...

第四十 八 巻 - 法然上人鑽仰会

by user

on
Category: Documents
20

views

Report

Comments

Transcript

第四十 八 巻 - 法然上人鑽仰会
第四十 八巻
崎潤十年五月三十日
昭和 =十四留守四二
月十八日 遭槍 省
昭和五十六年十二月三十玄目印刷
1982-
術協~倒~問問問
の
始
め
、
、
その教えは滅びることなく
、
今の世に伝
人々は永遠の生命の中に救われる、と説かれた法
然上人。そのお身体は滅して再び垣間みることは
ないが
わっている。その時から、どれほど多くの人々が
くとも、そこに生きなければならない。そして時
とてもかくても、この世が住みよくとも住みずら
修行も必要ない。難解な経典に顕を悩ますことも
中によみがえって行ったことであろうか。苦 しい
うか。この世の生命は尽きても、永遠大
の生命の
送り、やすらかに生命を終って行ったことであろ
、
その教えによって心のやすらぎをおぼえ日々を
かたちあるものは必ず滅する。仏教の基本的な教
。
人はそれを真理と呼び、永滋の生命と呼
八 OO 年もの昔、なむあみだぶっと称えれば、
。
λv。
、
静かに考えてみたい。
、
と信ずることであ
ハ佐藤泉純〉
度、来るべき日々をいかに有意義に過すべきかを
って歩めばよいからである。年の始めに、もう 一
の定まった旅は心強い。ただひたすらにそこに向
い山や坂がまちうけていようとも、目ざすところ
、
旅には前途に不安を感ずる。しかし いかに険し
さて
心は決った。人は目的地のさだかでない
っと申して疑いなく往生す右
いらぬ。ただ往生極楽のためには、なむあみだぶ
ぶ
ある
えの一つである。しかしこの世に滅びないものが
がくると静かに消えて行かなばならない。すべて
人はこの世に生をうけ 長じては家庭を営む。
年
W//Q'~係筋鐙修修:w&.必修必~必修修~必~必~勿微量
i 正月号 i
諸行の中に念仏を選択して、
もって旨帰となす。
一-r選択本願念仏集』
〈定本法然上人全然 1
P.
1
9
6
)
巨次
水子地蔵に涙を流す日本の姉人・-…….. .・ H ・...… 林
霊法…… (2)
一一法然上人ご生誕八五O年i乙思う一一
一一一一法
筏一一一一
光明と生命の信仰...・ H ・ H ・ H ・ -…...・ H ・... ..・ H ・. ..・ H ・土屋光逝…… (7)
初
ffi. .. ・ H ・...・ H ・..… ...・ H ・ H ・ H ・...…....・ H ・ H ・ H ・..細図隆替…・・・(14)
|俳文 コーナー l
ロ γ ドンの虚子先生句碑湾坊の旅.. .... ...…塩山三九…… (21)
命へのめざめ・・・・
跨・・
.
.
.
.
.
. …....
・安居容山 1..・ (16)
・ 福寿草・…....・ H ・.....・ H ・.....・ H ・.....・ H ・..・滑川宗治……(13)
<ft者のベージ>
組母は京しき菊仏…....・ H ・..…...・ H ・.....・ H ・-松本恭子…… (32)
浄土句集...・ H ・......・ H ・-…....・ H ・...…....・ H ・-一回牛畝選…… (28)
<表紙の ことば>赤宮土...・ H ・..…...・ H ・・ H ・ H ・..・・大
西
緋
三…… (30)
<表紙..場頭雲>年の始めに一一・…・…...・ H ・...…佐藤
良
純
念仏ひじり三国宏、@一一法然をめぐる人 A ………寺
大吉…… (35)
事後紙
カァト
-}-
内
大西緋三画.
大豆大学鍵帰郷
万
語 雲君 子
晶晶 、
息
霊 山ま
ミ5 イ五 う
、
大抵は妊娠中絶の姉人であると言
、
立って来た。もっともお守と地球さんとは背から深い因
涙を流して来た。それは家の事情や公のためにやむない
を悲んで、お守の水子地蔵さんに祈り、そのチのために
、
綜があるのだから当然のことではあるが 近ごろは地蔵
私はそうした地蔵さんをおまつりになっている寺にき
日本人の現在の生活程度は、一般的に言って 、まこと
ことであっただろう。しかし、汲近の円本の繁栄社会で
う。昔から日本の母親たちは流産や間引きで失った子供
流産の場合もあるが
いて見た。どんな事情でおまいりに来られるかというと
山
-2-
水子地蔵に涙を流す日本の婦 人
ー法然上人 ご生誕八五 O年に思う|
O 水 子地蔵さんがふえて来た
富
は事怖が少しくちがって来ている。
本の苅に水子地放さんをおまつりするのがn
大
本
につく の で あ る 。
、口
林 tま
さんに赤いよだれかけを首につけた可愛いお姿がよくn
最近
や
〈し
、
、
松近
、
今.くむ似の相泌である。しかもアジアの後進
に恵まれている。米財アジアの向じアジアの兄弟にくら
べたら
、
初『での家払の教は非常に多い。三人間人は少い点で
一
六人九人というのが将通だろう それにくらべて
の調査では日本の一家旅の子供のぷはて同位となって
いる。ここしばらくは少しづっ更に低下して行くの であ
、
、
一万で
妊娠中絶も随分と沢山に行われてい
、
、
いく人もの子供を義行することの苦労をはぶいて子供一
、
人に斜の枇必を時注する。それはチ供の教内
け
や就職も
この間ではさけようとするからである。そして
は親自身もなるべく渓な文化生活をして ゆとりのある
こんな事情から
生活を楽しもうとする。
る。外国人が目本には三つの天間があると言う。一つは
、
、
相当なものであ
、
それ
る。日本で一九四八年 初めてこの妊娠中絶が併される
国だと J われているところから見ると
、
る。ヨーロッパでも同じ事情で 先進国ほど一家族の子
、
この十四 五年間に出生事が五割減となっ
一つは子供天国 そして一つは駆除天
無宗教者の天国
、
供の教は少い。日本と同じように戦後の優等生である西
トイツでは
、
ている。この傾向がつづくと、今後二十年間に西ドイツ
、
出掛川の小で 特に純済供病の一帯に γ刊しい必中 で
、
ようになったときの引怖を考えてみるがよい。終戦後の
ると右われている。私は子供を産まない同氏は、雌史的
、
も生活上からやむを得ない呪怖にあった.たろう。ところ
日
は子供が二人三 人と生まれるのを拒否しているのであ
日本の鈎人
なるべく子供の訟を少くするようになっ
る。しかも妊娠中絶を体験した日本の沢山の財 人 には
、
本人の経済生活はその時分とは全くくら
に日比て
e同
H の文化と伝統に死刑を覚作しているものだと
今日では
、
それは経済的な観点から来ているのでは
べものにならぬほど費沢になっているのに
本の家庭では
、
、
、
て来ているが
そのことか大きな μ心の悩みとなっているのである。
、
と商築資本が人聞の悠盟本能をかきたてる。いわゆる貰
沢貧乏のありさまである。そして家庭における主婦も
O わが命は賜りたるもの
ない。生活が貰沢となり便利となって米て 次から次へ
日本の将来を考えていろいろと憂慮される。今日の日
が
現 A
伐の六千万人の半数に洛ちて行くことにな
ー
思う。
の人口は
3
-
なぜも
に尊いものであるか、それを知るにはわが命は白分でど
うのこうの出米るものではなくて
、
っと根本的な問題を問いたださぬのであろうか。水子地
のが併で殺すということは、何としてもそら恐ろしいこ
日本の仏教者はこうした臼本の現状に対して
伐をおまつりいたし、若いほ純たちの良心の柿みをやわ
らげてあげることも紡織だか、もっと製本に任制小池と
とである。
自然科学の教えるところによれば、冷却した原始地球
n分一例
るということを知ることである。協りたる命を
、
突に臨りたる AW
であ
いう殺人行為に対して、川仰い・日誌4
をえることが大切な
叶
はずである。仏教こそ生命の時さを鋭い立机明から説くも
、
が生まれてより
今日まで%に四十六億年を経過してい
のであった。この点については、日本の仏教界も市民団
ると言うことである。始め十億年闘は まだこの地球上
、
体も 、まことに あいまいな消筏的な安勢である。
して化学作 mのみ行われていた。やがて十億年後に、偶
、
に生きものの原型となるものは発生せず 氷点をもとと
きびしく態度を明確にしている。「設すなかれ」という
然のい会に地球
これにくらべると、キリスト教界、特にカトリックは
伯仲の拡は 依然として有効である。人間は任娠のときか
三」
lA
ハぼ
それから生物巡化の陛山人が飴まった。そして
、
ら生命の不可伝的な依利を行しているはずである。妊旧制
てに人間という今日のよ明人
布?という長い民い進化の
mx
私ども人間が今日地球上に繁栄するまでに
、
k に生命のもととなるものが内克して、
中絶は析しい例他をもっ人生を殺すことで、それは倒・泌
、
が生まれ山て米た。
そこで
が人聞の生命と尊厳を刑法によって保躍することを断念
いまの日本人のわがままな生きざまで、果して
したことになるのである。
、
、
は 突に気の速くなるような長い歴史を有して来たここ
、
にいま一個の人聞の生命が生まれ出るには この長い
本の繁栄を保持して行くことが出来るだろ
間、時間的空間的なあらゆるお背ての時い無誌の関係に
一体
いつまで
a
う。妊娠中絶については、いろいろな理由や事情をつけ
よるものである。仏教ではこのお育ての関係を総という
、
が、このあたたかい紘が金総全うせられてこそ、初めて
n分だけのわがまま勝手か
ているにしても
柏崎的には
らのこと.か多かろう。人間の生命というものがどのよう
、
、
また無尽に結ばれ
この噂い市尖をあらわしている。緑りて起
生まれ出ることが出来るのであった。紘起という仏教の
線本思想は
、
るる無電の関係が重なり抗なり会い
あると、謙底と畏敬の ζころをもって受けとる安坊が生
、
に対して 相川は賜りたるム川・としてこれを交けとる姿勢が
まれてくるのである。自分のおなかに病った一つの供命
、
、
、
天地の大罪を犯すことである。わが身
噂くも・お育てを受けて生ま
、
せっかく自分に賜りたる千載一遇のわが
手な現の生きざまであろう。
O 家庭 教 育の 誤 りは
こ こか ら
、
欽年前のことである。西ドイツにおいてドイ
、
刑法釘
妊娠中絶の問胞について激しい政
γ
子を殺生して生き残ろうなどと考えるのは 何という勝
れ出でながら
、
当然に生まれてくるだろう。おなかに宿った生命に対し
、
て
いまここに一つの命が起り出ていることなので
合うて
どということは
人間として有ることはむつか
本当の意味
と言うことになる。私が狼や犬に
、
火山問や水
などというわがままからこれを処抗するな
ある。この長い間どこかで一紙欠けたり 結び方がまち
、
人間に生まれ出たことを
、
困った
がったらいまの人間の生命とはなり得なかった。こ の史
がいく十億年のかなたから
、
にむつかしい ことがいまあらわれた。むつかしとは 難 し
、
、
ありがたいなあ
それを有り難しと幅引く。この言葉をすなおにめ読
と 3 く。人間と生まれる
、
しい
ば
生まれ出ずして
、
この生物進化の長い退担で 生命の発展には
でエリートだと思う。更に考うべきことがある。それは
二一八条をめぐって
、
等から吏に組物や動物等の 災に他からのさまざまな献
治論争が行われた。
、
、
いく十億年の良い問 無放の他か
この一二八条というのは、永だ生まれていな
い胎川んを
わが身の養育されて米ていることであ
身の上にこそ
、
も合む人命 qd の法徐である。 pn
うまでもなく妊娠中絶
る。只今の私の命は
らの無償の献身の上にこそ、長安されて来たものであっ
を否定して生命の保全を約束したものである。ところが
性であって
、
女性
n身の体に対する自仰を肱印として、
、
この一二八条の修正法案が出されたが その挑進%は女
たということである。
、
実に天地の大生命より賜りたるもので
、
こうした生命の深奥伎を向日ハ比して来るとき
わが AW
わ
がものにあらず
5 ー
-
ついに法の修正に成功した。修正に反対したのは主にキ
てくる子供は賂りたる命であったのだ。先ずこうした親
f地球さん
、
自身が自分の人生にどのような姿勢で生きるかという
、
保
リスト者であった。彼らは胎児でも人命と変りはなく
もう一度立葉をくりかえそう。水
親自身の生きる姿勢の問題がここに問われなくて はなら
、
、
護されねばならぬという立場であった。この修正案を通
デモ
ここで
ない。
は私のものだ」という大きなプラカ l トを掲げて
、
過させる運動の中で ウーマンリプの代表者たちは「臨
の仰に涙する前に、えらばれてこの枇に生まれ似て米た
また人
行進をした。これは克に K 性の胞は生命のため
て
わが命の咋さをじっと見つめてみることである。そし
、
頬の次の世代を生むためという、大切な使命を忘れて、
、
生命の将泣とか
、
それでもなぜ咋
人間の咋舷などと AH
、
今日の汗少年が自らの命を断つという
、
アのあの貧しい同
、
には欠けてしまっている。
それに日本の仏教おは
、
水子地殺さんをまつる前に
そ
、
る。とぼしきを飯ち合うという仰い心が いまの目本人
Aの生活のことを思いおこすことであ
子供は何人あってもきっと脊って行ける。問じアジ
個人の 所 布 物 に 堕 し て し ま っ た す が た で あ る 。
円 本教育は
とて同じことであるだろう。今
この事実は日本の湯 An
日の
t 策だけを長耐的に甘うだけであって
、
、
的ぷ教的に品川りさげて教育をしては
掛白P川
いない。だから
いかについて
、
なぜもっと生まれ出ずる命の時さを説かぬのであろう
る。一つの生命の誕生が
、
こんなに借一兆の人々に将いお
今年は法然上人のご誕生八有五ト年の必念の年であ
れでよいのだろうか。
か。すんでしまったあとの祭りだけを慰めるだけで
、
いたましい自殺の現象が年々ふえているし 、一 方では陪
葬
n 出だと与え、
られていくという恨突になってあらわれている。
閣の 中で拙 角に速いかなたから望まれて宿った命が
のほ純は、生むもやめるも自分の
nbA
には 、ま た祭主の人類の宝が宿されているはずである。
白川分の子供はすべて円分が生んだ怠有物だとてっきり考 念仏の光を与える結果となったのだ。無数の生命の誕生
えている。ここから、今回の家庭教育のさまざまな悲劇
が生まれている。自分がつくるのではないのだ。生まれ
6 ー
-
…法
、
、
、
それほど新鮮
昨日とは民って
、
天も地
の
近年
、
、
SSE-
、
何かしら
、
明治神宮をはじめ
、
各地の神社や仏閣に初詣す
人の心を引き立たしめるもの
、
信仰している訳ではないのだが
、
何か臼常将段の気分と
、
昨に比べて世の中も変ったが 日本人の心
、
違った消新な気持な求めて行きます。
ずい分と
-7-
m叩
還 道f
さえずる
野も山もみな一一聞に存陽の輝くのを覚え
、
^l主
大変な数になります。別に明治天皇を神として
る人は
を感じます。
鳥の芦にまで
も
学窓 光 ;
Eι
、
、
別にそう目出たい気分にもなら
、
味 屋や
話 川
「お白出とうーーって
何か気分が変り
いよいよ元日と
ん。今年も寝正月だ」と云う人もいるようです。
、
火浄
日川
「もう縫っ絞るとお正月・・・・
・・
」
、
之〉
口p
指折り教えてすの人は新しい年の始まりを待ちわび
生
な期待と喜びを持たなくなりました。かくして中には
たものです。それに比べて 最近の人は
と
と
それでも、たった一日の迷いなのに
もなると
( 土之
光
佼
、
、
身心
、
わが生活を反省し
光のな
、
そこについた汚濁の邦械を払
、
、
は 決して物質的な座やごみだけを払うのでなく わが
、
とゐ
ロ ・
意の三業(行為)の
、
この煩悩の悪しき働きによって人間本
ばんの,
ぼりプ鶴(いかり〉 ・痴ハぐち〉の三つを頭とする 沢山
管ん命、、
罪を厳しく内省しました。人間というものに
、食 〈むさ
・
い消める大切な意味を象徴してるのです。
、
除をし 長い笹竹で天井の座を払う習慣があるそ
がれ
、
一年の最後の日を「大晦日」と云い 全国のお
-ぬか
の底辺はやはり 正月を迎える先祖の心が今も宿ってい
、
るのです。
さて
晦日とは
ところで、 仏教でも、この身
寺で「除夜の鐘」を配いて、新しい年を迎えることは誰
、
でも知っています。しかし その意味を知る人が段々と少
、
くなったようです。毎月の最終日三十日を略目と云う。
「
晦 」とい う字は暗いという意味で
、
の煩悩を発見し
最も光のない一番陪い臼ということです。
身中の敵であり 、 この無尽の額一悩を断絶することW
が仰山
、
衆生の心身を悩乱し、迷界に留
mm
め
mる獅子
来の聖い本伎が汚され失われていると考えました。この
、
煩悩こそが
い暗い夜の意である。これは、普は太陰暦で、三十日は
h
'
u
月が光を失う闇夜で、月が隠れる「っきごもり↓つごも
うのは
り」とも呼んだ。一年の最終を大晦日、大つどもりと云
この閣を滅尽した光明の世界が悟りの極地な
、
であり、そこに程祭寂静の其災菩提を証得することが理
、
てきました。中でも六月と十二月の晦自には「大級」の
る時に全閣のお寺で掩き鳴らされる「除夜の鈍」なので
に受けつがれたのが、大晦日の終り、新容の光りを迎え
この間と光りの仏教思想がさきの日本人の信仰の土援
ので、す。
無い閣で
ところで、それは単に、肉限にうつる外の世界の附さ
?内Wがれ
、
古来 、こ の身心の顔 毎日の生活の中に
自分の罪識であります。
、
想であります。そして この煩悩を「無明」、即ち光の
、
す。その内面の閣とは
だけでなく 、そ れは内なる心の世界の陪さであったので
わが国では
みを Me はら、
つもりつもった罪を払い浄めるために「艇と験」を行つ
儀礼をして邪気を払ったのです。今でも、大晦日に大舟
屑ばらい
初旬
-8-
,,
a
す。文字通り、夜を除く、すなわち
、
百八つもの多くの
無明煩悩の閣を一つ一つつき除くのであります。
過去に、いつしか積った、わが心身、わが 生活の罪障
、
、
深い宗教的な意味をこめら
の簡を打ちくだいて、そこに新しい光を仰いで、自己を
浄化する 素朴ではあるが
背の罪障の
、
、
n 己が死んで
、
まる」ことと問穀舗です。過去の陥閣の自分か新
らし
き光明の自己に改まること
、
新たな神聖な自己に潟生すること 、こ の復活こそが 其
た記
「正月」というのも、すべてを正しく直す月の意味で
正の宗数の線本要請であります。
、
、
、
、
小さき我款の正でなく
、
、
、
天地の心に
これまた 自分に都合のよい人だけと仲好く
お正月を迎えて、 すべての人がお互いに
まぬ神仏の心に融け合う心であります。
、
「お目出とう」
さて
と祝開をかけ合います。
、
それは祝われる人に向って云
、
決して云いません。すべての人がすべての人お
い互
に、
、
うので 祝われる御当人が 相手に「お目出とう」とは
回出とう」と去いますが
「結婚式」や「お託生日」、「喜芳、米官どにも、「お
、
する和合でなく 差別なく常に天地の一切と和睦してや
うことで
「睦月」と呼ぶのも 互いに仲好く睦まじくする月とい
・
あり 、そ の正とは
、
心を明るくするのであります。
hu?
れた慣習であります。今日の人は、速い先祖が味わった
、
規準に合わせる大正であります。また 古来、一 月を
、
容の日の若むの芽生えにもまし
、
身心を浄めて次に 元旦の初日を拝んだ時、全
深い意味を忘れてしまったのではないでしょうか。
さて
く新しい気持になり
て、 新たな望みと喜びと力とが身心に湧いて来るのを覚
えます。それは一体どこから来るのでしょう。
、
身を照らし
、
即ち日の出の密であります。この天の光
、
元阜の元は すべての始元であり ほとは地平線のよ
、
に昇った太問
が
弁栄上人のお歌に、
たえぬ光に照らさるる身は
日に新た日々に新たに改めん
とありますが、日本語の「あらた(釈ととは「あらた〈改〉
-9-
、
「お目出とう」と戸を儲け合うのは お正月だけです。
秋から冬にかけ 、一切の生命活動が停滞し冷い隙間風
の吹きさらす貧しい家屋に、ワラの中に薄着して寒い長
夜の明けるの宏待つ
、
面と向つては勿論、わざわざ年賀に訪れたり 賀状ま
で出してなぜ「目出たい」と云うのでしょう。この円玉
乳を求めて夜泣きする赤子、川一が出ても議も医抗引もなく
。
ただシ
l
、
ッと・半抱して
食べるに刷協なく、栄義化八耐の母の
が出たら大変なことです。打出たいとは、「芥川たい」
咳のしわぶきがとまらぬ老人
、
が本意です。
、
、
を待つ外ないのが
遂に春が来た
それを告げるのは 、「芽」です。「芽が
、
先祖たちの回答しだったのです。
旧態(除剛山〉の正月は現在の二月ですから厳しい冬の娘「
、冬米りなば 殺速からじ」と、一日も早く容の来るの
さの中にも、梅の替もほころびやがて鴬の初音も聞かれ
る挙節です。長い長い冬、待ちに待った春の訪れ。現代
新
出たあっ」 それは生命のあかし、生きのびた安緒
、
口本店で
、
芽が出る
、
芽がふくらんでくることが「めぐ
芽ぐむことは
、
「古河命」なのです。
大自然の生命のあ
、
のいのち、神仏の生だから、日間たく尊いいのち
、
即ち
も虫もこの私もこの「いのち」を別にしてはない。天地
らわれであり、天地の恩恵そのものであったのです。草
まさに
ったのです。
む」、その名刺が「めぐみ」で、明同等の「恕」の訓にな
また
から作った字なのです。
、
字自身が、実は 大地から芽が似て、二葉が拡がった形
、
人と遣って管は、衣食住すべてに、冬の辛さは身心にこ
生命の復活に胸ふくらませることでしょう。一
、
この冬の生活の E しさか
、
たえたことでしょう。早く暖かくなればよいと、春の陽
っとした伝
k に強か った
生の喜びの合い言葉でした。漢字の生命の「生」という
光を待ちわびる心は、私たち が想像する以
に迎いありません。それだ け に、ほんのちょ
って、冷くかじかんだ心がゆる
の気配をも敏雌に見活 さず 、パ vにほころびる一齢酬の梅
、
花にも在の匂いをかぎと
、
固く凍った大地にチラッときざす緑の芽生えを発見
しても
み
、
冬から春の季節の分け目だけを特に節分と
特別に行事をするのも
、
年に当然四つの節分があるのですが 四季の分かれ目を
、
節分と云い
呼び
らの解放の心からです。
10 ー
-
、
ぃ。、
、
正月を迎える許びは
、
まさに
、
、
天地の
「伝」の日本石附「はる」も
弓の「彊る」と制怠で
以上のように
はりきる、天地の生命の張ることです。
、
この民族的な
今日の私たちはど
もっと
、
光明と生命の信仰をおいてはないのです。先祖の生活に
、
とけこんだこうした紫朴な宗教心を
うも忘れてしまったようですが
宗教的心情を大切に伝えてゆきたいものです。
イエス織の誕生日を十二月二十五日とし、
これと関連して興味があるのはクリスマスです。御存
、
、
すべての人が「メリlクリスマス」と
この数世主〈キリスト、メシア)の降誕を祝う前夜祭にキリ
知のように
スト教世界では
、
、
なぜ十二月二十五日になったかとい
ローマの世界にも
、
イエスがこの目に誕生した証胞は何にもない
、
呼びかけ、この魂の次い主に祝福を搾げます。
しかし
古来
またゲルマン人の社会
、
いつかこ
いわゆる「冬至の祭」がありました。それが後
この世界にキリスト教が弘まるにつれて
、
、
のです。それでは
うと
、
でも
に
の日をキリストの誕生日にしたのです。
冬至の日は、一年中で夜が一番長く、昼が一訴短い自
です。太陽が最も低いところを通って酋に洗む。ところ
が
、
この冬至の日を境にして
、
、
慌が良く夜の聞が短
、
市内び 見と夜の勢力関係
が逆転します。ロが段 h向くなり
、
くなります。もう寒くてな「い冬将軍は敗れ
太院が今ま
、
での劣勢をはね返して復活したのです。人々は これを
イエス
キリストこそ
・
、
人類を死と罪の問点から救
、
「不敗の太陽」と呼んで祝福しました。そしていつし
、
、
ってくれた 生命と光明の復活の数い主の誕生日とする
か
、
、
「アミタ
「アミタ!」とは
、
、
、
イ
いわゆる
ユス」「アミタ 1ブハ」のこ
J量思憶を絶した
からい
、
アミタ
この天地万有すべ
すべてが生かされている。そのみ仏宏信
、
ユスとは「無仇の汚命」のことです。こ
1
プハとは「無品川の光
、
1
信仰の本ぷと中せます。阿弥陀仏とは
以上、光と生命への信仰について申し述べまし
ようになったのでした。
さて
、
突は
、
γドの合間で
たが
とで
l
「無量の」という意味で
明」アミタ
、
、
の無量の光明と HN
命の仏様によって
じ
、
、
その生活に顕現して行く信仰とそが 私たち浄土
その如来様に帰依し、そのみ光とみ命を人格にいた
てが照らされ
だき
-11 ー
ころ
、
、
、
、
毎日毎日が正月 いつも「光明と寿命」
、
の光と いのちを頂く ことが出来る信仰でありま
の教えであります。罪悪生死の凡夫が お念仏一つによ
って、こ
と
す。従って 正月一日だけが岡山たいのでなくお念仏
をする
、
、
、
この阿弥陀篠の尚光に浴する崎 明るく新たな
、
この肉体が
に復活する聖化の日々であります。そこに
極楽往生の士ロ日と化すのです。いかな
、
、
抑怖く倣悔して如
1
死 す る臨終すら
とたび
る冷たく暗い苦難の人生にあ司ても 一心に念仏してひ
、
、
、
、
年の年に当ります。
O
聖
法
然
上
人
お
誕
生
八
五
'身
H の再生復活の必念
信 仰をお授け
・本年はこの索引らしいお念仏の
、
る生きる背骨びと力とが自然とゆいて来る道理かあるので
す。
さて
下 さった
白己
この勝。称をいかに生かすか
すべ き年 にいたしましょう。
静かに過ぎにし歳月を惚うとき孟か旧作ぷのれ己を恥
え 九の担に
ぬものがありましょう。そこには幾多の悔いと改めと
、
施弘
ぃ
明
じ
、
りなくそそぐ
が必ずあり 変
来の思徳を感謝し 今年こそ賜わりし生命を汚さぬよう
a号
箸
M・.
人〆\
ニミ年一
令ツ
守・ Iilñ
。
妻苓尾F
F十T
- 12-
布
.,.
5
i !
や; d善、
小
スで現代 i一p
O買
目
計
止
,露a
に気珂成な停!il仏殺な
力強く弘しく明るく生き抜こうではありませんか。ム川敏
署 毒E代 宰 判三 ‘E宮子る.重主小布徳町 3
t 軍細t 世主 布震
ハ:I! J毛町
教的 恋
容
全
て 震主開 篤実な 夫
新
B
38干
1-12 込し
阪皇を三の
蜜警 布,E竜 聖の 4 2
E曲 5g量;2出2
;"
宙
好
ミーた
く 詩>
八
>
<
く詩>
く詩>
V
ネ面
寿
草
暖かくなりたい
、
小さな想いをかける
福寿草へ||
-|優しくなりたい
ー l
ひたすらに願う
むを止めて
自を止めて
福寿草に
優しい花
暖かい花
小さく貧色に-ほころんだ花
厳しい然、さの中で
幸福と長努を運ぶ福寿草
<
私は
かわ
1l
r
じ
治
||
-13-
>
清5
刀守
nま';/'~
初
雪
(細 2
U.*"-"
JII京
Eら回だ
血ー
m好
記臥
h
念室 i盗品
究 館院
う
主住
空竪普芝
一深 JII . 木鴻の雪景色ー
こま E
の探Z
烏' れ
みな e
JIi す
く小
叶さ
をき
溶健
治、
せ
り
台残
薬?る
と庭
樹の
名低
をき
掲木
ぐは
宅金&・
方'
葺
蹟き
隅
闇
'可き
雲川
をに
頃雨
へ降
るれ
ちの'
唄す雨
りの
た小
るさ
た I缶=
T主
主祭 t
ち堂K
m に'
iす
ぬ
- 14-
茸E ば
あた雪
り降
れ
小さき万両朱き突を持つ
その
ら
天雪
深々とヨ積りゐる庭先に
斑E
mv見つつゐてつぎの枇憶ふ
問
庭先の石熔暗に制りたる
庭
て7
れ
朝2 ぞ
肱?れ
lこ
tこ
映初
え雪
娘E 抱詰
めく
き玉
て砂
を利
りは
若し
の話
宿聞
にき
~1 た
の大
つる
か i !.i
り
ず夜
者め
あ辺
Iこ
れの
をは
り
のル
く雪
た乙
ゴに
ミ鰍?
m
の、
掃跡
寧残
し
むン
けの
る女
カ
4主
メ笑
ラみ
tこザつ
扱&つ
ら樹品
る氷2
1
'
f
'
豊転
かび
くみ
雪て
を墓ま
業主石ど
くは
丘
の
雪上
長i の
陀巴ゴ
なし
るオフ
ドれ
イを
羅らシ
ツ鈎ど
流院
のき
女く
性れ
し
- 15-
のッ
村ク
に寺
るの
る鐙
の
音
朝2 の
光存突
t
i
i Iこ
びま
てと
丸ひ
くた
絞る
け宮t
ゆ衣Z
く‘
鹿に注意の標識の見ゆ
のエ
町 Jレ
をソ
行の
胸に
な積
極主
ポへミヤの mq原貫くハイウェイ
わツ
れ z
差り
、ユンヘソの醤の舗道にまろぶとき
夜ツ
凍主
雪?
の降
サンタマリアの錨鳴り渡る
ツ
伍長たりしヒットラーここにたちしとぞ
Jレ
ツ
ぢをかぶりし建物古りぬ
Jレ
原2
貧に
富雲
下町の屋根の彩に降り積もる
るみ
りの
基主
需を見降ろすピルの屋上
め踏
独郎 3
庭園にキ十ンパス据へてゴ索色
食u 宮2
女E
錨きゐる乙女のブーツか赤し
庖i の
黍 t 溺12
ロ?2
ふかぶかと毘絞に広乗せ上野駅に
幌
みちのくよりの列車の若きぬ
札
、
、
この程私は、やっと知ることができた。そ
本当のことは何も分っていないのだと
いうことを
私にとっては
、
私は徐土祭の布教シリーズに
させて頂いたのであった。
数年前
、
、
、
、
、
、
、
、
人生は無常で
その無常の死に直面してからめざめていては
遅い。「他践で力ある時」こそその事実にめざめて
あるから
の六時礼讃の無常備を取りあげ 大師が
めよ」と題した小冊子をものした。そこでは 善導大師
「無常にめざ
であった。還暦を迎えて、始めて命の有り難さにめざめ
、
設に得態ぃ 布り雌い体験
、
、
、
の
頭でいろいろと考えていても いざ現突に直
'
"
してそれは
面してみないと
人間は
日p
「常住」の世界を求めよとさときたているということを
め
安手
芸 香3
香 山支
癌におかされた持本
学
、
、
、
大きなシ
、
g
ツタた受けたが
、
、
苦悩の
大いに決意する所あり 痛と闘いながら 命ある限
、
、
、
二人共
、
立
それ以後約十年問 一一一橋さん
、
たった二年間生きられたのであったが
、
、
、
三橋さんは 二人の子供の為に 「湖の伝説」
、
岸本先生は、京大の図咋館長として 立派な図峰村館を
派な仕事をしてこの世を去られた。
は
た。そして 岸本先生は
り自分のなしうる最高の仕事をして死のうと決心され
末
ことを知らされて
家の生涯のことを掲げておいた。ニ人は白から痛である
、
英夫東大技授と 一二橋節子さんという一人のうら若い画
、
E 居L
更にこうした事例の一つとして
説いた。
さ、
完成し
- 16-
,h.
め
という十枚続きの絵芝居を占き残された。織原級氏に言
わせると、痛と知って以後の三崎さんの絵は、鬼気せま
る傑作であるという。
、
私はこの二人の事例を掲げながら、この二人は、死刑
、
その死を乗
その偉大きを讃
こうした人を手本とし て、 た
、
目されたものの 強い意志カによって
をgk
、
り越えて人生を全うされたものとして
えると共に 、わ れわれも
、
、
その突私自・身へ
、
、
、
、
一大鉄槌か打ち落される日が この七
、
、
、
よくたしなめてくれていた。決して
、
ある人に強くすすめられることがあ
く、気の趣くままに仕引や研究に柄をだしていた。
この七月三十日
、
って いやいやながら一日人間トッタ入りをした。二年
、
その時は
、
、
特
昨年は 別に何処も悪くない
、
、
、
勾,
である。それは 誠に哀れではかない存在という外ない。
こうした弘に
月突然にやってきた。
、
小さいながら一
甚だ私討すにわたる話で恐縮であるが
、
僚友たちはそんなに飛び廻っ
仏徒の体験談として これを語ることを許されたい。
私は平素筏めて元気で
ていて大丈夫かと
、
されているのであるから 善導大師の教えにもあるよう
、
、
この時の私の気持ちの中には
その小冊子では訴えておいた。
、
、
「われわれ」と
健康というわけではなかったが これという病気もな
と
勿論
いう三人称的呼び方はしていたものの
いつなんどき私も 二人
前にも同織にお位話になったのであるが
、
、
ドッグ入りをお断りした。しかし 今
、
ところがである。円のレントゲγ写真を見せられて
るままにトック入りした。
年・は、昨年休んだこともあって 渋々友人にすすめられ
からというがで
、
の反省でもあった。又 事実
、
その心懸けで努力しようという気持ちで筆を走
、
限の
た。そんなこともあって
にどこという悪い所もなく 医者からも太鼓判を押され
、
、
われとわが身を見失っているもの
、
すぐ忘れてしまい日々の多忙の中に
人間などというものは、戎る時期にはそう考
又講演などもしてきた。
、
、
前の事のみに追われ
えていても
しかし
らせ
くない
のような状況に立たされるか分らぬので 今からでも遅
、
、
に 健康な内に 常任を求める努力をしようではないか
とえ痛にならないまでも すでに生れた時に死刑を宣告
。
私は内 心 「 ア ツ 」 と 叫 ん だ 。 胃 の 中 の 上 部
、に
三 センチ
一室で一人いた。たまたま議演の約束があり、そこが宿
、
最悪の
やってくるのだ」
そうした不安がつのると共に
、
私は死そのものに畏怖
いくばくかの猶予はあるとしても、その時は間もなく
、
「ともかく私は はっきりと死刑を立倍されたのだ。
、
真赤になって沈む夕日をながめながら 私の物思いは一
、
舎であった。利根川に面したロイヤルホテルの一室で
、
大のこぶができているではないか。何も分らぬ私は「ヤ
さい」
、
、
事もなげにいわれた。しかし、周知のように 警え
、
「心配はないでしょう。まあ胃カメラを呑んでみて下 段と探くなっていった。
、
ラレタ」と絶句した。しかし 医者は冷静に
と
癌であったとしても
、
、
本人に伝えないのが 今日の医学
の常識である。当然の事ながら 私もこの瞬間
した。死そのものを恐れただけではない。私にはまだや
脳纏を・去らなかった。勿論、そ
、
、
伝道設会の仏教盟典とバイブルが
典をめくった。何ページかを読んでいるとき
、
、
ふと私は
、
、
Eかれていた。溺れるものは提をもつかむ思いで仏教聖
テーブルの上には
私のはかない運命なのろった。
い。何故、天はこの私を見離したのであろうか。私は、
りたい仕事がいろいろある。とても今死んではたまらな
二週間かからねば分らぬという事であった。
こともありうると考え、傍然とした。私は早速、お願い
、
して、翌日円カメラを答んで検査を受けた。その結果
は
官の堺市λを知ってからは、利払の総ての思考がこれに集
るまいかという不安が
中した。そして、故も恐れていた織にやられたのではあ
、
の夜から睡眠薬のお世話になった。私は、病気に非常に
「生ずる者は減す」
という、見なれた語句に直面した。しかし その瞬間
ナ
メクジが塩をかけられたようになって、よく家族の者に
弱い男である。病気は気の病というが病気になると
、
ツクを受け その語
「そうだ。これだ。これが生を受けたものの真史相で
g
私は強い雷光に打たれたようなシ
、
笑われた。ましてや 恐るべき不治の病に犯されたので
句を見つづけていた。
訟は前婦のロイヤルホテルの
、
はないかという事であれば、約更のことであった。
カメラを呑んだ翌日
mM
- 18-
、
この真実相仰を裏返したものではないのか」
、
はないか。早かれ迎かれ この真尖はくるのだ。無
常とは
、
、
、
錯乱している自分を見い
、
、
割払は唖然とした。私の今までの混迷は この出火
現実に底面したとたん
今まで何度か聞かされ、日分も人に訴りかけておりな
から
だして
、
、
最悪の場合であれば 癌という
相を煎視していなかったからに外ならない。
たまたまその実相が
形ででてきたに過ぎないではないか。死刑の茸告が 具
、
体的になっただけではないか。何故早く これを超克し
、
、
この現実を直観し
、
これと闘い
、
それはどうすることもできぬ現実で
、
はないか。私自身
あったとしても
矢尽き万折れたとき、一切は終るのである。それまで
、
敢然と痛と闘ってやろうとう」
、
にやるべきことはやろう。そして 近代医学のカも借
りながら
、
、
何か忽然と悟ったような気安さと
何糞
、
と
何か必演そのものも
楽
馬鹿
、
いう
決意した時 西方に沈む真赤な夕日が一条の光明とし
て輝き
勇気が体内に湧いてくるのを覚えた。
、
私が宣って元気で明るい聞
、
、
私は二日間の議演も、誰にも何もいわなかったが
、
、
、
決怠でできたのだ。そして敢然と人
家内はいぶかりさえした。
家に帰った所
にカと熱か入っていることが自分には分った。
、
「いや とも角
をしていたので
その夕方
しく元気にやった。そして
o
指し込んでくるのに気がついた。私は「ハツ」と持にか
、
ないのか。こう考えてきた時弘の眼前に、一条の光か
えった。
「そうだ。これだ。一体私は 何を迷っているのだ
生と州気とに闘うことにしたのだ」
、
n分でも、あれ担にこのことについて物にも川き人に
、
、
、
この九月九
九死に 一生を得たの
、
このできものは良性の阻痕で 筋
できものを切除する開腹手術を受けた。
、
早速に知人を頼って同立ガンセンター
も日ぬってきたではないか。この無常こそ
人間のすべ
ー
、
存門医の指示に従った。そして
円を開き
、
そして、私は
、
、
枝に幸いなことに
踊に似たできものであったようで
日
を訪れ
てではないのか。この無怖を舷えてこそ 本山 にルいき
る迫があるのではないか」
誌に単純な到述ぷではあったか、利払は何か今までの混
迷から、やっと妓けだした思いであった。
、
「まだ何も錨と決ったわけでない。然し もしそうで
19 ー
-
早期発見でよかったが、遅れていれ
、
「のどもとすぎれば、熱さを忘れる」の例にもれ
のも
、
であった。しかし
省させてもらえたことを、この
なくあり焼く思ってい
k
真剣に考えさせてもらい、私というものを、命がけで反
A叩
た以上に、陣営え短い期間ではあったが
、というものを
しかし私は、政を切るという痛い日 ζおわせてもらっ
ず、人間のおろかさであるかも知れない。
であった。お践で手術後の逆過も・以好で、退院する口も
ば口そのものの切除ということもあって、不卒中のギい
、
、
出刊さんにとっては、たわいないもの
近い。今この筆は 病院で競っている。
、
品はこれだけで
この働問中の小で、設
る。そして克に、そうした時に判って、比較的早く、自
、
分自身の苦悩を超克し、字ろ必気を以て、この苫悩と関
しかし、弘自身にとっては、このい弘は減に衝
的なことであった。そして私は
mF
う決立のできたことに何か安堵の気持ちで一杯である。
であるが
に得難い体験をさせて頂いた。それはいうまでもなく
うに感謝している。
きかせ、人にも説いていたお臨によるものと、今更のよ
hn
これも,人、弘なりにではあるが、法然と人阜、
潟大師
弘個人の生命との真剣勝負であった。
そこには怠なりの勝手な刈丸山花った流血も手伝っていた
、
「命へのめざめ」ということであった。
、
の教えを J
句
' に体し、念仏生活をさせてコき、己にもつい
ことのできない
か、批思の場合を予怨した弘にとっては、何市町もかわる
、
この竿頭に立った時は、最口「や何人も 怠を助けること
J えば、今日の似の中ではまだまだこれからで
占師刊と
私の為に
あるが、弘にとって今立の作件は大きな人生の一一弘切り
はできない。所設孤独な広'H
・拡がすべてとなるのであ
、
と思えてならない。そして、これからの人生が、何か余
私は
お設に立てば枇の為、人の為にもおはししたいと
.λ
境である。
いうのが、 s出
m版な気持ちでの臥のいつわりのない今の心
も、
、
fで
る。いかに恩愛の山川制怖い
災さえも、問的こそすれ、
っていられぬ筈である。そ
H
生のようにも思われる。この余生を
この苫鐙を数うことはできない。
、
今こうして法を取りながら あの時は随分慌てていた
、
こんな谷%なことは
なと迫怠はしているか、告しそれが必忠の鮎栄にでてい
たら
して、あの時の真剣きが、何か他人事のように思われる
-20-
二十一
日、
n の鴬
-;;ヨゐ
,刷、
間もなく全快の日途が立ち
、
TU
きゅう
」,
ノ
人V
f に点ってで
附子帥の山中柿
、
でサンフランシスコに行
予定の英同航空 BA に釆れ
PA
、
もという強い決意で八月二十二日間あがきめられた。
愈々出発の故日前
かねて心配していた米同の航空管
パソアメリカン
-2
1-
[俳文コーナー
、
、
判
選者の尚ぶ尚子師から蚊いた。
俳ニ Iv
右膝の関節を傷められるというハプユング。でも入院後
ロンドンの虚子先生句 碑 再 訪 の旅
、
ガーデン符訪ときめました」と川いた
n l
それは附和五十六年程まだ淡い鎌倉n
のM 与の玉泌会
1
での席上でした。「一一一九さま
五月十二
キュ
色の投句短冊を
、
制官のストの膨 3 の減使で
なくなり
待
ちに待った蒋枇酬の臼が来たのである。万恨とんとんと削
、
山主
BA に来り結ぐことに決定した。その結果羽岡離陸
き
、
備が進んで行った時、晴子師がホテルの駐車場で煩いて
一昨年五月十日の俊子先生句碑除務式から満二年
塩長
、
、
、
孫に鞄を持たせて東京駅八屯洲
発一四
n
・
一ニ
お援で同夜間東地方を走り抜けた台風の先駆の川に
が最初の一一一 ・三O より一九 ・OO と繰り上げられた
が
も会わず
四五分離陸
・
、
、
機でほ
、
上昇後間もなく台風のためか気
国際色豊かである。ストの影宮か出発が少し遅
ト
結問式など唱の如く ジュースでこの行の無がを祈
、
O 分の特別パスに采市中 漸く時折雨の降る中を成 m に到
持
って乾杯。
、
PA 畿は前回の BA 践と問機七四七型ジェッ
ぼ満席
れて 一九
OO 分映阿と続
・
・
、
全員の旅券をまとめて預
、
hとしている。快附で
結局旅行会社手配の観光パスに采るま
して見物をしようと云うので
ける必要があり
でに二時聞かかった。
空港は存分に地め立てられて広
口向はぽかぽかよい気持だが吹く風は 十
H 秋めいている。
裏山には早霧が立ち窓めている。冬は梨、いので恩給生活
町には刷用天桜が林立して流石は西海岸の中心地であるが
者逮はロスからサンヂェゴあたりの暖かい所に家を鱗え
ているそうである。
、
iy
コプターが今の小から突然出
人々ぷ架船勢を買ってぞるぞる見
漁夫波止同制へ品目れく。ここはこの町の歓楽境で符の木造
の巨紛が嫁いであり
一二 ・OO 分夕食、二二
、
メロンだけであ
、
、
、
、
ロ本の盛り場誕みの混維である。サベラという
一行の到訴を待ちくたびれ
殆んど眠れなかった 一晩の疲れを医やしたのである。
、
ていた。私達も靭が簡単だったのでワインの盃を傾け
虫料理専門の料理屋があり
後とて
折り
柄引悩の午
て米る。山間橋にはカジノ回開の建物があ
も無事通過
、
流が恐いとの内長のアナウンスでやや動揺したがここ
、
.ハメ
一O
三 分朝
物している。観光州のへ
、
ジュース
Oニ
三O 分には日「明るくなって米た。
米間式で簡単
・
いた。時間の途中からうとうとし始めたが時践の関係で
、
00
食
・
三O分活陸。現地時間 二一・三O 分である。空港
米大陸が近寄っ て来る。設の有名な金門橋が見える
る。
O四
ロ
ニ分離陸。見
ロンドン行の BA 俊七四七型は一八 ・一O
飽きた氷の陸と海の上を一気に飛んで定刻一二 ・OO
には前使の客が手続中とて大分待たされる。おまけに枚
々のグループには米間続出が急にきまったためピザを受
ンドンのヒ
l 久ロ i
空港清。団員三五点引は観光バスで繁
けていない滑が多く ここでの六時間の保換待ちを利m
、
- 22-
、
ピカデリーの地下のパプ 、へ ソケイ
イン
・
紫の花咲きキューの秋蘭くる
鴨が居り黒鳥が居りキューの秋
議十街の
中央
懐しきものにブラックパ1ドかな
、
った経験で 岡本四郎名添梁員の手配で攻々向きの魚料
ここで前聞からお馴染みのボーナ
、
食堂の外には葡萄棚があり
赤系統の明るい小 t
息
、
ここで愈々今度の目玉の成チ句碑にまみえることにな
を楽しんでいた。
トランのような感じで家族連れがセルフサービスの昼食
、
子と椅子が並べられてあり 丁度日比谷公趨にあるレス
なる
披みが終り、国側のご案内で小食堂 一
で昼食をご馳走に
で昼食。前回もここを 一度利用したが堅い牛肉で手こず
、
りした食堂ですませた。
夕食はホテルの地下の迷路のような廊下を通
ホテルに m
「く入って休繋するグルー
理が出されたのは好評を内した。食後サイヨン公開など
、
を見るグループと
プに別れ
って小じんま
、
O九
この休養で漸く元気を取り戻した一行は二十四日
OO 分パスで出発
・
、
、
る。一昨年の脊の除幕式のときに献木した絞も跡周も勢
、
すぐ側にシェフィールド大学の臼本語に犠能な
、
を過ぎ、めざすキュ l ガーデンへ。正門前へ若いたのは
、
句。。
ボーナス教授の名訳が、やや小型の碑に絞め込まれてい
とあり
省等も人を怖れぬ闘の春
情を叙したのである。句碑には
いよく枝を茂らせていた。一同は代る代る句碑に遜る遁
やかて鉄の門が状等のために聞かれ燃しの
、
十時前であったので、保怖の外を廻って関門の十時に再び
、
事務局長などが出迎えられ 晴子師外一行と歓
、
る日本から持って来たものを供え 句碑をさすり久潤の
ス教授ど失実が向車 一行は大喝采。パスはn 賞きの町
九
到着する。プレナン園長はオーストラリア出張中とて
副園長
の一と刻
td
珍らしい標本を陳列してある池
、
圏内に進む。折角のおいでに花がなくてゆ訳ないとて
、
大温室を開けて珍らしい熱帯継物を案内された。
我々の句会場として
に面した博物館の二階の大会議室を開放して下さった。
J
1
i
- 23-
問問三
子
この句はロソトンの PEN クラブの招待で渡欧された
とき、在留邦人の有志とキュ lガーデンを訪れ総勢十六
名で句会を行なったとき詠まれた一句である。
、
晴子師は宝誌の句五述と海外旅行をすでに七 八回行
した時間を有効にと俳句宏始め、虚子先生にもお見知り
蹴いたのであるが時すでに遅しであった。
この日の夕食は宿舎のチ +I リングクロスホテルにボ
ーナス教授夫妻を迎えての楽しいまどいであった。
、
、
二十五日ロソドドン発 空路オランダのアムステルダ
、
なっておられるが、キュlガlデソの美しい風光に強く
所々に今は
ムへ 運河と回州事とチューリップの国であるがチl品リ
ップにはもう遅い。昼食後遊船で運河巡り
、
ここに父虚子の句碑を建てることを思い立た
れ
佼われていない大風車が観光用に残されている。今日の
プレナン園長に会い親しく建設の位置を取り決めら
れたのである。そして賛同者の協力の下、話はとんとん
ご婦人達のお目当てはダイヤの研態工場で、一応工場の
、
感銘され
と進み、石の選択、彫刻も終り、当時の郵船ロンドン支
、
日本からの八十名の玉蕗句友を含む総勢
、
、
やがて日本人の短当者はそれと
なくここで買えば日本の半額位でなどと切り出す。ご婦
などの説切であったが
から二階の別室で製品を見せられる 触れこみは識別法
店詰めであった有士ロ悼碑弥ハ俳号瓦桜〉氏の斡旋により郵 入ロの宜伝用の研磨畿のところで削り方の講釈があって
、
、
一昨年五月十日 英同側農林次官以下 、日 本側
船鎌倉丸で嘗て虚子先生が通られた海路島正無事ロソドソ
へ到着
人方も馴れたもの。この前は一広々など会話に突が入り限
門国公使以下
二百余名の見守る中でプレナン園長、晴子師の手により
機、結局随分待たされてしま った。
そして薄倖な少女アンネの郊昆を一巡して
二十六日は朝から郊外へ。森林公園を抜ける。鹿のマ
句会。
ポロへ帰り夕食。終って、食堂の隣のロビーを占似して
ホテルア
が畑々と聞き出す。男性寧は早々退却してバス内で待
私は会織の日本人クラブにいて今日は日本から有
私事で恐縮であるが虚子先生の PEN クラブ総演会の
、
当時俳句に全くの門外視であった私はこの千載
、
除幕されたのである。
当日
、
名な文人か来て浴演をされるということを灰附したので
あるが
一偶の後会を失なったのでゐる。そして終戦後のもて余
- 24-
、
月見就がちらほら咲き
、
ななかまどが美し
ークの立札がある。自動車に鹿に注意せよとの印しだそ
うである
、。
LV
-
花好きのオラン〆人は家毎に花を償え。紅いの醤織を
、
ヨット
咲かせている。梯子をかけて家綴の手入れをしている家
もある。運河沿いの家には専用の舟着場があり
、
駅
、
時頭など美礁
マジュロダムというオランダの鳥瞭図を模型に仕立て
を繋いでいる。国富めりの惑が深い。
、
た小公園に若く。有名な建物 広場
、
な
遥かに巨船が一隻見えるだけ。海底池田掘削のリグが
、
一基ぽつんと立っている。
近くに鯨の漁港があり 簡潔な店が述ち 観光客に生
て大口開けて食べるのである。
1
グ王宮に若
まの齢献を食べさせている。尻尾をつかんで逆さ品りにし
国際司法裁判所となっている有名なへ
、
く。ゼラニウムの花盛りである。正門の隠仰を聞けてあ
り 観光客は二三歩門内へ入って写真を綴して阪に立ち
去って行く。
自緒あり気な飾り付けの古めかしい料不で昼食後
ア
ムステルダムに引返す。主宮前のダム広場にパスを姶て
、
に出米ている。枝々は小人の固に紛れ込んだような気分
まだ八月下匂というのに海の色は淡く荒事とし
三九
ここ
がアムステルダム公慢の入口である。全閣
務総慨が華麗
、
小高い所が管楽広場となっており精子が配置されてい
な由。
はよく整倣されて美しい。五月には石楠花
をする。
んで来た車椅子を出して晴子師に乗って貰って記念撮影
入れて全貌を写真に撮ろうと一同苦心する。バスで避と
次は特別に大きい観光用の風車の前へ。人物をうまく
で一と巡りする。断的問も狭いので追い位したり逆行した
γという保護地へ出
て民俗衣裳や木靴などの土原物漁りが始まる。
1 プユンゲ
りするのは他人迷惑である。
ここから海岸のスケ
、
る。カジノなどの大規模な遊び場がある。海は名にし負
ふ北海
北海の冬めくさまを砂丘より
同
て いる。
北海の冬鴻荒るるいつよりぞ
る。ここに休んでいたオランダの一老人を一行の若いと
- 25-
、
秋田濃し古都千年の石mg
、
句会と型の通り。
、
、
、
存はこの広場に花一杯飾られるという。町角
二十八日首都ブラッセルに入る。市庁前の広拐は述均
が豪華で
でもある。
、
ハンドバックをひ
西日簿くバリに入り
、
凱旋門近くの
の小使小僧の像は案外小さくうっかりすると見過しそう
、
繁華街のホテルスケールで昼食。
パスで国度通過
ラフアエットホテルに若く。
ロピーに寛いでいると、 つい先刻
'
で ご婦人述の購買慾は俄然旺盛となる。ホテル夕食後
レース細みの焚演と云われて見に入ると突は土産物屋
振り合って行く。
れすれである。どの闘の人が知らねども 人懐こく手を
河とは違って小規模で遊船同志のすれ違いは文字通りす
見て廻って遊船で運河を一巡する。アムステルダムの運
、
が古い。修道院 ノートルダム寺院、市庁合 魚市場と
観光馬車がぽかぽかと石畳の上を走っている。すべて
九
ころが写真に顕ったところ出来たら送って呉れと住所を
苫いて渡していた。後日この女性に会ったところ余りよ
ロ
カーテン
、
く慣れていないのでどうしようかと相談されたが とに
、
角送った方がよいと勧めておいた。これもオランダ
本説 替 の 一 つ の か け 矯 と な る で あ ろ う 。
夜は昨日同傑夕食後句会。
焼け方自をさますと、お天気は上々らしく
ークを張るホリデーイソがここにもある。古い二階造り
の煉瓦建てのホテルで活ち若いた気分でほっと一と息を
入れる。
-26 ー
の隙から見える空には締月が。
、
し と
月いよよ刺しアムスも今日名残り
て
オランダを去る以冷をひしひ
ベルギーとの悶撹近く
九
ベルギーの古き都ブルージュに入る。世界にネットワ
風車あり原発があり花野あり
fTtJ 三
九
浴びて噴水の池を囲む帽円芝を迫逸。近くのクレコノデと
いう小ざ?はりしたレストランで昼食。ここ
こは
の町の
窓口近くに小ざっばりした脱笈の少年がうろうろ
、
とき
名士達の溜まり場らしく
ったくられた人があるとの注怠がある。貨幣交換をした
し て いた。パリも油断できなくなったとつくづく痛感す
りつけて怖かに昼食を策しんでいた。
バリの最後の夜は 尚子師を訪ねて来られた在仰
夜は布名なリドの臨り見物組がいそいそと山て行った
、
お得意様が三々五々と寧で采
る。
、
市伏はセl ヌの舟遊び 之んと今度の波は三 M の舟遊び
、
、
、
ちょうど中
ロンドンで日航協
、
、
雫務員も苛附せよとの放送があり 有らくの問来客一向
、
間位で悪気流に突入 院は上下に激しく括れ 機長から
に乗換えてアンカレジ経由成田へ向ったが
三十日 BA 慢でパリ発ロンドンへ
杯で孜の更けるのも忘れる訟であった。
、
あと
これこそ抑応の圧巻であった。グ
が予定されていたが
ルのこの食事は誠に思い出に残るご馳走で ワインの乾
の晴子師の兄上池内友次郎氏夫妻を迎えて晩餐会。ホテ
、
ループごとに食卓に就く。上甲板ぶっ通しの食卓で千人
〆ルlプごとに歌が出て顕やか。豪華なフル
γ ス外 mを
m前
. 提んだ。玉迎グループの若いご
、
は優に収容できそうで予約で満席とのことである。銅媛
、
ディ十ンを鳴らして客の求める闘
l
が州引って解崎 シャメパンが抜かれ一一川向らかに乾料、
陽気な音楽師がアコ
、
を奏でる。飲む程に酔う還に移り行く陸の景色などそっ
ちのけで
コースのフラ
た。
、
しんと帥貯まって生きた心地はしなかった。然し流百は日
の人気を独占
hv
婦人方の席ではコーラスが操り返され船
この日応援に駈けつけ
、
航 ぴたり予定時刻に成問君。この行 色々ハプニソグ
残り
するような形になった。かくて夜も吏け人通りの少なく
パりへはじめての人述は市内観光へ
、
があったが幸い連日快晴で愉決な旅を時げることができ
、
、
た日本人ガイドも初めて来たというところ。緩い日射を
多に紡れない静寂な古いお波で
は郊外のシャンティ二倍取へ。ここは日本人観光客の白川
二十九日
なった頃岸壁に立ち戻った。
- 27-
、
東京
、
白髭の僧には似合って符
頭髪が然冷して居れば 措円衣は似合わぬ
かもしれぬが
みたくなる。
福岡
石灯篇聞の目立たぬ所に十字架が刻まれ
十字架の石灯絡や有品舶の花
野
、
お情"の花の淋しさが物跨っているよ
牛畝選
うとうとと聴聞
心は何時となし
、
敬二郎
彫が追って米るようである。
縮問
寺町の賑わうひと白秋彼熔
東京 吉田ゆきゑ
原
一一一泡
咲き絞く底紅気品失なわず
縮問
破璃一
P閉め日向ぼっこの一刻を
福岡荒牧
ベルの串田秋のしじまを打ち吟き
時骨馬両均伸仲
評 秋の谷水は少くなって流れている。山 平安の等の壁画や石市聞の花
奥の静かな谷の岩に触れて、静かに$目立
のである。
、
人影の巡ってくるよな良夜かな
東京新井
にお作上に遊んでいるらしい。
して
野 小作自利の御法度らしい。秋阻情念拘円に
御法認を聞く刊に秋の悶を浴びて
ている。かつて隠れ拝んだ悲しい物鰐り
を
うだ@
東京吉田ゆきゑ
評 緋衣被着は且取高の僧階所有者である。 て流れる水品目は、耳を楽しましてくれる
緋衣の僧白昼似合ふ盆会かな
田
荒牧
老憎のょせる沼伽訟を風が治う
言えぬのである。静かな中に何となく人
開昨月の遊をうとうとと一人歩きは何とも 石仏の御手に遇ひゐる蔦紅楽
亮
土
東京
光
う
- 28-
也、
泣
怨
f
¥
:
;
た
議
浄
岩に触れ戸となりたり秋の水
生
完~
校
部
集
竜
l
a
.
初
JI
l
額総務総
2民
tミ
山
凶
句
真
野
高
剣
山
予民
4女
額澱滋援護
東京
街道の古き馬小作亦とんぼ
市胤京
葉原やえ子
とも子
aus
,、ゐ
A市
抱
F繍肢にあり
只一つ制卵性
阪人志体伎
回中
信
徳岡
上流法体品u
末常てる子
宮市の突の時円〈洛ちたる憎まるる
東京満足衣有子
幼き臼見党えの袋・木悔挟く
東京 小笠原詩作
路地漢に子相干の石蹴り赤のまま
F
プ写
t~
東京真野よし子
矧
一一一瓜
時的忌の人出ワ中に沓も厨し
μ
局 窓の床輸の太きな畠貯一
の
字
上野
安藤平次郎
用品ひ凶に将棋出土串臨時官水を
縮問 前回
ご法嗣の決まりし手の十夜かな
大分丹羽
md
十M巾吋の欽
聞に歌舞の印刷喪
別刷附惚叫服みさな
ひにけり
餓月と太字提灯WH
福岡
お十伐の礼拝回向こだまする
山
かまきりの色変りはてあわれとも
山梨拘円山山川氏江
,~'I
切
s
r
.
技
述
白糸の滝のあたりの見郎佑
東京 吉原笠起子
秋本を活けて住み古る山の宿
じ
京
よ京秋京
東
さ 1誌の )U
宿東
京
幕張子
しr?(
の
東京
寂と
震
青銅のをに秋楽たっぷりと
径;
し
b
、
日
m制
g
湖に鴨米て臓やかに
;
z
.
小ζ
寂
三盆
こ~'(
秋灯や大怖の作の不動尊
る
も
赤い羽根募金償限に通りけり
山形
允子
ぼ
lこ
るし
る
λ
る
- 29-
の六
官事
国
花附
憤
熔
中
畝
努
r~
牛
読経の一と戸澄むや鰯悠
山形
洛曾きの残りし土卿秋泌し
独2
場
代
i.Jお
居f.
原
う
岡
福
木
光
誉
A
鈴
n
悶
i
¥
7
i
山
図
凶
訟
松
,
、ー
、~
と
ば
R
ヨ
E
四 -L
ヒ
、
、
、
、
本
一官上 二
日
お目出度いものの一つとして
厚
、
色
、
恥を忍んで御勘弁願うことにしよう。
、
毎年俗に運勢燈と呼ばれている磨が相当部
、
我々
の赤官上ではどうも俗ぼく見られがちだが
北斎の赤官土が余りにも有名なので
昨
、
友引
、
先負
、
仏減 大安
、
赤
、
川、
、
数出版されている。その中に未だに六昭 つ
結局妙案が浮ばぬまま
E
々と苦慮した末
、
c
まり先勝
、
教えられている。
の象徴であり
時、一一一なすび
と云われた様に官士山は
庁からお円山広い初夢として
明けましておめでとうございます。
の
顔にもありきたりと思える赤沼土を選んだ。
-3
0-
紙
『浄土』表紙 正月号に相応しい絵を
。
表
、
。
その官業自体に は何 の
か友引とかいうのは
便利さよ
勿
n 断関係の人も運命学からムても六脳は何
てきたりする方がおかしいのです。
六日に一度ずっきちんとしすHや凶日が廻っ
意味を持たない曜日の名前だったので す
変な迷信みたい
らない。現在はこよみとしての六曜はすっか
、
といったものが脅かれているのが不思惣でな
り庇れてしまっているのに
なものだけが生れてきてしまっている。その
、
、
知らされる
、
日常生活の中で無 m
、
何の役
等線路のな い迷信に過ぎないとはっきり断言
ことを知らなければ済むことを
にもたたないばかりか
為にどれだけ日常生活が拘束され
式臥明は同組
しています。一種の娯楽としてみる場合の数
、
りも却っ て不自由なことになっているか:: :
、
その臼に弘中し
々の占いはそれなりの意味もあるが
、
一例を挙げれば二、三の例外を除いて大安の
、
自の結俗式均は
、
こんなことに左+相されなく
の神経を使わす織な迷信を散の中に情報と流
それと反対に
なるわけです。
す根源を断てば
おすなおすなの盛況
一週を七
、
要するに週勢暦その他の一切の謄から六服
でしょうか。
これで区切ってゆくのが今のやり方の七
、
織 HH
で
、
、
これで区切ってゆ
を抹消すればよいのですが さてどんなもの
、
明治になって正式に致府で決めたもので
では一体六曜とはどんなものか
仏滅の nは閑古鳥の叫く綾な布様である。
日
躍
ある。一週を六日として
くやり方が六曜です。つまり大安とか仏滅と
角。
〆「
祖母は哀しき
深まりゆく秋の中
〆向、
〈 ジ〉
私の最愛の祖母の一周
菊仏
'-./
そうして私は今
、
京都「三千院」に来てい
患がもうすぐやってきます。
、
(
I
)
'
.
/
、
、
木の切り株がぽつり
、
ぽつり
ます。色づき始めた紅葉 そして杉苔は海の
ように広がり
京への旅を目前に逝ってしまった
、
、
秩天を突く杉木立
、
昭和五十五年十一月十七日六時三十分。
祖母の忌くる
しい高きでした。
になるとは思ってもみなかった 杉の木の哀
してはこんな形で杉の木の高さを眺めること
飽母のつぶやきを昨日の目のごとくに思い出
最後の
g 子ζ
在
〈 ペ〉
とまるで孤島のようにも思われます。かと思
産 恭ナ
、J
うと杉の木がいくつもいくつも天にむかつて
市 -u- .
.
"
.
くの〉
突き抜けていて浄土の祖母のもとまで届くよ
長 本2
〈者〉
うな高きでした。
32 ー
-
松ミ
〈読〉
;騒騒璽建護護
私はその時刻
遠く離れたこの京の地でと
、
さなどではかたづ けられないような
、
焦りに
も恐怖にも似たとても重くて深い心の痛きで
しぼり汁を祈
ても大きな物音を感じました。それが訟の惑
、
した。
ひと。
冬空ばかりをみつめて
が散るのを見たような気がしました。
、
小さな瞬間かたく目をっぷり 速くで白い花
、
ぶやいた祖母の躍をみつめながら 私はある
、
る思いで勧める日の 時に「美味しい」とつ
食も衰え わずかにみかんの
じた祖母「ゆきの」の死でした。
・一 ' 'h'
確実にひとつの命が消え失せてゆくまでの
白 書 曹ιι唱団咽割司a凹曹a圃・
、
そして三十数余
、
あの劃葉にならない瞬間の季節を今また新
、
育ち
たに私は埋葬してゆくのです。
祖母は寺で生まれ
年を寺の坊守として仏に仕えてきた人でし
病み耐えて姐母
33 ー
-
た。
、
'コ
私は幼少期な祖母の手によって育てられて
は蜜
逝柑
きました。幾多の苦労多き祖母でしたが 持
、
母つ
前の気丈さと切るさでどんな日も笑商を忘れ
仏の道を信じ その臨終にも手を合わせ念
仏を唱えながら逝った祖母。その白すぎるほ
ひ
とを怠たらない略切な女性でした。
祖と
どの枕に深いくぼみをひとつ残して狙母は逝
式ニ
tとえ
ったのです。
み
ない人でした。また年老いても常に学ずるこ
ドキした思いで眺めたこ と はあり
えの
私はそんな観母を尊敬し誇りにも思ってい
、
の tll
枕母
ました。
ドキ
冷終
祖母の病いは絶望的でした。
、
く傍主
ぼ
の
の
祖母の腕に広がる青い注射跡を私はこれ
程
ませんでした。それはその辺の悲しきゃ寂L
る
菊臨
露強援護翠璽
祖母は菊の花を深く愛した人でした。その
、
観母はとても愛らしく
、
まる
菊の花の 一番美しい零節に極母は仏となった
のです。
菊明りの夜
で眠っているようでした。
もとより色白で美しい肌の祖母はその死化
粧に簿桃色の頬をして菊に抱かれてとても安
、
ふるえながら静かに頬
らかそうにみえました。
私はふるえながら
何かが陥ちてゆくようなそんな冷たさでし
、
指先から体の中に走りました。
に触れました。おもわず氷のような冷たさ
が
、
た 哀しきでした。
こんなに冷たく祖母菊間切りの夜
くてもいい
笑わなくてもいい、このまま傍
、
に眠り続けていて欲しいと思いました。
でも祖母は煙りになったのです。
、
黒い慾が高く 高くのぼりゆ
私はあの数千数の時聞を決して忘れること
、
はできません。
冬の管空に
きそして消えてゆくのです。
私は両手を合わせて祈りました。
、
どの辺が失なわれてゆくのだろ
熱くないようにと祈りました。
そして今
くのを
、
、
小
全く違った次元のある快感を感じま
うと私は祖母を苦しめた癌細胞が殺されてゆ
した。
そして祖母の命は花びらのごとく白く
冬由同空祖母が爆りに問問になる
さく散ったのです。
埋もれて筏母のかんばせ菊浄土
風やんで視母は京しき菊仏
寒菊に祖母の死化続美しく
亡き組母へ菊は徐土の道しるべ
、
私は静かに限る祖母を前に たとえ話さな
34 ー
-
、
寺山功会。
年のあらたまったこの冬口からだ。称長僧都
や那智ノ検校らがうろうろしはじめたのが原因だった。
れたのが
i 妻 、きのや
え吃
念持 32 ・一留を
何としても仁和守の御所へ出向いて坊門局に会わねば
、
夜が明けたら早速
、
と生仏は気安く応じてくれた。近
仁和寺御所の携は 安祭房にとって向いものになった。
ころ御所の女房たちは生仏を師として琵琶の手習いを始
ならない。怯虫、鈴虫の姉妹をあの噂長的部へ引き渡し
た経緯にはどんなからくりがあったのだろうか。その
NH
ずかずかと坊門局に会うことができた。仁和寺御所
n
、
御所から戻った生仏はやや品取したおもも
、
「じかに当方へか」
ちで報告した。
昼さがり
すよ」
「付公さまか じきじきに当方へお山ましになるそうで
あった。
めたという。三日にあげず仁和寺へ出向いている生仏で
、
相を究明しておきたかョた。
、
ついこの秋ごろまでだったら、そんな煽倒をかけずと
安楽は聞は、御所へ主人する手だてを生仏に頼んだ。
も
、
の周辺で常時に六時礼讃の集会をひらいており 母公
九苛も気軽に列席していたからである。
お互いが箸戒し合うようになって六時礼道会も中絶さ
35 ー
-
く消水寺>
「今怖から弥助主へお緒川りなさるそうです」
安楽四阿も胸先に艇い街脚本をおぼえた。
「ご怠簡・・・」
・
・ ・
仁和寺のサ公|』坊門局は安楽 M の礎的をいれて耐談
参浦山までするというのか。
H
この参誌にもっと深い立味はふくまれていないであろう
するために、仰々しくも
か。
とは言っても当時の貸主たちにとって参簡はそれほど
石山寺、消涼寺
三林院
、
、
長谷寺などへ請もって世
仰々しい行動ではなかった。ことあるごとに彼らは絵馬
、
ζ へhもったら
、
、
ht
所定の n放が満たぬあいだは一
、
歩も外へ出てはならない。経机に有や情〈しさみ〉のほか
計はそ
お芥||開聞を向い協同闘でかこった市樹立である
h。
m
開J
なければならないから.たった。
側ではひと騒きをする。修法少の一陥に H紡 mfbLA
け
その怠簡だが、尚武な身分の人を迎えるとなると
ってこの怠寵必しU を避けることになるのであろうか。
でも広隆寺には安楽町仰が待っているのだ。幼門ハ川にと
寺をえらんだ・ものである。
鹿を避けれ』。とりわけ女人な白川水銀斉やここ太議の広峰
寺
ー
- 36
、
、
、
盤ハたらい〉手水
用使の萱までを用意して 同州経 写経
、
礼拝に明け暮れて、食事や排便もそこで足すのである。
端座したまま睡りこむ。
、
人
Aは尊んだ。参簡の効顕で
そんな夢寝に仏が現前し給う 。この νw感
yH こそを仏
と修法者との交流として
あっ た。
後鳥羽院の中宮で、仁和寺法親王の母公、と雷えば広
結界
H
隆寺が迎える最高級の参寵者だった。生仏の報告を受け
て
h
Hの設笛に僧たちは走りまわった。
「さあ?」
生仏も坊門局の意図を把砲し桃川ねている。
悩ましげに包含かしげ
、
右手の納く長
、
広隆寺の弥勅蓄廃像||半蜘思絵像とも呼ばれる。右
H
印μ
"を結ぶともなくその頬に触れている。明ら
脚を左腿へ按じ
い指が
H
WY
かに女人仏であった。それもこの同ではちょっと見あた
h
Hを得たいと願っているのだろうか。
、
その膝下に何日間か銭りきって 坊門局はどんな
らない西域女性の容姿だ。
感
入り合いの鈍がつき出されるほんの少し前、品川公の一
M たちにかし
行は広隆寺へ多若した。輩装束の七人の女
ほ公が使用する仏具、什絡に手落ちがあってはならな
いのはもちろんたか、付添ってくる女 M たちの人数も問
、
づかれた赤糸毛の牛車は仁主門の手前で停まった。牛が
。
何回である。彼女たちも低公にならって怠摘するのであろ
しかし 、い ずれも
隆寺の阿間梨に何かをささやいた。うなずいた阿閑却
仁和寺から供をしてきた僧が 、中 の門内で出迎えた広
ある。
公に別れを告げた。。徳車内は坊門叫ただ一人だったので
中ノ門のところへまできた 。その門外で 'km
たちはほ
、
っぽりと紫地の狩衣な羽おったままで 誰もその内を加
外ずされ
断み AH
が用意されて坊門局が降り立った。す
「J
h
:::
き見することは許されない。
「ほ公のご怠簡は初めてか」
、
いや五位
安楽 M は念を押すようにして生仏にたずねた。
、
「いいえ すでに間以
大股の方でして弥勅盆と参箱は初めてです」
「あちらで会縞する人は?
?ぞれか今度のほ公か・・・・・」
・
「なぜそんな場所でなさるのだろうか」
37 ー
-
、
は 、大殿の向拝の前までみちびくと そこで略儀の礼拝
をおこなった。
病んでいる。それも
、
心がひどく病んでいる。
、
この瞬間だけ陥恨の周辺に紅がひろがった。
H
生色 山 がただよった。血色か全く脱色してい
ただ安楽房を見上げて徴笑みかけてきた眼の光りのな
た面上で
かだけに
「織法な・
・・・
」
・・
狩去をぬいだ幼門局は白一色の絞装束。黒援のもとど
、
、
県内mたぱねていた。向鍬のような予にかけた数珠
りを
の点光が眼に鮮かであった。大殿に三礼をすませると
、
その織法を開始する前に
、
入堂した修法者は
彼女が安楽房との対話を求めていることは
、
咳くように妨門局は古った。
、
いんいんとタベの錨がひびきわたっ
、
舛殿してゆく坊門局を見送ったあと いった
、
、
「限に泌みると申して生仏どの。そなたには何も凡えぬ
「あなたと母公とがいまお出合いなされた姿がです」
「何が ・・・・」・・
「限に泌みるような光景でございました」
、
杖にすがって歩きながら生仏之 ふと足をとめた。
ている。
広降守の境内に
ん殿叶へ引き締げていった。
房たちは
さまざまな念館の手順をやってのければならない。安来
しかし
明らかだった。
わるあたり
そのまま左手の小径を踏んで進んだ。阿閣梨たちに見送
そこまでだった。
わが
ざわざ断
参櫨聞の初段は当然戒師の前での地問侮だ
、
った。小径の奥に弥勅堂が建っている。仁和寺から供を
してきた僧も
、
彼女の意閣を知ったは
そのころ安楽一樹や盲目の琵琶法師生仏は 坊門局がな
、
n上
伶私刊に生仏を名
、
仁和寺からきた使者の
品世簡の成聞に安
mMM
遵m
西を
、
ぜ参織を弥鞘堂と指定したのか
、
ずである。母公多府の叫前
によると
ざしていたからである。
当然広間眼寺の阿閣梨が戒飾とな
、
Hひじり
H なぞにそんな越権は許されない。
大殿での参簡なら
る。在野の
しかし境外仏盆たる弥勅堂とあれば、事態は異なる。
安楽房は弥鞘堂のきざはしの下で母公を出迎えた。ほ
ぽ一カ月ぷりの対面になるか。
坊門局のやつれぷりはひどかった。鎮の肉がげっそり
、
とそげ 由経ハうちぎ〉の開先も簿かった。
38 ー
-
はずだろうが」
、
、
なおさらお二人の心 心の呼吸づかい
のお顔を
弥勧堂からひとすじの灯りが洩れる。弥勅菩薩
照らす燭織の光 りだった。作法に従って安楽口仰は高燥風
、
の外側に控え 坊門局の告白 b聴
z聞していた。かたわら
「じゃによって
が必みてくるのでございます」
;::
、
行
ぐ下の妹は 克
一 久元年三二 O四)十三歳で源家出火朝の御台
告白の内容は
幼門局には同胞の妹が二人いた。す
に盲目の生仏が端座する。
、
なまさかなものではござ いませ
、
母公さまのあな
「どんな呼吸づかいかな」
、
「安楽さま あなたはともかくとして
たへ寄せられる想いは
所となっ て鎌倉 へ下 った。末娘は昨春数え て十 一歳
儀見習のために仁和寺御所へきて姉坊門局の身辺で悲し
このたびのご参簡は :::」
Hもしていないな女である。二つ年下の法制刷正||
れた。酒宴を俄したが興が増したものか、そのまま泊る
去年の七夕祭り。珍らしく御鳥羽院が仁和寺御所へ現
坊門局の息子と遊びたわむれるのがせいぜいだった。
上げ
H
Zは
る話がまとまっていた。行儀見期間と
っても米だ 聖
一二年もすれば近衛少将に吏合わされ
「何があるのか」
ん。
J
2
、
ていた。いずれ二
、
「再び御所へはお知りにならず ど出奔では ? 」
「ご出奔ll 」
・ 12
たしかに広隆守へ現れた坊門局には何やら異常な決意
のようなものが感ぜられる。
、
…
三
s
、
、
と言い出された。近ごろ慌の H寵 Hが簿れたとは言え坊
、
魔界
門局も二十六歳 女織りである。久方ぶりのお情けを頂
こ は地獄
「妾がおかれた境涯を思いまするに そ
十夜HH
に容なぞ焚きこんで
じろり幼門局 bz見
nおろ
「西の方よ li 」とにべもなく妹娘の点引川
をにし
、
顔作りも念入り
と申すほかはございませぬ。いとおしいお方を呪 い、 愛
、
、
にして闇房で待ち受けた。
けるものと
して
僕が聞かれ院は枕辺に立っと
、
でてきた骨肉の者に日夜恨みをこめて生き続けねばなら
坊門局の織法が開始されている。
ぬのでございます」
広隆寺の境内はすでに深い閣の底にあった。わずかに
39 ー
-
の名誉と申すべきでございます。ただ口惜しいのは、あ
ても二人自の女御を出したわけでございまずから、出家門
ば仁和寺へ泊りにくるのです。必ず妾を隣室に侍らせて
た。未だ町西ノ方Hなどという女御名なぞもらったわけ
裳 RhHも済ませておりま
H
ではなかったのだが、との瞬間に鎌はその呼び名になっ
髭上げ
H
れ以後、御所さまが西ノ方を袋織なされるとき、しばし
あの子は米だ
たのである。
近ごろでは関房の戯れごとで、いつも姉坊門局のこと
お二人は:::御所さまは殿御でございます。そのような
なのは西ノ方でございます」
お仕打ちも興越を増すかと理解できるのですが、不可解
H も
き出しにして、さっきの酒宴で見かけた酋ノ方はもはや
「十一歳?きすれば余は十とて一つの
せぬ。つまり女に成ってはいないと中上げるのが姉とし
てのわずかな抗弁であった。院は豪気で糧法な性絡をむ
il
を口にするという。つまり姉はどのような愛され方をし
立派な女人
口にした。
月日を待ち暮しつる」と冗談とも本音ともつかぬ言築を
らない妾:::これが地獄、魔界の沙汰でなくて何でござ
り。聞こえよがしの口説を、じっと聞いていなければな
さは白拍子や遊び女とてかくまでは、と思われるばか
は宮え、米だ十二般の輩女でございます。そのはしたな
になるのです。凶ノ方は日々女人ぶりも些かになったと
なります。しかも院は、妥に必ず隣申治で荘ねよとお命じ
「襖ひとえだけの隔たりでございます。万事が筒抜けに
たか、また院をもてなしたのか。露骨に訊くのである。
空しく闇房を立ち出た坊門局は、隣室で眠る妹をゆす
り起こし「御所さまのお招き。女人は何事もこわごわし
からず、ひとのままになるが良き事」と須央の間に女の
心得 を さ さ や か ね ば な ら な か っ た 。
妹の体温が残る臥床に身を横たえ、聞きたくもない隣
室の気配をうかがっていると、院の淫らな笑い戸と童女
の悲しげな泣き声とがこもごも流れてくるのであった。
と妄念にとらわれたことも幾夜かありました。こんなに
りましょうか。いっそひと思いに箇ノ方を刺し殺そうか
出された。中宮、女御の列へ加えられたのである。
までして、なお耐えて、生きてゆかねばならぬのでしょ
それから数日後、妹は正式に西ノ方として禁檀へ召し
「:::それはそれで世のならい。ましてわが坊門家とし
40 ー
-
うか」
坊門局の訴えは切々と肺蹄をえぐり、陪い弥制堂をそ
、
。
H を背負っていたのであろ
ズで坐りまします思惟菩蹴は その
l
のまま魔界と化せしめたかのようにみえた。附燥の底に
唯一人、半脚のボ
苦
H
透明な声音で語りだした
、
たおやかな全身で女人の
うか。
安楽房はもの静かな
「むかし、亡 き祖父の中原師元から 、こ のような話を聞
、
妓
姉株で寵愛危うけた美女がおりました。妓宝
、
、
許し 酒座含もうけて彼女の舞いを見物することにし
た。十六歳の仏御前は妙なる挺戸で H今様 Hを歌いなが
と
、
、
H
帳 AY の内
身近く招いて仏御前に酌をさせ やがて砕いがまわ
ら舞った。前砲は淘然と見惚れてしまった。郷いが終る
ると清盛はそのまま仏御前の手をとらえて
へ消えてしまったのである。
すでにこの瞬間から妓王、妓女の立場は失われてい
、
た。仏御前を夜ごと抱く清盛は姉妹をうとんじ ある夜
もはや聞く耳を持たなかっ
、
ついておったのか。一刻も早く消えて失せろ!」仏御前
の酒盛でついに言った。「お前らは未だこの畳敷でうろ
がいろいろと取りなしたが
こる
かされたことがあります。平相相閏清盛がなお憧在だった
女と呼ばれ、平相関は他のいっさいの女人を近づけず、
た。
からなる念仏を日夜唱え続けていたのです。山里の一隅
「::
:
永年信じゅしてきた阿弥陀仏の本願をたのみ、 心
かくて姉妹は腿臓の一隅に柴の姥を結び、
この姉妹を出愛したものです。そんなさなか仏御前と呼
、
ばれる白拍子が 百八条の屋敷を訪ねてきました」
、
掛川盛に招かれたわけではなかった時
がの権力者の前
Hで
、
、
で得意の舞いをひときし舞うことが白拍子の H願い
から洩れるお念仏の戸も
、
阿弥陀仏がお耳を傾けて わ
に会おうとしなかった。それを取りなしたのが妓王であ
もあった。だが清盛はさしでがましい行為として仏御前
と採がし求めて下さるお慈悲
、
必ずいつかお聞き届け頂くはず と念仏
たある宵のことでした。竹の鋪戸を叩く管がします。妓
生活に励んだのです。そんな春秋が幾たびかめぐり去っ
、
が名を呼ぶ者はいないか
と。
がある以上は
、
る。白拍子がおのれの芸を鍍毘したいのはごく自然なこ
とでござりましょう
可愛いお前がそれほど宮うのなら、と消盛は仏御前を
41 ー
-
王が立ちいでて手燭をかざすと
、
そこに仏御前の尼姿を
見たのです。仏御前住民ながらに語ったものです」
、
たちまち飽きて別の女性へ気
綾力者平相間前磁の心変りは迅速である。仏御前を溺
愛したのも二年そこそこ
μ
"を考える。河湖や断出をさまよ
持を移してしまった。商八条の mm
敷を去った仏御前は世
身投げ
H
妓女の姉妹が現在どうしているかに思い至る。その
いるうち に、ふと自分と同じ運命に見舞われた妓
をはかなんで
、
って
玉
消息を求めたら峻峨野に隠棲していることを知った。
Aがいると聞けば進んで出かけていって念仏の
「かくて三人は心 をひとつにして以後は念仏三昧。また
不孝の人
、
H
妓王
、
妓女
、
法親王さまと
、
仏が噂
米くしてお作上へ旅立ちましたが、後山口河法阜
功徳を必き聞かせました。一一一人とも阿弥陀さまのお迎え
は早く
の長講堂過去帳にもはっきりと
、
霊山と窃きのこされてあります。ご母公さまもこの際
外界のわずらわしいことにまどわされず
もども仏法にご専念なさるのが第 一かと存じます」
安楽房は慎重に言葉をつないだ。あまり人間的な生々
かった。
妓王姉妹と仏御前の物語は
、
のちにいささか潤色され
て「平安物活」に採用されている。生仏の琵琶によって
H
年思
H にあたって安楽日らの手で偏されたもの
混同り伝えられたと思われる。後白河の長必悦過去帳は法
阜の
、
で 充分にこれが裏付けられるであろう。
、
話の流れは人間
一一二川
安楽房がつとめて避けようとしても
そ
臭さい汚泥水域に停滞してしまう。坊門局はそれを望ん
でいるようであった。
、
奇妙な事情
、
商ノ方が正式に 中
・ 宮となって入内なさるにあたり
れはついこの正月のことでございましたが
が介在しているのです。西ノカは幼門家の娘として入内
「ほほう。誰方かの長女にでもなって
:::」
したのではありませぬ」
安楽坊も嫌いな話題ではなかった。思わず高屍風
へ向
って膝を乗り出 さ せ て いた。
「養母となった方は卿典侍さまでございました」
、
しい話題にふれることは適切でない。それと 坊門局が
「卿典侍・・・」
・・・
、
傾けてくるひたむきな感情の波を 少しでもやわらげた
-4
2-
、
のちに二位へ昇格した卿二位兼子その人だ。かつては
家との仲が疏述になりがちでございます。卿典侍はこの
、
明典侍栄子はそこまで読みこんでいたようである。
りぞける。兼子の野慣は畿折を余儀なくされた。もっと
さすがに後鳥羽院は点商の両女怪が策したこの梁をし
置カンゾ。
||如何ニ将来、コノ日本間ヲニツニ分ケル本ヲパ仕
たと官えるであろう。
じつは卿二位兼子の権力闘ためのうえで最高の妙手だっ
これが兼子の論理であった。邦家にとってではなく、
子として送りこもうと両策する。後鳥羽院の胤(たね)が
文字どおり公武合体が成立するわけ
ζのすぐる御前を将獄淀川制の嗣
、
後鳥羽院との間でこ児をもうける。長仁恒仁という皇
坊門局の線西ノ方はやがて
子である。兼子はその頼仁11 すぐる御前をわが手もと
ところで後の遁になるが
再婚、現在政治の中枢に坐りこむ影の摘力者だった。
へ引き取って育てあげる。承久ノ変直前、上浴した北条
五十の戸を聞いて大納言航実と
「しかし、な ぜ卿典侍が年端もいかぬ菌ノ方を無理矢理
F
後鳥羽院の乳母であり
に中宮として押し上げたのでしょうか」
政子と街訴した液
、
、
「安が思いまするに院の御山間愛が安から薄院
れと幼門
鎌倉将怒となれば
と、幼門局は分析する。
は
糸を結びほす意味もこめて、合わせてど自身の立場を院
で、却叩・ヌにとってこれほど岡山たい品はあるまい。
、
に対して強凶になさろうとしたのでしょう」
「ねらいは坊門家の財力ですかな」
たしかに坊門家は九条家と遊んで大荘園の保有者であ
った。
「財産もでしょうが、当面は鎌倉謁伏への足場固めでご
ざいましょう」
鎌倉将軍実判の御台所は幼門家の柏駅だった。実朝夫人
を擁していれば、執権の北条氏も後鳥羽院政へ向って軽
たか疑問である。彼女は様子が設営した後鳥羽院との邦
東の北条政子がどこまで気を入れて密設にヰを傾け
が
も西の女怪兼子は大いに情熱をこの縁組にかき立てた
北条氏との分断も可能になる。鎌倉崎伏を範政の線本と
謁を冷然と忌避し、
、
々しく動き出せぬであろう。政治の流れ一つで、源家と
する後白鳥羽院政だ。絶対のキメ手となるはずだった。
- 43 -
、
厳僧都のことですか」
、
もはや
「いま恐ろしいとおっしゃった那智ノ検校とは、あH
のR
逆ではないか。
の姉妹を勝手に落飾させた。これは公儀への明らかな反
疑ぐる余地もない。法然は、上御門帝の愛人だった米通
師法然をおとし入れるための担迭であることは
筋書はこれで完全に読めてくる。かねて危供したわが
、
ソ、
ノ益ナシ
「法然さまが?さよう
| | 辺僻ノ老尼 竜顔エ一間尺スルコト
尊長他都のほかに、あの恐ろ
(「混同委銭」〉 しい那智ノ検校も同座なさっていらっしゃいました」
として、さっさと鎌倉へ帰ってしまったのである。
「姉妹のお話ばかりになりましたが・・・・・・」
と安来房はそこで坊門局に松虫、鈴虫姉妹の経緯を聞
きただす端絡を掴んだ。彼女たちを剃髭させた者は誰
、.《
u
・
4u
坊門局はきっぱりと答えた。
「噂田沢僧都でございます。妾も法親王もそのお剃度には
か、米だ実物にふれたことがない。
安楽房は聞きとがめた。名前だけは耳にはさんでいた
「そうです」
立会いました」
「はい。米だこれからという女人の然髭を根元からぷっ
「仁和寺で?」
「どのように恐ろしいのですか。何か危筈でも?」
ちゅう仁和寺の御所へ出入りして恐ろしい限つきで妾を
「危容を加えられたととはございません。ただしょっ
、
特定の泉佐にもめぐり
、
と生仏へ問いただした。
「おぬし、知っているか」
じろじろ眺めまわしております」
鈴虫だった。年若い土
、
つりとお切りになって」
まさしく未だこれからの松虫
御門帝から懸想されたとは吉え
過つてはいない姉妹である。
「やはり民だったか」
「民 :::とおっしゃいますと 」
「昨夜 殺気をふくんだ尾長烏の話を申上げましたね」
、
「いや あの剃髭を尊長僧都たちは東山の法然ご一房がお
「うむ」
、
やりになったと言いふらしているからです」
44 ー
-
後夜
H
(つづく)
「それならば十日十夜おっとめなさるがよろしい」
しかし安楽 J は、やがて決然とJ い放った。
つれ合った。長い洗黙があった。
お互いの吐息が白い厄を引いて屍風の蘭で内外からも
て米ょうとする幼門局だった。
おれなかった。全盛全身を傾けていま安楽
mm
へすり寄っ
安楽町却はA
騨の向う側にいる女体を思いえがかずには
「・・・
・・
」
・
か。
もはや宗教心をこえた恋の告白とは言えないだろう
うと」
ら今度安楽さまにお会いした折にはこの点をお願いしょ
「急に思い立ったわけではございませぬ。かなり以前か
「・・・
・・」
・
つとめたいと心にきめてまいりました」
「一度この境内で立ち話をしたことがございます。部符います。あなたがお命じになる方式だけで、
この会簡を
どうやら
ノ倹校からはあの烏と同じ設気が・・・・・・」
H の念仏をつとめる刻限が迫ってい
た。償法は打ち切ることにした。
坊門局は言業をゐらためて問いかけてくる。
「安楽さま」
「何でしょうか」
、
「このたびの参藷ですが 幾日幾夜つとめたらよろしい
のでしょうか」
「通 例 な ら 三 日 三 夜 、 長 く て 七 日 で し ょ う 」
何か言いよどんでいる様子だ。
「それはわかっておりますが、妥;::」
「特別なご祈願でもございますか」
「あの表、時修念仏にのっとった
S 簡をつとめたいと存
「専修念仏の。簡ですか」
じます」
常住坐臥、勤,労にいそしみながらでも唱え儲けるのが
となってしまう。
専修念仏であって、自力門のような修法診請は H旅行 H
、
「受注安楽さま あなたのお弟子になったつもりでござ
45 ー
-
北
花
ノ
坊
町
事ζ
・
長
里
見
大
学
ー
九
字
正
埼
松王
業
川大
二子
長
達
文
家
人
l
己主主
52 滝 意
文2
喜
神田k
校
良
長阿 俊 長
始
理寺
ff 弥一
関陀
本住
長職
-
46 一
東
東 !
会明
i
立
.
京都市左京区永観堂 町五-
U
I
光心寺住 職
7l 六 l
ま住
一
T俗焼津市東小川
勝
祐 天 寺
綾
谷
オヒ
社 工
石 室
園
井長
俊
恭
一
Tm
教 書
大
東京都豊島区西巣鴨三 1 二O
笠管事器
野町五 t一四
人
区
七三二代|
袋」
・ 等 園 l 巌
田 高学理 | 警
電話ハ
O 一一一〉九一八
和 西西 l 雲
上中 高学芸
校長
良日
市
北
伊ド
其 鋲 鎖 l ili
祐規
芝 学園
益
郵船
淑 徳 高 等学校
理事長
学技法人
民
二子
鍛
電話 (O
七五〉四九一
四
豊
徳
岡
頁 T
大
有
学校長
久
淑 徳短期大学
俊
長谷川良昭
橋
学長
宇治市槙島町八O
6
1
議 一一耳東
京都文教短期大 学
学長 大
寸・
賀新 年
伝通
院
蓮勝寺住職
神奈川県仏教会副会長
柴田敏
称名寺住職
須藤隆仙
幸進
夫
l
一回
一
Tm
東京都渋谷区幡ケ谷二|三六|
清岸寺
原口徳正
松庵 寺 内無為窟主
英
双葉町六 l 四
小川金
一
T
防花巻市
・ー
行
仏教福祉センターよるひる銀
田信弘
美
寺
T間車同森市本町一0・1
正
光運寺
飯
47 ー
-
一
T附函館市船見町一八
島真
教安寺住職
野口口
子叩四日市市中部三l
行
無量山
九品仏浄真寺
清水順碩
一
Tm 川崎市川崎区小川町六|二
電話 (O四四〉ニニニ 1 四九四六
知
電話〈O 二-一八〉ニ二ー一五七八
中
青山梅窓院
哉
九品寺住職
院
甲 成
東京都世田谷区奥沢
楠党
I !喜
本向 Its
年
清敏
| 産関
多
漆
田 I ~
-Tm 東京都昼間区両国}丁八 1一O一
一
TW東京都港区南青山ニ1二六 l三八一
言霊安 新
l五
お骨仏の寺
一心寺
高恭行
聖徳寺住職
浄土宗議会議員一
光明寺 住職
一
Tm 明右市鍛治屋町五二
山口諦存
新善 光 寺住 職
央
札俊市中t
ハ自一
浄土宗新潟教区長
端
照専 寺住職
川
I
J
叶
一
T附小千谷市寺町二八五|一
Lr
uHH
」斗
長寿院
寺作職一
地照
宇佐美諦練
ト
一
T州 名古屋市東区内然lニ
一九 | ニ一一一
一
細井
細井
仏生 山法然寺
一
O
一
T制長崎市豊富l五九日日米京都台東区為替丁一-一
達
知恩院布設師会九州支部長
層地必
O〈六〉七七一 ーo=一七三代)
一
T叩大阪市天王寺区准阪上之町一五五
ロ
康隆寺住職
'TA
山也
一
TM 岩手県花巻市四日町一丁自
暗雲寺住職
西
予創 平塚市立野町六
da1
mM
賀一
浄土宗議会mnH
龍泉 寺住 職
瀧沢教夫
祐
有
道明
田
大
照俊
谷
塚
一
Tmw
山梨市市川二 一五一
賢
雄
導
戒
貫
隆
.
n
n
.
刃
子
田
ナセ
弘
ぺこe、
金
太
新 さF
言差
言差 賀新 年
γ
干
西
ω6
E京
戸住
J
I
f
院
桐
生 野罵
一
市
教
町口
ノ品,、
ー
長
本
区
a
豪
黒
谷
竺俊
昌 T
ω
王法
良文墨
館
八
運浄 雄
。
住
i義
信 ん王
清
E
宜
3
i実 ヶ
γ 保
育林
寺 語支Q 版
部
.寺
原園
三
元 善
区霊
だ 檀
}
本
ー イ山
郷
三 JI頂
千
寺
一
一
m
r
5
302・
寸
取手 金
4r
(
法浄
然土
上企 申
姦
通町ち 秀田 i語 言易一
宮 田
山
弘 一明
守羽-上図ー6 i法人 柳章 泉
芳 喜Z
《三括示 松奪住
市
常大 楽ら寺
怒望ー 慈会・ 安官そんし
|か
九
経上 進
安
寺八
寺
国
=
一ー
長
七ん 純 じ
|ぎゅ
四おん
ろ 男 i需職
豆 町
ご一
。
八ん
3使
議
昭和昭和第昭
五五三和
浄
土
怠
霊
銀
代
七 六年
相
五
十
四
一認二
八
菱田
ニ
,、、
占
|ニ
八局
二五
接区
上
法
然
人
十 十
印印発綴年年
図
月月可日巻
一谷
一 十
縮長関佐宮
! IJI I
藤林
人四
会 一|刷
仰
舗
印ニ密昭
七回
三
番番
便 十
郵
種
制別 行袋一十物月
飯所人人人
一 九十
六
弘
17
ヌ四 道
〒
宝
千
近
一
五
日日
発印
輔努 tsi宣 彦行 刷
正
~
会
一:ァ
カ伊
年土
金購
読
〈、規
送 O
料。
不
月要。
号
〉円
定
|
年
浄土宗宗務庁
七
l
四
-附
T 京都市東山区林下町田00
l
浄土宗東京事務所
寺
手術 東京都港区芝公園四
大本山
実 応
大本山
百万遍知思寺
清浄華院
法主林
大本山
江藤澄賢
善導寺
寺
宮本文哲
大本山
大本山
法主
大本山
条智光
善光寺 大本願
法然上人御降誕地
二十五霊場第一番
誕生寺
圃 圃|
岡山 県 久 米郡久米南町塁方
中 国 従貫道路大阪より二時間
鎌倉大仏殿 高徳院
鎌倉市長谷 四|
密
稔
藤井
金戒光明寺
石井真峯
藤
田
二八
雄
界
佐
千
霊
明
上
稲岡覚順
大本山
法主
光
増
抱一
便鈎認 可V
毎月-闘-日 発 行
gh
相十年玄月二十日〈 第 三周一
十七年 一月一日 発 行
昭和五十六年十二月=十五日印刷聞剥五
法
z
4
8
稲
法
主
法
主
主
法
主
第四十八巻正月号
言差 賀 新
法
Fly UP