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生活世界の記号としての宗教多元論 - Doors
生活世界の記号としての宗教多元論 生活世界の記号としての宗教多元論 ――対話への招きと寛容への誘い―― Religious Pluralism as Signature of Life-World : Invitation to Dialogue for Tolerance クリストーフ・シュヴェーベル Christoph Schwöbel 訳:水谷 誠 Translation: Makoto Mizutani 1. 宗教的可能性の中央広場で 1.1. 日常の現実における宗教多元論 1.2. 主体に関係する現実における宗教多元論 1.3. 歴史的現実における宗教多元論 2. 宗教多元論における記号―キリスト教的なもの― 2.1. 信仰に基づく多元論―寛容― 2.2. キリスト教会―アイデンティティの学校― 2.3. キリスト教会―多元論の学校・対話の学校― 同志社大学で講演の機会を与えられまして心から感謝いたします。日本での三カ月 の滞在の終わりに、皆さん方と対話することができることにも感謝いたします。私は 以下のことを学びに日本にやって参りました。日本の宗教事情について、この宗教事 情の挑戦に立ち向かおうとするキリスト教神学について、日本の諸宗教や諸世界観と の対話の可能性についてです。 日本では新参者である私に日本という文脈への最初の歩みを補助してくれた対話の パートナーを持つことができて感謝しています。それらの人々には、京都大学の片柳 教授、NCC 宗教研究所のマルチン・レップ博士がいます。レップ博士は多くの社寺、 僧院に案内し、対話の手伝いをしてくれました。お二人と並んで同志社大学の水谷教 1 基督教研究 第 65 巻 第2号 授がいますが、私たちは北部ドイツの町、キールでしばらくの間一緒に過ごしました。 いずれにせよ喜劇の舞台に僅かに出演する端役の類の日本語しか持ち合わせていない 私の考察を日本語に直していただいた水谷先生に特別に感謝いたします。シュライエ ルマッハーの『宗教論』の日本語への翻訳の問題に携わった一人の同僚によってこの 翻訳がなされたことも特別のこととして感じております。 多くの学び人と同じく私は、教えることと共に、参加者からの応答を通してきわめ て多くのことを学ぶということを経験してきました。皆さん方には、宗教多元論につ いての私の考察を自覚的に西欧的・北米的視点から講演いたします。ドイツ、英国、 北アメリカの宗教的状況と比較対照する中で私の対話のパートナーは日本の状況につ いて多くのことを伝えることが可能でした。あらゆる神学は文脈的神学です。ドイツ の神学も例外ではありません。この(ドイツの)神学はしばしばこのことを自覚せず、 あたかも文脈の神学はヨーロッパの外側にのみあるかのように振る舞ってきました。 それゆえに、異なった文脈からの視点は常に自己の文脈の視点を知覚することへと誘 います。私たちの互いに異なる文脈的視点を比較することで、西欧、北アメリカ、日 本での宗教多元論を理解することにうまく成功するならば、確実に私は新たなことを 学び知ることができるのです。 1 宗教的可能性の中央広場で ──────────────────────────────────── 時代のしるしを読み取ることは、マタイによる福音書(16, 3)が報告しているよう に、天気予報以上に常に困難なことでした。もっとも天気予報もまたたやすい仕事で ないことは経験的な知識です。にもかかわらず、時代のしるしの読解はキリスト教信 仰の中心課題の一つです。もし私たちが時代のしるしの中に、しるしと共に、またし るしのもとにいないならば、キリスト教信仰の私たちの時代に対する真実性はなんと 別の仕方で把握され陳述されることになるでしょうか。また、 「きのうも今日も、また 永遠に変わることのない方」 (ヘブライ 13, 8)であるイエス・キリストという中心が、 すべての時代にとって、私たちの時代にとって、真実であるというキリスト教信仰の 約束を通してでないならば、私たちの時代とそのしるしはなんと別の仕方で真実とな るのでしょうか。 しるしを伴う私たちの時代は、一面では、明らかに信仰の真実が妥当する現在とい う領域です。他面では、この時代のしるしを通して、信仰の真実は表現されます。両 者は、信仰およびキリスト教信仰の反省たるキリスト教神学のきわめて重要な課題で す。時代のしるしなしには、キリスト教信仰は私たちの時代の真実として描写される 2 生活世界の記号としての宗教多元論 ことはありません。キリスト教信仰なしには、私たちの時代とそのしるしを真実へと もたらすことはできないのです。 この考察の表題は、この時代のしるしについての解釈の提案、つまり宗教多元論は 私たちの生活世界の記号として、つまり身元確認の目じるしとして、言わば認識のメ ロディであるという提案を含意しています。もちろん、宗教多元論は私たちの生活世 界の唯一の特徴ではありません。生活世界には多くの他の特徴があります。それぞれ 固有の特色を持っています。しかし私たちの生活世界にある他の多くの目じるしを宗 教多元論との関係の中で見ることは大切です。 宗教多元論が実際に私たちの生活世界を言い表す記号であるならば、多くの他の目 じるしは決定的に宗教多元論との関係の中で特徴づけられることになります。ヴィル フリート・ヘルレはその著『教義学』でエドゥムント・フッサールが哲学的論議に導 「キリスト教信仰がその場を占めるべき連 入した概念である「生活世界」1 を利用して、 「生活世界」という概念は「すべて人間の生活、行為、 関を表示」しようとしました 2 。 思考が営まれる包括的な連関を意味」します 3 。 つまりこの概念は人間の行動を形成する空間としての自然の領域、それと並んで人 間の行為を形成する営みとしての文化の領域を象徴化と有機組織化として包括しよう とするものです。とりわけヘルレの提案は、私たちの生活世界を把握するという包括 的な性格を表現するために、生活世界という概念を三つの相に区別しつつ関係づけ、 「日常の現実」、「主体に関連する現実」、そして「歴史的現実」としての「生活世界」 に分けています。私は「生活世界」に関する記述のこの三つの相を受け入れ、ドイツ および西欧の宗教多元論について案内します。その後北アメリカ、日本の状況につい て瞥見します。その作業を経て、 「宗教多元論」とは何であるのか、より厳密に規定す ることを試みます。 1.1 日常の現実における宗教多元論 20 世紀の最後の四半世紀に、西欧世界はほとんど予想もしなかった日常世界の変化 に直面しました。公共の領域に宗教的なものが再来したのです。多くの人々は、さし あたりこの変化を 1979 年のイランに起こった宗教革命のように外見的には遠くにある と思える事例でもって体験しました。社会の世俗化は途絶し、再宗教化が取って代わ ることになりました。自らを世俗化して解釈する西欧社会の視点では予想もしない経 験がそこにあり、革命という事象自体、その表現形式、その動態は、社会的、経済的、 政治的カテゴリーでは解釈できず、ただその宗教的自己解釈、シーア派の殉教者イデ オロギーの中でのみ把握され得たのです 4。政治評論家たちは、革命的事態の宗教的自 3 基督教研究 第 65 巻 第2号 己理解は社会的、政治的、経済的変化を理解する鍵を提供していることを初めて学ぶ ことになりました。その間に、宗教的背景とその影響を理解せずして、緊張と暴力闘 争を伴う国際政治状況を理解することはできないということが分かってきました。 諸宗教について少しでも知っていなければ、この地球上の政治的対決の地図をもは や読み取ることはできません。宗教的知識は国際政治、国際経済の不可欠の要因とな っています。明らかなことは、まさに個々の社会の中に宗教的、世界観的多様性とい う問題があり、それは、この社会や世界政治の状況にとって巨大な騒乱の可能性を蔵 しているということです。 しかし宗教的なものの再来はわたしたちの日常世界にテレビとか新聞とかのグロー バルな情報伝達のネットを通じて外からばかり影響を行使するものではありません。 ドイツ、西欧、北アメリカにおいても、わたしたちは世俗的な生活世界の文脈の中で 宗教的なものの再来に直面しています。ヨーロッパでは三つの要素がとくに目に入り ます。まず第一に、わたしたちの日常世界での宗教多元化は 20 世紀末の人口移動に伴 う現象です。他の文化的、宗教的領域からわたしたちの国に、労働力として、亡命者 として、保護を求める人々として到来した人々は、彼らの宗教を故郷に置き去りにせ ず、新しい故郷でその営みを遂行することになりました 5。諸宗教の役割は、文化的ま た個人的なアイデンティティを定義し保存するためにとりわけ重要です。文化のあら ゆる形式は、文化形成の土台となる現実解釈を内に含んでいます。文化的記号を利用 した現実の解釈は、この記号が、組織化の中心として機能するところの、究極的に妥 当する意味次元と関係する場合に、宗教的次元を有しています。自己の文化的記号の 利用が、別の文化の文脈でなされる場合、現実のこの宗教的次元はしばしば強化され ます。宗教的実践の中で宗教的信念を育成することは、個人的、社会的アイデンティ ティを規定し保存する重要な要因となります。ここから、文化的アイデンティティ保 存の重要な観点である自己の宗教的アイデンティティの主張は決定的な役割を果たし ます。 この現象はたとえば、アメリカ合衆国に移った種々のキリスト教的移民集団をも特 徴づけるものです。これらの集団にとってその宗教的アイデンティティの主張と強化 は文化的、かくして個人的、社会的なアイデンティティを保存する決定的な観点でし た。それゆえに、わたしたちはわたしたちの社会に存在する世界宗教に種々さまざま なあり様で出会うのです。この相違こそ他の文化領域からやってきてわたしたちの市 民となった人々が母国で持っているものなのです。 顕著なことは、わたしたちの社会の慣れ親しんだ非キリスト教諸宗教の多くの中に、 個人の敬虔と公共社会という点で、啓蒙思想以後のヨーロッパ社会を特徴づけるもの とは異なる組み合わせがあることです。啓蒙以後わたしたちに自明となった、宗教的 4 生活世界の記号としての宗教多元論 なるものの私的個人化は、他の宗教―イスラームの例を思い浮かべればよいでしょう ―にはありません。その結果、宗教の複数性は直接に公共社会に効果を現します。こ のことによっても、馴染みのない諸宗教やその信者との出会いは直接の日常経験にな っています。この経験は、その場をドイツ社会の外側にある他の宗教的傾向を持つ共 同体との出会いの中にではなく、ドイツ社会の只中で活動する宗教的文化的共同体と の出会いの中に生じます。 宗教的なものの再来は、第二に、わたしがポスト世俗化的宗教性と名付けたい現象 を例にして示すことができます。ここで取り扱うのは新たな宗教的覚醒ですが、宗教 的伝統との連続性から生じるものではなく、世俗化という言葉で描写するのが常であ る宗教的伝統の途絶ということを前提にしたものです。西欧でのわたしたちの生活経 験では、この現象にたぶん最初は 70 年代のハレ・クリシュナ運動の信奉者の街路への 登場の中で出会っています 6。 当時なお異国趣味の周辺現象であったものは、とっくに多様な仕方で、多文化的で 宗教多元的な、世界大の大都市文化状況の中心的な局面となっています。顕著なのは、 たいてい宗教的にはただ周辺とみなされる状況から、宗教的なものへの指向が新たに 生じていることです。これと結びついているのは、萎縮した宗教性から体験に重点を 置いた宗教的実践形式への移行です。 ポスト世俗化の宗教性は自覚的決断の中で実践される宗教性であり、きわめて頻繁 に、通常はただ弱くしか存在しない、自己の生涯に与えられた宗教的刻印から批判的 に浮き出ます。ポスト世俗化の宗教性は、多くの場合、自己が由来する文化に結びつ く状況とは馴染みのないものへの改宗なのです。そのためにポスト世俗化の宗教性は、 しばしば世俗化した多数派文化に対する宗教的対抗文化の特徴を帯びています。この ような対抗文化の特徴はニューエイジ・ムーブメントやさまざまな秘教の影響領域に 関連して指摘することもできます 7。わたしたちはここで非宗教的な、科学技術文明に 反対する抗議運動に出会います。しかし、この運動は多様性に富むこの技術文明への 関係に踏み込むこともできるのです。 宗教的なものの再来をわたしたちの日常経験で例示する第三の局面は、キリスト教 もまた西欧では二つの既に挙げた運動に出会っているという事実です。一方では、わ たしたちは移民運動を通して、従来馴染みがなかった社会の中での事としてしか知ら なかったキリスト教信仰とキリスト教共同体の諸形式を経験することになりました。 他方では、キリスト教もまたとりわけカリスマ運動の形態でポスト世俗化の宗教性に 参与しています。 わたしたちは、西欧のキリスト教共同体やデノミネーションの通常のネットワーク の中には位置づけにくいキリスト教の表現形態があることを知ります。なぜならそれ 5 基督教研究 第 65 巻 第2号 らの大多数は、時々デノミネーションの主流から分岐してくることがあるにしても、 教派的伝統の連続性の中で成立しなかったからです。この運動は多様に第一世代のキ リスト者の自意識によって特徴づけられています。それは表現形式という点ではポス ト世俗化の宗教性の他のタイプと結びついています 8。ここでも宗教性と公共性の関係 は啓蒙以来のヨーロッパで支配的となった、公共的制度的なキリスト教とは、共に信 仰の個人化にもかかわらず別のものと言えます。公共性の中で妥当するものはまさに 個人的な信仰の信念です。 日常的現実としてのわたしたちの生活世界における宗教的なもののあり様について 要約しますと、以下のように言うことができます。西欧公共世界での宗教的なものの 再来はわたしたちを宗教的なものの多様性に直面させています。宗教的なもののルネ ッサンスは宗教多元論として遂行されています。宗教的なものの多様性を理解するこ とは、かくして、わたしたちの生活世界の中心的局面となっています。 『ハンブルク宗 教共同体辞典』はおよそ 90 の宗教団体を記載しています。そのうちの過半は非キリス ト教宗教です 9。わたしたちの日常世界の中では宗教多元論の克服は政治問題となるに しても、明らかなことは、ベルリン市当局の外国人課職員がドイツの首都における諸 宗教の一覧を『多様性における統一―ベルリンの諸世界宗教―』という表題で出版し たことなのです 10。さて、宗教多元論の問題を念頭に置いてヘルレが区分けした、生活 世界という概念の第二の局面の考察に向かいます。 1.2 主体に関係する現実における宗教多元論 わたしたちの生活世界を考察する場合常に考慮すべきことは、現実解釈のあらゆる 形式は常に主体に関係していることです。わたしたちは、生活世界を「それ自体」で はなく常にただそれが「私たちに向かって」与えられるという形式の中でのみ考察可 能です。それゆえ生活世界とは、常に解釈され、しるしによって開示されて指示され た現実です。このことは宗教多元論の場合にもあてはまります。宗教多元論が生活世 界の中で遭遇するあり方はわたしたちの生活世界の重要な変化をまさに主体に関係す る現実として示すものです。わたしたちは二つの要素を明確にすることができます。 それはヨーロッパと北アメリカにおける生活世界を特徴づけているものです。それは 通常は「近代化」と「個性化」という二つの用語にまとめられます。両者は現代の生 活世界の「主体関係性」がその解釈と形成を顧慮した時に変容する仕方とかかわって います。 ヨーロッパにおける「近代的」という概念はまずはまったく単純に現在という時を 過ぎ去った時との関係において表示するものでありましたが、19 世紀末および 20 世紀 6 生活世界の記号としての宗教多元論 始めに新たな強調設定がなされることになりました。それはすでに比較的長く前から この概念を利用する際に告知されていたものでした 11。たとえば、神学的には、ルドル フ・ブルトマンの場合のように「近代人」が語られ、 「近代人」とキリスト教信仰との 関係への問いが「近代的」神学の主要な問いかけに高められましたが、そこではすで に近代性についての質的に違った理解が表現されていました。ここで重要なことは、 近代の延長としての現代は、もはやその由来に基づいて理解されることはなく、自ら の時代の重要な目じるしとして過去との断絶を知っている、質的に新たな時代だとい うことです。すなわち近代化とは社会の自明性の喪失を意味しています。道徳、伝来 の習慣は個人の振る舞いに刻みこむような影響力を喪失しています。近代化は、そう すると、眼前に与えられたものの確実さから自己の方向を求めて不確実性へ脱出 (Exodus 出エジプト)することです。近代化のプロセスで、生活解釈、生活形成の伝 来の見本はもはや生活を方向づける信頼ある手引きとして受け入れられなくなってい ます。生活の方向づけは自ら見出されることになります。自明性の喪失によって、常 に生活形成と生活の方向づけの手引きが相対的に統一した状態から、互いに摩擦を引 き起こす多様な生活姿勢の構築へと移行していきます。 「近代性は複数化を意味する」 、そのように宗教社会学者であるピーター・ L ・バー ガーはすでに 25 年前に記述しました 12。宗教的信仰やその制度が生活の方向づけに与 えられた手引きであるならば、宗教信仰はすぐれて道徳的な要素となります。そうす ると、近代化は、道徳と結びついた宗教性の諸形式からの解放ともなります。たとえ ばキリスト教信仰とはキリスト教の制度的伝統であると経験されるところでは、ヨー ロッパのいたるところで、わたしたちは目下このことを体験しています。そこでは伝 統や道徳からの解放としての近代化は、伝統的教会性からの解放でもあります。この ことは前世紀 90 年代初頭のドイツでの教会離脱運動に明らかです。教会からの離脱と は、たいてい、道徳と伝統によって定義された社会団体から退場することを意味しま す。近代化のプロセスは、それゆえに、生活世界の深刻な変化をまさにその主体関係 性の局面において伴っています。近代化以前には、主体は広範囲にわたって存在した 生活の方向づけの手引きによって規定されていました。生活世界はもはや眼前に与え られた振る舞い秩序の手引きではなく、自己の生活形成の自由空間になります。ヨー ロッパにとって、そして特に北アメリカに妥当しますが、近代性は複数化を意味する ばかりではありません。近代性はまた個人化を意味します。この個人化(個性化)は、 目の前に与えられて伝承された手引きによって生活の方向づけが与えられるのではな く、それ自体が選択の対象となることから生じます 13。徹底した近代化のプロセスでは すべては選択の対象になります。バーガーはこのことを以下のように記述しました。 「近代性は新たな状況を造りだす。そこでは、探索し選び出すことが命法となる」14。 7 基督教研究 第 65 巻 第2号 これはバーガーが異端的命法と名付けるものです。異端、眼前に与えられた生活の方 向づけからの逸脱は、昔は周辺的な可能性であったとすれば、近代の状況ではそれは 必然性となるのです。この伝統というものから選択というものへの移行はヨーロッパ と北アメリカではすべての生活領域にわたっています。昔は家族の伝統に規定され、 今日では個人的選択の対象となっていますが、たとえば子供の名付けのような決断の 出来事にそれは明らかです。個人化は、生活形式の選択から宗教的信念の選択に至る まで拡張していると思えます。個人化の推進力として選択は必然的です。個人の選択 は生活、生活様式の外的事情にかかわるばかりでなく、生活の形式、倫理的価値とそ の正当化にもかかわっています。 近代化のプロセスでこのことは広範囲に徹底され、個人のアイデンティティも自由 な自己規定によって選択可能になっていきます。この状況が宗教多元論にとって重要 であるのは、わたしたちが種々の生活様式の選択を促されていると思えるのみならず、 わたしたちはこの基礎的な確信を選択するように誘われているとも思えることにあり ます。宗教信仰を含む基本的な方向づけもまた選択の対象です。生活形成を企画する 人間の生活世界というこの見地は、わたしたちの社会を広範囲に特徴づけている社会 的相互作用の変革と平行しています。この変革は、市場というものが経済的プロセス の相互作用形式として、ほとんどすべての生活領域を巻き込んだことにあります。今 日、市場メカニズムによって規定されない領域を形成することは困難です。受容と供 給の法則は事実としてほとんどあらゆる相互作用の形式を規定しています。市場に売 りにだされる商品だけでなく、それを超えて価値観念や基本的な生活の方向づけもま たそれにあてはまります。増加する生産性における市場展開の法則は、主な欲求が充 足するならば、もはや需要は供給を規定するのではなく、供給が新たな欲求を生産す ることになるということです。古典的な事例はヨーロッパと北アメリカでは健康関係 の市場です。売り上げの上昇は、見たところ、物質的産物と同時に、産物の購入を必 然的と思わせる生活観も売りに出されるときに達成可能であるのです。これとの関連 で注目すべきは、合衆国における「健康主義」の生活観はすでに宗教社会学的な探求 の対象となっていることです。あらゆる生活領域への市場メカニズムのこの拡張は、 需要を作り出す供給を拡散する視覚的なコミュニケーション手段によってわたしたち の社会が刻印されていることなしには思考不可能です。 この三つの局面――生活の方向づけの複数化とその正当化、個人的生活形成を個 人的選択の事柄とする個人化、至るところに存在する市場による生活の刻印――を まとめるならば、宗教多元論は宗教的可能性の市場(Markt)として現れていること が分かります。ヨーロッパや北アメリカ社会での諸宗教、諸世界観の多元主義は異 なる生活の方向づけが提供される中央広場(Marktplatz)だと言えます 15。ヨーロッ 8 生活世界の記号としての宗教多元論 パと北アメリカでは、わたしたち自身は、この市場で選択によってわたしたちの生 活の方向づけを見出さねばならないと思われます。わたしたちの生活世界のこの構 造は著しい危険をも伴っています。第一に近代化のプロセスは伝統に方向づけられ た道徳的なふるまいの手引きたることを放棄し、それに伴う価値観念を廃棄するこ とで、方向づけの喪失を産み出しています。なぜなら基本となる方向自体が選択の 対象になっているからです。しかしこのような選択はどこに方向づけられているの でしょうか。たとえ選択の基準もまた選択可能であるように見えるにしてもです 16。 第二に、生活世界の個人化は個々の人間に著しい負担をもたらしています。人は永 久に選択の苦痛の前に立たされています。ここでは生活状況に継続する両面価値性、 つまり新たな決断による以外には克服され得ない不分明さが造り出されます。この状 況に対して供給されるものすべては大きな信憑性を有しています。この信憑性は、み ずからの方向づけを見出さねばならないという必然性の重荷から解放するものであり、 そうでなければただ永久にそしてただ自分で克服されるべき不分明さに対処可能な一 義性を提供するのです。これはあらゆる原理主義の大きな誘惑です。原理主義は、確 定した、すべて相対的なものから離れた原理的方向づけに立ち戻ることで一義性と自 由の強い要求による負担からの軽減を図るものです。原理主義の誘惑は、近代後期の 複雑性を徹底した単純さに還元することで克服できると思われることにあります。 これに第三の要素が加わります。近代化と個人化の状況は、あらゆる生活状況は決 断によって、つまり能動的な選択行動によって克服されうると印象づけます。選択的 行動が絶対的であるというこの見せかけは、能動的に選ぶのではなく、受動的に出会 い、わたしたちを行為する者から被る者にしてしまう偶然に対して人間を一層傷つき やすくします。この状況下ではわたしたちが受動的に遭遇する生活状況を簡素化する と期待させるあらゆる人生観はきわめて納得しやすいものとなります。あらゆるこれ らの人生観はわたしたちの生活は偶然にさらされているということに対して、生活状 況を完全にコントロールすることができるという約束をもって応答するのです。偶然 に耐えつつ克服するのではなく、それを制御することができるというのがここで提供 される約束です。災厄というものの制御を通した救済の約束というこの形式をわたし たちは原理主義の多くの特徴と並んで、新しい諸宗教や疑似宗教運動の中にも見出し ます。わたしたちは主体によって制御可能な生活世界の約束に接しているのです。ヘ ルレが区別した生活世界の位相の第三のものに向かいましょう。 1.3 歴史的現実における宗教多元論 今まで述べてきた宗教多元論の二つの局面はそれ自体歴史的な複数化プロセスの帰 9 基督教研究 第 65 巻 第2号 結です。宗教多元論はただ一つの歴史的な源を持つものではなく、これまで述べてき た多元論の状況には多くの源流があります。ここでは、この複数化傾向のいくつかを 箇条書き風に指摘することに留めます。この傾向は、ヨーロッパと北アメリカの現状 の由来に一つの役割を果たしてきました。重要な洞察は、宗教多元論は外から社会に、 たとえば前世紀の移住運動やそれと平行して現れた生活世界の多文化的特徴によって 強いられた運命ではなく、この外からの影響が、長い間に準備されてきた社会の進展 の内なる傾向と結びついていることにあります。 さしあたりここでは宗教改革の結果としての教派の複数化を挙げることができるで しょう。この複数化は領邦の区域割りによって「君主の宗教が領邦の宗教となる」と いう原理に従い落ち着かせることが試みられました。さらにあらゆる宗教的真理要求 を相対化する作業は、17 世紀の教派戦争の後、啓蒙思想においてなされました。啓蒙 によって宗教的正当化を図る真理要求は理性あるいは道徳性という法廷の管轄下に置 かれました。それは、国家の宗教的世界観的中立性と宗教の個人化(私人化) (Privatisierung)にとって、ひとつの決定的な前提となりました。19 世紀になお議論さ れ続けてきた「宗教は私的な事柄である」という命題は、宗教は私的な生活形成にか かわるのであり、公共生活での宗教の影響は制限されるというこの傾向を示していま す。しかしこのことは同時に個人の生活形成における宗教的信念の複数化の前提でも あります。さらに宗教的真理要求を原則的に否定し、宗教信仰の方向づけを他の世界 観的方向づけによって代替させることを試みたのは 19 世紀の宗教批判です。そこでは 宗教批判と宗教創設の驚くべき弁証法があることが分かります。批判された旧来の宗 教が占めた場所は空のままに留まらず、宗教的究極的妥当性を要求する新たな意味解 釈体系によって占められます。批判によって宗教を排除する試みは、かくして全く宗 教批判の自己理解に反して、宗教的真理要求の複数化へと導くのです。そうすると、 他の諸宗教による生活方向づけはキリスト教に刻印された文化の中に根をおろすこと ができるとここで語られていることになります。たとえばドイツ仏教協会のように非 キリスト教宗教の教えを奉じることによるドイツにおける宗教的まとまりの形成は、 すでに 19 世紀末に始まっています 17。 この歴史的な複数化傾向は 20 世紀になって力を発揮してきます。1918 年の王冠と祭 壇の結合の終焉によって、多元的宗教存在に向けた社会的条件が承認されました。国 家社会主義の暴力支配はドイツの歴史的経験としては、生活のあらゆる領域で近代の 多元論を終わらせ統一的な世界観に取って代えようとする大がかりな試みです。国家 は権力を独占するだけでなく、世界観の独占、経済、学問、道徳、それに宗教をも独 占します。国家権力は国家社会主義的世界観を貫徹する手段となります。この世界観 は他の権威が究極的妥当性を要求することによって相対化されないのです。それゆえ 10 生活世界の記号としての宗教多元論 に、過剰に過ぎる権力支配は、とりわけ全体主義的世界観国家では統合されない住民 集団に向けられました。統合不可能なものは全体主義においては死刑宣告を意味しま す。違いはありますが、1989 年までの東部の国家社会主義社会は構造的に言えばこれ と比肩するものです。この比肩性は国家が世界観の独占を要求し、他の宗教的、世界 観的方向づけをこの宗教的、世界観的独占に従属する限りで許容したところに記録さ れています。ナチズムの暴力支配の後、西部ドイツで西欧民主主義をモデルにして設 立された政治的多元論が、1989 年にはドイツ全体に拡張されましたが、それは全体主 義と一線を画するこの立場から生じています。政治的多元論の主な洞察は、国家の影 響は権力の分散原理によって制限され、制度的に保証された民主主義的決定プロセス によって規定されているところにあります。決定的なのは、国家自体は社会的生活の 基礎価値と基礎方向づけの解釈者ではないことです。それゆえに、宗教の自由は民主 主義の条件の一つです。それゆえにたとえば宗教教育は一面において教科として保証 され、その内容は、他方しかし、国家の影響から守られます。世界観的な意味での国 家の中立性と結びついた政治的な多元論は、かくして、諸々の関心、諸宗教、諸世界 観の多元論の前提となります。 同時にしかし多元論は、宗教的、世界観的信念の主張を、それを可能にする政治的、 社会的システムを維持する意志と結びつけます。この暗黙の合意はなるほど永久に要 求されることですが、この合意が問いにさらされるところでのみ明示的になるのです。 常に進行する多元論を根源化へと導くことは近代の多元化傾向の歴史的な力学です。 宗教的、世界観的多元論の根源的な形式は生の現実の多元的解釈が生活のあらゆる領 域に広がるところに成立します。多元論を外から制限しうる統一的な基礎価値あるい は基礎的方向づけはもはや存在しません。徹底した宗教的、世界観的な多元論の意味 するところは、社会の基礎価値を解釈するための普遍的な、また普遍的に承認される 基準はもはや存在しないことにあります。社会的現実を将来を見通して宗教的、世界 観的な特徴をもって多元的にしようとするあり方に取って代わられていきます。統一 した、社会のすべての成員が義務を負う行動の根拠づけはもはや存在しません。社会 の成員すべてに受容可能ないかなる内容的な行動規範や道徳財も存在しません。多元 論社会とは社会の基礎的方向づけをめぐって継続的に対決しあう社会なのです。かく して法や社会制度の機能も変容します。それらは多元論によって締め出されることは なく、その都度の宗教的世界観的視点によって別様に解釈されます。普遍的に承認さ れるいかなる法的正当化もありません。法や社会制度の機能は、それゆえにただ自壊 を防ぐために社会の機能を保存する社会的相互作用を整えることにのみあります。こ れを整えることの妥当性と義務は、しかし、さまざまな宗教的、世界観的視点によっ てその都度内容的に根拠づけられねばならないのです。 11 基督教研究 第 65 巻 第2号 多元的社会の状態に対して中央広場というイメージに留まるならば、わたしたちは ヨーロッパでは、教会はもはや社会全体の意味を担うものとして都市の中心に立つこ とはないと言わねばなりません。市役所(Rathaus)もまた、もはや社会の基礎的方向 づけを保証する施設の役割を担っていません。かつては教会があったところに今は宗 教的、世界観的方向づけをもった広場があります。そこではさまざまな互いに緊張関 係にある現実の諸解釈が提供されています。この諸解釈は、しかし、社会的行動の意 味を現実の究極的意味根拠を参照して根拠づける中で究極的妥当性を要求するもので す。ドイツではたいていとっくに行政の中心は都心から離れた周辺部にあり、市役所 は特定の規則を遵守して使用される広場利用の許認可をするにすぎません。広場で何 が提供され、どのようにそれが取り去られるのかを定めることはできないのです。さ て、歴史的現実としてのわたしたちの生活世界は、わたしたちにいわば運命的に出会 う歴史的傾向の結果であるばかりでなく、それはわたしたちを歴史的行為へと促す現 実でもあります。わたしたちの現実を歴史的なものとして解釈することでわたしたち の生活世界は形成されていきます。この生活世界ではわたしたち自身もまた歴史的事 象の進行に同時に働きかけて関与するものです。宗教的、世界観的多元論の歴史的状 況は、その限りで、共同形成を目標にして生活世界を見るという課題を提起していま す。この状況の特殊さは、多元的状況を形成するためのいかなる普遍的な原則もまた 存在しないということにあります。このような原則は、ただ、その都度の宗教的、世 界観的観点からのみ取り出されることができるのです。宗教多元論は、生活世界の 種々さまざまな次元を、日常的現実として、主体関連的現実として、歴史的現実とし てどのように規定するのかについて描写してきましたが、このことによって宗教多元 論現象をいくぶんかは厳密に把握することが可能になります。西欧を視野に置いた上 で、わたしは宗教多元論を以下のように定義します。宗教多元論は社会の一つの状態 です。そこでは、様々な宗教的、世界観的な生活の方向づけが、現実を全体的に解釈 することを要求して共存と競合の関係にあります。この関係は決定的な一致原理に制 限されることはありません。さらに宗教多元論は、社会の成員の意識の中では、この 状態が克服されるべき問題となっているという特徴を持っています。宗教多元論は、 経験的には多元論の克服という規範的問題を提起しています。多元論は自己自身を問 題化する複数性です。 どの程度この記述は日本にも適用可能でしょうか。ある日本の神学者は数週間前に 東京での対話の時に語りました。西欧の神学者は宗教多元論について熟考している。 しかし、わたしたち日本の神学者は多元性の中に生きている。このことは両者の重要 な違いを指摘しています。しかし、思うに、共通性もまたあります。一面において確 認すべきことですが、わたしが申し上げた傾向の多くはグローバル化の時代に西欧や 12 生活世界の記号としての宗教多元論 北アメリカに限らず、世界大に影響を及ぼしています。しかしそれらが影響を及ぼす 仕方は、宗教的、文化的文脈の特殊状況に規定されています。他面において、ここに 意味のある相違があります。西欧の宗教多元論はキリスト教、およびキリスト教・ユ ダヤ教・イスラームの相互作用の中に形成された宗教史的背景を念頭に置いた時に理 解可能となります。この一神教的諸宗教の構造によって、それぞれ全体性にかかわる 生活の方向づけを持ちつつ、競争の中で共存するというこの多元論の像が規定されて います。これに反して、日本の宗教史は仏教、神道が相互包含するものとして、共生 によって規定されています。この共生はさらに、仏教の様々な宗派の複数性によって、 そして地域的、家族的に規定され、生活史的に刻印された宗教的結合が相互に葛藤な しに存立する神道の構造を通して多元論的になっています。競争のない共存は外部の 観察者に提供される像であります。圧倒的な権威要求に根を持つ競合という要素を代 表するのは、日本では新しい宗教集団です。それはきわめて強い程度に伝統的宗教を 超えて排他的です。この排他性が排他的な包含性であるにしてもです。つまり、たと えば大本教の場合にあてはまることでしょうが、自分たちだけがあらゆる他の宗教的 諸伝統を包括し、新たな統一へと変化させることができるという主張です。多元論の 二つの文脈、西欧・北アメリカ、そして日本という文脈にとって、さらに決定的な要 素は宗教と国家の関係です。明治時代の天皇制の導入は、おそらく神社神道と教派神 道に加えて国家神道を設立することだと理解することができます。つまり、皇帝崇拝 自体を問題視する排他的要求を掲げない限りで他の宗教的伝統を含み込むことのでき たローマ帝国における皇帝崇拝に比肩する包含的な市民宗教の設立です。 このような包括的な市民宗教の枠の中では、まったく無差別(Indifferenz)の多元 論が存在しえます。この多元論では相違を避けることは宗教的文化的生活の統合を 意味します。第二次世界大戦後にアメリカの制度という模範に従って外部から貫徹 された宗教と国家の分離の後、この無差別という要素が残りました。ここでは国家 の非神話化あるいは非神聖化について語ることができるのでしょうが、天皇に代表 された国家はもはや宗教的に大なるものだと見なされてはいけなかったので、多く の共生の組み合わせの中で、そして非国家的、私的と思える領域で、宗教は大部分 道徳、習慣(custom)として営まれることになりました。しかし、習慣としての宗 教は、選択や決断という要素、つまり宗教的告白によって規定されていません。そ れは宗教的実践がある特定の形式に定められているという性格を持っています。こ の実践は自然のリズム、一年の経過、人間の生活のリズムと特徴的に結びついてい ます。ここでは徹頭徹尾宗教的道徳という市民宗教が話題なのです。宗教内部にお ける無差別的傾向は、この状況下ではたやすく宗教に対向する無差別へと移り行き ます。宗教的所有物の接収による、あるいは宗教的要求の否定による厳しい世俗化 13 基督教研究 第 65 巻 第2号 に直面するのであれば、この無差別は世俗化の柔らかい形式と言えます。ここでも 新しい諸宗教はもう一つの像を提供しています。それは世俗化の柔らかい形式に対 向する厳しい再宗教化です。わたしはここでの僅かな考察をさらに進めるつもりは ありません。わたしを対話へと突き動かすものは、それらについての最初の印象な のです。はっきりしていることは、宗教多元論の解釈の構想は様々な文脈を比較対 照する場合に知覚を補助するものなのです。善き神学はつねにまず診断をする神学 です。時代のしるしを神学的に診断することに入り込む神学なのです。 2 宗教多元論における記号―キリスト教的なもの― ──────────────────────────────────── 生活世界の記号である宗教多元論を記述して明確にしようとしてきたのは、宗教多 元論は現在の状況を規定するものだと理解してよいということです。宗教多元論は神 学的状況解釈の主要概念となります。この多元論は、20 世紀中葉に神学的な時代解釈 の主要概念としての役割を引き受けた世俗化の概念を引き継ぎます。もちろん、現在 の宗教的状況において世俗化という概念が役割を果たさないということではありませ ん。国家の世俗化は、北アメリカや西欧に宗教多元論が到来するための一つの前提で した。生活世界の世俗化はポスト世俗化的宗教性の現象が成立する土台です。制度化 された宗教に残存する萎縮した宗教性は、カリスマ運動が示すところの非制度的ある いは半制度的な宗教形式における肥大した宗教性の土台です。しかし、世俗化の概念 はそれが宗教の展開の統一的傾向を突き止めようとするところでは無力です。宗教多 元論に移行することの意味は、この統一性はもはや存在せず、宗教的視点は多様であ るという一致点が場所を占めたということです。世俗化概念についての神学的作業の 運命は、しかし、時代のしるしを建設的に神学的に解釈することに対する一つの警告 でもあります。今世紀早々に表現されることになった、時代精神と結婚する人はすぐ に配偶者を失う者となるだろうというディーン・ W ・ R ・インゲの警告は、宗教多元 論の神学的解釈にも当てはまります。宗教多元論は歴史現象ですから、それは、歴史 的なものすべての、明確な予測を立てることを許さない偶然性によっても特徴づけら れています。そこでも時代の神学的解釈はいくらか天気予報と共通しているのです。 宗教多元論を描写する中で見てきたのは、多元論形成をめぐる問題は経験的な多元 論を克服するという要請だということです。そこでは多元論自体が解釈と形成の仕方 を規定します。なぜなら多元的状況は、多元論の解釈と形成のために複数性の裏をか く統一的基準は存在しないことを含んでいます。多元論の解釈、およびその形成への 提案は常にただ複数性を背景にした視点から展開されます。キリスト教神学は義務を 14 生活世界の記号としての宗教多元論 負っています。キリスト教神学は、特定の宗教的観点に基づく現実解釈であるので、 キリスト教信仰の視点に基づいた多元論の解釈と形成に向かうのです。 この作業における基礎的な最初の考察は、キリスト教自体が多元的構造を持つとい うことにあります。キリスト教は、単に外部からやってきた宗教多元論に直面したの ではありません。キリスト教は内部から多元的に構築されています。新約聖書の時代 から現在に至るまでキリスト教の歴史はその多元的構造を持っています。この多元的 構造を廃棄するあらゆる試みは、キリスト教史を見れば、新たな多元論のきっかけに なったということが分かります。キリスト教的多元論は、現在の宗教多元論と同じで はありません。同一視することができない決定的な違いがあります。また、フリード リヒ・ゴーガルテンが世俗化を念頭に置いて主張したテーゼのように、現在の宗教多 元論は「キリスト教信仰の正当な帰結である」とも思えません 18。なるほどキリスト教 は、宗教改革における教派複数化によって、現在の宗教多元論の成立要因となりまし た。しかし現在の宗教多元論はキリスト教と共にではなく、それに反対する重要な局 面の中で遂行されてきました。要するに、キリスト教は多元的構造を持つとのテーゼ が正しいのであれば、キリスト教の多元論と付き合う中で宗教多元論を克服するため にキリスト教が提供する種々の可能性を発見することができます。 キリスト教自体が多元的であれば、生活世界の宗教多元論を疎外として経験するば かりでなく、多元論はどのように耐え得るものとなり形成可能なものとなるのかを自 らの例でもって学ぶことができます。そのための第一歩はキリスト教の多元的構造の 充分な神学的理解です。 2.1 信仰に基づく多元論 ― 寛容― キリスト教の多元的構造はキリスト教信仰の持つ本来の性質に根ざしています。宗 教改革神学にとって基礎財と言えるいくつかの教義学的規定でもって説明しましょう。 キリスト教信仰は、キリスト使信の外的なことば、イエス・キリストにおけるこの世 に向かう神の救いの使信の外的なことばが聖霊の証言を通してあらゆる現実にとって の真理として、自己の生活の現実にとっての真理として人間に明白であるところに成 立します。信仰を可能にするのは常に、神の意志にかなう状態や場所に生じる神の独 占的なわざです。しかし、この神のわざを通して可能になる信仰の生活、すなわち、 告白、証言、神讃美と感謝を含む礼拝におけるこの信仰の形成は、神の行動に対する 応答としての人間の行動です。この人間の側での信仰の行動は、ただ神のみが信仰を 造り出すことができるとの承認を内に含んでいます。この承認の中で人間の信仰は信 仰自体の持つ可能性を確認します。キリスト教信仰によれば、わたしたちが他者の信 15 基督教研究 第 65 巻 第2号 仰を造り出すことができるという理解を明確に放棄しなければなりませんが、その一 方で自己の信仰は神の賜物であると承認することが重要です。 自己の信仰も他者の信仰も、信仰というものの成立は人間の行動の自由にはなりま せん。それは神の自由に任せられています。それゆえに、キリスト教信仰は証言とい う生活姿勢を持っています。この証言の真実性と関連してイエス・キリストの福音を 表明し、自己の信仰は確実であるという生活姿勢を持つのです。神の自由のために、 試みられてはいけないし、試みることのできないことは、他者に対して自己の信仰を 押しつけることであり、他者を何らかの仕方で信仰にもたらすことです。つまり、わ たしたちは信仰の真理をただ証言することしかできません。他者に確実性としてそれ を押しつけることはできません。福音の普遍性のために―イエス・キリストにおける 神の恵みは全世界に対する神の救いとして理解できます―キリスト教は初めから宣教 する宗教です。しかしすべてのキリスト教宣教は神の自由というところに限界を持っ ています。宣教はそれが証言するものを自分で引き起こすことはできないのです。 さらに他の要素を案内します。神によって贈与された信仰は常に個人的な信仰の確 かさという形態を持ちます。なぜなら福音の真理は個人の私的な生活の現実にとって 真実なものとして確かになるからです。キリスト教の信仰の確かさは、それゆえに常 に、必ず個人的で具体的であり、神が信仰を贈与する個人的、社会的、文化的な人間 のその状況の特殊性に刻印されています。この特別な信仰の確実性は廃棄できません。 なぜなら神が福音の真理を遂行する中で、わたしたちそれぞれの個人的生活が真理へ ともたらされるからです。個人的な信仰の確かさの特殊形態は信仰自体の成立と同じ く自由になるものではありません。信仰は多くの顔を持っています。信仰の中に開示 された神関係、他者への関係、わたしたち自身への関係を含む信仰の確実性が、わた したちのアイデンティティを、つまり代替不可能な人間であるこのわたしたちが信仰 において神との共同へと召されているというアイデンティティを規定するならば、個 人的に多様な信仰を廃棄する際の代価はアイデンィティの喪失です。顔のない信仰は 決して存在しません。自己の信仰が確実だというあり方は自由の根拠となり、良心を 繋ぎとめようとする他のすべての権威中枢の要求に対向します。 しかし同時にそれは他の信仰の確実性に対する寛容の根拠でもあります。神のみが 信仰を造り出すことができ、この信仰を個人的確かさとして担うことができる時には、 自己の信仰への洞察は、馴染みのない信仰の確かさに対する寛容の根拠となります。 まさに、それが自己の信仰の確かさに対応しない場合のことです。一致することがで きないもの、それに対して私は寛容であることができるし、またしなければならない のです 19。 キリスト教信仰の確かさについてのこの叙述が具体的であるならば、キリスト教信 16 生活世界の記号としての宗教多元論 仰の視点から、信仰に基づく多元論について語ることができます。信仰に基づく多元 論はキリスト教信仰理解に含まれているのだから、キリスト者が一致するための理解 に向けて、信仰の多様性を造り出す個人の信仰の確かさの強調を否定するのではなく、 受容する共同性の視点を展開する課題が立てられます。キリスト教会はすでに早くか ら多様性における共同性としてのキリスト教の一致のこのような理解を見出していま した。このために、彼ら自身の特殊性を放棄することなく個々の成員の多様性が一つ に結びつく、キリストのからだとしてのキリスト者の共同体があります。 キリスト教会は多様性における共同性として一致を理解するこのようなあり方を、 多様性と共同性の両者を人間の行動によって引き起こされるとは見ないで、神の行動 の中に根拠を置いて、主張してきました。神は多様性と一致の根拠です。神は、多く の者を共同性につなぎ止めることで一致を造り出します。決定的な首尾一貫性の中で キリスト教神学はこの洞察を神の行動にばかりでなく神の存在にも適用しました。父、 子、聖霊の三一の神存在の中に多様性と一致が同根として存在しています 20。 さて、この信仰に基づく多元論の理解はキリスト教にのみ限られているのかどうか、 それはキリスト教信仰の視点からあらゆる宗教的、世界観的確実性に関して妥当する ことになるのかどうかという問いが提起されます。ここでわたしたちは、議論の余地 のある場に踏み込んでいます。それにもかかわらず、私が思うには、信仰に基づく多 元論は神学的な根拠を持つところの、あらゆる世界観的、宗教的確実性への尊敬を促 すという論理的帰結を回避することはできません。キリスト教信仰はその内容にとっ て普遍的な真理要求を掲げています。世界の創造者、和解者、完成者たる三一の神へ の信仰はいつの時でも真理性を要求するのです。 しかしこの真理に属し、この真理を人間に開示し確かなものとならしめるのは神で す。確実性を承認するあり方が信仰の内容に付け加わるのであれば、このあり方は、 信仰内容のために要請される真理の普遍性にも与っています。それゆえに馴染みのな い確かさ、つまり非キリスト教的確かさもまた、信仰の確かさとして尊重され寛容に されるべきです。しかしそれは任意の多元論に場を譲るということではありません 21。 なぜなら馴染みのないものであれ自己のものであれ、信仰のあらゆる確実性は福音の 批判に従属するからです。馴染みのない確かさも自己の確かさも確かさとして尊重さ れるべきであり、その限りで尊重されるべきものですが、それは問いかけ可能であり また批判可能なものです。 信仰に基づく多元論がキリスト教の本来の構造に属するものであるならば、キリス ト教信仰に基づいてキリスト教会の中で多元論との付き合いを学ぶ可能性が開示され ます。キリスト教会における多元論との付き合いの中で宗教多元論の状況形成のため の前提が与えられています。二つの例でもって短く説明します。 17 基督教研究 第 65 巻 第2号 2.2 キリスト教会―アイデンティティの学校― 宗教多元論は不安をかき立てるということも否定できません。少なくとも表面的に はキリスト教社会であるにしても、そこから深層において多元的な社会へヨーロッパ が移行し、馴染みのない者としての他者との出会いは、不確実性と方向喪失を引き起 こしています。キリスト教会では多元的なアイデンティティの海原で、自己のアイデ ンティティ喪失への不安が報告されています。しかしもし様々な宗教、世界観的信念 が互いに意思疎通することができるために、宗教多元論の状況がアイデンティティ養 成を不可欠にしていくのであれば、この懸念は根拠のないものになります。対話的な 意思疎通は、アイデンティティの出会いを要請します。宗教多元論は、その限りで、 社会の漠然とした道徳的な普遍価値との同一視の中でキリスト教的なものが拡散して いくことに終わりを告げます。ヨーロッパや北アメリカでもキリスト教を市民宗教的 に平準化することに反対して、それが明確な輪郭を持つことが要請されています 22。 キリスト教会はこの状況を通して、キリスト教のアイデンティティ形成のための学 校となることを促されています。キリスト教会はその社会的アイデンティティを、多 数派的なキリスト教社会におけるキリスト教諸教会の立場を通してはもはや定義させ ることはできず、そのアイデンティティを自立的に発見し規定しなければなりません。 キリスト教の多数派教会にとって宗教多元論の状況では少数派教会の状況は範例的な 存在様式となります。とりわけこの領域では、かつて多数派であったキリスト教諸教 会は日本のようなキリスト教少数派教会から、この教会が自らの状況を創造的な可能 性だとして理解する時には、多くを学ぶことができるのです。キリスト教の社会的な アイデンティティを規定するために決定的に重要なのは、関心を育成するために教会 に集まる人間に共通する宗教的関心からアイデンティティが生じるのではなく、キリ スト教の根源、つまりイエス・キリストにおける神の解放の恵みの使信という根源か ら生じるということです 23。社会的アイデンティティをキリスト教会は福音の活ける 証言への関係に基づいて獲得します。キリスト教会のアイデンティティ獲得は、それ ゆえに、告知と聖礼典における福音の伝統の育成という点に中心的に結びついていま す。このアイデンティティをキリスト教会は、キリスト教的アイデンティティの構造 を福音自体の中に紡ぎ出すことによって、福音の解釈共同体として繰り返し新たに確 保していかねばなりません 24。キリスト教の社会的アイデンティティの形成は、それ ゆえに、キリスト教会が社会化する共同体として実現されるという条件に結びついて います 25。ここに宗教多元論の状況を解釈し形成する能力の根幹があるのです。 これと関連して、キリスト教会に決定的なのは、社会的アイデンティティの育成が 個人的アイデンティティの条件となっていることです。個人的アイデンティティはキ 18 生活世界の記号としての宗教多元論 リスト教の理解に従えば、神による無条件の受容がそのアイデンティティの根拠とし て確かとなるところの個々の人間に向けた神の恵みの語りかけに根ざしています。個 人的アイデンティティの形成は、それが社会的相互作用によって調停されることに繋 がっています。個人的自己肯定の条件としての神の恵みの語りかけもまたわたしたち には無媒介にやって来ません。それはただ、信仰において確かとなり得る義を語る肯 定の使信を受け継いでいく人間の意思疎通の手段の中でのみ到来するのです。キリス ト教の社会的アイデンティティを育成する諸制度、キリスト教会の意思疎通の実践は、 個人的アイデンティティ形成の条件でもあります。キリスト教会と個々のキリスト者 とは、宗教多元論におけるキリスト教的なるものの主立った記号なのです 26。 2.3 キリスト教会―多元論の学校・対話の学校― 福音の使信をその社会的アイデンティティの基礎として、個人的アイデンティティ の基礎として経験し形成するキリスト教会は、同時に、信仰の確実性について回避で きない複数性という経験がなされる場所でもあります。ここに、信仰に基づく多元論 の経験はキリスト者にとって根拠づけ連関、発見連関となります。この経験はキリス ト者にとって多元論を実践する修練の主立った場所となります。キリスト教会は、神 のわざによって必然的に、代替不可能にそれぞれの自己の特別性が形成されるという 信仰の自己理解を自己限定の原理として経験します。他のすべての確実性を約束し確 実性を促す権威に対して、自己の信仰の確かさの中に根拠を持つ自由の経験の中で、 教会は他の信仰の確実性に対する寛容を学ぶことができます。自己の信仰という贈ら れた自由への洞察は馴染みのない信仰に対する持続的な寛容へと導くことができるの です。 さらにキリスト教会は宗教多元論における意思疎通の実践のための修練の場を提供 します。宗教多元論の状況により必要となるのは、様々な社会の成員と社会集団の行 動を導く信念が、公共の社会的論議の対象となることです。社会生活の基礎的方向づ けについて暗黙の同意が存在しないところでは――これはヨーロッパ、北アメリカ、 日本にあてはまります――宗教的、世界観的信念こそ明確にされねばなりません。さ もないと社会全体の目標に到達するための対話と協働の可能性は存在しなくなります。 ただ自己の信仰の言語に習熟する人だけが別の信仰の信念の言語を理解し、それらに 自己の信仰の信念を理解してもらうという課題に参与することができるのです。信仰 の語学学校としてキリスト教会は宗教多元論の状況に対して重要な働きをすることが できます。多元化した社会で生存していくためには、相互理解によって共通する行動 の土台を造り上げ、継続的な対話を可能にする制度が創設できるか否かにかかってい 19 基督教研究 第 65 巻 第2号 ます。キリスト教会は、多元論的状況を信仰に基づく多元論としてのキリスト教信仰 の視点から理解しようとし、多元論の学校として確証されるならば、宗教多元論的生 活世界においてもキリスト教的なものの記号に欠けることはないのです。 注 1 E. Husserl, Die Krise der europäischen Wissenschaft und die transzendentale Phänomenologie, in: Husserliana VI, hg. v. W. Bienel, Dordrecht u.a.1954. 生活世界を構成する局面として日常世界を位置付けることは、アル フレート・シュッツの学派が綱領宣言的に表明したものである。A. Schütz, Th. Luckmann, Sturktruen der Lebenswelt, Neuwied 1975 参照。この概念の解釈と応用の歴史については、R. Welter, Der Begriff der Lebenswelt. Theorien vortheoretischer Erfahrungswelt, München 1986 参照。 2 W. Härle, Dogmatik, Berlin/ New York 1995, 169f. 3 同上。 4 M. Ayoub, Redemptive Suffering in Islam, Den Haag 1978 und M. Tworuschka, Allah ist groß. Religion, Politik, Gesellschaft im Islam, Gütersloh 1983 参照。 5 M. Pye, R. Stegerhoff (Hgg.), Religion in fremder Kultur. Religion als Minderheit in Europa und Asien, Saarbrücken-Scheidt 1987 参照。 6 R. Hummel, Indische Mission und neue Frömmigkeit im Westen, Stuttgart 1988 参照。 7 O. Eggenberger, Die Kirchen, Sondergruppen und religiösen Vereinigungen. Ein Handbuch, 6. überarbeitete und ergänzte Aufl., Zürich 1994, 296-304 参照。 8 M. Percy, Words, Wonders and Power. Understanding Contemporary Christian Fundamentalism and Revivalism, London 1996 参照。 9 W.Grünberg, D.L. Slabaugh, R.Meister-Karanikas, Lexikon der Hamburger Religionsgemeinschaften. Religionsvielfalt in der Stadt von A-Z, hg. v. Der »Arbeitsstelle Kirche und Stadt«, Seminar für Praktische Theologie der Universität der Freien und Hansestadt Hamburg, Hamburg 1994. 10 G.Yonan, Einheit in der Vielheit. Weltreligionen in Berlin. Die Ausländerbeauftragte des Senats Berlin, 2. aktualisierte und ergänzte. Aufl., Berlin 1993. 11 近代化についての古典的研究は、M. Levy, Modernization. Latecomers and Survivors, New York 1972、そし て P. L. Berger, B. Berger, H. Kellner, Das Unbehagen in der Modernität, Frankfurt/Main 1977 である。神学的 展望に基づくのはとりわけ Trutz Rendtorff, Theologie in der Moderne. Über Religion im Prozeß der Aufklärung, Gütersloh 1991 (Troeltsch-Studien Bd.5)である。 12 P.L.Berger, Der Zwang zur Häresie. Religion in der pluralistischen Gesellschaft (原書は The Heretical Imperative. 20 生活世界の記号としての宗教多元論 Contemporary Possibilities of Religious Affirmation, New York 1979), Frankfurt/Main 1980, 28. それに続いて バーガーはこの過程の徹底性を強調する。「近代性は諸制度とともに了解の構造をも複数化する」(同書, 30)。邦訳は『異端の時代』 (薗田稔・金井新二訳) 、新曜社、1987 年。 13 個性化としての近代化については、U. Beck, Risikogesellschaft, München 1984 参照。 14 P. L. Berger, Der Zwang zur Häresie, a.a.O., 41. 15 このメタファーの利用については、たとえば L. Newbigin, Religion for the Marketplace, in: G. D’Costa (Hg.), Christian Uniqueness Reconsidered, Maryknoll 1990, 135-148 参照。なお、デコスタ編集のこの著作 は『キリスト教は他宗教をどう考えるか』(森本あんり訳)教文館、1997 年、として全 14 編のうち 10 編の論文が邦訳されている。 16 絶対的な選択自由としての自由観念の批判については、Chr. Schwöbel, Imago Libertatis: Human and Divine Freedom, in: C. E. Gunton, God and Freedom. Essays in Historical and Systematic Theology, Edinburgh 1995, 57-81, dt. in: Chr. Schwöbel, Gott in Beziehung, Studien zur Dogmatik, Tübingen 2002, 227-256 参照。 17 たとえば、M. Baumann の宗教学的叙述、Deutsche Buddhisten. Geschichte und Gemeinschaften, Marburg 1993、ならびに仏教的視点を持つ H. Hecker, Chronik des Buddhismus in Deutschland, 3. Aufl. Plochingen 1985 を参照。 18 F. Gogarten, Verhängnis und Hoffnung der Neuzeit, Hamburg/München 1966, 143f. 19 寛容の問題について詳しくは、Chr. Schwöbel, Toleranz aus Glauben, in: Ders, D. von Tippelskirch (Hgg..), Die religiösen Wurzeln der Toleranz, Freiburg 2002, 11-37 参照。 20 R. Williams, Trinity and Pluralism, in: G. D'Costa, Christaian Uniqueness Reconsidered, a.a.O., 3-15, und Chr. Schwöbel, Particularity, Unversality, and the Religions. Toward a Christian Theology of Religions, in: G. D'Costa, Christian Uniqueness Reconsidered, a.a.O., 30-46. 一致と多様性が同根であることを明らかにしたのはカパ ドキアの三一論の画期的な功績である。これについて J. D. Zizioulas, The Doctrine of the Holy Trinity: The Cappadocian Contribution, in: Chr. Schwöbel (Hg.), Trinitarian Theology Today, Ediburgh 1995, 44-60 参照。 21 Eilert Herms は最近の多元論をめぐる議論にとって道しるべとなる論文「原理的な多元論」の中で、キ リスト教信仰をこの多元論の典型だと見なすとともに、これを恣意的な多元論と区別した。恣意的な多 元論の特徴は、宗教的世界観的な展望が社会システムの中で私物化され、それとともに個々人には不確 かで不明瞭なものとなることにある。E. Herms, Kirche für die Welt. Lage und Aufgabe der evangelischen Kirchen im vereinigten Deutschland, Tübingen 1995, 467-485, とくに 477ff.参照。 22 キリスト教的なものの市民宗教的平準化(および道具化)の示唆に富む事例は哲学的有神論である。そ れは 17 世紀の宗教戦争を背景にして成立した。これについては I. U. Dalferth, The Historical Roots of Theism, in: S. Andersen (Hg.), Theism and its Modern Alternatives, Aarhus 1994, 15-44,そして Chr. Schwöbel, After ›Post-Theism‹, a.a.O., 160-196 参照。 23 これについて E. Herms, Pluralismus aus christlicher Identität, in: J. Mehlhausen(Hg.), Pluralismus und Identität, Gütersloh 1995 (Veröffentlichungen der Wissenschaftlichen Gesellschaft für Theologie 8), 15-19 参照。1993 年 21 基督教研究 第 65 巻 第2号 にウィーンで開催された第 8 回ヨーロッパ神学者会議での論考をまとめたこの巻は、すべての神学諸学 科における多元論解釈の議論への有用な入門である。 24 福音を解釈する共同体としての教会理解と関連する、「コミュニケーション共同体」「行為共同体」「証 言共同体」という主導概念について、Chr. Schwöbel, Das Richtige Tun. Kirche auf der Schwelle zum dritten Jahrtausend, Ev. Komm. 1 / 96, 24-27 参照。 25 これについて詳しくは以下の論文の論述を参照。Kirche als communio, in: Chr. Schwöbel, Gott in Beziehung, Tübingen 2002, 380-435, 432ff. 26 R. Preul, Das öffentliche Auftreten der Kirche in der pluralistischen Gesellschaft, in: J. Mehlhausen (Hg.), Pluralismus und Identität, a.a.O., 505-517 参照。 22