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はじめに - MIUSE

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はじめに - MIUSE
松井石根 と興 亜観音
山田雄司
は じめ に
(1878)7月 27日 、愛知県牧野村 (現名古屋市)で 生を受けた松井石根は、陸
①
上海 な どでの駐在 を経て、
軍士官学校、陸軍大学校 を卒業 。 日露戦争に従軍 した後、北京 ・
明治 11年
ハル ビン特務機 関長、台湾軍司令官 を勤め、陸軍大将 となったが、昭和 10年 (1935)8月 、
陸軍省内で統制派 の永 田鉄 山軍務局長 が皇道派青年将校 に共感 した相沢 二郎中佐 に惨殺 され る
②
とい う相沢事件 が起 きたため、軍 の責任 を感 じた松井 は現役 を退いて予備役 となった 。
中国駐在 中、孫 文 の大亜細亜主義に強 く共鳴 した松井は、昭和 8年 3月 に大亜細亜協会が
設 立 され ると、 この運動に進 んで参カロし、予備役 となった後 は会長 とな り、亜細亜 の独立解放
など 「
興亜」 の理想 を実現すべ く活動に邁進 した。
しか し、昭和 12年 8月 の第 二次 上海事変をきつか けに、中国通 の松井は現役復帰 を命ぜ ら
れ、8月 15日 上海派遣軍司令官 となって、9月 29日 には苦難 の末に大場鎮を占領、 10月 30
日には上海軍 と第 10軍 とを統轄す る中支那派遣軍司令官 も兼官す ることとなったが 、 12月 4
日朝香宮鳩彦 中将 が上海派遣軍司令官 となったため、松井は兼任 を解 かれた。そ してその後南
京攻略戦 の指揮 にあた り、12月 10日 に総攻撃 を開始、13日 に南京城 は陥落 し、 17日 入城式
が行われた。
12月 22日 には上海 に戻 り、新政府樹立 のための工作 に奔走 していたが うま く事は運ばず、
翌年 2月 23日 海路帰還 した。帰国後 の松井は傷病兵の慰問や全国の護国神社 の参拝な どを行
い 、退役軍人 として英霊 の冥福 を祈 り、遺族 か ら依頼 された墓碑銘 の揮 墓な どを行 つた。そ の
後松井は大森 の官舎を引き払 い 、熱海伊 豆 山に移 り住み、 ここに興亜観音 と名づ けた観音像を
建立 し、 日本 。中国両国戦 死者の菩提 を弔 つた。そ して松井は観音堂へ の参詣 と朝夕の観音経
の奉唱を欠 か さず、あわせて全 国 の傷病兵の見舞いに努 める一方、上海、南京、北支、中支な
亜細
どの戦跡 を巡歴 して慰霊 を行 うの とともに、興 亜総本部総裁 ・大 日本興亜会総裁 として 「
亜 の独 立」 のために奔走 した。
敗戦後 の松井は ほ とん ど仏門の よ うな生活 であつたが、昭和 20年 10月 19日 、A級 戦犯容
疑 とな り、肺炎 のために遅れ て昭和 21年 3月 6日 巣鴨 プ リズンに入獄 した。そ して極東国際
軍事裁判において死刑判決 を受 け、昭和 23年 12月 23日 、 7人 の うち最初 に処刑 された。そ
の ときの辞世 は次 のよ うである。
天地 も人 もうらみずひ とす じに無畏 を念 じて安 らけく逝 く
い きにえに尽 くる命 は惜 かれ ど国 に捧げて残 りし身なれば
世 の人 にのこさばや と思ふ言 の葉は 自他平等誠 の心
衆生皆姑息
正気払神州
無為観音力
-8-
F ・
普明照亜洲
本稿 では、 このよ うな松井石根によって建立 された興亜観音 が 、いか なる思想 によ り発案 さ
れ製作 されたのか、 また どこに どのよ うな経緯で建立 されたのか 、さらには興亜観音 が人 々に
どのよ うな影響 を与えたのか明 らかに したい と思 う。
南京戦後 の慰霊
昭和 12年 12月 13日 、南京 は陥落 し、 17日 に入場式 が行われたが、翌 18日 に南京戦にお
いて亡 くなった 日本軍戦死者 の慰霊祭 が行われた。 この慰霊祭 につい て、東京裁判 中山寧人参
謀 の宣誓 口述書では以下のよ うに述べ られてい る ③。
"中
慰霊祭 は初 め
国軍 の戦没者 も併せて祈 り慰霊する様 にせ よ、 これが 日支和 平 の基調で
"と
ある
、松井大将は参謀長に祭文其 の他 の準備 をす る様 に命ぜ られま したが 、 同時の余
裕 な く後 日に譲 ることとな りま した。
松井は慰霊祭において 日本軍お よび 中国軍 の戦 死者をあわせて祀 ることを考 えていたが、師団
長 か ら異論が出て、 同時の余裕 もなかったため 日本軍戦死者 のみ とし、 「中支那方面陸海軍戦
病歿将兵之霊標」 の標柱 が立て られ 、南京城内故宮飛行場にて松井 を祭主 として慰霊祭 が挙行
された 0。 松井はすでにこの時点で 日中両国の戦死者の慰霊 を考 えていた と言 える。
また、山ノ井晃道 「
千人針 と観音 さま」 に以 下の叙述 がされてい る 0。
(昭和 12年 )十 月 の或 る日の東京 朝 日新聞の夕刊は、上海戦 の第一線 に突撃部隊の勇
名 を馳せた我が鷹森部隊長 の陣中生活 の一面を報 じてゐる。
鷹森部隊長は 日頃、法然上人 の教 に深 く帰依す る人 とな り、死屍 なま ぐさき戦線 に立つ
ては、 日毎に戦場 の露 と消える敵味方 の勇士の冥福 を祈つ て、法然 上人 の一枚起請文を誦
し又南無阿弥陀仏を唱へ て亡き霊に回向 してゐると云ふ。
鷹森部隊長 とは、松井石根司令官配下の第 3師 団先遣隊連隊長の鷹 森孝大佐 のこ とである。
彼 もまた敵味方 の戦 死者供養 を行 つてい ることが注 目され る。
さらには、『朝 日新聞』昭和 12年 12月 24日 には 「
無名戦 士 よ眠れ 」 と題す る記事が写真
とともに掲載 されてい る。
抗 日の世迷い言 に乗せ られた とは言 え、敵兵 も又、華 と散つ たのである、戦野 に骸 を横た
へ て風 雨に曝 された哀れな彼 ら、が勇士達 の 目には大和魂の涙 が浮 かぶ 、無名 の敵戦士
達
べ
よ眠れ !白木にす る筆 の運び も彼 らを思へ ばこそ暫 し渋 る優 しき心の墓標だ
そ こに は自木 に 「
中国無名戦死者之墓 大 日本軍建之」 と墨で書 かれた墓標が 4柱 横 たえて
°
い る。 この記事 か ら、敵兵 を弔お うとしてい たのは上官 だ けでな く、兵卒 の間でも広 く行われ
ていたこ とがわかる。 中国 との戦争 の際には 日本軍による慰霊が しば しば行われ、新聞でもよ
くとりあ げ られた 0。 こ うした慰霊 の あ り方がいつか らどのよ うな形で行 われていたのか、
従軍僧 との 関係 も考慮 して検討 の余地 があろ う ①
昭和 13年 2月 7日 には南京で 50日 祭 ともい うべ き慰霊祭が挙行 された。『松井石根大将陣
-9-
中 日誌』 には以下のように記 されてい る。
午後慰霊祭 二参列 ス 予 ハ去年南京入城翌 日最初 ノ慰霊祭 ヲ 自ラ祭主 トシテ営 ミ 今 日
亦五十 日祭 トモ云フヘ キ此祭 事 二遭 フモ ノナ レ ト 異 ノモ ノハ戦勝 ノ誇 卜気分 ニテ寧 口忠
霊 二対 シ悲哀 ノ情少 カ リシモ 今 日ハ只 々悲哀其物 二捉ハ レ責任感 ノ太 ク胸 中二迫ルヲ覚
エ タリ 蓋 シ南京 占領後 ノ軍 ノ諸不始末 卜其後地方 自治、政権 工作等 ノ進 捗 セサル ニ起因
スルモ ノナ リ 例 テ式後参集各隊長 ヲ集メ予 ノ此所感 ヲ披露 シテー般 ノ戒筋 ヲ促 セ リ
忠霊 (病死共) 一 人 、○○○余
斃馬
一
二 、○○○頭
この とき慰霊 されたのは、 12月 18日 の慰霊祭で慰霊 された 「
中支那方面陸海軍戦病歿将兵」
の 「
忠魂」であ って 、 中国人 の戦 死 者 の慰霊は行 われてい ない。 なお この 時に、 「
忠霊 二対
シ」 「
只 々悲哀其物 二捉 ハ レ責任感 ノ太 ク胸 中二迫 ル ヲ覚 エ タ リ」 とい う感想 を残 しているの
は、 「
南京 占領後 ノ軍 ノ諸不始末」や 「
政権 工作等 ノ進捗 」 しないことによるためであった と
してい る。南京入城後、軍紀 の乱れ か ら一部兵士による略奪 ・強姦 ・暴行 ・殺人 が行われた こ
とに松井 は心を痛めてい たことが昭和 12年 12月 20日 の 日記 か らもわかる。そ のため、慰霊
祭 の際 に 「
軍紀 ・風紀 ノ振粛」 「
支那人軽侮思想 ノ排除」 といった訓示を与え、規律 を正そ う
と努 めている。
この 日の夕、中国側 の 自治委員 と会見 し、新政権樹 立を中国人 の手 に任せ 、そ のためには 自
らも協力を惜 しまない 旨を述べ 、朝香宮軍司令官 主催 の夕食会では、 「
兎 二角支那人 ヲ懐 カシ
メ 之 ヲ可愛 カ リ憐 ム丈 ニテ足ル ヲ以テ 各 隊将兵二此気持 ヲ持 タシムル様希望」す ることを
各隊長に述べ てい る。中国通であ つた松井は慈悲の心をもつて 中国お よび 中国人 を見ていた。
そ して翌 2月 8日 朝、兵靖病院を慰問 したが、そ の際、 日中両国僧侶参列 の 下、中国軍戦
死者の慰霊祭 を行 つてい ることが注 目され る。上海派遣軍参謀 副長 『上村利通 日記 ③』 には
そ の様子 が以下のよ うに記 されてい る。
松井軍司令官兵靖病院見舞、担江 門脇 二於テ支那軍戦死者 ノ慰霊祭 ヲロロ ニ取 り行 フ。
「
敵ニハ ア レ ド亡キガラニ花 ヲ手向クル武 士道 ノ情ケナ リ」 自治委員会 ノー行、 日支 ノ僧
侶参列 ス
この慰霊祭は、南京城北西 の担江門脇 で行 つてい ることか ら、昭和 12年 12月 12日 日本軍南
京侵攻 の際、中国軍兵士が担江門か ら脱 出 しよ うと して混乱 し、約 1000名 の 中国軍兵士が死
亡 した担江門事件 の慰霊であろ う。
さらに 2月 14日 には、上海郊外 の呉泄元砲台跡 に計画 中の聖戦記念塔 の地鎮祭 を行 つてい
る。 この地は最初 の上陸作戦 で多 くの 日本軍死者を出 した激戦地であ り、そ こに記念塔 が建設
され ることになったので ある。また同 日、上海東西本願寺 に祀 られてい る戦病死者の英霊 に参
拝 してい る。『松井石根大将陣中 日誌 』 によれ ば、西本願寺に収容 されてい る遺骨総計は約 2
万 1千 で 、す でに 4千 余 を還送 し、近 くさらに 6千 を還送す る予定だ とい う。 また東本願寺
の分は総計 2千 余で、すでに 6百 余 を還送 し、近 くさらに 3百 を還送す る予定だ とい う。 こ
れ ら多数 の戦病 死者 の遺骨 を 目の 当た りに し、松井は 自身 の責任 の重大 さを痛感 じt「痛恨 ノ
至 りJと 記 している。
また 2月 18日 には、大場鎮 の戦闘で亡 くなった 日本軍戦死者慰霊 のため建設す ることにな
-10-
つた表忠塔 の題字お よびその 下 に刻記す るための詩 を書 し、それは以下のよ うであつた。
大場鎮陥落即吟
悪戦力闘三閲月
包疲抜塁斃不 已
神哉敵陣旭旗翻
欲餞忠霊幽寂裏
こ うした納骨施設 を伴 つた表忠塔 ・忠霊塔 の類は、 日露戦争以後、 日本軍 が海外で戦闘の後、
英霊 を弔 うため、そ の地に少 なか らず建 立 された。遺骨 の大部分は郷里に還送 されたが、残 つ
③
た遺灰は付近 の清浄 な地に埋葬 され、納骨祠 を建立 して遺灰は奉安 された 。
以上、南京戦後、松井 の戦 死者慰霊に関す る記事を抜き出 してみた。 ここでわかることは、
松井は 自ら慰霊祭 の祭主を務 めるな ど、積極的 に慰霊を行 つてお り、 日本軍 だけでな く中国人
の戦 死者慰霊 も行 つてい ることである。
松井は 2月 23日 に門司港 に到着後、翌朝赤間神宮お よび乃木神社に参拝 してい るが、松井
は同 じ大将 として乃木希典 を非常に尊敬 してい た。 乃木は 日露戦争旅順要塞攻撃で亡 くなった
ロシア軍慰霊 のために、明治 41年 6月 10日 日露両国の代表者 が参列 して行われた 「
旅順陣
歿露軍将卒之碑」 の除幕式に参カロした り、旅順要塞攻撃 の際 に殉 じた 日本陸海軍将校下士卒 の
遺骨残灰 の一部 を合葬 して英霊 を慰 めるために、明治 41年 3月 31日 に竣工 された旅順 白玉
山納骨祠や、 日本軍戦歿者 の英霊 を慰めその威烈を千載 に伝 えるために、明治 42年 11月 28
日に竣 正式が行われた旅順表忠塔 にも深 く関わ つてい ることか ら、慰霊に関 してこ うした乃木
仇敵」
のあ り方に倣 つたのであろ う (1°
旅,原陣歿露軍将卒之碑」建 立の意図は、戦時中は 「
。「
英霊」 が存す る
だつたが戦後 は 「
友邦者」 となったので あ り、 自国 に忠義 を尽 くし戦歿 した 「
ので あるか らもちろん敵国にも戦歿 した 「
無頼土民 の徒」 に冒涜
英霊」 がお り、その遺屍 が 「
0。
されない よ うに改葬 して 弔い 、そ の義烈 を千載に伝 えようとしたもので あつた とされてい る
怨親
こ うした慰霊 の あ り方は、武 士道 と結びつい て醸成 され、 さらには松井石根 が強調 した 「
平等」思想 に基づい た興 亜観音建 立へ とつ なが ってい く。
興 亜観音 の建 立
熱海伊豆 山に建 立 され た興 亜観音 の経緯 につい ては、田中正 明編 『松井石根大将 の 陣中 日
興 亜観音建立由来記」に
誌』に紹介 され る熱海伊 豆 山温泉旅館涼 々園主人 古島安二氏 の手記 「
詳 しいので、それ をまとめる形で紹介 したい。
松井石根は、帰還 した昭和 13年 5月 粽 々園 に滞在 し、古島に伊 豆山で余生 を送 りたい こと、
一
それに相応 しき住宅 を作 りたい ことを相談 し、古島はその手伝 い を した。住宅 が 段落す ると、
一
松井は 「
出征 の際某 氏 か ら 体 の観音像 を寄進 され、陣中常に奉戴 して来たが 、 自分 の家 は神
か困 つてい るのだが……」 と相談 した。それ に対
道であってこれを安置す る仏壇がないのでり「
して古島は観音様 をおまつ りして部下戦没将士二万余 の英霊 を弔われた らどうか と提案 した と
- 1 1 -
ころ、松井 は即座 に賛成 した。 さらに、観音堂 の建立だけでは平凡であるので、上海 上 陸以来、
南京入場 に至 るまでの各戦場 の土を採 り、これで露座 の陶製 の観音像を造 つて は と進 言 した と
ころ、松井 はそれ に賛成 して 「
死んだ ら敵 も味方 もない 、 よろ しく一緒 にまつ ろ うではない
か」 と言 い 、戦争 の犠牲者 の血 肉に
よつてできた観音像 は 「
興 亜観 音」
と命名 し奉 るほ かない との松 井 の 固
い意思 によ り、それ と決ま った。
興 亜観音 の原型 の製作 は、 当時愛
知県常滑 の 陶 工柴 山清風氏 が 陶製 の
観音像 を焼成 し、 これ を各方面 に頒
布 してい ることを聞 き、名古屋 へ 出
■ を得
向 き同氏に原型 を依頼 してl l諾
た。土は畑軍司令官にお願 い して 「
戦
場 の 土」 を十樽 ほ ど送 って頂 い たの
を常滑 へ 送荷す るとともに、なお完
璧 を期す る意味で彫塑家小倉右 一 郎
氏 に原型 の修 正 を依頼 した。 か くし
て 両氏合作 の塑像 が 出来 、 この焼成
は常滑 の杉江製陶所 が 引受 けて 下 さ
った。
以上、 「
興 亜観音建立 由来記」 の概
略 であるが 、観音像 建 立 計画 は古島
によつてたて られ、実際 に建 立 に向
熱海の興亜観音
けて奔走 して いたの も古 島であ つた
ことがわかる。
支那
本尊 の観音 は瀬戸 の陶 工師カロ
藤春 二 、露座 の観音は常滑の柴山清風作 で、内陣右 には 「
支那事変 中華戦没者霊位 」を安置 し、開眼式は昭和 15年 2
事変 日本戦没者霊位」、左 には 「
月 24日 、芝増 上寺大 島徹水僧 正 を導師 として行われた。加藤は一人息子 が 日中戦争 の際戦死
し、松井 の念願 に共 鳴 して合掌印の観音像 と同 じ姿 の もの を二尺に謹作 したので、以下、露座
の興 亜観音 を中心に建立 の経緯 につい て見てい く。
悲願 一 千観音像一燃 ゆ る信仰 を一本 の箆 に一 尊 し六年
『朝 日新聞』昭和 14年 3月 29日 「
無償 の奉仕」 と題す る記事 に以下の記述がある。
一本 の箆 に燃 ゆる信仰 と沸 きあが る製作慾 をこめて観音像 を刻む こと六年、 しか も全霊を
傾 けたそ の観音像 を乞はるるま ゝに一年百證づつ無償 で同好 の士に頒 ち仏 門の興隆に情熱
を捧げる
(中略)
昭和 九年一本 の箆を手 に して斎戒沐浴 二 ヶ月間、全生命 を打ち込 んで謹作 したのが法隆寺
一
夢殿 の国宝救世観音菩薩 の陶像 であつ た、以来仕事 の余暇に毎年百誰 づづ 十 ヶ年 千誰 の
―-12-
Flll卜︲
観音像 を製作 して広 く無償 で与へ信仰 の世界に導 くことを決心 しすでに五 百證 の救世観音
像 を製作 した
(中略)
支那事変 が勃発するや氏は知多郡最高の本宮山頂に六尺余 の護国観音建 立を発願 し精進 を
続 けてゐるほかすでに海上に働 く人達 の安全 を祈願す るため人尺余 の一葉観音像 を謹 作 し
て鳥羽湾頭 に建立 した、また異境 にあつ て皇 国 のため奮闘す る皇軍将士の武運 長久を祈 る
ため一寸足 らず の 「
弾除け観音」を謹作 して松 井前中支最高指揮官、寺内前北支最高指揮
官 は じめ多数 の将兵 に贈 り第一線 か らの感謝状 が 山積 してゐる、 日下某将軍 の依頼を受け
て一丈余 の観音陶像 を建立す ることにな り原型 の製作 に努 めてゐる
す るために生きてい るか と考 え出 してか ら神経衰
弱に陥 り、そ うしていた ところふ としたことか ら
『観音菩薩研究』 とい う本 を読み、悩んでい る人
たちを信 仰 によつて救お うと観音像建 立 を決意 し
た とい う °"。そ して昭和 9年 2月 か ら観音像一 千
体謹作 の発願 を起 こし、篤信者 に対 して無料で分
けてい た。そ の一 方 、鳥羽市三 ツ島 (平島)の 一
葉観音 (波頭観音)や 常滑市樽水本宮山護国観音
な ども製作 してい る (13)。
そ して注 目され るのが弾除け観音である。『朝 日
松井大将の熱
新聞』静岡版昭和 14年 7月 4日 「
"」
"興
亜観音
願 五 族協和を表徴 !熱 海 に建 つ
記
事中にも、
"興
"の
亜観音
製作 を依頼 され た愛知県知 多
郡常滑町在住陶 工柴 山清風氏 は大将がかねて
戦地 にある際部下将兵 に小 さい 弾 よけ観音像
を贈 つ たことが機縁 となった もので昨年十 二
月大 将 か ら観音像製作 を委 嘱 され るや大 いに
感激 、心血 を注 いで製作 に 当 り六月末約 一 尺
の粘 土像 の試作 を完成 、 二 十 日には松 井 大将
来名 して下見を し、愈近 く本製作 に着手す る
こ とになつ た
と記 されてお り、興 亜観音 の製作者 として清風 が
弾除 け観音 (柴山寛 氏蔵)
選ばれたのは、戦 地の部隊に弾除け観音を贈 つていたことが機縁 とな った。弾除 け観音 は 3
ン
孝 ほどの陶製で、兵士た ちは千人針 の腹巻 きの 中に弾除け観音 を潜ませていた とい う 0 。
戦地に赴いた兵士たちの間では、観音菩薩に対す る信仰 が広まっていたよ うである。 これは
観音経』の内容と関係 している。
『
-13-
或被悪人逐 堕 落金剛 山 念 彼観音力 不 能損一 毛 或 値怨賊続 各 執刀カロ
害 念 彼観音
力 咸 即起慈心 或 遭 王難苦 臨 刑欲寿終 念 彼観音力 刀 尋段段壊
(中略)
譲訟経官処 怖 畏軍陣中 念 彼観音力 衆 怨悉退散
悪人に追われて金剛山か ら落 ちた として も、観音 の力を念 じたな ら、髪 の毛一本 も損な うこと
はない。 心に怨みを抱 く悪 い賊 に取 り囲まれて斬 り殺 されそ うになった として も、観音 の力を
念 じたな ら、彼 らは慈悲 の心 を起 こすだろ う。悪い王の災難 に遭 い苦 しめ られて処刑 されそ う
になった として も、観音 の力 を念 じたな ら、刀 は段 々に折れ て しま うだろ う。争いの際に戦 い
の 中で恐怖 におかれて も、観音 の力を念 じたな ら、衆生の怨みは ことごとく退散す るだろ う。
観世音菩薩 は、私 たちが遭遇す るあ らゆる苦難に際 し、そ の偉大なる慈悲の力 を信 じて観音
の名 を唱えれば必ずや救 つて くれ るとされ る。そのため、出征 に際 し、観音 のお守 りを身につ
けていつた り、『観音経』 を唱えることがあつた ゛め。 こ うした ことか ら、松井 の建立す る仏像
には観音菩薩 がふ さわ しかったことがわかる。
興亜観音 の高 さは人尺 、台座 の高 さ二尺五寸 、陶製合掌像 でこれは古来 の観音像 の型 を破 っ
て、伸ば した五本 の指は五族協和、合せた一つの掌は東西、西洋 の一致を表 して製作 された。
これだ け大きい陶像 を製作す るの は非常に困難 であるとい う (1°
。興 亜観音 が完成す るまで、
松井は数回 にわたつて清風 の もとを訪れた。昭和 15年 2月 3日 に像は完成 し、名古屋鉄道お
よび国鉄 の無料奉仕で熱海 まで輸送 された。
熱海市伊豆山鳴沢に建立 された興亜観音 の開眼供養法会は、昭和 15年 2月 24日 、願主松
井石根、導師芝増 上寺大 島貫首をもつて挙行 された。
「
建立縁起」には次 のよ うに記 されてい る。
支那事変は友隣相撃 ちて莫大 の生命 を喪滅す。実 に千歳 の悲惨事な り。然 りと雖 、是所謂
東亜民族救済 の聖戦た り。惟 ふに比の犠牲たるや身を殺 して大慈を布 く無畏 の勇、慈悲の
行、真 に興亜の礎た らん とす る意に出でたるたるものな り。予大命 を拝 して江南 の野に転
戦 し、亡ふ所 の生霊算 な し。洵 に痛惜 の至 りに堪へず。方に此等 の霊 を弔ふ為に、彼我 の
戦血に染みたる江南地方各戦場 の土を獲 り、施無畏者慈眼視衆生の観音菩薩 の像を建 立 し、
此 の功徳 を以 つて永 く怨親平等に回向 し、諸人 と倶に彼の観音力 を念 じ、東 亜の大光明を
仰 がん事 を祈 る。
因に古島安二氏其他幾多同感 の人 士併 に熱海市各方面の熱 心な協力を感謝す。
紀元二千六百年 二月
願主 陸 軍大将 松 井石根
"冥
また、『朝 日新聞』静岡版昭和 15年 2月 25日 「 福 を祈つ て"願 主松井大将は語 る」 に
は、 「
興亜観音開眼式 の二十 四 日朝、松井大将 は牧少将を通 じて観音建設 の意向を次 の如 く語
つ た」 として、
興 亜の大光明を仰 ぎ度い一 心か らこの大業 のために尊 い犠牲 となつ た皇軍将 士 とこれ も
同 じ大業 のためたふ れた支那 の兵士の霊 を併せて弔ひ度 いのが 自分 の念願で皇軍将士は
靖国の神 と祀 られ るので あるが皇道精神か ら見れば自分 が観音像を建ててその冥福を祈
る気持 もそれに合致 してゐると信 じてゐる、本籍迄熱海へ移 した 自分は ここで幾多の英
-14-
「
霊 を慰 めなが ら余生 を送 り度 い と思ふ
と記 され てい る。
「
建 立縁 起」 で は 、 「
怨親 平等」 が 明確 に記 され てお り、観 音菩薩 の力 に よつて亡 くな った
人 々 の菩提 を弔い 、 さらに東 亜民族 の救済 を念 じてい る。
本堂 の興 亜観音堂 の基石 の下には、松井 の写経 とともにある女性 の般若 心経 一 千巻 の写経が
納 め られた。『朝 日新聞』東京本社版昭和 16年 9月 11日 には 「
英霊 に献 ぐる秘願 畢 生の写
一
一
一
経千巻 興 亜観音 に香 る 女性 の心血 」 の記事 が掲載 されてい る。 これによ ると、東京 に住
む女性 が、亡き父の三界万霊 の冥福 を祈 る写経 を引き継 ぎ、英霊 の供養 に と般若心経一 千巻 の
写経 を して十巻 に表装 し、総持寺貫首伊藤道海禅師 らの題字 を添えて松井に贈 り、松井 の手で
"写
"が
納め られたので あ った。そ して 、 「
興亜 の英霊 に捧げる心清 い一婦人 の
経秘話
御堂 に
杖 ひ く人 々の語 り草 となつ てゐる」 と記 されてい る。
興 亜観音 の造立は、戦 死者 を悼む多 くの人 々の心を動か していった。
各地に建 立 された興亜観音
興 亜観音は熱海 の ものが著名 であるが、それ だけではなかった。新聞記事 で興 亜観音 につい
て報道 され るや、怨親平等思想に共鳴 した僧侶 が 自らの寺院 にも興 亜観音 を建立 したい との希
望 を松井に申し出、松井はそれ に対 して快諾 して、他所 において も興亜観音 が建立 され ること
になった。
「
第 二号」 の興 亜観音 は二重県尾鷲市 の曹洞宗寺院金剛寺境内に建 立 された。金剛寺 21世
の鬼頭観梁和尚は、熱海 に興 亜観音 が建立 されたことを知 り、尾鷲 にも建 てたい と松井大将に
懇願 し、認 められたのであった ゛つ。
『
伊勢新聞』昭和 16年 8月 11日 「
興 亜観音像除幕式 尾 鷲町金剛寺境内で営む」 には以
下の よ うに記 されてい る。
北牟婁郡尾鷲 町金剛寺住職鬼頭氏 の発起 で地元有志 の浄財 を得て同寺 境 内に建立 を急 ぎ
つ ゝあつ た 『興 亜観音像』は今次聖戦 に幾多武勲を樹 て興 亜の礎石 として散 つ た護国の忠
霊 を永久に慰 めるべ く岡崎市 の名 工宇野員太郎氏 に依頼中の ところこん ど見事 に彫亥Iを終
│1好
り安置 したので九 日の吉 日を 卜し午後 一 時 か ら大本 山永平寺貫首高階禅師、徳り
敏 中将
臨席、松井石根大将 、小 笠原長 生子 の祝辞代読、濱地文平代議 士ほか 町村長 関係来賓百余
名 を招 き荘厳 な除幕 の式 を挙行、午後 二時盛会裡に終了 した。式後徳川 中将 の 時局講演が
行 はれた
柴 山清風以外 によつて製作 された興亜観音 は、金剛寺の興亜観音だけである。 また石仏である
ことも他 の興亜観音 とは異なってい る。胸 の前で両手を合わせ る姿や衣 文等、熱海 の もの と同
一 になるよ うに製作 されたよ うである
。
台座銘には以下の 「
興 亜観音建 立縁起」 が記 されてい る。
支那事変戦没者追悼供養 の為観音大士 を建立す 、願 くは この功徳 を以て普 く怨親平等 に回
一-15-―
向 し、 日華両民族倶 に妙智力に依倍 して速やかに東亜 の大光明を仰 かんこ とを祈 る、
昭和十 六年 七月吉 日 金 剛廿一世 観 梁曳
「
辛 巳端午
怨親 平等
祐 民誼」
こ こで も戦 争 で 亡 くな っ た 日中両国 の 戦 没 者
の 供養 と して 「
怨 親 平 等 」 が 強調 され 、観 音
菩 薩 の 力 に よつて大 東 亜建 設 が な され るよ う
怨親 平等 」 と揮 豪 した祐 民誼
祈願 して い る。 「
は 、民国 29年
(1940)3月 、南京 国民政府 の
行 政 院副 院 長兼 外 交部 長 とな り、 日本 との 外
交折衝 を主 に担 当 し、同年 12月 駐 日大使 とな
つ た人物 で あ る。 年 月 か ら して 、駐 日大使 と
して 日本 に赴 任 してい る際 に依 頼 され て揮 皐
(1め
した と思 われ る 。
金 剛 寺 の 興 亜 観 音 が石 仏 とな った こ とに 関
して の 詳 細 は よ くわ か らな い が 、 岡崎 は石 工
品 で 有 名 で あ るの で 、石 仏 で興 亜 観 音 を作 る
こ とに な っ た 際 、金 剛 寺 と関係 の あ つ た宇 野
員太 郎 に依 頼 した の で あ ろ う。 金 剛 寺境 内 に
は昭和 10年 5月 27日 の 「日露戦 勝 二十周記
妙 智 力碑 」
念 日」 に東 郷 平 人郎 の 筆 に よ る 「
が建 立 され 、そ の ときの石 工が 宇野 員太 郎 で
あ った こ とか ら、今 回 も氏 に彫 像 を依 頼 した
の で あ ろ うが 、松 井 に どの よ うに連 絡 を とつ
たのか は不 明であ る。
開 眼供 養 の 際 に は 、松 井 はお そ ら くは体 調
が 芳 し くな か った た め参 列 せ ず 祝辞 を寄せ て
い る。当 日は、昭不日1 3 年 4 月 1 0 日 、決 死的
な爆 撃行 の 中 で 弾 丸数 十 発 を浴 び 、 左 腕 左 脚
を負傷 しなが らも、操縦繰 にハ ンカ チ を巻 き、
日で くわ えて基地 に帰還 し、 15日 に亡 くな っ
た尾 鷲 町 出身 の 福 山米 助 大尉 の 娘洋 子 ちやん
が 除幕 を行 つ た (1°
。 そ して 、北 牟婁 郡 内戦 没
将兵遺族 ら 200余 名 が 参列 し、郡 内 32ヶ 寺 の
尾鷲市金剛寺 の興亜観音
僧 侶奉仕 の も と、永 平 寺 貫 首高 階禅 師 の 開 眼
供養 があ り、岡町長以下来賓 の祝辞、武運長久祈願 のの ち、 日支両軍戦歿将兵英霊 の追悼 が行
われ るな ど、盛 大な儀式であつた。
―-16-一
°
つい で富山県入善町 の浄 土真宗養照寺に興 亜観音 が建立 され た ゛
。熱海 に興 亜観音 が建立
された ことを知 った養照寺住職藤裔常倫氏は、昭和 15年 3月 13日 に興 亜観音 を訪れ、その
際、偶然 に松井 の姿を拝す ることができ感動 したことを記 している。そ して翌年 1月 11日 再
び参拝 し、同時 に松井に対 して、興 亜観音 の分身 を 日本海 に臨んで養照寺内に建 立 したい 旨申
し出ると、松井 はll■
諾 して製作者である柴 山清風 を紹介 された。そ して松井 は像下の題字 とな
る 「
興 亜観音」をす ぐに揮豪 して養照寺に送 った。興 亜観音建 立委員長は町長 の米澤元貞氏 が
紹介 により観音像 の製作 に取 りかか り、昭和
務 めて式典 の準備が行われた。清風は松井 か らのヽ
17年 1月 10日 、養照寺 に像 が到着 し、昭和 17年 5月 3日 、開眼供養 が行われた。
怨親平等」 と揮豪 された石碑が建て られ、開眼供養法要に
観音像 の右 には祐民誼 によつて 「
は祝辞 を寄せた。そ してその碑 には、菊池寛 が選 した選 した碑文が刻 まれた。その文面は以下
の とお りである。
それ観世音は、衆生に無畏を施すゆゑに施無畏者 の名あ り、大慈大悲 の心篤 きを以て大悲
聖者 の名あ り、世界を救済す るの故 に救世大士 とも称せ られたまふ。思ふに興亜 の義戦 は
万邦に無畏 を施すにあ り。興 亜の心は万民に慈悲を加ふ るにあ り。興 亜 の道は虐 げられ た
る民族を救済す るにあ り。 しかも観音菩薩 の救済は無限に して、普 く一人 も漏れ ることな
しと聴 く。 まことや大東亜聖戦 の意義は観世音 の心願 を東亜に実現す るにある。今養照寺
の寺域に立ちたまふ聖 姿 を拝す る人は、何人 も興亜の戦 に散 り行 き じ人 々に対 し、敵味方
無差別 の菩提 を弔ふ と共に、戦争 の悲願 に、恩讐 一如万民共栄、施無畏 の理想世界 の一 日
も早 く建 立せ られん ことを念願す べ きであ らう。
昭和十七年 二月二十 六 日
菊池寛
興 亜観音 に対 して、敵味方 の差別なく菩提 を弔 うの と同時に、観音菩薩 の力によつて東亜の民
族 の共栄 が実現 され ることを祈願 している。 また、門前の標石 には牧次郎少将 の筆 による 「
興
0。
亜観音」 の文字が亥Jまれた
牧次郎は杭州湾 上 陸 の際 の勇将 と讃 え られ、帰還後は知恩院
で得度 し繹相園 と名乗 つたが、法衣姿 で戦場 を弔い 、激戦地 の霊土霊骨 を将来 して増 上寺に安
置 していたが、その一部 を観音像 の台座内に安置 したのであった。そ して、東本願寺句佛 上人
の 「
栄誉無 上護国の魂に風薫 る」 の句碑 も建て られた。
開眼供養 が行われ た昭和 17年 5月 3日 には、松井 は病気のため参加できず祝辞 を寄せたが、
大谷派宗務総長信正院螢潤連枝導師の もと開眼供養法会 が行われ、僧侶 二十数名 による勤行以
下、盛大な式 となった。
つい で奈 良県桜井市蓮台寺 に興 亜観音 が建立 された ② 。蓮台寺 21世 性誉寛樹和 尚が、熱海
に興 亜観音 が建立 された ことを知 り、 自らが提唱 していた興亜合掌会 の求めるもの は興 亜観音
像 の建立 か ら始まると思い立ったこ とによるもので ある。性誉寛樹は知人織 田陳蔵氏 が柴山清
風 と旧知 の 由を知 り、同 じ仏像製作を依頼 した ところ、大将 の命あ るな らば製作す るとのこと
だったので、松井 と親交 の厚 い大島徹水増 上寺法主狽下を介 して、昭和 16年 1月 5日 熱海 の
松井邸 を訪ね、興亜会 の主 旨を述べ 、同 じ土をによ り製作 した観音像 を蓮台寺境内に建立 した
い と懇願 した。松井 はこれに同意 して 自ら発願主 とな り、柴 山清風に高 さ 2。
42傷 の興 亜観音
像製作 を依頼 したのであつた。
-17-
そ して 、昭和 16年 11月 3日 、
大島大僧 正 を導師 に迎 えて地 鎮祭 が
行 われ た。 そ の地 下には県 下 の小学
校児童 に よる名 号石 、奈 良安井崇徳
寺住職 の発 起 の写経石 が納 め られ 、
基礎石 には天平年 間吉備真備 に よつ
て建 立 され た とされ る心楽寺 の礎石
を四切 に して使用 され た。 また 、観
興 亜観音 発 願 陸
音像 め横 には 「
軍大将松井石根」 と刻 んだ標石 も建
て られ た。 翌 17年 9月 に工事 を終
え、昭和 18年 3月 27日 松井夫妻
を迎 え 、大 島大僧 正 を導 師 と して開
眼大法要 が行 われ た。 そ の発願 文 は
以下 の とお りであ る6
支那事変 は友 隣本目撃 ちて莫 大 の
生命 を喪滅す。 実 に千 載 の 悲惨
事 な り、然 りと雖 も是れ所謂東
亜民族救済 の聖戦 に して 、其犠
牲 た るや身 を殺 して大慈 を布 く
桜井市蓮台寺 の興亜観音
無畏 の 勇慈悲 の行以 て 興 亜 の礎
た らむ とす るの意 に因 るものな り。予暴 に大命 を拝 して江南 の地に展戦 し喪ふ所 の英霊算
な し。 拘 に痛恨 の情 に堪 えす、姦に此等英霊 を弔 う為彼我 の戦場 た りし江南地方各地の土
塊 を採 り来 りて施無畏者慈眼視衆生 の観世音菩薩 の像を建 立 し、此功徳 を以て永 く ゝゝ怨
親平等 に回向 し、諸人 と共に彼 の観音力 を念 し東亜の大光明を仰 かむ ことを祈 る。今や大
東亜の戦跡 は遠 く南洋 の彼方 に及び戦争 の範囲も亦支那事変 の比にあ らす。糞 くは亜細亜
古来の観音精神 を治 く大東亜 の諸民族 に悟了せ しめて大東亜聖戦 の完遂 に貢献せむ ことを
以 て発願 の辞 となす。
昭和十 八年 二月二十 七 日
陸軍大将 松 井石根 (花押)
当 日は浄土宗総本山知恩院式衆 をは じめ県下各寺院 の僧侶、京都師団長代理相葉大佐、中華民
・
国大使代理侃学林氏、奈 良県知事代理坂 田聖地顕揚課技師、大福 香具山国民学校児童、戦病
歿軍人遺家族 らが参列す る盛大な法会 となつた。
興亜観音 として露座に建 立 されたのは、熱海、尾鷲、入善、桜井 の 4体 であつた。興亜観音
怨親平等」の思想 に心を動 か され 、分
は熱海 に建立 された後、それ を報道 で知つた人 々が、 「
一
身を地元 にもとの思いで松井大将 に懇願 し、仏教界、政界、軍、地域 が 体 となって運動 した
「
結果 であつた。 そこには亡 くな つた人 の菩提 を弔 うの と同時に、 興 亜」 を観音に祈願 し、戦
争を勝利 に導いて もらいたい との意志 もあつた。
-18-
F
︲
︲
その他、外国に贈 られた興亜観音もある。『
読売新聞』昭和 16年 6月 25日 「
江氏へ興亜観
一
音仏 けふ松井大将が沼津駅頭で一 」 とい う記事には、6月 25日 静岡県沼津駅で、松井が南
京国民政府江兆銘主席に約 8寸 の興亜観音像を贈ることが記されてい る。贈 られ る観音像は、
熱海 の興亜観音像を型取つた清風の製作 によるものであった。贈ることになった理 由について
は、
松井石根大将は江主席 とは第 二次支那革命以来すでに廿余年 の知己で廿三 日夜帝国ホテル
で催 された江氏歓迎晩餐会に出席 した時興亜の大道を語 り合つ た際、談 たまたま興亜観音
に及び恩讐 を超越 して 日華両勇士の霊 を祈 る大慈悲心に江主席 は感激 、松井大将 か ら贈 る
ことになつた もので ある
とされている。東亜新秩序建設 のために 6月 17日 上京 した江兆銘は、近衛文麿首相、松岡洋
右外相 らと会談 し、帰路特急つ ばめ号の停車 した沼津駅で松井 か ら興亜観 音 の ミニチ ュアを贈
0。 これ
られた
も清風作で、 ミニチ ュア興亜観音は国内外 に数点贈 られたよ うである。
上海 玉佛寺 にも興 亜観音 が贈 られた。 『朝 日新聞』昭和 18年 10月 26日 「
けふ興亜観音 の
恭送法要」記事に以下のよ うにある。
来 る十一月二 日か ら上海 玉佛寺 で開かれ る大東亜戦争戦没者慰霊法要 の本尊仏 として 日華
将兵の冥福 を祈 るため 中国 に渡 ることになつ た既報松井石根大将発願 の興 亜観音聖像恭送
法要は、大 日本仏教会の主催 で二十六 日午前十一 時か ら芝増上寺大殿で営 まれた
玉佛寺 に贈 られた興 亜観音 もおそ らくは清風作 の ミニチ 三ア興 亜観音 だろ う。 また、昭和 18
年 にはタイ国 ピプン首相 に献上 された興 亜観音 もある °°。
興 亜観音は新聞で紹介 され るだけでな く、浪 曲にもな り、全 国各地 に伝 え られた。 『朝 日新
聞』昭和 19年 3月 24日 の記事は以下のよ うである。
松井石根大将が発願建立 した熱海市伊豆 山鳴沢 の興亜観音 の縁起 が興亜総本部 の肝煎で今
度浪由に編まれ新篇 「
興 亜観音」が 出来上つた、同大将 の 中支戦跡 の慰霊行における坂 田
上等兵母妹 の挿話 な ども織 り交ぜ 日支両国将兵 の忠魂 を祀 るまでを物語風に描写 したもの
で四月二十四 日熱海市を皮切 りに木村若衛 が全 国を行脚す ることになつ た
こ うした興亜観音 も、戦争が激 しくなると建立 され ることはな くな り、新聞記事 に も見られ
なくなった。そ して、敗戦、 さらには松井 の処刑 とい う事態 の急展開に直面す ることになった
ので ある。
お わ りに
以上、興亜観音建立の経緯について紹介 した。 これまでは熱海の興亜観音 にのみ注 目が集ま
り、他の興亜観音についてはほとんど忘れ られていた と言 つてよい。その背景 には、松井石根
が戦犯 として処刑 された り、 「
興亜」 とい う語 が否定された ことによ り、興亜観音 も忌避 され
るようになったとい うこともあろう。
松井が興亜観音を建立 したことに対 して、偽善にすぎない との見方 もある。 しか し、松井の
―-19-―
人 とな りを見れば、そのよ うな推測はあた らない ことがわかる。松井 は尊敬す る乃木希典 に倣
い、武 士道に基づい て、勇敢 に戦 つた敵将 もたたえて祀 つたのである。そ してそ こには仏教思
怨親平等」を唱 えるようになった と考 えられ る。彼 の晩年はひたす ら戦死
想 の影響 もあ り、 「
者 の冥福 を祈 ることに費や されたのである。
戦地 に赴 いた兵士の間では、弾除け観音や観音 のお守 りを身につ けた りす るな ど、観音信仰
が広がっていた。 また、従軍僧や兵士た ちによる敵味方 のない戦死者 の慰霊 も数多 く行われ た。
こ うしたことを受 けて、松井 は帰還後、興亜観音 を建 立 し、毎 日参拝 して観音経 を唱えた。
従軍 の後、出家 した兵士 も少 なくない。戦争 とい う狂気に翻弄 され、生き延 びた者がせめて
もの思い としてできる行為 が、死者へ の慰霊 である。そ こには古代以来続 く日本人 の霊魂観 を
基層 として、時代 とともに変わる慰霊 の あ り方がある。私は、興 亜観音 の前 に立つ とき、歴史
に翻弄 された多 くの先人 たちの姿 を思い起 こさずにはい られない。
武五郎直行君頌徳碑」 と、松井が南京
(1)名 古屋駅南の椿神社境内には、松井の筆による 「
入城後 に作 つた詩が刻まれた碑が建てられてい る。 なお この碑 は、戦後中村公園近 くの池に
投げ捨てられたが、再び建てられたとい う。
(2)松 井石根 の事績に関 しては、田中正明編 『松井石根大将の陣中 日誌』 (芙蓉書房、1985
一
年)、早瀬利 之 『将軍の真実 南 京事件 松井石根人物伝』 (光人社、1999年 )な どに詳 し
く、本稿執筆 にあたつて大変参考にさせていただいた。
南京戦史資料集 Ⅱ』 (僣行社、1993年)。
(3)南 京戦史編集委員会編 『
南京』 とし
(4)こ のときの様子は、昭和 13年 東宝映画文化映画部作成の戦線後方記録映画 『
て編集 され、DVD『 南京 戦線後方記録映画』 (コニー ビデオ、2004年 )で 見ることができ
る。松井は長文にわたる祭文を読み上げ、さらに玉串奉箕の後、誰 よりも長 く黙祷 している。
10、1937年)。
観音世界』1‐
千人針 と観音 さま」(『
(5)山 ノ井晃道 「
敵の慰霊」について― 日中の死生観を
(6)張 石 「日中戦争における旧日本軍 と中国軍隊の 「
めぐつて一 」(『
東 アジア共生モデルの構築 と異文化研究一 文化交流 とナショナ リズムの交錯
一』 (法政大学国際 日本学研究センター、2006年 )で は、1937年 3月 から 1945年 8月 まで
の『
敵の慰霊」が掲載されたとす る。
朝 日新聞』 に 15件 の 日本軍の 「
。
(7)佐 藤正導 『日中戦争 ある若き従軍僧 の手記』 (日本アル ミット株式会社、1992年 )で
死ん
は、佐藤氏が河北省 で慰霊祭や宣撫活動を行 つていた様子が具体的 に書 かれている。 「
だ人達は皆んな仏であ り、敵も味方もありません。私は中国の兵士 も日本の兵士 も、わけヘ
だてなく供養 をしてまわつてお ります。」 との叙述 は、従軍僧 のあ り方をよく示 している。
こ うした仏教の 「
怨親平等」思想 が、松井の興亜観音構想 に影響を与えたと思われる。
南京戦史資料集 Ⅱ』 (偕行社、1993年)。
(8)南京戦史編集委員会編 『
(9)大原康男 『忠魂碑 の研究』(暁書房、1984年)。
乃木希典』 (河出書房新社、1988年)に よれば、乃木は自戒の思いを込めて
(10)大濱徹也 『
武士道の本質を広く伝えるのに尽力 し、常に戦死者や傷病兵を意識 していたとい う。
-20-
︲
︲
(11)藤田大誠 「
近代 日本にお ける 「
怨親平等」観の系譜」(『
明治聖徳記念学会紀要』復刊第 44
1)。
号、2007`等
(12)網野宥俊 「
松井大将発願 の観音像謹作者柴山清風師を訪ふの記」(『
9、1939
観音世界』3‐
年)に 観音像製作の経緯がまとめ られてい る。
(13)護国観音は戦時中に何者かによって破壊 された。
(14)柴 山寛氏談。
(15)小笠原長生 「
7、1987年 )、平野龍之介 「
弾丸受給ふ観世音」 (『
観音世界』1‐
お守 と千
一
一
人針のカロ
護 上海事変に参加 の勇士か ら壮烈なりし戦闘談を聴 く 」(『
7、1937
観音世界』1‐
一
―
時局 と信仰 観音菩薩 の信仰 を中心 として 」 (『
年)、矢吹慶輝 「
8、1937
観音世界』 1‐
年)、山ノ井晃道 「
千人針 と観音 さま」 (『
10、1937年 )な どに兵士たちの観音
観音世界』 1‐
信仰を見ることができる。
(16)柴 山寛氏談。
ふるさとの石造物』 (尾鷲市郷土館友の会、1980年)。
(17)伊藤良編 『
(18)祐民誼は後に昭和天皇から勲一等旭 日大綬章を授与されるが、終戦を迎えると広州で軟
禁 され、江蘇省 の監獄に入れ られた。そ して翌民国 35年 (1946)漢奸 として死刑を宣告さ
れ、8月 23日 蘇州の監獄で処刑 された。
(19)福 山大尉 も金剛寺に 「
制空院豪胆忠節居士」 として葬 られてい る。
(20)建立の経緯については、『
興亜観音』 (養照寺、出版年未詳)に 詳 しい。
「
(21)戦後は 興亜観音」の文字が 「
救世観音」に改められた。
・
(22)石 崎正雄 吉井宗平 『
賓林山蓮蔓寺』 (蓮台寺寺史編纂委員会、1983年 )に 建立の経緯
が記 され てい る。
(23)江 兆銘 は 1944年 11月 10日 名古屋 で亡 くな り、遺体 は南京郊外 の梅花 山 に埋 葬 され た
が 、墓 を暴かれ るこ とを恐れ て 5ト ンの鉄鋼粉 を混ぜ た コ ン ク リー トを流 し込 んで棺 が覆 わ
れ たが 、 1946年 1月 15日 、国民党軍 は 「
漢奸」だ と して墓 の外壁 を爆破 して棺 を取 り出 し、
遺体 を灰 に した後 、野原 に捨てた。 さ らには 1994年 、墓 の あ った場所 に後 ろ手 に縛 られ 、
孫文 を葬 る中山陵 に 向いて脆 く江兆銘 の像 が造 られ た。
(24)清 風 の 陶房 ホ ー ムペ ー ジ http7/www7b.big10beene.jp/∼
kannOn/に
写真 が掲載 され てお
り、高 さ 1.1鷲
「とされ る。
付記 本 稿執筆 にあた り、熱海興 亜観 音伊 丹妙浄師、金剛寺 、養 照寺、蓮台寺 、常滑市柴 山寛
氏 、岡崎市宇野欽也氏 、朝 日新 聞東京本社辻直美 氏 に大 変お世話 にな りま した。 ここに記
して感謝 いた します。
(やまだ ゆ うじ 二 重大学人文学部)
-21-
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