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Page 1 Page 2 H 僧侶の独身と苦行 第三節 人間がおのれ自身に
一論
文1
キリスト教の残虐さ
㊧ 禁欲・独身と﹁善良な未開人﹂
口 ﹃百科全書﹄と﹁独身﹂の項目
H 僧侶の独身と苦行
その二
一その一、自然主義道徳について
n キリスト教の残虐さ
大
1 神観念の起源と著者の思想的・哲学的立場︵以上前号掲載︶
はじめに
目 次
或る匿名作家の宗教批判
皿
一その一、自然主義道徳についてー
津
眞
︵未完︶
五八
作
e 僧侶の独身と苦行
第三節人問がおのれ自身に及ぼす宗教的残虐さについて
キリスト教的人間観は、原罪思想によって貫かれているため、人間は地上にほうっておかれれば、多かれ少なかれ
︵1︶
悪事しか働かないという枠組を強固に持っている。そこで、キリスト教に深く帰依した人間は、信仰による救いを求
めつつまずおのれ自身を苛酷に取り扱うことによって、神の試練に耐えようとする。けだし﹁嫉妬﹂ぶかく残忍な神
は、自分自身︹⋮⋮︺に対して及ぼされた。﹂そして、こうした習慣や勤行は、実は﹁古今の偶像教徒や異教徒が自
は、人間の愛がひたすらおのれのみにむけられることを望むゆえに。 ﹁この敬虔なるがゆえの残虐さは、或る場合に
︵2︶
︵3︶
分自身に対して加えてきた蛮行﹂の類なのである。啓蒙された民は、このような﹁蛮行﹂を受けいれるべきではない
︵4︶
あい
が、 ﹁キリスト教徒がやっている残虐行為も一見したところでは、異教徒のそれとそんなに相反するものには見えな
い。﹂いや﹁いくつかの点で、キリスト教徒の勤行の方が、彼の崇敬する神性が残忍なものに仕立てあげられている﹂
ゆえに、 ﹁はるかに有害なのである。﹂こういう前置きのあとに真先に論難されるのは、苦行である。苦行はなぜ唾
︵5︶ . 、、
棄すべき愚行なのか? それは﹁自分の幸福のために働くこと﹂を禁ずるからである。苦行の内でもとりわけ﹁社会
にとって有害なのは﹂修道院生活と独身鼠ま鉾である。 ﹁それは、人口に障害を設けることによって、社会の多数
五九
︵6︶
の成員を、完全に無用なものにしている。﹂本論説の論者が指摘する修道生活と独身のデメリットは、﹃キリスト教暴
露﹄の第十二章で言われていることと同じである。これを対照する形で訳出しておく。
!或る匿名作家の宗教批判 その二1
の論
さ
虐
つl
に文
v・
』
て
﹃キリスト教暴露﹄ ︵現代思潮社刊︶
六〇
い、怠惰な瞑想の生活を送った。﹂ ︵一〇一ぺージ︶
暮らしているのは事実だ。しかしその他の者は、まるで
すごしていることだろう! 彼らの内、或る者は安逸に
実な国々では、無数の人間が敬虔の念ゆえに、生涯無用
た。こうして、キリスト教徒が自己の宗教にもっとも忠
せ、無活動と独身を誓うことによって天国を得ようとし
﹁彼らは︹修道士や隠者︺同胞に役立つ才能を埋れさ
永劫の収監を宣告されたも同然で、社会の喜びを完全に
で惨めな生活を送ることを自分自身に義務づけている。﹂
ついてこう報告している。この聖者は、肌のうえに粗末
た人の内のひとりである聖アントニウスの暮らしぶりに
﹁註ω聖アタナシウスは、修道院の制度を最初に設立し
することを禁じ、快楽を憎み苦痛を愛せと命令し、自分
まい。論より証拠、この宗教は狂熱のあまり、自分を愛
入間の本性のねじ曲げをはかっているのも驚くには当る
﹁超自然的であることを自慢にしているような宗教が、
︵一〇二ぺージ︶
な毛布かまたは馬の毛でできたシャツかをまとい、その
やけだもの然とした不潔さに身をゆだねている。﹂︵P曽︶
奪いさられている。これらの憐むべき隠者たちは、苦行
﹁どれほど多数の男女が、修道院に閉じこもって一生を
てきた⋮⋮﹂ ︵マ曽︶
をみずから拒み、飢えて死ぬにまかせることを美徳とし
﹁先徳のキリスト教徒がこぞって砂漠や森林に住み、
残
﹁幾多のキリスト教徒が、砂漠に生き、近寄りがたい
世を捨てて、家族からは大黒柱を、祖国からは市民を奪
教[
岩に囲まれて暮らし、洞穴に住み、生きんがための欲望
宗
と考えるような連中の神について、いったいどんな観念
宗教か! 神に気に入るには、不潔にしなければならぬ
役立たずが、ひとつの価値とみなされるとはなんという
旅の途中でたまたま足を濡らした場合を除いて。こんな
付け加えて言う。彼は一度も足を洗おうとしなかった。
うえに毛皮をはおって生涯を送った。聖アタナシウスは
殺なども、みなここから来るのである。﹂︵一〇〇−一〇
狂信的な人々が天国への切符と考えているあの緩慢な自
ろな勤行や、さらには、キリスト教徒の中でもとりわけ
難行や、残酷な禁欲や、正気の沙汰とは思えないいろい
る。苦行や、健康を破壊する贖罪行為や、常軌を逸した
をことさら苦しめることをひとつの価値とみなしてい
いになるまで同じ服を着用に及んでいる。彼らは厳しい
ろくろく着けないで、鼻をつままないではおれないくら
さなどより︹異教徒の美徳の方が︺まさっているのでは
反抗や、ドミニクスの残虐さや、フランチェスコの卑し
さや、アントニウスの役立たずや、クリュソストモスの
一ぺージ︶ ﹁キュリロスの狂熱や、アタナシウスの頑固
罰を自分に課し、たびたび懲罰を自分に加えている。或
ないか。﹂ ︵一〇五ページ︶
を持てばよいというのか!﹂ ︵マ巽︶ ﹁彼らは下着も
る国では、通りの真中で公然と自分を鞭打つ始末だ。要
するに彼らは、誓約と誓願によって、けっして自分たち
のしあわせのために働かないことを義務づけられている
親が自分の子供を台無しにすることを強制されたり、修
﹁こうした︹修道院生活と独身︺無分別な習慣は、母
六一
軽はずみな誓いをくやんでももう遅い。なんの役にも立
﹁心身ともに成熟してから、遅かれ早かれ不.平を抱き、
のだ。﹂ ︵℃●認︶
i或る匿名作家の宗教批判 その二1
1論 文1
道士が自然に反する罪に身をゆだねたりすることの原因
六二
たぬ、自ら不毛な生活を選んだ者を忘れ去ることで、社
会は彼らに罰を下す。家族からも死んだものとみなされ
⋮:﹂ ︵一〇二ぺージ︶ ﹁独身は社会から人をへらし、
にしばしばなっている。﹂ ︵マ認︶ ﹁それは︹修道院生
活と独身︺人口に障害を設けることによって、社会の多
自然にさからい、人を放蕩に誘い、孤立させるもので・:
:::﹂ ︵一︵∪四ページ︶
数の成員を、完全に無用なものにしている。おまけにこ
れは、人類と自然を冒漬することなのだ。﹂
のぼっている。これに六〇〇万の不義密通の者を数える
全体の住民が一四〇〇万であるのに対して、五〇万人に
やイタリアの場合、修道士とか僧侶とかいうのはまさに
はばかるようなてだてしかない。スペインやポルトガル
を持つ。となると、はけ口は女郎買いか姦通か、言うを
﹁註⑬人間は所詮人間だから、独身者でも人なみに欲望
ことにすると、住民の一六分の一が、独身に捧げられて
淫乱の怪物である。これらの国で放蕩や男色や姦通があ
﹁註図フランスでは僧侶、修道士、修道女の数は、王国
いることになる。イタリアやスペインやポルトガルの場
﹁彼ら︹修道士と修道女︺は、自分自身に断食や難行
る。﹂ ︵P認︶
フランスよりはるかに多いと信ずることには理由があ
して認めることができようか。人間に自分自身を不幸に
﹁だが、わが身を破壊するような美徳を、理性はどう
なるはずであるが。﹂ ︵一六二ぺージ︶
なお、結婚を解消できたら、俗人の悪徳ももっと少なく
れほど広く行なわれているのは、独身者のせいなのだ。
や厳しい責苦を加えている⋮⋮こうしたことは、これら
させ、被造物が自分自身に責苦を加えるのを楽しげに眺
合、結婚を禁じられている人間の数は、割合でいけば、
敬神の徒輩が、一方では善性にみちあふれた神性を仮定
しながら、他方では残忍無比な神観念を心に抱いている ︸めているようなこの神を、良識はどうして認めることが
こと以外の何物をも証明しない。﹂ ︵マ3︶ ㎜できようか。﹂ ︵一〇一ぺージ︶
︵7︶
以上のような情況をつぶさに見てゆくと、原罪など問題ではなく、むしろ宗教が﹁自然に反する﹂道徳を強制して
いるがゆえに、人間の壊敗が生じていると考えざるをえない。現に一・先の対比で見たようにfもっとも壊敗した
道徳状態に陥っているのは、反自然的道徳を教えこんでいる当の僧侶の方ではないのか? みずからの教義の叛戻に
陥った僧侶ではないのか?
それではなぜキリスト教は、人間にこのような苦行や禁欲︵独身︶を命じているのだろうか。このように反自然的
な道徳を命じているのだろうか? それはドルバックも言うように、このような難行苦行が﹁天国への切符﹂だから
である。﹁超自然を誇る﹂キリスト教は、﹁肉の死﹂による魂の浄化!−1すなわち﹁第一の死﹂︵註山を参照︶を、﹁善﹂
と考えている。だからこそ﹁幾多のキリスト教徒が、⋮−生きんがための欲望をみずから拒み、飢えて死ぬにまかせ
ヘ ヤ ヤ う ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヘ ヤ ヤ ヤ ヤ や
かひどむ卦衝どいでぎた﹂のである。こうした苦行を支える思想も禁欲を支える思想も同一のものである。 ﹃コリン
ト人への第一の手紙﹄で言われるように﹁食物は、わたしたちを神に導くものではないし、食べても益にはならな
い。﹂それだけではなく結婚についても﹁男子は婦人にふれないがよい。しかし︹より悪い、より壊敗したII筆者︺
ヤ ヤ ヘ ヤ ヤ う ゐ ヤ ヤ つ
不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ自分の妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい。−⋮・以上
のことは譲歩のつもりで言うのであって、命令するのではない。⋮⋮わたしのようにひとりでおれば、それがいちば
んよい。しかし、もし自制することができないなら︹より悪い不品行に陥るよりは一 筆者︺結婚するがよい。﹂人口
ヤ ヘ う ヤ ヤ ゐ へ ヘ ヤ ヘ ヤ う ヤ
論者ドルバックならずとも、それではどうして人類は存続しうるのか、と﹁つぶやく人たちがいる﹂ ︵邦訳、教文社
i或る匿名作家の宗教批判 その二− 六ゴ﹂一
1論 文− 六四
刊﹃アウグスティヌス著作集﹄7、﹁マ三教駁論集﹂、二四六ページ︶のも当然である。もし人類が、すべて神を愛す
るがあまり、出家してしまい、肉欲を断ち、 ﹁肉につく﹂ ︵パウロ︶ことをやめ、霊をいとおしみ、神信心に邁進す
るならば駄現世は滅んでしまうだろう。人類の肉の部分は少なくとも滅んでしまうだろう。アウグスティヌスは言う。
﹁ああ、すべての人が⋮⋮そのことを欲してくれたらよいのに。そうしたら、神の国はもっとすみやかに成就し、
世の終わりは早まるであろう﹂ ︵邦訳、同書、二四六ページ︶。
あるいはまた﹃ヘブル人への手紙﹄では、 ﹁この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたち
の求めているものである﹂。
ここに﹁苛酷で横柄な扱いを受けた﹂ ︵ドルバック︶ユダヤ人が、復讐の念にかられてしるしたメシアによる現世
の破壊と﹁永遠の正義の王国﹂の樹立という終末観の名残り一たとえば﹃ヨハネの黙示録﹄1を見てとることは
たやすい。
結局のところ、難行苦行や禁欲︵独身︶などを勧める背景には、現世的なものに対する軽蔑、いやそれどころかそ
の破壊を望む牢固たる終末観が存在するのである。もとより、こうしたメシア待望は.魂の不死性を前提にしなければ
成立しえないi−だからこそ、啓蒙の宗教批判は、前世紀からの検討を受けつぎつつ、異教的古代の諸哲学者の言説を
かりて、この教義をも葬りさるのである︵たとえば匿名著作﹃物質霊魂﹄い、>Bo竃緯。ユ亀。におけるベールの﹃辞
典﹄を利用しての批判︶1が、他方では、 ﹁肉﹂や﹁質料﹂に対する軽視をも前提にしているのである。そして、
この両方の発想を、現世・世俗的なものを尊び、 ﹁肉につく﹂ドルバックや啓蒙主義者たちは、徹底的に斥けた。そ
れは、これほどまでに諸個人が現世で自信を持ってきたことの証左であり、人間社会の自律性の確立を特徴づけるも
ゐ ゐ ヤ ヤ ヤ ち ヘ ヤ う ヤ ヤ ヤ ヤ へ
のである。こういう社会的な裏づけを持っていたがゆえに、本論説の著者︵訳者も︶の問題意識は、いわば啓蒙の﹁世
ナチュラリズム
紀児﹂に共通したものと言えるのである。宗教道徳からの自立をなしとげた世俗道徳は、自然主義道徳としてみずか
らを主張する。その中心にすわる問題が結婚“独身の反禁欲主義的概念である。この点を見るために、同時代の他の
著作家の意見を瞥見してみよう。
O ﹃百科全書﹄と﹁独身﹂の項目
ドルバック男爵の﹃キリスト教暴露﹄に先だつこと五年ほどまえに書かれた﹃百科全書﹄の有名な﹁独身畠暮暮﹂
の項目は、男爵の親友ディドロの手になるものであるが、その自然主義道徳の主張と本論説やドルバック男爵の主張
とは、宗教道徳およびその中核をなす禁欲主義に対する批判の一点で、緊密に結びついている。もとよりディドロの
この項目は、それまでのディドロの主張を色こく反映したものである。フランコ・ヴェントゥーリは﹃百科全書の起
源﹄で言っている。
セ廿バ ナナユ弓リスム 、
﹁﹃独身﹄の項目︹同書、第二巻︺でも、あちこちでかなり独創的な自然主義に関する言及が見られるが 実はそ
れはすでにキリスト教的禁欲主義に反論するなかで示されていた主張をもう一度みごとに叙述したものにすぎない。﹂
︵邦訳、二二六−一三七ページ︶
﹃百科全書﹄のこの項目は、﹃︽百科全書︾の最初の三巻に関する或るフランシスコ会士の考察。出版者へのまえが
きの手紙を付す﹄勾駄8艮。霧α、昌宰雪9ω8冒ω貫一霧一︻9ω質。ヨ8お<o言日窃3一、両目旨一888麩8一﹄器
︵8︶
一〇洋器質警ヨぢ巴希窪×勘αぎ⊆βωo岳P一期餅で攻撃目標に仕立てあげられていたが、ゆえなしとしない。ディ
一或る匿名作家の宗教批判 その二− 六五
1論 二又− 六六
ドロは、この項目で、こんな主張をなしていたからである。まず、 ﹁独身は、三つの異なる面−一r、人類に対して
︵9︶
禦、社会に対して、㌍、キリスト教社会に対してという面から考察することができる﹂が、いずれにせよこれは、﹁禁
断の木の実﹂を食べたアダムとエヴァが﹁独身を破ったこと﹂にまで遡るほど古くからあるしきたりなのだ。アダム
ゐ ヤ
とエヴァの﹁独身がどれくらいつづいたか、などということを知るのは、好奇心にのみかかわる問題である。﹂ ﹁し
かし正確に言えば、生涯を通じて独身を守りとおした名誉を授けることができるのは、アベルひとりである。﹂いず
、、 ︵10︶
れにせよ神は人類に生めよ、ふやせよ、とお命じになり.﹁族長たちは妻をめとり、妻を与え、息子や娘を世に出し、
︵11︶
そうして死んでいった。あたかもこれほど重要な行為はない、とでも言いたげに。﹂同じことは﹁洪水後の最初の諸
世紀﹂について妥当した。 ﹁当時、子供が生めないことは、いわば両性の不名誉と考えられていたし、神の呪いのは
っきりしたしるしと考えられていた。⋮⋮独身はいわば自然に反する罪であった。ところがいまでは事態はもう同一
ヤ や
ではない。﹂ディドロは、美文学アカデミー会員モラン竃。﹃ぎの記述によりながら、長々と異教徒および旧約聖書
︵12︶
時代の﹁独身﹂の情況を述べたのち、まず、人類に対して﹁独身﹂が及ぼす影響を考察している。 ﹁考えにふけりが
ちで、優越も同等も劣等も知らず、情念がゆり動かすあらゆるものから逃れた、要するところ自分の種族から完ぺき
に孤立した存在﹂に﹁良いσ8という称号﹂を与えることはこのましくない。 ﹁どうしてこんな個人にこの称号が
︵13︶ 、 、
ふさわしいというのだろう。彼はその無為と孤独で、あれほど直接的に種族の破滅に傾いているではないか。種族の
保存というのは個人の大切な義務のひとつではないか。理性で物を考え、ただしい行ないをする個人はだれでも、自
︵14︶
然の権威に優越する若干の権威によって免除された場合を除いて、この義務を怠れば、罪人になるのではないか?﹂
人類の肉的絶滅と千年王国の到来を願うキリスト教道徳と、ここでディドロがデッサンした道徳とは、雲泥の差が
ある。地上での繁栄が、はなはだあやふやな未来における繁栄よりも重視されている。人類は、地上で、子々孫々、
さかえなければならぬのである。そのためには、﹁種族の保存﹂は万人の義務である。しかしここでディドロは注意ぶ
かくt検閲を考慮してt﹁自然の権威に優越する若干の権威によって免除された場合を除いて﹂いる。つまり、
僧族は除かれるわけである。もちろんドルバックの方は、委細構わず、明確に僧侶の独身に照準を合わせるが。しか
し、ディドロの﹁両性の自然な感情﹂の賛美と俗人の独身に対する非難は、啓蒙時代特有のナチュラリズムを示して
ハぬレ
いて、ペトレ閲。ωけみ神父の手になる﹁幸福﹂国9冨貫の項目︵第二巻︶と同様﹁同時代人を激昂させた考え﹂だ
ったことには変わりがない。そして、この時代においては、啓蒙主義者の共通目標はキリスト教道徳の射程を、当面
ハゆロ
は聖職者のみに限ることであったから一1この面でのたたかいにおいて、ディドロの思想は一時期、媒介環の役割を
ボ ン
果たしていた∼、宗教道徳と世俗道徳の接点に位置する﹃百科全書﹄の﹁幸福﹂や﹁良い﹂や﹁愛﹂や﹁快楽﹂、
それにこの﹁独身﹂の項目などは、かなり穏和な表現をとっていたにもかかわらず、同時代の慧眼な宗教人の検閲を
ハルレ
まぬがれるわけにはいかなかったのである。
ついでディドロは﹁社会に対する﹂独身の影響を考察している。ドルバックや本論説の作者とはちがって、ディド
ロは宗教の検閲を避けながら記述しているが、それでもなおかつ、その範囲内で、きわめて大胆な主張をなしている。
﹁宗教が神聖なものと認めなかった場合、独身は、われわれが示したとおり、社会に害を与えないでは、人類の繁
殖に反することはできない。それは、社会を貧しくし、社会を堕落させることによって社会を傷つける。それを貧し
ヤ ヘ ヘ ま ヤ
↑勢かというのは事実であって、なんら疑いようがない。一国家の最大の富は、臣下の数によるからである。商業に
おいて第一に必要な物の内に、手の数を数え入れなければならぬからだ。それに、新しい市民が、全員兵隊になった
−或る匿名作家の宗教批判 その二i 六七
1論 文− 六八
りすることはヨーロッパの平和的バランスからみて、不可能だし、治安から考えて怠惰に身をうずめることも不可能
う ヤ ヤ ヤ ヘ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヘ う や
だとすれば、彼らは、大地で働くか、マニュファクチュアを繁贈 せるか、船乗りになるか、のいずれかであること
にはなんの疑いもない。社会を堕落させるというのは、﹃法の精神﹄の有名な著者がまさしく指摘したように、結婚
できるのに結婚の回数が減ってゆくと、それにつれ結婚した人に害が及ぶのが自然のルールだからである。盗人の数
がふえれば、盗みの数がふえる道理で、結婚する入間が減れば、結婚における忠誠心も減ってゆくのが、自然のルー
︵18︶
ルだからである。﹂
ドルバックの人口論的視角が、啓蒙時代に共通するタームであったことがわかる。と同時に、ディドロもドルバッ
︵19︶
ク同様、婚姻に基づく﹁甘美な快楽﹂が、ヨーロッパ文明社会の﹁堕落、われわれの悪のもっとも豊かな源泉とな﹂
るのを防止するために、独身を非難していたことがわかる。のちにドルバックは言うだろう。
﹁自然の欲求を正当な形で正しく満足させることも、社会に人を供給することも、自分の扶養者を得ることも、結
婚によらない限りできない以上、結婚は非常に尊敬すべきものだし、キリスト教が美徳と称するあの破壊的な独身や
自ら選んだ去勢などよりはるかに神聖なものなのである。自然は、 あるいは自然の作り主は、快楽という誘いを使
って人間に繁殖をすすめているのだ。男には女が必要であるということをはっきりと語っているのだ。﹂ ︵﹃キリスト
教暴露﹄、一〇三ぺージ︶
以上のような積極的な結婚の勧めを、たとえばアウグスティヌスあるいは使徒たちの消極的な結婚の勧めと比較し
てみるならば、そこには原罪および来世の期待がまったく存在していないことがわかる。ここに登場する人間たちに
は、それゆえ比喩的に言えば、自然的快楽に﹁歯どめ﹂がかかっていないのである。それならば、風俗壊乱の元凶の
ひとつである男女のふしだらなまじわりは、現在よりもっとはびこるのではなかろうか? ドルバックやディドロが
考えていることは、まったく逆である。先程のテクストでディドロも一言うように、人間が積極的に結婚し、自然にし
たがって繁殖をつづけるならば、かえって性にまつわる乱行に﹁歯どめ﹂がかかるというのである。一言いかえれば、
﹁自然の法則﹂にしたがって生きてゆくぶんには、なんら不都合は起こらない。かえって、僧侶の﹁独身﹂のように、
﹁自然の法則﹂にそむいた行為をつづけるからこそ、僧侶たちが行なう公然・隠然たる放蕩がはびこるのである。そ
のことをドルバックは、ディドロより率直・単刀直入に語り、僧侶の堕落を公然と口にしていたことは、先に見たと
おりである。
いずれにせよ・検閲を考慮して書かれた﹃百科全書﹄の諸項目は、ドルバックのようにきわめて直截な無神論者の
目を経て読み取られるならば、世俗道徳のはっきりとした自立を宗教道徳との対抗において主張したものであること
が明らかになる。
さらにディドロは﹁キリスト教社会﹂との関係において﹁独身﹂を考察している。まず﹁神信心は絶え間ない注意
と肉体および魂の特異な純粋さを必要とするから﹂、どんな国民でも﹁家庭のわずらわしさから解放された﹂人間から
なる﹁隔離された団体﹂を持っている。しかしキリスト教社会では、もとをただせば僧侶の独身は﹁掟℃.ぴ。。冥。な
︵20︶
んぞではなかった。﹂原始教会においては﹁結婚した人間を司祭や司教に叙吊してもなにも困ったことにはならなか
っ輸。一ディドロは・これにつづいて聖職者の独身が、いっから決められたのか、ということに関するキリスト教史
的議論を長々と展開するが、それも﹁独身が規律象鴇旦ぎ。にしかすぎず﹂、 ﹁キリスト教にとって本質的な事柄で
はない﹂ことを証明せんがためである。このようなキリスト教へのディドロの容喙が、ジェズイットやジャンセニス
一或る匿名作家の宗教批判 その二一 六九
一論 文− 七〇
トの検閲をまぬかれなかったのは、当然の話ではある。まさに由々しいことだが、ディドロは﹁イエスHキリストの
︵22︶
掟﹂ではなかった﹁僧侶の独身﹂を廃止すると、どんな﹁得黒欝9鴨﹂があるかを、九点にわたって論じている。
①﹁四万人の司祭がフランスで八万人の子供を持ったとすると﹂フランス国家と教会は、それだけの数の忠実な
臣民と信者を得たことになる。
②聖職者は品行方正な﹁夫﹂になるだろうから、﹁四万人の女性﹂がしあわせになる。
③独身はなかなか﹁守りにくい﹂ことなので、教会を騒がせているふしだらな僧侶の﹁スキャンダル﹂が、結婚
によって解消され、教会のプラスになる。
④僧侶は、﹁自分の妻や子の欠点に我慢﹂しなければならないが、それは﹁肉の誘惑﹂に耐え忍ぶのに匹敵する。
ヘ ヤ
⑤ ﹁結婚の雑事に耐え忍ぶ人にとって、そのわずらわしさは、有益﹂だが、 ﹁独身から来る難儀は、だれにとっ
てもプラスにならない。﹂
ヤ ヤ
⑥ ﹁有徳な家庭の父﹂たる司祭は、 ﹁独身を実行する司祭より、世の中の役に立つ。﹂
⑦独身を守るのにせい一杯の聖職者は、﹁この面で非難されなかったとしても﹂、世の中の人びと全部を﹁満足
させたとは思わないだろう﹂から。
︵23︶
⑧ 僧侶が結婚すれば、その分だけ租税収入がふえる。
⑨ 貴族は自分の子孫を﹁司教の家系の内に見いだす﹂ので、貴族の血筋が断絶することはなくなるだろう。
見られるとおり、これらは実に世俗的な理由であって、ここには﹁原罪の母斑﹂など存在しない。ディドロによれ
ば、以上の点はすべて、サン”ピエール師の﹁覚書を分析した﹂結果だそうだが、ここにディドロ自身のナチュラリ
スム、反禁欲主義の傾向を看取できない人は恐らくいないだろう。おまけに、このサンnピエール師の﹁覚書﹂なるも
のが、 ﹁不良な写し﹂の﹁オランダでの版﹂であってみれば。ところで、ディドロのこのナチュラリズムであるが、こ
うつ
れはドルバックの自然主義とかなり趣を異にしており、その対象も射程も両者の間できわだった相異を示している。
ドルバックの自然主義は、キリスト教道徳の反自然主義に反対する限りにおいて、きわめてラディカルなものである
が、ディドロのそれは、たんにキリスト教道徳だけを問題にしているのではなく、 ﹃ブーガンヴィール族行記補遺﹄
に見られるように、人間の自然的生活への掛け値なしの賛美を伴っている点で、例の﹁善良な未開人σ9ω窪く囲Φ﹂
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ピ
というラ・オンタンピ四コ。葺昏男爵風の!一のちに論ずるーープロブレマティックに通じているのである。この
点をB・グレトゥイゼンは﹁ブルジョワ精神の起源﹂とかかわらせて、非常にうまく説明している。
ジャンセニストは﹁原罪こそ宗教全体の鍵である﹂と思っていたが、十八世紀の﹁世紀児はアダムなどまるで存在
しなかったかのように考え行動する﹂のだ。人間が﹁罪びとになるのは罪を犯す機会が生じた場合だけで、特定のケ
︵蟄︶
ースに限られる。﹂それゆえ、有史以来、人間性の内に書きこまれたアダムとエヴァの原罪が問題なのではなく、い
わば決疑論者が言う﹁罪﹂のみが問題なのだ。 ﹁それ以外の時は﹂キリスト教徒といえども﹁天国と地獄、愛徳と欲
情の中間で﹂世俗的な暮らしを営むことができる。人間がここで獲得した﹁自由﹂は、過去数百年にわたって、かまび
すしく論じられてきた﹁恩寵と自由意志﹂のプロブレマティックが一定のバランスを見いだしたことを示している。
だが﹁世紀児﹂は、 ﹁日常のささやかな快楽にふけるだけで悪と名のつくものは何もしていないような場合に、神が
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ︵25︶
自分を放任することだけ﹂を求めるのではない。 ﹁一歩進んで、こういう楽しみに神が自ら加わること﹂を求めるの
である。
一或る匿名作家の宗教批判 その二一 七一
1論 文1 七二
このグレトゥイゼンの指摘は、ディドロの場合によくあてはまるように思われる。ディドロが、僧侶に婚姻を勧め
るのもこうした背景があったからである。神をも自然生活に誘おうとする、この不敬虔で大胆な企てードルバック
へ ヘ ヤ う
は、このような志向をいささかも持ち合わせていない。私見では、ドルバックとディドロの自然主義の相異は、グレ
トゥイゼン言うところの﹁ブルジョワ精神﹂の相異に根ざすと思われる。ドルバックの敵は、明確に寄生階級たる
ヤ ヤ
﹁役立たずの﹂僧族である。だが、ディド・の敵は、それのみではない⋮⋮。
ヤ ヘ
さらにディドロは﹁聖職者に婚姻の自由を回復させる手だて﹂について論じている。ここでもディドロはサン”ピ
エール師に藉口して、 ﹁聖職録の世襲制﹂の弊害を説いて、 ﹁自分の教区と善良な臣民のことを知悉しておられる司
教様なら、空席に、一群の家族や利害を共にする友人たちにしつこくつきまとわれて、息も絶えだえの聖職者を任命
してくださる﹂だろうと、不敬虔な言辞を吐いている。
︵26︶
最後に、ディドロは、例のエコノミスト・ムロンζo一8と口裏を合わせるかのように、修道士の独身について、
︵27︶
まず王権との関係で論じたのち、三点にわたって独自の見解を示している。
ヤ ヘ ヤ ヤ ヘ
エスプリ
①独身は独身者の団体が伸張するにしたがって﹁有害なものになりうる。﹂
②﹁精神に語りかけるべく作られる人間の法は、掟と勧告を与えなければならない﹂が、﹁心情08瑛に語りか
けるべく作られている宗教は、勧告を数多く与えなければならぬ﹂。しかも﹁掟の数は少なければ少ないほどよい。﹂
つまり、宗教は世俗の事柄の﹁善悪﹂について、ああした方がよい、こうした方がよい、とは言えるが、掟として、
法律としてそれを押しつけるのは.ごめんだ、というわけである。独身も同じでんで、 ﹁キリスト教の勧告にすぎなか
った﹂独身が、 ﹁明白な法律になった﹂途端、この人間性に反し・自然に反するルールを守らせるために、立法者や
クリ マ
社会は﹁疲弊してしまった﹂のである。
③ヨーロッパの気候から見て︵モンテスキューに影響された議論︶、独身を守るのに適している国と、そうでな
い国があるのを勘案すべきだ。 ﹁独身は住民が少数の国では認められるべき﹂だが、多数の住民を抱える所では、
﹁拒否されるべきだ。﹂
以上でディドロの論述は終わっているが、ドルバックまたは本論説の著者の自然主義とディドロのそれとの共通項
と相異はおのずと明白であろう。そして、この﹁共通項﹂は、啓蒙の世紀の思想家たちの﹁共通項﹂でもあったこと
を見るには、たとえば、この時代でもっともマイナーな存在であったモレリ蜜。お一マの主張 これまたのちに述
べるラ・オンタン男爵の旅行記に影響されていることは確実だと思われるが を簡単に見ておくことが有益だと思
われる。一七五五年の主著﹃自然の法典﹄のなかでモレリは市民の結婚を義務づけてすらいる。
ヘ ヤ ヤ ヤ ヘ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヘ
﹁婚姻法一あらゆる放蕩豪富8箒を未然に防ぐ
一、すべての市民は、結婚適齢期に達するとすみやかに結婚しなければならない。なんびともこの法を免除されな
︵28︶
い。ただし自然が、または健康がそれを妨げる場合は除く。独身は四〇歳以上の人にのみ許される。﹂
さらに、カトリシズムでは離婚の自由が認められていないが、モレリの描くユートピアでは﹁結婚後一〇年たてば、
︵29︶
離婚は両方の、または片方の同意で許される﹂ことになっている。そして刑法の三番目に﹁姦通罪﹂が挙げられてい
るくらいだから、この自立した世俗道徳の王国を維持するうえで、いかに婚姻が重視されていたかがわかるとともに、
︵30︶
この啓蒙の﹁世紀児﹂たちが、しばしば﹁風俗壊乱﹂の罪で告発されたこと、そして世間に自分たちの世俗道徳がい
かに一宗教道徳に劣らないくらい 健全でまっとうなものであるかを示すのに腐心していた有様が手に取るよう
1或る匿名作家の宗教批判 その二一 七三
!論 文1 七四
にわかるのである。
いずれにしても、ディドロやドルバックやモレリの﹁自然道徳﹂は、人間の本性の壊敗を認めないで、むしろ宗教
道徳の不自然さを告発し、新時代の道徳を建設するための布石であった。そして新時代の道徳のひとつのキー・ポイ
かなめ
ントが、独身の問題であったのだ。なぜなら﹁肉﹂をいやしめ、 ﹁霊﹂を尊ぶキリスト教道徳の要石をゆり動かすの
は、古来より教義・教説ではなく人間自身の﹁肉欲﹂−一とりわけ性欲の自由奔放な発現であったからだ。すでに前
世紀にピエール・ベールは言っていた。
﹁キリスト教徒なら誰でも、淫蕩が神の掟で禁じられているのを認めますし、教会もたえずそのことを説いていま
す。にもかかわらず、その面で非の打ちどころのない男など百人に一人もいるかどうかわかりません。:⋮ドイツで
は或る時期、司教に年額いくらの貢納金を納めさえずれば、司祭でも修道士でも女を囲うことが許されました。そう
いう恥ずべき寛容は、⋮⋮堅気の女に手を出すのをそれで防ぎ、亭主たちの不安を鎮めようとしたと見るほうが真実
に近いでしょう。⋮⋮ここから必然的な結果として、宗教は情念を抑える歯止めになれないと言うのが正しいことに
ヤ ヤ ヤ ヘ う ヤ ヤ ヤ ヘ ヤ ヘ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や
なるからです。﹂︵邦訳、野沢協訳、法政大学出版局刊﹃ピエール・ベール著作集﹄第一巻、 ﹃彗星雑考﹄、二五八と
二六一二ページ︶
宗教が、啓蒙の世紀に人間の情欲を抑える歯止めになれないとすれば、 ﹁淫蕩の快楽に支配される人のほうが人殺
しの快楽に支配される人よりくらべものにならないほど多い﹂ ︵前掲書、二六六ページ︶とされるこの性欲にひきず
られた人間を、いったいなにが規制できるというのか? 法律であろうか? 少なくともモレリの解釈では、法律は
なにがしかの規制力を持っているが 一であればこそ彼は﹁法典﹂Oo号を書いたのだ−⋮−、しかしモレリでさえ、
この法律にかかる用語として﹁自然﹂Z讐葺。を選んでいるではないか。人間の自然︹本性︺にかなわぬ法や宗教に
ヤ う ヤ ヤ ヤ
は、ユートピアを規制する力はない。いや規制というよりはむしろ、人間的自然は、ほうっておいても乱脈に走るこ
もから
とはないのだ一これがおおかたの啓蒙主義者の意見であった。宗教に変えて自然を持ってくるこの大規模な変換の
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ゐ ヤ ヤ ヤ う ヤ ヘ ヤ ヘ ヘ ヤ ヤ ヤ ヤ や
みが、前世紀で理念的に設定された﹁無神論者からなる社会﹂の現実的な確立を許すであろうが、この変換のプロセ
ヤ ヤ ヤ ヘ ヤ
スを鮮やかに示すのは、まさに宗教と自然とを一体化した自然宗教という啓蒙のテクニカル・タームである。この自
ヤ ヤ ヤ
然宗教において、ラディカルなドルバックやディドロと比較的穏和なヴォルテールとが結びつきえたのは驚くにたり
ない。なぜならそれは、宗教から自然へむかうプロセスの媒介環であったからである。この意味では、次章で扱うラ
・オンタン男爵もこの媒介環を中心にしながら自然主義道徳を文明人に紹介してみせるのである。それでは、啓蒙主
ヤ ヤ
義者はいったいどうやってこの大切な・不可欠な媒介環を発見したのであろうか? 虚構の自然状態を設定すること
によってか? いやそうではない。彼らは現実に存在した自然状態 つまり宗教の自然状態たる自然宗教︵アニ、・、
ヤ ヤ ヘ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヘ ヤ や
ズム等々を含む原始的宗教︶や自然人11善良な未開人を目で見たり、話で聞いたりしたのだ。そして、こうした事実
ゐ ヤ ヘ ヘ ヤ ヤ ヘ う ヤ ヤ ヘ
を利用して、モンテーニュ 冨8$茜器の第一次﹁ルネッサンス﹂をもう一度やり直すのだ。
つ ヘ ヤ ヤ う ヘ ヤ ヤ つ ヘ ヤ カ ヤ ヤ ヤ
﹁新大陸の国民について私が聞いたところによると、そこには野蛮なものは何もないように思う。⋮⋮だがあの新
う ヤ
大陸にもやはり完全な宗教と完全な政治があるし、あらゆるものについての十全な習慣がある。彼らは野生である。
われわれが、自然がひとりでに、その自然な推移の中に産み出す成果を野生と呼ぶのと同じ意味において野生であ
る。:⋮前者の中には真実のきわめて有益で自然な徳行や特性が濃刺として逞しく生きている。﹂︵邦訳、原二郎訳、
ヘ ヤ ヘ し う ヤ ヤ ヤ ゐ ヤ ヤ ヘ ヤ う ヘ ヤ ヤ ヘ ヤ ヤ う や
岩波文庫版﹃エセー﹄e、三九八ぺージ。強調符は筆者︶
1或る匿名作家の宗教批判 その二一 七五
t論 文一 七六
このモンテーニュの驚き、野生の賛美をひきつぎ、ヴォルテールは、フランスという﹁文明社会に﹂ラ.オンタン
男爵の賞賛してやまぬカナダのヒュロン族の自然人い、ぼ鷺窪を登場させて、第二次﹁ルネッサンス﹂に華やかな彩
りをそえる。
﹁︹恋愛には︺だれの同意も必要じゃないし、やらなくてはいけないことをだれかほかの人に、やってもいいかと
聞きに行くことほど滑稽な話はないと思います。両者が意気投合すれば、おたがいのつきあいに第三者は余計です、
と璽び、粛粛、町パは答えた。﹃僕はだれにも相談しませんよ﹄と彼は言った。﹃僕が朝食をとりたい、狩に出かけたい、
ねむりたいと思ったときには。僕はよく知っています。恋愛については同意がほしいと思う相手からそれを得てもわ
るくはないってことを。でも僕が好きになったのは、叔父でもなければ叔母でもないんです::−﹄﹂︵<〇一富マRい、H口−
懸口Fきカ。ヨ彗ωgOo旨02&三8αo中国ぴ轟p評ユω﹂89も・8S︶
このような自由恋愛の主張と文明社会とを両立させるためには、啓蒙主義者は人間と自然のかかわりあいをつっこ
んで検討してみなければならなかった。でなければ、啓蒙の社会は、淫蕩と無秩序のはびこる世界になってしまうだ
ろうから。
日 禁欲・独身と﹁善良な未開人﹂
ヴォルテールは、一七六一年に起こったプロテスタントのジャぞカラス迫害事件に想を受けて、﹃寛容論﹄↓轟一鼠
ω霞﹃8一警雪8しみ蝿を書いたが・そのなかで・のちに述べる蹴轡にかかわる諸論点を、世界的規模Uo蚕8示−
︵32︶ ︵33︶ 、
屋暑。琶貯震器幕で語ろうとして、中国︵当時の清王朝、康煕帝の治世︶にキリスト教の三派を集め、おたがVに
︵討︶
論争させるシーンを設定している。広東の進士ヨ雪α貰﹃の面前で、デンマークの牧師とバタヴィア︹ジャカルタ︺
の牧師とイエズス会士が、喧々囂々、口角泡を飛ばして論争をかわすわけだが、そもそものはじまりは進士の隣家で
彼らが﹁大騒動﹂をやらかし、 ﹁殺し合いをやっている﹂のではないかと進士に気をもませたことにあった。このす
さまじい論争の発端は、イエズス会士の言ではトリエント公会議決定に二人が従わなかったことにある。両人ともに
プ・テスタントであるから、トリエント公会議決定に従わぬのは当り前だが、進士にはそのことがわからない、無邪
気な進士は、 ﹁三人ともキリスト教徒ではないのですか﹂と問い、 ﹁したがって同じドグマを持つはずではありませ
んか﹂と言うが、イエズス会士によって﹁やつら二人は不倶戴天の敵なんだ﹂といなされてしまう。こうして、三人の
宗教人は、それぞれのドグマを主張し合い、互いに譲らない。仲裁に入ろうとした進士は﹁ここであなたがたの教義
を寛容してほしいと思うのなら﹂まず自分からすすんで寛容の徒になることからはじめなさい、と説いて聞かせる。
以上のエピソードには落ちがついていて、イエズス会士が進士の家を出るとひとりのド、・二一コ会士に出くわし、ここ
でもまた喧嘩をやらかす。そして二人とも投獄されてしまうのである。もちろんヴォルテールのこのくだりに、深刻
な教義論争の内容がとりあげられているのでもなければ、寛容をめぐる命がけの前世紀のたたかいが反映されている
のでもない。軽妙洒脱にエスプリをきかせながら、三人の宗教狂信者を茶化しているにすぎない。そのことは、時代
の変化を示している。前世紀末、ユグノーに対するルイ大王の大弾圧の真只中に書かれた﹃︿強いて入らしめよ﹀とい
うイエス・キリストの言葉に関する哲学的註解﹄および﹃補遺﹄における類似した設定の箇所を拾ってみるだけで、
時代と力関係の変化は鮮やかである。啓蒙の理性という勝ち馬にのったヴォルテールとユグノーといういわば負け犬
の側のポレミストとでは、トーンに違いが出てくるのも当り前である。ヴォルテールは進士に﹁仲裁者﹂、﹁裁判官﹂
1或る匿名作家の宗教批判 その二− 七七
一論 文− 七八
になってもらおうとするのだが、まったく同じ設定が、 ﹃補遺﹄に見られる︵邦訳、四五八ぺージ以下︶のは驚きに
ヤ ヤ ヤ ヤ う ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ う ヤ ヤ ヤ ヤ ゐ ヤ ヤ ヤ ヤ ゐ ヤ ヤ ヤ う ヤ ヘ ヤ
ゐ ヤ ヤ ヤ ヘ ヤ ヘ ヤ ヤ ヘ ヘ ヤ ヤ ヤ ゐ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ う ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヘ ゐ ヤ ヤ
値する。そしてここでの描写は、あくまで宗教論争に忠実であろうとしている点で、まじめで堅苦しく、それだけに
裁判の法廷における審理を髪髭たらしめる証拠の呈示合戦の様相を呈している。
まず、オランダの牧師と宣教師が﹁審判者﹂であり﹁裁判官﹂であるシナ人の前で、キリスト教の﹁基準﹂をめぐ
って教義論争を繰り拡げる。前者は聖書を、後者は聖書プラス伝承を基準に立てる。それから﹁教会の権威をめぐる
論争﹂、に移行する、やがて両派の蛮行の暴露合戦に火がつく。 ﹁この争いを裁くべきシナ人はどういう状態に置か
れるだろうか。因りはてるにきまっている。⋮⋮どう見ても間違いないと思われることしか判定すまいとしたら、シ
ナ人はその論争に決を下すのを完全に放棄する可能性が強い。﹂論争はつづく。化体というプロテスタントに強味の
ある問題をめぐってである。ここでも決着がつかないのでシナ人は﹁言いぶんは文書で提出してくれと双方に言うだ
ろう﹂し、 ﹁しちめんどくさい争いからできるだけ早く解放されたいと思﹂い、 ﹁君らはシナ人を一人も獲得できま
せんよ。理性だけを使うかぎりは。また皇帝が、互に監視しあう牧師と宣教師を通じてしかキリスト教を信奉しては
ならぬと全臣民に命じるかぎりは﹂と断をくだして、このシーンは終わることになっている。結局ベールの判断で
は、わざわざシナまで出かけていって、醜態をさらすより﹁ここでじっとしていたほうがいい﹂というのである。だ
が、ベールがもてる知識を動員して一どこででも、そしてこの箇所においても一立論と対論を丁々発止噛み合わ
せている様子は、ポレミストの面目をうかがわせるにたると同時に、逆にベールの異国への関心は、ヴォルテールの
ように世俗的な衝動に由来するのではなく、純宗教的衝動に由来していたことがわかる。つまり、ヴォルテールにあ
う ヤ ヤ や
っては、そして啓蒙主義者にあっては、聖と俗の一般的な対立が意識されていたのに対して、ベールにあっては、あ
ヤ や
くまで宗教Hキリスト教の枠内での対立が意識されていたということである。したがって、ピエール.ベールに代表
、、 、︵35︶ 入ルス
される前期啓蒙の伊とつひ流れと最盛期の啓蒙とは、形式こそ共通しているし、前者を後者の﹁源泉﹂と見なすこと
はできないわけではないにせよ、内容的には、或る点では、両者の間の﹁切 断﹂を含んでいるわけである。もちろ
リユプナユ ル
ん形式といっても、シーンの設定といった狭い意味でしかないが。慧眼にも野沢協氏が言われるように﹁寛容原理が
まさにベールの意図どおり宗派を降かか知的世界を獲得し、劇論︹!i1筆者︺の一部となったその瞬間に、それが
ベール自身において当初そなえた︹生きるか死ぬかの一−筆者︺強烈な当事者性と、またそれゆえの厳しさ険しさを
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヘ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
ヤ ヤ う ヤ ヤ ゐ ヤ ヤ う ヤ ヤ ヤ ヤ ゐ つ ヘ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヘ
失って、いわばその圭角をことごとくそぎ落とされてしまったことも、この理念の勝利のためにはおそらく避けがた
いことであったろう。﹂ ︵邦訳、﹃寛容論集﹄、九二二ぺージ。強調符は筆者︶
寛容問題については、機会をあらためて、本論説の主張とのかかわりあいで、もっとつっこんで論ずることにする
が、いずれにせよこのようになかばドグマの揶揄を狙い、硬化した宗派同十一の論争のむなしさを訴えようとしたヴォ
ルテールの記述が、中国という動因で展開されていることには、興味津々たるものがある。のちにドイツの啓蒙主義
者レッシング一〇ωωぎ閃が﹃賢人ナータン﹄Z㊧浮きαR≦色器﹂ミ9でアラビアの宮廷を設定することで世界的寛
容iユダヤ教であれ、キリスト教であれ、イスラム教であれ一を主張することにも見られるように、このような
諸宗教・諸宗派の架空討論というテーマは、多くの啓蒙主義者にとって寛容を主張するうえで便利なテーマであっ
た。いわば中立・公正な不偏不覚の人物を設定して、その面前で同じひとつ︵であるはず︶のキリスト教の諸セクト
ヤ ヤ つ
に角突き合いをさせるシーンは、宗教の教義のおろかしさを揶揄しょうとする作者にとっては、その効果を強めるた
︵36︶
めの一手段であったのだろう。だが、この効果が倍加するのは、未開人を宗教論争の観察者に仕立てあげる時である。
1或る匿名作家の宗教批判 その二一 七九
一論 文一 八○
前世紀のリベルタンや旅行者や宣教師は、このような未開人の習俗についておびただしい情報をもたらしたが、それ
とともにキリスト教の相対化がすすみ、理神論や無神論の前進をうながした。そして未開人の宗教すなわち自然宗教
一節器凝一〇量目ε希幕という言葉は、啓蒙の世紀の流行語となるに至った。ジョン・ロックのように未開人の生態を
哲学的な経験論の諸テーゼを支えるひとつの柱に利用した者もいれば、 ﹁天国を万人に開放﹂すべく、新時代の新し
い宗教教義を模索した者もいた。東アジアや新大陸へ宣教の旅に出たイエズス会士たちは、さまざまな類の自然宗教
に出くわし、あるいはその奇妙な習俗に吃驚し、あるいは自らの偏狭な︵ユダヤ教伝来の︶ドグマを弛緩せざるをえ
なくなったろう。いずれにせよ、十七世紀末から十八世紀にかけて、未開人の存在とその風俗は、ヨーロッパに強烈
ヤ う へ
なイン。ハクトを与えたのである。J・ヴァルローは言っている。﹁成る時代の社会に、外国人とくに﹃未開人﹄を導入
しようというアイデアは、ヴォルテールの時代には巷間に流布していたやり口である。﹂︵<oH鼠罵9ゼ、冒職ロFR争
齢89コ08のO巽一8口く畦δoき℃露量ご㎝9戸N9︶ この流行に拍車をかけたテクストのひとつが、 ヴォルテー
ルの﹃生のままの人﹄のたね本になったラ・オンタン男爵︵一六六六1一七一五︶の﹃著者と旅行経験を持つ良識のあ
き
る未開人との奇妙な対話﹄8三甲︾弓旨きα留一〇Bα.>旨ρσ口δコ鍔留=9壁貫O巨。αqロ$2ユ。長〇三審一.窪・
括目9仁口器薯夷。牙σ8の寄島〇三四<o旨鳳﹂ざ9であった。 ここでもまた、キリスト教の教義や実践が、
いかに自然理性には理解しがたいものであるかが、直截に指摘される。自然理性を具現した存在に仕立てあげられた
カナダのケベックに住むヒュロン族の未開人アダリオの口をかりてである。とりわけ興味ぶかいのは、事ある.ことに
ラ・オンタンがキリスト教の教義を順守しなければ、 ﹁地獄に堕ちる﹂、﹁永劫に焼かれる﹂と脅迫するのに対し、ア
ダリオが冷静沈着に自然宗教を説いていることである。それどころか、ラ・オンタンの論法を逆手にとって、ヨーロ
ッパ文明世界の実相をあばきたてていることである。
﹁ラ・オンタンーおまえは緒蛮勇をごまんと使って粗野な体系目撃ω串ヨ。のき毒鴨を作ろうとしたが、そい
つにはなんの意味もないのだぞ。もう一度おまえをしっかりした理由で説得しようとしても、おまえが理解できない
のでは仕方があるまい。おまえをイエズス会士たちにゆだねることにしよう。
しかしたいへん簡単でおまえの頭の範囲内にあるひとつのことだけは、おまえに考えてもらいたい。偉大な精霊
一〇の量且田實一け︹アダリオの説く自然宗教の神性︺のみもとへ行くには、おまえが否定する福音書の偉大なあの真
う ヤ ヘ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヘ う ヤ ヤ ヤ ヤ ゐ ヤ ヘ ヤ ヘ ヤ ヤ ヤ ヤ
理を管勢かだけやゆたりないのだぞ。そこに含まれている法の命令をまちがいなく守らねばならんのだ。つまりだt
1偉大な精霊だけを崇めること。大切なお祈りの日には働いてはならん。父と母を敬え。娘たちと寝てはならんし、
あや
婚姻の目的以外に娘たちを望んではならん。人を殺めたり、人に殺させたりするな。兄弟の悪口を言ってはならんし、
嘘をついてはいかん。結婚している女には手を出すな。兄弟の財産に手をつけるな。イエズス会士たちが指定した日
にミサへ行け。一週間の内、幾日かは断食しろ一というのは、おまえはわしたちのように聖書にのっていることを
全部信じ、そこに含まれている掟を信じてもだめだからだ。それを守らねばならん。でなければ死後も永劫にわたっ
て焼かれるぞ。
アダリオ∼ああ! わが親愛なる兄弟。僕は君がそう言うのを待っていました。本当の話をするとね、僕はずい
ぶん前から君がいま説明してくれたことを全部知っていたんですよ。あの福音書という本のなかには、理屈に合った
ことがあるし、いまのような命令ほど正当でもっともなことはないと思います、君もいま言ったとおりです。もしこ
れらの命令を実行せず、命ずるところをきちんと守っていかないなら、福音書を信じ、信仰したってむだなんです。で
1或る匿名作家の宗教批判 その二− 八一
i論 文1 八二
もどうしてフランス人諸君は、これらの掟を馬鹿にしながら、これを信じているんですかね?、これは明々白々たる矛
盾じゃありませんか。だって、1、偉大な精霊を崇るといったって、あなたがたの行動には、その痕跡もないじゃあ
りませんか。この崇拝というやつは僕らをだますためのもので、口先だけのことになっていますよ。たとえば僕は毎
日のように商人たちがこんなことを言いながら僕らのビーバーの毛皮をあきなっているのを見ましたよ。 ﹃俺の品物
はとても値うちがあるんだ。俺が神様を崇めるぐらいにこいつは本当なんだ。俺はおまえと取引すると損をする。神
様が天国にいらっしゃるのと同じくらいにこいつは本当なんだ。﹄ でもなぜそんなにすばらしい品物なら、それを供
物として神に捧げないんですか⋮⋮n、大切なお祈りの日に働くことについて言うとね、僕にはとてもあなたがたが
ほかの日とちがったことをしているとは思えないんです。僕は、フランス人が毛皮をあきなったり⋮⋮するのを二〇
回も見たんですからね。皿、父を敬うことについて言うとね、あなたがたのあいだでは、父の忠告に従うのは、奇妙
なこととされていますよ。それにみなさんは父が飢えても平気、父とは離れて別の家を作っているじゃありません
か。・:⋮あなたがたが父に望んでいらっしゃることは、死ぬことだし、その死すら待ち切れなくなっているじゃあり
ませんか。W、性欲を断つことについて言うとね、イエズス会士があなたがたのあいだでは、とくにそうしている人
といわれてますがね。いったいこの人たちは一度でもそれを守ったことはありますか? あなたは見ていないとでも
おっしゃるのですか? 毎日のようにお宅の若い連中がプレゼントで私どもの嫁や妻を誘惑しようと野原まできて追
っかけまわしているじゃありませんか? 毎晩■のように私どもの村で、一軒一軒尋ね歩き、彼女らを堕落させようと
走りまわっているじゃありませんか。君は知らないんですか? どれぐらいのトラブルが部下のあいだで起こってい
るかを。V、殺人といったって、あなたがたのあいだでは日常茶飯事になっていますよ。⋮⋮W、兄弟の悪口を言う
な、嘘をついてはいかんとおっしゃいますが、あなたがたは、飲み食いするほどにもこれを控えておられないようで
すよ。フランス人が四人集まれば必ずだれかの悪口を言っているのが私の耳に何度も入りました⋮−血、結婚してい
る女に手を出すなとおっしゃいますが、あなたがちょっと一杯ひっかけたときに話してくれることを聞いてりゃいい
んです。だれだってこの話題についてはごまんと話を知っているんですからね⋮⋮皿、他人の財産に手をつけるなと
いったってどれほどここで盗みがやられたかご存知ですか⋮凪、わけもわからない一一一一口葉に耳をかすために、、、サへ行け
というのでしょうが、そりゃなるほどフランス人は、よくミサに行きますがね、あの人たちはそこでお祈りとはまつ
パのロ
たく別のことを考えるために行くんです。﹂
アダリオは、ざっとこういうスタイルでラ・オンタンという文明人とその社会を直蔵に批判するわけだが、もちろ
んこのようなキリスト教徒と僧侶の悪行列挙は、ピエール・ベールがーカトリシスム批判をライト.モチーフにし
ながらt−もっとも得意とする分野であった。しかしラ・オンタン男爵は、明らかにベールの影響を受けながらも、そ
こに新しい。実在性を持った自然宗教という基本的な変換されたファクターを導入したのである。こうして描き出さ
れるキリスト教徒の禁欲主義道徳と世俗人や宗教人によるその破戒との対比は、新鮮で効果にとんでいる。それは、
キリスト教徒の行ないに対比されるのが、虚構の論理たる﹁有徳な無神論者﹂などではなく、なにがしかの実在性が
ヘ ヤ ヤ
読者には感得される新世界の住人すなわち﹁善良な未開人﹂だったからである。ヨーロッパの人びとが慣れ親しんで
いた﹁ギリシアHローマの古典﹂での話でもなければ異教のめずらしい話でもなく、 ﹁自然人﹂というきわめて珍奇
で読者の関心をひかずにはおかぬ現実存在だったからであるーフィ・ゾーフの敵パリソ勺担=..。けのあの諷刺劇の
ことが思い出される。この実在性は意外に重要なファクターで、前期啓蒙をわける境界線のひとつと考えられる。た
一成る匿名作家の宗教批判 その二一 八一一一
1論 文− 八四
しかにピエール・ベールは、前世紀に痛烈に僧侶の悪業や宗教行事の形骸化を暴露した。﹃彗星雑考﹄はその目録と
でも称すべきものであった。だが、ベールのこの暴露はその対極に新しい実在性“肯定性℃oω三≦獄としてなにを
ポジティヴ ネガティヴイテ
置いていたのか? 字義どおりの意味での一それゆえに固陋なと称すべきープロテスタンティスム以外のなにか
を積極的に置きえただろうか。この意味では、啓蒙の世紀は、ベールの否定性の鋭さを存分に利用しながらも、新し
い実在性“肯定性すなわち自 然をこのように積極的な形で設定しえたのであった。現実的には実在し、概念的には
ナチユエル
自然を充填された未開人を対極においてのキリスト教批判というスタイルを採用すれば、とかく論争を惹起する古典
に基づく批判よりも、はるかに手っとりばやく自由に、リアルに批判を展開することができるであろう。いま見たよ
うにラ・オンタン男爵は、アダリオの口をかりることによって自由自在に言いたいことを言っているが、リアリティ
ーのほうは旅行記という手法をとることによって確実に保証されているわけである。こうして、逐条的なキリスト教
徒の言行不一致目録をアダリオの口をかりたラ・オンタン男爵は、次のような会話でしめくくるのである。
﹁結局、わが親愛なる友よ、あなたがたフランス人はみんなこうおつしゃる。わしたちは信仰を持っておる、と。
でもあなたがたはなにも信じてはおられないんです。あなたがたは分別ある人に見られたがっていますが、実は気ち
がいなんです。自分たちのことをエスプリのある人間だと思っておられるが、実はとんでもなくうぬぼれの強いうっ
け者なんです。﹂
︵38︶
このような告発に対してラ・オンタンは無力にも﹁おまえは正しいと打ちあける﹂にとどまり、 ﹁いくら君たち未
開人の汚れなさをほめてもほめきれない﹂などと賛美すらしている始末なのである。
︵39︶
さてここから、このアダリオの住むユートピアに藉口した禁欲と独身に対する批判が開始される。恐らく﹃宗教の
残虐さについて﹄の著者もこの種の議論籍通していたにちがいない.ここにはう.オンタンから﹃百科全書﹄の諸
き
項目を経て﹃宗教の残虐さについて﹄−さらにはヴォルテールの﹃生のままの人﹄、ディドロの﹃ブーガンヴィル
旅行記補遺﹄につながる自然道徳賛美の野太い一線がうかがわれる。
ラ・オンタンは言う。 ﹁君たちが天国へ行くには、たったひとつのりこえなければならぬ困難がある﹂、それは乱
婚だ・と・けだし﹁偉大慧精善、死または姦淫だけがこの結びつき︹婚姻︺を断ち切ることができる、と、一一一。いた
もう総からだ・これに対してアダリオは﹁私たちの救護対して嚢見つけたこの大き藷害﹂を除去し、弁明し
ようと試みるのである。アダリオは、ここではさしあたり﹁娘と少年の自由﹂についてだけ述べるとして、こう一一一一口っ
ている。
﹁若い男がこうしたこと︹イ・クォイ族との戦闘など︺に満足しきるわけがありませんから、月に一、二度は娘た
ちとの交渉を求めても不都合はありませんし、娘たちも少年たちとの交渉を許して悪いことはありません。こうでも
しなければ、私たちの所の若い者は不快感を感じてばかりいるでしょうし、:⋮・娘たちは、奴隷に身をまかすという
ハぬレ
ような破廉恥なふるまいに出ることでしょう。﹂
文明人ラ牙ンタ男爵は、未開人の放恣に対して、﹁神は結婚するか、性交渉をやらぬか﹂のどちらかを望んで
いる、と言明する。そして、この新大陸に現われたイエズス会士たちは﹁神につかえる者として神との間でかわされ
た約束﹂を守るべく肉の﹁誘惑﹂に抵抗しているのだ、と説く。これに対するアダリオの答えは、 ﹃宗教の残虐さに
パおロ
ついて﹄の著者︵ドルバック︶やディドロの答えと瓜二つである。
ヘ ヤ ヘ ヤ ヤ う ヤ ヘ ヤ ヤ ヤ ヘ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ゐ ヘ ヤ ゐ ヤ ヤ
﹁第てそういう人︹イエズス会士︺は禁欲を誓うことで、ひとつの罪を犯していますよ。だって神が女にみあう
八五
−或る匿名作家の宗教批判 その二1
ヤ ヘ ヤ ヤ ヤ ヘ ち ヤ ヘ つ ヤ う う へ へ う ヤ つ ヤ ヤ ヤ ヤ ヘ ヤ ヤ ヤ ヤ ヘ ヤ ヘ ヤ ヤ ヘ ヤ ヤ う ヤ ヤ ヤ ヤ ヘ
一論 文1 八六
だけの男をおつくりになったのは、両性が人類の繁殖に励むことをお望みになったからですよ。森羅万象つまり木や
ヤ ヘ ヤ ヘ ヤ ヤ
植物や鳥や昆虫は、自然のなかで繁殖しているじゃありませんか。毎年のように、これらのものが私たちに教訓を与
えています。また、こういうふうに行動せぬ人は、世間にとっては役立たずで、自分のことしか考えてはないので
ヤ ヤ ゐ ヤ ヤ ヤ コ ヤ う ヤ ヘ や
す。こういう連中は、大地が与える麦を大地から盗んでいます。なぜかといえば、あなたのおっしゃった原理によれ
ば、こういう連中は、大地をなんら利用していないからです。彼らは誓約を破るとき︵これは彼らにはかなり当り前
のこととなっていますが︶第二の罪を犯します。偉大な精霊に与えた言葉と信仰を嘲笑するからです。第三の罪は、
娘であれ、人妻であれ、女との交渉のなかで犯す第四の罪に導きます。かりに娘との交渉だったとしましょう。こう
いう連中は、処女を奪うことで、けっして返すことができないもの、つまりフランス人が結婚するときつみとろうと
するあの花を、宝物−それを盗むことは、一番の大罪ですが一と見なしているあの花を、娘たちから取りあげる
のが普通なのです。これがまずひとつの罪。もうひとつは、彼らが妊娠を避けるために、仕事を中途半端にしながら
唾棄すべき注意を払うことです。かりにそれが人妻との交渉だったとしましょう。こうした連中は、姦通の責任者で
ヤ ヘ ヤ ヘ ヤ ヤ ヤ う ヤ ヤ う ヤ ヤ コ ヘ ヤ ヘ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヘ や
すし、姦婦が自分の夫に対して与える悪いサービスの元凶です。おまけに、こうして生まれた子供は、腹違いの兄弟
ヤ う ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヘ ゐ ヘ ヤ や
を犠牲にして暮らす盗人です。彼らが犯す第五の罪は、自分の野獣のような情欲をみたすために法律に違反した低俗
な手段を使おうとすることです。
君もおわかりでしょう。僕の言うことが正しいってことが。僕は見ました。フランスではあのおめでたい黒衣のお坊
ヤ ヘ ヤ ヘ ヤ ヤ ヤ ヤ う ヘ ヤ ヤ ヘ ヘ ヤ ヤ ヤ ヘ ヘ ヤ ヤ ヤ ヤ や
さんたちが、人妻と会うときだって帽子で顔など隠さないんです。もう一度繰り返すことにしましよう。或る年齢を
すぎれば、女なしではすまないんです。ましてや女のことを考えないではおれないんです。それにあらがうよう努力
せよと君は言うけれど、烈妖久臨胤瓦以職誌焦弘。同じことですが、君は、僧院にこもってそういうチャンスを避け
ているのだと言うけれど、じゃあ若いお坊さんや修道士が娘や人妻の懴悔を聞いてやっているのを許しているのは、
いったいなんのためなんです。チャンスをこれで逃げていると言えますか? むしろチャンスをさがすようなものじ
ゃありませんか? いったい世間のどこに、自分だけはよそに置いて懴悔する入の色事を聞ける人がいますか? 第
て聞いている当人は、若くていきのいい健康な人で、働きもせず、栄養になる肉ばかり食らっているときていま
ヤ ヤ ヤ ヤ ヘ ヤ ヤ ヤ う ヤ ゐ ゐ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヘ み
う ヤ ヘ ヤ ヘ う ヘ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヘ ヤ ヘ ゐ ヤ ヤ ヤ ヤ ヘ ヤ ヤ う ヤ ヘ ヤ ヘ す。おまけに肉にはいっぱい媚薬がふりかけてあって、ほかの挑発がなくとも血をわかすんです。こういう有様です
から・嬰験者赴かが、偉大な精霊のあの楽園へ行くと聞いて僕はびっくりしています。君は大胆なことに、こうvう
にぐい
人びとは罪を避けるために修道士やお坊さんになったとでもいうのですか? ありとあらゆる類の悪事におぼれてい
るというのに。僕は能力のあるフランス人から聞いて知っています。あなたがたのあいだでお坊さんや修道士になる
人は、気楽に・動か勢い・かか0不安か恥い、飢え死にする恐れも兵隊にとられる心配もなく暮らすことだけしか考
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
かでいかいどい弘レ、︶どで歩。正しくふるまうには、こういう人たちはみんな結婚し、所帯の一員にとどまらなければ
ヤ ヤ ヤ ヘ ヤ ヘ ヘ う ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヘ ヤ う ヘ ヤ ゐ ヤ
いか卦患か。あるいは、六〇歳未満で司祭や修道士に叙品されることが少なくともないようにしなければいけませ
ん。⋮⋮﹂
︵艦︶
ここには、本論説の著者やドルバックやディドロやヴォルテール、それに先程あげたモレリなど啓蒙の世紀を生き
たフィロゾーフのキリスト教的禁欲主義道徳に対する批判を思わせるようないきいきとした痛烈な批判がちりばめら
れており、そうした後代のフィロゾーフたちの批判のための材料が、すべてあますところなく出揃っているといえよ
う。おまけにラ・オンタン男爵がアダリオの僧侶攻撃−それはごらんのとおり、ドルバック男爵の僧侶攻撃のター
−或る匿名作家の宗教批判 その二− 八七
1論 文− 八八
ムとほとんど異なっていない一にたじたじとなって、批判の矛先をかわそうとローマ法王の話題をもち出すや否
︵45︶
や、またもやアダリオにその非寛容性を指摘されるに至っては、本書は、旅行記の体裁をとった反宗教文書ではない
かと疑わざるをえない。ラ・オンタン男爵は、明らかに未開人を宗教批判の格好の道具に使っているのである。
ラ・オンタン男爵の対話は、もう一度、このヒュロン族の結婚のことをとりあげている。まずアダリオの部族にあ
っては、すでに述べたように結婚は自由で、親がなんといおうと、両性の合意で結婚できる︵もちろん離婚も︶。現
にアダリオの娘も親の反対を押し切って結婚したのである。しかも娘は、アダリオにむかって、﹁お父さん、あなたは
ヤ ヘ エ ヘ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ う ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヘ ヤ ヤ ゐ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や
なにを考えていらっしゃるのP 私はあなたの奴隷ですかP 私は自分の自由を楽しんではいけないの∼ あなたの
︵46︶
ために結婚しなければならないのP⋮⋮﹂と主張するが、これは明らかに、封建的な身分制に基づく結婚道徳を批判
しようと狙ったものである。しかもその語気は鋭く、自由な結婚以外は、かねで娘を買いとるようなものだと娘は言
う。この時代のフランスでは、プレヴォー師の﹃マノン・レスコー﹄号鼠害98窪い、田馨9おαロ9零呂段Ooの
Oユ窪図魯留竃9。口9一88β“︾ヨ2段3暮し謡9やそのたね本と言われるロベール・シャルの﹃フランスの名士
たち﹄い。ω崖島耳留男轟潟巴器ω−嵩一9によって描かれたように、結婚にあたっては、両親の意志が決定的でそれに
そむくと財産没収の浮き目を見た。それに反してアダリオの所では。身分は全然無関係で、両親はひとことも結婚に
口出しできないことになっている。また、 ﹁四〇すぎると﹂健康な子供が生めないので、 ﹁女は四〇歳に達するとも
う再婚﹂できない。さりとて女は﹁禁欲する﹂わけではなく、﹁反対に二〇歳のときよりさらに強烈になり﹂、フラン
ス人におのが欲望をみたしてもらうべく、縁組を求めるほどになる。だがインデヤンの女は、 ﹁フランス人女性ほど
︵47︶
多産ではない。﹂そこでラ・オンタン男爵は、人口論者よろしくアダリオに、たくさん子供を生むことはインデヤン
の繁栄につながると説くのである。こうして二人の会話は、ヨーロッパの恋愛と結婚にまつわる風俗とインデヤンの
それとの比較論に発展してゆく。
ゐ う
こうしたさまざまな話題をとりあげての対話は.あたかもディドロが﹁白紙﹂人間を姐上にのぼせて、あれこれの
実験を試みたように︵﹃盲人に関する手紙﹄需簿器ω負目8︾<窪笹8︸弩.ロ雷鳴80窪図ρ三<9窪“ミお、︶、啓蒙
の時代を風靡した感覚論哲学−1それは人間理性の﹁白紙還元﹂に基づく哲学である一に立脚した﹁白紙﹂文明す
し、、、、 タプラ●ラサ ︵48︶ ・・
なわち自然状態における人間の習俗の自由自在な実験場になっており、同時にそれが、既成文明すなわちヨーロッパ
世界に対する縦横無尽な批判に転化しているのである。これはのちの啓蒙の時代の方法論をもっともよく特徴づける
ものであり、一種の流行となったものであった。しかし、感覚論哲学がこうした流行をつくりだしたのではない。恐
らくは、自然状態の発見一それは地理上の発見に淵源を持つ一とこうした哲学の誕生とは、雁行して、踵を接し
て、生じた現象なのであろう。現に、感覚論の産婆役をつとめたジョン・ロックの﹃人間知性論﹄は、生得観念の否
定のために未開人や異国の人間︵たとえばシナ人︶の生態を証言する同時代の﹁記誌﹂を利用している︵同書、第一
巻第四章︶くらいなのである。とはいえ、いうまでもなくフィロゾーフの全部が全部、このような白紙還元からラ・オ
ンタン男爵と同一の主張−理神論者プラス汎神論、自然宗教の礼賛、宗教的ドグマの精緻な議論と批判ではなく、
現実のキリスト教徒の言行不一致に対するリアルな批判と暴露、僧侶︵とくにイエズス会士︶への激しい攻撃、煉獄
︵49︶
および照宥状の存在に対する批判︵ラ・オンタン男爵のオランダ滞在で、いっそう強烈なものになったという︶、モレ
リやドン・デシャンUoヨUoω。箒目毬を思わせる財産共有制の主張、自然状態の掛け値なしの賛美、自然主義的道徳
など一を引き出してきたわけではない。ヴォルテールの適当に文明化されたあの未開人アンジェニュの穏和さは、
−成る匿名作家の宗教批判 その二− 八九
一論 文1 九〇
その代表例である。またとくにドルバック男爵は、その本性からして自分には受けいれがたかったラ・オンタンの主
張のいくつかの部分を、あっさり排除している点できわだった思想家である。彼は、ラ・オンタン男爵のりベルタン
ふうの自由恋愛を認めたわけでもないし、個人の営々とした努力に基づかぬ財産共有制の主張も認めたわけではな
ヤ ヘ ヤ ヤ ヤ ヘ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ コ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
い。彼が、認め、大幅にとりいれた主張は、本論説と﹃・:⋮対話﹄の比較からもわかるように、その大胆な僧侶攻撃
︵50︶
であり、既成宗教の残虐さと犯罪的性格の糾弾であった。こうした意味では、膨大な男爵の旅行記コレクションも宗
教批判の大量宣伝に利用されたにすぎない。反対にディドロは、 ﹃ブーガンヴィール旅行記補遺﹄、そしてあの長大な
﹃両インド史﹄霞曾。マ。℃霞一88試ρβ09宕洋昼垢α窃ゆ雷三一ω器ヨ。暮雲αロOoヨヨ030留ω国霞。暮雪ωαきω
一〇ωUo口囲H&09Z窪。颪8一簿Oo器くρ旨ooω﹂O︿〇一・ミーoo’への執筆協力において、旅行記コレクションの持って
いた射程を各方面にふくらませ、啓蒙主義の拡張に寄与するだろう。 ﹃百科全書﹄編纂という難事業と検閲の圧力か
ら解放されて、思う存分自然道徳を展開するだろう。しかしさしあたりは、世俗道徳の独立が問題である。宗教批判
の徹底が問題である。この方面でじかに公衆に訴えかける迫力と物量の点では、ドルバック男爵の筆の冴えと企図の
壮大さは、ディドロにまさるとも劣らない。
まさに﹁聖アウグスティヌスが最初にこの奇妙な考えを信じさ廿.た﹂と断定できる教えであ2−、、迷信のひとつであった
をカバーする一や、聖パウロの言説をその古典的な例として挙げる必要があろう。ヴ†ルテールにとって﹁原罪﹂とは、
た事実である。たとえば、教父アウグスティヌスの思想 それは、プロテスタンティズムにとっては、かなり大きな空間
︵1︶ この点は、プロテスタンティズムとカトリシズムの間で、ニュアンスの差、解釈の相違はあるが、共通していることもま
註
︵O診“藁︽勺訃げぴ。ユ臓3一︾鷺臣。な8p巴冨℃三ざω8三∈9>三90℃号=ぴSミ鶏・︶。なぜなら本論説の著者もすでに
暴露していたように、 ﹁最高善﹂と称される神が、未来永劫にわたって人間に﹁復讐﹂と﹁懲罰﹂を加えつづけるなどとい
うことは、神にとって不利な属性︵したがって、ソッツィー二派やユニテリアンにとって有利なーヴオルテールは﹁勝利﹂
と呼ぶ︶を神にわざわざ帰することだからである。合理的解釈の立場を貫いたソッツィー二派︵パウロ派、さらにはユニテ
リアン︶が、ピエール・ベールの﹃歴史批評辞典﹄の該当諸項目でくわしく紹介されているように、 ﹁善悪を知る木からは
ヤ ヤ
取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう﹂とだけ神がアダムに言ったその木の実を食べただ
サクリレしジユ
けで、幾世代にもわたって人間が罰せられつづけるのは不合理であるばかりでなくかえって﹁神を冒漬するような罪を神に
モ ゥ
なすりつけること﹂だと主張したのは当然のことであった。ソッツィー二派は、厳密な意味での﹁原罪﹂は、人間が﹁死す
紺yボの﹂になったことだけを意味すると、聖書の諸旬を典拠にして考えた。啓蒙時代の哲学者がこうした合理主義的解釈
をうけついでいたことは言うまでもない。だが、問題はまさに、人間のモルタリテ蜜。旨巴山臥の解釈に起因するのである。
まず、死後﹁肉﹂は滅ぶにせよ﹁魂﹂はイムモルタリテではないか。ではこの﹁魂﹂はどこへ行くのか? その際、現世で
の功罪はそれなりのかもいを受けないで、どうして﹁義﹂なる神といえよう。第二に、死ぬこと自体一天使は罪を犯して
も死なないのだから︵アウグスティヌスの言葉︶、なにかそこに種差が現われ出ても当然である。現にアウグスティヌスは、
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
﹃マニ教駁論集﹄で﹁悪とは、自然本性的な限度や形象や秩序の壊敗以外の何ものでもない。したがって壊敗した本性は悪
と言われる﹂ ︵邦訳、教文館刊、﹃アウグスティヌス著作集﹄、第七巻、一八○ページ︶と述べているように、滅ぶことが、
い祢かひb赫愚なのであって、神が無より創造した森羅万象は、その本性においては﹁善﹂にほかならないのである。アウ
グスティヌ ス は 言 っ て い る 。
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
﹁それゆえ、いかなる本性も、本性である限りにおいて、悪ではなく、それぞれの本性にとって、善が減少すること以外
に悪はない。﹂︵邦訳、同書、一八九ページ︶ここには存在の大連鎖を想像する新プラトン主義の影響が鮮やかに現われている
一或る匿名作家の宗教批判 その二− 九一
一論 文− 九二
アモル デイ
アモル スイ
が、後年のアウグスティヌスは、 ﹁死﹂の問題をもっと厳密に取り扱うようになる。とりわけ﹁神を軽蔑する自己愛﹂にも
とづく﹁地上の国﹂と﹁神への愛﹂、自己を軽蔑することにもとづく﹁神の国﹂との分裂と止揚を扱う壮大な著作﹃神の国﹄
ピ四9庶号豆2翼β39一89髪亀。℃胃r竃a臼F℃畦すの第十三巻﹁ココニオイテハ、人間ニオケル死ガ、罪人ア
ダムニ発スル罰デアルコトが語うレル﹂冒20α08葺5日曾8ヨ一口ぎヨぎま易3器℃8轟8ヨ・日宣旨ρ器粟>計B一
冨8暮9においてである。 ここでアウグスティヌスは、人間の魂は﹁不滅デアルト述べラレル﹂げロヨ彗四国巳日”⋮一目・
ヨ9冨言ロR三ぼ葺環ことの真意を次のように定義している。﹁ドンナニワズカデアロウトモ、ソレナリノ仕方デ、ソレガ
生キ・感ズルコトヲヤメヌカラデアル﹂ρ¢置目且oρロ。旨旨ρロ彗9一〇2ヨρ508α窃ぎ評≦<o盆暮ρ発露見マρ。だと
すれば、人間の原罪による死には二種類あることになる。第一の死一それは肉体と魂の分離および肉体の死である。そし
てこの死は、﹁善人ニトッテハ、善デアリ﹂、肉に生きる﹁悪人ニトッテハ、悪デアル﹂σo巳ωσo蓼の言ヨ巴ぢ日亀鉾。第
二の死一﹁聖書ノ権威が第二ノ死ト呼ブモノ﹂器。葺量目ヨ。耳。目色≦8樽q目色8包。置目岩窟一一緯。。88ユけ器■は、魂
が﹁神ニヨッテ生キナイ﹂8口≦二け粟UΦ9状態すなわち、先に引用した魂の不死性を前提とすれば、神が﹁あなたはど
こにいるのか﹂>鼠Pロσ一〇鳴︵聖書 またアウグスティヌス、﹃神の国﹄、前掲、二五八べージ︶と罪人アダムに言った
意味で、神に見放され、神によって遺棄されて生きている状態を指すのである。この死は、 ﹁マコトニ疑イノ余地モナク、
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
ドノヨウナ善デモナイノデ、同様二、ナンピトニトッテモ善デハナイ﹂ω02昌母く震。巴器匹¢玄oo85口三δ毎ヨσ昌?
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
盆暮霧け﹂貫⇒ロ臣σ9斜。以上のように、依然としてアウグスティヌスにおいては、被造物の本性の壊敗 魂において
ヤ
も、肉体においてもtが、結果的に悪と言われるのであり、神がアダムに﹁食べると死組﹂とおどかしたその言葉に従わ
なかったゆえに、壊敗という意味での﹁死しが人間の魂にとりついたとされるのである。これが原罪の核心だとすれば、壊
敗という悪にむかうベクトルの方向を反対むきに変えるための﹁信仰﹂が人間の救済には不可欠のものになる。だが、 ﹁信
仰﹂のみでtつまり人間の側の努力のみで救われるのであれば、これはもうプラトニスムそのもの、グノーシス主義その
ものである。キリスト教の特徴は、周知のように、信仰のほかに、ここに神の側からの働きかけ、すなわち﹁恩寵﹂の必要
性を説くのである。信仰と恩寵、これが合体・協働してはじめて人間は救われる。しかし、ここにも重要な問題が含まれて
いる。信仰に力点を置く一となれば﹁権威﹂に頼り、﹁伝承﹂に頼ることが不可欠になる一か、恩寵に力点を置くt人
間性の決定的な堕落は、神の助けがなければ、いかに信仰にうちこもうとも、絶対にいやしが忙いほど致命的なものである
一かで、人間の贖罪におのずから差異が生まれるのである。この点で、原罪ロ贖罪問題をめぐるペシミスティックな見方
の恩寵観を批判しようとしたピエール・ベールは、 ﹃彗星雑考﹄で そこでの言説は、すでに見たように正統カルヴィニ
を代表するのが、カルヴィニズムであり、その指導者ジャン・カルヴァンである。また、このような見地からカトリシズム
スムにきわめて忠実なものである一あますところなく﹁人間性の決定的な壊敗﹂を暴露してみせた。一方この原罪を弛緩し
た形でオプティミスティックにとらえているのは、スキあ,ンダルをさんざまき起こしたジニズイ一.トのべリュイエ神父であ
る。楽天的な聖書のパロディとも称すべきこの﹃神の民の歴史﹄国一ω8一器身℃窪巳。階U帯Fα8巳ωω99蒔ぎ。甘沼仁.似
一山冨山。。旨コ8身日。ωω一。耳印冨。α。ωω窪﹃一由≦Bの巴艮ω㌧o但一。け。40器。急α。ω一︷<器ωα。一.>ロ99↓。ωgヨ。ヌ家島一け
雪盲O曾冨α、匹ω8マ9誉3冷︶房器?一〇詔旨ゆR歪葦さ譜ミO爲§誉軸義恥特一〇誓潮切賀すミωφ第一巻では、原
罪が次のように描かれている。
﹁このしあわせな国、その中心になっていた美しい庭のなかへ、主なる神は原人を創造なさるやいなやお移しになった。
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
︹⋮⋮︺しかし主は、たくさんの種々様々な美しい木々の間にその品質とそれが産み出すぎきめゆえにとくに目につく二つ
の木をお置きになった。ひとつは命の木、もうひとつは善悪を知る木と呼ばれていた。﹂︵8・9f℃マご南O︶
み ちがら
ここにべリュイエ神父独得の解釈が挿入される。
﹁最初の方︹命の木︺が、そう呼ばれるのは、その実に人間のさまぎまな力を保持し、元どおりにするような活性剤が含
まれていたからだ。けだし、人間は、無償の特恵によって死なないようになってはいたが、人間の本性とは切り離しがたく
1或る匿名作家の宗教批判 その二− 九三
一論 文i 九四
結びついている怪我とか老衰︹!1筆者︺とかを予防する、このような薬がなければ、人間はおのずと弱々しくなり、あ
ちこちがいたみ、自分で自分を食いつぶしてしまっただろうからである。﹂ ︵ぎ苓︶
そしてこの両方の木の知を神は絶対に食べるなと命じたが、 ﹁その短い言葉には、別の脅迫が含まれていたのである。
︹⋮⋮︺もし汝が命令に従わなければ、汝は汝の特恵をすべて失うであろう。﹂︵まこ;マト。ごアダムは命令を守っていた
が、彼は﹁まだたったひとりであったし、自分の忠誠心がすぐにどんな誘惑にさらされなければなら露かを知らなかったの
だ。﹂︵一玄“︶
神は﹁同じ特典を授けられ、同じように超自然な状態で育てられたひとりの女を創造したもうた。﹂︵一三皇マN鱒︶
み
ところがベリュイエ神父の解釈によれば、エヴァは、二つの木の実を食してはならぬという﹁教えを、アダムのように、
直接、神の口からは聞かなかった﹂︵ま誌4PN9︶のである。エヴァはアダムからそれを聞いた。そこで、一匹の蛇が、女
み
は﹁天性からか弱く、また好奇心旺盛で、信じやすいものであることを知っていたので﹂︵ま置こマ謡・︶エヴァに禁断の実
な天使﹂︵幽玄α・PN9︶だったのだが。エヴァは誘惑に引っかかり、禁断の木の実を食べ、 ﹁自分の罪の共犯者﹂︵ますや
を食えとそそのかしたのである。この蛇は、ベリュイェ神父によれば、実は﹁おのが罪過で栄光ある状態から失墜した不幸
み
国S︶を作りたい、という気持も手伝って、﹁はるかに教育のいきとどいていたアダム﹂︵ぎ苓︶にその実を食すよう勧めた。
み
﹁アダムはこの魅惑的品物になんなく反撥心を起こした。彼に対して、あんなにもはかない一抹の希望が利用されなかっ
たら・恐らく彼は闘いの勝利者になっていただろうに。しかしすべての人間の先祖にあたる人は、最初の女のしっこさに負
けた。自分の理性にほとんど諮ることなく、彼は女の懇願に負けた︹!−筆者︺。﹂︵ぎ一α●︶
神の処断は時をうつさず決定され、﹁即座に実施された。﹂︵塗負P8・︶しかしベリュイエ神父によれば、これらはみな
寓意︵アレゴリー︶的に解釈せねばならねのである。
﹁主はこのように自分の意志を表現なされたのだ。主は、一方は蛇に似つかわしく、他方は蛇を利用した悪魔に似つかわ
地獄に落ち諸神の暴虐非導、あ薩.主の功績と血によぞいや汽るであろう、とお教えになつおだ.あ照主産
しいような、さまざまな表現を用いて、私どもに、この追放判決が風愈を持つものであることをお教えになった。つまり、
あかたい
むのはエヴァとアダムの血をひく娘であるが・お畷.主再身は、両者の犯し葬からまぬがれているのである.﹂︵喜も
ω9︶
このようにイエズス会特有のゆるやかな原罪思想をカルヴァンの次のような指摘と並べてみることにしよう。
﹁神の前には悲惨な罪人であり、人間の目で見ても最も軽んずべきもの一もしあなたがお望みであるならば、乙の世の
何かのか泌粉や騒棄物、ないしは、もっとひどい呼び方をすることができるならそれに価するものなのであります。﹂︵強調
符は筆者。邦訳、新教出版社刊、カルヴァン﹃キリスト教綱要﹄、 ﹁フランス王への献呈の辞﹂、二二ページ︶
﹁神がこのようにきびしい罰を与えたもうたものは、ささやかな違反ではなくて、いまわしい冒漬でなければならない。
であるから・貌われ塞憲綜草隷慰ゑ覆野禽か盆な偽ゑハ融誘う崖⋮﹂︵強調符蜜者.
邦訳、同書、第二篇第一章、一八ページ︶
十八世紀のこの時代に、フランスから一掃されたはずのプロテスタンティズムの教義を対比させるのは無理一な話かもしれ
ない。そこでジャンセニストという、ジェズイットの仇敵の言説をここに引用しておこう。
﹁人間が生まれるやいなや押しひしがれるさまざまな悲惨を見れば、その精神と心情の堕落ぶりを見れば、私たちがみな
混乱と壊敗の内に生を享けることを理性は隠すわけにはいきません。しかし、こうした悲惨や壊敗が私たちに伝えられたア
ダムの罪から来ること、もとは意志的だったこの罪が伝播した先ではまったく無意志的なものになり、それを免れその怖る
べき結果を防ぐことは誰にもできないこと、なのに、この罪が私たちを有罪にし、不義にし、罰せらるべきものにすること
一そういうことは人間の理性ではまったく理解できません。﹂︵邦訳、野沢協訳、法政大学出版局刊、B・グレト肖イゼン
﹃ブルジョワ精神の起源﹄、一六六ページ。ペルヴェールの﹃或る神学者から某氏への手紙﹄︶
一或る匿名作家の宗教批判 その二− 九五
1論 文1 九六
あるいはまた、直接ベリュイエ神父を槍玉にあげ、彼を﹁改変者﹂と断罪したジャンセニストでリヨンの大司教モンタゼ
呂99Noけの原罪観一﹁この改変者によると、原罪とは単なる失墜、剥奪であり、超自然的な義のただの欠如であり、或
る不完全な状態であって、私たちを神の目に文字どおり罪びと、犯罪人とするような疾病と邪曲の状態ではない。私たちが
有徳で慈悲深く親切で思いやりがあるのをやめたのは、母親の胎内では持たなかったもろもろの悪徳が、人為もしくは教育
によって、人間性という台木の上にいわば接木されたからにすぎないという。﹂ ︵邦訳、同書、一六九ページ︶
以上の簡単な対比によって、なかんずくイエズス会の原罪観が、かなり弛緩したもので、世俗的に﹁改変された﹂もので
あることがわかる一とはいえ、ベリュイエ神父は、身内からも断罪されはするが。しかし、同時に﹁科学﹂によって説明
のつかない原罪の伝播︵邦訳、同書、一六〇一一六一ページ参照︶という枠組は、カトリシズムとプロテスタンティズムに
共通の枠組なのである。問題は、十八世紀という﹁信仰の危機﹂の世紀に際会して、この枠組をゆるやかなものにする
ジェズイットの方向1ことによってこの危機をのり越えるか、それとも信仰の純化 ジャンセニストの方向tによっ
てこれをのり越えるか、のどちらかであった。
︵2︶Uo一 餌 0 2 雲 紙 3 一 陣 触 。 島 。 ︸ P 8 ・
︵3︶ 一瓢FPωρここで論説の著者は、 ﹁別の著作で﹂偶像教徒や異教徒の﹁蛮行﹂については﹁展開しておいた﹂と述べて
いるが、はたしてこれはドルバックのいかなる著作を指しているのだろうか? 私見では﹃神聖伝染﹄である可能性が強い
と思われる。なお、ドルバックが愛用する﹁野蛮﹂・﹁蛮行﹂を示す鼠昌畦ぼという言葉は、もちろん悪い意味であるの
は言うまでもないが、のちに述べるように﹁未開﹂ ・﹁野生﹂を示す器量躍。は、むしろ良い意味で使われるのである。
このような使いわけは、ユダヤ教とキリスト教を東洋的専制の産物として批判し、未開の自然宗教を賛美する啓蒙の宗教批
判に独得の方法である。註︵36︶参照。
︵4︶ ま盈4マωρ
︵5︶一げ一阜
︵6︶ 一三8マ鯉。この人口論から見た独身生活非難は、啓蒙時代の或るエコノミストの論旨と似通っている。フリォ.ディァ
スが指摘するように、 ﹁単純に﹃プレ・フィジオクラット﹄と規定するわけにはいかない﹂︵固目〇ωo頃ρ。℃。一三。国旨。一ω。什,
§窪。富§ω。逼包p9まb。う。。こ蛍・ン・ド・フ落ボネ奉。え島。§旨旨は、フィ芽クラットとはち
がって人口論者であった。彼は﹁︿百科全書Vの﹃商業﹄の項目全体︵第一章﹃商業一般について﹄︶、およびく百科全書V
のフォルボネの手になる対応項目の敷衍である他の章︵第二章﹃競争について﹄、第六章﹃植民地について﹄、第八章﹃交換
について﹄等々︶を含む点で意義あるく商業要論V国憲ヨ寒戻αβ8ヨヨR8﹂︵oマ簿‘ワωじを書いたが、そのなかで
こう言っていた。 ﹁大規模な人口は大規模な商業から切り離すことはできない。そして商業の通路の目安になるのは、いつ
も富裕さである。生活が便利であるかどうかが、人間にとって一番の魅力であるということは、毎度のことだ。商業をなり
わいとする国民のまわりを、そうでない国民が囲っていると仮定すれば、たちまち前者は、商業を媒介にすべての外国人に
対して仕事と賃金を与えることができよう。﹂︵一三貸P曽P︶また﹁大規模な人口は、特典のひとつに数えられる。なぜ
なら、それによって或る国民は、別の諸国民の欲求にできる限りのものを提供することができるからだ。そして逆に、前者
が営む外国貿易は、国内交易では養いきれない人びと全部に仕事を与える。﹂︵ぎ苓︶さらに﹁商業の効果はと言えば、それ
ちから
は、政体が享受しうる嬬夢すべてによって、政体をカバーする点にある。この力は人口に存するが、人口を或る政体に引き
つけるのは、政治的な一つまり現実の、そして比較のうえでのゆたかさである。﹂︵ま三;マ器、︶こうした人口重視の考え
が・フォルボネにあっては、 ﹁競争の自由﹂という、ディドロ︵邦訳参照、拙訳、法政大学出版局刊、フランコ・ヴェント
ゥーリ﹃百科全書の起源﹄、第四章﹁ぺーコンー科学と技芸﹂︶が強調してやまなかった考えと統一されている点は興味ぶ
かい。ただし﹁ここにはフォルボネと﹃エコノミスト﹄とのコントラストの主要な要素がある﹂のであって、 ﹁われわれは
まだフィジォクラットが主張するような経済の絶対的な自由の原則からはほど遠い。フィジオクラットは、富のすべての形
−或る匿名作家の宗教批判 その二− 九七
1論 文一 九八
態の基礎たる農業生産の自由な拡大と自由な分配という理論から、この絶対的な自由の原則を引き出してくる。﹂︵ま置‘マ
ω幹︶ドルバックは、 ﹃社会体系﹄において商業重視のフォルボネよりもすすんだ考えを主張しているかに見える。 ﹁大地は
ヤ ヤ ヤ ヤ
一国民にその本当の需要をみたすに足るものを与える。有用なマニュファクチュアは、市民の勤勉さにゆたかな経歴を与え
ヤ ヤ ヤ
る。自然が或る国には拒んだものを補う意味で商業が営まれるにすぎない。貨幣は、潜勢状態の幸福を表示するものでしか
ない。それが実際の幸福になるのは、それをうまく利用するすべを学んだ人びとの場合だけである。でたらめに使うことし
かできない人にとっては、貨幣などは不幸のもとでしかない。ただしく治められ、土地がよく耕され、人口が多い国民は、
十分ゆたかなので、外敵など恐れはしない。﹂︵の鴇8ヨoooo9無い8曾09一ミS賃9ω5ヨ。冨ユ一ρ9昌・<員Poo︵︶
︵7︶ 繰り返し言うが、ドルパックは﹃自然政治﹄で、完全に世俗化した道徳を唱えるのである。彼が、現世に遺棄された一
なわち﹁人間的自然す口碑旨。言日巴器﹂に宿る﹁社交性︹社会性︺一pωoo冨σ三叡﹂である。﹃自然政治﹄の第一論説は、
とキリスト教なら言うであろうがi人間に、すべての営みをまかせてもよいと断定する根拠は、まさしく﹁人間本性﹂す
ジャンロジャック・ルソーの幾分かはペシミスティックな論説﹃人間不平等起源論﹄U一跨。呉切ω貫一.a蒔ぎ。留一.ぎ伽菌巴一感
唱零ヨ=oωぎヨBo9ミ田・の﹁自然状態﹂描写とも、ホッブズの﹁万人の万人に対する戦争状態﹂というテーゼともちが
って、完全にオプティミスティ周、クなものである。 ﹁社会は人間の作物だ。自然が人間を社会の内においた。社会に対する
ヤ ヤ ヤ
愛または社交性は、経験や理性の果実たる二次的感情である。⋮⋮人間は社会に生きる。自然が人間を社会のなかに生まれ
させたからだ。人間には社会が必要であることがわかっているからだ。だから、社交性が人間にとって本来的︹自然︺な感
情だというとき、そのことによって人は、人間が自己保存の欲望と自分をしあわせにしたいという願いを持っており、その
手だてをいつくしむものだ、ということを指摘しているのである。感性を備えて誕生した人間は、悪より善を好み、経験と
反省に裏打ちされて理性的になる。言いかえると、人間は、社会生活が与える利益と、人間にもし社会が欠けていたら味わ
うであろう不利益とをくらべる能力を持っている、ということを指摘しているのだ。﹂ ︵ピ帥℃o澤5需茜ε括一52望甲
8畦のω畦一。ω<邑の旦鼠℃。㎝身の。ロ<。ヨ。暑3レ。ロα︻。9一ミωし。馨冥昏尋・島の。。ロ﹃ω℃﹃。巨。﹃もマ。。−↑︶
︵8︶蓑参照・﹃百科全書の慧﹄、三七ぺ←㌘び︷フフの﹃ディド・とダランベルの含科全書︾歯する熱﹄
疹信。三げ&養§亀ぎhU蕃。§ま.>雪曇・■。§乞罷・の壬ハ八fジを参照.
︵ 9 ︶ U8冨U5Ro3臼彰﹃oωoo日巨簿8一↓oヨ。図<・頃舞量一〇お・P一ホ・
︵
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一︶げ幽ユこマ一癖①●
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︵
1 邦訳、 ﹃百科全書の起源﹄、五九ページ。
5︶
︵ ドルバックはこの中心問題を、宗教の廃棄という角度から、取り扱ったのである。
16︶
︵
” ︶ 邦訳、前掲書、一九一ぺージ以下参照。
︵ 。量ζ三避婁アィド・のお発程、さらに大胆に展開されて、後年、﹃ブーガンヴィール旅行記補遺﹄ωロ℃、
18︶
魯。§=曼§穿瞭量一i詳覧られるよ−な叢暑きつく.﹁子どもは、一人前の人連なるべきは
ずのもの蓼ら・墓奎琶だ・蓼ら契した譲、わも砦の瘍や動物異いする場合とはちがった心遣いをす
る・生蓋享どもは家族の喜びであると同時濤全体の喜びと馨霧.それは、家族にとっては財産が一つ増えをと
であり・国塁とっては力が一つ増えをと髪るか身.それは、タヒチの島に腕と手がそれだけ多くなるということな
のだ・わち砦は早どもの定唇来の癸、漁夫、猟師、兵士、夫、父を見るのだ.﹂︵邦訳、法政大学出版局刊﹃デ
ィド。著作集﹄・第養﹁草−﹂三究ぺとソ︶ディド昌、ドルバックにまさるとも劣らない荒々しさで﹁道徳性な
九九
−或る匿名作家の宗教批判 その二1
1論 文一 一〇〇
ど受け容れる余地のない行為に、悪徳とか美徳とかいう名前をつけた宗教制度﹂を攻撃し、 ﹁われわれは、何と自然から、
幸福から離れたところにいるのだろう﹂と嘆き、 ﹁自然がもっとも強力な魅力を付与してわれわれ人間を誘っている行為、
快楽のうちで一番大きな、一番甘美な、一番無邪気な快楽﹂、つまり男女の婚姻を賛美している︵邦訳、同書、三一九一三
二〇ページ︶。 このようなディドロの主張をドルバックのそれと並べてみると、両者が基本的には同一の発想にとらわれて
いたことがわかる。 ﹁女性は男性のしあわせのために自然が作ったものである。女性の魅惑から遠ざけられたこういういけ
む く
にえの境遇には、いかに野蛮な人間でも一掬の涙を惜しむまい。若い頃の狂熱にあざむかれたり、横暴な家族の利欲に強い
られたりして、彼らは永久にこの世から追放されている。軽率な誓いによって倦怠と孤独と隷属と悲惨にしばりつけられ、
自然に反する誓約によって処女・童貞を強いられている。﹂ ︵﹃キリスト教暴露﹄、一〇二ぺージ︶
︵19︶ 邦訳、 ﹃ブーガンヴィール旅行記補遺﹄、三一九ページ。
︵20︶ O置 震 。 “ o P 9 什 ‘ 唱 ﹂ ㎝ ㎝ ・
︵21︶ 一玄阜
︵22︶ 一寓α‘℃℃.頴ooI嶺Pただしディドロは﹁政治算術家﹂サンHピエールω巴暮・コR掃師に藉口している。 ここでも損得勘
定という啓蒙の功利主義が登場していることに注意を払おう。
邦訳、野沢協訳、法政大学出版局刊、B・グレトゥイゼン﹃ブルジョワ精神の起源﹄、一七一ぺージ。
︵ 23
︶こ
こ
で
デ
ィ
ド
ロ
︵あるいはサンHピエール師︶はまたもや﹁政治算術﹂を開陳している。
︵24︶
邦訳、同書、一八四−一八五ベージ。強調符は筆者。
o戸含什 ‘ 戸 一 臼 .
︵25︶
︵26︶
一σ置こマ一爲●
蜜。希ξ”Ooαoユ。﹃乞”ε﹃ρ一調㎝︵2σま薯oo巨。ぎqo身。匡g9α8召け。の℃貰9
旨’お㎝ρyP
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︵27︶
︵28︶
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︵29︶ 旨三‘℃■ω旨.
︵30︶ 一σゆα 4 ℃ ● ω 謡 。
︵31︶<。一重β県帥ま呂些・什&猛暑ρミ爵頃ま鼠まα.琶。羅乙.国ヨ暴君巴ω毘。乙.偉口。鷺驚口。。α、詮﹃白。ロピ㊤。げ。,
p笆棒Oopα<〇一〇“oo.
︵32︶ oP含什‘マ国鐸
︵33︶ ヴォルテールの綴りでは囚即日−三︵現在では零雪叩三と綴る︶帝は、啓蒙の時代には宗教的寛容の英明な啓蒙君主に擬
せられていた。しかし実際には、西洋の先進的な文物をもたらし、同時に﹁弛緩した﹂ージャンセニストに言わせれば1
ーキリスト教道徳で布教を行なったイエズス会士たちを優遇したのが真相らしい。事実、 ﹁三世紀にわたってカトリック.
ヨーロッパをゆるがした﹃典礼問題﹄﹂は、 まさにこの康熈帝の治世に勃発したのである︵U雪笹冨田一器8陳も。一匹9Z曽
8一器写働魯︵一。。。。。山まOy頴団一。惹。霧α.⋮夏日彗一器身図く目。萎。一。誓二四9ぎρ評旨しO鐸℃﹂﹃﹄︶。ここに
その簡単な経緯をニコラ・フレレに関して初めて出たこの研究書の記述にそって、要約しておこう。中国における宣教活動
で先行していたイエズス会とその総帥マッテォ・リッチ竃讐30盈8一︵一五五二一一六一〇。北京で客死︶は、もちろん
教義上の混淆を許しはしなかったが、 ﹁儒教の古典から借用してきた純粋なシナ語でキリスト教を語ること﹂を認め、孔子
を崇敬する﹁典礼は﹃たしかに偶像崇拝でもなく、恐らくは、迷信がかったものでさえない﹄と結論をくだした。﹂︵oマ9f
マ一〇〇閣︶しかしリッチの後継者だったニコラ・ロンゴバルディZ一8宣ピ8の。げ㊤︻象︵一五六五−一六五五.北京で客死︶l
t彼が師リッチとちがってこの問題を﹁もっと綿密に研究した﹂ことはジャンセニストも認めている︵ピエール.ベール
﹃歴史批評辞典﹄、﹁マルドナ﹂の項、一八二〇−二四年版、一七〇ページ参照︶1の﹁支援するシナの伝承に敵対する者
たちは、聖座に訴えた。﹂そのため、三度にわたる法王庁の見解が示されて、ようやく一七〇四年にクレメンス十一世が認
−或る匿名作家の宗教批判 その二− 一〇一
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
一論 文一 一〇ニ
めるに至った教書は、 ﹁北京のイエズス会士に使嗾されて、シナの儀式の純民間的性格を主張した康煕帝の布告にもかかわ
ず、シナ流の勤行を一切合財禁ずる﹂︵旨答マ一P強調符は筆者︶ものだった。このため康熈帝は、怒って、リッチ以来の
方式で宣教活動を行なうよう法王庁特使に要求したが、ローマ法王も態度を硬化させ、一七一五年三月一九日の憲章﹃カノ
日ヨリ﹄国図三〇島。で再びはっきりと﹁イエズス会の敵たちの厳格な教説に対する支持を﹂表明した。 このように十八世
紀に入っても﹁典礼問題﹂は、かまびすしく論せられたが、ローマ法王庁での風むきはジェズイットにだんだん不利になつ
てきた。それに反して北京では、法王の命令の厳密な履行がますます困難になっていた。一七四二年、ベネディクトゥス十
四世は、 ﹃特別ナルコトニヨリ﹄国図20ωぎ職口置二で一七一五年の憲章の厳正履行を迫った。 ﹁フランスではジャンセニ
ストが勝利し、かれらの敵の弾劾を見て喜んだ。﹂︵ま一匹・P8・︶
このような経過を見てもわかるように、宣教活動において一歩先んじていたジェズイットに対して、いわばシナ﹁開発﹂
において後発メンバーだったドミニコ会・フランシスコ会や、あるいはフランスで・ーマ法王庁に対してガリカニスムやジ
ャンセニスムを唱えていた宗教人たちが、反撥を起こして、典礼問題をきっかけに法王庁でのまき返しに成功したというの
がことの真相であろう。ここで想起されるのは、フランスにおけるイエズス会の禁止が、アンチイール諸島の奴隷貿易の元
じめだったラ・ヴァレット神父の破産と、ジャンセニストで固められた高等法院におけるその弾劾によって引き起こされ
た、ということである︵On明5こ口替辞。マ9け・唾や800n同、邦訳、﹃百科全書の起源﹄、二四七ページ以下︶。恐らくこの
のだろう。またオランダ人の使嗾による日本からの宣教師の追放︵﹃ルイ大王のもと、カトリック一色のフランスとは何か﹄、
種のスキャンダラスな事件や現世的な利害をめぐって、北京でのキリスト教宣教師内部の確執には想像以上のものがあった
邦訳﹃寛容論集﹄、四四ページ以下および訳註︹一二八︺を参照︶のことを考えてもよい。だからこの問題についてもまた
﹁純粋思弁の見地﹂からのみ論ずることはできないように思われる。
だがいずれにせよ、十七世紀の哲学者やジャンセニストとジェズイットの陣営が、先世紀に引きつづいて未知・未開の非
キリスト教国の﹁福音化﹂とそれが誘発する諸問題一たとえば、天国は洗礼も知らず聖書も知らぬ民にも開かれている
か、といっ把問題−、さらには康煕帝の。寛容﹂政策にきわめて大きな興味を抱かざるをえなかったことは想像するにか
たくない。 ﹁キリスト教の影響圏外にありながら、政治や芸術や道徳の面で古代文明の揺籃の地となったシナは、十六世紀
に発見された最初の﹃未開人器望お窃﹄がすでにかきたてていた問題を、その外延の面で提起したのであった。﹂︵葦αこ
℃閣曽、︶ここでは、 このような問題を一いまではなかなか入手しにくくなった研究書の著者ーアンリ.コルディエ
=8ユO霞岳霞にそって詳述する場でもないので、簡単に復習するだけにとどめておけば、まずは十七世紀のリベルタン
で、。ヒエール・ベールの先駆者に数え入れられるラ・モット・ル・ヴァイエい国憲090ピ。く餅網。﹃がいる。かれは一六四
三年の﹃小品または小論﹄O℃=ωoε窃。ロ掃薄ωマ巴鼠ωのなかで﹁旅と新しい土地の発見﹂と題してシナの﹁事情﹂を知
りたがっているし、﹃異教徒の徳について﹄Uo一山く震冨伍窃℃避9ωでは﹁ソナのソクラテス、孔子について﹂論じてい
カトリシテ
る。ラ・モット・ル・ヴァイエにあっては、カトリシズムのレーソン・ゲートルともいえる﹁公同性﹂の射程をせばめよう
とする傾きがあ身という・芳ジャンセニスあアルイ>暴琶は掻蒔響同じくして﹃イェスーキリストを信仰
する乙との必要性について﹄U。一節香量ま琶§善斎串9器叶”い霧馨2睾を出版して、シナ人と救甕
題を厳格葱寵主義の立場から論じている.︵あ点では、ピエル麦ルの﹃歴史批壽典﹄の﹁マルドナ﹂の項、註
Lを参照︶。ジャンセニストが﹁恩寵の絶対的必要を信じ、不信心な者の道徳性と救済を二つながら否定した﹂ ︵三身マ
国鮮︶ことは言うまでもない。パスカル℃器。巴の﹃パンセ﹄℃窪絃窃.を見ると、 このような立場での率直なジャンセニス
ムの器寛られる・﹁グラン毒クリヴ∼﹂版奪尭三では、ジェズ毛トのマルティーニ蜜四目寓⇒あ﹃シナ史を
師ペルチエがイエズス会のマルタイマルティ⊥神父の一フテン語考訳す﹄賢密量的窪目。・︻㊤α口答。α仁一餌窪目α仁
たとされる中国の古王朝のイ歌謡]ルを﹁その証人が首を切られて殺される歴 史だけしか信じない﹂と一一一一・い、 ﹁モーゼとシナ
零括目畦けぎ寓霞岳旨号︼国Oo田富曽冨牙蜜㊤易、℃震一.客思一〇国色卑帯び日額。。oけ一$Pにおける洪水以前に存在し
イストワドル
ー或る匿名作家の宗教批判 その二− 一〇一一一
1論 文− 一〇四
のどちらがもっとも信用できるか﹂と問うている。さらにまた六一九において、 ﹁私は世界のいろいろな場所、あらゆる時
代に、おびただしい数の宗教﹂を見るが、それらは﹁私に気にいる道徳も、私を立ちどまらせることのできる証拠も持ちあ
わせていない﹂と断言している︵切一思器℃霧。巴一切。易曾∫↓o蓉。αo一.邸岳試opω旨易。げ≦o幹℃四ユ即這O↑︶。
少し時代がくだるとピエール・ベールが、別の角度からシナの寛容政策に言及している。 ﹃歴史批評辞典﹄から代表的な
ものをとりあげるならば、まず﹁ミルトン﹂ 言葺8の項目、註0であろう。これは一七〇〇年一月に書かれたもので、カ
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
トリック各派の宣教師たちが、中国での伝道の成果を誇っていた時期にあたる。ベールはミルトン﹁ほど熱心に寛容を支持
した人はいない﹂とほめたあとで、この寛容の射程内から法王教をはじき出すよう主張する一これはミルトンの主張でも
あると断わりながら。なせなら法王教は迫害の教えであり、ミルトンの言を籍りれば﹁暴虐な謀叛﹂であり、機会さえあれ
ト レ ヲ ソ
ば﹁他のキリスト教徒の肉体と魂に拷問をかけつづけてきた﹂からである。だから一番熱心な寛容の徒は法王教を寛容の対
象としなかったのである。 ﹁彼らは辻褄の合った推論を展開しようとしている。それで人々がほめるあの英明さとシナの皇
帝の勅令とをどうやって一致させたらよいのかわからないでいる。私が言うのは、シナの皇帝がキリスト教徒にむかって出
した寛容勅令のことである。これについてはイエズス会士が立派な話を報告に及んだ︵49︶。ところで寛容の徒だちは、英明
ール・ベール著作集﹄第二巻、﹃寛容論集﹄の邦訳に付けられた訳者の註記を参照︺を認めていないと思っていた。宣教師
な君主が法王の宣教師と新しい信徒たちに信教の自由﹃ま震a牙8易9800︹この語の適切な訳語については、﹃ピエ
の改宗原理がどのようなもので、前任者たちがそれをどのような仕方で使ったかを聞き知るまでは。かりにいまの場合、君
主が、立派な政治をやるのに必要な説明をあますところなく求めていたなら、宣教師たちに認めていることを逆に全然許さ
なかっただろうに。彼は知っただろうに−連中は、イエスuキリストは強いて入らしめよと掩たちにご命令なさったのだ
などと主張していることを。つまり、福音書に改宗しないやつはみんな、追放してしまえ・牢にほうりこめ・拷問しろ・殺
せ・ドラゴヌリにかけてしまえ、そして福音の前進をはばむ君主からは王冠を奪えなどと主張していることを。シナの皇帝
が弁解の余地のない迂闊さになんと一、言って申し開きができたか、もしこんなことを知ってもなおかつ勅令を認めたかどう
か、保証の限りではない︵50︶。だから、皇帝の名誉のために、 こんなことはなにも知らなかったのだと信じなければなら
ないが、なにも知らなかったということ自体非難さるべきであるし、知っていなければなら組ことについて、かれには皆目
ル
情報がなかったのだ。どうやら皇帝は自分の怠慢を償うに足るほど長生きしないらしい。しかし彼の後継者たちがその記録
とクタトウ
を呪わないなどと抗弁してはいけない。というのは、後継者たちは、考えるいとまもあらばこそ、ただちに新宗教の宗派の
者が煽りたてる危険な叛乱に抵抗し、自分たちの首がしばられないことを望むのなら、彼らをしばり首にしなければならな
い浮き目に合うだろうから。多分、かつて日本でやられたように機敏に処置する必要が出て乙よう︵51︶。強制のドグマを
実行に移し、暴動とドラゴヌリのドグマを実行に移さねばならぬ折には、宣教師たちがたがいに喧嘩に打ち興じているとし
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
ても気にかけるな。トマス派︹ドミニコ会士︺もスコトゥス派︹フランチェスコ会士︺もモリナ派︹イエズス会士︺も、そ
のときになれば、みな同じ穴のムジナとなって、強いて入らしめよを実行すべく協働するだろうから。﹂
右のような所説は、当然のことながら寛容論のプロブレマティックを惹起せずにはおかないが、ここでは﹁ベールのよう
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
にあらゆる宗教・あらゆる宗派の全般的な寛容を説く﹂︵﹃ピエール・ペール著作集﹄第二巻、﹃寛容論集﹄、訳註︹三八七︺、
六六三ぺージ︶という場合、そもそも﹁あらゆる宗派﹂の内に﹁法王教﹂は或る意味では含まれていなかったのだというこ
と︵前掲書、邦訳、五六九ページ以下参照︶にさしあたり留意しながら、シナにおける布教問題が、こういう寛容政策とい
う角度からベールの関心を引いていた事実を確認しておこう。なお、註︵49︶は、 シャルル・ル・ゴビアンO訂ユ窃ざ
Ooσ一雪神父の本﹃シナ皇帝勅令史﹄=一・8マ08ま島け曾一、oヨ℃Ro昌号﹃O﹃ぎρ℃罪す一$oo嵐匙山Nのことに言及し
ているが、この本のことについては先の研究書には収録されていない。ただし一七〇三−一七〇八年の六巻本をル・ゴビア
ン神父が監修したことは出ているが︵o艶。マ含fP旨いい︶。註︵50︶は﹃︿強いて入らしめよ﹀というイエス・キリスト
の言葉に関する哲学的註解﹄OoB目睾冨蹄。℃窪目88﹃一ρ器ω耳8ω冨3一窃牙嵐の拐6ぼ算一8口写豊島−ざωα、窪πR一5
一或る匿名作家の宗教批判 その二一 一〇五
1論 文一 一〇六
〇。?o。Sを参照せよとなっているが、同書第一部第五章以下は﹁シナ王国﹂へ﹁法王の遣す宣教師が福音を説くため﹂現われ
ヤ ヤ ヤ ヤ
るという﹁仮定﹂の話が中心になっている︵邦訳、一一六ページ以下︶。 このようにベールは、比較的早くから仮定の話と
して、シナの宣教を想定する論法を用いているが、啓蒙主義者はこの種の論法をこのんで借用するであろう。ちなみに言え
ば、 ﹁フランス文学史﹂では啓蒙の世紀の一特性として﹁異国趣味﹂をあげ、その好例としてモンテスキューの﹃ペルシア
人の手紙﹄い。耳器ω℃R器口窃しおピをあげるのがつねである。しかしベールは﹁趣味﹂程度のこととしてシナや日本のこ
とをとりあげたのではない。もっと深刻な﹁良心の自由﹂の問題として、ポレミックのなかでとりあげたのである。寛容論
者ベールにとって世界のあらゆる宗教が思考の射程に人っていたし、当時ごまんと出版されていた異国からの報告集のたぐ
いを彼は克明・丹念に追っていた。そのことは註︵51︶;つまり﹁日本﹂の項目、註Eを参照せよ、との註記一を参照
してもよくわかる、﹁日本﹂の項目の註Eにおいて、ベールは﹁最初の三世紀﹂までの﹁キリスト教が、臣民に君主に従え、
反逆の手段で王冠を奪おうと望むな﹂と説く柔和、柔順な宗教であったのに、十六世紀以来説かれてきたものは、 ﹁血みど
ろの宗教﹂、﹁異端審問と十字軍と臣民に反抗をそそのかす回勅﹂の宗教であったので、日本の支配者が﹁君主制の転覆と国
家の荒涼を未然に防止しようとして﹂とったキリスト教の追放令は、 ﹁慎重さがしからしめた手段の部類に入る﹂と断じて
いるのである。しかも、こうした異国、シナや日本への関心がベールにあっては永続的なものであったことを知るには、
﹃ルイ大王のもと、カトリック一色のフランスとは何か﹄と題するパンフレット︵邦訳、四四一四五ページ参照︶や先にあ
げた﹃⋮⋮哲学的註解﹄、第一部第五章と﹃歴史批評辞典﹄の項目とを比較してみれば一目瞭然であろう。参考までにほん
の一例をあげておく。
まずは﹃ ル イ 大 王 の も と ⋮ ⋮ ﹄ で あ る 。
﹁同じ人倫の掟が、 フランスで最近起こったことをシナの皇帝に知らせ︹ユグノー大弾圧︺、王様が大数学者というふれ
こみで先頃かの国へ遣された宣教師についても、しかるべき対応措置を講じさせる義務を君子に課していることは疑うべく
もありません。はじめは黙認されることしか求めないこの連中が、実はあの国の主人になり、次にはどんな誓いも、旧来の
宗教の安全をはかるため作成され締結された勅令や条約もおかまいなしに、喉もとに短刀を突きつけて万人に洗礼を強いる
のを唯一の目的としていることを、あの皇帝に知らせる義務を誰しも良心に負っています。﹂
次に﹃補 遺 ﹄ で あ る 。
﹁載る歴史家はローマ帝国を一人の人間になぞらえたが、同様の比喩でキルスト教を協ん価して悪いわけはあるまい。子
供の頃と青年時代の初期は運命の荒波に抗して身を立てるのに必死だった。温厚で慎ましく、謙虚で忠義をつくし、慈悲深
く親切なふりをして、おかげでようやく悲惨な暮らしから抜け出し、そればかりか高い地位にまでのしあがった、しかし、
こうして偉くなるとたちまち偽善とはおさらばして暴力をふるいだし、反対しようとしたものを見さかいなく荒掠し、十字
本、韃靼などまだ血で汚していない地球の残余の部分で同じことをしょうともくろんでいる⋮⋮﹂ ︵邦訳、、同書、一二五
軍でいたるところに荒廃を持ち込み、さらには身の毛のよだつ残虐行為で新世界︹アメリカ︺を破滅させ、今でもシナ、日
−一二六ページ︶
実に﹁宗教の残虐さ﹂のみに焦点を合わせるなら、ドルバック男爵の﹁訳﹂に劣らぬ鋭い告発文書である。これはいわば
﹁内部告発﹂の文書であるだけに、その説得力は啓蒙の世紀の著作家たちを凌駕しているように思われる。
ヤ ヤ
歴史的にこうした先人たちの状況設定を形式として受けついでいるのが、ヴォルテールの第十九章﹁シナでの論戦を報告
す﹂である。本文の以下のくだりを参照。また翻訳では矢沢利彦氏の訳業︵平凡社﹁東洋文庫﹂︶を参照。
︵鍵︶ <〇一3胃。”oマoFマ曽ωい
︵35︶ もちろん﹁ひとつの流れ﹂にすぎない。通常、啓蒙の先駆者として総称されるフォントネル閃〇三9毘。やフェヌロン
問診〇一9とベールとの異質性は、手にとるように鮮やかなものであるから。ちなみに﹃彗星雑考﹄の邦訳解説において批
判されているアラン・ニデール≧巴p2三段曾は、 フォントネルの専門家で、前期啓蒙のとりわけフォントネル的な流れ
1或る匿名作家の宗教批判 その二一 一〇七
!論 文一 一〇八
にとらわれた視点でベールを見ていたことから、ベール解釈においてつまずいたのではないかと推測される。この前期啓蒙
の﹁胸分け﹂は、きわめて肝心な作業と思えるが、いまだなされているようには思えない。なされていることは、前期啓蒙
が、あれこれの点で十八世紀の啓蒙本流に近いという引照作業のみである。 ﹁共時的読み﹂が必要なゆえんである︵邦訳、
﹃彗星雑考﹄、野沢協氏解説、六四八一六五〇ページおよび六五一ぺージ以下。 ﹃寛容論集﹄、同氏解説、八七〇1八七一、
八七六、九一二、九一三ぺージ以下、および九一ニページ以下参照︶。
︵36︶ 未開人ω器黄鵯は野蛮人σ胃σ巽P為黛高卑奄のと区別されなければならない。たとえば、ドルパックのヴォキャブラリー
においても、野蚕ハ応語のギリシア語的意味合いで用いられている。啓蒙主義者のヴォキャブラリーのなかでは、一見した
ところでは、ユダヤ教およびキリスト教の故郷つまリオリエント地方は、掛け値なしに野蛮人の住む場所で、そこでの宗教
は齢熟宗教であるどころか、僧侶のでっちあげ、絵空事であり、そこでの風習は、 ﹁野蛮で迷信的﹂であるかに見える。し
かし、ちょっと考えてみれば、ドルバック自身もあばいていたようにユダヤ教ですら実は﹀自然に対する恐怖﹂︵﹃神聖伝染﹄︶
から生じた邸然宗教であったはずである。同じことが、新大陸のインデヤンにも一一一言えないだろうかτ生のゆ一感まの人H日頃曾¢
き
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︵ヴォルテール︶、善良な未開人の間に叢生してい忙自然宗教がユダヤ教と同じ運命をたどらないとはだれが保証しえたで
あろうか。ひ⑪趣味呑麟、そしてこの意味に限って言えば、未開人−野蛮人のカップル概念は、啓蒙主義者の人工的な設定
−といっても・このような設定をもたらしたインパクトは﹁新大陸﹂として現実に存在したのだが一にかかる概念だっ
たように思われる。 ﹁俺のもの・おまえのもの一〇蜜幽霊。一一〇日一窪﹂︵r帥=99員 U芭£但。ω薯9信コω窪爵鐙。・℃感,
h80魯3密ω℃舞竃程菖8閃。巴雪μ℃”ユの幅目零ρP一2︶の区別とは無縁なラ・オンタン男爵の﹁未開人﹂もヨーロッパ
諸民族の腐敗した社会機構の批判としては有効ではありえても、真の歴史探究としての効力を、.、の﹁未開人﹂の概念に充
頌しようという意図は、大半の啓蒙主義者にはなかったように思われる。な野.なら、オリエント地方であれ小アジアであ
れ、ユダヤ教であれキリスト教であれ、ラ・オンタン風の原始共産制をしいていた部族︵たとえば、 ﹃百科全書﹄の項目、
﹁バキオニト﹂や﹁ベトウイン﹂⋮⋮︶や宗団︵エッセネ派など!ヴォルテールも言及しているとおり︶は存在したから
である。 ﹁新﹂大陸ということで理想のユートピアをヨーロッパ人の間にかきたてたことは考えられるにしても、そもそも
﹁善良な未開人﹂が歴史的探究とは直接かかわらない人工的な概念設定ーキリスト教の原罪ドグマを批判する底意もそこ
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にはあったにちがいない一であったればこそ、十八世紀ヨーロッパ・キリスト教文明に対する批判は、それだけ強烈なも
のになりえたのである。現にラ・オンタン男爵は、のちに見るように未開人アダリオの口をかりて、自由自在にキリスト教
批判をやるのである。つまり﹁未開人﹂は、こうした藉口の絶好の道具だったのである。
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自分たちの宗教道徳の根に合理的な要素を見いだし、それを復興しようとする運動が、当然のことながら、キリスト教の
枠内にとどまっていたのに対し、 ﹁善良な未開人﹂と﹁残虐な﹂キリスト教の先祖たる﹁野蛮人﹂を介した宗教道徳批判
は、ラディカルでキリスト教の枠を破壊する方向にむかって行く。カントや初期ヘーゲル︵﹃初期神学論集﹄ではイエス・
キリストその人が、﹁自然宗教﹂の体現者であるかのように描かれている︶、あるいはイギリスの理神論者たちは前者の方向
をたどり、フランスの啓蒙主義者仁ち︵とくにディドロやドルバック︶は、非寛容な﹁カトリック一色のフランス﹂に生き
ていたため、後者の方向をたどった、フランスの啓蒙主義者たちは、カトリシズムと衝突しないでは﹁自然宗教﹂ですらも
追求しえなかった。カトリシズムの信仰を支える土台が、プロテスタンティズムやその他の新しい改革派諸宗教とはちがっ
て、個人の信仰と神の意志との間に地上の仲介機関ーローマ法王を頂点とする教会組織1を置くものであったため、こ
のような事態が生じたのであろう。
︵37︶ い帥=9990Pgf℃PO?OO・︵強調符は筆者︶
︵38︶ 一互拝P一〇9
︵39︶ 一玄血●ワ一〇ド
︵40︶ ぎすPHOP
i或る匿名作家の宗教批判 その二一 一〇九
i論 文一 一一〇
︵41︶ 未開人にも天国は開かれているかどうかをめぐるプロブレマティックであることを念頭に置く必要がある。ラ・オンタン
男爵は・同じ一七〇三年に出された﹃北アメリカ覚書﹄蜜びヨ。凶器ω号一.>目論5斥ω88旨﹃ご口四一〇のなかで、善良な未開
人たちの神性の特徴を述べながら、この問題を展開している。だが、インデヤンたちには、そもそも﹁救済﹂ということが
わかっていないのであった︵号置‘PS鉾︶。
︵42︶ 一σゆαこマ一〇幹
︵43︶ ドルバックもディドロも旅行記ものの一大コレクションを持ち、たとえば﹃神聖伝染または迷信の自然史﹄や﹃百科全
書﹄の諸項目執筆の際に、己れらの資料を駆使したから、表現まで似てくるのも当然である。しかも、ラ・オンタン男爵の
この﹃⋮⋮対話﹄の魅力は、それがたんなる旅行報告に終わっておらず、 ﹁彼がそれについてほどこした解釈﹂に起因して
いたことを勘案してみるとき︵o酒家一9鑑oU琴冨茸>旨げ容℃o一〇〇q帯雲田29器帥¢巴警ざα3ピ¢旨5器即男ゆH貫一Sピ
マ5ピ︶、この会が、ドルバックやディドロに大きな影響を与えたと断一 一・して一向にさしつかえないのである。また、この
本は発行と同時に﹁ものすごいスキャンダルをまき起こした﹂︵oPoぎ︶が、それは本書があまりにも強烈な文明批判だっ
たからである。未開人を概念的に設定しての文明・宗教批判のいまひとつの証拠。
︵44︶ 一σ一α ‘ ロ ℃ . 一 〇 ω 占 8 ・
︵45︶ ローマ法王は﹁破門した人をみんな地獄へ送っている﹂とアダリオは批判し、 ﹁イギリスでは彼のことをばかにしている
じゃありませんか﹂とその博識を披露して、ラ・オンタン男爵を因らせている︵一三負箸・一81一〇ド︶。そしてラ・オンタン
男爵に寛容にかかわる問題をつきつけている ︵庁詫;P5鉾︶。 乙うしてアダリオの提出する宗教像は、理神論に傾いたい
わゆる自然宗教である︵ぎ匡4℃P一〇〇〇山09︶。
︵妬︶ 一げ誌こワ一㎝ド
︵47︶ 一σ盈‘層P嶺ω占㎝“・
一一一
未 完
︵娼︶ たとえば感覚論哲学の創始者、コンディヤック師の常套手段たる事物の原点を一種の想定された﹁白紙状態﹂に求める方
法は、この時代のフィロゾーフたちがージャンUジャック・ルソーも、 ディドロも、ドルバックも、エルヴェシウスも−
一げ置‘OP誘6Sペールなど亡命ユグノーの影響と考えられる。
一好んで﹁自然状態﹂を仮定した乙との内に、見事に反映している。
t或る匿名作家の宗教批判 その二−
言ざ﹃20U仁。び9”oマ9fマ斜ooωい
((
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