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はじめ に
はじめに わたしはたぶん、司馬 太郎のまっすぐな読者ではない。肌合いがはっきりちがう。それ でも、折りに触れて、 ﹃ 街 道 を ゆ く ﹄ の な か の 幾 編 か は 飽 か ず 読 み 返 し て き た。 い つ の こ ろ からか、司馬の東北論が気に懸かるようになっていた。司馬の東北びいきがあまりにあらわ であったからだ。あられもなく、それを語りつづける司馬の姿に、くすぐったいような驚き を抑えることができなかった。ときには、驚きといった域を越えて、たじろがされる場面も あった。 たとえば、 ﹃街道をゆく﹄の一 である﹁北のまほろば﹂には、こんな印象的な一場の光景 が書き留められてあった。ある春のこと、司馬は作家の八木義徳とたまたま出会った。 7 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 浦哲郎氏が、無言ながらうなずく気配があった。このこともうれしかった。 この場合、八木さんと三浦さんだが ︱ 好き嫌いの 両氏とも、その理由はなにかとは、質問されなかった。理由など、私自身にもよくわ ︱ からないし、第一作家にとって 理由など信じないところから感覚が出発している。︵傍点は引用者、以下同じ︶ いまだに奇妙な余韻があとを曳いている。八木の頭には、幕末の会津藩主・松平容保を描 いた小説﹃王城の護衛者﹄か、それとも﹃街道をゆく﹄に収められた東北紀行のいずれかが 浮かんでいたのか。はじめての出会いであった。それにもかかわらず、八木は不意に、﹁あな たには、むかしから東北地方に格別な思い入れがありますね﹂と語りかけたのであった。そ のとき、司馬はおそらく深い歓びに包まれたにちがいない。八木については、﹁自伝的で求道 性の高い作品を世に送り出している﹂とわざわざ注記がほどこされていた。その道を求める 人の言葉に、﹁予期せぬ知己の情﹂を覚えたのである。さらに、かたわらには八戸出身の作 家・三浦哲郎がいて、どうやらそれに同意したらしい。それにもまた、司馬は素直に喜びを あらわしたのである。記憶に深く刻まれた場面であった。 8 私にとって、初対面だった。八木さんは、不意に、 ﹁あなたには、むかしから東北地方に格別な思い入れがありますね﹂ 0 といってくれたことに、予期せぬ知己の情をおぼえた。横にいた青森県八戸出身の三 0 司馬 太郎は大阪出身、つまり西の人である。その根っからの西の人が、なぜ、そこまで あらわに東北への思い入れを抱き、しかも隠そうとしなかったのか。それはたとえば、岡本 太郎の無邪気な東北びいきなどとは、まるで肌触りも方位も異なっている ︵拙著﹃岡本太郎の 見 た日 本 ﹄ を参 照 のこと︶ 。 司 馬 は い わ ば 、 い っ と き の 熱 や 興 奮 に う な さ れ て、 東 北 び い き を 語ったわけではない。そこに見いだされるのは、どこまでも落ち着いた大人のまなざしであ めいたものでありつづ の東北紀行がふくまれている。飽かずくり る。揺らぎはない。一貫している。だから、わたしにとっては長く けてきたのである。 さて、 ﹃街道をゆく﹄というシリーズには、六 かえし読んできた。いくつもの発見があり、また再確認したこともある。ここでは、それら の東北紀行を一 ずつ読みなおしながら、司馬の東北論の輪郭を可能なかぎり浮き彫りにし てみたいと思う。 まず、ふたつの紀行から、その書きだしの数行を引いてみる。 奥州というと、私のように先祖代々上方だけを通婚圏や居住圏としてきた人間にとっ ては、その地名のひびきを聴くだけでも心のどこかに憧憬のおもいが灯る。 ︵﹁陸奥のみち﹂︶ はじめに 9 私は東京を知らないために東北についても昏い。中学生のころ、箱根以北は一つの世 界で、その東北の勢力が西南へのびることによって東京という町が形成されていると錯 覚していた。︵﹁羽州街道﹂︶ とても正直な書きぶりである。隠す必要がない。たんなる事実でしかない、ということか。 司馬は東京を知らない、だから、その、さらに向こう側に広がっている東北にはなおさら昏 い、すなわち無知だったのである。まわりには東北出身者がほとんどいなかったし、東北に じかに触れる機会もなかった。白河以北どころか、箱根の関を越えた向こうは﹁一つの世界﹂ であると、中学生のころは錯覚していたほどだ。のちに、この話を東京生まれの友人にする と、きまって笑われたともいう。 しかし、思えば、箱根より東の関東から東北にかけての地域がアヅマと呼ばれていた時代 が、たしかにあった。古代の都人たちは、その﹁一つの世界﹂をアヅマ ︵東・吾妻︶と呼びな らわし、ときにあこがれたのではなかったか。司馬がほかならぬ王朝人のみちのく憧憬に共 感する姿を、わたしはくりかえし目撃することになった。東北の地名のひびきを聴くだけで、 心のどこかに憧憬の思いがぽっと灯るのだ、という。それはきっと、そうした文学的なみち のく憧憬へとつながっている。 関西に生まれ育った人たちにとって、東北がはるかに遠く、昏い、そもそも地図を描くこ 10 とがむずかしい世界であることはよく承知している。東京で知り合った京都や大阪の出身者 たちが、あっけらかんと、また申し訳なさそうに、そんなことを語るのを幾度となく聞いて きた。東北の人たちは、自分のなかにまともな西の地図がないことは棚に上げて、やっぱり 東北はみちのくだから仕方がないか、などと思うかもしれない。そうして傷つくことそれ自 体が、東北なのだということを記憶に留めておくことにしよう。東北と関西は東京をあいだ にはさんで、あくまでくっきりと非対称なのである。 司馬はまた、こんなふうに述べていた。 大人になってからの東北観はそれほど単純ではないが、しかし似たようなものかもし れない。 二 十 代 の 東 北 観 は、 東 北 の 風 土 か ら は 詩 人 が む ら が り 出 て く る と い う 印 象 が 基 礎 に なっていた。幾人かの東北出身者と知りあうにつれて、かれらが自分の境涯や物事への 感想を語るときに特有の抑揚を帯びることを知った。その抑揚には微量ながらも詩的気 分が含有されているようにおもわれ、こういう土壌から傑出した詩人群を生みだすのか と思った。︵﹁羽州街道﹂︶ こうした東北の詩的な風土についても、六 の東北紀行のそこかしこで語られていた。とは はじめに 11 いえ、そこで幾度となく言及されているのは芭蕉とその﹃おくのほそ道﹄であり、東北の近 代を代表する、石川啄木・宮沢賢治・斎藤茂吉といった詩人たちではなかった。司馬はあき らかに、茂吉や啄木にたいして冷淡であった。それとは対照的に、東北をゆく司馬は、意外 なほどに、西行や芭蕉によっておこなわれた歌枕の旅の跡をたどることに執着を示した。二 十世紀の末に近く、﹃街道をゆく﹄によって歴史紀行という文学ジャンルを創始したかにみえ る司馬が、じつはきわめて忠実な歌枕の旅人としての古風な貌をもっていたことを指摘して おくのもいい。 さて、東北の街道をゆく司馬 太郎の跡を、わたしもまた、急ぎ足でたどりなおすことに しよう。 12