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Journal Article / 学術雑誌論文 日本における政治とリプロダクティブ・ラ イツ 岩本, 美砂子 アジア女性研究. 2007, p. 18-32. http://hdl.handle.net/10076/11610 日本 における政治 とリプロダクティブ ・ライッ 岩 本 はじめに この論文 は、 日本におけるリプロダク ティブ ・ライツ とそれをめ ぐる政治に関 して、時代 の政治課題 とい うマ クロの視 点 と、個 々の政策決定 にお ける女性 の関 与 または排除ない しそれ らが不明の場合 もあるというミクロの観点か ら、 明治維 新 か ら今 日までを鳥厳 し、日 本における リプロダクティブ ・ライツの危 うさへ の 警鐘 を鳴 らす ことをめざしてい る。 1.明 治時代 明治初年、新政府は、堕胎薬の販売 を 禁 じ、間引 きと堕胎 の禁止令 を、特 に産 婆 を対象 に発 した。 これは、 まだ 「 富国 強兵」 とい う国是 の定 まる前に、裸体 で の往来 ・男女混浴 ・立 ち小便 な ど、「欧 米列強」か らの来訪者に対 して 「 格好 の 悪 い」風俗 を改めるの と同 じ目的で発 さ れたもので、 中絶 を受けた女性は罰 しな かった。アイヌ民族男性 の耳輪 (女性 の ものは見逃 された)、 アイヌ女性 0琉 球 女性 の入れ墨なども同様に禁 じられた。 江戸時代、2男1女を上回る出生児は間 ‐ .1■ 引かれた。武士で も婿養子 の日のない次 男以下 は嫁取 りを許されず、彼 らと下女 ●: の間に でき た 達と 子どもも リ フ省争年 │1塞 田分け」の語が示すように■FI理 農村では 「 *い わもと み さこ、三重大学人文学 美 砂子 * アジア女性研究第1 6 号 ( 2 0 0 7 . 3 ) 妊娠に関与 した男性 には何 ら責任 を問わ ない とい う点 で共通 していた。各国の刑 の後 21世紀 になって も、 国語 化 された以 外大 きな変更が ないの は、1970年代 に女 法典 の起草者 に女性が含 まれてい なか っ たことは、 もちろんである。女王が いて 性 の視点か ら刑 法 を含 む法令 を見直す よ も、刑罰 を緩めさせたとい う話 はない。 罪 は刑法29章に置かれ、人権保護 ではな 人口増は、 日本で も 「 富国強兵」 の観 点か ら政治や経済 の男性 リー ダー達に歓 迎 されたが、個 々の女性 にとっては、頻 産 ・多産 を意味 し、機械化 される以前 の く、善良 な風俗 の維持 にあたる箇所 に設 け られて い る。212条 :本人堕胎、213条 : うになった諸外 国 との違 い で ある。堕胎 同意堕胎、214条 :業 務 上堕胎、215条 : 不 同意堕胎、216条 :不 同意堕胎 致死 で 農業や家事 とい う重労働 に これが加 わ り、「 子沢 山」 の重み 。苦 しみが女性 に あ る。212条のみ、 旧 の 条文 と現行 条文 の しかかっていた。なお、富裕な階層に (文語)懐 胎 ノ婦女薬物 ヲ用 ヒ又ハ其 他 ノ方法 ヲ以テ堕胎 シタル トキハ 1年 とを上 げ てお く。 とって中絶 は、 法律 で禁止 されていて も、 以下の懲役 トス 高価 で技術 の確 かな医師をヤ ミで雇 うこ とが可能なものであ った。法的処罰は、 実はそうしたことの不可能 な貧 しい階層 (国語)妊 娠中の女子が薬物 を用 い、 又 はその他 の方法 によ り、堕胎 したと きは、1年以下の懲役 に処す る の女性 を直撃す る。 「カネが足 りず に堕 せない」、「カネが少ないので、ヤ ミで技 なお、「司法統計」上、堕胎 罪 第 一 審 ‐ 、「カネが 術 の不確 かな者 しか頼めない」 有罪人数 が最大 だったのは、1910(明 治 43)年 の672件 だ っ た。1909(明 治42) 足 りず 自己堕胎 を試み失敗 し、出血多量 で生命 の危機 に瀕す るJの は、貧 しい階 年 か ら1920(大 正7)年 まで は、 ほぼ 年 層 の女性 であ る。それゆえ、1917年の ロ シア革命後 にレーニ ンが世界初 の中絶解 禁 を、「 労働 女性 一般 のため」 で な く 「 者階級 の女性 のため」 に行 うことになっ た。 しか し、1929030年 の農業 の強制集 団化 に伴 う大凶作 や、第 2次 大戦に よる 人口の消耗 のため1930年に再強化 された 中絶規制 は、スター リンの死 まで緩め ら れなかった。1918年の解禁 は、 当時世界 の中絶 をめ ぐる論争 に一石 を投 じたが、 その後の経過は欧米や 日本 に直接 の影響 を与えてい ない と思われる。 日本では、1907(明 治40)年 に ドイツ 流の現行刑法が制定 された。この頃には、 人工増強が国家 目標 となっていた。 この 間500件を越 えたが、 そ の 前後 はそれ ほ ど多 くない。年 間の人工 妊娠 中絶数 は全 .国 で それ ほ ど少 な くな く、「一 罰 百戒」 運が悪かった」女性 や医師 0助 産 的に 「 婦 たちが 罰 されて い たのであろ う。 2.大 正時代 1911(明治44)年には、日本の第1波 フェ ミニ ズムの象徴 で ある 『 青轄』 力靖J刊さ れ、女性 による言論 の場が開かれた。そ こで は、 貞操 ・廃娼 と並 んで人工 妊娠 中 絶 の是非 も論 じられ、 これ を肯定す る論 は即 「 刑法堕胎罪」 とい う当時 の法律 を 批判 す る こ とになったため、 『 青轄』 ヘ の言論弾圧 をさらに招 い た。 刑法 も男性 のみの手で制定 されたが、そ ……19-一 原 田皐月が1915(大 正4)年 の 『 青踏』 日本における政治 とリプロダクテ ィブ ライツ (岩本) 5巻6号 の 「獄 中 の 女 よ り男 に」 °)で 、 堕胎 を罰す ることは不条理 だ と訴 えた。 てお り、この時はまだ劣者排除 という差別 意識の表れと見るべ きではないだろう⑥。 それゆえ、 この号 は秩序素乱 の か どで発 禁処分 を受 けた。 原 田に対 して、 伊藤 野 枝 は同 じ号 に、 と もか く堕胎 は不 自然 だ とい う反論「 私信 一一野上弥生様 ヘ ーー」 ② を書 い て い た。 その 後、平塚 らい て うや 山田わか な どに よって 「 堕胎 論争」 がお き、著 名 な 「 母性保 護論争」 の導火 線 となった。191o年代 には、男性 中心 の 言論界で も性 ・ 生 殖が論 じられた ③ が、 『 青轄』 誌上 の 論争 は、 女性達が 自分 の 直面 して い る課題 で ある 「 女性 に とって の性 ・生殖」関 して、 自分達の言論空 間 の 中 で 論 じる とい う、 画期 的 な事 態 と なった。 日本で最初 に避妊を主張 したのは、社 会主義 者、堺 利彦 で あ る (1904《明治 37》年)。海外 で産児制限運動 は優生学 と結 びつい てぃた ④、 第 1次 大戦後、 戦後不況 と多産 とに悩 まされ、従来は消 極姿勢 を見せていた社会主義者 も産児調 節 に関心 を示 す ようにな り、1922(大 正 11)年 のマーガレッ ト ・サ ンガー・ の来 日 を機 に産児調節運動が再び活発化 した。 石本静枝 (のちの加藤 シヅエ)ゃ 、批判 の形 をとって産児調節法 を国内に紹介す ることになる山本宣 治 ⑤ が通訳 を し、 思想の普及をはかった。 また、1922年の治安警察法 の改正によ る女性 の政治集会参加解禁以 降、婦人参 政権獲得要求運動 で知 られる 「 新婦人協 会」が、「 花柳病男 子結婚制限法制定」 をも求めて運動 した。欧米での優生運動 の隆盛 と呼応 してい るが、この時の平塚 3。 昭和 前期 (戦前 ・戦中) 1930(昭 和5)年 、優生学 の人口の質 的側面か ら産児調節 を進めようとした民 族衛生学会 (理事長 永 井潜)が 設立 さ れた。科学者だけでな く政治家 の参加や 3分の1を上 回る女性の参加があった 0。 理事長 の永井は、アメ リカでの犯罪者の 増加やイギ リスでの精神異常者 の増加 を 見て逆淘汰 (優れた者 は子孫 を多 く残 さ ず、「 劣 った者」が 「 劣 った」子孫 を多 く殖やす こ とで、「 優者生存 とい う淘汰」 の逆転が生 じるとい う観念)を 憂 い、 日 本民族衛生学会 を1935(昭 和 10)年 日本 民族衛生協会に再編する中で、 精神病者 ・ 犯罪者などの断種法の制定をかか げた。 1934年以 来5回 「 民族優生 法案」が帝国 議会に上程 された。1932年には、大 日本 医師会 は、「 遺伝 の濃厚 な疾患 につ い て 断種 の法的規制を」 と支援 した。断種法 に対 しては、科学的根拠が不十分だとい う批判や、先祖祭祀の必要性 ・大和民族 の繁栄 に反す る等 の批判 を受け5度審議 未了 となったが、1939(昭 和 14)年 に衆 議院は通過 してお り、翌1940(昭 和15) 年に内閣提出法案 の 「国民優生法」が成 立 した ③。1938(昭 和13)年 設置 の厚 生省 には既 に優生課が置かれ、内務省社 会局時代か ら、官僚 もこうした法律の導 入 を研 究 していた。 本法 ハ悪質ナル遺伝性 疾患 ノ素質 ヲ有 スル者 ノ増力,ヲ防過 スル ト共 二健全 ナ ル素質 ヲ有 スル者 ノ増加 ヲ計 り以 テ国 らいて うは、男性が罹患 した性感染症 を 民素質 ノ向上 ヲ期 スル コ トラロ的 トス 「(既婚)女 性 の性」へ の脅威 として捉 え ( 第1 条 ) ―-20-― アジア女性研究第16号 (2007.3) ー 他 方 1930(昭 和 5)年 ドイ ツの グ レ フェ ンベ ル グの子宮内 リ ング、1932年の 政策へ の取 り組 みに関 して、女性有識者 の多 くは戦 争 へ の傾斜 を憂慮 しつつ も、 大 田典ネLに よる太 田 リ ングな│ど避妊方法 が 開発 され、1931年オギノ式受胎調節が 常 に男性 。夫 ・長男 の あ とに回 されて き た女性 ・母 ・産前産後 の幼子 の保護 に光 発表 されて い た。1930年、愛児女性協会 が 当 て られた ことに魅 せ られ、審議会 な (奥むめお、金子 しげ り等 )が 産児制 限 相談所 を東京 に開設 、大阪 に も産児制限 どに協力 して いつた。 厚 生 省設 立 日前 の1937年12月、石本 の 相談所 が出来、各地 に波及 したが、大阪 府警察部 や警視庁 による取 り締 ま りも行 産児制 限相談所 は 「人民戦線事件」 で家 有害避妊 われた。1931年には内務省が 「 ー ペ 器具取締 規制」 を施行 し、 ツサ リ を た。翌 年 1月 に彼 女 は産 児制 限相 談所 を 閉鎖、他 の 産 児 調 節 へ の 弾 圧 も厳 し く 取 り締 ま り始 めた。 同年、 日本産児調節 婦人雑誌 に対す る取 な った。内務省 は 「 石本静枝等)、 連盟が結成 され (馬島fnl、 分裂後 に平塚等 も加盟 した。 また無産者 り締 ま り方針」 を出 し、避妊 に関す る情 報 の掲載 を困難 とした。1940(昭 和 15) 産児制 限同盟 も設 立 され、「ブ ル ジ ョア 的産児制限運動」 に反対 の立 場 を表明 し 年 か らは、 国民優 生法 を受 け、厚 生省 が 優 生保 護 を実 施 す る こ とが 明確 とな っ た。1932年7月、 産児 制 限普 及会 (安部 た。 宅捜索 を受 け、彼女 は警察署 に連行 され 磯雄)の 提唱 によ り、堕胎法改正期成連 1941(昭 和 16)年 4月 厚 生 省 は 「人 口 盟が結成 された。平塚、奥 むめお等、必 政策確立要綱」 を提 出 し、 閣議 で決定 さ れ た。 「東亜共和 圏 の建設 と発展 」 のた 要 な場合 に堕胎 を合法的に行 う権利 を得 るため の主張が 主だった。 1935年1月、産児調節 運動家 の 馬 島 が 堕胎 罪 で逮捕 され、懲役 8カ 月 の 判決 を 受 け た。 また女優 の志賀 暁子 も7月 に堕 胎罪 で告訴 され、懲役 2年、執行猶予3年 の 判 決 が 下 され た ゛。1936年に は避 妊 リ ングが有 害避妊器具 にされた。 1937年に、陸軍 の 「 健 兵政策」 の要請 を受 け、内務省社会局 の一 部 と衛 生局が 新省 として独 立 す ることになった。戦前 は、各省庁 の設置 は法律事項 でな く天皇 め 「1家族平均 5児 を目標」 とす る人口増 加策 を細 か く規定 し、「産 め よ殖 やせ よ」 と女性 に多産 に よる報国 ・戦争協力 を求 ・ めた。 r 翌1942(昭 和 17)年 、「妊 産婦 手 帳 」 制度 (現 母 子手帳)が 発足 した。戦時 中食糧不足 のなか手帳 を持 って い る と優 一 先 的に配給 される とい うアメ と、 旦妊 娠が判 明 し手帳 を受 け た場合 、流産 した な ら自然流産か違法 な人工妊娠 中絶 か、 厳 しく監視 され る とい うムチが セ ッ トに 化対策 を目的 とす る母子保護法 が制定 さ なった システ ム だった。 しか し戦争 の帰 趨 が決 まった ミッ ドウ ェー海戦以降、 日 ‐ 本 は消耗 し、避妊 ・中絶 は禁止 された ま まで も男女が物理的 に引 き離 される こと が増 え、内地 で も栄養不足 ・ス トレスに れて い た。 こ う した国家 による母性保護 よる戦 時無 月経 等 か ら、 出生 は減 じて の大権 に属 し、翌 年 か ら実施 される 「 厚 生 省設置官制」が発令 された。厚生省 の 主要任務 は、 性病)予 防、 伝染病 (結核 ・ 母性保護であ り、 1937年には母子栄養強 ,_ボ‐ 日本における政治とリプロダクティブ ・ライッ (岩本) い った。 男 性 か らの暴 行 に よる 「望 まぬ 妊娠」、 敗戦後 の貧困か らの売春 による 「 望 まぬ 植民地 ・占領地の女性 を犠 牲 に した戦 時 「 慰安所」制度 に関 しては、 政策決定 の過程 は今 もつ まび らかでは ないが、 女 妊娠 」、 愛す る配偶 者 との 間 で は あ って も食糧 難 の 中での 「 望 まぬ 妊娠 」 な ど、 人工妊娠 中絶 を求める声 は高 く、宗教 的 性が決定 に関与 した とい う情報 はない。 「慰安 所」 を設 置 した側 は コ ン ドー ムの 禁忌 の な い 日本 では法的秩 序 の混乱 は、 使用 を奨励 して い たが、物 資不足 もあ り 医師や助産婦、 さらに無資格 者 によるに 徹底 して い なか った。性 の 自由を奪 われ よる人工妊 娠 中絶 を多 くもた らした。 て い た女性達か らは生殖 の コ ン トロー ル 1946(昭 和 21)年 には 占領軍司令部公 権 も奪 われてい た。「どの 日本 兵 が手 ま 共衛生福祉 部が、人 口増加 防止 のための 産児制 限 を奨 めた。8月 には厚 生省 人 口 せ たのか分か らない」妊婦 は、 出産 一一 戦場 で ど うゃ って 育 て る とい うの か ? 一一、故郷 に 帰す ―一彼女達が受 け入 れ られる保障は全 くなかった 一―、原 始的 政策 委員会 が、 「産 むな殖 や す な」運 動 を提唱 した。法律 は転換 して い ない のに、 行 政 の 方針 が180度変 わ ったの で あ る。 しか し食糧難の 中 のベ ビー ブー ム対 策 と い う以上 の、女性 の多産 ・頻産へ の 配慮 な方法 での堕胎、転戦時の放置 ―一 日本 軍 関係者 として敵視 され る中に放 り出す ―一、「 処分」す る等多様 な帰趨 をた どっ た と思 われるが、付属 して い る部隊 の幹 が あ つた とは思 えな い。 同年4月 の 女性 参政権が 実現 した戦後初 の衆議院議 員総 部 に決定権があ り、女性側 の主 張が通 る 選挙 に産児調節運 動 関係者 で 当選 したの 余地 はなか ったで あ ろ う。「 慰安 所 」 は が、 東京 の加藤、北 海道 の新妻伊都子で 日本軍 による各地 での 強姦 を減 らすため あ った6太 田は京都 で産児制限連盟 を結 成 した。 加 藤 が 『 産児 制 限 と婦 人 』 l121 を出版す る な ど、産児調節の言説 に制限 がな く rなった。 で あった と弁明 されること もあるが、 効 果があった証拠 は ない。 4.昭 和後期 (戦後) 1947年、厚生省人口問題研究所 は産児 敗戦時、旧満州 を中心 に、 日本人女性 制 限実 態調査 結果 を発 表 した。7月 に産 が性的暴 行 を受けた例 は少 な くない。「ど 児制限普 及会 (加藤)の 発足 等、各地で 産児制限普及運動が始 まった。 衆議院議 の外 国人が手 ませたのか分か らない」妊 婦 が集団で 自己堕胎 し、 す ぐに移動 した ために命 を落 とした例 °νや、 博多、門司、 佐世保等の引 き揚 げ港 に密か に堕胎施設 が 設 け られた にDと い う ことが伝 え られ て い る。 途中か らは厚生省引揚援護局が 員 に選 出 された太 田 (医師)、加藤、福 田 昌子 (医師)が 中心 になって、「 優生 保護法案 」 (社会党 案)を 提 出 した。 医 師 による避妊 と人工妊娠 中絶 を合 法化す ることに重点 を置 い た。 中絶 の要件 には 絡 んでい たはず だが、 その決定や実 施 の 母体 の 生 命 に加 え健 康 の 危 険 が あ げ ら 過程 もきちん と記録 されて い ない。 れ、 さらに 「 子孫 に悪 い影響」 の あ る と 「 性 r 互予 ∫ 了 〆 了 統 縫 墨 ]好 きや、 強姦 の場合 の規定 も加 え られて い た。 GHQで ―-22-― は、 占領終結 ・帰 国後 の大 ア ジア女性研 究第1 6 号 ( 2 0 0 7 . 3 ) 統 領 選挙 立候 補 を望 んで い た マ ッカ ー サ ーが、米国内 カソリック女性 の世論 に 配慮 して決断 を下せず難航 し、 同法案 は にの 。 審議未了廃案 となった が、優 生手術 の適用 として追加 された。 谷 口達 は、 「女性 の幸福 を我 々 医師 が 守 る」 とい う、家父長主義的な態度 を隠 さ なか った。 加藤 は、 「お 医者 さん出身 の l151と 、主導権 を 議 員 が非常 に多 くて」 翌1948年、太田議員 に、産婦 人科 医団 体 の リー ダー谷 口弥三郎参議 院議員達か 奪 われた こ とを こぼ して い る。 さらに翌 ら、参議 院か ら法案 を提 出 した いか ら、 1949(昭 和 24)年 の法改正 で、 経 済的理 まかせ てほ しい との交 渉 があった。太 田 達 の原案 に避妊 ・中絶 の機会 を狭 め、 指 由に よる妊娠 中絶が認め られた。 定 医 師 の 権 限が 強 まる よ う に修 正 が加 わった 一一この うち中絶 に も優 生保 護委 員会 の審議 を必要 とした点 は、1952年に、 こ う した委員会 にかか る ことを恥 じて非 合法 中絶 を受 ける女性が減 らない ところ か ら、削除 される ことになる 一―。1948 年 の法案 の下書 きに は、 参議 院厚 生 専 門 調査委員 中原武夫 があたった とされる。 占領終了後 の1954(昭 和39)年 、 マ ー ガ レッ ト ・サ ンガーが再来 日し、参議 院 厚 生 委員会 で 「人口問題 の解決 に受胎調 節 をJと 、 中絶が避妊 に先行 して い る 日 本 の現状 を批 判 した。彼女 の指導 によ り 日本家族計画連盟が発足 し、大会 も開催 された。 さらに 日本家族計画普及会 (後 の家族計画協会)も 発足 し、広報活動 に 乗 り出 した。8月 には厚 生 省 人 口 問題 審 福 田 (同)、 衆議 院か らは太 田 (社会党)、 大原博 夫 (協同党 ・医師)、柳 原亨 (日 議会が、人 口対策 として家族計画 を強力 本民 主 自由党 。医師)、加藤 (社会党)、 武 田キ ヨ (看護協会 0日本民 主 自由党)、 た。翌1955年10月、世界家族計画連盟主 催 。日本家族計画連盟共催 の、第 5回 国 参議 院 は、谷 回 (日本民 主 自由党)、竹 中七 郎 (同 ・医師)、中山寿彦 (同)、藤 森真治 (緑風会 ・医師)と 超党派 の議員 際家 族 計 画 会 議 が東 京 で 開催 され た。 1955年には、届 け出 の あ った年 間人工 妊 に よって 衆参 同時提 出、「国民優 生 法」 の改正案 として原案通 り可決 された。 この法律 は、優生上の見地か ら不良な に推 進 す る よ う政府 に意 見 書 を提 出 し 娠 中絶件 数が117万件 に上 ったが、 国策 としての家族計画推進 の 中で、 この数字 を天丼 と して今 日に至 る減 少 に 向 か っ た。 同年、 日本 にお い て、 ビルの 臨床試 子孫 の出生を防止するとともに、母性 験が開始 された。 の生命健康 を保護することを目的とす 1960(昭 和 35)年 アメ リカで経 口避妊 薬 ピルが解禁 された こと もあ り、月経 困 る (第1条 )。 戦後 の優 生保 護法 は、 戦前 の 国民優生 難治療 目的 のホルモ ン剤が 日本 で も避妊 法 よ りもさらに「 優 生思 想」が色濃 くな っ 目的で使 われ始 めた。1962年、製薬会社 が厚生省 に避 妊薬 としての ビルの製造許 たことが、松原洋子 によって 明 らかにさ れて い る °°。 国民優 生 法 にはなか った ということばが導入され、 が不良な子孫」 同じく国民優生法にはなかった 「らい疾 患」と遺伝性ではない精神病 ・精神薄弱 可 申請 を した。1964年、池 田勇人内閣 の 堕胎天 国 の汚名 を 小林武治厚生大 臣 は 「 な くした い」 と発言 した。1965年佐藤栄 作 内閣 の 下、2月 に ビル 認可 を前提 と し ―-23-― 日本における政治とリプロダクテ ィブ ・ライツ (岩本) た新 医薬品特別部会 の審議会が 開かれる 動 きが出ていた。1969年には、厚生省 人 予 定 で あ った が、 突 如 中止 に な っ た。 日問題審 議会 の 中間答 申が、人口の先細 1967(昭 和42)年 、厚 生省 は副作用 を理 由に ビル の製造認可 を行 わない決定 を し りをふせ ぐために出生力 の 回復が必要、 政府 はそのための社会 開発 を強力 に推進 た。実際 の理 由、過程 は明 らかでは な い。 せ よ、 と述 べ た。197o年には、 日経連が 「佐藤 首相 の 寛子夫人 の差 し金 だ」 とぃ 「 雇用政 策研 究会 報告」 を発 表 し、 「 技能 う風 評 もあるが、女性 の責 に帰 した方が 角が立 たない とい う判断で恣 意的に流 さ 労働力 不足 に対す る政府 の対策」 の一 つ と して優 生 保 護 法 改訂 (「 経 済 的理 由」 の削除)を あげた。女性 の心 身 の負担増 は一顧 もされなか った。 1969年∼74年の 国会 にお ける大 臣や委 員 の改正支 持 の発言 は、 多 くは国力 もす でに十分 となった とか、 労働力補 強 の必 れた もの か も知れない。 当時 の 関係者の 証言 を聴 くのは既 に難 しい。 中央薬 事審 議会 の議事が 明 らか となるの は、1996年 の薬害 エ イズ事件 の認定以 降である (そ れ以 前 の ものは公 開 されない)。 1966(昭 和41)年 、 丙午歳 とい うこと で、 第 2次 ベ ビー ブー ムの最 中、合 計特 殊 出生 率が1.58にまで下が った 一一避妊 要性 を述 べ て い て、 まれに性道徳 の退廃 に触 れた者 も居 た。公 明党 の柏原ヤ ス は、 1970年4月14日参 議 院社 会労働 委員 会 で 母子保 護 の充実 との 引 き替 えで改訂支 持 方法が な く中絶が違 法 だった19o6(明 治 39)年 には出生 は減 ってい ない 一一。 当 時 のサ リ ドマ イ ド禍 へ の懸念か ら中絶 を 選 んだ女性 も少 な くない と思 われ る。事 を表 明 したが、 F生長 の家」 か らの優 生 保護法 改訂へ のプ ッシュが判明 し、公 明 党 は改訂反対 に回ることに なった。 経済界 ・経済的観点か らの要請 とは別 に、下 部 の政治色の濃 い宗教界か ら、「 優 実英国ではこの 問題 もあって、1967年に、 1930年代 の優 生 学 とは異 な る ロ ジ ック で、西欧で初 めて女性 の請求 による人工 生 保護法か ら経済的理 由 の 中絶 の削除」 妊娠 中絶 を認める法改正 に踏み切 った。 ところです でに1965年には、 一 部 の経 済学者か ら 「 単 なる経済的理 由の 中絶 は の 刑法 定める正 当な業務行為 の理念 か ら を求 める声 が上が った。1967年 「 生長の 家」 が 呼 びか け、「 優 生 保 護法改 廃期成 同盟」が結成 された。1969年には 「 生長 の家政治連 合 (生政連 )国 会議 員連盟」 はみ だすおそれが あ る」 と して、 「経済 が 結成 され た。「生 長 の家」 は1930年設 的理 由を削 除すべ きだ」 とぃ ぅ改正 案が 立 の 国家 主 義 の 強 い神 道 系 の 宗 教 団体 で、 憲法改正 と優 生 保 護法廃上 を2大 目 ヽ 息整戴 λ、 言乗電 貫 警 員 ξi曇 裏 ヒIP 標 としてい た。参院選 では、玉 置和 郎、 た。 日本では西欧のような旧植民地か ら 村上正 邦 を 「 生 長 の家」推 薦 の 自由民主 の移民で もな く、北欧のような女性労働 力 の活用で もな く、 まだ農村 にあった余 剰労働力 を都市に移 して対応 していたが 党 公 認候 補 と して 国会 に送 り出 して い た8玉 置 は1972(昭 和47)年 国会で 「 生 それだけでは不十分で、優生保 護法 の改 命尊重」 の観点か らの優生保護法改正 を 主 張 した l161。 正によ り出生行動 を変化 させ ようとし う ,ヽ 同国会5月30日、衆 議 院社 会労働 委員 ―-24-― アジア女性研 究第16号 (2007.3) に回 らせ た こと も大 き く作用 した。 会 で斉藤昇厚 生大 臣が、 国民 の生 活水準 の 向上、診断技術 の 向上 よ り胎児 の心 身 に重度 の障害 を出生前 に診断す る ことが 女性議員 が全 て改訂反対 に回った わけ ではない。23日 には土井 たか子 も反対 の 可能 となった こと、最近高年齢初産 が問 題 となって きた ことを理由に、①第14条 経済 的理由」 の削除、 1項 4号 か らの 「 ②胎児 の障害 を理由 とした中絶 の許可、 ③優 生相談所で初回分娩 が適正な年齢 に おいて行なわれるように助言及 び指導す る、 とい う内容 の政府提案 を説明 した。 地域婦人会、婦人有権者同盟か ら労働 ー 組合婦 人部、そ してウ マ ンリブにいた る女性団体 は これに猛烈に反発 し、同法 案 は審議未 了廃案 となったが、1973年7 月 にも同 じ法案が国会に提出 された。 ま たも審議切れ になる ところを、橋本龍太 郎厚 生 委員 長代理 が 閉会 中審査 を申 し 出、 自民党 の賛成 で継続審査 となった。 この 間、1973年5月14日、神奈 川 「青 い 芝 の会」 (脳性 マ ヒ者 の 団体)を 主体 に 東京 0茨 城 ・栃木 の会員約50名が、署名 (1万 余)を もって 国会 に法案反対 の請 願 を行 い、代表8名が厚生省 で精神衛 生 局長以下数名に詰問 した。同会 の車 いす によるデモ ンス トレー シヨンは鮮烈 な印 象 を与 え、衆議 院社会労働委 員会 での 23日の集中審議 の後盤、 1974年5月22日・ 自民党の山下徳夫が② を削る修正案 を出 す にいたった。 自民党以外 の反対 (金子 みつ :社会党 ・ 田中美智子 :共 産党 0坂 口力 :公 明党 0 和田耕作 :民社党)の 討論 を終え、 この 修正案が衆議院委員会 0本 会議 を通過 し 討 論 を したが、 民社 党 の 中沢伊 登 子 は 1973年4月24日 「障害 児 を産 ませ な い 」 観点 か ら改訂支持 を表明 した。 また、改 訂反対 の女性 団体 と障が い者 団体 の 間 に は、「青 い 芝 の 会」 か らの、 母親 に よる 障 が い児殺 人 の事件 で刑罰 を軽 くせ よと い う世論 があるが、 この母親 ・女性 こそ 第 1の障が い児差別者 だ とい う問題提 起 や、「 優 生保 護法改 悪反対 は、優 生保 護 法 の差別性 の温存 を認 めて い る」 と女性 団体 へ の厳 しい批判があ り、連携 は容易 ゛つ 。 ではなか った 懲 1975年の刑法改 正案 では堕胎罪 は 「 0。 った とな 役 1年 また は罰金5万 円」 この改 正案 は今 日も実現 され て い ない。 それ よ りも当時 の法制審議 会刑事法部会 に女性 が1人 も居 なか った とい う こ とが 特筆 され るべ きだ。 また1976年、参議 院 ・ 議員 の下村泰 (コロム ビア トップ)の 発 言 を きっか け に妊娠7カ 月 まで可能 と 。され て い た優生保護法 上の人工妊娠 中絶 の期 間 一一厚 生事務次官 通知 による :女 一一 性議員 を含 む国会 は関与 して い ない が、6カ月 までに1カ月短縮 された。 1982(昭 和 57)∼ 83(58)年 には、再 経済的理 由」 の削 生長 の家」 か ら 「 度 「 除 が提 起 され た。1982年3月 15日参議 院 予算委員 会 で村 上が この趣 旨で質問 し、 当時 の森下元晴厚 生大 臣か ら前 向 きの答 子が社会労働委員長で もあ り、会期切れ 廃案 とした。5月23日の修 正が、それ ま 弁 を引 き出 した。玉置 の質問 には、鈴木 善幸首相 が 「国民的 な コンセ ンサ スが得 一 られ ます よ うにさらに 層努力 を重 ねて い きた い」 と答弁 して い る。前 回政府提 で改訂 を支持 して きた 日本医師会 を反対 案 とい う試 みが頓挫 した ので、 今 回 は各 た。 しか し参議院では社会党 の田中寿美 ―-25-― F本における政治とリプロダクティブ.ライツ (岩 本) 地方議会か ら改訂推進決議を上 げさせ、 1982年11月末、 鈴木内 閣 は急遠 中曾根 康弘内 閣に替 わった。 中曾根 は 「 不沈 空 それによって国会 を動かそ うとぃ う戦術 が取 られた。医師会は明白に反対、女性 団体 もウーマ ンリブか ら婦人会 まで、 と 母」「3海 峡封鎖 」発 言 な どタカ派的 で、 改悪反対派 は 「 憲法 改悪 と優生保護法改 くに国際婦人年連絡 会 とい う会員400万 人規模 の団体が動 き、カソ リック系 と「 生 悪がセ ッ トで ゃっ て くる」 と緊張 を高め たoし か し 「田 中曽根 内閣」 と陰口 され た田 中角栄元 首相 の 強 い影響 力 の下 に あ り、特 に厚生大 臣は後 の 田 中に反 す る竹 下登 の旗揚 げ (経世会 )以 降 も少 数 の 「田 中 =三 階堂 派」 に残 ることに なる腹心 の 林義 郎が当て られた。森下大 臣の発言 と の 「 行政の継続性 」 に言及 しつつ、厚生 長の家」婦人部を除 く全てが反対 に回っ たと言って良 い。 しか し地方議会は98.9%が男性議員 で 占め られ、 「 豊かになった現在の 日本社 会 で、産んで育 て られ ない とい う 『 経済 的理由』 は不要、む しろ若者の性の乱れ の元凶である」 と言 った 「 生長 の家」側 省 の答弁 は 「国民 の コンセ ンサス を得 て い きた い 」 と繰 り返 す ばか りだ った 。 1983年2月 「生 命 尊重 議員連盟 」 が立 ち か らの意見書 に説得 され、改訂が女性の 人権 を脅かす とい うことが なかなか理解 され なかった。1982年9月議会以 後、12 上 げ られ改訂推進 をデモ ンス トレー トし たが、反対派 も森 山真 弓参議 院議 員 を中 心 に ゆ①「母性 保 護 議員 連盟 」 を作 って 月議会、1983年3月議会 は、改 訂推進 派 と改悪反対派 との意見書合戦の様相 を呈 し、 また国会へ の請願署名 も双方 で集め られた。 ゥーマ ンリブ系 の団体 と、女性 も台頭 して きた障が い者団体の間では、 優生保護法 の障が い者 に対する差別性 を 認めつつ 「 改悪 されれば一層優生 目的に 沿 う法律 になるので、 これに反対する」 と、「 大 同 につ く」試み も進んだ。署名 対抗 した。4月の統 一 地方 選の 中で 自民 党では優生保護法 関係の地方議会決議へ の 関与が禁 じられ、6月の参議院選挙 を 前に自民党社 会部会 の中に優生保護法問 題等見 当小 委員会が設置 され、 5月に 「 改 訂 は時期尚早」 と、女性票 を逃 さない よ う棚上 げされた 。D。 用紙は何通 りかあったが、経 済的に育て られ ないケース は消滅 していない、 国連 58平 成時代 私は元号は時期区分 として有効 と限 ら な い と考 えて い るが、人工 妊娠 中絶が 1970年代 080年代前半のように国論を分 けるような政治対決イッシューでぁった 時 と、1989(昭 和64・平成元)年 以 降の 静かな決定による生殖 に関する自由の伸 び縮みは、異質に思われる。 第1は、1989年末、厚生大 臣か ら公 衆 で も産 む産 まないに関する女性の決定権 が認め られてい ることの他、戦前 の子沢 山やヤ ミ中絶の悲劇 を繰 り返すなとい う 「 被害者的側 面Jに 加 え、女性の非常 に 少ない国会や公衆衛生審議会優生保 護部 会で女性の権利 を決定するのはおか しぃ とい う、「女性 の主権者 としての側面」 か らの批判 も大 きな声 となった。国会 で は蓑輪幸代 (共産党)が 鈴木内閣に対 し 反対の立場から質問をした Q?。 衛生審議会優生保護部会に、優生保護法 で認め られる人工妊娠 中絶 の時期 に関す ―-26-― アジア女性研究第16号 (2007.3) る第 2条 の 「 胎児 が、母体外 にお い て、 生命 を保続で きない時期」 に関す る検討 が諮問 された ことで あ る。1982年に同部 会 メ ンバ ー13人 中女性 が1人 だ った こ と とを知 った の は、 導入 以後 で あ った。 1989年7月 参議 院議員選挙 での 自民 党 の ー ・ 消費税 ・リクル ト事件 敗北原因 は、 「 農産物輸入」 だ と言われ る。それ でな く は14人 中4人 が女性 だ った。1976年の妊 て も出費 の多 い 出産時 に、診療 費 に3% 産 の消費税 が課 され た ことは、 女性 の 「 娠6カ 月以 内 とい う事務 次官通達 は、週 数 に直す と満 24週未満 だったが、新生児 む性 」 を 「 私事 として の消費」 だ と政府 が軽視 して い る と思われ、女性 達 の怒 り 界保健機 関)「周 医療 の発展 やWHO(世 産期」 の定義変更 (週数 が若 い方 に繰 り を買 った。 が批半Jされ た教謝1もあ ってか、 この とき 下げ)に 合 わせ る との趣 旨で、 満22週未 満 (21週と6日 まで)へ の短縮 の答 申が、 3時間 の審議 で決 まった。翌 1990年3月 に これに沿 って事務次官通達 が改訂 され、 1991年年頭 か ら実施 された。 リプ ロ ダ クテ イブ 0ラ イ ツ に敏 感 な 選挙 後 に発 足 した海 部俊樹 内 閣 は、 さっそ く消費税制改 正 に取 り組 んだ。参 議 院が与野党逆転 して い たため、出産関 連費用 ・家賃 ・埋 葬料 ・入学金 を非課税 とす る こ とは、1991年5月 に議 員 立法 で 決定 された。同年 10月に改正が実施 され ウァマ ン リブ系 の女性達 は、 中期 中絶 を たが、出産関連費用 の範囲 は、法案可決 以降、国税庁 と厚 生省 の官僚 間 の協議 で 必要 とす るのは主 として性知識 の不足 し て い る10代や月経が不安定 になって いる 助産 決 まった。改 正消費税法 にお け る 「 に関 わる資産譲渡」 の範 囲 は、通達以下 更年期前 の 女性 で あ り、2週 間 の 短縮 で あ って も女性 の選 ぶ権利 が狭 め られ、か の行政 マ ニ ュ アルによつて、 出産 に関わ る診療費 を含 むが、不妊手術 。人工妊娠 中絶 ・生殖補助医療費 を含 まない ことが つ合法 中絶 か刑法堕胎罪 の適用 となるか の線引 きが 「 行政通達」 によって行 われ 立 法」 ることは、 何 が犯罪 に当たるか を 「 =法 律 のみが規定 しうる とい う 「 罪刑法 定 主 義」 の原則 に反す る と批 判 した。 し か し、中絶す る ことが 決 まって い て も胎 赤 ちゃん」 と表現す る 児を 「 子 ども」。「 ことに抵抗 が な い 日本 1221で は、厳格 な 線引 きや違反者 の処罰 な どない だろ う と い う楽観 1231を 伴 ぃ、 多 くの女性 が抗議 の声 を上 げ るにはい た らなか った。 第2に1988(昭 和 63)年 に翌 年4月か ら 導入が決 まった消費税 は、その時点で 自 由診 療 に も課 され る こ とにな って い た が、 大半 の女性 がそれが出産 ・避妊 0人 工 妊娠 中絶 ・生 殖補助医療等 にかか るこ 定 め られた。 .第 3は、1992年4月か ら経 口避妊薬 の低 用量 ピルの解禁 が確 実視 されて い たが、 直前 に厚生省 の 中央薬事 審議会 で認可 に な らな い とされた こ とであ る。 「ピルが ー 解禁 され る とコン ド ムの使用 が減 り、 防 に反す るゆえ」等 と報 道が なされ たが、議事 は既述 の よ うに非 公 開 で、本 当 の理 由 ・過程 は現在 も分 か それはHIV予 らない。 なお同時期 に 日本 を除 くほ とん どの 国 で低容量 ビルが合法 だったが、 H IV予 防 を理 由 に使用禁 上 に転 じた国は ない。 以上の事態 に対 し 「産 む産 まない に関 す る当事者 の決定権」 が拡 げ られた こと 日本 にお ける政 治 とリプロダクテ ィブ ・ライツ (岩本) もあった。 リプ ロ ダクテ ィブ ・ライツ を 大 きく打 ち出 した1994年の 国連 カ イ ロ人 さらに女性 委員達 は、政府が 女性 に「産 め」 と命 じた り逆 に 「 産 むな」 と命 じた りす る際 に、 また 「母 にあ らざる者 は女 国会議、1995年の 国連北 京女性 会議 にお い て、骨形成不全 の安積遊 歩が 日本 に 未 だ優生保 護法があって病者 ・障が い者か ら産 む権利 を奪 ってぃ ることを批 判す る 公の発言行 った ゛の。その翌1996年の4月 、 3月 に 内閣提 案 で成立 した 「らい予 防法 の廃上 に関す る法律」 によって優生保 護 にあ らず」 とぃ ぅ レッテル張 りに使 われ て きた 「 母性保 護」 とい う名称が、新法 の名称 に なることに強 く反発 した。 与党 理 事達 と厚生省 の レベ ルで 当然の もの と されてい た 「 母性保 護法」 とい う名称 を 除 くために血 のに じむ よ うな交 渉が行 わ 法 にお け るハ ンセ ン病 条項 が 削 除 され れ、 「 母体」保護 法 とい う1字違 い の名称 た。 さらに同年の通常国会期末 に、優 生 が勝 ち取 られた。 保護法か ら他 の優生条項 も削 除 されるこ この法律は、不妊手術及 び人工妊娠中 絶 に関す る事項 を定めること等 によ とに な り、議 員提案の 「 優生保 護法の一 部 を改正 す る法律 」 が6月14日 015日 に 衆議院 ・参議院の厚生 委員会 ・本会議 を ス ピニ ド通過 し、 名称 も 「母体保 護法」 に変更 された。 ハ ンセ ン病患者、優 生 保 り、母性の生命健康 を保護することを 目的とする (第1条 )。 1999(平 成11)年 6月、 厚 生 省 中央 薬 事審議会が199o年以 来 の長期 審議 となっ てい た低容量 ピル をよ うゃ く認可 した。 護法 に よって 遺伝 病 と され た 病気 の 患 者、精 神疾患患 者 に とって は、 それ まで これ にはバ イァグ ラとい う男性 の性機能 の権利制限の解 除 となったが、既 に なさ れた不妊手術 。中絶 へ の補償が まだ政治 アジェ ンダに上 ってぃ ない こ とを忘 れて は な らない けD。 但 しこのス ピー ド成立 に関 しては 、 中 絶反対派か ら 「そ もそ も論 」 を出 させ な い ために、 与野党 と政府 との討論 の 機会 治療薬が海外 で販売 され個人輸入 して い た 日本 在住の男性 が 1人 誤服用 で死亡 し たのを きっか けに、 半年のス ピー ド審議 で認可 されたの に対 し、ビル は9年 かかっ て も」 認可 され な い とい う こ とを、2月 の 日新 毎 聞が 「 男性 の性 と女性 の性 に対 す る政府 の二重基 準」 と批判 し他紙 も続 い が生 じる 内閣提 出法案 で な く、1人の 討 論 も入 れない 「 委員長提 案」 の議員立 法 とい う形式 を、衆参厚生 委員会の与党 (自 民 ・社民 ・さきが け)の 理事が巧妙 に選 択 した節がある。 同 じ与党 に属す る厚生 委員 の女性議 員達 に さえ、 直前 まで情報 が一切漏れなかった。リプ ロ ダクテ ィブ ・ ライツに関心 を持 つ 女性 議員達 は 「 討論 =民 主主 義 な しの 法改正 」 に怒 り、参 議 院本 会議の裁決時 に退席 して抗議 した者 もい た。 た こ とが大 き く影響 した。 .こ うした論陣 が張れる女性 ジ ャー ナ リス トが 育 ってい たので ある。 また女性 国会 議員有志 も、 厚生省 に対 し、低容量 ピル の早期解 禁 を 求める 申 し入 れ を行 った。 こ ぅして同年 9月、 国連加 盟 国 で 最後 の ビル解禁 が 行 われた。 産 まないこ とを選 ぶ」ためには、安価 。 「 安全 ・確実 ・入手 しや す く 0可 逆的な避 妊手段 が必 要 で ある。処 方箋が必 要で 自 由診療扱 い 一―保険が効 かず価格が 高止 ―-28-― アジア女性研究第16号 (2007.3) 産 まりしやす い 一一の認可 では、十全 な「 まない権利 の保障」 とは言 い に くい。 た だ、解禁後8年た った今 日で も日本 では 母体保護法 は、 国際水準 の リプ ロ ダク テイブ 0ラ イツの水準 を満た してい ない 避妊手段 として ピルが余 り好 まれていな い。そ こには、「政治」 よ りも広 い、心 ° ③ 歴史の問題 も存在 してい る 理や文化 ・ 各都道府県、各市町村 で男女共同参画 ・ 計画や条例 を作 る際、リプロダクテイブ ライツにどう言及す るかは、個 々の首長 と思われる。 で は現在、 日本 における リプ ロ ダク テイブ 0ラ イツの現状 はどうか。1999年 の判断や議会に男女共同参画反対 の うる さ型が い るか どうか等、かな り偶発的 な 要素 に左右 されてい る。なお現在県知事 に男女共同参画社会基本法 が政府提案 に 新 しい よって全会 一致 で成 立 した後、「 は5名が女性 だが、約1800名い る市 町村 長 の うち女性 は約20人であ り、女性地方 歴史教科書 を作 る会」等が、歴史認識問 題 と平行 して男女共同参画政策へ の反対 に強 く動 き、 い わゆる 「ジ ェ ンダー フ 1271が 起 こった。基 リー ・バ ッシ ング」 議員比率 は約8%で あ る。圧倒的に男性 が多 い首長 と、かな り男性 が多 い議会 と が男女共 同参画条例 や計画 を定めて い 本法 で定 め られた都道府県 における男女 ー ヒ 共 同参画計画制定 は政治 イ ッシユ イ ・ し、「 伝統的 な男 らしさ 女 らしさを否 ー0 ー 定す る」もの として、ジェンダ フリ バ ッシャー達が批判 の矢 を向けてい る。 実 はリプ ロダクテイブ ・ライツも男女共 一 同参画反対派 の攻撃 の的の つ である。 狭義 の リプロダクテイブ ・ライツは、 妊娠す る しない、出産す る しない を、 「 妊娠 ・出産の当事者 であ る女性 自身が選 択 で きること」 である。 しか し優 生保護 法を受け継 いだ母体保護法 において も、 配偶者 の 人工妊娠中絶 を受ける場合 は 「 1281。 同意」を必要 としてい る これは、女性が妊娠 した際男女 で意見 が異 なると、「 女性 が産みた くて、男性 が産ませた くない」場合 は無理矢理中絶 女性 を受 けさせ られる ことは ないが、「 が産みた くな くて、男性が産 ませたい」 場合、「配偶者 の 同意」 が得 られず、法 律 を厳密 に解釈 し運用すれば 「出産する しかない」 ことになる。 したがって現行 のであ る。 る。国法 であ る男女共同参画社会基本法 に正面か ら対立す る条例 ・計画 は作 る こ とがで きないが、全ての政策領域 を必ず しも十分 カバ ー はしてい ない同法 の穴 を 拡大す るような条例 ・計画 も作 られてい る。 もちろん男性首長 と男性 の多 い議会 で も、 男女共同参画社会基本法 に上乗せ、 横 出 しをしてい る自治体 もあ るのだが。 旧総理府 の男女共同参画社会第 1次 基 平 成12》年)で は、 リプ 本計画 (2000《 0ラ ロダクテイブ イツとい う言葉 は用 い られて い るが、「生涯 を通 じた 女性 の健 康支援」へ と溶 か し込 まれていて、産む ことへ の支援 は多 く述べ られてい るが、 産 まない選択へ の支援 は言及 されてい な かった。2005(平 成 17)年 の内閣府男女 共同参画局 の第 2次 計画 になるともっ と 健 計画 のポイ ン ト」か らは 「 後退 した。「 康」 の文字 さえ落 とされ、本文では、 リ プロダクテイブ ・ライツの保障 は現行法 の範囲内 99と されてい る。 私 たちは、大 日本国憲法下 では言論 ・ 法律 の範囲 結社 0思 想 ・信条の 自由が 「 ―-29-― 日本における政治とリプロダクティブ ・ライツ (岩本) 内」 で しか保障されなかったために、国 法を超 える真 の権利 ではなかったこと、 引 い て産 まれ なか った こ とに して きた と 日本国憲法では 「 法律 の範囲内」 とい う 制約がな くな り、真の権利 として確 立 さ れたことを中学校で学んでいる。 日本で い う、 日本の文化風土 に根付 く 「あい ま い さ」が今 なお覆 いかぶ さっているよう に思われる。母親達は責任 を持って娘に は、 日本政府 の見解 によれば、 リプロダ クテイブ ・ライツは女性 の真 の権利では 避妊や中絶 の情報 を提供 しはない。法律 に関 して も、「 経済的理由」 を年収何百 な く、国家が認める範囲に限定 される も のである。そ して この権利 をここまで切 万円などと明確 にす ることは避けている し、ヤブをつつ いて 「 経済的理由の削除」 りつ めるように働 いた力が どこか ら来た のか、私はまだ明白に名指 しす ることが などとい う3匹 目のヘ ビをおび き出 した くないか ら、 日本の リプ ロダクティブ ・ で きない。 ライツは権利 とい うには制約 を受けてい るとい う問題に関 し、少数の活動家以外 おわりに は黙っている。 しか しこの 「日本的あい まい さ」は1い つ まで も緩衝材 なのだろ うか。真綿のように首を絞めるものに変 質する ことはないのだろ うか。 時代 まで、 赤 ん坊 が生 きて産 まれて も間 今 ではリプロダクティブ ・ライツと呼 ばれるこの領域 に関する政治的決定に関 して、戦後 においてさえ も女性の関与 の 不足や、数 々の謎 =「 公開されていない 2006年は、低 下 し続 けてきた出生率が 少 しばか り上 向いた。 そ こに 「中絶は殺 理由や過程」が存在することを理解 して 頂けたと思 う。他方、例 えば夫が子 ども を熱望 してい るのを知 っているけれ ども 人に等 しい」 とい う欧米のプロライフの セ リフと同 じではないが、産 まない選択 自分は出産 した くない妻が、妊娠 した際 そのことを夫に告げずに、 自分 と配偶者 の氏名 を書 き形の異 なる2つの印 の ある。 ︱llllllllローーーーーーーーーーーー■■■■■■ を妨げる国産の生命ネL賛的な権威的言説 が作用 してない と言 い切 れるの だろ う か。10代の婚姻 では8割、20代前半 の婚 姻 では5害Jが 「で きちゃった婚 Jだ 。生 「同意書」 を産婦人科医に提 出 して中絶 手術 を受けたとしても、現在 の警察や検 物 として出産 したか らと言 って、子 ども をは ぐくむ母 の役割 を果 たせるとは限 ら ず、パ ー トナーが出産 したか らと言 って 察が 「 堕胎罪に当たる」 とか 「 有印私文 書偽造」などで捜査 0逮 捕 ・起訴 しそ う にはない とt私たちの多 くは考えている。 しか し、loo%の 保障は、刑法堕 胎罪や 母体保護法の配偶者条項がある限 り、存 在 しない。 私 たちは 「 性や生殖 に関す るあい まい さ」に取 り囲まれてい る。確 かに、性交 渉 と生殖 とは完全 に切 り離 され も直結 も してい ない、 とい う生物 としての人 間が 持つ 「あい まい さ」 もある。 しか し江戸 父親 として優 しく乳幼児 に対応で きる男 性 ばか りではない。離婚や児童虐待の可 能性 もある。父母に養育能力がないと、 幼児 の祖母に当たる女性が 「 母親代 わ り」 になることが期待 されるが、 現在 の40代・ 50代の女性は仕事 を持 っているこ とも少 な くない。父母がで きないこ ともある育 児 と仕事 の両立を、祖母に期待で きるの だろ うか。40代 ・50代で就労 してい る女 ―-30-― アジア女性研 究第 1 6 号 ( 2 0 0 7 . 3 ) 紅 そめ し』 北風 書房 、1 9 8 4 、1 0 8 1 0 。石 本 しげ る 『 -109頁 。 性 は、簡単 には仕事 をリタイ アで きない ほ ど家計 に貢献 して い る場合 も少 な くな 11.上 坪 隆 『 水子 の譜』現代思想 史出版 会、1979、 沈黙 文庫 版 社 会 思想 社、 1993。武 田繁 太 郎 『 の40年 一 一引 き揚 げ女性 強制 中絶 の 記録 』 中央 い。 本稿執筆時 に50歳 の誕生 日を迎 えた私 は、娘が万 一 出産 した として も、 け して 公論社、 1985、参照。 産児 制 限 と婦 人』 読 売新 聞社 、 12.加 藤 シヅエ 『 一 産児制 限 の研 究』 1947、参照。他 に安藤画 編 『 婦 人解放 と産児制限』 日本臨壮社、1947、山本杉 『 それ を カバ ーす るために仕事 を手放 した 孫 くはない。「人生80年Jだ か ら、将来 「 F一 I=離一 L一 卜汁 一 証諦鯨賠鍼鮎躊闇録幅=翻部融麟聯蜂齢酵鰍離Vr■ 彙一 娘 が10代で出産 し、母 も祖母 も手が 回 ら ないので曾祖母 に当たる私 にお鉢が回 っ て来 る」 こ とが な い とい う保 障 もな い 。①。生殖 年齢 にあ る女性 が リプ ロ ダク テ イブ ・ライツ を十分享受 で きる ことは、 全 ての年齢 の女性 に とって喫緊 の課題 な 印刷庁 、1950年等。 13.優 生優 生 関連 法 に関 して女性 議 員 で発 言 した 者 は、 以下 の通 り。武 田 キ ヨ (衆議 院厚 生 委 員 会1947年10月25日 :子 ど もの 福 祉 の た め の優 生 一武 田 は、1946047年 と選 学 的配慮 の 必 要 )一 一一 、加 藤 (衆議 院予算 委 出 され た婦 選運 動 家 員会 同年 11月10日、衆 議 院厚 生 委 員会 12月1日 一-1947年 法 案 の提 案 理 由 :母 体 の生 命保 護、 母体 の健 康 増 進 と、生 れ て くる幼 児 の優 良 な る べ きもの を求め る、衆議院予算委員会 1948年6月 15日)、山崎道子 (衆議院本 会議 1948年2月2日、 一 壽 産院 は、氷 山の 角 が波 間 にただ現 われただ 「 … の け で 声 な き者 声 を聞 く耳 を政治 は もつべ き のである。 [付記] = 憲 法改 注 に上げた文献 の他、優 生保護法改悪 優 生保護法改悪 とたたか うた 悪 と闘 う女 の会編 『 性 の歴 史学』不 二 出版、 藤 目ゆ き 『 めに』 1 9 8 2 ・ いに 1997に 依拠 した。 また、事情 があって急 な 大 の差 し替 えとなったため、参照すべ き研究論 論文 文 の全 てには当たれなかった。生殖補助医療 にも 言及できなかった。読者 にお詫びしたい。 … 産 院、乳 児 院、保 育所 、母 子 寮、授 産所 等 の 社会施設 を公衆機 関 によって,日 も早 く設置 し、 一 愛 と涙 あ る法 の 運営 に よって、 刻 も早 く最 も … 弱 き者 の救 われ る こ とに努力 が払 わ るべ き ま の にあ ります保 た、奉 天 を初 め 中華 民 国等 各所 一 嬰 院 の ご とき捨 子 施 設 も思慮す る と同時 に、 日も早 く優 生保護法 の制 定 に よって、諸種 の 不 幸 な実情 にあ る者 の産児 調節 も考 え るべ きで あ る」 )、小杉イt(参 議院 厚生委員会 6月22日: [注] 資料 性 と愛 をめ ぐる論争』 1.折 井美耶子編 『 ス ドメ 出版、1991、133-141頁。 2.同 上142-150頁。 3.菅 野 聡美 『 (変態〉 の時代』講談社現代新書、 20052多 員 薇。 生殖 の政 治学 ―一フエ ミニ ズム と 4.荻 野美穂 『 コン トロール』山川出版社 、1994、 バース・ 参照。 性 山峨女史家族制限法批判』(再刊、『 5.山 本宣治 『 と社会 ―― 「産児調節評論」改題 :付 録、不 二 出版、1983J)。 平塚 らいて う』 吉川弘文館、 6.米 田佐代 子 「 2002、128-145頁 、特 に137-138頁、参照。 7。 http://www.hcn.zaq.neoip/nOranekonote/ contraceptlonchronologicaliapan.htm。 道〉優生保護法 の系譜 8.斉 藤千代 「見えない く あ ごらJ28号 、1983。 をたずねて」『 一―哀 しき女 の 9.志 賀暁子 『われ過 ぎし日に 俸 告白 ――』 1957、学風書院、参照。 -31- 。強姦 によって妊娠 した場合 とあるが、本当に強 姦 されたか どうか嘘 も言える。配偶者 の同意 は、 配偶者 が知れない ときは不要 とい うのでは、私 生児容認になり風紀問題を起す) 一 一小杉は産 一一、福 田 (衆議 院 婆看 護婦 養 成所 監督 経験 者 ―― 谷 口達 の 法 案 の提 案 理 厚 生 委 員会 6月24日 由)。引用部分 は新漢字 ・仮名遣 い に改変。 ―一 14.松 原洋 子 「中絶規 制緩和 と優 生 政 策 強化 一― 、1998。 思想』886号 『 」 優 生保護法再考 加 藤 シヅエ :あ る女性 政 治家 の 15。加 藤 シヅエ 『 ー 半生』 日本図書 セ ンタ 、1997、165頁。 16.参 議院予算委員会 1972年4月4日。 1 7 . h t t p : / / w w w . a r s v i . c o r r 1 / O d /hat0t1p.:h/t/m 、 www.arsvi.com/Og/a01001.htm、 等 で確認。 改 正刑法案 の解説』 18.法 制審議会刑事法特別部 会 『 ロ届1局、1975、278-282頁 。 大蔵省 ニ 19.衆 議 院法務委員会 1982年8月19日。 20.1980∼ 1993年の衆 議 院議 員 選 挙 の 間、 自民 党 に女性 代 議士 はお らず、参議 院全 国 区 な い し比 日本 における政治 とリプ ロダクテ イブ ・ライ ツ (岩本) 例代 表選 出 の 女性 議 員 には各宗 教 団体 の 票 が貼 り付 け て あ つて、 自由 に動 け たの は参議 院栃 木 地方区選 出の森 山だけだつたo ・ 21.岩 本美砂 子 「人工妊娠 中絶政策 におけ る決定 -1980年 一 代 日本 にお け る 2 非 決 定 ・メ タ決定 ー スを中心 に」 『 政研 究』 28号、 年報行 の ケ り 通 1993、参照 。 ベ ビー」や 「 チ ヤイル ド」 と呼 ぶのは、 22.胎 児 を 「 アメリカでは中絶禁上派 の用語法であ る。 23.事 実最 後 に刑法堕胎 罪 で の 有罪判 決 が 出 たの ・ は1988年で、1991年以 降 も堕 胎 罪 違 反 の逮 捕 検挙 ・告訴 な どはな い。 車 イスか らの宣戦布告』太郎次郎社 、 24.安 積遊歩 『 1999等。 優 生保護 25,優 生手術 に対す る謝罪 を求め る会 『 一― つ われた ことを奪 どもをも 子 法が犯 した罪 。 参照 、2003、 々の 証言』現代書館 人 26。松本彩子 『ピルはなぜ歓迎 されないのか』 勁 草書房、2005、参照。 ー 男女共 同参 27。日本女性学 会 ジェンダ 研究会 『 ・ ー バ ツシ ング ーーバ ツク 画/ジ エンダ フリァ ラツシユヘ の徹底反論』明石書店、2006、上野 ー バ ツクラ ツシユ !一 ―なぜ ジエ ンダ 千鶴子他 『 フリー は叩かれ たのか』双風舎、2006、若桑 み 一 どり 『 「ジエ ンダーJの 危機 を超える !一 徹底 討論バ ツクラツシユ』青弓社、2006、参照。 28。配偶者がいないか不明の際 は、同意 は不要。 妊娠中絶 に関 29。「なお、妊娠中絶 に関 しては、『 の法的手 は、国 の はそ 変更 の また わる施策 決定 ベ ルでのみ行 うこと レ たは地方 い 、国ま 順 に従 国連 カイロ会議文書 に〕明 がで きる』 ことが 〔 記 されているところであ り、我が国では人口妊 いて 娠中絶 については刑法及び母体保護 法 にお の し中絶 らに反 ら、それ いることか 規定 され て の 8. 「 2次 い 計画 。 (第 のではな 」 めるも 自由 を認 の 最 の 目標」 「 の 」 健康支援 じた女性 を通 生涯 後段)。 30。現 に私は、産後 の長 い病気 の際、子 どもの祖 母 のみな らず曾祖母 に当た る女性 に大量 の無償 ヶア を提供 してもらった (本稿 を、2005年に100 ・ 歳で物故 された、千代 Fさ んに捧げたい)。