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Title
「近代」の幼年時代 : Fr. シュレーゲルとW. ベンヤミン(そ
の二)
Author(s)
古屋, 裕一
Citation
[岐阜大学教養部研究報告] no.[32] p.[117]-[127]
Issue Date
1995-09
Rights
Version
岐阜大学教養部ドイツ語教室 (The Faculty of General
Education, Gifu University)
URL
http://repository.lib.gifu-u.ac.jp/handle/123456789/3934
※この資料の著作権は、各資料の著者・学協会・出版社等に帰属します。
岐阜大学教養部研究報告第32号 ( 1995)
117
< 近 代 〉
の 幼 年 時 代
Fr. シュ レーゲルと W. ベ ンヤミ ン ー
-
古
屋 裕
( その二)
一
研究室
( 1995年 6 月30日受理)
Die K indheit der , M odern{?
F r. SchlegeI Und W . Benjamin. 2. T e11
Y uich F U R U Y A
(本稿は,
<
平成七年三月発行の東京大学平成六年度文部省科学研究費補助金 ( 総合研究 A) 研究成果報告書
『 ドイ ツ文学における 〈批評〉 の展開』
に掲載 さ れた拙論 :
「 〈近代〉 の幼年時代
-
Frレシュ レーゲルと W. ベ ンヤミ ン ー
(序章 合わせ鏡のなかの交錯世界
( その一)」
ダ
し
第一章
シュ レーゲルのロマ ン主義文学理論
第二章
ロマ ン主義文学の物象化形態 と しての 「神話」)
二
¥
■
■
■
を受けて書かれた ものである。)
第三章
ロ マ ン派批評論 にみ ら れる ベ ン ヤ ミ ンの シ ュ レ ーゲ ル受容
ベ ンヤ ミ ン と シュ レーゲルとの直接的なつなが り は, ベ ンヤ ミ ンが1919年に学位論文 と し
てベ ルン大学に提出 した 「 ドイ ツ ロマ ン派における芸術批評の概念」 において明 らかに認め
られ る。 彼はそのなかで, 上述のよ う な シュ レーゲルのロマ ン主義文学理論 を 自らの思考領
域の なかに取 り入れるのT
Cあ るが, その際, ある種の限定がな さ れてい る6 - つ は, 運動総
体か神話か と い う ロマ ン主義文学の もつ両義性 を排除 し, こ れを総体概念 と して 限定 し てい
る点であ る。 ベ ンヤ ミ ンがロマ ン派批評論め第一章において, フ ィ ヒ テ と シュ レーゲルを何
とか して 区別 し よ う とす る基本的な意味は, この点に求め られる。 もち ろ ん, 反省の働 く 場
古
118
屋
裕
一
が, フ ィ ヒ テ の場合 daslch ( 自我 ) で あ り , シ ュ レーゲルの場合 Selbst ( 自己) で あ る と
い う 違いや, 反省その もののあ り方 も両者の場合違 う ので あるが, ベ ンヤ ミ ンが基本的に両
者を区別 し よ う とする主眼は, フ ィ ヒ テの場合 自我の働 きは 〈定立〉 と 〈反省〉 と い う 二元
的立場 なのに対 し て, シュ レーゲルの場合 自己の働 きは 〈反省〉 のみの一元的立場で あ る,
と い う 点に置かれてい る。 要す る にベ ンヤ ミ ンは, フ ィ ヒ テ の絶対的自我の定立の働 き を排
除す る こ と に よっ て, 絶対的 自我の もつ 〈理論理性の根底 に同一的にある先験的統覚〉 が ら
〈自我 と 自然の根底 に同一的に存在す る絶対者〉 へ と転 じ て ゆ く 実体化傾 向 を排 除 し 1), そ
れに よ っ て シュ レ ーゲルのロマ ン主義文学の もつ両義性か らそ の神話的傾向を排除 し , ロマ
ン主義文学 を反省 と い う 一元的な運動機能の働 く 場 と して 限定 し よ う と している と い え る。
第二点は, こ れはロマ ン派の芸術批評の概念 に問題意識 を絞っ て研究 し よ う とす るベ ンヤ ミ
ンに と っ て はあた り まえのこ と で あるが, フ ラ ンス革命 と い う 〈近代〉 の幼年期の根源的欲
動 と結びついていたシュ レーゲルのロマ ン主義文学から, ベ ンヤ ミ ンはこ の社会的側面を排
除 してい る。 しか し この近代意識は, シュ レーゲルの批評理論 をベ ンヤ ミ ンが受容する過程
で, 彼の思考領域のなかに潜在的に受け継がれ, のち にパサージュ 論のなかで, その社会批
判に有効 に機能す る こ と にな る。
こ の よ う な限定がな さ れた う えで , ベ ンヤ ミ ンがシ ュ レーゲルのロマ ン主義文学理論 を具
体的に ど の よ う に 自ら の思考領域 の な か に取 り入 れた か と 言 う と , 彼 はシ ュ レ ーゲ ルの
〈Universum〉 と い う 概念 を, 彼 自身がロマ ン派の研究以前に初期の言語論2) にお い て 展開
していた 〈Medium ( 媒質)〉 と い う 概念に重ね合わせ, こ れを ー ベ ンヤ ミ ンの言葉 を使
えばー
「対象認識」3) 的に受容す るのである。
シュ レーゲルの文学理論の最 も基本的な特徴は, づ文学作品を完結 した ものと見なす静的芸
術観 を退け, そ れを生動す る運動体 と し て捉 える視点にあっ た。 ベ ンヤ ミ ンはこ れをそのま
ま受け入れる。 と い う よ り, ベ ンヤ ミ ンの批評はこのロマ ン派批評論の以前 も以後 もこ 貫 し
て, 事物 をそれ自体で完結 した固定的実体 と見なす よ う な惰性的見方を批判= 破壊す る こ と
によ っ て √そ こ に批評に よっ て展開可能な運動領域 を認め よ う と す る ものであ り, む し ろ こ
のこ とがベ ンヤ ミ ンの関心 を ロマ ン派に向かわせた と言った方がいいだろ う 。 しかしシュ レー
ゲルの場合 こ の運動 は, 芸術作品あ るい は芸術作品内部の諸要素が, 相互に不断に交錯 し,
連関を深めて ゆ 〈 混沌 と し た無限運動 と して捉 え られ,
〈Universum〉 はその運動総体 と し
て想定 さ れていた。 こ の場合, こ の運動 を 「予見的」 に総合す る視点はー けっ して現実 に
到達す る こ と がない にせ よ ー シュ レーゲル自身 「あ ら ゆる ものを高みか ら見渡す気分」4)
と 述べ て い る よ う に, 個 々の運動 の外 部 の高次 的 な 位 置 に 置 か れ て い る 。。 い わ ば
〈Universum〉 と い う 総体的な運動領域のなかで, 個々の芸術作品や作品内部の諸要素が連
関を深めて ゆ く と い っ た イ メ ージが強い。 こ れに対 し てベ ンヤ ミ ンは, 個 々の芸術作品その
ものを 〈Medium (媒質)〉 とい う 総体的な運動領域 と して捉え, シ ュ レーゲルの総体的視
野を個々の芸術作品の内部 に転化す る。 す なわち あ ら ゆる芸術作品は, シ ュ レーゲルが理想
と して希求する運動総体を 自らの内部に潜在的に保有するのであ り, この展開可能性を秘め
た潜在的可能態が段階的に自己を展開 し顕在化 し て ゆ く 運動体 のこ と をベ ンヤ ミ ン は く媒
質〉 と呼び, 芸術作品を媒質と して定義する。 したがって芸術作品は, この潜在的可能態が
未展開な ま まに と どまっ ている, 作者 によっ て創作 さ れた ま まの作品の原 「叙述形式」 から,
〈近代〉 の幼年時代 - Fr. シ ュ レーゲルと W. ベ ンヤ ミ ン ー ( その二)
これが完全 に展開 し顕在化 している展開の極限値 を無限目標 と して,
119
く自己破壊一自己創造一
自己限定〉 を繰 り返 し, 自らを 無限に展 開 し て ゆかなければな ら ない。 ベ ンヤ ミ ンは, シ ユユ
レーゲルの理想 と しての運動総体に相当す る こ の展開の極 限値 を , 「絶対的形式」5) と 呼ぶ
ので あるが, 作品の原 丁叙述形式」 か ら 「絶対的形式」 に向か う こ のよ う な個々の芸術作品
内部の媒質的展開運動は, けっ して文学総体を視野に置いたシュ レーゲルのロマ ン主義文学
理論 を歪 曲 して捉 えた もので はない。 なぜ な ら, こ の媒質 と し て の作品に内在す る展開可能
性は 「連関可能性」 と して捉え られてお り, その展開の極限値 と し て の 「絶対的形式」 は同
時に, 様々な叙述形式が相互に不断に連 関 ・ 交錯 してゆ く 無限な連関の総体 と しての 「諸形
式の連続体」6) と して捉え られているのだ から。 つ ま りベ ンヤ ミ ンの場合 も, 芸術総体そ の
ものを J つの媒質 と してみる なち ば, そ こ で は個々の芸術作品の もつ様々な叙述形式が, 相
互に不断に交錯 し, 連関を深めて ゆ く 混 沌 と した無限運動 を繰 り広げ, こ の連関の広が りの
極限において, こ の運動総体 と して の 「諸形式の連続体」 が理想 と し て求められるのであ り,
その意味ではシュ レーゲルのロマ ン主義文学理論を正確に受容 している と言える。 しか し こ
の総体 プ ロセス は一方で は, 芸術作品と い う 個体 を一つの媒質 と してみた場合, 作品が 自ら
の限局 さ れた叙述形式の内部に 「連関可 能性」 と して潜在する 「絶対的形式」 を,
く自己破
壊一自己創造一自己限定〉 を繰 り返 し な が ら段階的に展開 し, 顕在化 して ゆ く と い う泊 己認
識, ¥また同時に, それによっ て顕在化 し ゆ く 芸術総体の理想 と しての 「諸形式の連続体」 の
なかで の作品の自己解消, と いう プ ロセ ス と 同一の ものである。 こ のよ う な個体 ・総体の双
方における二つの運動プロセス は同時に な さ れる, とい う よ り伺 一の媒質的展開運動を異な
る視点か ら捉えた ものに過 ぎないのであ り, それゆえこ こで は個体一総体 と い う厳密な区別
は意味を もたない こ と になる。 こ のよ う なベ ンヤ ミ ンのロマ ン主義文学の理解の仕方は, 芸
術作 品の無限運動 を通 じて,
〈ldealismusと Realismus〉 , す な わち理想 と 現実, 総体 と
個体, 体系 と断片の統一を 目指 さ す シュ レーゲルの考えを,
〈媒質〉 という独特な概念によっ
て踏襲 しているのであるが, こ の媒質に お ける個体¬ 総体 と い う 相関関係の廃棄の根本 にあ
るのは√ さ ら に主体一客体 と い う 相関関係 を も廃棄 して し ま う よ う な, ベ ンヤ ミ ンが 「対象
認識」 と呼ぶ と こ ろの理論で ある。 ペ ン ヤ ミュ
ンは批評 と作品, 認識者 と認識対象との関係を,
シュ レーゲルに基づ きなが ら も, こ れを 「対象認識」 とい う 形で発展的に理論化す る。 認識
者が対象 を認識す る とい う こ と は, それ によっ て認識者 自身があ らた な段階に進んだ 自己を
認識する こ とで もあるが, この認識者 と 対象 との間の認識作用は, 能動即受動的な相互方向
にお いて な さ れる。 すなわち , この認識 者の新たな 自己認識は, 認識者が認識対象によ っ て
逆に認識されるこ と によって もた らさ れ るのであ り, そのと き認識対象自身 もあ らたな段階
に進 んだ 自己を認識する。 こ のよ う な, 認識者による認識対象の認識, 認識者の自己認識,
認識対象の自己認識, 認識対象による認 識者の認識, と い う 四つの認識が同時に不可分 に一
体化 して な さ れる認識のあ り方が, ベ ン ヤ ミ ンが 「対象認識」 と呼ぶ ものである。
こ のよ う な 「対象認識」 において は,
もはや主体一客体 と い う 相関関係は廃棄されてお り,
そ こ にはシュ レーゲルが 「文学的反省の翼に乗っ て, 描写 さ れた対象 と描写する者 との中間
に漂 い, こ の反省 を次々に相乗 し て合 わせ鏡のなかにな ら ぶ無限の像 の よ う に重ねて ゆ
く 」 7) と述べた, 主体一客体, /個体一総体 とい う 相関関係 を超 えた 「連関可能性」 の二 元的
な媒質領域が広がる こ と になる。 したが っ て批評が芸術作品の 「対象認識」 である とすれば,
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古
屋
裕
一
先ほどの芸術作品その ものの無限な 自己認識 と し ての媒質的展開運動 は, 批評その ものの展
開運動 と 等価 になる。 それゆえ, 作者によ っ て創作 さ れた作品の原 「叙述形式」 か らその媒
質的極限値 と しての 「絶対的形式」 へ と 向かう 展開運動は, 実際には批評の叙述形式 と して
な さ れる 。 しか も こ の様々な展開段階を もつ批評の叙述形式は, 必ず し も単一の批評家によっ
て展開さ れるわけで はな く , 批評家の複数性がこ の展開段階に相当す る こ とがあ り う る。 つ
ま り 「批評」 と い う 名のも とでは, 批評家個人を超えた批評 とい う 言説 ・叙述形式の総体が
考え られ て い る ので あ る。
ベ ンヤ ミ ンは以上のよ う な形で, シュ レーゲルのむマ ン主義文学理論 を 〈媒質〉 とい う概
念のも と に 「対象認識」 的に受容する。 こ の媒質の特徴を あ らためて整理すれば次のよ う に
なるだろ う 。 ① 媒質と は, 事物をそれ自体で完結 した固定的実体 と見なす よ う な惰性的見
方 ( ロマ ン派批評論においては, これは芸術作品を完結 した ものと見なす静的芸術観) を批
判= 破壊 す る こ と に よ っ て, そ こ に開示 さ れる批評によ っ て展開可能な運動体 を意味 してい
る。 ② こ の媒質的展開運動と は, 主体一客体, 個体一総体と い う 相関関係 を廃棄 して し ま
う よ う な展 開可能性 を孕んだ一元的な潜在的可能態がノ 〈自己破壊 一自己創造一自己限定〉
を繰 り返 し, 段階的に自己を展開し顕在化 してゆ く 無限運動を意味 し ている 。 ③ この媒質
の自己展 開運動は, シュ レーゲルのロマ ン主義文学が繰 り広げる, 個々の芸術作品が相互に
不断に交錯 し, 連関を深めてゆ く 混沌 と した無限運動 を受容す る こ と によっ て, 芸術作品に
内在す る 「連関可能性」 の展開運動 と し て捉 え られてい る。 ④ シ ュ レ ーゲ ルの ロ マ ン主義
文学が, 自らの運動の無限総体を到達すべ き 目標 = 理想 と して も っ ていた よ う に, 媒質 も ま
たレ 自ら の展開の極限値 を到達すべ き無限 目標 と して もつ。 こ の極限値は, ロマ ン派批評論
において は 「絶対的形式」 と呼ばれていたが, やがて 「根源」 と い う 用語のも と にベ ンヤ ミ
ンの思想の なかに定着する。
ク
十
・ 以上, シ ュ レーゲルのロマ ン主義文学理論が 〈媒質〉 と い う 概念の も と に, ベ ンヤ ミ ンの
思想圏に受 容さ れてい く 様子を示 して きたが, 興味深いこ と に, ベ ンヤ ミ ンの思考のなかで
この媒質概 念が深化 して捉え られる よ う になる につれて, シュ レーゲルの 〈Universum〉 の
もっ ていた 両義性が, 媒質のなかに も回帰 して く る。
卜
○
すで に見 て きた よ う に, ベ ンヤ ミ ンはあ らか じめシュ レーゲルの 〈Universum〉 の もつ両
義性, す な わち 〈近代〉 の幼年時代の憧憬 を孕 んだ運動総体か, あるいはその物象化傾向を
孕んだ神話 か とい う 両義性か ら, 後者の負的側面を排除 していた。 したがっ て, こ の前者の
意味に限定 して シュ レーゲルのロマ ン主義文学理論を受容 したベ ンヤ ミ ンの媒質的展開運動
は, 強い積 極的価値 を もつ もの と して捉 え られて い る。 こ の積極性が, ベ ンヤ ミ ンのその後
の思想の展 開のなかで疑われ, 媒質的展開運動はデモ ーニ ッ シュ な負性 を帯びた両義的な も
のと して捉 え直 さ れる ので ある 8)。し
二
すで にベ ンヤ ミ ンが媒質 と い う 概念の も と に捉えた こ のロマ ン派の批評理論その ものに,
ある種のジ レ ンマが内在 している。 媒質 と い う ものが, 潜在的可能態が 自らの極限値を 目指
して段階的 に展開, 顕在化 して ゆ く 運動体で ある以上, その運動の各展開段階は, 展開の度
合いに応 じ た価値的序列 を もつはずであ る。 事実ベ ンヤ ミ/ンは, シ ュ レーゲルにおける く自
己破壊 一自己創造一自己限定〉 と い う 過程 を繰 り返 して な さ れる批評 と い う 作品の反省運動
〈近代〉 の幼年時代 - Fr. シュ レーゲルと W. ペ ンヤ ミ ン ー ( その二)
121
を, 「勢位高揚 (Potenzielen)」9) と い う 言葉で表現 さ れる よ う な, その展開の度合い と して
の 「明瞭 さ 」 10) の段階的高 ま り を示す も の と し て捉 えていた。 しか し こ の運動 に よ っ て 到達
すべ き批評の媒質的極限値は, 媒質が 自らの運動の無限性 を通 じてその彼方に理念的理想 と
してのみ想定 し う る ものであ り√現実には決 して到達 さ れる こ と のない無限目標のままにと
どま る もので ある以上, こ の展開運動の価値的序列 を定める よ う ないかな る判定基準 も現実
には存在 し ない こ と になる。 そ こ に も し判定の契機が考え られる とすれば, それは, あ る作
品が批評可能か ど う かによっ て, それが芸術作品であるか否か と い う こ と を判定する, 副次
的な もの に過 ぎな い。
こ の極限値への到達可能性が疑われる と き, 媒質的展開運動は楽園か らの 「堕罪」 と い う
神学的イ メ ージの も と に, あ る種の負性 を担 う こ と になる。 ベ ンヤ ミ ンが こ のロマ ン派批評
論以降 「神学的政治的断章」 「暴力批判論」 「運命 と性格」 のなかで展開 し たのは, この媒質
的展 開運動 が , 極 限値 に到達す る こ と の な い 円環 的 な無 限運動 く永 続 的衰滅 ・ ニ ヒ リ ズ
ム〉 11) とい う 様相 を帯びる と い う こ とで あ り, こ の負的価値 を帯びた媒質的展開運動を, 彼
はデモ ーニ ッ シュ な 「神話的暴力」 12) ない し 「運命」13) と い う 言葉で表 した 。 先述 し た よ う
に, シュ レーゲルの 「新 しい神話」 が広い意味での産業資本主義的な物象化のメ カ ニズムに
取 り込まれて し ま う 危険性 を もつ もので ある とすれば, ベ ンヤ ミ ンのこ の負的価値を帯びた
「神話的暴力」 も また, ヶパサージュ論 に向か う 彼の後期の思想の流れのな かで は, 同様 の物
象化機構 と の結びつ きを もつのである。 「神話的暴力」 と は何か と言えば, 「暴力批判論」 の
なかの記述 に よれば, そ れは法や社会規範 を措定 し よ う とす る総体的な力 ・ エ ネルギー と し
て捉 え られて いた。 こ の暴力は, 法や社会規範が維持 さ れてい る 間はそれ と意識 さ れる こ と
な く 忘却 さ れているが, 法 ・社会規範が侵犯 を受け変動する と きには, ¥それを再び新た に措
定 し直そ う と して喚起 さ れて く る。 この よ う な 〈法 ・社会規範の維持 = 神話的暴力の忘却〉
と 〈法 ・ 社会規範の侵犯 に よる変動 ・ 再措定 = 神話的暴力の喚起〉 と の間で な さ れる永続的
な循環運動の場 こ そが, 神話的暴力の呪縛圏なのであ り, こ れが, ベ ンヤ ミ ンが 「運命」
「永劫回帰」 と 呼ぶ もので あ る。 こ の循環運動 は, こ れまで述べて きた媒 質的展 開運動 と 対
応 してみるな らば, 媒質とい う 展開可能性 を孕んだ運動エ ネルギー に の場合 「神話的暴力」)
の運動位相 と , その各展開段階の もつ静的位相 と の間の循環運動 とみる こ とがで きる。 つ ま
り, ロマ ン派批評論 において は,
〈自己破壊 一自己創造一自己限定〉 を繰 り返 して展開さ れ
る媒質 と しての芸術作品の もつ運動位相 と , 様々な批評の叙述形式 と し て存在するその各展
開段 階の もつ静的位相 と の間の循環運動で あ る。 ロマ ン派批評論においては積極的意義を もっ
てい た, こ の循環運動によっ て進展する媒質的展開運動は, 媒質的極限値への到達可能性が
疑われる よ う にな っ てい く につれてその性質を転化 し, 「暴力批判論」 で は く神話的暴力 の
呪縛 圏〉 と い う 負性 を帯びる よ う になる 。 と こ ろ で , こ の神話的暴力 の呪縛 圏が織 り なす
〈法 ・社会規範の維持= 神話的暴力の忘却〉 と く法 ・社会規範の侵犯 に よる変動 ・ 再措定=
神話 的暴力の喚起〉 と の間の循環運動を , 商品の価格体系の維持 と その変動 ・ 再措定と の間
の循環運動 と七 て置 き換 えてみる と どう な るだろ う 14)。 商品の価格体系 は, 新技術や新製品
が開発 さ れる につれて絶えず変動 にさ ら さ れてい る。 しか し こ の変動 は瞬時には起 こ らず ,
市場 は現行の価格体系を 当座の間維持 し 続ける。 利潤 はこ のタ イ ム ・ ラ グか ら生 じ る。 す な
わち 産業資本主義以降の資本主義において は, 「新技術や新製品のた え ざ る 開発 に よ っ て未
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古
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裕
一
来の価格体系 を先取 りす る こ と ので きた革新的企業が, それ と現在の市場で成立 してい る価
格体系 と の差異 を媒介 して利潤 を生み出 し続けている 。」15) こ の新技術や新製品の開発によっ
て絶えず繰 り返 される, 商品の価格体系の維持 とその変動 ・ 再措定 との間の永続的循環運動
こそが, 資本主義的利潤収益 シス テ ムを な しているのであ り, おそ ら く ベ ンヤ ミ ンがパサー
ジュ論のなかで分析 の対象 とす る くつ ねに新 し さ を求 める 同一な る ものの永劫回帰〉 と は,
彼の商品についての考察に関す る限 り, このよ う な事態を指 している よ う に思われる。 神話
的暴力はパサージ ュ論において, こ の よ う な商品の無 限運動 と して 回帰す る。 そ して こ の商
品と い う 物が体現す る資本主義的支配装置その ものが物象化のメ カ ニズムに他な ら ないがゆ
えに, ベ ンヤ ミ ンの神話的暴力 と い う 負性 を帯びた媒 質的展開運動には, すで にこの物象化
に向か う 萌芽が潜んで い る と い え よ う 。
し
ただ し こ のこ と は, ロマ ン派批評論 にお ける展開の極限値 に向か う 積極的な媒質的展開運
動が, こ の神話的暴力 と い う 負性 を帯 びた媒質的展開運動へ と単純 に転換 した と い う こ と を
意味 し て い る わけで はない。 ベ ンヤ ミ ンは, こ の恐 る べ き神話的暴力のなかにあ っ て も, な
お展開の極限値への到達可能性 を模索す る。 彼 がこ の 「暴力批判論」 に続 く 「ゲーテの親和
力」 お よ び 「 ド イ ツ悲戯曲の根源」 で問題に したのは, 一面では, このデモーニュ ッ シュ シュ
な神話的暴力の渦巻 く 永劫に回帰す る呪縛圏 と い う 負 的価値 を帯びた媒質的展開運動か ら,
いかに し て こ の負性 を払拭 し極限値 = 根源に向か う 当初の積極性 を取 り戻すか, と い う こ と
だ と 見る こ と もで きる。 そ し て こ の解決 を, 彼 は消滅 し ゆ く 「美 し さ」 や 「悲 しみ」 のなか
での救済 と い う 思考のなかに求めたので あ る 16)。ユ
した がっ て , 媒質的展開運動が こ の よ う に
〈根源〉 にお ける救済 を希求す る無限運動で ある 限 り , それは 〈近代〉 の幼年時代の憧憬 と
密接 に結 び付いた, 連関の無限総体 を希求す る シュ レ ーゲルのロマ ン主義文学 と 同様の積極
性 を なお保 っ て い る。 しか しそれ と 同時に, 媒質的展 開運動がデモ ーニ ッ シュ な神話的暴力
が渦巻 く 永劫に回帰する呪縛圏で ある限 り, それは資本主義的物象化機構に取 り込まれて し
ま う 危険性 を孕んだ, ロマ ン主義文学の神話化傾向 と 同様の負性 を もっ ている。 こ う して媒
質は, シ ュ レーゲルの 〈Universum〉 の もっ ていた両義性 を再び取 り戻すのである。
第四章
〈媒質〉 か ら 〈パ サー ジ ュ 〉 ヘ
ベ ンヤ ミ ンはロマ ン派批評論のなかで展開 した こ の媒質 と い う 思考型をその後 さ ら に発展
させ, 「 ド イ ツ悲戯 曲の根源」 のなかの 「認識批判的序論」 において, そ れ を 一般的原論 と
して最 も ま と まっ た形で提示す る。 と こ ろ で, ベ ンヤ ミ ンが こ の 「 ド イ ツ悲戯曲の根源」 を
フjラ ンク フ ル ト大学に教授資格論文 と して提出 し よ う と したのは1925年のこ とで ある。 結局
彼はこ の論文 を拒絶 さ れ, 著述の場 を ア カ デ ミ ズムの世界か ら ジ ャ ーナ リ ズムの世界 に移 さ
ざる を得 な く な るので あ るが, ベ ンヤ ミ ンがパサージ ュ に対 し て興味を示 し始めるのは, そ
のす ぐ二年後の1927年のこ と で ある。 彼はこ の年の中頃にフ ラ ンツ ・ ベ ッ セルと共同 して,
「パサージ ュ 」 と題す るエ ッ セ イ を残 している 17)。 おそ ら く ベ ンヤ ミ ンがパサ ージ ュ に興味
を も っ た と きには, 媒質な ど と い う ものは彼の念頭に はなかった よう に思う 。 彼はただパサー
ジュ の忘れ去 ら れた よ う な空間, 近代産業の精華 と し てかつて は脚光 を浴びていた様々な品
物が無秩序 に並べ られている幻想的な空間に, 純粋に心 を惹かれただけのよ う に思われる。
〈近代〉 の幼年時代 - Fr. シュ レーゲルと W. ペ ンヤ ミ ン ー ( その二)
123
しか した と え活動の場が変わっ た と して も, 彼は自らの思考のあ り方その ものを変えたわけ
で はな く , そ れが媒質的 な運動概念の も と で な さ れて い た以上, ペ ンヤ ミ ンの くパサー
ジュ〉 と い う 概念には明 らかに 〈媒質〉 と い う概念 との類似性が認め られる。 実際, 媒質が
展開の極限値 ( お よびそ こ における救済) を 目指す運動領域である とすれば, パサージュ も
また通過 ( お よびそ こ における覚醒) を 目指す移行領域なのである 18)。
ベ ンヤ ミ ンがパ リ のパサージ ュ に興味 を も っ た と き, パサージ ュ はすで に時代か ら取 り残
さ れ, 零落 しつつあ っ た。 オス マ ンのパ リ 改造計画 に基づ く ブ ールヴァ ールが整備 さ れて ゆ
く につれて , オペ ラ座のパサージ ュ を始め, 古 く か らあ るパサージ ュ は次々にそ こ に飲み込
まれ, 姿を消 していっ た。 ベ ンヤ ミ ンは, この零落 したパサージュ に並べ られてある時代か
ら取 り残 さ れた品々のなかに, それ らが生産 さ れた頃に秘めていた市民社会の幼年期の輝 き
を見 よ う とす る。 こ の輝 きは, 産業資本主義が進展 してゆ く につれて, オスマ ンによるパ リ
改造計画が象徴的に示 してい る よ う な, 産業資本主義的な規格化 ・ 制度化, つ ま り物象化機
構のなかに取 り込 まれ, わずかに 〈痕跡〉 と して し か見い出 し得 な く な っ てい る。 し たがっ
て, ち ょ う どロマ ン派批評論 において, 芸術作品を完結 した ものとみなす静的芸術観を批判=
破壊す る こ と によっ て, そ こ に媒質 とい う 展開可能な運動領域 を開示 し よ う と したのと 同 じ
よ う に, ベ ンヤ ミ ンはこ のパサージュ論 において は, 人々の意識 を惰性化 させる こ の物象化
機構 を批判= 破壊する こ と によっ て,
〈痕跡〉 と して しか残っ ていない近代市民社会の幼年
期の可能性 を, パサージュ と い う 移行領域のなかに開示 し よ う とす る。
さ ら に, 媒質 と い う ものが, 主体一客体, 個体一総体 と い う 相関関係を廃棄 して し ま う よ
う な錯綜す る 「連関可能性」 の展開領域, 様々な事物が不断に交錯 し連関を深めてゆ く 運動
領域 を意味 し て い た と す れば, こ れ と 同 じ こ と がパサージ ュ につ いて もあて はま る 。 パサー
ジュ と はなによ り も, 街路 と室内 と い う 二項対立的構図が く ずれて機能 し な く なる領域であ
る。 つ ま り, パサージ ュ と はた しかに街路で はあ るが, それ と 同時に, 鉄 と ガラ ス でで きた
屋根で覆われ, 周囲を商店街のフ ァサー ド によっ て内壁のよ う に囲まれた室内を も成 し てい
る。 そ して こ の街路 と室内が未分化な領域 を往来す る群衆 と遊民 も また, 未だ画一化 し た大
衆 ( 社会) とそ こから疎外 さ れた個人 ( 私) とい う 形で物象化 さ れる こ と な く , 集団と個 と
い う 二項対立的構図が く ずれた なかを曖昧な ま ま彷徨 っ ている。 ベ ンヤミ ンはこのパサージュ
とい う 空間を, あ らゆる事物が互いに交錯 し合い, 輪郭が融け合い, 混 じ り合 う く夢の領域
〉 と して特徴づ ける。
「実際こ の空間のなかの存在者は, 夢のなかの出来事 と 同 じ よ う に, その輪郭が曖昧に
混 じ り合 う のである。 遊歩 と は, こ のま どろ みのリ ズムである。」 19)
パサ ージ ュ の両側 には様 々な商店が混然 と して並び, 処々に貼 られたポス タ ーや広告 は, そ
の万華鏡のよ う な色彩言語によっ て多様 な商品イ メ ージを生産する。 そ して何 よ り も商品そ
のも のが, そ こで は 「消費の原風景」 と して, この夢の交錯 を繰 り広げる。
「有機的世界 と無機的世界, 最低の必需品と贅沢な奢侈品が こ のう えな く 矛盾 した結合
を行い, 錯綜 した夢め諸像のよ う に, 商品が止め どな く 互い に入 り混 じ り合 う 。 消費
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の原風景。」20)
この媒質を想起 させる夢の交錯世界 と してのパサージュ はまた, シュ レーゲルのロマ ン主
義文学の 〈Universum〉 と , それを受容 したベ ンヤ ミ ンの媒質その ものが本来 もっ ていた両
義性 を も, 自らのなかに引 き入れている。 -
こ のパサージュ の夢の領域は, 太古 のユ ー ト
ピア的世界 と オーヴァ ーラ ッ プす るがゆえ に, 一面で は強い積極的意義を も っ ている。 すな
わち, パサージ ュ の忘れ去 られた品々のなかに, それが物象化 さ れ時代遅れな ものにな る以
前の近代市民社会の幼年期が も っ ていた可能性 を, 夢の領域 と して現出させ よ う とす るベ ン
ヤ ミ ンの まな ざ し は, 集団 と し て の労働者が, 自然その ものが潜在的に秘める無限な創造性
を, その労働 を通 じて発現 させ享受する階級な き社会 と い う 太古のイ メ ージ と重ね合わさ れ
る。 ベ ンヤ ミ ンはこ の太古のユ ー ト ピア的世界の もつ無限な創造性が, 封建勢力に対 し て ブ
ルジ ョ ワジー と労働者がまだ共闘 して伝来の価値規範からの解放や礼拝的アウラの崩壊を迫う
ていた近代市民社会の幼年時代 において, 生産技術の躍進や群衆 と い う 集団形成 と い う 動向
を通 じて , 新た な形で蘇 る可能性 を見 る 。 遊歩者のまな ざ しのなかで , パ ッ サゞ ジ ュ の時代
遅れにな っ た事物は市民社会の幼年期の夢の世界 と重な り合い, こ の夢の世界は太古の象徴
世界 と重 な り合 う 。 ベ ンヤ ミ ンが 「オーバーラ ッ プ」 = 「モ ー ド」 = 「永劫回帰」 と いっ た
一連の言葉で表そ う と しているのは, 本来的には, こ の 〈古 い も の〉 と 〈新 し い も の〉 。
〈新 しい もの〉 と 〈古い もの〉 と の重 な り合いのなかに, 太古のユ ー ト ピアが現在 に蘇 る,
このよ う な積極的可能性である。 -
しか し なが ら, レこの幼年期の夢の世界は同時 に, こ の
ユー ト ピア的可能性のすべて を 自らのなかに組み込んで隠蔽 して し ま う 物象化のメ カ ニズム
を, それ 自体のなかに萌芽 と し て秘めてい る。 すで に 「神話的暴力」 について見て きた と き
に述べた よ う に, 「消費の原風景」 と して捉 え られる使用価値か ら解放 さ れた商品の始源の
交錯 ・戯れは, 貨幣によって支え られた価値体系 (統一的パースペク テ ィ ヴ) のも と に置か
れる。 し か も こ の価値体系 はつねに 「新 し さ」 を求める 〈モ ー ド〉 によっ て絶えず刷新 さ れ
続けて ゆかなければな ら ない。 〈古い もの〉 と 〈新 しい もの〉 と の重 な り合いのなかに太古
のユー ト ピアのアク チ ュ ア リ テ ィ を現出させるべ きモ ー ドが, こ こ で は, 商品を時代遅れの
ものと し新製品の製造を求める こ と によっ て, 技術革新 と剰余価値の産出を迫る産業資本主
義的装置 と な っ ている。 そのなかで商品のア レ ゴ リ ー的運動は, こ の価値体系その ものの変
動 と再措定 と い う 永続的循環運動, す なわち くつねに 「新 し さ」 を求める 同一なる ものの永
劫回帰〉 のなかに組み込 まれて し ま う 。 ベ ンヤ ミ ンはこ のモ ー ド と 同様, パサージュ, 広告,
流行品店, 万国博覧会, ガス灯, パノ ラ マ な ど, 本来労働者階級のユー ト ピア的願望を表 し
ていたはずの市民社会の幼年期の様々な ものが, 同時にこ れ と 同様な産業資本主義的支配装
置 と なっ て い く 様子 を追 う 。 そ して こ のよ う な一連の物象化の過程の象徴 と なるのが, オス
マ ンによ るパ リ改造計画である。 それは, パ リ の街並みに幅の広い長 く 連続する街路 を走 ら
せる こ と に よ っ て, それを統一的なパースベ ク テ ィ ヴのも と に秩序づける こ と , またバ リ ケー
ド闘争による労働者階級の革命 を防 ぐこ と を 目的とする もので, 市民社会の幼年期のもって
いた様々な可能性 を隠蔽 して し ま う 制度化 ・ 物象化 を, 一種の街路化 と して象徴する もので
ある。 ただ し, こ の産業資本主義的な物象化のメ カ ニズムは, たんに街路化 と してのみ と ど
まる わけで はない。 それはよ り大 き く は, 街路 と室内が融合 して いたパ ッ サージュ を両者へ
〈近代〉 の幼年時代 - Fr. シュ レーゲルと W . ・ベ ンヤ ミ ン ー ( その二)
125
と分離 させる機構 と して捉え られる。 た と えば, 金融資本によって支えられていたルイ ・ フ ィ
リ ッ プの七月王政やナポ レオ ン三世の第二帝政下 にお ける, 金利生活者の暮 ら し を考えてみ
ればよい21)。 金利生活者は, 一方で は街路へ と 開かれた事務所 において資本主義的営利活動
を行いなが ら√そ こか ら得た剰余利益 を 自らの私的室内のフ ェ テ ィ ッ シュ な装飾物収集に注
ぎ込み, 室内を こ の営利活動に対する憩いの場 とする。 こ のよ う な形での街路 と 室内の分離
は, 室内を, 街路の支配機構か ら逸脱な い し逃避す る様々な ものをそ こへ と 閉 じ込める こ と
によ っ て, 逆 にこ の支配機構 を補完 ・ 強化 して し ま う 装置に して し ま う 。 街路 と室内を二項
対立的に捉 える こ と, それはあの幼年期が も っ ていた可能性 を, 労働 と 自然, 技術 と芸術,
文明 と神話, 理性 と心, 社会 と私等々の対立へ と分離 し隠蔽 して し ま う 物象化のメ カニズム
に他な らない。 そ して このメ カニズムは, すで に第二章において見て きた よ う に, シュ レー
ゲルのロマ ン主義文学が 「新 しい神話」 へ と転 じ る と き, それが必然的に果た して し ま う 機
能 と 同種の もので あっ た。
夢の領域と してのパサージュ はこのよ う に, ユー ト ピア的理想を孕む 〈近代〉 の幼年時代
の憧憬 と結びついた積極性 と , 資本主義的物象化機構 と結びついた負性 と い う 両義性を もっ
た, 様々な事物が錯綜す る連関領域 と し て捉 え られている9 その意味で, ベ ンヤ ミ ンのこ の
パサージュ と い う 概念には, 前期ベ ンヤ ミ ンの媒質 と い う 概念や, さ ら にはシュ レゞ ゲルの
ロマ ン主義文学 と の類縁性 を認める こ と がで きる。 そ し て, 前期のベ ンヤ ミ ンにおいて は,
こ の両義性 を帯びた媒質的展開運動か ら , いかに して デモ ーニ ッ シュ な神話的負性 を払拭 し
て, 展開の極限値 と しての根源に向かう 積極性 を取 り戻すかが, 消滅 し ゆ く 美性 し さ や悲 し
みのなかで の救済 と い う 思考のなかに求め られた とすれば, パサージュ論においてベ ンヤ ミ
ンが求めるの も また, この両義性 を孕んだ夢の領域か ら神話的負性 を払拭 し, 自然 と技術 と
労働が一体 と なっ た太古のユ ー ト ピアの再生へ と夢の諸像 を覚醒 させる こ と に他な らない。
これがベ ンヤ ミ ンの革命のイ メ ージ と な る。 パサージ ュ は夢の領域であ るが, それは同時に
この夢からの覚醒 を 目指す移行領域であ り, パサージュ を通 り抜ける とい う こ と は, こ の覚
醒への 「通過儀礼 ( Retesdepassage= パサージュ の儀礼) 」22) を意味 している。
こ のよ う に, パサージュ論におけるベ ンヤ ミ ンの基本的な姿勢には, 資本主義的物象化機
構 に対する批判= 破壊 と, 夢の領域の開示 と , そ こか らの覚醒 と い う 弁証法的構図が見 られ
る。 ただ し こ の構図はベ ンヤ ミ ンの独特 な歴史認識によっ て支え られている。 〈覚醒〉 とい
う 言葉で表 さ れる, こ の近代市民社会の幼年期が秘めて いた可能性の救済= 解放 は, ベ ンヤ
ミ ン において, 現象的な歴史事象の分析 に基づいた, ブルジ ョ ワジーの支配機構かち の労働
者階級の解放 と い う ス タ イ ルを と る。 し たがっ てその点で はマ ルク ス主義的史的唯物論 に通
じる ものがあ り, ベ ンヤミ ン自身自らのこの姿勢を 「史的唯物論丁 とい う言葉で言い表 して
いる 。 しか し こ の 「史的唯物論」 がいわゆる一般的な史的唯物論 と異な るのは, それがユ ー
ト ピ ア的解放 を, 進歩す る歴史の流れの未来に求める ので はな く , 「かつ て在 っ た も の」 そ
して 現在忘れ去 られている ものの救済 と い う 形で,
〈い ま〉 と い う その都度その都度の瞬間
にお いて求める と い う 点であろ う 。 つ ま り, 先ほどのパサージュ論の弁証法的構図は, 進歩
に向かう 連続的な歴史の流れとい う水平 な時間軸め上で行われるので はな く , そのよ う`な物
象化 さ れた時間概念が破砕 さ れた くい ま〉 と い う 瞬間に開示す る歴史の渦のなかで, いわば
垂直 な時間軸の上で行われる。 物象化機構の破砕 と, 夢の領域の開示 と , そ こか らの覚醒,
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こ の三つ の過程が, 歴史のア ク チ 耳ア リ テ ィ ー を担 っ た くい ま〉 と い う 瞬間において重な り
合 う 。 こ のこ とがベ ンヤ ミ ンが 「静止状態における弁証法」23) と呼ぶ歴史認識のあ り方で あ
る。 こ の覚醒の瞬間は, 歴史の流れのなかで は 「次の瞬間にはもはや救い よ う もな く 消えて
ゆ く 」24) と い う 一時性 を担わざる を得ない。 だがこの瞬間において, 生起 した出来事 は歴史
の根源構造 ( 「星座的配置」) のも と に位置付け られ, その真実の姿を取 り戻す。 パッサージュ
論の課題は, こ のよ う な形での夢か らの覚醒, 歴史の夢解釈で あっ た。
〈近代〉 の幼年時代 に向ける まな ざ しのなかで, フ リ ー ド リ ヒ ・ シュ レーゲルのロマ ン主
義文学理論 と ベ ンヤ ミ ンのパサージ ュ論は結 びつ 〈 。 両者はと も に,
〈近代〉 の幼年時代の
憧憬 とその物象化傾向に密接 に関わる もので あっ た。 そ して こ の結びつ きは, ベ ンヤ ミ ンの
後期の 〈パサージュ〉 と い う 概念 と前期の 〈媒質〉 と い う 概念 と の関わ り を も, 間接的に明
らかに し て く れる。 なぜ な ら, ロマ ン主義文学 とパサージュ論 と の結びつ きは, シュ レーゲ
ルの文学理論を対象認識的に受容 したベ ンヤミ ンの 〈媒質〉 と い う 概念 を, 文字通 り媒介 と
して いる のだか ら。 あ るいはベ ンヤ ミ ンの 〈パサージュ〉 と い う 概念が 〈近代〉 批判に有効
に機能 し得た微かな遠因と して, それが本来シュ レーゲルのノ〈近代〉 の幼年時代の憧憬 とそ
の物象化傾向を取 り込んだ 〈媒質〉 と い う 概念 を も と に しているか らだ と言 う こ とがで きる
のか も しれない。 こ う して , ロマ ン主義文学が開示す る合わせ鏡のなかに並ぶ無限の像は,
時空 を超 えて , 十九世紀の鏡の都市パ リ のパサージュ のなかに, 「夢の諸像」 と し て蘇 る の
で あ る。
。
・
上
ニ
ー
【 註
‥
・。
】 I.
フ リ ー ド リ ヒ ・ シ ュ レーゲルの著作か ら の引用 は,
上
K ritische F riedrich Schlege1 A u電 abe. 35 Bde. H rsg. von E rnst Behler unter M itw irkung vonゲ
Jean-Jacques A nstett und H ans E ichner. Paderborn. M Unchen. 1958ff.
丿
こ
に拠る。¥( 以下, KA と略記 し, 巻数をローマ数字で記す。)
和訳にあた っ ては, Fr. シュ レーゲル 「ロマ ン派文学論」 山本定祐訳 ( 冨山房) を参照 させていた だい
た。
づ
コ
ベ ンヤ ミ ンか らの著作の引用は,
W alter Benj am in: G esam m elte Schriften. 7 Bde. H rsg. von R 91f T iedem ann und H erm ann
Schw eppenhiiuser unte17 M itwirkung von T eodor W .
A dorno und G ershom
Scholem .
Suhrkam p V erlag. F ft a/M 1972-1989
に拠る。 ( 以下, GS と略記 し, 巻数をローマ数字で記す。)
1) ベ ンヤ ミ ンが 「絶対者の認識」 とい う言葉で述べているのは, 運動の無限目標 と しての絶対者のこ
とで あ り, それを直感に よっ て捉 え一体化 し得 る よ う な, あ ら ゆる事物の根底 に同一的に存在す る
よ う な絶対者 について は, ベ ンヤ ミ ンは排除 し ている。
2) Uber Spra(ホetiberhauptundtiber dieSprachedesMenschen. GSII , S. 140ff.
3) GSI , S.58
=
-
〈近代〉 の幼年時代 - Fr. シ ュ レーゲルと W . ベ ンヤ ミ ン ー ( その二)
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4) KA II , S. 152
5) GSI , 86
6) GSI , S.87
7) KA II , S. 182f.
8) このこ と に関 しては, 拙論 「初期ヴァ ルタ ー ・ ベ ンヤ ミ ンにおける媒質的展開運動」 ( 東京都立大
学大学院独文研究会 下独文論集) 第11号 ( 1990年11月) 掲載) 参照。 ( 以下 「媒質論」 と略記する。)
9) GSI , S.37
10) GSI , S.31
11) GSII , S.204
12) GSII , S. 197
13) GSII , S. 171
14) この点に関 しては以下の論考を参考と している。
岩井克人 『ヴェ ニスの商人の資本論』 筑摩書房 1985年
柄谷行人 『マ ルク スその可能性の中心』
15) 岩井克人 前掲書 58頁
16) 「媒質論」 第二章第四節, 第三章第二節参照
17) GSV, S. 1041ff.
18) パサージュ論についての論者の基本的理解 について は, 拙論 「境域のなかで ー パサージュ論素描」
( 青土社 「現代思想」 第20巻第13号 ( 1992年12月) 掲載) 参照。 パサージュ 論の基本的構造 を説明
す る箇所で , 本稿 は一部こ の論文 と重 な る部分があ るが, シュ レーゲルのロマ ン主義文学理論 と ベ
ンヤ ミ ンのパサージュ論 と を対比 させる ためには, パサージュ論の基本的構造 について説明が不可
欠で あ る ため, 重複は避けなかっ た。
19) GS V, S. 162
20) GSV , & 993
21) GSV, S.52
22) GSV, S.617
23) GSV , S.578
24) GSV , S. 592
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