...

Instructions for use Title 1975年インド非常事態の検討(一) Author(s

by user

on
Category: Documents
42

views

Report

Comments

Transcript

Instructions for use Title 1975年インド非常事態の検討(一) Author(s
Title
Author(s)
Citation
Issue Date
1975年インド非常事態の検討(一)
稲, 正樹
北大法学論集, 28(2): 119-142
1977-10-24
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/16241
Right
Type
bulletin
Additional
Information
File
Information
28(2)_p119-142.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
ν ジ1 ム
非常事態から二年を経た現在、インディラ・ガンディの体制は
っていたインドは、﹁擬似民主制﹂へと転換をとげた。
態宣言を布告した。この日を境にして、世界最大の民主主義を誇
大統領は憲法三五一一紀に基づいて、内乱を理由、とした国家非常事
九七五年インド非常事態の検討
日次
一はじめに
二背景
三非常事態の発動戸以上本号)
四非常事態の展開
五おわりに
はじめに
一九七五年に憲法の﹁二五年祭﹂を迎えたインドは、奇妙な方法
(2V
E
ιE
Q
H
でそれを祝福した。六月一二一﹂六ハ臼未明インデイラ.方ンデイ (
ロ
ζ
ロ む)首相は、国内治安維持法 (
。ωsι昏rE-
ジヤナタ
六億の国民の選択の前に崩壊した。彼女の宿敵モラルジ・デサイ
日
﹄FUE
(
玄 O同
弘)をリーダーとする人民党の支配下に、インドは
﹀
門
仏
岳
凶
出
宮
印
﹀
円 昨デ.同河μ
}r
口己巾
凹
乙
円
江
号
広
骨
々
句
﹀
口件)可、インド防衛法.向令 (Ug8
口o ロ
﹃
え
刊
﹃
え
によって授与されていた権限を発動して、数百名以上の野党指導
同
呂
巳
。 Hr a
樹
新しい政治過程の道をたどり始めていると思われる。
a
正
(一)
稲
.
.
料
;
;
者を逮捕した。同日午前七時ア lメッド(
3
r
F
E
E
-ロ﹀ロ﹀r
s
E
)
北法 2
8
(
2・1
1
9
)
3
6
9
.
'
資
.
'
料
資
依拠して、非常事態の布告に至った直接的・間接的背景か⋮検討す
本稿では、まずこの二年来インド内外で公表されてきた文献に
生存というものを一一層愛する﹂(一九七六年)と述べた時、二一カ
と 述 べ て い た ガ γディが、﹁私は民主主義を愛する。しかし国家の
めには必要でない。独裁は民衆に強さを与えない﹂(一九六九年)
¥
w
'
p
s
h苦
口何百
C ﹃ mw
HWJ 口D--U吋
﹁大統領は:・・:内乱により、インド又はその領域のいず
る﹂(一二五二条一項て
と認める時は、布告でその旨の宣言合発することができ
れかの部分の安全が脅かされる軍大な非常事態が存在する
(3)
の際制定された。
(2)
ωロ・一回吋町一)唱匂 N N・
﹄
(
一九七一年、バングラデシュをめぐる対パキスタン戦争
仏
(1) 閉山己三次 G 丹﹃白吋HWEHロ
W
月に及ぶ非常事態の崩壊は間近なものとなったのである。
(8)
る。ネル l、 シ ヤ ス ト リ 時 代 今 通 じ て 機 能 し て い た イ ン ド 国 民 会
O
(E5Z目立 ロとのg 岡町何回出﹀による支配の制度r、既にガ
議派
ンディ(以下こう略する)の一O 年 近 く に 及 ぶ 執 政 下 で 中 央 集 権
化され、個人化されたものに変容していたが、この新しい体制は
皮肉にも脆弱性から免れたものではなかった。それに加えて一九
七四年初頭から始まったジャヤプラカlシュ・ナラヤン(﹄ミ名Bl
宮
臼FZRSdロ﹂の指導する﹁J P運動﹂、一九七五年におこなわれ
たグジャラlト州議会選挙、二つの選挙違反判決は、カンディに
決定的な打撃を加えた。
こ れ に 対 す る ガ ン デ ィ の 迅 速 な 反 撃ll非 常 事 態 の 発 動 を 、 初
期の強硬措置の実態を中心に、次に検討する。当初﹁設の非常事
w
能した体制を、会議派﹁制度﹂と名づけた。即ち独立運動
シス一プム
(4)ZE々 の 出 号 ? 二 三BLRZCロ 二口出ミ丹念仏-YL﹃おbTQ
CQESPHEtGH弘
A
、
。 NNHR島町旬、己目吉見向島、、、おな四九
F
z
-今♂ (Uc-D邑
H cw宅
2Z2pgp一
u
g
- ℃・-(5) イ ン ド の 政 治 学 者 コ タ リ は 、 独 立 後 の イ ン ド に お い て 機
を指導してきたインド国民会議派は、独立後も一貫して中
態なのか?││インドのかインディラのか﹂と厳しい怖愉を受け
たものが、一九七五!七六年のその後の展開の中で様々な法的、
央・州の両方にまたがる与党として執行・立法権を保持し
緊密な関係が一発達させた。一力会議派内の派閥主義(P?
であり、同時にそのリーダーは会議派内部の派閥の領袖と
政党が作用した。これら小政党の役割は圧力・批判・諮交
周辺には支配政党内部の諸派閥に組みこまれた形で、群小
てきた。会議派は同民的合意に基づく大政党であり、その
ユセンサス
政治的、社会的、経済的事象を生みだし、外見上は礁周たるもの
になっていった。これが第三に明らかにすべき主題である。
最後に、﹁規律と秩序﹂を強調したガソディの非常事態体制が、
﹁独裁か民主主義か﹂を標携した野党統一戦線の前に打倒された
第六次総選挙前後の事情の一端を述べよう。﹁独裁は食悶と戦うた
北法2
8
(
2・
1
2
0
)
3
7
0
1
9
7
5年インド非常事態の検討 付
このニ一口金吋旬長。ロ︿伶
口
問
﹃
ゆ
毘
E(UC
山
内
コ
ω
u
E件。ョ Z H
e-
めど司、ぜハア
}
z
s
ζ
C
E
N
a
z
HmHHd-3h=Bwω
﹃切
Fps
M ぐ同日田
吋印 ) w
すると、両者の関係は好転した。この年以来総裁には、首相に対
V ロヒ︿白石ω) を総裁に任命
た後、ガンディがサンジヴァイヤ (0・
大きな制約を経験していた。しかし一九七一年の総選挙で勝利し
は強力な総裁たち(同・町ハ ω
ω・
Z
H
]包}︼ロ官官官凶)の抵抗を受け、
ヨ民国γ
がある。一九六九年一一月に会議派が大分裂する以前には、首相
P2号 え ch子m h g向吋句協)と首相の関係
第一に会議派総裁 (
)
1 党レベルの統制
(
いうこつのレベルにおいて進行していた。
してその形成は、会議派党内の統制、政府・国会議員団の統制と
が、制度化は弱められている新しい政治渦程が生まれていでそ
ルl時代と異なり、より尚度に中央集権化・個人化されている
と呼ばれた現象は、ネル 1時 代 の 一 党 支 配
類型の再現であるかのようだつた。しかし子細に鋭察すれば、ネ
ω
J
- y w V内 ﹀ 円 以 円
へ
uu
な制度ば、種々の欠点にもかかわらず、合意的権能を基礎
色
。E-UB) も、本来的な調整装置か一備えγ いた。このよう
ω2・ MN3DF問。同}伝子
にした支配を行うことを、会議派にとって可能なものとし
た
。
k
c
a
=
NSon-
叫位、
︿二
2
H
L
・
呂
田
ム
ーーお ua寸﹃ぬ
N
S
2
)
w
官官
のD口
虫、佐︼なιυ ﹀ 02
河口口芯m
o︿高司¥恒久山にお滋
回
同
巾
口 dHN
開
門
同
町
田 ω叱
'P3
H・口百四 JHω
仲間︾日々
︿二
旧三)・喜一口ω 印1l-DE この点に
ミ -MH
口百円 EMmw
旬
。
つき UP足。一戸。EZP ま
同
﹄
一u
g
)・宅-∞211∞吋∞・も詳しい。
33・
G
E
m
-SFE者宮路開口百問。ロ口町lrιEJ2
ミミ叶え晶
=
ι
5・m可 ヨ 叫4Egv
(Z2・ -U 宅-
(6) 黒 田 忌
l
l品目--
b印
E
込 ER ω
7)TZ25毛色﹁可欠 佐野・ 02・
mLUEJFME めり5
ハ
ω ぬ同町内山門ω2mw 丹・
J
E官庁・ ωと、mF50
(8)aO勺同国己妥当回目ロ O件。宮口問え k
内
︿
2v
する個人的な忠誠心は持っているが、独立した政治的基盤には不
足している人物が、選出されている。
第 二 に は 運 常 委 員 会 ( 巧2Eロ向。。ョヨ22) の問題がある。運
営委員会は綱領土、党組織の最高執行機関であって、党の全ての
命令し、統制する権限を有している。また
下位の委員会を取叔
7
会選挙は、中央と州における会議派支配の復活、強力な中央の指
党規律の違反者に制裁を加え、党の利益に適介すると委員会がみ
一九七一年のロク・サパ(連邦下院)選挙と一九七二年の州議
導力、イデオロギー的に一貫した党を出現させた。表面的には、
北 法2
8
(
2・
1
21
)3
7
1
百
三
件
。HvpbshNeh-U2・ω・u
g・
景
会議派制度の変容
背
料
︽
3v
なす全ての行為を、行うことができる。
この運営委員会は、会議派分裂後にその権限を強めて、いくつ
内閣・会議派国会議員団 (
ngmzaF弓E E岳山口市えいの胃︾﹀
︿
・
(7
︾
に続いて一九七四年に就任したア1メッド大統領は、
U
G
H
HH2202) を解
P邑grηgmH 何回目(
かの州で州会議派委員会 (
ガンディの忠実な同僚であって彼女に挑戦する地位にはなかっ
25
をも焦点としたものだった。まず大統領との関係では、ギリ(︿・
散させた。そしてその長を自ら指名したり、ガンディが自ら直接
た。一般に大統領は首相の近日内祝されている。次に対内閣対策と
︼
に選出した特別委員会(邑rRSSE- 2C を樹立している。州
して、ガンディは頻繁に小規模な内閣改造を実施し、チャヴァン
同丹
以下の地区でも同じような事態が進行して、運常委民会の地方に
へ
・
∞
・(
U
Z
Eとやラ1ムといった上級大医たちの権力強化を防止
第 三 に 議 会 局 古 主Egggq∞o
C己 l
mえ)と中央選挙委員会(
巾
円tgn05552) の変化がある。前者は従来も、州会議
s
-巴
術を駆使することによって、閑内のガンディに対する潜在的な挑
書部(句冨¥回 ω222E) の役割も橋大させてきた。これらの戦
。
(9)
﹂とが、理解されよう。
パトロネツジ
ィが党と政府の両方に、ピラミッド的な政策決定構造を創出した
︿
η}
用のおける自らの支持者を配置するという手段を通じて、ガンデ
以上の検討によれば、全ての党内外の制度上の地位に忠実で伝
ようになった。
ハ
HM
cppメンバーの多数派の忠誠は、ガンヂィが俗図として保
(初)
した。同時にガンディは枢軸となる大医職を自ら保持し、首相秘
ハ
8v
派議員団の活動を欧視する働きをしていた。しかし議会局はガン
戦者たちは、完全に劣位な地位に落とされることになった。最後
(d
ディの指導下に漸次、会議派支配州での州首相の指名と強制的な
に
、
(4V
解任、州内閣の構成の決定に、力を振うようになった。後者は選
持していた。一九七一、七二年の選挙の後になると一層、彼らは
対する干渉主義的性格が露わとたってきた。
挙時における会議派公認候補者の選抜に、最終的決定権を有する
出身州の州首相よりは、中央政府の首相に愛顧を求めて依存する
政府・国会レベルの統制
権力の中央集権化をめざしたカンディの努力は、大統領・中央
(
2
)
の指導下に復権した。
分権化も、一九七二年の時点からは逆転して、 C E Cはガンディ
︿
6)
て、侵食される一方であった。このような候補者選政過程の地方
(5v
党機関であるが、その役割は独立以降強力な州リーダーに直面し
資
北辺;
2
8
(
2・1
2
2)372
脆
5
司
性
民衆の間で問われるようになってきた。
唱
(1) 印宮口]ミ﹀・同ハ272。r・27白目。ωロLEdHJEE三日吋﹁。
司
司
・
回
ω
l
i
U
印
・
出h
a
ZE司門リo=同円。出¥二口出白﹃同(邑)wHE去、bcaEgh・hH再
(2)HFミニ司・ 8 ・これによると一九六九年の党分裂以後五
人の総裁を数えている。のF522522・lFn-zgy
2白血?-uコ!!ζミ一∞吋日)・。円・ωZ=rミロミω-ωZ﹃ヨω
γ包︿ SEES2・-ug!宮司・一回コ﹀・0・ω27ミ2
吋
1 ンドラ州首相レツディ(穴・∞zr522rpi
戸
4
V
吋
き
偽
-N
二
・
︽
R
﹀
ω 月BZv・開rnECDmC﹃]口LE ・入山2Q芯句史、emw-Y-MHHH一ω
4)ZE一ZNW352ιζ072Fm]一山}︼白﹃BPE、ロ52prω宮古
ハ
、
、
2.heHνロ520=c=22Eq句5mm
u-回目∞.官
偽
誌
与
門。L
τ
}
H
¥
J
吋
吋
、
言
F
HN
b
)い
﹁。詰.、ぬミ υb
¥
、
、
主
誌
Q苦R句
、F
同﹃ごz、芯E伺=ミ
札
ら
凡
法
崎
E
﹁L
ω
g
ロ
内
伶
尖
叩
砕
r
F
w
叫
吋守
尽
、
︻
内
U
。
滋
ぷ
h
h
町
、
2h
(3)ω同宮釦口己3
可
阿討内G2}r
﹄
、
h
a
剥
ミ
し
匂
可
。L
¥
⑦﹀
ぬロ
令
'
匂
切
偽
2
﹃子.﹀Eロω﹁c2cユ
命
タ.
E
吋
}
r
z
︼
耳
伶
{
わ
U
c
ロ
目
司
︼
ω
ω
ω
阿
吋
ν
J
肖
吋
ユ
仲
常
巾
g
ロ
己
丹?
であった。(わυ
.
V3
o
2
)
発言して、非常事態下のカンディの神格化に貢献するほど
円
対 す る 忠 誠 心 の 余 り 、 A E E Z EFH邑広FHE町へと
に支持基盤を持っていない。パロlア総裁に至ると首相に
あった。しかしその後に任命された=一人はいずれも、党内
ハ庄町﹀の阻止にあって、ガンディが止むなく任命した者で
総裁はア
スブラマニアムは分裂後の暫定総裁であった。次のラlム
)
・
Y向宅一回吋Moa-uX)W0・甲山-FHOBY(oa-由
工l
ハ
いった全般的な経済危機に直面して、ガンディ体制は次のような
システム
は誰の円にも明らかに衰退してきた。一九七三年の終り頃には、
F
h
一九七一年選挙のガンディのスロ iカン﹁貧乏追放 ( C QR
‘
、
f 形となり、統治の正当性
haE)﹂は、実施されることのない空 子
化された。
対して向けられていた腐敗の非難が、容易に首相自身に対して転
った。④制度が高度に個人化されるにつれ、州首相・中央閣僚に
意見の相異にますます不寛容になり、威圧的に統制するようにな
めに、弱体で無力な州政府が各地に生まれた。③会議派は党内の
なった。①州は中央への潜在的脅威であると見なして取扱ったた
ため各閣僚が、国家の直面する経済危機に対処することは困難と
①頻繁な内閣改造は、政治的・行政的混乱をもたらした。その
脆弱性を示した。
の皐魅と洪水、国際的伝石油危機によるインフレ、深刻な失業と
の対パ戦争の莫大な出費、一九七一li七三年の数州における一連
ったが、それはまた幾分かの機能不全を伴っていた。一九七一年
前項までに見た、ガンディ首相の指導力強化は壮観なものであ
(
3
)
反対派の運動がどの場所でどんな形態で起こるかということが、
~U1;28(2 ・ 123 )373
付
1
9
7
5年インド非常事態の検討
n
資
向
防
︼
口
一
回
吋ω﹀
ハV
・
同
N
uω
・
・
ム
﹁
ゆ
同
リ C﹃
仏E-U吋旧日明2255帥
同
耳
切 ω¥
(5﹀何回BErgu可列ouPRHロ
入
山
之
gh宮、語、-MHHHHM(Fr・-U3). 宅-N8iNωm.
(6)Z2g田口 0 ・司同一52whhha芯2 bミ丸、とた民ENUS?
凶
gぷて宮、 lNSF
叫4 t E B H翁 句 苦
吋F内句。 R H p b
02-gg-Z向
。
、
詩
句
、 NHHJ
九三晶詰同心円、町、駒内EH・
(・
U・
ロ
ロr巾CER
︿m
芹可可耳切♂一∞吋印・℃司・二印ムN
・
印
3EF 吋宮、・ミ¥hhu
(7) この内山につき戸 Z・
zhRSF
U
7
5
ι ・一∞三・が詳しい。
zodp喝。乙Z
-ω ・(
C Y E E M丹D
ロ(包Y
﹄
切
宅-一室│一己印・
OM
・
N
csE 子 H42JへC円
FP2mF-U吋
P 3・ 宏
一、ミ昔、
凡
守a A由同凶守句、令、 F句。 ha
ω巴P H E
戸川山﹀剛山ユarEMH凶F
llMO印 .
ミ吉宮崎、
J
(け)穴
c
n
r
E
m
i
r
h
h
h﹄守、おロ C同巾一-℃-一
(
門
は)LSミ
z
z
g
}吋円D
p
a
Nヨぢユコ間同﹃巾可c
(刊日)月と三次♀E
n
g
m・3句、、と l
言、
J5・ MDω ︿﹄己}可否吋町)噂問︼一印・これによれば、高度に
中央集権化された(カ γデ ィ の ) 権 力 装 置 に お い て 、 ⑦ 会
議派を含めた政党の役割は次第に減少し、②州・地灰レベ
(9) 首相秘書部の下に後述の、非常事態下で猛威をふるった
HN22RY﹀
調査分析局 (
E 守ω佐巧宮町﹂が直接組織されて
一六│二三頁。
方法による経済発展﹂世界週報二九七五年七月二二日号﹀
(川門﹀浜渦哲雌﹁ガンジー独裁への道1 1失 敗 し た 民 主 主 義 的
nEロ伶}TE﹄
(江川﹀貝c
守
、
品=
c件。ァ同︼匂一一ωl二ム
触を失い、気まぐれで無感覚なものになった。
いる。首相秘書部はシヤストリ時代に創設され、カンディ
ルの自治は失われ、①ボランティア団体・利益組織は審議
決定過程から漸次排除された。④同時に官僚機構と数人の
8U
ハ
相・情報放送相・航空相を兼任していた。
,ζREF-F
og--ug・匂・
﹄
ミ
ml﹄Uミ.FOES- 、HZ
ロp
ωω印・によれば、七五年の時点でカンディは計画相・原子力
政治ボスに権力が集中し、政治ボスはまずまず人民との絞
によって拡張された。その結果一つの﹁独立した執行力﹂
となり、内務省にかわって上級行政官の任命・刻進を取扱
(同)知識人・ジャーナリストだけでなく、民衆もまた﹁貧之
におもねる﹁諸刃の剣﹂を使い分けながらも、次第に前者
立つ政治の支配層が、生産手段の所有者と被所有者の双方
と労働者・良民の﹁中間﹂に存在し、官僚機構のトップに
追放﹂が決して実現することはたいと別解するようになっ
うほどになっている。ウェイナーによれば、首相秘書部
た。それはショウリ l の 分 析 に よ れ ば 、 生 産 手 段 の 所 有 者
口
はインドの新しい政治制度の一つとなっている。去三
g
ニロ︽出血
.U
ハ
︿HHU
・
r
a広三 52¥uωg-r 主
m
Z命者 FZEm
F
そ巳ロ
J
匂 3司
R
、
=
F
m ﹀自SEESC﹃﹀宮口 ω仲え5
吋DHD
S
ロ
ぢ
・ ζR-M口、一回吋?吉弘之
宰。﹀ロロロ乙宮内広吉向。
山
田
・
(ω3u・}旧三山)岨同 γ ∞
;
2
8
(
2・
1
2
4
)3
7
4
北{
l
1
9
7
5年イ γ ド非常事態の検討 付
の利益を代表する政策に傾いたからであり、公約とその成
N
一
l
a
2・ 伊 藤 雄 次 ﹁ 非 常 事
果の間のギャップが大きく拡大するのは必然的なことであ
opg号-。、町民同 J事
った
態白昼一一一口と議会﹂法学セミナー増刊・現代議会政治(一九七
七年六月﹀一九一ー一九二頁も見よ。
したガンディに対して、聴衆の多くは靴を投げつけニう唱
(げ)例えば一九七四年一月マハラシュトラ州での集会で演説
、
円
FUJ Cロ己中
PZωgur
d﹄
﹂
同国色丹丘一ZNω52
和した。﹁演説はもうたくさんだ、我々に食料をよこせ
沿道連ミ札。・、ぬ旬、耐ぬ潟札。一
(切 F E F
ErTRHCQE同どいみ﹄凶S旬、晶、
迄吉国口一泊 H
ヨ
一
一
昨GP 一
∞
・
U3・3 ・∞口吋 1ω口
ω
z民衆の蜂起と運動
一九七四年初頭、グジャラ l トとピハ l ルの両州において相前
後して、ぷ会制民主主義の枠組自体を問題とした民衆の蜂起と運
動が起こつなこれは七一年以来のガンディに対する最も意味の
ある挑戦であり、七五年六月の事態を直接導き出したもの件、もあ
った。
四日今度はア l メダパ lドハ﹀rEa与邑)の L D工科大学の学生
て州予備警察が非常に残忍な干渉をすると、ア!メダパlドの数
リザーブ・ポリス
が、ストライキに突入して同様な破壊活動を始めた。これに対し
︻
qd ︼
地反で暴動と商庖の略奪が起こった。次の数日間に、州内のほと
んど全ての地方で、デモとそれに対する筈察の報復が行われた。
アジテ l ションの先頭に立ったのは、自然発生的に生まれた権
QS守 若 宮
力分散的な組織である、再建のための青年委員会(弓
内
4v
F
N吉川町崎)であった。この一委員会はまずパテル州首相と州
司旬、ぜ主 '
内閣に対して攻撃を向け、ついには二月九日に中央政府の指令に
基 づ く パ テ ル の 辞 職 を か ち と っ た 。 同 時 に グ ジ ャ ラ lト州議会は
この﹁人民の勝利﹂は歓呼で迎えられ、次の段階として州議会
停止され、大統領統治が課された。
とガンディ自身が、政撃の標的となった。州議会議員たちは、民
{UC
)
、 ジャン・サ γ党議員はこれに答えて
口四百出 (O﹀
衆のリコール戦術の高まりの中で、議員の辞職を強制された。野
党会議派︿
二月一六はに一括して辞表を提出したが、辞職要求を拒否した与
党会議派色。口問BE(阿川)﹀議員は敵意をもった選挙医民の脅迫を
内
2
)
l
(
受けた。一二月一一日になるとモラルジ・デサイが、州議会の解散
J
玄2i) の工科大学の学生が、
一九七四年一月一日モルヴィ (
を要求して無期限の断食を開始した。中央政府は、全ての警察と
グ、シャラlト
寄宿舎の食費値上りに抗議して、実験室の設備を破壊した。同月
北法 2
8
(
2・
1
2
5
)
3
7
5
軍による統制が無視され、州都では暴力が鋸鍬を極めているとの
する戦闘性と個人的な廉潔さで全インド的な評判を得ていた。 J
Eezkg'vshE2F
Pが指導を引き受けると数週間以内に、ビハlルの全ての大学・
が組織された。
HRM)
r
r
c吋)州政府の辞職
J Pは三月二O 日にガフ 1 ル(﹀庄口一。
L
E苦叫
中心都市で学生・人民闘争委員会(の
(日)
報告を受けて降伏を決意し、三月一五日州議会の解散を認めた。
結 局 七 三 日 間 に 及 ん だ ア ジ テ l ションが残したものは、パテル
内閣の解任と州議会の解散であったが、それと共に警察の発砲に
よる死者は一O 三名、逮捕者は八二三七名にのぼった。グジヤラ
金要求し、その一一一日後ビハlルの全域を閥復う宮君主が突抱され
り、ガヤ(のミω)においては暴動となって噴出した。この際警察
た。四月に入ると﹁政府を麻市押させる﹂アジテ l シ ョ ン が 始 ま
1 トにおける民衆の蜂起は突発的であったが、その怒りの沈静も
(7M
また速やかなものであった。
h
ラ lトでの屈服を繰り返すまいと決心を固めていたガンディ
運動の衝撃は会議派内にも影響を及ぼす﹁﹂ろとなった。
意を表した。 J Pに対する中傷・悪罵にもかかわらず、彼と1p
った。そしてその会議派の腐敗への告発には、数多くの野党が賛
ビハ lルにとどまることなく会インド的な広がりを持つようにな
J Pの指導した運動 (JP運動)は一九七四年の夏までには、
明らかにした。
制 的 枠 組 の 外 の ﹁ 全 面 革 命 ( 信 君 主3a
マTS﹂にあることを
われ、その後の大衆集会で初めて、彼は運動の目標が単なる議会
.万人行進が行
妥求するように伐った。六月五日にはパトナで五0
の発砲で八名が殺されたことを憂慮したJ Pは、州議会の解散も
、l
'レ
lL ノーIl' 〆
J-
ビハ l ルのアジテ lションは、グジャラ lトのように一人の人
物(パテル)と同一視された腐敗に対しての、民衆の突発的な反
f
z
動ではなかった。政治的不安定を生みだしてきた政治家一般に対
する、民衆の敵意が昂揚した結果生起したものだった。
一九七四年三月一八日パトナ(毘ぎとの州議会の前でデモを
していた学生たちに、警察が発他し二名が殺された。次週には州
内の各地で暴動が起き、発砲による死者は二五名以上となった。
学生たちはそこでマハトマ・カンディの精神的後航者と見なされ
︿自)
︿叩)
ジ
ク
ていたジャヤプラカ l シュ・ナラヤン(通称JP) に、運動の指
噂を求めた。ビハ 1 ル州の農村において強力な基盤を有していた
J Pは、老齢(当時七二歳γ 病弱の身であった、が、その不正に対
方
(
2
)
束
十
:
t
t
i
北法 2
8
(
2・
1
2
6
)
3
7
6
1
9
7
5年 イ ン ド 非 常 事 態 の 検 討 付
z
白
は、ビハ l ル出身のミシュラ 9 ・ ・7
ZE) 鉄道相の助言を受
しかし J P運動は七四年中に六回のピ lクを迎え、一九七五年
けて、州ぷ会の解散や州首相の更迭を認めようとはしなかった。
に入っとも沈静化の気配を示すことはなかった。窮極的には﹁政
党のない民主主義﹂の実現をめざしたJ Pの政治哲学が、簡単に
権力と妥協する可能性は少ないものだった。
一九七四年に起こったグジャラ lトとビハ l ルにおける民衆の
蜂起と運動は、普通の民衆が、結局は政治の腐敗・人民のリコー
ル権等の基本的な問題の全国的な討議を喚起したということに、
その意義を見出せよう。
u
、
(1) インドでは一般に両州に起こったアジテlショ γ は
J3甘口一日間︼円。同虫ぺ という表現で一括されている。それは党
エスタフけツシ﹂メント
派 性 に と ら わ れ な い 民 衆 が 、 カ l スト・階級一種族・宗教
ボビユリズム
の陣地位を横断して結びつき、政治的経済的支配層に挑戦す
ることを意味する。そしてイントにおける人民主義の特質
は、次の諸点に表われる。①議会外的(ゆえEdRFEZl
g々﹀であり、②言語的・地域的・セクト的な利害を越え、
ガンディ流の市民的不服従﹀、断食、宮君主(同盟罷業)、
戸巧 00 AHElFL2531
立可制官(威圧的包囲)。﹄crz
子
一
za ﹀mT
gqO℃司自主 DロE F仏芯一﹀ロ﹀E 守
的目白色町旬。司c
州の一つである。同年から一九七一年迄、グジャラ lトは
gtcEE のロ﹄民民自己切F2・3 h v 円
QqRhh¥
ミ2 ・ A∞
口
ω(同り岱}ご∞吋印)"宅・
ω
l
ω
一 目
一
(2)L3ミ-W3・ω l
ω 一印
∞・によれば、グジャラlトは一九六
∞
一
九年の会議派の分裂によって、著しい政治的混乱を蒙った
ω(
岡山﹀)が優勢となった結
モラルジ・デサイの本拠地となっていた。七一年の総選挙
でガンディの会議派色
S 四円虫
n
c口問耳目(。))のErEEU自己内閣は
果、右派会議派ハ
辞職に追い込まれ、大統領統治が課された。一九七二年に
問﹀が勝利
ω(
し、ガンディは自らオザ(の自佐官BON印)を州首相に選
実施された州議会選挙では全面的にの
S 四円宮
このオザ州内閣は(R)内の三人の派閥のリーダー円。E1
んだ。
55rrEE件。ァ悶えロr
r巳﹀合口L
P
E
E
ω 一の zoJ を会白んだ
ものて、二ハカ月存続した。その間急進的な経済立法に反
対する富俗曲庶民・穀物商人は、 C- パテルを支持するよう
になった。一九七三年六月パテルはついに、七O 人の(R)
州議会議員を結集してオザに反対する意思を表明し、自ら
③農村的でもあり都市的なものでもあり、④民衆の窮乏条
州首相に就任することに成功した。
当初ニューデリーの会議派司令部はこの政変を黙認して
力となる。⑤抗議の方法も暴力的・非暴力的た表現の両方
︿マハトマ・
件と結びついて、高官への腐敗の疑いが重要な運動の推進
hzE
にわたり多彩である。例えば、首ミ制
北法 2
8
(
2・
1
27)37
7
ト
:
キ
f
1
t
いたが、次第に非寛容的な経済政策を州政府に押しつける
ようになった。一方特に大学生・都市中間階級の聞ではグ
ジャラ lト治治に流布していた腐敗について、新たな皮相
主義がひろがっていた。
門
ビュ l O 号(一九七七年六月﹀一二頁によれば、ナラヤ
一
ンは﹁共産主義者として民族運動に飛び込んで以来、任会
RW
令﹂、宅の仙の憾と穀物袋を持った行列、沈黙の行進、金属
党の創設者、中心人物となって政界の最有力者の一人とな
M
?ra5ロ﹀が慣習化していた。円﹃玄白rg-E
ZDE50同
︾
U3np
。F23満宮 同
mLS℃∞百四 }f 。
U
Sミ匂一吋﹄町内
︾
詰 SSミ H
、
、.
s
a
w
Z雪ぐ
Q札2F 向。対同町、
2
h
a
E片岡︾ぬミい官、えた"・2 ぎ同w
(
リr
ロ己r
F・ω・
E
d U吋
印
・
・
凶
︽
(9﹀斉藤士口史﹁インド政権交代の思想的背景﹂朝日アジアレ
製の阻(忌引にむを打ち鳴らすこと、断食リレl、パス・ジ
ったが、やがてそれにも見切りをつけて、マハトマの流れ
4
3) 叫と守ねたと誼bp ハめと23巴-VP 一lis- 一回三︿
(4) その手段ば変化に富んだものだった。即ち、﹁人民の消灯
ヤツ夕、大臣の服を着せた動物のパレード、肖像人形の焼
をくむ万人救済のサ
l
一
回
吋M
m
l
l
ω
N・
-官
同
︾
・ M
司
N
R
c;宮、ghh82
ミZ S H送、pzgp-ry 吋roBm
D
=・
iF%) の建設に従事した。口町・、﹃・剛山。DB3・9 aミ2 5・
匂
H
a
w崎
a
h
N
Nじてえ柄。・﹃, N
W
F。
。
札 l
町
民
怖
い
官 QE同町、 HEぉ
hmwhh誌 h
沼
地主が自分の土地の二O分 の 一 を 寄 贈 す る 村 正 乱 ヨ トE
獄 納 ( 主 主 制 と 運 動 を 展 開 し 、 土 地 の な い 農 民 に 対 しC
og ∞﹃︿とと共に土地
においてパ lグエ︿﹀nyRE ︿百
(
叩 ) J Pは 一 九 五 五 年 に 政 界 を 引 退 し て 後 、 主 に ビ ハ l ル 州
U
"FU6V3FEFbh-E匂ぬお u 目
田吉伸宮町一臣ユ
k 、 と 主SN
2
・
︿自民口丹ω州
0己 ︿
H
E
P
凶
︽
凶
器
広
︿Z
凶守旬、ミC ・
E
一
句
印
C
F
m
F
凶
円
四
、・、・.
h w
u
r
ωロ
︽
円
y
ω ・{
E
Q礼司、。、.河内刊、。hrHSFXm君。乙r
リ
門
一
也
吋
一
山
たどった人物である。最近の有益な評伝として、広﹀正
t ホタヤ運動に入った思想的遍廃﹂を
Zう ち 、 模 擬 法 廷 、 パ テ ル ︿ 後 に は ガ ン デ ィ ) の 模 擬 葬
した。
ω
-∞
式、が行われた048子。、 2HJ
・
司の州議会議員、か辞職
(5) 三月の第二週までには、結局九五人
︺
・
℃第一次的研究につい
グジャラlトにおける民衆の蜂起の
--U
E
m
g
C
2
0
ロ
盲
目
丹
¥
旬
、
E
R
N
E
MV内︻河川一日(﹀買ニ
(6﹀ 冨
間
百
三
向
。
n
f
v
L
F口ゐ wh同
1
h
C
- 古一吋﹄ロo
ω一一山・
J
日∞
(7)
﹄
(うち会議派によるもの六・非会議派二、寿命四日
O
一
、
吋
}
凶
作 C宮日m
rmF 念
ては、の}回目的﹁認ヨ ω
mゆめ口。ξmgデョ
同2 5遺骨 S 丸、とたたお同司2といア只 υ
ω
N ω品 官。
g一
ω
(
zzgrF ﹀口問・-旧三)・ 3 ・一品MUi-2
ム ・を見よ。
(8d 一九六七l 一九七一年の聞にピハ l ル は 八 つ の 州 政 府
凡﹀、二問の大統領統治を経験した。しかもそのうち六人の
州千円相は政府からの脱党者であって、典型的な脱党の政治
8
(
2・
1
2
8
)
3
7
8
北法 2
(日)この委員会は要求を提起しデモを動員するだけでなく、
ポラ γティアとしてソ iシヤル・ワ iク脅し、民衆の意識
耐
えF
C
E
r
w 与えぬ誌匂号、 eauJU内︿同二日︿匂巾口
四
円
。
戸5LSι 同
一
回
ー
コ
山
)
"
甘
一
一
日
吋
・
(門川)それは会議派と右派共産党 (CPI) から投げかけられ
うと、現体制酬に対する人民の正当な不満と怒り会利用する
貼り、その運動は﹁権力掌鐸へ向う反動攻勢を打ち建てよ
久トの活動的な代理人﹂である(会議派)とのレッテル合
た。彼らは J Pが、﹁インドにおいて勢力を得ているファシ
滅するためには、﹁社会・経済・政治・教育・文化・倫理会
全知全能の神が国中に遍在していると主張した。それを絶
ι
g
q
p・q-ωN一ぞ教育することも期待された。巧
・
。v
(ロ)彼は﹁腐敗﹂がインドの現代的な神となっており、その
根源的に変化させること会めざす全面革命﹂を、継続して
-alg-
右翼反動勢力の陰謀の一部﹂ (CPI)との熔印を押した。
5
ストにおいては、﹁我々は新しいピハlルを創進しよう。全
行うことが必要であると述べた。特にピハlルのコンテク
ζ ζ自
-。
白E
、
・
・w宅
・
しかしJ P (運動)にファシストのレッテルを貼ること
EEu
発展、政治的行政的な地方分権化.教育のエリート主義的
(川門﹀ある意味でガンディが会議派統治の政治的後継者とすれ
ヲ1ゾ
・大学・試験の一年間のボイコット、②州議会議員に辞職
ってインドの公共生活を道徳的に改善せよという彼のアピ
ば
、 J Pは会議派の社会的伝統の継承者と見なし得る。従
M.)
有、農業への適度なテクノロジーの適用、家内農村工業の
瞥すれば明らかである。即ち、農業の発展、平等な土地所
の馬鹿らしさは、彼の次のような経済的・社会的目標を一
匂shHF)﹂をスローガンとした。 ZECD
宮、 h g E
ミ RNFSE
‘忌岱回
grp" hv-HF内みま言、、ァロ己﹃子、吋}局窓RE--s
・
、
同
ロ
︽
出P 一
印
︹
︺i 2・
(UC5
回
丸
山
・ 2
v・
同
)E40﹃
アポロギア
但し後に非常事態の擁護論を書いたデリ!大学のダット
性格の改革、カlスト的経済的階層制の解体等。(包丈よ
、
Shan
は、全面革命は議会制民主主義の破簡明であると激しく非難
司
・
印
五回忌晶、
ての村守新しく作り直そう(弓白 υ
し
、 J Pが以下の計画を立てたと言う。①学生による学校
セ求めたゲラオ(
hZE。│行動を妨害することにより圧力
州議会の形成、⑤政府の事務所の麻痔、⑥税金不払いキャ
に会議派内の﹁社会主義フォーラム﹂から生まれたCFS
ールは、会議派内の一部の者の琴線に触れた。一九六二年
パラレル
をかけることて③州議会議員の社会的ボイコット、④平行
A
口問吋ミ}内田)に分裂した
(JPE
﹀♀5ロ)は、その内部
γベlン、⑦裁判所のボイコット、⑧平行政府・平行裁判
で更に親C P I派と育年派
025FHωRE--a
(のC口
開
門2m 司
所の創設、⑨運動支持を求めた軍隊・警察・公務員へのア
2・ E同﹂克明言内﹃岡市=口可百円=門口白一一∞ ωnrl
ピール。︿ -Hν・0口
北法 2
8
(
2・
1
2
9
)
3
7
9
付
1
9
7
5
年インド非常事態の検討
料
資
(一九七二年﹀が、後者はかつてのプラジャ社会党員で構
d
ET
に﹁要求の憲章(口
ω
u
z
z
g ︹ロク・サパ議長﹀と∞U-rE
会指導し、。・
(ラジャ・サパ│連邦上院l 議 長
一一月、四五人の会議派国会議員が参加﹀、J Pの要求は会
彼らはチャ γドラセカールの自宅で茶会を開き(七四年
ω・
二
九
千
・
, EE
、H
R
ゆを長とす
し増員も行う (JPはすでに︿・ ζ ・
③選挙管理委員会合改組して、そのメンバーは廉潔な人と
-MISA・D - R等、全ての制限的な法律を廃止する。
(一九七一年以来の対外脅威を理由としたものl 筆者注﹀
ハl ル、グジャラ lト で 早 急 に 選 挙 を 行 う 。 ② 非 常 事 態
決算とも一言うべきもので、次の諸点を要求していた。①ピ
議派選挙綱領を換言したものに過ぎず、 J Pと対話すべき
l
f同
る選挙改革委員会を発足させ、その報告・を得ていた!
Z﹃えrggL印)﹂を提出した。この憲章はJ P運動の総
O
M
-
であると提言した。しかしこの動きはガンディの逆鱗に触
上て④政党は選挙費用の報告書を必ず提出寸る。また全亡
mrzpppEロ
成されており、そのメンバー(民・。}回目仏門白m
urRF 阿ハユ凹rg 民自ゲ HNgdUEロ等)はJ Pに同情的で
れて、モ l ハン・ダ 1リ ア は 連 邦 内 閣 か ら 追 放 さ れ た 二 九
LrFJHι13E3
あった。民RERr-R富田・。s
・ 3・
七五年三月二日)。ダlリアはその二日後国会で、﹁腐敗が保
の公職保持者は、就任時及びその後も定期的に資産を申告
-{︺
護され正直さが処罰された﹂との非痛な声明を発表した。
する。⑤腐敗に関するサンタ l ナム(伊三宮EE)委民会の
門川
告発を審査する権限を持つ、司法審判所
ロE1
CEEω ご
急に実施する。州首相や首相など政府高官への(腐敗の)
義の破嬢が進行していることに鑑みると、真の地方自治に
55・V一任命する。⑥中央集権化と草の根レベルでの民主主
円
む
・
・
官
官
・ MmムllMm
・
印
(げ﹀彼は説得・非暴力・個人の正義にかなう態度の発展を通
憲 法 上 の 保 障 を 与 え る こ と が 必 要 で あ る 。 吋EET 毛
・
じて、マハトマ的路線に沿ったインドの再生を求めた。そ
白
勧告(一九六四年に内務省から発表されていた│同上)を早
このエピソードは、会議派が党規の-線中﹂越え非寛容へと
帆
,
N
E
H
g
r 。・、H
z
r
足を踏み入れたとの印象を与えた。 H
日
・
・同
VREmEggミロ。525円アョH
Vおたb
志、叶}高司凶件。。﹃同ロ仏3ω
.円
gM
g
入
山
﹂Qb ・念日同
gq 一回吋白)・宅・M
2
ロ
ヨ
ω
(
入
山 2FhdGFFr・-吋l
M
ω・
X君、。Eミ
(日)阿君にお h.h S
コlMm勾∞・そのうち特に一O 月一一一日││五日
53・宅・日2
司令。
に行われたE Rミヘ一一月四日に行われた州議会の hF
(同)例えば一九七五年三月六日(かつてすハトマ・ガンディ
れは社会的悪を根絶し、村落パ γ チ ヤ ヤ l ト ( こ の 問 題 点
(非暴力的包囲)が大規模なものだった。
ューデリーで、三O l五O 万人が参加した﹁国民大行進﹂
が悪名高いロ lラット法に抗議した記念日)にJ Pは、ニ
北法 2
8
(
2・
1
3
0
)
3
8
0
一
五
一
一
一
につ主、森利一﹁第三世界の政治学ll政治学の可能性の
世界!﹂日本政治学会年報(一九七六年)一五O
頁のパンチャヤ lト・ラ iジを参照)の様式の上に﹁共同
ωonw々)﹂を発展させ、そこ
EES-2
同2
主 義 的 社 会 ︿S
E) は、ガン一アィの政敵ナライン︿列己吋422=)が告発していた
彼女の選挙違反事件についと、判決を下した。告発理由は一四の
0
多岐に及んでいたが、このうち①首相個人秘書のカ アール(ペgyl
P州政府の公務員が首相の演説会場に、議壇を建設し電気を供給
宮-穴名
51国家公務員でもある﹀に選挙運動をさせた点、②U
した点について、有罪とした。インドの選挙法の下では、候補者
で個人は、﹁生きている組織の中の生きている細胞のよう
に﹂機能する。そしてついには、地方的・国家的・国際的
門
も見よ。
(5)(6)
聞の判決の執﹁江停止を認めた。
が危くなることを配慮して、③長高裁への抗告の道を残すごO 日
相に任命されるという議院内閣制の慣習からすれば、首相の在職
を決定した。但し、ログ・サパにおける多数政党のリーダーが首
当該選挙を無効とし、②ガンディのむこう六年間の被選挙権停止
有罪を認めたシンハ判事は一九五一年の国民代表法に従って、①
行為(口221 胃RZO)﹂の範鳴に入る。そこでこの二点につき
の選挙運動を﹁促進する﹂ために公務員を利用することは、﹁腐敗
︹
2v
機能のための権限は第二次的単位に委任するが、基本的な
決定は第一次的単位が下すという構造の、﹁政党のない民主
-MV
吋0.
︾
g rs-nhHJ宅 -ωロISm- そこ
主義﹂を実現する。巧
.p'W25﹄ご苦- 宮、gnFCFSえ り351
に引用の﹄
・
町、君子∞ogg J ﹀3PE-55同 出c
c
v
p 一 也 白 品 目 。 。S1
55thaw-S誌 句 。2.au、おお丸、おお町、付翁-可ぬと﹄NSK・︿凶自ロ盟国-
勺昨
z
p
g
n
Y ELU
選挙違反事件
上述した政治的悪化に加えてガンディに致命的な打撃を与えた
のは、一九七一年のロク・サパ選挙の当時、ゥッタ l ル・プラデ
この判決は技術的な法解決に傾き、少からず難点を含んでい
た。しかし判決を契機として閣内のプレス・野党からは首相を辞
北法 2
8
(
2・
1
3])38
1
- 選挙区で行
m 何 回 臼 吋OF-ち
ーシュヘU P﹀州のラエ・パレイリイハm
った彼女自身の選挙運動に関して下された、アラハパ lド (EFi
職せよとの一大要求が描聞出した。ガ γディはそれ合拒否し、官製
内
7v
集会で﹁私は何も悪いことをしていない。なぜなら自分自身のた
c
a 窓会E F乙 ω51
めには何もしてこなかったからだ﹂と強気を示した。そして即座
唱
一九七五年六月一一一日、同高裁のシンハ
)
(i アラハバ!ド高裁判決
z
z⑦高裁判決と最高裁決定とであった。
1
9
7
5年インド非常事態の検討 付
料
資
内
8︾ ハ
9V
︹凶}
ハ凶}
だ。ガンディは自己の権力の周囲に十分過ぎるほど会議派を組織
可
凶
]
}
内
}
弘
司
白
}
白
) を代理人として最高裁に特別抗告を行う道を選ん
僚からも保障を得て、六月二O 日高名な弁護士パルキヴァラ(
ZEM
(六月二O 日﹀の支持金とりつけ、ラ l ムやチヤヴァンら上級閣
政府への忠誠よりも憲法への忠誠を上に置くようにと、軍人・警
求める大衆集会が実行され、そこで演説したJ Pは﹁腐敗した﹂
るとあくまで主張した。六月二五日ニューデリーで首相の辞職を
表明した。しかし大新聞・野党側は、最高裁決定は条件付きであ
この決定を政府与党は勝利とみなし、首相に対する信任を再度
報酬は受領できる、というものだった。
してしまった。そのため党内に権力闘争を引き起こす危険を冒す
的闘争﹂守、六月二九日に開始することを明らかにした。これに
察官・公務員に対してアピールした。同時に一週間に及ぶ﹁全国
に会議派国会議員問、議会局三八月一八日﹀、州首相、大衆集会
ことなく、暫定首相を選出することは不可能であることを、十分
一九七一年当時は統一社会党の一員であったがガンディ
されていた。白川口デ。、.円む・
ωOロ
DZA-
3
・ 匂ぬ若宮ぬ﹀ロ 0・
・
℃
-507
向一巳
凹件。九切の B 0
-818・
一回吋印)岨宅
円
︾
(2vumw口一乙円、ωtpzH
S
o
n
-
白)切℃-一印日・
12)(
︺
s
(5) 二五八頁に及ぶ判決の詳細は、六月一一二日付の足立与El
↓ E仏
∞﹀・ 3 ミ・・同省・一 AM-B
一ぉ・二印・
gzoロohFmP3℃}巾﹀円件。﹃ 32・月n・ ・
(4)HN33Zロ
-Nω(
(3)FLU- 豆一口正ミ chF白
ETa- ・﹄hagQ向。¥同町ぬ?
老ω
口
0
乙E-Y向
白
ロωm20﹃
同
︾
ロrrgEDZF 一
足
。
冶 hag-U
句 M・
目
。
口
・
石
田
4
1
と同じ選挙区で争って破れて以来、全インド人民党戸回Z
55函 FGrロ乙)の一員として、ラジャ・サパ議員に選出
勺│)
対するガンディの対応は、迅速かつ劇的なものであった。
に理解していた。
最内同裁決定
は、高裁判決執行停止申立事件の審理を六月一一一一一日に開い
最 高 裁 の 休 暇 判 事(
SEts 吉弘問。)のイエル日︿-m-FZE
fz)
一方ナラインの代理人プ
た。パルキヴァラは、ガンディの国会議員・首相在職を可能とす
る﹁完全 C絶対的な﹂執行停止を求め、
ゲ
件
戸
凶
}
凶
ロm
r
m は一九五九年に遡る先例を引用し
ーシャン
ωロ
﹀
ロ
ω
(
て、それに対抗した。翌二四日イエルはソロモンの知恵にも似た
決定竺干した。即ちその内容は、本訴に関する最高裁の最終判決
が確定するまでガンディは、①国会議員としての議事参加権・投
票権を認められず、②議員俸給も受領できないが、③首相の職務
として国会両院における発言権を行使することはでき、④首相の
北法 2
8
(
2・
1
3
2
)
3
8
2
付
1
9
7
5年インド非常事態の検討
95E可)・
(切
CRQ
、bg(宮gnrggH)の各紙が報じた。
宮、"吋帆宮内hハロ巾}一戸c.同町、民営ハζω毎回国〆阿円。誌。苦R吋なzh
(6) 第一にシンハは、ヵプ i ルが一九七一年一月一一一一日付で
仏国
νcEEl
逮捕・検問を厳しく非難して代理人を辞し、アメリカに政
治亡命した(七六年)。河与22t百 E F ρ 2 5
句。窓口江巳列。一0・wuhたおお句史、。3JMぐ同一回(ω巾℃・
3k
由2号制
-U
寸
由
一
)
・
s-の巳凹町田一﹀=﹀自2mg。与え手何回出島EHhめ聞とω官庁Ed
首相秘書を辞職したことを認めながら、その辞職は大統領
∞
山
口
・
司
司
・
白
∞
∞ ls
凶
ミ43JU内︿ニ一(ZD︿・一回吋印)・司・一CON・
(ロ)HNkrRLF 司RFE句 C一互のとのユ巴ω山口同ロ岳山LU吋
印
・
が認証の署名をした一月二五日まで効力を生じることはな
かったし、この間彼がした選挙活動は違法であると、結論
命されたが、その当時イデオロギー的にガンディ寄りだと
(ほ﹀イエルは一九七三年にガンディによって最高裁判事に任
づけた。第二に首相の安全・便宜のための同様な措置が、
七一年選挙の時には他州においてもとられていた。歴史的
(げ)巧・巴・宮DET﹄GEm-毛-hとJ司・ム印吋・
己emp--与えおお匂sdhw-yuX︿HHM(問。r・一回吋白)・官-uu・
(wm)Z2250 司ω-sopよ口門-55一uaHU0523口句吉開l
ハ
M門)HMRF。、・円むよ累y-ooω!ム 0 0
・
ム
(日)判決のテキストは町営SFFZM印-za・を見よ。
った。国記グ。hy町民HJ匂・ωo=og--
務・内務・潜務相を勤めた︿一九五七│五九年﹀人物であ
の批判を受けた。元来は、第一次ケ一フラ共産党州政府の法
に経験した行政側の選挙七干渉を原因にして規定主れた法一
二三項の、ドラコ l流 の 厳 格 解 釈 に は 、 確 か に 問 題 が あ
る。氏 - f
己主・。MY門戸・ 3 ・ωcig-ucF毛円P ・
B ・二包l ごω
品
7) 叫4F内吋民号、・
旬。hkzbb(Zヨミロ巾-rc・﹄戸田口ぬ-hア一∞吋印・
ハ
(8) ガンディに対する信頼を表明し、彼女が継続して議員団
のリーダーに留まることは、国家に不可欠のものであると
宣言した。同町内言。君"・円同ーなSFPZ一回-za-
(9﹀議会局も同様な決議をした。吋ど吋︿若宮。hpbpTZ
グジャラlト州議会選挙
アラハバ lド高裁判決に始まる危機に先立つ六月八日と一一日
運動に触発されたグジャラ lト人たちは、人民闘争委員会ハha
に、グジャラ Iトでは州議会選挙が実施された。既に三月にJ P
'mghEZE'm輔君主)・そ結成していた。諸野党もまた州議会選挙
北法 2
8
(
2・
1
3
3
)
3
8
3
u
.
一
也
、
可
印
・
(叩)カンディが辞職すれば、全国レベルだけでなく州レベル
でも不安定の条件が生じると宣言した。同町25苦吟叫︿章、hw
いた。その後非常事態が布告されると、ガンディの行った
ハ日﹀パルキヴァラは当時、インド法曹協会会長という要職に
﹄ロロOM--一回吋印・
四
の実施を要求する計画に着手して、 LSSを支持するに至ってい
た。人民戦線は単独過半数に到達しなかったが、一二議席を占め
一線は三八%の得票率ながら、会議派よりも一一多い議席を獲得し
(FErr-FE)
た。四月に入るとグジヤラlト政治の実力者モラルジ・デサイ
を首班とする州政府守形成することに成功した。都市中間階層・
たKMLPの支持を得て、直ちにB ・パテル
での断食た始めた。これか)見た LSSは 、 会 議 派 に 対 抗 す る た
学生・富裕農民が会議派から離反し、それが人民戦線の勝利をも
一年前とは違って今度は選挙の実施を要求して、死に至るま
めの共同戦線を結成することを提唱した。この提案を野党会議派
たらす要因となったのである。
会議派の得た四一%の支持は過去と比べてもそう悪いものでは
なかったこ九六七年選挙では四六%)。また八カ月以内に予定さ
(FEEζ2与 と が 誕 生 し た 。
連邦政府は再びデサイの圧力に抗しきれなくなり、州議選の実
れていた総選挙で、もう一度勝利者として受場するチャンスもな
クリーン
一八一議席のうち七五を獲得したに印刷まった。人民戦
吋
吋
同
除名されたため自ら組織した政党
E Eコ玄白ESHFcr
3 ・ωREEFユ可の各党である。但し、 ・パテル
(河沼
が州首相を辞職した後に、反党活動を理由にして会議派を
c
(2) 人民戦線を構成したのは、 ngqgω(O﹀・守口 ωgmy
回目岡
山m
H
sdFcrロω
]
(切戸。
γ NBEュヨ去と品。。吋 FZE
同
)
M
Y
N- NN・
B
ω
}
g
y
H
Yめ -U吋印。ロ守Ha ﹀m
m
2
H
H
r
f 開HonE
d
ω ﹁苫1) の7
ハ
忌R
ESSHE21kfE冶 匂R3 uM︿同一 ω(
- 一回吋白)・
同y
てしまった。
れたガンディは、ここからまるで反対の悲観的な結論を引き出し
施を認めた。グジャラiト会議派の選挙運動を直接指導したの
一一九の集会で演説した。彼女は﹁安定した﹂政府と
一一日間にわたっ C
いわけではなかった。しかしグジヤラ 1 ト 選 挙 に 全 力 投 球 し て 破
たものの、
選挙結果は六月一一一一日に判明した。会議派は四一%の投票を得
と力説した。
(3v
すれば、全国的に清潔な政府や一実現する展望が開ける﹂戸デサ f)
会議派支配を腐敗したものと位置づけ、﹁この州で人民戦線が勝利
線側は、選挙運動の全期聞を通じて民主主義の問題守強調した。
中央・州問の調和合維持寸ることの必要性を強調した二方人民戦
州を訪れ、
ガンディはこの選挙に自らの威信をかけて、
は、ニューデリーの会議派最高司令部とガンディ自身であった。
野党が一つとなって人民戦線
(
の Cロ四月明 ω ︿O ) )とジャ γ ・サ γ党 が 受 け 入 れ 、 こ こ に 主 要 た 諸
1
う
2
料
資
北法 2
8
(
2・1
3
4
)
3
8
4
1
9
7
5年インド非常事態の検討 付
3grp(穴宮口︾)は、左右両派共庭党と同じく人民戦線か
ら排除された。グジャラ 1トでは政党間の提携は事新しい
ものではなかったが、今回成立したものは共同で談会局を
∞
1
0
0
a1
9
7
4
年創設
i
のより一歩進んでいた。 ﹃念、J 3・日芯ーミ ω・
9
L 守宮同・・官同︼- M 吋吋!lM M
﹃
b うち 7人は J
a
n
a
t
aM
o
r
c
h
aによって
水
J
a
n
a
t
aM
o
r
c
h
aの構成党派
〔出兵) I
b
i
d
.,p
.2
7
6TABLE2
.
支持された
設置して統一候補者を決定したという点に於て、従来のも
1
1
(3)LSH.人 よ 宅 - M
Na三l
(4) 一九七二年州議選との比較は次の通り。
(5)
2
4
非常事態の発動
1
2
8
諸
派
無所属
~1
5
1 7
5
2
4 5
6
*
2
1
2
氷
2
9 1
8
*
2
*
C
o
n
g
r
e
s
s
1
4
0
C
o
n
g
r
e
s
s(
0
) 1
6
S
w
a
t
a
n
t
r
a
KMLpa
BLDa
J
a
nS
a
n
g
h
3
S
o
c
i
aJ
is
t
C
o
m
m
u
n
i
s
t
初期の強権措置
六月二六日早朝主要な政党指導者を逮桁ずると同時に、ガγ デ
(2V
ィは憲法三五二条に基づく国家非常事態が布告されたことをと一
HEEHN
邑5 で発表した。これによって以下の諸措置が、矢継早
に実行された。
基本的人権の停止
三五二条が発動されると自動的に、憲法一九条で保障されてい
る言論・表現の自由、集会・結社の自由、居住・移転の自由、財
産を取得・保有・処分する自由、職業選択の自由が停止されむ
(4)
また同様に憲法第三編の規定に基づく権利(基本的人権)の行使
一定の場合の逮捕拘禁に対する保護
に関する裁判請求権も一停止された。従って法の前の平等(一四条)、
法定手続の保障(一二条)、
厳格々検閲制
(一一一一条)に関する司法救済の権利が、制限されることになった。
内ノ“
非常事態宣言の二日後新たにシュクラ(︿n・ωEEω ﹀が情報相
︹
6
﹀
に就任して、厳格な検問制が敷かれた。これに反対して活動した
﹀
著名たジャーナリストは逮捕され、外国人特派員に対する規制、
円
6
ハ
7
国外追放も相次いだ。七月一一二日には非常に包括的・制限的な内
﹀
容の﹁報道機関への指針﹂ハの己︽笠宮g p片手σ
pgm﹂が発表さ
れ、政府にとって不利な報道は完全に禁圧されることになった。
北法2
8
(
2・
1
3
5
)
3
8
5
党│議席│得票率│議席│得票率
政
1
9
7
5
1
9
7
2
(ENOlFEZ-uHJaEB) を 発 表 し た 。 こ の
カンディ首相は七月一日に、経済的・社会的改革をめざすため
人止をも含めた被拘禁者の自然法上・コモンロー上の人身の自由を
できるようになった。次いで七月二九日には国会によって、外国
限一年間、理由を明らかにすることなくあらゆる人を逮捕・拘禁
の﹁二0 項 目 ﹂ 計 画
剥奪する改正がなされた。この二回の改正の結果以前に存在して
0 項目計闘
二
計画には、以前に発表されたまま実施されることのなかったプラ
いた一定の歯止めは消滅し、 MISAは 民 衆 の 郊 圧 に 猛 威 を 援 う
ハ
8u
ンの峰山長直しに過ぎない項目も含まれていた。しかしガンディ
非常事態の承認
七月二一日から八月七日まで聞かれたモンスーン脳会は、
一連
ようになった。
げるものだと、大いに喧伝するのに努めた。
過激党派の禁止
の憲法改正法案を含む二五の法案を可決し、﹁非常事態体制のんい割以
化を手続商からも完了﹂させた。このなかで非常事態令自体も、
の々
リ
中)
(9v
織と、それと同盟関係にあった二二の集団が、政府によって非合
召集後四八時間以内のうちに、圧倒的な賛成︿ラジヤ・サパでは
(H)
法化された。即ちそれらは、①﹀
一一一一六対三三、ロク・サパでは三三六対五九)で、承認された。
そ!
Eaz民間(永遠の至福の意、
r
ω包
mE5dω 耳ω苫ヨ自g
ヒ ン ド ゥ l の 宗 教 的 セ ク ト ) ②p
括r
このように容易に示認決議が成立したのは、国会議員も投獄され
る恐怖から免れていなかったからである。また報道の事前検閲制
β
︼
T
こち
﹄
掃と
さ政
ナ
マ
旦
,
仲
さて
逮 i
'
:
そし
VBElqZ EMITEえ
ずに
根反
こ対
③毛沢東主義の革命的ナクサライト④
によって、国会内の少数野党と院外の公衆との間の連絡経路はた
ち切られており、七月一一一一一日に承認に抗議してC Pー を 除 く 全 野
議
国内治安維持法の改正
派ガ
をン
問デ
わィ
党が退場したことも、報道されることはなかった。
、】ノ
国 内 治 安 維 持 法(
はM
非
I常
SA
事)
態以後二回改正され
、
f
(正統的なムスリム政党﹀であった。
︿
MV
I
こ』工
t
土、
H 左
同派
γ 右
百派
A
勾
た。まず六月二九日大統領命令によって、被拘禁者に逮捕の理由
を告知するとの当局の義務が削除された。これにより政府は最大
AMV
(国民奉仕刷の北岡山、ジャン・サン党と提携している戦闘的行動集団)
七月四日には四つの比較的大きな政治的・宗教的・革命的な組
(
6
)
(政府﹀は﹁二O 項 川 ﹂ が 、 経 済 的 回 復 と 確 信 の 時 代 の 到 来 を 告
(
3
)
(
4
)
(
5
)
料
~
;
I
t
法2
8
(
2・
1
3
6
)
3
8
6
1
9
7
5年インド非常事態の検討 付
先のH 々も協力と信頼な続続して下さるよう訴えます o
﹂
一
回
目
・
3・
一白
これにより、①政府声明以外の国会審議、②裁判行・弁
護士の名前と主文を除いた裁判所の判決、③被拘禁者の拘
(7)
その一例であったoEFζ ・円むJ-6・
5gigs(6) 世界週報(一九七五年九月九日号)一一一一一良。
h
(4︺憲法三五九条一項。
(5) ﹄誌に民﹁白沼町 円
、
、.
2旬の編集長ナヤール(貝zE ℃vhaR は
(3) 憲法三五八条。
と、私は確信しております。私は符様に対して、これから
H
Nと Z
ω
z
z
u EDL22rzpHNPE
苫Pζ2RKU虫色UEP ﹀SEζ与pnzszωEm}戸(二人ともかつての会
HE出足弓22・ ハ
V コ﹀﹂=ぞ P
。
議派党員)
-VヨミのzE(ジヤン・サン党総裁)‘宍戸沼 ωi
ヱジ
FE γン・サン党機関紙ミミと之S 札の編集長)hニcc
ζcL
可(スワクントラ党前リーダー)等が含まれていた。
w
公式発表は六七九人が逮捕されたと述べた。同町2 2ミ
円
叫
452・﹄ロコ命日吋
(2﹀その大要は次の通う。﹁大統領は非常事態を布行しまし
らゆる方法ぐ私に対して虚偽の主張が浴びせられてきまし
し、誤り導くことを意図しあるいは主曲された印象そ伝え
禁の場所と名前、心}騒乱や暴力的事件、③﹁文脈から逸脱
0
・
:
・
・
あ
た。インドの人民は私企子供の時から知っています。私の
た。これは恐慌を起こすにはあたらないことです
八七ての作涯はわが人民に奉仕するためでした。これは個人
的な問題ではありません。私が首相に留まるか一介かは信一要
タブールの演説の引用可制政府に対する憎悪・軽蔑の念を
ようとする﹂引用(例えばマハトマ・ガンディ、ネル i、
抱かせる全てのもの、に関ずる報道が祭止された。同口門巾円 l
なことではありませんが、首相という制度は攻要なもので
あります。これを汚そうとする政治的試みは、同家の民主
dMMA
司河内でた電 w Z 0・5
stcE- の055EmFC口 C ]ユ
Cω
仲間頃叫
主義の利益にかなうものではありません。私たちは長い岡田
﹃
最大限の忍耐をもって.事態の展開を見守って主ました。
内吋な詩句。﹂可 HRNE(Z2々口氏r
MY﹄ロマ N、一回吋印・の
叫4F
傍観しているならば、一体政府としては果してその名に値
っております。国の安全が危険に晒されてもそれな許容し
保有最高限度を実施し、余剰地は迅速に分配する。土地台
配を能率化する。政府経費は厳しく節約する。②農業用地
の価格を引き下げる措置を継続する。その生定・調達・分
報じるところによればその内容は次の通り。①生活必需品
(8)
(U2}U3)、苦 -mflプ
今や正常た機能を粉砕しようとの意図の下、分間的に法と
する側値があるのでしょうか。:::国内の諸条件が急速に
r
m整備する。③土地を持たない弱者層のための七地供給
帳λ
秩序に挑戦している新たな計画があることを、私たちは知
良くなりできる限り早くこの布告た解消できるようになる
~t i');2 8(2 ・ 13 7) 387
を促進する。④担保付き労働
(ZEazrccる を 違 法 と
現代の限(一九七七年七月円勺)一五九j 二ハO頁を見よ。
(ロ)例えば、高尾栄司﹁インドの変貌 1 ジャナタ党の勝利﹂
権をめぐる諸問題﹂アジア経済一六巻一 O号(一九七五年
(日)佐藤宏﹁一九七0年代インドの憲法状況(日)│国家と人
宣言する。⑤農村負債を一掃するために、土地の無い労働
低農業賃金に関する法律を再検討する。⑦五O O万ヘクタ
H(
m・
︺
-U
1
m
-
一貫して執行部権限の大幅な強化
一年半後に成立し五九条項にもわたって
) 第三八次氏U(七月一一一一一日下院、七月二四日上院)
(
-f
可決、八月一日大統領認︼証﹂
一二三、二二二、二三九 B条の改正
れをなすものであった。
憲法の基本構造を根本的に変更させた、第四四次憲法改正の先触
を実現したものであり、
木項で検討する憲法改正は、
憲法改正
(刊悶)国民デ。、・ 2HJ3・Z15・
CNhb、丸
3p] 岱円M
(日)六カ月後に投獄中の国会議員は、三二人を数えてレた。
より承認す受けなければならない。憲法三五二条二項刷。
(川門)非常事態の布告は、二カ月以内に国会の両議院の決議に
O月)六一頁。
一
者・小農・職人の負債にはモラトリアム立法令一行う。⑥最
ール以上の土地を纏概化し、地下水利用のための全国的な
計画全立てる。③動力憎加計闘を立て、中央直幣の超熱量
を作成する。⑩民衆の衣服の質と供給会改善する。⑪都市
墓地を建設する。⑨手織機部門の発展のために新たな-計画
の土地、都市化させる土地の社会化・を行う。休閑地の所有
・占有に関する最高限度、新しい居住単位の建築用敷地に
関する最高限度を設定する。⑫人目につく建物には価格査
定員を派遣し、脱税を防止する。⑬密輸業者の財産没収の
ために特別立法そ制定する。⑬投資手続を自由化し、輸入
ライセンスの乱用に対する措置を行う。⑮工場労働者の組
合のために新たな計画を立てる。⑮道路輸送のための全国
的な認可計画を立てる。⑫中産階級に対する所得税を軽減
めの生活必需品の価格を統制する。⑬書籍・文一房具も統制
し、免税限度交八千ルピ lに引き上げる。⑬寮の学生のた
︺
・ リ﹄河内三内耳唱。、 -n 帆同--MV-m・
}C 1
価格にする。③一雇用を拡大し、特に弱者層を訓練する新た
同
3-E2・同ロ島ω 回口一uaw3・5
l
i
-一DM-
M内肖
F
r 。、三時 ・
一
︹
w司
な実習計画を立てる。
9)
ハ
ハ
叩
﹀
・円﹄河内三2wZ0・
一
∞ (02・一回豆γ 署-515・
(什) nh
に必要な政令ハO丘552﹂公布権か-与えている。同様な権限、が
(2)
要とする事態が存在すると認める時は、その事態に対処するため
憲法一二三条は大統領に対して、国会閉会中に即時的措置を必
①
本}
資
~W~28(2 ・ 138)388
州においては州知事に(一二三条)、述邦直轄領においては施政官
自体の有効性に関する司法判断を、剥奪ナる改圧がなされた(五
政上の非常事態を定めた三六O条V、同様に大統領の判断と宣言
いくつかの訴訟が提起されていた。そこでこれらの判断を最終的
a
F
S
)﹂が主観的な判断で足りるかどうかを論点とする、
官民主ω
派州政府に干渉ナる場介の、中央政府の強力な武器となってい
三五六条は州の大統領統、治の根拠規定であるが、従来も非会議
③三五六条の改正
項削似の新設)。
BZ許可ω仲良) に与えられている(一一一一一九B条)。これに対し
(﹀仏
かっ決定的なものとし.司法審査から排除することを内容とする
た。本条もまた、州統治の女憲的運用不能の事態が生じたと大統
て、大統領等の政令を必要とする事態が存在すると﹁認める判断
改正がなされた(各条に第四項を追加ゴ
領が﹁認める﹂時に発動されるものである。この場合の大統領判
断も改正により、裁判所の雰丘外とされたへ五項の新設)。
五二、三六O条の改正
三五二条は、戦争・外患叉は内乱により、インド叉はその領域の
て宣言を行うことの問題性もあった。そこで三五二条には新たに、
提起され、また一九七一年の宣言が継続しているのにそれに重ね
日に発せられた布告の有効性についていくつかの令状請求訴訟が
事態の布告が}発するものと規定している。しかしながら六刀二六
為も国家、がなしうると定めている。そこでいわば三五八条の内容
(自由権)についてそれと抵触するようないかなる立法・行政行
できる戸三五九条一項)。一方三五八条は同様な場介に、
第三一編の基本的人権の行使に関する裁判読求絡を停止することが
非常事態布告の施行中に大統領は命令 (
caR)によって、憲法
一二五九条の改正
すそに存在しており施行中の布告の有無にかかわらず、大統領、か
を三五九条の中に移入すること全試みて、三五九条に一 A項党新
いずれかの部分の安令が脅かされると大統領が﹁認める﹂同に非常
別の理由に基づいて章ねて布告を宣言することができるとする、
設し
一項に基づいて大統領命令が山された時にその命令によっ
一九条
第四項が追加された。更に大統領の判断は最終的かつ決定的なも
て司法救済が停止された基本権についても、それと抵触するいか
(6)
ので司法審査の対象から排除され(第五項凶て宣言自体と宣言の
なる立法・行政行為をも国家がなしうるものとした。
④
②
継続的施行に関する有効性も対象外のものとされた(同項削)。財
;
I
t
法2
8
(
2・
1
3
9
)
3
8
9
付
1
9
7
5年インド非常事態の検討
このように第三八次憲法改正は非常事態規定全般と政令公布権
一九五一年国民代表法によって規制され、同者に対する選挙訴訟
憲法第九付則の追加
る(六項﹀ことも、定められた。
本条の規定はこの憲法に含まれる他条項にかかわりなく有効であ
された(四項)。そして上告審も同じ原則に従って処理され(五項)、
挙の有効性は持続し、他方政判所命令は常に無効と見なされると
前の裁判所命令が当該選挙をたとえ無効と宣言したとしても、選
に、当該選挙は無効あるいは無効であったと見なされない。改正
下で改正前に無効と宣言され得たあるいは笠一一忘されたことを期山
適用されあるレは適用されたと見なされることはなく、当該訟の
項)。更に選挙請願に関する改正前の国会制定訟が、選挙に関して
されていた首相・下院議長に対する選挙請願は無効とされたハ三
定はいかなる裁判所によっても問われず(二項)、本改正前に民起
v
が定めるものとした(一項﹀。また ﹂の制定法の有効性と機関の決
たこれらの選挙の疑義及び紛争に関する全ての事項は国会制定法
(252-q2r丘三による以外は審奈されることはなく、ま
は、首相・下院議長の選挙は国会制定法によって定められる険関
の第一次管綜権は高等裁判所にあった。そこで新設の三二九 A条
った。従来首相・下院議長の選挙に関する事項は、憲法ではなく
畑一齢む蹴)︿
﹄
について大幅な改正をなし、結局大統領と知事を助言する首相の
a
r
(
m旬 同 一
泊三九次札口
権限を、強化したのであった。
ω
7
本改正は八川五日に下院で成立した選挙諸法(改克)、法案と密
接に関係している。
七一条の改正
窓法七一条は、大統領又は副大統領の選挙に関して生ずる疑義
及び紛争は最高裁判所、が審査・決定するものとし、その決定は最
終的であり、更にこれらの選挙に関ナる事項は国会が法律で定め
ると規定している。この七一条は改正によって、次のような全く
新たな条文に変えちれた。即ちこれらの選挙に関して生ずる疑義
及び紛争は、国会制定法によって定められる機関 (EFE々ミ
宮内凶ちが審究・決定するものとされた。またこの国会制定法の有
ll
四項)。
効性と機関の決定は、いかなる裁判所によっても問われることは
ないと規定されたこ
三二九 A条の新設
本改正の真の日的は、首相と下院議長の選挙に関する特別規定
を設けて、カンディを有罪とした高裁判決を無効化することにあ
③
①
②
,
H
資
~ヒ 11;28( 21
4
0
)
3
9
0
・
付
1975~イ γ ド非常事態の検討
(8
﹀
一九五一年の第一次憲法改正によって新設された一一一一 B条と同
時に、新たに付加されたのが憲法第九付別である。それ以後第九
付則の山中にはたび重なる憲法改正によって、一連の土地改革立法
(9}
や国有化立法、が組み込まれてきた。第三九次憲法改正はこれに加
えて、従米の第九付則の一内容とはおよそ関係のない諸法規(同じ
国会で改正されたばかりの MISA、選挙改正法世一ごをも本付則
に編入し(八七l 一二四項)、三二 B条の適用範関内のものとする
ことによって、諸法規を基本権規定の制約から解放することを実
現したのであった。
YF-ipzs吋印﹀・ 3MgINS・
匂宮内山町、アロハM ハ﹀
大法学論集二七巻二号(一九七六年﹀二八八頁を見よ。
(2) その問題点につき、拙稿﹁インド連邦執行部の構造﹂北
ω
( 3 ) 同右二九
O 頁 注(9)を参照。
(4﹀ 大 統 領 統 治 の 問 題 点 ・ 諸 事 例 に つ き 、 同 右 三O 二l 一
一
一
一
九頁を見よ。
(5) 本稿三の一の ﹁基本的人権の停止﹂を参照。
r守口同 ω宮内凶同28E4 斗2丹につい
(6) 第一一一九次改正法の o
ては、 Z
KV35常一・ 3 ・ M INS∞
7) 佐藤公・三の一注︿門川)∞
︿
論文六二頁によれば、ガ γディの
とせず、大統領が選挙管理委員会の助言によって決定する、
をしたものである。主な改正点は違反による失格は自動的
選挙違反事件で出された論点に沿って候補者に有利な改正
候補者として認定される時期は立候補の青山士心を表明した時
この第三九次憲法改正は﹁特定の個人合対象としたものではな
r
z
r﹀法相の言明にもかかわらず、一一一一一
い﹂とのゴカlレ(のG
8) 第九付則に規定する法律及び規則叉はその規定が憲法第
だ
点とし、個々のケ i ス に つ い て 裁 判 所 が 決 定 す る 等 に 及 ん
る川ガンジスの流れに身を浸して過去の罪をあがなう。ガンディ
挙違反事件からの救済にあった。﹁敬度なヒ γドゥ l教徒は、翌な
九A条の新設に典型的に見られた如く、その狙いはカンディの選
︹
女史は、従順なる与党会議派議員の投票を利用して、選挙違反に
llご二、第四次(一九五四年)で一四 i
h
三一縞基本的人権と両立せず、その権利を除去し若しくは制
︿日)
第一次改正で一
(一九七二年)で六五l 六 六 、 第 三 四 次 二 九 七 四 年 ) で
二
O 、第一七次ハ一九六四年)で二一 l 六 回 、 第 二 九 次
9)
ハ
た
。
限するという理由で、無効とされることはない回けか 定 め
、
2aa υ、
2 同につい
。更にぬ芯弘、ぬと芯ヨ
HmHNhr
吋
問われた身を清める﹂との批評も故ないことではなかったのであ
る
。
ては、、。ミ dnN
向。﹂可。。誌句
(1) 第三八次改正法の o
εR雪 印 邑mESE-
北法 2
8
(
2・
1
4
1
)
3
9
1
本}
'
t
f
hR﹄ 守 、Q
・
六七i 八六項目に及ぶ法律・規則が追加された。
コcrf ︿ 芹 と り 弘ω ・
(叩)世界選報こ九七五年八月二六日号)九頁。
(け)同八頁引用の、色、同E 段、芯町内。、言語帆門知き呂E
w ﹀c
m
一一山・一回吋印・
北1
'
.
t28(2 1
4
2
)
3
9
2
Fly UP