...

第44号 1978年8月1日

by user

on
Category: Documents
7

views

Report

Comments

Transcript

第44号 1978年8月1日
ANTエ ーAPARTHEID NEWS
」APAN
― NQ4
ANTI― APARTHEID COMMTTEE
4
1978年
8月 1日 発 行
ソ ブ ク ウ ェ ー を 悼 む
2月 26日 、 PAC(パ ン・ アフリカニス ト会議 )議 長 ロバ ー ト・ マ ンガ リソ・
ソブ ク ウ エ が死 ん だ。 心 か らの 哀 悼 の 意 を表 した い。
彼 が 南 ア 国 内 で 広 く知 られ るよ うに な った の は 、 1940年 代 後 半 に ANC(ア
フ リカ人 民 族 会 議 )青 年 同盟 の フオ ー ト。 ヘ ア ー 支 部 議 長 と して ネ ル ソ ン・ マ ンデ
ラ らと活 動 を 始 め て か らで あ る。 そ の 後 、 彼 は ANCと 意 見 を異 に して PACを 創
立 し、議 長 に選 ば れ た。 ソブ ク ウ エ が ANCか ら離 れて い った 理 由 お よ び経 過 は 、
日本 に 初 め て ア パ ル トヘ イ ト問題 を紹 介 した野 間寛 二 郎 氏 の 著 書 「 差 別 と叛逆 の 原
点 (理 論 社 、
1969年
)」
に詳 し く書 かれ て い るの で 、 その一 部 を 転記 させ て い
た だ く。
ソ ブ ク ウ エ につ い て書 くと き、 あ の シ ャ ー プ ビル 大 鷹 殺 を 忘 れ る こ とは 出来 な い 。
1960年 3月 21日 、 PACは パ ス法 廃 止 と賃 上 げ を要 求 す る大 衆 行 動 を計 画 し
た 。 そ の 呼 び か け に応 え て平 和 的 に集 ま って い た多 数 の ア フ リカ人 民 衆 に対 して 、
警 察 は 無差 別 発 砲 を 行 な い、
69名 を射 殺 、 186名
を 負 傷 させ た (政 府 発 表 ).
この 事 件 に よ って 、 南 ア で は解放 の た め の非 暴 力闘 争 が 意 味 を も た な い こ とが ア フ
リカ人 の 間 で 決 定 的 とな り、 国 際 的 に は アパ ル トヘ イ ト非 難 の声 が 急 激 に 高 ま った。
この 日、 ソ ブ ク ウ エ は PAC幹 部 た ち と一 緒 に パ ス を 焼 きす て 素 足 で 警察 本 部 に
向 か ったへ こ れ が 彼 の 自由 な姿 の最 後 とな っ た。 逮 捕 され た ソブ ク ウ エ は 、扇 動 罪
3年 を宣 告 され た。 そ して 、 彼 が投 獄 され て い た 3年 の 間 に は別 の悪 法 が 制
定 され 、 ソブ ク ウ エ は 引 き続 い て 6年間 、 ロベ ン島 (ケ ー プ タ ウ ン沖 に あ る監 獄 島、
で禁 固
今 日 もネ ル ソ ン 。マ ンデ ラな どの 政 治 犯 が 収 容 され て い る )で 政 治犯 と して 独 房 監
禁 され て き た。
1969年
、 彼 は キ ンバ リー に移 され 、自宅 拘 禁 の身 となった。 病気 が 重 も くな っ
て きた 昨 年 12月 、 外 国 で 治療 を う けた い とい う要 求 に対 して、 裁 判 所 は彼 が テ ロ
リズ ム 法 違 反 の 罪 に 問 わ れ て い る こ とを理 由 に 、 これ を 拒 否 した。 彼 の 病気 は中 ガ
ンで あ っ た 。 ソブ ク ウ エ は逮 捕 され て か ら死 ぬ まで 、 実 に 17年 間 も 白人 支 配 者 の
手 に よ って 自由 を完 全 に奪 わ れ 、 最 後 は 十 分 な 治療 の 機 会 す ら与 え られ ず に死 ん だ.
ス チー プ・ ビコ が殺 され た こ とを 聞 いて、 彼 は次 の よ う に 言 っ た と い う。 「 ヤ ツ
らは、 我 々 を一 人 ず つ 次 々 に殺 そ う と して い る。 我 々 は、 この 深 い 悲 しみ を力 に変
え ね ば な らな い 。」 ソ ブ ク ウ エ も死 ん だ の で はな く、 ま さに殺 され たの で あ る 。 ア
パ ル トヘ イ ト体 制 が 続 くか ぎ り、 今 後 も南 ア の 解放 を 目 ざす 多 数 の ア フ リカ人 が 次
々 に 殺 され て い く こ とだ ろ う。
.
日本 に お いて ア パ ル トヘ イ ト反 対 運 動 を 目 ざす 者 と して、 私 た ち は何 をなす べ き
)
(霜
で あ ろ うか。
ソブ クウ ェによれば 、 アフリカ人民族会議 の根本的な弱
点 は、イ ンド人会議、自人 の民主主義者会議 をみと め、そ
の代表を会議指導部 に入れ ていること であり、 イ ンド人、
自 人が、少数者 の団体としてではなく、 おびただし いアフ
リカ人と同様 に、個人としてくわわる場合 にのみ、みと め
られ る。 つまり、 ︽会議 運動﹀を完全 に否定 しており、 ア
フリカの解放運動 に真 に参加す るイ ンド人や自人 は、イ ン
ア フリカ人民族会議 と バ ン ・アフリ カ ニスト会議 の対立
は今 日ま で つづき、 たが いにさまざ まな言葉をなげあ つて
いるが、 ア フリカ人民族会議 の熱烈な支持者 であ るベ ンソ
ン女史 でさえ、 ﹁ソブ クウ ェは、勇気 のあ る知識人 で、青
年を鼓舞す る能 力をもち、彼 を知る大学 の同僚 たち に愛 さ
同上︶と記 している。 ソプ クウ エと彼を支持す
れ て いた﹂︵
る人びと による この分裂が、やむ にやまれ ぬも のであ った
ことが わかるのであ る。
バ ン ・アフリ カ ニスト会議 が結成 され てち ょうど 一年後
の 一九 六〇 年 三丹 に、同会議 の活 動を直接 の原因として,
当時 の世界 の新聞が ″二〇 世紀最大 の蛮 行″と よんだ ︽γ
ャープビ ルの虐殺︾が おこり、南 ア フリカは、 アパ ルト ヘ
イ トを呼号す る白人権 力と、 ア フリカ人大衆を主体 とす る
民衆と の武力闘争と いう、新 たな、最後 の段階 にう つ つて
い った のであ る。
﹁差 別 と 叛 逆 の 原 点 ﹂ 理 論 社
一九 九︱ 二〇 二 ペ ージ
-2-
ド人や白 人とし てのあらゆ る特権 を捨 て、皮膚 の色が ちが
っていても、 ア フリカ人と して参加 せよと いう のであ る。
ソブ クウ エは、 これらを ﹁わが道を行く﹂と いう言葉 で
まと めている。 ソブ クウ エの眼 から見れば、 ア フリカ人民
族会議 は、自人やイ ンド人 に影響 されすぎ ていると いう の
であ る。
今ハン ・ア フリカ ニスト会議︾ の結成式 では、当
時 のガーナの エンクル マ首相やギ ニアの セク ・トー レ首相
から のメ ッセージが読 みあげられ た。 エンクル マや トー レ
の眼 にも、 ア フリカ人民族会議と会議運動 は、自人やイ ン
ド人的 な要素 に感染されすぎ ていると見えた のであ ろう。
長 い歴史をも つア フリ カ人民族会議 にくら べると、誕生
したば かり のパ ン ・アフリカ ニスト会議 は、文字 ど おり の
少数派 であ つたが、南 アフリカではも つとも進 んだ トラン
スパ L
ル
プ
と
ケ
州
ー
の
一部 のア フリカ人労働者 のあ いだ
州
に、 ぬき がた い根 をおフ
つしていた。
この分裂 は、解放戦線 の力を弱 めたと いう点 では、南 ア
フリカの解放闘争 の悲劇 である。しかし、ン
﹂の分裂が 、アパ
ルト ヘイ トをど うすれば根絶 でき るかと いう真剣 な戦 略 ・
戦 術上 のちが いから生じたと いう点 では、南 ア フリ カの解
放闘争が、初期 のイ ンテリと中産階級を中心と した幻想的
な解放 の夢 から現実 の闘争 へ脱皮 したことをし めすととも
に、南 ア フリカの情 勢が、 このようなきび し い対立を生じ
るはど、緊迫化し てき た こともしめして いるc
ロパ ー ト
・ ソブ クウェ
ア フリ カ人 民 族 会 議 の分 裂
︽反逆裁判︾と平行し て、 ア レキサ ンド ラのパ ス ・ポイ
コット闘争 のほかに、各 地で、根本的 には人種差別 にもと
づ く大小さまざ ま の騒擾 が おこ つた。 トラ ンスパー ル州西
部 の中 心地 で、ヽ7 フリカ人 リザ ープ に近 いゼールストでは、
一九 五七年 から 五 八年 にかけ て、 パス法 に反対す る婦人 の
大規模な闘争が おこり、 ︽.
ハンツー政庁法︾︱︱ 族 長 の罷
免権を政府がも つこと によ つて、 ア フリカ人民衆 の伝統的
本 紙 は、 月 1回 発 行 を 原 則 に 昭 和
48年 9月 か ら続 い て き ま した.ア フ リカ と 日
の
つ
本 正 しい 結 び きを 目 ざ して、 今後 も内 容 の 充 実 、 拡 大 に努 力 して い き た い と考
え て いま す .現 在 、発行 費 用 は 大 部 分 をメ ンバ ー の カ ンパ に 依 存 して い ます が 、 そ
れ も部 数 の増 大 で 限界 に きて い ます 。 そ こ で 、 ま こ とに勝 手 なが ら読 者 の 皆 様 に構
︽バ ン ・アプリ カ ニスト会議︾が かかげ た ス ローガ ンは、
﹁アフリカ人 による、 ア フリカ人 のための、 ア フリカ人 の
政府 ﹂であ った。非 暴力主義 に対す る批判 は、 まだ直接 に
はでていな い。事実、それ から約 一年間︱︱組織が禁止さ
れ るまで︱︱ ︽バン ・アフリ カ ニスト会議︾も、非 暴力を
標榜 した。しかし、 アフリ カ人民族会議 の多人種 の平等 を
否定 し、 ﹁ア フリ カ人 による、 アフリカ人 のための、 ア フ
リ カ人 の政府﹂を主 張した底 に、表現 は陳腐だが、 アフリ
カ人民族会議 の平和主義 に対す るきび し い批判があ った。
R ・ンプ クウ ェ .
ハン ・ア フリカ ニスト会議 の指導者 は、
元 ウ ィ ットウ ォーターズ ラ ンド大受′
ズ ー ルー語講師 ロバ ー
ト ・マンガリ ソ ・ソブ クウ ェである。 ソブ クウ エは、 ワ″
ハー ・タ ンポらととも に、 アフリカ人
ター ・シスル、 オリ.
民族会議 の脱皮 を推進した青年連盟 の中 心人物 の 一人 であ
り、 ︽不服従 闘争︾ に参加したため に、 ウ ィ ットウ ォータ
ーズ ラ ンド大学講師 の地位 から迫放された人物 である。彼
は主張す る︱︱ ﹁アフリカ人 の理想 に同調す る ヨー ロッパ
人が いる ことを私 は知 つて いる。しかし、彼 らが現在 の社
会機構 から恩恵をうけ て いる以上、彼 らは ア フリカ人 の理
M ・ベンソン 前
想 と完全 に 一つになる こと はでき な い﹂ ︵
。彼 は、多人種社会として の未来 の南 ア フリ カを否定
掲■口
︶
し、 ア フリカ人 の多数者支配 による民主主義原則を樹 立しっ
で す。 送 金
12号 分 で 1500円
読 料 前 納 を お願 い 申 し上 げ ます 。 な お、 構 読 料 は
な白治 を拒否す る︱︱ への反対 から反乱 へと発展し、民衆
のえら んだ族長や村落 の首長が逮捕 され、生存も困難な僻
地 に追放され ると いう事件があ い ついで生じた。 ト ンス
ラ
パー ル北方 のセ
ド、
ク
ク
ニ
ン
ラ
プ
ト
ケ
ー
東
州
部
の
ラ
ンスカ
イ、 ナター ル州 のズ ー ルーラ ンドでも、同様 に ︽.
ハンツー
政庁法︾ に反対す る騒擾が おこ つた。 ヨ ハネ スプ ルグ でも、
一九 五七年末 にア フリカ人民衆 の暴動が お こり、四〇名 の
アフリ カ人が殺され、数十名が負傷 した。
そ の 一つ 一つを、南 アフリカ政府 は武力 で苛酷 に鎮圧 し
てい ったが、 このような動き はやが て、非 燃力主義を固執
す る アフリカ人民族会議と会議運動 へのきび しい批判を醸
成 した。.
白 人 は ア フリカに忠誠を誓 い、 この民主主義原則をみと め
た場合 にのみ、 ア フリカ人 であ ると みとめられ、人種グ ル
ープとしてではなく、個人として、新 しい社会 の 一員 にさ
れ る、と主張す る。イ ンド人 についても、現在 の指導者層
が ﹁民族的傲慢 さと文化的優越感 に毒 された﹂商人階級 の
″苦力″ ︵
下層のインド
出 身 であ る ことをきび しく批判し、
人労働者︶が、オポ チ ュニスト的 な指導 者を退け て、自ら の
指導者を つく りだす ことを希望する。
︵2 ペ ー ジ ヘ つづ く ︶
御利 用 くだ さ い。
35095)を
に は、 郵 便 振替 (大 阪
一九五 八年後半 に各地でひら かれ た ア フリカ人民族会議
の集会 で、分裂 は決定的とな った。 ケープ州西部 の集会 は、
︽アフリカ ニスト︾と称 しはじ めた批判者 によ って、事実
上牛耳られ た。 ︽アフリカ ニスト︾ は、も っとも重要 なト
ランスパ ー ルの集会 でも活動したが、絶対多数 を獲得 でき・
ず に退場 した。
.
引 ガ ﹁﹀
コ 窒 九螢 罰唐﹁べ褒”﹁
囃型 ﹁な組織
対´↓乃﹁h引﹁召H剣謝Y習剣調u●o 一九 一二年に
^
前身 の ︽南 アフリカ原住民民族会議︾が創設され てから四
七年間、事実上 ア フリカ人民衆 の唯 一の解放組織 であ った
アフリカ人民族会議が、 ついに二 つに分裂 した のであ る。
購 読 料 前 納 の お 願 ,い
黒 人 意 識 運 動 に お け る詩
=演
rll
南 ア フ リカの黒人意識運 動 の 中 で生 まれ た詩 を以 下 に掲 げ る。 これ らの詩 は 、強
制 されて きた自人 的価値 の拒 否 。
「 黒 い」 ことの積極 的価値 と しての主 張 。一元的
な白人 支 配体制 に対 す る黒入社会 の 団結 に もとづ く闘 い の決 意 と勇気 、 とい う黒人
意識 の メ ッセー ジ を伝 え る もので ある。 しか もそ れ らは 、本 と して 出版 され、活字
で読 まれた もので は ない 。 これ らの詩 は 、黒 人意 識運 動 の活発 な一翼 を な した黒人
演 劇 の中 で 、朗読 され 、唱 われ 、踊 られ て 、時 には演者 と聴 衆 の間 の対話 へ と発展
した ので ある。 日 蛹的 (oral)で 共 同体的 (C Omm unal)な コ ミュ ニ ケー シ ョン
を基 本 とす る文 化様 式 は 、彼 らの父 祖 た ちが 誇 った もので あ った。 白人 か らの「 輸
入 もの」 では ない 自前 の題 材 ・ 自前 の ス タイル を求 めた 黒人演 劇 は、 allと 詩 と音 楽
とを合 体 した上 演 形 式 を採 用 し、そ こに伝 統
的 な ア フ リカ文 化 の諸要 素 を蘇 らせ た 。
変
こ う した背 景 に立 て ば 、黒 人 意 識運 動 が 南 ア
奏
夢
黒 入 社 会 に と って持 つ 人 間 再 生 的意 味 と共 に、
黒 人 ル ネサ ンス (そ れ は再 生 で あ り復 古 、回
両腕 広 〈振 り伸 ば す こ と、
帰 で は ない )と 呼 ばれ る にふ さわ しい 歴 史 的
自 き 日 の暮 れ る まで
画期 を な してい る こ とが理 解 され るだ ろ う。
舞い
こ う した詩 =演
allは
PET(人
民 実 験 Ell場
)、
高 い 木 立 の下
凍 しき夕 べ を休 む うち
楽・
夜 が そ っ とや って くる
ター ル演 劇 評 議 会
)、
MDALI(音
演 劇 ・ 芸能 文学 協 会 )な ど の演 allグ ル ー プは、
1974年 フレ リモ祝 賀 集 会 の後 の SASO・
BPCへ
踊 る こと
、黒 人 意 識 を広 め る闘
い の 有 力 な武 器 とな った 。 これ らの詩 を うた
い演 じた TECON(ナ
ど こか 太 陽 の照 る場 所 で
そ して
暗い
私 の よ うに暗 い 夜 .′
そ れ が私 の夢 ノ
の大 弾圧 の 中 で運 動 の表 面 か らは姿
を 消 す 。 そ の指 導 者 の ある者 は虐 殺 され 、 あ
太 陽 に面 と向 って
る者 は投獄 され てい る。
両腕 広 〈振 り伸 ば す こと 、
南 ア解 放闘 争 はそ の後 、 1976年
ノエ ト
はか な き 日の暮 れ る ま で
回 る/
に は じま る 黒 人蜂 起 、 1977年 の ス テ ー ブ
ビコ虐 殺 と黒 人 意 識運 動 18団 体 の非 合 法 化
踊 り 舞い
へ と新 た な展 開 を とげ た。 しか しそ れ らを経
す ら りと高 い 一 本 の木・ ・ 。
た 今 もな か 、 これ ら の詩 のい くつ か が 、南 ア
夜 が や さ し くや って (る
の ど こか で うた われ てい る と信 じる。
(A)
ほ の 暗 き夕 べ の休 息・・ ・
黒い
私 の よ うに 黒 い 夜
マ ンバ を飼 い な らせ
雨
い
乞
師
マ ン バ を飼 い な らせ
ゎれ ら雨 乞 い 師
働 か せ て飢 え させ ろ
人 々 の上 に
そ い つ に言 葉 を教 え て や れ
そ の生 活 か ら
自己 と他 者 へ の
そ してそ い つ が しゃべ った 時
欺 哺 の汚 物 を
洗 い 落 とす
真 実 の 大 雨 を もた ら し
箱 に 閉 じ込 め ろ
われ ら雨 乞 い 師
マ ン バ を飼 い な らせ
人 々を
そ い つ に文 化 とい うも の を教 え
そ れ を バ カに しろ
そ の心 を洗 い 浄 め る
そ い つ の 動 きを制 限 し
わが黒 い 人 間 性 を取 り戻 す
夜 、外 で 見 つ け て 逮 捕 しろ
われ ら
そ してそ い つ が 冬 眠 した時
死 の 沈黙 を
探 し出 して 牢 獄 に 送 れ
す べ て の敵 を
荒 ぶ る言 葉 の ど しゃ降 りに浸 し
われ ら
い くさ の大 鼓 に奮 い 立 ち
見知 らぬ 地 に
見知 らぬ 道 を行 き
大騒 ぎを も って替 え
放逐 せ ん
われ らの 動 きは
マ ン バ を飼 い な らせ
・
雨 と力 を合 わせ て
あ らゆ る余 分 の ごみ 〈ず を
溺 れ させ る
しか しそ い つ が 逆 って
しゃ ― しゃ― 言 い 出 した時
われ ら雨 乞 い 師
そ い つ を絞 首 台 に送 れ
革 命 の歌 を うた う
ハ リケ ー ン を巻 きお こ し
た だ流 れ に 漂 う者 を皆
(注
マ ン バ :中 ・ 南 部 ア フ リカ
激 流 に押 し流 す
に産 す る樹 上 性 の 毒 ヘ ビ。咬 まれ
る と死 ぬ 場 合 が 多 い 。
)
われ ら雨 乞 い 師
兄 弟 た ちが
雨 中 を走 り
雨 だれ の 間 を行 き来 して
漏 れ もせ ぬ こ とを知 る
では
洪 水 が 来 た時
泳 げ るだ ろ うか
兄 弟 た ちは 0。 ・
変 奏 夢 :SASO― BPC裁 判 の起 訴 状 に 添 付 さ れ た詩
マ ン バ を飼 い な らせ :マ コ エ ナ・ セ ツエ デ 、 1973年
ィ
劇 団 ミ ロー ティに よ り上 演 さ る
雨 乞 い 師 :不 明
-5-
ア フ リカ芸 術 週 間 で
― 南 ア の テ ロ リズ ム 法
―
今年 2月 に死 亡 した南 アの黒人 解 放運 動指導 者 ソブク ウェは 、 あの悪 名高 きテ ロ
リズ ム法違 反 の罪 に問 われた政 治犯 で あ った。 少数 者 で ある白人 が ア パ ル トヘ イ ト
体 制 を築 きあげ て支配 を維 持 してい る南 アで は、 この体 制 に反対 す る者 は 自人 で あ
ろ うと黒人 で あろ うと容赦 な く警 察 に よって逮捕 、拘 留 され る。 そ して、そ の根拠
となって いる代表 的 な法律 が テ ロ リズム法 で あ る。
1967年
に制 定 され た テ ロ リズ ム法 は 、無期拘 禁 を規定 して い る。 この法律 の
第 6節 の規定 に よる と 、中佐 以 上 の警 察 官 は 、南 アの どこに い よ うと、 テ ロ リス ト
で ある と信 じ、 または テ ロ リス トや この法 の決 め る犯罪 に関 す る情 報 を南 ア の警察
に隠 して いる と信 じるい か な る人 を も令状 な しに逮捕 し、 または 逮捕 させ 、国 内 の
い ず れか の場 所 で尋 間 を行 な うため に拘禁 し、 または拘禁 させ 、警察長 官 が 大 臣 の
指 示 に基 づい て きめ る条件 に従 わせ る ことが で き る。拘禁 は 、尋間 に満 足 で きるま
で答 えるか、それ 以上 の拘 禁 に よって も何 らの利益 が得 られ ない ため に 、警 察長 官
がそ の釈 放 を希望 す る と き、 も し〈は釈 放 が 大 臣 に よって命 令 され ると きま で続 け
られ る。 この規定 に よる と、 いか なる裁 判所 もこの行動 の合 法性 を きめ た り、 被拘
禁者 の釈 放 を命 令 す る ことは で きない 。大臣 や公 務 中 の公務 員以 外 の人 は 、被拘禁
者 に会 うこ と も、被拘 禁者 か ら得 られた情 報 を入手 す る こと もで きない 。「 もし状
況が許 せば 」 、被拘禁 者 は 2.週 FB5に 一度 の割 合 で判事 の訪 間 を受 け る こ とが で き る。
(「 南 ア におけ る囚 人 の虐 待 と拷 問」国連広 報 セン ター (昭
49年
)か ら引 用
)
要 す る に 、警 察 が「 あ い つ は危 険 人 物 だ 」 と判 断 す れ ば 、 そ の 人 を 自 由 に 逮 捕 し
て無 期 限 に 拘 留 で き る わけ で あ る 。裁 判 所 の こ と な ど気 に す る 必 要 は な い 。 逮 捕 し
た 人 物 を煮 て 食 べ るか 焼 い て 食 べ るか は 、 ま った 〈警 察 の 自由 で あ る 。 尋 問 す る の
が 面 倒 に な っ た ら殺 して しま って も よ い 、 と法 律 に は 書 い て な い が 、 これ ま た 実 際
には警 察 の思 い の まま に な ってい る。南 アにおい ては 、 しば しば「 尋 問」 が「 拷 間
あるいは「 虐 殺 」 と同 じ意味 の言葉 に な る。例 えば 、黒 人意識運 動 の 指導者 で あ っ
た ス テー プ・ ビコは拘 留 中 に殺 され た 。今 日、彼 が警 察 の拷 間 に よって虐 殺 され た
とい う事 実 rC疑 間 を もつ 人は 一人 もい ない 。
い うま で もな く、 この テ ロ リズ ム法 は 自人 だけ の議 会 で決 め られ た もので あ る。
したが って 、そ の経過 お よび法 律 の内容 か らみ て法 律 と呼 べ る よ うな もので は ない
とい うこと もで きるだ ろ う。 この文章 を書 きなが ら、 い ま 日本 で 問題 に な ってい る
弁護 人抜 き裁 判 の ことを連想 して仕 方 が ない の は考 えす ぎで あろ うか ?
-6-
(S)
Tシ
ャ ツ に ア フ リカ 登 場
最 近 、近 所 の ス ー パ ー で ア フ リカ大 陸 を デ ザ ィ ン した Tシ ャ ツ を見 つ け た 。 レジ
の 人 に 聞 ぐ と、 ボチ ボ チ 売 れ てい る と い う。 Tシ ャ ッ とぃ う商 品 は たぶ ん
、
生地 よ
り もデ ザ イ ン で 売 れ ゆ きが左 右 され る もの だ ろ う。 とい うこ とは 、 ァ フ リカのデ ザ
イ ン で カネに な る と業 者 が 判 断 す る雰 囲気 が 存 在 す る とい うこ とだ ろ うか
。
この Tシ ャ ッ を取 り上 げ た の は 、 な に も不 買運 動 を提 唱 しよ うな ど と え てい る
考
か らで は な い 。 こ こ数 年 、 日本 で も色 々 な形 で の ア フ リカに 対 す る 関 心 、そ れ は一
種 の ブ ー ム とで も呼 べ そ うな もの が 高 ま って きた よ うに思 わ れ 、 つ い に Tシ ャ ッに
まで ア フ リカが 登 場 した か 、 と感 した か らで あ る。
私 た ち一 般 の 日本 人 が ア フ リカに 無 関心 で あ る の とは 対 照 的 に 、政 府 。大企 業 ・
商 社 な どは 早 い 時 期 か ら ア ア リカに 大 い な る 関 心 を示 し、彼 らな りの 関係 を築 きあ
げ て きた。 しか し、彼 らと ア フ リカ との 関係 が 具 体 的 に 私 た ち の 目にふ れ る こ とは
少 ない 。例 え ば 、正 月 の エ ビが ア フ リカか ら輸 入 さ れ た もの で あ って も、そ の 表 示
が され て い るわ け で は ない 。 ま して 多数 の 鉱 物 資 源 に い た って は 、 そ れ が た ち の
私
日常生 活 と密接 に 関係 した商 品 の 中 に使 われ て い て も、私 た ちが 気 づ く こ とは ほ と
ん ど ない 。
と ころ が 、最 近 で は 直接 に 目 1/C見 え る もの と して ア フ リカが 取 りあげ られ る よ う
に な って きた。 つ ま り、大 企 業 や 商 社 の活 動 の分 野 とは 別 の と ころ で ア フ リカが ヵ
ネ に な りだ した とい うことで あ る 。 出版 社 は ア フ リカ関係 の本 を どん どん 出 jIIし
、
旅 行 会 社 も ア フ リカ旅 行 を宣伝 す Zよ うに な っ て きた。今 後 、 この 傾 向 は 強 ま るだ
ろ う。 そ して 、私 た ちが 直接 に 目に し、手 に とる もの と して ア フ リカが
登 場 して く
るだ け に 、 どの よ うな内 容 で あろ うと影 響 力 は 強 い もの に な るだ ろ う。
ア フ リカ行 動 委 員 会 の 楠 原 彰 氏 は 、 そ の機 関 誌 (Nla 2 1号 )の 前
書 きで 次 の よ う
に 書 い て い る。「 こ こに 、南 部 ア フ リカに存 在 す る 、南 部 ア フ リカ と 日 との に
本
間
存 在 す る幾 つ か の ≪事 実 >あ るい は <現 実 ≫ を提 出 します 。 これ らの ≪事 実 ≫ あ る
い は ≪現 実 ≫ は 、私 達 が諸 々 の ≪事 実 >あ るい は く現 実 >の 中か ら
く意 味 ある もの
>と して選 び と った もの で す 。」 ア フ リカが私 た ち の 目にふ れ る よ うに なれ ば な る
ほ ど、 何 を「 意 味 あ る もの」 と して 選 ぶ か が重 要 な問 題 に な って くる だ ろ う
。
(K)
前号 の ニ ュー スには 多数 の誤字 が あ り、お わび して訂正 します 。
Pl.マ ニ デ ラ→ マ ンデ ラ。 P2
ヶ二 ■→ ケニ ア
訂正
Pa
Pa
Pa
低 抗運 動 →抵 抗運 動。三 百 ボン ド→三 百 ポ ン ド
ベ ン →一 ペ ンス
→
`一
招介 紹 介。 ゾン バ ウエ → ジンパ ブ ウェ。 ァ ニバ サ → デ ンバ サ
ボ ツタ ワナ→ ボ プタ ッヮナ。 バ ンシス タニ計 画 → バ ン ツー ス タン 画
計
-7-
朝日
、黒 人 意 識
政治犯ナゾの獄中死
政府 活 動 容 疑 で 逮捕
‰
、拘 留 し た 黒
コ氏 の ケ ー ス の
2人
献ア2年間すでに2
警察 の建 物 は 昨 年 九 月
︻ヨ ハ ネ ス プ ル グ 十 一 日 = 共
運 動 の 指 導 者 ス チ ー プ ・ビ コ氏 が
同 ︼政 治 犯 の獄 中 死 が続 く 南 ア フ
、
死 ﹂ し てお り
人 活 動 家 の う ち 二十 二人 が こ の 二
︲
年 間 に ﹁自 殺 ﹂ ﹁自 然 死 ﹂ ﹁病
、ビ
い た 場 所 。 ビ コ氏 の死 因 が 明 ら か
や と な って い た 。客 件 と も 自 人 の
よ う な 調 査 要 求 は いず れ も う や む
拷 間 で 虐 殺 され る ま で収 容 さ れ て
に さ れ て い な い ま ま 、現 在 も 当 時
テ ロリ ズ ム 法
、
の 治 安 当 局 者 が 残 ってお り 今 回
リ カ で 、 ま た 一人
遂 げ た 。 治 安 警 察 本 部 の十 一日 発
も タ バ ラザ 君 に 対 す る 拷 間 が あ っ 担当警費餞趨起評され有罪判決 を
違 反 容 疑 の 黒 人 青 年 が ナ ゾ の死 を
イ ー ス タ ン ・ケ ー プ
、
地 方 の ポ ー ト エリ ザ ベ ス警 察 で 十
ま た ポ ー ト エリ ザ ベ ス 警 察 は 黒
受けた例はない。
表 による と
、
ラ ンド ・デ ー リ ー ・メ ー ル な ど
た可 能 性 が 強 い と 伝 え ら れ る 。
こ とが 十 分 に予 想 され る。
テ ロ行 為 の 疑 い で 拘 留 さ
この よ うな獄 中殺 人 が続 発 す る
れ て い た 黒 人 の ル ンギ レ 一タ バ ラ
25万 人 )南 ア で は 、
一人 活 動 家 に 対 す る 措 置 の 過 滸 さ で
″
、
知 ら れ こ れ ま で 五人 が 自 殺 ″
発 表 で約
、飛
人 が 逮 捕 さ れ るだ ろ う (例 えば
昨 年 の パ ス法違 反 逮 捕 者 は政 府
。
な い し ″自 然 死 ″ し て い る
ま た 今後 も数 え きれ な い ほ どの
、
反
現在 も多数 が 拘 留 中 で あ り、
。
ったか の よ うな蛮 行 ぶ りで あ る。
日 午後
あ るい は ま った 〈無 視 して しま
野 裳 糸 の各 紙 は 建 物 の 構 造 上
な どす っか り忘 れ て しま った 。
ザ 君 雀 3が 取 調 室 の あ る 五 階 の 窓
国際的非難 の声 が高 ま った こと
南 ア フリ カ 治 安 警 察 が テ ロ
南 ア当局 は 、 ビコ殺 人 に対 して
び 降 り 自 殺 は あ り 得 な い と示 唆 し
よる獄 中殺 人 の犠 性者 とな った。
か ら 飛 び 降 り 、病 院 に 運 ば れ る 途
また もや黒 人青 年 が 南 ア警察 に
厳 重 な 調 査 を要 求 し て い る
スチ ー プ・ ビコの場合 と同様 、
、
、
一方 黒 人 運 動 団 体 によ る と 同
獄 中殺 人
中 に 死 亡 し た と さ れ てい る 。
い つ まで続 く
`
1団
猛 暑 の 中、久 しぶ りに ニ ュー ス の 編集 を担 当 し
て み た 。編 集 と呼 ぶ ほ ど大 げ さ な もの で は な い が 、 メ ン バ ー が交 替 で 責任 を も って
暑 中 お見 舞
申 し上 げ ます。
各 号 を発 行 す る こ とに して い るの で 私 も張 り切 って編 集 して み た つ も りで あ る。
ア パ ル トヘ イ トに 反 対 す る気 持 は 同 じで も、 そ れ を表 現 す る方法 は 各 人 ircょ って
違 う。 そ して 、私 た ちは この違 い を 大 い に保 障 してい き たい と考 え て い る 。 文章 を
書 く こ とは 、 自分 の気 持 が 確 認 で き る と同時 に 、 そ れ に対 す る責 任 が生 じて くる も
ので あ る と理 解 して お読 み い た だ け れ ば と思 う。
なぜ最 近「 こむ らど」 は公開集会 をや らない のか 、 とい う意 見 を数 人 のひ とか ら
聞 か された。色 々 な理 由 で やれ なか った とい うのが実情 だが 、秋以 降 は 態勢 を立 て
直 し、「 デ ンバ サ最 後 の墓」 の上映運 動 な どを中心 に して広 〈活 動 してい きた い と
考 え てい る。
毎度 の こ となが ら編集 が遅 れ 、今 回 は 7・ 8月 合 併号 と して発行 す る。 (下 垣 )
発
行
こむ らど ア フ リカ委 員 会
住
所
東 大 阪 市若 江 南町 1丁 目 6-3
郵便振 替
大 阪
35095
-8-
下垣気付
Fly UP