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移民の父−当山久三

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移民の父−当山久三
移民の父−当山久三
わ れ ら
「いざゆかん、吾等が家は五大州、誠一つの金武世界石」
久 三 は 、 1868年 ( 明 治 元 年 ) 11月 に 金 武 村 字 並 里 に 5 人 兄 弟
の長男として生まれました。その年は、江戸幕府が滅び明治の
う ふ や
新日本ができた年でした。久三の家は「大屋」といわれ、金武
村の資産家として知られていたのですが、父が病気がちのため、
彼が生まれた頃は、貧しい農家となっていました。
久三は、小さい頃から畑仕事や家の手伝いなどを一生懸命やりました。まもな
く父が亡くなり、家のくらしを助けるために牛を1頭飼いました。久三は生まれ
つ き 活 発 な 少 年 で 、近 所 の 子 ど の た ち を 集 め て 暴 れ 回 る の で 、い つ の ま に か 、
「大
屋の虎」というあだ名をつけられました。また、彼は意志が強く、思いついたこ
とはどんな困難にぶつかってもやりとげる性格をもっていました。
久 三 は 、 1890年 ( 明 治 23年 ) に 師 範 学 校 を 卒 業 し て 、 羽 地 で 教 員 に な り ま し た
が 、 ま も な く 郷 里 の 金 武 小 学 校 長 に な り ま し た 。 当 時 25歳 の 青 年 で し た 。 と こ ろ
が国頭郡役所の他県出身官僚は彼にたびたび意地悪をしました。校長である彼を
無視して郡役所からの通達を直接鹿児島県出身の教師に伝え、学校の仕事もその
教師に行わせることもありました。また、沖縄の職員の過ちには厳しい処罰があ
りました。当時は資格、実力ともにすぐれていても沖縄の人という理由で差別待
遇されていた時代です。このような他県出身官僚のわがままなふるまいに怒り、
校 長 の 地 位 と 14円 と い う 高 い 給 与 を 投 げ す て 、 わ ず か 月 給 4 円 の 並 里 の 総 代 ( 今
の区長)になりました。
総代の頃、社会問題に関心を示し、悪いしきたりの改革にのりだしました。ま
た、金武村の幸地山の開墾にも着手しました。開墾事業を進めていくうちに、沖
縄では土地が狭く、その上、人口が増え食糧問題を解決することができないこと
をさとり、海外に目を向けました。
自然に恵まれない沖縄では、人口と食糧の問題は宿命的な課題でした。久三は
幸地山の開墾時代からこの問題を考えはじめ、着々と自分の頭の中に将来の移民
事業に対する計画を立てていました。彼は終生の事業として考えていた移民で沖
縄の人々を救おうと決心しました。
ところが、沖縄から海外移民を送り出すのを反対していたのは奈良原知事でし
た。知事は色々いやがらせをしましたが、久三は何度も交渉し、ついに条件付き
で許可されました。
久三が最初に手がけたのは、ハワイへの移民でした。しかしハワイがどこにあ
るのかさえ分からない当時の沖縄の人々にとって、そこへ移り住むことは大きな
冒険であり、なかなか希望者が集まりませんでした。若い人が希望しても家族が
反 対 す る 状 況 で し た が 、 や っ と 沖 縄 各 地 か ら 30人 の 希 望 者 を 集 め る こ と が で き ま
した。さらにハワイまでの旅費も当時としては大金で、その工面も大変でした。
久三は村内の資産家や有力者を訪れ、連帯責任で借用することに成功しました。
久 三 は 、 第 1 回 ハ ワ イ 移 民 団 を 結 成 し 、 1899年 12月 5 日 、 沖 縄 を あ と に 、 は る
ばるハワイへの旅に出発しました。一行がハワイに到着して1番困ったことは、
言葉の問題でした。当時の沖縄の人たちは日本語が話せず、検査官と話す時は、
沖縄の方言から日本語、日本語から英語へと2人の通訳を必要としました。
多くの困難を克服して、ついに第1回ハワイ移民を送ることに成功した久三は
引き続き移民事業に専念する計画でした。第2回の移民を募集している頃、第1
回移民の6人が3年ぶりに沖縄に帰ってきました。彼らは、血のにじむような労
働の日々で、苦しかった移民生活の話をしていましたが、ハワイで借金を返し、
稼いだ金で田畑を買い、さらに田舎では珍しく瓦ぶきの住宅を新築しました。彼
らはたちまち村民の羨望の的となり、移民熱が高まってきて希望者が殺到しまし
た。
第2回の移民団は、久三の希望もあって、金武出身だけで結成されました。
1903年 、 40人 の 移 民 団 は 、 久 三 に 引 き つ ら れ て ハ ワ イ へ と 出 発 し ま し た 。 こ の
第2回の移民団は、団結と協力の精神にすぐれて、金武出身の青年たちばかりで
したので、上陸後の活躍はめざましく、後に「オキナワコロンブス」と呼ばれる
ようになりました。
ついに久三は、ハワイが沖縄の人の移民地として有望であるという結論を得て
帰ってきました。彼は沖縄各地を回ってハワイから持ってきた新しい農具を使っ
て、幸地山の開墾地で近代的農法を実習してみせました。その結果、沖縄はかつ
てないハワイ移民全盛時代となり、ハワイ移民の船が出るたびに那覇港は見送る
人でごったがえしていました。
久三の移民の成功は、沖縄の人々に海外への夢と希望を与え、その後に来る移
民全盛時代の先駆けとなりました。しかし久三はその後自費で「沖縄移民新報」
という新聞を出版したり、借金で苦しむ移民たちを救ったり、たえず移民の生活
の向上を考えて行動したので自分の生活は苦しくなってしまいました。それでも
彼はくじけずに、移民事業を一生の仕事としました。
今日ではハワイ、アメリカ、カナダ、ブラジル、ペルーなどに数十万人の沖縄
県出身の人々やその子孫が住んでいます。それは久三の海外移民の努力の功績と
言えましょう。しかし、久三の功績が一般の人々に認められたのは彼の死後ずっ
とあとのことです。
道
徳
学
習
指
導
案
中学校3学年
1.主題名
郷土のために(郷土愛)
2.資料名
移民の父−当山久三
内容項目
4−(8)
3.主題設定の理由
(1)主題観
近年我が国の社会は、急激な変化を遂げ、大都市においては、郷土意識が育たず、農漁村で
も郷土意識が薄れていく傾向にある。
しかし、ふるさとの心のささえであり、日常接する地域の人々との人間関係を問い直すとと
もに郷土の発展に努力してきた先人がいたことを知り、自分がそれらの人々の支えや、恩恵を
受けて存在していることを深く自覚させたい。また、自分も地域社会の一員として郷土を愛し、
郷土の発展に貢献していこうとする気持ちを育てたい。
(2)生徒観
現代は人間関係が希薄になり、地域の人々と接する機会が少ないために郷土への愛情や地域
に貢献していこうとする意識が希薄になっている。この点についての自覚を深め、郷土の発展
に尽くそうとする意欲を育てたい。
(3)資料観
当山久三が移民事業を志したのは、明治の初期の話であるが、人口問題、食糧問題解決のた
め、多くの困難を克服して、沖縄からハワイへ移民を送り郷土を救うとする久三の強い心は現
在のわれわれにも十分伝わってくる資料である。
4.ねらい
郷土についての関心を持たせ、沖縄のために尽くした先人に尊敬と感謝の念を深め、郷土の
発展に尽くそうとする心情を育てる。
5.展開
区分
導入
学習活動(主な発問と予想される生徒の反応)
1
沖縄の移民について知っていることを発表す
る。
展開
2
指導上の留意点
・「当山久三」について
・金武出身の移民事業をした人
資料「移民の父−当山久三」を読んで話し
合う。
(1) 小さい頃の久三はどんな子供だったか。
・意志の強い子供で村民の期待
・元気者で家の手伝いはよくした。
を背負っていたことを分からせ
・成績優秀で師範学校へ進学した。
る。
(2) 当時の沖縄の人々がおかれている状況はどう
・沖縄の人々に対する差別や軽
だったか話し合う。
視が平然と行われていたことな
・差別待遇を受けていた。
ど当時の沖縄の現状を理解させ
る。
(3) ハワイ移民を送るとき、どんな困難があった
か話し合う。
・沖縄を愛し、発展を願う気持
ちが強かったことを理解させる。
・知事の嫌がらせ
・希望者が少ない
・旅費が高い
・言葉が通じない
(4) 久三が困難をおしてまでハワイへ移民を送っ
たのはなぜか話し合う。
・人口問題、食糧問題の解決。
3
沖縄を愛し発展のために自分はどのようなこ
とができるか話し合う。
・先人に感謝する気持ちを育て
たい。
・地域の行事に積極的に参加する。
終末
感想を書いてまとめる。
・自分の考えたことや感じたこ
とをノートにまとめさせる。
・数名に発表させる。
<資料「移民の父−当山久三−」を活用して>
1.生徒の感想
○
私のおじいちゃんの親戚もブラジルとハワイにいて、その人たちもこうやって希望と不安の
中海外に出て行ったのかなぁと私は思ってしまいました。久三さんは、沖縄のために謝花さん
と戦って移民というすばらしい事をやりとげる事ができてすごいと思いました。
私は、一つ気になったことがあるのですが、「不合格者が何人でた」とかの不合格とはどん
な人たちだったのか不思議に思いました。
最後に、外国に渡った人たちは移民した後も苦いくらしをしたと思うけど、でも今では世界
各地でかつやくしている人も多く沖縄人の移民は成功だったと思います。
○
当山久三さんは、ガキ大将でもあったけど、能力は優秀で、小さい子にも優しく家の手伝い
もする、とてもいい人で親思いのいい人だなぁと思いました。しかも、自由民権運動に一度敗
れたにもかかわらずハワイ移民を考え苦しむ沖縄の人々を助けようと努力する久三さんに感動
しました。
1回目の移民は、言葉のかべなどがあり大変だったけど2回目の移民では「オキナワコロン
ブス」といわれる青年たちを上陸させ、成功したのには感動しました。久三さんは、どんな失
敗にもまけず突き進んでいく姿は、すごうなぁと思いました。沖縄というこんな身近な場所に、
こんな素晴らしい行動をおこした人々がいることに感謝したいし、幸せな今も当山さんや謝花
さんのおかげだと思います。
2.授業に向けての留意点
(1)資料について
・原版がかなり長いので、短くした。特に、自由民権運動に関する箇所を削除し、移民に関す
る内容を中心に資料を構成した。
(2)その他
・移民者の活躍については、「世界のウチナーンチュ」として報道されている。その原点が本
資料の当山久三であることを知らせることで、興味関心をもたせたい。
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