...

Title 宇宙遊泳の芸術空間 : ゲーテ『ファウスト第二部』

by user

on
Category: Documents
19

views

Report

Comments

Transcript

Title 宇宙遊泳の芸術空間 : ゲーテ『ファウスト第二部』
Title
Author
Publisher
Jtitle
Abstract
Genre
URL
Powered by TCPDF (www.tcpdf.org)
宇宙遊泳の芸術空間 : ゲーテ『ファウスト第二部』
小名木, 榮三郎(Onagi, Eizaburo)
慶應義塾大学法学研究会
教養論叢 (Kyoyo-ronso). No.136 (2015. 2) ,p.165- 188
Departmental Bulletin Paper
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00062752-00000136
-0165
宇宙遊泳の芸術空間 165
エッセイ
宇宙遊泳の芸術空間 ─ゲーテ『ファウスト第二部』─
小名木 榮三郎
ファウストは千年を超える民間伝承に生きる怪物である。その心魂に己の思
いを吹き込み,己の創造するままにこの地上の空間に思うがままの活動を許
し,意中の思うところを世に披露してほくそ笑む。山っ気のある者なら一度は
こんな大芝居を打ちたいものであろう。
稀代の詩人ゲーテもこの怪物に怖れと共に親しみを覚え,生涯にわたり頭の
隅から離れることのない世界であった。生涯に一度は大芝居を打って見せ,語
り草になればと案を練っていたに違いない。時期が至り,この潮時にこそ,思
う芝居をまとめあげ,韻文の妙に託して語り尽くして,思うがまま,現世に,
宇宙に,天国に,地獄にと神出鬼没さながらの如く,手中で操る駒に存分に語
らせ,歌わせ,この世で己の体現した全てを,韻文の語りに残して,彼方の世
界へと飛び去った。詩人ゲーテが託したこの世への最高の遺産でなくて何であ
ろう。
これほどの千年に及ぶ大スケールを心に刻み込み,芝居の要となる鋭くきび
しいセリフを書き残しているので,どのひとセリフも,どの一詩行も,どんな
一場面も深い思いを込めた名品であることは誰しもよく理解できる。その生涯
にわたる作品をどう受け止めるか,どのように理解するかはそれぞれの資質と
考察によることは明らかである。
このような想いで私の読むドラマの内容も,全編を通じて迷える男ファウス
トの所業と願いをよく脳裏に収め,メフィストの言葉のワナを打ち棄てて天上
へと飛翔するに至るファウストの遍歴を味読し,現に体験する地球上の現実世
166 教養論叢 136 号
界との交錯を,私なりの受け止めで考えてみたいと思い,心に残る何節かを書
き留めた。この私の『文芸メモワール』はドラマの話の流れを再現するよりも
詩人の意図するところを受け止めておくのを眼目とする。 数ある訳書の中で大体は大山定一訳で読み進む。詩人ふうな訳文のめずらし
さに注目した。訳書の優劣を評価した上での選択と言うよりも,考察の一つの
基準として取り上げてみた。まとめとなる「ファウスト再読を楽しむ」に書い
た基本の構想に従った結果である。ほかに比較的新しい本格派の山下肇訳を対
比として取り上げた場合もある。[引用は原文尊重,頁を明記]
悲 劇 第 二 部
─時空を超えた領域から本舞台が始る─
第 一 幕
「心地よい地」Anmutige Gegend
訳語はさまざまだが第一部末のファウストの苦しい胸の中を引継いで,復活
更生させる高雅な場所。神の所業の偉大な力を見せる場面であるが,大山,山
下,相良の訳もどれも力を入れ,格調の高さを競っている。
しかし相良訳は学者の文語調の高級和訳とみられるところもあり,現代人に
不向きだ。「谷谷」など原文忠実だが,芸術作品の語りから逸れている。と言
うよりも,厳格な雰囲気に包まれている。訳者の気質によるのだろうが。
戯曲の和訳では各役者の口調がその役柄,立場を舞台上で見せることになる
から,口振り,話し方,語調が決まりきった定型の標準語訳ではおかしい表現
が見受けられる(例:大山:S. 10, 12, 13)。一人で独白のようになったり,また
相手への語り掛けにもなるが,立場,身分,語調が大切になる。山下訳でも途
中で一人語りが急に変わることもある(解釈のひとつと言えばそれまでだが)。
冒頭の場面は三者とも格調高い言葉遣いを選んで荘重で力強い。大山訳のタ
イトル「幽邃な土地」「ユーチク」とは文字も意味も難しい。「優雅な土地」で
よいではないかと思う。
この場面は地上の劫火に心焼け苦しむファウストを救出し,幽玄な大地に生
宇宙遊泳の芸術空間 167
命の更生を図る神の所業により,男は夢幻の境で目覚める。虹の美しさが明る
く励ます希望の幕開け。
ファウスト「おまえは最高の存在を目ざしてたゆみなく努力をつづける,
人間の力づよい決意を鼓舞し促すのだ。─
すでに世界は開かれて暁のひかりにかがやき,
森はにぎやかな小鳥たちの声にみたされ,
谷を出で,谷を入って,霧の帯がたなびいている。
」
[4684]
(大山:S. 144)
(山下:S. 147)
「皇帝の居城・玉座の間」Kaiserliche Pfalz / Saal des Thrones
メフィストがぺらぺらしゃべり,宰相が無法の世を嘆く(S. 147∼)。諸侯が
国の惨状を皇帝に訴え(S. 149),兵部
,大蔵
もこれに続く。宰相の嘆きは
今日の世を憂うばかり。
宰相「かくては,世の中が支離滅裂になり,公共心も,
公平も正義も,すべて地に落ちてしまいます。
国民を正しいものへみちびくただ一つのまことが,
どうしてここから生れてくるでしょうか。
廉直な役人も,ついには魂を
阿諛追従や賄賂をつかう者に奪われ,
賞罰を明らかにする力さえない裁判官は,
けっきょく犯罪者の同類もおなじになります。」[4799]
(大山:147)
(山下:150)
山下の解説も言うように第一部が青年ゲーテの懺悔の話であるなら,この第
二部は中年期 ・ 老年期のゲーテの知る現実世界を裏写ししたものと言えよう。
地獄の悪魔が逆さに見せて示す像であり,悲惨な現世の浅ましさを舞台上に繰
り広げようと描き出している。この阿呆の,唐変木の満ちる世にファウスト
は,そしてゲーテは世をにらんでどう生きようとするか。カルネヴァルの狂態
はその伏線なのか。想像をかきたてる。
168 教養論叢 136 号
「控えの間の続く大広間」Weitläufiger Saal mit Nebengemächern
仮装舞踏会の各役どころが次々と現れる。司会者がその役割を解説する。木
こり,道化,酔払い,詩人(自然,宮廷,騎士,情感,熱血,諷刺の者ども),優美
の女神,復讐の女神,ほかに空想の花冠,挑戦,知恵,吝嗇と数限りない各界
の者どもが,別世界の舞踏会で「現在」の恐怖と希望をうたって迫り来る。舞
踏会の現実は時間を超えて現代社会の生々しい告白と読み取れる。まさに魑魅
魍魎の跋扈するうごめきと言わなくて何と言うべきであろう。悪魔の手先の思
うままに踊りまくる姿は,神の手の平に乗って,わが身の姿を見失っている人
間どもの空しいあがきを語る一場景となっている。(訳者が役者の多様な語りを翻
訳で移し伝える努力はみとめなくてはならない。)ゲーテが今日を予見していたと言
うより,変りようのない人間の本来の姿を映すものと解したい。テーマは今日
でも生々しい。無線電波の飛び交う空虚な
し合いの空しさを想わせる。
「遊園」Lustgarten
カルネヴァルの狂宴に託して,現世も神話の世界も入り乱れて世の狂態を語
り,ゲーテの実人生を仮託する一場面か。理想の王国,夢想の国家誕生。景気
回復で桃源郷をつくる政治。お札をどんどん印刷する魔術。(アベノミクス,日
銀総裁の紙幣大増刷を想わせる。)
皇帝の布告「知らんと欲する者に,あまねく布告する。
これなる紙幣は一千クローネに通用するものなり。
而して,帝国領土に埋蔵せられたる無量の財宝をもって,
それが確実なる担保となす。
豊富なる財宝はただちに発掘して,
兌換の用に供すべき準備を完了せり。」[6057](大山:182)
(山下:184)
皇帝は欺瞞と見抜きながらも,急に金持ちとなって,気が大きくなり,絶世
の美男美女を呼ばせる。悪魔は時空を超えた「母なるもの」の領域から美の女
王を呼ぼうとし,ファウストは鍵と香炉を手に地下の世界に入って行く。時空
宇宙遊泳の芸術空間 169
を超える芸術空間を設定し,美男と美女の登場する舞台が造られる。いつの世
にも魔法をかざして人々を操る者が尽きることはない。
「暗い廊下」Finstere Galerie,
「明るい広間」Hell erleuchtete Säle
ファウストとメフィストとの化かし合いの押し問答が続く。女たちとのやり
とりに付合って,奔命に疲れたメフィストは「早く肝心の美女を出してく
れ!」と求め,異次元の世界に導く。並の人間には為しえない超能力の業の冴
えを見せて,魔術師たる見得を切る。
メフィスト「いったん香炉さえ持ってくれば,あなたは闇の国から,
ヘレナでもパリスでも呼び出すことができます。
」[6297]
(大山:191)
(山下:192)
「騎士の間」Rittersaal
霊界を代表する全ての幽霊どもが登場。不思議な術師ファウストが生命の無
いさまざまな生命を描き,語る。鍵が香炉に触れるや否や霧が出現し幽霊ども
を操る。突然,パリス登場により貴婦人の驚嘆は抑えようもなく高まる。美女
の最高ヘレナを見てファウストも心の底から動揺し,この世の宝を手に入れた
いファウストは鍵をパリスに触れ,幽霊たちは爆発,煙霧と消え去る。まさに
テレビドラマの三次元空間を演じている舞台だ。(大山訳と山下訳の対照からも訳
業の冴えがうかがえる。)
[パリス登場]
貴婦人 「まあ,何というわかわかしい力にあふれた,美しさでしょう。
まったく光りかがやくようですわ。」
第二の貴婦人「もぎたての桃のようにみずみずしくて,露もしたたるばかり。」
[6453]
(大山:196)
貴婦人 「まあ,なんてパッと花ひらいたような光源氏!」
第二の貴婦人「みずみずしいもぎたての桃みたいだこと!」
(山下:196)
170 教養論叢 136 号
[ヘレナ登場]
ファウスト 「かつて魔法の鏡に映し出されて
おれをあんなによろこばせた美女のすがたは,
いま初めて見る女性美のはかない泡沫にしかすぎなかったのだ。─
一切の力の発動,情熱の精髄,
おれが思慕を,愛を,崇拝を,懊悩をささげるのは
おまえだ。」
[6495](大山:197)
ファウスト 「その昔おれが魅入られたあの眉目麗しい姿,
魔法の鏡に恍惚となったあの姿とても,
今ここのこの美しさに比べれば,ただの泡にすぎぬわ!─
お前こそは,あらん限りのわが力の働きを,情熱の精髄を,
愛と献身と,崇拝と狂気とを,
惜しみなく捧げてやまない相手なのだ!」
(山下:198)
[筆者のつぶやき]
大山訳と山下訳を対照して見ると,訳者それぞれの訳風も感じられよう。一
字一句の優劣を語る愚かしさは明々白々である。詩文の雰囲気を残そうとする
者と,現代の読者への呼びかけを願う心意気が,別な世界を創り出している。
『ファウスト』第一部は第二部の前座であり,第一部はいわば活劇,客寄せ
の前座と言えよう。本番は第二部であり,時空を超えた大芸術空間の芝居と言
ってよいだろう。
ゲーテがファウストに託したのは,自分自身の迷いと希望,願望の夢幻世界
をこの第二部で高らかに歌うことである。その核心にあるのはドイツ・イデア
リスムスであり,生きる希望を称える理想主義の讃歌なのであろう。蛇足と知
りながらなおも妄言を付け加えたくなる我が身のほどは,メフィストの笑いと
叱正の的になるのは明らかであるが。
第 二 幕
こんどは夢幻劇の始り。優雅な野原で眠りから覚めたファウストが「夢幻の
境」をメフィストを伴い,現実世界と,時 ・ 空を超えた,入り混じった境地を
宇宙遊泳の芸術空間 171
体験することになる。第一部でゲーテの青春を生き写しされていると見ると
き,この第二部は詩人が作家として名を成し,文豪としてまた宰相として政
治,経済,社会の実相を見聞し,体験した上で,現象世界の幻想舞台に登場し
ている。したがって夢幻劇の中に,舞台(上演)劇を織り交ぜて,中年の 40∼
50 代で知る世界をファウストという魔法に憧れる術師と共に体験する芝居を
進めている。セリフにも情景にもよくその体験と批判の思いを込めているのが
うかがえる。
「高い丸天井のあるゴシック風の狭い部屋」Hochgewölbtes enges gotisches
Zimmer
「中世風な実験室」 Laboratorium(im Sinne des Mittelalters)
メフィストと助手の学士が,以前ファウストの使っていた部屋で,新生命を
誕生させる仕掛けに努めている。ワーグナー博士の実験レトルトで,一組の男
女から人工授精により生れたホムンクルスがワーグナーに声をかけて挨拶し,
鋭い警句一発を口にして念を押す。
ホムンクルス「古代の羊皮紙の書物をひもとき,
処方にしたがって生命の原素をあつめ,
一つ一つ注意ぶかくそれを調合なさるのです。
「何を」ということも大切ですが,「いかに」がもっとも大切なこと
をお忘れになってはいけません。」[6989]
(大山:213)
ここは台本の作者が自からの経験をもとに強調したいところと理解できる。こ
れから先の世を見透かしているかのようだ。
STAP 細胞をめぐる生命の新たな誕生について,この地上世界では大のおと
なたちが寄ってたかって喧喧諤諤の大議論の空しさを積み重ね,いたずらに歳
月を費やす姿を見ていると,この場面のように,「実験レトルトで人工授精に
よりパッと生れる」中世の実験室における誕生劇は,鮮やかな手品の業に思わ
れるだろうか。
このほかにも時代を超える警句を連発し,メフィストも実験室の主に警告す
172 教養論叢 136 号
る。痛烈な指摘は余りにも有名で,今日のわれわれの耳にも鋭く突き刺さる。
メフィスト「どんな利口なことを考えようと,どんな馬鹿なことを考えようと,す
でに先人の考えたことから一歩も出られないと知ったら,さぞ口惜し
がることだろう。─」[6809]
(大山:207)
メフィスト「どんな馬鹿げたこと,気のきいたことをオリジナルだと考えたところ
で,かつて古人の考えなかったことなどありっこないと,
そのうちお前も気がついて,大くさりにくさるだろうさ。─」
(山下:208)
このようにファウストとメフィストの好勝負が続く。それはまた後世の者ど
もがこの「ファウスト劇」への小賢しい所説を,どれほど,くどくどと大きく
展開し,説教しようと,全てはもう見え見えの世界であり,古今東西の裏を見
抜く魂胆をしっかりとあぶり出していると見える。警句一句に驚いてはいられ
ない。
「古代ワルプルギスの夜」Klassische Walpurgisnacht
ファルザルスの野,ペナイオス川の上流,下流,エーゲ海の入江と,舞台で
はギリシャ古典の世界に入る。時間も空間も入り混じる超越の世界に包み込ま
れる。
第一部のワルプルギスは現代の狂宴,第二部の古典の夜は神話,伝説の乱舞
する舞台だ。スフィンクス,エディプス王にメフィストが問いかけ,ヘレナを
探す。ファウストは美女を背に乗せた馬に跨り,女の美しさを一席語る。(S.
ここにはスフィンクス,アナクサゴラス,タレスも登場して,一場を盛
226)
り上げる。ゲーテ ・ ファウストの心をのぞかせる場面である。
古典ギリシャと入り混じるブロッケン山の魔女,エーゲ海を泳ぐ者も出て来
る。ここでは夢幻の境を語るとともに,ファウストが生きる時代,古典の世
界,さらに人間らしさを保つファウストの批評,論評も加えて,文芸作品たる
生命の血が脈々と流れる世界,活動する世界を創り出す。その場面を想像にま
かせて読み進むと,限りなく発展するポエジーの豊かさには興味津津の思いを
宇宙遊泳の芸術空間 173
深くする。原文の魅力に引き込まれてしまい,天地宇宙の時間と空間を超越す
る領域を自由に描いて,うたを満喫する詩人の創作世界を十二分に楽しませて
くれる。至福のひと時を味わうことができたといってよい。
この第二部のワルプルギスの夜の饗宴,自由な空間を読んで理解し楽しむに
は,ある程度ギリシャ・ローマの古典劇や神話・伝説に通じていないと,掛合
いの面白さは理解し難いだろう。専門家ならずとも全体の古典世界に関心と知
識があり,夢幻劇の掛合い問答に面白みを感じ,メフィスト,ファウスト,ホ
ムンクルスによる,時 ・ 空の前後入り乱れての大芝居を存分に楽しめるには,
広く深い背景への理解と知識が必要である。(自分だけが理解し把握できる,など
との思い上がりは慎むべきことだが,古典劇の教養は西欧文化を理解する基礎であるこ
とは改めて強調するまでもない。)
今の世からの一撃,反撃,論評,批判など,飽きさせない芝居の楽しみは底
が深い。原文で朗朗と声に出して読めば,韻文の楽しみ,ゲーテの才能と,人
間 ・ 神の論評との深さを味わわせてもらえよう。もう一度読みたいほどの魅力
ある第二幕だ。上演することは難しい夢幻劇だと知りながらも,やはり原文の
伝える韻律へと心を動かされる名場面といえる。
[筆者のつぶやき]
初めにも述べた通り,原文を読み,理解し,研究し,楽しむには,余りにも
徒労の多さ,大きさを想い,今回はテーマを絞っておいた。何百年に亘る大学
者の諸説を徒手空拳で迎え撃つのは笑いものになろうし,この二百年の間にも
ドイツ人学者がエッセンスの粋を絞り取ってなお求めているさなかに,いまさ
ら私のような先の短い命をかけても空しい。せめて一般の文芸愛好者が読む邦
訳の現状を知り,理解と普及に一石を投じることができればと願うのみであ
る。
それにしても,西欧文化のエッセンスを集めたこの作品『ファウスト』の言
語芸術としての豊さと奥深さについて,一度は煩を厭わず有志に語りかけたい
と想うこと切なるものがある。
174 教養論叢 136 号
第 三 幕
「スパルタのメネラス王の宮殿の前」Vor dem Palaste des Menelas zu Sparta
ツォイスの娘ヘレナ登場。この絶世の美女はトロイア戦争の多年にわたる空
しい争いの元となった。フォルキアスが語るように「この世で羞恥心と美の対
立は根深い」ため(S. 261),戦いは絡み合って長く続いた。これをホメーロス
に代って『イーリアス』の叙事詩の展開するままに語り描いて見せてくれる。
まさに王メネラス(メネラオス)の言う通り,ヘレナは生贄にされることにな
る。(S. 267)
[大山,山下両訳ともに「生贄」を用いるが,「犠牲」,「人身御供」に(いけにえ)を
添えるのも解りやすい表現ではないだろうか。]
ヘレナ 「無用の口論にずいぶん暇をつぶしたのだから,その埋め合わせに
いそいで生贄の用意にかからねばなりません。きびしい王のご命令
です。」
フォルキアス「すでに用意は整っております。」
「生贄はきっとあなたさまでございます。」
ヘレナ 「やはりわたしだったのですね。」[8919]
(大山:267)
(山下:269)
「城の中庭」Innerer Burghof
[場面は時代が神話・伝説のギリシャから中世に移る。]
フォルキアスの語りがヘレナの心を痛めつけるさなかに,明るい若者の行列
が苦痛の女王の前に到着。中世騎士の宮廷服をまとったファウストも混じって
いる。今風に言えば変身の術というべきか。
エロスの矢をヘレナが放つと,ファウストに当る。(S. 279)ヘレナとファウ
ストが身を寄せ合う(S. 283 ─ 4) とき,メネラス大王の軍が襲ってくる,とフ
ォルキアスは報せる。それに対し北方ゲルマン人,西方ゴート人の軍勢が,南
方の地中海地域の軍隊を迎え撃つことになる。話は古典時代のギリシャから,
中世ゲルマンの時代に変り,時空を超越した領域の夢幻の話に進む。ファウス
宇宙遊泳の芸術空間 175
トは現実界,ヘレナとメネラス王は夢幻の詩的世界。まさに芸術の自由空間で
のみ舞台は観客に語りかける。一方は現在の身を包む天にも昇る幸せ。他方は
亡き世と別れ,エロスの矢に当ったファウストに心引かれている。
この地上を揺るがす世紀の大戦乱の傍らで,現世の楽園アルカディアの比べ
ようもない素晴らしさ(S. 282 ─ 290)にうっとりと夢見るファウストに,ヘレナ
の心はすっかり魅了され,関心を引こうと努める。
ファウスト「わたしは,もう息ができないくらい。体がふるえ,言葉がつまります。
まるで夢のようで,時間も場所も消え去ってしまいました。」[9413]
(大山:283)
ファウスト「こうして,そろうものがみんなそろったのだ。
わたしはあなたのもの,あなたはわたしのもの。三人はしっかりと結
びあっている。」[9703]
(大山:292)
舞台にはすでに二人の間に生れた子供オイフォリオンが,胸にはリボンをつ
けて,まるで幼いアポロンのような姿で二人に加わって,「木かげの濃い森」
へと場面をつないでゆく。
「木かげの濃い森」Schattiger Hain
このタイトルは大山訳にのみ現れる。原文ではト書きに出るだけ。ハンブル
ク版の注解頁には柱として立っている。山下訳は原文通りト書きに入れてい
る。これも訳者の判断だが,詳細に見比べれば両者の訳には違いが少なくな
い。大山は詩人ぶって,気取った表現を使いたがる。この中見出しのように。
「緑濃い木陰」で良いだろうに。「木蔭の多い緑林」(山下)のもとは Schattiger
Hain なのだが。原文では「舞台はすっかり替る。岩礁の続くなかに閉じたあ
ずまやが何軒か建ち,緑濃い樹林が周囲の岩場にもとどいている。」(あえて拙
訳を載せてみた。)両者の訳は明らかに違っている。緑陰で髯面男の見るのは
「ヘレナとファウストの,奇蹟の邂逅の解決やいかに,」[9579]
(大山:288)
176 教養論叢 136 号
「奇蹟を信じてその決着をひと目見届けようとお待ちかねですな。」
(山下:291)
訳の違いは歴然!「邂逅」は今ではまず使わない。良し悪しの問題ではない。
読者の好みではなく,読者に理解しやすく,自分の表現を再考してもらいたい
ところである。
アルカディアの岩の奥の彼方の世界に愛の生活を送るヘレナとファウスト。
そこには少年オイフォリオンも姿を見せ,その彼もまた少女を熱愛している。
少年は歌う。戦いでの勝利を切望し,戦(いくさ)の詩を歌う(S. 296)
(合唱の
。二人の愛の結合によって生まれたオイフォリ
脇にはバイロンさえも登場。S. 297)
オンは古代と中世の,架空と現実の一体化であり,二人の間に生まれた子は創
造の象徴となる。作品『ファウスト』の中心課題なのか,単なる愛の結晶,子
供誕生の奇蹟か論じるまでもない。
現実の課題が迫ると,ファウストに抱かれたヘレナは一切をヴェール,衣裳
もろともに雲上に消え去って行く。(大山:S. 298 ─ 9) (山下:S. 301)
ヘレナ「美と幸福とが長くいっしょにいることはできないという
古い言葉を,わたしは残念ながらこの身に思い合わせますわ。
命の緒も愛のきずなも,きれてしまったのです。」[9940]
(大山:298)
(山下:301)
ヘレナは昔からの古い言葉の真実を実感することになる。二人はヴェールに
包まれた冥府のベルゼフォーネの王座へと飛翔する。(大山:S. 298)
場面の終りにコロス(合唱)がゲルマン民族の生きる世界の素晴らしさを賞
讃し,その活動領域内での神の創造物の偉大さを絶讃して,アルカディアへの
讃歌で締めくくる。
[筆者のつぶやき]
ここまで読んでみると,訳者の想像を絶する語学上のご苦労が,芸術作品を
味読する楽しみで償われるのかと考え込む。訳業は素晴らしい出来栄えとの賞
讃につきる。
宇宙遊泳の芸術空間 177
第 四 幕
「高山」Hochgebirg
西遊記の孫悟空のように,雲に乗って現実の世界のけわしい岩場に降り立っ
たファウストは,理想の王国をこの地に建設しようとの夢の構想をメフィスト
に説くが,悪魔は冷たく受け流すのみ。ファウストは第二幕で時空を超えて夢
幻の世界で,美(芸術)と思想(人生哲学)の融合,結合の理想を実現し,体験
することを経て,いま再び地上の現実世界へと舞い戻ってきたわけである。メ
フィストも七里靴を履いて駆けつける。ファウストは夢の国家の建設をこの冷
たい男に説き聞かせる。この地上に理想とする王国を建設し,これまで抱いて
きた夢の架空世界を,自分がいま立つ現実世界に根付かせようとする。このシ
ーンはファウスト独演の「理想の王国建設」の語りとして,大いに読み応えあ
る,観せる魅力あふれる場面となっている。原文でゆっくりと韻律の妙を楽し
むべき語りと思われる。
悲劇を体験し,夢想の境を彷徨した,悩み,迷える人間ファウストが現実世
界に舞台人として立ち,相互の理解(Annäherung) の心を伝え,理解を深める
場面として強く印象に残る。
[筆者のつぶやき]
「ファウストの描く理想国家建設」のテーマは敗戦直後の平和を望む世に,
研究者,一般読者,そして専門学者にも少なからぬ明るい話題を提供したもの
である。しかし宇宙空間の夢と,現実の地上における生身の新国家建設では,
比較にならぬほどの違いがあろう。短い時期ながら歴史が現実の人間社会でそ
れを証明している。
「前山の上」Auf dem Vorgebirg
架空の世界で戦う皇帝軍と偽皇帝軍との戦闘場面は,現実に見る実戦さなが
らで,だまし,だまされの戦略を張り合う対戦のようでもあり,また一方で時
代を超えた勇士や魔法使いが活躍し,メフィストの張り巡らした思惑で,作戦
が勝勢のように思えたり,敗勢を招いたりして,結局は皇帝軍敗北の形で終
178 教養論叢 136 号
る,夢想の一景なのかと思われる。
しかも勝利した敵軍の偽皇帝軍も,悪魔の手の平の上で,洪水や大きな破壊
によって人間どもが喘ぐ情景をあざ笑うかのように描いている。まさにメフィ
ストの操る夢幻劇なのかと思わせる場面である。それはしかし中世の人間社会
の空しい争いを鋭く批評し,現実の政治における人間劇の醜い姿を語るもので
あろう。それがまた,現実と架空の世界,時空を超越した超空間での芝居とな
っている。過去の遺産と現在の社会の入り混じる情景に思えるのは私のみであ
ろうか。
メフィスト「結構な昔の時代に戻ったように,騎士らしく打ち合う音がしますね。
籠手やら脛当てやらが,教皇党になり王党になり,
たちまち永遠の争いをくりかえします。」[10770]
(大山:322)
(山下:327)
身近な世界に起ったパソコン遠隔操作事件は,メフィストの思うがままに史
上の人物を走らせる自由奔放な架空世界の操縦術を想わせる。悪魔はファウス
トの運命に狙いを定めて手練手管の限りを尽くしてドラマに展開させるが,不
可視の電波の飛び交う妙にみせる犯人の慢心の技術からは,小心者の汚い自己
満足のけがれのみが腐臭を放っている。
「僭帝の天幕」Des Gegenkaisers Zelt
[対立皇帝の天幕の方が良いと思うのだが](「僭帝」は鷗外に拠るらしい。)
前の場面からするとトロイア戦争の情景かと思われるが,時空超越の夢幻境
では,ギリシャの古代から中世の安定期までの戦争シーンと思えば良いのだろ
う。多くの家臣,臣下どもが皇帝の前に参上すると,皇帝は新王国の建国方針
を明示した。悪魔のチョロチョロする戦いであったが,人間どもは勝利とか敗
北を混乱のうちに味わった。大宰相は身を引き,最後に大司教が宗教界を代表
して,皇帝にキリスト教世界への多大なる寄進を求めて幕を引いている。
メフィスト「能力ある人は宣言した。安らかに国を治めるのが君主だ。
宇宙遊泳の芸術空間 179
しかし,皇帝は治めようともせず,治める力もない。
われわれは新しい皇帝をえらんで,国家に
新しいたましいを吹き入れる。
それで,個人を安全に保護し,平和と正義を一つにむすんだ
新生の社会をつくるのだ,と。」
ファウスト「偽善者か坊主でもいいそうなせりふだ。」[10279]
(大山:309)
(山下:312)
無能な皇帝を操るメフィストの爼いに対し,ファウストもきびしいひと言で
切返していた。トロイア戦争の結末,中世の十字軍遠征,カトリック対プロテ
スタントの新旧宗教対立,農民三十年戦争と続く,古代から中世の戦乱に相戦
う人間の浅ましさ,悲劇を超時間 ・ 空間に織り交ぜて,新国家建設の理想の方
向を明示している。(S. 329 ─ 30) 中世におけるカトリック大聖堂を建設する教
会への寄進,市民協力を得る歴史的過程を描いていると見ることができる。中
世のファントームがそそり立つ情景は,ヨーロッパの虚像のシンボルであろう
か。今も大聖堂の鐘は鳴りつづけているのだが。教会の役割のウラとオモテを
のぞかせて,評判の悪い男ファウストに海岸の利権を与えることになるのは,
つまり海岸に港湾施設を建設すること,海上航路建設の夢(ドイツ人だけの夢と
は思えないところだが)とつながるのであろうか。海に生きる日本人の立場から
もいささか気になる夢である。今日の科学技術からすれば,空港施設建設を超
えて,宇宙ステーション発進基地建設の話にも飛躍しかねない,大発展の空想
に過ぎないとは言い切れない大風呂敷ではないだろうか。
第 五 幕
「広々とした土地」Offene Gegend
若い日の思い出の地に小屋を訪ねた旅人は老人夫婦に挨拶しようとする。バ
ウキスとフィレモンである。[大山訳では「老母」と「老父」とするが,山下訳は
「老女」と「主人の翁」
;今風な言葉遣いなら,他人にも「おかあさん」「おとうさん」な
のだろうが,私なら「老夫婦」が良いと思う。]
180 教養論叢 136 号
まだ海が目の前に迫っていた頃,波打際に打ち上げられた旅の若者と見た浜
辺には,港が造られ,堤防も高く,開発された土地はにぎわいを見せている。
第四幕終りでファウストに海岸を与え,開発を一切任せた皇帝の意向(わずか
2 行だけに過ぎないのだが)はこの第五幕に接点を得ている。
旅人と浜に立つ老夫婦は,ファウストの行った新開発地域の現状をこう報告
している。
フィレモン 「荒波がしぶきを飛ばして,
おまえさんをひどい目にあわせた海が,
一面の花園に変わってしまったのが見えるでしょう。
まるで天国のような景色です。」[11083]
(大山:332)
バウキス 「夜,たくさんの火が燃えていたあとに,
あくる日はりっぱに土手が築いてございました。
生贄にせられて,血を流した人もあったとかで,
夜になると,苦しがって泣く声がいたしました。」
[11125](大山:333)
これに続く小屋の焼失,老夫婦の焼死との対比を語るためなのだろうか,新建
設地には堤防内に緑も濃く,牧場も広々として,人々の活動する別天地となっ
ている。森も村も新たに造営されたが,いずれも皇帝の威光の下に行われたこ
とで,中には苦行を強いられた者も少なくなかったが,一夜にして翌朝には立
派に出来上がるという手際に,フィレモンは昔ながらの神の所業と信じていた
という。
[筆者のつぶやき]
『ファウスト』の出来具合はエッカーマンとの対話にも事情が述べられてい
るように,第三幕の次に直ぐ最終の第五幕へと書き進んで,終幕に達した。ま
とめの章となる幕はすでに書き上げられていたわけなので,残る第四幕を後か
ら荘重な語りによって加えている。そのためか前後の話のつながりを意識し
て,歴史に残る戦乱を舞台に繰り広げ,次の第五幕に戦乱後の新国家建設の夢
を託することになった。ファウストが戦乱の世を自らも傷つき体験した混沌の
宇宙遊泳の芸術空間 181
世に,「新王国建設」という願望に生きる人間の理念を寄せて,最後の章をま
とめているのが作者の狙うところであろう。「夢のまた夢」を末期の淡い願い
に託したところは,太閤秀吉の抱く泰平の世への想いと重なるとも読みたいと
ころ。
「宮殿」Palast
目の前の港に出入りする船,物語の架空の地域だろうが,ゲーテの頭の中で
は,ヴェネチアかハンブルク,またはブレーメン,イタリアの港町ナポリがイ
メージとして浮ぶのであろうか。ゲーテは『イタリア紀行』でシチリアへ渡る
とき,時化で船は大揺れ,海の恐ろしい本当の姿を知っている筈だが。鋭い一
言「戦争と貿易と海賊は三位一体(の仕事)」(S. 335)こそ,まさに海は誰にと
っても宝庫なのだ,と詩人が見抜いている証しである。現代に生きるわれわれ
も改めてその歴史の語る重みを確認しなくてはならないだろう。
「夜ふけ」Tiefe Nacht
冒頭の望楼守リュンコイスの抒情詩はゲーテの白鳥の歌でなくて何の意味を
訴えるのだろう。これまでに見てきたのは「みんなうつくしかった」(大山:
S. 338) 世界なのに,いま足許の暗黒の世界からの,眼を被いたくなる悲惨な
「現実」を目の当たりにして嘆き悲んでいる。名抒情詩にあげられている原詩
(11289 ─ 11338)の描く状景は「全て美しい姿」であったが,望楼守リュンコイ
スの足許では火災が起こり,フィレモンとバウキスの住む小屋も焼け落ち,二
人とも焼死する「痛ましい現実の姿」。まさにゲーテが見てきた明と暗そのも
のを望楼守に歌わせているのだ。
ファウスト「言葉はいまここに聞えても,嘆きはもうおそい。
望楼守は悲しむが,私の心には無残な行為が,痛々しいかぎり。
」
(拙訳)
[11340](大山:S. 339)
182 教養論叢 136 号
「真夜なか」Mitternacht
[
「真夜中」で良いと思えるが。山下訳は「夜半」]
ファウスト「おれは世の中を駆け通った。あらゆる歓楽をむりやりに髪の毛をつか
んで引き寄せた。」[11433]
「この世の中はもう知りぬいた。天上のことはおれにはわからぬ。」
[11441](大山:341 ─ 2)
人生の放浪の末にファウストが口にするこの告白はこの芝居の総括となるセ
リフに思える。解説も註も大山訳はなかなか面白く読ませてくれる。
ファウストの心は人生を歩んできた道を語り,「憂い」
(die Sorge)が変わるこ
となく我が心に住みついて悩まされ,人生の決算をこの場面で語ろうとする。
(なかなか読み応えのある場面で,原詩を読むたびに理解と共鳴の想いが深まる。)ファ
ウストは「憂い」により呪いの息を吹きかけられ,盲になる。ついに眼にする
ものが全て見えなくなり,心の中の明るい光を追うだけとなる。(S. 343)天上
からの招きを待つのみのファウスト。
「宮殿の広い前庭」Großer Vorhof des Palasts
盲になったファウストはもうこの世に満足して言う。
「まあ待て,おまえはじつに美しい」[11582]
(大山:345)
と人生を振返って肯定し,あの世への死霊の導きで命を終える考えとなる。
しかしメフィストは反論し,
「過ぎ去ったのも,何も無かったのも,要するに同じこと」[11597] (大山:346)
「永遠の創造」を無に追いやり,「永遠の虚無」を愛する本音を告白する。
宇宙遊泳の芸術空間 183
ファウストの心では
「自由と生命をかちえんとする者は,
日々新しくこれを戦いとらねばならぬ。」[11575]
(大山:345)
ここでもやはりメフィストはファウストの相棒として存在する価値を見せ,ゲ
ーテの心中における相克をのぞかせている。
「埋葬」Grablegung
ファウストの絶命のシーン。沼沢池の毒気がこの地に害悪を与えている。新
天地の開発。これを掘って整備したいファウストは人夫に仕事を命じる。これ
はシュティフターの『家系』
(Nachkommenschaften)の最後の仕事場が,このファ
ウストの最後の場面を意識して,新開拓地の地質調査とその整備に触れている
のと関連しているものと思われる。
メフィストがファウストの霊魂を抜き取らないうちに,地獄の火炎が口を開
き,多くの悪しき者は地獄の底へと陥ちてゆく。(S. 348)メフィストは地獄の
劫火に焼かれそうになる。しかし聖なる者は救われて天使たちにより天上へと
迎えられる。作者の心はその悪の使者メフィストの惨めな結末を期待してい
る。戯曲を読む者もそれを待ち望み,思い通りの結果に安
するのは通俗過ぎ
るのだろうか。
天使たちの誘いに右往左往して迷い,愛の力に翻弄される男ファウスト。こ
の思いに悩める者の霊魂を天使たちが抜き去り,最後まで苦しむ男ファウスト
は昇天する。(S. 353)こうして幕は下り,感動の場面で美しく終ってほっとす
る気持になる。
「山あいの谷間」Bergschluchten
天使たち 「たえず努力していそしむものは,わたしたちが救うことができます。」
[11936](大山:356)
「誰にせよ,つねに高きをもとめて努めはげむ者を,私たちは救うこと
184 教養論叢 136 号
ができます。」
(山下:362)
この天使の歌声はドラマの冒頭「天上の序曲」に交される主とメフィストの
けに対応する。(主 「人間は努力する限り迷うものだ。」[詩行 317]主の御心の人
間への信頼を天使も信頼している。)
聖なる天使に救われる魂の苦しみ,嘆き。そして救出される喜び。聖母がこ
こに登場する。(S. 358)グレートヒェンもこれに集い,聖母にファウスト救済
を懇願する。(S. 359)
こうして天空にさ迷う男ファウストは最終的に救済にいたる。われわれ東洋
の人間には天女の舞う曼荼羅の極楽浄土にファウストが到着しただろうか,ま
ず気に掛るところである。
しかしこの最後の救いにいたる“ das Ewig - Weibliche ”
「永遠の女性」(大山),
「永遠の女性的なるもの」(山下),[「永遠なる女性的なもの」と私なら邦訳したい]
という表現は百人百様に解釈が多岐にわたっている。これまですでに何本も,
何十本もの大論考が書かれているし,これからもさらに続くことであろう。
それにしても作品の主題となるべき「救済」のテーマは,第一部,第二部の
終りでこのように確認され,各訳者も各様に考察を深め,日本語の表現を競っ
ているように思われる。筆者もこのテーマについては稿を一新し,改めて本格
的に論じる機会が得られればと願っている。
とにかく終幕の場面は観客に大いに考えさせるよう,天使たちの合唱が状況
をくどいほどにドイツ的な徹底した描き方で,深く広い領域への問題提起の結
末となっている。
最近も他人に化けて人の心と身体を脅かし続ける PC マニアは,身を隠して
悪事がばれないとほくそ笑んでいたが,このファウスト劇では,神に挑戦する
悪魔と神を信じながら迷う者との派手な一騎打ちを,神の手の平の上で演じ,
一方は天上へ,他方は地獄の涯の奈落へと落ちる。舞台廻しの主役となるメフ
ィストの名演技も,神の前では小賢しい独り芝居に終ることをゲーテは語りた
いのであろうか。それにしても,幻妖の術を誇るメフィストも,現代における
幻術に長ける奇想天外の哀れな企みには驚嘆するほかあるまい。
宇宙遊泳の芸術空間 185
初めにも述べたように,話の筋の初めと終りだけに気を奪われずに,それま
での話の進み具合を,どのように芝居を展開し,迷うファウストと悪のメフィ
ストとの取り合せを描いているかを味読すべきことと,改めて思いを深くする
作品であった。
また詩行の内容の豊かさに優るとも劣らない韻律の妙に,詩人ゲーテの天与
の才能にただただ驚くばかりであった。語られる鋭い人生智,天空にも及ぶ世
界像もさることながら,歌声の奏でる韻律の豊饒に耳を閉じる愚をおかしたく
ないものと,改めて心に刻み込んだ。
『ファウスト』再読を楽しむ─あとがきにかえて─
近頃『ファウスト』のドラマの世界が気に掛っていた。第二部というのは夢
幻劇であり,それなら第一部は前提となる現実劇ということであり,舞台上演
の芝居である。ならば第二部は台本に過ぎないというより,読む戯曲と言うべ
きレーゼドラーマという対比になろう。文学における幻想,希望へのあこがれ
に心引かれ,夢幻劇を読んでみたくなったので,それならまずは第一部をざっ
と通して日本語で読んでみようということにした。
しかし第一部を読むといっても,ドイツ語で読むとなると,二百年にわたる
偉い大先生の講釈を聞き,ドイツ語原文に取り組むとなると,老い先短い自分
自身が死んでしまう。
そこでまずは『ファウスト』全体を通して読み流すということにして,日本
語の翻訳で読み,並の教養の人が,標準感覚の日本語で,漢字混じりの韻文劇
を読む場合を想定し,ごく解りやすく,すらすらと読めるかを検討しながら,
芝居として,また物語として,『ファウスト』第一部を日本語として声に出し
て読んでみることにした。現代人に作品が如何に日本語で伝えられているかを
経験する良い機会ともなると,自分に言い聞かせた。
私の積読(ツンドク)の書として手許にあるのは大山定一訳(人文書院 1960),
山下肇訳(潮出版社 1992),それに相良守峯訳(ダヴィッド社 1959)。どれにしよ
うか迷った。(鷗外訳は別格。ほかに秦豊吉平叙文訳,木暮亮物語訳,阿部次郎訳など
186 教養論叢 136 号
は書庫に眠る。)数え切れない多くの新訳は追わないことにした。
大山,山下の解説を読むと,大山は他の先訳を取り上げず,ドイツ,フラン
スの有名詩人作家の反響に触れるのみ。山下は邦訳に触れ,弟子筋からの評価
の高い手塚富雄訳,高橋義孝訳も取り上げ,それぞれの解釈,解説の意義をか
なり詳しく語っている。
よく考えた末に最新版にこだわらず,詩人らしい気取りの大山定一訳で読む
ことにした。
読んで,聞いて,見て納得『ファウスト第一部』
ゲーテの老齢を超える現在の我が身には,冒頭の「捧げることば」からし
て,まさにズバリと的中する名句にあふれ,詩人の八十年にわたる洞察の本音
が胸に迫り来る。平土間に座して聞き入る境地となる。このような過ぎし日の
栄光を回想して,ゲーテが何を言わんとするかを考えながら読み進むと,これ
までひたすらドイツ語の韻文の一語,一句,一節の意味を正しく捉えようとし
た背後に,層をなして見える人生の叡智というべき独特な世界が心に浮び上が
り,考える心の余裕を感じることができた。
まず冒頭から日本語訳の冥利をたっぷり味わい,読み,考え,日本語の意味
と表現を感じ取り,『ファウスト』の芸術作品としての本来の価値を考えなが
ら読んでゆくと,第一部の話の展開が深くまた面白く理解できたのはうれしか
った。初々しい喜びとも言えようか。
つまり作品を原語で読み,研究していると,一般の常識人の理解する日本語
の範囲と異なる世界へ入り込み,文芸作品の意義を考え味読することから離れ
てしまうことになる。爽やかに感じながらも心に覆い被さる仕事ということに
なり,研究に心は呻吟するようになり,〔作品を読む〕心が稀薄になってしま
うのだ。
今回はこの日本語の魅力を十分に味わい,数十年も育んだ自分の感性も,知
性も,情感も全てを込めて,素直な気持で作品を味わい,事細かにメモワール
をつけることができた。
建前としては大山訳を読むことにしたが,気になる個所は山下訳を読み,両
宇宙遊泳の芸術空間 187
者を比較し,意味や表現の差があるときには,しっかりとメモを取って,表現
の巧拙,セリフの効果を言葉にして確かめた。判断に迷う時は Hamburger
Ausgabe で詩人の本意を探ってみた。
たしかに翻訳で日本語『ファウスト』を読むことに強い抵抗感を抱き,低次
元の学生の読書・斜め読みと見る旧世代の人もいるようだが,立派な母国語と
は雲泥の開きをみせるドイツ語の知識で,辞書や解説と首っ引きで,ファウス
ト・ゲーテの世界に切り込み,ひとり悦に入る姿を思うと,同僚として情けな
い限りだ。専門家としての絶対読書量の大差,知的言語資産の別次元の差異を
思えば,違いは決定的と言ってよい。
こうして第一部を読み込む十日間は,話の面白さに引き込まれ,日々の外界
の変化も忘れてドラマに没入した。
個々のテーマに引っかかって足踏みすると,全体の話の流れがつかめないの
で,なるべく後ろに身を引いて読むようにし,全体の話のテンポ,流れを逸す
ることのないようにと努めた。すると第一部の構想の中における各シーンの持
つ意味を考え,その役割を全体の中から評価することができた。例えば『ワル
プルギスの夜の夢想』とか,『アウエルバッハの酒場』の狂態をゲーテは何と
考えているのか,何を言いたいために入れたのかという疑問が再び,いやまた
新たに湧いて出る。必要なのか不用なのかと,心中の問いは深まる。
こんな場合にはあまり諸先生の判断や解釈は深く読み取らないことにしてい
る。なぜか。それに引き込まれると,私たちには立ち向かえなくなる深淵が待
ち構えているわけだ。考えないのではなく,研究の泥沼に引きずり込まれない
ようにしなくてはならないからだ。一年も二年もかけて,いや五年も十年もだ
らだらと『ファウスト』を研究していると,全体像が捉えられなくなってしま
う。ファウスト学者なら別だが。できるだけ,読者であり,観客となった立場
で,お芝居を読み,舞台でのやり取りを耳に聞いてみたい。作品の流れに集中
することで,第一部を面白く楽しむことができたし,詩人ゲーテの歌う人生論
が自分にもぐっと近付いてきた。1974 年ミュンヒェンで名優グリュントゲン
ス(G. Gründgens)の名演を観て聞く機会に恵まれ,演劇空間を分け合ったとき
の感動は今でも新鮮さを失わないで心に残る。「解んのか」と一階中央席の隣
188 教養論叢 136 号
のドイツ人に聞かれた。私は胸を張った。
『ファウスト』へのアタックはこの五十年間で五たび挑戦。1948 年舞台中心
の『 第 一 部 』(L. Winkler 三 田 );73 / 74 年『 フ ァ ウ ス ト 論 考 』(G. Kaiser)(G.
;86 年『第二部・ゼミ』(W. Keller);75 ─ 78 年「
『ファウスト』の韻律」
Baumann)
輪読会と多様な研究を経験。
二十数年前,クニットリンゲンに中世の錬金術師ファウストの里を探訪した
が,魔術師の気配は乏しく,明るい陽光のもとで子供たちの歓声に迎えられ
た。Faust-Museum, Faust-Archiv, Knittlingen BW は静かに眠っていた。ネット情
報もあるが見ていない。
〔書慣れた日本語を用いた。ご賢察いただきたい。〕
Fly UP