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月刊サティ! 2015年10月号

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月刊サティ! 2015年10月号
月刊サティ! 2015年10月号
瞑想には、心を変える力があります。
心が変われば、新しい世界が開けてきます!
Monthly Sati ! October 2015
『1月号のコンテン
10月号のコンテンツ
ツ』
1
今月のダンマ写真
2
ブッダの瞑想と日々の修行
~理解と実践のためのアドバイス~
3
テーラワーダ仏教翻訳シリーズ
4
グリーンヒルWeb会だより
5
読んでみました
6
サティのひとこと
~今月のダンマ写真~
得度式(ミャンマー)
人口の85%が仏教徒のミャンマー。男子は20
歳になるまでに一度は僧侶となります。王子時
代のブッタを彷彿とさせる煌びやかな衣装をま
とった子供達を両親親族、町や村中の人々が盛
大にお祝いします
得度式(ミャンマー)
今月のテーマ:瞑想と環境(1)
瞑想は綱渡りのように 34
ありのままの自分を受け入れる
誕生日を知らない女の子
虐待ーその後の子供たち
(N.W.さん提供)
Aさん:40年以上も空いていた自宅の隣の空き地に家が建
つことになりました。そうなると、おそらく瞑想する上では環境
がかなりマイナスの方向になってしまうのではないかと予想さ
れ、へこんでいます。
また、越して来る本人が挨拶に来るのが常識だと思うのに、
情報は全て業者からというのも気になっていて、慈悲の瞑想
でこちらが受け入れる姿勢を何とか発揮しなければと思ってい
ます。環境の変化には自分の心を整える必要があるのかなと
いう気がしています。
ブッダの瞑想と日々の修行
-理解と実験のためのアドバイス-
今月のテーマ:瞑想と環境(1)
(おことわり)
編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません
戒を受け入れて守っていくことは、決して仏教の前座ではな
く、解脱が完成した状態の表現といっても良いほど重要です。
ダンマトークでも度々強調しておりますが、今回は特にそれに
関連する内容でまとめましたので、ぜひご修行に役立てて欲し
いと思います。
アドバイス:眺めも良く静かな場所であったり、森林僧院のよう
な所で気づきの瞑想が安定的に集中して出来るのはいわば
当たり前で、ある意味やりやすいと言えます。しかし、テレビの
音や外部から騒音が絶え間なく聞こえるような、劣悪な環境で
1
発行責任者:地橋秀雄
編集:月刊サティ編集部
http://www.satisati.jp
新装版 第24号
も全く心が乱れることなくサマーディに入れるなら、そちらの
方が明らかに瞑想者としてはワンランク上なのです。
私にもかつて同じ経験がありました。あたかも自分の瞑想
を破壊するために起きたのかというような、いらいらさせられ
る環境要因が入ってきた時です。最初はちょっと嫌だなあと
思いましたが、すぐに発想を切り替えました。「あ、これはワ
ンランク高い瞑想をしなさい」という天の教えによって環境が
変わったのだと。
ですから、劣悪な環境の中で心が乱れないように集中して
サマーディに入るという、そちらの方が難易度が高いのでチ
ャレンジしなさいと言うことだと、瞑想に関してはそういうプラ
スの発想で受け止めれば良いのです。
また、もし引っ越してきた人が自分にとって困った人だった
としたら、それは今さらどうしようもない過去世からの宿業の
結果として出会うべくして出会ったのだと腹を括るしかありま
せん。仰られるように、慈悲の瞑想で対応してその因縁を解
いていくのもたいへん良い修行となります。そういったような、
少し苦があって、それを乗り越えようとして人の成長は促さ
れるのです。毎日良いことばかり起きていて周りもまた善い
人ばかりという環境の中では、成長するには相当な自覚が
必要でしょう。そのような意味で、ここは良い成長のチャンス
と捉えて、積極的に気持ちを切り替えてください。
Bさん:部屋がなかなか片付きません。すっきりさわやかに
暮らすにはどうしたらいいでしょう。
アドバイス:自分の部屋にお客さんを呼んだらいかがでしょう
か。いや応なしに片付けざるを得ませんから。
生活環境というのは、日々の暮らしの中で自分のやり方で
パターン化しているでしょう。ある意味で固まってしまってい
ますので、そういう強制力を使わなければ転換はなかなか難
しいものです。例えば、家を散らかしっ放しにしている夫婦が
いたとして、田舎から親や姑さんが急に上京すると聞いて慌
ててきれいにするのと同じです。
基本的にはこれまで保存してきたものを取捨選択すること、
そして後に残った情報をきちんと整理することです。整理・整
頓の達人が書いている本なども参考にすればいろいろなア
イディアを発見できるでしょうし、それによって、嫌々やる不
快な整理と捉えるのではなく、ご自分の工夫も加えて積極的
2
で達成感の感じられる収納を実践することができます。大変
ですが、そこは心の整理、知恵の働かせどころと考えて楽し
く挑戦してみましょう。
私の場合、前の道場では、合宿の時には私物がほとんど
見当たらなくなるような空間に変わるのですから、合宿の度
に毎回徹底的に片づけをさせられることになり、合宿直後の
道場の清浄な雰囲気は感動的でした。
Cさん:マンションが工事中で、音がしっ放しで瞑想する妨げ
になっています。
アドバイス:大きな音に心が飛んでそれに度々サティを入れ
ていると、肝心の中心対象の方が連続的に観察できない状
態になってしまいます。ですが、連続的に恒常的に続く音は、
必ず心が慣れの現象を起こしてくるものです。音量そのもの
は大きくても、心の関心が徐々に無くなってくる。そうすると、
それはほとんど聞こえなくなるのと同じということです。そうな
ったら、そのまま中心対象、お腹の感覚、足の感覚を取って
いくことが出来るはずですから、気にしないでそのまま続け
ていくように努力してみてください。
問題となるのは、音に対してすごい不快感があって、それ
に嫌悪や執らわれが強く出て、そのために結果的に反応が
止まない場合ですね。そういう時には、嫌悪や怒りの反応を
しっかり観ること、そしてそれを自覚して手放すという方向で
す。つまり、それも気づきを進める一つのチャンスと捉えると
いうことです。何事も執拗な反応が起きるときは、必ず相応
の原因があるものです。そうした執らわれの原因が明瞭にな
ると、人間的にも一歩前進できることが多いものです。前向
きにチャレンジしてください。
Dさん:外部の騒音や音楽が耳障りで瞑想に集中できません。
アドバイス:ヴィパッサナーは、いくら何をどう説明しても結局
は「あるがままに見る」という基本的な原点に帰ってくるので
す。もっとも、これだけのことがなかなか出来ないからヴィパ
ッサナーは難しい訳なのですが(笑)。
あるがままというのは、音がうるさいというその劣悪な環境
そのものです。外国のテーラワーダ寺院でも、都市部の交通
量の多いところはうるさいし、森林僧院ですら修修や増設な
ど、工事中のところはいつも何か音がしています。
結局、あるがままに起こってくる現象を好き嫌いで反応する
ことなく、そのまま「経験した」で止められないから問題なので
す。何とかして良い修行に持っていきたいという発想がありま
すから、どうしても対象の方、環境の方をあれこれいじりたくな
るのです。例えば、静かな環境で修行したいと思えば、「うるさ
い」「ここはいやだ。場所を変えたい」という発想になり、逆に、
静か過ぎればそれはそれでまた耐えられなくなる。
また、うるさくても場所を変えられないとなれば耳栓をしたり
する。たしかに音は半減します。西洋人はよく耳栓をやってい
ますね。よほどの初心者で、どうしても自分の心を制御できな
ければ、とりあえず一時的に耳栓を使うのもやむを得ないとい
う人もいるでしょうが、ヴィパッサナーの基本精神からすると
良くないと思います。耳栓をして音を遮断して「イライラする」
のが無くなって、「おっ、膨らみ縮みがよく見える」というわけで
しょう。これは、うるさい音に悩まされコントロールできないの
で、仕方なく耳栓によって遮断してサティができているというこ
とですね。これでは、あるがままの今の自分に気づいていると
は言いがたいですね。
あるいは呼吸にしても、皆さんやっていないと思いますけれ
ども、わざとベルトを強く締めあげて腹部感覚を強めて膨らみ
縮みを分かりやすくする。こうした対策を講じ過ぎると、環境を
コントロールしようとしているエゴに振り回されている状態です。
もちろん、普通に暮らしている時は、もし何か異臭がしたら
その原因を突き止めなければなりませんし、光にしても音にし
ても、暮らしに大きな影響を及ぼすような場合には、状況によ
り対策を立てる必要は当然出てきます。そこのところは、世間
の論理でどこまで可能か、バランスを取りながら対応していか
ざるを得ないでしょう。
しかし、ヴィパッサナー瞑想の修行からは、たとえその現象
が強烈な音であれ臭気であれ光であれ、何であってもあるが
ままに受容するのが基本です。そのような望ましくない環境に
対して嫌やなあ、これはやってられないというふうに反応する
その心が問題なのです。それを直していく・組み替えていく作
業がヴィパッサナーの修行なのです。劣悪な環境は劣悪なま
まで、心は全くウペッカー(upekhā:捨)の状態で冷静である
こと、これは認知の仕方や反応パターンなど心の方を変える
ことで可能になっていきます。
さらに、もっと積極的な対応としては発想を変えることです。
劣悪な環境に置かれた時には自分の心の傾向、癖、偏りが
浮き彫りになるので、「ありがたいことだ」と思うのです。環境と
なる対象世界が悪ければ悪いほど良い修行ができると考えま
しょう。ですから、もし性格の全く合わない人と結婚してしまっ
たらこちらが磨かれるチャンスだと・・・、極端ではありますが。
もしそういう人とでも問題を起こさないでやれるなら、こちらの
心が相当立派だという証かも知れません(笑)。
Eさん:自宅の環境ではやはりテレビや外からの騒音が避け
られません。
アドバイス:今も申し上げましたとおり、発想の転換をすれば
いいのです。一人暮らしで悠々と瞑想三昧の生活をしている
と怒ることもないし、静かな心で淡々と暮らせるので悟ったの
3
ではないかと錯覚しかねません。しかし結婚したり子供が産ま
れたりお邪魔虫の居候が同居したりすると、テレビや台所の
音、話し声、さまざまな生活音がガンガン耳に飛び込んできま
す。静かな瞑想が破壊されているという印象でしょうね。
もうやってられない!と静かなお寺かどこかに逃げ出します
か? そうすると、わざわざ森林僧院を選んだのに、すぐ隣で
新しいクーティの工事音が朝から晩までガンガン鳴り続けたり
するのです。これはたまらん、と今度は海辺の静かな寺に移
りますか? すると、何やら毎日ダンスパーティのような世俗
的な音楽が大音響のスピーカーから聞こえて、前よりもっと悪
い。そんなものなのです。
だから、逃げ出すのではなく、起きたことは全て正しい、と発
想を変えるのです。
「あ、これは、静かな環境でサマーディができるのは当たり
前であって、こういう人の欲望を刺激するようなテレビ・コマー
シャルがガンガン耳に入ってくる時に、それを平然と無視でき
るだろうか。それでもサマーディに入れるかどうかの修行を与
えられているのだ」と考えるのです。「よーし、やってやろうじゃ
ないか」と、指をボキボキ鳴らす感じで(笑)。
いったん受け入れてしまえば、消したい、無くしたい、という
否定する心の葛藤が生じなくなります。すると、どんなCMソン
グだろうが騒音ガンガンだろうが、瞑想に集中できるようにな
るものです。ま、私もそんな風に修行してきました。
もし家族との絆を大切にするなら、妨害されているのではな
く、レベルの高い修行を要求されていると考えるのです。もち
ろん、静かにこちらの希望を伝えて、改善されるならそれで結
構でしょう。しかしどうにもならないのがカルマというものです。
その時は自分の不善業の結果だと受け入れて、より高い修行
を目指すのです。
どうにもならないことが起きるのが人生です。
情況や相手の人物など対象を変えるのは業の世界です。
瞑想は、対象を変えるのではなく、心を変える営みです。
心を変え、受け止め方を変え、発想と反応を変えて、今まで
嫌だったものが嫌でなくなっていく世界です。
Fさん:瞑想を始めてから、これまで和気藹々と見ていたテレ
ビがなぜかすごく耳障り、目障りになってしまいました。好きだ
った音楽も、ただの雑音というか、耳が痛いという感じにしか
なりません。初心者でもこんなふうになるなら、この先だんだ
ん世間に居づらくなる、そんな感じがするのですが。
アドバイス:仰るとおりで居づらくなりますよ(笑)。世間を出る
つまり出世間の修行、解脱の修行をやっているのですから。
世間を楽しみたい修行なら別のやりかたがありますが、ヴィ
パッサナーはそういうこの世的なものから撤退していく、現象
世界から撤退していくという修行ですから。
例えば、好きな歌を聞いて感動するのは、歌詞やメロディー
が感情に訴え、時には想い出と結びついたりして、切なさとか
いろいろなものが頭に飛び交っているからです。もし純粋に、
厳密に「音」「音」とサティを入れていくと、ただの純粋な音の
羅列になってしまい、音楽として成立しなくなります。単音と単
音の連なりを、心の中でひとまとめにまとめ上げるのでメロデ
ィーとして楽しめます。そのメロディーに彼女と一緒に見てい
た海辺の夕焼けなどをくっつけて妄想しながら聴くと、感動し
て涙ぐんだりする訳です。
いろいろなものが頭に飛び交ってそれを楽しんでいる世界、
それを欲界というわけです。自分が楽しんでいる世界が本物
の世界だと思っているけれども、実は妄想が編集している概
念の世界を楽しんで欲望を起こし、今度はそれが阻まれたと
いって怒りを発するという、そういう世界です。ですから、ヴィ
パッサナー瞑想を修行して妄想を止めてしまったら、今までの
ように、妄想の力で楽しんだり怒ったりしていたことができなく
なるでしょう。
そうやって、欲望と怒りから解放されていくので、苦しかった
人生が苦しくなくなるのです。
しかし、まったく音楽を楽しめなくなってしまうほど徹底して
修行する人は少ないです。(笑)て言うか、ほとんど無理です。
でもそこまでやらなくても、程度の差はあれ成果はあります。
その人なりに皆さん煩悩の夢から醒めますから。
(文責:井上雅也 協力:内田智子)
テーラワーダ仏教翻訳シリーズ
基本的な態度の二番目は、ネッカンマ・ダートゥ
(nekkhanma-dhātu:放棄という基本的な態度)です。ネッカ
ンマ(nekkhanma:放棄)は、欲、怒り、無知という自分の不
健全さを認識し、理解し、捨て去り、手放すという意味です。
不健全な物事を拒否し、先へと進みます。妻・夫や子供と一
緒に在家の生活を送りながらネッカンマという態度を取り入
れることが可能です。家庭での義務を適切にこなしながら不
健全さを捨て去り、健全さを育てます。不健全なやり方に対
する執着を捨てます。ネッカンマ・ダートゥは、心を清らかに
する道を歩むという意味です。
-瞑想は綱渡りのように 34-
『ベーマスィリ長老と語る瞑想修行』
ディヴィッド・ヤング
(承前)
デイヴィッド:そうした人たちは自分の不健全さを気に入って
いるのですか?
ペーマスィリ長老:そうではありません。不健全さを捨て去る
エネルギーが無いだけです。
デイヴィッド:ネッカンマ・ダートゥがある人はソーターパンナ
(sotāpanna:預流果)の悟りを得ていますか?
デイヴィッド:不健全さを捨て去るためは、不健全さをそのま
まにしておくよりも多くのエネルギーが必要なのですか?
ペーマスィリ長老:ソーターパンナの悟りを得る、あるいは第
一禅定を得ることを目標にして瞑想してはいけません。私た
ちは常にニッバーナを目指さなければなりません。ニッバー
ナに達するために歩みを進める過程でソーターパンナの悟り
を得たのなら、それはかまいません。それは何の問題もあり
ません。かごに卵を十個入れて運んでいる最中に誰かにぶ
つかって三つが割れたとします。それは事故です。アラハト
(arahat:阿羅漢)の悟りに向かって歩む場合も同様であり、
途中でたまたま最初の三つの足枷が壊れてソーターパンナ、
預流果の悟りに達しただけです。私たちは十個の煩悩全てを
破壊するように心を向けなければなりません。
ペーマスィリ長老:その通りです。より多くのエネルギー、そし
てより大きな精神的努力が必要です。しかし彼らには必要な
努力をするためのエネルギーがありません。道を誤り、ニッ
バーナ(nibbāna:涅槃)から遠ざかってしまいます。瞑想を
止め、色々なことをします。心を清らかにする道を歩き始めた
時には、配偶者、子供、財産に対する執着を捨てようとただ
頭の中で考えます。しかし、実際にはそうした物事にしがみ
ついたままです。そのため、エネルギーが出ず、先へ進むこ
とが出来ません。ニッバーナへ向かうためには、アーランバ・
ダートゥ(ārambha-dhātu:開始という基本的な態度)が必要
です。その態度から初めてください。
4
最初は、健全さと不健全さを区別する智慧を身につけます。
戒律を守り、適切な言葉をしゃべり、ふさわしい行いを為し、
社会のルールを守ります。健全さに身を捧げます。しかしな
がら、無明のために、渇望したり不適切な言葉や行動などの
不健全な行為をしたりする傾向がぶり返します。しかし私た
ちは自分を抑え慎みます。不健全な行為を抑えるために、正
反対の健全な行為を行います。このように「反対のことを行っ
て克服する」という方法をとります。智慧が育ってくると、渇望
したり不健全な行為をしたりする傾向が煩わしいものである
ことを理解するようになります。そのため「反対のことを行っ
て克服する」という方法の先に進む必要があると悟ります。そ
してサマーディにより、渇望したり不健全な行為をしたりする
傾向を押さえつけます。(集中を妨げる)五つの障害(欲、怒
り、疑い、惛沈・睡眠、掉挙・後悔)を押さえつけます。
五つの障害の支えが無くなれば、不健全な行為を行うことは
なくなり、不健全な結果も生じません。
しかしながら、「押さえつけて克服する」方法を実行しても、
不健全さは表面下に埋没した形で残存します。不健全さがど
のくらい深く埋没するかは私たちのサマーディの強さによって
決まります。
それが真の努力です。本当のヴァーヤーマ(vāyāma:精進)
でありヴィリヤ(virya:精進)です。
ネッカンマ・ダートゥを実現したら、私たちは先ほどお話した
例え話の中の、小さいけれども賢い小鳥のようになります。
象の目が見えないようにします。
三番目の基本的な態度はパラッカマ・ダートゥ(parakkamadhātu:奮闘努力という基本的な態度)です。奮闘努力とは、
最大限の勇気と努力を振り絞って真理を追い求めるという意
味です。究極の態度です。最後の努力を重ね、最高のエネ
ルギーを注ぎ、アラハトになるという態度です。奮闘努力とい
うこの態度により、私たちは障害を克服して、平穏を手に入
れます。修行実践の中の成功体験が励みになって、私たち
はさらに先へと進みます。努力すればするほど善い結果を得
ます。このような形で前進しながら、私たちは自分を成長させ、
ついにはニッバーナに達します。私たちは象を退治するので
す。
三種類の克服
ペーマスィリ長老:智慧、正しい理解、正しい思考がある程度
確立したら、今度は不健全さを克服するために努力します。
怠惰を乗り越えて立ち上がります。
克服には三種類あります。
1 . 反 対 の こ と を 行 っ て 克 服 す る : タ ダ ンガ ・ パ ハ ーナ
(tadańga pahāna)
2.押さえつけて克服する:ヴィッカンバナ・パハーナ
(vikkhambhana pahāna)
3.破壊により克服する:サムッチェーダ ・パハーナ
(samuccheda pahāna)
こ の 三 つ の 克 服 は シ ー ラ ( sīla : 戒 律 ) 、 サ マ ー デ ィ
(samādhi:集中)、パンニャー(paññna:智慧)という八正道
の三つの区分に相当します。
5
不健全さを根絶やしにするにはヴィパッサナー
(vipassanā)瞑想の実践を通してパンニャー(paññna:智
慧)を育てなければなりません。ヴィパッサナーが強化される
と、全ての感覚対象が絶えず生滅を繰り返していることが分
かるようになります。感覚対象の本質、すなわち常に変化し
ており(無常)、満足することはなく(苦)、実体が無い(無我)
という本質を洞察することで私たちは道智を得ます。道智と
いうパンニャーとは「破壊により克服すること」です。克服の
最後の項目です。不健全さは破壊されます。(つづく)
翻訳:影山幸雄+翻訳部
グリーンヒルWeb会だより
「ありのままの自分を受け容れる」
(匿名希望)
私は十代の初めから様々な精神的問題を自覚しており、そのことがずっと悩みの種でした。と
ても緊張しやすく、気弱でなにかといえばクヨクヨと悩み、頻発する不快な妄想や恐ろしい妄想
に簡単に捕われていました。また、中学時代に不登校になって以来、人付き合いもずっと苦手
でしたし、この他にも自覚していた問題点を挙げていけばキリがありません。ずっと後になって精
神科で受けたテストからは、ごく軽度ではありますが、発達障害の可能性を指摘されました。
加えて、私は「無明」の直中(ただなか)で生きていました。いつも自分の行動に迷いが生じて
おり、何を決断するにも優柔不断、その上、行動してから後悔に苛まれることも頻繁でした。正し
いこと、誤ったこととは何なのかが、大きな謎として心の中にあり、自分がどのような生き方をす
れば良いのか分からず、漠然とした不安を抱えたまま日々を過ごしていました。人生の基盤とな
るような絶対的な真実を得たいと、いつも悩み続けていました。
そんな私がヴィパッサナー瞑想を始めてから、2年半ほどが経過しました。そして、それによって、
現在までに、自分の中のあらゆる精神的問題が劇的に改善されたか、といえば、正直にいっ
てそうとは言えません。クヨクヨと思い悩むことは少なくなりましたが、相変わらずすぐに緊張します
し、人付き合いも苦手なままです。しかし、生きることが随分と楽になってきました。その理由とし
てもっとも大きいのは、問題のある自分を受け入れられるようになってきたことにあると思います。
以前の私は、問題だらけの自分のことを嫌っていました。憎んでいたと言っていいかも知れま
せん。自分のことを出来損ない、欠陥品などといってしょっちゅう攻撃していました。
しかし、今の私には、そのようなことは無くなりました。瞑想を続けてゆくにつれて、少しずつ自分
の欠点を許せるようになってきたのです。すると、精神的な問題に捕われて、さらなる困難を招く、
という悪循環を離れることができるようになりました。つまり、精神的な問題が悩みの種では無くな
ってきたということです。
加えて、瞑想に取り組み出した頃にはまったく思いもしなかったことですが、五戒を守ることと、
慈悲の瞑想がとても大きな効果をもたらしました。五戒を守ることは自信をもたらし、迷いを減ずる
ことに繋がりましたし、慈悲の瞑想は、集中力を増強し、対人関係の不安を減じてくれました。
また、無常や無我といった仏教的な考え方が徐々に自分の中に根付いてゆくにつれて、「絶
対的なものを獲得するのだ」という凝り固まった考え方が、少し柔軟になってきたように思います。
それは気持ちを楽にしてくれました。
このように、瞑想は私の生き方を大きく変えることに繋がりましたが、その過程は当然大きな困
難も伴いました。自分の弱さを受け入れることはできても、嫌な部分、醜い部分に向き合ってそ
れらの存在を認めてゆくことは、私にとって極めて難しいことだったのです。というのも、私は少なく
とも外面的にはできる限り「良い人間」でいることに努めていたつもりで、そのことはコンプレックス
だらけの私が自負できる唯一といってよいものでした。怒りをあらわにする人や他人を傷つけるよ
うな人がいても、自分は違う、彼らよりは自制のできる優れた人間なのだという優越感にも似た
感情があり、それは私の唯一の自信、拠り所だったのです。
しかし、瞑想によって自分を見つめてゆくにつれて、厳しい現実が見えてきました。実際の私は、
すぐに嫌悪感や怒りを生じ、他人を攻撃したくとも生来の気弱さがそれを妨げているという、それ
だけの人間だったのです。
そんな自分を受け入れるのに2年以上がかかりましたが、今は自分のことを大切に思っていま
す。乗り越えたい問題は多くとも、一生をかけて取り組んでいくつもりですし、その決意に揺るぎは
ありません。
6
~読んでみました~
このコーナーでは皆様の読まれた
本の中から、ダンマの理解に通じる
と思われたものを紹介します。
に出させない施設で育った小学4年の男の子が、『・・・
大人になっても、どうせ俺はバカだから、お仕事は出来
ないし、今、死んだ方がいい。大人になるってつらいこ
とだろう』と体を震わせて泣きじゃくる。「虐待そのもの
が、子どもの脳に器質的な変化を与え、広範な育ちの
障害をもたらして、発達障害と言わざるを得ない状態を
作り出している」のだ。
しかし最後に筆者が、「壁になったり解離して生き残っ
たサバイバーである子どもたちそれぞれが、愛してくれ
る人たちの中で、弾ける笑顔を取り戻していた。自分の
ことを理解し、受け止めてくれるあたたかい存在がいれ
ば―それは実の親でなくても―その子の人生が救われ
るのだということを、ファミリーホームの子どもたちの
“今”に見た」と記しているところに、わずかな光があっ
た。
それにしても、家庭や施設での暴力から逃れ、保護さ
れて生き延びた子供たちを待っているのは、重い虐待
の後遺症。果たして心から生きていて良かったと思える
日がやって来るのだろうか・・・と、切なく、悲観的にさえ
見えてくる衝撃の一冊でした。(内田)
黒川祥子著『誕生日を知らない女の子 虐待
-その後の子どもたち』(集英社 2013年)
第11回開高健ノンフィクション賞(2013年)の受賞作。
2008年2月1日に行われた「児童養護施設入所児童
調査結果」によれば、養護施設児の場合、両親の虐
待・酷使を理由とする入所が14.4%にのぼる。虐待が
いかに子どもの発達に惨い影響を与えるか、それは脳
全体の成長という物理的なものから、世代を継いでの
虐待の連鎖にまで及ぶことを迫真の筆致で綴っている。
本書では、親から激しい虐待を受けて児童相談所に
保護された後に里親やファミリーホームに引き取られた
子どもたちとその養育者の、言語を絶するほどの壮絶
な苦闘の様子がリアルにそして衝撃的に語られる。著
者は言う。「虐待とはこれほどまでに人間の根幹を歪め、
損ねてしまうものなのか、そのすさまじさを改めて思わ
ずにはいられない」「虐待によって人間としての基盤を
もらえなかった子供たちに、どれほど困難な人生が待
ち受けているか、その残酷さに胸が震えた」
「あいち小児保健医療総合センター」の心療科部長杉
山登志郎氏は、虐待によって発達障害のような状態を
呈することを「発見」し、その上で、第一の精神遅滞・肢
体不自由などの古典的発達障害、第二の自閉症や高
機能広汎性発達障害、第三の注意欠陥多動性障害
(ADHD)及び学習障害(LD)に続いて、子ども虐待を
第四の発達障害と位置づける。例えば、第一章で描か
れた美由ちゃんの『・・・あたしね、七月十日生まれなの
を、五歳まで知らなかったんだ』という“お話”。第三章
では、実態を知られると困るから知的障害と偽り、里親
7
今月の
サティのひとこと…
苦しんでいる時にふと気
付く。一体どれだけ人に優
しくしていただろうか? どれ
だけ困っている人を助けて
いただろうか? (H.T.)
自分の修行をすすめる
ことばかりに固執するあま
り、一番大事な慈悲の心
を育てるのを忘れている自
分がいた。(K.I.)
「自分の意見が一番」と
思ってしまうと他人の意見
は耳に入らない。「自分の
意見は僅差で二番目か
も・・・」と一瞬思うだけで、
人の意見を受け入れる余
地が生まれた。(A.E.)
己を大きく見せようと
する人は小さく見え、
小さな自分をありのま
ま受け入れている人
は大きく見える。
(T.H.)
激昂してしまった翌日の
慈悲の瞑想。嫌いな
人々に激怒していた自分
が、嫌っている人々に後
悔して自己嫌悪している
自分が、浮かんでしまっ
た。(T.I.)
「眠気」に対して客観視が
できないのは、「仕事が忙しく
て疲れているから眠くて当
然」「私は頑張っているから
眠くてあたりまえ」と正当化し
て貪っているから。
(K.T.)
秋の夜道。染み込むような虫の声。
「美しい」と心を奪われた次の瞬間「と
思った」とサティが入った。瞑想を始め
た頃、大好きな花を見ては「もう花を綺
麗だと思っちゃいけないんだ」とジタバ
タしていたのを思い出す。師の言葉どお
り「薄皮を剥くように」受け入れることの
できた真実。(K.T.)
8
今までずっと、トラ
ウマを返す相手を間
違えていた!!
(T.U.)
腕にチクリとした痛み。
蚊だ。ふっと息を吹きか
けると、蚊は羽ばたいて
いった。以前なら叩き潰し
ていただろうが、その時に
起こっていた一瞬の殺意
を思うと、もうそんなことは
しなくていい自分になれた
ことが嬉しかった。
(Y.S.)
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