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古代における共済思想

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古代における共済思想
古代におけ る共済思想
- 保険思想 史論序説(3)
近 藤 文
(関西学院大教授)
1.共和制ローマ時代のコレ-ギア
わたくLは,保険思想と共済思想とを区別し,それぞれか,保険の仕組,
あるいは共済の仕組を前提に生まれたものであると説いてきた。そして,
保険思想-近代的保険思想-は近代的保険の出現によって始めて一つ
の経済思想としての地位を与えられた。か,共済思想はそれよりも遥かに古
く,すでに古代社会において一つの経済思想としての地位を確保していた
ことを示唆しておいた。このことを明らかにするため,本稿では共済思想
がその地盤とした古い時代の共済の仕組についての分析を試みたいと思う。
もちろん,この古い時代の共済ということになると中世のギルド共済や初
期の共済組合にみられた共済についてもふれねばならないが,ここでは,主
として,吉代ロ-マの制度を中心に筆をすすめることにする。
ところで,この点については,わたくLはすでに,昭和16年から17年に
卜
かけて「コレ-ギアと保険」と簿する論文を公にしている。この論文は,
保険学雑誌に2回にわたって連載されたものであるので,あるいは読者の
眼にふれているかとも思うが,それを復元するとともに,新しく保険思想
史の立場から本稿ではこの問題を扱ってみたいと思うO
〔注〕
(1)近藤一文J_縞「コレ-ギアとf米検() (f米検・、ア・経 巻的371号, ti/日日16
年121]'&) 「同上」 H (同誌第45巻?ft372V∴ 昭和17年3日ぢ-)
-
1
-
古代における共済思想
2)
昭和15年に公にした、「保険学総論」で、わたくしはつぎのように書
いている。「多くの学者は,例えばマ-ネスManesによって代表される
が如く,今日の保険の生成,発展は,公共心(Gemeinsinn)よりは,む
しろ営利心Frwerbssinn)に基くものであり,具体的には14世紀の
半ば頃イタリーに発生した海上保検事業にその起源を求むべきであるとす3)
"S。
しかし,これらの学者といえどもまた保険の思想的淵源については,これ
を遠く・古代ロ-マのコレギア・テヌイオルムCollegiatenuiorum)
や,或は中世のギルドにおける救済制度に求めるのが常である。すなわち
マ-ネスは『保険の根本思想は非常に古い。その崩芽は既に,自然経済の
最も古い時代に存在している。』となし,その例として,紀元前2250年頃
に,バビロニアに行なわれていた隊商の間における盗難或いは襲撃による
損害の分担協約を始め,古代インドに行なわれた労働不能者に対する家族
員間の扶助制度や宗教上或いは慈善的の喜捨制度,インドにおける森林お
よび海上旅行に対する普通以上の高い利率の貸金制度等々を挙げる。勿論,
コレギア・テヌイオルムやギルドが行なった保険類似の制度を逸する筈は
ない41また,へ-ネスHaines.ブラウンBraunジャックJack,
マックリ-ンMaclean等の保険史家も,多かれ少なかれこれと同一見解
51
をとる」と。
そこでこれらの学者の説についても,一々これをとりあげてその内答を
紹介する必要があるが,ここではただマ-ネスの場合には,このほかにエ
ヂプトにおける遺族救済組合,ユダヤにおける嫁資組合,ギリシャにおけ
る奴隷の逃走に対する填補制度ならびに船舶に関する損害分担を目標とす
る船主の団体であるコイノニアKoinonia')の制度などにもふれている。
ことを指摘するにとどめておく。そして,ここでは共済思想の分析を行な
うに当って,貴も注目すべき制度である古代ロ-マにおけるコレ-ギアを
中心に相互扶助ないし共済思想のあり方を調べることにしたい。
そこでまず,コレ-ギアCollegia)-単数はCollegium-と
-11二三一
古代における共済思想
はどうした性格の団体であるか。わたくLはこの点について,前述の論文
では次のように説いていa61.すなわち,コレーギアという言葉はもともと
「団体」 Corporation)を意味する言葉であって,たとえば,ローマ法
では少くとも3人の団体員があればこれをコレ-ギアとよぶことができる
としている。そして,その種類には,都市団体 Civitates),宗教団体
Collegia of priest) 官吏の団体および職業団体の四種のものが認
7)
められていた。が,ここで問題になるのは,これらのうちの最後のもの,
すなわち職業団体に属するコレ-ギアであるとO
〔注)
(2)拙消.ア保険`ソ'総,,品』 148兵。
(3) Manes.A , Versicherungswesen 5 AufI, T.I 1930. S.36
時.t4弘氏『保険前史』の概観12貞
(4) d.a 0 S 33
(51 Haines, F.H. Chapters ofInsurace History, 1926pp.2-6 ;Bra ,
E, Geschichte der Lebensversicherung und der Lebensversicherungstechnik. 1925. S. 3 ;Jack, F., An Introduction to the History of
Life Assurance. 1912. p.p.15-149; Maclean F.J.The Human
Side of Insurance, pp. 2-10
(6)拙稿「コレーキアと保険」(1)保険学雑誌第45巻第371号 5頁o
葉風青亮氏『改訂保険学綱要(緒論・総論1 』 9頁以Tr,
(7) Robertson, E , "Corporation、' , Encyclopaedia Britanica. 9 edition
Vol VI 432
ところでプルターク( Plutarcn )にi:るこの種のコレーキアは,コ
レlギアとLては最も古く,ローマ第二代の王ヌマ・ボンピりウス Numa
Pomphus の時代(西暦前715- 673年)にすでにその存在かみられ
る。すなわち,金細工師・建築師,染物師,馬具師,製革匠,銅組工師,
-3 -
聞;i*g帽iMMmmm調mu
陶11∴奉納楽手 Tibicines などの手工業者のコレーキアがそれであ
、
るとこ この説はヌマ説とよばれ,多くの学者によって踏襲されるとともに?)
ユーゲ7, (Hughes)は,両替前4世紀ごろになると,これらの手工業
者のコレーキア( Collegia Artificum のほかに,商人のコレーキア
10
Collegia Mercatarum もまた成立していると課し-ている.なお,
学者のなかにはヌマ説をとらずに,コレーキアの起源をローマの_:_代目の
「ソ′しウス・ホて+リウス Tullus Hostilius の時代(西簡前
673-C41)ヱ=二求めるものや, -/く代目の」二セルウイウス・ツリウス
Sp!・viuゝ Tulhus に負うところか多いと主張するものもないでは
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し11' (し叫二
も-ノとも,ト、イツの経済史家クノー(Cunow)によれば ・Iらの
読,とくにヌマ言削ま,金を産出しないロ-マに,すでに丙簡前7世紀の初
リn,金細上紬のコレーキアか存在していたとか,その後2世紀, 3世紀後
になってもなお農家のなかでしか行なわれなかった製革や染物について,
すてに職人かコレ--ギアをつくっていたとか,さらに相轄前5世紀頃にな
-,てさえ上製の壷やjulなどは・まだ農家のなかでつくられていたにもかかわげ,
それよりず-,と前にI-'SJTのコレーキアか存在していたと主貼するわけであ
-Jて,これは到底納得できない。したかって,これらの説は,むしろ「後
l 41
古代における共済思想
世の人たちがローマ華かなりし時代に,そうしたものがあったと,その創立
の年代の古いことを誇るため」につくりだされたという,いいつたえを,そ
lカ
のままう呑みにした諸説にすぎないというのである。
たしかに,ローマ時代において、手工業が家内工業から分離したのは,
はるかに後世であって,第二ポエ二役(西暦前219-201年)以前に,辛
工業者のコレ-ギアが存在していたかどうかは疑問である。また'これら
の点については,共和制の末期においても,現実に利用のできる資料は極
めて少なし13)
¥しかし,コレ-ギアという言葉を広く解して,さらに手工業
者のコレ-ギアというように,厳密に解釈しないとすれば,それらの家内
工業を中心とした農民のコレーギアか存在していたとする考え方も,あな
がち間違っているとはいい切れないであろう。
それに,いまここで問題にしているのは,コレーキアの性格が手二L業者
のそれであるかどうかではなく,コレーキアの相互扶助的機能はどうした
ものであるかという点である。その意味では,コレ-ギアか手1業者を中
心にしたものから発生したとしても,また農家における家内 E妾を中心に
形成されたものであったとしても,そのいずれが正しいかの吟味よりは,
むしろコレ-ギアの歴史というか,そうした手工業者あるいは家内」二業者
のコレ-ギアが商人のコレ-ギアをもつくり出し、その後どうLた形で発
展したかの点が問題であるO
ところでこの点については,『ローマの社会生活』の著者フアウラFowlerは,「甚だ残念なから,これらの手工業コレ-ギア
(Collegiaopificum)はキケロの時代に政治上の削勺に利用されたところの,
同様に自由民の下層社会の人たちの結社として,極めて多様な形態で,伸
び姿を現わすまでは.完全にわれわれの眼前から消え去っf:のであるoJ
そして,その理由は不明であるが,恐らくそれは-ン二バル投,すなわち
・(・.'、.:・.∴lL∴-∴'蠎・,,'>.・i
輸入,および経済的に独立した大家族制度の復活を始め,各椎の方面で公
一5-
古代における共済思想
° Ⅰ ° ▼ . ° Ⅰ
▼
私の生活を支配していた宗教的慣習の崩壊,ならびに都市生活の時代,と
くに紀元前3世紀から紀元に至る時代の特質を形づくる偶人主義の発展に
14)
基づくものと考えてよい。と述べている。
しかし,こうした手工業コレーキアの中絶説に対Lて, 『-]】∵代ロ-マに
おける労働』の著者ポール・ルイは反対して,コレーキアはヌマ時代から
引きつづいて存在していたのであって,かえってポエ二役からスラとマリ
ウスとの党争(西暦前i-82年)期に至る時代においては徐々としてでは
あるが,その数を増加しているのである。もちろん,この頃にはまだ職業
の分化も十一分でなく,コレ-ギアの発展も顕著でなかったことは事実であ
るo Lかし,この種の団体は単にローマでみられtztzけではなく,その他
の地方でも奴隷侵入に対する保護策として,広く採用されていたのてある。
Ii
と述べている。
この二つの説のいずれか正しいかは,にわかに判断かできないか,現存
の資料からすれば,少くともローマ共和制の末期にはすでにこの種のコレ
lギアか有4-_していたことだけは明かである。そして,フアウラ一日身も
他のところでは「手工業キルトは,その大多数が敢?出f-Jなクラブに誤り利
用されtltzめ禁止はされたけれとも,共和制の穀後の世紀まて存!tをつつ
‖冠
けた。 」とも述べているのである。
そこで間越は,これらのコレーキアの存!t H的てあるか,なかには単な
る保養の!=めの集団もあった。また妾高入札者に投票を売るための政/台的
集川である場合もないではなかった(,か,その多くは宗教上の目的から共
通の'.T題神を中心に構成され, -・種の相互扶助を11なったところにその・
∴
船的性格かあったことだけは,諸学者の間でも一致して認められているo L
かも,それは共和制ロ-マ時代の大部分を通じて外部からはなんらの規制
も十つ歩もうけなかったようである.すなわち「法律によって公認されはし
なかっ[:か,しかし法律はこれを禁lhなかった」といわれている1空した
がって,支配階級の感情に触れるとか,恐怖の的となるような秘密の集会
6
古代における共済思想
さえ開かなければ,その組合員がどれだけ増加しても自由であったし,集
会もまた自由に開くことができたのである。
(注)
Cunow, H. , Allgemeine Wirtshaftsgeschichte, 1927. S. 58
(13) Nicolo , M. S. "Guilds in Antiquity Encyclopaedia of the
Social Science. Vol. 7. 1937. p. 206
(14) Fowler, ibid. p.45
(15) PauトLouis, ibid. p.49, 150
(1① Fowler , ibid. p. 215
(17) Fowler, ibid.46, PauトLouis, ibid, p.47, 150
(1砂 Pau卜Louis, ibid. p. 150
2.帝政ローマ時代のコレ-ギア
以上のように,共和制ローマ時代にその姿を現わしたコレ-ギア,とく
に手工業者を中心とするコレーギアは一面においては職業あるいは職域の
団体であったか,同時にそれは一種の宗教的な相互扶助団体でもあったの
である。そして,そのことが大量の奴隷輸入と宗教的慣習の崩壊をともな
った西暦前3世紀ごろから,この種のコレ-ギアの姿がみられなくなった
かのようにさせた理由て.もあったのである。
ところか,その後,元老院による寡頭政治が動揺し,貧富両階級間の願
事か激化し,ついには流血の惨をひきおこすとともに,共和制そのものが
崩壊しかかるや,コレ--ギアは始めて政府の干渉をうけることになったO
すなわち, m僻前64年,元老院は,いわゆるカティ りナ陰謀に手工業者の
I一・回か加わっていたことを一理Ifil二.同家の安全を害しないと認められる少
数のコレ一一ギアを除いて,その人部分についてはこれを禁止するに至った
のてある も-ノとも,この禁正はその後商圏前58年になって,クロティウ
ス Clodius西敵前93-52年)か.削ぐ汀となると民衆の歓心を買うため
1 7 I
古代における共済思想
に,再び昔の自由摘り度にもどそうとしたOそして,キケロ Cicer。,
西陣前106-43年)もまたこれに同意した.しかし,その後間もなくカエ
サル(Caesar 英語でシーザー-西暦前102-44年)のユリアン法
Julia Law)によって一切の職業団体(Vocational Association"
は別二され,たた前述のヌマの時代から存在していたと伝えられている8
っのコレ-ギアのみにその存続を認めるといったことになったのである12
かくて, Vi欄匝-マ時代に入ると,アウグストウス Augustus,西暦
前271輝け1時つ もまたこれと同様の政策をとり,原則としてコレ-ギア
をT,tILしたか,古くから存在し,しかも「有益な」コレーキアおよび特別
の認可を得たコレーギアたけは, 「事実上」その存イt:を認めることにしたO
か,そノ)際こうした認可をうることかできたコレ-ギアは極めて少なかっ
た_ そLて.こうした政策はその後トラヤヌス帝 Trajanus,西暦9811" ''I-、 ∴ こ ∴ 全。 --・・蝣viWi.‖二まで、HI ,てある, I uo/LfpJ時
2)
の時代においても,組合の解散そのものは白山であった。ところが,その
後アレクサンデル.セべェルス帝 Alexander Severus,西暦222-235年)
のmLに入ると言走乗の皇帝がコレ-ギアの存在には不穏の稚子が隠され
ているという懸念かJ〕これを好ましくないものと断定したのに対して,む
しろコレーギアを利用して,政治的な役割を果させよう という考えに変っ
てさ{=、つ そLて,逆にコレ-ギアを促進助長するという政策かとられたの
てある一 二の政策は第3tl璃Llの終りになって完成するのであるか,当時-∼
般化していた人目の減少は,経済上の恐慌や新税徴収の必要と和佐って,
この政策を促進させたのである
では,皇帝たちはこれをどのように利増したかというと,帝政の初期に
おいては公務についての助力を求めたO たとえは,檀築砦のコレーキアに
対してはロ-マIhにおけるm防隊のft'主を引受けさせるなどのことを行な
a'-1、i二は二う し ノ∴・:軸`、it-U.r.こ. :fa:.1':与蝣,,.^∴il.'一蝣二Jl L - v・・蝣蝣
さえもあ-ノた。そLて,アント二ヌス・ピウス帝 Antoninus Pius
- 8 -
古代におけるjliれ虹til
西簡138-161年)の時代になると,地方によっては政府の食指供給の酎r=
を負うことによって,パン鼠 穀物商人,船荷主に特権か与えられた。
アレクサンデル.セヴェルス・附まこれに臼をつけた。そして yjの手」二業
者をコレ-ギアに統括し,その法律上の地位を認めることにしたのである。
かくて,西聯271年になるとアウレリアヌス帝(Aurelianus,西簡
270 -275年)は.外敵および内乱を防Jl.するため,ローマの外廓を遡る延
々21マイルにわたる,いわゆるアウレリアヌス城岬の建設に当って,コレギアを総動員して強制的にこの仕事を頼当させている40'
このようにして,この時代になると,コレーキアは・柿の賦役保証の強
制組合としての性格を与えられるにセったO そして,その数も,アレクサ
ンデル帝の時代には,ローマたけでもすでに32に達し,その後,その増加
を示しているO もちろんロ-マ以外でもその設立か強制されたのであって,
-I
パン焼のごときは全ローマ帝国にわたって組織化か胤別され,毎H -定_:Ii二
のパンをつく らねばならなかった。しかもコレーギアに課せられたJ壷務は,
単にその労働だけではなく,その財産にまでおよんだのであって,ポール・
ルイ i] Louis)はつぎのように辿-ている。
「団結させられたところの人びとの財産については,国家に対する.椎
の負債という形で留置権が認められ,この 道権の移転を禁じたo たとえ
ば,造船業者は船をつくr),且つ委任された責任を果すためにかれらの財
産の4分の3までは使わねばならなかった。そして,かれらの職業の性質
「1*1.- 工 .・!(..・, 甘 *・ :・'√.:、 I'蝣・'f川i・'Vr.f'・f ;.糾
う責任を課せられた。個人の身分については,理論的には自由であったけ
れど,実際には国家の勤労に服し,賦役に従わねはならず,それをまぬか
れることは次第に困難となった。 」そこで「あるものはかれらの財産を放
棄することによってその役目をまぬがれようと企てた。しかし,この場合
には新しく財産を保有することになった人か,その義務を遂行しなければ
ならなかった。というのは,誰かがこの義務を遂行しなければならず,図
-9-
古代における共済思想
b)
はもしその仕事につくものがないと罰を加えたからである。 」かくてかれ
らは,二の束縛からまぬがれることは不可能であった。と。
さらに、西暦371年になると,バァレンス帝 Valens 西暦364378年)は,東ローマ帝国の造船業者に対して「永久的責任」かあることを
宣言し,手工業には世襲制をとらすことになった。こうしたコレ-ギア政
策によって,結局,カスト(世襲的職業身分)の制度が成立することにな
ったのである一二 もちろん,こうした義務をもつことに対して,コレ-ギア
はLLl家から諸種の特権を与えられた。例えば,個人的朕役や軍務からの免
除の特権を与えられた。しかし,コレ-ギアは結局「公共のために苦役をつ
8)
とめる国家工場と大暁船の混血児」に変身させられたわけである。そこで,
「組合勘まあらゆる方法を尽して,この束縛からまぬかれようと企て,多
くの組合では逃亡者か激増したのであるo Lかし,それを防止することは,
′′二えず新しい法律か設けられたにもかかわらず実際には不可能であった。 」
.
と. -ロー(Below,は述べているO
二のようにして,帝政とくにアレクサンテル帝以後のコレ-ギアは,共
和机時代にみられたコレ-ギアとはその性格を異にするに至ったのであるO
すなわち,共和制時代のコレ-ギアは,すてに-・言したように宗教上の要
論にもとづいて結成されたt,のであって,そこには必;,ず特定の守護神か
あり,組合員はその共同の神に供物をささけ,祝宴を聞くことをt怖)にコ
レ-ギアを組放したのである。そして,それに関連Lて,社交ないしは葬
式の世話をLたのであるrJ したがって,コレ1-ギアには中世のギルドに見
られるような,ギルトに属しない同業者の排除とし、う排他的性格はみられ
l
、
なかったということかできる。フォラーーenニときも,これをギJレトと呼び
なかJ)ち, 「それはその職業を守るT=けてなく,周結しようという自然的
な他動からつくられたものてあ-ノて,二れ:>r,キJLト,'土,古い家族や民族
.、tL.川.'蝣>!<・り∴ノ ・- ・ ∴㌢蝣i I一蝣'4ー'I.'・I;;...,こ蝣 蝣')∴、'i沖 ・L'二・
と述べ,それは, 「他の多くの']>教主の施設と同様にヌマーiYj"の力によるも
10 -
古代における共嵐.ffi.忠
のである」と述べている。
また,共和制時代のコレーギアは自由民から成立っており,紋隷はこれ
に加入することを許されなかったOすなわち,コレーキアは平民(Plebecian)
によって組織されたのであって,それ以外には,休題者の手を離れた附
庸民(Clients や,時には解放奴隷か加入を許されたにとどまる.た
だし,ポール・ルイも指摘しているように,コレ-ギアは,こうして宗教
上の儀式を主眼に組織されたのではあったが,結果においてはまた. 「職
業上の利益を保護する--つの仕組にもなり,また,政i糾(]地位を高めるた
lコ
めの闘争の武器を平民に与えるものともなった」また,そしてコレ-ギア
131
のなかには,選挙母体となり投票を売るようなものもないではなかった。
だが,その本質はあくまでも宗教的集団であった。
ところが,帝政ローマ時代に入ると,さきに述べたようにその惟格を変え
たのであるか,さらにその後期になるとそれは明かに-I-椎のm制加入団体
14)
(Zwangskor poration )となったO すなわち,自由Itlの奴隷化を目
的とする組織になったのである。そして,それは自由民の零溝と奴隷制の
凋落からきた必然的な結果であったともいえる。すなわち農業において,
中世の農奴制の先雛ともいうべきコロヌス(小作人)の制が行なわれたよ
うに,工業においてもコレ-ギアを通じて強制労働を行なったわけである。
コレーキア・テヌイオルムが姿を現わしたのは,こうした変化がまだみ
られず,しかも,コレーギアの設立か甚しく制限されていた時代であるO そ
こで,つぎにこのコレーキアを通じて,古代における共済思想を吟味して
みたいと思うO
(1) Pau卜Louis, ibid., p.151 ; Homo. L. , Political Institutions from
City to State. 1929. p.189; Trenerry . C.F., The Origin and
Early History of Insurance. 1926. p.185 ; Jack, F. , An Introduction
to the History of Life Assurance ., 1912. p.17.
911-
古代における共済思想
(2) Paul-Louis, ibid. p.260
(3) ibid. p.260
(4) Penty, A.J., A Guildsmsn's Interpretation of History 1920. p.31.
世界文化史大系第5巻・ローマの興亡 294頁。
(5) PauトLouis, ibid., p.264
(6) ibid, p.260
ibid. p.261 高村象平r西洋経済史J 50頁O
(8) Burckhardt, Konstantin d. Gr., S.434 (Below, a.a.O. S.656)
(9) Belt)w, a a.0 S.656 .
a 0.S 636
Fowler, ibid., p.45.
Paul-Louis, ibid. p.49
ibid, p.150
(14) Below a a.O.S.656
3.コレーギア・テヌイオルムの規定
ミューラー( Muller )は, 「ローマ帝政時代における保険の萌芽」と
いう論文で, 「保険の萌芽はすでにロ-マ帝政時代にみられる。すなわち,
その制度はまず相当な葬儀を確実に行ないたいという努力から生れたもの
て,細民 Tenuiores),貧困な平民,解放奴隷および奴隷にとっては,
そうしたことに対する充分な用意はどうあってもやっておかねばならない
ことであった。というのは,資力のない遺骸は,大きな墓穴に無造作に投
け捨てられるか,それとも尻体捨場にぞんざいに埋められるかであったか
らてある。そこで,これらの人たちは,そうしたことにならないために納
骨堂を建てて,壁豪や骨壷のために高い費用を支払わなくてすむようにし
ょぅと考えた。かくて,納骨堂か投機師や,あるいは大なり小なりの団体
-12-
古代における共L斤思想
によって共同の費用で建てられたのである。しかし,後にはそれよりはむ
しろ死亡金峰をつくる方がもっと有利だと考えられることになり,広い範
囲にわたって多数の組合が現実に姿を現わした。しかも,時代とともにそ
れは非常な発展を示したのである」 。そして, 「今日でも,葬式の世3'-を
主眼とする昔からの教団( Bruderschaft)のほかに,本来は他の目
的のために設けられた組合が附随的に行なう叱亡金峰か数多くみられる,,
それと同様に,ロ-マ帝政時代にも純粋の死亡金庫と,他の利書の保.I;隻を
行なう組合が附随的に組合員の埋葬の世話を行なう場合とかあり,これら
1)
を区別する必要があるoJと述べ,前者に属するものとしてCollegia
tenuiorumをあげ.後者に属するものとして,小商人,手工業者および
下級官吏の組合をあげている。
このうち,後者に属するものか.これまで述べてきたコレーキアに当り,
それか葬式費用を支弁して,死亡金庫と同様の役割を果す場合を問題とし
たのである。したかって,この場合は手工業者が行なう死亡金庫と考えて
よいo ところで,前者はそうした職業とのつながりかない組合であるっこれ
まで多くの保険学者か保険の原始的形態としてとりあげてきたコレーキア
は,実はこの種のコレーギア・テヌイオルムであったのであるo Lたかっ
て,古代における共7札思想かとうしたものであるかを知るにはこの種のコ
レ-ギアをみればよい。
今E],この種のコレ-ギアとしてその内谷がノ・ソキリとわかっているの
は,西暦133年に,ローマを去る10哩ほどのところにあったLanuviurn
(今日のCivitA Lavigna )とよばれる小都市に設けられたCollegium
salutare cultorum Dianae et Antinoi であるo すなわち,碑文を通じ
てその内谷がかなり詳しくわかるのである。か,このコレ-ギアは,げ引醸
133年1月1E]-ドリアヌス帝(Hadrianus, 117-138年)の治世に,
ティアナ(Diana )とアンティノウス(Antinous )を守護神として,元老
院議官ケーゼン二イウス・ルフス(Caesennius Rufus )の庇護のもとに
-13-
古代における共済思想
設立されたものであって,かれはこれに1万6千七スチルティ(Sesterti)
の資金を寄付し,その利子で,ディアナとアティノウスの誕生日に無音を
開くことにした。いま,西暦136年付の碑文によるとヲ'このコレ-ギアの
規定は大体つぎのようである。
(1)入会金は100セえテルティ Sestertii) であり,これに美酒
一瓶をそえる。そして以後毎月5アセス asses)すなわち,年額
15セステルティを拠出すi"O
(2)引続き6カ月以上拠金を払込まなかったものには埋葬手当金は与え
ないO たとえ,遺言で埋葬手当金の処分を決めていてもそれは支払わ
[son
(3)埋葬手当金は 300セスチルティであり,そのうちの50セステルティ
は葬儀場で供のものに分配される。供のものは徒歩でゆく。
(4)もし組合員がラヌヴイム以外で死亡し,その死亡の場所が町から20
英哩以内にあるときは,その旨の通知があり次第, 3人の組合貝が埋
葬手当金とそれぞれ20セスチルティの日当をもらって,葬式を行なう。
4)
万-・その金を横領したときには,これを4倍にして返還せねばならぬ.
また,もし死亡が非常に遠肺の地で生じ,その通知がなかったときに
は,葬式を行なったものが,そのことを合法的に説明することができ
-すなわち, 7人の市民権をもつものが証明捺印した証明書を提出
すb5」且つ他に何人も,埋葬手当金に対する請求訴訟をおこすも
のかない限り,埋葬手当金額から葬式の供廻りに支払うべき手当と会
計掛-の手数料を差,封いな残りを受取ることができる。
(5)債権者といえども,また解放奴隷の保護者や奴隷の主人であっても,
かれらか相続人と定められていない限りは埋葬手当請求訴訟を起すこ
とはできない。もし,葬式の世話をする義務のある相続人が存在して
いないときには,組合がこれを行なう。
(6)主人がその蚊隷の遺骸を引渡さず,これを屍体捨場に投げ捨てたと
-141
古代における共済思想
きには,相続人または組合は胸像によって形式上の葬式を行なう。
(7)自殺者に対しては,どんな場合でも埋葬手当金は交付しないo
(8)議長,書記および使丁は拠金を免ぜられる。総ての分配に当っては,
議長はその2倍を.また書記と使丁は1倍半のものを受取る。議長は
退職後であっても常にこれと同じものを受取る。
(9)毎年4人のものが組合月表の順序に従って,祭宴長に任命される。
かれらは祭宴のつど各組合員に対して2アツセスのパンと, 4匹の頻
と葡萄酒を混じた温揚,食器および椅子蒲団を提供し,且つ一瓶宛の
葡萄酒を供える。この任務の引受けを拒んだものは30セステルティ
の罰金を課せられ,かれに代ってこの任務を果したものにその費用を
支払わねばならぬ。そして翌年ふたたびその任務を果すべきである。
(10)毎年,特定の祭宴がとくにディアナとアティノウス,それから組合
の保護者およびケ-ゼンティ Caesennii 家の他の3人の人たち
の誕生日に開かねばならぬO そして,その穀初の2つの祭宴に対して
は,前述の寄付金のなかからそれぞれ400セステルティが用いられ,
他の4つの祭宴の場合にも組合員はなんの費用をも支出する必要はな
い。すなわち,これらに対しては祝われる人たちかその費用を準備す
るからである。
(ll)解放せられた奴隷はI-一瓶の葡萄酒を供応しなければならない。
(12)祭宴の席上では, -I.切商売上の用件を話すことは許されないQ
(13)祭宴の席上で乱暴を働いたものは罰金を払わねばならない。
(14)議長は祭掛二当ってt′1炎を居て供物を捧げるべきであるO 二柱の守
.海神の臼には,かれは組合Hに対し食前の抹浴に必要な油を提供しな
ければならない。
以J:述べたコレーキアの規定は,ミューラ-の論文によったのであるが,
この碑文の-・部は,トレネリイITrenerry)の, 『保険の起原および
6)
初期の蛭史』にも原語のままで再録されている。また,かって,わたく し
-15-
'l=・ ト..
1l.、蝣-,IIII..
は故米谷隆二教授か現地で写真にとって帰られたものを見せてもらった記
憶かある。が,いずれにしても,このコレ-ギアでは,前述の手工業コレ
ーギアと違って,奴隷の加入か認められていることに注意をしておく必要
かあるOすなわち,この種のコレーキア・テヌイオルムのなかには,奴隷
の加入を禁じたものもあったか,その多くは,自由民とともに奴隷の加入
1 : -'蝣・・*' 'r 、一/ ∴ 言l :・蝣,: ・・・・・-J-
たOただし,娠細、これに加入するにはその主人の許可か必要であったo
かくて,これらのコレーキアは,同じ階級,あるいは同じ職業に属する人
たちから成立っており,それはとくに下層階級とくに貧相曽根であったこ
とを忘れてはなL-フない。また,組合の大きさもマナマナで,あるコレーキ
- : I ・・ .、 川ii'.・・in.;v-' '・・・ .
-)
:蝣,
!.・蝣・.・ .'、一一1・、ト・f.V<!.."・・
:
・
、
〔注〕
(1) Muller, ¥ , Ansatze zum Versicherungswesen in der romischen
Kaiserzeit, (Zeitschrift f. d. g. Versicherungs-Wissenschart. 1906.
S.209
(2) Muller, a.a.O.S.211 ; Trenerry. C.F., The Origin and Early
H-;tory
of
Insurance.
p.202 Walford・C・
The
Insurance
cyc一opaedia
Vol I. 1870 p.407 ;Braun. H. , Geschichte der Lebensversicherung
und de Lebensvers】cherungstechn】k 1925. . 4
U) Sestertii はト ィ、ソ"託てはSesterzienと呼はれ,ローマ時代のt号幣てある
か :k. An 王ntroduぐtion to the History of Life Assurance,
1921. p.ユ9によれは sestertius を1÷dとして計維しているか,Muller
は100sesterzlenを22MとLているo Lたかって sestertiusを22pfgと
しているo いずれか止しいかは,牛代によって異なると思うか,ローマ後期では
Jackの方か妥当てはないかと思われるO なお, 4asses-1 sestertiusである
から 1asses-遠dとなる。
-16-
古代における共済思想
(4)なお,園乾治氏, 「保険史上におけるコレーキア」 (三田学会雑誌第13巻第11号
121頁)で5倍としているが,これは4倍の誤りである。
(5)この点はWalford.
ibid. p. 407.による
(6) Trenerry, 1⊃id. p. 202
(7) Teenerry, ibid. p. 182.
4.コレ-ギア・テヌイオルムの財政
前述の規定によると,コレ-ギアに加入しようとするものは,入会金と
拠金さえ払えば,特別の資格がなくとも加入は自由であるとしている。か,
これはほとんどのコレーキアにも共通の規定であった。そして婦人につい
ても多くのコレ-ギアではその加入を認めていた。また加入年令について
も別に制限がなかったようで幼児もこれに加入している。もっとも,コレ
-ギアによっては30才以下に加入年令を制限したか,これはむしろ例外的
なものであるo ただし,一組合に加入しているものが他の組合に加入する
ことは許されなかった。また加入したとしても組合員としての資格はいず
1)
れかその選択する一組合についてだけしか認められなかったO
では,これらコレ-ギアの財政はどのようになっていたかo ラヌヴイウ
ムのコレ-ギアの規定によると,組合の財政収入は,入会金,拠金,罰金
および寄付金から成立っているが,トレネリイは,この種のコレーキアの
収入を分類して, (1)組合員よりの収入, (2)投資および取引による収入, (3)
組合員以外のものからの収入, (4)遺贈の四種に分け,詳しくその内容を紹
Z)
介しているO コレ-ギア・テヌイオルムの性格なり,これを支配した共済
思想の本質を知るために重要だと思われるので,いささかくどいとも思わ
れるが,その内容をもう少し検討しておくことにしよう。
(1)入会金
全部のコレーギアがこれを徴収したわけではないが,ほとんどのコレ
-17-
古代における共済思想
ギアはこれを徴収しているO ただし,この入会金収入は葬式費用の支
弁の 部にこれを当てたか,それとも事務的費用に当てたか,それとも
甘夏刊:=当て!=か,臨時費に使ったか,などは不明であるOただし,トレ
ネリィによるとそfLは葬式費用には当てなかった。というのは.その金高
は理薙手当 Funeratia より少額であり,現に前述のラヌヴイウ
ムのコレーキr/'ては,理葬金は入会金の3倍であり,加入後間もなく死
亡LたものJ)理薙費用も毎月の拠出金すなわち,他の組合員からの支払
か;っ賄われてし止か・l'てあるというのであるo Lかし,こうした事実が
あ-,たからとい一一ノて,入会金かこれらの費用に当てられなかったといえ
るかどうかは,なお疑問の余地かないではない。
(2)月II卜拠金
宗教的組合かこの種の拠金をすることを法律上許されるようになった
のは,西暦220年頃マクリヌス帝 Macrinus,217-218年)によって
であり,以後ユスティ帝(Justinus,450-527年)およびバ-シ')ウ
ス帝(Basilius,827-886年)もこれを詐しているか,各コレ-ギア
は,それぞれ内規によって早くからこれを徴収していたo そして埋葬手
当金すなわち,葬式費用はここから支弁した。ラヌヴイウムのコレ一一キ
ー∴、 ・:・.i ∴
・ .二1'
.こ ヤI
I
'i蝣 ・ 蝣・:-.
",!
夫わたはならなかったっ このことはすでに述べている。 LかL,この拠
金の割合はなにによって定められたかは明かでないO前述のコレーキ了
では,手当金に対して毎月晶を課した計算になるか,トレネリイは,こ
れは年5%にあたり, flj子の点を考えなければ丁度マ-サー(Mercer)
およびり'しヒアン Ulpian)の年金表の40才の掛金率に相当すると述
べている2)もっとも,ミュー-ラーは,総てのコレ-ギアが「規則止しい
拠金」をした訳ではなく,むしろ組合によっては「死亡者のあるごとに
賦課金を徴収Lt=」っ たとえはPhilippiのあるコレ-ギアでは69人の
組合Hri,いて,そのうちの.人か9E亡すると残りの68人が各々1テサリ
-18-
古代における共済思想
ゥス denarius)を拠出したと述べている3.)
(3)組合月の埋葬費支弁のための拠出金
上に述べたようにミューラーは Philippi のあるコレ-ギアでは,
死亡者があるごとにこれを只武課したと説いているが,これに対してトレ
ネリイはシーエス(Schiess)は同じPhilippi の他のコレ-ギア,
すなわち Collegium Silvani では, 「死亡組合員の葬式に要する
費用はその全部が組合の金庫から支弁されたのではなく,た・-その一一部
分だけが支弁され,残りは生存組合員が各々そのため1アナリウスづつ
を拠出してこれを賄った」と説いているが,そしてこれを以て月掛拠金
以外の追徴金であるとしている。が,こうしたものがあったとしても,
現在ではただ一つの記録があるのみであるから確定的なものとはいえな
4)
いと主張している。
(4)特別拠金
これは,組合員がその死後,かれの子息,兄弟,あるいは解放奴隷に
対して組合における地位を継承させるために,埋葬手当金の半分を組合
に贈与する場合であって,このことはまた手当金が適当な葬式を行って
もなお余りがあったことを物語っている。
(5)寄附金
組合員による寄附金や遺増は葬式費用とは関係がなかったと考えてよ
く,その性格は組合員外のものからの寄附金や遺増と同じものであった。
(6)罰 金
前に述べたラヌヴィムのコレ-ギアでは,組合員が他人の埋葬手当金
その他を横領したり,無宴の義務を怠ったり,或いはその席上乱暴を行
なったときの罰金の規定を設けているが,同時に組合役員の槽職や月掛
拠金の延滞に当っても罰金の制度があった。
以上は,組合月からの収入の種類である。が,このほか,組合月以外の
ものの寄附金とか遺贈もまた収入として大きな役割を果した。このことは,
-19-
古代における共済思想
前述のラヌヴイムのコレ-ギアの規定がこれを明かにしている。ところが,
それ以外,これらのコレ-ギアでは,その資金を投資して利子を稼ぐこと
を許されていた。すなわち,抵当貸付によって,農企業その他の事業へ参
劃したり,さらに奴隷を購入使用することで利潤を得ることもできた。
また,非組合員に対して組合の納骨堂 Columbarcum]に納骨を許す
ことによっても収入を得ることができた。
いずれにしても,ラヌヴイムのコレーギアの規定をみてもわかるように,この
柚のコレーギアでは,組合員中に死亡者かあるときに,埋葬手当金を支給
することを目的としたのであるが,コレーキアの中にはこれと併せて
組合E.車用の墓地に葬るとか,あるいは遺骸を火葬し,これを共同の納骨堂
におきめることをもり的とした。もちろん,なかには理葬平の単に-一部し
6)
か支給しないものもあったし,納骨堂の建設は組合H以外の寄附金でこれ
を賄 ノ/二。
〔注〕
tH ' renerry ibid 183
L'; lhid p 190
IV) i「id. 191 なS-S, Trenerryの場合は全部英語て示され Marcian
220年ころ Justinian (540年, Basil (870'†ころ)とちっており,ユ
'lティ二アンの蝣f一代もいささか興っているへ
4) Muller a a 0 S. 213, お,トイソ語でDenarenはdenarius
の複数denarll を意味するか, 1デ十りィウ久か現/I:の貨幣にしてとれ位かにつ
いて.'iりKm蛇かある。通常は, 9号ペンスとされているか Mullt は88ペ二/亡
としている.i/-Jackは4sestertii-1denarui、としているから7ペンスと
tiる わf=く Lはこれに従うのかよいと思う。
(5) Trenerry. ibid ・ 192
(b) Trenerry, ibid. 195
-20
子.-代における共清思想
ところで,トレネリイは以Lのことを根拠に,これらのコレーキ了の保
険的性格を強調し,これを今日の其謝fLlナ Friendly Society)と
同一の組織たと述べている。
そしてトレネリイは,組合員以外のものからの寄附金は,特に指定さオし
ないかぎりは,組合員の理非資金には充当されなか?-< も-,とも, J再←
査金か不足の場合には,これを使用したかもしれないか,かかることを小
す記録は見当らないo すなわち,寄附金は納骨堂の建設費に当て;'れ,ま
た多くの場合には,組合員の疾病または, 「不運に遭遇Lた」ときの手当
金に当て 7)したか-ノて,その点からみても.それは圭さに冊糾合L二、1
ると辻へている,,
しかし,非組合員の寄附金か理非査金に対する拠金てなか-ノたこと:ii
・ 一.' ・ こ. ∴ !蝣'一
を鮎離IL合と同・視するのはとうかと思うO それにこう したトレネリイの
主薬はMarguardtやWescherの説にioたものてあるか,二の純の告
附金は結局は宗教的祭典の費用に当てることを目的としたものてあ-ノfHの
であって,このことは前述のラヌウイムのコレーキアの規定をみていn;ラ
かであるのであるから,二の説にしたかうわけにいかない,すなわち,二
れらのコレーキアはあく までも宗教的なものに重一'.'.'蝣二をおし-[=ものてあって,
共済事業を主眼とするものではなか-Jt-からであるC
トレネリイはまた,墓地や納骨堂の建設だけを[川F・)としたコレ-ギアか
存在したかのi:うに説いているか,そう したことかあってもそれは附随的
業務として行なわれたのであるr そして,もしかりにそう した砦叔たけを
f川'Jとするコレ-ギアかあったとしても,それはここで間越とするコレー
キアとは興るものである。
また,トレネりイは,コレーキアの保険的性格を強調する[=めに上'tl一葬手
当金(Funeraticium)の字義を論じ,それか常に「Money fcJr Funeral
expenses」でなかったことを細まごまと述べている。
-21-
古代における共済思想
そして前述のラヌヴィムのコレ-ギアの規定が葬式費用の割当てについて
厳密なことを定めているのはその証拠であって,埋葬手当金の金額を決め
ていることは,死亡に当って一定の金額を給付する「今日の簡易保険の保
8)
険金」と全く同じことを意味するとさえ述べている。しかし,埋葬手当金
の金額が一定であったからといって,これと保険金と同じであると主張す
るのは間塔である0
.-いずれにしても,月掛拠金による組合の収入は,結局,組合月の埋葬費
に当てるためのものであり,死亡保険金に当てるためのものではなかった。
そして,その金額がたとえば300セスチルティであったとしても,それは
葬式費用の当時の最低額であった。すなわち 300セステルティは75アナ
リィに当たるが,ミューラーによると,あるコレ-ギアでは130人の組合
員が葬式のためには 225デナリィの費用を使い,またあるコレーキアでは
解放奴隷のための葬式費用に490デナ))ィを賛している。 300セスセルテ
ィがかなり低い金額であったことは明らかといわねばならないo
かくて,われわれは,コレーキア・テヌイオルムの性格を埋葬費組合と
認めるとともに,これを支配した思想はまさしく宗教的なものであったと
主張したい。したがってまたそこでみられた共済思想は,なによりも勝れ
て宗教的なものであり,しかもそれは寄附老およびその家族に対する従属
的関係から生れていたことをも忘れてはならない。
〔注〕
(7) Trenerry,ibid. p. 194
(8) ibid.p. 196
19) Muller, a. a. 0. S. p.213
5.軍 人 組 合
前述のように,ロ-マ時代のコレ-ギア・テヌイオルムは埋葬手当金を
賄うための組合であって,その資金は煉別として埋葬費以外には使用する
ことを許さなかっf=。ところが,このほかにいま一つ,退職に当って一定
-22-
古代における共済思想
の金額を支給し,また死亡に当って埋葬費ないし遺族の生活費に当る金額
のものを支給する組合があった。そして学者によっては,コレ-ギア・テ
ヌイオルム以上に今日の生命保険に近いとする制度であるだすなわち,翠
人組合 Roman Military Society がそれである。
第二のネロといわれるコンモヅス帝の死後,ローマ帝田は衰運に向うと
ともに,皇帝の権力は次第に弱くなり,セプチミウス・セヴェルス帝(
Lucius Septimius Severus l93-211年)が軍隊から推されて帝
位につくや,軍隊を優遇して元老院を抑えた。その結果,軍隊は故底し悉
ままに皇帝を廃立するなど,いわゆる軍隊政底時代が一世紀の長きにわた
って続い迂:この時代,とくにセヴェルス帝およびその長子カラカラ帝
3
(Caracalla, 211-217年)の時代に現われたのが軍人組合である。
この軍人組合が支給した手当金や徴収した拠金については,各種の説が
あってその内容は明確でない。たとえば,これらの組合のなかで,西暦
203年にLambaesis に設けられた刷r^手(Cornicines)のコレ-ギ
アは,その碑文に脱字が少くないのでよく引用されるが,碑文の解釈につ
4)
いては諸説がある。たとえば,トレネリイによると,この組合は36人(リ
ーベナムは35人とする)の組合員からなり,入会に際して入会金として,
750デナリィを支払わねばならぬ。もっとも,新しく兵士に補充されたも
のは,これより小額でよかった。組合員はこのほかに,毎月拠金をしたよ
うであるが,その内容は不明である。この拠出に対して,組合はまず第一
に,組合員である軍人がその任地を海を渡って他に転ずるときには,旅費
として歩兵には200デナリィ,騎兵には 500デナリィを支給する。また無
事任務を終えて退役すると 500デナリィを支給し,上級に昇進した場合に
も同じく 500デナリィを支給する。また死亡に当っても相続人に 500デナ
リィを支給した。そして,免職の場合にも 250デナリィを支給した。トレ
ネリイはこのほかに,特権によって拠金の一部が免除されることもあり,
その場合にはそれに相当した金額が支払われたと述べ,さらに「必要な加
-23-
古代における共済思想
入金を支払った日から所定の割合で拠金をする新兵は,その支払った金額
に比例して計算され*5 金額を受取ったとしているQ
以上は,トレ4-リイの解説によったものであるが,その見方は学者によ
ってマナマナである。たとえば,前述の750デナリィの入会金についても,
トレネリイがこれを入会金と解釈しているのに対して,コーン Cohn)
6)
はScammariumという言葉は,本来は銀行通貨 BankgeId を意味
し,これを入会金と読むのは妥当ではない。ことに 300デナリィの俸給し
かも:,わぬ兵士が 750デナリィもの金を入会に当って支払うことができる
かどうかは問題であるO むしろ Scammarium は軍役に服する全期間を通
じての拠,4J金の総故であってこれを分割して払込んだと解釈すべきであるO
その証拠に,マ-シイアンは,軍人組合では毎月の拠金が必要だとしてい
7)
るか,そこからも推定ができると述べているo もっとも,こうしたコーン
の解釈に対して, 『ローマの組合制度の歴史と組織』の著者l)-ベナム(
Liebenam)は,それでは手当金の割合が余りにも大きすぎる。それに
組合員の人数も少なかったのであるから入会金が高かったとしても不思議
8)
はないとし, 「毎月の支払はこれとは全く別であったに違いない」と主
張している。また,ミューラーは,これを入会金とは認めるべきであるが,
それか一一時に支払われたか,数回に分けて支払われたかは不明であるO 「
多分数剛二分けて支払われた」のではないかと述べている.この点,ジャ
10
/クも同じ見解をとっている。さらにカニヤー(Cagnat は,碑文を
みると,新に兵士に補充されたものが任意に組合を脱退する場合には,す
でに払込んた掛金から組合が必要とした費用を差引いたものを払戻す規定
が鰯,。この個条で読めない個所をモムゼン Mommsen)に従って解釈
するとScammariumという言葉は,入会金と毎月の掛金との両者を意味
すると解するのが妥当であるとし,ワルツイン(Waltzing もこれに
11) 1さ
同意している。しかし,リーベナムは,この個条の解釈は「極めて困難」
であって,ここから上述のような解釈がでてくるかどうかは必ずしも明確
-24-
古代における共済思想
ではないとする。
このようにして Scammariumという文字の解釈をめぐってもいろい
ろの説があるが,結嵐 入会金のほかに毎月の掛金が行なわれたか,それ
とも前述の750デナリイが毎月に分割して払込まれたか,いずれかであっ
たとみることができる。いずれにしても,拠出金についてはこのようにし
て不明の点が多いのに対して,給付の方は比較的-ッキリしている。しか
しここでも組合員の死亡の場合に遺族に対して支払われる 500デナリィと
退役軍人に払われる 500デナリィの性格については解釈が一致していない。
たとえば,ポワシイエ Boissier マールクワ-ルド(Marquardt)
カニヤー, モムゼン,ワルツイン等は,死亡に当って支払われる金額は,
埋葬費の支払いに当てられるペきだという明確な理解の下に,支給される
ものであると主張し,とくに,ワルツインに至っては,退職軍人に支払わ
れるものも常に埋葬組合に加入するための費用にあてられるべきものであ
主u
ったとしている。しかし,リーベナムやゲバウア- (Gebauer を始め,
トレネりイ等はこれと全く対昆庶的な見解をとる。
すなわち,トレネリイは,ワルツインは埋葬に関する法律上の要請,そ
の他を根拠として,上述のような主張をしているが,もし死亡に当って支
払われる 500デナリィが埋葬費のみに使用されるべきものであったならば,
その旨の規定がある筈である。また支払いはFuneraticium (埋葬手当
金)として規定されるべきである。にもかかわらず,実際はなんらこの
金額の用途についての指示かない。また,もしそれが常に葬式費用にのみ
当てられるべきものであったならば,免職の場合に支給される 250デナリ
イもまた葬式費用に当てられるべきであり,その金額が減額されている
のはおかしい。また退職の場合でも,当時の法律によると,現役軍人の方
がその財産や権利をより尊重されたのであり,その結果兵士が46才になっ
て予備役に編入されるときには,なんらか他の方法でその収入を補足する
必要があった。したかって,その意味では,退役軍人は,支払われた手当
-25-
古代における共汎思想
を埋葬組合の入会金に当てるよりは,もっと有利な事業に投資することを
望んだに違いないo もっとも後述のように退役箪人のみを組合員とする埋
葬組合があったところからみると,多くの場合,退役軍人がこれに加入し,
おそらくはかれが退職に当って受けとった金をその入会金に当てたであろ
うと思われるが,そうだからといって,退職の場合に支給される 500デナ
りイそのものか埋葬費を意味するとみるのは,いささか行きすぎた説では
14)
ないか。トレネリィはこのように述べている。
またゲヴァウワ-は,当時,軍隊のなかには,それぞれ特別の埋葬金席
が存在していたのであるから,死亡に当って立給される軍人組合の給付は,
理外費引細Jとするものではなく,むしろ,今日の生命保険と同様に遺族
のF仁清保障を目標とするものであったとみるべきだO すなわち,その
金納か一定Lていた点は今日の保険とは昇るか,しかし,給付そのものに
ついては, 「遺妹か金を必要とするかどうかを問わず,かれらに遺産を残
したものの叱亡で無条件に 500テサリィを遺族に支払われた」のであって,
その点は今Hの&命保険と変()はないO また20年の兵役期間を終って退職
するときにも,死亡に当って遺族が受取るてあろうものと同 一纏を受取る
のであって,この点も今日の生奇保険と同じ根拠にV.っているO ただ問題
は,その金納か「比較的」に中綿であ-'たことである。しかし,これは
「多くの点において,なお技術的膿礎か甚しく貧弱」てあったので,そう
Lf=・in屯なやり方をとらねばならなかっf=からであろう。それに,組合は
叱亡保険のみてはなく,同時にまた, 「損害保険に近い保険部門」を営ん
でいたことも忘れてはならぬ。すなわち,海外へ転職の場合の旅行手当に
相、上げるものや,免職の場T<n手当を払っていた。そして,免職の場合は
肉体的または粍神上の理由からその職に止ることかできなくなった場合か
iiてあって,これには傷害保険や廃疾保険に似た機能かあったといってよ
いoつまり,給付金織か比剛勺小紙であったことは,これら各種の保険か
仙
あったからとみるべきたoこのようにゲウアウワ-は掛、ているのである。
-26-
古代における共済思想
〔注〕
(1) The Historians History of the World. Vol. V.I. Early Roman
Empire. 1908. p.387 世界文化史大系第5巻・ローマの興亡, 44頁, 282頁。
(2) Muller, A.. Ans邑tze zum Versicherungswesen in der rbmischen
Kaiserzeit. (Zeitschrift f.d.g. Versicherungswissenschaft 1906.
S.216
(3)粟津博士論集第6巻r生死論J 5頁(Van Schevichaven, Vom Leben und
Streben 1898
(4) Trenerry.C. F. , The Origin and Early History of Insurance, 1926.
p.210 ; Jack, F. , An Introduction to the HistoryofLife Assurance,
1921. p-24 ; Liebenam, W. , Zur Geschichte und Organisation der
Rbmischen Vereinswesen, 1890. S. 306
(5) Ternerry, ibid. p.211
(6) ibid. p.24, 211
(7) Cohn, Zum romVereinsrecht. S. 133(Liebenam, a.a.O. S.307による)
(8) Liebenam. a.a.O.S.307. なお Gebauer, Die sogenannte
Lebensversicherung. 1895. S.40 もこれに倣う。
(9) Muller, a.a.O.S.217
Jack, ibid. p.24
(ll) Cagnat, R. , L Armee ramaine d'Afrique et I'occupation militare
de L'Afrique sous les empereurs. 1892. p.470 (Trenerry, ibid. p.211
による Trenerry, ibid. p.211 , 216
(13 Liebenam, a.a.O.S. 309
(IS Trenerry, ibid., p.212
(14) ibid. p.212
(13 Gebauer, a.a.O.S.43
9サS
il 代におけるJh猟思想
6・退職軍人の埋葬組合
このようにして,ローマの軍人の組合については,いろいろの考え方か
あるが,死亡の際に支給される 500テナりィや退職に・",-,て支払われる
500テナリィをもって[ftちに理非手当ないし伸葬組合に対する入会金に見
合うものだと解釈することはいささか早計であると思う。その意味では,
トしネリイやゲバアウァlの説の方か妥当であると思われる。しかも,ト
レネリィ.まこのなかで,無事に仕期を終ったものか退役するに当って支給
されti 500デナリ ィは・時金でなく年金であったという説をM&起してい
・
るハ
すなわち,トレネl)ィによると,退職者に支払われtz 500テナリ ィは,
「namine anularium」でなされるとあるか,このanularium O岩
:f大の貸幣)はおそらく annualiurn (年金)の誤りではなか-'たかと思
われる。というのは, (1)ラテン語では1 II.鉦丈のみではなく普通文ても譜守
の省略,変位かしばしは行なわれる。また無知な人たちの多かった-"',H古の
'両家のなかては恐らくこうしたことはありうることである(2)婦人組合以
外の組合で行なわれていたと同じ割合で,入会金以外に毎月拠金をしてい
たとすれ:ま管理さえよければ年金を払うことは「分にてきT=であろう。 (3)
こ:)した支払いは1月l tlにたけ行なわれたのであって,二のJL]二は他の手
当の・場合と異っている(4)anulariaという言葉にはfuneratica とな
んらかの関係かあるとする根拠はない。 (5)拠金は前述のような支払いにし
か用いられなかったとすれば多くの剰余か生ずる、二のような5つの埋山
かJっ,トレネリイは退職者-の支払いは年金と解するのか妥当である,と
いうのである。もっともトレネリイは, 「しかし,この仮説は必らずLも
これを力説するというのではなく車にそう考えるにすぎない」 。そして,
「もLこの説か正しいとすれば,これらの軍人組合は,組合員の生廿のな
かで生ずるある危急の場合にのみIi>ずるための資金を準備するためのもの
28-
古代における共済思想
ではなく,年金の資金を準備することを主眼とするものであったというこ
2)
とができる」と述べている。
しかし,トレネリイか年金説の根拠としてあげる第1点は,全く聴説で
あって,ここではむしろanularium 環状貨幣)かどういう意味のもの
であったかを吟味する必要がある。この.&でリーベナムは-ッキリしてい
ないが,ともかくセヴェルス帝以来の軍人は指環をはめていて,それで氏
名を明かにした。しかしそれが金筋を意味したとは考えられない。ただし,
当時の出納奉行 Quastor )か退役軍人にannulariumを払ったという
記録があり annularlum をもって退役軍人に対する「補助金ないし補
E
償金」と解しても誤りはなかろうとしている。トレネりイはまた,この
annularium の支払いだけか1111Hに支払われたことをあげ,年金説
の根拠としているかそれだけで年金だとする根拠にはfJ:らないO また,め
ニヤーやワルツインのようにanulariumとfuneraticium との間には
関係かあるとする説はとるに足らなし-とも述べているか,そのことか
anularlumを年金とする根拠にはならない。もっとも,もし軍人組合の
拠金か前述の 750テナリイの入会金以外のものであり,その計算か軍人組
合以外の組合で行なわれたと同じ割合のものであったとすれば 500デナ
リィを年金で支払ったと推定しても妥当と思われる。か,拠金は入会金の
みであったかどうか。すなわち 750デナリイの入会金のみが毎月分割して
支払われたのか。それとは別に拠金かあったかさえ不明であるから,トレ
ネリイの年金説が妥当であったと判断することはまず不可能に近い。
しかし,ここでわれわれか問題にする必要があるのは,軍人組合では,
一時払であれ,分割払であれ一定の拠金をさせた。そしてそれに対して軍
人の死亡および満期退職のとき,等しく 500テ、ナリイを支給した。それは
あたかも今日の養老保険に類似しているということであるO そして,それ
を通じてみられる共胤思想の性格である。
このほかゲバウ7-の指摘する旅行手当も問題になるかも知れないo ま
-oq
古代における共構思想
た・廃疾による免職者に対する手当なども問題となるかも知れないが,ミ
ューラーも述べているように,旅行手当は短めて稀れにしかみられなかっ
4)
たoのみではなく,この規定に関する部分については碑文のなかでも脱字
5)
が多く,その解釈もまちまちである。さらに廃疾による免職者に対する手
当についても,ゲバウアーやコーンの指摘するように,これが廃疾による
免職の場合についてのみの手当であったかどうかさえ-ッキリしていない。
6)
そして,ミューラーのごときは,逆にこれらの手当はむしろ, 「不名誉な
7)
免職」の場合の手当だとしている。とすれば,保険との関連では余り問題
にはならないと思う。
ただ軍人組合について一言しておく必要があるのは,前述のような軍人
組合とは別に,退職軍人組合 Veterans'societies が存在してお
り,この場合はコレ-ギア・テヌイオルムと全く同じ目的をもち,明かに
埋葬組合としての性格をもっていたことである。この種の組合はマ-シア
ンの時代までは法律上その存在を認められていたが 220年ごろになると,
「退職軍人が宗教にかこつけて,あるいは析誓を実現するという口実で組
合をつくること」は禁止されるに至った。そしてこの禁止令は,その後6
世紀にもユスティニアヌス帝Justinianus,483-565年)によってさらに
確認されている。しかしこの退職軍人の組合は,前述の軍人組合が存在し
ていた時代にはこれと併有して,埋葬組合としての槻能を発揮していた。
そLて,そうしたことがあったので,カニヤ-やワルツイン等は,満期退
職の軍人への給付を一種の埋葬手当,すなわちこの退職軍人の組合-の入
会金だという解釈をとったとも考えられる。
では,こうした組合の存在理由はどこにあったか。これについてトレネ
リイはつぎのように説明している。すなわち,軍人は30年間一般市民との
交渉をたたれ,軍役に服するわけであるから,退職しても民間人との交渉
はうまくいかない。その上に退職年令は最も低い場合でも46才である。そして,
この年令以上でないと民間の組合に加入できない。が,健康は年令の関係で
-30-
古代における共損思想
平均以下であるo ところで一般のコレーギア・テヌイオルムにしてみれば,
老年になって加入するものについても入会金や拠金の割合は同一一であるか
ら,こうした人たちの加入は財政的にも負担が非常に多くなるO そうした
ことかあるので,一般のコレ-ギア.テヌイオルムでもすでに一言したよ
うに,組合によっては加入年令を30ノかに限定したところもあったのである。
また,年金によって入会金や拠金の割合をかえた。 46才の退職軍人にもこ
れとr61様の措置をとる必要かあるO Lかしこのことは,面倒なことであるo
そこで 般のコレーギア・テヌイオルムは,かかる軍人の加入をよろこ
ばなかった。退職婦人のみの組合かできたのはそう した理由からだとトレ
8)
ネリイは説いている。
いずれにしても,この椎の退職軍人組合はコレ-ギア・テヌイオルムの
Il.椎であり,組合の管理,役員,拠金,共同墓地の所有などの点でt,相似
91
していた。ただ資料となると極めて少ないO そして,組合員の数について
ち,ある組合では12人,ある組合では47人というように,マナマナであっ
Hサ
たと伝えられている。
もちろん,退職軍人のすべてかこう した組合に加入したわけではなく,
なかには-一般の組合に入会したものもあった。そして,その埋由は明かで
はないが,いずれにしても退職軍人の組合の数はそれほど多くはなかった
ようである。アJレキン Halkin によると,イタリーに8組合,その
什
他で8組合,合計16組合にとどまったといわれているo そして,この数字
にくらべるとコレーキア・テヌイオルムの方が遥かに多かったといわねほ
ならぬLl
〔注〕
(1) Trenerry. ibid 214
(2) 】bid p. 218
(3) L.iebenam, a. . S. 308
(4) Muller , a. a. 0. S. 217
-31-
古代における共済思想
(5) Liebenam,a. a.0.S.307; MuHer,a. a.0.S.217 ;
Gebauer, a. a. 0. S. 41
(6) Cohn,a. a. 0. S.131 (Liebenam, a. a. 0. S.309 による)
(7) Mu Her,a. a. 0. S. 218
(8) Trenerry, ibid. p. 204
(9) ibid. p. 24, 204
ibid.p. 207
(1!) ibid.p.207
7.コレ-ギア・テヌイオルムとその宗教的性格
上述の軍人組合のうち,退職軍人の埋葬組合は別とすれば,軍人組合そ
のものの万は埋葬組合ではなかった。死亡に対して支払われた 500デナリ
ィも必らずLも埋葬手当でなかったと一応はいわねばならぬ。しかし,こ
の軍人組合の目的クミ結局は「埋葬式を行なうことに不安のないようにする
こと」を第一としていたことはこれを否定できない。それにジャックも指
摘しているように?軍人組合の場合には,軍人は生涯に一度か二度の進級
に当り,相当の金を準備しておかねばならぬ。また,普通人と異って,級
身その会員となることはできぬ。昇進,転任あるいは退職に当って組合を
脱退せねばならぬ。かかる特殊事情から進級,転任,あるいは退職などに
当って特別の手当を支給したのである。したがってこれらの手当は結局,
軍人組合からの脱退手当を意味するとみることかできる。とすれば、この種の
組合の主目的が死亡手当であったことは確かであろう。そうみると 750デ
ナリイは結局拠出金の全額であり,手当金の 500デナリイは年金でなく一
時金だということにもなり,それが埋葬費以上のものでなかったと解釈し
てもよいことになる。そして,実際そうであったであろうことは,コレギア・テヌイオルムの埋葬手当金の金額と比較してもほぼ想像ができる。
ただ異るのは,コレーキア・テヌイオルムでは,明確にこれを埋葬手当金
-32-
古代における共済思想
と規定したのに対して,ここではこうした規定がみられなかったというこ
とだけのことである。そこで,カニヤーやワルツインはそれが埋葬手当金
であったと断定するわけである。
もちろん,さきにもふれたように,明確に埋葬手当金と規定していたI-I
般のコレ-ギア・テヌイオルムについてさえも,それか埋葬組合ないし死
亡金庫であったことを否定するものがある。
たとえば,ローマ史の権威といわれるモムゼン(Mommsen)は,コレ
-ギア・テヌイオルムは単なる埋葬組合ではなく,埋葬のほかに広く相互
2)
扶助事業を行なった組合であるとし,また,レ-ニッヒ Loenig)もコ
レ-ギア・テヌイオルムは「あらゆる種類の相互扶助を石なう下層階級の
組合」であって,柁葬組合であるCollegia funeratica はその一一柏にほか
3)
ならないと説いている.またl)∼-ナムもコレーキア・テヌイオルムは
「理葬を目的として許された」ものであるが,そのことが組合の唯一・のH
的ではなかった。 「むしろ,普通には,さらに広く,傷害および疾病のた
4)
めの扶助金庫として自助に基いてつくられた組合」であった。 そして
Collegia funeraticaにしたところで「実際は扶助組合(Unterstii'tzungs
vereine であるかぎり,単にその人についてのみではなく,またその家
5)
族や寡婦に対しても,その保護に当るのは当然である。 」と述べ,さらに
6)
funeraticium (埋葬手当金)もむしろ 一般に「遺族に対する扶助金」と
解するべきだとする。
このようにfuneraticium を単に「Money for funeral expenses 」
とみなし-で広く「保険金」とみる考え方は,リーベナムのほかゲバウアー
7
もトレネリーも同じであるo Lかし,わたく Lは,この見解に同意できな
いことはすでに述べたところであって,この点に関するかぎり,わたく L
は,むしろカニヤーやワルツインの説に従い, funeraticium という言葉
は埋葬手当金と解すべきだと考える。それに事実上,コレ-ギア・テヌイ
オルムはCollegia funeraticia であったのであるから,これを一般的な
-33-
I'i代における共済思想
相互扶助組合と理解するのは妥当でないと思う。
ところで,トレネリIはさらにまた,コレーキア・テヌイオルムでは,
掛金のほかに,組合員以外からの寄附金で組合員の疾病とか「不幸にLlj会
った」ときの手当を支給したo そしてこの点からみてそれは今日の共済組
合と変りはないと説くのである。しかし,もし手当金が寄附金によって賄
われたことが事実であるとすれば,そこに相互扶助的なものを求めるのは
むしろ当らない。しかも,この非組合員からの寄附はむしろ,寄附者やそ
の家族の冥福を祈らんがための宗教的祭典の費用を賄うことを主眼とする
ものであっナ-,のであって,組合員に対す不幸なときの手当は,その意味で
は--一種の施しものであった解すべきであるO もちろん,中世以後の共済組
合が本来の相互扶助ということのほかに雇主や田の補助をうけたことは事実
であるが,それとこれとはその性格を異にするo すなわち,後者の場合は,
労務管理とか社会政策の必要上行なわれたものであって,単なる施しもの
ではなかったのである。
しかも,月掛拠金を前提とするかぎりコレ-ギア・テヌイオルムは結局,
組合員の埋葬を目標とするものであり,他の各椎の事業を併せ行なったと
しても,それは第二次的なものであったことは,殆んどの学者が・致して
認めるところである。そしてこのことは前述の退職軍人の組合の場合にも
当てはまる。ところで,こうした埋葬に対する経済準備は,その基底には
宗教上の要請と結びつくものであった.コレ-ギア・テヌイオルムでは,
組合の発起人の寄附金は宗教的祭典のために用いられ,さらに墓地,納骨
堂の建設のために用いられた。これらのことがこのことを何よりも明確に
8)
物語っている。そして,この点こそ,古代の共済思想の本質を知る重大な
鍵といわねばならぬ。
それにいま一つ,コレ-ギア・テヌイオルムにしても,軍人組合にして
ち,その構造はある特定の階級を前提とする身分的団体であった点を留意
しておく必要があるO すなわち,コレ-ギア・テヌイオルムは.同-一階級
-34-
古代における共済思想
ないし同一-職業に属する人たちによって構成された集団であり,しかもそ
れは下鵜那皆級というよりはむしろ貧民階級に限定されて組織されたO そう
であればこそまた紋隷の加入さえ後には認められることになったのである。
その上にそれは単純な棚花扶助集団ということよりはむしろ寄附者との従
属的身分関係を前提とするものであったことも忘れてはならぬ。
そしてそれを前提に宗教的なものと結びついていたのである。
この点で,オトンネル(Terence 0 Donnell )はつぎのように説いて
いるO すなわちIJl一代ローマの埋葬組合,とくにコレーキア・テヌイオルム
は, 「他のコレ-ギアの多くが貴族および上層階級の人たちをその組合員
としたのとは異って,下層階級の人たちによって組織された」。そして,
初期のキリスト教徒たちは,しばしばコレ-ギアの仕組をかれらの集会に
対する つの防衛として利用した。そうでないと集会が許されなかったか
9)
らである.理葬糾合の仕組はすでに西暦前3世紀から2世紀にわたってギ
リシアおよびギリシア群島の各地.たとえばPiraeusやRhodes その他
にみられたO そして, Rhodian 海上法は間接的にはこの仕*Rにf'Lうとこ
]げ
ろが多いと思われる。当時の埋葬組合はEranoi または Thiasoi とよば
れ, 「相当立派な葬式の費用に応じ,また寡婦や孤児の必要に応じるため
の仕組」であった,ところで,この説明のなかでとくにわたく しの注目を
ひくのは,原始キリスト教徒かこれを利用したとしている点である。とい
うのは,エンゲルスの「原始キリスト教史について」という論文にはつぎ
のような言葉がみられるからである。
「原始キリスト教史は近代労働者運動と著るしい接触.L:土を有している。
近代労働者連動と同じく,キリスト教はその起糠においては被圧迫者の運
動であった。キリスト教は奴隷及びそれよりの被解放者,貧民及び無権利
者,ローマによって圧服され引き裂かれた諸民族の宗教として先づ現れた0
l血i者,キリスト教並びに労働者社会主義は隷属及び貧窮からの正に釆らむ
とする救済を説くO キリスト教はこの救済を死後における彼岸の生活jLJち
-35-
lL,代における共済思想
・I'・ヽ .
'-I . .
.
・
両者は舶二さjLl追いfT-て;,れるCそ琳接は法律ノ'保<Aを脊:iれ,仰十
法規のトにftカ,れる, --,は人相両/Iとして,他は値柄軋,,六教のik'i,
・
・・
I
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I* - . . ,-(
・ ・ _I
:二も拘;,ず,い4-L'・Lろ迫書に依一ノて両射二促止されて,酎単二充ちて不
・.
'
.
,
! ・..、 - ・.‥. 、- ・ ・
t ‥ 、 !
.
・ ふ'
'
‥
"蝣.・,***4
11)
I_:・地!>''. il ''自:,h 七・ ∴ -=IT. ′_I
もちろん,コレ一一キアー′テヌイオルムのすへてかキリスト教と結びっく
ものでなLいことは,前述のラ二イウウムのコレーキアをみても明らかであ
る。しかし,いずれにしても,当時のコレーキア・テヌイオルムか宗教的
要請にもとづく団体であるとともに,また被rT_追者の集団であ-,たとい:)
二とは,当時の共胤臥想をみる上に見逃してはならないことである。前述
のエンゲルスの論文は,また p:太左・るローI-マの世別).1家に対する個々の
十什!iU;よこし恥蝣h---「- ∴1、IA'i-ユ・ト、・-'-.''. 、なか ′∴ -1.r ilい11.帆
隷,被塙白老及び貧窮者のための一一・つの助け,相互に未知の或は全く反せ
る利害閲係を有せるすべてのこれらの純々の人間集川の1.つの出口,はそ
もそもいつ二にあ-j tZか。かかるものが発展さるべきてあJ)とするならば,
哨・の大革命的運動かそれらのすべてを包含すべきであったC 」か,そう
したものは現実化せず,現実にあ-,たこのLLIH」は「この世に於いてではな
い。当時の状況ではそれはた・ナ宗教的な出目でのみあl雄阜たのである。そ
こては他の-世界は排除せ;,れる,肉体の死後に於ける精神の継続的存在
Iご
はロ-マ世界のiミるところに於いて漸次に認められた信仰信条となった」
と説いている,コレーキア.テヌイオルムにおける共済思想かどう したも
のであるかを知るためにも,まさに・つの示唆を与えていると思う。すな
わち,当時の共嵐思想は,偶人の相互扶助の精神というよl)は,むしろh¥
迫者からうける圧迫を神の手によって救おうとするものであり,そのた
Mうー
古代における共済思想
めに埋葬を中心とする相互扶助の集団となって現われたということができる。
〔注〕
(1) Jack, F An Introduction to the History of Life Assurance,
1912, p. 26.
(2) ibid, P. 25
(3) Loenig, Geschichte des deutschen Kirchensrechts. 1 , S, 205
(Jack, ibid. P. 26.による).
(4) Liebenam, W- , Zur , Geschichte und Organisation des
Romischen
Vereinswesen・1890.
S.
40.
(5) 0. S. 174.
(6) a. a. 0. S. 308
(7)
Gebauer
,
M.
,
Die
sogenannte
Lebensversicherung・1895.
S.
39;
Trenerry. ibid. P. 195.
(8) Muller, A . Ansatze zum Versicherungswesen in der
romischen
Kaiserzeit
(Zeitsbrift
wissenschaft 1906 蝣 S.
(9)
0ノDonnell
,
Terence,
f蝣 d.
g.
Versicherungs-
213)
History
of
Life
Insurance
in
its
For-
mative years, 1936. P. 54.
ibid, P. 52.
(ll)改造社版,マルクス-エンゲルス全集第13巻463頁。
(12)同l二 476頁O
もっとも,軍人組合の場合は事情はいささか異っていた。すなわち,こ
の種の組合には二伸類あって,一つは同一一階級の軍人の組合であり, -一つ
LD
は同-一一連隊その他に属する各種の階級の軍人から成立っていた。前述の
Lambaesis の噴I]DA手 Cornicines )の組合は前者に属する.いずれに
しても軍人たる資格を加入条件とした。そして,この種の軍人の組合を任
意組合として組織することが認められたのはセヴェルス帝 193- 211年)
-37-
古代における共済思想
・の時代であって,それまでは士官の組合は別として普通の兵卒の組合は禁
止されていた。それをセヴェルス帝の軍隊優遇政策が兵制の改革とならん
でこれを認めることにしたのであるが,すでに述べたようにここでも宗教
とのつながりがあったと解釈すべきである。
しかし,いずれにしても,当時の各種のコレーギアとくにコレ-ギア・
テヌイオルムや軍人組合にはある程度の共済思想はみられたといわねばな
らぬ。といってもそこにはすでに保険思想が見られたということにはなら
ない。というのはこの組織は技術的に保険といえるものではなかったから
である。ところがジャックやゲバウァ-は,これを今日の保険と同視する
考え方をとる.すなわち,ジャックは今E]の生命保険とくらべて,コレー
キアは「当時においては,共通の危険と認められたところのもの,すなわ
ち,埋葬するための十分な貨幣をもたない間に死亡する危険を除去するた
め」に設けられたものであって,同一額の拠出による危険の平均において,
手当金受領者の資格を遺言による相続人に限定したことにおいて,あるい
はまた・定期間拠出を怠ったものや,自殺者には手当受領資格を与えなか
Il)
った点において,今日の保険と全く類似していると述べる。また,ゲバウ
ア-も前述のように,とくに軍人組合においては,今日の保険との一致性
を強調し,さらにコレ-ギア・テヌイオルムが単なる埋葬組合でなく,疾病,
目尻
傷害その他の救済を行なった点を根拠にその保険的性格を力説しているの
であるo Lかし,これらの制度には,まだ保険技術に値するような技術的
構造はみられなかったのであるからこれらの説には同意できない。
その上に,これらの制度にみられる思想においても,近代的保険思想は
むろんのこと原始的保険思想といったものはミジンも見られなかった。と
いうのは,原始的保険思想は,いうまでもなく,商人保険における個人主
義的思想を前提とするものであって,この種の思禿引ま全然そこには見られ
ないからである。
-38-
古代における共済思想
(注)
Miiller, a. a. 0, S. 216
Jack, ibid蝣 P.
Gebauer,
a・ a.
20.
0.
S.
38,
8・コレ-ギアと原始的ギルド
ドイツの学者によれば,マーネスによって代表されるように,海上保険
の濫角寡は,ロマン民族にあるが,火災保険の揺藍はゲルマニア民族にある
とされるのが普通である三)そして,その証拠として121世紀ごろアイスラ
ンドに存在していたHrepps や, 15世紀ごろドイツの北部,とくにシュレ
スウイヒ・ホルシュタイン Schleswig Holstein)にみられた火災ギ
2
ルドをあげる。ところが,こうした見解は,また生命保険についても見ら
れるのであって,ゲバウア-やジャックの見解がそれである。さらにまた,
トレネリイの見解もこれに近いものがある。もっとも,生命保険の起源を
ギルドに求めるジャックといえども,今日の保険が近代資本主義に負うと
ころが多いことを認めるとともに「保険思想の改善発展に対し,相互的仕
組かたとえどれだけの貢献があったとしても,保険思想そのものをよく実
現せしめることができたのは,ただ近代的企業精神あるのみ」といわざる
をえなかったのである30)
このようにして,それは保険思想史の立場からすれば,ほとんど意味を
もたないとしても,共済思想史の立場からは,前述の古代ローマのギルド
と中性のギルドとの関連,さらにはゲルマニア民族を中心に育まれてきた
といわれる相互扶助思想との関連については一言ふれておく必要がある。
周知のように,中世のギルドの起原については諸種の学説がある.そこ
で,学者によっては,これを「郷飲酒起原説」 「家族起煉説」 「キリスト
教起原説」などに分類する4.)しかし,それらのなかで,とくにクラフト・
5)
ギルドの起原については,マックス・ウエハーが荘園領主権説とよぶもの
-39-
古代における共済思想
とこれに対立するものとしてコレ-ギア起債説が古、くから行なわれている。
後者は,クーテ Coote)の主張する説であって,ギルドはローマ時代
のコレ-ギアから発生したとみる説である60)
しかし,このコレ-ギア起原説については,グロス(Gross)によっ
て完膚なきまで批判されている。すなわち,グロスはコレーギアとギルド
との間には類似よりはむしろ相異しているところの方が多いというのであ
る7O)また.ア/ンユレ-も「疑いもなく近世の歴史家は,ローマと未開世
界との関係断絶を誇張したO 後期ロ-マ帝国における職人が後のギルドの
組織に幾分似た組織.をもっていたことは疑いもないO また,ゴオルの一,
二ノL]所では,ある職人団体が5世紀から12世紀まで存続していたと思われ
る,さ らにローマの規則か,僧院および大別矢の領Lにおける紋隷的職
人の親織の模範として役立った-大陸においては後のクラフト・キルト
のあるものはiKにそれかノ)発生した-といっても恐らく誤りはあるまいo
lーかL.社会は.また農業以外はどんな職業も多数の人たちがそれを専業
とLてイ押JU.つ安全に′ki占を営むことができるような段階には達していな
か-ノた。 Lたか-'て12牡紀までは,そこここでの孤立的な職人のほかに,
i-」,の職人の階級か発展するということは全く不可能であった。そじてま
1二,クラフト・キルトを支配した観念は,かれらにだけに特殊なものであ
ったのてはfcLく,当時の社会全体に共通のものであったことを考えると,
ロ-lマの職人川体から発生し,あるいはそれによって暗示をうけたと認め
8)
ることのできる組織の要素は全く第..次的な意味しかない」とLて,この
説には同音LていtrfL、O それに,グロスも指摘しているように中世のキル
トJ月寺長は, 41桐Llおよび5世紀のローーマのCollegia opificumには欠け
ていたO というのは,この頃のコレーキアとなると.すでに強制組合とな
てい一'-_* -';
.rサ
て,
そこには宗教とのつなか()ち,慈善的性格も姿を消
9)
していたからであ る。
そしてこの点では, 中世キルトは,むしろ,そ
れより前の共和制時代のコレーキアにより多くの類似点をもっていたとい
-40-
古代における共済思想
うことができる。いずれにしてもそれは帝政ロ-マの後期の強制団体とし
てのコレ-ギアとは全くその性格を異にしていたのである。すなわち,当
時のコレ-ギアは前述のように,むしろその目的を自由民の奴隷化におい
ていたのである。したがってそれから中世ギルドが生れたとは考えられな
いo
もっとも,ローマのコレーキアが,何時頃まで存在していたかは不明で
あるO ペロー(Below) によると,中世トイツにおけるギルド Zunft;
が,古代ローマのコレ-ギアと交渉があったとする学者は今日では一一人も
いないo Lかし中世イタリイのギルドになると,それが全然コレ-ギアと
10)
無交渉であったといいされるかどうかは問題であるというのであるが,し
かし,リーベナムは.たとえかかる交渉かあったとしても,それは鱗めて
地方的なものであって,本来,紋隷として縛られていたIl.代の′剃幼者のコ
川
レ-ギアと中世ギルドの「自負心に満ち満ちていた生活」とは,全然柑い
れないものであったとしている。
保険学者か好んで取りあげるコレーキア・テヌイオルムやノ中二人組合にし
てもこの点は同様であって, 」レ-ギア・テヌイオルムは大体9世紀こ
ろまで存/I-していたことは確かなようであるか,これと中世ギルドとの,kJ
渉を裏づける証拠は見当らない。たた,ブレンタノオ Brentano)かイ
ギリスにおける衷古のギルドとして挙げるアポソツブリイ・キルト
(Abbotsbury Gild)ェクセーター・ギルド(Exeter Gild)および
ケンブリッヂ・キ'IV卜(Cambridge Gild のなかで,前∴者はし守れも毎
年・定時に宗教上の儀式をあげ,クビ者の霊を祈蒔することを日的とし,死
者かあれはこれを理♯L,貧間者や病弱者かあればこれを養っT=oその他
共闘L拝のための集会におし,て行なわれる宴会の席上∵ご無礼な行為かある
と処罰し,組合員がその責任を果さないとこれを罰した。そうした規定は
L.I
前述のコレーキア・テヌイオルムのそれと符節を合わすようなものである。
そこで,たとえば,グロスは,ギルドにおける宗教的性格を重視し,ギル
ー41-
古代における共済思想
ドの起原をキリスト教的なものに求めている。
しかし,これを発生史的にみると,イギリスにおける宗教的ギルドも,
また古代ローマのコレ-ギアにその端を発すると解釈するわけにはいかな
い。というのは,中世のギルドは,その総てが古くゲルマニア民族にその
起原をもつからである。そして,イギリスにおいてもそれはまずサクソン
時代の9世紀に宗教ギルドとして姿を現わし, 11世紀のノルマン人の征服
とともにさらに商業ギルドとして姿を現わすに至ったことは周知のところ
川
である。
それに中世のギルドは,古代ローマのコレ-ギアよりは,むしろ,ドイ
ツないしはフランダース地方の原始的家族団体から発生したものであって,
血縁団体である家族団体が崩壊するとともに,これに代って,地域的な相
互扶助団体としてのギルドが発生したとみるべきである。そしてこれを実
現させたのはむしろ職業的独占とのつながりによってであったと見るのが
妥当である。そこで,コレーギアと保険との関係を重視するトレネリイで
さえもがコレ-ギアとギルドの相異を説いて「ローマのコレーキアは主と
してそれぞれの守護神の祭祀を目的としていたのであって,埋葬費の準備
を目的とした組合や軍人組合をのぞけば,なんら相互保険の形式を備えて
いなかった。これに反して,フランダースなどのギルドは殆んど宗教上の
儀式に交渉はなく,また,わかっている範囲では,組合員のための埋葬費
の支給も行なっていなかった。その主な目的は,団結によって,組合員の
14)
相互的福祉と,ある危険に対する相互保険にあった」と述べるのである。
では,中世ギルドにおける共済思想はどうしたものであったか。これに
-一言ふれておく必要がある。
〔注〕
(1) Manes A. Versicherungswesen. 5 Aufl . TII. 1931. S. 80.
(2) Helmer , G. , Entstehung und Entwicklung der offentllchen
Brandversicherungsanstalten in Deutschland , 1936. S.
-42-
古代における共済思想
(3)
0′Donnell
,
T.
,
History
of
Life
Insurance.
1936.
P.
613
(4)松崎実次著『欧州中世経済ギルトの研究J 8頁。
(5) Weber , M. , Wirtschaftsgeschichte , 1923. S, 133.
(6) Gross, C. , The Gild Merchant, 1890. P. 176.
7 a. a. 0, S. 176.
(8) Ashley, W. ,An Introduction to English Economic History and
Theory. Vo1 1. Part I. 1923. p. 77.
(9) Gross, a. a. 0, S. 176;松崎氏,前掲書58頁。
(10) Below, G. V. , Problem der Wirtschaftsgeschichte , 1920. S.
278; "Collegia ' Wbrterbuch der Volkswirtschafts. B. ll. 1911.
S. 656.なおPirenne, H. , Guilds, European (Encyclopaedia of
the Socia一 Sciences IV. , 1937. P. 209)によれば,古代のコレ-ギア
は,中世を通じて,ピザンティン帝国の支配下にあった当時のローマ及びラヴンナ等
の都市にその名残を止めていたが,しかしそれは単に地方的存在であって,中世の
クラフト・ギルドとはほとんどなんの交渉もなかったと述べている。
(ll) Liebenam, W. , Zun Geschichte und Organisation des Rbmischen
Vereinswesens , 1890. S. 60.
Brentano, L., On the History and Development of Gilds, KV.
Pirenne, ibid. P. 208;野村兼太郎著F英国経済史概論』 102頁O 同氏,
『英国資本主義成立史』 133頁。
(14) Trenerry, C. F., The Origin and Early History of Insurance,
P. 250.寺EEl四郎稿「近世保険の起源」 (保険学雑誌321号) 12頁O
9.中世ギルドにおける共済思想
今日の保険の起原を西暦1世紀から7世紀-かけてフランダ-ス,メネ
ピアおよび西プロシア方面にみられた家族共同体(family group)に求
めようとするのがトレネリイの説である。トレネリイによると,ドイツお
-431
古代における共済思想
よぴフランダ-ス地方では,他の国々と同じように,原始的衆落として家
族共同体が姿を現わした。すなわち,個人はすべて家長の支配の下に生活
を営むとともに,家族が一つの経済単位であった。したがって,そこでは
純然たる共同体としての生活が行なわれ,家族共同体そのものが「相互で
扶助し,支持し合う(mutual assistance and support ところの1)
つの小集団 a small combination を形造っていた」Oトレネリイは
かかる原始的共同体のなかに保険の萌芽を求めるのである。そしてかかる
共同体がその後,大地主制の確立,さらにはカロリング王朝の出現によっ
て崩壊するとともに相互扶助の機構はギルドが代ってになうことになった。
そしてこのギルドこそ,まさに「組合員の相互保険を目的とするクラブあ
るいはソサエティにはかならなかった」と主張するのである。すなわち,
これらのギルドは「自由民の下層階級と同時にまた奴隷たちか大土地領主
からの圧迫に対し,さらにまた火災,ポートや船舶の海難による指失,そ
2)
の他の不幸に対し自らを守るための手段であった」と説いている。
もちろん,これらのギルドも,最初は「単にその職業,手仕事,宗教な
どのように,かれらに利害関係のある事柄を論議するために,どちらかと
3)
いえば偶然に集った人たちの集りにほかならなかった」。ところか,この
種の集りは,寡頭的地方政権の出現によってその圧迫をうけたために,汰
第に秘密集団的な性格をもつこととなり,お互いの力を合せて相互扶助の
手段によって領主の圧迫に対抗しようと試みることになった。かくて,当
時のギルドは,火災,難船その他の災害に対して「損害の相互分担mutual
sharing of loss を行なう下層自由民および賦隷」の秘密集団とな
ったo その組織の詳しいことはわからないが,それらが秘密集団 secret
society) あって,組合員は組合および仲間に対して忠誠の誓をたてる
義務があり,組合の規則を守るとともに,定期的に組合の金庫に拠金する
義務が課せられた。そしてこの拠金の蓄積から組合員の各種の必要に応じ
ていたことだけは確かである。
-44-
古代における共済思想
このようにして,このころのギルドは領主の奨励をうけるどころか,そ
れが誓紬こよって結成されることは敢重に禁止されていたのであるOにも
かかわらず,現実にはその数を増し,むしろ一般に普及するに至ったo
そして,それは一つには誓いによらない集団であるとその結成が禁止され
なかったからであると思われるOカロ・)ング王朝の諸皇帝の法令Oたとえ
ばシャルルマ一二ュ帝(Charlemagne )( 768- 814年)の779年の法
令をみると,災難,火災あるいは難脚こ対する相互保護のため誓いを立
てて人びとが結束することは禁じられている。しかし,それは誓いを立
てることそのことを禁止したのであって「相互保険」を禁じたのではない
旨が明記されている空っまりこつした集団の禁止は,かれらが集団によっ
て地主に政治的圧力をかけ,これに損害を与えることを防がんがためのも
のにはかならなかった。かくて,この種の禁止令は,その後も 794, 821,
827, 832, 856, 860, 864, 898年と引きつづいて発布されている。だ
が、「ギルドに加入し,これを形成するという慣習は極めて普通のこととな
った。そして,これらの制度が一定の欲求を充たすものであったことは確
6)
かである」とトレネリイは述べる。
そしてトレネリイは,その後11世紀になるとこの地方の村落の政治構造
が変り,地方自治制がひかれることになった。都市はむろんのこと,農村
においても,自由と特権が与えられることになった。つまり村落自治体
village community)が出現することとなったo そこで,都市や村落
は領主から特許をうけて,みずからの手で行政,裁判を行なう権限をもつ
こととなり,これまでギルドによって保障されていた相互扶助の役割も,
村や町がこれをになうこととなったと説く。たとえば, 1,100年ごろ,エ
ールという部落(Amitie′ d'Aire には領主であるローベール2世およ
びその夫人クレマンス RobertIIand Clemence)から特許が与えら
礼,村人は火災のため家を失い,あるいは,捕虜となり,身代金として財
産の大部分を失った場合には,その損害の墳補を村からうけることができ
-45-
古代における共済思想
こa
.
ることになったo そして村人はそうLたことか起った場合には銀一戦-ず
つを拠出する義務がある旨がきめられている。
トレネrJイによると,こうした特許の制度が確立するとキルトはその姿
を消してしまう。そLてこの樽の特許状はその後13世紀になると,コイレ
(Keure と呼ばれ,このコイレを通じてわれわれは,当時の村落におけ
る相互扶助の仕組の内容を知ることができると述べるo たとえば,荊述の
エールの場合には,填補されるところの火災についてはその原因を問わな
かったL,擢災に当っては村人は躍災したものの救済のため-・定細の拠金
をしたにすぎない。そのため,実際には拠出された金紙では到底損害額を
榊由できる金納には達しない場合が多かったo Lかし,コイレの段階に入
ると「これらのギルド類似の性格は改められ,填補は火災の原因か不明で
あるときにだけ行なわれることになl),それはF']治体の任命した役員によ
って行なわれたo そLて,おそらくはこの役員が接害を査定し,また村人
か紬する割合を定めたと見るべきである7.)」たとえば,1241年付のフユー
ルヌの聖ニコラス寺院に与えられた特許状によると,寺院がフユールヌの
mCの火災捕害に対して噴補を行なうときにはその所有する財産の価格に
8)
比例して村人に分相.額を負栂させるべき旨を定めている。
トレネリイによると,この種の保険的仕組は,単に火災損害に対して行
なわれたたけではなく,家畜の損傷に対しても行なったのであって,前述
のフユ-ルヌの聖ニコラス寺院の1292年日付の記録によると,この地方で
は,太【㌧からハメリング税(Hamelinghe tax なるものかあって,この
税を納めたものに対して寺院は家畜の損傷を墳補した旨が明記されている
というのである。そして,トレネりイは,このHamelinghe という言葉は
「家畜を失ったものに対する填補」を意味し, 「喪失者は,慣習で定まっ
ている方法によって請求すれば,火災によって家屋を失ったものにも同じ
9)
方法で村人から填補をうける権利をもっていた」と述べるとともに,これ
に似た数個の事例をあげている。
-46--
占代における共済思想
かくてトレネリイは「海上保険は商人たちによって行なわれ,かれらは
多くの場合,自分たちで進んで引受けられると考えた危険の額だけを引き
うけた」のであるか,陸上の運送保険の方は地方自治体がこれを引きうけ
hlL
た。これは,一つには,大商人の海上保険のようなものは,僅かばかりの
村民の拠出ではまかないきれるものでなかったからでもあるが,当時の地
方自治体はその多くが陸地にあり村民の海難といったものは問題にならな
かったからである。しかし,陸上の危険については,各地で市が開かれ,
そこに運びこまれる商品の保険を引きうける必要があった。そこで,たと
えば,ムウシ-メ(Messines)の尼僧院の記録をみると, 1227年ごろ,
この地方の商人を始め,ブリュ-ジウ,イープルなどからくる商人たちは,
ドルピンゲ dorpinghe)あるいはベルツサウヂュ(pertusage)と
よばれる一緒の人市税を納めて,市場での取引を行なう権利を得るととも
に,市場が聞かれている期間中の,身体および商品の安全を保障される権
利をえたO そして,もし損害が生じたときには尼僧院がこれを壌補L,あ
るいは第二者に塀補させたことが明らかにされていると述べている。
そして,トレネリイはもちろん,こうした制度を一種の保険と見ること
については「そうしたことの引受 undertaking はその内答が余りにも
漠然としていて,これを 一種の保険とみるのは妥当ではない。その上に尼
僧院によって与えられる保護は,黄高官庁によって商人に与えられる通常
け
の保護にすぎない」とする反対論もあるであろうが,しかし,かりにそう
した反対論を認めるとしても, 「地方官庁が,おこりうる損失あるいは不
正に対して,商人を保護することを引受けたのは,一定の手数料の支払に
‖就
対する報償の一部として行なった」のであって,この事実は否定できないO
そして,この手数料の-・部はまさしく取引権に対する支払であるが,残る
一部はまさに商人および商品の安全の引受に対する対価である.しかも,
こうした引受は「相互的(recinrocal に行なわれたのではなく,もし
それを保険の一種と考えるならば,それは明らかに一種の資本家保険
-471
rl 代における共済思想
a
capitalist insurance であった」O と説くO
トレネりイは,さらにその証拠として, 1248年1月12日付のリムブール
のワレラム公 Duke Walleram of Limbourg の吉信をあけ,そこに
は,ミュウズi可とラインi可との間を旅イJ-1-るため,公の宗主1二を通過する商
人たちは・定の;'?]合の税を納め,その代りに抽上通子]一柏をうるとともに.
袖I二内における商人および商品のI肘i:に対する填補を約束されたことかわ
かる。また, 1298年12月1H付のフりユーシュl吊二与えられた特許状をみ
ても同Lようなことか行なわれておt),同市に税を納めると商人は川吉の
中仙かうけられたとあるO これらの事実から見て -.1川寺ブリユーンユを始
め'Ml*′,-ルキ-に当る地方ではこのH'の保険か行なわれていたこと,と
くに商人たちは「保険の利害得失についての実際的な知識を十分にそなえ
]4)
ていたにちかいない」と断定してよいと_主張する。そして,これを1310年
の-/りユー-ンユ保険所説と結びつけて力説するのである。
Lかし,このように論じて,今Hの保険の測糠を7世紀以前のフランダ
ーー7-isよぴlJL涌けルマン族の家族Jt-Mf本に求めようとするトレネr)イの説
(二-)いては,わたくLは,たとえそうした歴史的事実かあるとしても,煤
陳J)触史ないL′ト.成史としては賛成できない。また, 7リュージュIhでフ
ランダースの石山ミロ--ト伯か保険所を設け, .定の料金をとって商品の
海上における危険その他の危険を引きうけたという説は, 1735年に出版さ
オLT= rフランダース人の記録」 Chronyke van Vlanderen に了Ir-かれて
いることを唯.の根拠とするものであるか,その存在か果して事実であっ
たかとうかは今日なお疑問であるO また,かリにそれか事実であったとし
ても,それはむしろ商業都市としてのブリュージュでイタリイ商人が当時
引きうけていた煉始的海上保険をまねた制度であったとみるべきではない
・
i
かと思う。またトレネリイか資本家保険とみる非相互的な地方自ill体の
行 った損害填補の制度は,人rh一税に付属して行なわれたものであって,
蝕、r/二の原始的保険取引すなわち商人保険のI一つの里とみるのは妥当でない
-48-
古代における共済思想
!ぶ
と考えるものである。
しかし,ここで問題とすべきはそうしたことではなく,むしろトレネリイ
の保険とよぶところの制度,とくに13世紀以前に,地方自治体が行・i:った相
互扶助の機構や,さらには,相互扶助を中心に結成されたギルドなどに見
られる共済思想は果してどうしたものであったかのl'fであるo
ところでこのAについて,まず第I-に注E]すべきことは,コレーキア・テヌ
イオルムとの比較を通じてトレネリイも指摘していることであるtl-,これ
らの制度の場合には古い時代にみられた宗教的儀式とのつなかリかす-,か
l)その姿を消していることであるO そLて,それはむしろ職 梁による')L
か-)を前提としている.i'iである。
とはいえ,第二に注目すべきは,そこでもまたコレーキ了の場合と["i鯨
に,被圧迫階層の反抗団体としての性格か-ソキリと見られることであ/i,
この点では,たとえばリーベナムは,すでにI一一一言したように中1什キルトは
「自負心に満ち満ちていた生活」を前提としたOこの,'lはl'l一代のコレーキ了
とは大いに異っているとみているか,ここでリーベナムが中世キルトとよ
ぶものは,中世中期以降にあらわれた商工業の同職仲間たる職業キルトの
ことを意味すると思われるo ところで, -・椴に中世前期すなわち8-9世
紀ごろまでの古ギルドについては,「民族移動期を通じて古い氏・k( Sipl)(- )
制が崩壊したあと,同家秩序がし、まだ酬頼れないとき,誓役その他の
蝣・I.1・・
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(│iHJ.I.
'・- ・t
.
njuratio, confratria conspiratoなどの総称である」とされ.これL・,の
「古ギルドの多くは,単なる札/I--扶助たけでなく,私的な裁判・複讐なと
をおこなう社会的・宗教的な性格のものであったか,カトリソク教会と結ん
だカール大帝の集権的教化政策の遂行によってしだいにその機能は弱められ.
社会生活の表面からその姿を消すこととなった」O そして,これに代って,
11世紀から12世紀にはいり, 「西ヨ-ロッパの各地に商業復活の-A運かみ
なぎって来ると,古い封姥的都rli領主の保護と搾取のもとにある城壁内の
-49-
古代における共済思想
市民とは別個に,その近傍の平地に遠隔地商人団の定住地区ウイク(Wik
があらわれることとなり,ここに大商人を中核とした一種のギルドが形成
された。そしてそこからのちの都市法に先行する(商人法) (ius mercatorum)の慣習がうみ出された。またこのような初期の商人ギルドの経
済的実力と政治的指導力とが基盤となって,やがて古い領主支配下の市民
(′ト商人・手工業者など)も統合され,領主-の暴動・反抗・妥協を通じ
て商工業老中心の中世都市の自治が確立された1073年のマインツ市民の
壮挙や, 1074年のケルン市民の大暴動などの経過は,もっともよくこの事
11)
情を証明している」と説かれている。これらの事情は,そのままトレネり
イか取りあげてきたフランダース地方のことに当てはまらないかも知れぬ
か. LllAギルドや中世の同職ギルドの性格を明確に指摘しているのであって,
その説明を通じて,中世のギルドと古代のコレ-ギア・テヌイオルムとの
性格のちがいを看取することができる。すなわち,それは相互扶助の精神
にもとづくものであったとしても,宗教的儀式とは無関係であり,その本
質はむしろ被圧迫者の反抗的精神を支柱とするものであった。したがって
そこには大商人を中心とする「自負心に満々たる生活」もみられたとして
ち,思想的には反抗的精神をむしろ重視すべきである.そして,この.'.'.'二で
は中世のギルドも古代のコレ-ギアと共通するものを持っていたといわね
ばならぬ。
そして,この事実をア・ポグダノクはつぎのように述べている。
「ギルド団体は,本質上,家長的関係の遺物であった。封建時代の農業
コンミュンに存/I:.して居たような,個人及び個人の企業を団体的に保護す
る制度である.如何なる擬因よりして,この前時代の遺物が,社会的組織
の中に現れ,且つ発展していったのであろうか?
小手工業生産に於いては,生産者の間の相互扶助は,彼等の地位を強固
にするために,是非とも必要である。この相互扶助がなかったら,経済的
に微力な小生産者達は,たとえば一時的な物価の下落,道具の破損,火事,
-50-
古代における共済思想
盗難,等に逢うと,たちまち文なしになる危険に常に曝されることになる。
彼等の間に自由蔑皐がある場合には,手工業者の地位は特に不安定にな
る0歳争の結束は.弱い者の滅亡であるo繭も大多数のものは掛-O そこ
で,特定の職業に徒事して居るものが,競争を絶滅するために団結するこ
とが必要となったO
ギルド団体の起原は,大体に於て,封建的農業世界の社会関係の中に求
められるべきであろう。ギルド発生の歴史的痕跡は十二世紀と十三世紀の
間に見出される。場合によると,ギルドは,一定の都市で,一定の職業或
は数筒の相連合した職業に従事して居る工匠の,一一時的結合の形式で発生
することもあったO こんな一時的結合が,団結の力がその団体員に解かっ
て来るにつれて,段々確立されて行き,遂に永久的なものとなったのであ
る。
永久的のギルドが発展したのは,このギルドが封建的庄制から都市を解
放するための闘争を遂行しなければならなかった結果たるのみならず,都
市の旧貴族の勢力が政治生活から,仲々容易に除去されなかったので,こ
isl
れを打破するために大いに努力しなければならなかったからであった」 0
かく して.経済思想史的にみるときには, l'if℃のコレ-ギア・テヌイオ
ルムにみられた相互扶助の思想すなわち共済思想は,まさに宗教を地盤と
した反抗とつながりをもつものであった。それか中世前期のギルドにおしては,トレネリイがギルドとしてあげるフランダース地方における7世紀
から11世紀にかけてみられる相互扶助団体を始め, ・股に古ギルドとよば
れる8世紀から9世紀にかけての相互扶助団体,さらには11世紀から12世
紀にかけて姿を現わし,それ以後中世中期以降に発展した同職ギルドを通
じて職業を地盤とした共済思想に転移したとみることかできる。
そして,そのいずれの場合にも共済思想は′削こ圧迫者に対する反抗的精神
と結ばれていたのである。かくて, -古代における共済思想の特徴を,わた
く Lは-一緒の階級闘争のなかに認めるのが正Lいと思う。そして,この思
-51-
古代における共済思想
忠はその後,近代資本主義の確立とともに.労働組合を)銅山とする共胤思
想にまで発展するのである。が、その息味では,それは商人的な保険思想
とは全く対照的なものであったといわねばならない。
(1)
Trenerry. The
Origin
and
Ear一y
History
of
Insurance,
p. 246.
(2) ibid P 249
(3) hid p.247.
(4) ibid p 248
(5) ib】d P. 251.
(6) ibid p.252
(7) ibid p 254.
(8) ihid p 254
(9) ibid p.256
ibid 258.
(川1【id p.261
(12) hlLi p 262
(13)汁lL1P 262.
(14) ibid p 263.
(15)拙著ア保険論』 46貞以下参照o
IZ付 上. 17ft.
(】7)増田四郎「キルト」 (大阪*蝣立大学経済研究所編,岩波版, 『経済学占ナ典』
187良o )
(18)ア・ポクダノク.林房雄,木村恭 -共訳『経済科学概論』 166貞o
-52-
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