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館五十四巻 - 法然上人鑽仰会

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館五十四巻 - 法然上人鑽仰会
八月号
-・・
昭和「年五月 三十日《
m=一
個 便物腿可〉毎月-図一目先行
昭和二十凶年四月二十八日《邦 省特別総承総鎌誌 vm 三二五号
昭和六十三年八月一日発行
館五十四巻
、
昭和六十 三年七月二十五日印刷
1988-8
八月の秀句
自
地
大
流
灯
を
き
を
待
灯
て
ち
て
字
文
てコ
ち〉
歩
く
し
抱
く
ヵ、
り
そ
堤
茂
め
タ
くれ
の
香
の
来
て
を
り
宮ミ
本
橋
移長
虚
伎
多
澄
子
子
縫
前
浜
; 八月号 i
是のもろもろの鳥は 、 皆これ阿弥
モオミヲ
T
.
陀仏の法音をして、宜流せしめむ
と欲して、変化して 作 したまえる
.
..・.
ところなり。
一一『阿弥陀経』
目次
一一一一法
館一一一一
お盆におもうこと…. ..・ H ・'"・ H ・..…......・ H ・..…・・ 坂野本巨…… (2)
ーにこにこ法話 í '=
ミーち宇んの宿題...・ H ・...・ H ・.....・ H ・ H ・ H ・..一長谷川
m 潤……(19)
〈特別寄稿》
存統上人作「世界大相国三幅対 j …....・ H ・- 後時真康…… (8)
{木 )(下) (隆) (ー) (随) (筆) (集)
<
1
7
>
海と山 の狭間で
・…・・木下隆一 !… (25)
一一設が思い出に住む犬たち(3)一一
。。長篇連載IJ、脱 00
立ち止まるな善導
郷印図 (Q終回》
...・ H ・-寺内大台…… (31)
弥陀の化身
持絵松.注文
表紙絵
小林治郎画
盆
(話)
人
お
も
も
フ
‘.
.
、
その袋にお米を
1
r
J
坂5
号 泰と
G 野の
ゆh
市
住
験 E・き
仁ユよ
)
、
、
、
わら
この
道中、この袋を
初めてのお盆を迎え
ょに結えたもののことです。
これは新亡が
ます。
形こそかわりましたが
、
お盆の風物詩であり
今 日でも「かけ袋」の習慣がのこっており、
いうこの世の者の心づくしの品であります。
J
M にかけてもらい 、何かと 困らないよ うにと
世に会いにきてくれるので
、
じ、周子、針と糸、小銭、手拭などもいっし
一升ほど入れて麻ひもで結き、それに
島
、-
「かけ袋」というのは、晒ハさらし〉の布で四
であります。
菩提寺の施餓鬼会にど供養するという習わし
け袋」が新亡のために届けられます。それを
す。新訟を迎える京では、親戚縁者から「か
お盆というと、「かけ袋」が思い出されま
晴れてこの世に会いにくる
ぺ盆はうれしゃ別れた
お
角また は 三 角 の 袋 を つ く り
- 2-
(法)
と
ハ仏縦h
一u・僧口恋の口 Vに、生みの父母、過去七
世の父母のために、百味飲食、五果などを供
えて、十方の衆僧を供養しなさい。そうす
お盆は、お釈迦さまの十大弟子の一人、神
通第一といわれた日連の、母を思い母を慕う
れば悪道の亡者は教われる 」と教え られまし
お母さんは
心から出発しています。
、
た。
、
餓鬼道 に堕ちたという のです。
生前の「罪根が深い」ゆえに
お母さんの死後の世界を知ろうと 神通力
を試みたところ、なぜかお母さんは餓鬼道に
堕ちていたのです。
、
自連のお母さんは 、心のやさ しい人だった
のです。しかし、そのやさしさは目連や身近
目連といえども、お母さんを救う手だては
なく、ついにお釈迦さまに教えを乞うたので
な人たちにとってはそうであったのですが
他の人たちに対しては心配りがなく 、利己的
す。
餓鬼 道 と は 一 体 い か な る と こ ろ で し ょ う か 。
わが
で、何かと迷惑ばかりかけることが多かった
のです。
腕ならばだれでもそうであるように
、
「人間がこの世でおこなったむきぼりの報い
として、飢えや渇きの苦しみが満ちている世
界」であります。
はそれだけの心配りをいたしません。
、
子が転べば心を痛めますが 他の子に対して
うか。
「わが子」「わが子」ですごしたお母さんの
一生であったと思うのです。
なぜ、お母さんは餓鬼道に酢ちたのでしょ
お釈迦さまは、「お前の母の罪が近く、お
前の力ではどうにもならない。七月十五日
-3-
父母恩霊経に、為造悪業の恩〈もし、子のた
めに、やむをえざることあれば、みずから感染を造
、
の部情さを知り、仙人を志願しますが 仙人
からいかなることがあっても口をきいてはい
、
間
口
高生道
と言われます。地獄におとされ
けない
、
母が責め苦にあいます。それでも杜子春は
、
りて、 悪 道 に 堕 つ る こ と を 甘 ん じ て う け る 〉 や
魔から関われても口をきかないので
、
究寛憐態の思〈おのれ生きている間は、手の身に
から父母がやせ馬となってつれて来られ 、父
、
代らんことをおもい、おのれ死にきりて後は、予の
身を護らんことを願う〉が挙らげ
れていますが
宮います。
息子の心
う
をききません。そのとき、息絶え絶えの母が、
母の人生一
母親は、こんな苦しみの中にも
を思いやっているのです。
ところから始まっているのではないでしょう
、
盆の行事は、まさに この「父母の心を知る」
、
子は少なし」と言った布教・訴がいますか お
「父母の身を思う子はあり。父母の心を思う
んだのでず。
社チ在は、ついに「お母さん/」と泣き叫
、
なってもかまわないよ。だまっておいで」と
母たるもの、こ れすべて「わが子」のためだ
、
またはある年齢までそ
「お前がしあわせになれるのなら、私はど
、
ったの で す 。
子は 親になるまで
のことを知 るよしもありませんが
をそのようにさせたのは、言いかえれば、わ
が子〈日連〉であると言わざるをえません。
まこ と に 不 思 議 な 母 と チ と の 因 縁 と い う べ
きであります。
芥川竜之介の作品に「杜子容」というのが
ありますね。
大金持と貧乏をくりかえした社子春は、人
-4-
.
、 0
、
母な る も の は 、 い か な る 時 代 で も 、 た と え
4M
、
、
それとは
餓鬼道に堕ちようとも わが子のためにはあ
の父母恩霊経の十思にあるような姿が 本来
、
今日の母親像の中には
あるべき姿とされてきました。
しかし
う
、
普と惑に
、
、
包
H
父
物質と
などとわけて考える。父性と母性の
、
H 力をもっている。これ
、
すべてのものを良きにつ
「母なるものの力は
、
切る
H
、
わが国では「父性なき母性社会」
、
言葉が流行しました。
ひととき
い
、
反対に エゴイスティックな母親が多く 子
どもを破かいする存在となっているとも言わ
れています。
と
河合隼雄氏は
含する白川力であり
、
ものごとを 上 と下に
、
け悪しきにつけ包みこむ。これに対して
、
なるものは
は
紡神に
ふ た つ の原理が人間の生き方の中に働いてい
、
現代の父性の存在感は
るが、わが国の文化は明らかに母性の文化に
、
、
「女性的なるもの」に四つの
変容しているというのてす。
属している」とのベ
うすく
松本滋氏は
・
、
「妖精型」には 恋
と 恐母的
マイナスの二側面をもっています。
タイプがあると言っています。それぞれ は プ
ラス
、
て「母親型」には、慈母的側面
側面をもっており、ニ
四
、
「人
特に
これは母
、
といった側面を
、
人と娼婦の側面をもっ、三、「女傑型」には
、
男まさりと男おんなの側面をもち
形型」には、乙女とねんね
、
もっているのだそうです。このなかで
母性本能の強いタイ
、
「母親m.
」についてみてみますと
性的な女性のあり方で
プです。
、
プラスに働く場合には慈くみ
母性の基本的な特色は「匂み容れる」とい
うことにあり
育てる「慈母」のイメージとなります。
ー
5
-
、
この母親型がネガティブなあら
日述のお母さんは
、
慈母のイメ
ー ジに
、
や
やネガティブな面が加わったタイプかもしれ
ところが
われ方をすると、過剰な保護、世話のやき過
ません。
目連のお母さんと時代も立場も異なります
、
、
、
「ち布
木村栄氏が 、心 理学
の子ザルの突験を引用して
そこにただいるということを求めてい
「子は母に、お母さんがそこにいると い うこ
と
、
ぎなどといった形で、保護の必要がなくなっ
たものにまでからみつき、かまい続けるので
、
現代のお母さん方
し
恐母のイメージ で
木村栄氏は、「父親不在とは父親の役割を
子どもの将来が心配でなりません。
、
、
す。子どもだけが生き甲斐であり 、自分は 犠
が慈母のイメージでなく
戦前の日本における
比較になりませんが
牲になっても子どものためにつくしてしまう
あることに不安をおぼえずにはおれません。
、
「恐母」と名づ けられていま す。
、
ので 、「喰いつくす母」 つまり子どもを食べ
てしまう
ごぞ ん じ の よ う に
はたしていないことだ
」 とのべているように
「
女性的なる もの」のイメージは
父性なき母性社会といわれるゆえんがわかり
、人 形型を
含みな がら、 全体としては母親型であったわ
ます。
ていることを思うとき
そのうえ、母性が恐舟になる傾向が地大し
けです。そこで今日の状況をみると、母親型
ィブな側 面が目立ってきています。そして
が支配 的 に な っ て い ま す が 、 そ の 巾 で も ネ ガ
テ
まことに心配であります。
l
者ハロ
妖精型の女性が増えてきているとい
女傑 型
の母」の存在を強調しています。
、
われます。
、
つまり、 「慈母」よりも「恐母」が増えて
いるそう でして
ー
6
-
る」というのです。それは
、
「子どもを子ど
、
わ
も自身にまかせる自然のはぐくみ」であると
いうのです。恐母ではないのです。
いかなる悪道に暗ちるのやら
、
母性の宗教であるといわれていま
にすすんでいるからです。
仏教は
す。
世のお母さん方も、仏さまの教えに耳を傾
けていただきたいのです。これが、お盈行事
、
かりませんが、子どもは「仏の子」であるこ
の原点ではないでしょうか。
恐母 は
とを思いおこしていただきたいのです。
お盆は母の日でもありさす。
、
「仏の子」 つまり「仏」とは「父性」ハ智悲〉
おのが手を眺めつつ」
亡き母に似そめし
「ほの日に母を憶いぬ
中野苦英上人は、
「仏の子」とし
親の使命なのです。
、
と「母性」(慈悲〉をかねそなえた存在であり
ます。
、
仏より授かった子どもを
て育て る こ と が
と教示されています。この心境をじっくり味
子どもから、いつの日か、母をしのんで
、
目連 は、 餓鬼道に閉山ちたお母さんを教うた
め、お釈迦さまに教えを乞われました。
お母さん/と呼ばれる日のやってくることが
わってみてくだきい。
今日 の お 母 さ ん が 、 母 な る も の の も つ 最 も
のです。
やがて救われる身にさせていただけるときな
、
基本的な「包み容れる」 ということに発して
いながら
、
母子癒着による弊害が叫ばれてい
恐母というマイナス面の方向
ま す。 そ れ は
、
ー
7
-
存統上人作「世界大相関
1
>
<
:
Z 真上
雪原-3
位
(先代作胸、pv
官界F)に尋ねたところやはりそうであった。これは当寺に縁のある
て、何だろうと思ったのを覚えている。のちになって、ふと、 あれは仏教の世界観を 3 いたものではな
いか と 気 が つ き 、 父
、
畑ちがいの学問ハ農芸化学〉に身を入れていたこともあっ
、
存統上人という方が丹かれた 「閤浮提図」「世界大相図」「天竺輿地図」の三部作で 当寺の寺宝である
ことを知っ た。面白いなとは患ったものの
て、子細に眺める余裕がなかった 。父も存統上人作の開山霊巌上人の伝記や観経謹陀羅の研究が先にな
-8-
一ロ田
市川』キメ」
EH
i
t
t
i稿;
筆者が幼い頃、床の間の掛け 軸になんとも不思議な形の山や古風な地図を描いたものがかけられてい
11 後ご
i寄i
まえがき
一
一
一
i特i
i別i
、
ってこちらには手が回らないようであった。その後 チベットの
マンダラの展覧会の際出版された、杉浦康平 ・岩田鹿情書「アジ
、
、
昔頒布された図にどなたかが色を
昭和五
、
対を面積三分の一の写真製版に縮小して印刷してもらった。そし
て自分なりに色を付けたり関係資料を集めたり霊殿一山の寺院や
有縁の方々に制和したりしはじめた所で父は急に他界してしまっ
、
、
ここに官苦の雑感めいたことを付して紹介さ
何分にも常者の手にあまることが多い。宝の持ち附れに
た。父の泣志を生かしたく最近眼をみて内容や背景を調べはじめ
たのが
なることをおそれ
せていただき、有識の方のご教示を乞う次第である。
大相図作成の 4給
される。但馬同大月村小川氏の出で、八歳で得度、江戸深川一出版
存統上人、法名を輪蓮社転骨上人覧間十故専法存統大和尚と称
-9-
十九年 存統上人の百五十=一回忌を機会にお摘出家の印刷所に三幅
塗られたものであろう。父も改めて興味を覚えたようで
た。出所は諮いてなかったが
作の須弥山図を奇麗に着色したものが掲載されているのを見つけ
、
アのコスモスとマンダラ」( ソ岬A社、一九八二)のなかに 存統上人
一一「世界大相図三制対J 一一
、
、
α の内通
h〉
J の氏主とな
さらに震設一山の学頭に進んだ。天保元年六月から 三澗国岡崎松応寺に住し、同三年七月十一日
寺において浄土の宗義を研役された。文化六年よりわ・4炭山内の僧房円通路〈現
り
、
F
〈一八一一一二)五十二戚で逝去と伝えられる。〈生同と行年はh但
円に
竜よる。〉同四年六月発行され
の馬
過肉
去帳
た「道本関山 ・雄誉豆悦上人伝記」四巻は存統上人校修の遺稿である。上人は広く諸学に逮せられ
文化五年三八 O 八〉八月、二十七歳にしてまず「悶浮提図付日宮図」を印行、ついで文政四年ハ一八二一)
「世界大相図」を、同十一年三八二八〉 「天竺輿地図」を相次いで印行された。これらはそれぞれ幅五十
後の印行を行って頒布したが、大正十二年九月一日の関東大震災により版木と共にその殆どが焼失して
六センチ、長さ百三十センチで桜の一枚板に刻されており、その版木は円通寺に寺宝として保存されて
きた。次第に虫害がひどくなり、印行不可能となることを恐れた円通寺住職乗誉其峰和尚は大正十年最
しまった。幸いにも岡崎松応寺に最後に印行されたものの一部があることを知り、先代住職がこれを受
-
大相関の序文
U
に印行された世界大相図にのみ序文があること、間浮提図 の解説文中に「予如 v
ことした。
ることに意義があるので、ここでは全体を「世界大相図 三制対(略して大和国〉」と呼ぶと
箸二世界大相図己の文字があることから昆て、その可能性が大きい。また、後述するよ三う
部に
作とみ
ではない。しかし二番
この三幅対の完成には二十年を質しており、最初から三部作として構想されたものかどうかは明らか
五十九年に縮小印刷し、有縁の方に頒布している。
け諦い、戦災の際にも焼失を免れて現在円通寺の寺主として保 仔されている。これを前認のよ うに昭和
一 10
、
世界大相図の下三分の一は「世界大相図序」という文章で占められている。返り点のみで句読点のな
わかる範囲で判抗するとおおむね次きのようなことが普か
い漢文なので悠者には正確には読み難いが
れている。
『およそ宇宙の形態は華M経によれば形も数盆も無尽で写すことはできない。しかしこれは大乗の教え
で小乗の仏典によれば必ずしも写せないわけではない。ここに図示した須弥山世界には欲界色界無色界
、
それで最高
の三界があり二十五有を区別している。(中略)いま世に博識と称する人が宇宙を論じ、欲界のうち人間
界の僅か一部を見て万国と称し過去数千年のことのみを知って未来のことは少しも知らず
、
。
ある日
、
長年の疑問が氷解して喜びに絶えなかった。そこで同じ疑問を持つ人のないようにこれを図
、
成住雄空の歴史変化に至るまで詳細に論
成長につれますます疑問がつのってきた
と 思って いるの は井戸の内の蛙に等しい。自分は幼少のころから宇宙の構造やその過去
、未来 につ いて
師の教えに従って供合
深い疑 問 を い だ い て い た が
、
論の世間 n
聞を読んだところ、宇宙の形態と大ささ、三界の別
じてあり
、
天文のことについては頗る詳しく
、
る
内外の書物を根拠
写したのである。須弥山世界の図は既に数種あるがいずれも粗略である。近年「仏国暦象編」が出版さ
れた。これは暦法の根源を明らかにしたもので
、
として西洋の学者の誤りを正している。天文を学ぶ者はこれを読むべきであるが 私の図とは意図す
、
大きいものは小さくして一図にすべてを現すようにしたので了承されたい J
、
ところが異なっている。ハ中略〉須弥山等の諸天、諸山は人間界よりはるかに大きいが
この図では小さ
いものは大きく
間浮挺図の内容
-11 ー
三幅対のなかでは「閲浮提図付日宮図」が最初に害かれている。本図には序文的なものはなく、図の
、
中央部分に は今日 のものとほとんど変わらない世界地図が描かれている。形態 地名等かなり詳細で正
確である。江戸時代も化政期ともなればオランダ経由で伝わった新しい世界地図が民聞にも流布してい
二〉に「地球全図」を銅版画で出版し、橋本宗吉は「新訳地
た。たとえば、司馬江漢は克政四年ハ一七九
球全図」を寛政八年ハ一七九六〉に出版している。従ってこの程度の図はさほど驚くにはあたらないかも
知れない が当時としては最新の知識によるものであることは確かである。
この図では天竺ハインド〉が中央におかれ、アメリカは載っていない。
端右
に僅かに顔をだしているの
、
筏経遮末綴〉に想定
が そうかと も見えるが 、こ れには「勝猫牛州」と書いてある。オーストラリアにも「猫牛州」の文字が
遮(
末路
ある。猫牛州、勝猫牛州の原典は土木詳であるが、間浮州に付属するこ中州
しているも のと思われる。アメリカをはぶいたのは後述する理由によるものであろう。
世界地図の上には一層の山脈、九層の森林を隔てて巨大な「閣浮樹」が 拙 かれ、その上には「尼民陀
羅山、尼民陀羅河」がある。九庖の森林に重ねて、付図である 「 日宮〈太陽どが住いてある。太陽は円
、
、
、
盤状で上に宮殿が乗っている。これらにはそれぞれ簡単な説明が付してある。つまり、この図は人間世
界が 須弥山宇宙の南面の閣浮提〈腕部州〉の一部であることを示しているのである。下部三分の一では
地 震 、海 潮 寒暖 雷鳴等について正法念経等に基づいて説明している。またここには閤浮提の南端に
ある海や島、地下にある地獄等が書かれている。
左隅には「大海辺際ハ巨艦 トイエドモ至ルベカラザル現証」という面白い文が載っている。この世界
が須弥山世界のごく一部であるなら当然平面であって、地球説とは矛盾する。上人はこの矛盾を説明す
12 ー
-
るため、元禄の頃、新井白石が長崎でオランダ人から聞いたという話を紹介して世界一周が不可能であ
たとえ観念の上だけでも全体の構成に矛店があ
在統上人はこの図で現実の世界を力こうとしたのではなく、宗教的世界観の一部として人
、
内品
ると説いているのである。いわく。
『かつてオランダの国主が世界の際眼を極めんとして四方に巨船を派した。しかし、東に進んだものは
泥海に突っ込んで動けなくなり、あわてていると急に大波が打ち守せて元に吹きもどされてしまった。
南へ行ったものは撤浪に翻弄されて進むことができで、望遠鏡でみると前方に巨大な海布が見えたので
もどってきた。西へ行ったものは暗闇の中で海面のくもの網のようなものに引っ掛かり、力で切ってや
っと逃げかえった。北方では広大な陵地に行きあたったので開拓者を残して一日一引き返、し
再び行って
みたら全員が死に絶えていた。このようにして一つも成功しなかった。これらの経験は正法念経等に説
γセソスであろう。新井白石は長崎へ行ったことがない。しかし、 宝
かれていることと符合する。もって西洋人が世界を一周したというの は諜りであ ると知るべきである。』
この説明は現代人から見るとナ
問し
永六年将軍家宜の命で、国禁をおかして桝入して捕らえられたイタリア人立教師シドッチを
尋、そ
こで得られた知設をもとに「西洋紀聞」を苦している。この本はキリスト教や世界地理の解説"で、世
界は知卵のように球形であると』き、マゼ ラ ンの世界周航についても記載している。ただ、本位はキリ
スト教にふれているため明治になるまで公去されなかった。そこでその事院がぶり伝えられ、このよう
、
に伝説を産んだのであろう。なにか原典があるのかも知れないが来持である。
おそらく
間界の地図を描こうとしたのであろう。そうした場合
ってはならなかった。だからこうした説明を付し、アメリカ大陸もあえて無視したのではなかろうか。
こういう観念的な理屈っぽきは滝沢馬琴の小説等にも見られ、江戸時代のイソテリの特徴である。二十
七歳の上人の気負いとも伺われる。
なお蛇足ではあるが、この世界地図で銃者の興味をひいたのは凶作太ハサハリン〉がはっきり烏として拙
かれていることである。島と大陸の間には「混同江」と告いである。当時、樺太北部の地形は明らかで
はなく、中国やヨーロッパの地理学者は樺太はアジア大陸につきでた半島であると思ったり樺太とサハ
、
リンを別のものとしたりしていた。林子平もその著「三国通覧図説」で半島説を採っているという。た
日本では島説も有力だったようである。間宮林蔵が梓太北部を探検し、間宮海峡を発見して樺太が
だ
〉
島であることを確認したのは、奇しくも本図が苦かれた文化五年のことであった。文化七年〈一八O一
l
ボルトが日本地図をひそかに持ち出して世界に発
、
幕府が公刊した「新訂万国全図」では、林蔵の報告に従い樺太を正確に島として描いている。ただ 国
、
際的にはその事実は封府の極秘事項とされ 後年シ
ている。その一つ南関浮提に人間世界がある。間浮提には猫牛州と勝猫牛州が付属している。須弥山の
れ、七庖の山脈の上に笠えたつ巨大なけ弥山ハ妙ぬ山)がバかれている。頂上には将見城と普法堂が、そ
の下には四天王の住する四王天がある。え弥山の附の四方に四つの大州がありそれぞれ二中州が付属し
二番自にかかれた「世界大相悶」はいわゆる切弥山図である。中央に風輸、水輪、金輸にとりかこま
世界大相凶、 天竺拠地図の内政什
ある。ちなみに、間宮林蔵の誌は当寺の近く R蓮宗本立院にある。
表するまで世に知られなかった筈である。本図がどういう根拠で描かれたのか興味が持たれるところで
-1
4-
回りを日輪と月がめぐる。須弥山宇宙は一つではなく他にも無数にあり、その
一つが図の右上にちらり
とのぞいている。須弥山の上には六欲天と色界の四禅が、さらにその上に無色界が存在する。地下には
八大地獄がある。これらについては、それぞれ説明文が付されている。本図は序文に書かれているよう
、
に縮尺を無視し、須弥山を大きくして縦長の構図で描かれており、それが力強さを感じさせ 本図の特
徴となっている。
下三分の一には前述の序文が書かれている。図の左上には字宙の歴史について「成住壊空」の四劫が
あることを詳細に説いている。その大略は次のとおりである。
『この世界の終わりには火水風の三災が起こってすべてを破鹿し、ただ虚空のみがのこる空劫となる。
空劫が二十小劫続いたのち成劫となる。大先王宮から始まり須弥 山世界が逐次生成し生物が生まれて住
劫となる。住劫の始めは人の 寿命は無限で天 人のような生活をしているが、次第に万物が生じると人も
γド地図〉は古くから描かれ
、
「和漢三才図絵」に
変化して寿命が短くなり、貧富の差や犯罪、兵火も生ずる。そしてすべてが壊滅する壊劫を迎える。そ
して再び空劫となり四劫が順次繰り返されて悠久の循環がつづくぷ
この三幅対は「天肋一一興地図」でおわる。天竺図〈イ
も簡単なものが載っているが、仏典や「西域記」にもとづく閤浮提図としての天位一図も古くからつく
られていた。存統上人に一世紀先立つ 鳳出 上人の「南胆部州万国掌菓之図」( 宝、氷七年・一七一O〉はやは
り経典の記載と西 欧伝来 の知識を組み合わせて 描 かれものだという。
存統上人のそれは極めて詳細で、各種の経典にある地名がびっしりと書き込まれ細かな解説がついて
いる。上人はこの図の作成にもっとも力を尽くされたのではないかと思われる。図の右下にはいわば総
一 日 一
等を解説している。たとえば叫イソトを防では「月」というが、こ れは陛代聖
論の形で「夫緋ごの T源
Am
、
その紀行が「西域紀」に菩かれているが
数巻の告物は子供らには読めない。図にあらわ
、
賢が世を治めるのを月が照らすのにたとえたのなという。』と告いてある。また、『三蔵法師がインドに
仏典を尋ね
せば一目瞭然である。』と発刊の怠凶をむいている。「車問点図」は怠考にならないとも苫いてある。
この図を現在のイント地図と対比しても無怠味であろう。ここでも存統上人は現実のインド旅行の案
る 。この
図の最後は「国家治乱在ユ人之心行乙の文章で締めくくられている。
内図を奇いたのではなく、いわば心の内で仏国土をお遍路している気持ちでこの図を描かれたのである
と思われ
,
すなわち、『如来は三宝の大弓師であるから J X鬼神も仏 J を帯じて国土を守議している。しかし悲
し いかな修僻思むも世界を税減せんとしている。人が不忠.小竺で仁義を失い三宝を敬わなければ、恋む
、
国は豊かに民は安らうのである。』と説かれている。
平民源内
、
南北等
、
江戸文化が世紀末
A の分野でも、司馬江洩は文化
司馬江漢の活動に見られるように、町人文
、
、風雨は時を以てし、
が威勢を増し災害がおこる。人が忠孝で仏法僧の三宝を敬えば普神の成徳が増し
災励は起こら ず
大相閣のな後
、
大相 図が作成された文化文政期は大御所家奔の時代である。馬琴、北 斎
的綱熟の 壌を咲かせた時代であった。杉田玄白
化の土台の上に蘭学といわれた凶欧の学問も次第に民泊していた。宇宙
、
五年「刻白繭天文図解」を発表してコベルニグスの地動説を解説している。一方、ロシャ、イギリス
、
」談
に代 表される
アメリカ等 新しく通商を求める外国の動きも活発になり、それは林子平の「海国兵
- 16 ー
ような危機感、精神的緊張を生み出した。 子平を弾圧した楽翁松定定信(その基所は作成厳寺〉も海防には
意をそそいだと言われる。
こうした外国文化による刺激は従来の文明にも革新の機運を呼び覚ます。京都積善院の僧、無外子、
釈円通が大相図の序文で紹介されている「仏国象
暦編 」五巻を発表したのは文化七年〈一八一O〉 のこ
とであった。「仏 国暦象編」は西欧文明に対抗し、仏 教的世界観の優秀性を鼓吹したものである。円通
上人は 言う。 「西欧の天文暦法によれば須弥山は存在しえないという。もしそうならば四王天も存在し
えないし、如 来の存在すら否定されるととになる。それは仏教の危機であるよこのような観点から上
人は三 十年の研鎮の成果を「仏国暦象編
」およびそれに続く「須弥山儀銘並序和解」「実験須弥界説」に
結集し、仏教的世界観の統一普及を閣った。それは大きな反 響を呼び 、その影響を受けた明治時代の怪
が、上人は仏教の宇宙論をあくまでも宗教上の、信仰の問題としてとらえていたものと思う。そして仏
教は決して現世利益や個人の孝福を願うだけのものではなく、もっと奥深く宇宙の真理とかかわりあっ
通上人の道とは 違っていたものであったと思われる。存統 上人 の他のお作も知らない私の推論ではある
って作成されたものであろう。しかし、大相図序文に書かれているように、存統上人が選ばれた道は円
存統上人の大相図もまた、同じ時代背景のもとで、西欧文明の刺激を受け、それに対抗する意図をも
は明らかである。「視 実等象儀」は世 人の 失笑をかったにすぎなかったという。
、
仏教の世界観が いかに精微であっても それをそのまま現実の天文地理にあてはめることが不可能なの
明治十年の内 国博覧会に出品したという。しかしこれはあまりにも教条主義的な受けとめ方であった。
僧、佐田介石は円通の説 をもとにしてゼンマイ仕掛けの須弥山宇宙の模型「視実等象儀 」を 製作させて
17 ー
-
たものであることを説こうとしてこの図を描かれたのではなかろうか。そう受け取ることに大相図の意
識があると思うのである。
宗教は科学とは異なった次元に位置する全人格的問題である。宗教の教典の字句を機械的に現実にあ
てはめようとする教条 主義や、宗教を現世的な利絶を生み出す武器であると考える愚をおかしさえしな
、
、
ければ科学と宗教は対立せず 科学の発達が宗教をおびやかすおそれはない。其の科学者は、科学とは
所詮 釈尊の手の平から飛び出すことができなかった孫悟空と同じ存在であることを知っている。存統
上人 もそれをど存じだったのだろう。
、
、
大相図は問浮提図 l 人間世界図ではじまり、 須 弥山 | 宇 宙図 へと拡大する。そして再び 釈迦如来の
国家柄乱在人之心行の文で終わる。この構成をみると、先の推論に間
型地である天竺の図へと収放し
仏画であると思うのである。
γダ
違いはないと思う。大相図は内憂外愚の近いことを思わせる世相の中で、仏教者はなにおなすべきかを
、
真剣に考究された人の所産である。それは無尽世界と人間との関係を考えさせるための一つのマ
ラ
門通 寺
|
七五一八
後藤其康 宛
付記・:
大相図三幅対の複製は余部がありますので、興味をお持ちの方はお申しつけ下さればお送り
します。
一
T 一三五 東 京 都江東区 三好一ー 三|三
電話ハ O 一一
〉
一 六 四一
- 18-
のこと で す 。
「ミーちゃん、宿題もう終わったの?」
お母さんが 言 いたへない言葉を無理に吐き
出すよ う に 言 い ま し た 。
、
今年もお誕日会
、
延期になるわよ」
「まだだけど」
「早く終わらせちゃいなさいよ。そんなこと
だと
、
九月にはいってからしていました。
安菅平
京谷宇
間 )11 :;
霊岱と
区ム
寺
gi関i
多孔
「ミーちゃん、カヨちゃんから電話よ」
まだミーちゃんはプツプツ言っていました。
、
「あーあ 先ず国語、説住感想文か、私作文
書くの大嫌いなんだよなあ」
、ーちゃんはブツプツ言いながら、机に向
かいました。
なあ」
って同じだよ。夏休みが当分続けばいいのに
「そんなことないと思うけどなあ、みんなだ
ていたら大きな間違いよ」
、
月の三十日なんて誰も来てくれないもん」
みんなも自分と同じだと思っ
「ミーちゃん
題
-・22・=-zszs-zz
-s
2z
-z
--・2・・222・・・・22・・=-zz-=---ss・-z--z・・=・・222--szz---z
ち
ー
ミーち宇んのお誕自は八月三十日なのでで
す。去年も一昨年も、当日はそれどころじゃ
なくて
宿
~ (4J
の
話
ん
法
や
、ー
夏休みも、もうあとわずかとなった暑い日
ー
「今年も九月にはいってからでいいわよ。八
<
wd
もー
、
どうしたの」
受話器のところにとんできま
お母さんの呼ぶ戸に、ミーちゃんは救われ
、
カヨ
る思い が し て
した。
「もしもし
1
「わかってる。じゃ
ミーちゃんはプ
、
行ってきま
t
す」
ルが大好きです。そして
宿題という重圧に暗く沈んでいたミーちゃん
、
にとっては、正に青天のへきれき 棚からぼ
たもちの在びようでした。
?ーちゃんは今年、お父さんが忙しくて海
うきうきしてカヨちゃんの家に走っていた
「ミーちゃん、今ユミちゃんも来てるんだ。
、
ミーちゃんに、ふっと不安が起こりました。
、
いっしょにプ 1 ル行かない?」
「わあ、行く行く、
待ってて 今そっち行く
ユミちゃんがいっ
も
ミーちゃんは自分の部昼に灰ると、今まで
、
、
急に足取りが箆く
、
早かったねえ
それじゃ早速
、
うと、そのまま玄関から靴を履いて出ること
カヨちゃんは待ちかねていたようにそう言
行こう」
「ミーちゃん
「御免ください。ヵ ヨちゃ んいますか」
なってしまいました。
そんなことを思ったら
に行けなかったのです。
『カヨちゃんたち、真っ黒に焼けているだろ
ヵヨちぞんと
とは別人のごとく 紫早い動作でしたくをして
、
うなあ。私こんなに白くて恥かしいなあ』
「あ の ね
、
しょにプl ルに行こうって誘ってくれたの
ねえ行っていいでし ょ」
「あなたがそこまでしたくしてるんじゃ
行くのよ、浮かれて道路に飛び出すんじ ゃあ
う駄目な んて言えないじゃない。気をつけて
、
お母さんに言いま した。
'-
りませ ん よ 」
20 ー
-
ね
にしま し た 。
J
「行ってきま す」
三人は芦を揃えて
ました 。
、
にこにこしながら叫び
「カヨちゃん、今年海行った?」
、
今年は良かったよ。ミーちゃんは」
道すがらミーちゃんがポツりと開きました。
「モチ
「ユミ ち ゃ ん は 、 行 っ た の 」
、
l
、
ルに行ってたん
ユミちゃんは色白なんだよ」
海に行かなくたって、妹のチ
「ミーちゃん
ーちゃんとしょっちゅうプ
でしょ。充分焼けているじゃない」
カヨちゃんにまで追討ちみかけられ
ちゃんはおもしろくありません。
ツ ブツ
、
言 いあいながらプ
l
ルに着
「東京の光線じゃ 焼けませんよ」
ミーちゃんはひがみつぼく言いました。
三人はプ
くと、早速水に飛び込みました。
カヨちゃんの聞には答えすに、 ユミち阜 、ん
に聞き ま し た 。
忘れられるわ」
「気持いいねえ、宿題のことなんかすっかり
私
「うん 、 ち ょ っ と だ け だ け ど ね 」
「そう 、 二 人 と も 行 っ た ん だ 。 い い な あ
「やだ 変なこと思い出させないでよ、忘れ
突然カヨちゃんが叫びました。
見てるの徹君じゃない」
「あ、あそこのフェンスの向うからこっちを
三人は笑い転げながら泳ぎ回っていました。
、
今年はいけなかったんだ。だからさあ、ほら、
てたのに」
、
。
こんな白いんだよ、恥かしいなあ」
「そんな恥かしがるほど白くないじゃない」
ユミちゃんが自分の腕を並べながら言いま
した。
「白いよ、 いつもの牛だったら、私真っ黒だ
21 ー
-
ょ
「あ、ほんとだ、徹君よ」
ちゃんはプ
1
いっしょにプ
l
ルにはいりましょ
ルから上がって、微君の
ユミちゃんもそお言うと手り撮りました。
ミ ー
、
ほうへ駆けて行きました。
「徹君 も
うよ」
、
せん。
『よし、徹君の家に行こう』
そう決意すると、ミーちゃんは微君の家に
向かいました。
、
びっくりし
「御免ください。徹訂いますか」
「微は、今寝ているの」
徹君のお母さんのその言葉に
てミーちゃんは、訪ねました。
徹君はミーちゃんの言葉に背を向けると
き!と駆けていっていまいました。
すよ」
くれないかねえって
、
、
激し
いつも話しているんで
い運動は絶対できないの。早く夏が終わって
の。だから夏はとっても怖い季節でね
「微はね、小さいときから汗が出ない病気な
「微沼、何処か悪いの?」
、
ターンをして、泳
「変な人ね 気にしないでい泳ぎましょ」
カヨ ち ゃ ん は そ う 古 う と 、
ぎ始め ま し た 。
三 人 が泳ぎ疲れてプ!ルを出たのは、もう
ちゃんは二人とわかれてから、さっき
夕方近くになてついました。
ー
「全然知りませんでした。さっき微君に思い
ミ
の微君のことが気になっていました。
れじゃ、お大事に」
さいって謝っていたって言ってください。そ
こと言ってしまいました。起きたらごめんな
、
どこか身体悪いのかしら』
『徹君どうしたんだろ。顔色が何か悪く感じ
たけど
、ーちゃんはもういても立ってもいられま
- 22-
代に担任の先生から開いたという寓話『エピ
キュロスの圏』という話がありました。 そ の
、、 ー ち ゃ ん は と て も 自 分 が 恥 か し い 気 持 に
なりました。自分のことばかり考えて、人の
話はとーちゃんに強い衝撃を与えました。
||ある妖精が、一人の子供に一つの糸ま
ことは何一つ理解しようとしたいなかった自
分が、情けなく思えてきました。
りを与えて「一回う。この糸はお前の一生の日々
、
の糸だ これを捕るがいい。時間がお前のため
『人から比れば、何倍も楽しんでいるのに、
文句ばかり言って、ミーってほんとに我がま
糸を引っ張
に流れてほしいと思うときには
るのだ。糸まりを早く手繰るか長くかかって
、
まなんだなあ』
夜食事が終わってから、ミーちゃんはお父
これなんか面尚いよ」
と結婚するために
、
、
そして愛する婚約者
それから子供たちが大き
先ず大人になるために
ているだろう。その子供は、糸を手にした。
れない限り、お前は生涯の同じ時刻に留まっ
にも緩慢にも過ぎて行くだろう。糸に手を触
手繰るかによって、お前の一生の日々が急速
何かいい本教えてくれない。ただ
、
長いのと難しいのはだめよ」
、
さんのところに行って聞きました。
「お父さん、国語の宿題で説性感想文がある
、
んだけど
し
「そう だ な あ
お父さんはそういうと、フランスのノーベル
ル
・
フラソスの短編集を持っ
賞作家アナト
くなるのを見たり、職や利得や名誉を手に入
l
てきま し た 。
れたり、心配事から早く開放されたり 悲し
みゃ年とともにやってきた病気を避けたり
、
ミーちゃんは今朝までとは違います。一所
そして故後は悲しいかな厄介な老年に止めを
、
懸命読み始めました。すると、作者が中学時
- 23-
人間の自然の心理だげど、でもそれが楽しく
糸を引っ張った。 その結果子供
、
、
「ほんと どうしたらい い の」
刺すために
。
なかったらもっと悲劇だねえ」
lll
は妖精の訪れを受けて以来、 四か月と六日し
か生きていなかった
「お父さんはそんな人聞の気位な感情のまま
に糸を引っぱったら
ミーちゃんは考え込んでしまいました。そ
の子はどうしてそんなにも早く糸を引っばち
り返すことになると思うんだ。糸まりは何が
少年と同じ掛かさを繰
ゃったのだろう。私は哀がずっと続けばいい
あっても時間の流れる速度と同じ早さでつね
おこう
、
、
、
そうしよ
それが宗教
永い病気や不治の病の人はどうなる
出来た出来た 」
「ハ 1イ、わかりました。宿題にそう告いて
だとお父さんは考えてるよ」
んだ。糸を時間の速度で引く力
だしも
うと思う勇気が必要なんだ。短い病気ならま
、
「そんなの面白くないな。それに病気のとき
、
と思っているし、徹君は早く終わってくれな
その糸をどう引っ張るべ
に引っ張ることが一番 い いと思うんだ 」
、
いかなって祈ってる。私たちに、もしそんな
なんか早く引っ張りたいよ」
糸が手 に 入 っ た ら
きな ん だろう。
、
、
「面白くなくたって 辛くたって
、
私は夏が来たら止めちゃうし
世の中 めちゃくちゃになっちゃうね 」
、
「お父さん そんな糸まりをみんなが持って
たら
、
「どうし て」
「だってさ
微君は瓦が来たら引っぱっちゃうんだよ。私
、
、
楽しい時間は 一時でも
徹君と会えなくなっちゃうよ」
、
辛い時間は一時でも短くというのが
「それは困ったねえ
長く
- 24-
一
…
一……髄……筆……集……目…
一木以下……隆……
、
ー我 が 思 い出に住む犬たち (3)l
海と山の狭間で
、
、
、
き のしたりゅういち
木下隆一
…
…
一
…
孤独な毎日であっ た。神経 症が再発しなかったのが不 思 議なくら いで あ
犬は飼えなか
よかったのだが
かったので
った。
、
猫という動物を身近に置くのは初体験だ
ったし
、
生後 二 か月ほどの 子猫は 、子 犬 の クロ
、
る。そんな私の慰めにと思ったのか 父はどこからか子猫を貰 って来た。 私は 子犬の方が
家が当時流行の文化住宅というやつで庭が狭く おまけ に日 当 たりが 恵
て友 達 も出来ず
豊中で過ごしたのは
昭和 十四年 の一 月(一年 生の三 学期)から、十 五年の 七 月( 三年生の
…
…一学期終
了〉までの約一年半という短い期間だったが 、 いま思っても惨憎 た るも ので あ っ
た。病気ばかりしていた。無欠席で満足に学校へ通えたのは
三 か月あっただろうか 。 従 っ
…
一
…
帥
山
25 ー
-
ベエを初めて抱いた時よりももっと頼りなげで、扱いにはかなり気を遣った。金目銀自の
、
、
その 訳 を私は知らない。確かに父が貰って来たのである
愛猫家なら 喉から手が出るほどの珍種だということだった。そんな珍しい猫がどう
雄の三毛猫で、自の色が違っている猫というのも珍しいが、雄の三毛というのは非常に珍
しい
、
、
迷い込んだとしか言い様がなかった。こういう言い方が適当かどうか分からないが
して我が 家 に迷い込んだのか
が
珍種ということは劣性遺伝子の相乗作用の現れだったのか、とにかく体の弱い猫であっ
、
、
結局との猫は半年ほどで元の飼い主に返してしまっ
私が病臥している時は元気で、私が快方に向かうと入れ替る
た。始終腹をこわしてあたりかまわずたれ流すので、母はその始末にほとほと手を焼いて
いた。奇妙なことにこの猫
ように病気になった。持てあまして
時々母は思い出したように「可愛い顔した上品な猫だった」と言うことはあって
、
余程懲りたのか二度と猫を飼おうとは言わなかった。
、
たが
も
、
昭和十五年八月、父が上海の国策会社に出向することになって 私は母の故郷である愛
、
、
私にと
、
っ
、
媛県の松山市に帰った。戸籍上は本籍地の愛媛県西条市で出生したことになっているが
私が生まれたのは この松山の祖父の家だったのである。月足らずで生まれた私は
祖母
出会わなかったら
、小
恐らく今の私はなかったに違いない。ひょろひょろした私を見て
、
近所に、かつて大病院の婦長をしていたという小母さんが住んでいた。この小母さんと
、
の肌の温みを吸って生きたと後で何度か聞かされたが それはともかくとして
ては最初に訪れた転機であった。
26 ー
-
一一一一-一一一一一一一一-一 “・一 一一一一一“一…"
母さんは母に言った。
「小児結核だね、この子。十まで生きられればいいが:::」
当時は今と違って年齢は数え年で言っていたから、私は九歳になっていた。だから後一
年の命と 宣告されたようなも のであった。結核が不治の病いとして恐れられていた頃の話
、
である。盛中で診てもらっていた老医にも うすうす母はそれらしいことを言われていた
らしいが、母にはまさかという気があったようだ。しかし十までと具体的な数字を挙げら
れると、惇然とせざるを得なかった。
「どうすればいいんでしょ」
「そうねえ・・・・・・」
、
小母さんは私の腕を捌んで、値踏みするような目をして宙を脱んでいたが
「それにしても細いねえ」
と円一回った。
「お祖父ちゃんは骨皮筋衛門って呼ぶよ」
と私が言うと、小母さんは苦笑した。まさしくその通りだったからである。小学校三年
にして、私は四民五宵匁〈ぃlじキ一グラム足らず〉しかなかったのである。小母さんはなおし
ばらく宙を肘んでいたが、断を下すように言った。
「先ずカルシュウムと、結核に効く薬を注射して、体質を変えるしかないねえ」
開捕をも掴む思いというか、注射は早速その日から始められた。隔日に打たれた注射液の
- 27 ー
、
名前は覚えていないが、結核に効くといわれた薬は油性で段収が遅く 痛みは翌日まで尾
を引いた。生を草けて最初の試純だったと言ってもいいだろう。その後この試練は一年近
く続いて、タイムリミットの十も注射のおかげか、無都通過することが出来たのであっ
た。
、
昭和十六年四月 小学校は国民学校と改称され、体力検定が始った。そして十二月日八
、
太平洋戦争が 勃発し 国家的には臨国 以来初の散動の時代を迎えたのであるが、毎月八日
を大詔奉戴日と称して、早朝裸足で神社参拝をさせられるのを重荷に感じたくらいで、子
、
供の世界はそれほど大きな変化はなかった。あらゆる物資が統制され 暮らしは不自由に
、
、
なったが
それは大人が心配することで 、子 供たちは「欲シガリマセソ 勝ツマデハ」の
心境で、当然と受け止めていた。ただラジオのニュ ースで「海行かば」が流され、「:::
、
子供心にもチラッと不安がよぎったことは何めない。不安と言えば
、
、
私自身
二階級特進シ 上聞ニ逮セラレタリ」 といった風の将兵の川報が伝えられることが多くな
るにつれて
・
m
a
海兵の予備校みたいな県中〈県下に県立中学に何校
十九年三月には中学校受験が控えていた。前年の秋口から、進学について教師と父兄の商
談が持たれており、母が松山中学受験を希望したのに対し、教師は新設の私立中学の受験
を勧めて いたのである。幼年学校や陸土
、
というのがその理由だった。注射によって体質が改善されたと言って
もあったが、その第一の中学という荒味で、一般的にそう呼ばれていた〉のスパルタ教育につ
てい
行
ける体力が無い
も、同年代の子供と比較すると、私の体格は格段に劣っているのは事実だった。私の周囲
でも松山中学受験に関しては賛符両論相半ばしていたが、「お前が受けたい所を受ければ
いいんだ」と祖父にきロわれて、私は松山中学を選んだ。大人の心配をよそに、なんとかな
るさと一番楽観的だったのは私自身だったかもしれない。それでも一抹の不安はあった。
、
教師が果たして内申3 を書いてくれるかどうか 1 1 0 保証は出来ないよと言いながら 教
師は松山中学宛の内申舎を古いてくれた。よし、この先生のためにも合格しなければ
、そ
、
一年繰り上がって、中学一年生から試験が可能になっていた。下級将校の育成に軍部
して合格したら幼年学校を受けてやろうと思った。この年から幼年学校の募集要項が変わ
り
はやっきになっていたのである。
、
、
それもどうにか破綻なく答えることが出来たから 後は身体検査の結果待ちと
、
会場だった訟山商業から、どこをどう歩いて家まで帰って全
来く
た覚の
えか
ていない。
、
いうことになった。そして什格した。何番で合格したのか分からない六
が月に実施され
た陸軍幼年学校の受験を許されたから、そう思い成紙ではなかったと思う。これが私に
って第二の試鯨だったが、幼年学校の方は、最初の身体検費で胸囲が足りず、あっさり落
とされてしまった。胸聞が足りないという理由だけで落とされたのが口悔しかった。試験
らったが
試験は体育偏重とも言える選抜方法だった。一つでも失敗すれば、先ず絶望であった。
私が一番懸念していた跳び新は侃を引っ掛けながらもなんとか跳べたし、投榔は梶棒を投
げきせられたが、これは思いの他よく飛んだ。低記試験はなく、学科試験はすべて口頭質
問だった。四、五名の試験官から矢継ぎ早に質問を浴びせられるのは初めての経験で面食
-29-
泣くまいと思っても、一猷がポロポロこぼれて仕方なかった。初めての挫折だった。
二十年七月二十六日、
Bm六十機の夜襲で松山の旧市内は殆ど焼失し我が家も烏有に帰
したが、これは敵関心を煽る効衆しかなかった。二度目の挫折感を味わったのは、八月十
五日、「終戦の詔勅」の放送を聞いた直後であった。戦争に負けたことより、九月に行わ
、
河原の中酬の草いきれの中で私は声をあげて泣いた。もう二度と自ら操縦し
れる予定になっていた滑空訓練が中止になるのではという危倶だった。そしてなぜか絶望
的になって
て大空を朔ぶことはないだろうという思いが私を泣かしたのであった。
この項では犬が一切登場しないことを語る方もあろうかと思うが、この時代の私の記憶
の中に、一匹の犬も存在していないのである。豊中時代は病気がちで出歩くことが少なか
ったからという理由もつくが、松山時代の 記憶の中に犬がいないというのは 、突は私自身
解せないのである。ただ推測出来るのは狸を肥る土地柄だったから、狸に害をなす犬を飼
わない慣習が占くからあったとも考えられるし、犬神という正体不明のものを嫌う土地柄
でもあったから、そんな俗信が入り交って犬を敬遠する結果になったのかもしれない。
誰も明らさまには宮わないが、犬神惣きとか犬神の血筋と噸かれている家があった。実
、
態は誰も分からないまま そう信じられているのである。お気の毒なことである。犬神を
辞典で見ると、俗信で人に容をなす限に見えない小動物と出ている。これを私は恐犬病の
病菌だと見ている。何時の頃か分からないが、古自にそれらしい記述があれば
、私の疑問
は立ち所に氷解するのだが:::。
30 ー
-
*********令**********************
陀
の
身
ある日
神和僚を勧れて野部の 川
桃山狩地を拝
、
の凡犬と考えておられたようです」
したあと持集は少年悌良にむかいい的りはじめ
一
且..・・・
最終回目
・~
.
.
.
。
.。
ド
φι
、
わたしは和 LLの古誌を
、
御池文と照合
して勿えて みました。還同相向
同の思想です
日米
れば正しい往生は遂げられないでしょう。先
びしく見つめるものです。その心がけがなけ
「浄土願生者は日常におのれをそのようにき
う
す ると弘どもは何なのでしょうか」
「あの和上が下日間下ル誌の九犬なのですか。そ
-3
1-
く 50>
、
-・・・・・・ ~
E・・"w":・ 4・・・・・
・・・・~
守山又令
イヒ
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E
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「
普滋和上はご自身を煩悩にみちた下品下生
g伽
合会合会合*******************女*******
、
が、幻自身を上 H
川上M1
の.
仕川しおとするのは
ー l
nvtz仏拡刷介
唯発ニ一念二肱ν 十l策
F
速満ニ時u
点
隊大悲願行-泣入ニ生死-
、
いかにも普導和上にふさわしくない。下生の
諸仏の境界
度ニ衆生£ 故名ユ発菩挺心-也。
抽u
ただ一念をおこして苦を版い
、
、
田硲)に入りあまねく衆
還って生死の(情
古
、
生前に引い
金運
、
ヰ僚を積み、そのAW
終時には念仏を町んだ功に
つまり下凡下生の身ではあるが
生を旬以わん〈度せん)とと宏願う。
し
に生じて、速かに審議の大悲願の行を満た
、
凡夫が上品往生を願う」
qき
f
m・ぷの快から経文の抜
と浄来は持導の m…
、
きを取り出した。遺文に接するやゆ業なりの
、
大衆二但発--無上道心-以ニ此功徳田
上口問下生者 亦信ニ因果- 不V8-
検証を加えたにちがいない。
ll
百向阪
求生二一段張問、
z
よって阿弥陀仏や mmuw
の米迎を得て
のムHとに足して泌総浄とへ往生する。しかも
、
「観相一…可保管の政存終上
でルγ
一上H
川から一ト
H
川
伎の必へ到ヲてもなほ的進を怠らず汗伐の行
、
下生へをる九品を必じて 一一
心一
を悦いているい川
を成九し
川内びこの内情七へ還り米たってハ還
田です。その上品ト生市れとは、同県をいじて
、
F
生凡夫のぷを将導はその死に臨んで蛾く治ぶ
来内明日》込える衆生を設いたい〈度人天V と
K 道心をおこしてこの功
大吸を誹融制せず 無
、
徳で極策に生ぜんことを願う行場を甘う。こ
したというのである。
、
は すでに答滋和上のお身体に上品往生の光
からまっすぐにこの神和原へやってきたの
、
こで無上道心だが
「わたしがが陀仏身の光りを感じ 良安の街
片導和ヒはその阿帖蹴
〈「銀経琉」〉でこう白いていらっし平る」
その箇処を指示した。
32 ー
-
合,***セ***************************
の者でも充分に還栂回向が可能であることを
を否定するわけにはまいらないが、上品下生
は下生の凡夫とおっしゃっているので、それ
輝が満ちあふれていたからなのです。ご自身
んというに喰う。また一切の行者、
とあい見えんに庇びはなんぞ極まら
後、かの同に生ずることを得て、仏
かの願均の道に乗じ、AWを俗てて以
を願みず、念hに怠るることなく、
夜時節を問うことなく
常にこの解
、
行仲間坐臥の三栄に修するところ、毘
身を以てお示しになったのではないでしょう
か」
常にこの怨いを作〈な〉せ。
をなし
悲をおこし、生死に麹入し衆生教化
、
明できた思いで少年語良に師の往生相を懇切
は、かの同にや,じおわり、還って大
紋に幽向発願心と名づく。廻向と
浄荒はこの数臼聞における疑念を一気に解
に品るのであ った。
するをまた廻向と名づくるなり。
、
「それで 弘どもは品滋和上の傍らで暮しな
「観経が必く三心のうち、とくに趨向克服心
すでに 40導は二河白道を力説し、酋方伶土
がら何をしたらよろしいのでしょうか」
を忘れずに御供養申上げることです。M じ阿
五寸」という狭
を目ざす願生者が「白道問
、
尊と弥陀仏の心に信服して水火の二河を顧み
帖疏で和よは明言されている。いま二務、釈
い一本の追をひたむきに点るおを前写する。
、
即ち衆生は久しく生死に沈んで
、
く、仰いで釈迦の発進して西方に指向せしむ
噺劫に論廻し、逆倒円倒して解脱するに白な
ぶというは
「須史にして西岸に到り 益友のあい見て必
ず・・・
」・・・
浄業の語気はいちだんと強まった。四帖疏
いま二噂の心には制して水火の二行
の文骨格は続く。
il
- 33-
*************会食合会会食*************
し給う」と
時に上品往生へ導こうとするねらいがあった
は病者の気分を高揚させる効果もあるが、同
りかけ、その生涯を讃嘆するのである。これ
し、この往相もやがて還って衆生の教化する
と思われる。明るい雰閤気のなかで称名念仏
ることを譲り、また弥陀の悲心をもって招喚
廻向心がなければ大乗の化他ではないとも言
の合唱がくり返され病者は歓喜のうちに西方
H
往稲刈のきびしさを描く。しか
いきる。つまりニ河白道思想の基底はおのれ
たちに呼びかけているところです。みんなの
「いま善導和上の教えを受けた各地の念仏者
義務が回公安の街角に立ち
、道 ゆく人々に HU
カでこの地に基搭を造立しようと思う。それ
川訓
の旅へ登る。
写した「阿弥陀経」を配布したのもこれら凡
まではしっかりと此処のお守りを頼みます
一身の救いではなく、他を救う菩提心に支え
夫に上品下生の往生を願わせたい心づもりだ
ぞ」
られていたのである。
ったにちがいない。おのれ
一身だけではなく、
出作業は神和原を去るとき、いつも同じ言築
をくり返した。悔良の答えも同じであった。
下生の者でも上品往生を遂げて泣来線困、度
人夫の菩議選への門を聞いてやりたかったの
しっかりと計画を立てて立派なものを立てて
建立したことは前に触れた。そして自身もそ
このあと浄器保が、現存する十一二層の基塔を
欲しい 、で ある。
であろう。
苫潟のこんな教示が受容されたものかどう
か。七世紀末あたりから中国の念仏信者たち
は、ことに在家者は臨終において病者の生前
の傍らを終息の地にえらんでいる。
それらの造立が開始されるまで揮良は、亡
。
親戚縁者が枕もとに集り、病者に意識がある
き笑厭人の妻とその子ともども朝夕、埋葬地
の功を讃える様式を採択するようになった
問、つとめて彼ないし彼女の生前の功績を語
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
Aを槌えては供養に専念した。
その花々を樺良たちは終南山の山麓に求め
へ新鮮な花
ていた。そこで善導の死を知り、甚葬地が神
和田耶であることも聞きこんだ。長安獄へ戻る
途次
墓参に立ち寄ったのだという。
た。象節は春から夏へかけてである。百花が
「ずっと此処でお守りをしているんですか」
、
咲き乱れていた。
められていった。花々が増えるにつれて、各
「和上をお守りする日々が大切な教えをよみ
ろ眺めまわしている。
武后はすっかり僧らしくなった甥をじろじ
地から来訪する念仏者たちも多くなった。よ
がえらせてくれます 」
題葬地の赤い地肌は見る見る多彩な色で染
である。
うやく聖者数回導の示絞が伝えられていったの
、
仰々しい隊列がく
「死んだ人聞がよみがえって救いの手をさし
「廼向心です」
「その大切な教えとは何ですか」
僚良たちはその応待に追われた。普導臨終
訪問考のなかにその日
の詳細を語らねばならなかった。
い下賎な凡夫がですか。かりにそんな救われ
のべるというのですか。それも取るに足らな
かたをしても区々たる一個人の悩みでしょ
りこんでくるのを障良は限にした。十数騎の
官兵に聞こまれた寧駕が花園へ横づけになっ
う」
武后は微笑んだ。すでに六十歳に腐いた伯
るのでしょうか」
ご個人の悩みのほかに人聞の悩みが存在す
信があるようである。
武后は高飛車に論戦を挑んでくる。何か確
た。降り立ったのは則天武后であった。
「
.221zgEJ
…十四 一
伯母の則天武后は終南山の含鼠殿に滞留し
35 ー
-
令*** ***食 会会***********女女*********
同りだがその顔からは徴胞も老いが感じられな
、。
術で式后を施活していたではないか。
この時点ではぷだ則天式后の弥肋ド伎は邸
主化していないが、 a-q
を経た弘道后勾(六
-iMW
八一一一〉十二月、山川河
h内
H不
鋭
殿が
で刷ずると俄
然問先となる。
「怖内民や、安は人民のすべてを救わねばなら
「・・・
・・
・・・・」
ない立窃にあるのだよ」
「弥助菩薩li 」
による。その経文で「仏陀は伶光天女に告げ
経句を引用した模願3を廟掌へ提出したこと
A経」の
発端は洛陽の僧法切ら九人が「犬山
「大室経によれば仏滅七百年を経て弥勧菩輩
て円く。わが没後七百年を経て誕生した汝は
「阿弥陀さまよりも弥紡さまです」
が伶光天女という女身に姿をかりて地上へ現
工似を継ポせよ。天トは戚伏し
問点鉱山同み
な米たり成仏す、と」引かれため丈を則天式
に山川た天后は彼女しかいない。しかも今、人
訂にあてはめたのである。仏滅後じ行年で枇
、
れるそうですよ」
、
とまぜっかえした
「弥肋さまが女身になってですか」
それがどうしたんです
高宗に死なれた。ヱ位を継承し
作光天女の
「その浄光天女が妾らしい」
本性である弥勅菩磁の化身を世に顕現させて
る。
則天武后のために欝鍛練が造作したものであ
、
この「大雲経」。そもそも偽経であって
、
「准がそんなことを?」
欲しいという填顕であった。
かったが悌良は 2業にしなかった。
「白鳥寺の高僧たちがそう言い合っているそ
またしてもこの伯母に採り入ろうとする述
うです」
』
-
中がのさばりはじめたのか、と怖内はは悲しん
だ。つい先ごろまでは僧師の明京慣が符呪幻
-36 一
会合************************-t.足*****
11
、
名は小室、薬を洛隠の市に売る。千
vふう
懐設は都合』〉の人、本性はあ〈
金公夫ハ応宗の女)に因りて以て進
に附入せしめんと欲し、乃ち度して
み、挙を太后(武后〉に得たり。禁中
併となり快諾と名づく。〈「資給過鑑」〉
前身は薬売りの偽幼主であった。これが向
応寺の僧らと結託し「大雲経」を偽作し、別
天式市に係り入ったのである。
んた大衆経典には中国で偽作されたものが多
日本の日蓮が「立正安田論」や「守護国家
「仁正般若波級蛍経」なども明らかに偽経だ
詰」その他でしきりと引用する応隊蹄什ぷの
と宮われる。〈mm刀什Mq「仏数儀典成立史論」)
例えば大梁虫m制
w 恨の注解大品序に「議=般
ν 有エ粂
g 般若只
位、重吏研ボ多不-甲山相符-。唯仁王
m
若-者多説ニ五時-一往聴受似
z 各部-枇既以-二段経-今則位而不 V 店側」
とある。般訟を排ずるものは五時の別で説く
みか、仁王諸般経は世には侠縫と目されている
が、屯さねて研究すると順序が符合しないの
武院が内川一焔一へ栄進すると償提はその側近と
して織力をほしいままにした。「店」を廃し
と雪いきっている。
のだから、今はこれを用いないことにする、
て「周」という新国家名まで制定させた。
「武周本命」と呼ばれる産自がそこにある。
この問、快溌は各地に大 m
批判位与を組立させ
の uw
いように経典を作
抑制主がおのれm
のAH
製させる。これに応ずる宗教おもだが、府主
た。官制-dもあるし旧与の改称もあった。とに
かく政教.体、則夫武后の独紋と越同総典
自身も人民に対して甚だしい偽蝋行為をやっ
「これからが妥たちの時代ですよ。あんたも
ていることになる。
「大閉式経」の教義で中回全土を支配した。
その「大雲経」が偽経であることはすでに
指摘したが、これに限らず誰同思怨を銭りこ
- 37-
食会******** **********************
これは武承嗣自身が刻んだもので、則天武
后の独裁政権を讃えている。年号は早速永田出
王滅へ戻っていらっしゃい。やることが沢山
あります。若い承嗣や三思たちはよく働いて
らもこのあと皇太子位をねらって退けられ悶
僧は武后に嫌われて殴殺され、武承嗣、一一一思
にあらためられた。だが間もなくおごった妖
武后は誘った。
いますよ」
「承嗣や三思がですか」
傾向尽にそんな行く末を見とおす明があるわ
死する破自になった。
けはなかったが、いま決断しなければこの魔
、
どちらも武后の呉腹の兄たちの遺児だっ
である。この兄たちは武后に疑われ僻地へ流
た。承嗣の父は元爽 三思はその弟元蹴棋の子
男児の乎を引いて現れた亡き突厭人泥
物のような伯母から絶縁する機会はないと思
、。
后の
H
生け犠え H になったのではなかった
その泥むも、またあの吏生王徐明も伯母武
屯の妻だった。
、
され消されている。
大安緩寺の建築に駆けず
武三思たちは妖僧懐誕の手下にな
、
のは
った。さらにその決断を不動にさせてくれた
その身内の者を次々に殺していった郎天武
「向と言っても身内の者は頼りになります」
、
后ではないか。
武承嗣
り偽緩を造ったり
「わたしは出家した身ですから再び玉城どは
占H
戻りません」
りまわる。さらに重扶四年〈六八五〉の四月に
は洛陽郊外の川原で 「こんな右を拾いまし
たてて笑った。
きっぱり断わることが出来た。武后は戸を
た」と武承闘が武后のもとへ届け出てきた。
|聖母臨人、永昌帝業
|
・
「出家した身ですか:・
・・
・
・
・ 尼僧に子供まで生
ー
- 38
**合唱~****************************
f
f睦まじく官していて」
を侮良の愛人と考えている。だいぶ年
ませて親
母
ll
が一ぷです」
「その河と滋が.とし
うたというんですか」
、
「どうもしません。和上は いつもこの話を
して下さいました。この河を渡って白い道を
少年には似つかわしくない男児
まっしぐらに進めば瑚向発願の伴へたどりつ
、
そんな不調和が則天武后には理解できなかっ
けるんです」
上の女
たらしい。男女は年齢なぞに関係なく情事に
媛するような限で眺めている。
、
五寸ほどの狭院な白い道である。炎
中間
いないようだ。落着きはらった甥を呉邦人に
武后には何の話やらさっぱり見当がついて
燃えるものと信じこんでいる武后だった。
、
昌宗というこ十蔵そ
現に彼女は妖的懐筏とも肉体関係を持った
、
その死後は張易之
こそこの克少年の兄必を苔えた。夜ごと両人
武后 はもう一度館 内
氏に説得を
、
h に火の刈がある。北は探測に臨み
闘
は巾四
と波浪がこの道を浸たして往く者の足もとを
脅かす。炎を避け波シプキをくぐり休むいと
、
ってきており引き戻すことも詐されない。
まもない。しかも背後からは鮮賊 思股が追
、
「何ですか そのこ河白道って」
です よ。河がこ つと白い道
「善導和上の教え
- 39-
が
を相手に的事にふけった。武后自身が六十五
、
善導の 墓前に敬虞 な祈 りをささ げ たあと、
歳から七 十 の戸 を聞く 老境にであった。
取潟 へ乗る前
こころみた。
、
「いま笑顔で誘いますが 次は恐ろしい刃が
迎えに や ってきま す よ」
:
J
5
「わかっています。二河白道ですからね」
明らかに脅迫であった。
j十;
******************合唱'.r******* ***令会
ll
目ざす願生おは三心のうちでもこの廻向発願
ユ品アンスとして、死没賭して阿方浄土を
心に最大の力点を置いているように思われ
我れ今廻るとも亦死せん。往する
死。一 種として死をまぬかれ(勉〉ざ
ハ止まる〉とも亦死ぜん。去るとも亦
向
ニ河白道が協同務教尚子の該心とすれ廻ば
か。さらに本文の「観無Ha刃経」では上品上
、
先即心はその云条とも古えるのではあるまい
る。
て去らん、すでにこの道あり。必ず
れば絞れ箪ろとの道を尋ね前に向っ
観U」
M倣持議)
まさにわたるべし。ハ
-
、
、
還って生死に入り
、
必
あまねく然生を度
放は川を躍う阿弥陀仏の怒悲を、ただウ受する
せんことをねがう」と機会を与える。万人の
たし
仏の境ω什に化じて迷かに醤磁の4
大願行を満
、
善晴時はその阿帖疏があえてよ品下生の
生の者にしか還相廻向の門が聞かれていない
のに
二河白道のきびしい状況を錨写している。
凡点にも「ただ 一念をおこして符を服い
k,仰や背後の山'に可を傾ければ、たちま
片務数学の篠芯を衝く比喰である。この白道
。
上をまっしぐらに内へ向って込る作上願生
者
ち感乱の渦へ巻きこまれてしまう。
沼、行什 少 臥の J・業に修する
特 訓貯はこ
の二河白道の比 喰 を説きおわって
て衆
だけでなはなく、その思山仰を"廻らしH
れ
「ま た切の行
生救済を念願したのである。義国導の念仏思想
、
ところ、 包夜 時節を問うことなく
の核芯と呼ぶゆえんである。
常にこの
解をなし、常にこの想いも Zなせ」と結句し、
神和原に秩がきた。
続いて「般に題向発願心と名づく。また廻向
というは、かの同に生じおわり、泣って大悲
基浴造立の業が開始された。当然のことなが
Fの
たち
浄惜燃や懐柵伸、快感ら間受
必による
。
をおこし、生死に削人し、衆ル川島正教化するを
また廻向と名づく」と強調する
- 40-
?七******************セ************
ら慈葬地をおおうていた花園もいったん除去
「仏さまがいらっしゃる国ってお花が一杯咲
いてみた。
「そうだよ」
いているところでしょう」
して、新たに構想も直さねばならない。
傑良は泥亀の遺児をともなって朝夕、基葬
地での念仏を怠らなかった。
たことがあります」
「ずっと背に一度、そんな締麗なところμ
を
「やっぱりおぼえているか」
この五此にみたない幼児は玲鳩珠のような
の苦労もしたろうに暗い影なぞ徴臨も感じら
心の持主であった。育った環境上、それなり
侮良はまじまじと幼児の顔を凝視する。笑
ざめですよ」
n
、
還米磁同とは 、このことを語っているので
を告げているようだ。
くぼをうかべた無心な友情が 仏性そのもの
れない。
判の太陽が対ると、必ず慨
μ・
が起店する片品
「和上さまが 、も うお
山地の戸nから吋憾な・刊をかけてきた。
、
いったん浄土へ往生を遂げた死者が 菩藍
はないだろうか。
位を得て再び生死の界、この世へ舞い戻って
地下の芸却が限定さまし、となえる念仏の
る。もちろん慨良自身が教えたことだが そ
戸で今日の交信を開始する、という意味であ
くる。機上へ還り来たる。
、
っくり受容している安は人間とは思えないも
るのではあるまい。欲心で汚どれた過去の記
しかし、それは輪制転生、旧の夜で燥注す
憶をすっかり拭ぐい去って、新生の胎児とな
のがある。
「お前さんは仏の同からやってきたんじ平あ
の泣んだ心こそ、菩畿のそれを古いあててい
って還来するはずである。玲磯珠の・如き幼児
ないのか」
ある朝、念仏の昭和を終え朝他聞をとるべく
ぷ券地から引きあげてゆく透次 、まともに 訊
- 41 -
女な******************************
人天」を誓願する。一人でも多くの人間を教
るではないか。その仏性が、ひたむきに「度
地のかたわらに一一
.人の男が怠っていた。長安
うために新しい人生のすべてを燃焼し尽すで
このままかくれてい
「何だね」
「最後にお願いがございます」
ある。
、
疑ぐっ
内の数々の秘密を知悉している自分だからで
しかし悔良は覚悟の肢をきめていた。宮廷
でかからねばなるまい。
も長安城へたどりつけるのかどうか
釈明するような口調になった。それだけで
「天后の御命令は絶対だからな」
「お供します」
一人が侮 良の右別を掴んで 3 った。
「お披へ帰ろう」
t
v
、。
緩からやってきた則天武后の使者たちだっ
た。いや、刺客と呼んだ方が適切かもしれな
あろう。
H
、
恐ろし い刃が迎 えに
念仏の相続で企のろう。
口走った
、
このように肴ぐわしい人の命をつなぐ滑ら
かな鎗こそが
則天武后が
来る
Hが現実にあらわれたのは同じ秋の目
夕暮れ時であった。泥亀未亡人が草庵で写経
するmmをN
あわただしく呼びにきた。
、
「7・
后
2 さまのお使いという人が::::・」
「米たか」
、
「三人づれです。わたし 街へいって留守と
申しておきましたから
て下さい」
ぷ亡人は mm 内を見まわした。適山!なかく
れ場所を採がす限だ。
「ゆっくり名残りを惜しむがいい」
「苔導和上にお別れをさせて下さい」
揮由民は未だ花が咲き乱れている斜面に膝ま
快く許してくれた。
「いや、会いましょう。かくれてもかくれと
おせる相手ではない」
貨昏の影が半面をおおう神和原。品u
滋
一韮
明曹界
- 1
2-
*
*
*
*
*
*
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*
*
*
真
身
-
43 一
*
*
*
*
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*
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*
*
*
*
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*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
と慢く経験は初めてだった。
4
づいた。声高らかに念仏をとなえはじめた。
こんなに朗
地ド出い和上の御遺骸へ Mくかとも思われ
る。
、
いつまでもやめなかった。止めようとして
止まらないのである。
やがて刺客の山'が狩後で岱いた。
もこの念仏
「お前のお経、すでに死者の戸だね」
「・・・・・・・・・」
三つの口氏い影が議葬地から遠ざかってゆ
く。あたかもニ河へまで追いつめた悪燃が、
炎と波シプキを包まれた白道の奥へ走りこん
だ行者の追跡を務らめて岸辺から立ち去る図
いつのまにか僚良のかたわらには泥亀未亡
に似て いた。
人と遺児とが坐りこんでいて念仏を明白相して
いるではないか。
題向発願心の念仏||
3
仏の戸と了回って欲しかった。
H
:
;
「死んだ者を、もう一度殺すこともあるまい
師陣・民は現尖のすべてを忘却し去って念仏を
となえ続ける。眼前にひろがるのは浅導和上
の回せたお安だけであった。しかもそのお聾
-44-
が阿弥陀仏の
.
.
. :のう、以へ削ったら、す でに死んでお
!
i
'
(内冗〉
H
其身 uにちがいなかった。
"
仲間に川むをふめている。
"
:
t
。
。寺内先生、松海先
(編集子〉
。
続者総兄のご感掴帽をお寄せ下さい
生、ご普鈴さまでした
ここに愈終回を迎えました
「
立ち止まるな事鴻」は五十回の逮織をもって、
.
.
-
ったと報告したらよいだろう」
傾向民は聞く耳をふさいで、さらに戸を激し
くして念仏を説けた。
「米だ子供だ段すこともあるまい」
-e
仲間も応じてきた。
刈山口道の念仏だ、と自分に古い聞かせな
がら偲良は戸を張り上げる。
:!
人
ニ i 二八
寺
士ロ
大
然然
玄
一
寺
萩市常念寺
住職 古本
老隠古本
隆
堀田良謙
超光
-〒叩静岡市鷹匠ニ l二四|一八
一
一
内
上宮学園
理事長・学園長鵜飼隆玄一
高等学校長鵜飼光順 一
〒叩大阪市天王寺区上之宮町一lニ二ハ一
l
鎌倉大仏殿高徳院大原山西福寺
鎌倉市 長谷四
佐藤密雄
TM
一
法然上人降誕聖地
諮〈作誕生
岡山県久米郡久米南町
電話ハ
O 八六七二〉入i 一一一O
安国寺
浄土宗宗務総長華陽院住職
高崎市通町九 O
大田秀三
一
Tm
慾光ピル〈
O=七三〉-一
一
一
1一
四Coo
飼
埼玉工業大学
松川文豪
淑徳高等学校長
旦見遼
Tm東京 都板 橋区前野町五 l一四 l
鎮西学園理事長
鎮西高等学校長
其和中 ・高等学校長
一
T脱熊本市九品寺一一1一
一l
上田祐規
東山学園長
石井俊恭
一
γ側京都市左京区永観堂町五
- 45-
鵜
淑徳中学校長
暑中 f~1'足舞
一
龍泉寺住職官製お終判
一時dJH
ょ
一一六
|
東京都渋谷区幡ケ谷ニ l 一
m
T
清 岸寺
原口徳正
伊東康雄
ニ玄一 小池政雄
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松庵寺内無 為窟主
京都港区南 E
一称名寺住職
職
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本山光明寺執事長
小川金英
一
回
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T 花巻市双葉町六|四
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T帥函館市船見町一
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西念寺住職
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柳き泉 《ど訴木松 住
申書職 事温度喜会 楽ら寺
ろ努 j脅職
窓
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話和六十三年七月-一十五日印創昭和六十三年八月一日発 行
第五十四巻
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