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波兎文様を中心に

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波兎文様を中心に
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日本の染織意匠と中国 : 波兎文様を中心に(台湾大学:「
台湾における日本学、日本における中国学」)
黄, 韻如
大学院教育改革支援プログラム「日本文化研究の国際的
情報伝達スキルの育成」活動報告書
2008-03-31
http://hdl.handle.net/10083/35186
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Departmental Bulletin Paper
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黄 韻如:日本の染織意匠と中国
日本の染織意匠と中国
―波兎文様を中心に―
黄 韻如
はじめに
指定される宝厳寺の唐門がそれである。権力者たちの
桃山末期から江戸前期にかけて、波の上に兎が走る
外、中世の民衆たちの竹生島信仰の様子は、伝室町時
意匠の文様は、服飾、工芸品、建築などに見ることが
代作の『竹生島祭礼絵図』などによって確認できる。
できる。この意匠は波兎文様とよばれ、大変流行して
竹生島信仰の隆盛は波兎文様の形成の遠因と思わ
いた。伝徳川家康所用の「濃茶地葵紋兎立波模様辻ヶ
れ、実際に波と兎が組み合わせれる意匠は、当時の謡
花染裂」(図 1 )や、江戸初期の櫛箱「波兎蒔絵旅櫛
曲『竹生島』の詞章から発想を得ているとされている。
笥」
(図 2 )は、広く知られている例である。その他に、
謡曲『竹生島』は室町時代の成立とされ、江戸初期に
桃山時代の天満宮や瑞巌寺は、欄間・蟇股などにこの
なってから盛んに演じられるようになり、当時の人々
文様が彫られている。また、
「松浦屏風」(図 3 )に描
に好まれていたことが窺われる。波兎の意匠が多く見
かれている人物の小袖にも波兎文様が見られる。
られるのは江戸前期であり、ちょうど謡曲の流行と同
兎と言えば、中国では月で薬を搗く姿はすぐに頭に
じ頃でもあり、謡曲への関心は波兎文様の流行に反映
浮かべて、我々もおなじみの題材である。日本でも兎
されていると考えられる。
が月の中で餅を搗くというイメージがある。しかし、
『竹生島』は、醍醐天皇の臣下は竹生島に参詣し、
江戸前期に大流行した兎の文様の波を走る意匠は現実
琵琶湖で漁夫の老人と若い女の乗った舟に便舟を乞
に起こり得ない不思議な文様と思われる。一体波兎文
う。島へ着くと女も来るので、女人禁制ではと問うと、
様の発想は何に基づいていたのであろうか。
島の神体も女であることや、島の由来などについて物
本稿は日本の兎が波を奔る文様について形成背景を
語って姿を消し、やがて弁財天が現れ、続いて湖上に
確認し、中国における兎意匠との比較検討を加え、波
は竜神も現れて、臣下に金銀珠玉を授け、国土鎮護を
兎文様を通して、中国と日本における兎文様の受容を
約束して消え去る内容である。波兎文様の典拠とされ
明らかにすることを試みる。
る、琵琶湖を渡る場面は次の通りである。
旅の習の思わずも、雲井のよそに見し人も、同じ
波兎文様とは
舟に馴衣、浦を隔てて行程に、竹生島も見えたり
波兎文様に関してはこれまで多くの研究があり、谷
や、綠樹影沈むで、魚木に上る気色あり、月海上
田閲次氏は文様の形成について「月兎説話、竹生島明
に浮かむでは、兎も波を奔るか、面白の島の気色
神信仰、謡曲竹生島という一連の背景をもって成立し
や3
た文様」1と考察される。近年の研究2でも谷田氏の考
三月の春うららかな時期、老人が竹生島へ向かう舟
察を踏襲し、波兎文様は謡曲『竹生島』の「月海上に
から眺める風景の美しさを謡った一節である。波兎文
浮かむでは兎も波を奔る」から図案化され、日本独自
様の典拠とされる「月海上に浮かむでは、兎も波を奔
の文様とされている。
るか」一文は謡曲の解説書である『謡曲拾葉抄』(明
和 9 年〈1772〉)では次のように説明される。
まず波兎文様の形成と流行の背景について、中世以
来盛んになった竹生島信仰を挙げられている。琵琶湖
綠樹陰沈て魚木に登る気色あり月海上に浮ては兎
の北端にある竹生島は古来より霊島とされ、神亀元
も浪を走る
年 (724) に宝殿を建立して弁才天を祀るようになった。
自休蔵主詣二 竹生嶋一 作詩綠樹影沈魚上レ 木清
神殿・仏殿の整えられた14世紀の様子は「菅浦与大浦
波月落兎奔レ 浪靈灯靈地無二 今古一 不斷神風濟
下荘堺絵図」から窺われる。竹生島は足利幕府の祈願
渡舟矣 自休蔵主は建長寺の廣徳菴の僧元は奥
寺であり、戦国武将の織田信長や豊臣秀吉も頻繁に竹
州志信の人也4
生島に奉納していた。また、慶長 7 年〈1602〉徳川家
詩の作者である自休は、元奥州志信(現在の福島県
康は豊国極楽門を竹生島に移築しており、現在国宝と
の南)の出身で、建長寺廣徳菴の住持であった。彼は、
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台湾大学:
「台湾における日本学、日本における中国学」
かつて近江の竹生島神社へ参詣した際、この詩を詠ん
る姿へと変化が現れてきた。兎が吉祥文様として描か
だ。自休の詩は、月を喩えた兎は現実の兎と重ね合わ
れている例は多く見られる。「白地釉掻落兎文瓶」
(北
され、月の光が湖面に揺らいでいる様子が、あたかも
宋・図 6 )には、兎が草や霊芝を銜えて、後ろを振り
兎が流を走るように見立てられる。自休の詩は月を通
向く姿の構図が見られる。元代の「青花玉壺春」
(図 7 )
して虚構の兎をみ、叙情的表現である。
があり、そこには霊芝を銜えた兎の姿が見られる。こ
この詩は謡曲『竹生島』の作者に引用され、そして、
の意匠は、元曲「呂洞賓三酔岳陽楼」に因む図柄とす
謡曲の流行とともに当時の人々はこの美しい詞章を共
でに指摘された10。主役の呂洞賓の周りに見える、霊
感し、服飾、工芸品、建築などに波兎文様を好んで取
芝を銜える仙鹿と玉兎は恐らく神仙世界を暗示するた
り入れたと思われる。前述の波兎文様は何れも、波を
めに描かれたものと推測される。このような霊芝兎の
ダイナミックに走る兎の意匠が見受けられる。この文
意匠は後の時代も受け継がれ、今日中国の兎文様のな
様は今日でもなお、手ぬぐい、暖簾、湯呑みなどによ
かに最もよく見られる構図でもある。
く見かけられ、伝統の和風文様の一つとして使われ続
染織品の事例としては、刺繍の遺品である「緞地
刺繍縫飾七件」(図 8・元末明初か)のひとつに霊芝
けている。
兎の意匠があり、彩色の台や石に乗っている白兎は
中国における兎意匠
振り返る姿で、口に霊芝状の雲を銜えている。
『抱朴
波兎文様は、兎を月に見立てることが前提となり、
子』に「兎寿千歳、満五百歳則色白」とあるように、
はじめて波の上に走ることができる。中国でも兎が長
白兎は瑞祥の象徴と見做される。また明末の万暦皇帝
い間意匠化されてきたが、中には波との組合わせの意
(1573−1620)の墓からの出土染織遺品「紅織金妝花
奔兎紗」( 図 9 ) がある。雲の間を走っている兎は、霊
匠があるかどうかについて検討する。
中国では、月に兎が住むとされる思想が古くから根
芝雲を帯びており、霊芝の上にそれぞれ金糸で縁取り
付いており、以後様々な要素や解釈が加えられてき
されている団鶴、卍字、無極紋を刺繍で施されている。
た。中国の文献では、月に兎がいるという記述が早く
この奔兎紗の表現は前述した霊芝兎の吉祥の意味に包
も戦国末期の『楚辞』「天問」に見られ、「夜光何徳 摂されると思われる。
死則又育 厥利維何 而顧菟在腹 5 」とある。「顧莵」
6
では中国における兎意匠は、波と組み合わされる文
は蟾蜍とも解釈される が、湖南長沙馬王堆の副葬品
様はまったくないかと言うと、そうでもない。
「中秋
の幡に兎が月に描かれていることから、兎が月にいる
節令玉兎補子」
(明初・図10)は、兎と月、芭蕉葉、
とする考え方は遅くとも前漢時代に存在していたと思
菊、牡丹などが組み合わされている小裂である。この
われる。
ような補子は、官吏の階級を示す官補とは異なり、宮
兎と月との結びつきは前漢後期には広く受容されて
中では服に付けて、祝日の雰囲気の演出を担う季節物
いたが、前漢末期には西王母信仰の流行により、月の
である。
『明宮史』に「自瑞陽五毒至八月月仙玉兎倶
兎は西王母の随従となる。前漢の出土品「西王母画像
有蠎紗」11と記されるように、この補子は恐らく中秋
方磚」(図 4 )では、西王母に霊芝を献上する兎の姿
節に使用されていたものであろう。ここで特に注目し
が確認される。元々月に住み神聖性を持つと見なされ
たいのは、兎の下部に「海水江涯」と呼ばれる波の文
た兎は、西王母と結び付いたことで不老不死の象徴と
様があることである。このような波文様は明清時代に
いう吉祥性をも獲得したと考えられる。
おける官服や礼服の裾によく見られる常套的な表現で
唐代になると西王母の影が薄くなり、兎は不死薬を
盗んで月に逃げ込んだ
ある。日本の波兎文様のように特別な意味合いを含ん
娥と一緒に詠まれることが目
だ文様とは捉えにくい。
立ってきた。李白の「把酒問月」には、「白兎搗薬秋
また、清代の版画「月宮図」
(図11)のように、上
復春 娥孤棲有誰鄰」7とある。月宮に一人取り残
部に星辰と雲、下部に波が配置されており、中央に大
された
娥の終わらない孤独は、兎の不死性が強調さ
きな月が描かれている。月の中に雲の背景に太陰皇后
れることによって際立たされている。杜甫の「月」に
と侍女二人に薬を搗く兎、そして宮殿と桂樹が背景と
は「入河蟾不沒 擣藥兎長生」 8 とあり、薬を搗く兎
して配されている。このような版画は、民間では広く
は長寿などの象徴として捉えられる。これらのイメー
浸透していたと思われる。清代の『燕京歳時記』に、
ジは、盛唐期後半に多く製作されたとされる 9 「月兎
中秋節で月の神に供える絵は月宮と搗薬兎の図像が描
八稜鏡」(個人蔵・図 5 )に表象されていた。
かれていたとある。恐らく「月宮図」もこのような季
宋代以降、薬を搗く兎の意匠は霊芝などの草を銜え
節物と思われる。ここでの波は星辰と対比し、天と地
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黄 韻如:日本の染織意匠と中国
の意味が表現されていると思われる。中国の意匠では
裂は日本人の美意識によって選ばれ、兎の意匠は波兎
たとえ兎は波と組み合わされていても、あくまでも吉
文様と見做される事実は変らないと思われる。
祥文様として組み合わされていると考えられる。
以上より、中国における兎は古来より月の象徴であ
おわりに
るが、神仙の従者でもあり、吉祥思想に基づいた不老
文様は人間の営みであり、そこに人々の抱いている
不死の象徴でもある。そのため、文学や絵画などの題
意識が反映されるのである。中国の神仙思想に適う不
材とされる兎は、写実的に捉えられることもあるが、
老不死の吉祥性を帯びる搗薬兎や霊芝兎の文様と、日
月と結び付く吉祥性を持つ姿で描かれることが多い。
本の美感に相応しい文学的叙情から生まれる波兎の文
中国では波と兎の組合せの発想はないようだが、こ
様は、まさに対照的といえるのではないだろうか。中
こでは波兎文様は中国にはないと断言することはまだ
国と日本とそれぞれの文化が織り成す文様を考察する
出来ない。なぜなら、日本に伝えられた中国の染織品
ことの興味は、その後に潜む人々の思想を読み取るこ
である名物裂の中で波兎文様が見られるからである。
とと思われる。
名物裂にみる波兎文様
付記:本稿は拙稿「波兎文様についての一考察」(『服
飾美学』43号、2005年)の一部に新資料を加え、再構
名物裂とは、鎌倉時代から江戸時代中期までに貿易
によって中国から舶載された織物である。鎌倉時代に
成したものである。
禅宗文化とともに伝来した高僧の袈裟や仏典の包み裂
がその起源だと伝えられている。室町時代以降の茶の
湯の興隆とともに、掛け軸の表装裂や茶入の仕覆に使
注
用されるようになり、また大名家や社寺などで特に珍
1 谷田閲次『虚構の真実』(光生館、1976年)p.128-130。
2 丹沢巧氏は波兎文様が日本の文芸から生まれたと解釈
重されてきた裂地となり、由来によってそれぞれ名称
され、美術史の視座から今橋理子氏は波兎文様が日本独
がつけられた。これらの渡来裂は織り方や材質によっ
自の月兎文様の一つと定義する。丹沢巧「伝説『月の兎』
て「金襴」、
「緞子」
、「間道」などに大別されている。
と染織文様」
(『古来の文様と色彩の研究』源流社、2002
日本文化に溶け込んだ名物裂ではあるが、中国の染
年)p.144-135、今橋理子『江戸の動物画― 近世美術と
織品を主に収集していることから、中国の染織文化の
文化の考古学』
(東京大学出版会、2004年)p.52-56。
3 西野春雄校注『謡曲百番』(新日本古典文学大系57、
岩波書店、1998年) p.64。同書の底本は寛永 7 年〈1631〉
考察対象にもなりうる。本家の中国では伝世染織品が
少なく、日本に伝わったこれらの染織品はなおさら貴
黒澤源太郎刊観世黒雪正本である。なお、宝生流や下掛
重に思われる。名物裂の中で兎文様の多くは、花兎と
三流は「島の気色や」の部分を「浦の気色や」とする。
命名されている。花兎文様は名高い「角倉金襴」12(図
12)が挙げられ、また「芝山緞子」13(図13)のように、
振り返る姿の兎文様もある。これら兎の意匠は、室町
4 犬井貞恕『謡曲拾葉抄』(國學院大學出版部、1909年)
p.96。
5 星川清孝『楚辞』(新訳漢文大系第34巻、明治書院、
1973年)p.111-112。
時代から江戸中期を通して長い間日本の茶人に愛好さ
(『聞一多全集』開明書店、1948年)
6 聞一多「天問釈天」
p.328-333。
れてきた。
ところが、名物裂の中には波兎のような文様が見ら
7 青木正兒『李白』(集英社、1965年)p.343-344。
8 吉川幸次郎『杜甫詩注』4(筑摩書房、1980年)p.38-39。
れる。これは前田家伝来の「万暦緞子」と伊勢戸隠権
現の戸張に用いられた「戸隠裂」(図14)、また江戸時
代の「石畳地波に兎文緞子」(図15)などが挙げられ
る。
「万暦緞子」の上部の文様はほかの解釈14もあるが、
これらの裂は一般的に波兎文様と説明されている。し
かし前述したように中国では波兎のような文様は確認
できなかったことから、これらの裂が本当の舶載裂か
どうかは疑問。これから新資料が出てこない限り、中
9 中川あや「唐鏡の変遷―盛唐期以降を中心に」(『考古
学雑誌』88巻 1 号、考古学学会、2004年)
。
10 斎藤菊太郎「元代染付考―十四世紀中葉の元青花と元
曲―」上・下(『古美術』18・19号、1967年)
。
11 劉若愚著・呂毖編『明宮史』(叢書集成初編、中華書
局」
、1991年)p.43。
12 解袋の角倉金襴は、「元代兎紋織金緞」として掲載さ
れている。黄能馥・陳娟娟『中国歴代装飾紋様』
(中國
国には波兎文様がないと断言してもよいだろう。そう
た、日本から中国に依頼し、作らせたものとも考えら
旅游出版社、1999年)p.453。
13 芝山緞子は、現存のものは、東京博物館に所蔵され丈
10センチ・幅 4 センチの裂である。また、芝山という名
れる。しかしたとえ中国の唐物であっても、これらの
称の由来は、茶人である芝山監物が愛用したためであ
すれば、これらの裂は和製という可能性もある15。ま
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台湾大学:
「台湾における日本学、日本における中国学」
り、ゆかりのある一裂。
14 切畑健氏(『前田家伝来名物裂』上、京都国立博物館、
1978〉及び小堀宗慶氏(『文竜名物裂鑑―緞子間道雑載』、
婦女界出版社、1999年)は「波兎文様」と説明される。
2002年)「霊芝兎」の二種類の見解を示される。
15 拙稿「波兎文様についての一考察」(『服飾美学』43号、
2005年)では、文様の検討からすると、これらの裂は和
製の可能性もあると提示した。
小笠原小枝氏は、
〈山辺知行編『名物裂』、毎日新聞社、
1978年)「露芝兎」と、(『角川茶道大事典』、角川書店、
図1 濃茶地葵紋兎立波模様辻ヶ花染裂
(徳川美術館蔵・部分)
図2 波兎蒔絵旅櫛笥(東京国立博物館蔵)
図3 松浦屏風(大和文華館蔵・部分)
図4 西王母画像方磚(成都出土)
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