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香港住民の行動様式に関する一考察
香 港 住 民 の 行 動 様 式 に 関 す る一 考 察 一 「難 民 ・移 住 者 社 会 」 「植 民 地 社 会 」 の 側 面 よ り一 強 高 目 次 は じめ に 一 「難 民 ・移 住 者 社 会 」 と 香 港 住 民 ←)家 ⇔ 族 偏重 金 銭至上 ⇔ee落 二 「植 民 地 社 会 」 と 香 港 住 民 ←)政 (⇒ct香 三 葉 帰 根" 治的無 関心 港 人"意 む す び に か えて " 102 識 ambivalence"と 璽 璽騎 培" 橋 香港住民の行動様式に関する…考察 は じ め に 香 港 は 周 知 の 如 く自 由貿 易 港 で あ るが,一 ・方 に お い て 広 東 省 の 珠 江 河 口に あ る 英 国 の 植 民 地 で,そ こ は ま た貧 乏 人 と金 持 ち ・東 洋 と 西 洋 が 同 居 して い る 都 市 で も あ る 。 か か る 香 港 は 一・口に 英 国 の 植 民 地 と い っ て も,香 港 と 称 せ ら れ る 地 域 は 割 譲 地 と 租 借 地 か ら成 り立 って い る 。 割 譲 地 と は 香 港 島 と 付 近 の 小 島,界 限 街 以 南 の 九 竜 半 島 の こ とで あ る 。 前 者 は 第 一 次 ア ヘ ソ戦 争(1840∼42年)の 結 果,南 京 条 約(1842年)で,後 者 は 第 二 次 ア ヘ ソ戦 争(1856年)後 の 天 津(1858年)・ 北 京(1860年) 二 条約で それ ぞ れ割 譲 された もので あ る。 また 租借 地 とは 九竜 半 島の 残 りの 部 分(新 年)に 九 竜 と新 界)と よ り99ケ 付 近 の 島 々で,香 港 地 域 拡 張 条 約(1898 年 の 期 限 で 租 借 さ れ た もの で あ る(そ の 満 期 が1997年 で あ る)。 香 港 の 面 積 は1061平 方 キ ロ と東 京 都 の 半 分,そ で 市 街 地 と な って い る の は 全 体 の16%弱,そ 香 港 に あ る の は 「花w石,砂,魚,そ して そ の 半 分 が 荒 地 の 上 天 然 資 源 に 恵 まれず れ に 人 間 さ ま く らい 」(リ チ ャー ド ・ヒ ュ ー ズ 「香 港 一主 人 な き都 市 」 中 島 嶺 雄 訳 タ イ ム ラ イ フ ・イ ン タ ー ナ シ ョナ ル1968年)と 528万7800人)で,そ まで 言 わ れて い る 。 人 口は520万 の 内98%は 構 成 さ れ る 中 国 系 住 民で あ り,彼 以 上(1982年, 広 東 省 を 中 心 と し た 華 南 の 人hで らは 難 民 あ る い は 移 住 者 お よ び そ の 子 孫 で あ る と い う性 格 を 有 して い る 。 ア ジ ア の 都 市 の な か で,香 港 が ひ と きわ 注 目を 集 め て い るの は,1997 年 問 題 に 象 徴 さ れ る よ うな 国 際 政 治 問 題 や,経 け で は な い の で あ る 。 即 ち,そ か らで あ る 。 香 港 は 現 在,世 出 量 で は 世 界 第 一 位sそ こ に は"香 済 的 な相 互 依 存 の ため だ 港の繁栄 δ δとい う現 実 が あ る 界 貿 易 額 で16位 を 占 め,時 計 ・玩 具 の 輸 して 金 融 セ ソ タ ー と して は 第 三 位,コ ソテナ輸 103 送 の 取 扱 い 量 で も 世 界 第 三 位 で,国 民 所 得 で は 日本,シ い で ア ジ アで は 三 番 目(1981年,5100米 ドル)に ンガポ ールに 次 位 置 す る繁 栄 を と げ て い る の で あ る 。 そ の 結 果,香 港の一 一般 労 働 者 の 購 買 力(一 73香 の 「物 品 の 購 買 に 要 す る 労 働 時 間 」 で み 港 ドル)も て み る と,テ と6時 上 昇 し1982年 ー プ レ コ ー ダ ー に は8日 間24分,カ ラ ー テ レ ビ(受 と1時 間43分,冷 像 機i)に は20日 日平 均賃 金, 蔵 庫 に は17日 と4時 間20分,そ れ ぞ れ 時 間 を 費 や せ ば 購 入 で き る まで に 至 っ て い る 。 ち な み に 中 国 大 陸 の そ れ と(年 平 均 収 入,798元)比 は312日 と4時 間,冷 は446日 と3時 間25分 わ か る(陳 蔵 庫 に は379日 と3時 と な っ て お り,か ー プ レ コー ダーに 間44分,カ ラ ー テ レビ に な りの 差 が 生 じて い る こ と が 荊 和 「中 国 の 和 平 統0」1984年6月29日 さて 本 稿 は,概 に 関 して,そ 較 して み る と,テ 人 事 院 で の 講 演)。 要 以 上 の よ うな 情 況 下 で 生 活 す る 香 港 住 民 の 行 動 様 式 の 一 考 察 を 試 み よ う とす る もの で あ るが,香 様 式 を 形 成 す る諸 要 因 の 中で も,こ 港住 民 の行 動 こで は 時 に 「難 民 ・移 住 者 社 会 」 と 「植 民 地 社 会 」 と い う二 つ の 要 因 に 焦 点 を 当 て る こ と に す る 。 も と よ り 二 つ の 要 因 は ま た 不 可 分 の 関 係 に あ る が,本 稿 で は便 宜 上 分 けて 考 察 を 試 み る。 な お 本 稿 は,第32回 10日 於 上 智 大 学)の 東 南 ア ジ ア 史学 会 研 究 大 会(1984年12月9日 ・ 共 通 研 究 課 題 「東 南 ア ジ ア 華 人 に 関 す る 諸 問 題 」 に お い て 報 告 した もの に 加 筆 した もの で あ る 。 一・ 「難 民 ・移 住 者 社 会 」 と香 港 住 民 ←う 家 族 偏 重 香 港 の 人 口 は 割 譲 当 初 の1845年 361人),太 iO4 平 天 国 の 乱(1851∼64年)の で2万3817人(欧 人595人,印 難 民 ・移 住 者 の 流 入(こ 人 れ 香港住民の行動様式に関する一考察 らの___.r部 は さ ら に 海 外 へ 移 住)や,ま 香 港 の人 口推 移 年 人 た中国 人 海 外 移 民 の 激 増 の 影 響… で1861年 に は11万 9321人(中 印 人2986 口(人) 国 人11万6335人,欧 1965 3,597,900 1966 3,629,900 196"7 3,722,800 1968 3,802,700 1969 3,863,900 1970 3,959,000 1971 4,045,300 1972 4,078,400 占 領 下 に お い て は 激 減 して60万 1973 4,159,600 た が,戦 1974 4,248,700 1975 4,366,600 1976 4,477,600 1977 4,513,900 1978 4,606,300 1979 487g,600 1980 5,038,500 人),そ の 後 次 第 に増 加 し,1937年 の 日中 戦 争 の 開 始 に よ り爆 発 的 な 難 民 の 波 に さ ら さ れ,太 平 洋 戦 争 前 の1941年 に は0挙 に156 (1) 万4007人 と な った 。 太 平 洋 戦 争 中 の 日本 軍 後 の 復 興 で1947年 人 台 に な っ に は170万 人, そ の 後 国 共 内 戦 で1949∼50年 に か け て70 (2) 万 人 の 難 民 ・移 住 者 の 流 入 が あ り,1950年 に は236万 人 と推 定 さ れ た 。1971年 には約 400万 人,1975年 に は436万 人 とな り,1980 年 (2} に は 約500万 人 そ して1982年 に は520万 王 曽 才 ・陳 進 傳 合 著 「香 港 的 未 来 」 百 科 文 化, 1983年17頁 。 人 に増 加 し て い る の で あ る 。 な お総 人 口の 98%は 広 東 系 を主 流 と し た 中 国 人(広 容 家 ・潮 州 ・福 建 ・=海南 ・三 江)で 占 め られ て い る 。 中 国 大 陸 か ら香 港 へ の 流 入 は1850年 され て い た が,社 州 ・ 「入 境 管 制 条 例 」 に よ り 自 由 と 会 主 義 中 国 誕 生 後 の 難 民 ・移 住 者 の 増 加 が 顕 著 に な っ た とい う理 由 に よ り,香 港 政 庁 は1949年 に 「人 民 入 境 統 制 条 例 」を施 行 し大 陸 の 中 国 人 に つ い て も一 般 の 外 国人 と 同 様 に ビザ の 所 持 が 必 要 で あ {3) る と した の で あ る 。 しか し広 東 省 の 人 々 に つ い て は 香 港 に 親 類 縁 者 も多 い こ とか ら,1952年 以 後0日 に50人 に 限 って 入 箋 を 認 め る こ と に した の で あ る 。 しか しな が ら不 法 入 境 者 が あ と を 断 た な い と い う理 由 か ら, 香 港 政 庁 は 合 法 ・不 法 を 問 わ ず 香 港 に 入 境 して しま っ た 者 に対 して は ・ (4) 居 民 証(1.D.カ ー ド)を 発 給 しそ の 居 住 を 認 め て い た の で あ る(こ れ を iO5 抵 塁政 策 とい う)。 と こ ろが1974年 か ら香港 政庁 は これ までの方針 を か え,不 法入 境 者 は 国境線 地 帯 で つ か ま った場 合 は 中 国へ強 制 送 還 す る こ とに した の で あ る。 とい うのは 不法 入 境 者 の増 大 が,香 港 の持 つ 人 口収 容 能 力 を越 え る よ うにな って きた か らで あ る 。た だ この段 階 に おい て も 無事 に 国境 線 を突 破 した者 に は,ま だ抵 塁政 策 を行 な って い た の で あ !5) る。1978年 以 後,社 会 主 義 中 国 の 「開 放政 策 」の 影 響 で 激 増 す る入境 者 に驚 いた 香港 政 庁 は,1980年 に抵 塁 政策 を廃 止 し さ ら に身 分 証 明書 制 度 を導 入 し,不 法 入箋 者 の取 り締 ま りを強 化 した ので あ った 。そ の結 果 不 法 入境 者 は激 減 して い る こ とが報 告 され て い る。 な お合法 移 民 の制 度 は1952年 日50人 以来 現 在 も続 いて お り,1973年 を は るか に越 え る150人 以 降 は社 会 主 義 中 国側 が一・ を送 り込 む よ う にな ったの で,年 平均 5万 人 台 を維 持 す る よ うに な り,例 えば1979年 は7万 人,1980年 (6) 万5千 人,1982年 は5万4千 人 とな って い る。 は5 香 港 の人 口動態 を見 る際 に香 港 へ の人 口流入 とい う観 点 の他 に,も 一 つ 見逃 して は な らな い点 が あ る 。そ れ は過 去30余 年 の 間 に200万 う 人 の人hが 海 外 移 民 の 目的 で 香港 を離 れ て い った とい う事 実 で あ る。 これ に関 連 して香 港 中文 大学 の 鄭 赤談 講 師 は 「香 港 は事 実上,清 と して の役 割 を進 め,大 陸 か ら来 た人 を,新 水 の濾 過 器 しい人 を留 め,古 い人 を濾 過 して,移 住 させ た ので す 。 この や り方 で 香港 居住 の年 限 の 長 い者 に移 {7) 住 す る機会 を与 え た の で した 。 」 と述 べ て い る。 オ ー ス トラ リア ・カナ ダ ・ア メ リカ ・英 国(英 国は1981年 に 国籍 法 を修 正 し香港 の 英 国 パ ス ポ ー ト所 持者 を英 国 に定 住 させ な く した)な どは,比 較 的,経 済 ・教 育 お よび技 術 を身 につ け た移 民 を受 け入 れ て きた ので あ る。例 えば カナ ダ の トロ ソ トや バ ソ クーバ ー両 市 には非 常 に多 くの香港 移 民 が 住 ん で い て,華 人街 を形 成 して い る。 以 上 の香 港 へ の人 口動 態 か ら,香 港 は一 方 に おい て は,中 iO6 国大陸 で の 香港住民の行動様式に関する一考察 戦 乱 ・政 変 の混 乱 を避 け るた め に入境 して 来 た難 民 あ るい は 香港 の 経済 的 ・政 治 的 自 由を 求め て や って来 た 移住 者 の収 容地 で あ り,他 方 に お い て は,当 地 を踏 み 台 に さ らに海 外 へ移住 す る とい う海 外 移 民 の 中継 基 地 で もあ った ので あ る 。そ して そ こに居 住 す る人 々 は 難 民 あ る い は 移 住 者,そ れ と もその 子 孫 と して 香港 で生 まれ た人hな の で あ る。彼 らは一 般 的 に香 港 を避難 場 所,一 種 のn租 界"先 さず,彼 また はis出 稼"先 と しか見 な らの通 念 と して は,香 港 以 外 に よ り安 全 で 暮 ら しよい場 所 が見 つ かれ ば香 港 を捨 て て顧 み な い,あ るい は 香港 は 自己 の土 地 で ない とい う観 念 が先 行 し"衣 錦 還 郷(故 郷 に錦 を飾 る)"は 考 えて も香 港 に骨 を埋 {s} め る ことは考 え ない,と い うことに な る 。か よ う な 香 港 社 会 に お い て は,当 該社 会 は ま た英 国植 民 地 で あ る とい う要 因 も加 わ り,自 己 の生 活 保 障の ため に血 縁 に よる結 合 が強 固 にな ら ざるを得 な くな り,特 に家 族 (9) の結 合 が強 くな り家 族 偏重 の傾 向 が顕著 に な って くるの で あ る。 かか る家 族偏 重 は政 治 的 ・経 済 的 混乱 や社 会 的 不安 定 の下,家 族 の存 続 ・繁 栄 の ため に 採 って い る家 族 の離合(離 散 ・集 合)過 程 の 中 で 見 い 出 す ことがで き る。即 ち前 述 の香 港 への 入境 ・香 港 か らの 出境 状 況 の 中 で,特 に家族 の動 態 に焦 点 を 当て て み ると そ こに は0つ の パ タ ー ソと し て,離 散 ・集 合 ・離 散 が浮 か び上 が って来 るの で あ る。 まず 第 一 の離 散 で あ るが,こ れ は 中 国大陸 か らの 難 民 ・不 法 入境 者 の中 に家 族 ぐるみ と い うケ ースは 全 くな く,合 法移 民 の 中で もか か るケ ース は殆 ん どな い と い うことで あ る。 こ こで まず 最初 の家 族 の 離散 が行 な われ て い るので あ る。次 に集 合 とは,こ れ は 香港 に入境 した 者 は何 とか 家業 を確 立 し大 陸 に残 され た家族 を呼 び寄せ よ うとす る こ とで,香 港 で 全家 族 が そ ろ った とい う中 国人家 族 も少 な くな い と言 わ れ る。 な お大陸 の 家族 を呼 べな い まで も,支 送 りや物 品 贈呈 等 で 依 然 と して 強 い結 び 付 き を 維 持 して い る。 しか しなが ら前 述 の 如 く香港 政 庁 の難 民 ・移 住 者 政 策 の転 換 のた め 107 に,香 港 に呼 べ な くな って来 て い るの も事 実 で あ る。 さて第 二 の離 散 と は,香 港 は即 ち 「借 りた土 地 」 「借 りた時 間 」 とい う性 格 を もつ植 民地 で あ る の で 将来 が大 変不 安 定 で,特 に新 界 租 借 条約 の切 れ る1997年 近 に迫 って来 て い る こ と も手伝 って,多 も間 くの人 々は 香港 脱 出 を試 み て い る とい うこ とで あ る。 ビジネ スマ ンや 資産 家 は投 資 を 武器 に,ま た資 力 も (10) ない海 外 に身 内 も コネ もな い人 々は 息子 を留 学 させ た り娘 を在 外 華 僑 に撚 せ る な ど,あ の 手 この 手 で..・..脱 出 の 道 を 模 索 して い るので あ 謂 市 民 の 間 で は ・太 空 人,内 在(12)即 香 港 で で き る限 り金 を も うけ,時 来 す る夫 とい う意味)"と ち妻 子 を ア メ リカ に お い て,自 身は 々 ア メ リカの 妻 子 との間 を飛 行 機 で 往 い う言葉 さえ も聞 か れ る有 様 で あ る。 ともあれ 二 回 目の離 散 は,香 港 の地 で家 族 が集 合 で きなか った入境 者 で 香港 に世 帯 を も うけ た人hに と って も同 じ事 情 で あ る。 か よ うに見 て くると香 港 住 民 に と って香 港 はや は りn仮 の 宿"で,よ り安 全 な よ り暮 ら しよい土 地 を求 め るた め の再 出発 の 「跳 躍 台 」 なの で あ る。た だ どれ だ け多 くの人hが この跳 躍 台 を踏 ん で 目的 を達成 で きるか とな ると,否 定 的 な答 え しか返 って来 な い の も厳 しい現 実 で あ る。 註 (1)陳 荊和 「新 界租約 の満期 と香港 の将来 」創 大 ア ジ ア研 究3号1982年 216∼217頁 28∼45頁 。姫宮栄 一 「香港 一その現状 と案 内一」 中公 新書52,1964年 。 なお本 稿 は陳荊和 教授 の諸論文 お よび所感 に負 う所 が大 で あ る。 (2)1949年10月 か ら1950年5月 にか けて70万 人 の人 口流入 が あ った が, 当 時の難 民 ・移 住者 の教育 程度 は高 く職業 で言 えば元専 門 技 術 者 が70% ・軍 人 が27。7%で 残 り が農 民で あった。 彼 らは満足 の い く職 業には就 け なか ったが教育 水準 が高か った ので,適 応 能 力 には強 い もの があ った。従 Tos 香港住民の行動様式に関する一考察 って 香 港 社 会 の 発 展 に と っ て,そ して1978年 か ら1981年 の 貢 献 度 は 大 な る もの が あ る 。 こ れ に 対 に か け て は40万 が 不 法 入 境 者 で あ っ た と 言 わ れ る が,こ 人 の 人 口 流 入 が あ り こ の 内46% れ らの不 法 入 境 者 の殆 ん どは 年 若 く して 体 力 は あ る が 教 育 程 度 は 高 く な か っ た 。 彼 ら は 長 い 間 農 村 で 生 活 を 送 っ て お り特 殊 技 能 を も っ て お ら ず,香 港 に 入 境 して 来 た 主 た る 目的 は 香 港 で の よ り よ い 物 質 生 活 を 求 め る た め で あ っ た(周 永 新 「香 港 面 臨 人 口 爆 炸 」 七 十 年 代130期1980年23∼24頁)。 (3)可 児 弘 明 編 「も っ と 知 りた い 香 港 」 弘 文 堂1984年34∼35頁 (4)早 瀬 保 子 「香 港 の 人 口事 情 」 ア ジ 研 ニ ュ ー ス51号1984年14頁 {5)近 藤 龍 夫 「国 際 都 市 香 港 」 朝 日 ソ ノ ラ マ1982年258頁 (6)近 藤 龍 夫 「前 掲 」261頁,可 (7)鄭 赤 」'"r「 香 港 の 移 民 政 策 の 過 去 と将 来 」ア ジ ア 時 報170号1984年45頁 (8)陳i荊 (9}社 和 「前 掲 」218頁 ・ 。 児 弘 明 編 「前 掲 」242頁 。 。 。 会 が 不 安 定 で あ れ ば あ る 程,ま 程,血 。 た 政 治 的 ・経 済 的 混 乱 が 増 せ ば 増 す 縁 的 結 合 だ け の 生 活 保 障 は 困 難 に な り地 縁 的 結 合,即 ち郷 箒 が要 請 され るに い た る の で あ る が 詳 細 は 次 の機 会 に譲 る こ と に す る。 (10)留 学 先 が 特 に 集 中 し て い る の は ア メ リカ ・カ ナ ダ ・英 国 ・オ ー ス トラ リ ア で,留 学 生 の 数 は 年 々 増 加 して い る 。 留 学 の た め の 出 国 者 の 数 で 見 て み る と,1972年 人,オ は5982人(ア メ リ カ2420人,カ ー ス ト ラ リア113人)で メ リ カ2634人,カ あ っ た の が,1980年 ナ ダ4040人,英 と 倍 増 し て お り,カ 国4130人,オ 国913 に は1万1139人(ア ー ス ト ラ リ ア353人) ナ ダ ・英 国 留 学 に 人 気 が 集 中 し て い る 。 な お 英 国 留 学 は 英 国 国 籍 法 の 修 正 の 影 響 で1981年 は 逆 に6600人 ナ ダ2536人,英 は2159人 に 減 少 す る が,カ ナダ 留学 に 増 加 して い る(莫 明 「放 洋 求 学 的 滋 潮 與 退 潮 」七 十 年 代 第 151期1982年39頁)。 (1Dr読 売 新 聞 」1984年2月7日 付(夕 刊)。 iO9 {12)第4回 社会 学会 議 シ ソポ ジ ウム(テ ーマ 「東 ア ジアにおけ る家 族 と社会 変動 」)報 告 者で あ る香 港 中文 大学劉 兆佳博士 との対 談 の中で御教 示 い た だ いた もので あ る。 な お1997年 問 題 は 家族関 係 におい て も悪 影響 を及 ぼ して い るとの こ とで ある。 ⇔ 金銭至上 香 港 は よ く"金 銭 掛 帥(金 銭 第一)"・ 拝金 主 義 的 傾 向 の強 い都 市 で あ る と言 われ る。そ の理 由の 第一 に,難 民 ・移 住 者 の 社会 で あ るとい うこ とが あげ られ る。 香港 は確 かに住 民 の98%が 中 国系住 民 で あ る が,そ の 殆 ん どは 中 国大 陸 の ど こか に故郷 を もつ難 民 ・移 住 者 か ら構 成 され る 寄 合所 帯 な ので あ る 。 しか も彼 らは前 述 の 如 く香 港 をtc仮 の宿"と しか 見 な して い な いの で,そ の 居住 地 に対 す る帰属 感 は 一般 的 に大 変稀 薄で (1) あ る 。か よ うな背 景 か らは都 市共 同生 活 者 と して の意 識 は生 じに く く, 相 互扶 助 等 の意 識 は な お さ らで あ る。 そ こで 香港 住 民 に と っ て 自己 の生 活 保 障 の た め に一番 頼 りに な るの は,人 的 には前 項 の 血 縁 の 者 特 に 家 族,物 子(命 的 に は金 銭 とい うこ とに な るので あ る 。彼 らの 間 に は金 がct命 根 (2) の 縄)"と い う生 活原 理 が し っ か りと定 着 して い る。 その第 二 は 植民 地社 会 とい うことで,香 港住 民 の 金 銭至 上 的 傾 向を助 長 させ た ので あ る。即 ち英 国の 統 治者 は,中 国系 住 民 に対 して政 治 的 に上 昇 で き る可 能 性 を与 えな いで,彼 らに与 えた の は経 済 的 な上 昇 可 能性(例 えぼ経 済 政 策 の 自由放任 主 義 の下,個 人所 得 税 の 上 限 は15°oと さ れ た の で,稼 (3) げ ば稼 ぐほ ど重税 感 がな くな る)だ け で あ っ た の で,香 港 住 民 は 勢 い L(政治 は統 治 者 に まかせ ,自 分 た ちは金 も うけ に専 念 す れ ば い いん だ" とい う安 易 な道 を選択 し歩 んで 来 た ので あ る(実 際 は,そ の道 しか残 さ れ (4) て い なか った と言 った方 が適 切 で あ ろ う)。 現 在,香 港 住 民 の90°oま 110 香港住民の行動様式に関する一考察 で が商業 に従事 して お り,拝 金 主義 がか な り侵透 してい る と言 わ れ て い る ・ 従 ってtt自 分 だ け が 得 を す れ ば よ い の で あ っ て,他 人 の利 害 や社 会 の福祉 (5) い う風 潮 も顕 著 で あ る 。 な ん か か ま っ て い られ な い"と 0方 ,香 港 社 会 の98%を 占 め る中 国 人 が 中 国 大 陸 か ら 受 け 継 ぎ,生 活 の 中 で 生 きつ い て い る俗 語 の 中 に も拝 金 主 義 的 な もの も少 な くな い の で あ る 。 例 え ば,ct五 皇 拝 財 神(最 と か ・有 銭 王 八 坐 主 席,落 り,落 高 の 神 で も福 の 神 に は 頭 を 下 げ る)" 魂 鳳 鳳 不 如 鶏(バ ち ぶ れ た鳳 鳳 は ニ ワ ト リ以 下 だ)"ま の 沙 汰 も金 しだ い),,等 が あ り,年 金 も うけ が で き ます よ うに)"の カで も金 が あ れ ば 主 席 に な たec有 銭 能 使 鬼 推 磨(地 獄 の 始 め もe<恭 喜 発 財(お め で と う, (s) あ い さ つ で 迎 え る とい っ た 具 合 で あ る 。 香 港 で は よ く 日常 生 活 の 中 で,次 の よ うな 場 面 に 出 く わ す こ と が あ (7) る 。何 か も の を頼 む どc有 右 利 是(お 礼 を して くれ るの か)"と か,ct請 我 飲 茶(お ご って く れ)"と を 貸 して や るの だ か ら,そ か 必 ず 反 対 給 付 を 求 め られ る の で あ る・ 力 れ な りの 見 返 りが あ って も当 然 だ と い う考 え 方 な の で あ ろ う。 ま た就 職 に 関 して はis東 家 吾 打 打 西 家(東 ら西 家 へ 行 く)"と い う広 東 語 の 諺 が あ っ て,こ 家 が ダメ な れ は 即 ち,少 しで も給 料 の よ い 所 が あ れ ば す ぐそ ち らに 転 職 して しま う と い う もの で あ る ・ さ ら に この 金 銭 至 上 的 傾 向 が エ ス カ レー トしてctnomanynotolk(金 の な い 者 は 口 出 しす る な)"と い う言 動 さ え も耳 に し 目に す る 有 様 で あ る。 以 上 の よ うな 環 境 に お い て は,香 港 住 民 は 自然 と金 も うけ の 才 能 が 洗 練 さ れ ざ る を得 な くな る の で あ る 。例 え ば,タ 客(暫 く休 み)"の て 休 み で は な く,料 ク シ ー運 転 手 がec暫 停 載 表 示 を 出 して 走 るの もそ の0つ で あ る。 実 際 は 決 し 金 は 話 し合 い で 決 め て な ら乗 せ ま す と い う合 図 な の で あ る 。 ラ ッシ ュ ・ア ワ ーの 客 の 需 要 度 と か 風 雨 の 強 さ と か 等 々 に 応 じ て,料 金 相 場 を 出 して くる の で あ る 。 また 定 期 路 線 バ ス と タ ク シ ーの 中 lit 間 の よ うな14人 乗 りの ミニ バ ス も 同 じ よ う に,運 様 や 客 の 需 要 状 況 を 見 て,そ 転 手 兼経 営者 は空 模 の 料 金 表 示 を 取 り替 え て く るの で あ る 。 更 に か よ うに金 も うけ が 上 手 で あ る と い うこ と は,即 ち金 の 使 い方 が う ま い と い う こ と に も通 ず る の で あ る 。香 港 の 路 面 電 車 や バ ス は 殆 ん ど ワ ソ マ ン カ ーで,釣 り銭 の 手 間 を 省 くた め 釣 り銭 は も らえ な い 。 そ こで 住 民 は 自分 が 損 を しな い よ うに と,車 内 で 乗 客 同 志 で 小 銭 を 融 通 した り両 替 え した り して い るの で あ る 。 か よ うな 傾 向 は 商 売 に た ず さ わ る者 に 至 っ て は 顕 著 で,自 由貿 易 港e<香 港"と い う イ メ ー ジ か ら香 港 が世 界 各 地 の 流 行 に 振 り回 さ れ て い るか の よ うに 思 わ れ が ち で あ る が,彼 らは 確 か に 新 寄 ・流 行 に 敏 感 で あ る 一 方 で そ の 選 択 に は 極 め て 警 戒 心 が 強 く慎 重 で {s} あ る。 「中 国 人 の 居 る と こ ろ ギ ャン ブル あ り」(広 東 人 は 特 に 賭 け 事 を 好 む) と よ く言 わ れ る が,拝 金 主 義 ・金 銭 万 能 的 傾 向 の 強 い 香 港 で は,人hは "発 財"精 神 を 大 い に 発 揮 しよ うと す るの で ギ ャソブル熱 に は異 常 な も (9) の を 感 じ させ られ る 。そ の 中 で も競 馬 熱 は 大 変 な もの で あ る 。 香 港 に は 「ホ ン コ ン ・ロ イ ヤ ル ・ジ ョ ッキ ー ・ク ラ ブ(英 と い う90余 皇 御 准 香...一 馬 会)」 年 の歴 史 を 持 つ競 馬 場 が 香 港 島 に あ り,1979年 には新 界 に も第 二 の競 馬 場 が 誕 生 した程 で あ る 。 競 馬 場 は 香 港 で 唯 一 合 法 の 賭 博 で も あ る 。競 馬 シ ー ズ ン は10月 か ら翌 年5月 午 後 と水 曜 日の 夜 行 な わ れ 一 日に ざ っ と1億 う盛 況 ぶ りで,"土 ま で で,毎 香 港 ドル は賭 け られ る と い 曜 日 に は トコ屋 に 行 く な (ト コ屋 が 競 馬 の ラ ジ オ に 気 を と られ て 何 を され るか わ か らな い の で)"と い る 。1980年 1975年 ii2 ま で 言 われ て の シ ー ズ ン中 に競 馬 に 賭 け ら れ た 金 額 は ざ っ と87億5千 当 時 の,14億 週 土 ・日 曜 日の 万 香 港 ドル で, 香 港 ドル に 比 べ て5年(百 馬券売 上 げ高推 移(註10) 1977-78 3,365 1978-79 5,329 1979-80 6,480 i980-81 8,750 1981-82 10,313 万香 港 ドル) 香港住民の行動様式に関する一考察 間 で な ん と6倍 103億1千 に も は ね 上 が って い る(1981年 の シ ー ズ ソ中 は つ い に 万 香 港 ドル と な った)。 註 (1}陳 荊和 「前 掲 」218頁 。 (2)可 児 弘 明 編 「前 掲 」246頁 (3)前 田 敏 晴 「租 借 期 限 切 れ へ 向 け て 中 国 史 を 見 直 す 学 生 た ち 」 朝 日 ジ ャ ニ ナ ル25巻1号1983年29頁 (4)伊 。 。 藤 斎 「特 派 員 リ レ ー エ ッ セ ー香 港 一 向 前 看 」 朝 日 ジ ャ ー ナ ル21巻24 号1979年38頁,可 児 弘 明 編 「前 掲 」22∼23頁 「前 掲 」218∼219頁 。 (5)陳 荊和 {6)伊 藤 斎 「特 派 員 リ レ ー エ ッ セ ー香 港 一好 猫 論 」 朝 日 ジ ャ ー ナ ル21巻16 号1979年82頁 。 。 (7)可 児 弘 明 編 「前 掲 」244∼245頁 (8)伊 藤 斎 「特 派 員 リ レ ー エ ッ セ ー 香 港 一 突 撃 消 滅 舞 盲 」 朝 日 ジ ャ ー ナ ル21 巻20号1979年86∼87頁,伊 。 藤 斎 「前 掲 一 好 猫 論 」83頁 〔9)近 藤 龍 夫 「前 掲 」40∼43頁,島 る 」 海 外 ニ ュ ー スMITSUI,1983年48頁 (10)「 田陽 子 「香 港 ・ レ ジ ャ ー の 本 流 を 探 。 専 題 ・費 馬 狂 熱 」 七 十 年 代 第154期1982年24頁 ⇔ff落 。 。 葉 帰 根" 香港 住 民 は前 述 の 如 く難 民 ・移 住 者 あ るい はそ の 子 孫 と して の 香港 出 生 者 で,し か もその殆 ん どが社 会 主 義 中 国の共 鳴者 で は な いの で あ る。 しか しな が ら彼 らは長 い間 の 家庭 生 活,風 俗 習慣,宗 教 観,価 どの面 で,中 値意 識 な 国的 伝統 の影 響 を強 く保 持 して お り,そ の上 故 郷 に対 す る 113 愛 着 が極 め て 強 い のでcc落 葉 帰 根(い ず れは 国 に,故 郷 に 帰 る)・ 意 識 を依 然 と して残 存 させ,彼 らの 心 は 常 に 中 国大 陸 に 向 って い る の で あ る・但 し彼 らに な お帰 巣本 能 が依然 と して残 存 され て い る と した と して も・彼 らの もつ意識 は い わば 単純 な 「郷 愁 」 に す ぎな く,決 して一 般 的 に言 わ れ る よ うな国家 に対 す る忠 誠 心 と同一 視 で きる もので は ない ので (1) あ る。 香港 に あ る中 国系 の 映 画館 で社 会 主義 中 国の 躍 進 を伝 え る記録 映 画 が 上 映 され (2) る と,観 衆 か ら惜 しみ ない 拍手 が送 られ た り,ま た ドラマ映画 で もその ロケ先 が有 名 な 景勝 地 で あ った りす る と望郷 の 念 か らで あ ろ う か ・ ざわ め きや た め息 さえ 聞 こえて くるの で あ る。 望郷 の念 と言 えば, 香港 では骨 は 出身 地 に埋 め て 欲 しい と遺 言 す る ケ ース も多 い と言 わ れ, 東 華 義 荘(香 港 最大 の社 会 事 業 団体 ・東 華三 院 の管理 す る遺 骨安 置 所) {3) には その よ うな遺 骨 が数 多 く預 け られ て い る。 将来 情勢 が許 せ ば 故郷 に 持 って帰 って も らい,先 祖 た ち と一緒 に 眠 るため のn仮 の 宿 ・なの で あ る。 香港 住 民 が中 国大 陸 との一 体 感 を常 日頃 感 じて い る こと と して,大 陸 か らの食糧 と水 の供 給 とい うこ とを あ げ な けれ ば な らない 。香 港 は農 村 を もた ない純 然 た る消費 都 市 で あ るので,そ の食糧 の供 給 は特 に 中 国大 陸 に頼 って い る。社会 主 義 中 国の香 港 向け輸 出品 は食 糧 が その 大 多数 を 占 め て お り,1980年 度 に香港 が外 か ら輸 入 した食 糧 と食 用 肉 の 半 分 以 (4) 上 が大陸 か ら入 って きた もの で あ った 。そ の一 つの例 と して,中 国製 品 専 売店 の 「国貨公 司 」の 存在 が あ る。 香港 の 低 所 得者 層 で も利 用 で きる デパ ー トで,中 国大 陸 か ら くる米 ・油等 その 他 生活 必 需 品 を取 扱 って お り (5) ,特 に漢 方 薬 売場 は い つ も大 勢 の人 で ご った返 して い る。 か よ うな大 陸 へ 向 って い る心 は,時 と して一 挙 に表 面化 す る ことが あ る・即 ち香 港 住 民 が 自身 が生理 的 に受 けた 中 国人 の血 の 故 に,中 国民 族 1i4 香港住民の行動様式に関する一考察 が排 斥,抑 圧,迫 害 を受 け た ときに は,中 国人 の血 の ざわ め きが 著 し く (6) 顕現 して くるので あ る 。1972年 に起 きた社 会 主 義 中 国の主 張 す る釣 魚 台 の帰 属 が 日中 間の 懸 案 に な った尖 閣列 島問 題,1979年 国 とベ トナ ム との戦 争,1982年 の 社 会主義中 に 起 きた中 国 へ の 侵 略 事 項 に 関 す る 日 本政 府 の行 な った教 科 書 改 ざん問題 等 の 際 に,香 港 の新 聞 や学 生 団体 等 の反 応 か ら強 く印象 づ け られ た,彼 らの強 烈 な まで の 中 国人 意識 が そ の 好 い例 で あ る。 この他 に も,香 港 住 民 の 社会 主 義 中国 で の核 実 験 成 功や,人 工 衛 星 打 ち上 げ成 功 等 に感 動 し興 奮 す る とい う心 理 が 如実 に示 す よ うに,彼 らは 中 国人特 有 の ナ シ ョナ リズ ムか らは逃 れ られ な い存 在 で あ る と言 って も 過 (7) 言 で は な いの で あ る。 註 (1)戴 国 輝 編 「東 南 ア ジ ア 華 人 社 会 の 研 究(上)」 年10頁 。 (2)可 児 弘 明 「都 市 物 語 ・香 港(4)」 (3)可 児 弘 明 「前 掲 ・香 港(14)」 (4)陳 荊 和 「前 掲 」223頁 (5)近 藤 龍 夫 「前 掲 」271頁 (6)戴 国 輝 編 「前 掲 」10頁 読 売 新 聞1982年8月6日 前 掲8月25日 付(夕 付(夕 刊)。 刊)。 。 。 。 〔7)中 嶋 嶺 雄…「香 港 一 そ の 歴 史 と未 来(6)」 二 ア ジ ア 経 済 研 究 所1974 世 界 週 報65巻43号1984年49頁 。 「植民 地 社 会 」 と香 港住 民 ←う 政 治的 無 関 心 英 国は アヘ ソ戦 争 の結 果 締 結 され た南京 条 約(1842年)に よ り}香 港 115 島 を割譲 せ しめ それ を皇 領 植 民地 と し,翌1843年 か ら本 格 的 な そ の植 民 地 経 営 に乗 り出 し今 日に至 って い る。英 国 の統 治政 策 は概 略 す るに, 香港 に 自 由港 と軍 事基 地 の 二 重性 格 を並存 させ,住 民 の政 活 活動 を禁 止 し,経 済 優 先の 「政 治 の空 白に よる繁 栄 」 を実 現 す る こ とが 目標 で あ っ (1) た。 軍 隊 を入 れ て も3万 に満 た な い英 国人 で 約500万 の 中 国系住 民 を統 治 す る とい う理 由 か ら,香 港政 庁 は政 庁 各部 門の 窓 口た る中 ・下級 官 吏 お よび警察 官 には殆 ん ど現 地 の 広東 人 と コー ラ シア ン(ポ ル トガル人 と中 国人 の 混血)を 雇用 し,シ ニ ア ー ・ポ ス ト(seniorpost)に は英 国人 を独 占 させ る ことに よ り,背 後 か ら実 質 的 に コソ トロ ールす る とい う間 接 統 治 に近 い方 式 を採 用 して い る。か か る方 式 は単 に住 民 同志 の 対立 を ね ら うだ けで な く,英 国人 の 直接統 治 か ら予 想 され る摩擦 を少 な くす る (2) とい う硬軟 両 面 を有 して い る。香 港 の 最 高 権 力 者 た る香 港 総 督 は(英 国h 王の親任による)香 港政庁の首長とな り,駐 香 港 三 軍 の総 司令 官 を兼 任 し, その 下 に諮 問機 関 と して 行政 会 議 と立 法 会議 が存 す る。現 在(1983年 8月),行 政 会 議 の 官職 ・任 名官 吏議i員は6名(4名 と2名),任 命民 間 人 議員 は11名,ま 名),任 た立 法会 議 の 官職 ・任 命 官 議員 は18名(3名 と15 (3} 命 民 間 人議 員 は29名 で あ るが,中 国系住 民 は 任命 民 間人議 員 と して 選 出 され る チ ャソスが 与 え られ て い るにす ぎな い 。 即 ち,英 国の統 治者 た ちは前 述 の香 港 統 治政 策の 目標 を実 現 させ るた めに,香 港住 民 に対 し経 済 的 上 昇可 能 性 を与 え る0方 で,0貫 して政 治 的 上昇 可 能性 を閉 ざ して きたの で あ る。 以上 の よ うな政 治状 況 の 中で,香 港住 民 は一 一般 的 に政 治 には触 れ よ う とはせず,専 ら金 も うけ に徹 した生 活 を送 って い るの で あ る。政 治的 な 上 昇 可 能性 が閉 ざされ,英 国の統 治 政 策 の下 で民 族差 別 を こ うむ った中 国 系住 民 に と って,香 港 は 出稼 ぎ先 で あ り金 を蓄 え 故郷 に帰 る まで の, 116 香港住民の行動様式に関す る一考察 あ るい は よ り安 全 な暮 ら しよい土地 へ移 る まで の仮 の宿 に す ぎなか った の で あ る。い い か えれ ば香 港 にや って くる中 国人 は,経 済 的 な上 昇可 能 性 を求 め る と ころ に,香 港 の 利 用価 値 を見 い 出 して いた の で あ る。そ の た め に彼 らは,香 港 に住 み つ くの は 御免 で あ るが仮 住 いの 間 は植 民地 体 (4) 制 に柔 軟 に対 応 し,経 済的 な上 昇 の み を図 って きた ので あ る。 その せ い か,香 港 で は正面 切 った反 植 民 地 闘争 が持 続 的 に行 なわ れ た ことは ない と言 わ れ る。1966年4月 ス タ ー ・フ ェリーの10セ ン ト値 上 げ に反 対 し て,住 民 の一 人 が ハ ソス トを行 な った の が 口火 とな って起 った大 衆 暴動 や,翌1967年 新 蒲 崩 の プ ラス チ ック ・フ ラ ワ ー工 場 の 労働 争 議 に始 ま り,折 か らの文 化 革 命 を背 景 に広 い層 の住 民 を巻 き込 み,次 第 に反英, 反 政 庁 運動 さ らに英 中関 係 を 緊迫 化 させ る程 の 大事 件 とな った 「香港 騒 動 」 はそ の 好例 と言 え るで あ ろ う。 他 方,政 治 に対 す る関 心 が極 め て低 い こ とは市政 局 の公選 議 員 選挙 に 大 多数 の有 権 者 が 棄権 して い る こ とに も現 われ て い る。市 政 局 とい うの は 市街 区(香 港 ・九竜 区)に おけ る主 と して保 健 衛 生 ・公 共 施設 に関 す る行 政 責任 を もつ 機関 で,こ の公 選 議員 は香 港 の 最 高行 政 レベ ル に おけ (5) る唯 一 の選 挙 に よ る公 職 で あ る。 と ころで この市政 局公 選 議 員 の1973 年 の選 挙 投票 状 況 を見 る と,12名 内,投 票 した のは 唯 の8675人 (6) を物 語 って い る。 の議 員 に 対 し全 有 権 者 約40万 で あ った と言 わ れ,い 人の か に 関 心 が低 い か この他,戦 後 に漸 進 的 な 自治 の 獲 得 をめ ざす政 治 団体 「革 新 会 」 が組 織 され た り,1962年 に は 「民 主 自治 党」が政 党 と して結 成 を許 可 され た り,さ らに 「公 民 協 会 」 とい う団 体 が 自治 拡 大 運 動 を行 な った り して い るが,前 述 の選 挙 と同様一・ 般 住 民 の 関心 は低 く,い ず れ も有 力 な運 動 と (7} は な って い ない の が現 状 で あ る。 さ て 香港 住 民 の政 治的 無 関心 状 況 の 背景 と して ・触 れ て おか ね ば な ら 117 な い側 面 が あ る。即 ち香港 が社 会 主 義 中 国 と台 湾 との狭 間 に置 かれ て い {8) るので,何 か と気 を使 わ な け れば な らな い とい う側 面 で あ る。配 慮 を欠 い て,反 共産 党 だ とか反 国民 党 だ とか 言 って政 治 に触 れ た りす る と,社 会主 義 中 国や 台湾 か らに らまれ 商 取 引 が や りに く くな った り,中 国大 陸 や 台湾 に い る親 戚 が巻 添 えを く うとい う可 能 性 も 出 て く る か らで あ る。中 国大 陸 と台湾 の 貿 易 は政 治 的対 立 が続 く中で も,香 港 ・マ カオ を (9) 通 じて密 か にわず かで は あ るが継 続 され て い たの で あ る。大 陸 か らは漢 方 薬材 料 ・食 料 ・飲 料 が台 湾 へ輸 出 され て い た が,台 湾 の製 品 が大 陸 へ 輸 出 され る ことは殆 ん ど な く,言 わ ば 片 貿 易的 性 格 の もので あ った 。 と ころ が1978年 後 半 か ら台湾 製 品の 大 陸 向 け輸 出が急 速 に の び,1979年 に は香港 経 由 中台貿 易 は,台 湾 向 けの2億7900万 香 港 ドル に 対 し,大 陸 向 けが前 年 の24万 香港 ドル か ら一 挙 に1億600万 香港 ドル には ね上 {lo) が って い て,こ れ は前年 比400倍 の の びで あ った。 註 (1)陳 荊 和 「前 掲 」217∼218頁 (2)姫 宮 栄 一 「前 掲 」96頁 (3)「 特 集 ・香 港 の ゆ く え 一 迫 る1997年 所)9頁 。 。 児 弘 明 編 「前 掲 」23頁 。 {5)可 児 弘 明編 。 (6)王 曽 才 ・陳 進 傳 合 著 「前 掲 」29頁 (7)姫 宮 栄 一一 「前 掲 」102∼103頁 (8)可 児 弘 明 編 「前 掲 」247頁 {9)近 藤 龍 夫 「前 掲 」264∼265頁 118 国研 究 。 (4)可 (10)田 朝 南 問 題 」 中 国 年 鑑1984年(中 「前 掲 」62頁 。 。 。 。 「中 ・台 ・港 間 的 三 角 貿 易 」 七 十 年 代 第163期1983年48頁 。 香港住民の行動様式に関する一考察 (⇒a香 港 人"意 識 前 述 の 如 く,香 港 住 民 の 中 に 依 然 と して 根 強 い 政 治 的 無 関 心 の 傾 向 が 存 す る一 方 で,政 治 的 要 求 が 拡 大 しつ つ あ る こ と も事 実 で あ る と言 わ ざ る を 得 な い 。 と い うの は 英 国 の 植 民 地 体 制 の 下 で,種hな 受 け な が ら もa落 葉 帰 根"意 抑 圧 ・差 別 を 識 を 保 持 しな が らそ れ に 耐 え生 き抜 い て き た 中 国人 が,次 第 に仮 の 宿 で は な く自己 の 生 活 空 間 と して の 香 港 を 意 識 (1) し始 め た か らで あ る 。 ま さ にa落 葉 帰 根"か ら く 更落 葉 生 根(居 住 地 の 土 と な り,根 を は って 生 きの び て ゆ く)"意 識 へ の 転 換 で あ る 。1949年 国 大 陸 に 社 会 主 義 中 国 が 誕 生 した こ とに よ り,大 な り,難 中 陸 との 往 来 が 不 自 由 と 民 ・移 住 者 と して 香 港 に 入 境 して き た 者 に と って,香 港 を第二 の 故 郷 と して 生 きて 行 か ね ば な らな い 時 代 が 到 来 した の で あ る 。 特 に 香 港 出生 者 の 若 者 に と って,香 港 は ま さ し く自 身 の 生 ま れ 育 っ た 故 郷 な の で あ る 。 香 港 出 生 者 の 総 人 口 に 占 め る割 合 は,1961年 に48%,1965 年 に は54°oに,1982年 で は57%に 達 し過 半 数 を 占 め る に 至 って い る (2) の で あ る 。 か よ うな社 会 変 化 の 中 で,cc落 葉 生 根"意 識 を次 第 に持 つ よ うに な った 香 港 住 民 が,そ に,植 の 居 住 地 の一 構i成 員 と して そ の 居 住 地 の た め 民 地 統 治 者 に 対 し政 治 的 要 求 を 拡 大 し始 め るの は 当 然 の こ とで あ ろ う。 他 方,政 治 的 要 求 の 拡 大 化 は,香 港 経 済 の 高 度 成 長 に伴 う社 会 の 急 激( 3} な 変 化 の 中 か ら も惹 起 せ しめ られ る 。 香 港 経 済 は1960年 代 以 降 高度成 長 を 達 成 した と言 わ れ,国 内 総 生 産 で み る と(1973年 価 格 を 実質 額 と す る),1967∼73年 は8.9%の に は 年 平 均9.1%の 成 長 率 で,1974年 4) 成 長 率 で 増 加 して い る 。 ま た 工 業 製 品 の90%が され る中 で,1970年 の 輸 出 製 品 高 は120億 ∼82年 に( 輸 出 に ま わ 香 港 ドル に 達 し10年 4倍 強 の 増 加 と な りζ1975年 に は230億 香 港 ドル で5年 (5} もな って い る 。 か よ うな 経 済 の 高 度 成 長 ・商 業 の 拡 張(そ 前 の 約2倍 間 で に れ に香 港 の特 119 殊 事情 と して の 中 国大 陸 か らの 大量 移 住 者)に よ り,居 住 ・衛 生 ・医療 ・ 交 通 ・教 育 等 の 都 市で 生 活 して ゆ く上 で の 基本 的 問 題 が発 生 し,大 きな 社会問題 (6) を引 き起 こす に至 った ので あ る 。 しか しなが ら一 方 で,か か る 経 済 の高 度成 長 に伴 う政 治的 要 求の拡 大化 は,時 と して 香港 の 中 国系 住 民 に対 し大 きな 自信 と 自負心 を抱 かせ る こ とに もな った とい うこ とを見 逃 して は な らな いで あ ろ う。 以 上 の よ うな政 治 的拡 大 化 傾 向の 中で,広 東 語 の公 用化 運動 は特 記 す (7} べ き もの が あ る と言 える 。英 語 だ け が公用 語 で あ ると政 治 的要 求に不 便 で あ る し・そ の 上条 例 も中国系 住 民 に徹底 しな い とい うの が 同運 動 の発 端で あ ったが,広 東 語 の 公用 化 は植 民地 統 治下 にお け る中 国系住 民 の長 い 間 の願 望 で あ った 。同 運動 は結 局,1974年1月 に英 語 の 公 文 に 中 国 語 を併 記 す る こ とで 結実 す るが,植 民地 統 治者 の力 も,香 港住 民 へ の配 慮 な しで は植 民 地 統 治 を続 け る ことは 困難 で あ る と見抜 いて きた証 左 で もあ る と言 え よ う・ ユ967年 の 香港 暴動 の経 験 を も と に,香 港 と中国 と の関 係改 善 を 目的 と して1970年,新 総 督 に 中 国通 の外 交 官 ク ロ フ ォー ド (8) ・M・ マ クル ポ0ス が起 用 され て い る 。新 総 督 が,香 港 社 会 そ の もの か ら出 て くる住 宅 ・教 育 ・医 療 ・社 会 福 祉 等 の政 治 的要 求 に対 し,柔 軟 (9> に対 処 して い った こ とは 言 うまで もない 。な お,1974年8月 に は 香港 史 上 は じめ て の こ とで あ るが,政 庁 で 働 く下級 公 務員5000人 邸 に デ モを して 「請 願 」を行 な ってい る。 また1977年10月 官3000人 が総 督 官 に は,警 察 が総 督 直属 機 関 「汚]職防止 委 員会 」(特 に警 察 官 の 汚職 摘発) の 警 察 官 に対 す る捜 査 の行 き過 ぎに反 対 しデモ を行 な い,同 委 員会 との 対 立 が激 化 し治 安 に影 響 す る恐 れ が 出て きた た め,総 督 は 同委員 会 の機 能 を弱 め る措 置 を と らざ るを得 な か った 。 こ うした 中,1982年10月 か ら開始 され た1997年 問 題 に関 す る中英 交 渉 は ・香 港 住 民 の政 治 的無 関心 状 況 を一 変 させ た と言 って も過 言 で は 120 香港住民の行動様式に関する一考察 な い 。 即 ち,中 国 側 の 提 案 した"港 人 治 港(香 港 人 が 香 港 を 治 め る)"は 香 港 住 民 に 対 し種 々 な 論 義 を 引 き起 こ し,民 間 団体 の 手 に よ っ て 返 還 問 (lo 題 に 関 す る意 識 調 査 が 実 施 さ れ る に 至 って い る 。 ま た 香 港 大 学 や 政 治 団 体 等 を 中 心 に,「 香 港 人 に よ る民 主 自治 」 の 要 求 が 出 さ れ,自 治 権の 内 (11) 容 を よ り民 主 的 な もの に す る よ うに とい う要 望 も強 くな って きて い る 。 一 方 ,香 港 住 民 の 意 識 の 変 化 は,関 心 の 低 い と言 わ れ て き た選 挙 に も現 わ れ て い る 。 統 治 者 の 行 な った 地 方 行 政 機 構 の 改 革 の 結 果,1982年 「区 議 会 」 が 設 け ら れ た が,そ (1982年9月 の 第1回 目のi区 市 街 区)に お い て は 投 票 率 が35%に 年3月 に 行 な わ れ た 市 政 局 選 挙 で は,12万7300人 {13 22.4°oに も な った の で あ る 。 に 議 会 」公 選 議 員選 挙 (12) も達 した 。ま た1983 が 投 票 し投 票 率 は 註 (1)可 児 弘 明 編 「前 掲 」37頁 (2)「 香 港 一1983年 (3)可 児 弘 明 編 「前 掲 」38頁 。 」 香 港 政 庁195頁 。 〔4)可 児 弘 明 「前 掲 」88∼89頁 (5)黄 。 。 暉 明 「家 庭 変 遷 」(「 廿 五 年 来 之 香 港 」 所 収)香 院1977年50頁 。 (6)黄 暉 明 「前 掲 」51頁 (71可 児 弘 明 編 「前 掲 」39頁 (8)近 藤 龍夫 (9)1971年 港中文 大 学 崇 基 学 。 。 「前 掲 」7277∼278頁 。 に は 「一 夫 一 妻 」 制 の 婚 姻 法 を 制 定 し,ま た小学校 の準 義 務 教 育 制 度 も導 入 して い る 。 coo)主 な も の は ①1982年3月 の 香 港 革 新 会 に よ る 調 査,②1982年5∼6 月 の 香 港 観 察 社 に よ る 調 査,③1982年9∼10月 の新香港 学会 香港 前途 i21 民 意 調 査 小 組 に よ る 調 査,④1982年10月 1983年4月 (11)加 の 大 専 同 学 社 会 研 究 小 組 に よ る 調 査,で 々美 光 行 「香 港 住 民 はee返 還"を 51号1984年9∼10頁 q2)鄭 の 市 場 研 究 社 に よ る 調 査,⑤ あ る。 ど う見 て い る か 」 ア ジ 研 ニ ュ ー ス 。 宇 碩 「香 港 居 民 争 取 権 益 運 動 的 趨 勢 」 七 十 年 代 第156期1983年38 頁。 (13)黄 鉋 鴻 「市 政 局 選 後 評 」 七 十 年 代 第159期1983年62頁 三 。 む す び にか え て "ambivalence"と"騎 培" 以上,香 港 住 民 の 行 動様 式 を便 宜 上,「 難 民 ・移 住 者 社会 」と 「植民 地 社会 」という二つの側面 か ら考 察 を試 み て きた が,最 後 に以 上 の考 察 の 中 で の所感,即 ち香 港住 民 の"ambivalence(愛 よび ㏄騎 培(壁 憎 感 情 の交 錯)"状 の上 に馬 乗 りに な りど ち らに で も傾 く)"的 況お 態度 に 触 れ てむ す び と した い。 香港 住 民 は,中 国大 陸 で の 戦乱 や 特 に社 会 主 義体 制 下 で の政 治 的 迫 害 か ら逃 れ るため に,ま た 同体 制 下 で の制 限 され て い る経 済 的 自由 を求 め て香 港 に入 境 して きた難民 ・移 住者 の性 格 を持 つ が 故 に,そ の殆 ん ど が 社 会 主 義 中 国 に対 して は不 満 を抱 き,反 発 して い る非 共 鳴者 で あ る。 し か しな が ら彼 らのee落 葉 帰 根"意 識 は,水 ・食 糧 ・生 活 必需 品は 大 陸 か ら供給 され,大 陸 に親 戚 の者 が住 ん でい る こと も手 伝 い依 然 と して 根 強 く,祖 国中 国大 陸 に対 す る望郷 ・郷 愁 の念 も同様 に 大 変 強 い もの が あ る。彼 らは一一 方 に おい て は,中 国 に対 してambivalence状 難民 ・移 住 者 が移 り住 ん だそ の地 は,英 122 況 に あ る。 国の植 民 地 で あ った 。そ こに 香港 住 民 の 行動 様i式に 関 す る一考 察 お い て は,植 が 閉 ざ され,彼 民 地 統 治 政 策 の 下 で 中 国 系 住 民 に 対 す る政 治 的 上 昇 可 能 性 ら彼 らは,英 らは 種 々 な 抑 圧,迫 国 植 民 地(自 害,差 由 貿 易 港)の 別 を 受 け て きた 。 しか しな が 保 護iの下 で は じめ て,高 度経 済 成 長 や ア ジ ア第 三 位 の 国 民 所 得 等 の 今 日の 大 い な る繁 栄 を 享 受 す る こ と が で き た 。即 ち 彼 らは,英 国 に対 して もambivalence状 よ うな 香 港 住 民ambivalence状 況 は,香 港 返 還 問 題 に 関 す る住 民 の 意 識 調 査 の 結 果 に よ く現 わ れ て い る 。1982年5∼6月 の 調 査 に よ る と,総 人 口 の98%ま 回 復 は 当 然 」 と す る もの の,租 の 「香 港 観 察 社 」 で が 中 国 系 住 民 だ け に 「中 国 の 主 権 借 期 限 切 れ 以 後 に つ い て98%が 維 持 が 最 も良 い 」 と答 え,64%が るの が よ い 」 と 答 え て い る(何 況 に あ る。か 「中 国 が 主 権 を 有 し,英 立 「現 状 国が 管理 す 「香港 人 的 意 向 探 析 」 七 十 年 代 第152 期1982年38頁)。 しか しな が ら,翌1983年4月 果(最 の 「大 専 同 学 社 会 研 究 小 組 」 の 調 査 結 も理 想 的 な 方 法 に 関 して)を 国 が主 催 を 有 し,英 見 る と,「 現 状 維 持 」 が41.ii「 国 が 管 理 す る」 が17.4°oと そ れ ぞ れ 減 少 して い る の に対 し,「 中 国 が 主 権 を 有 し,香 港 人 が 管 理 す る 」 が24.3°o(最 能 性 の あ る方 法 の 同 項 を み る と,42.8%)と い る(大 専 同学 社 会 研 究 小 組 1983年10頁)。 中 も可 な り他 に 比 べ て 急 増 して 「香 港 前 途 民 意 調 査 」 七 十 年 代 第161期 か か る民 意 変 化 か ら,1982年10月 ∼11月 に か け て 中 国 側 が 事 あ る ご と に 「一 つ の 国 に 二 つ の 制 度 」 や 「港 人 治 港 」 と い っ た 考 え方 を 明 ら か に して い た こ と に,香 い る か とい う こ と が わ か る 。 即 ち,香 培"的 態 度 で も って,前 港 住 民 が い か に 敏 感 に対 応 して 港 の 中 国 系 住 民 は か よ う なtt騎 述 の よ うなambivalence状 況 に柔 軟 に 対 応 し, 厳 しい 国 際 環 境 を 生 き抜 い て い るの が 現 状 で あ る と言 え よ う。 (1985年1月13日 脱 稿) 123