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Title 詩佛の再北遊と加越能文人たち(その二)

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Title 詩佛の再北遊と加越能文人たち(その二)
Title
詩佛の再北遊と加越能文人たち(その二)
Author(s)
畑中, 榮
Citation
金沢大学国語国文, 40: 38-47
Issue Date
2015-03-20
Type
Departmental Bulletin Paper
Text version
publisher
URL
http://hdl.handle.net/2297/46392
Right
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http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/
詩佛の再北遊と加越能文人たち︵その二︶
中榮
業等の演舞が披露されている。そして所々の軒先ではお茶やお菓子、
の岩戸・天の浮橋・厳島社・梅や桃や櫻の造花・梅鉢・浦島・えびす・
家によっては飲食までも振る舞われる。記録によれば、旭に鶴・天
︵承前︶
九月六日は快晴だった。秋声館を発って一行が金沢に帰り着いた
松竹梅・西王母・出世鯛・末広・太公望・だるま・花車・竜宮城・富士・
海老・近江八景・尾上松・春日社・金沢八景・唐崎・御所車・住吉・
のは夕刻時分である。北陸の晩秋には珍しい快晴に誘われて、諸方
に立ち寄り詩を吟じながらの帰途だったろう。金沢ではこの日から、
祝祭日で、藩主の誕生・襲封や家督相続等の晴れの日に、二、三日を
れた一︾Ⅷ,’。こうして目や耳を楽しませ舌を楽しませてくれるカーニ
七福神・日の出鶴・福助等百種類以上の造り物が腕を競って披露さ
なりやす
藩侯齊泰の襲封入部を祝っての盆正月である。これは加賀藩独特の
限度に全町挙げて休日として祝ったことをいう。いわば盆と正月の
バルは、延々と北陸街道を埋め尽くしていた。
なりなか
お祝いごとを同時に行う特別な祝祭Hで、齊泰の代だけで十回、父
街のあらゆる場所に旗や幟が立ち、軒先には提灯や行燈が灯され
〃は上元なり。蓋し今公襲封入部の初めにして、銭帛をもって脚中
還る。歓聲は川に動く。俗に之を盆正月という。盆は中元なり、正
す。﹁九〃六日金城に入る。此の日家々は燈を掛け、士女は雑れて
いりみだ
その破天荒ともいえる街中の熱狂の中を詩佛は還った。詩佛は記
て、昼とは全く異なる明るさが街全体を埋め尽くしている。軒先は
の民に賑む。民之を祝ふこと、上元中元に比ぶ﹂と。そして賦す、﹁児
の齊広の代には十五回も実施されている。
開け広げられ、そこに宝船や出世鯛・鶴亀といった目出度尽くしの
女は聯刷として袖を連ねて回る。家家には客を迎へて宴を新たに開
れんばん
めぐノf、ら
よも
さである。そしてこの巨大な造り物の問には、鰻幕や作り花、縁起
巨大な造り物が並び立ち、いづれにも灯りが灯されて眼を奪う目映
2︶。北陸街道はこの賑わいのメインストリートである、片町・香林坊.
く。街を満たす燈火は書よりも明るく・元夕中元一併に来る﹂と一棚
辻々の曳山の舞台で演奏される雛子や鳴り物、また別の辻では軽
物の絵巻等意匠を凝らした装飾が埋め尽くされていた。
−38−
畑
に降ってくる。盤上の刺身は雪のように新鮮で、坐下の竹筵は班竹
の誘うあたりに顔を覗かせ、そっと目と耳を聯句会にやって、自ら
蘭蝶の悪戯っぽい笑顔が残る。紅葉の葉ずれの下や環水のせせらぎ
席では、わずらわしい礼儀作法もなければ、役職とか身分とかの区
るのも、この海菓園なのだった。
もその楽しみを楽しんでいる。そんな幻がふと見る者に訪れたりす
を編んだもので、月光の下では小波が打つようである。この聯句の
別もない。新詩を練り昔話に花を咲かせている内に、いつの間にか
せんかん
b,東軒・混濃亭小集
寺町の、犀川を眼下に望む十m余りの高みにあって、その崖一面を
この聯句の会がもたれたのは致堂の別邸である海巣園であろう。
は、幽遼にして塵喧を絶ゆ﹂とあり、﹁ここにおれば詩料が多すぎて
主催者も未詳であるが、詩佛の東軒での作に﹁三問の流れに枕む屋
東軒や漏援亭で小集が持たれたのは聯句会の近くである。場所も
と。今日の風流の文筵の楽しさを分かち合ったのである。
夜が更け、天の河も西に落ちて、太乙星も山際に垂れかかっている、
海業などの花木で埋め尽くした庭園である。環翠楼はその中にあり、
手に余る﹂ともいう︵肺︶。また渥援亭についても、空翠はこの亭の
のぞ
現在は辻家庭園となって一般公開されている。高みから望む犀川や
主のことを、﹁元市隠、此の地幽栖を占む﹂といい、商齋の次の作に
せんかん
金沢の街並み、急坂を巡り流れる環水に沿って植えられた種々の庭
こえる、寂翼とした場所であるという。共に浅野川近辺にあったも
も、清流が漏援と流れ、晩秋ともなれば蟠蝉の鳴き声が断続して聞
せんかん
木。広大な借景の中に、季節の彩りが贄沢に目を楽しませる園であっ
なお西皐・半仏にも同題の作があり参加が確かめられる扉5︶。
老獺に閑事多く、寒喧は相ひ適ひて宜し。
ろうらんかんじかんけんかなよる
秋閾にして虫語は苦しく、節早にして雁聲は遅し。
たけなわむしのこえはなはだときすみやかかりのこえ
新月に杯を挙ぐる虚、清流を句に入むる時。
おさ
幽棲は我輩を容れ、来往するに本期なし。
ゆうせいがはいいもとき
與詩佛先生飲混援亭亀田商齋
幽棲容我輩来往本無期新月挙杯虚清流入句時
秋閑虫語苦節早雁聲遅老獺多閑事寒喧相適宜
のであろうか︵附別︶。
た。そしてこの海巣園はまた、二十一歳という若さで没した正妻蘭
蝶との思い出の場所でもある。その没の文化十二年に刊行された﹃海
某園合集﹂や﹁致堂詩稿﹄の所々に、この楽しい日々が躍動しており、
海業の花の下に鳶を敷いて二人だけの詩宴を開いた時のことであ
その中 の 作 に い う ︵ ﹁ 致 堂 詩 稿 ﹂ 一 側 ︶ 。
る。蘭蝶は、快い春風と花の香と暖かさで酔って寝てしまった。や
えんじ
がて我に返り、近くの枝を数本折り取って傍の侍女の髪に、﹁香りの
良い答よ﹂と挿してやると、幼い侍女は更に髪いつぱいに燕支を挿
し足し、二人手を取っていかにも楽しそうに海巣の花の中をはしゃ
ぎ回ったのだった。そして二人に加えて蝶や蜂までもその香りに誘
その蘭蝶が去って九年になるが、 それでも園の木立のあちこちに
われて、頭上に舞ったのだった、と。
-41-
夕陽を追うて帰り、途中に雲松庵も訪うた。さあこれで出遊の興も
としより
たんきこつこつ
怯冷老如抱葉蝉冷に怯える老は葉を抱く蝉の如し。
十分尽くせたからもう帰ろう、と。
じんだんんげんいかん
北遊の時もここで詩宴が持たれている。上保梅園の作に﹁金沢の諸君﹂
登る﹂とあるから︵附刈︶、東山の茶屋街あたりの遊楼らしく思われ、
塵談奈未蓋玄玄塵談は未だ玄玄を謁さざるを奈せん。
詩佛は詩人の中の詩人で、墨書家の中の聖人である。その詩墨の
四井楼は四並楼とも書いた。鶴山の作に﹁東山に遊んでこの楼に
短普忽忽殊易暮短管は忽忽として殊に暮れ易く・
奇しきことは人間技を越えている。されば俗世の幻にも等しい波濤
空翠社中によるものと類推される。なお上保梅園は名を路、字を子遵、
と共にとあり、緑陰にもこの時のものらしい作があるから︵附別︶、
吉左衛門と称した越中の肝煎で、蔵宿を営み算用聞の職にもついて
に比して、文場での風月こそは仙界への良縁となるものである。庭
たる私は、秋冷に蝉の抜け殻のように身をかがめている。この秋の
一人である。︵附哩
いた。俳譜・和歌・書書・詩を善くした文人で、東林門の詩人達の
には晩秋の香りを流す君子然とした菊の花があり、一方で老残の身
いないのをどうしたらよいか、と。なお﹁真佛﹂は、佛の本身であ
四並楼頭坐綺筵四並楼頭綺筵に坐す。
きえん
秋晴小飲伴詩仙秋晴れの小飲詩仙に伴ひ。
詩佛先生を遼飲し、金沢諸君と四並楼に萱る
よういんしへいろういた
迩飲詩佛先生薑金沢諸君子四並楼上保梅園
日はまたたく間に暮れるが、詞場の楽しみはまだ玄々の境に至って
る法を人格化したブッダで、﹁良縁﹂は﹁詩中の真佛﹂によって天上
世界へ昇華するためのよい因縁となること。﹁短普﹂は秋の短か日で
雲松庵はどこかの寺院の小庵らしい。晩秋、空翠・緑陰・井上素屏.
ある。
吟峨偏有江山助吟峨には偏へに江山の助あり。
すいほうすぐせえにし
酔飽何無宿世縁酔飽には何ぞ宿世の縁無からん。
ぎんがこうざん
らんぜんいえみどり
水外林楓紅始染水外の林楓は紅に始めて染まり。
すいがいくれない
伊東半仙が詩佛を誘って遊んでいるが、西素鶴が山寺に遊ぶ詩佛に
欄前屋瓦碧相連欄前の屋の瓦は碧に相ひ連なる。
與詩佛先生訪雲松庵帰途香林坊緑陰
陪した作︵附舩・弱︶もこの時のものらしく思える。
せききお
あざむきしゃかつしんぺん
たじ
護投車轄乞新篇護て車轄を投じて新篇を乞はん◎
此興他時難復得此の興他時復た得難し。
いく、しよ
幾虚看楓造夕暉幾虚にか楓を看て夕暉を楚ふ。
やじん
不妨時叩野人扉妨げず時に野人の扉を叩くを。
﹁綺筵﹂はあや絹の美しい敷物を敷いた華やかな宴で、﹁江山﹂は国
かんこう
いつしこうし
一枝爺子真吾友一枝の繁子は真に吾が友たり。
興到閑行興壼帰興到りて閑行し興壼きて帰る。
土山水をいうが詩佛の別号もいう。﹁投車轄﹂は﹃漢書﹂の陳遵傳に
おうしゆう
かって王子猷が雪の夜、独酌していて﹁招隠詩﹂を詠じていて
の乗ってきた車のくさびを取って井戸に投じて帰れなくしたという。
基づく故事。酒を好んだ陳遵は、賓客が集まると家の門を閉じて客
たいき
いう。今日のこの小寺への出遊もそれに似て、紅葉狩りに出掛けて
戴逵を思い、小舟に乗ってその門前まで行ったが興尽きて還ったと
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詩佛の乗ってきた車の模を棄てて帰れなくして、この四並楼での近
せきろ
昇るのが見え、庭の松を吹く風が燗の茶釜の音に響き合って聞こえ
この時詩佛は暁山宅も訪れた。石艫を構えた庵の小窓からは月の
浮かべて曲水に擬えたのである。
秋晴れの四並楼の庭院では楓が紅葉し始め、楼から眺めると、眼
る。﹁苦茗一杯卿か酒に當つ。此の中の情味を誰有りてか傳へん﹂
作を頂きたいとふざけてみせたもの。
下の黒漆の屋根は碧の波を打たせている。そして視界いつぱいに映
の詩談義は、松韻を耳にしながらいつ果てるともなく続いた。
と暁山は詠う︵附肥︶。魚梁遊びの余韻にお茶を点て、詩佛を囲んで
小野杏山が詩佛を東山観音院に誘ったのも晩秋頃だった。真言宗
やな
る林楓の眺めは吟峨の心をそそり、詩佛もまたそっと言葉を添えて
の賜である。この良縁による興は今後いつまた得られるか分からな
の寺院で、卯辰山の中腹の少し小高い位置にある。観世音菩薩を本
〃くめい
くれる。杯を詩佛と交わすことが出来るのも、宿世の良縁があって
い。ひとつ詩佛の乗ってきた車の、模を外して詩佛をここに引き留め、
佛とする小刹で、かつては三重塔もあったというが、詩佛が登った
さんこうとうじよう
楼で詩佛を迎え、氷見で能登へ行く詩佛を見送った人で、長光寺東
越中の僧聖潭が詩佛を空翠宅に訪れたのも秋である。聖潭は陸舟
b,聖潭・曽田菊潭来訪
べて見晴らされた。
観音町通りという。登るにつれて、十萬の人家が秋空の下に蔓を並
観音院の横を通ってほぼ直線に続くかつての登肇路があり、これを
小村に雨雲れて雁の聲頻りなり﹂と。現在の自動車道の傍らには、
は
を曳く。十萬の人家に秋色新たなり。細路は林に昏れて鳩語間し。
さいろきゅうごかしがま
頃は焼失していた。頷頸二聯でいう︵附皿︶、﹁山行脚に信せて藤杖
新詩でも一篇お願いしてみようか、と何8︾
2.秋の期間の小集
以下は八月二十日以降、秋の期間の小集である。
a,東山での遊び
やな
浅野川での魚梁遊びは木谷暁山主催になる・暁山は空翠社中にあっ
た金沢の賢人らしいが詳細は未詳で、文政八年東山の龍谷︵国︶寺
魚梁ではゴリを獲ったのだろうか、一度仕掛けると堆く山のように
うずたか
で西皐が遊んだ時、共に参加していることが分かる程度である一礼9|・
捕れ、この獲りたての獲物を肴に川淵で酒杯を挙げた。河辺の桜の
林の次弟である。その時金沢の宿舎に詩佛を訪れたいと、約束して
かんいすしえん
いたのである。聖潭がいう︵附幽︶、﹁曽て約せり、金城留滞の日。
紅葉、その向こうの卯辰山や東山の紅葉、そして上空の紺碧の秋空、
やなおかりょうとう
それ等が浅野川の清流に映えてさながら錦模様であった。﹁十分の秋
のもこの頃である。
閑を楡み杖を曳きて詩筵に到らん﹂と。そして詩佛が菊潭を訪れた
よ
色は雨餘に開け。魚は魚梁に上りて忽ち堆を作す。君と来て梁頭に
由緒帳などによれば、菊潭は文政五年六月齊泰の素読御用を勤め、
在りて飲し・自りて清流を引きて酒杯を浮かぶ﹂とは暁山の作である。
ヤナのほとりに酒席を設け、清流を宴席の方に引き入れそこに杯を
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