畢生を前 に講演を おこな ってい った. ﹃校風 ﹄より中国人 の重要人 .日 物 を拾 いあげ ると'次表 のと おりであ る。 月 - ・ 31 ・ 23 〃 26 鄭 秀 〟 ・ 〃 超 和 5 6 〟 11 月 末 12月(?) 培 適 昌 曾 章 元 啓 五四前夜天津学識 の意生 四〇九 な畢生 の学 ぶと ころ であ ると考え て'柔 元培以下 の教授 たちが宣侍 をかねて出向 いたためとも考えられ よう。 ※ ※ 石 玉 濁 世 孟 士 菜 葉 呉 李 陳 徐 ※ ※ ※ 章 陶 胡 東 方 寧 報 四一 〇 梁啓超 に ついては前述 した。五月 の葉元培ら三人 は自治励畢合 ・敬業柴群脅 ・演説合と いう三 つの畢生圏髄 の招請 に麿える 形 で'来校したo察元培 は書を 夜 の二同 の講演をおこな った.重開'全校畢生 の歓迎合 での講演 は智育 ・徳育 ・腔青 の≡青を 重視する南開学校 ( すなわち張伯苓) の教育方針を稀讃 したも のであ った.夜 は前記 三舎 の合同演説合 に臨 み'「 思想 の自由」 に ついて次 のよう に孝吉 した. 行動 は必ず やすじみちをたてておこなうべき であ ります。 これ からはず れるとそ の正鵠 を失 します。--まして道理 のあ る信念 であるなら'必ず しも他人と同じ-することはあ りません。自分が正しいとおもう ことは'即 ちそれを正しいとし ヽヽ ていいのです。と い って、決 してうそを ついて人をだましてほなりません。 これが思想 の自由 です。凡そ物 の評断力 ( 請 断する能力) はそ の思想 によ って定 まります。所謂絶封的なも のはあ-ません。自分 の畢説 で他人を束縛する ことはでき ませんLt他人 の学説 で自分 を束縛する ことも でき ません。 この琴 冗培 の講演 について'周恩来 は 「 名言 にして正論'詳 々として人を傾聴 させる」も のであ ったと いい'さら に 「 記者 きェ う ( 周恩来) は六年前 に先生 ( 葉元培) の著作 を謹 み' 今 日はじ めて御姿 を拝見 しました。私 はよろ こび の錬 り'浅薄 をかえり ( '] ) ) みず' ︹ 先生 の講演を︺筆記 しました」と記 している。同行 の李石骨 は留悌倹撃合 に ついて演説 したが'臭 玉章 は時閲 の都合 で演説 はなか った。葉 ・李 ・呉 の三人 はこれより前' パリで勤 工倹畢合 (一九 一五年)' ついで勤 工倹畢生 の支援活動を目的 とする中悌教育合 (一九 一六年)を組織 した時 の同志 であ った。 〇回卒業式 に来賓 として出席 した陳漏秀 は'周恩来 ら卒業生を前 に、近代西洋教育 の優秀さを強調 し'そ のとるべき教 第一 育方針 として次 の三力候 (五項目)を挙げ た。 1、自動的 であれ'被動的 であることなかれ。啓費的 であれ'涯輪的 であ ることなかれ。 二、世俗的 であれへ神聖的 であ ることなかれ。直観的 であれ'幻想的 であ ることなかれ。 三㌧全身的 であれ'脳部 のみであ ることなかれ。 一九 一五年九月 に ﹃ 青年薙誌 ﹄創 刊 の宣 言書 とも いうべき論文 「敬 んで青年 に告ぐ」 の中 で、青年 に 「 自 主的 であれ'奴隷 的 であ るなかれ」 「 進歩的 であれ'保守的 であ るな かれ」 「 進取的 であれ'隠遁的 であ るなかれ」 「世界的 であれ'鎖国的 で あ るなかれ」 「 賓利的 であれ、虚飾的 であ るなかれ」 「 科学的 であれ'空想的 であ るな かれ」と、呼 び かけた陳漏秀 は嘗然 の ことながら'そ のような青年 を育 てるべ-、教育 に大きな関心をも っていた。 ﹃ 青年雑誌 ﹄第 1巻第 二窮 には 「 今 日 の教育方 針 」を書 いて'現賓 主義'惟民主義 ( 民 主主義)、職業主義 ( 職業尊重)、獣性主義 ( 野性保持) の四項 目を提起 している。 こ の年北京大学 に迎 えられた陳 は南開学校畢生 を前 に第 二 の、より具鰻的 な教育方針 を掲げ た のであ る。 反衰連動 に参加 した章 士剣 は、 この年 の l月 より北京 で、李大剣 ・高 l酒 の助 けを得 て ﹃甲寅 日刊 ﹄を夜行 していた。六月 昔時 はまだ北京大草 に奉職 していな か ったが (一一月 に囲書館 主任乗教授 に就任)、 陳濁秀 とは日本留学 (一九〇 二年)以来 の友 人 であ り' ﹃新青年 ﹄第 三巻第 二競 (一九 一七年 四月 一日) に 「 経済学 の繰原則」と いう論文を l篇だけ書 いている。章 の南開学校 での講演 「新国家 と新政治 」は見 る ことが できな いが'章 は衰世凱死後 の政局 に ついて'徒 ら に絢法園舎 の同復 を れ る 。 唱 え これを 口賓 に争 う ことはやめるべき であ る、今 や新 たな政治鰹制 を構築す べき であ り、少 な-とも従来 の閉合形式を同復 ( 鶴) す べき ではな い'と いうような主張 をして いたと いわ 陶 孟和 (l八八七1 一九 六〇)' 名 は履恭 '孟和 は字 であ る。 1八九 八年厳館開設時 の五人 の塾生 の l人 で' 一九〇 八年 っ た 。 「私 立第 一中学堂」 ( 南関畢校 の前身) の高級師範班を卒業 して日本 ( 東京高等師範撃校)' ついでイギ リ ス (ロンド ン大学) 「 √し に留学。蹄国後北京高等師範畢校教授 を経 て' 一九 一四年 より北京大学法科教授 の職 にあ 陶 は ﹃新青年 ﹄ の執筆者 の 一 ( 鶴) 台 」と題 する論文 の中 で次 のよう に書 いて いる。 人 でもあ る。同誌第 三巻第 二暁 に登表 した 「社 社台 とは人数 の種 々の活動 の規範 ︹ 周囲︺ であ り'人類 の集圏生活 の全鰹 である。 社台制度 は誠 に大衆 ︹ 人群︺を草新 し証合 を革新する基礎 であ る。社合 の進化 は社台制度 の進化 な のであ る。 -- ( 諸制 度 の改革 は)個人 の責任 にかか って いる。 五四前夜天津畢生 の意識 東 方 撃 報 四 一二 陶 の講演 「 新国家 と新融合」も見 ることが できな いが'右 の 「社台 」と同趣旨 のも のであ ったと おもわれ る。 胡適 は'張伯苓渡米後 を受け て校長代 理とな った張彰春 と はアメリカ留学 の同期生' コロンビ ア大草 での仲間 であ る。そ の 関係 から来校 ・講演 にな ったも のとおもわれ る。胡 の 「新国家 と新文学 」 は見 る ことが でき る。そ の中 で'彼 は'も し新 し い 知識 を求 めようとすれば新 し い文孝が必要 です。それ は文筆が賓 に思想 を表現す るも のであ るから です。 しかし中国 の文準 は 言文不 一致 で'中国 文撃 を尊 ぶ ことは外国語 を習 - のと異 なりません。 これ はよ-な いこと です。文孝 と国民 は相互 に密接 な 関係 であ るべき です。それ故 に 一つの新国家 を造 ろうとすれば ' 一つの新文化を造 る ことが 必要 です。そ のためにはまず 四 つ のことが大事 であ りますtと のべて' 二 話す ことがなければ な-ません. 二'何 でも話 しなさ い。ど んな風 にでも話 しなさ い。 三㌧自分 の考え る ことを話 しなさ い。他 人 のいう ことを い ってはいけません。 四'現在 のことを話 しなさ い ( 過去 のことを い ってほいけません)。 と いう'自我 の解放 を めざす ような四項目を掲げ た。さら に具鰻的行動 として'畢生 に試験 の答案 に自分 の考 えを白話鰹 で書 - ことを試 みるよう に提案 し'白話文学 への畢生 のとり- みを訴え た のであ る。 総 じ て'新文化連動 の旗 手 たち は'新国家 の建設 のた めには新 し い制度 ・概念 の導 入が必要 であ ると いう のであ る。それ は 張伯苔 の 〝 新 しい″創造 に共通 す るととも に'国家論 から個人'証合 へと問題 の力鮎 を移 し'社台改良 を自覚 しはじ めた畢生 たち の意識 に合致 す るも のでもあ った。 「 悪劣 なる祉合 を改良 し新国家 を創造 す る責任 はわれわれ畢生 にあ る。そ のための決断力 を いまから備 えなければ な-ませ ん!」 ( 裏群和 「 決断力 」-第九 一期) 斡 再び畢生 の責任論1 「 合群」 しかし、現賓 の中国内外 の情勢 は'社台改良をめざす畢生 にと って決 して楽観視 できるも のではなか った。 一九 一七年 七月 の張動 による清朝 の復活をねら った復静 クーデ ター' これを駆逐 したのは衰世軌 の乾分 であ った段棋瑞。そ の段が翌 一八年 五 月 には日本と の閲 に日中軍事共同防敵協定 を結 んだ。同協定 は、 一九 一五年 のいわゆる封華 二十 一力候要求 につづ-'中国 の 日本 への隷層化を推進させる内容 であ った。中国国民各層 は反対運動 にたちあが った。天津 では六月八日に畢生集合が開 かれ 気勢 をあげ たが'運動日経 は警察常局 の取締 り規制もあ って盛 り上がりを紋-も のとな った。 ( せつ けん ) ( 伯) 造 腕 公司 のも の)を掲載 し て 運動支持を表明 したが、そ の論調 は単純 ﹃校風﹄誌 ははじ めて 「図貨」と大書 した虞告 ( 天津 な反日という形をとらず'また問題を外 にのみむけるのではな-て'畢生'国民と国家 と の関係 においた。第 一 〇〇期 (l九 一八年 七月) の社論 は二篇 であ った.そ の 一つ、杜国英 「 今後 の学生愛国 の農相」 は冒頭 で次 のよう に書 いている。 ' 宛 鳴呼、我が国 の今日は何 の日ぞ。外侮 は頻りに来、内憂 は重 々起く。危険 の日にあらず や。--大聾疾呼するも則ち耳を あたか 充 てて聞-なし。身を奮 いたたせて顧 みざ るも則ち雁ず る者蓋 し寡なし。而 して不識不知なる者も亦 た酎嬉宴楽 して も事無きが如 し。其 の有識なる者も亦 た聾勢 に悼 り'緑位 に誘 われて敢 て作為する所有らざ るなり。三 ・ ・ 夫れ'百人を率 いて衆むれども 一人 の愛国を知 る者な-、十人を率 いて図を愛 せしむるも 1人 の其 の数を収むる着なければ'其 の名有 る も其 の宴 な-'思想有 りても方法なきなり。--名もな-思想もなき者'中国 に盈てり。此れ国力 の日に衰うる所以 にし て'外侮 の日に甚 しか る所以なり。嘆-べき かな。 この 「 嘆-べき」状況を打破 し'亡国 の民となるのを防がねば ならな い.そ のための愛国 の核となれるのは畢生 であ るとし 駿え て、杜国英 は次 の四鮎 に留意 せよと いう。すなわち 「浮動するな ( うわ ついた行動をとるな) 」'「 堅固な意志をもて」、 「 四 一三 るな」'そして最も大切なこととして 「 犠牲を能- せよLt の四 つである. 「 犠牲 とは己 の力を壷-して閥 の馬 めにすることで 五四前夜天津畢生 の意識 東 方 畢 報 四 一四 ある」とLt安史 の乳 で唐朝 に忠誠を誓 い安秩山 にしたがわなか ったために殺された顔具卿 ( 顔虞卿 の従兄)と' 一九〇九年 ハルビ ン騨頭 で前韓国統監伊藤博文を射殺 した朝鮮民族 の英雄安重根 の名をあげ ている。 もう 1つの社論'張署員 の 「 今 日 の青年 と国家」 では'まず' あ あ 嵯 '夫れ今 日、中国国勢 の危急 なること亦 た甚 しからず や.欧戟方 に急 にして達者 に達 あらず0日本 は衣 にして達 しうを 思うて起ち'我を侵 し我を陵ぎ'其 の強力を侍みて公理を蔑視す。 と のべて'日本 の侵署を非難する 一万㌧園内 については次 のよう にいう。 我が国 の人、甘心して忍受す。甚 しき に至りては'国家 の主権 を勝 て喪失するをも惜 まず。少数 の愛国 の士 の奔走呼親 し 切歯怒目する有 ると雄ども、卒 に如何 ともするなし。殊 に外患 の来 たるは賓 に内証 に由 るを知らざ るなり。試 みに観 るに' せ め 我が国革命 より以後'柄政 の者 の多- は意見 の合わざ るを以て'室 を同じうして接受 Lt兄弟椿 に 閲ぎ て、外 に其 の侮 り ふ せ た だ がず、 徒 に 1 己 の私利' 1時 の柴馨を争うを知る のみ。而 して国事を顧 みざ るに置き'人民 は炭 に塗れ'元気 は大 い を 禦 に傷 つけり。 3 1 E y i < E 私利私欲 に走 り'計署をめぐらし抗争を つづけ' 「民団」 「国民」を顧 みな い政治家 ・軍人を痛烈 に非難する。 では' かわ って 「民国」を拾う のは誰 か。- 青年 であ る。 共和政鮭 の政府 の立 つ所以 は'全-完全なる人才 の国民 に侍 めり。而して国民 の能-完全なる人才を成す所以 の者 は則ち 叉た青年 に悼むなり。蓋 し青年 は国家 の命脈為 り.--青 年 に侍む にあらざれば以 て図を立 つるに足らず。青年'園を愛 するにあらざれば則ち以 て存するを困 ること難 し。 そして、今日青年 のなすべき こととして' 「 敦品」、 「励撃」' 「合群」' 「 自立」 の四鮎を奉げ ている。そ の - ち 「 合評」は 「全佳国民」が 「同心協力する」 ことである。張伯苔 は同じ頃 「今 日 の中国 の最も必要な ことは聯合 である」' 「 愛 国心 は 国 つな ( 51 ) 合群」そして 「聯合」 は'内 に封 しても外 に封 しても共 民を聯合させる公共 の 縄 索 で あ る 」と撃 言して いるが、 ここにいう 「 和国 -中華民図を守 るため のも のであ った。 一九 一五年 の陳鋼 たちと同様 に、 l九 一八年 の南開撃校畢生も- 裏世凱専制 にょるも のであ ったと はいえ 「 統 二 が崩 れ、 I t中国をとりま-内外情勢 に封 して つよい危機意識を抱 いてい 抗争 と混乱 の時代 に突 入して いた分だけ深刻 か つ悲観的 に た。そ して彼 ら は 「国家 の命脈 」として の責任 を感 じたが故 に、 「合群 」を唱え た のであ った。 一九 一八年 二 月 二二日、天津 では各界が結集 して第 一次世界大戦勝利 の祝賀 デ モ行進が おこなわれた。 しかし'それを報 じ た張若是 は' 「我が国 は協約園 の 1員 ではあ るが、ドイ ツ ・オー ストリアと国交を断絶 して以降'戦場 に 1人 の兵 士も送 り こまずt l矢 も登 しておらず'ま った-虎 の威 を慣 りる孤'厚顔無恥と いえる。加え て国内 の争 いは激烈をき わめている。私 は格束 の禍が恐 しい。想像 だ にできない。そう考 えると'今 日 のデ モ行進 は喜 ぶべ-もあ り' また悲 しむべき でもあ る」と記 〇 八期、雄視 「慶祝欧戟協約獲防済行合記」). して いる ( 第一 内 に封 しては政治抗争 と 「 民図」維持 への懸念、外 に封 しては連合国 の 1員 として国際的 な責務 を はたしえな い弱 みとそれ 故 におこる、 ア メリカ大統領 ウ ィルソン提唱 の戦後虞 理 のための 「一四 力候原則」 にもとづ- であ ろう パリ講和合議 への期待。 この交錯 した意識 の中 で、 パ-講和合議 で中国 の返還要求 を無税 して、山東省 におけるドイ ツの権益 を日本 に譲渡 す る ことが 決定 されたと いう ニュー スが俸 えられ、そしてそれ に抗議 した北京畢生 の 「 曹汝霧邸焼打 ち」と北京政府 による 「 北大生 ら三 二名逮捕 」 の報 せがそ の後 を追 ってき た。期待 は失望、そ して怒 り へとかわ った。南開学校畢生を はじ め'天津 の畢生 は、校 3 1 駆爪 内組織 を つ- り'畢生連合合 を成 立させ'そして学校 から出 て各界 に働 き かけ、各界連 合合 へ諸勢力 を結集 させた のであ る。 五四事件草生以降'五月末 の停刊 ま での開 、 ﹃校風 ﹄は第 二 一 四期 から第 二 一 七期 ま での四筋が孝行 され たOそ のうち第 一 二五、 二 l 七期 をみる ことが できな いが、第 一二四期 の言論 「 自由 の南開 を論ず る」 ( 都良摸) は次 の 一節 ではじまる。 ■エ 報 ︹ 紙︺ の功用 は大き い。小 は社台 の改良'大 は国家 の改造 であ る。そ の痛 を食 む のが必ず や民治 の国 であ る のは'そ の 言論が自由だ から である。 五四前夜天津畢生 の意識 東 方 畢 報 四 1六 それ は南開学校 の精神 であ り' ﹃校風﹄ の基本 でもあ った。 しかし、 いまや南開畢校畢生が内 に救国圏を つ- 報紙 の功用- 赦合改良と国家改造 ( 新国家 の建設) のために'畢生 はまず ﹃校風﹄を夜行 Lt仲間 の意識改造 をめざ した。 言論 の自由- り'外 に天津畢生連合合 を組織 してへ運動 に積極的 に参加 しはじ めると、 ﹃校風﹄はそ の自由さと週刊誌 と いう性格 のために' わ れノ に 新 しい事態 に封鷹 でき るも のではな-な った。か- して ﹃校風﹄ほのち にも健筆 を ふるう貴志 の 「 犠牲主義」を巻頭論文とす ( 53) る第 二 一 七期 (一九 一九年 五月 二六日)をも って停刊 Lt同日かわ って 「同胞 の愛国心を鼓吹 し同胞 の敵気心を喚起する」 こ ( 54) とをねら って日刊誌 ﹃ 南開 日刊 ﹄が創刊され'運動 に奔走する畢生を支持する こととな ったのである。 お ﹃校風﹄は'昔時 の南開学校畢生 の様 々な思想 ・意識 を集約 したも のである。本論 はそれら の主張 のうち'主 に言論欄掲載 論文をそ の時期 の政治社食問題 に関連づけ て拾捨 して、畢生 の意識構造 の解明を試 みた。そ の限 りでは五四前夜 の畢生 の意識 は' 一貫 して いたと いえ る。 それ は 「 天下 の興亡は匹夫も責有 り」という語 に代表 される'国家 ・社合 への畢生 の責任感 であ った。以下要約 して結びとする。 l九 1五年'目前 の国家 の危機的状況を前 にして、知識分子 の 1員 である畢生 はそれを坐税することが できなか った。中華 )。 それ は常時 の畢生 にと ってはて国華が日本を含 めた外囲 の ヨー ロッパ的なも のに対立する、も っとも非 ヨー ロ 民国が成立し、共和政鰭 9社台 にな ったいま'畢生たちは復古的 ではあ るが'俸統思想 =園撃 の中 に外国 に対抗する思想を求 めた ( 救国 ッパ的 なも のであ ったからである。 しかし'閥聾 は帝制運動 を推進する衰世軌 の利用するも のでもあ った.帝制批判 を通 して' 新 しい ″創造 を提唱 した。それ は畢生 の眼を外 から内 にむけさせるも ので 「 古」なるも のから自立をはかるため'張伯答 は 〝 あり' 「 現時中国 の危機 」 ( 周恩来) の原因 であ る軍閥政治 への批判 とな った。新文化運動 の旗手 たち の激励も作用 して'畢 生 は社禽改良 による新中図建設を模索 した。 しかし現賓 の中国内外 の情勢 はき わめて複雑 で、そ の解決 は困難 なも のであ った。 新劇圏が 1九 一八年 l 〇月 l 〇 日 の国慶節昔 日に硬表 した新作 ﹃新村正﹄ は、 一九 l七年 の中国農村を農民、地主、買辞、そ して外 囲勢力 の対 立す る中 で'豪細が勝利 を おさ め、農民 の味方が敗北すると いう結末をも って、 まさ にあ るが 革 まに表現 し ( 55) た。 第 一〇 一期 へ王捷侠) ' 自己と図家 と の関係 ( 第l OO期、杜国英'張若農' 学生 たちは いま いちど'個人-撃校∼国家 ( 郡緒堀)を考 え、人道主義 の政府 の建設 ( 第 二 三期 、張若農)を めざ した。そ して' パリ講和合議 で 「 公理」が敗 れ、 「 強 権 」が勝 ち'国権が ふみにじられた時へ畢生 は活発 な奮闘精神 で犠牲 をも恐れず に運動 に身 を投じ たo国権 を取 りもどす のだ、 それ は中華民国 を守 ることな のであ る〇 五色旗 を掲げ国歌 を吹奏 Lt中華民国寓歳 を三唱す る こと' これら に反勤 し'妨害 を 加えるも のはすなわち民国 の敵 な のであ る。畢生 たちは 「合群」 して外 にあ たり'内 に抗議 した。 この時鮎 で、 ﹃ 校風﹄ に育 てられ た畢生 は、そ の表現方法 と行動範囲 の両面 において'﹃ 校風﹄・南開学校 の枠 を越えて前進 して い った。 はげ し-展開す 李浮厚 ﹃ 中国現代思想史論﹄ ( 北京 ・東方出版社・' 1九八七 ' 一九八七年、京都大学人文科 特に 「 啓蒙輿救亡的隻重襲奏」 J島 田皮衣 ﹃ 新儒家哲学 に つい )じ る運動 に封虞 す るため'目標 に向 って通進す る畢生 の要求 に癒 えるため、 ﹃ 校風﹄ はそ の任務 を ﹃ 南開 日刊﹄ に託 した のであ 。 未完 る 注 - t h eM of 史 に 来 新夏主編 代 史 ﹄( 天浮 ・ ]9]9 (B erket y an d ﹃ 天浄近 , ss)986). ay F ourth M o vemento f ついては' 四 一七 南開大挙出版社、 一九 八七年)を参考 にしたO ま た 、天津 の歴 Los An g e t e s,Un ie vr s i tyc fCai l fornia Pre th e L eg acy Sc hwar c z.Ver a.TheChi ne s eEnl i ght e nme ni ZI nt e l l e c t ual sa nd 学研究所共同研究報告 ﹃五四運動 の研究﹄第 四函第十 二分筋) 0 て- 熊十力 の哲学﹄ ( 京都 ・同朋舎 ) 午 」 本稿執筆 にあた っては次 の諸研究を参考 にした。記して謝意を表す0 学人文科学研究所共同研究報告 ﹃五四運動 の研究﹄第 一函第 二分班)O (1) 片岡 一息 ﹃ 天津 五四運動小史﹄ ( 京都 ・同朋合、 一九 八二年'京都大 ( 2) 今村輿志雄「五四前夜 の思想状況 の 一側面- 李大別 に即 して⋮ ﹃ 新青年﹄を中心に- 」H、 そ の思想史﹄ ( 紀伊国屋書店' 一九六九年) o野村浩 1 ( 東京都立大学 ﹃ 人文学報﹄第 二五競 二 九六 一年 三月︺ ) 。丸山松草 ﹃五四運動- 「中国 二 九 10年代 の思想世界- ﹃ 立教法学﹄第二三 ㌧ 二四、 二五' 二九' 三 〇 既⇔'臼'輯'飼 ( 五四前夜天津畢生 の意識 ) 東 方 畢 報 所収 の再植 珊 「天津近代著名教育家厳修」 に操 った。 厳修 に ついては、﹃ 天津文史資料選輯﹄第 二五輯 (一九 八三年九月) 出版、 一九八 一年) に操 った。 3 ( ) 南開学校 に ついては、圭 に ﹃ 国府紀聞 国立南開大学﹄( 重 北 ・南 京 (4 四 一八 ( ﹃南開学校十六年概況﹄ ︹一九 二〇年 一〇月︺ による) また、 一九 二〇年 の畢生出身別内諾 は次表 のと おりであ る。 3 0 647 60 25 77 22 6 4 1 3 11 34 29 66 14 41 69 71 24 11 163 11 口奉 熱 山山河 院江斬安 江湖湖 四 雲 貴 贋 両 脚 那 須く ノ江林天河東 西南 西蘇江徽 西北南 川南州東建約 兆 京除 京 し 龍 し.1 隷 隷 直 直 塁 ( 1) 慎恩 ﹃周経理的青少年時代﹄(成都 ・四川人民出版社' 一九七九年)I 五七京.なお周恩来 は南開学校 に 7九 T三年 八月I T九 1七年 六月 の 開在学 した。 より'校内外 の宿舎 に居住する畢生が多 か ったであ ろう こと は容易 に 想像 でき る。 (13 ) 前荘 ( 11)の二表 からも畢生 の単数 以上が天津以外 の出身者 であ ること 以上、張伯苓 「四十年南開学校之同顧」( 前掲 ﹃ 張伯苓教育言論選集﹄ ' 前荘 ( 12)に同じ。 一年 一〇月︺)参 照。 ﹃ 校風﹄第 二期、紀事。 劉行宜 「慮木蘭慮慣之兄弟」( ﹃ 天浄女史資料選輯﹄第 1七輯 二 九八 大挙出版社' 一九八四年) に収録され ている。 伯答 の演説記録 は'王文俊等編 ﹃ 張伯苓教育言論 選 集﹄( 天津 ・南開 等 に操 った。 なお ﹃ 敬業﹄ '﹃ 校風﹄等南開学校関係託 に掲載 された張 大学出版社' 1九八六年) 、 および前掲 ﹃ 国府紀聞 国立南開大挙﹄ 一九七 一年) '南開大挙校長鮮公室編 ﹃ 張伯苓紀念文集﹄( 天津 ・南開 社' 一九六六年) 、孫彦民編著 ﹃ 張伯等先生俸﹄( 垂北 ・量滞中華書局' ( 5) 張伯答 に ついては、王文 田等 ﹃ 張伯苓興南開﹄( 墓北 ・停記文学 出 版 ) ) (7 ) (6 ( 8 二四三- 二四七貫) 0 課外活動 の諸国鮭 に ついては' ﹃ 校風﹄各期 の紀事、 さらに ﹃ 南開校 前掲 ﹃ 張伯苓教育言論選集﹄ 一七貢。 ﹃ 校風﹄第 三六期原載。 風十 六週年紀念競﹄ 、﹃ 南開学校十六年概況﹄ ( とも に 1九 二〇年九月 刑) '﹃ 南開週刊﹄第 四四期 (1八週年紀念競)(一九 二二年 1 0月刊) 紹﹄第 五集 ( 北京 ・人民出版社' 一九 八七年) には、﹃ 校風﹄( 南開校 前注 ( 16)の諸文願 に擦 った。 また' 丁守和主筋 ﹃辛亥革命時期期刑介 記す ( 同書' 二貢) 。 前掲 ﹃ 南開話劇運動史料﹄ の編者 は、新劇圏を敬業柴群食 の l組織と 史料 (1九〇九- l九 二二) ﹄( 天津 ・南開大挙出版社' l九八四年) に詳 しい。 新劇園 の活動 に ついては、夏家善 ・雀闘瓦 ・李麗中編 ﹃ 南開話劇運動 ﹃ 張伯苓紀念文集﹄ に再録) 0 (17 ) に接 った。なお ﹃ 南開週刊﹄ は ﹃ 校風﹄ の後身 で' 1九 二 1年四月創 刊 した, ) のとおりであ る ( ﹃ 校風﹄第 五三期'校閲) 0 l九 1七年正月 の新 入生 は 二 五人 であ った.そ の出身省別内諾 は次 1」( ﹃ 天津文史資料選輯﹄第 八輯 二 九八〇年四月︺所収。 のち前掲 l九 1二至 1九 二 ハ年聞 一些片断的同憶 (9) 前掲 ﹃ 張伯苓教育言論選集﹄所収。 ) ( 1 0) 黄鐘生 「 早期的南開中学I ( 11 出身池( 省)名 ) (刀 ) ( 26 風) '﹃ 散薬﹄( 敬業学報) ' ﹃ 勘撃﹄ 、﹃ 南開思潮﹄ に ついての解説文が みえる。 された雑誌がそ の都度列肇され ている。 前掲 ﹃ 辛亥革命時期期刑介紹﹄第五集参照。なお、 ﹃ 校風﹄ には等滑 ﹃ 校風﹄第 三六期'校閲。 本論 では'南開大学所蔵本を寓虞複製した京都大学人文科学研究所本 を利用するが、 1二七期 ( 槍刊 二期を含 めて 1二九期) のうち三五筋 できな いであ ろう ことをあらかじめおことわりしておく。 なお'天津 を炊く。そ のために重要な論文、記事'演説録 のかなり のも のに論及 市歴史博物館資料室等論 ﹃ 校風 ・敬業 総 目 録﹄(1九七九年序)が出 版 され ている ので'人文研本 に炊く親 に ついてもそ の掲載論文名、執 筆者名を知 ることが できる。 ( ﹃ 南開大挙学報 ︹ 哲学社食科挙版︺ ﹄ 1九七九年第 一期)があ るにす , 」 ﹃ 校風﹄ に関す る研究としては、慶永武「 周恩来同志興南開A校風> ぎ な いrJ 創刊時 は節婦責任者を主筆と宿 し、 のち総編韓と改 めた。 陳鋼 (一八九 二∼?) は 一九 二 1 - 1九 1六年 の聞、南国 学校 に在学。 ﹃星期報﹄ '﹃ 校風﹄さらに ﹃ 勘寧﹄ の編集 にあた って指導的役割をは たしたO また新劇国活動 にも参加したO前掲 ﹃ 南開話劇運動史料﹄( 六 六- 六八頁) に 「 我在南開新劇園」 の 1文がみえる。 一九 二 ハ年 六月 (27 ) ﹃ 知識怜子輿中国﹄ ︹ 真北 ・時報出版公司、 一九八〇年所収へ ﹃ 恩典 張朋園 「 清宋民初的知識怜子 (1八九八- 一九 二 1) 」( 徐復観等著 言﹄第七巻第 三期原載) へ李津厚前掲 「啓蒙輿救亡的埜重襲奏」参 照。 た李大別も'救国と国民 の関係 に ついて同様 の見解を襲表している。 同じ 1九 1五年 の五 ・七 の 「国恥」 にょ って危機意識をよびおこされ ほぼ同じ趣旨 の 「 襲到詞」を書 いている。 (28 ) 陳鋼 は翌 一九 二 ハ年 二月豪 行 の自治勘学舎磯閲誌 ﹃ 勘寧﹄第 1期 にち (2 ) 日南開同学合職員」 の名簿 に操 る。童啓 李大別 「 全図父老 に警告する の書」 '「国民 の薪膿」( とも に ﹃ 李大別 ﹃ 論語﹄衛塞公第十三。 ﹃ 薩記﹄奈義 の骨子 の言。 四 一九 ﹃ 校風﹄第 五、七期 の紀事。なお孔子誕生 日は 一九 二 ハ年以降も休校 とな った。 顔も卒業後 日本 に留学し'早婚 田大学政治科 に革 んだ。 「留 を組織 した ( ﹃ 校風﹄第 八九期参照) 0 留 日南開同学合」 卒業後 日本 に留学 し'翌年留学してき た周恩来らと「 ) ﹃ 校風﹄第 八九期所収 の 選集﹄収録)参 照。前注 (2) 今村論文 に凍 るO (30) (32 ) ) (刀 ( 31 ﹃ 校風﹄第 一〇六期 (一九 一八年 二 月七 日)「 校閲」 に下表 の よ う な'畢生年齢調査結果が掲載され ている。 しかし、 1九 一五年常時 は' ぎ た者が多 か ったと思われる。彼 らは辛亥革命 の 「 光明」とそ の後 の 陳鋼 (二四歳) '童啓薪 (二 一歳)だけ でなく上級生 には二〇歳 を 過 「 暗黒」を 二つながら髄験 した のに射 して'下級生やそ の後 の新 入生 は普初 から暗黒 の時代 に生きた詩 で'両者 の中国 の内外情勢 に封す る 感覚 には多少 の差異があ ったこと は確 かであ ろう。 五四前夜天浄畢生 の意識 ( 38 (讐 (讐 ) 39 40 41 東 方 学 報 四 二〇 張彰春 (T八九 二- 1九五七) ' 字 は仲速。張伯答 の賓弟。南開学校 . 保定高 の前身 であ る私立第 7中学堂 の第 1期生 (1九〇 八年卒業) ( 44 ) 一八五八年、 アメリカ合衆国議脅上院議員選拳 (イリ ノイ州) に共和 畢生試験」 に合格∪ こ の時 の合格者 に越 元佐'竺可槙、胡適が いた。 第 二次庚款留米 等草堂を卒業 し' 一九 一〇年'外務部 ・学部共同 の 「 前柱(1 0) 黄鉦生同債録参 照。 木 八尺等謬 ﹃リ ンカー ン演説集﹄( 岩波書店、 一九 五七年) ' 六〇京O 渡米後' クラーク大 のち コロソビ ア大 に学び'教育 ・哲学それ に演劇 鴬 から立候補 したリ ンカー ンのクリ ンスト ンにおける演説 の 一節。高 ﹃ 校風﹄第 三六期U を修 めて 一九 二 ハ年蹄園。直 ち に南開学校専門部主任 に就き'兄をた すけ るととも に、新劇園副園長とな って'演劇活動 を指導 した.以後 るも のであ ろう。劉紹膚主編 ﹃民国人物小樽﹄第 三筋 ( 藁北 ・停記文 南開学校 の新劇が寓賓主義的 にな ったと いわれる所以は彼 の指導 によ であると のべている ( ﹃ 校風﹄第 一八期。前掲 ﹃ 張伯苓教育言論選集﹄ ︹三- 五頁︺ ) O 学出版社、 1九 八〇年' 1八〇I 一八 一貫) ' 馬明 「張彰春輿中国現 l九 二 橋川時雄編 ﹃中園文化界人物終鑑﹄ ( 北京 ・中華法令霜印館' 1九四 論」( ﹃ 中国近代 の革命思想﹄東京 ・研文出版、 一九八 二年所収) 0 渓書舎' 1九七四年) 、 三〇九貢oまた、丸山松草 「民園初年 の 調 和 高 田淳 ﹃ 垂柄麟 ・亘 士別 ・魯迅- 辛亥革命 の死と生と﹄ ( 東京 ・龍 培全集﹄第 三巻 ( 北京 ・中華書局' 一九八四年) ' 四五- 五 1頁。 いては ﹃ 敬業﹄第 六期。とも に周恩来 の筆録 であ る.高卒叔編 ﹃ 薬元 茶 元塔 の董閲 の演敦 は ﹃ 校風﹄第 六七期'夜 の演説と皆 目 の状況 に つ 南開話劇運動史料﹄所収)参照。 代話劇」( 前掲 ﹃ ) 〇月 二 日) の警 「虞 の国民」 の語 は ﹃ 校風﹄第七期 (1九 1五年 一 られる。彼 は 「学校 は何を数えると ころか」と いい' 「 第 1に愛国」 張伯答 の 「愛国」 への言及 はさき に 1月 1九 日 の修身班 での詩話 に衣 (4 ) (4 鐘欄 にみえるO重層顔 の 「 虞国民」 であ るO ここで童 は 「世界第 1等 の人馬らんと欲 せば先ず世界第 1等 の苦を受- べし。世界第 1等 の事 〇頁参照O を作さんと欲 せば先ず世兄第 1等 の魔 に勝 つべし」と記すo ﹃ 校風﹄第 三七期。 〇九- 二 前柱 (2)丸山松幸著書' 1 周恩 来 と ﹃ 磯風﹄ の関係 については、前注( a)の摩永武 の専論があ る。 同論文 に引く ﹃ 校風﹄掲載 の職員表 に操 ると'周恩来 は創刊時よりそ ) 〇年) ' 四九 二京。なお、文集 ﹃孟和文存﹄ ( 上海蛋東園書館 ( 47 五年) の巻頭 には厳範孫 の運営 にかかわ っていた。初 め 「課蛮 選録」と 「各倉橋告」欄 の編輯 を捧普 していたが' 1九 丁六年 1月 に文垂部主任'同年 三月 には紀事 この論文 に ついては'前注 (2) 野村論文日 工 七貢以下参 照。 なお' 臣 「一生熱心興撃的林墨青」( ﹃ 天津文史資料選輯﹄第 二五韓)参 照。 ( 修) '林墨青 ( 兆翰) '張伯等 の三人 への戯 部主任となり'同年九月 の大改組 で紀事類絶主任と経理部線経理 の重 評が掲げられ ている。林墨青 は天津教育界 の 重鎮 であ った人物。劉炎 (讐 職 を乗務 Lt 一九 一七年 二月卒業 を前 に役職を降 りた。し か し 卒 業 (六月)まで編輯員としてとどま った。 講演記録 は ﹃ 校風﹄第 室 ハ' 五七期放線 ( 周恩来筆録) 。 また同第 五 ﹄再録文と の閲 には若 干 の異同が みら ﹃ 新青年﹄原戟文と ﹃孟和 まで掲載。 第 八二期 (1九 1八年 四月上旬) から第 1 0 1期 (同年 10月四日) 存 れ る。 いまは ﹃ 新青年﹄ に擦 った。 文 なお天浮 . ﹃ 大公報﹄ (一九 l九年 1月 五日' 〓 l 日) に梁啓超 「 意志 ( S j) 三期校閲参照。梁啓超と巌修 は襲法運動以来 の知己 の開柄 であ った。 之磨錬」と題する演説録が掲載され ている。 島) は次 のように書 いている。∼ 試 みに観 るに、我が国数年以来内 期の 「 趨時と歳時」 ( 張君 (L 0 r 1 ) 同様 の論 は散見 でき る。 たとえば第 一二 一 これより前、 7九 二 ハ年 二 月へ専門部主任 の 張 彰 春 ( 後注 ( 3) 秦 のため の知識 の習得 の必要性を のべている(﹃ 校風﹄第 四五期演説) O 照) は、社食改真 への畢生 の積極的とり- みをうながすととも に'そ (別 ) ﹃ 南開 日刊﹄ は五月 二六日創刊、閲 に二度 の休刊 (六月 五日- 同 一 〇 日、同月 二三∼ 二四日)を はさ んで' 八月 二 一 日算 六〇期と 「 浦 六十 (粥 ) 乳 紛擾 して匪寓繁多 Lo強都逼虞 して外患環生す。常 道 なる者 は皆 な お 時 の流れ を 趨 い、自警自励す るを知らずO徒ら に陳編 を墨守 し'巷 説 みょO ( 狭間直樹班長) の報告 であ る。 こ の論文 は' 「民国初期 の文化と社台」共同研究班 ﹃新村 正﹄ の蔓本、許慣等 に ついては'前掲 ﹃南開話劇運動史料﹄を 活 ・講書 ・新知 三聯書店、 一九七九年)参 照。 ・斯大林著作編詳局研究室編 ﹃五四時期期刊介紹﹄第 二集 ( 北京'生 と を任務と した。該 日刊 に ついては、中共中央馬克思 ・恩格斯 ・列寧 「空列詞」)、す なわち運動 にかかわる出来事' ニ ュー スを停達す る こ のに封 して' ﹃ 南開 日刊﹄ は 「愛国諸青 年 の 後 に 追 随 」す る ( 夢痕 も のと いえ る。 また' ﹃ 校 風﹄が畢生を先導す るような雑誌 であ った 査'函電 ほ ﹃ 校風﹄と は異 なり、外部と の関係 の つよ い性格 を表 わす 薙姐、文苑'小説、函電、報告等 に分 かれ る。 そ のうち校外紀事、調 ち B四剰 l枚とな った.内容 は論詮、演説、校外紀事、校閲、調査、 期停刊紀念既」を出 して停刊 したO大きさ ははじ め新聞拡大 1枚、 の の行う所'為す所 を擁す に以 て時を趨う に足 る のみ. ( tR ) を堅持す るを知 る のみ。閲 歴 いまだ探 からず'識見 いまだ卓れず。そ 渡 米中 の張伯苔が 一九 l八年 六月' コロンビ ア大学 でお こな った演読 (五六- 五八頁)収録。張 は節国後 の講演 (1九 l九年 一月) でも、 で、﹃南開思潮﹄第 二期 に掲載 された。前掲 ﹃張伯苓教育言論選集 ﹄ 組織化、赴脅 自愛心 の伸長を詮 いている ( 前掲書' 五九頁以下参 照). ﹃ 校風﹄ は l九 一九年 二 月七 日'競数 は前 に引き綬 き第 1二八期と 岡論文 をみょO (52 ) 天津 における五四運動とそ こで の畢生 の行動 に ついては'前 注 ( 1) 片 (労) して復刊 した。従来 通 り週刊 の形 をと ったが、 一九 二〇年 に入り、第 l三七期 (一月 三〇 日)蒙行後七 カ月 のブ ラ ンクがあって, ようやく われが存在 を知 る最晩 の既 は 1九 二〇年 1二月 二四日吏行 の第 l五 1 九月 二 日 に第 一三八期を出 した。以後週刊 にもど ったがへ現在 われ 校風﹄ にかわ って ﹃南開週刊﹄ 期 であ る.そ の後、 1九 二 1年 四月 ﹃ が創刊され た ことが 知 ら れ る。前掲 ﹃ 校風 ・敬 業絶 日録﹄ '﹃ 南開週 刊 ﹄第 四四期、 に擦 る。 五四前夜天津畢生 の意 聾