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有島武郎のヨーロ ッパ紀行 (四)
有島武郎のヨーロッパ紀行︵四︶ @ワイマール︵2︶ 坂 上 博 一 壬生馬もまたゲーテ崇拝においては人後におちるものではない。彼もワイマールの雪景色を礼讃しながら、ゲーテ崇 拝の由来を語る。それによれば、ゲーテの名は早くから聞き知っていたが、﹁若きヴェルテルの悩み﹂をきっかけに、ゲ ーテ崇拝者の列に加わり、ゲーテの肖像画の写真、全集の美本、伝記を見聞きするにつれ、生きている人のように思い 慕って、心ひそかに指導者と仰ぎ、尊重したということである。とりわけ壬生馬は﹁ヴェルテル﹂や﹁ヘルマンとドロ テア﹂を高く評価し、それによって渇仰を深め、ゲーテを目標としたのは天然の黙契でもあるかのように述べているの である。そのような壬生馬にとって、今ゲーテの住んだワイマールにはるばるやって来て、その古家旧跡を訪い、その 歴史を読み、ゲーテのかつて見たと思われる丘陵、小川、林を見て悦喜の情を催すのは当然であった。そのような思い により、美しい自然は一層美しく映ずるのであった。そして更に彼はワイマールの雪景色を讃美の念をこめて、綿々と 綴って行くのである。ここには美術家の眼と文学者の眼との幸福な融合が見られる。このような壬生馬のゲーテ傾倒は やや異常にも思われるくらいであるが、彼もまた﹁ウェルテル﹂に代表されるシュトゥルム・ウント・ドラングに捲き 一151一 19 こまれた青年の一人であったのであろう。 日本のウェルテル熱は明治二十年代前期に始まる。日本浪漫主義の立役者高山樗牛は、明治二十四年﹁山形日報﹂に 英語からの重訳であるが、﹁若きウェルテルの悩み﹂を﹁准亭郎の悲哀﹂と題して発表した。次いで明治二十六年から七 年にかけて、森鴎外主宰の﹁しがらみ草紙﹂に緑堂野史︵誉田肇︶が﹁わかきヱルテルがわづらひ﹂と題して原典より の訳を連載した。そして明治三十七年には、久保天随の完訳﹁ゴルテル﹂が刊行されたのである。﹁ウェルテル﹂に見ら れる情熱的恋愛と個我解放思想はウェルテリズムと呼ばれて、バイロンの﹁チャイルド・ハロルドの遍歴﹂などと共に、 浪漫主義を志す日本の多くの青年に大きな影響を与えたのであった。 そのような壬生馬の文章に触発されたのか、有島もまた己のゲーテ、シラー体験を細かく書き綴る。正にこのワイマ ールでは、ゲーテ、シラーに取り懸かれた如き有島兄弟であった。有島のゲーテ、シラi摂取の跡を辿ってみれば、回 想はまず白鳥氏︵国史学者白鳥庫吉︶の塾に居た時、同氏が土曜日の小話会にシェークスピアの独訳とゲーテの詩集を 持って来て示した時に強い印象を受けたという体験に始まる。次いで札幌に行った後には、内村鑑三の﹁求安録﹂に﹁フ ァウスト﹂の夜の黙想の一部が訳されてあったのを心深く読んだりした。そして﹁彼レ﹂が東京から取り寄せたゲーテ 親友森本厚吉ではなかろうか。その頃有島はシラーの﹁群盗﹂﹁オルレアンの少女﹂﹁鐘の賦﹂などを英訳で読んで打た あるので、これが明かに札幌時代を意味するとすれば、壬生馬ではない。とすると、定山渓で生死を共にしようとした に登場する﹁彼レ﹂とは誰のことであろうか。﹁彼レと我トノ間二苦悶ノ世来リシ時、彼レガ東京ヨリ購ヒ寄セタル﹂と スラ留メ﹂たのであった。ここにもまた﹁ウェルテル﹂に取り葱かれた多情多感な青年たちが居たのである。所でここ て﹁“若キ悲ミ”ハ一夜ハ彼ノ手一二夜ハ我ガ眼に繕カレ曝サレテ、其表紙ノ薄キ紙ハ落チペーヂニハ赤青ノ条、涙痕ヲ の、、ωo嘆o≦oh芝Φ﹁8実とバークの,.じuΦ窪昌9。コαω二げ=ヨΦ.、とは﹁我等﹂の眼には天啓とも映ったのであった。そし 一152一 れ、ゲーテの﹁魔王﹂、シラーの﹁希望﹂などを暗記したりもしている。また﹁ファウスト﹂の英独対文をアメリカから 取り寄せ、特に憐れなマルガレートの窓に僑って歌う小唄、教会の門前に泣き倒れる悲しい煩悶、牢獄の悲劇などに深 く心を動かされ、白衣を着たマルガレートを部屋のカーテンにまざまざと見たということもあった程であった。﹁ファウ スト﹂と﹁ウェルテル﹂はその後帰京した後もくり返し読むのを楽しみにして、後者の如きは八回にも及んだのであっ た。この時期の有島は特にゲーテのロマンティシズムの面に強く惹かれるものがあったのであろう。 ハーバーフォード在学中には、ゲーテの﹁ギョッツ・フォン・ベルリッヒンゲン﹂﹁ヘルマンとドロテア﹂、﹁シラーの ﹁ウィルヘルム・テル﹂など読まされ、特に﹁ヘルマンとドロテア﹂の牧歌的情緒には感銘を受けること大きく、調読す ることも度々あった。しかしその後は古典思想、文学より現代ドイツ文学や北欧文学に関心が移ったため、ゲーテの﹁ウ ィルヘルム・マイステルの徒弟時代﹂を読みかけたが果たせず、ゲーテとカーライルの書簡集を興味深く読んだに留ま ったのであった。以上が有島のゲーテ、シラー旙読体験であるが、この両詩聖ゆかりのワイマールに来て、再び両者へ の憧憬はかき立てられたようで、この日、十二月十日の日記は次のように終っている。 ﹁我ガ此二詩聖トナシ得ル今後ノ交渉ハ如何ナリユク可キカ。願クハ我ガ凡劣ナル智情ノ火ヲカキ立テ・、何ノ時ニカ 彼等ガ霊薬ノ浄音裡二適遙シ得ルノ喜ビヲ得ンコトナリ﹂ 翌十一日は先ず雪の中をゲーテ・シラー・アルキープ︵古文書館︶を訪ねている。イルム河の対岸にある広い一構え の館であり、一八九六年完成という創立間もないためか閑散としていた。階上にはゲーテ、シラーとその友人たち、ヘ ルデル、ウィーラント、バイロン、ハイネ、シュタインなどの手稿類が陳列されていた。ゲーテのものには﹁ウェルテ ルの悩み﹂﹁ファウスト﹂﹁イタリア紀行﹂﹁ヘルマンとドロテア﹂など、シラーのものには﹁ウィルヘルム・テル﹂﹁ワ レンシュタイン﹂などがあり、その他高橋五郎訳の﹁ファウスト﹂﹁独逸奇謹狐の裁判﹂なども飾られていた。前者は明 一153一 治三十七年の部分訳のもの、後者は高橋ではなく、明治十七年、井上勤訳のものであろうか。有島がどんな思いで、こ れらをのぞき見たか察するにあまりあるものがある。それにしても驚きに耐えないのは、このようなものをきちんと保 存、保管して後世に伝えようとしてきたヨーロッパ国民のその産み出した天才に対する畏敬の態度であった。有島はこ の時、彼我の文化の厚みの差にまたしてもつくづく思いを致したのであろう。この日は午後はスケッチを試みたり、の んびり公園を散歩し、美しい自然の中に浸って深い休息を味わうのであった。まことに充実し恵まれたワイマールの日々 であった。 翌十二日には王宮を訪ねている。ここには付属教会の他、ヘルデル、ゲーテ、ウィーラント、シラーの間などがあり、 それぞれのフレスコ画があった。 またその東方にはゲーテのデザインした建物があったが、ルネサンスの中期趣味を目指して純ドイツ趣味を入れまい としたこの建物は、ゲーテびいきの有島にとっても感心できなかったようである。ヴァチカン宮などに見られるブラマ ンテのドームと柱との調和の試みを失敗と見る有島は、ここにもそれが繰り返されているとし、全体の表す趣味と感情 は専らギリシア文化の影響を受けた南方のそれとしている。また装飾品には十八世紀のフランスの好尚が反映していて、 ドイツ文化の独立の旗を翻したゲーテも、遂にかの浮華嬌麗な傾向を捨てることができなかったのかと慨嘆している。 やはりここには、かつてアッシジでも感じられたゲーテと有島との趣味の食い違いが微妙な形で出ているように思われ るのである。 次いで、公爵家の創立にかかり、二十五万の書、八千の図を集めたという図書館に行く。案内者に従って蔵書室に入 ると、書籍以外にゲーテ、シラーの半身像、シラーの死顔の原画、ゲーテの採集した喬木の標本、フリードリッヒ大王 の用いた杖などがあった。またゲーテの読書に耽った一室もあり、そこからはシュタイン婦人の住んだという長屋のよ 一154一 うな一棟を見ることができるのであった。 ゲーテ、シラー以外で、このワイマールに大きな関わりのあるのは、作曲家フランツ・リストである。リストはゲー テ公園の西側のベルベデーレ通りに面した家に、一八六九年から一八八六年に没するまで住んでいたが、中は彼の遺品、 資料などを展示した博物館になっている。有島はこの日、食後ここを訪れる。中に入ると、三十年以上リストに侍した という上品な老女が、リストに対する無上の尊敬をこめながら、彼の謹厳で温雅な人柄などを語りながら案内してくれ た。そこには日曜の集会の後筒って必ず眠った長椅子、床の傍のキリスト像、サン・フランシスコ像、毎夜指ならしを した無絃のピアノなどがあった。 この日はまた、案内者を得て、ゲーテ、シラーの棺をも収めたフリードリッヒ・ホフの公爵霊廟に行っている。戸を 開けて入ると、そこは永久薄暗の世界である。幽かにランプの火の灯っている暗い石窟の中に降りて行くと、古い公爵 家の棺はさながら死者のように累々と横たわっており、その中階段に最も近く二つの樫の大棺がひたと接して並んでい たのが、ゲーテとシラーのそれであった。棺の一端にはゲーテ、シラーと書かれ、頭の方には金属性の月桂冠が飾られ てあった。ゲーテのはポーランドの贈ったもので白金、シラーのはハムブルグの贈ったもので銀であった。畏敬する両 詩聖の棺を前にしての有島の感慨は如何ばかりであったろうか。こ,の夜もワイマールの夜は静かに静かに更けて行った。 翌日は朝から晩まで画を描くことに余念なく、夜はかつて﹁ファウスト後編﹂やワグナーの﹁ローエングリーン﹂の 初めて試演された、ゲーテとシラーのモニュメントのある由緒古い劇場で、シラーの﹁メッシナの花嫁﹂を見る。かく てワイマールの五度目の最後の夜はまたも静かに静かに更けて行ったのであった。 十二月十四日、遂にワイマールに別れを告げる日はやって来た。﹁名残ヲ惜ム可ク朝四度勺蝉蒔二至ル。水二臨ミ林ヲ 眺メナド、行キ行キテ遂二〇げ臼芝①巨費二至ル。地二別ル・ノ悲ミニシテ此ノ如ク切ナルハ我等ノ多ク味ヒ知ラザル 一 155一 所ナリト云フ可シ﹂と、有島はワイマールに別れる哀惜の情を披歴する。そしてゲーテに対する最後の追慕をO費8コ 閏磐ωに行って果す。ここはゲーテが七年間過ごした所であり、室内には簡素を旨として、改めてゲーテの人柄を想像さ せるに十分な所であった。 かくて午後二時半、汽車でワイマールを去る。まことにゲーテ、シラーに明け暮れた︸週間であった。 @アイゼナハ 次の目的地はバッハを生み、ルーテルやワグナーにゆかりの深いアイゼナハである。一時間後到着。直ちにルーテル 像、バッハ像、ルーテル・ハウスなどを見る。雪は罪々と降り出し、街頭の周囲は赤らんで、雪が上から下に軽く下り て行く様は寂しさの極みであった。 翌日は先ずロイター邸を訪れる。有島はロイターについてはその名も聞いたことがなかったので、遺品を見てもあま り感興を催すことがなかった。しかしその家居の広大さには、これまで見た芸術家の何ものよりも勝ると一驚を喫して いる。十九世紀北ドイツの方言詩人作家のロイターは、ドイツではその作品、ゲーテに次ぐ二千万という発行部数を誇 り、十九ヶ国に翻訳されたというのであるから、この白聖の大邸宅もその名声にふさわしいものであった。有島も﹁察 スルニ彼ハ幸運ナル詩人ナリシガ如シ﹂と述べている。今日東ドイツでは、その農村生活や革命を描いた作品が高く評 価され、ドイツ最初の共産・王義作家という折り紙がつけられているそうである。 隣室にはワグナー博物館があり、数々の彼の肖像や友人の記念品などが展示されていたが、有島はワグナーについて はそれ程興味を示さず、﹁我ガ彼レニ対スル智識モ亦寡少ニシテ多ク記シ得可キモノナシ﹂と冷淡である。総じて有島に とって、音楽はほとんど関心の対象になっていない感がある。この点は、この時期﹁西遊日記﹂のかなりのページを音 一156一 20 楽体験によって埋め尽くしている永井荷風の場合と甚だ対照的である。 アイゼナハの第一の見どころは、中世の吟遊詩人たちが歌合戦をくりひろげ、ワグナーの﹁タンホイザー﹂の舞台と もなったワルトブルク城であるが、有島は一人の若いドイツの商人と知り合いになり、この城に登った。城のある山頂 までの道は素晴らしく、チューリンゲンの森林の樹上には、昨年積んだ雪が無数のかんざしのようにかかり、微風が吹 けば燦然と星屑や銀塵となって散るという状態であった。このあたりの詩情に満ちた風景を叙する有島の筆は全く詩人 の筆である。森林が尽き眼界が開ければ、﹁眼モハルバルト波ノウネリノ山の背ノ、木立ハ暗ク雪ハ白ク重キ空二打ツぐ キテ、冬ノ日ノカスカナル光二呼吸スルガ如キヲ見ル﹂という光景であった。﹁自由ノ生ル可キ所トハ是レカ﹂と有島は 述べているが、この﹁自由﹂とはヨーロッパの自由であり、自由のために闘ったこのアイゼナハにゆかりの深いルーテ ルを想起しての自由であったろう。 登り着いた山頂の城は﹁独逸国現存ノ中世紀城廓ノ中最善最美ノ典型﹂とされてきたもので、イギリスやフランスの 城館の持つ外観的美容や粛整はないけれども﹁菊o∋p昌Φωρ器ノ精神ヲ伝ヘテ其外容ノ純朴ハ偶一種好古ノ思ヲ動カスガ 如シ﹂と有島は評している。城内には歌合戦を描いた歌手の問などがあり、どこも壁画などによって飾られていたが、 有島はバンケット・ホールなどの室内装飾の趣味に当時の騎士の心を形としたような強靭さを感じとっている。 またルーテルが聖書を翻訳したという一室もあり、クラナッハがルーテルや彼の近親を描いた像の下に頑丈な机があ った。窓からはアイゼナハ一帯を越え、山々の形が目も遙かに見渡される。﹁思フニ大ナル思想回転ノ源頭ヲナセル⋮⋮ 云ハズモガナ﹂と有島はこの一室より近世思想の大革命が生まれたことを感慨深く思い起こすが、かつてローマにてブ ルーノを偲んだのと同じ思いがあったであろう。 下りの山峡の道がまた素晴らしく、苔と雪と氷柱の衣を着た岩に一道の日がさし、足下には雪が融けて濡をなし、涼々 一157一 の声をたてるという奇景であった。わずか二日間ではあったが、充分満ち足りたアイゼナハ滞在であったろう。 @フランクフルト 次いで目指したのは、ゲーテの生地フランクフルトであった。列車はテユーリンゲンの大森林の中をひた走るが、有 島は日本と異なるドイツの森林の特徴を﹁其概廓ノ 漠トシ起屈ノ定カナラヌ、一種陰欝ノ気アリテ而カモ小児ラシキ 深刻ヲ有セル﹂と見、メルヘン的と称している。どこか風景に託して、自己の心象を語った趣がないでもない。 フランクフルトは当時ヨーロッパ第一の大駅であった。有島はフランクフルトで直ちに、ワイマールやアイゼナハ等 の純ドイツ的風土に対して風格の激しい変化を感じている。壬生馬は再びイタリアに帰って来た思いをし、有島は町の 新しさやせわしさに、アメリカ市街の面影を想起している。 まずカイザー通りを歩んで、フランクフルト第一の見どころゲーテの生家を訪ねるが、この日は安息日で開いていな かった。有島はゲーテの生家が普通の家以上に大きいところから、ゲーテの父の富有の度合いを察している。確かにゲ ーテ自身も広々として明るい家と回想しているように、帝室評議員であるゲーテの父の地位にかなった堂々たる家であ る。次いで公園のゲーテ、シラー像を見たが、大きいだけで言うに足らずと切り捨てている。 そのあと、市の東端の動物園と西端のバルム・ガルデン︵熱帯植物園︶に足を伸ばし、興に入っていることは面白い。 特に温室内の様々な花卉の光線に対する反応の不可思議さに、さすがに壬生馬は画家らしく関心を抱き語っている。こ の植物園には音楽堂も付属していて、パリの装いをしている盛装の男女が電燈の光の下に葉陰を歩んでいたりする。有 島兄弟もその群に入り、熱帯的な大観に心を奪われたのであった。心ゆく遊興に始まったフランクフルトの第一日であ った。 一158 一 2ー 翌日は無論昨日果たすことができなかったゲーテ生家の訪問である。一階から四階まで丁寧に見てまわり、間取図ま で描いている。特に三階にはゲーテ誕生の部屋があり、花環を冠したゲーテの胸像が置かれ、四階には二十七歳でワイ マールに移るまでのゲーテの文筆活動の場となった部屋がある。ゲーテは多感な少年時代をここで過し、ライプチヒ、 ストラスブール遊学後、ここで﹁若きウェルテルの悩み﹂﹁クラヴィーゴ﹂﹁ファウスト﹂﹁エグモント﹂などを脱稿した り起筆したりしたのであった。簡素な机とその周囲の書籍類の他に、特に有島の興を惹いたのは、寝室の中央にある﹁ウ ィルヘルム・マイスター﹂の初めにも記されている人形芝居の舞台であった。これにより、ゲーテの少年時代の好奇心 が如何に奇抜であり、しかも瞑想的なものであったかが窺い知れたのである。 その隣のゲーテ博物館は小さなものであるが、ワイマールでは見られなかったゲーテの人間性を示すような品々が陳 列されていた。すなわち、ゲーテの色彩論の一例に挙げられた蛇の画のあるガラスのコップ、ロッテに贈ったというネ ックレス、各時代にわたる肖像やデス・マスク、両親の影像等々である。ゲーテの母の顔は美しいという感じではない けれども、叡知で輝くようであると有島は評している。 古建築の多いフランクフルトの街にあって、一際目をそばだたしめるのは、美しい切り妻の屋根と壁を持つレーマー ︵旧市庁舎︶である。有島は﹁近世ノ建築トシテハ其趣味ノ純雅喜ブ可シ﹂と評価している。この時期、フランクフルト では古い建築物がかなり改築され始めたようで、有島は﹁来年来リテ此市二遊バンモノハ我等ガ見タリシ老屋ヲ見ルノ 喜ビナカル可シ﹂と危惧の念を示している。そのようなところからフランクフルト特有の建築に好奇心は向けられる。 このあたりの庶民の家屋の最も注目をひく特徴は、屋根裏部屋の窓が大変多く、相互の間が狭いことと、壁の組木を装 飾のため必要以上に表面に顕わすことであると図まで描いている。いわゆる木骨組建築のことであろうが、適確な指摘 である。それより風変りな聖パウロ教会を見、古風なオーバーマインツ橋︵地理的に言っても、ウンテル・マイン橋の 一159一 まちがいではなかろうか︶を渡り、ドイツ有数の市立美術館に至る。ここの階段の途中の壁上には、ゲーテの友人であ ったティッシュバインの﹁カムパニアのゲーテ﹂の大額がある。他にもレンブラント、ホイエン、ボッティチェリ、ハ ンス・トーマ、ベックリン等名作目白押しのこの館のいくつかの作品について具体的に触れているが、その中では特に ボッティチェリの﹁シモネッタ﹂に感嘆し、﹁筆路ノ純一、表情ノ超越、彼レニアラズンバ亦誰レカ之レヲ能クシ得可キ﹂ と激賞している。 かくてこの夕方、二人はフランクフルトを後にして、ライン下りを試みるためにマインツに向かう。到着したマイン ツのホテルには暖房もなくランプもなかったので、不平のあまり寒気を冒して市内を縦横に歩き、ライン河畔に出、ラ イン河のイメージに耽る。 2 2 ケ ル ン 翌朝二人はケルンまでのライン下りを試みようとして河岸に出る。ターナーの画を思わせるような旭日に映える雲の 様、河上の寒霧、岸上の船、人の群、羽音も軽く水上を行く水鳥、過ぎゆく船、橋上の人など、冬の朝の面白い景色に 眺め入ることができたが、結局船はなく、やむなくケルンまで汽車で行くことになるのである。 汽車はヴィースバーデンよりラインの右岸に沿って走る。以下有島は詳細に車窓からのライン風景を述べているが、 葡萄園、古い城塞、河に浮かんだ小舟、沿岸の人家の様子等、観察の細かさは驚くばかりである。かくて一時近くケル ンに到着。約三時間半の行程であった。 一旦セント・ポールというホテルに入り、直ちに欝然とそびえたつ大聖堂を見に行く。比較の対象として想起される のは、ミラノの大聖堂であった。柱の形はその整美においてミラノを凌ぐが、前面後面より見た場合は、ミラノの方が 一160一 一段上にあるようだと述べている。そして﹁彼レハ其技工ノ優雅ヲ以テ勝リ、此ハ表趣ノ荘重ヲ以て優レタリトス可キ カ﹂と評しているが、おおむね妥当な見解であろう。次いで美術好きの本領を発揮して、ヴァルラーフ・リヒアルツ美 術館に入る。階下には古今の彫刻物の模作、原作が少なからずあり、階上にはトーマの﹁夏景色﹂、ベックリンの﹁海賊﹂ など印象に残る作があった。有島は特に後者の﹁大胆ナル構図、精緻ナル自然ノ理想化的描写、驚異ス可キ色彩﹂に注 意を払った。 マインツやケルンの住民に、有島はこれまでと異なる要素を見出し、次のように述べている。ややあいまいな表現で はあるが、風土と人間との関連において注目すべき考察であり、後の有島の文学にも何らかの影響を及ぼしているので 一161一 はなかろうか。 ・ ﹁閑αぎトハ云ハズζ巴護二於テ我等ハ既二市民ノ中二水ノ民ノ分子甚多キヲ認メヌ。一種快活ノ気、自侍ノ風、自ラ 旅人ノ心ヲ打ツ。我等ハ永ク永ク地ノ人ノミヲ見テ水ノ人ヲ見ザリキ。﹂ 翌十二月十九日、大聖堂の塔上に登り、改めてその規模の大きさに感じ入り、その午後遂に思い出多いドイツを去り、 オランダに入る。 、 @アムステルダム ルニ由ナシ﹂と有島は失われてゆくドイツの風光を愛惜している。かえり見れば、思い入れの深いドイツであった。こ されてゆくのである。樹木の種類も異なって、エルムに似たものが多くなり、松や椎の類が減少する。﹁其風光ハ再ビ見 湛えられており、岸低く小川がひたひたと流れ、風車が腕をひろげているというように、典型的なオランダ風景が展開 汽車はライン河に沿って走るが、風光は一変する。遙かな平原の彼方此方には並木があって、地の凹んだ所には水が 23 の夜アムステルダムに到着する。往来する人の容貌服装、外国人に対する態度まで、見るものすべて、何となくドイツ と異なれるものを発見するのであった。 オランダの風俗がかなり珍しかったのか、翌日の日記では詳細にオランダの風俗について言及しているが、有島独特 の見解が見られて面白い。 まずオランダ人が家屋の清潔に心を砕き、甲斐甲斐しく掃除するさまをモノマニアと評している。しかし一方、オラ ンダ人は服装に対しては他国民より清潔とは思われないのであると述べ、そこから同様の趣を呈している日本人批判に 移っている。すなわち、人は日本人がしばしば入浴し、頻繁に座敷を掃除するところから清潔を愛する国民と称するが、 汚い便所、悪臭紛々たる下水、衆人混浴の風呂にたじろがない無神経を見れば、実に潔癖とは一種のモノマニアに過ぎ ないと、鋭い文明批評を展開するのである。 そしてオランダの風俗に更に言及し、オランダ人は特有の容貌態度を持つ人民であるとして、その毛髪、顔立ち、皮 膚、身長などの特徴について述べ、更に﹁挙動ハ海国ノ民二似ズ概シテ活刺ノ気ヲ欠キ、表情モ亦梢鈍遅ナルガ如シ﹂ と辛辣に批評しているが、一方オランダ国民の面上に﹁牛ノ如キ忍耐ノカト独立自由ヲ希フ心﹂を認め、そこに﹁此国 民ガ有スル唯一ノ生命﹂を見てとっている。オランダの過去の栄光と現在の衰退とが二重映しになっている表現であろ う。 アムステルダムにおける行動は、ダム広場の離宮見物より始まる。かつての市庁舎で、現在は王室迎賓館として使用 されているドイツ・ルネサンス風の建物であるが、有島は﹁荘重ナル外廓尤モ見ルニ足ル﹂と評し、窓に窓わくのない ところにその特徴を見出し、そのために一層その実質的効果を収めていると述べている。このような特徴は一般市民の 家にも往々見られるところであるが、細かく鋭い観察眼に感心させられる。 162 一 次いでアムステルダム第一の見どころである国立博物館に行く。堂々たる赤煉瓦造りのドイツ・ルネサンス風の建物 であるが、これまでの石造建築を見慣れた有島の眼には、品位を卑しくするものと映った。階下には武器武具、造船、 植民に関する陳列品や出島におけるオランダ屋敷の模型その他が並べられていたが、有島はそれ程注意を払っていない。 しかしオランダ家具には興味を持って、そこに多くの東洋趣味が西洋に輸入された跡を認めて驚嘆している。 階上はオランダ、ベルギi絵画の一大宝庫である。有島はオランダ絵画に深甚な興味を抱き、詳細な美術史的考察を 展開している。まずオランダ絵画の画脈を二つの時期に分けて、第一期は十五、六世紀に発達したもので、イタリア・ ネルサンス期の影響を蒙って産まれたものであり、第二期は十七世紀に起原を発したもので、社会の風潮が全く新しい 方向を指して走った時期に産まれたものであるとする。そして両時期を通じてのオランダ画派の最大の特徴を、イタリ ア画派の理想主義に対して、自然主義、写実主義に見るのである。従って自然主義、写実主義を芸術上どう評価するか によって、オランダ絵画に対する評価も決定されるということになる。今日では常識的に近い見解かもしれないが、有 島はオランダ絵画にかなり共感を覚え、自然主義、写実主義により、ヨーロッパの近世芸術が一段と進歩するべきもの とするならば、オランダ派の絵画はシェークスピアやベートーヴェンとともに、イタリア芸術と月桂冠を分つことがで きるであろうと述べている。ただここでは仮定形を用いているところに、やや断言をはばかる心情も流れている。しか しその後なおオランダ絵画に親表することにより、この評価は確信ともいえるものになってゆくのである。そして有島 はオランダにこのような現実的傾向を養成させた動機を七ヵ条あげている。即ち︵一︶宗教改革︵二︶遠洋貿易︵三︶ 一九四九年のユトレヒト・ユニオン会議︵四︶一六四九年のウエストファリア平和会議におけるオランダ独立の承認︵五︶ 私的生活尊厳の自覚︵六︶自然科学研究の進捗︵七︶新文学の勃興−即ち伝説的文学研究の衰退その他である。無論 このような見解には参考にした書も多くあったろうが、至れり尽くせりの見事な考察と言わざるを得ない。 一163一 またオランダ絵画を類別するに際しては、色彩と形体が表現する感情というイタリア絵画を見る時の基準をそのまま 適用するのでなく、イタリアの潮流を逐って回古的傾向があるのか、そこから抜け出して新生面を開いているのかで判 断しなければならないと述べている。その点から言えば、ファン・アイクは筆路色彩でイタリア絵画に似ていても写実 派になり、ルーベンスはテクニック上イタリアの画と離れていても、内容、表情は南欧のものであるから理想派という ことになるのである。示唆に富むユニークな見解であるが、有島自身は﹁コハ定説トナサンバ鯨リニ軽々シキ論理ナレ. ドモ和蘭派の画作ヲ見ルニ際シテ暫ク我レ一己ノ用意トナサンノミ﹂と断っている。 次いで有島は個々のオランダ画家の作風について、簡潔にその特色を列記しているが、それを見れば優に美術批評家 としても立てるだけの批評眼を備えていることに改めて驚かされるのである。取り挙げられているのは次の画家たちで あるが、中には日本ではほとんど知られていない名もまじっている。ビールドメーカー︵作品の数も少なく、無名に近 い︶、ニコラス・マース、フランス・ハルス、ヘラルト・テル・ボルフ︵有島は目Φ﹁9蔓と誤記している︶、ヘラルト・ ダウ、ピーテル・デ・ホーホ、ヤン・ステーン、オスターデ兄弟、ロイスダール、ホツベマ、ヨン・ファン・ホイエン、 ヤン.ファン・デル・ニール︵有島はζΦ臼と誤記している︶等である。そのいくつかについて述べるならば、フランス・ ハルスの画については、その運筆の自在さに特長を見出し、テル・ボルフについては、精緻な色彩と一種クラシックな 気象で日常風俗の機微を描いたものと評しながらも、彼やダウ等の画風には既に退縮の気があって、絢燗さがやがてマ ンネリズムに陥らんとする傾向なきにしもあらずと鋭く評している。またこの二家に類して、その色彩の鮮麗さと構図 の特殊性において一頭地を抜いたものとして、ピーテル・デ・ホーホをあげている。また色彩、テクニック、表情にお いて、オランダ画派の特徴を善悪ともに発揮したものは、ヤン・ステーン、オスターデ兄弟等であるとも述べている。 更に風景画では、ロイスダール、ホッベマ、ホイエン、ヤン・ファン・デル・ニールの名をあげ、これらの画家をか 一164一 なり高く評価している。ロイスダールの風景には一種の力があって、クラシックの形の下に純自然の強い呼吸を描き試 みようとしたとし、風景画におけるヴェロネーゼと称している。それに対してホイエンについては、一の主張も典型も なく、直ちに自然の印象を独特な筆に捉えようとしたもので、画面全体に雨上りの夕日のような輝きがあると評してい る。その他ヤン・ファン・デル・ニールはその色彩に一種の銀青のトーンがあって、穏健平調ではあるけれども自然を 写す工夫に富み、コローにも影響を与えたのではないかと述べ、ホッペマは自然の活動の瞬間を捉えるのに長じている と、それぞれの画家に対して適切な短評を下しているのである。無論レンブラントの最高傑作とも言うべき﹁夜警﹂も 見ているのであるが、レンブラントとこの絵については、その翌日詳細な考察を試みている。 有島はレンブラントの作を三期に分けて、第一期はまだ自己の全本分を発揮しなかった時、第二期は豊かな金褐色で 明暗の極美を描いた時、第三期は色彩全体において益々暗調を帯び来り、時にかえってそれを破るために濃紅を用いる に至った時とする。そしてこの﹁夜警﹂は正にレンブラントがテクニックにおいても最高潮に達した時の作であるとし て、詳細にこの絵の説明をして、スプリンガーがレンブラントの作から喚起される印象とシェークスピアの作中の人物 からもたらされる印象との類似について述べていることに同感した上で、﹁肉ΦBげ轟づ鼻ノ人物ハ常二地上ノ人々ナリ。 而シテ其意志ハ堅実二、其感情ハ平等二、其ノ智性ハ常識的ナリ。而カモ其根底二当リテ一種費帥日曽什一〇ナル突梯アリ﹂ と述べるのである。要するに有島は、レンブラントに市民芸術の典型を見ていることになるのであろう。 発表当時不評であった﹁夜警﹂は、今日では讃辞の山に包まれていると言っていい。因みに武者小路実篤も﹁夜警︵武 者小路は﹁夜番﹂と書いている︶﹂を絶讃した一人であった。武者小路はかねてから﹁夜番﹂のよさを友人の椿貞雄から 何度も聞かされてそのよさを想像していたが、本物に接するに及んで、想像どころではない力の偉大さに驚き、﹁最高の 意味での、宗教画に接したやうな感じを受けた﹂︵﹁レムブラント其他﹂昭和11・10﹁文藝春秋﹂︶と述べている。そして 一165一 やはりこの画の構成を詳細に説明して、無類の調子の高さを讃美し、﹁レンブラントと言ふ男のなかでも男、芸術家の中 でも芸術家、天才の中でも天才、それが全力をもって仕事をした時の全き姿がこの画にすっかりあらはれてゐる。その 力の巨人ぶり。自分は一生の内で、この画を見たことは特筆さるべき事実と思ってゐる。巨人の仕事を全部的に味はふ ことが出来たのだ。レンブラントの作の内でも、レンブラントの巨人ぶりをこの作のように示したものは他にはないだ らうと思はれる﹂と手放しに讃嘆の念を惜しまない。武者小路にとって、レンブラントはかねてからロダンやゴッホ、. セザンヌとともに精神的支柱の一人であった。素描の自画像を見ての次の有名な詩はその間の事情をよく明している。 レンブラント! こりつ お前は立つてゐるな! 耐へて耐へて立つてゐるな。 帝王のやうに 一人で。 防止を阿弥陀にかぶつて、 両手を腰にあて・、しつかと。 レンブラント! お前は立ってゐるな! このレンブラントはまさしく武者小路自身の自画像以外の何ものでもないであろう。そのような武者小路にとって、 レンブラントの本物に接した感激は確かに誇張ではなかったのである。 さて、有島は、レンブラントではその他に当然のことながら、これも有名な﹁織物組合の幹部たち﹂﹁少女﹂に感心し 一166一 ている。前者については、﹁夜警﹂のような劇的要素はないけれども、その単調な色彩の中に疑惑なく曖昧なく、飽きる ことのない作品と賞讃している。それに対して﹁ユダヤの花嫁﹂については、未完成で想像的能力の欠如を語るもの、 ﹁小川の傍の女﹂については、レンブラントの強靭という特色は認め難いと批判的である。しかし後者についてはともか く、前者は﹁ユダヤの花嫁﹂という奇妙な名がつけられているが、この絵はレンブラントが息子タイタスの結婚を祝っ て描いたものと言われているもので、未完成でもなく、想像的能力の欠けているとも思われないのである。有島は題名 にこだわりすぎたのかもしれないが、不当な評価というべきではなかろうか。因みに武者小路は﹁織物組合の幹部たち ︵武者小路によれば﹁織物組合幹事﹂とを描写力が無類で実にすばらしいとほめ上げ、更に﹁それにもまけずに輝かしい のは、﹁ユダヤの花嫁﹂である﹂と高い評価を与えているのである。武者小路はこの絵に夫と花嫁の内面的の愛、いたわ りと信頼を認め、誠実に愛情のこもった画としながらも、一種の淋しさを見出している。かなリレンブラントの内面に 食い入った批評と言うべきであろう。なお武者小路がほかに特に感心したのは、﹁ペテロの否定﹂及びハーグで見た﹁ソ ールとダビテ﹂であった。 その日の午後は鮭鱒の人口艀化を見ようとして、激しい寒気を衝いて動物園に赴いている。驚くべき好奇心であるが、 半ば氷で張りつめた池の上には、熱帯の水鳥が戦きながらうずくまっているという情景であった。結局人口艀化は見る ことができないで、空しく園を出た。早くも暮色迫って、帰りがけに見た雲は﹁死﹂を見るようであった。 翌日はシックス美術館を訪れ、シックス市長家に所蔵されたレンブラントの﹁市長の肖像﹂﹁市長の母の肖像﹂等を見 て感に打たれている。このような小美術館にまで足を運ぶ有島の美術に対する熱心には驚くべきものがある。これらを 見て有島は、改めて肖像画家のレンブラントに、ヴェラスケスと並んで﹁画界ノ覇者トス可シ﹂と高い評価を下してい るが、妥当な見解であろう。 一167 一 午後はまた市立美術館にも足を運ぶが、国立博物館で十七世紀の名品を見た後ではほとんど問題にならず、ネーデル ランドの近代絵画を代表するマウヴェ、イスラエル、メスダフ、マリス兄弟などについても﹁迷ヘル羊ノ如シ。彼ノ僑々 タル第十七世紀諸画家ノ作ヲ見ミシテ此二来レバ”親が苦をして子が楽をして孫が河原で⋮⋮”ナリ﹂と警抜にして辛 辣な評語を下している。 ともあれ、有島の美に対する渇望を十二分に満たしてくれたアムステルダムであったが、遂に立ち去らねばならない 時が来た。車窓より眺める厳冬のオランダの風光は、見て来たばかりのオランダ絵画をそのまま展開した感があり、沿 線の河柳、樺、楡、風車小屋、河舟、道行く人などすべて印象に残り、ハーグに入った。 一168一 @ハーグ られる。すなわち﹁解剖学教室﹂﹁スザンナ﹂﹁寺院におけるプレゼンテーション﹂などに言及しているが、その中で最 殿の内城︶を経てそこに至る。選び抜かれた珠玉の名品揃いであるが、やはり有島の主要な関心はレンブラントに向け るマウリッツ・ハイス美術館見学であった。早朝さっそく中世の騎士時代を思わせる面白い古建築のビンネンホフ︵宮 ハーグ訪問の第一の目的は、無論アムステルダムの国立博物館と並んで、小規模ながらオランダ絵画の宝庫と目され ェステレの貧民街の有様を窓こしに眺めた時と同じ心情が働いたであろう。 に額を当てて凝視し、彼に銭を与える人々の心などを夢のように思うのであった。ここには、あのヴァチカンでトラヴ またホテルの窓からは、一人の男が十歳足らずの子供を負って悲しい歌を唱っているのが見える。有島は冷えたガラス ﹁春の歌﹂を弾ずる。﹁思ヒ出ズルコト甚多シ﹂と無量の感慨に浸っているが、無論ティルダの面影もよぎったであろう。 ハーグでは最高のセントラル・ホテルに投宿。夜食の席では、ウィーンからやって来た女楽人がメンデルスゾ;ンの 24 高の評価を与えているのは、無論有名な﹁解剖学教室﹂であり、﹁彼レガ完作ト称ス可キモノ・一ナル可シ﹂として、そ の筆使いの慎重さ、前人未発のテクニックを賞讃している。他にはフェルメールの﹁デルフトの風景﹂に指が屈せられ る。フェルメールについてはアムステルダムの国立美術館での言及がなかったが、ここでは﹁デルフトの風景﹂を﹁驚 異ス可キ作﹂として、﹁其光線ト空気二対スル観察ノ精緻ニシテ的確ナル、其構図ノ一見他ノ奇ナキガ如クニシテ而カモ 工夫ノ跡多キ、其精神二於テ筆路二於テ我等第十九世紀末葉ノ画二接シタルモノ・眼二清新ナル感接ヲ覚エシム。此画 ハ実二当時二於テ来ル可キ世紀ヲ豫言セルモノナリ﹂とまで激賞している。この絵はプルーストも﹁失われた時を求め て﹂の中で讃美して居り、フェルメール再評価のきっかけを作った程のもので、有島の批評眼の高さを示していよう。 しかしもう一つのフェルメールの代表作である可憐な﹁ターバンを巻いた少女﹂には言及がない。他には天折したポッ テルの﹁牡牛﹂が印象に残った。この絵はルーブルにあった時、全作品の中第四位に置かれたというもので、オランダ では﹁夜警﹂に次いで人気を博してきた作である。有島はこの細密描写に渾然とした﹁自然﹂を認めている。 有島はこの美術館をよほど丹念に見たらしく、驚くべきことに、これまで見たオランダの画家四十四人の名を列記し て、それぞれに理想的傾向を示す×と、写実的傾向を示す○を付して分類表を作っている。それも、理想的傾向を示す 画家には×を多く、写実的傾向を示す画家には○を多く付し、更に両傾向のまじっている画家には○×を同時に適当な 数だけつけているという念の入れ方である。これによると、例えば、ヴァン・ダイクは×××、ホイエンは○○、ポッ テルは××O、ロイスダールはOO、ヤン・ステーンは○○○×、フェルメールは○×という具合である。但しレンブ ラントの名はない。これが果たして妥当がどうかは疑問の余地があるし、また何のためにこんなものを作ったのかも分 からない。有島自身も、﹁此単一ナル結果ヲ以テシテハ何等ノ結論ヲモ見出シ難キモ、暫ク此二記シテ他日ノ参考トナス﹂ と言っているが、とにかくその美術に対する関心の強さには驚くべきものがある。この時期の有島は、文学者になるよ 一169一 りも、むしろ美術批評家としての下地を養成していたのではないかと思われるくらいである。また事実、美術批評家と して立てるだけの能力と教養の持ち主であったろう。 次いで市立美術館を訪れるが、この方は﹁見ルニ足ルモノナシ﹂と一刀の下に切り捨て、メスダフ美術館に行く。海 の画家メスダフの作そのものは言うに足りないが、その蒐集にかかる絵画、磁器等には見るべきものが多々あるのであ る。特にバルビゾン派に属するフランス画家の蒐集に特色がある。すなわち、ミレー、ドービニー、ディアズ、ドラク ロワ、ルソー、コロー、トロワイヨン等の主として初期の作品を興味深く眺めるのであった。有島のバルビゾン派に対 する関心は、かつてジェノヴァの美術館でミレーの肖像画を見てより脳裡に消えることなく存在していたが、今ここに 一170一 ようやくその渇望を医すことができたのであった。その他にも陶磁器、銅器、漆器等のすぐれたものが多く、この館を 訪れた意義は十分あったものと思う。 冷たい雨の降りしきる中、人々はクリスマスの準備に忙しい。翌日はハーグを出発し、ロッテルダムに向かう。車窓 からは遠くの楡の並木、近くの河柳、散在する風車等オランダ特有の驚くべき風光が展開する。十時近くロッテルダム に到着。 @ロッテルダム イスダール、ブレッド・ボルの諸作について触れているが、﹁其蒐集ハ決シテ饒多ナリト云フ可ラズ﹂と述べている。今 この束の間を利用して足を運んだのは、やはりボイマンス美術館であった。ヨース・ヴァン・ゲール、ホッベマ、ロ 河舟に生活する人々の有様は印象に残るものを与えた。 この地は宿泊する予定もなく、ただ束の間の足を留めるだけの所であったが、オランダの港町での初めての雪景色や 25 日オランダは言うに及ばず、イタリア、フランス、ドイツなどの逸品を集めているこの館も、この当時はまだそれほど 充実していなかったのであろうか。 それより雪中、マース川に面したロッテルダム港に至る。さすがに世界有数のこの港は有島を魅了せずには置かなか った。﹁唯見ル、海ノ如ク広ク見ヤラル、河添ヒニハ、欧州諸国ノ旗ヲ翻シタル船舶所狭キマテ錨ヲ下シテ、汽船ノ煤姻 ハ重キ雲二圧セラレテ登リヤラズ橋ヲカスメタリ﹂というような風景であった。雪の小休みの暇に色々の雲の形を見、 美しい公園に入り、﹁日本ヲ出テ・以来嘗テナカリシ﹂ほどのうまい魚を食い、その午後ロッテルダムを去って、アント ワープに向う。 ]71 壮大な自然が窓外に展開する。殊に百の小島を囲んで四十哩の大水塊を形成しているビースボッシュの水上を通過し た時などは、その壮大な光景に打たれて、眠っている壬生馬を呼び起こしたほどであった。その後同乗してきた船乗り ママ のドイツ人とドイツにおける労働者の状態や社界主義の勢力、影響、事業などを話し合いながら、五時過ぎアントワー プに入る。ベルギーの旅が始まるのである。 @アントワープ ると言う。やはりここはルーベンスの宝庫であり、有島は﹁二人の盗賊の問の十字架上のキリスト﹂﹁藁の中のキリスト﹂ ルーベンスとヴァン・ダイクの大作の木版、銅版によって占められていた。階上は古名家の作品約八百が収められてい 翌日は直ちに国立美術館見学である。階下には少なからずの近代彫刻家の作物が並んでいたが、他の廊はことごとく ンス風のコメディを見に行き、帰って直ちに就寝というベルギi最初の一夜であった。 アントワープでは駅前のテルミナス・ホテルに投宿したが、暖房設備もなく、甚だしい寒さに耐えきれず、雪中フラ 26 のようなものは、その意気、運筆で古イタリアの諸家と肩を並べるものだと賞揚しているが、﹁サレトモ彼レハ到底彼レ タルヲ免ル・コト能ハズ。或人ヲ。冨﹃8シ或人ヲ戦カシム﹂と評する。結局、有島にとって、ルーベンスはレンブラン トほど魂を震憾せしめられる存在ではなかったのであろう。 またここではじめてピーター・ブリューゲルに言及し、ヤン・ステーンの先駆者に似ていると述べているのは面白い。 その他この館で喜んで見たものは、ヨルダンスの﹁慈善の姉妹﹂、ヴァン・ダイクの﹁埋葬﹂、レンブラントの﹁サスキ ア﹂、ワウウェルマンの﹁休息する騎手﹂メムリングの﹁天帝としてのキリスト﹂、クエンティン・マセイスの﹁キリス トの埋葬﹂等であった。 172一 午後は大聖堂に行く。そのゴシック様式の建築については、有島は塔の高さと身廊の屋根の高さとの均衡が整わない 劣作であるとしているが、この寺院のルーベンスの有名なキリスト十字架降架については傑作と評している。しかしそ の傍のヴァン・ダイクの聖フランシスの立像については、無気力の作のようだと手厳しい。外は罪々と降る大雪、その 中を直ちにブリュッセルに向かう。車内では、メーテルリンクと知合いだというベルギi人とベルギーの産業のことな ど種々語り合った。 @ブリュッセル においては、ベルギーはほとんど特色がなく平凡、その点、同じ小国であっても、オランダには独往的気象、スイス人 者はチュートン・タイプが多く、後者はラテン民俗の快活な表情を有するものが多い。しかし風俗、風光、国民の気象 ギーの相違に思いを至す。すなわち、前者はドイツに近く、後者はフランスに近いと見るのである。国民の容貌も、前 ブリュッセルに到着したのは六時。ホテル・コスモポリットに投宿。夜食後市内を散歩しつつ有島はオランダとベル 27 には忍耐堅牢の意志があるのとは異なり、ラテン人種に通有な生活の遊戯的傾向を見るのである。そしてその証例とし てブリュッセル市の華麗なる装飾をあげている。すべてその通りとは言えないにしても、かなり肯繁に中った興味ある 比較文化的考察と言えよう。 翌日は早速雪中の難を冒しての王立美術館詣でである。まず有島は、この美術館の構造が最も絵画彫刻の陳列に適し ていると見て、他日の日本の絵画館建築の参考にすべきだとしている。そしてよほどこの館の構造が気に入ったらしく、 図まで添えてその詳細を述べている。 − まず中央の彫刻物ではムーニエ︵有島は竃Φ旨巳臼と書いているが、ベルギーの代表的画家彫刻家の一人である 竃2巳臼のことであろう︶の作に注目し、フランス風を模倣しつつ個性的努力を払っている点を高く評価している。そ の他彫刻では、ブレイクの﹁あきらめ﹂、ポール・デュボワの﹁座せる婦人像﹂、ヴァン・ホーヴの﹁恨みをいだく奴 隷﹂、ロダンの﹁考える人﹂などの作が感興を与えたと述べているが、ロダン以外はほとんど日本ではなじみのない名で ある。 階上には絵画ギャラリーがあり、フランダース流の作品が甚だ多く陳列されていたが、雪のため色彩も冴えず、はか ばかしく見ることも出来ないで失望している。またルーベンスの数ある大作にも感心していない。総じてこの館の絵画 については期待外れだったようである。 中食後近代美術館にも入ったが、この館にも特に注意を惹かれるものはなかった。出て巨大な裁判所の建築を見るが、 その黒色の砂岩を用いたところの印象は、アイゼナハの町はずれに見た学生碑にも似ているとして、苦心の跡は至る所 に見られても、決して成功作とは言えないと批評している。 その翌日はぬかるみ道を踏み越えて、ウィールツ美術館を訪れる。ウィールツも日本ではあまりなじみのない名かも 一173 知れないが、ベルギーではロマン主義的感覚のあふれた絵を描いて、確立した名声を有する画家である。しかし、その 生涯はかなり奇矯なものであったようで、有島は次のように述べている。 カヲ交遊少キ画室ノ一隅二過シ、其製作セシ所は一枚ダニ売リシコトナク、自ラ画界ノ覇王ヲ以テ任シ、遂二狂シテ 後オシナベテノ人ト同ジキ死ノ門ヲク・リテ去リシ希有ノ画家ノ住家ハ是レナリ。﹂ そしてその画にも敬意を表して、次のようにも述べている。 ﹁半バガラスニテ張レル表戸ノ﹁取ツ手﹂ヲ外ヨリ握リテ来シ路二踵ヲ回セシ這デ、我等ハ思ヘバ我等ガ住ミツ・アル世 トハ遙カニ隔テル他ノ世界ニアリシナリ。実二泥ツケル足モテハ踏ミ能ハザル世界アリ。我等ガ謂ユル悲喜ハ彼所ニテ 其意義ヲ変スルニ似タリ。畏灌スルニ堪エタリ。﹂ 但しウィールツの絵について具体的には触れていない。その後ブリュッセルのブールヴァールを一めぐりして一旦帰 る。有島の眼に映じた市の印象は、パリの好尚を追わんと勉めて日も足らざるもののようであった。その午後は武石と いうこの地に四年滞在して有望な彫刻家を訪れたり、夜は公使館の晩餐に招かれ、日本人達と親交を結ぶ。 翌二十九日はいよいよブリュッセルを去る日なので、急いで見残した市中を見物してまわる。ブリュッセル第]の見 どころは世界で最も美しい広場の一つと言われるグラン・プラスとそこに甕える市庁舎とその尖塔の雄姿である。有島 も﹁最も粛整ノ作、2Φ匪Φ二鋤巳二入リテヨリ稀二見ル所ノ純清ノ建築ナリト云ハザル可ラズ。殊二尖塔ノ如キ真正097 厨ノ表情十分ナリト云フ可シ﹂と讃美している。そこより程ない所にあるのが、有名な小便小僧の像である。まことに ﹁昔ノ人ノ荒ビタレトモ無邪ナル想像ガ産物トナリシ一例トシテ興味饒カナルモノ﹂である。その像は近在の市民がいろ いろと作ってくれた衣装を着けて満足気である。今日と変わらない情景である。︵未完︶ 一174一 「一