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ミヒャエル・エンデについて
ミヒャエル・エンデについて はじめに 「エンデの遺言」は、1999年にNHKのBS1で放送され、全国に大きな衝撃をあたえ た。ミヒャ エル・エ ンデはドイツの児童文学作家だが、哲学者でもある。その作品『ジ ム・ボタンの機関 車大旅行』や『モモ』『はてしない物語』は日本でも人気がある。エ ンデは資本主義制度がダーウィニズムからくる弱肉強食を経済生活に適用さ せ正当化さ せている点を指摘し、精神性や文化といったものがないがしろにされている状況を嘆いて いたことはよく知られている。 私は、エンデの国家論や文化論に重大な関心を持っていて、相当以前になるが、少し書い たことがある。 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yuuai07.html http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/matende.html エンデは、私たち日本人におなじみの人である。 エンデは48才のとき初来日。能・歌舞伎を鑑賞したり、禅僧と対談したりしておられ る。その頃、『はてしない物語』を完成。その後、56才の時に奥さんを亡くしておら れ、その3年後に、「エンデ父子展」のため再来日、『はてしない物語』の翻訳者佐藤真 理子と結婚されたのである。エンデは日本びいきで、是非、日本に地域通貨と取り組んで もらいたいと考えておられた。それが「エンデの遺言」として結実したのである。 私は、「エンデの遺言」を読んで感激し、自分なりに地域通貨を勉強し、電子書籍「地域 通貨」を発刊し、その後も勉強を続けている。何とか秩父で「地域通貨」を発行できない かと考え、「秩父神社の歴史的考察」という論文の第6章で「地域通貨」で、「地域通 貨」に関する今までの勉強を総括しながら、最終的には秩父神社との関連でとんでもない 提案をしている。とても秩父の人にご理解していただけそうもないが、現在のところ、 「地域通貨」は尋常一様のことでは普及しないというのが私の最新の考えである。した がって、その論文ではとんでもない提案をしたのである。(注:その論文の中で、私のYouTube が出てくるが、その中で、エンデをフランス人と言っているが、これは間違いで、エンデはドイツ人であ る。この場を借りて訂正しておきたい。) 1、松岡正剛のエンデ論 松岡正剛が「エンデの遺言」について書いているので、その要点を紹介しておきたい。彼 は、次のように述べている。すなわち、 『 ミヒャエル・エンデが最後に望んでいたのは、利子が利子を生まない貨幣だった。 (中略)この卓抜な発想には、何人かの先覚者がいた。ゲゼル、ケインズ、シュタイナー である。』 『 エンデは、青少年期をルドルフ・シュタイナーの影響のもとに過ごした。このこと は、前夜に紹介した。』 『 そのシュタイナーに経済社会論をめぐる著作がある。おもな主張は『社会問題の核 心』(人智学出版社)や『シュタイナー経済学講座』(筑摩書房)にまとめられている。 おそらくエンデが熱心に読んだ本だろう。そこに「老化する貨幣」が提唱されている。』 『 「老化する貨幣」は、当初の価値がしだいに減衰していくという貨幣という意味をも つ。経済学では「エイジング・マネー」と呼ばれている。(中略)そういうエイジング・ マネーをミヒャエル・エンデも夢想した。』 『 ゲゼルは、ケインズ(1372夜)が『雇用、利子および貨幣の一般理論』でとりあ げた「スタンプ付き貨幣」を発想したドイツの商人である。しかしゲゼルは、ケインズが 言うようなたんなる商人ではなかった。革命的な経済思想家であり、画期的な貨幣論の提 案者であった。』 『 実はアインシュタイン(570夜)もゲゼルにぞっこんだった。「私はシルビオ・ゲ ゼルの光り輝く文体に熱中した。貯め込むことができない貨幣の創出は、別の基本形態を もった所有制度に私たちを導くであろう」と褒めている。』 『 1886年、24歳のゲゼルはアルゼンチンに行く。兄のパウルが製造した歯科治療 器具をブエノスアイレスで販売することが仕事だが、アルゼンチンはインフレとデフレを 繰り返す金融混乱時代になっていた。』 『 それなりの仕事をしていたゲゼルは、ここで一念発起する。ことごとく事業を整理し て、ラプラタ川に 浮かぶ島をひとつ買うと、そこで農地を耕しつつ、理論活動に耽った のである。こうして第1弾の『社会的国家への架け橋としての通貨改革』という画期的な 論文が生まれる。』 『 ゲゼルは続いて『事態の本質』『貨幣の国有化』を著し、1897年には『現代商業 の要請に応える貨幣の適用とその管理』を刊行し て、アルゼンチン政府と経済界に問う た。反応はあいかわらずない。それでもゲゼルは『アルゼンチンの通貨問題』というパン フレットを作り、政界・実業 界・新聞社をまわった。』 『 34歳になっていたゲゼルは、1900年に ヨーロッパに帰ってくる。ヨーロッパに 戻ったゲゼルはスイスを選んだ。ヌシャーテル県のレゾート・ジュネヴィに農場を購入す ると、そこでみずから農民となって6年間をおくった。スイスの長い冬がゲゼルに新たな 思索と表現をもたらした。アルゼンチン時代とちがって、ゲゼルは今度は「土地」のこと を考えた。そこで最初の活動として「貨幣と土地改革」という雑誌を創刊した。「自由 地」という概念もこしらえた。あいかわらず世間の反応は冷たかったが、エルンスト・フ ランクフルトが共感を示した。すでに『不労所得』『シルバーリバーからの手 紙』と いった著作をものしていた経済学者である。フランクフルトはのちにゲゼルの主要大著 『自然的経済秩序』の協力者になっていく。』 『 ついでスイスの国営銀行法の議論に介入して、『スイス銀行の独占』を書き、190 6年には『労働全収権の実現』を、続いて『アルゼンチンの通貨過剰』を、さらにフラン クフルトと共著の『積極通貨政策』を刊行した。ここでスイスからベルリンに拠点を変え たゲゼルは、ゲオルグ・ブルーメンタールと雑誌「重農主義者」を発刊するかたわら、こ れまでの著作を編集再構成し、いよいよ『自然的経済秩序』をまとめていった。この主著 は、日本では『自由地と自由貨幣による自然的経済秩序』(ばる出版)という大著になっ ている。 カウツキー研究者の相田慎一の訳である。』 『 ゲゼルは勇躍、1916年にはベルリンで「金と平和」を、翌年にはチューリヒで 「自由土地、平和の根本条件」を、1919年にはふたたびベルリンで「デモクラシー実 現後の国家機関の簡素化」を、それぞれ講演した。3番目の講演は「小さな政府」を提唱 したものだった。』 『 しかしゲゼルはそうした驚くべき先駆性とはべつに、1917年に始まったロシア革 命によるマルクス 主義的な反資本主義の思想と行動に警戒を強めた。いったい社会主義 や共産主義によって世界は変革されるのか。ゲゼルは以降、ボルシェヴィズムを批判し、 マ ルクスの経済思想の限界を見極めようとする。思想的にマルクスを批判しただけでは なかった。1919年にバイエルン共和国のホフマン政府から社会化委員会への参加が要 請されると、ミュンヘンで友人 のテオフィール・クリスティン、ポレンスケ弁護士らとと もに「自由経済顧問団」を結成し、ギュスターブ・ランダウアーの新政府(クルト・アイ スナー政府) の樹立に協力をする。』 『 ゲゼルが新政府の財務担当人民委員に就任して1週間で、クルト・アイスナー新政府 はモスクワの指示に従う共産主義者によって転覆されてしまった。これがバイエルン第二 共和国である。ランダウアーは逮捕され、殺害された。ゲゼルは憤然として「全貨幣所有 者への呼びかけ」というパンフレットを撒いた。』 『 第一次世界大戦は終わった。しかしヴェルサイユ条約の経済政策はなんともひどいも のだった。黙っていられないゲゼルは、1920年に『ドイツ通貨局、そ の創設のため の経済・政治・金融上の前提』というパンフレットを発表する。時のドイツ銀行の総裁 ハーフェンシュタインに宛てた。むろん何の対応もなかっ た。もはやドイツ一国を相手に できないと見たゲゼルは、まずは『ドイツ国民への宣言』を書き、ついで「世界貨幣」を 構想した『インターナショナル・ヴォル タ・アソシエーション』を発表した。今日のIM Fとは異なる国際通貨協会を創設して、どの国民通貨に対しても中立的な通貨を発行する という構想である。こ のときどうやら、ケインズがゲゼルに注目したようだ。おそらく シュタイナーもこのころにゲゼルの自由貨幣論に触発されて、「老化する紙幣」を発想し たものと思われる。』 『 1927年、渾身をふりし ぼって『解体する国家』を書くと、世界が大恐慌に見舞 われていったさなかの1930年3月11日、69歳の誕生日を前に、ゲゼルはベルリン 郊外のエデンに没した。』 『 ミヒャエル・エンデがどのようにシルビオ・ゲゼルを知ったかははっきりしない。N HKの番組では、金融システムの問題を話していたエンデが、その話が佳境に入ったあた りで突然にゲゼルのことを持ち出し、取材班を驚かせたという。NHKチームはゲゼルの ことをまったく知らなかったからだ。のみならず、エンデはゲゼルの経済思想が実践され た例を持ち出した。オーストリアのヴェルグルという町のことだった。』 『このゲゼルの理論を実践し、成功した例がある。1929年の世界大恐慌の後のオース トリアのヴェルグルという町のことである。 ヴェルグルはザルツブルグ近郊にある。その 町で、1932年に画期的な実験がおこなわれた。世界大恐慌のあおりをくった人口50 00人ほどのヴェルグル は、400人の失業者と1億3000万シリングの負債をかかえ ていた。そこで町は、通常貨幣とは異なった「労働証明書」という形の新しい通貨を発行 し、公 共事業の支払いに充てた。世界史上初の「エイジング・マネー」の導入だっ た。』 『 ★1932年の早い時期、ドイツのバイエルンの石炭鉱山の町シュヴァーネンキルヘ ンで、鉱山所有車のヘベッカーが「ヴェーラ」という自由貨幣を発行した。 ★1932 年10月、アメリカのアイオワ州ハワーデンで30万ドルの自由貨幣が発行された。 ★ 1933年、ロングアイランドのフリーポートで、失業対策委員会が5万ドルの自由貨幣 を3種類の紙券として発行した。★1934年10月、スイスのバーゼルに本店をおく ヴィア銀行は、協同組合銀行として経済リング「ヴィア」を開始した。 ★1983年、カ ナダのバンクーバーで、コモックスのマイケル・リントンが「グリーンドル」という物や サービスを交換できるシステムLETSを始めた。地 域交換取引システム(Local Exchange Trading System)の頭文字をとってLETSという。★1991年、ニューヨー ク州イサカで「イサカアワー」という地域通貨が誕生した。「グリーンスター」という生 協型のスーパーマーケットのポール・グ ローバーが始めたもので、非営利の委員会でこれ を管理した。1イサカアワーは10ドル。現在も使われていて、8分の1アワー、4分の 1アワー、2分の1ア ワー、1アワー、2アワーの5種がある。表面には「ここイサカ では私たちはお互いに信頼しあっている」というフレーズが刷られ、裏面には「この紙幣 は時間 の労働もしくは交渉のうえでの物やサービスの対価として保証されています。イサ カアワーは私たちの地元の資源をリサイクルことで地元の経済を刺激し、新た な仕事を 創出する助けとなります。イサカアワーは私たちの技能・体力→道具・森林・野原・川な どの本来の資本によって支えられています」と刷られている。 ★1992年、ドイツのザクセンアンハルト州のハレ市に、「交換リンク」という仕組 みが始まった。現金をまったく使わずに通帳上の中だけで物や仕事や サービスを交換す るシステムで、通帳の中で交換されるのは「デーマーク」という経済単位である(1デー マーク=1ドイツマルク)。』・・・と。 2、「哲学者としてのミヒャエル・エンデ」 戦前の経済思想家シルビオ・ゲゼルの着想からはじまり、戦後は、ドイツの大作家ミヒャ ユル・エンデがこの「地域通貨」運動を全世界的に推進しようと努力したことで、一般に もかなりよく知られるようになってきている。 1980年代にエンデがローマクラブで行った発言は、「オリーブの森で語り合う」に収 録されているが、「お金の問題を問題として話し合う」というエンデのローマクラブでの 発言は、そう簡単に世の中に認められるものではないが、波紋は非常に大きく、画期的な ものであったと今では世界に評価されている。それでは、「オリーブの森で語り合う」を 紹介しておこう。 「オリーブの森で語りあう」については、次のようなホームページがある。 http://text.wz.cz/me/jap1/olive-jp.html 以下はそれからの抜粋である。 要点のみであるが、そのホームページでは次のように述 べている。すなわち、 『 この「オリーブの森で語りあう」という本は政治家エアハルト・エプラーとコンタク ト・シアターの主催者ハンネ・テヒル、それにエンデの3人との間で、1982年2月5日 (金)と翌日の6日(土)に行われた対話を文章化したものである。』 『 対話はエンデのスイス最大のデパート・コンツェルンのインスティテュートでの体験 談から始まる。そこで 「合理主義の落とし穴」というテーマで開催された会議にエンデ は招待された。ローマ・クラブの会員など多数の人たちが参加したその会議にエンデは招 待さ れ、「モモ」の一節を朗読してくれ(床屋のフージー氏の箇所)と頼まれたのであ る。そこで彼は多数の大人を前に、床屋のフージー氏の箇所を朗読 したが、それを聞い た会場の大人たちは一瞬唖然とし、その後にその一節の文学的価値について討議が始まっ た。』 『 そこでエンデは以下のように発言した。「今世紀に入ってから、ポジティヴなユート ピアというものがほとんど描かれていないことに私は注目しているのです。ジュール・ ヴェルヌが描い た科学万能主義的ユートピア、カール・マルクスの社会主義ユートピア。 これらふたつのユートピアが自己矛盾をおこした後、今世紀に描かれたウェルズの「タ イ ムマシン」やオーウェルの「1984年」などは、悪夢でしかありません。今世紀の人間は自 分じしんの未来に不安をいだいています。私たちはもはや、自分 がいったいほんとうにな にを願っているのか、を勇気をだして考えようとすらしません。ですから私としては、こ ういう提案をしたいので す。・・みんなでいっしょに大きな空飛ぶ絨毯にのって、百年後 の未来にまで飛んでいくのです。そして今から、ひとりひとりが、その場合世界がどんな ふうに なっていてほしいと願うのか、発言するのです。』 『 数分間の沈黙のうち、誰かがこう反論した。「そういうおしゃべりにどういう意味が あるのですか。まったくのナンセンスじゃありませんか。われわれは事実の領域にとどま るべきです。そして事実というのは、まさに、すくなくとも年3%以上の成長がなけれ ば、競争に生きのこれなくなり、経済的に破滅するということです」』 『 そこでエンデは以下のように発言した。「床屋のフージー氏のケースを思い出してく ださい。フージー氏は灰色の男の、時間を節約して貯蓄しようという提案を信じ、そのよ うに自分の仕事を進めようと したとたん、従来、楽しくて多彩だった生活は、まるでカ ラーからモノクロへと転換したかのように、灰色の生活になってしまったのでした。文字 通りフー ジー氏は時間ドロボーである灰色の男のとりことなってしまい、時間の節約とい う行為のうちにひきこもってしまったのですね。( 注:床屋のフージー氏:http://ns-kansai.org/ column/books/post-105 )』 『 ここでエプラーが経営者たちを弁護して、「経営者たちにはユートピアがある。つま りテクノクラシーを継続してゆくというユートピアだ」と 述べる。』 『 そんな話を受け、テヒルが小規模な労働共同体(労働者がその企業を所有し、経営も 自分たちで決定するもの)を提案するが、それを受けエンデは「経済生活をひたすら経済 の視点からだけながめる。そういう態度はまちがっているんじゃないか」と語り、経済を 文化の問題として理解すべきだと主張する。』 『 ここでエンデは、フランス革命の三つの理想、自由・平等・友愛に触れ、「「経済」 にたいして、例の「需要と供給の自由なゲーム」を適用させることはできない。そうなる と「万人の万人にたいする戦い」となり、経済的に最も弱いものがいつも割を食うことに なるからだ」と 話している。彼が話していた「ユートピア」は、こういった友愛主義的経 済体制の中でのみ存在できるものである。エンデが提案する経済体制は、国家や資 本家 から独立した消費者共同体であり、そこで生産者と消費者が直接向かい合うことで、生産 者を搾取することなく消費者の需要を満たす経済を満たそうとする ものである。』 『 以上のように語った後、エンデは「政治と経済と精神活動という人間の生活の三つの 部分すべては「文化」という名のもとに統合されなければならないと主張する。すなわち 文化がわれわれの社会 生活全てを決定する要素になり、それを実現する手段としてのみ政 治や経済がその本分を果たし、自由な精神がその文化に栄養を与え続けるのである。』 『 エンデは、「文化というものは、行政機関に頼るのではなく、 市民自らの手で成し 遂げるべきだ」と言っているのである。』 『 現在の国家の役割をまるっきり否定されて憤慨しているエプラーが「いったいだれが 学校にお金をだすんだい?」とエンデにきくが、ここで彼は逆に「じゃ、きくけど、今 日、学校にお金をだしているのはだれなんだい?」と聞き返し、「国民だよ。国はぜんぜ んお金をだしていない。国は国民の払った税金を配分しているだけだよ」と 言い放つ。そ の意味でいうならば、学校教育に限らず国立病院や市立図書館、その他行政が費用を負担 する形で運営されている機構はすべてその利用者と納税者 である国民が運営していること になり、その運営費用を賄うために国が税金を徴収しているのだが、そういう回りくどい やり方をするぐらいならそれらの行政 サービスを必要と思う人たちがそれを運営すべき だ、ということなのである。だが、現在の資本主義の立場から経済をとらえているエプ ラーは「回り道がなくなれば、学校は、経済界の寄付によって、運営されるだろう。寄付 は税金で控除の対象だからね。すると、経済が文化に及ぼす影響は、今日の比じゃなく、 圧倒的になるんじゃないだろうか」といってこの分野での行政の介入を正当化するが、エ ンデは「資本主義「経済」を前提にしたままだと、当然そうなるに違いない。「経済」の 基盤を別な場所にうつしもしないで、本当に「精神」を解放することはできない」と 反 論する。』 『 エンデは、「芸術がもし必要であるならば、政府からの補助金に頼ることなく市民自 らの手で支えてゆく必要があり、補助金がなくては成立しないような文化は 必要ない」 とさえ言う。もし市民が豪勢なオペラを観劇したいと望むならば、それなりの費用を見た いと思う人たちが分担して負担する必要があり、それがあって こそそのオペラは成り立つ のであり、もしそれだけの費用が賄えないのならばそのような芸術は「自由な精神」には 必要ないものとして切り捨てられるべきもの だ、というのがエンデの主張であ る。』・・・と。