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人権裁判運動と憲法

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人権裁判運動と憲法
生
人権裁判運動と憲法
ー憲法裁判史研究のための一素材としてー
一、はじめに
哲
人権裁判運動と憲法 一九九
の存在があり、それに対して国民の側からその侵害ないし侵害可能性に対する人権の確立・擁護の意識が強く自覚さ
ところで、人権を確立・擁護する運動は、行政権をはじめとする国家権力の側からの人権侵害ないしは侵害可能性
ここでは、人権裁判運動とは、人権を確立・擁護する多様な運動のうちで裁判所に間題が提起され、それを中心に
︵2︶
展開される自覚的かつ組織的な運動というように考えておきたい。
︵1︶
動という点に焦 点 を あ て て 検 討 し て み た い 。
したり、判例における法理の展開を軸にして検討することも可能であるが、ここでは国民の人権を確立・擁護する運
ういう成果をあげてきたのかということを考えてみることである。その際に、裁判での判決の法理論的な側面に限定
課題を明らかにして、人権裁判運動が人権を確立、擁護するという点でどういう役割を担ってきたのか、そして、ど
本稿の課題は、戦後日本の様々な人権をめぐる裁判運動︵闘争︶を概観し、その成果と教訓を検討し、その現状と
イ中
人権裁判運動と憲法 二〇〇
れるにいたり、さらには、それが具体的な行動にまでつながっていくものと考えられる。そして、そこには当然に
人権侵害・侵害可能性を正当化するような権力の側の法解釈・法イデオロギーと、それを排除しようとする国民の側
の法解釈論・法イデオ・ギーが存在している。そこで、その正当性が裁判所でもって争われ、国民の側の人権裁判運
動が法廷内外で展開されることになるのである。ここでの人権裁判運動の役割は、人権の侵害・侵害可能性を排除す
ることの正当性を裁判所の判決によって獲得し、権力の人権侵害とその可能性を拘束することと︵当然、その後の立
法部・行政部の人権侵害の可能性を排除する︶、他方では、人権に有利な判決を獲得するための種々の活動とその法
イデオ・ギーを媒介にした国民の人権意識の定着あるいは変革を実現することであろう。
︵3︶ ︵4︶
﹁戦後目本の大衆的裁判闘争の歴史は、人民の民主主義の﹃学校﹄であった﹂といわれるように、裁判運動︵闘争︶
は民主主義を実現していく運動でもあった。とりわけ、人権裁判運動について言えば、それは、労働組合や市民団体
などの多くの運動︵権利闘争︶の一環でもあった。
また、それが裁判運動であると同時に、憲法運動︵憲法闘争︶の一環でもあることはいうまでもない。日本において
は、平和運動・労働運動・民主主義運動・市民運動などの様々な領域において、憲法を武器とした運動が進められてい
る。そして、このことがこれらの諸運動とともに憲法運動を成立させており、憲法運動はわが国において独自で、し
かも重要な位置を占めているといえる。日本において、憲法運動が独自に重要であるのは、第一に、平和的かつ民主
的な憲法が存在しているということ、第二に、その憲法の実現が政府をはじめとする支配層によって意識的にネグレ
クトされているということ、第三に、支配層による憲法無視の政策が最終的には現行憲法を改正︵﹁改悪﹂︶するとい
︵5︶
う方向に進んでおり、これに対抗する国民諸階層の運動が憲法を武器にして進展しているということなどであろう。
裁判運動が、こうした憲法運動の重要な一形態であり、それは支配層による人権抑圧・人権破壊に抵抗するものであ
れ、国民の側からの人権抑圧・破壊を告発するものであれ憲法運動の重要な構成部分である。
ところで、多様な形態で存在する人権裁判運動も、それぞれの領域、たとえば公安条例関係の事件、教育権をめぐ
る事件、平和的生存権をめぐる事件、環境権をめぐる事件などによってその運動の形態を異にするであろうし、また運
動で獲得すべき課題も異なるであろうし、それぞれの人権の確立にとっての裁判運動の有効性・役割も異なるであろ
うと思われる。また、運動の主体の側からのみならず、権力の側の政策との関連においても裁判運動の運動の中に占め
る位置は異なるといえよう。このことは、裁判運動が裁判所という権力機構の中に提起されて初めて始まるものであ
︵6︶
り、国民の側から見て、何でも裁判所に問題を提起すれば運動が前進するわけでもなく、それが人権の確立・擁護のため
︵7︶
に常に有用なわけでもなく、そこに人権の確立・擁護のために有利な条件の存在が必要であることとも関係している。
このようないくつかの、分析に際しての困難な、解決しておかなければならない間題が残されているが、ここでは
一応それらを留保しつつ、戦後の人権裁判運動を概観するという課題にとりかからねばならない。
︵1︶ 長谷川正安﹁マルクス主義法学序説﹂︵﹃マルクス主義法学講座① マルクス主義法学の成立と発展︹日本︺﹄日本評論社、
一九七六年︶一九頁は、﹁戦後三十年の裁判闘争の経験を、刑事事件、民事事件、行政事件などの領域で歴史的に総括し、
どのような裁判闘争がどのような法の解釈を生みだしたか、また逆に、どのような法の解釈が裁判闘争にどのような影響を
︵2︶ 沼田稲次郎﹃労働基本権裁判批判﹄︵日本評論社、一九七四年︶一〇頁、影山日出弥・大須賀明﹃日本の憲法問題﹄︵労働
与えたかを明らかにする必要がある﹂と指摘している。
人権裁判運動と憲法 二〇一
経済社、 一九六七年︶二三一頁。
人権裁判運動と憲法 二〇二
︵4︶
ここでは、裁判運動という言葉と裁判闘争という言葉を同じような意味、内容をもつものとして使用している。
上田誠吉﹃国家の暴力と人民の権利﹄︵新日本出版社、一九七三年︶五頁。
︵3︶
日本における憲法闘争の重要性とその歴史的な展開過程については、影山・大須賀﹃日本の憲法問題﹄第四章、日本民主
法律家協会編﹃現代日本の憲法闘争﹄︵労働旬報社、一九七〇年︶、稲本洋之助﹁レーニンと七〇年代安保体制の諸問題﹂︵﹃わ
︵5︶
れわれの当面する国家と法の諸間題とレーニン﹄一九七〇年︶。
示していることを指摘し、﹁この問題を解く鍵は、さしあたり、戦後政治支配と民主主義運動との対抗・労働・治安・軍事
浦田賢治教授は、労働・治安・軍事という三つの問題領域の判決を分析して、これらの問題領域において一定の多様性を
︵6︶
政策と民主的平和的憲法意識の交錯、および治安行政・刑事訴追と権利闘争・裁判闘争との対決などの諸関係の内実を把握
することであろう﹂と述べている︵浦田賢治﹃現代憲法の認識と実践﹄日本評論社、 一九七二年、七一−七二頁︶。
この点は、﹁裁判の階級性﹂という問題とも深く関係しているが、この点については、稲本洋之助﹁裁判の階級性﹂︵川島
︵7︶
判と権利闘争﹂︵一〇頁以下︶参照。
武宜﹃法社会学講座5紛争解決と法1﹂岩波書店、 一九七二年、二三九頁以下︶、沼田﹃労働基本権裁判批判﹄第一章﹁裁
二、歴史的概観
︵1︶
戦後目本の裁判運動を歴史的に検討する際に、まず前提としなければならないのは﹁大衆的裁判闘争の創造﹂とい
︵2︶
うことである。そして、この大衆的裁判闘争の創造におおいに貢献したのは、松川事件の運動であったことはいうまで
もないことである。したがって、ここではこの点を念頭に置きつつ、戦後三〇年の人権裁判運動史を三つの時期に区
分してみたいと思う。第一期は、一九四六年ー一九五六年、第二期は、一九五七年−一九六四年、第三期は、一
︵3︶
九六五年−現在までの三期に区分する。第一期が大衆的裁判運動の確立期であり、第二期が大衆的裁判運動の展開
期であり、第三期が大衆的裁判運動の前進と多様化の時期といってもよかろう。
1 第一期︵一九四六年ー一九五六年︶
一九四五年八月一五日のポツダム宣言の受諾により、明治憲法体制は崩壊した。GHQは、明治憲法下に存在した
一連の諸制度の解体に着手し、翌一九四六年二月には新憲法の草案の作成を命じ、いわゆるマッカーサー.ノートを
基礎として、その年の一一月三日に現行の日本国憲法が公布された。そこにもられた人権諸規定は、明治憲法におけ
るそれとは根本的に異なるものであり、平等権、自由権、参政権に生存権をはじめとする一連の社会権規定が置かれ
ていた。さらに人権裁判運動という面から指摘しておかなければならないのは、明治憲法下の治安維持法・治安警察
法などの存在した時代の経験をふまえ、刑事手続に関する諸規定を豊富にした。さらに、国民主権、平和主義の採用
とともに、裁判所に違憲法令審査権が認められたことによって人権侵害の可能性のある法律の排除を可能にすること
が制度的に確保されたのである。こうして公布・施行されるにいたった新憲法に基づいて、民法.刑法.刑事訴訟法
・労働法などのあらゆる分野で憲法の趣旨に沿った法改正、法制定がなされたのであった。こうして戦前の明治憲法
下の裁判運動とは異なる新たな有利な条件が、戦後のそれには確保されたのであった。
しかし、一九四七年になると、国内的な平和運動・労働運動・民主化を要求する諸運動の高揚、国際的な社会主義
体制の成立などの諸条件の下でアメリカによる日本の占領政策は大きな転換をとげるにいたった。目本の旧支配層の
復活を助け、国民の諸階層の民主主義を実現し、人権を確立しようとする諸運動を抑圧する方向へと進んでいった。
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それは、一九四七年二月一日のゼネ・ストに対するGHQの中止命令を始めとして、それ以降は頭初の占領方針と
は異なり労働基本権・労働運動を制限・剥奪する方向へ進んだのであった。とりわけ官公労働者の労働基本権は、い
わゆる政令二〇一号の公布施行︵一九四八年七旦三日︶、国家公務員法の改正︵一九四八年一一月三〇日︶、公共企業体等
労働関係法︵一九四八年一一月二〇日︶によって、非現業国家公務員の団体交渉権の制限や争議権の剥奪がなされた。
また、一九四九年六月の労働組合法の改正によって、官公労働者にはじまり民間労働者にまで波及し、この年には官
公・民間の区別なく人員整理・大量解雇が行なわれた。翌一九五〇年には朝鮮戦争と前後してレッド・パージの嵐が
ふきあれたのであった。
︵5︶
治安政策の面にも占領政策の転換の影響は大きなものがあった。一つは、ポツダム勅令・ポツダム政令の形での人
権抑圧であり、一九四九年の団体等規正令に見られるように露骨な抑圧の形態であり、もう一つは、一九四八年一月
の福井市の公安条例の制定にはじまる一連の地方自治体による公安条例の制定である。これらの治安政策・治安立法
は占領下の労働運動・民主運動や、革新政党・労働組合の弾圧に大きな役割を果たしたのであった。
こうして、占領下においては、日本国憲法の制定によって明治憲法下の人権抑圧状況に終止符をうつかと思われた
が、あくまでもそれは占領下での新憲法の公布・施行であり、当然なこととして人権の擁護・確立が十全にはたされ
るわけもなかった。
この占領下における人権裁判運動はどうであったのであろうか。前述のように、労働立法・治安立法などの徹底し
た抑圧政策がとられ、人権︵表現の自由・集会・結社の自由、労働基本権など︶は危機的状況の下に置かれ、民主化
されたはずの裁判所も占領軍の占領政策に事実上、奉仕するにすぎない存在であった。こうした状況下で、労働基本
権関係の裁判は多発するのであるが、たとえば、生産管理に対する弾圧、大量解雇、レッド・パージなど占領下のこ
の時期の特殊性を反映した﹁異形の労働裁判の闘い﹂であった。戦後の経済の荒廃と占領軍の直接的な刑事弾圧とい
︵6︶
う条件の下で、これに抗して闘われた裁判運動は部分的な成果をあげながらも、裁判運動という観点からは十分に自
︵7︶
覚的かつ組織的であったとはいえないのではなかろうか。さらに、占領政策の転換と前後して開始された一連の政治
的な謀略・弾圧事件が、一九四九年に次々にひきおこされた︵三鷹・青梅・松川・白鳥事件など︶。そして、講和前
後には、白鳥・菅生・芦別・辰野事件などの謀略事件や、メーデー・吹田・大須などの騒擾事件などがひきおこされ
たのであった。
サソフラソシスコ講和条約が一九五一年九月八日に調印され、翌五二年四月に発効し、日本は形式的には独立を回
復したのであったが、講和条約がいわゆる日米安保条約と同時に調印されたことに象徴的に示されるように、わが国
のそれ以後の、憲法体系と安保法体系という相矛盾する法体系の併存といわれるような状態がここに創出されたので
あった。この講和の前後から、日本の占領法規の再編成が開始され、労働法規の改悪、破防法の制定などが行なわれ
ていった。したがって、人権の抑圧状況は占領下の法令のもとでのそれが、形を変えて存続することとなった。
こうした状況の中で、松川裁判運動は展開されていった。﹁松川事件の裁判闘争は、日本人民の壮大な民主主義運
動であった。それは長い苦難のたたかいののちに、全員無罪の成果をかちとり、権力犯罪の不正をあばき、この国の
政治反動の強化をおしとどめるうえで大きな役割を果たした。さらにこのたたかいは大衆的裁判闘争という民主主義
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︵8︶
闘争の新しい分 野 を 創 造 し た ﹂ と い わ れ る 。
松川事件は、前述のごとく下山事件・三鷹事件などに続いてひきおこされた謀略事件であり、一九四九年八月一七
日未明の東北本線松川駅付近での列車の脱線転覆事件がその内容である。捜査当局は、事件発生当初から国鉄労組、
東芝労組に集中して捜査を行ない、あらゆる手段を用いて赤間少年の自白を誘導し、それに基づいて次々に計二〇名
が逮捕され、起訴されたのであった。その過程においては、﹁赤間自白﹂と同様の手段でもって数名の自白を誘導し、
そして、それのみに基づいて起訴し、公判を維持しようとしたのであった。ジャーナリズムは、被告らの逮捕・起訴
を当然のことのごとく報道し、被告らは裁判の開始以前においてすでに犯人にされるという状況であり、ここに無罪
確定までの一四年にわたる苦闘が始まったのであった。
事件後まもなく岡林・大塚の両弁護士が自由法曹団から派遣され弁護活動が開始された。被告らとの接見が妨害さ
れるなど困難な状況において、最初に着手されたのは被告とその家族らの団結と統一であった。彼らの中には、﹁自
白﹂した被告家族とそうでない者たちとの間など様々な立場の違いが存在しており、思想的のみならず感情的な対立
が存在していたことも事実であった。両弁護人らの努力によって、一九四九年一一月一六日には松川事件被告家族会
が結成された。また福島地裁における公判廷において、赤間被告が﹁自白﹂をひるがえすなど全被告が事実を徹底し
て否認した。
松川事件のような明白な政治的弾圧裁判に対するたたかいの基本的方向は、虚偽に対して真実を対置することであ
るとして、被告・弁護側はこのことを実践していったのであった。しかし、ジャーナリズムは、法廷で明らかにされ
ていった無罪であるという事実をほとんどすべてといってよいほど歪曲して報道したというのが現実であった。そし
て、このデマ宣伝の中で不正な有罪判決が国民の黙認という状態の下で強行される危険があったのである。このよう
︵9︶
な状況を打破するために、﹁法廷の外にこそたたかいの主要な場がある﹂ことが主張されたのであった。そして、こ
のきわめて困難なたたかいに取組むことが必要とされた。被告らの家族たちの街頭での訴えからこの第一歩が開始さ
れ、これが後に大きく発展する松川運動につながるのであった。
福島地裁における第一審判決は、全員に有罪判決が下され、それ以後、運動の重点は広範な国民大衆との結合にお
かれることとなった。そして、被告らの通信活動、家族らの訴えなどが開始された。さらに、真実をひろめていくと
いう第一審で学びとられた経験から、被告たちは﹁無罪釈放百万人署名﹂を訴え、全国的に取組まれた︵一九五一年
五月︶。こうした運動の中で、一〇〇名をこす超党派の弁護団が結成されていったことも重要なことであった。
広範な弁護団の結成、国民諸階層の支援が進む中で、運動の前進にとって重要な意味をもつ﹁裁判の公正﹂を望む
声が生まれたのであった。松川事件そのものの内容が複雑なために事件の発生から裁判の内容についてまで詳細に検
討したことのない人々にとっては、﹁被告全員無罪釈放﹂にためらいを感じる人たちも多かったのであった。 一九五
一年二月一〇日、東京で開かれた公安条例撤廃都民大会において、﹁松川事件第二審に公正な裁判を要求する﹂と
いう内容を決議した。こうして、一審判決や松川事件そのものに疑惑を感じている人々が、公正な裁判の要求という
点で同一の歩調をとることができた。当初は運動の後退という見解も一部にあったが、労働組合などで次々と決議さ
れるようになり、無罪要求か公正裁判かの二者択一としてではなく、どちらも運動にとって重要であることが理解さ
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れるようになり、広範な国民諸階層の結集という事態が生まれたのであった。
また被告らは、一九五一年に﹁真実は壁を透して﹂と題する文集を出版した。この文集は多数の文化人らに深い感
銘をあたえ、松川運動を広げるのに大きな役割を果たした。たとえば、広津和郎、宇野浩二らの文化人がこれを契機と
して松川事件についての発言を開始した。これと対応するかのようにジャーナリズムも沈黙を破って、松川事件の特
︵10︶
︵11︶
集号を緯むことをはじめた。
こうした運動の前進の中で下された第二審判決︵一九五三年=一月二一百︶は、国民の大きな批判を喚起した。しか
し、二審の有罪の判決は松川運動に打撃を与えたことは否定できなかった。これは、弁護人の中から﹁もはや第二審
判決によって、国民はファッショ化した資本主義国家の裁判なるものがいかなるものかを知ったであろう。公正裁判
要求はもはやその段階でなく、階級裁判としてうったえるべきだ﹂といった政治闘争主義的意見が生じていることか
︵12︶
らもうかがえる。このような見解は、第二審の敗北をいたずらに過大視して、松川裁判運動を特殊に政治主義的方向
︵13︶
に転換させるものとして批判をうけ、その後の運動過程にほとんど影響を残すことなく克服されている。
一九五六年、松川事件は最高裁第三小法廷から大法廷に移され審理されていたのであるが、一九五七年六月二九日、
毎日新聞福島版はいわゆる﹁諏訪メモ﹂が福島地検に存在することを明らかにしたことにより、このメモの所在が明
らかとなった。﹁諏訪メモ﹂は、事件の謀議に参加したとされている佐藤一被告の当目のアリバイを証明するもので
あった。弁護団は、最高検に対してメモの公開をかさねて要求し、最高裁はメモの所在が明らかになった以上、提出
命令を出さざる を 得 な い 状 況 に な っ て い っ た 。
こうした新たな情勢が開かれるという状況の中で、松川事件の運動を進めていく組織の必要性が叫ばれるにいたっ
た。それまでは事件直後に被告やその家族、労農救援会の活動家を中心とした松川事件対策委員会が中心となって運
動を進めていたのであるが、より広範な国民の結集させるためには十分ではなかったことから、一九五八年三月九日、
松川事件対策協議会が結成され、全国的な、しかも広範な国民諸階層の運動が、これによって大きく前進した。
松川事件の運動は、その後の裁判運動に多大な影響を与えたのであるが、その創造的運動について若干整理してみ
よう。第一に、この運動が真実を明らかにしていくことによって被告人らの人権を擁護し、国家権力の逮捕・起訴の
不当性︵政治的弾圧の不当性︶を追求していったことである。第二に、﹁主戦場は法廷の外に﹂という言葉で表現さ
れているように、真実を明らかにし、デマ宣伝に抗してそれを国民に知らせるという作業を、手紙による訴え、署
名、文集の発行、﹁公正裁判要請﹂の運動、現地調査など多様な創造的な運動形態を生み出した。これらの﹁裁判批
判﹂の諸運動と﹁公正裁判要請﹂の運動が、裁判官をして法廷の内外で明らかにされてくる真実から目をそらさせな
︵14︶
いようにさせることを可能にし、憲法の人権条項、新刑訴法の理念の実現を可能にさせるのであった。第三に、運動
における統一と団結の問題が重要であろう。被告・家族をはじめ、国民各層の運動への参加・協力と団結した運動と
統一した組織の役割を評価する必要があろうが、より重要なことは、一つの特定の立場や思想を運動参加者に押しつ
けることをしなかったことである。このことによって、運動の中で各人・各組織はそれぞれの立場と能力に応じて、
︵15︶
意見を述べ、運動に加わっていった。この良い例が、﹁公正裁判要請﹂の運動であった。
この松川裁判運動の経験は前述の三鷹事件メーデー事件などの国民の大衆運動に対する弾圧に対する防衛闘争とい
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った性格を有するような多くの裁判運動に生かされていった。これに対して、支配層はこれらの裁判運動への抑制的
な方策をとり始め、とりわけ、それは﹁荒れる法廷﹂と﹁素人の裁判批判﹂に向けられた。﹁法廷等の秩序維持に関
する法律﹂︵一九五二年︶等にょる取締の強化は前者に向けられたものであり、いわゆる﹁裁判批判﹂に向けては、当
時の田中耕太郎最高裁長官が一九五五年五月に﹁裁判官は世間の雑音に耳をかさず流行の風潮におもねず、道徳的勇
気をもって、適正迅速に裁判事務の処理につくべきである﹂という訓辞に明らかなように、国民の裁判批判を排除し
ようと懸命であった︵当時は松川事件とともに、八海事件・帝銀事件などの判決に対する疑惑が広がっていた︶。
第一期は、人権に対する暴力的な抑圧に抗しての﹁防衛的﹂な内容をもつ人権裁判運動であり、理論的には憲法の
刑事手続に関する諸条項を現実のものとしていくという内容をもつものであり、その中で、松川裁判運動は戦前の治
安維持法下での経験をはじめとした従来の運動の経験を生かして、創造的な運動を創出し、以後の裁判運動の典型と
なっていった時期である。
2 第二期︵一九五八年−一九六五年︶
この時期は、第一期の、とりわけ松川運動を中心として確立された成果が、様々な領域で発展させられていく時期
である。
一九五〇年代半ばからの独占資本の復活、高度経済成長政策がとられ、この時期からすでに、社会保障費の削減を
はじめとして国民生活の圧迫、生存権への侵害などがあり、また今日、大きな社会問題となっている公害問題、都市
︵17︶
問題などはその萌芽をみせていたのである。それとともに、占領下のような露骨な形ではないが、国民の大衆行動
や労働運動、平和運動への抑圧はますます巧妙な形態をとりながら続いていた。また、他方では、日米安保条約の下
での自衛隊の設置強化が進行し、大多数の国民の平和への志向との間に大きな矛盾を生じつつあった。
そして、国民の安保改定阻止の声の高まりの中で、一九六〇年、日米安保条約︵いわゆる﹁六〇年安保条約﹂︶が
調印され発効した。六〇年代にはいってからの、﹁所得倍増政策﹂などの高度成長政策のひずみは、国民の生活破壊
をもたらし、都市農村を荒廃させ、全国に公害をまきちらしたのであった。思想・教育への国家統制が強まってきた
のもこの時期である。このように、全国的な形で、国民生活のあらゆるところで国民の人権の侵害がつくりだされて
きたのであった。
松川運動の前進の中で、最高裁は一九五九年八月一〇日、七対五の多数をもって事件を仙台高裁に差戻した。差戻
審は六一年八月八日、被告人全員に対して無罪の判決を下した。この判決は、一二年間訴えてきたことがすべて真実
であることを確認していた。検察側の上告に対して、最高裁は六三年九月一二日、上告を棄却し、無罪が確定した。
松川裁判運動の勝利は、同時に進められていた他の刑事弾圧事件の運動を大きく励ました。また、八海事件をはじ
めとする冤罪事件への国民の批判を生み、それへの運動も起ってきた。第二期の段階で、公安条例、ビラ貼り、ビラ
まきなどに関しての刑事事件での運動も生まれてきた。これは、破防法関係の四事件が松川運動などの運動の高揚と
公正な裁判によって人権擁護の機関としての裁判所を要求していくという国民の批判の中で、いずれも無罪となり、
政治的自由に対する直接的抑圧を目的とする法律の適用やその制定が困難となってきたため、いわゆる﹁機能的﹂な
治安立法を適用するという事態が生まれたのである。とりわけ、有楽町ビラ配り事件は特筆すべきものであった。六
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二年五月四日に発生したこの事件は、﹁たった千円の罰金をめぐる裁判でありまた別の見方からすれば、わが国の民
主主義の運命を左右するといった変わった裁判﹂と評されたようなものであり、公判の傍聴活動に始まり、六三年に
︵18︶
は﹁ビラまきの権利を守る会﹂が結成され運動の中心となっていった。会の活動は、公判資料の作成、公判ニュース
の発行など、運動の中で研究が進み、また国民の中に事実を知らせていく広報活動も積極的に取り組まれた。六五年
一月の第一審無罪判決、六六年二月の控訴審での控訴棄却判決、検察側の上告の断念により被告側が完全に勝利した
わけであるが、その成果として、他のビラ活動など国民の表現の自由に対する国民の権利意識を高揚させたこと、ビ
︵19︶
ラ活動を中心とする表現の自由の理論を深めていったことなどがあげられよう。
国民生活の安全と平和に深く関係する基地をめぐる裁判運動も展開されている。安保体制下における多数の米軍基
地と自衛隊基地の存在が国民の生活と安全に重大な被害をもたらしていることはいうまでもない。基地反対闘争その
ものは、一九五二年の内灘闘争が最初の典型であり、浅間・妙義・板付などの闘争が続いた。とくに、砂川事件は五六
年一〇月からの三件の内閣総理大臣の土地収用認定にたいする収用認定取消訴訟が提起され、国の側からも町長への
職務執行命令訴訟が提起され、さらに五七年七月の刑事特別法事件によって、基地闘争は裁判運動として新たな展開
をとげるにいたった。東京地裁で米軍駐留と安保条約・行政協定の違憲性が正面から争われ、いわゆる﹁伊達判決﹂は
米軍駐留の憲法九条違反を確認し、安保条約の違憲性をはじめて明確にした最初の判決であった︵一九五九年三月三〇
日︶。しかし、最高裁は異例の飛躍上告を受けて、その年の一二月一六日、安保条約を裁判所の司法審査の範囲外と
して﹁伊達判決﹂を破棄した。この段階では、平和運動・基地闘争において、人権擁護という観点からの自覚的な運
動は、平和運動・基地闘争と発展にもかかわらず充分なものとはいえなかった。しかし、六三年三月の恵庭事件とそ
の裁判運動は、広範な国民の支援活動に支えられ、自衛隊の反国民的性格、違憲性といったものを実態を明らかにす
る中で検討し、自衛隊を裁き、国民の権利を守るたたかいとしたのであった。この運動と基地闘争の経験から、平和
的生存権、平和に生きる権利についての理論的深化が促進されたのであった。この点は、次期の長沼訴訟の中で一層
の深化がなされ る こ と と な っ た 。
第二期の重要な裁判運動の一つとして、朝日訴訟の運動をあげなければならない。朝日訴訟は、高度経済成長政策
がとられ、社会保障予算の削減という生存権への圧迫政策がとられたのに対して、朝日茂氏が国の定めた生活保護基準
が国民の生存権を保障するに足りるものかどうかを争って国を相手として提起したものである。第一審は、原告勝訴
の判決であり︵一九六〇年一〇月一九日︶、憲法二五条を生存権実現のための法的根拠として承認し、当時の生活保護基
準は生活保護法に違反するという画期的な内容をもつものであった。六三年の控訴審判決では原告敗訴となり、最高
裁では、朝日氏の死亡により訴訟を承継した養子夫妻に対して争われた権利が一身専属権のため訴訟の承継は認めら
れないとした。なお、傍論において生活保護基準の決定は国の自由裁量に属することであるとした。この運動の成果
は、いまだ学界においても深化されていなかった生存権、社会保障を受ける権利を運動として取り上げ、憲法研究者
に問題を投げかけ、以後の検討のきっかけともなったこと、判決の内容では敗訴という結果になったが、その運動の
過程で生活保護基準の引き上げなど不十分ながら、行政・立法面での社会保障の充実がはかられるきっかけとなった
ということ、社会保障・生存権にたいする国民意識を大きく変化させたことなどがあげられ、裁判運動が人権運動の
人権裁判運動と憲法 二一三
︵20︶
人権裁判運動と憲法 二一四
中で大きな役割をはたした好例である。
またこの時期には、官公労働者にたいする刑事的な弾圧が一九五八年、六一年に集中的に現われた。裁判運動は、
官公労働者のストライキ権の奪還に向けて取り組まれた。この運動は、もちろん労働運動の中で闘われ、ILOへの
提訴など国際的国民的な世論への訴えなどとともに積極的に取り組まれた。下級審において、スト禁止規定を違憲と
したり、あるいはその可罰性を否定する判決などが獲得されてきた。
第二期は、以上のように、第一期で創造された大衆的な裁判闘争を基礎として、刑事弾圧事件のみならず様々な裁
判運動の中でそれが生かされ、その成果をあげていくといった時期である。また第一期とは異なって、人権を擁護.
確立する運動やその裁判運動が、それぞれ自覚的に展開するようになった。
3 第三期︵一九六五年1︶
第三期の大きな特徴は、裁判運動の内容、形態などすべてにわたって多様化したこと、教科書検定訴訟にみられる
ように国民の側から国の人権侵害を裁判の場で告発していくという運動が多発してくること、運動の中から環境権な
ど新たな法理論や新しい人権が創造されてきたことなどが指摘されることができるであろう。
教科書検定訴訟は、一九六五年、東京教育大学の家永三郎教授によって提起された同教授執筆の教科書の検定不合
格処分・条件付不合格処分を不服として、その取消を求めた行政訴訟および損害賠償を求める民事訴訟である。この
裁判は、当初から、家永教授執筆の教科書の検定の不合格処分の違憲性・違法性を明らかにするために現行検定制度
そのものの違憲性を間題にし、憲法・教育基本法に掲げられる教育権の内実を確立すること、政府の文教政策・イデ
オ・ギー政策を告発することが企図されていた。裁判運動としては、家永教授が訴訟を提起してすぐに、同年九月に
︵21︶ ︵22︶
﹁教科書検定訴訟を支援する全国連絡会﹂が結成されて運動が開始された。特筆すべきことは、この﹁会﹂にこれま
ではこうした裁判運動への参加するということの少なかった人々も含めてほとんどあらゆる階層の国民が参加してき
ていることである。全国レベル、都道府県レベル、地域レベルにいたるまで、また労働組合などで様々な形態で
の活動が創意的に取り組まれ、たとえば、﹁教科書裁判ニュース﹂の発行、宣伝活動、署名活動、学習会活動などが
それである。こうした運動の展開の中で、国民自らが教科書・公教育の内容に眼を向け、教育権を権利として意識的
・自覚的に把握するようになってきたことも事実であった。また、法廷内においては、毎回の公判廷を満員にした国
民の傍聴活動とともに、法律学者、歴史学者、教育学者、教師、法律実務家らが弁護・証言に加わり、公判廷におい
て、教育権に関する理論的な深化が生まれるような状況であった。要するに、理論的には教育の自由、教育権の確立と
いう点で進展をみせ、広範な国民が文教政策にまで眼を向けるようになり教育運動の国民的な高まりに影響をあたえ
たこと、教育労働者や各分野の研究者の協力した体制をつくり上げて運動の前進に役立てたことなどであろう。この
具体的な成果は、一九七〇年七月一七日の東京地裁杉本判決として現れた。本判決は、憲法二六条はいわゆる﹁国家
の教育権﹂を認めたのではないこと、現行教科書検定制度は表現の自由を侵害する恐れが大きく、本件処分は憲法、
︵33︶
教基法に違反するして、原告勝訴の判決を下した。この判決は、教育法研究にたいしても大ぎな影響を及ぼした。し
かし、その後、民事訴訟の第一審判決︵一九七四年七月一六日︶は教科書検定制度を合憲とし、杉本判決にたいする控
訴審判決︵一九七五年二戸二〇日︶、は憲法判断を回避して、検定制度の運用に違法性があることを指摘する判決を行
人権裁判運動と憲法 二一五
人権裁判運動と憲法 一二六
なった。現在も引き続いて運動が進められているが、広範な民主教育を守る運動は力強く進められ、﹁国民の教育権﹂
の思想は国民の中にしっかりと育ってきているといえよう。
前期の基地裁判の延長線上にあり、また、﹁平和的生存権﹂を武器としてたたかいの進められた重要なものとして
長沼事件の裁判運動がある。これも、砂川・恵庭事件とは違って、長沼町の住民らが原告となり、自衛隊そのものの
存在の違憲性を争い、﹁平和的生存権﹂を根拠としてそれを要求したのであった。この事件は、自衛隊の違憲性とい
う重要な論点が核心にあったため、支配層との矛盾がもっとも激しく現れた。第一審判決︵一九七三年九月七日︶は、
自衛隊の実態審理を行ない、国民の﹁平和的生存権﹂を根拠として自衛隊は軍隊であって憲法に違反するとした画期
的な内容をもつものであった。しかし、控訴審判決は︵一九七六年八月五日︶、政府側の主張をほぼ全面的に認容して、
原判決を取消した。現在では、新たに横田基地騒音公害訴訟などが提起され、在日米軍と自衛隊による生活破壊、人
権破壊を告発する運動が取り組まれている。
次に、公害裁判運動について見てみよう。﹁公害列島﹂といわれるような、日本全国にばらまかれた公害にたいす
る国民の運動は六〇年代半ばから高揚し、いわゆる四大公害訴訟︵熊本水俣病、新潟水俣病、四目市ぜんそく、富山
イタイイタイ病︶が提起され、生命を危うくする公害にたいして激しい告発の運動が展開された。この一連の民事賠
償請求訴訟はあいついで原告側の勝訴に終わり、このことと全国各地での公害反対闘争の前進のために、一連の公害
条例、公害立法の制定、環境庁の設置など立法行政面へ大きな影響をあたえてきた。さらに、大阪空港公害訴訟は差
止め請求へと一歩進んだ運動になったのである。民事賠償請求では公害を除去することはできないという問題をのり
こえるものであるという点と、訴訟の相手方が国であり、その対象が公共事業ということで住民の権利と事業の﹁公
共性﹂が争われたという点でこの訴訟のもつ意味は大きいものがあった。七五年一一月一七日の控訟審判決は原告側
の主張を認容して、夜間九時以降の航空機の離着陸を禁止した。このような運動の中で、公害訴訟は全国各地であい
ついで提起されており、理論面では、﹁環境権﹂概念が提唱されるにいたっている。そして、たんに公害間題にとど
まよず環境問題にも眼が向けられるようになり、原子力発電、日照権、薬害、医療過誤、物価などの消費者問題など
様々の分野で裁判運動がたたかわれるようになっている。また﹁新しい人権﹂という点では西山事件などを通じて﹁知
る権利﹂が間題にされるようになり、三菱樹脂事件にみられるように国家権力からの人権侵害のみならず、私人によ
る人権侵害、いわゆる﹁人権規定の第三者効力﹂の間題が大きな問題となってきている。
第二期において、朝日訴訟という貴重な経験を積んだ﹁生存権﹂、﹁社会保障﹂の領域では、社会保障・社会福祉政
策の貧困さを、朝目訴訟のように憲法二十五条を根拠として追求するのではなく、憲法十四条の平等規定を根拠とし
て訴訟を提起するようにもなってきた。牧野訴訟にはじまる一連の年金の受給制限の憲法十四条違反を争う訴訟がそ
︵24︶
れである。これらの訴訟においても、従来の平等権論を一歩進めて、たとえば憲法十四条の﹁社会権的機能﹂が説か
︵25︶
れたりするように、実質的な平等をどのように保障するかという点まで理論的な面での深まりが要求されている。牧
野訴訟・堀木訴訟などの運動の前進は、朝日訴訟の運動のそれと同じように行政・立法の側面に大きな影響をあたえ、
社会福祉を充実させる立法闘争・行政闘争と結合して成果をあげているのであり、財政危機を口実とした﹁福祉見直
し論﹂を克服するためにも今後の生存権、社会保障をめぐる運動︵裁判運動︶の重要性は大きなものであろう。
人権裁判運動と憲法 一二七
人権裁判運動と憲法 二一八
第一期に発生した刑事事件は第三期にいたって次々と勝利していくこととなっていった。青梅事件︵一九六九年三月
三〇日差戻審判決︶、吹田事件︵一九六九年七月二五日二審判決︶、八海事件︵一九六九年一〇月二五日第三次上告審判決︶、メ
ーデー事件︵一九七二年一一月二一日二審判決︶、辰野事件︵一九七二年一二月一日二審判決︶、仁保事件︵一九七二年一二月
一四日差戻審判決︶などの無罪が確定し、国民の前で次々と真実が明らかにされていった。松川事件の国家賠償請求訴
訟は一九七〇年八月一日の二審判決によって勝訴が確定したが、裁判所が被告人らにたいして国家賠償法の適用を認
めざるを得ないような逮捕・起訴であったことが明白となった。
総じて、国民生活のあらゆる面にわたって多様な裁判運動が展開され、しかも、伝統的な法理論・憲法理論の枠組
みをこえるような内容をもって展開され、憲法研究者にたいして、環境権、知る権利、第三者効力論、立法事実論、
﹁﹂・R・A﹂原則などの憲法訴訴論、公害裁判などにおける挙証責任の転換など多くの間題を投げかけている。
こうした運動の前進とともに、政府・独占資本の憲法無視・人権無視の政策の進行、﹁憲法改正﹂への動きなどとの
矛盾・対決のあり方もますます激しいものとなってきており、裁判・司法の面においても、一九六七年にはじまる﹁偏
向裁判﹂批判、裁判官個人への思想攻撃、青法協加盟裁判官の再任拒否あるいは新任拒否などにみられるような﹁司法
の反動化﹂という現象が生まれ、裁判内容の面でも、全逓中郵事件判決︵一九六六年一〇月二六日︶、日教組事件判決
︵一九六九年四月二日︶にみられるスト禁止緩和の方向を否定し、国公法九八条二項の争議行為の禁止規定を全面的に
合憲とする七三年四月二五日判決、また三菱樹脂事件判決︵一九七三年一二月二百︶は思想・信条の差別を承認して
おり、七四年一一月六目の猿払事件等三事件の判決は公務員の政治活動の禁止規定の合憲性を全面的に認め、公安条
例の合憲判決︵一九七五年九月一〇日︶や、七六年五月コ日の学力テスト事件判決は国の教育内容統制権能を原則的
に承認するなど国民の人権侵害・人権破壊の現状に眼をふさぐ﹁タカ派﹂的な判決も決して少なくはないのである。
中田直人﹁戦後日本の裁判闘争﹂︵﹃マルクス主義法学講座1﹄第五章・第四節︶三〇四頁。
たとえば、中田・前掲論文・三〇四頁、上田・前掲書・四頁。
︵1︶
中田・前掲論文・三二四頁注︵1︶によれば次のように四つに時期区分している。﹁戦後の政治・法体制などをみる場合、
︵2︶
︵3︶
一応次のように区分した。一九四六年−一九五二年 占領下における大衆的裁判闘争の胎動期、一九五二年f一九五七
いくつかの時期区分が試みられている。ここでは、裁判闘争の担い手と、対応する司法政策とのかかわりに重点をおいて、
年 大衆的裁判闘争の準備期、 一九五八年−一九六九年、大衆的裁判闘争の発展期、一九六九年以降 裁判闘争の多様化
と﹃司法反動﹄の深化。﹂
学の成立と発展︹日本︺﹄︶ 一六九頁以下参照。
戦前の弁護士の法的実践については、森正﹁法的実践とマルクス主義法学﹂︵﹃マルクス主義法学講座ー マルクス主義法
︵4︶
新井章﹁七〇年代裁判闘争の課題﹂︵﹃法と民主主義﹄四六号︶六頁。
︵5︶ 横井芳弘﹁労働運動と労働法の展開﹂︵﹃岩波講座現代法10 現代法と労働﹄岩波書店、 一九六五年︶。
︵7︶
たとえば、清源孝弁護士は、三反炭鉱坐り込み事件、全国税務署一斉賜暇闘争にふれて、裁判の傍聴活動、無罪要求署名
︵6︶
号、 一九七二年、九六頁以下︶。
活動などの運動で一定の成果をおさめたことを記している︵﹁九州における戦後数年間の労働事件﹂、﹃人権のために﹄一六
岡林辰雄﹁主戦場は法廷の外﹂︵自由法曹団編﹃人権と公判闘争﹄労働旬報社、一九六六年︶四七頁。
上田・ 前 掲 書 、 四 頁 。
︵8︶
︵9︶
広津和郎﹁裁判長よ勇気を﹂︵﹃改造﹄増刊号、 一九五三年︶、同﹁真実は訴える﹂︵﹃中央公論﹄一九五三年一〇月号︶、宇
野浩二﹁世にも不思議な物語﹂︵﹃文芸春秋﹄一九五三年一〇月号。
︵10︶
人権裁判運動と憲法 二一九
人権裁判運動と憲法
二二〇
﹃世界﹄一九五三年二月号、﹃週刊サンケイ﹄一九五三年一一月一五日号、﹃週刊朝日﹄一九五三年一一月二九日号。
青柳盛雄﹁法廷闘争の本質﹂︵﹃法律時報﹄二六巻二号二輔頁以下。︶
︵11︶
この点について、﹁松川裁判では無実無関係があまりにも明白なので、審理を早く進めれば早く進めるほど、デッチあげ
︵12︶
が明白になるという見通しに立っていたので、そうした左翼的偏向を阻止できる条件の方がはるかに優勢であった。松川裁
︵13︶
指摘されている ︵岡林辰雄・中田直人﹁松川裁判闘争の諸問題﹂・松川運動史編纂委員会編﹃松川運動全史﹄労働旬報社、
判では、のちにあらわれた公判闘争における﹃政治闘争主義的﹄な偏向は最初から克服される諸条件がととのっていた﹂と
一九六五年、七七七頁︶。
刑訴法輔条は、刑事裁判の目的について、﹁公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障を全うしつつ、事案の真相を明
︵14︶
らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現すること﹂と規定している。
民主主義を実現し、人権を確立・擁護する運動︵裁判運動だけではない︶において、民主主義が見失われることがあっては
︵15︶
ならないことは当然であり、そのことが松川運動が﹁民主主義の﹃学校﹄﹂といわれる一つの因をなしているのであろう。
い﹂という論法でもって反批判をくりかえした︵﹁一裁判官として広津氏への公開状−石坂書簡に関してー﹂﹃中央公論﹄
当時、東京地裁の熊谷弘判事が広津和郎氏をはじめとする批判に対して﹁ルールを知らなければ素人には裁判はわからな
︵16︶
一九五五年三月号、﹁裁判批判論争の核心は何かー末川、家永、海野氏の所論を批判しつつー﹂﹃世界﹄ 一九五六年二月
号︶。憲法学者の中にも後になってからではあるが、﹁今回の判決を通じてつくづく思うのは、裁判批判のゆきすぎである。
裁判批判は法学者が研究としてやるのはゆるされるが、それ以上のことを同民としてやってはいけないのであり、松川大行
進のような大衆運動で判決をかえさせようとするようなことは、是正する必要がある。現に係争中の事件の映画をつくるな
みられた︵﹃松川運動全史﹄七一七頁︶。
どということも、正しい裁判をあやまらせるおそれがある﹂という発言をし、国民の裁判批判、裁判運動に否定的な見解も
水銀説が唱えられているのである。
たとえば、一九五六年には水俣病患者が細川病院に来院しており︵したがって発生はそれ以前︶、 一九五九年には、有機
︵17︶
﹃週刊 読 売 ﹄ 一 九 六 五 年 二 月 七 日 号 。
︵18︶
ビラまきの権利を守る会編﹃ビラは闘う﹄︵労働旬報社、 一九六七年︶。
朝日訴訟中央対策委員会編﹃人間裁判一〇年﹄︵労働旬報社、一九六七年︶。
︵19︶
家永教授は、﹁正しい教育を守ろうとする人々の側が権力側の訴追にあい、刑事被告人の席にすわらせられ﹂ているので、
︵20︶
逆に﹁正しい教育を守る側が原告となり、不法・不当な文教政策を執行する権力者側を被告席に立たせ﹂る必要性を感じ、
︵21︶
たかいの成果を、憲法の破壊を阻止し、日本国憲法の生命を回復しようとする努力の一環として結実させ﹂たいと考え︵﹁教
︵﹃一歴史学者の歩み﹄三省堂新書、一九六七年一七五ー一七六頁︶、﹁教育裁判を通じて正しい教育理念を守ろうとするた
とこそが目標だと考えていた︵﹃教育裁判と抵抗の思想﹄三省堂、一九六九年、一七〇頁︶。
育の国家統制と憲法﹂﹃世界﹄一九六八年六月号、四五頁︶、勝訴敗訴はともかく、このたたかいの記録を歴史の中に残すこ
いることについて、榊達雄﹁教科書裁判﹂︵﹃日本の教育裁判﹄勤草書房、 一九七四年︶=二頁以下を参照。
︵羽︶ 教科書裁判に先行する教育裁判運動と比較して、運動の担い手・争点など、勤評・学テ裁判運動としだいに発展してきて
阿部照哉﹃基本的人権の法理﹄︵有斐閣、 一九七六年︶七五頁。
教科書検定訴訟を一つのきっかけとして、教育法学会が設立された。
︵器︶
︵24︶
︵5
2︶ ﹁堀木訴訟は、その成果と、その意義がひろがるなかで、“第二の朝日訴訟”とよばれるほど充実した運動を展開し、七〇
書房、一九七五年、 一〇七頁︶。
年代の社会保障運動に大きく貢献﹂していると評価されている︵黒津右次・藤原精吾編﹃全盲の母はたたかう﹄ミネルヴァ
三、むすびにかえて
以上検討してきたことから確認できる点を指摘しておきたいと思う。
①戦後日本の裁判運動は、その多様化︵問題となっている人権の内容と運動の形態の両方の︶にともなって、
人権裁判運動と憲法 二一二
運
人権裁判運動と憲法 二二二
動の担い手が着実に拡大している。また担い手の拡大ということは、運動の形態の多様性といっそうの創造性を生み
だすが、運動における団結の重要性を無視することはできないし、その如何によっては運動内部の矛盾も生みだす原
因ともなるのである。
②裁判運動の活発化というものは、ある意味では当然なことであるが、国家権力の人権政策による権利侵害によ
るものであり、権力の政策との関連性に注意する必要があるということである。後期占領政策と松川等の弾圧事件、
高度成長政策の展開にともなう社会福祉政策と朝日訴訟、高度成長政策と公害裁判、﹁期待される人間像﹂に象徴さ
れる文教政策と教科書検定訴訟などがその例である。
③人権の内容によって、運動の担い手はもちろん、裁判運動の目標裁判運動の意義などについてもかなりの程度
に差異が存するのである。たとえば、ほとんど裁判運動に期待がかけられなくなった観さえある公務員の労働基本権
のそれと、裁判運動の人権運動の中で占める比重の相対的に大きいと考えられる生存権︵社会保障︶関係の裁判運動
と教育裁判運動のそれはかなり違うであろうし、また権力の政策との関連でも裁判所で権力側が譲歩できることの可
能なものとそうでないもの、別の表現をすれば、裁判運動の展開のみでは人権の擁護・確立が困難なものもあるのは
当然であろう。
④松川裁判運動において典型的に築きあげられてきた大衆的裁判運動が重要である。
⑤ たとえ下級審であっても勝訴判決を獲得することが運動の前進におおいに貢献するということである。このこ
とは、裁判において勝利を得るだけの運動の存在と、法理論上の優位がなければならないのは当然である。朝日訴
訟・教科書検定訴訟・長沼訴訟などはその例といえよう。
⑥ 判決の内容のみによって運動の評価をするのは誤りである。判決の内容それ自体は裁判運動である以上重要な
ことは当然であるが︵とりわけ刑事弾圧事件では無罪判決を獲得しなければならないが︶、人権の擁護・確立にどれ
だけ貢献するかという点から評価しなければならない。たとえば、朝日訴訟が最高裁判決の内容のみで評価されては
ならないのであり、社会保障の充実、生存権理論の深化、生存権理念の国民の中への定着など大きな成果があったの
であり、それらの総合的評価をなすことが必要である。
⑦裁判が終結した後も、行政・立法での人権の実質化の運動を持続する必要がある。
なお、若干の補足をしておくならば、裁判に提起された事件がただちに裁判運動になるものではなく、そこに人権
二二三
確立に有利な条件が存在していなければならない。大きな裁判運動があれば裁判が勝つというわけでもないし、裁判
運動がなくても裁判で勝利することも少なくはないのである。
人権裁判運動と憲法
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