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岩井直恒の宴曲『拾菓集』書写

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岩井直恒の宴曲『拾菓集』書写
1
Memoirs of Osaka Institute
of Technology, Series B
Vol. 58, No. 2(2013)pp. 75〜86
岩井直恒の宴曲『拾菓集』書写
岡田三津子
知的財産学部 知的財産学科
(2013年 9 月30日受理)
Enkyoku “Syukasyu”.(宴曲『拾菓集』)was Naotune IWAI transcribing
by
Mitsuko OKADA
Department of Intellectual Property
Faculty of Intellectual Property
(Manuscript received Sep 30, 2013)
Abstract
This paper is a bibliographical study of the Enkyoku “Syukasyu”.(宴曲『拾菓集』)in the Hokkaido University
Library and consider its origin in the “Shikigo”.
It also examines details of Naotsune IWAI, the transcriber of the first volume of this book, to determine whether he is
the same person as the famous Noh actor Naotsune IWAI in Kyoto during the Edo Period.
キーワード; 宴曲,『拾菓集』,北海道大学附属図書館本,岩井直恒,京観世
K e y w o r d; Enkyoku,“Syukasyu”,Hokkaido University Library,Naotsune IWAI
−86−
2
岩井直恒の宴曲『拾菓集』書写
はじめに
宴曲は、十三世紀後半から十四世紀初頭にかけて集大成され、室町時
代末まで約二百年にわたって武士を中心に享受された歌謡である。宴曲
の大成者明空(生没年未詳)は、
『宴曲集』五冊(巻一から巻五)をは
田 三津子
(二〇一三年九月三〇日受理)
知的財産学部 知的財産学科 岡
頁)
(『早歌の研究』一九六五年、至文堂、第二篇第八章「早歌十六冊伝
本の研究」
外村氏はさらに、北大本上巻が、三手文庫本・松平文庫本(甲本)と同
じ原本から派生したものではないかと推測している。
一方、北大本下巻については、蒲生美津子氏の以下の報告がある。
備え、振仮名もある。濁点は
じめとする十六冊百六十曲を撰集した。
『拾菓集』上・下は、その五番目の撰集にあたり、『撰要目録』によ
って嘉元四年(一三〇六)の成立であることが知られる。現存する『拾
は、施されていない。朱棒が他の譜本に比べて多いのが特徴と言え
蹴鞠の数箇所に見えるほか
菓集』伝本のうち、室町期の譜本は以下の五本である。
る。奥書なし。
遊仙、
尊経閣文庫蔵『拾菓集』下
北大にはこの譜と同じ装丁の『拾菓集上』があるが、これには曲
頭記やタレカギなどの朱書をすべて欠くので本書ではとり挙げな
北海道大学文学部蔵。綴葉装、五行書き、一行十六字程度。ハカ
セがしっかりしており、拍子点も明確である。すべての音楽表記を
東京大学史料編纂所蔵『拾菓集』上
い。(『早歌の音楽的研究』一九八三年、三省堂、第一章「早歌譜諸
北海道大学附属図書館蔵『拾菓集』下
本の書誌」
頁)
冷泉家時雨亭文庫『拾菓集』上(坂阿署名本)
114
冷泉家時雨亭文庫『拾菓集』上・下(無署名本)
113
略称する)
。
本稿では、このうち、北海道大学附属図書館蔵本を取り上げ、改めて
検討する(以下、北海道大学付属図書館蔵『拾菓集』を、「北大本」と
蒲生氏は、北大本下巻を室町期譜本の一つと位置づけ、音楽的研究の
観点から分析対象としている。
えられてきた岩井直恒が、宝暦・明和期に京都で活躍した能役者である
外村氏も蒲生氏も、北大本の簡略な書誌情報を記しているが、詳しい
書誌調査報告は行っておられない。今回の調査で、これまで伝未詳と考
北大本の下巻は室町期の譜本であり、重要な伝本として注目されてき
た 1(。) 一 方、 北 大 本 上 巻 は、 一 丁 裏 の 識 語 に よ っ て 岩 井 直 恒 な る 人 物
ことが判明した。北大本は、宴曲享受史の観点からも能楽史の側面から
三手(引用者注:三手文庫本)
・北大は三手が六行書きで北大が五
物であることを述べる。最後に、北大本『拾菓集』直恒補写の資料的意
が、京観世五軒家のうち岩井家四代目当主岩井七郎右衛門直恒と同一人
本稿では、まず北大本の書誌調査報告を行う。次に、北大本『拾菓集』
の直恒識語について検討する。さらに、北大本上巻を補写した岩井直恒
も興味深い問題を提起するものである。
が寛政四年(一七七二)に補写したものであることがわかる。
行書きである点や字配りが違うが、相当多い欄外の註記が殆ど同じ
外村久江氏は、北大本上巻の本文の特徴について以下のように言及し
ている。
で、曲頭記・垂れ鍵・朱譜等の朱書きを欠いている点も同じである。
−85−
296
25
3
義について考察する。
一行字数:上巻 一七字〜二〇字程度
下巻 一六字程度
所蔵者:北海道大学附属図書館
. ︱L/2 ︱2/EN
請求番号:81 2
調査日:二〇一三年七月七日(月)
所々/尋求、此上巻ヲ写得タリ。古本ノ下巻ニ合セテ上巻新ニ足ス。
上巻下巻ト分チタリ。サレバコソ外題ノ下ニ一字有シヲ削タリ。依之
十三年此宴曲ノ上手ニ沙弥実阿ノ書ニ無疑。其後撰要目録/ヲ考レハ
此拾菓集一冊、寛政四壬子年春岩井直恒写之。但シ今ヨリ五六/年前
一、北大本『拾菓集』書誌
写本二冊(取り合わせ本)
尤手本ニセシ/前後全備セシモ、後世写シ故章句正シトモ云ガタシ。
識語 上巻、第一丁裏に、以下の識語がある(/は改行を表す。句読点・
傍線を私に付す。旧字体の一部を通行字体に改めた)。 (図4)
本文紙質:鳥の子
直恒ハ随分手本ノ通写セシ也。
b
右寛政同年六月下旬書添置 岩井直恒花押
北大本『拾菓集』は、上巻が江戸期の補写、下巻が室町期の譜本とい
章部分を取り除いたものと考えられる。
可能性が高い。「伝実阿筆」下巻と一揃いにするために、下巻の詞
直恒が補写した『拾菓集』は、元来、上下完備した一冊本であった
丁以降に『拾菓集』下巻の本文が続いていたと推測される。つまり、
る(図6)。北大本の上巻は、現在三二丁で終わっているが、三三
して、下巻の目録を記し、目録からすぐに裏表紙見返しに続いてい
3 上巻の三二丁表は『拾菓集』上の最後の曲「同摩尼勝地」の末尾
ま で 記 し て 終 わ っ て い る( 図5)。 三 二 丁 裏 に は「 拾 菓 集 下 」 と
紙はついていなかったことがわかる。
から、直恒が識語を記した寛政四年の時点では、下巻には現在の表
た題簽が貼ってあり、文字が削られた跡は確認できない。このこと
述べている。しかし、現状では表紙左肩に「拾菓集 下」と記され
ことに着目する。直恒は、下巻の外題の下に一字削った後があると
2 「サレバコソ外題ノ下ニ一字有シヲ削タリ」(傍線部b)とある
仮称しておく。
明である(実阿については次節で述べる)。下巻を「伝実阿筆」と
曲ノ上手ニ沙弥実阿ノ書ニ無疑」(傍線部a)と断定した根拠は不
1 北大本の下巻には奥書がないため、直恒が「正敷応永十三年此宴
備考
古本ニテ拾菓集ト外題在之ニ見アタリ直恒聊見覚シ手跡也/正敷応永
a
製本様式:綴葉装
右下に分類ラベル「
」貼付
L/2.2/JYU
︱
︱
左肩に題簽(縦 12・3糎 横 28・4糎)
用紙 鳥の子・金切紙散らし
「宴曲拾菓集/応永古写本/上巻ハ寛政ノ補写」と墨書(図
この分類番号は北海道大学文学部所蔵時のもの(後述)
︱
大きさ:縦 ︱23・1糎
横 16・8糎
表紙体裁:金地唐草文様
見返し:鳥の子・金銀泥流し(銀は褪色)
題簽:表紙左肩
とも異なっていると考えて良い。(図2・図3)
用紙 鳥の子・金切紙散らし(帙と同一か)
上巻 縦 ︱7・8糎 横 ︱3・4糎。
「拾菓集 上」と墨書
下巻 縦 ︱7・8糎 横 ︱3・1糎
「拾菓集 下」と墨書
*上巻と下巻の題簽の文字は別筆と考えられる。また、帙題簽の文字
内題(目録題):拾菓集 上(拾菓集 下)
丁数:上巻 三二丁
下巻 三四丁
半葉行数:五行
−84−
綴糸:茶
帙:唐花文様布貼り
)
1
しているのはこのような経緯による。文学部が『拾菓集』を購入した時
っている。外村氏や蒲生氏が、北大本『拾菓集』の所蔵者を、文学部と
文学部から附属図書館に管理換が行われ、現在は附属図書館の所蔵とな
北大本『拾菓集』の来歴について述べる。北大本『拾菓集』は、
次に、
当初、北海道大学文学部の所蔵であった。昭和五〇年(一九七五)に、
形態を取るのは北大本だけである。
は不明である。現存『拾菓集』伝本のうち、このような取り合わせ本の
考えられる。その改装が直恒自身の手になるものか、後人によるものか
筆」の下巻とが取り合わされ、一揃いとして同じ装幀を施されたものと
う取り合わせ本である。いずれかの時点で、直恒補写の上巻と「伝実阿
した。
あるため、章句が正しいとも言い難い。直恒は手本の通りに書き写
補写の)手本にしたものは前後が全備してはいたが、後世の写しで
できた。古本の下巻に合わせて、上巻を新たに付け加える。(上巻
たのであろう。このため諸所を尋ね求めて、この上巻を写すことが
その後、『撰要目録』を参看したところ、『拾菓集』は上下二巻から
永十三年此宴曲ノ上手ニ沙弥実阿ノ書)であることに疑いなかった。
それは、まさしく応永十三年の宴曲の上手沙弥実阿の筆跡(正敷応
とある本と出会ったが、直恒がいささか見覚えのある筆跡であった。
したものである。ただし今から五・六年前、古本で外題に『拾菓集』
なっていた。だからこそ(下巻の)外題の下に一字あったのを削っ
期は不明であるが、
附属図書館への管理換時の整理カードが残っており、
。そこで、『増訂版 弘文荘
(2)
傍線部「正敷応永十三年此宴曲ノ上手ニ沙弥実阿ノ書」の解釈が問題
となる。仮に「応永十三年の宴曲の上手沙弥実阿の筆跡」と訳したが、
弘文荘から購入したことが記されている
待賈古書目総索引』
(一九九九年、八木書店)に当たったところ、次の
応永十三年が「宴曲の上手」にかかるのか「実阿の書」にかかるのか、
判然としない。先に記したとおり、北大本下巻には奥書がないため、直
ず、『教言卿記』応永十五年三月二四日の記事を挙げる
実阿の出自・経歴は未詳である。しかし、二つの資料から、実阿が「宴
曲の上手」として応永期に活躍した人物であることは裏付けられる。ま
(4)
、多田入道、田島清阿等云々。
実阿、不参云々
、
以尺八時々音取之
将軍足利義満の北山殿に後小松天皇が行幸した折、様々な芸能が催さ
れたなかに早歌もあった。右京大夫細川満之が召した早歌の好士五人の
名が挙がっており、その一人が「蔭山入道実阿」である。この記事から、
実阿が応永十五年当時、一流の「早歌の好士」として認識されていたこ
とが窺える。
次に実阿は、応永二〇年に二種の宴曲譜本に署名を残している。
頁掲出
於当流可為正本
1 臼田甚五郎氏蔵『撰要両曲巻』(『続日本歌謡集成』第二巻
の写真に拠る)。
−83−
記載があった。
『新興古書店出品目録』であり、『増訂版 弘文荘待賈古書目総
は、
索引』で追加された目録である。ここに記された書誌情報は、北大本帙
入夜早歌被聞食之。好士五人右京大夫入道召具之参候。飯尾善左衛
恒が何を根拠にして「応永十三年」と断言したのかも不明である。
題簽に「宴曲拾菓集 応永古写本 上巻は寛政補写」とある(図1)こ
ととほぼ一致している。このような取り合わせ本の『拾菓集』は、現存
門入道、坂子口阿不参、蔭山入道
宴曲拾菓集 応永年中写 上巻は補写 二冊
新 5 二、
昭和
二〇〇
宴曲伝本のなかでは、北大本だけであることは先に指摘したとおりであ
花 亭 祝 言、 花、 不 老 不 死、 遊 宴、 法 華、 神 祇 等 歌 之、
新
る。 以 上 の こ と か ら、 昭 和 二 一 年( 一 九 四 六 )『 新 興 古 書 店 出 品 目 録 』
後聞、角田参云々。口阿若不参歟。塀和入道参。
(3)
。
『拾菓集』も、そのような機運のなかで弘文
では、昭和二二年(一九四七)の法文学部設置直後に、図書整備に多額
の予算を費やしている
荘から購入されたものであろう。
二、直恒識語の検討
本節では、北大本の上巻一丁裏に記された直恒の識語について検討す
る。以下に、現代語訳を示す(傍線筆者。以下同様)。
。
所載の『拾菓集』が北大本『拾菓集』であると考えてよい。北海道大学
21
この『拾菓集』一冊は、岩井直恒が寛政四年(一七七二)の春に写
161
4
岡田三津子
岩井直恒の宴曲『拾菓集』書写
5
沙弥実阿 花押
であると考えられている
章はそれぞれ別人の手になるものであり、節付・振り仮名が坂阿のもの
物の手になるものかどうか、今後の検討課題となる。
定した可能性が高い。国会本と北大本の、節付および振り仮名が同一人
筆だと判断できる。直恒は、節付や振り仮名の部分を「実阿の書」と認
( 6)
。 国 会 本 と 北 大 本 の 場 合 も、 本 文 詞 章 は 別
応永廿年十二月十三日
2 国立国会図書館蔵『外物』
(国立国会図書館デジタル資料『宴曲 外
物』解題および写真参照。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532259
)。
次 に 文 学 史 的 観 点 か ら 問 題 と な る の が、「 宴 曲 の 上 手 実 阿 」 で あ る。
伊藤正義氏は、「宴曲」と「早歌」という呼称について以下のように述
と略称する)ともに同年・同月日である点に特徴がある。
明和三丙戌年改共ニ二冊 岩井七郎右衛門直恒 花押(四七丁裏)
『撰要両曲巻』
・
『外物』
(以下、国立国会図書館蔵『外物』を「国会本」
あり、能とか謡が、近代以降に能楽、謡曲という呼称に定着したこ
定着した呼称である。歴史的には早歌と称されて来たから、それに
宴曲は、その詞章に対する文学史上の一ジャンルとして近代以降に
花押(四六丁裏)
応永廿年十二月十三日(四七丁表)
沙弥実阿
於当流可為正本
国会本は、四六丁裏から四七丁表にかけて実阿の署名があり、四七丁
の裏に明和三年(一七六六)岩井直恒の追書がある。国会本の署名・花
とと同様であるとの立場から、今、総称としての宴曲の名に従うの
べた。
押は、北大本と同一である。
要目録」と記されており、本文と同筆と認めてよいならば、室町時
傍線部「改共ニ二冊」が何を指すのか、二つの場合が想定できる 。
第一は、
国会本『外物』と『撰要両曲巻』の組み合わせである。第二は、
代に「宴曲」が書名以外に用いられた例としてよいだろう。(『冷泉
るからである。
「改共ニ二冊」は、明和三年に国会本と『拾菓集』下を
としており、その年号は、国会本の明和三年(一七六六)と符合してい
している。すなわち、直恒識語の「宴曲の上手」は、書名以外で「宴曲」
る。それに対して、北大本の直恒識語では、寛政四年と年紀がはっきり
傍線部に「認めてよいならば」と留保しているとおり、冷泉家本『撰
要目録』外題を本文と同筆と認定してよいかどうか、いささか疑問が残
である。ちなみに、本巻に収めた『撰要目録巻』外題に、「宴曲撰
従うべきだという主張もあるが、早歌は歌曲としての芸態の呼称で
『外物』と北大本『拾菓集』下の組み合わせとなる。北大本の直恒識語
家時雨亭叢書 宴曲上』解題、一九九六年、朝日出版社、解題3頁)
見出した直恒が、どちらも実阿の筆として認定したと解釈して良いだろ
が用いられた年代の特定できる最古の例と位置付けられる。
。 北 大 本 上 巻 を 補 写 し た 岩 井 直 恒 も、 こ れ ま で 伝 未 詳 と さ
(7)
−82−
(5)
を勘案すると、第二の組合わせの可能性が高い。直恒識語には、寛政四
う。
実阿は、伝記的資料のきわめて少ない人物である。岩井直恒は、その
実阿を「宴曲の上手」と認識し、『拾菓集』が本来は上・下二巻からな
年(一七七二)に先立つこと五・六年前 に、『 拾 菓 集 』 下 を 見 い だ し た
次に問題となるのは、直恒識語の「実阿の書」が、何を表しているの
かという点である。外村久江氏は、室町期の宴曲譜本について以下のよ
ることを突き止め、上巻を補写している。北大本の直恒識語は、岩井直
のである
宴曲は、江戸時代以前に途絶し、謡われることもなくなっていた。江
戸時代に書写された宴曲伝本は数多いが、そのほとんどが伝来未詳のも
三、京観世五軒家のうち岩井七郎右衛門家四代目当主直恒
恒という人物の見識の深さを表したものと評価できるだろう。
うに述べている。
室町期には早歌の手書きといわれるセミプロ的な人が詞章を書いて
いたことが知られる。その上で、代々の伝流を受けた家元的な人か
早歌の達者が丁寧に節付けし、ふり仮名をつけた様子である。詞章
の字は達筆で美しいが、節付けの口伝の注記や奥書の字は個性的な
頁)
筆 致 で あ る。
( 外 村 久 江 氏・ 外 村 南 都 子 氏 校 注『 早 歌 全 詞 集 』
一九九三年、三弥井書店、解題
外村氏の指摘のとおり、坂阿節付本は数種が現存しているが、本文詞
11
判明した。
れてきたが、宝暦から明和にかけて京都で活躍した能役者であることが
この目録に、『拾菓集』をはじめとする宴曲関連書物が以下のように
見える。
(一八七八)となる。
一 宴曲集 拾菓抄 壱冊
拾菓集
二〇一三年八月、筆者は京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター
プロジェクト研究「京観世の記録化」の活動を知り、同プロジェクトが
研究対象とする岩井直恒が、北大本『拾菓集』補写者と同一人物である
実阿筆 二冊
衛門家の四代目当主と同一人物である。
すなわち、北大本『拾菓集』に岩井直恒と署名した人物は、岩井七郎右
び花押が、
北大本『拾菓集』と一致することを確認できた(図7から9)。
よび『岩井直恒直シ入乱曲集(仮題)
』巻末に記された直恒の署名およ
対応するからである。直恒が書写した北大本『拾菓集』は、上巻・下巻
「拾菓集二冊」とあるのは、北大本『拾菓集』上巻にあたると考えて
よい。北大本の直恒識語に、古本『拾菓集』を手に入れた後、数年して
受け継いだものと捉えられる。
『拾菓抄』以下六冊を、宴曲集としてひとまとめにしている点に特徴
がある。直恒が宴曲という呼称を用いていたことを、岩井家が伝統的に
合而六冊
又一冊
包直紙
恒様筆
二冊
ことを確かめるに至った。
同プロジェクトでは、現在、京都市立芸術大学名誉教授岩井弘氏から
) 二〇一三年
寄贈をうけた岩井家資料の整理読解作業を続けている (8。
八月三〇日(金)
、日本伝統音楽研究センターにおいて、岩井家関連資
岩井直恒は、林・井上・薗・浅野と並ぶ京観世五軒家のひとつ岩井七
郎右衛門家の四代目当主である。幼名新之丞、又貞之丞、後忠助。享和
一揃いで一冊であったと考えられることは、先に指摘したとおりである。
料閲覧の機会を得た。その資料のうち、
『老陽之拍子秘訣』(巻子本)お
二年(一八〇二)七月二十九日に七十五歳で没している(慧眼道順居士)。
そうであるとすれば、岩井家が所蔵していた『拾菓集』がもう一冊存在
「実阿筆二冊」は、北大本『拾菓集』下と、国会本『外物』であると
考えてよい。現存する宴曲伝本のうち、この二冊だけに直恒の署名が存
見い出した後代の『拾菓集』写本を自ら書写した、と記していることと
没年から逆算すると、生年は、享保十三年(一七二八)となる。『そな
していた可能性も考えられる。
(9)
(10)
。
。岩井家歴代の中で「謡の実技や理論に特に精通していた人
へはた』
『あやはとり』
(いずれも大西家蔵)など、知名な謡伝書も著し
ている
だろうと思う」と評される人物である
するからである。直恒はこの二冊を特別に扱い、包紙で包んで何らかの
覚書を記していたと推測できる。
しかし、「実阿筆二冊」は、異なる時期にいずれも岩井家から外に出
ている。国会本『外物』は、明治四四年に国会図書館(当時の帝国図書
は、仮綴一冊で、末尾に以下の覚書を記している。
さらに、岩井弘氏蔵『岩井家所蔵目録』(仮称)によって、岩井家が
) この目録
江戸末期まで所蔵していた資料を確かめることができる (11。
右点検之歳月不覚と雖、文久二年九月廿二日、信発氏卒去。翌年之
館)が購入している。『国立国会図書館所蔵貴重書解題』第九巻「外物」
一方、北大本は昭和二一年の弘文荘『新興古書店出品目録』に現れる。
この時期は、岩井弘氏書簡の次の記述と符合している。これは、野々村
ては他に所蔵者印もないので不明である。
本書は明治四四年三月二四日に購入したものであるが、伝来につい
の解題には、以下のようにある。
夏比カ小松原君ト立会点検シ置。其翌年七月大火ニ焼亡之モノ可有
(12)
。新発没後、その名代を勤めた大
之。寅五月 大西寸松
ここに見える信発は、文久二年(一八六〇)九月二十一日に四十六歳で
没した岩井家の七代目当主である
の点検を行っている。寅五月が、何年にあたるのかは確定できないが、
戒三氏が「京観世五軒家の内岩井家の末裔」(『観世』一九六八年一〇月
西寸松(一八一二〜一八八三)が、文久三年(一八六〇)の夏頃に蔵書
寸 松 の 没 年 を 勘 案 す る と、 慶 応 二 年( 一 八 六 六 ) も し く は 明 治 十 一 年
−81−
6
岡田三津子
岩井直恒の宴曲『拾菓集』書写
7
謡本・和本・古文書などが以前はたくさん御座いましたが、終戦の
は別稿に譲る)。
ことを、北大本上巻によって、裏付けることが可能となる(詳細の検討
たのは岩井直恒であるという京都能楽界における言い伝えが正しかった
前後に倉庫に疎開したところ、
盗難に遭いまして散逸いたしました。
号)において紹介したものである。
重要な本はもっと古い以前に大阪の大西・京都の大江にいっている
注
評価できよう。
北大本『拾菓集』は、京観世五軒家岩井直恒の事跡に新たな一項を加
えるだけでなく、京都における謡本刊行の歴史にも関わる資料として再
十番謡本の本文を再検討する必要も出てくるのではないだろうか。
岩井直恒は、明和改正謡本に対して批判的な立場を取った人物として
) その直恒が版行に関わっていたという観点から、天明新
知られる (14。
事は老人たちから聞いております。
すなわち、北大本『拾菓集』が終戦前後に岩井家から散逸し、弘文荘
を経て北大に入ったということはほぼ確実である。
従来、伝未詳であった岩井直恒の出自が明らかになったことで、国会
本と北大本の伝来を明らかにすることができた。
四、北大本『拾菓集』と天明新十番謡本
(1) 宴
曲伝本に関する主要な先行研究を以下に掲げる。
外村久江氏『早歌の研究』(一九六五年、至文堂)
新間進一氏「撰要目録・宴曲集解説」(日本古典文学大系『中世近
世歌謡集』一九五九年、岩波書店)
外村久江氏・外村南都子氏校注『早歌全詞集』解題(一九九三年、
三弥井書店)
伊藤正義氏『冷泉家時雨亭叢書 宴曲上』解題(一九九六年、朝日
出版社)
(2) 北
大本の来歴について、附属図書館に問い合わせたところ、利用
支援課調査支援担当の城恭子氏より、法文学部への受け入れ時期、
附属図書館への管理換の時期等について、詳細な調査を踏まえたご
(6) 前
掲注(1)、外村氏・伊藤氏論考参照。
(7) 前
掲注(1)外村氏論考参照。
−80−
次に、直恒が補写した北大本『拾菓集』上巻の、能楽史における資料
的意義について述べる。
前西芳雄氏は「岩井直恒は山本長兵衛版下なども書いた能書家」であ
)
ると述べている (13。
その山本長兵衛版が、天明四年(一七八四)刊
の十番本であること(以下天明四年刊十番本を「天明新十番謡本」と略
称する)
、直恒が天明新十番謡本の版下を書いたというのは京都能楽界
における言い伝えであることを、味方健氏からご教示いただいた。
頁)。
天明新十番謡本は、「本文の書体が御家流(かなりの麗筆)である点は、
山本長兵衛刊行の七行半紙本としては異例に属する」と評される(表章
氏『鴻山文庫本の研究 謡本の部』一九六五年、わんや書店、
(3)『
北大百年史』部局史編・附属図書館の部「三、戦後復興のころ」
参照。この点についても城恭子氏よりご教示いただいた。
回答をいただいた。
状況であった。
頁)。引用は、外村氏の翻刻に拠る。
192
(5) 乾
克己氏「宴曲作者考 二、蔭山入道実阿と小串範秀」(『宴曲の
研究』桜楓社、一九七二年、 頁)。
注1『早歌の研究』
(4) 既
知の史料であったが、宮内庁書陵部本によって蔭山入道の下に
「実阿」の注記があることを報告したのは外村久江氏である(前掲
一行字数が多い。この傾向は、
平仮名を多く使用した箇所に顕著である。
第 二 に、
「 の( 乃・ 農 )
」
「 や 」 な ど 特 徴 的 な 筆 法 の 文 字 を 抽 出 で き る。
出版による筆勢の変化を考慮しても、天明新十番謡本は北大本と同筆で
あると認定してよいだろう。換言すれば、天明新十番謡本の版下を書い
392
な特徴は以下の二点である。第一に、他の譜本・謡本(版本)に比して
これに対して、北大本『拾菓集』上巻は、直恒が謡物として書写した
ものであり、天明新十番謡本との比較が可能となる。両者に共通する主
直恒自筆の資料は何種類も伝わっているが、謡伝書や覚書の類がほと
んどであり、謡本詞章の筆跡と比較することは容易ではなかったという
395
(8) 京都市立芸術大学HPに日本伝統音楽研究センター二〇一三年度
プロジェクトのうちに「京観世の記録化」がある( w3.kcua.ac.jp/jt
︱二〇一三年八月九日)
。
参照年月日
大谷節子氏「京都市立芸術大学新収岩井家文書について」(『能』京
都観世会館情報誌、二〇一三年一〇月号)
(9) 大谷節子氏「京観世岩井家の明和本批判︱岩井七郎右衛門家旧蔵
文書から」
(
『能と狂言』六号、二〇〇八年四月)。
(10) 野
(
『能の今昔』木耳社、一九六七年)
々村戒三氏「京観世覚書」
(11)『 岩 井 家 所 蔵 目 録 』 を 最 初 に 紹 介 し た の は 大 谷 節 子 氏 で あ る。
二〇一一年六月一一日の六麓会例会における「岩井弘氏蔵岩井七郎
右衛門家資料をめぐって」と題する口頭発表資料のなかに「岩井家
所蔵目録」の概要が示されている。
本 稿 を 成 す に あ た り、 京 都 市 立 芸 術 大 学 日 本 伝 統 音 楽 研 究 セ ン
ター教授藤田隆則氏から、同目録の写真を借覧した。
(12) 前
掲注(9)大谷氏論考参照。
(13) 前
(
『京都』二八五号、一九七五年)。
西芳雄氏「京観世の家々」
(14) 前
掲注(9)大谷氏論考参照。
【謝辞】
本稿を成すにあたり、貴重な資料の閲覧及び撮影をご許可くださいま
し た 北 海 道 大 学 附 属 図 書 館・ 京 都 市 立 芸 術 大 学 日 本 伝 統 音 楽 研 究 セ ン
ター・味方健氏に、心から御礼申し上げます。
また、当方からの度重なる問い合わせに対して、北海道大学附属図書
館利用支援課調査支援担当の城恭子氏から、詳細な調査を踏まえたご回
答を賜りました。記して御礼申し上げます。
本稿は、科学研究助成金基盤研究(C)
「中世道行文形成過程の基礎的研
【付記】
究」
(課題番号23520261 研究代表者 岡田三津子)に基づく研究
成果の一部である。
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8
岡田三津子
9
岩井直恒の宴曲『拾菓集』書写
図 2 北大本『拾菓集』上巻表紙
図 1 北大本『拾菓集』帙
図 4 北大本『拾菓集』上巻 1 丁裏
図 3 北大本『拾菓集』下巻表紙
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岡田三津子
図 5 北大本『拾菓集』上巻31丁裏・32丁表
図 6 北大本『拾菓集』上巻32丁裏・裏表紙見返し
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10
11
図 9 『直恒直シ入り乱曲集』署名
岩井直恒の宴曲『拾菓集』書写
図 8 『拾菓集』上巻 直恒署名
図 12 天明新十番謡本《逆矛》4 丁裏(味方健氏蔵)
図 7 『老陽之拍子秘訣』奥書
図 11 『拾菓集』上巻 5 丁表
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