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Title カントの因果論とヒューム批判 Author(s) 遠藤, 千晶 Citation 「対話

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Title カントの因果論とヒューム批判 Author(s) 遠藤, 千晶 Citation 「対話
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カントの因果論とヒューム批判
遠藤, 千晶
「対話と深化」の次世代女性リーダーの育成 : 「魅力あ
る大学院教育」イニシアティブ
2006-11-01
http://hdl.handle.net/10083/3295
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Research Paper
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遠藤
千晶:カントの因果論とヒューム批判
こるという事態を何度も捉えると、すなわち、二つの事象
カントの因果論とヒューム批判
の「恒常的連接」4を経験すると、我々は因果性を推理する
遠藤 千晶
とされる。
以上のようにヒュームにおいては、我々の因果理解は経
序
験に起源をもつとされているのである。
因果性すなわち原因と結果の関係性を我々はどのように
認識しているのか。カントによれば、その認識は因果性の
カントのヒューム批判―事象内容の偶然性と法則の必然
カテゴリーが知覚の継起に適用されることによって成立す
性
る。すなわち、ヒュームが因果性を世界に付与された任意
だが、ヒュームは因果概念のもつ意味を否定しているの
の「余剰物」と見なしたのに対して、カントは、悟性が因
ではない。ヒュームの議論の要点は、因果概念が通常果た
果性を自然に「負わせる」ことによって自然を因果的に秩
している役割を疑うことにあるのではない。我々は学的な
序づけると考えたとされている1。注意すべきことは、この
営みにおいてのみならず、日常生活においても多様な因果
「負わせる」ということの内実である。いかなる因果性が
関係の理解に基づいて行動している。例えば、我々は卵を
負わされているのか。また、それが負わされるところの知
ゆでるとゆで卵が出来、焼くと目玉焼が出来るということ
覚の継起は、いかなる認識上の身分をもっているのか。本
を了解している。その際に我々は、卵をゆでると目玉焼が
発表では、こうした問題について考察し、カントの因果論
出来るかも知れないなどとは考えないであろう。
この場合、
の特色を示す。
〈卵をゆでる〉という原因は〈ゆで卵が出来る〉という結
以下ではまず、カントの因果論の基本的な構造をヒュー
果と結び付けられている。ヒュームはこうした種類の因果
ムの因果論との対比によって確認する。
次に、
『純粋理性批
概念が妥当していることを認めている。彼は、そうした因
判』
「経験の第二類推」における議論に着目し、知覚の〈主
果概念の起源とそれが有用である範囲を確定しようとした
観的継起〉の認識上の身分を明らかにする。
のである。
ヒュームの因果論――「恒常的連接」の経験
の経験によって獲得されるものである以上、経験された事
ヒュームによれば、因果性は二つの事象の「恒常的連接」
ヒュームによれば、我々が事象の中に因果性を見出す際
象を超え出た必然的妥当性はもたない。それはすでに経験
には、原因と結果の「近接」
・
「継起」
・
「必然的結合」の三
された事象にしか妥当しないのである(cf.A765/B793)。そ
2
点が成立していなければならない 。すなわち第一に、原因
れに対して、カントにおいては、因果性は経験に先立った
と結果は、必ず時間的・空間的に近接して生じる。第二に、
アプリオリな原理の一つであり、経験を可能にする枠組と
結果は必ず原因に継起して生じる。
最後に原因と結果の
「必
して見なされている。カントはヒュームを次のように批判
然的結合」が挙げられる。これは原因が生じると必ず結果
する。
ヒュームは、
法則に従った我々の規定の偶然性から、
がそれに伴って生じるという必然性のことである。この第
三の点は、因果理解の起源としてヒュームが特に重視する
法則それ自体の偶然性を誤って推論したのである…。
ものである。しかしヒュームによれば、この「必然的結合」
(A766/B794)
という性質は、原因・結果となるそれぞれの事象の性質の
このカントのヒューム批判はいかなる内実をもっているの
中には見出されない。さらに、事象間の「関係」の中にも、
か。カントのいう「法則に従った我々の規定の偶然性」と
我々はこの「必然的結合」という性質を見出すことはでき
は、個々の具体的な(経験された)事象内容の偶然性のこ
ない。
とであると考えられる。つまり、何が原因として、また何
こうしてヒュームは「存在するものにはすべてその原因
が結果として把握されるのかということは、我々が経験す
がなければならない」3という原則そのものを疑問視する。
る個々の具体的な事象に依存して決定される。
したがって、
ヒュームによれば、我々は原因・結果の観念を互いに判別
カントはヒュームと同様に、原因および結果として具体的
でき、
したがってそれらを分離して把握することができる。
に規定される内容が経験的で偶然的であるということを認
すなわち、原因と結果の結合を必然的と見なす十分な根拠
めているのである。
だがそのことは、そうした経験的・偶然的な事象内容を
を我々はもっていないということになる。
それでは、我々の因果理解の起源はどこにあるのか。ヒ
規定する際に我々が従っているところのアプリオリな法則
ュームはその起源を「経験」の内に見出す。詳しくいえば、
(経験の枠組)までもが経験的・偶然的であるということ
二つの事象が空間・時間的な近接・継起の関係において起
を意味しているわけではない。こうした観点からカントは
110
「魅力ある大学院教育」イニシアティブ:平成 17 年度活動報告書~シンポジウム編~
Ⅱ.哲学・倫理・宗教思想─日本とフランス:交差する視点─
ヒュームの因果論を批判する。カントによると、ヒューム
線を移して建物の土台で終わることもできる。だがその逆
は因果関係のもとで捉えられる個々の事象内容が偶然的で
も可能であり、また、建物の左側から始めて右へと視線を
あることに基づいて、因果法則(経験の枠組)の偶然性を
移すこともできる。この場合には、諸知覚の順序を必然的
誤って主張しているとされる。
に規定するような規則は見出されえないのである。それに
対して、一隻の舟が川を下っていくのを見る際には、下流
ヒュームが重視したのは、すでに恒常的連接によって獲
得された因果関係が少なくとも〈経験された事象〉の領域
における舟の知覚は上流における舟の知覚に後続しうるが、
においては一定の妥当性をもつといえるのに対して、それ
その逆は不可能である。つまり、舟が流れ去るという事象
が〈まだ経験されていない事象〉の領域において妥当する
の〈生起〉を把握する際には、二つの知覚が継起する順序
かどうかは不確実である、ということであった。つまりヒ
が定まっているのである6。
ュームの主張は、
〈経験された事象〉と〈まだ経験されてい
それでは、
〈生起〉
の把握において成立する諸表象の連関
ない事象〉
という二分法に基づいてなされているといえる。
はどのような内実をもっているのか。
カントが挙げるのは、
これに対してカントは、因果性の妥当性の及ぶ範囲は
(1)〈生起〉の表象においては、先行する状態と後続する状
個々の〈経験された事象〉にとどまらないとする。カント
態を変えることはできない、
(2)先行する状態が定立される
によると、因果法則は我々にとって「可能的経験との連関
ときには、この出来事は不可避的・必然的に生じる、とい
において…認識しうる」(A766/B794)ものである。すなわち
う二点である。(1)で主張されているように、
〈生起〉にお
カントにとって〈経験された事象〉と〈まだ経験されてい
いては先行状態と後続状態の順序が定まっているのでなけ
ない事象〉との間にある深淵は問題ではなく、むしろ我々
ればならない。だがこの順序は、まず先行状態・後続状態
の可能的経験が従うべきところの一般的法則こそが問題で
がそれぞれ独立に把握され、その後にそれらが関連づけら
あった。そして〈事象内容〉から〈経験の構造〉へのこの
れるという仕方で確定されるわけではない。このことに関
主題の転換によって、
カントは因果性を
「可能的経験」
(
〈経
してカントは次のように述べている。
験された事象〉と〈まだ経験されていない事象〉の双方を
この関係においてその現象〔=後続する状態〕が自
包含した領域)に一般に妥当するアプリオリな法則として
らの一定の時間位置を獲得しうるのは、…一つの規則
見出す視点を獲得したと考えられる。
に従ってそれに後続する或るものが、いつでも先行す
だが、カントのいうアプリオリな因果法則も、ヒューム
る状態のうちに前提されているということによっての
の立場からはやはり事象の「恒常的連接」の経験に起源を
みである。(A198/B243)
もつものと見なされてしまうのではないか。また、単なる
つまり、
後続状態が先行状態の存立を前提するのと同様に、
知覚の継起を因果性という枠組によらずに別の仕方で解釈
先行状態は後続状態との連関においてはじめて先行状態と
するということはありえないのか。これらの問いにおいて
して存立するのである。先行状態を後続状態から分離して
問題になるのは、知覚の〈主観的継起〉のもつ認識上の位
独立させてとらえようとするならば、もはや先行状態は先
置づけである。次節では、これらの問題について「経験の
行状態とは見なされえない。この先行状態と後続状態の分
第二類推」でのカントの議論を手掛りに考察する。
離不可能性こそが、カントが(2)の主張で〈生起〉における
必然性として述べたものであると考えられる。
知覚の〈主観的継起〉の位置づけ
〈生起〉の必然性についてさらに考察してみよう。重要
カントが「経験の第二類推」で主張するのは、事象の「生
なのは、上述のように、我々はまず因果性を含まない知覚
起」―以前に存在しなかった状態が生成すること―
の〈主観的継起〉をもち、それに因果性を後から付け加え
(cf.A189, A191/B236)に関する我々の理解は、
〈生起〉
(結
ることによって〈生起〉の把握を成立させるのではない、
果)の原因を前提してはじめて成立する、ということであ
ということである。カントは次のように述べている。
る。
この主張は、
「全ての変化は因果の連結の法則に従って
…時間における諸現象の綜合的統一の条件としてこ
生起する」(B232)とも言い換えられる。すなわち、事象の
の規則〔=因果性〕を顧慮することがなんとしても経
〈生起〉に関する認識は、つねに因果性という枠組のもと
験自身の根拠だったのであり、それゆえアプリオリに
で成立する、とカントは主張するのである5。
経験に先行していたのである。(A196/B241)
カントは〈生起〉の構造を、
〈家〉と〈舟が川を下ってい
…対象との連関がなすのは、我々の諸表象の結合を
く〉についての把握の相違によって際立たせる。このうち
或る種の仕方で必然的たらしめて、それらの諸表象を
〈生起〉としてとらえられるのは後者である。例えば、或
一つの規則に従わせるということ、逆に、我々の諸表
る建物を眺める場合、我々はその屋根をまず見、徐々に視
象の時間関係における或る種の順序が必然的であるこ
111
遠藤
千晶:カントの因果論とヒューム批判
とによってのみ、それらの諸表象に客観的意義が与え
られるということ以上の何ものでもない…。
(A197/B242f.)
これらの主張は以下のように理解される―知覚の〈主観的
継起〉を構成する諸状態は、
〈客観的継起〉
(諸表象の客観
的意義)から抽象されたものである(cf.A193/B238)。つま
り、知覚の〈主観的継起〉なるものは、認識の論理上の構
成契機にすぎない。知覚の〈主観的継起〉は本性的に〈客
観的継起〉に依存しており、
〈客観的継起〉から独立に、内
容をもった認識として存立することはできないのである。
すなわちカントによれば、因果概念についての考察の出
発点としての〈生起〉の認識は、元来先行状態と後続状態
の時間関係や、それらの結び付きの必然性という条件に満
たされている。それに対してヒュームは、むしろ〈主観的
継起〉を考察の出発点とし、そこからいかに我々の因果理
解が成立してくるのかを明らかにしようとしていたといえ
る。しかしそれはカントの立場から見れば、本性的に欠陥
をもった方法である。なぜなら、ヒュームの考察の出発点
である知覚の〈主観的継起〉は、実際には、
〈客観的継起〉
から因果性を除去することによって抽象されたものだから
である。その後に、改めてヒュームは〈主観的継起〉のう
ちに因果性を探し求めているのである。それはカントの観
点からは、本性的に不可能な試みであると見なされるので
ある。
以上のようにカントは、
「可能的経験」
という領域の設定
によって、因果性を経験のアプリオリな枠組として考察す
る視点を獲得した。それに関連して、彼は知覚の〈主観的
継起〉を〈客観的継起〉に依存するものと見なした。これ
らの見解こそがカントの因果論とヒューム批判の核心にあ
ると私は考える。
カント『純粋理性批判』(Kant,I.: Kritik der reinen
Vernunft, Felix Meiner, Hamburg, 1998)からの引用は、
慣例に従い第一版を A、第二版を B とし、続けてその頁数
を記す。
Cf. Bennett,J.: Kant’s Analytic, Cambridge University
Press, 1966, pp.153-159.
2 Hume,D.: A Treatise of Human Nature, Dent, London,
1964, pp.76-81.
3 Ibid., p.81.
4 Ibid., p.90.
5 Cf. Allison,H.E.: Kant’s Transcendental Idealism, Yale
University Press, 2004, p.258.
6 Cf. ibid., p.255f.
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