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という問いに対し、 為村が - Publications
恋歌観の変遷②一 江戸時代の言説 わ た り 申 候 義 も 不 苦 義 に御 座 候 哉 。 ど は 思 ひみ だ れ 候 心 よ り 申 出 候 事 に御 座 候 へば 、 かや う の虚 に で は な い。 彼 は ﹃冷 泉 為 村 卿 和 歌 御 教 誨 ﹄で も 同 じ よ う な 趣 旨 の こ て いる。 為 村 の価 値 基 準 は 正直 か 否 か で あ り、 恋 歌 が よ いか 悪 いか と を述 べ て お り、 詞 の虚 実 よ り も 心 の虚 実 に 重点 を 置 いて いる こと がわ か る。 彼 の恋 歌 に 対す る考 え方 は 、冷 泉 派 が 最 も 強 調 す る ﹁ま 正直 な 心 で 歌 を詠 む こと だ け を勧 め て いる。 江 戸 時 代 以前 の冷 泉 派 と いう 問 いに 対 し、 為 村 が 、 衆 人 ま よ ふ 事 也 。 此 を 余 情 と い ひ て か つて虚 言 に て はな し。 歌 で は、 恋 歌 は ﹁ま こと ﹂ で な く て も 詠 む べ き で あ った。 し か し 、 こ こ と ﹂、 す な わ ち ﹁正 直 ﹂ と いう も の に多 大 な 価 値 を 置 い て い て、 よ む 心 を 正 直 にす る事 也 。心 正直 な れば 詞 に は か ﹄は ら ぬ事 也。 こ で は そ れ が逆 転 し て いる。 いず れ に せ よ 、 二条 派 、冷 泉 派 と も に 前 時 代 か ら の恋 歌 擁 護 論 が 是 を 虚 言 と 見 るが 則 心 の不 正 直 也 。 む か しよ り よ み来 た る詞 の 虚 実 を 吟 味 せ ず し て、 た ゴ む か し から のよ みた る事 じや と おも ほぼ 踏 襲 さ れ て いる こと は 確 実 で あ り 、 依 然 と し て彼 ら に と って恋 よ う。 第 二節 長 一七 年 ︿= ハ 一二﹀ 成 立 ) に 、 本 多 正信 (一五 三 八 ∼ 一六 一六 ) の著 作 と さ れ る ﹃本 佐 録 ﹄ (慶 介 しよう。 恋 歌 を 直 接 非 難 す る も の では な いが 、 そ れ と 同 等 の主 張 を ま ず 紹 ◆ 和歌懦弱論 江 戸 時 代 ②1 恋 歌 非 難 派 の主 張 か 否 か が 重 要視 さ れ て いる と ころ に、 江 戸時 代 の特 徴 が あ る と いえ 歌 は 必 要 な も ので あ った。 た だ し 、 総 じ て真 心 を も って詠 ん で いる へば 則 正 直 也 。 詞 の虚 実 を お も ふ 事 、 細 々 の事 也 。 心 の 正直 が 第 一な り 。 ( 中 略) か り に も 心 を 不直 に せ ぬ事 な り 。 と 答 え て い る部 分 が あ る。 宗 国 が ﹁ 和 歌 の道 は専 ら 正直 を 守 ってま いり ま した が 、恋 歌 な ど は 思 い乱 れ た 心 よ り 出 て く る も の であ れ ば 、 虚 構 にな っても かま わ な い の です か﹂と 問 う た の に対 し、為 村 は ﹁み な 迷 う こと であ る。 これ を 余 情 と い って決 し て虚 言 で はな い。 歌 を 詠 む 心 を 正直 にす る こと が 肝 要 な のだ 。 心 が 正直 な ら ば 、 詞 な ど 関 係 な い。 これ を 虚 言 と 見 る こと こ そ、 正直 な 心 で はな い。 昔 か ら詠 み伝 え ら れ てき た 詞 の虚 実 を あ れ これ 考 え る の は、 些 細 な こと であ る。 大 切 な の は、 心 が 正直 であ ると いう こと であ り、 こ れが 詠 歌 の 第 一条 件 であ る。 間 違 っても 心 を 不 正直 にす べき で はな い﹂ と 答 え 109 て、 心 あ し く成 た る 人多 し。 是 は 師 匠 の教 や う あ し き に依 て な 今 日 本 に 天 理 を 得道 し た る 人 な し。 師 匠 の教 に 随 ひ て学 文 を し 甚 弱 く な る も の也 。 夫 よ り 三 味 線 に歌 は苦 しか るま じ 。 公 家 殿 上 人 の翫 び を ば 、 必 真 似 す べか ら ず 。 大 に禁 制 也 。武道 の類高 上 に い ひな し た れ ど も、 国 の政 の為 と はな らず 。 却 て 恋 対 に 禁 じ る 。 そ れ は 武 の道 が 甚 だ 弱 く な る か ら であ る 。 そ れ よ り は と あ る。 ﹁公 家 や 殿 上 人 の翫 び を 、絶 対 に真 似 し て はな ら な い。 絶 り。 師 匠 と大 臣 と を撰 む事 、 天 下 の大 事 な り。 古 今 ・伊 勢 物 語 の媒 、 遊 び の便 り と成 て、 いた づ ら に 心 を うこ かす な り。 皆 道 三 味線 に 歌 を 付 け て歌 う のは 差 し 障 り が な いだ ろ う ﹂ と いう 意 味 で に も 、 同 様 の記 述 が あ る 。 加藤 清 正 (一五 六 二 ∼ 一六 一 一)の ﹃加 藤 清 正 掟 書 ﹄( 成立年未詳) ある。 に迷 ひ て悪 し 。 と いう 箇 所 が あ る。 ﹁ 今 の日 本 に は 天 理 を 体 得 した 人 が いな い。 師 匠 の教 え に随 い学 問 を し ても 却 って 心ざ まが 悪 くな る者 が多 い。 こ れ は師 匠 の教 育 方 法 が 悪 い か らだ 。 師 匠と 大 臣を 撰 ぶ こ と は 天 下 の け れど も 、国 の政 治 の為 に は な ら な い。 そ れば か り か却 って 恋 の媒 、 を 含 むも のが あ る) の類 は、 最 も 優 れ た 書 物 の よう に世 間 で は言 う 生 れ て よ り 、 太 刀 刀 を 取 て死道 、 本意 な り て、常 々武 士道 事 を有 候 へば 、 いか に も 女 の様 に 成 も のに て、 武 士 の家 に 詩 を 作 、 歌 を 読 候事 停 止 た り。 心 に 華 の風 流 有 ては 、 弱 む 、学 問 の事 、 可 入 精 を 。 兵 書 を 読 、 忠 孝 の心 掛 、 可 為 専 用 。 遊 び の便 覧 と な って、 無 益 に心 を 動 かす 原因 と な る。 いず れも そ の の吟 味 を せざ れば 、いさ ぎ よ き 死 は、仕 にく き も の に て候 。 一大 事 で あ る。 ﹃古 今 和 歌 集 ﹄、 ﹃伊 勢 物 語﹄ ( 異 本 に は ﹃源 氏 物 語 ﹄ 道 に迷 って悪 いも の であ る﹂ と いう 。 和 歌 集 の代 表 で、 か つ恋 歌 の 能 々心 を 武 に極 事 、 肝 要 候事 。 む こと は禁 じ る。 心 に優 美 な 風流 心 が あ って は、 虚 弱 に な り 、 いか 実 行 す る た め に行 な う ので あ る。 し た が って 詩 を 作 った り 、 歌 を 詠 ﹁ 学 問 に精 を 入 れ る の は、兵 法書 を読 み、忠 孝 の心 懸 け を 専 ら 学 習 、 多 く 載 る ﹃古 今 和 歌 集 ﹄ や 、 物 語 の代 表 と さ れ 、 か つ恋 物 語 であ る と こ ろ の ﹃源 氏 物 語 ﹄ や ﹃伊 勢 物 語 ﹄ は恋 の媒 や 、 遊 び の見 本 と な ると いう のだ 。 同時 代 の武 将 、 本 多 忠 勝 (一五 四八 ∼ 一六 一〇) の ﹃本 多 中 書 家 訓 ・御 遺 書 ﹄ ( 成 立 年 未 詳 ) に は、 に も女 の様 に な って し ま う。 武 士 の家 に 生 ま れ た と いう こと は 、 太 m 恋 歌観 の変遷②一江戸 時代 の言説 時 代 末 期 、 も しく は江 戸 時 代 最 初 期 に 活 躍 した 武 士 た ち に は、 こ の き る も の では な く 、 一方 を 採 れ ば 一方 を 失 う と い った も のだ 。 戦 国 の風 流 ﹀ が 対 置 さ れ て いる 。 彼 ら に と って これ ら は 、 決 し て両 立 で の心 を 極 め る こと が 肝 要 な のだ ﹂と いう 。 こ こ に は ︿ 武 ﹀に 対 し て ︿ 華 け れ ば 、 いさ ぎ よ い死 に 方 は 出 来 な く な って しま う 。 し っか り と 武 刀や 刀を 以 て死 ぬ 道 が 本 意 であ って、 日頃 か ら 武 士 道 の吟 味 を しな 時 代 背景 の中 、 彼 ら が従 来 重 視 さ れ て いた 公家 的 な 文 化 を 否定 し よ を有 しな い 武 士 たち は、 生 き残 り を か け て戦 いを 続 け た。 こ う し た は戦 乱 の 世 であ った。 下克 上 の時 代 で も あ った。 そう し た中 で門 閥 る と いう 思 想 が あ る。 思 え ば 、 応 仁 の 乱 以降 、 約 一五 〇年 間、 日本 か つ修 得 しな け れば な らな い 武 士的 な も の、 男 性 的 な も のと相 反す 和歌 的 な も の は女 性 的 な も の であ り、し た が って自 分 た ち が 重 視 し 、 ら れ た ので あ る。 裏 を 返 せば 、 当 時 に お いて 公家 た る者 、 あ る い は う と し た のも無 理 は な い。 否定 す べ き も の の筆 頭 と し て 和 歌 が挙 げ 和 歌 が 人 を 懦 弱 にさ せ ると いう 考 え を 一般 に ﹁ 和歌懦弱論﹂と い 既得 権 力 を持 つ者 に と っ℃、 和歌 は 必 須 の教 養 で あ り、 重視 さ れ る よ う な 考 え が 共 有 さ れ て いた も のと 推 察 さ れ る。 う が 、 鈴 木 淳 に よ れ ば こ の ﹁和 歌 懦 弱 論 ﹂ は、 目 野 ( 烏 丸) 資慶 べ き も の で あ った こ と がわ か る。 すけよし (一六 二 二 ∼ 一六 六 九 ) の ﹃資 慶 卿 消息 ﹄ ( 成立年未詳) に ﹁ 殊 に偽 大 夫 の吟 詠 と ても て あ そ ぶ にた ら んや ﹂ と あ り、 資 慶 は ﹁ ま こと﹂ 者 、 井 上金 峨 (一七 三 二 ∼ 一七 八 四) の ﹃病 問 長 語﹄ ( 成立年未詳、 戸時 代 を 通 じ て 完全 に 払拭 さ れ る こ と はな か った。 江 戸中 期 の漢 学 こう し た戦 国 武 将 たち に よ って喧 伝 さ れ た ﹁和歌 懦 弱 論 ﹂ は、 江 によ る歌 詠 な ら ば 女 性 的 性 格 を 免 れ ると し て い ると いう 。 荻 生 徂 徠 文 化 一 一年 ︿一八 一四﹀ の写 本 あ り) と いう書 物 に は、 り か ざ り こと や う な ら ん は 、 狂 言 妄 語 の罪 のが れ かた し。 し から ば の ﹃徂 徠 先 生 答 問 書 ﹄ ( 享 保 一二 年 ︿一七 二 七﹀ 刊 ) に も 和 歌 の女 ○ 和 歌 は 国 風 な れば 、 人情 を 和 し 、 教 化 を 助 る と 云 ふ こ と は、 こ 性 的 性 格 を 道 徳 観 の欠 如 に 求 め た 箇 所 が あ り 、 さ ら に は伊 藤 東 涯 門 の篠 崎 東 海 (維 章 : 一六 八 七 ∼ 一七 四 〇 )の ﹃和 学 弁 ﹄( 成 立年未詳) と わ り あ り、 然 れ ど も年 少諸 生 の志 操 た 丶さ る も のが、 玩 た な モテアソビ な ど にも 日本 を 惰 弱 な も の に した の は、 朝 廷 が 和 歌 を 翫 ん だ せ い で ら、 柔 弱 の心 を 発 せ ん か と の 恐 も あ り、 近 来復 古 な ど 墨て、 歌 ⑳ あ る と す る 記 述 が 見 ら れ ると いう 。鈴 木 が 指 摘 す る ﹁和 歌 儒 弱 論 ﹂ は、 さ り と は、 まち か ひな り、 先 王 も こ れ を 以 て教 化 の具 と こ 学 者 流 の雷 同す る も のか、 此 を 以 て 天 下 を 治 む る と倡 ふ る こ と こ の ﹁和 歌 懦 弱 論 ﹂ は 戦 国 武 将 ら に よ って声 高 に 叫 ば れ た 極 め て そな さ れ た者 の、 教 化 の道 と なさ れ た る に は非 す 、 延喜 の比 よ の淵 源 が こ こ にあ る。 武 士 的 な 考 え であ った。 そ こ に は ﹁ま こ と ﹂ を 重 要視 す る視 点 と 、 111 底 す る。 ﹁ 歌 を 詠 む 人 は、 世 の中 の有 為 無 常 を 知 り 、 か つま た 道 理 を も 理 解 し て い るが た め に、そ れ が教 誡 の基 準 と な るば か り で な く 、 り 、和 歌 盛 に行 はれ 、 一条 帝 の比 に 至 て は、 これ に耽 る公 卿 は、 み な 柔 弱 の婦 人 の如 く に成 り 、 其幣 ついに 保 元 の乱 を 起 せ し か 天 下 を 治 め る こと にも 役 立 つの であ る﹂ と いう 考 え 方 であ り、 和 歌 と覚 ゆ、 歌学 者 流 、 こ れ は ど う だ気 が 附 いた か 、 ﹁和 歌 懦 弱 論 ﹂ は 江 戸 時 代 を 通 じ て 払 拭 さ れ な か ったば か り か 、 が 国 政 を 左 右 す ると 彼 ら は考 え て いた の であ る。 と あ る 。 金 峨 は、 ﹁ 和 歌 は 我 国 の風 俗 で あ る か ら 、 人情 を 和 ら げ 教 絶 え ず く す ぶ ってお り 、再度 明治 一〇 年 ∼ 二 〇 年 代 に大 問 題 とな る。 ﹁女 訓 書 ﹂ に お い て 化 の助 け と な る と いう こ と に は 一理 あ る。 け れ ど も 年 少 の者 た ち の 志 や 操 が ま だ 立 たな いも のが、 そ れ を 翫 ん だ と し た ら 、 柔 弱 な 心 と ◆ 恋 歌 淫 奔 論ー 恋 歌 が 淫 奔 の媒 であ ると いう 論 は、 古 く は ﹃古 今 和 歌 集 ﹄ の仮 名 な る お そ れ が あ る。 近 頃 復 古 な ど と 言 つて 歌学 者 に 雷 同 し た の か、 和 歌 で 天 下 を治 め る と 唱 え る者 が いる が、 そ ん な こ と は 間違 いで あ 管 見 によ ると 、 儒 学 者 で初 め て恋 歌 に つい て言 及 した の は、 中 村 序 に そ のよ う に 解 釈 で き る 部 分 が あ る のは 先 に 見 た 通 り であ る が、 害 に よ って 保 元 の乱 が起 き た ので あ る。 歌学 者 ど も、 こ の事 実 を 何 裼 斎 (一六 二 九 ∼ 一七 〇 二)であ る。 彼 は京 都 室 町 通 二条 で生 ま れ、 る。 先 王 も こ れ を教 化 の道 具 と はさ れ た も の の、 教 化 の道 と し た の とす る。 そ の 間違 い に気 付 い た か﹂ と激 す る。 和 歌 が 国 の秩序 を 左 そ の京 都 を 中 心 に活 動 した 朱 子学 者 であ る 。﹃日本 思 想 史 辞 典 ﹄ ( ・ へ こう した ﹁ 恋 歌 淫 奔 論 ﹂ と も 言 う べき 論 が 江 戸 時 代 に は極 め てイ デ 右 す る と いう 考 え は、津 坂 孝 綽 ( 東 陽 : 一七 五 七 ∼ 一八 二 五) の ﹃夜 り か ん 社 ) で は、 ﹁博 学 無 比 で あ った が 、 も っと も 礼 学 に長 じ て ﹂ で はな い。延 喜 の頃 か ら 和 歌 が 盛 ん に 行 な わ れ 、一条 天 皇 の頃 に 至 っ 航 詩 話 ﹄ (天 保 七 年 ︿一人 三 六 ﹀ 刊 )、 広 瀬 旭 荘 (一八 〇 七 ∼ お り 、 彼 の目 指 す と ころ は ﹁日本 社 会 を 朱 子 学 的 な 儒 教 を 導 入 し て オ ロギ ッシ ュに論 じら れ るよ う にな る。 儒 学 の影 響 であ る。 一八 六 三 ) の ﹃塗 説 ﹄ (天保 四 年 企 八 三 三 ﹀ 成 立 ) に も 見 ら れ 、 礼 的 に 秩 序 づ け る こと にあ った ﹂ と いう 。彼 は 、 今 日 の儒 学 史 研 究 て、 和歌 に耽 る 公 卿 は いず れ も が 柔 弱な 婦 人 の よ う にな り、 そ の弊 和 歌 を 批 判 す る 一 つ の 根 拠 と な った 。 こ の考 え は 、 後 水 尾 天 皇 に お い ては 、 ほと ん ど 語 ら れ る こと のな い人 物 であ るが 、 朱 子学 関 てき さ い (一五 七 一∼ 一六 一七) の ﹁歌 よ ま む 人 は 有 為 無 常 知 り 、 こと わ り 係 の基 本 テキ スト の解 説 書 を は じめ と す る多 く の著 述 を 残 した 一六 きょくそう を も 勘 弁 し て、 教 誡 の端 と も な り、 天 下 の治 を も い た す べ き 事 也 ﹂ 世 紀 を 代 表 す る 儒 学 者 の 一人 で あ る 。 中 村 弘 毅 (一八 三 七 ?∼ ( ﹃伊 勢 物 語 愚案 鈔 ﹄ 慶 長 = 一 年 ︿一六 〇 七﹀ 成 立 ) と いう 言葉 と 通 112 恋歌観の変遷②一江戸時代の言説 ま す ま す 学 ぶ 所 を 研 究 し、 天文 、 地 理 、 音 律 等 にも く は し か り しと 篤 行 の 純 儒 な り 、 地 中 のさ はが し き を いと ひ、 西 郊 に う つり住 て、 ﹁ 中 村 慯 斎 先 生 は、 京師 の人 に て、 幼 よ り学 を 好、 程朱 を崇 信 し て、 一八 八 七 ) の ﹃思 斎 漫 録 ﹄巻 之上 (天 保 三 年 ︿一八 三 二﹀刊 ) に は 、 り、 男 性 が恋 歌 を詠 む こ とや 、 大 量 に あ る古 歌 の恋歌 に 対 し て非 難 が非 難 し て いる のは、 あ く ま で も当 代 の女 性 が恋 歌 を詠 む こと で あ 慯 斎 は 恋 歌 も教 訓歌 と し て いる ので あ る。 これ ら の事 実 か ら、 慯 斎 に は 多 く の古 歌 が 引 用 さ れ て お り 、 そ の 中 に は 恋 歌 も 少 な く な い。 め かがみ し て いる 訳 で はな い こと がわ か る。 ひ 国 朝、 上 は 縉笏 の大 人 よ り、 下 は大 夫 ・士庶 及 び 富商 ・栄 農 に しんこつ に あ る (原 文 は漢 文。 以 下 は筆 者 に よ る読 み 下 し 文 で あ る )。 ︿一六 五 二﹀ 自 序 、 承 応 二年 ︿一六 五 三 ﹀ 刊 ) 巻 一に は 、 次 の よ う 儒 者 に 、 こ れ に 近 い言 説 が あ る。 善 斎 の ﹃膾 余 雑 録 ﹄ (慶 安 五 年 か い よ ざ つろ く た だ し 、 場 斎 よ り 前 に 永 田 善 斎 (一五 九 七 ∼ 一六 六 四 ) と い う な り ﹂と あ り、 そ の人徳 の高 さ と学 問 の広 さ が 紹介 さ れ て いる。 寛 文 元 年 (一六 六 一) の自 序 を も つ ﹃比 売 鑑 ﹄ ﹁ 述言﹂巻 之九 に 次 のよ う な 記 述 が あ る。 すがた 恋 の歌 よ む ま じき にも あ ら ね ど も 、 そ の事 に よ る べき な り。 す ㈱ べ て賢 人 貞 女 な ど のよ む 歌 は、 わ き てそ の態 あ る べき な ら ん。 し な い﹂ と 場 斎 は言 う 。 恋 歌 を 詠 むと いう 行 為 を 完 全 に 否定 し て い る け な け れ ば な ら な い。 大 方 女 性 は自 発 的 に詠 まな い に越 し た こ と は よ る。 総 じ て賢 女 や 貞 女 と い った 人 の詠 む歌 は特 に そ の姿 に気 を 付 ﹁恋 の歌 を 詠 ん で は いけ な いと いう こ と は な いが 、 そ れ は 場 合 に 愚 、 賊 に 授 く る に 刃 を も つて す る よ り 甚 だ し。 漢 語 、 も し読 む んや 嫺 ふ に お い てをや 。 これ 禍 を 招 く の媒 に し て、察 せざ る の し め ん と 欲 す れば 、 す な はち 女 は 性 と し て 淫 に 流 れ 易 し 、 いは む、 果 し て 何 の益 か これ有 ら ん。 た だ 女 を し て彼 の淫 行 に 嫺 は だ し、 女 を し て 和 歌 を 詠 ま し め ん と 欲 す る な り。 女 の和 歌 を 詠 大 や う 女 は自 ら 詠 ま ざ る に如 く 事 な し 。 わ け で は な いが 、 女 性 は 詠 ま な い に こし た こ と は な いと 言 う のだ。 こと を 得ざ れば 、以呂 波 の字 を も つて孝 経 、列 女 伝 等 を 訓 訳 し、 至 る ま で、 処女 に教 ふ る に、 伊 勢 、 源 氏 物 語 の類 を 以 て す。 け 場 斎 は こ の引 用 箇 所 の少 し前 の部 分 で、 恋 歌 を 詠 む こ とが 習 慣 化 さ 習 ひ て これ を知 ら し む れば 可 な り 。 意 味 を と って お こう 。 ﹁我 国 で は 上 は 身 分 の高 い人 か ら 下 は 武 士 なら れ て お り、 人 々が それ に 対 し て何 の疑 問 も いだ かな い こと を 嘆 い て い る。 こ の こと から 、 恋 歌 を 詠 む こと が いけ な い こと であ る と いう 考 え 方 は、 こ の 頃ま だ 一般 的 で はな か った こと が わ か る。 ﹃比 売 鑑 ﹄ 鵬 階 級 、 富 ん だ 商 人 、 富 裕 な 農 民 に 至 る ま で未 婚 の女 性 の教 育 に ﹃伊 かう いん らん おぼる り、三 綱 の道 も く つ れ 淫 乱 に の み溺 な る。 小 野 小 町 、清 少 納 言 、 いう のな ら 、 いろ は の字 で ﹃孝 経 ﹄ や ﹃列 女伝 ﹄ な ど を 訓 読 し 、 習 よ う な 愚 行 よ り も 一層 馬鹿 げ た こと であ る。 漢 語 が も し 読 め な いと ん じ、 自 分 も 不義 に 陥 る だ ろう 。 一般 的 な 女 性 教 育 で は、 ﹃源 氏 物 はな い の で はな いだ ろう か。 学 問 を す れ ば 心 が 高 慢 にな って夫 を 軽 と いう 箇 所 が あ る。 三 柳 は 、 ﹁女 子 に 学 問 を勧 め る の は よ い こと で た つし や 紫 式 部 、 和 泉 式 部 な ど い ふ皆 学 文 に長 じ、 和 歌 に達 す る ゆ へに わ せ て 理解 さ せ れば よ い のだ ﹂ と 善斎 は 主 張 す る 。 これ は 女 性 の詠 語 ﹄、 ﹃狭 衣 物 語 ﹄、 ﹃伊 勢 物 語 ﹄ な ど た わ いも な い草 双紙 類 を 読 ん で を つと 歌 行 為 自 体 が 淫 奔 、 好 色 の媒 と な ると し た 最 初 の も ので あ る。 ﹃国 覚 え さ せ る。 だ から 、 三綱 ( 臣 下 の 王 に対 す る忠 、 子 の親 に 対す る し ぶん 勢 物 語 ﹄ や ﹃源 氏 物 語 ﹄ の類 を 使 う 。 これ は お そ ら く 女 性 に 和 歌 を かぎ りな き 淫 婦 と 成 にけ ら し。 異 朝 に も詩 文 に達 者 な る女 は こ 書 人名辞典﹄ ( 岩 波 書 店 ) に よ る と、 善 斎 は、 京 都 の人 で儒 学 を藤 孝 、 妻 の夫 に対 す る烈 ) の道 も 崩 れ て淫 乱 と な って しま う 。 小 野 小 む やく い て う 詠 ま せ よ う と す る か ら だ ろ う 。 け れ ど も 女 性 が 和 歌 を 詠 む こと が 何 と ご と く 淫 婦 也 と 知 べ し。 女 は夫 に した が ふ故 にた と ひ よき 学 いん ぷ の利 益 と な る のだ ろ う か。 元 来 女 性 は 淫 に 流 れ や す い性 質 が あ る の 文 に ても 無 益 の事 也 。 原 惺窩 ・林 羅 山 に学 ん だ 人 で あ り 、 羅 山 の推 挙 で 和 歌 山 藩儒 と し て 町 、 清 少 納 言 、 紫 式 部 、 和 泉 式 部 な ど は皆 学 問 に長 じ、 和 歌 に優 れ ㈲ に 、 淫 行 を 教 え れば な お さ ら そ の性 質 が 促 進 さ れ る だ け であ る 。 そ 仕 え た 人 で あ る と いう 。裼 斎 も 京 都 の人 であ り、 善 斎 の書 も 京 都 で て いた た め に、 甚 だ し い淫 婦 と な った ら し い。 中 国 でも 詩 文 に堪 能 れ が 禍 を 招 く 媒介 と な る こと が わ か ら な い のは 、 賊 に 刃 物 を 授 け る 刊 行さ れ た も ので あ る か ら、 裼斎 が善 斎 の説 に 影 響 を 受 け た 可 能 性 な 女 性 は悉 く 淫 婦 であ ると 知 る べき であ る。 夫 に随 う の に良 いと さ 性 蔑 視 の文 章 であ り 、 女 性 に学 を つけ さ せ よ う と しな い、 男 の身 勝 れ る学 問 でも 女 性 に は無 益 な こと であ る﹂ と 極 言 す る。 甚 だ し い女 が あ る。 さんりゅう 中 山 三 柳 (一六 一四 ∼ 一六 八 四 )の﹃醍 醐 随 筆 ﹄( 寛 文 一〇 年 ︿エ ハ七 〇﹀ 自 序 、 同年 刊) に も 、 手 な 意 見 であ る。 論 の是 非 はと も かく 、 そ の中 に学 問 に長 じた 女 性 は淫 婦 と な ると 断 じた 箇 所 が あ り 、 そ の実 例 と し て和 歌 に長 じた 王 が くも ん 一 女 子 に学 文 をす ︾む る は よ か ら ぬ わざ に や。 学 文 す れば 心 朝 の女 性 歌 人 た ち が 挙 げ ら れ て い る。 女 性 が 和 歌 を 嗜 む こと を 戒 め が くも ん た か ぶ り夫 を か ろ し め て其 身 も 不義 に おち いる な る。 こ ︾ら の る点 で、 善 斎 や 裼 斎 と 同 じ も の で あ ろ う と 思 わ れ る 。 ﹃国 書 人 名 辞 さ ごろ も を つと 女 学 は源氏狭 衣伊勢 物語等 あらぬ 草子な どよ みおぼ ゆる によ 114 恋歌観 の変遷 ②一 江戸時代 の言説 都 に蟄 居 し て 三宅 道 乙 に儒 を学 ぶ。後 水 尾 院 を 診 察 し て功 が あ った 。 沢道 寿 に 医を 学 ぶ 。 初 め美 濃 大 垣藩 に 医 を 以 て 仕 え た が致 仕 し 、 京 典 ﹄ の中 山 三柳 の項 に は、 ﹁土 佐 の 人。 一説 に大 和 の人 で土 佐 の長 のよ う な 記 述 が あ る。 つ書 物 で、 益 軒 没 後 に序 を つけ て刊 行 さ れ た 。 そ の ﹁ 上 之 本 ﹂ に次 訓﹂四巻と ﹁ 武 訓 ﹂ 二巻 から な り、 享 保 元年 (一七 一六 ) の序 を も いた。 こう し て 見 て み る と、 一六 五 〇 年 代 か ら 一六 七 〇 年 代 に 、 女 ま た善 斎 、 裼 斎 と 同 じ く 京都 か ら女 性 詠 歌 に ついて の戒 め を 発 し て の作 であ る か ら、 お そ ら く京 都 で書 か れ た も のと 思 わ れ る。 三柳 も そ こな ふ 事 な かれ 。 心 を や しな ふ 道 也 。 心 を や しな ふ 道 を 以、 好 色 の媒 と し て心 を わ が 国 のな ら は しな り と て、 あ しき 事 はま な ぶ べ から ず 。 歌 は わ が 国 い に し へよ り 、和 歌 を 以 好色 のな か だ ち と せ し 風 俗 あ り 。 法 眼。﹂ と そ の経 歴 が 書 か れ て い る。 こ の ﹃醍 醐 随 筆 ﹄ は 三 柳 晩 年 性 の詠 歌 行 為 ( 学 問 ) を 強 く 戒 め る よう な 風 潮 が 、 京 都 で 生 ま れ 、 よ れば 、彼 は ﹁八 五歳 で の病 没 ま で著 述 活 動 に精 励 し 、儒 書 のほ か、 師 を も た な か った よ う であ る 。 ﹃日本 思 想 史 辞 典 ﹄ ( べりかん社)に 軒 の学 、 常 師 無 し ﹂と 記さ れ て いる よ う に 、 兄 に学 ん だ 他 は 特 定 の 俗童 子 訓﹄、﹃養 生 訓 ﹄ な ど 多 く の著 作 を 残 した 。 ﹃先 哲 叢 談 ﹄ に ﹁ 益 に 出 仕 し て、 藩 主 や そ の嫡 子 に 儒 学 を 講 じ た 他 、 ﹃大 和 俗 訓﹄、 ﹃和 れ た。 兄、 存 斎 (一六 二 二∼ 一六 九 五 ) か ら 朱 子 学 を 学 び 、 福 岡 藩 で あ った 貝 原寛 斎 (一五 九 七 ∼ 一六 六 五 ) の五 男 と し て福 岡 に 生 ま 一七 一四) の恋 歌観 に ついて 見 て み よ う。 益 軒 は 、 福 岡 藩 士 右 筆 役 次 に 、 中 村 慯 斎 と ほ ぼ 同 時 代 を 生 き た 貝 原 益 軒 (一六 三 〇 ∼ し、ま た 室 鳩 巣 (一六 五 八 ∼ 一七 三 四 )の著 書 であ る ﹃駿 台 雑 話 ﹄( 享 け と せば 、 詩 歌 も 人道 の益 と な る 事 大 成 べし ﹂と いう 記述 が 見え る た るも のな れば 、 詩 歌 を み て其 人 の心 を し り、 今 の人情 を し る の助 序) には、 ﹁ 詩 の みな ら ず 、 和 歌 も 至 情 を い ひ て、 みな を し へと し 六 一九 ∼ 一六九 一)の﹃召南 之解 ( 女 子 訓 第 二)﹄(元禄 四年 ︿一六 九 二﹀ た こと であ る。 それ は、 儒 者 にと っても 同 じ こと で、 熊 沢蕃 山 (一 いう 考 え は、 何 も 彼 独 自 の考 え で はな く 、 当 時 は広 く 認 めら れ て い 恋 の 手段 にす る こと は 固く 戒 め て い る。 和 歌 が 心 の育 成 に役 立 つと い る が、 昔 か ら 我 国 で 行 な わ れ て き た よ う な ﹁好 色 の媒 ﹂、 つま り 彼 は、 和 歌 に対 し て は ﹁ 心 を や しな ふ道 ﹂ と し て高 く評 価 を し て 喧 伝 さ れ て いた こと が確 認 で き る。 本 草や 養 生 、事 典 類 、 礼 書 、 教 訓 書 、 な ど 幅 広 い領 域 に 及 ぶ 約 一〇 保 一七年 ︿一七 三 二﹀ 序 ) に は ﹁ 倭 歌 に感 興 の益 あ り﹂ と いう 文 言 ω ○ 部 二百 数 十 巻 も の著 作 を 残 した ﹂ と いう 。彼 の多 く の著 書 の中 で が あ り 、 ﹁西行 が 、 わ が 仏 法 は 、 倭 歌 に よ り てす ㌧ む と い ひ し、 さ 國 も そ の恋 歌 観 が 最 も 顕 著 な のは 、﹃文 武 訓 ﹄であ る。 ﹃文 武 訓 ﹄は ﹁ 文 115 益軒 の書 が、 慯 斎 と 異 な る のは、 古 歌 に つ いて も 言 及 し て いる点 だ 。 慯 斎 の場合 、 古 歌 の恋 歌 を教 訓 歌 と し て使 用 し て いた。 裼斎 が も あ り な ん か し。 わ が と も が ら も吟 詠 を た す け 、 性 情 を 養 ふ に は、 た よ り な き に あ ら ず 。 さ れ ば 倭 歌 のす て が た き は こ ㌧に あ る べ し ﹂ 好 ま し くな いと 思 った のは、 当代 の女 性 が 恋 歌 を 詠 む と いう こと で あ った。益 軒 の場 合 は そう で はな い。同 じ女 性 を 対 象 と しな が ら も 、 ㈲ と いう 記 述 も 見 え る 。 原 念 斎 (一七 七 四 ∼ 一人 二 〇 ) の ﹃先 哲 叢 談 ﹄ (文 化 一四 年 ﹁ 淫 思 な き 古 歌 を 多 く よ ま し め ﹂ る べ き であ る と 主 張 し て い る。 こ もと ︿一八 一七 ﹀ 序 ) に 、 ﹁ 益 軒 、 時 に詩 を 作 ると 雖 も 、 素 倭 歌 を 好 み て こ に 至 って初 め て古 歌 を含 む恋 歌 全 体 が非 難 の対象 とな った ので あ つね 詩 を 好 ま ず 。 毎 に 詩 を 謂 ひ て無 用 の閑 言 語 と 為 す ﹂と 見え る よ う に、 る。 ⑯ 益 軒 は詩 よ り も 和 歌 を 好 んだ 。彼 は自 分 の好 む 和 歌 が 、 ﹁ 淫 奔 の媒 ﹂ ま し め て、 風 雅 の道 を しら しむ べ し﹂ と いう 記 述 であ る 。 これ は 女 ︿一七 一〇 ﹀ 成 立 ) 巻 之 五 ﹁ 教女 子法﹂ の ﹁ 淫 思なき古歌を多 くよ 記 事 が あ る 。 ﹃文 武 訓 ﹄ よ り前 に成 立 した ﹃和 俗 童 子 訓﹄ ( 宝永七年 こ の ﹃文 武 訓 ﹄ の記 述 も さ る こと な が ら 、 そ れ 以 上 に 注 目 さ れ る 彼 を 特 定 の学 派 に分 類 す る の は好 ま しく な い。 た だ し、 人欲 の肯 定 古 の聖 人 に取 て 用 ひ侍 るな り ﹂と 言 って い る から で、 こ の言 動 から ﹃集 義 和 書 ﹄ の中 で ﹁ 愚 は朱 子 にも と ら ず 、 陽 明 に も と ら ず 、 た ゴ 厳 密 に言 え ば 純 粋 な 陽 明学 者 と す る こと は 正 しく な い。そ の理 由 は 、 であ る。 蕃 山 は 通常 、藤 樹 に 師 事 し た た め 陽 明 学 者 に 列 せ ら れ る が 、 熊 沢蕃 山 は、 中 江藤 樹 (= ハ○ 八 ∼ 一六 四 八) に短 期 間 (約 九 ヶ 子 教 育 法 と し て書 かれ た 部 分 であ り、 ﹁淫 思 ﹂ のあ る 歌 と は恋 歌 を な ど 陽 明 学 から 受 け た 影 響 も 決 し て少 な く な い こと も 、 ま た 事 実 で と さ れ る風 習 が 我 国 にあ る こと が 好 ま しく な いと 考 え た 。な ぜ な ら 、 指 す と 思 わ れ る。 な ぜ ﹃和 俗 童 子 訓 ﹄ の記 事 が 重 要 か と いう と 、 そ あ る。 よ つて、 こ こ で は ひと ま ず 陽 明 学 者 か否 か の議 論 は置 き 、 蕃 月) で はあ るが 教 え を 受 け た儒 学 者 であ る。 彼 の著 書 であ る ﹃源 氏 れ は 慯斎 の ﹃比 売 鑑 ﹄ と の共 通 点 に あ る。 両 者 は いず れ も 、 女 子 教 山 の恋 歌 観 に の み論 点 を 絞 る こと にす る。 蕃 山 は いく つか の書 物 の 儒 学 では ﹁ 色欲﹂ は ﹁ 食欲﹂とともに ﹁ 大 欲 ﹂ と さ れ 、 最 も 戒 しむ 訓 書 (以 後 ﹁女 訓 書 ﹂ と す る ) であ り 、 そ の中 で恋 歌 非 難 論 が 展 開 中 で、 恋 歌 に つい て発 言 を し て い るが 、 彼 の恋 歌 観 が 最 も 顕 著 に表 外 伝 ﹄ は 、 ﹃源 氏 物 語 ﹄ 再 評 価 の端 緒 を つく った 書 と し て 特 に有 名 さ れ て いる か ら だ 。 つま り 、 江 戸 時 代 初 期 の書 物 では 、 専 ら ﹁女 訓 れ て い る の は、 元禄 四年 (一六 九 二) の序 を も つ ﹃召 南 之 解 ( 女子 べき 対 象 であ る か ら だ 。 書 ﹂ の中 で恋 歌 非 難 が 行 な わ れ て いた こと を こ の事 実 は 物 語 って い 訓 第 二)﹄ に お いて で あ る 。 ㈲ る。 116 恋歌観 の変遷②一.江戸時代の言説 の詩 を ﹁正 風 ﹂、 乱 世 に 入 って か ら の詩 を ﹁ 変 風 ﹂ と い う1 筆 と 見 え た り。 ( 中略 )変風 ( ﹃詩 経 ﹄ ﹁国 風 ﹂ の内 、 平 和 な 時 代 ば 人道 美 也 。 不 正 に な が る れ ば 風 俗 く だ り 、 いや し く な り ゆ く 日 本 の歌 は猶 以 恋 を 本 と せ り 。 ( 中 略 ) 詩 歌 の性 情 の 正 に よ れ 価 しな か った で あ ろ う。 代 にな って書 か れ た物 語 であ ったな ら、 蕃 山 は そ れ を決 し て高 く 評 の であ る。 お そら く ﹃源 氏 物 語﹄ が 平 安 時 代 の作 品 で はな く 江 戸時 の 人情 を 写 す 鏡 であ る。 彼 の ﹃源 氏 物 語﹄ 観 も 、 こ れ に 通底 す る も 恋 歌 を 全 く 無 用 な も のと し て い るわ け で はな い。 恋 歌 は、 そ の時 代 こ と で あ る。 これ は ﹃召南 之 解 ﹄ と いう 書 物 が ﹁女 訓 書 ﹂ で あ る こ 一つ注意 す べ き点 は 、 こ の書 物 が ﹁女 子 訓第 二 ﹂ と 称 さ れ て いる 者 注 ) に 淫 行 不 正 の詩 を 聖 人 のけ づ り 給 はざ るも 、 人 情 を しら しめ ん た め 也 。 後 世 は誠 す く な く 、 人 情 正 し から ざ れ ば 、 恋 を 要 約 す ると 、 ﹁和 歌 は恋 を 本 質 と し て いる が 、 ﹃詩 経 ﹄ ﹁国 風 ﹂ に 恋歌論が ﹁ 女 訓書 ﹂に お い て展 開 さ れ た 例 を 、もう 一例 挙げ て お こう 。 展 開 し た のが ﹁女 訓 書 ﹂ で あ った 、 と いう 事 実 と 共 通 す る 。 初 期 の 本 と し て は和 の助 と はな ら で害 あ り 。 示さ れ て いる よう に、 風俗 が 乱 れ る と、 淫 奔 な 詩 が生 れ る。 ﹃詩 経 ﹄ 山 鹿 素 行 (一六 二 二∼ 一六 八 五 )が 寛 文 三 年 か ら 同 五 年 (一六 六 三 と を 意 味 し て いる 。 こ の事 実 は 、 中 村 蜴 斎 、 貝 原 益 軒 が 恋 歌 非 難 を に そ のよう な 詩 が あ る のも、 人情 を知 ら し め る た め で あ る。 だ か ら ∼ 一六 六 五 ) に書 いた と さ れ る ﹃山 鹿 語 類 ﹄ に、 次 のよ う な 記 事 が おし 昔 は と も か く、 今 の世 は 誠 が 少 な く 人情 も 正 し く な い のだ か ら 、 恋 ﹃源 氏 ﹄ ﹃伊 勢 物 語﹄ の類 は、 各 々男 女 の情 を 通 じ、 好 色 の道 を ﹁ 女 子 を 訓 う ﹂)。 す な わ ち 人 情 が 正 し か った の で ﹁目 に 見 え ぬ 鬼 神 を も あ は れ と お も 専 ら と し、 つ いに 人倫 の大 綱 を 失 いて、 君 臣 ・父 子 ・夫 婦 の本 ﹁父 子 道 一、 教 戒 ﹂ 中 見え る は せ 、 男 女 のな か を も や わ ら げ 、 た け き も の のふ の こ ころ を も な ぐ 源 みだ れ、 兄弟 ・朋友 の道 そ む け り。 た ま た ま 世 間 の事 を のぶ ( 巻 一六 を 和 歌 の本 質 と す れば 和 す る ど ころ か害 と な る ﹂ と いう よ う な 意味 さ め ﹂ るも の であ った かも しれ な いが 、 今 は誠 も 少 な く 人情 も 正 し る と いえ ど も、 過 奢 を 以 て事 と し 、 風 流 を 以 て 用 と し て 、 こと だ ろ う。 彼 は 、昔 (お そ ら く 平安 時 代 の和 歌 を さ す )の恋 歌 は ︿ 誠 ﹀、 く な い の で、 恋 を 和 歌 の本 質 と し て中 心 的 な 位 置 に置 く の は、 却 っ かき ご と く 好 色 遊 宴 の媒 た ら し む 。 (中 略 ) 世 な れ ぬ さ ま の 処 女 、 こころ て害 にな ると いう の で あ る 。彼 の恋 歌 観 の特 質 は、 昔 に詠 ま れ た恋 幼 稚 の時 よ り 奸 し く姦 妬 し き情 を 知 り 、 墻 を こえ て奔 走 す る の かた ま 歌 、 す な わ ち 古 歌 の恋 歌 は高 く 評 価 し て い る の に 対 し て、 当 世 の恋 あ や ま り を 好 ん で、 彼 の光 源 氏 のた め し 、在 五 中 将 が あ り さ ま ひずか 歌 に 対 し て評 価 が 極 端 に低 い、と いう こと であ る 。 だ か ら と い って、 117 非 難 の対象 が 、 現 在 の恋 歌 か ら古 歌 を 含 む恋 歌 全 体 へ、 女 子教 育 に ひ きょう な ど を 以 て 比 興 と し 、 詩 華 ・言 葉 のや さ し く 婉 な る を 以 て各 々 限 定 さ れ て いた も のが よ り広 い範 囲 へと 変 化 し た のであ る。 ﹁女 訓 書 ﹂ の中 で恋 歌 非 難 が な さ れ た 原 因 に つい て は 、 次 のよ う 艶 書 ・恋 文 の 用 と す 。 これ 女 子 の風 俗 甚 だ あ や ま る ゆ え ん に あ ㈹ る 歌 と いえ ば 、 当 然 恋 歌 であ る。 そ う い った こと から 察 す ると 、 素 は直 接 ﹁ 恋 歌 ﹂ と いう 言 葉 は用 い て いな いが 、 艶 書 ・恋 文 に使 わ れ の用 ﹂ と し て い る現 在 の 風俗 に対 し て憤 りを 顕 わ に し て いる。 素 行 て いる が 、 同 時 に ﹃源 氏 物 語 ﹄ な ど の詩 句 を 使 って、 ﹁艶 書 ・恋 文 こ の部 分 は主 に ﹃源 氏物 語﹄、 ﹃伊 勢 物 語﹄ な ど を 批 判 の対象 と し は み だ り に 心 を 動 か し て は な ら な いと さ れ た 。 江 戸 時 代 に 出 さ れ た り 動 で あ る のに 対 し 、 女 性 は 陰 であ り 静 であ る と さ れ た た め 、 女 性 る こと が で き な いと さ れ て いた 。 儒 学 の方 でも 、 本 来 男 性 は 陽 であ 性 差 別 の問 題 であ る 。 仏 教 では 女 性 は 不 浄 な も の で、 女 性 は成 仏 す 庭 内 、 身 分 制 度 内 の教 育 の こと で はあ るが ) こと 。 も う 一つは、 女 か った 女 性 教 育 が 本 格 的 に行 な わ れ るよ う にな った ( も ち ろ ん、 家 らず や 。 行 が 当 時 の恋 歌 や 、 そ の源 泉 と な って い る ﹃源 氏 物 語 ﹄ や ﹃伊 勢 物 多 数 の ﹃女 大 学 ﹄ 類 に も 説 か れ て いる よ う に 、 淫 乱 な 女 性 は家 を 出 な こと が 考 え ら れ る。 一つは、 前 時 代 ま で ほと ん ど 行 な わ れ て いな 語 ﹄ を 快 く 思 って いな い こと は 、 明 白 であ る 。 慯 斎 、蕃 山、 素 行 の三者 は 、 いず れ も 現在 詠 ま れ る 恋 歌 を 非 難 の対 期 に多 く 見 ら れ る。 だ が 、 江 戸時 代 全 体 を 通 し て み ると 、 和 歌 は女 ﹁女 訓 書 ﹂ に お け る和 歌 批 判 、 恋 歌 非 難 は 、 一七 世 紀 中 期 から 後 な け れば な らな か った。 五倫 の中 で最 も 重 要 とさ れ た 夫 婦 関 係 を 乱 象 に し て い た。 後 に な る と、 益軒 が ﹃和 俗 童 子 訓 ﹄ で 述 べ た よ う な 性 の教 養 の 一つであ り、 心 を 和 ら げ るも の であ ると いう 見 方 の ほう これ ま で の検 討 結 果 か ら 、 江 戸 時 代 の恋 歌 非 難 は ﹁女 訓 書 ﹂ か ら 過 去 の恋 歌 、 古 歌 を も含 め た恋 歌 の非 難 へと変 化 し て い った。 こ の が 圧 倒 的 に 強 か った 。 と いう こ と は、 ﹁女 訓書 ﹂ の よ う な 非 難 は、 し た罪 は専 ら 女 性 に科 せ ら れ た ので あ る。こう いう わ け で、﹁ 女訓書﹂ よ う な 見 方 を す る と 、、 益 軒 の ﹃和 俗 童 子 訓 ﹄ や ﹃文 武 訓 ﹄ は、 そ 一七 世 紀 後 半 期 に 流 行 し た 主 張 で あ り、 そ の後 も 儒 教 を 信 奉 す る 始 ま った と 考 え ら れ る 。少 な く と も 一七 世 紀 に見 ら れ る恋 歌 非 難 は、 の 過 渡 期 の書 物 で あ る と いえ る だ ろ う 。 ﹃和 俗 童 子 訓﹄ で は 女 性 だ 人 々に 受 け 継 が れ た が 、 一般 的 に は む し ろ 和 歌 を 奨 励 す る 人 の方 が でも 恋 歌 が 問 題 にさ れ た の であ ろ う。 け が 非 難 の対 象 だ った のが 、 ﹃文 武 訓 ﹄ に 至 る と そう し た 限 定 は 消 多 か った と いう こと に な る 。 と り わ け 、 浄 瑠 璃 、 歌 舞 伎 芝 居 な ど が す べ て ﹁女 訓書 ﹂ と 呼 ば れ る も の の中 で 述 べら れ て いる。 そ し て、 滅 し て しま った 。 宝 永 から 享 保 年 間 (一七 〇 四∼ 一七 三 六) に恋 歌 118 恋歌観 の変遷②一江 戸時代 の言説 登 場 し、 興 隆 を 極 め た 後 は、 和 歌 よ り も む し ろ芸 能 に おけ る男 女 関 係 を 非 難 す る意 見 が 多 く な り、 和 歌 や 恋 歌 に対 す る非 難 は そ の背 後 に隠 れ て しま った 。 ◆ 恋歌 淫奔 論 - 崎 門学 派① 場斎 や 益軒 、 そ し て蕃 山 ら よ り も 一世 代 ほど 後 の儒学 者 に つい て け いさ い み こ ひ のう た ﹂が 見え る。 延宝 五年 (一六 七 七 )に 刊 行 さ れ た ﹃秋 吹草﹄ ( 寛 永 一五 年 ︿一六 三 八 ﹀ 成 立 ) 二 ﹁ 世 話 ﹂ に、 ﹁ひ ん のぬ す 貞 徳 門 下 の松 江重 頼 (一六 〇 二 ∼ 一六 八 ○ ) が 編 ん だ 俳 諧 書 、 ﹃毛 の盗 み に恋 の歌 ﹂ と いう のが あ る。 比較 的 早 い例 を あげ る と、 松永 る こと が 多 い。 日本 の文 人た ち が 好 ん で字 や 号 を 用 い た の に、 漢 学 用 さ れ る自 称 、 通 称 であ り、 号 は自 ら の信 条 や 住 居 にち な ん で つけ るよ う に、 直 方 は字 や 号 を 持 た な か った 。 字 は主 と し て友 人間 に使 子 学 者 で あ る 。 ﹃先 哲 叢 談 ﹄ に 、 ﹁ 直 方 、 字 号無 し ﹂と 述 べら れ て い 斎 き もん (一六 五 二 ∼ 一七 一 一)、 三 宅 尚 見 てみ よ う。 佐藤 直 方 (一六 五〇 ∼ 一七 一九 )は 、山 崎 闇 斎 (一六 一八 ∼ 一六 八 二 ) の 門 人 で 、 浅 見 絅 斎 の夜 の友 ﹄、 寓 言 子 ( 生 没 年 不 詳 ) の ﹃初 音 草 噺 大 鑑 ﹄ (元 禄 一 一年 者 ( 儒 学 者 ) であ る直 方 が 用 いな か った の は、異 例 な こと であ った 。 余 談 にな るが 、 一六世 紀 後 半 から 一七世 紀 初 頭 に で き た諺 に ﹁ 貧 ︿一六 九 人 ﹀ 刊 ) な ど に も こ の成 語 が 見 え る。 こ の諺 は、 貧 乏 に 苦 ﹃先 哲 叢 談 ﹄ に よ る と 、 直 方 二 一歳 の時 、 永 田養 庵 ( 生 没年 不詳) 國 し む あ ま り に 盗 み を 働 き 、 恋 に も だ え る あ ま り 歌 を 詠 む 、 と いう 意 を介 し て 山崎 闇斎 に会 い、 一旦 は 入 門 を 断 ら れ た も の の、 そ の後学 ﹁ 崎 門 の三 傑 ﹂ と 称 せ ら れ た 朱 味 だ 。 つま り は 、必 要 に 迫 ら れ れば 何 で も す る 、と いう意 味 にな る。 問 に 励 ん で ついに 闇斎 の門 人 と な った。 晩 年 、 闇斎 が 神道 に 傾 倒 す (一六 六 二 ∼ 一七 四 一) と と も に ﹁ 貧 ﹂と ﹁ 恋 ﹂、 ﹁ 盗 み﹂と ﹁ 歌 ﹂ が 対 に な って い る。 も う 少 し 大 き る に 至 り 、こ れ に異 議 を とな え、浅 見絅 斎 と と も に破 門 さ れ て い る。 うん ぞう ろく あざな く と れ ば ﹁貧 の盗 み﹂ と ﹁ 恋 の歌 ﹂ が 等 価 であ ると も いえ よ う 。 と だ が 、 最 終 的 に は 、 絅 斎 と と も に 崎 門 の朱 子 学 を 継 ぐ 人 物 と な った 圃 。 いう こと は 、 恋 の歌 、 も しく は詠 歌 行 為 が 民 間 に広 ま って いた の で 、 彼 の遺 文 集 ﹃韜 蔵 録 ﹄ ( 宝 暦 二年 ︿一七 五 二﹀成 立 )、﹃鰮 蔵 録拾 遺 ﹄ レ レ つ 公家 た ち に と って 重 要 視 さ れ て いた 恋 歌 は、 民 間 で は評 価 が 低 く 、 ( 宝 暦 四 年 ︿一七 五 四﹀成 立 )に何 箇 所 か 恋 歌 に 関す る 記述 が 見 え る。 と 窮 した 時 、 や む にや ま れ ぬ気 持 ち から 詠 ま れ る も のと 認識 さ れ て い ま ず 、 ﹃鯉 蔵 録﹄ に は 、 あ り 、 ﹁貧 の盗 み ﹂ と 同 じ よ う に 蔑 ま れ て いた と 見 る こと も でき る 。 たら し い。 和 歌 二恋 歌 ガ 一ヨイ ト 云 ノ類 埒 モナ イ コトゾ 。 ( 中 略)世上 ノ 四 性 が 果 し てあ る のか ﹂ と い った も のだ 。 後 者 は 、 ﹁ 恋 歌 に 名 歌 はあ 為 か。 恋 を す る た め か。 私 に は どう も 理解 でき な い。 歌 であ る 必然 ニナ ル 。 タ マ 玉 ノ 緒 ヨ タ ヘナ バ タ ヘネ ト 云 ハ、 ナ ン ノ ヤ ク ニ立 るけ れ ど す べ て ﹃ハラ ミ句 ﹄ だ 。 自 然 に出 た も の でな け れ ば 本 性 で イ 呂 ハ歌 ハ マダ モ 朝 ヲ キ セ ヨ ト 云 コト ナ リ ト 、 コ レ ハ人 倫 ノ 助 ヌ 。 業 平 ガ 、 妻 モ コ モ レ リ 我 モ コ モ レ リ ヤ 、 マタ ハ人 ノ ム サ ハ はな いそ ﹂ と いう も のだ 。 こ こ にあ る ﹁ハラ ミ句 ﹂ と は、 連 歌 ・俳 と いう 記述 があ る。 こ れ は享 保 己亥 の年 、 す な わ ち 享 保 四年 (一七 る と 考 え て いる こと だ 。 吉 田 健 舟 に よ る と 、 直 方 は ﹁情 緒 に 流 さ れ 一つは 、 恋 歌 は ま った く 役 に 立 た な いも の で、 不 必 要 な も の であ マ ン コト ヲ シゾ 思 フ 、 ト ヨ ム 妹 ノ コト ヲ ヨ ミ タ 歌 、 サ テ サ テ 大 倫 諧 で、 前 も って考 え てお いた 句 の こと を いう 。 一九 ) 一 一月 一〇 日 の講 義 に お け る直 方 の発 言 であ る。 直 方 は、﹁ 和 る こと を 尤 も 嫌 った 人 物 で あ った ﹂ と いう 。 そ し て ﹁そ の面 目 を 躍 マ ニヲ イ テ ヨ イ ハリ ツ ケ 道 具 ゾ 。 歌 に お い て恋 歌 が 一番 よ いと いう こと は根 拠 のな い こと で、 い ろ は 如 た ら し め る大 事 件 が 、 元禄 十 五 年 の十 二 月 に 起 き た 吉 良 邸 討 入 ﹂ これ ら の記 事 か ら 、 直 方 の恋 歌 論 の特 徴 を 二 つ挙 げ てお こう 。 歌 な ら ま だ 人 倫 の役 に立 つが 、 式 子内 親 王 の歌 ﹃玉 の緒 よ ⋮﹄ な ど で あ り 、 ﹁こ の 事 件 に 対 し 、 世 間 は 一斉 に 同 情 論 を 展 開 し た が 、 いま ]つは、 作 為 的 な 態 度 を 嫌 って い る こと だ 。 先 に述 べた よ う 理 のな い情 緒 的 な 見方 は納 得 でき な いも の であ った 。 す な わ ち 、 慣 習 であ ると か、 恋 歌 こ そ和 歌 の本 質 であ ると い った論 に情 を 交 え な い と いう 彼 の厳 格 な 態 度 は、 恋 歌 論 に も 表 れ て いる 。 な い と 論 断 し た のが 、 す な わ ち 直 方 で あ った ﹂ と いう 。物 事 の判 断 四 十 六 士 は忠 臣義 士 に あ らず 、 か え って 国 法 を 犯 し た 犯 罪 人 に 過ぎ の恋 歌 は罪 と な るも のだ ﹂ と いう のだ 。 激 烈 な 筆 誅 であ る。 ま た 、 ﹃轤 蔵 録拾 遺 ﹄ に は、 ○ 公 家 恋 ウ タ ヨ ム ハ何 為 ゾ 。 恋 ヲ ス ル タ メ カ 。 ド ブ モ シ レ ヌ コト 之 。 歌 デ ナ ラ ネ バ コソ ママ ○ 恋 歌 二名 歌 ハ ア レ ド モ 、 皆 ハラ ミ 句 ジ ヤ 。 フ ツ ト 出 タ テ ナ ケ レ 岡 と いう 二 つの言 説 が 見 ら れ る。 前 者 は 、 享 保 二 年 (一七 一七 ) 九 月 も のに しか 本 性 が 表 れ な いと 直 方 は 考 え て い る。 朱 子 学 に は ﹁ 人欲 いう が 、 恋 歌 は皆 そ れ であ ると 断 定 し、 思 いや 言 葉 が 自 然 に湧 いた バ本性デ ナイゾ 二 四 日 、 後者 は 翌 年 四 月 朔 日 (一日) の記事 で あ り 、 いず れ も 直方 を 去 って 天 理 に つく ﹂、 つま り 人 は道 徳 的 修 養 を つん で気 質 の濁 り に、 ﹁ハラ ミ句 ﹂ と は 、 連 歌 ・俳 諧 で、 前 も って 考 え て お いた 句 を の講 義 録 に収 載 さ れ て い る。 前 者 は 、 ﹁公 家 が 恋 歌 を 詠 む の は何 の 120 恋歌観の変遷 ②一江戸 時代 の言説 り 、 ﹁聖 人 、 学 ん で 至 る べ し﹂ と いう よ う に、 人 は 本 然 の性 を 内 在 を 除 去 し 、 本 然 の性 を 発 現 さ せ な け れ ば な ら な いと い った 考 え が あ が窺 え る。 宝 永 三年 (一七 〇 六)成 立 の ﹃剳 録 ﹄ (別名 ﹃講 習余 録﹄) も、 敢 へて禄 仕 せ ず ﹂と あ り 、 そ の厳 格 で潔 癖 な 人物 で あ った こ と 毎 に新 た に質 を 列候 に委 ぬ る を 以 て潔 し と為 さ ず 。 故 に貧 甚 し と雖 生 き 方 を す る こと が 理 にか な った 人 間 本 来 の生 き 方 な の であ る。 一 氏 物 語 ﹂ 皆 其 習 シ ヲ 承 テ 、 タ ワ シ キ 教 ノ 第 一ナ レ ド 、 歌 読 人 ノ 恋 ノ 歌 モ 夫 婦 ノ 教 ノ 損 ヌ ル ハ是 ヨ リ 始 コト ニテ 、﹁伊 勢 物 語 ﹂﹁源 側 し て いる 以 上 、 誰 に でも 道 徳 的 修 養 を 通 し て聖 人 に な り う る と 考 え と いう書 物 に 次 のよ う な 言葉 が 見 え る。 方 、 気 にも と つ く 性 の こと を 気 質 の性 と い い、 これ にも と つ く 心 を 大 切 ノ 書 ト ア シ ラ ヒ 、 相 伝 コト ト 伝 テ モ テ ハヤ ス コ ソ 、 イ ミ ジ さ つろく る 。 本 然 の性 (つま り 本 性 ) と は 、 理 に も と つ く も の であ り 、 本 然 ﹁人 心 ﹂ と し、 利 欲 や 悪 い 心 な のだ と い う。 こ の 気 質 の性 は食 欲 、 カ ラ ヌ コト ナ レ 。 の性 に も と つ く 生 き 方 を ﹁ 道 心 ﹂ と いう 。 そ し て、 そ れ に かな った 性 欲 な ど の動 物 的 な 性 と 見な さ れ、 生 き て いく た め に は 必 要 か も し て いる と は考 え ら れな いも ので あ った。 彼 の、 物事 の判 断 に情 を 交 恋 歌 と は、 所 詮 ﹁人 心 ﹂ を 表す も ので あ って、 本 然 の性 が そ こに 出 ン ト ロー ルしな け れば な らな いと朱 子学 で は教 え る。 直 方 に と って も て囃 し て い る の は馬 鹿 げ た こと であ る﹂ と いう 。 る の に、 歌 人 た ち はそ れ ら を 大 事 な 書 と し て扱 い、 相 伝 の為 と し て な ど に見 え る男 女 の習 慣 を 受 け 継 い で、 ふ しだ ら な 教 え の第 一であ ﹁ 夫 婦 の教 え を損 ね る 原 因 は 恋 歌 に あ り 、﹃伊 勢 物 語 ﹄、﹃源 氏 物 語﹄ れ な いが 、 聖 人 にな ろう とす る に は ﹁人 心﹂ を ﹁ 道 心﹂下におき コ えな い態 度 、 そ し て 本然 の性 、 す な わ ち道 心 を 重 視 す る 朱 子 学 的 思 浅 見 絅斎 は 、 直 方 と と も に ﹁崎 門 の三 傑 ﹂ と よ ば れ た 人 物 で、 直 一二 月 二 一日 ま で 一七 回 に 亘 る 講述 の余 話 四 九条 を 門 人 が筆 録、 編 で あ る。 ﹃剳 録 ﹄ は 、 そ の序 に あ る 如 く、 宝 永 三 年 九 月 二 六 日 から 絅 斎 の こ の発 言 は 、 宝 永 三 年 一 一月 五 日夜 の講 義 に お け る も の 方 の弟 弟 子 に あ た る 。 近 江 国 高 島 郡 大 田村 に 生 を う け 、 一時 高 島 良 集 し た も ので あ る。 絅斎 五 五歳 の時 の講義 録 だ。 こ の書 に 見 ら れ る 考 に よ って 恋 歌 が 非 難 さ れ た の であ る。 順 と 称 し医 を 業 と し て いた が 、 延 宝 五 年 (一六 七 七 ) 頃 、 直 方 と 同 一つは 、 恋 歌 が 夫 婦 の道 を 損 な う 原 因 と な る と いう ので あ り 、 も 非 難 の内 容 は、 次 の二点 で あ る。 錦 陌 講 堂 と いう 塾 を 開 い て いた 。 そ の講 義 の厳 しさ は 山崎 闇 斎 以上 う 一つは、 歌 人 に と って 必 須 で あ った ﹃伊 勢 物 語 ﹄ と ﹃源 氏 物 語 ﹄ じ く 永 田養 庵 の勧 め で山 崎 闇 斎 に入 門 した 。 京 都 錦 小 路 高 倉 西 入 に であ った と いわ れ る 。﹃先 哲叢 談 ﹄ に も ﹁ 絅 斎 、人 と為 り慷 慨 に し て、 121 子 ・君 臣 ・夫 婦 ・長 幼 ・朋友 と いう 五 つの基 本 的 人間 関 係 ) の 一つ 者 は儒 学 に お い て、 常 に保 持 し、 実 践 す べき 道 徳 とさ れ る 五倫 (父 が ﹁タ ワ シキ ﹂ (み だ ら な ) 教 え に ほ か な ら ぬ と いう の であ る。 前 ﹃伊 勢 物 語 ﹄、﹃源 氏 物 語﹄ 観 と 恋 歌観 の間 に は 強 い相 関 性 が あ り 、﹃詩 と ﹃源 氏 物 語 ﹄ であ り 、﹁恋 歌 ﹂ であ った 。 ﹃詩 経 ﹄ ( 特に ﹁ 国 風 篇 ﹂)、 れ る よ う に な った 。 と り わ け 我 国 で問 題 に な った のが 、 ﹃伊 勢 物 語 ﹄ ん に な る に つれ て、 こ のよ う な 文 学 観 を め ぐ って様 々な 議 論 が な さ と も あ れ 、 佐 藤 直 方 、 浅 見絅 斎 と いう 初 期 崎 門 学 派 を 代 表 す る 二 であ る夫 婦 間 の倫 理を 、 恋 歌 が 乱 し て い ると 絅 斎 は言 う のだ 。 後 者 恋 歌 を 考 察 の対 象 と し て いる 本 書 では 、 後 者 は当 面 の問 題 で はな 人が 恋 歌 に対 し、批 判 的 な 意 見 を 持 って いた こと が 明 ら か に な った 。 経 ﹄、 ﹃伊 勢 物 語﹄、 ﹃源 氏物 語﹄ を ど う 見 て いる か で、 恋 歌 に 対す る い の で 詳細 な 検 討 は控 え る が 、 恋 歌 への評 価 と 、 ﹃伊 勢 物 語﹄、 ﹃源 佐 藤 直 方 、 浅 見 絅 斎 の よう に、 崎 門 学 派 に おけ る恋 歌 批 判 が 講 義 は、 ﹃伊 勢 物 語﹄、 ﹃源 氏物 語﹄ が、 風 俗 を紊 乱す る書 物 で あ る のに、 氏 物 語 ﹄ への評 価 に は 密 接 な 関 係 が 見 ら れ る 。 後 の時 代 、 特 に 幕 末 録 に の み残 さ れ て い る こと は留 意 し てお く べき だ 。 崎 門 学 派 は講 義 各 人 の考 え 方 もあ る程 度 は推 測 で き る。 や 第 二 次 世 界 大戦 時 下 で は ﹃源 氏 物 語﹄ が 天 皇 を 冒 涜 す る 物 語 であ を 最 重 要 視 し て いた から 、 恋 歌 問 題 は看 過 でき な い非 常 に重 要 な 問 人 々が 珍 重 し て い る こと を 非 難し て い る。 る とさ れ、 恋 歌 に 対 す る 評価 と は 一線 を 画 す こと に な る が 、. それ以 題 であ った の であ る。 ㈹ 前 は、 こ の両 物 語 への評価 と、 恋 歌 への評価 は連 動 す る も ので あ っ た。 に は恋 の詩 が 少 な から ず あ る。 こ れが 淫 詩 であ る の か 否 かを め ぐ つ いう こ とも 恋 歌 観 と 密 接 に関 係 し て いる。 五経 の 一つであ る﹃詩 経 ﹄ 生 き た 正親 町 公通 (一六 五 三∼ 一七 三 三) は、 ﹃正 親 町 公 通 卿 口授 ﹄ 意 見 を 持 って いた か と いう と 、 そ う で はな か った 。 彼 ら と 同 時 代 を で は、 崎 門 学 派 と 呼 ば れ る 人 々が 皆 、 恋 歌 に 対 し 彼 ら と 同 様 の ◆ 恋 歌 淫 奔 論- 崎 門 学 派 ② て度 々議 論 が な さ れ てき た 。 朱 子学 の大 成 者 であ る朱 熹 (一 一三 〇 ﹁和 歌 極 々伝 ﹂ の中 で ﹁和 歌 は恋 慕 の情 出 る が 恋 の情 也 。 そ こ で 好 と り わ け 、 儒 学 者 に つい て いえ ば 、 ﹃詩 経 ﹄ を ど う 見 て い る か と ∼ 一二 〇 〇 ) は、 淫 詩 であ る と し た 。 す な わ ち 、 ﹃詩 経 ﹄ の中 の道 色 は 悪 き と 思 ふ は 後 の事 也 ﹂ と 述 べ て い る 。ま た 玉 木 正 英 (一六 七 きん みち 徳 的 な 詩 は、 人 の善 心 を 刺 激 し て善 道 に いざ な う が 、 不道 徳 な 詩 は 〇 ∼ 一七 三 六 ) も 享 保 一〇 年 (一七 二 五 ) 頃 の 成 立 と さ れ る いつ 猥 ら な 心 を 戒 め るた め にあ る、 と 判 断 した のだ 。 こ の よう な 文 学 観 ﹃玉 籤 集 ﹄巻 四 ﹁ 和 歌 之 伝 ﹂に お いて、﹁ 恋 の歌 は殊 に 情 を 深述 る者 也 、 ぎょくせんしゅう は、 いわ ゆ る ﹁ 勧 善 懲 悪 ﹂ の文 学 観 であ るが 、 日本 で は朱 子学 が 盛 122 ● 恋歌観の変遷②一 江戸時代の言説 続 く 堂 上 歌 人 たち の意 見 と ほぼ 同 じ であ る。 る、 と いう こと だ 。 神 道 に傾 倒 し て い ったグ ルー プ は、 前 時 代 から し て い った グ ル ー プ は恋 歌 に 対 し 和 歌 の本 質 で あ る と 認 定 し て い プ は恋 歌 に対 し ても 否 定 的 な 見解 を 示 し、 そ れ に 対 し、 神 道 に傾 倒 こと は、 同 じ崎 門 学 派 でも 朱 子学 的 な 考 え を 強 固 に主 張 す るグ ル ー 公 通 、 正英 の 二 人 は垂 加 神 道 の信 奉 者 であ った 。 こ れら から わ か る も 情 に 浮 む こと を 、 ま す ぐ に 言 葉 に出 す は 祓 也 ﹂ と 明 言 し て い る 。 歌 は感 情 あ る所 を 第 一と す る也 、 感 情 な き歌 は歌 に非 ず 、 扨 何 に て 解 であ る 。 崎 門 学 派 と い っても 神道 に 感 化 さ れ た 人 々は 、 恋 歌 を 擁 歌 に 批 判 的 な 態度 は と ってお ら ず 、 む しろ 垂 加 神 道 の人 々と 同 じ 見 筋 ト 思 フ ハワケ モナ イ コト ゾ 。 其 ノ シ ミジ ミガ スグ ニ道 理ゾ ﹂と 恋 書 二恋 ノ部 ヲ 立 ツ ルト 云 フガ 此 ノ筋 ゾ 。 是 ヲ知 ラ ズ ニ男 女 ノ情 欲 ノ 強 斎 (一六 七 九 ∼ 一七 三 二 ) は 、 ﹃強 斎 先 生 雑 話 筆 記 ﹄ の中 で ﹁歌 高弟 、 す な わ ち朱 子学 者 で あ り 、 同 時 に 垂 加 神道 家 で も あ った 若 林 で は な く 、個 々人 に よ って意 見 が 異 な って いた 。 た と え ば 、 絅斎 の 対象 に さ れ た 可 能 性 は あ る。 が 、 そ の批 判 は 必 ず し も 統 一的 な も の 神 儒 兼 備 の人 で あ り、 晩 年 に な る ほ ど 神道 に傾 倒 し た こ と か ら推 す い。 闇 斎 は 朱 子学 者 で あ ると 同時 に 、 垂 加 神 道 の創 始 者 で あ った 。 い て どう 考 え て い た の か は、 残念 な が ら まだ 正確 に 把 握 で き て いな 主 張 し て い る か ら で あ る。 ち な み に 彼 ら の師 、 山 崎 闇斎 が 恋 歌 に つ い る の に 対 し、 後 者 は 和歌 の本 質 と いう こ と を論 旨 の中 心 に据 え て い。 前 者 が 、 ﹁人 間 性 の獲 得 ﹂ と いう 目的 に お い て恋 歌 を 糾 弾 し て グ ルー プ で は 論 点 が ず れ て い る こと に 注 意 を 払 わ な く て は いけ な ハセ マヒ事 ゾ ﹂と述 べ、 恋 よ り も 礼 を 重 要 視 す る態 度 を 明 ら か に し コト ゾ 、 ト 云 コト ゾ 。 シカ レバ 、 万事 ニツイ テ礼 ニ ハズ レタ ル コト 年 に成 立 し た と いう ﹃春 鑑 抄 ﹄ の中 で、 ﹁ 礼 ハ恋 ノ道 ヨリ モ大 切 ナ れ ど も 、 林 羅 山 (一五 八 三 ∼ 一六 五 七) は 、 寛 永 六 年 (一六 二九 ) 儒 学 が 広 い学 術 的 知 識 を 得 る こと を 目 的 と し て いた か ら だ ろ う 。 け ら が 本 当 に 恋 歌 に つい て何 も 語 ら な か った と す れ ば 、 そ れ は林 家 の 学 者 た ち の恋 歌 に 関 す る 発 言 や 記 述 は 、 今 のと ころ 見 出 せ な い。 彼 と ころ が 、 同 じ 朱 子 学 者 と い っても 林 家 や そ の指 導 を う け た 朱 子 護 す る 立 場 に あ った と 考 え てよ さ そ う であ る 。 と、 恋 歌 に 対 し て あ か らさ まな 非 難 は行 な わ な か った ので は な いだ て い る。 さ ら に、 寛 文 二年 た だ し、 朱 子学 的 な 考 え を 主 張 す るグ ル ープ と、 神 道 に傾 倒 し た ろ う か。 こ のよ うな 闇斎 の二 面 性 ( 朱 子学 者 と し て の 一面 と 神道 者 集 ﹄ 巻 第 二四 にお け る ﹁ 色 の 論 ﹂ で も 、﹁ 男 女 の 道 、大 欲 あ り て 存 す 。 (天 の授 け た も の1 筆 者 注 ) な り 。 し か も こ こ に 荒 み 、こ こ に 淫 る 。 こ れ 甚 だ 戒 む べ し ﹂と 言 っ て い る 。 ㈲ と し て の 一面) が、 異 な る 二 つ の批 評 を な さ し め た 原 因 で あ った と し か も 人 情 の 常 に し て 、ま た 天 叙 (一六 六 二 ) に 成 立 し た ﹃羅 山 林 先 生 文 思 わ れ る。 話 を 恋歌 に 戻 そ う。 彼 ら のグ ループ に お いて 恋 歌 が 幾度 か 非 難 の 123 人 で も あ った 平 間 長 雅 (一六 三 六 ∼ 一七 一〇 ) は ﹃新 古 今 七 十 二首 秘 歌 口訣 ﹄ (元禄 = ハ年 ︿一七 〇 三﹀ 成 立 ) に お い て、 次 の よ う に 当 然 の こと な が ら 恋 あ る い は色 欲 と い った も の に対 し て決 し て よ い 印 象 は抱 い て いな い の は明 ら かだ 。 した が って講 義 の中 で は恋 歌 非 反 論 し て いる。 学 観 ﹂の中 で彼 ら 朱 子学 者 たち の文 学 観 と し て次 の三点 を 指 摘 し た。 し。 そ れ を 歌道 に う と き儒 仏者 、 和 歌 は妄 想 な り な ど と あざ け 惣 じ て 撰 集 に も 諸 家 の家 集 に も 四 季 雑 の歌 よ り 恋 の 歌 抜 群 多 ﹁ 幕 初 宋 学 者 達 の文 第 一は ﹁ 載 道 説 ﹂ で、 最 も 大 事 な の は道 徳 の究 明 と 実 践 で、 文 は そ る、 尤 愚 也 。 赤 白 二 躰 よ り生 ズ ル人 い か で か 恋 の 心 を 離 れ ん 。 (一九 一 一∼ 一九 九 八 ) は 難 を し て いた 可 能 性 も あ り、 注 意 し て おく 必要 が あ るだ ろう 。 ゆき ひ こ か つて、 中 村 幸 彦 の末 端 の技 と し てそ れ ら を 載 せ て運 ぶ 乗 物 のよ う な も の であ る、 と 二 百 五 十戒 の比 丘 も 五 百戒 の比 丘 尼 も 心 に きざ 峯ぬ と いふ事 な ㈲ いう も の。 第 二 は ﹁ 勧 善 懲 悪 説 ﹂ で、 文 は勧 善 懲 悪 の意 図 を 持 って し。 さ れば 戒 律 と いふ事 あ り。 恋 を も て 恋 を し めす の理 顕然 た に 基 づ く 見 方 が 強 い こと は 明 白 であ る 。 た だ し 、初 期 の朱 子学 者 は、 歌 に 限 定 す る と 、中村 の いう第 二 の文学 観 、す な わ ち ﹁ 勧善懲悪説﹂ 恋 歌 に つい ても ) を 、 何 ら か の意 味 で意 識 した も の であ る。 話 を 恋 と も 明 治 中 期 ま で) は 、 朱 子 学 者 た ち が 主 張 し た 文 学 観 ( もちろん いが ち であ る、 と いう も の であ る 。江 戸 時 代 以 降 の文 学 観 ( 少なく 心 を 催 さ な いと いう こ と はな い。 だ か ら こ そ戒 律 と いう も のが あ る る こ とが でき よう か。 二 五 〇戒 の比 丘 も 五 〇 〇戒 の比 丘 尼 も 心 に 恋 ( 男 女 の こと ) から 生 ず る と いう 人 間 は 、 ど う し て 恋 の心 か ら 離 れ な ど と い って 馬鹿 にす る。 そ れ は最 も 愚鈍 な 行 為 で あ る。 赤 白 二体 い。 そ れ に 対 し歌 道 に疎 い儒 者 や 仏教 者 たち は、 和 歌 は妄 想 で あ る ﹁ 撰 集 に も 諸 家 の家 集 に も 四 季 や 雑 の歌 よ り も恋 の歌 が 抜 群 に多 り 。 繍 作 ら れ、 そ のよ う な 意 図 の下 で読 ま れ る べき で あ る 、 と す るも の。 第 三 は ﹁玩 物 喪 志 説 ﹂ で、 文 を 作 る の はあ く ま でも 末 端 の技 であ る ﹁ 懲 悪 ﹂ の点 も含 め て恋 歌 を も教 訓 歌 と し て 用 い て い る のだ が 、 江 ので あ って、 恋 を 以 て恋 を 示す のは 当 然 の こ と だ ﹂ と 長 雅 は 言 う 。 が 、 そ れ に 溺 れ てし ま って人 間 本 来 の目 的 であ る道 徳 実 践 の志 を 喪 戸 も 後 期 に な る と 、 こう した 見 方 で恋 歌 を 考 え る 論 調 は しだ いに 少 う 。 ただ し、 そ こ に は宗 教 的 な 考 え も 入 って いる よう で あ る。 お そ 長 雅 は 二条 派 の歌 人 で あ った。 恋 歌 擁 護 は歌 人 で も あ った か ら だ ろ こ こに 挙 げ た 儒 者 た ち の恋 歌 批 判 に 対 し、 歌 人 た ち が た だ 黙 視 し ら く そ れ は密 教 的 な 考 え 方 で はな いか と思 わ れ る。 た し か に恋 歌 を な く な ってく る 。 て いた わ け では な い。 た と え ば 、 松 永 貞 徳 の弟 子 で、 望 月 長 孝 の門 124 恋 歌観の変遷②一江戸時代の言説 非 難 し て詠 ま せ な いよ う に し よ う と す る 儒 学 者 や 一部 の仏 教 者 た ち も いた が 、そ う いう 主 張 を ﹁尤 愚 ﹂と 考 え る歌 人た ち も いた の であ る。 ◆ 三輪 執 斎 と いう 私 塾 を 開 設 し、 多 く の門 人を 集 め た と いう 。 ﹃執 斎 和 歌 集 ﹄ は 元 禄 六 年 (一六 九 三 ) か ら 元 文 六 年 (一七 四 こ の詠 草 を 集 め た も の であ る。 そ の中 の宝 永 四年 (一七 〇 七)詠 草 ﹁ 恋 の学 派 の人 々は ど んな 考 え を も って いた のだ ろ う か。 これ は 、 これ は い ひけ ら し。わ が 孔 子 の道 に は いた く つ㌻し む べ き 事 に な ん 。 恋 の歌 は仏 のお し へに はさ ま た げ な しと かや 、 か の法 の古 き 師 五首 ﹂ に、 次 のよ う な 長 い詞 書 が つい て い る。 ま で採 り 上げ た朱 子学 者 たち と の違 いを 明 確 に す る た め に も 、 ぜ ひ 心 も し これ を お かさ ば 、 お それ て いま しむ べ し。 な く て い ひ出 こ れ ま で は、 儒 学 者 の中 で も朱 子学 者 を 中 心 に 述 べ てき た が 、 他 と も論 じ て お かな け れば な らな い。 以 下、 陽 明学 派、 古義 学 派、 古 ん 事 は偽 を な ら ふ と や 。 い はん こと ば を 修 て誠 を 立 る の道 にあ よ り て いま しめ を の べ侍 ら ん も 此 か た の 一く さ に も や と て ㈹ ら ず 。 さ れ ど 今 題 さ ぐ り て は、 いわ でも や み かた け れ ば 、 是 に ママ 文辞 派 の順 に述 べ る。 まず は、 陽 明学 者 に つ いて で あ る が、 彼 ら は基 本的 に 恋 歌 に つい て は 語 る こと が 少 な い。 彼 ら の考 え 方 は、 あ く ま で も自 分 の心 に い だ いた 考 え イ コー ル ﹁ 良 知 ﹂だ か ら、 朱 子学 者 たち よ り も物 の見方 そ う 言 った と か 。 我 が 信 奉 す る 孔 子 の教 え では 、 恋 歌 は 厳 しく 慎 む ﹁恋 の歌 は仏 の教 え を 妨 げ る も の で はな い。 いに しえ の 仏 教 者 は ま た 、 朱 子学 者 たち のよう に 人欲 を 厳 し く非 難 し た り は しな いか べき も の であ ろ う 。 た と え 心 の中 であ れ 、 こ の教 え を 犯 す こと が あ の自 由 度 が 高 い。 ら 、 恋 歌 も 思 考 対象 の圏 外 にあ った のか も し れな い。 け れ ど も、 恋 立 てる 道 では な い。 し か し な が ら 、 歌 会 に お い て探 り 題 で恋 歌 が 当 れ ば 、 戒 め な いと いけ な い。 心 に も な い こと を 詠 む こと は、 嘘 を つ 三輪 執 斎⋮( 希 賢 : 一六 六九 ∼ 一七 四 四) は、 京 都 に生 ま れ、 貞 享 た り 、 詠 ま ざ る を え な い こと が あ る か ら 、 恋 歌 で戒 め を 述 べる のも 歌 に つい て全 く 語 って いな いわ け で はな い。 陽 明学 者 と し て、 三輪 四年 (一六 八 七 ) に江 戸 に出 て、 佐 藤 直 方 に師 事 し たが 、 しだ いに 歌 の道 のあ り よ う では な いか 、 と 思 って詠 ん でみ た ﹂ と いう く ら い く こと を 習 う こと では な いか 。 何 を 言 う べき か 、 言 葉 を 選 び 、 誠 を 朱 子学 か ら 離 れ 陽 明 学 に 傾 倒 し た。 な か でも 、 中 江 藤 樹 を 尊 崇 し 、 の意 味 で あ ろ う か 。 執 斎 を と り上 げ て み よう 。 そ れ が 原 因 で直 方 に破 門 さ れ た (三 〇歳 前 後 )。 後 に江 戸 に ﹁明 倫 堂 ﹂ 125 執 斎 は こ の文 章 の後 に、﹁ 寄 山恋 ﹂、﹁寄 海 恋 ﹂、﹁ 寄 木 恋﹂、﹁ 寄 草 恋 ﹂、 ﹁寄 石恋 ﹂ を そ れ ぞ れ 二 首 ず つ載 せ て いる。 そ の和 歌 に つい て は後 述 す ると し て、 引 用 文 の内 容 を 見 て お こう 。 ま ず 、 初 め の部 分 であ るが 、恋 歌 が 仏道 に 妨 げ な し と し た 法 師 が 誰 か は 判 然 と し な い。 が 、 慈 円あ た りを 指 し て いる のかも しれ な いと いう 予想 は つく 。 それ に い。 こ の時 の詠 草 は 、 いず れ も 教 誡 的 な 歌 ば か り で あ る 。 と こ ろ が 、宝 暦 六 年 (一七 〇 九 ) 以降 の詠 草 で は そ の教 誡 臭 が 消 え る。 例 え ば 、 宝 永 六 年 の ﹁寄 車 恋 ﹂ と いう 題 詠 、 こと ﹂ と いう のは非 常 に重 要 な 概 念 であ る ので、 こ れ は儒 学 の教 え と が 大 切 な 要 素 と な って い る。 儒 教 に限 ら ず 仏 教 でも 神 道 でも ﹁ま い。宝 永 四年 の詠 草 が 、何 か 特 別 な 意 図 を も つて詠 ま れ た も の であ っ に 、 彼 の恋 歌 観 に 変 化 が 生 じ た のか 否 か は 、 に わ か に は 判 断 し に く な ど は 、 先 に 挙 げ た 二 首 と か な り 趣 を 異 に し て いる 。 こ の 二年 の間 た か か た に 心 ひ か れ て を く る ま のう し や 契 のま た か は る ら む に 限 った こと で はな い。 こ の時 、 執 斎 は 三九 歳 であ る。 恋 歌 を 真 心 た 可 能 性 も あ る 。 そ う し た 真 心 を 伝 え た い相 手 が 執 斎 に 出 来 た のか 続 く 部 分 が 、 執 斎 自 身 の考 え であ る。 こ こ でも ﹁ ま こと ﹂ と いう こ で も つて詠 めな か った の か も し れ な い。 も し あ く ま でも ﹁ま こ と ﹂ も し れ な い。 で統 一す る ) に つい て見 て みよ う 。 こ こ で は、 伊 藤 仁 斎 を と り 上 げ 次 に 、 古 義 学 派 (﹁堀 川学 派 ﹂ と も いう が 本 書 で は ﹁古 義 学 派 ﹂ ◆ 伊藤仁斎と伊藤東涯 を 守 ろう とす る のな ら、 恋 す る相 手 が いな いと恋 歌 は詠 めな くな る か らだ 。 す で に 三九 歳 にな った執 斎 に は そう い った感 情 はな く、 恋 歌を ﹁ 教 誡 の端 ﹂と す る こと を 唯 一の目 的 と し て詠 ん だ の であ ろ う 。 そ れ で は、 彼 が実 際 に詠 んだ 歌 は、 ど のよ うな も ので あ った のだ ろ う か。 ﹁ 寄 海 恋 ﹂ 二首 を 見 てみ よ う 。 て論 じ る 。 仁 斎 は 、 朱 子 学 が 仏 教 や 道 教 の影 響 を 受 け てお り 、 孔 子 が 説 こう と した 儒学 と は ほど 遠 いと 批 判 した 。 そ し て孔 子 の思 想 が す べ て ﹃論 語 ﹄ にあ ると し、 ま た ﹃孟 子 ﹄ を そ の血 脈 を 受 け 継 いだ 寄海 恋 一夜 た に あ は ︾と た れ も 思 ひ 川 末 は 底 な き 海 と な る も のを も のと し て定 義 し、 こ の 二 つに よ って 古 に 復 す る こと を 主 張 し た。 ﹁仁 ﹂ を 愛 と解 し て そ れ を 理 論 の中 心 に す え た。 朱 子 学 が ﹁本 然 の性 ﹂を 回 復 す る た め に無 欲 や 静 を尊 ぶ のに 反 対 し 、 く ひ に た に か は か ぬ も のよ 恋 衣 涙 の海 に し つみ は て ﹄は いず れ も 恋 歌 と は いう も の の、 教 訓的 な 歌、 つま り ﹁ 道 歌﹂に近 126 恋歌観 の変遷②一江戸時代の言説 な か った 。 そ の理 由 と し て は、 二 つの理 由 が考 え ら れ た。 一つは、 第 一章 で 見 た よ う に 、 仁斎 の ﹃古学 先 生 和 歌 集 ﹄ に は 恋 歌 が 全 く も の であ る 。 歌 四種 高 妙 ﹄ は 元禄 一 一年 (一六 九 八 )、 仁 斎 七 二歳 の時 に 成 った 一観 が 最 も 顕 著 に出 て い る部 分 であ る。 ち な み に こ の序 が 載 る ﹃和 る 文 章 が ﹃語 孟 字 義 ﹄ と いう 書 物 に あ る。 そ こに は、 では 、 彼 の詩 観 と は ど のよ う な も のか 。 詩 に 対 す る 考 え 方 が わ か 図 老 い の慰 み事 と し て始 め た 和 歌 で あ る か ら 、 恋 歌 を 詠 も う と は 思 わ な か った と いう 理 由 で あ り、 いま 一つは、 公 にさ れ る も のに は 、 恋 情 と い った も のを 吐露 す る も ので はな いと いう中 国的 な 規範 が 仁斎 詩 を 詠 む の法 、 善 な る 者 は も って人 の善 心 を 感 発 す べし 、 悪 な の脳裏 に あ った と いう 理由 で あ る。 で は、 仁 斎 は実 際 のと こ ろ、 和歌 を ど のよ う に考 え て いた ので あ る 者 は 亦 も って人 の逸 志 を 懲 創 す べ しと 、 固 な り 。 し か れ ど も いか ん と いう に 在 り 。 け だ し 詩 の情 、 千彙 万 態 、 いよ いよ 出 で まこと ろう か。 どう や ら 仁 斎 は、和 歌 を 詩 と 同 じ よ う に 考 え て いた よ う だ 。 は こと 詩 の用 、 も と 作 者 の本 意 に 在 ら ず し て、 読 む 者 の感 ず る と ころ いつ ﹃古 学 先 生 文 集 ﹄ 巻 の 一、 ﹁和歌 四種 高 妙 の序 ﹂中 に あ る、 みなもと ひく て いよ いよ 窮 ま り 無 し 。 高 き 者 は これ を 見 れ ば 、 す な わ ち これ 和 歌 と 、 源 を 一に し て 派 殊 に 、 情 同 じ ゅ う し て 用 異 な り 。 詩 ㈲ が た め に 高 く 、 卑 き 者 は これ を 見 れ ば 、 す な わ ち これ が た め に お いち いちふ んこ う あい な 故 に 和 歌 の説 を も つ て 、 こ れ を 詩 に 施 せ ば 、 可 な ら ざ る と こ ろ かん 卑し。 な じょう 靡 し。 詩 の評 を も って、 これ を 和 歌 に推 す も 亦 然 り。 両 つ の者 条 を 同 じ ゅ う し 貫 を 共 に し 、 一 一吻 合 、 た が い に 用 を 相 済 さ と あ る。 ﹁ 詩 ( ﹃詩 経 ﹄)を 詠 む 方 法 は 、善 いも の は 人 の善 心 を 渙 発 し、 れ ば 不 足 す ると ころ が な い。 詩 の評 を 和 歌 に援 用 す る のも 同 様 であ 同 じく し てそ の用 が 異 な る の であ る。 よ って和 歌 の説 を 詩 に援 用 す と いう 一節 が 手掛 か り と な る。 ﹁詩 と 和 歌 は 源 が 同 じ で、 殊 に 情 を そ れ を 見 れば 、 ど んな も ので も高 尚 な も のに 見 え、 翻 って 未熟 だ っ は ます ま す多 様 化 し て 果 て が な い。 精 神的 な高 み に達 し て いる者 が む 人 が ど う感 じ る か に よ って 左右 さ れ る。 お そ ら く 詩 の情 と いう の こ と だ。 け れ ど も詩 の作 用 は 、 元 来 作 者 の本意 で は な く 、 そ れ を 読 ず と いう こと な し 。 る。 同 じ道 筋 のも の で あ る か ら 、 そ の 一つ 一つが ぴ た り と 合 致 し 、 た り賤 し い者 が 見 れば 、 ど んな も の で も低 級な も のとな る﹂ と い う 悪 いも のは 人 の誤 った 心 懸 け を 懲 罰 す る と いう のは も っと も 至極 な 相 互 に 役 に 立 つも のな のだ ﹂ と 仁 斎 は 言 う 。 仁 斎 の和 歌 同 源 観 、 同 127 のだ 。 情 を 重 視 す る の彼 ら の考 え 方 は、 実 は ﹃荘 子﹄ から 影 響 さ れ たも や朱子学者たちが厳しく排斥しようとした ︿ 情 ﹀ と いう も のを 重 視 よ って いか よ う に も な る も のだ か ら であ る 。 ま た 、 彼 ら は 、 仏 教 者 な も の であ った と し ても 、 そ れ は 作 者 の罪 では な く 、 読 者 の心 持 に ら に と って は 大 き な 問 題 では な か った 。 な ぜ な ら 、 も し そ れ が 淫 猥 測 す れ ば 、 恋 歌 が あ って も 、 も し く は 盛 ん に 詠 ま れ た と し ても 、 彼 恋 歌 に 関 す る 記 述 は 見 ら れ な いが 、 彼 ら の詩 に 対 す る 考 え 方 か ら 推 さ れ た も のと す る 立 場 と は 大 き く 異 な る 。 彼 ら 古 義 学 派 に は 、 直 接 る と いう 。 これ は 、 朱 子 学 者 た ち の、 詩 や 和 歌 は 作 者 の意 図 が 反 映 い る こ と は 明白 であ り、それ に対 す る考 え 方 の相 違 が 、彼 ら の詩 観 、 こ の 文章 は 示 し て い る。 彼 ら が、 朱 子学 者 のと る 文学 観 を意 識 し て 情 と いう ﹂ と いう考 え が 、 彼 ら の問 で広 く 共 有 さ れ て い た こと を 、 り ﹂と あ り 、 先 儒 、 す な わ ち 仁 斎 以 来 、 ﹃荘 子 ﹄ 中 の ﹁詩 を 以 て 人 道 人情 ︿人情 を 道 ふー 訓読 筆 者 ﹀ と い ふ の 一句 に て つ 墨ま る こ とな へに。 先 儒 以 来 常 に 引 用 せら る。 詩 の こと ば は さ ま ざ ま な れ ど も 。 荘 子 は異 端 の書 な れ ど も。 こ の こ とば よ く詩 の道 を こと わ り た る ゆ と 云も の は。面 面 の志 を の べ。人 情 を つく し た る 書 と いふ こと な り 。 詩 以道 人 情 ︿ 詩 を 以 て人 情 を 道 ふ1 訓 読 筆 者 ﹀ と あ り 。 (中 略 ) 詩 の で あ ろ う 。 東 涯 の ﹃読 詩 要 領 ﹄ に、 ﹁荘 子 に 五 経 の事 を 説 き て。 す る 立 場 を と っ た。 そ れ は、 仁 斎 の 長 男 、 東 涯 (一六 七 〇 ∼ 和 歌観 に も 反 映さ れ て いる。 仁斎 は 、 詩 は 作 者 の意 図 と は 関 係 な く 、 読 者 が ど う 感 ず る か に 依 一七 三 六 ) の著 ﹃訓 幼 字 義 ﹄ に あ る 次 のよ う な 文 章 に 端 的 に 表 れ て いる 。 そ の文 章 と は ﹁情 は 人 の真 実 の心 な り 、善 を 好 み 悪 を 悪 む は、 人 情 欲 情 愛 と 云、 多 く 男 女 父子 の間 のな さ け を いふ 、 此 こ ︾ろ は お ぐ ひも 、 人 のま こと な れ ば 、 も と よ り 情 と いふ べ し、 そ れ ゆ へに古 始 ま る が 、彼 の最 大 の功 績 は、そ れ ま で道 徳 的 価 値 よ り も 下 位 に あ っ ど う で あ ろ う か。 こ の学 派 は 、 荻 生 徂徠 (一六 六 六 ∼ 一七 二 八 ) に では、古文辞派 ( 讓 園 派 と も いう が こ こ で は 古 文 辞 派 と す る ) は けんえん ◆荻生徂徠 と太宰春 台 ほれ や す き も のな るゆ へに、 約 情 節 情 のを し へあ り 、 然 れ ど も 滅 情 た 政 治 と 文学 に 、 そ れ ぞ れ 固 有 の価 値 と 論 理 が あ る こと を 明 示 し た 人 の真 実 の心 な る に よ り て、 是 を 情 と いふ 、 又色 を 好 み食 を 嗜 のた と いふ は、 仏 老 のを し へに落 て、 聖 人 の旨 にあ ら ず 、 又漢 儒 及 説 文 こと で あ ろ う 。 点 に あ り 、 詩 は 人 情 の委 曲 を 尽 く す か ら 価 値 が あ る のだ 、 と 断 じ た 彼 の詩 観 に 限 って 言 え ば 、 そ の特 徴 は 、 詩 作 を 積 極 的 に 奨 励 し た 等 の註 は、 性 陽 情 陰 と 、 陰 陽 を 以 て これ を 分 つ、 これ はた ∼ 情 愛 情 欲 の情 よ り かく 差 別 し て、 善 を こ の み、 悪 を にく むも 、 人 のま こと な れ は、 又情 と いふ へき 事 を しら す ﹂ と いう も のだ 。 128 恋歌観 の変遷②一江戸時代の言説 こ と で あ る。 そ し て 、 古 く は 漢 魏 の、 近 く は 盛 唐 の詩 を尊 重 し 、 そ と 述 べ て いる 。 ﹁お よ そ 中 国 と 日 本 は風 俗 が 異 な るが 、 詩 と 和 歌 の も 今 も 、 人 情 は異 な ら な い。 詩 も 歌 も 心 の声 であ り 性 情 を 詠 出 す る 道 だ け は道 理 が 全 く 同 じ であ る。 子細 を 言 え ば 、 異 国 も 我 国 も 、 昔 日 野龍 夫 は ﹁徂徠 が 詩 文 の制 作 を 積極 的 に 肯 定 し た こと は 、 文学 も のだ か ら 、 中 国 と 日本 は言 葉 が 違 う だ け で性 情 を 吟 詠 す る こと に れ ら の言葉 を 用 いて 詩 作 を 行 な った。 史 上 画 期的 な意 義 を担 って ﹂ お り 、 そ う い った 態度 は ﹁文学 の道 徳 お い て は少 しも 違 いが な い。 詩 と 歌 と でそ の趣 意 が 同 じな の はそ う 和 歌 と 詩 は 何 ら 異 な るも の では な い。 先 に見 た 伊 藤 仁 斎 も 同 じ考 規 範 か ら の独 立 に 確実 な基 礎 が 与 え ら れ 、 現 実 社 会 で 志 を 得 な い知 態 度 が、 こ れ を契 機 に漸 次 形 成 さ れ て い った ﹂ のだ と いう 。徂徠 が え 方 を し て いた 。 した が って、 古 文 辞 派 も 恋 歌 を 否 定 す るよ う な 考 した 理 由 によ る﹂ と いう 。 古 文辞 を 用 いる 目的 は、 古 の聖賢 の教 え を 可 能 な 限 り 正 確 に読 み 取 え 方 は しな か った と 思 わ れ る 。 識 人達 の、 詩 文 に よ って 鬱 屈 を晴 ら し 性情 を養 う と いう 文 人的 生 活 る た め であ る。 そ れ に は古 の 詞 と 文 法 を 会 得 し な け れば な ら な い。 そ の た め に古 文辞 を 用 いた ので あ る。 ◆ 堀景山 そ の他 、 特 別 な 学 派 に よ ら ず 、 比 較 的 自 由 な 立 場 で恋 歌 に つい て 彼 ら に は恋 歌 に 関す る 言説 はな いが、 和 歌 に 関す る 発 言 が いく つ かあ り、 彼 ら の恋 歌 観 を推 測 す る こ と が で き る。 そ の代 表 と し て 彼 論 じ た 人 物 を 二人 挙 げ てお こう 。 堀 景 山 (一六 八 八 ∼ 一七 五 七 )と、 つか だ た いほう の弟 子 であ る太 宰 春 台 (一六 八 ○ ∼ 一七 四 七) の 和 歌観 を 見 て お こ 冢 田大 峯 (一七 四 七 ∼ 一八 三 二) であ る 。 どく こ う 。 彼 は ﹃独 語 ﹄ の 中 で 、 ん で以 来 、 朱 子 学 を 以 て立 つ家 ( 京都)に生れた。学統とすれば朱 堀 景 山 は 、 曽 祖 父 の杏庵 が 藤 原 惺 窩 (一五 六 一∼ 一六 一九 ) に 学 凡、 唐 土 と 我 が 国 と 風俗 同 じ から ず と 云 へど も、 詩 と歌 と の道 子 学 であ る が 、 膽吹 覚 に よ る と 堀 家 の学 問 は ﹃左 伝 ﹄ を 主 と す る 中 を 吟 詠 す るも のな れば 、 唐 と 大 和 と 、 詞 の か は る の み に て、 性 唯 一のも ので あ る。 彼 は よ く 知 ら れ て いる よ う に 、 本 居 宣 長 の漢学 景 山 のま と ま った 著 述 と いえば 、 こ こに 取 り あげ る ﹃不 尽 言 ﹄ が い ぶき ば か り は 、 其 の道 理 全 く 同 じ。 其 の子 細 は、 異 国 も わ が 国 も 、 国 歴史 学 (政 治 史 ) を 中 心 と し た も の であ った と いう 。 情 を 吟 詠 す る こと は、 少 しも か は る こと な し。 詩 と 歌 と 、 其 お の師 で あ った こと か ら 、そ の関 係 で論 じら れ る こと が 多 い。 し か し、 ふ じんげ ん 古 も 今 も 、 人情 は異 な ら ざ る に、 詩 も歌 も、 心 の声 に て、 性 情 も むき の 同 じき は、 此 の故 な り 。 129 お り、 同 じ で あ る。 中 国 の詩 と 日 本 の和 歌 が符 丁 を合 わ せ た よ う に 言、 七 言 で あ る こ と を考 え る と、 和歌 も ま た 五字 、 七字 と定 ま って を も って いた か を 述 べ、 後 に宣 長 と の比 較 を し て みよ う と 思 う 。 彼 思 え る のは、 天 地自 然 のこ と で あ る ﹂ と いう のだ。 景 山 が最 終 的 に こ こ で は宣 長 と は 関 係 な く 、 一儒 学 者 と し て彼 が ど のよ う な 恋 歌 観 の恋 歌 に関 す る見 方 は、 次 の 一文 によ く 表 れ て い る。 言 いた い のは、 中 国 の詩 と 日本 の和歌 が 同 じ も のだ と いう こと で あ 実 情 を 訴 へて鬱 を はら す も のな れ ば 、 万葉 集 にも 相 聞 を 始 めと の原初 に お いて、恋 の詩 、恋 の歌 が 両者 に 見 ら れ る こと。も う 一つは、 景 山 は詩 と 歌 に ついて 、 二 つの共 通 点 を 挙げ て いる。 一つは 、 そ る。 こ れ は伊 藤 仁 斎 や 太 宰 春 台 な ど に 見 ら れ た 言 説 と似 て いる。 け アナ ニヘヤ し、 恋 歌 を 取 り多 く 載 せ、 詩 経 にも 自 然 と 関 唯 の詩 を 以 て始 と 詩 と 歌 の いず れ も が 五 と 七 の単 位 で 構成 さ れ て いる こと 、 であ る。 夫 れ 和 歌 の起 る本 原 を 尋 ぬ る に、 陰 陽 の 二神 の ﹁ 熹 哉 ﹂ の語 を せ し は、 夫 婦 の道 は人 情 の最 重 き も の に し て、 聖 人 の これ を 大 景 山 は、 和 歌 の本 源 に 恋 歌 が あ り 、 そ れ が ﹃万葉 集 ﹄ な ど に も 引 れ ど も、 彼 ら と 異 な る と ころ が あ る こと に 留意 し た い。 事 と し、 重 ん じ慎 ま る 丶と ころ な れ ば 也 。 又其 言 ひ つゴ く る詞 き 継 が れ た と 指 摘 し て いる。 一方 、 中 国 の場 合 、 ﹃詩 経 ﹄ に関 雎 と 祖 と し、 八 雲 の神 詠 三 十 一字 よ り始 ま り 、 人 の代 に至 り、 そ の ま でも 、 自 然 と 詩 も 五言 七 言 に て、 和 歌 も 又 五字 七 字 にさ だ ま 呼ば れ る 恋 の詩 群 が あ る のは 、 聖 人 が 夫 婦 間 の恋情 を 大事 な こと で くわんしよ れ り。 唐 の詩 、 大 和 の歌 の道 の、 符 節 を 合 せ た る 如 く な る は 、 あ る と考 え た か ら だ と いう。 と い へるは 夫 婦 の思 慕 深 切 な ると ころ の実 情 を い へる ことな る べし ﹂ 剛 是 亦 天地 自 然 の事 也 。 ﹁そ も そ も 和 歌 の起 こ った 本 源 を 辿 る と 、 陰 陽 の 二神 が ﹃あ な に と いう 景 山 の言 葉 か ら も 確 認 で き る。景 山 は 和歌 にあ る恋 歌 、﹃詩 経 ﹄ 幽 景 山 の いう 恋 は、 夫 婦 間 の恋 情 の こと であ るら し い。 そ れ は ﹁恋 へや ﹄ と 言 った 言 葉 を 祖 と し、 さ ら に 八雲 の神 詠 であ る 三 一文 字 か に 見 ら れ る 恋 詩 を 夫 婦 間 のも のと し て解 釈 し 、 そ の正 統 性 を 述 べよ 通 常 の恋 歌 論 は 、 恋 を も っと 広 い範 囲 、 夫 婦 間 では な く 一般 の男 ら 始 ま って 、 人 代 に 至 り そ の実 情 を 訴 え 鬱 憤 を は ら す も のだ か ら 、 だ 。 ﹃詩 経 ﹄ に 関 唯 の詩 を 載 せ て い る の は、 夫 婦 の道 が 人 情 の最 も 女 関 係 と し て捉 え 、 論 じ る 。 け れ ど も 景 山 は 儒 学 で重 ん じ ら れ る 五 う と し て いる のだ。 重 いも の で、 聖 人が こ れを 大 切な こ と と 見な し、 重 ん じ 敬 って い る 倫 の内 の ]つであ る 夫 婦 関 係 を 促 進 さ せ る のが 恋 歌 であ る と 解 釈 し ﹃万 葉 集 ﹄ に も 相 聞 歌 を 始 め と し て多 く の恋 歌 を 多 く 載 せ て い る の から であ る。 ま た 、 使 用 さ れ て い る 言葉 ま でも が 、 お のず と 詩 も 五 130 恋歌観 の変遷②一江戸時代の言説 先 王 是 を 以 て 夫 婦 を 経 し 、⋮i 訓 読 筆 者 ﹀﹂、あ る いは 、﹃古 今 和歌 集 ﹄ 彼 が 儒 学 的 な 倫 理 観 だ け で こ のよ う な 考 え を す る よ う に な った と い 景 山 はあ く ま でも 儒 者 であ って それ 以上 で はな いこと は、 儒 教 倫 真 名 序 の ﹁動 天 地 、 感 鬼 神 、 化 人 倫 、 和 夫 婦 、 莫 宜 於 和 歌 。 ︿天 地 て い る のだ 。 ﹁ 恋 ﹂ の概 念 を、 従 来 の そ れ か ら 儒 教 倫 理 に 引 き ず り 理 から 抜 け 出 せな い で い る こと から も 明 白 であ る。 景 山 の恋 歌 肯 定 を 動 か し 、 鬼 神 を 感 ぜ し め 、 人 倫 を 化 し 、 夫 婦 を 和 す る こと 、 和 歌 う のは 、早計 に過 ぎ る であ ろう 。 お そら く、景 山 は 、﹃詩 経 ﹄ 序 の ﹁故 論 は、 そ れ ま で の儒 学 思 想 を 否定 な い し発 展 さ せ た も の で は な く 、 よ り 宜 し き は 莫 し1 訓読 筆 者 ﹀﹂ と いう 文 言 を も 参 照 し て、 先 に 示 込 ん だ 感 が あ る。 景 山 は同 書 の別 の箇 所 で、 夫 婦 以外 に親 子 ・兄 弟 ・ いわ ば 論 理 のす り替 え に過 ぎ な い。 本 山幸 彦 は、 景 山を 評 し て ﹁ 道 し た よ う な 恋 歌 観 を 構 築 し た のだ ろ う 。 彼 は ﹃詩 経 ﹄ を 読 ん で いる 正得失、動天地、感鬼神、莫近於詩。先王以是経夫婦、⋮ ︿ 故に得 徳 論 で も 人 欲 を 悪 と み る 朱 子学 者 的 な 道 学 先 生 ﹂ で はな く 、 ﹁人 間 ,は ず だ か ら 、 こ の辺 り か ら 恋 歌 論 を 組 み 立 て て い った も のと 考 え ら 君 臣 ・朋 友 のす べ て の交 わ り も 恋 に含 ま れ ると し て い るが 、 いず れ の情 緒 性 を 尊 重 し て いた ﹂ と し、 ﹁ 堀 家 に 寄 宿 し て いた 宣 長 が 、 景 れ る 。 と も あ れ 、 景 山 は 儒 教 倫 理 の枠 内 か ら 抜 け 出 てお ら ず 、 後 述 失 を 正 し 、天地 を 動 か し、鬼 神 を 感 ぜ し む る は 、詩 よ り 近 き は莫 し。 山 の こう した 側 面 から 影 響 を う け た の は当 然 のこと であ った﹂ と し す る 本 居 宣 長 の恋 歌 観 と は 大 き く 異 な る こと は 明 ら か であ る。 にせ よ す べ て は 五倫 内 の こと であ る。 て い る 。宣 長 が 景 山 か ら 何 ら か の影 響 を 受 け た こと は事 実 であ ろう が 、 はた し て景 山が 朱 子学 的 な 物 の見方 を し て いな か った と いう の いが 、 夫 婦 間 つま り 五倫 内 の恋 歌 は 認 め て いた はず で あ る。 なぜ な 絅 斎 たち と 同 じ で はな い のか。 彼 ら は夫 婦 間 の恋 情 に は触 れ て いな 結 局、 恋 歌 を ﹁ 悪 ﹂ と 見做 す 中 村 裼 斎 、 貝 原益 軒 、 佐 藤 直 方 、 浅 見 景 山 が 容 認す る恋 歌 は、 夫 婦 間 に 限定 さ れ た も ので あ った。 これ は イデ オ ロギ ー の発 現 度 は 低 い か も し れ な いが )。 先 に 見 た よ う に 、 た ﹁ 寛 政 異 学 の禁 ﹂ に 反 対 し、 豊 島 豊 州 (一七 三 七 ∼ 一人 一四 )、 を 奉 じ て 一家 を な す よ う に な った 。 寛 政 二年 (一七 九 〇 ) に出 さ れ た と いう 。 初 め 朱 子 学 を 学 ん だ が 、 三 〇 歳 頃 から そ れ を 斥 け 、 古 学 江 戸 に 出 た が 、 貧 窮 によ り 師 に つけ ず 、 ほと ん ど 独 学 で学 問 を 修 め 彼 は 江 戸 中 期 か ら 後 期 に か け て活 躍 した 儒 学 者 であ る。 一六 歳 の時 も う 一人 見 て お き た い人 物 が いる。 冢 田大 峯 と いう 人 物 であ る。 ◆冢田大峯 ら 、 そ れ は儒 学 の根 本 原 理 であ る か らだ 。 景 山 は た だ、 そ の夫 婦 間 山 本 北 山 ( 一七 五 二 ∼ 一八 一 二 )、 亀 田 鵬 斎 (一七 五 二 ∼ は、 い かが な も のであ ろう か ( 他 の朱 子学 者 と 比較 す る と朱 子学 的 の恋 情 と 恋 歌 に強 烈 な スポ ット を あ て た に 過ぎ な い ので あ る。だ が 、 131 明学 ・徂徠 学 、 仁 斎 学 の いず れ に も偏 らな い古 註 を主 と し た ﹁冢 田 倫 堂 ﹂ の督 学 とな り、 自 説 の教 授 に努 め た。 学 は漢 学 ・朱 子学 ・陽 と 呼ば れ た。 文 化 人 年 (一人 一 一)に は 尾 張徳 川家 に 仕 え 、藩 校 ﹁明 に は 、彼 も幼 少 の 頃 は 和歌 を 好 んだ と あ り、三 代 集 、﹃古 今 和 歌 六 帖 ﹄、 し て現 在 の和 歌 のあ り か た に 強 い不 満 を 抱 い て いる 。 こ の記 述 の前 彼は、詩は ﹁ 姦 淫 之 情 ﹂ を 陳 べる も の では な いと 主 張 し て い る。 そ あ ら ゆ る 身 分 の人 々が 恋 歌 を 詠 む こと に 、憤 り を おぼ え て いる のだ。 大 峯 に と って恋 歌 は 、 日 本 の習 俗 の中 で最 も 醜 いも の であ った。 学 ﹂ な る も のを 樹 立 し た と いう 。文 政 一二年 (一八 二九 ) に成 立 し ﹃堀 川 百 首 ﹄、 ﹃万葉 集 ﹄ を 挙 げ て 、 漢 詩 と の 比 較 を し て い る。 そ の 一人 二 六)、市 川鶴 鳴 (一七 四〇 ∼ 一七 九 五)と と も に ﹁ 寛 政 の五 鬼 ﹂ た と いう ﹃随 意 録 ﹄ に は、 次 のよう な 記述 が 見ら れ る。 ま で、 公然 と 其 の淫 乱 の情 を 陳 べ、 以 て 風雅 と 為 す は、 恥 ず べ 姦 淫 の題 を 設 く る こと な り。 縉 紳 君 子 よ り武 夫 及び 僧 侶 に 至 る 方 の習 俗 最 も 醜 き と す べき は、倭 歌 者 流 の恋 歌 を 称 し 、及 び種 々 恥 之甚 也 。 (中 略 )当 今 盛 世 君 子。作 所 謂 恋 歌 者 。以 翫 淫 風 。 ︿ 我 縉 紳 君 子。 至武 夫 及僧 侶 。 公然 陳 其 淫 乱 之情 。 以為 風雅 者 。 可 ○我 方 習 俗 。 最 可醜 者 。 倭 歌 者 流 称 恋 歌 。 及 設種 種 姦 淫 之 題。 自 派 の詩 に 対 す る 批 判 を 和 歌 に 援 用 し た も の であ ろ う 。 こ こに は 、 朱 歌 が 晩唐 か ら 宋 、 元 に お け る 詩 の糟 糠 で あ る と いう 批 判 は 、 古 文 辞 み 、 人 々 の玩 弄 物 に な って いる こと を 批 判 す る ので あ る 。 今 日 の和 いが 、 今 も な お 恋 歌 を 詠 む 習 俗 が 残 って お り 、 淫 奔 な 題 で恋 歌 を 詠 いる 。 こ こ に彼 の主 張 が あ る。 昔 の歌 集 に 恋 歌 が あ る こと は 問 題 な 今 日 の和 歌 は 晩 唐 か ら 宋 、 元 に お け る 詩 の糟 糠 だ と 痛 烈 に 批 判 し て 歌 者 流 、 則 ち 多 く は 晩 唐 、 宋 、 元 の糟 糠 な りー 訓 読 筆 者 ﹀﹂ と 記 し、 記 述 の終 わ り に 、 ﹁ 今 之倭歌者流。 則多晩唐宋 元之糟糠也 ︿ 今 の倭 き も の甚 しき も の也 。 ( 中 略 ) 当 今 盛 世 の君 子、 謂 ふ 所 の恋 歌 子 学 の ﹁玩 物 喪 志 説 ﹂ の影 響 と 、 古 文 辞 学 派 への批 判 が 同 居 し て い る。 な る者 を 作 り て、 以 て淫 風 を 翫 ぶ 1 訓 読 筆 者 ﹀ 意 訳 す ると 、 ﹁我 国 の習 俗 で 最 も 醜 い のは 、 倭 歌 者 流 が 恋 歌 を 称 るま であ ら ゆ る階 級 の人 々が 公然 と 淫 乱 の情 を 陳 べ て、 風 雅 と みな に 恋 歌 を 好 ま し いと は 見 て いな い。 そ れ は 、 中 村 幸 彦 の いう ﹁載道 以 上 、 儒 学 者 た ち の恋 歌 観 を ま と め る と 、 朱 子 学 者 た ち は 基 本 的 ◆ 儒 者 た ち の恋 歌 観 し て い る の は、 恥 じさ ら し の最 た るも のだ 。 いわ ゆ る恋 歌 を 作 る の 説 ﹂、 ﹁勧 善 懲 悪 説 ﹂、 ﹁玩 物喪 志 説 ﹂ の いず れ か 、 あ る いは す べて に 賛 し、 様 々な 猥 ら な 題 を 設 け て い る こと だ 。 君 子、 武 士 、 僧 侶 に至 は淫 風 を 玩ぶ こと に ほ かな ら な い﹂ と い った と こ ろ か。 132 恋歌観の変遷②一 江戸時代 の言説 恋 歌 と 恋詩 が 同 源、 同 一で あ る と 語 ら れ る こと も あ った。 た だ し そ め、広 ま って い った こと に 注 意 し てお く べき であ ろ う 。 そ れ ゆ え に、 優 位 ) か ら、 日本 と 対等 ( 詩 と 和歌 も 対等 ) と い う意 識 が 表 れ は じ を 見 て い た。 一八世 紀 の儒 学 者 たち の中 で は、 確 実 に中 国優 位 ( 詩 ほと んど 見ら れ な い。 彼 ら は朱 子学 的 な 道 徳 観 から 離 れ て詩 や 和 歌 う 態 度 を と って いた 。 古 文 辞 学 派 の 人 々 に は、 恋 歌 に関 す る記 述 が な 内 容 であ れ 読 む 人 の心 持 ち によ って薬 にも な れ ば 毒 にも な ると い 示 さ な い。 古 義 学 派 の人 々 は、 恋 歌 はあ っても な く ても よ く 、 ど ん 恋 歌 が 抵 触 す るか ら であ る。 陽 明 学 者 はあ ま り 恋 歌 に対 し て興 味 を た 。 それ が 、 日本 人 の理 想 、 本 性 が 他 の文 化 ( 中 国 文 化 ) の影 響 を 葉 集 ﹄や ﹃古 事 記 ﹄研究 に 向わ せ る 原動 力、な い し は基 本 思 想 と な っ 意 識 ﹂ を 生 み出 した 。 こ の儒 学 的 な ﹁ 復 古 主 義 ﹂ が 、 国 学 者 を ﹃万 現 実 に 変 え る 唯 一の手 段 であ り 、 そ の意 識 が 狂 お し いま で の ﹁ 復古 代 ﹂ つま り 過 去 の世 界 であ る 。 彼 ら に と って古 に返 る こと が 理 想 を も し く は ﹁あ の世 ﹂と 呼 ば れ る 理 想 郷 が あ った 。 儒 学 の理 想 郷 は ﹁聖 世 間 批 判 が、﹁復 古主 義 ﹂に繋 が って いく の であ る。 仏 教 に は ﹁極楽 ﹂、 昔 は そう で はな か った、と いう 認 識 が あ る こと だ 。 こ の強 烈 な 社 会 ・ ど の儒 学 者 に も共 通 し て いる のは、今 の世 の中 は 風 俗 が 乱 れ てお り 、 は仏 教 に も ﹁ 末 法 思 想 ﹂があ る か ら、儒 学 だ け のも の では な い。 だ が 、 な るも の﹂ 探 しと 、 過 去 へ回帰 し よう とす る 現象 が 一八 世紀 以降 本 受 け な い時 代 に こ そ あ る と いう 国 学 者 た ち の考 え と な り、 ﹁日本 的 の場合 の恋 の解 釈 は あ く ま で も 儒 教 倫 理 の中 に と ど ま って いる 。 以 上 、 儒学 の各学 派 と そ れ 以 外 の人 々を 幾 人 か 見 てき た が 、 いず れにも共通する点が見られる。 よ り 明 確 に な る が 、 仏 教 が 来 世 の こと ( 往 生 ・輪 廻 転 生 な ど ) を 問 と ﹂ の精 神 を 重視 す る意 識 が強 く、 虚 偽 を 排 斥 し 、嫌 悪 す る傾 向 が ま た、 儒 学 者 だ け の価 値 観 で はな い が、 時 代 の風潮 と し て ﹁ま こ 格 的 にな って い く の であ る。 題 に す る こと が 多 い の に対 し、 儒 学 は あ く ま でも 現 世 を 問 題 にす る 強 ま った こ と も 見逃 せ な い。 こ う し た意 識 は 江 戸時 代 以 前 に も あ つ 一つは、 ﹁ 現 実 重 視 ﹂ の考 え 方 で あ る 。 こ れ は 仏 教 と 比較 す る と こと が 多 い。仏教 で は 悟 り を 開 き成 仏 す る こと が 最 大 の目 的 で あ る。 た が 、 い っそ う 顕 著 な 形 で 表 明 さ れ た のが 江 戸 時 代 で あ った 。 江戸時代③- 新興恋歌擁護派 の誕生 ﹃日本 思 想史 辞 典 ﹄ (べ り かん 社 ) に よ ると 、 ﹁国学 ﹂ と は ﹁江戸 中 第三節 これ は仏 と いう 超 越 した 存 在 にな る こと を 目的 と す る から だ 。 それ に対 し、 儒 学 で は聖 人と な る こと を 目的 と す るが 、 そ れ はあ く ま で も 人間 と し て であ って、 神 や 仏 と い った 超 越 的 な 存 在 にな ろう と い う ので はな い。 こ こが 仏 教 と 大 き く異 な る と こ ろ で あ る。 いま 一つは、強 烈 な ﹁下降 史 観 ﹂と ﹁復 古 主 義 ﹂で あ る。 ﹁ 下降史観﹂ 齠