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龍宮について
龍宮について 1、浦島伝説 中国において蓬莱などの三神山は海上に浮かぶ聖域とされたが、深い海底ないし湖底にも 神仙の住む理想郷があるはずとした思想から生まれたのが「龍宮」である。この理想郷は 中国本土より移入された日本の側で様々な形で語られるようになる。これが浦島伝説であ る。 中国の洞庭湖周辺に伝わる「龍女説話」と「仙境淹留( - えんりゅう)説話」を下地に日 本化した物語が浦島太郎と推察されている。いずれも溺れる少女を救い、その恩返しとし て、水中の別世界に案内され、結婚に至り、日が過ぎて、故郷を懐かしみ、贈り物をいた だいて、戻るという展開である。これらの話を日本に伝えたのは、浦島伝説伝承地と根拠 地の合致から海人族(日本海側を支配していた一族)とされている。 一例として、蘇州の人である金生は、金龍大王の娘(竜女)といい仲になる。竜女は、 「30年後にまた会おう」と約束したが、金生は、「30年後では私はよぼよぼだ」と嘆い た。すると竜女は、「龍宮に老いはない。若さを保つなんて簡単よ」と処方箋を渡して 去った。その薬を服用し続けた金生は60歳になっても若さを保ち、一日ほど黄河を渡って いると、上流から蓮の葉に乗る竜女が現れ、連れだって共に神仙に去ったという。 浦島太郎伝説が神仙思想の影響を色濃く反映しているとする考察は、藤田友鍛著『古代日 本と神仙思想』(五月書房 2002年 p.233以降)にも詳細がある。 日本の浦島伝説は各地にあるし、浦島太郎の民話はご承知のとおり多くの子供が知ってい る。古くは、日本書紀にも浦島太郎の物語が語られている。 「西暦478年雄略天皇22年の秋七月,丹波国与謝郡(よさのこおり)の筒川(つつか わ)の水江浦嶋子(みずのえのうらしまこ)が舟に乗って釣りをしていら大亀が釣れた。 するとたちまちに乙女に化身した。浦嶋子と海に入って,蓬莱山(とこよのくに)にたど り着いた。この後は別巻で。」・・・・とあるが,「別巻」とは何?風土記を指すとも言 われています。 また、万葉集にも高橋虫麻呂の歌がある。 「春,霞がかかる日に住吉の海で釣り船を見ていると,はるか昔のことが思い出される。 水江の浦の嶋子が鰹や鯛を釣って7日,この世と常世の境を越えてしまいました。そこ で,海の神の娘である亀姫と会いました。二人は常世で結婚し,暮らしました。3年ほど 経って,嶋子が「しばらく故郷に帰って,父母に今の生活を話してきたい。」と妻に言っ たところ,「またここで暮らしたいのなら,決してこれを開けてはいけません」と櫛笥 (くしげ:玉手箱)を渡された。こうして水江にもどった浦嶋の子だったが,3年の間に 故郷はなくなり見る影もなくなっていた。箱を開ければ元に戻るかもしれないと思って開 けたところ,常世の国に向かって白い雲が立ちのぼり,浦島の子は白髪の老人になってし まいました。そして,息絶えて死んでしまいました。」 【補記】いわゆる浦島伝説を詠んだ歌。浦島子が常世の国に行ったという伝説を記す現存 最古の文献は日本書紀で、雄略紀二十二年(478)、丹後国余社(よざ)郡管川(つつがわ)(今 の京都府与謝郡伊根町筒川)の「瑞江(みづのえ)の浦の嶋子」が釣をしていて大亀を得た が、その亀が女と化して、共に海に入り、蓬莱山(常世の国)に到ったという。 虫麻呂の歌は舞台を摂津国住吉とし、亀が話に出て来ない点に特色がある。長歌は九十三 句に及ぶ虫麻呂最大の長篇で、彼の叙事的詩才が遺憾なく発揮された、物語性豊かな傑作 である。なお、神亀三年(726)、知造難波宮事に任ぜられた藤原宇合に同行して虫麻呂は 数年間難波に過ごしたらしく、この間に摂津地方に話題を取る歌を成したかと見られる (伊藤博『萬葉集釋注』)。 2、藤原氏の「龍神物語」 藤原四兄弟の中心人物・房前(ふささき)と父・不比等について、以下に紹介するような 摩訶不思議な「龍神物語」が語られている。この物語は、誰が創作したか不明であるが、 古典能として演じられており、それは極めて芸術性が高い作品となっている。ひょっとし たら、世阿弥が藤原一族の権威を高めるために創作したのかもしれない。それでは、この 摩訶不思議な物語について詳しく説明したいと思う。 私は、かって、「琵琶湖の霊力」というページの中で、「竹生島の秘密」という文脈の中 で少し「龍」のことを書いたことがある。しかし、それについては、後日談など割愛した 部分もあるので、ここでは割愛した部分も含めて、あらためて摩訶不思議な「龍神物語」 が語ってみたいと思う。 龍というのは、四神獣の中でも、白虎、朱雀、玄武より格が上の神獣で、最高権力者の象 徴として考えられてきた。 また、宝珠は、中国や日本だけでなく、ヨーロッパにおいても、最高権威の象徴として考 えられてきた。仏が手に宝珠を持っているそういう意味合いのものである。 龍が手に宝珠を持ち、ヒゲの下に明宝を蓄えているのは、龍が最高権力者の象徴であると 同時に、最高権威の象徴であることを意味している。 さて、能に「海士(あま)」というのがある。この能のあらすじは次の通りである。 藤原不比等の子、房前(ふさざき)は、亡母を追善しようと、讃岐の国の「志度(しど) の浦」を訪れる。 「志度の浦」で 房前は、ひとりの女の海人に出会う。 海人は、房前 としばし問答した 後、従者から海に入って海松布(みるめ)を刈るよう頼まれ、そこから思い出したよう に、かつてこの浦であった出来事を語り始めるのである。不比等の妹が唐帝の后(きさ き)になったことから贈られた「面向不背(めんこうふはい)」の玉が龍に奪われ、それ を取り返すために不比等が身分を隠してこの浦に住んだこと、不比等と結ばれた海人が一 人の男子をも うけたこと、そしてその子を不比等の世継ぎにするため、自らの命を投げ 打って玉を取り返したことなどを語りつつ、玉取りの様子を真似て見せた海人は、ついに 自分こそが房前の大臣の母であると名乗り、涙のうちに房前に手紙を渡し、海中に姿を消 す。房前(ふさざき)は手紙を開き、冥界で助けを求める母の願いを知り、志度寺にて十 三回忌の追善供養を執り行う。法華経を読誦しているうちに龍女(りゅうにょ)となった 母が現れ、さわやかに舞い、仏縁を得た喜びを表す。 この作品のハイライトは、何と言っても海人が龍宮から珠を奪い返す様子を見せる場面 だ。能の世界では、「玉の段」の名場面として特別視され、謡どころ、舞どころとして知 られている。一振りの剣を持って籠宮のなかに飛び入り、八大龍王らに守られた玉塔から 宝珠を取り、乳房の下を掻き切って押し込める。死人を忌避する籠宮のならいにより、周 囲には龍も近づかない。そして命綱を引く・・・。子のため自らの命を投げ出す一人の海 人の気迫が、特別な謡と型を伴い、ドラマチックに表現されていく。親子の死別という、 悲しい結末の重苦しさは、後半の短くテンポのよい展開で雰囲気を変えられ、最終的には 明るく、仏法の功徳に繋がっていく。さすがに能発祥の地・興福寺ならではの名作であ る。 なお、この「海女の玉取り物語」については、地元である香川県さぬき市に今なおしっか り伝承されていて、関連する「場所」である志度寺や真珠神社や海女の墓などを巡るツ アーが行われている。http://sanuki-asobinin.seesaa.net/article/281341637.html 3、春日龍神 能「海士(あま)」の後日談として、これもまた興福寺ゆかりの有名な能がある。能「春 日竜神」である。不比等の恋人(海士)が竜宮まで出かけて行って取り戻した宝珠は、不 比等の手によって、本来あるべき興福寺に無事収められる。それでは、その一連の話につ いて、私なりの解説をしておきたい。 藤原不比等の妹・白光は、唐の皇帝に嫁し、興福寺造営に際し唐より贈られた宝物・「華 原磬(かげんけい)、泗濱浮磬(しひんふけい)、 面向不背の珠 (めんこうふはいのた ま)」を兄の藤原不比等に届けようとした。ところが、それらを積んだ船が讃岐の「志度 の浦」にさしかかったとたん嵐が起こり、宝珠「面向不背の珠」が龍神に奪われてしまっ た。 龍神は、華原磬(かげんけい)と泗濱浮磬(しひんふけい)には見向きのしなかっ たようで、如何に宝珠というものが「龍神」と深い繋がりがあるかが判る。つまり、「面 向不背の珠」という宝珠は権威の象徴であったのである。 不比等はその権威の象徴である「面向不背の珠」という宝珠を取り戻そうと、身分を隠し て志度の浦へやってきた。ここで漁師の娘であった海女と恋に落ちたのある。房前(ふさ さき)という男の子も授かり親子三人で幸せに暮らしていた。しかし、不比等が「志度の 浦」に来た理由を知った海女は、愛する夫のためにその「面向不背の珠」を取り戻そうと 死を覚悟で竜宮へ潜っていったのである。 海上で待つことしばし。海女の合図で命綱をたぐった不比等の前に現れたのは、見るも無 惨な海女の姿であった。海女は間もなく、不比等に抱かれたまま果ててしまう。しかし、 「面向不背の珠」は海女の命に代えて縦横に切った乳房の中に隠されていたのある。「面 向不背の珠」は、無事、不比等の手に渡って奈良の興福寺に納められた。 すなわち、「面向不背の珠」は、不比等によって、折から造像中の興福寺中金堂本尊・釈 迦如来像の眉間に納め、後に改めて仏頭の中に奉籠されたらしい。 しかし、 華原磬(か げんけい)と泗濱浮磬(しひんふけい) は実際に見ることができるものの、肝心の「面 向不背の珠」は、現在、興福寺にはない。 平安中期、康平三年(1060)に中金堂が 炎上したが、不思議なことに、「面向不背の珠」は、興福寺の火災の時に、誰かによって 竹生島に運ばれ、現在は、竹生島の宝巌寺にある。「面向不背の珠」が竹生島の宝厳寺で 発見されたのは昭和51年のことと言われている。それは秘密になっており、誰も見るこ とができない。 華原磬(かげんけい)と泗濱浮磬(しひんふけい) は奈良興福寺の宝物館に納められて いるので、現在、誰でも見ることができる。いずれも法会の始まりを知らせる「打楽器」 である。 銅造華原磬(どうぞうかげんけい) 石造泗濱浮磬(せきぞうしひんふけい) ( http://asobiza.maiougi.com/menkoufuhai.html より) さて、『讃州志度寺縁起』によると、それを求めて興福寺にやってきた龍神は、興福寺の 守護神となって宝珠をお守りするのである。これの意味するところは、藤原氏の権力と興 福寺の権威は、龍神に守られているが故に絶対的というものであろう。 能「春日竜神」 は、そういう前提に立って、春日大社と興福寺が一体のものであることを物語るもので、 法華経の影響で興福寺の守護神・龍神に代って八大竜王が登場するが、春日大明神とは興 福寺の守護神・龍神のことである。能「春日龍神」については、かってホームページで書 いたように、 白州正子が次のような解説をしている。すなわち、 『 春日竜神はそういった単純素朴な能で、むつかしい箇所など一つもない。特別な見ど ころもない。いってみれば、初心者向きの曲なのです。 だから、つまらないといえばつまらない。私も長い間そう思っていたのですが、ある時 梅若実翁が演じるのを見て、強い感銘を受けたことがあった。そ れは、今の後シテの場 面で、竜神が、説法の座に、沢山の眷属(けんぞく)を集める所があり、幕の方を向い て、一々むつかしい名前を呼びあげる。むろん、そ んなものは一人も現われないのです が、それら大勢のお供を従えた竜神が、「恒沙(ごうじや)の眷属引きつれ引きつれ、こ れも同じ座列せり」と、舞台の中央 でどっかと居坐る。専門語では「安座(あんざ)」 (あぐら)といい、ふつう勢いを見せるために「飛安座(とびあんざ)」ということをし ますが、実さんは老 齢のためか、飛上りもせず、むしろ柔らかくといいたい位に、軽く 廻ってストンと落ちた。動作は羽毛のようだったが、坐った形は大磐石の重みで、舞台に は一 瞬深い静寂がおとずれ、橋掛から見物席に至るまで竜神がひしめき合い、釈迦の説 法に耳を澄ますかのように見えたのです。 それは今まで見た春日竜神とは、まったく別のものでした。しいていえば、昔の人が信 じた浄土とか涅槃(ねはん)という理想の世界を、ふと垣間見た 感じで、そんなことは 考えてもみないシテが、無心の中に現わしてしまうこのような美しさが、不思議なものに 思われてなりませんでした。もしかすると、その 時私は、自分でも知らずに、明恵上人の 姿にふれていたのかも知れません。』・・・と。 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kasumyou.html さらに、その後日談として能「竹生島」が演じられる。この能を理解する上の予備知識と して、竜宮というところの摩訶不思議な点を話しておきたい。竜宮への通路は全国いろん な所にあるが、竜宮という所は天国みたいなもので、一つの世界があるだけである。丹後 の伝説によると丹後にも竜宮への通路がある。興福寺と竹生島と丹後は、一つの竜宮で繋 がっている。龍神の顕われる出口が違うだけだ。興福寺の守護神としての龍神は、必要に 応じて興福寺にも出没するし竹生島にも丹後にも出没する。丹後に出没する物語を藤原氏 との関係で書いていないのは、その必要性を作者が意識していないからだ。藤原氏と竹生 島は深い繋がりがあるけれど、藤原氏と丹後とは何の繋がりもないからだ。丹後と大和と の繋がりは、藤原氏が誕生する以前の繋がりであり、また、丹後から弁天さんが竹生島に やって来たのも、藤原氏が誕生する以前のもっと古い話である。 龍神が権力の象徴だとすれば、龍神の棲む竜宮も権力の象徴であると考えてよい。丹後の 竜宮伝説は丹後王朝の存在を暗示し、竹生島の弁財天伝説はその権力が近江に移ったこと を暗示している。そして、私には、邪馬台国近江説を暗示していると思えてならないので ある。 4、能「竹生島」 能「竹生島」 ( http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_027.htmlより ) 能「竹生島」に出て来る「波うさぎ」の風景 ( http://www.iris-hermit.com/hitorigoto/mudabanasi/tikubusima.htmlより ) 能「竹生島」のあらすじは次のとおりである。 宮中の貴族一行が竹生島明神に参拝するために琵琶湖の湖岸まで来たものの、どうやって 島まで渡ろうかと思案していた所 へ、翁と海女の乗る一隻の釣り舟が通りかかり、一行 は同乗を許され竹生島へ向かう。 その島へ向かう舟から眺めた湖畔の景色を歌ったのが 次の一節。 『 島の緑豊かな木々の影が湖畔に映り、魚たちが木を登っているように見える。 月も 湖面に映り浮んで、月に住む兎も波間に映る月明かりを奔けて行くようだ なんとも不思 議な島の景色よ!』 舟が島に到着すると、翁は竜神に、海女は弁財天に変わる。 この不思議な体験から一行 は、改めて竹生島の神々の霊験あらたかなことを思い知るのである。 若狭の水と東大寺二月堂の水が繋がっているという古い言い伝えがあるが、古来言い伝え られているこの話と、能「竹生島」の竜宮の話を重ね合わせると、大和と近江との古い時 代からの深い繋がりを感ぜざるを得ない。 先に述べたように、龍神にまつわるこれら一連の能は芸術品としても極めて高い水準のも のである。これらの作品は、余程の人でないと創れない。藤原氏と余程の関係にあった人 で能の奥義を極めて作者と言えば、世阿弥だが、私は、龍神にまつわるこれら一連の能を 創作した人は世阿弥だと思う。それ以外にちょっと考えられないのだ。 藤原良基は世阿弥に「藤若」と言う名をあたえた。この「藤」は藤原氏の「藤」で、その 血統の最高者であればこそ、あたえることが出来る名である。「藤若」と言う名は、良基 以外の人間は与えることが出来ない。それほど重い名である。世阿弥と藤原氏とはこのよ うな関係にあったからこそ、渾身の力を振り絞って、藤原氏のために龍神にまつわるこれ ら一連の能を創ったのである。これら一連の能には、かっての藤原氏の栄光の輝きが想わ れ、武士の世にはなったけれど、引き続き藤原一族の繁栄を願う気持ちがあふれている。 そして、大事なのは、その世阿弥の熱い心が天に通じて、興福寺の逸材・明恵を産むので ある。明恵は藤原一族であり、時の将軍・北条泰時を通じて、現在の象徴天皇制をつくる のである。 ちなみに、能「春日龍神」に出てくる「明恵」について、私の主なホームページをこの際 紹介しておきたい。 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ku/1honmyou.html http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yumemoku.html http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sirakami.html http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/toganoo.html 5、興福寺の「龍の口」 さて、上述したように、竜宮への通路は全国いろんな所にあるが、竜宮という所は天国み たいなもので、一つの世界があるだけである。神の住まう所は天であるが、宇宙のどこか に神の住まう所が一つあって、祈りの儀式があるとか何か特別の環境下においてそこに神 は顕われる。世界のいたるところに神は顕われるのだ。それと同じように、龍神もそこに 地下の世界に繋がる池などの出入り口があれば、祈りの儀式があるとか何か特別の環境下 において龍神はそこに出没する。興福寺で言えば、猿沢池には龍が棲むという伝説もあ る。謡曲『春日龍神』は、「龍神は猿沢の、池の青波、蹴立て蹴立てて、其の丈千尋の、 大蛇となって、天にむらがり、地に蟠りて、池水を覆して、失せにけり」と結ばれる。春 日龍神は水神として深く広い信仰を集めてきたが、その舞台が猿沢池で あり、さらに春 日奥山の竜王池であった。春日龍神は、興福寺との関係で、猿沢池や竜王池にも龍神が現 れている。 猿沢池と興福寺の五重塔 ( http://gensun.org/pid/549708 より) 竜王池 ( http://www5.kcn.ne.jp/ book-h/mm041.html より) 春日龍神は、興福寺との関係で、猿沢池や竜王池にも龍神が現れている。これが興福寺の 「龍の口」である。「龍の口」のある所には、天皇ないしそれに匹敵する権力者の建造物 がある。龍神が権力の象徴だとすれば、龍神の棲む竜宮や「龍の口」も権力の象徴である からだ。 猿沢池の龍の話は、芥川龍之介の短編小説にも出て来る。これは、 宇治大納言隆国(うじ だいなごんたかくに)という公家が庶民から聞く のうわさ話の中の、猿沢池の龍の話で ある。最後に、 宇治大納言隆国は次のように言う。すなわち、 『 なるほどこれは面妖(めんよう)な話じゃ。昔はあの猿沢池にも、竜が棲んで居った と見えるな。何、昔もいたかどうか分らぬ。いや、昔は棲んで居ったに相違あるまい。昔 は天(あめ)が下の人間も皆心(しん)から水底(みなそこ)には竜が住むと思うて居っ た。さすれば竜もおのずから天地(あめつち)の間に飛行して、神のごとく折々は不思議 な姿を現した筈じゃ。』・・・と。 6、身近な竜 私たちは日常的に身近にいろいろな形で竜に接している。 まず私が上げたいのは、先に少し紹介した芥川龍之介の「竜」という短編小説である。こ れは猿沢池の竜のはなしである。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/134_15262.html さらに、身近な本として「浦島太郎」のほかに、「黒姫と黒竜」、「竜女おすわ」、「竜 の子太郎」などという童話もあるし、竜に関する絵本も沢山でている。宮沢賢治の「竜の はなし」というのもある。 また、神社やお寺で、私たちは、身近に「竜の手水場(ちょうずば)」を見ている。ここ では、少々「 竜の手水場(ちょうずば)」について書いてみたい。 まず、神社の手水場といえば、通常、清楚なものが多い。 しかし、神社によっては、面白い「龍の手水場」がある。これらは、多分、神仏混淆野茂 のが今なお残っているのかも知れない。 最上稲荷の手水場 ( http://nekokiri.net/kibiji.htm より) 仙台・青葉神社の手水場 ( http://chao01.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-80de.html より) 伊豆山神社の手水場 ( http://www.himawari.com/blog/item/15194 より) 箱根・九頭竜神社の手水場 ( http://4travel.jp/travelogue/10826800 より) しかし、「竜の手水場」は、本来、お寺のものである。歴史的にいえば、神道と「龍」と は繋がりがなく、「龍」と言えば仏教のものである。 舍利弗問経(しゃりほつもんきょう)という仏典の中で最も基本的な教典がある。これ は、仏陀がご入滅される以前、王舎城において、その経題が示しているように、舎利弗尊 者からの様々な質問に仏陀釈尊が答えられるという内容の比較的短い「経典」であるが、 その中に、仏法の守護者として、天竜八部衆というのが出て来る。天衆、龍衆、夜叉衆、 乾闥婆衆、阿修羅衆、迦楼羅衆、緊那羅衆、摩 羅伽衆の八人衆である。 天は、弁財天・吉祥天・大黒天などであるが、龍は、八大龍王と呼ばれる八種類の龍がい る。龍は仏法の重要な守護者である。このことはしっかり記憶にとどめておいて欲しい。 龍の中でも娑羯羅が雨乞いの神として深く信仰されており、弘法大師が京都神泉苑で八大 竜王に祈って雨乞いをし、雨を降らせたという話が残っている。また、龍は、「水」を司 る「水神」としても信仰され、手水場に登場している。さらには、寺院では、本堂の大天 井などに描かれた龍は、仏法の守護のほかに、火災除けとしても考えられてきたようだ。 このように、龍は、寺院とは密接不可分に結びついている。 したがって、寺院の手水場の典型的なものをいくつか紹介しておきたい。 浅草の金龍山浅草寺の八体の龍 ( http://ryuss.cocona.jp/henshukoki-2011/no209-110101.htm より) 深川不動堂の三体の龍 ( http://ryuss.cocona.jp/henshukoki-2011/no209-110101.htm より) 東本願寺の手水場 ( http://galaxydawn.blog63.fc2.com/blog-entry-608.html より) 永観堂の手水場 ( http://kimamatime.exblog.jp/12425752/ より) 鎌倉・本覚寺の手水場 ( http://plaza.rakuten.co.jp/wabisuke470/diary/200808190000/ より) 比叡山延暦寺の手水場 ( http://cherry2005.exblog.jp/6719002/ より) 江ノ島・龍口寺 ( http://www.kamakuratoday.com/suki/iine/905.html より) では最後に、「八方にらみの龍」と「鳴き龍」を紹介しておきたい。 妙心寺の「八方睨みの龍」 ( http://tenryudo.at.webry.info/200709/article_1.html より) 日光東照宮の鳴き龍 ( http://blogs.yahoo.co.jp/cpond/60821597.html より) 「八方にらみの龍」については、次のホームページに天竜寺、建仁寺、泉涌寺、東福寺の ものが掲載されているので、是非、ご覧戴きたい。 http://souda-kyoto.jp/travel/life/ceiling_paint.html 「鳴き龍」については、次のUTubeで音が聞けます! http://www.youtube.com/watch?v=v68B7XaL0kQ