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反教育学ーその理論的基礎と原理

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反教育学ーその理論的基礎と原理
反教育学-その理論的基礎jと原理
\ ト > ト ●池谷∧壽夫●●●●●● ●●
犬(教育学部教育学教室)六十 j \ し
A面面dagogik-Ihre
Theoretische
1 十 ・. ∧Hisao
(Forscれungsanstalt
Abstract:Der
皿d
G血姐1面面und
Ikeya
der
ト
Prinzipien
1.1..・
Piidagogife, Fafeultot der
Erziehjing)
Zweck dieser Abhandlur!g besteht dari!i,erte臨上d如theoretische Grundlagen
Prinzipien der “Antipadagogik”
ich die・ Lehren von
seit 1975 im
Deutschland
klarzumachen.Dabeトwerde
耶
Schoenebeck iiberpriifen.Zweitens spiireしichdie Entwicklungニder
zweiten Halfte
Braunmuhl
入皿ipadagogik seit der
8O's Jahr.Drittens herausgreife ich dieニGegensatzpunkte zwisかhenE.
und H√VトSchoenebeck.undletztens darstelle die Aufgaben.die Antipadagogen
V.
uns
stellen.つ .・..・・ .・ ・. ・・ ・・. .・・・・ > \ ∧
Key
word: An ti皿dagogik, Erziehung, Freundschaf t mit Kindern.Selbstbestimmung・
はじめに 十
本論文の課題は、まず第一に、ドイツで70年
があった.一つは√このままでは西ドイツが世
界市場で競争できなくなるという恐れであり、
代後半から起こってきた寸反教育学Antipada-
もう一つレは、教育は万人の市民権であるという
gogik」の理論的基礎と原理を、その代表者で
国民の要求であくる.三島憲才によると、後に首
あるEkkehard
柑になったS
書とHubertus
von
von
Braunmiihlの70年。代の著
Schoenebeckの著書を中心
△
P Dのシュミツ斗は69年に、二う
のごとを指摘しでいる.一つは、J能力主義の原
に明らかにすることにある。第二の課題は、<
則に依拠している現代工業社会の中で連帯の掟
反教育学>の80年代以降の展開をさぐる中で、
を優先させることでありぐもう一つは、60年代
両者の見解の相違点を明らかにすることである。
後半に技術革新に遅れをとぅたこと=である.こ
そして最後に、反教育学がわれわれに提起した
れらの問題をブラント政権は特に教育改革にお
課題を明らかにすることであるてしたがって反
いて実現しよくうとした.\すなわち総合学校の導
教育学に対する批判め検討は別稿に譲り、ここ
入(72年)∧に=よる教育の不平等の修正と技術革
では取り上げないことにする)J
新能力の形成である1≒…………: ニ
しかしこめ教育改革の中でぐ「問いはもはや、
第1章 <教育への勇気>と反教育学
どのようにし七個々の子どもが彼の力と能力の
展開するように援助するかというのではなくて、
第1節 <教育への勇気>と教育批判派上
どのようにしてできるだけ多くの子どもたちに、
旧西ドイツでは、60年代後半にできるだけ多
できるだけ高い資格を与えることができるのか
くの人間によりよい教育を、という政治的な要
」2)ということになってしまうたゝと言われて
求が世間の共鳴を得たが、そこには二づの要因
いる.犬 .・・.・・.・. ・・.・.・..・
40
ノこしうした70年代の教育改革の挫折の:中で√一\……………::=ijj
方では保守的な政治家と科学者たちぱ√教育は…………:………………I
それがな廿れば社会の共同生活が成り=立たない犬∇=………と
○・ ..・…………………………: .≒
ような古い徳く(例えば、寛容、義務万に忠実なこ………∧……
≫=七言:う∇人には√その
とど、心遣い、勤勉、二謙虚さ)しを再び教えねばな犬ゲ:=;jy=jし
ず卜るIとペスノ=不当に非難
らない√そ=して個人的な幸福への努力と個人的…………J
うのナもく人がいる、どころ
I
な利害ノ・関心は仁れらの徳比従属しなければな……=:=jj
らない=、;……Jと・主張七、て教育へ1の勇気ニMut
ErziehungJ〉を主張七レだ。
Ulrich
zur
K!白雨血によノ△j
=
ればぺ\例えば√1978年に、スユンペンの哲学……=.・.、・j万万・..
意味あるフタ
‥・● ・ 一一 ・.●
一一● .・ ● ●・●・ ●
者Robe皿=S皿贈込姐は、………教育政策楡おける保十<
………ヒ・.・耳・・
,
.=ヤン
守的、な転換を導入ソし=よう土としたぐボシめ<教育
への勇気>の会議の枠内懲、しく自明なも、のとし
ソI=:Åufgabea.……Pro-
ての教育>にや=いで語り:、次の。よう\に述㈱でい
る6 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ‥‥‥‥‥
ド≫と卜うことに対
エ「私ノは教育という言葉を\(/・・・)、そこ・で人格
E︰E終
を形成する副次的作用がぱう・。きりこと考慮さ\れる十
ような√若い人々との交際φため/に使用する。ト
このよノうな考慮は交際:の仕方を刻印しでいる。
目標は√子どもを、……わ:れわれ大人が自〉ら善=いミ
美=しい、価値のある、意味めある‥ものあるいは
有用だと見なしてい/るものへと参加さフせること
である。:われわれがそもそも善いもしの、\美しい………I=る几……=……万……:
も:の、へ有用なもめ等々を見うけ出すと仮定すれ∧
ば、われわれが愛する者に/これを伝えたいと思/
うのは当然であjる。そしてこれ。は、。例えば、わ/
れわれが子どもを援助して、こめような伝達物\
を理解する可能性を得させたいというレこことであ
る」ト 犬 …………………I ‥ ‥‥‥‥‥‥ ‥
①ie Her纏sforderungレhl:
Wisse尚尚在住s加y
trum◇Bonn(Hrg.):双晩)町]Erzieh-ungStutt犬
gart
1978、回。16-17)。‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
別の場所で数年前に、\バイエルンの文部大臣、/
Hans
Maierは√1972年10升めアヴスブルク竹
の牛丿\ス下教社会同盟の文化会議の折に、<教二
育的なもφφ再獲得y取りノ戻七≫について語、り
(Wieder如面面面g/d叩……:B・rzieherischen
7
Pla- ノ・,jj・j七。
doy好くf面白ine十如如圃ldungspolitik.・レIれト:」王・ ゲ:いく……,..・j・.・・・]
M心瞳:刄尨昌β(ノ恥壮図ge>zur Kultur-und\谷
ve吋〔爾心胸〕o叫乖レ肺attgart
1978)、jそレノケのjケこし==メ]トダノド岸漱ノ収j==こ.
<_ ■!J万g
て/tり75年犬にレはドナ=△ウブ土.ルトの教育学財団………
…=:.壮こ∧A卜面:ヶ\=1・Mi・111jej7.;1・.j。・j.、.・M一万友八・.・d。万、.万J=j.・.・
Cassi面面血引00周年記念の折に<教育4こり
反教育学-その理論的基礎と原理(池谷)
動のアスペクトで、その代表は例えば、アメリ
カのJohn
Holt、Richard
Institutionen”。)の中ではじめて用いられたも
Farson、ドイツで
のである。ただしKupfferにあっては、「反教
はSchoenebeck、J.Heimrathである。第3は、
育学」という概念は、その後すぐにBraunmiihl
文化批判のアスペクトであり、その代表人物と
が行ったように、あらゆる教育のトータルな拒
しては例えば、J.Liedloff、B.
否という意味で使用されているわけではない。
Stern、M.Mead
Kupfferは長年田園教育舎Landerziehungs-
が挙げられている。第4は政治のアスペクトで、
例えば、E.
V.
41
Braunmiihl、G.Kern、B.
Stern
heimで青少年と関わる中で、青少年との新た
がその代表人物である(ibid、n)。そして反教
な「反教育学」的関係を構想し七きた。そこで
育学の教育学者としては、例えば、Heinrich
は反教育学は次のように総括的に特徴付けられ
Kupffer、Wolfgang
ている。
Hinte、Harmut von
Hentigらがいる。Klemmに昨年末に会った時
「反教育学は、もはや<教育される>べきで
に聞いたところによれば、反教育学は現在およ
はないとは言わない。反教育学が反対するのは、
そ5つの潮流に分かれ展開されているとのこと
役割のうちに前もって刻印されている、教育す
である。すなわち、①Braunmiihl、②Schoene、
る者と教育される者との間の位置関係である。
beck、③G.Kern、B.
反教育学は、教育諸事象の科学的な認識が余
Stern、U.Klemmらの哲
学的・アナーキズム的な潮流、④H.Kupffer、
計なものだなんつてことを言わない。教育学研
H.GieseckeやW.Hinteなどの一部アカデミズム
究はたんに内在的な研究に限定されるばかりで
の共感者たち、⑤ドイツ児童保護連盟、である。
なく、社会化の。隠れたメカニズムを解明すべき
③については、1984年以来連邦全体のアナーキ
である。
ズム的な議論提携である<リベラルな情報のだ
反教育学は、いかなる種類の教育学的措置も
めのフォーラム>内部に、<AG
Antipada-
もはや適切ではないとは言わない。しかし反教
gogikアナーキストグループ・反教育学>が
育学は、このような措置がはじめて意味あるも
ある。これは長い間リベラルな教育学対反教育
のになるのは、いつものヒエラルヒーの枠内で
学の論争と対決して、反教育学をBildungと
行われない時であることを示す。
Erziehungに関わるアナーキズム的な態度の首
反教育学は、反権威的な教育の支持を言わな
尾一貫した継続と見なしている6)。
い、というのは前者は後者が権力構造を、根本
においてさえ廃棄していないことを認識してい
最初に反教育学者として「教育の廃止」をはっ
きりと要求したのが、E.
V.
Braunmiihlの『反
教育学-------一教育の廃止についての研究Antipddagosife.S仏心en zur
るからである。
反教育学は、教育学的制度が廃止されうると
Abschaffuns der Erzie一
は言わない。反教育学はただ、このような制度
加昭』(1975年)であった。「これまでいまだ
がどのような社会的目的に奉仕しているかを解
(けして?)はっきりとは表明されなかったし
明しようとする。
議論されなかったこの要求は、連邦共和国に予
反教育学は、制度の内部ではもはやいかなる
想外の議論を引き起こした。この議論は今日ま
秩序も支配すべきではない、とは言わない。反
で続いてくたんなる>教育学的な時代精神の批
教育学は、すべての当該者の広い参加を可能に
判以上のものとなっている」(QDA、10)。
する√相互作用の新たな形態をむしろ支持する。
しかし「反教育学」という概念は、Braun一
反教育学は、制度が自律的な、外部から影響
血止1が初めて旧西ドイツで使用したものでは
を受けない<共同体>を形成できるとは言わな
ない。この概念は、H、Kupfferの論文「反精
い。人々が制度の中で互いに交際し彼らの利害
神医学と反教育学 <全体的な制度>にお
を調整する条件を考えることは、逆にまさに社
ける教育問題」(Antipsychiatrie
dagogik.
Erziehungspr
obleme
in
und
Antipa-
der
”totalen
会へと反作用を及ぼすことになる。以上のこと
からこういう結論がでる。すなわち反教育学は、
42
高知大学学術研究報告 第46巻(1997年)社会科学
教育をただわずかに社会的な強制の機能として
・!ch
とみるあらゆる傾向に反対する、という結論で
SelbstfiaL Ohnemacht
ある。したがって反教育学は、どの次元におい
Verlag\四甜∧そヶの後Verlag
て若い人々の<自律>へのアクチュアルな要求
Schoenebeckよ宍りレ出版。\∧ ………
が実行されうるかをそもそもはじめて目に見え
・Antipdd昭ogife
liebe
miとh万]so u)ie
icfi,bin.E)er
und
Weg
Dr.Hubertus
im
Dialog.Eine
von
Einfuhru昭
るものにするのである」7)。
in antipad昭Oボsches
このようにKupfferは、<反教育学>という
1985. =\ダ: \犬 犬
用語を、教育全般に対する批判として用いてい
・Jenseits
るわけではなく、限定的に使用しているのであ
Praxisfraeeれ∧&r er2ieh.ungsfreien Lebens-
る。
fuhrunsFreundschaft
さて、その後Braunmiihlは、70年代に以
kreis
下のような著書を出している。
・Braunmiihl、E、
V、
/Kupffer、
H.
des
zitr Beeruiigu昭des
Erzie一
Familie
unA
IniititiAtioncn.Fischer
lag
1976。
、Geset2gebung
Taschenbuch
Ver-
mit
KinderかForder-
Argumentation
Schoenebeck、
Taschenbuch
fur
Verlag
Kinder.Fischer
A肘φa面gogife\1m
・。・・:
aus:Unteratiitzen
erziehsrt、S.223、255. ☆
und
:UTKlemm(Hrg.)、Quelleti und
der
Dr.
Dialog、cr)増補版で、次の
Erziehungsifreie Praxis,
1978. 十
Ant一
1996.これは、
Antipadagogik:Riickblick
・Braunmiihl、E.v.:Zeit
UTld.
pdddgogisclxe……Kritik.Verlag
von
statt
Verlag
1992に
論文が付加されでいる。 犬 。・。
hunsskrieses ziuischen 盛几 Generationen.
Reformuors硫laee fur
Hubertus
Beltz
Erziehung. Gnmdlagen
e.V。Miinster
wartp.n.ヶauf
/Oster-
Gleichberec晩igung
Programm、
Denfeen.
・ Die aatipddasogisch*
meyer、Hermut.:Die
Kiades.
der
a1認
EgoisTTuis. Kbl・sel-
A.庇眼泳面eogik.dipふVerlag
Ausblick.
In
Dokwnente
1992、S.231-
『反教育学』とこの2つの著書は、Ulrich
234. \ ¨
Klemmによって、今日まで「教育に対する反
さらに、Schoenebeckは反教育学の資料集、
教育学的な闘争における基礎文献」(QDA、13)
肛ateradlien
zurぐAntip adagoaife
l∧/n を
と評価されているものである。
Dieter
もう一人の、重要な反教育学者にH、v.Schoe-
Freundschaft
nebeckがいる。Schoenebeckはアメリカの70年
からし出七了いるレ6……=丿 十万∧………;
代初頭の子どもの権利運動やBraunmiihlの
Schneiderとの共同編集で、・1995年に
mit
Kindern-Forderkreis
KlemmはSchoenebeckを次のように評価して
『反教育学』などに触発されて、<子どもとの
いる。「反教育学は80年代にはとりわけHuber一
友好関係Freundschaft
mit
Kindern>をスロー
如s
von
Schoenebeckと市民運動<子どもとの
ガンに掲げ、1978年には社団法人「子どもとの
友好>(ミュンスター)とによって、いっそう
友好関係一−一支援サークル」を創設し、現在も
発展して、・最初は子どもに限られていた反教育
旺盛な実践・宣伝活動を行っている6彼の主要
学的なレやTスペグ‥ティヴをあらゆる生活分野を
な著書としては以下のようなものかおる。
・Der
rer 2U
包括する教育フリーな構想ぺと広げた。反教育
Versuche、ein
sem.
その後£)Le
Fischer
e.V.
kindeづreundlicher
Taschenbuch
Verlag
Mcnschlicfifeeit
Utopia? TagebLむch eines
der
Leh.-
学は今や、あらゆこる教育学を博物館的な因習的
1980.
なもの七みなすずダスト教育学的なパラダイムに
Schule-eine
反証deづreundlichen
Lehrers、として、1990年にVerlag
今日では、反教育学はドイツで一定の市民権
を獲レ得するぽどまでになノづているo
Dr.Hubertus
Klemmによればく大学では、教育か=らフリー
von.Schoenebeckより出版。
・UaterstiLtze几statt erziehen、Die
Eltem、二Kind-Bezi=ehu几g、
なる」(QDA、10-11)。 ‥
Kosel
neue
Verlag
1982.
な生き方の構想に対する関心の増大が学生の側
から作昨出ざれている。それは、例えば反教育
Ulrich
43
反教育学一一-その理論的基礎と原理(池谷)
学者の特別講演への招待や試験答案にも示され
・Der
ている。また今日、<教育の代わりに支援を
seits
Unterstiitzen
Rowohlt
statt
erziehen
! >というテーマ
heimlicke
Generationenuertrag..Jen-
von Pddagogife und Antip d dagogife.
1986。
での講演とセミナーが標準プログラムの一部に
・Zur
なってい局教育施設(市民大学)がますます多
chopddagogik.”.
Vemu吋t
くなっている。 さらに、反教育学運動は、
・AnneteBohm/E.v.Braunmuhl、乙油eoh-
Schoenebeckによって創設された、ミュンスター
几e Hiebe.
の支援サークル<子どもとの友好関係>という
enbeziehu昭'en.
形で制度化され、その運動体は、そのセミナー
・Annete
プログラムと助言プログラムをたえず拡げて、
berechtigu昭行-
すでに外国で広報活動を行うまでになっている
sseRe
Der
feommen、。
Beltz
Weg
Patmos-Verlag.
Sch八tt
zum
F八e臨几.
またH.v.Schoenebeckも、90年代の始め以来、
学者側の反応は、先に挙げた一部の学者たちを
<ポスト教育学的postpadagogisch>という
除いては、全体としては否定的なものであった。
概念を持ち込んで、<反教育学>概念に代えよ
いち早く反応したのはJ.Oelkersであるが、彼
うとしている。「教育フリーな生活哲学の掛替
は、反教育学の基本方向は、すでにEllen
えのない概念はまだない。形容詞くポスト教育
によって要求されたような、伝統的な<子ども
学的postpadagogisch>はその際名詞<反教育
からの教育学>であり、そして背景理論として
学>よりもずっと鋭い、というのは<ポスト教
は、核においては<反精神医学>の制度批判の
育学的postpadagogisch>には、そもそも
(反教育学がなお対決している)教育学と教育
ラディカル化であり、家庭教育の必要性の人類
学的基礎付けの解体だ、としでいる8)。
80年
育学の回答がでている。
Michael
W
inkier:
Stichujorte zur A戒φddagogife.1982、A.Flit: Konrad、 sprach、
dieFrau Mama. 1982、
J. Oelker
s/Th.
的なものdas
Erzieherischeとのいかなる親近
性もないからである」(JE、64)。くポスト教育
代始めには反教育学に対する3つの包括的な教
Lehmann:Antipadagogik.、1983
である。これらの批判に対しては、Schoenebeck
が『対話における反教育学Antipdd昭oeife im
Dialog』(1985)のなかで、詳細に回答してい
学的post巨dagogisch>は、子どもとの教育
フリーな交際だけではなく、それをこえた全体
的な生活哲学として理解されている。それゆえ
「90年代は、教育フリーな生活構想がポピュラー
化されうるかどうかそしてどのようにしてポピュ
ラー化されうるのかをもう示さなければならな
いだろう。これまで以上に、今日実践、教育と
教育学との具体的一実践的な違い、反教育学の
る。
長所とその<長期的な効果>に関する問いが提
第3節 反教育学のその後の軌跡
起される。いつ私は実践において教育者であり、
ところで、反教育学は現在では重点を反教育
そしていつ私は反教育学者であるのか?こうし
学から次第に、教育学と反教育学との対立を超
た説得活動を反教育学はこれまで以上にリアリ
えた立場を目指している。
スティックに行わねばならない。反教育学をイ
80年代半ば以降、
Braunmuhlは教育学に対する反教育学という
デオロギー的に基礎付け正当化する時代は過ぎ
彼の根源的な立場から次第に距離を取って、両
去ったー<処方涯>が問われる。人々(実際
者を超えた「教育学と反教育学の彼岸Jenseits
ほとんどみな<教育された者>であり<教育す
von Padagogik
und Antipadagogik」の道を
1993。
Bohm/'E.v.Braunmuhl、Gleicか
こうした反教育学とその運動に対して、教育
Key
1990。
2U harmonischen
1994。
(QDA、7)。
ner
Eirve”Å以しPsy-
Verlag
る者>である)に反教育学のくよりベターな>
探っていくことになる。その思想は80年代半ば
実践を納得させることに成功する時だけ、教育
以降の次の著書に見ることができる。
フリーの生活構想をもっと広めることが可能で
Patmos-Verlag・
Familも一
44
高知大学学術研究報告 第46巻(1997年)∧社会科学
ある」(QDA、20)。
「く。りかえしレて言うが、われわれが生存しうる
こうしたその後の展開の中で、Braunmuhl
未来を建設できるのは、そ岑した知識をもった
とSchoenebeckとの間には、後に見るように、
若者たちの直接参加があってこそなのだ」(115
反教育学とその運動をめぐって決定的な意見の
ぺ午ジ)。 ・。・
対立が生じてくることになる。
一方、deMauseは親子関係の様態の進化の歴
史を√彼めゾケ「jLIヽ理発生的理論」に‥もとづいて。
第2章 Braunmuhlの<反教育学>
6つの形態の歴史として描いている(L・ドウ
モ二ぐス編著∧『子ど=も期の歴史』寸794年、一部邦
第1節 Braunmiihlの時代認識と<教育>批判
1
) Braunmiihlが<教育>と<教育学>の
訳了親子関係の進化』宮渾康人他訳、海鳴社)。
すなノわち親子関係ダ)歴史を、①子殺し的様態
批判の際に、彼が共有している前提は、M.Mead
(古代から4世紀にかけて)、②子捨て的様態
の時代・文化認識とL
(4世紀か=ら13世紀にかけて)、③対立感情共存
態の時代区分である。
.deMauseの親子関係様
Meadは『文化とコミッ
的様態(14世紀から17世紀にかけ七)、④侵入
トメント』(『地球時代の文化論』太田和子訳、
的様態(18世紀)、⑤社会化的様態(19世紀か
東京大学出版会)の中で、人間の文化を3つの
ら30世紀半ばにかけて)、⑥援助的様態(20世
文化形態に類型化している。すなわち「過去志
紀の半ばから)9)に区分し、その歴史を、そ
向型の文化」、「現在志向型の文化」、「未来志向
れらの様態が重なナり合いなごがらも次第に進化し
型の文化」である。そして「未来志向型の文化」
ていく歴史と見ている。この6つの様態の連鎖
こそ今後の文化形態にならねばならない、と考
で示されてナいるのは、「親/と子の距離が次第に
える。それは「これまでに例を見ない世界的規
接近してくる過程土であり、丁親が世代を追う
模での“世代の断絶”という現実」(99ページ)
にしたがって徐々ノに、自らスの子育てにおける不
が起こっているからである。「子供たちは現在、
安を克服しご子どもの要求に同化し、それを満
想像もつかぬような未知の未来に直面している
たしてやるy能力を発達させできたこと」(邦訳、
ように思われる。わたしたちはそれを、年長者
161ページ)\である。
中心で親がモデルとなるような安定した文化、
以上の世代間の対話の可能性と援助的な子育
いいかえれば多くの過去志向的な要素を内包す
て様:態という時代認識を共有七ながら、
る文化に現在志向的な要素をとりいれつつ世代
Braunmiihlは、このような時代にあっては、
の交替をはかることで問題を解決しようと試み
「将来子どもはもはや自分のその後の人生へと
ている」(80ページ)。「だがこれからは、能力
準備されねばならない者と・して見なされてはな
も未知で選択も自由なままの子供たちが主体と
らずミこごにそ七七今、自己了解して自己決定
なる未来に主眼をおいた開放システムの創造に
して生き学習している者として見なされねばな
向かって歩まねばならない。そうするなかで、、
らない」(A、9)と考える。
そしてまたこの点
われわれは現在まで歩んできた道をふたたび歩
て、現代を<子どものための時代>と総括し必
くことは不可能だということを、はっきり認識
然だとしてごいる。 しかし<子どものための時代
するのである」(113ページ)。 この第3の未来
>が今日の時代を意味しているわけではない。
志向的な文化の発展は、大人との間にたえず対
むしろ、子:ども・青少年の犯罪、アルコール中
話が成立するかどうかにかかっている。その対
毒、………自殺√ノドラッグ問題√暴力行為、行動障害
話によってこそ、自発的に自由に行動する若者
等々に見られるように、今日、子ども期は「子
たちが大人を未知の方向へ導いていけるからで
どもごに敵対する時代」(DGK、7)となっている。
ある。そうすれば、大人の世代は新しい経験的
そしてこの敵対を生み出している元凶こそ、<
知識をもてるようになるだろうし、そうしてこ
教育>と<教育イデオロギ=>なめである・6
そ有益な計画を立てることもできるだろう。
45
反教育学-その理論的基礎と原理(池谷)
2)<教育>とそのイデオロギーを批判して
独立変数・独立した量 eine eigenstandige
いぐ際、Braunmiihlは教育(学)を<土台>
G祐佃である。-(自称人間に対する人間
と<上部構造>とに分ける。「土台現象」とは
の支配がないとされている)最も麗しき社会主
「現実に子どもに関して起こ9ているこ=と、特
義は、資本と資本家の支配は一づの事柄である
に子どもの最初の年齢の間に起こっていること」
とはまだ把握していなかった。これに対してまっ
(A、11)である。ここには個々の教育イデオロ
たく別の事柄=は、人間に対する人間の年齢に条
ギーに貫通している観念、すなわち「教育イデ
件づけられた支配(/これは本質的に教育イデオ
オロギー一般」も含まれる。 これに対して、
ロギーによつて生命を維持され擁護される)な
「上部構造」には特定の教育イデオロギー(勇
のである」(DGK、29)。このように、Braunmiihl
気への教育、社会主義教育、反権威的教育、解
=は、<資本の支配>(生産関係上の経済的な支
放的教育等々)やさまざまな教育構想が含まれ
配)と<年齢による支配>とIを区別し、それを
る。 Braunmiihlが
経済的支配から独立七た変数とする。 犬 \
「子どもの最初の年齢の間
に起こうていること」を教育学の土台として重
レで・は<教育イデオロギー>とは何小6
視するのは、第一に、子どもの最初期にこそ、
Braunmiihlは丁教育」〉の概念と反教育学の立
<教育>と<教育の必要性>をめぐる議論、お
場を、次のように明らかにしている。「反教育
よび子どもに対応する大人のあり方が最もプリ
学が<陶冶>にも<教授>にも反対せず、∧ただ
ミティヴなかたちでかつクリアに示されるから
<教育>犬(およびぞの使用手引の<教育学>)/
であり、第二に、後に見るように、乳幼児期に
だけに反対している\ことは、自明である。
受けた養育・教育体験にこそ、大人になった際
人間をその<基本構造>において形成するとい
に自らが行う<教育(学)的な態度>の根源が
う要求、<人生形成め目標><人生のコ‥−ス>
あるからである。
を立てるという要求4彼らが<人生に値するも
以上の教育の<土台一上部構造>論は、マル
の>として見なすものを決定するという要求、l
クス主義の<土合一上部構造>論とは明らかに
こうした要求こそ、<教育>概念でもって特徴
違っている。<教育>や<教育イデオロギー>
肘けられるもめである」(Å、78)。 こめく教育
はマルクス主義の理解では、上部構造の主要な
>把握の点では、GieseckeもBraunmuhlも一致
構成要素どして位置づけられる。例えば、L.
七ている。= 上 犬 ニ=
Althusserでは√<教育イデオロギー>は国家
∧十・さてこの意図的な教育をBraunmuhlはく補
のイデガロギ一装置の中に組み込まれてい
完教育erganzende
る1o)。これに対七て、Braunmuhトが<教育イ
substanzialle
デオロギー>を土台とするのは、<教育イデオ
ぺと下位区分している。∇まず<補完教育>には、
Erziehung>と<実体的教育
Erziehung>とトいう2つの概念
ロギー>を社会システムや生産諸関係に依存し
丁問いに答える∇こ=と、および、子どもが大人に
ない「独立変数」と見なすからである。この点
そう七てくれるように要請するので、大人が行
について、Braunmiihlは、deMauseの心理
うすべてのこと」が入るが、七かしまた、子ど
発生的理論-「親子関係の進化が歴史的変化
もが一人ではおそらく克服することができない
の独立ノした原因をなしている」(邦訳、5ページ)
アクヂュケルな状況に限定されたままであれば、
--を引き合いに出しながら、次のように述べ
大人め干渉もまたそこには入ることになる。こ
ているJ「もっと情動的な成熟への大人の進化・
れに対して<実体的教育>は、「子どもをその
発達はー・-一一人間の魂と精神においても改良が可
能である前に、まず他のすべてのものが違った
他の
実体において変えさせようとするような行為」
(ZfK、85)を意味する。ごの<実体的教育>こ
ものにならねばならないといつも主張する人々
ぞ、‥反教育学が廃止しようとするものである。
が信じているようには一一社会システム、生産
二ではなぜBraunmiihlは<教育>の廃止と言
諸関係等々に依存していない。教育学的思考は
うのか6それは、「<教育>という言葉のうち
46
高知大学学術研究報告し=第46巻=ム……=………〔1997年㈲ププ=jミ社会科学二……1………1……………………j…………万・.=〕
に半、……I公丿的・な言語慣用のjうちにもしづていくるま、いト∧≫七
・=とに分宍ける≒。レ<。一
響きとは:かかれりノなjくノ、レ何か尊厳をおと/しめる…………………=こ・
なごじ無意
4zヤ、り・-、iはK・4・.よタヽダ4・・ ..・・ ・-.-・、ヴ丿・/r7・http://www..・t.?..-.、・.・・ソ
ものの響きが。こ:もらでい4」∧(ZfK,86)がヽら万一で
であトり、
ある6/こ:こでは寸教育の客体力あ右者は、<飼………1.:I・.:
卜(無意識的な)
いjな:らす者Zogiling>でjあ/り√まっこたくゾ服従ヘニj……;
1き£jlマ資.・│φli/\--> 1≪ J.、、、エ1/
トによ
1/ _一犬l /ゝたrtrt/−l-x≠flt?/│ふ・│・/
ぎ起yこ\さソれるこ。
と義務づけノられ:な‥いレとしても、ト従属ぺとj義務づ\/1..y=1万一
kyの不快で苦
けられてくお上りレ√<未熟>であり√そ口者に=は価△し
方法くはミその
値に満ぢ溢れた人間性の何かがまだ欠けてゾいるレニづ
本験奄意識か
し加し<教育>の最も重要な伴音はゝ・∧教育客:体∧j………jll
√「乙工の抑圧
の不自由、4……教.育客体が委ねられている¨こと、二教\…………:=・・y
し無意識jの
育客休め自己決定と自己責任を妨げていること\〉
〉り\「子士ど
である丁(ebenda.)oすなわち√<教育>概念………万ノノソ.ユI.・
;ぐの時期の
に共通している=のは√「他の人間を改良七、変1……………:……1
プ出を抑圧
えようノとする要求丁であ町√そして子どもの生
き方や価値観比:対するブ他人による決定と干渉」
(A,80卜である。……万そ・こす・は子ど/も画寸吋己決定
した占フはI
しと統合性丿は否定されでいるし八子どもしに対す
る万「尊敬」尚もフ見い/だすこ/とができない。 こトの
…… /示………しj=
ザてし
万
.:・.ミW・
U.・.
.
I
「尊散士こぞ水=ましざまな教育理論を評価する際
……
ゲ……=と'jjもj≫4
らなyい。あ
I
ニの試金石・となる◇(ZfK,28)。………= ∧…………
=ノレ………る
対ぐしで親目身万ほ
==UIヽk
I
△こう七寸寸教育イプデオロギー」士は√「あ\ら
どレして)万……=とらく
ゆる政治的抗争め彼岸で子どもと青少年を、大
プ「親は生命、
人の規範……・……目標観念/のこ訟めに徴発する上
予言]も=のう≒ちレにあ
(AS万一、91)∧ものでありご「教育上は√子どもを大
ノと万万・にノな\るj・=jJ……g
.=・J「子ど
人の・望むように改良したいという点て、上子ども∧☆
れこ……=品=位を汚
(とそのしあノるが=ままの姿)に対する非寛容と不∧ソ
心れたこ
信を前提としている=限り、4「寛丿容/・」尊重犬(信頼レヘ……
レベで=の力
J---・ ・ 4 .1...哺.・・・ − = −・ ■
の理念」ことは相容れないものである。したがっ
I=も憾良き
てそこでは民主主義などは問題に\もならないノ
を汚され、
そしてこの<教育>と<教育イデオ9ギ≒->が
具体化かれた]=ものが<教育ノ(学卜的思考面よ
ため
uagogisり11りb ueiiKen^
daまog爾h卵/D邸ken>であり√<教育\(学)ト=
c <cリ、\45χ目 しニFノ==………
的郷屎p面砲ogischeニ良ns:teUu噌>であ乱レ画=\\万………
るいは逆、に言えばぐ<教育学的思考>と<教育i
学的態度>七いう具体的な実践の背後にあり、上
それを支えレているものが<教育>と≪教育千デ
オロギT>である。=……………/ ……/ \
宍らyでヶいが
・〃− ・・
3)∧ではなゼ仁のようなl<教育イ\デす口
イケデこオ:口
ギー>が土台として再生産さレれるjのか。
…
稲しそれを\ブゲ才卜ら卜才試方士なyのであj
Braunmiihトは<教育学的野心巨dagogisむhβj………iyj;で
AmbitioU>のうちに見る6I扮au:nmiihlトはく教
育(学)……的野心>を<十次的教育/(学)∇的野心
・・■■■■■■■㎜■■ ㎜㎜■・.一一7
…:レ:,ノというソこ………:と==:IZつjG=)七丿悲しI4
にされたか
な:いサ右済ま
㈲∧教育は
、……疎外され
反教育学一一その理論的基礎と原理(池谷)
47
とは、<一次的教育学的野心>を自覚し恥じた1
そこで問題は、<乳児には自律性があるのか
としても、「大人たちは教育しなければならな
ないのか>ということになる丿自律性が始めか
い」(親の教育の義務と権利)というく教育イ
/らあるとすれば√<自律性への教育>は余計な
デオロギー>の前で、自分が十分には教育して
ものと七てミそノもそも成立しなくなる。逆にな
こなかったとして、教育的措置をエスカレート
っいとなれば、教育(他者による決定)は肯定さ
さ廿ていくところに生しるしものである。教育の
れることになる=。結論を先取りして言えば、づ
犠牲者である親は、<教育イデオロギー>にと
Braun血Uh1は子どもの生まれっきの<実存的
らわれている限り、<一次的教育学的野心>を
な自律性existenUemAutondmie>を承認す
さらに<二次的教育学的野心>でもって強化せ
る。……この・・自律性は<自発的自大律性
ざるをえない。「教育学的野心とは、その当時
Spontanautonomie〉>とも、\ま直日.D.Laing
の教育者に対する無意識的な復讐であるふしか
にならっで<存在論的目律性トontologisむhe
七、教育学的野心はその当時の教育者に向かわ
Aut6no
「沁>(『ひき裂かれた自己』阪本健二
ずに、今日の子どもに向かう。すべての教育理
他訳、みすず書房、73ぺ¬ジ)と万も呼ばれてい
論はこうした心理学的背景で成長する」(ZfK、
る。それはI「先行する他人の決定がない自己決
45)。こ・うして教育の悪循環が生じることにな
定上(A、149)と七/七、<う次的自律性>と言
る。 /
われる。これに対して<教育>が求める自律性
は<二次的自律性>である。 =上 ‥‥‥‥
、第2節 Braunmiihlの反教育学の定理 し
トではj・Braunmiihlがくや次的自律性>を主
Braunmiihlは教育の悪循環を断ち/切るため
丿張する根拠は何か。その根拠は、乳児にはすで
に、「反教育学の定理」を掲げる。それは①乳
レに自我と人格状態があるこどであるノ「<人格
児の権威性、②正当防衛原理、③子どもとの友
>をLaingととも/に<二重に>ゝ……すなわち客観
好関係、しである。 十
的宇宙め定位中心としての経験と行為の源泉と
(1)乳児め権威性∧ ダ ……
しての行動とから、定義するとすればぐあるい
H.Gieseckeも含めて教育と教育学は、子ども
ヶゲは<自我>をEriksonとともに<人間の経験と
(特に乳児)の自己決定能力を否定することで
成り立っている。とすれば、「自発的であれ口
「自律的であれ!」という教育学の要請自身が
矛盾を抱えることになる。
Gieseckeの<教育=
\行勤め中心的な組織原理>と定義すれば√すで
に乳児には自我と人格状態/(進化ポテンシャル
としての)トがあることを認めざるを得ない、と
いうめ士もすでに乳児は世界を自分の感官でもっ
学習>論はこうした議論の典型懲ある。という
て経験七、自分の理由で行為し(叫び、眠り)、
のも、・ Giesecke
自分め不安から教育比従うからである」(A、15
では、学習が「服従\Unteト
werfung」√すなわち他者による決定と同一視
6)ノこうした乳児の能動的な性格、自発性は、十
されでいるか石であるよGieseckeは次のよう
J・.Pi昭此\は言うまでもな尚く、しとりわけT.G.R・
に述べ七いた6「子どもの最初の学習はある程
度は、両親が現にあること及び両親が要求する
Bauerの乳児研究以来(例えば、『ヒュ←Tマン・
ディベロプメツノト』ミネルヴ=ア書房、等参照)、
ことへの服従である√そして両親が要求するこ
今白の心理学では、ますます確認され七いる。
とは、すでに述べたように、大部分は、社会が
\こう=した反解釈から、子どもの側から大人に
全体とし七要求するもの、ないレは両親の社会
∧対七で<自律性要請AUto如m1叫nSprUch>
的な階層において慣例であるものである。どの
が出されるよただし√この<自律性要請>とい
程度最初の時期の学習が服従と同一であるかを
\う概念は経験的には裏付けられない6それは<
計り知るためには、新生児が彼の両親と他の大
十仮言ダWQnyD飢n>命題としTご、周囲の。大人
人に全面的に委ねられていることを十分に考え
……の世界め構え≒態度に依存している。すなわち、
なければならないJo)。 I
「自律性が・(‥。:・…始めからの性質として、‥そう
48‥‥‥ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ‥‥高知大学学術研究報告∧第砧巻:……(1り97年)社1
■ ■ ■ -〃←
したこくとを考慮して子Jどもたちと(大人とする………万…………くる:=が1………こ∧う七レだ………こ万と万す=づて=をj乳児恚している.
のと同様に)ト交際しな/ければなら女い諸前提φ\レ……]ごけ性乳児……の・j一一.親゜.・やj.:世・混
一七)として見な・され、:それゆjえ子ども.だ=ちが服丿
従√教育√脱自己化を免れる:とすれば√子ども
た=ちは始めか]ら自発的自律的な実存形態を実現……=:lj;=万万;:
すjるこムとができ希」.ト(か160)o
Braunmuhl
'゛... ・w
?″・ J . ・
V-' ≫-タ・゛・`´`゛・ノりょ
ー ! a ・ t 4 t 4 ・ ` ↓ x . 4 t s ↓ - よ ≪ C N - ^tt・、
.・ぺで:.・j
ノミーy.
一次的自律性を否定し二次的自律性
1=を求めくる≪十……=万万:
教育、(学)二的自立>に対して、……始めかゲら☆次的
自律性を前提とすくる付立を<政治ノ\(学)‥的
自立>〉①GK、41)二と呼んでいる。\……\………
また教育学者だ万ちは、ノ乳児の依存性や未熟性、………yj万万
無力・さから√子ども・に対する,大人の<教育>め………レ。jJ・
I)
必要性を主張してき=た。丁教育学者だ=ちこは√世∧]
代間の交際において:は大人たぢが優位々あこるゾしレパ
do・inieren優位でな廿れ万ばならyない恚い今点……:
で¬-致しでいる」,=でA√223)めであうるj丿そのト………
例と:して士Braun出面1犬はGieseckeづの次の一文 \
を引=用jして・いるよ「教育lにおける」支配の唯一の………万1=
正当化は√今日では個体発生的に条件付け言れ
ぐ]彼らソの活動を提案
た未熟さ卜口うちに=ある」1几しか七、し乳児
…………こ/4:」……/1(=lt
の例からノは逆に、上大人との関係で実際に優位な
のは乳児であるノ「あくる理性的なこ→一愛のない
ないしは教育的な母親とは反対に一一一一母親は、
権威や優位を要請せずに、自分の乳児に服従レ
でい:る、それはただ乳児がひじょうに依存して
お・り母親を頼りにしているから・という\理由jかレら
である。 (中略)し彼女はぐ=自分かではなくて・、:
乳児が自分には何か欠けでいるかを知・つてもい
るしし合図もすることを認識している。すなわちて
.-一甲-'一一・
-・ .ご . --● '㎜・--・・・ − − ミW /  ̄・・〃.● 一一.
乳児は(あらゆる意識性比先だうで卜知覚コyこレ万万・J
ピテンスぐとコミュニケ→レションコンビテンズを
持つトでお力√始めから自己決定の能力を持づて
いるのでjある土(Aj、恕4赳。このように乳児の指
示に母親が応ずるとすれば、こめことは、実際
には「乳児が権威であり正当な上司である\ごと⊥
(Å、225)を意味仁でいるノ ∧‥‥‥‥‥ニ
犬Braunmiihlは別のと犬ころでは、乳児ノと親ダ
\保護者どの関係を√前民主主義時代の専制君主
と廷臣、農民との関係と比較しながら論じてい
る。jすべての廷臣、手工業者く農民が専制君主万
の願望や命令を気にしな=1ければミそjめ王は荒れ‥
狂い、ニ叫び回うて、ごういこには顔を青ざめで諦め
j・=J=
49
反教育学-その理論的基礎と原理万(池谷)
し合う」(A、237)のである。 ∧ し
している。「友人たちは教育し合わないけれど
(3)子どもとの友好関係 犬
も、しかし不当な干渉に対しては互いに防衛し
こうした大人と子どもとの反教育学的な関係
合う」(A、237)めである。 犬
をBraunmiihlは「子どもとの友好関係Freund-
Braunmiihlは子どもと=親との友好関係を
schaft
mit
Kindern」
と表現する。
Braunmiih
「客Gast」しと「ホスト」との関係になぞらえて
lによれば、「今日子ども期-ただたんに就学
いる。「子ども好き・子ども友好的な親が教育
期間としてではないー一一は子ども敵対の時代で
学的には考えて行勤しないことは明らかである。
ある」(ZfK、7)。多くの親たちが<教育学的態
彼らは自分の客をもてなし、すべてその客の気
度>で子どもに接しているからである。こめ
に入るよう=にすることができる時に喜ぶ。彼ら
「子ども敵対性」のオールタナティヴが「子ど
はその客を判断しないし、その客の将来を心配
もとの友好関係」である。
Braunmiihl
は、<
しない七を\め客の関心事に干渉しない、要する
Freundschaft>概念を、「親切・好意Freundli-
に、ニ彼ら鍵客の権利を尊重するのであって、わ
chkeit」(「子ども好きKinderfreundlichkeit」)・
が子が、親の客との友情を濫用しようどする考
概念をはるかに超え出るものとしてとらえてい
えを思い付<時にだけ、コ<服従>を拒否する土
る。・Braun血iihlによれば、友人Freundeの
(ZfK、26)。 犬
開か親切freundlichなものであるとしても、
子どもとの友好関係を持とうとする=と、当然
そこに賠勲さや偽善とい\う意味での親切・好意/
大人の責任という問題が浮かび上がるノすなわ
Freundlichkeitが出てくjれば、友好関係
ち、大人が子ども敵対的でもなく、教育もしな
Freundschaftはだめになるし、また一方が教
いとなれば、親は何に対して責任を負\うべきな
育学的な考えを思いつくやいなや友好関係はそ
のか、という問題であjる。これを考えるために、
の基礎を失う。これに対して、/友人が互いに信
Braunmiihトは「親め心配・。し不安A面牡」を次
頼しあうことができると言う時、これは核心に\
の5づのパースyぺ1クティヴに分けて論じている。
おいて「他者が自分をあるがままに受容するこ
すなわち、第一に、し親にとっては「快適なでき
と、他者がたしかに求められなければ干渉しな
るだけ調和のある1日の経過上が大事で、困難
いが、しかし彼はあらゆるあり得る援助のため
が生じると、それをできるだけ速やかに解決し
には呼び出しに応じること」(A、235卜を意味
ようとする。これが「日常のパ市スペクティヴ
している。 これがBraunmiihトの言う友好関
あるいは現実的なパースペクティヴ」(Pi)
\ ■■ ■
係Freundschaftである。
である。 しかし親ぱしばしば、自分たちが正し
:こうした友好関係は強要したり何らかの方法十
く行動しないと、明日あるいは明後日ふたたび
で操作的に作り出すことができない。友好関係
ある困難が起こることが/あるくので。はないかと、。
は生じ、友人は、求め合わずに見づけられるの
心配する。これが第二の丁短期的なパースペク
である。しかしそれが求め合ったものならば、
ティヴ」(Pト2)である。また親。は特定の人生
彼らの関係は結婚に似た似非友好関係となる。
の時期、新たな状況を機にそして切迫する危機
すなわち独立の要素が欠けており、当事者は互
の長期の見通しにたづて心配する。これがて中
いに「利用し」合うようになる。その時にはそ
期的なパースペク・ティ丿」(P3①である。\さ
れは友好関係ではなくて、ただ「パートナーシッ
らに、親は自分たちがかべかく行動すれば、トわ
プPartnerschaftJ
が子は大人の時にどうなっているだろうか、と
(A、236)である。 この点
で、「<近代的なパートナーシップの教育>と犬
心配することもある。=これが丁長期的なノドース
いう概念は教育イデオロギーのもう一つの策略十
ベクディヴ」(P4)であるふそしで以上のす
でしかない。主人と奴隷もあるいは客と売春婦
べてのパースペクティヴは「社会的なパースペ
もパートナーである」(A、236)。これに対して、■■■
クティヴ」(P5卜によって補完されている。
友好関係には先に見た「正当防衛原理」が内在
すなわち、親は国家、経済、民主主義、ご平和が
50
どうな⑥だろうレカベ……そしてわが子がこれレらめ咄.
責任は
来事とうまく=やう\でいける=かどうかを心配する/
寸子ど
(ZfK,115)o……………………万…………ノ=犬………\…………I:
上φ原こ
レしかし以上め:5づめパTスベクテイ∧ヴのうぢ、………………理エ.I.―4It
P1ノだけが特殊性を持つでいるoすなれちぺ…………ゾ社会>を展望す……=jるノめ寸あるjよ………レ.十十十=………\………=I.J………
れうる」。ニ(ZfK・、116)トのであよるノこれに対して、
将来の成果に関する決定はまったく違=つでる・。
例えば、教育する親は現在の子どもに関七て心
配しているめ懲=はなノぐてミ「彼らの功名心の将
来に関七で不安(心配を抱いている)レ‥づま唐=
「彼弓は=自分の子ども。だ。ち・=に高一一い・目標を定;め・、・
高い期待と要求を彼ノらの子ども誰将来に向けで
いる」ぐ「それゆえ将来に対して責任をもづてい……,:万。
るだけTぐある」(ZfK,122)。二だが√官分の子‥ど\\
もの将来に対して責任があると考えるやいなや、………::I
「子どもこ=は自=由な主体としてでは方トくて√ただ=ト
Tマリオネヅ\ト=、ロボッ\ト、機械としてのみ現れ∧
るJ
(ebenda.)。‥‥‥‥ ‥ ‥ ‥‥‥‥ ‥‥‥‥‥‥‥:
これに対していBra面皿Uh卜はし「そ\も。そ:もあ入
る他め人間の将来に対七で責任を持つことはで
きなレい」しと主張するよ私かPIの領域で子とも\
と会話をして√子ど右と私か直接的にくよい>
ミ・--9http://www.jp`.″〃IW″¶「゜・」一二4ノ・・・4` ベミ'.・
/. .・.・
<正しい>/と判断する決定を行っても、……これら…………j万:
<正しい>と判断する決定を行っても、……これら………………れ=Iで4=?万=るJ、
め決定が将来と社会的な利益と:にどのような一……=∧∇nati.と
定の影響柴及ぼすかを知るこ七はでプぎ=ない。∧紅上士]血贈時
しろ寸子どもにとらて今日悪ければ、ニ子ど為に\ト加圃
とダで4:ま明日√翌年献トそトもそも悪卜とい∇う公…………:grupi
算のほうIが、……今日子ど有にことぅて・よこい時よ、りトも………JI.・:;・
大きい」(ZfK、124)o………そ:こて?私かできる=こ:とは√<レ
「Pl」領域のなかでだ/け、ノ子どもが何によニらて自\\………」・
「Pt領域のなかでだ/け、ノ子どもが何によノらて自………:………」・i」・4di万一:宍:1万:・tier..・」・:
由と幸福のよノうな概念を具体的に実現する:かを√レ………j
子どパも/と<交渉七で取カ:決め名・au.sh=臨de拓>………\………こ.
こと」(ZfK,125)で画るレごうして:Braur面Uhト\y
はぐ大人=が自分の子どもたちに対す⑥責任を
要求する権利に反対する。寸私の見方ではミ大
人たちは彼右自身四行為に対すくる責任を担うの
であ・つて、=子どもトに対す蕃責任をではなこいノ
51
反教育学一一-その理論的基礎と原理(池谷)
ることを決心する(U、199-200)。その第一歩が、
反教育学を平和的な手段でもって社会へともた
「私か初めておずおずと子どもとの私の経験を
らすような反教育学者もいる。私はそうした反
ミュンスターの児童保護連盟で報告し、その市
教育学者に数え入れられるし、彼らの仲間の中
の連盟の当時の理事であったJans-Ekkehard
から1978年来子どもとの友好一運動が発達して
Bonteが全メンバーに私のポジションペーパー
きたが、この運動は反教育学をリアリスティッ
を送った時」(U、200)であった。そして1978
クな日常実践へと置き移すことを追求し教育学
年10月30日に、Schoenebeck は Jans-
的な人間に関係・繋がりと対話を提供するもの
Ekkehard
である。これらの反教育学者は、彼ら’の攻撃的
Bonteら8人の仲間と共同して社団
法人<子どもとの友好関係一支援サークル>を
な共同闘争者と同様に反教育学的な諸命題とは
創設し、理論的実践的な啓蒙運動を展開してい
一線を画しはしない。しかし彼らは、反教育学
くことになる。
的な諸関係への変革は今日の権力者、教育学的
Schoenebeckは、1975年来、反教育学の創始
に自己了解している人間の情動的な方向転換
者であるBraunmiihlと共同研究をし共同行動
Umorientierungを前提とすることに賭けてい
をとったりしていた。しかし、基本的な戦略の
るし、教育学的な人間のうちに一一彼らの見方
からもその人間の破壊的な作用にもかかわらず
違いもあって、Braunmiihlは先の支援サーク
ルから脱退していくことになる。
Klemmも指
ー、建設的な関係に入ることが人間的に必要
摘しているように、またSchoenebeck自身が
であるばかりではなく核心からして不可欠であ
筆者にも語ったように、その違いとは「E.v.
るところの隣人を見る。反教育学的なことを知
Braunmiihlが<政治的行動>をプロパガンダ
らせるための前提は、呼びかけられた人が感情
しそのイニシアティブを取るのに対して、H.v.
的にも内容に向くことである」(AiD、49)。
Schoenebeckにとっては、教育学の世界を差別
Schoenebeckが、次に見るように自分の立
しない啓蒙・助言活動が、教育フリーな(彼は
場を<反教育学>と呼ばずに、もっぱら<子ど
これを<ポスト教育学的な>とも呼ぶ)生活態
もとの友好関係>と呼ぶのはこうした意図から
度の理念を広い範囲に普及するという目標を携
でもあろう。
えて、前景に出て来る」(QDA、15)、といった
第2節 <子どもとの友好関係>とその理論的
ものである。
Schoenebeckは、反教育学者に対する
Andreas
基礎 \
Flitnerの批判---一反教育学がすべて
ナリスティックな効果を狙っているからだ、と
いう批判(Konrad、 sprach die
Schoenebeckは大人と子どもとの新たな関
係を「子どもとの友好関係」と呼ぶ。
の教師と教育者を激しく誹膀するのは、ジャー
Schoenebeckによれば、「この名称に私かたど
Frau Mama.)
に応える中で、反教育学者を「攻撃的な
反教育学者と攻撃的な子どもの権利論者」と
「反教育学を平和的な手段で社会へともたらす
ような反教育学者」とに分けている。その際、
り着いたのは、私か1975年にEkkehard
Braunmiihlの<反教育学>(Weinheim
1975)
を読んで、どのようにしたらこの否定的な反概
念(<Antipad融ogik>)の代わりに建設的な
概念が見いだされるかをよく考えた時であった。
前者としてフランスの子どもの権利論者
V. Braunmiihl自身は、彼の本の小さな一節に
Christine Rochefortだけを挙げ、自分を後者
<子どもとの友好>というタイトルをつけてい
に入れている(AiD、48-49)が、おそらく前者
たし、その中で建設的なパースペクティヴを示
で念頭に入れている一人はBraunmiihlであ
していた。私にとづてはこの短い定式は、新し
ろう。 Schoenebeck
い関係において実現されうるものすべてを表現
は自分の立場をこう述べ
v.
ている。
している。私の学問的な仕事のために、私は<
「だが攻撃的な反教育学者ばかりではなく、
AmicaUon>(英語のamicable、すなわち友
52
高知大学学術研究報告 第46巻(1997年)社会科学
好的なfreundlichに由来する)を、Freund-
を持=づ=大人々めことで、職業上め<教育学者>
schaft
とは区別されている(AiD、20)-は子ども
mit
Kindern
の専門用語として導入し、
そして1978年、つまり新しい関係のための広報
が自己決定能力を持っていくることを認めたがら
活動の始まり以来、私はFreundschaft
mit
ないがぐSchoen6beckはごう\した教育的態度を
「教育=(学)的タブー」(U,48)と呼んでいる。
Kindern を世代間の新しい共同生活
Mitieinanderのトレードマークにした」(U、11)。
すなわ\ち、「<年少の人々の7i・・.自分と自分の運
この丁子どもとの友好関係」は、Schoene-
命にづいで有意義に自ら決定できるという能力
beck
を認識するな>というタブー」(ebenda.)であ
によれば、次の3つの立場に立脚してい
る。すなわち、①反教育学、②子どもの権利運
る。‥‥‥‥‥十 \
動の諸命題、および③精神力学的な諸認識であ
②の<教育的要求>は、Schoenebeckによ
る(U、12)。先にも指摘したように、Schoene-
れば、すでに見たBraunmiihlのく教育学的
beckにとっては、反教育学は、自分の立場の理
野心>レノ( 正確には<二次的;な教育的要求>)に
論的基礎の一つとして位置づけられている。こ
当たる……=ものであくる。
Scho・enebeckは<教育的
の点て、<反教育学>という基本的な原理では
要求>についてこう述べている。
Braunmiihlとは一致するとしても、その力点
ト「教育:あ\る人がやってく:る、そして他人よ
の置き方が大きく異なっている。その要因の一
りもごの者にとらて何かよいかをよく知ってい
つとして考えられるのは、Schoenebeckが
るという内面的な要求で一杯である。彼は、他
「反教育学の自己了解丁としてあげている重要
な人物の一人がCarl
Rogers
人ぱ自/分自身に関七て、部外者である彼ほどに
はよく〕理解しでい万ないと確信している。そのよ
であることに関
うにしてやって来る者のごうした内的な態度は、
係していると思われる。すなわち、Rogersの
「静かな革命」という平和戦略的な思想(Carl
反教育学によって=、<教育学的野心>と呼ばれ
Rogers oa PersonalPoioer. Die Kraft 面s
る。私は<教育的要求ニelヽzieherischer
Guten、邦訳『人間の潜在力』畠瀬稔・畠瀬直
spruch、>という表現を用いる。 こうした内的
子訳、創元社)がSchoenebeckに対して大き
な態度から一一一昔/れゆえ教育的要求からー一行
な影響力を及ぼしている、と考えられるのであ
動か生じる時、部外者が他人め最善についての
An-
自分の見解を実現し始める詩、彼はその人を教
る。
(O反教育学 上\
育し=始めてい\奉』:lj.い(=U、55)ふ……、レノ……I
まず「反教育学の本質的な命題は、<教育要
その際、との人は実際に、「他人にとって何
求>(<教育学的野心>)を教育行為の基礎と
かよいかを、この他人自身よりもよく知ってい
して取り出したこと、そしてこの要求を拒否す
るこどである」(U、12)。
Schoenebeck
=るといレう要求=・\自負Anspruch」を持有、その
によれ
ための<正当性>をも自分ぱ与える。く私の方
ば、<教育>は①「子どもは生まれつき自分の
が経験がある><私は年上だ><私には責任が
最善を自分で気づくことができない、という基
ある≫ぐあるいは逆にくおま(えは経験がない>
本的確信」、そこから導かれる二つの要請、す
<おまえは(まだ)あまりにも小さい>くおま
なわち、②「私はおまえにとって何か善いかを
えは(まだ)自分で決定し自分で責任を負うこ
おまえよりもよく知っていトる、という教育的な
とができこない>とケいう言い分懲である(ebenda.)o
要求・要請」、および③「私か最善だと確定す
それゆえ、Schoenebeckにとって、「教育とは
るものは実際におまえにとって善いことを分か
教育的要求の実現、他人に他人のために<最善
りなさい、という拘束要求・要請」(AiD、19)
>と=して選び出吝ゲれた目標を実現するレために、
からなる。
本題・核心に踏み込むごとdas
①については、教育(学)者Padagoge
Schreitenである。<私は、ダ私がおまえにとっ
Schoenebeckの言う教育学者とは、先の要請
て養いノものとしで選び出したものが生じること
Zur-Sache-
53
反教育学-その理論的基礎と原理(池谷)
を貫徹するあるいは試みる。>これが教育」
いから、大人が責任をもって子どものために、
(ebenda.)なのである。たとえ<教育>にどの
子どもにとって何か最善かを決定するという委
ような形容詞がつけられようとも(<反権威的
託・依頼が大人になされる。ここから、私はお
教育>、<民主主義的教育>、<パートナーシッ
まえにとって何か善いかおまえよりもよく知っ
プ的教育>、<レッセ・フェール教育>、<社
ている、という教育的な要請が出てくる。大人
会主義教育>、<批判的教育>等々)、ここに
はさらに子どもに次の拘束・親切な態度要請
は一つの共通項がある。すなわち「他人にとっ
Verbindlichkeitsanspruchで対する。すなわち、
て何かよいかを他人よりもよく知っていて、こ
私か最善だと確定するものは現実におまえにとっ
れを貫徹しようという、ある人の要求」(U、56)
て善いことを分かりなさい、と。大人は子ども
である。
のために決定し、子どもに彼の見方を心理的に
このようにSchoenebeckにとっては、<教
も拘束しようとする。それから大きくなるにつ
育>とは「教育要求によって支えられた行動様
れて、子どもに発達に応じて自己責任が与えら
式」だけであるから、<影響Beeinflussung
れる。 --一肝心なこと、それは、(年少の)人
>は教育概念からは排除されることになる。
間は教育さるべき存在(homo
「教育的要求と結び付いてはいないすべての影
educandus)で
ある、ということだ」(AiD、19)。
響を、私は教育と呼ばずに、影響Beein-
これに対して反教育学的な人間像は反対の基
flussungと呼ぶ。これらのー−一教育フリーな
本的確信を含んでいる。すなわち「子どもは、
一影響は絶えず起こるし、誰もそれから免れ
生まれつき自分の最善を自分で気づくことがき
得ない」。「私は<本来的に教育的なもの>、す
わめてよくできる、という基本的確信」である。
なわち、他人にとって最善を知っておりそれを
「子どもの代理人という意味での大人の責任は
貫徹しようという意図と要求とはっきり区別し
拒否され、おまえに対する責任の代わりに私に
て、教育的要求がある場合にだけ<教育>と言
対する責任が適用される。子どもたちは自己責
うが、それ以外では<影響>について語ること
任を引き受けることをようやく学ぶ必要はなく、
を優遇する」(U、56−57)。
はじめからこれに対する能力を持っている。子
③の「拘束要求・要請」とは、大人が自分の
どもにとって何かよいかそして子どもが何を必
価値観を子どもに押し付けていく「価値評価拘
要とするかを気づき伝えるのは、大人の任務・
束」(AiD、76)の要請である。「教育者が伝え
課題ではなくて、子どもの課題である。大人に
るものは大人の私事であるばかりではなく、子
残っている任務は、子ども自身が気づき伝える
どもにとっても客観的に正しいものおよび子ど
願望を実現するのを援助する一大人ができて
もを拘束すべきものだという拘束要請」
欲する限りで、すなわち利用されずに一一こと
である。大人は自分の権威を子どものそれに対
(AiD、63)なのである。
以上のような、子どもに対する「教育要求の
置することができるし、正当防衛権を持ってい
取り消し」を行い、教育フリーな子どもとの関
る。大人は自分を子どもの友人として理解する
係や生活様式をすること、これがSchoenebeck
のであって、子どもの教育者としてではないし、
の言う<反教育学>である。
そのモットーは教育するかわりに支援すること
Schoenebeckは
教育学と反教育学の違いを、人間像の違い(教
である」(AiD、19-20)。
育学的人間像と反教育学的人間像)として、以
(2)子どもの権利運動
下のように総括している。
子どもとの教育フリーな関係は、子どもの自
「教育学的人間像は次の基本的確信を含んで
己決定能力を前提としているから、当然子ども
いる。すなわち、子どもは生まれつき自分の最
にも人権を保障することが求められてくること
善を自分で気づくことができない、という基本
になる。すでに見たように、Schoenebeckは70
的確信である。子どもがこれを(まだ)できな
年代のアメリカの「子どもの権利運動
54
高知大学学術研究報告〉第46巻(1997年)ト
Children's
Rights
けRichard
FarsonとJohn
Movement」から、とりわ
Holtという2人の
ることは、万大人の人間の歴史的な責任と義務で
ある。あらレゆる年少の人間はその年齢に拘わら
子どもの権利論者から大きな影響を受けていた。
ず√大人の人間の権利・特権・責任を制限され
その基本的な原理は√大人どの伺権及び子ども
ずに使用すヤる∇ごとができる可能性を保持七なけ
の自己決定の尊重である。
ればならない。 \\上
「子どもの権利運動は子どもの同権を要求す
る。どの人間も生まれつき自己決定的であるか
I 基本的権利
らである。そこから、大人には近づくことがで
第1条\平等権 十、\……… ………
きるすべての権利と特権への道を年少の人々に
年少の人間と大人の人間は同権を有する。
も与えよ、という基本的な要求が生じてくる。
子どもはいかなる状況においても大人よりも
年少の人々が大人も行使できる諸権利を行使す
悪い状態におかれないよ子どもは大人とほと
るのを誰によってももはや妨げられないことを
配慮する国家的な保障が与えられるべきだとさ
れる。その際、これらの権利が子どもに授けら
してよい。 \
れないことは明白である一一一一彼らは生まれつき
第2条 自由な展開Entfaltungへの権利
それを持っているのである。防衛手続きにおい
子ども\は、他人の権利を侵害しない限りで、
てただ配慮されるのは、彼らが権利の行使を妨
ト自己の人格を自由に展開する権利を有する。
げられないことである。というのも、基本的な
第3条/法的責任に対す右権利
権利は定められるものではなくて、存在するの
子どもは自己の生命と自己のなした行為に
であるから。例えば、自分の学習自身を決める
対して法的な責任を取る権利を有する。
権利、選挙に参加する権利、あるいは居住移転
〉第4条 レ法的に聞き入れ;らレれる権利 I
の自由の権利のように、である。新しい関係は、
子どもノぱ、ト法律と裁判1に=対して大人と同じ
子どもの権利運動と他の人類の解放運動と同じ
権利を有する。子どもは、自分の権利を貫徹
基礎、すなわち自己決定に基づいている」(U、
するために、自ら裁判に訴えることができる。
12−13)。
H 社会権十 <‥‥ ‥ ‥‥
Schoenebeckは、アメリカめ子どもの権利運
ニ第5条I……法・一一的生活に参加すjる/権利 才六
動に刺激されて、「John
子ど‥もレは、法的生活に制限されずに参加す
Holt とRichard
Farsonによって1974年に掲げられた諸要求一
る権利を有する。子どもは契約を結ぶこと、
一これらの要求は子どもの権利運動の基礎にな
財産を処分すること、I商売を始めること、団
るものであるー--一一を収集し、補いそれらの要求
=体と党派を創ること、およ。びあらゆる他の形
をドイツの事情に関連づけた」<ドイツ子ども
態で法的拘束のある仕方で活動することがで
宣言>(JE、90-94.)を1980年5月3日に出し、
きる。 y コ、
子どもにも基本的人権を保障するように求めて
第6条 公的生活に参加する権利
いる。以下にその内容を掲げておこう。
子ど‥も才は、公的な機能上。ダ職務を引き受け国
レ務にうく]権利を有する√ゲ1‥‥‥ ‥ ‥‥
ドイツ子ども宣言
第7条参政権 十
前 文
子どもは選挙権及び被選挙権を有する。
人権は不可分である。子ども、男性及び女性
第8条 自丿由な意見表明の権利
は同権の権利を有する。あらゆる人間は生まれ
し 子ども………47
っき自己決定の能力を意のままにしている。年
におい竹自由に表明し広める権利を有する。
少の人間der iunge Menschの自己決定権を承
第9条 報酬をもらって働く権利
認七その者がこの権利を行使することを支援す
子どもは報酬をもらって働く権利を有する。
55
反教育学-その理論的基礎と原理(池谷)
第10条 生活のパートナーを選ぶ権利
第20条 宗教的自由の権利
子どもは、これまでの生活のパートナーと
子どもは、宗教へ属することを選び解消す
別れて新たな生活のパートナーを選ぶ権利を
る権利を有する。
有する。
第21条 居住移転の自由の権利
第11条 支援される権利
子どもは、自分の居住地を決める権利を有
子どもは、大人によって生き方において支
する。子どもはいかなる法定閉店時刻Sperr-
援される権利を有する。この権利は基本法の
stundeをも受けないし自由に居住を移転し
正しく理解された看護Pflege
・ 教育義務であ
て旅行することができる。
る。
第22条 データ情報に対する権利
第12条 最低限の収入を得る権利
子どもは、自分について行われているデー
子どもは、大人に与えられている国家によ
タすべてについての情報を得る権利を有する。
る最低限の収入保障の権利を有する。
(Duetches
Kindermズinifest.)
Ⅲ\個人的な権利 十
第13条 子どもにとってよい仕方でkinder-
Schoenebeckによれば、この「ドイツ子ど
freundlich生まれてくる権利
も宣言」は「自己決定への絶対的権利と同権へ
子どもは子どもにとってよい仕方で生まれ
の絶対的権利」を具体化したものであり、<人
てくる権利を有する。これを少なくともソフ
間は誰もが生まれつき自己責任がある>という
トな出産(ルボワイエ法)が保障しているよ
基本的命題からどのような政治的一法的な結果
うに、である。
が生じるかをはっきりさせたものである。
第14条 身体的に傷つけられない権利
(3)精神力学
子どもは身体的に傷つけられない権利を有
Schoenebeckの<子どもとの友好関係>論
する。いかなる折檻もあってはならない。
の理論的基礎には、Carl
第15条 自由に食べ物を取る権利
るセラピー理論とエンカウンターグループ理論
子どもは、大人が手に入れられるあらゆる
がある。この理論は、Schoenebeckによれば、
食物・享楽品を妨げられることなく摂取した
新しい子どもとの関係を感情のレベルから補完
り拒否したりする権利を有する。
するものである。
Rogers
に代表され
第16条 =自分の名前を得る権利 上
丁反教育学が理論的な関心事であり、子どもの
子どもは、自分自身の名前を自分につける
権利運動が政治的な関心事であるめに対して、
権利を有する。
精神力学は感情から補完するものである」(U、
第17条 私的生活への権利
13)。すなわち、<私はもはや子どもの支配者
子どもは私的な生活への権利を有する。こ
でありたくない>という大人が、大人同士やあ
れは家族の内部でも当てはまる。
るいは子どもとの「エンカウンターグループ」
第18条 セクシュアリティヘの権利
的な交流の中で、自分の子ども期(く内なる自
子どもは、自己の性的生活を自分で決定し
分>)に再会することを通して、これまでの子
子・子孫を生む権利を有する。
第19条 自己決定的な学習への権利
どもとの教育的関係から解放されることである。
「私自身が、私にとって何かよいかを当時知っ
子どもは、自分の学習を自分で決定する権
ていた。しかし大人はいつも私のことを決定し
利を有する。子どもは、国家の学習提供(学
ていた。これはいまいましくひどかった。そし
校)が自分に必要かどうかそしてどめ範囲で
て私は屈服して私の自我の秘密の片隅へと閉じ
必要かを決める。いかなる就学義務もない。
こもらざるをえなかった。今日、自己反省と他
国家は提案された学校を建てる義務を負って
の大人のグループとの援助でもって、私は、わ
いる。
れわれ子どもは当時実際正しかったこと、およ
56
高知大学学術研究報告 第46巻(1997年)社会科学
び、この基礎の上で自分の子どもと共同生活ず
子ど=も:大ぢが新=たな関係でjは自分自身の関心事
ることが私にとってよい道であることを知った」
において自分で決定するのと同様に、一及び
(ebenda.)というようにである。
支援を要請したり要求したり、支援の申し出を
Carl
受廿容れたり:拒否したり→われわれは自由に
Rogersのセラピー“論の基本的特徴及び
条件は、周知のように、「一致congruence」、
そして教育の古い罪メカニズムの<責任>感情
「受容acceptance」、「共感empathy」である。
なしに、われわれが子どもたちを支援するかど
「一致」とは、セラピストがクライエントに対
うか宍およびわれわれが彼らに支援の申し出をす
して治療者としてではなくて、あるがままの人
るかどうか、あるいはわれわれが彼らに支援し
間、「統一され、統合され、一致した人間」と/
ないかどうかを決定する」(U、19)。
して関わることであり、「受容」とは、クライ
エントに対して、「クライエントのくよい>、
第4章 BraunmiJhlとSchoenebeckの対立点
積極的な、成熟した、自信のある、社会的な感
情の表現を受容すると同時に、否定的な、<悪
ノ第1節 反教育学運勤めその後め展開
い>、悲痛な、恐ろしい、異常な感情の表現を
先に述べたように、Braunmiihlは当初「子
も受容すること」である。また「共感」とは、
「クライエントが内面からみているままに、そ
の世界を適切に共感的に理解し経験しているこ
どしとの友好関係----一支援サークル上心も参加
していたが、1981年の終わりには戦略上の違い
で脱退している.しかしその後もこのサークル
と」であり、「クライエントの(私的な)世界
とは外から.協力し続けてきたように、
を、あたかも、自分自身のものであるかのよう
Braunmiihlにと)つては両者の間に決定的な対
に感じ」ることである13)。
こうした条件に基づいた大人と子どもとの関丿
立があるとは思っていなかったようである.
(たしかにその後実りのな/い対決があったが、
係においては、コミュニケーションの中で相互
しかしDr.v。Schと)6nebeckが反教育学を利己的で
の自己主張が行われること((自己主張の正当
きわめて不真面目な目的のために濫用している
防衛権JU、17)、しかしお互いの人格や内的世
という考刄は私には相変わ\らず思い浮かばなかっ
界に介入せずに、お互いの自己決定を尊重する
た丁(WA、17)o違いは、すでに述べたように、
ことが求められる。「大人は新たな自己了解一
運動上でめ力点の置き方の違いにあったと考え
一自分の子どもたちのきょうだいのようになる
られていたようしてある.こ犬の戦略上の違いの背
ーを引き受けて、この役割でもって子どもた
景には、ドイヅ社会の現状認識とそこにおける
ちへと歩み寄る。子どものためにではなくて、
反教育学の意味と位置づけをめぐって、両者の
彼ら自身のためにである。これらの大人はもは
間に意見の相違があるようである.……ここら当り
や、自分自身及び他人との交際において敬意に
の事情は、『反教育学Åntipddagogife.』の新版
満ち、同等の権利を持ち友好的であるとは違っ
(1988年)の「後書き」に窺い知ることができ
たふうであることを欲しないしできない。さら
る..・.・.・.・ .・. ・.・ ・. ・・. ・.
に、彼らは生まれつき人間の自己決定から出発
Braunmiihlはイ反教育学』が出た1975年以
し、自分の子どもたちと始めから、これらの若
来の12年間を振り返って、トその間に世代間の関
者の主権・独立Souveranitatを真面目に考え
係においては多トくjの.こと=が変化した√と言う.
る関係を受け容れる」(U、17-18)。 こうした大
人と子どもとの新たな教育フリーな関係を、
すなわち、<土合一上部構造>モデルで言えば、
「1975年以来の諸変化は主として土台(人間間
Schoenebeckは汀支援Unterstiitzung」と呼
の位置=関係)し=で起こっていて、そこでは一義的
ぶ。
な発達方向を示七ている丁/のに、「教育学的上
「支援は同等の権利の基礎の上で行われる。
部構造のレベルではきわめてわずかな変化しか
子どもの権威性にわれわれの権威性が対置する。
起こら/=なかった」(A、277)o
反教育学=その理論的基礎と原理/(池谷)
57
:前者の土台での変化とは、\後で挙げる2つの
両親のために生きでいるのではなくて、両親と
条件が、学校という強制システムを度外視すれ
共に生きていることが、意識されている(ない
ば、親どの間ですべてのではないが多くの子ど
しは感情的に明らかになっている)」てA・、288)
yもたちによって実現され、その結果、こめ子ど
ことである。「こ/の条件下では、子どもたちは
もたちにとっては、Braunmiihlが反教育学で
たいてい、極端に教育学的な態度を取る両親・
主張した「<教育の廃止>はほとんど重要でな
教師・教育者に対しても、彼らを意のままにす
くなっている」(ebenda.)という事態が生じて
るためぱ十分な交渉手腕と必要とあれば自分の
いるということである。 したがって、
意見を押し通す能力とをもっている。そしてこ
Braunmiihlによれば、今では上部構造レペル
れがうまくいかない時には、子どもたちはそれ
での多くの対決は「何か幽霊のようなもの土
でも彼らから:内面的に距離を取ることができる
(ebenda.)となってしまっているという。
1975年当時は、子どもたちは「劣等な人間
(場合によって:は外面的な見せかけの服従で)丁
(ebendふ)。・。・・。・ ・・
Mindermenschen」として扱われ、「子どもと
しBraunmiihlによれば、こうした変化の中で、:
いう人間Kindermenschen」だとは認められて
干反教育学」の誤った発展が見られるという。I
いなかうた。「子どもをさんざん殴ることは数
:反教育学は丁解毒剤」\として<教育的態度>の
字の上ではドイツの国民スポーツのナンバーワ
毒の作用をなくそうとするだけなのに、すダぐに
ンであった、そして<不安のない教育>や<罰
のない教育>を支持した者は、健康な国民感情
(またたいていの<科学的な>専門家の感情)
まもなく再び特定の(教育学と精神分析学)レア
1カデミシ十ン=がこの新たな分野を占めて新たな
規範を作りだしている。「例えば、=人は精神分
から、夢遊病者ないしはアナ・−キストと呪われ
析的な取り扱いや特殊な自己経験グループには
た。教育は当時危険であったし、犬たいていは子
じめて参加して、子どもだちと<正し<>交際
どもたちはその両親に、事実根本的な不安から
することができなければならない」(A、284)
服従していたのであうて、彼らの自己価値感情、
と。すなれち「反教育学的土な見せかけで<教
自己信頼、およびとぐに自己意識は高が知れて
育イデオロギー>がまたぞろJ出てくるのである。
いた」(A、278)。 犬
Braunmiihlは反教育学を「橋」というイメデ
しかし今日では事態はまったく変わうている。
ジでも考えているレすなわち=√反教育学は<劣
それは、次の2づの条件が子どもによって実現
等な人間パラダイム>からく子どもという人間
されているからである。その一つは、「子ども
パラダイム>(この用語については、DhG、158、
たちがその両親と教育者に対してどんなきわめ
参照)卜とて渡ることIJberga贈、ト両岸の間の=
て大きな不安、例えば厳しい罰や首尾一貫した
橋上(A、285)∧なのであしる。「橋はそれを渡るた
無視に対する不安をも持つ必要がない」ことで
めにある。橋はそこに長逗留するためにあるの
ある。もう一の条件は、汀子どもたちが、自分
jではない」(ebenda.)のである。ところが、こ・
がすでに自主的なeigenstandig人格(例えば、
の点を<社団法人子どもとの友好一援助サーク
無条件に従わくねばならない>のではなくて、
ル>の責任者たちは見落としている。汀彼らぱ
従うかいなか¬一般的に言えば、教育され
そめ<綱領>を<生命哲学>と呼んで、文字ど
るかいなかーを自分で決定する人格)である
おり<反教育学的に人生を生き抜<
ことを経験している」こと、すなわち、「子ど
11月の『教育の彼方ぺ』という基本的なパンフ
もたちには、少なくとも出発点であるいは少な
レットの中で)十ことを勧めている丁(ebenda.)
ぐとも批判的な状況において、自分が自分自身
からである6・。・。・。・ ・・ 。・ 。・
>
(1986年
にどって最も重要な人間であること、自分がま
ところで解毒剤には適当万なさ/じ加減が必要で
ずもって将来のためにではなくて、現在におい
ある。しか七反教育学の啓蒙の解毒剤の使用に
て実存していること、しかしとりわけ、自分が
は、二うの両極端のさじ加減が見られるという。
58 \ …………j………高1知大学学術研究報告……第拝巻デ=……:=I=:(1997年):社会科学士………∧=\……ノゾジ…………\ゲ……=……
→う壮丁少ないさじ加減Unterdosie百噌」\で………=∧寸願粒も千巴:yjも、か:jち4中私φ人格大願望……、万希望、
あり、ノ他方は千だ\くノさんのさ心加減ijberdo血-………=]……私聯尺度七……意=見を拘束七よ⑤七万望紅権利:がな=い
りリ・ノ.ゝ:・11SノJ・W.Cあ.|.S.しV・cr
Zり゛jz t-' kノ・・りUt/Wi v_jりり・tz・ノQ・り
nnぱ」∧で弗=る.∧前者は、丁新かな:専門家、=□平平
ス八十卜\√ヤカ/デミジ1ペレI指導者が十方で開十<あ
業レし、レ他方T右は彼ら=が実際φ当該者によしらて=物>……万.:=万一宍1万一J
知りとしで=受け入れられ毎時卦(ebenda.)▽に生\::yj・
じてくしるレ後者は、ダ<子どもノとの友好一援助サ÷……i/……j
クル>に見\られるノそこでは<責任>、と=いう概………:ソlyj=こj
次元を開け
念が√きわめて万問題の多い仕方で扱われでい右ト\犬
誤り→こ
からであるレすなわち、=そノこで出され=でいるパ………万・・
づかせるこ
ンフ:jケレ丿犬ト………『・教・J育牡彼万方へJenseits……del
ErziehungJ
(1986年)では、丿子ども∧は高い価/………万=:j
jないように
値で育成さ\れ訓練された自己責任者、とし七この士………:万万II、:
世に生まれてくる丿(Sユ4)\とずら言われ/てい……………=ヽ
るがら:であ/るレこめ<目己責任>概念にづいて…………j・・:・.
:1
I
告士し毒・=(教育イ
は後に論じレるが√Braunmiihlは千このよう力 ………万==・.・1.1
を盛る大辻悪行
主張→例えば√<あら・ゆる人間は生まれっき…………=………
に、\人は健全で
自己責任=を持っている>といノう命題をも斗は\……y……
あyるふ/先の反教
重大な過失だニし√反教育学的啓蒙の評判をすべ
言レえ=ば√「人」は
てlのいレくニぶん理性的な人びとの間で悪\くするの
に√こノの橋万を科
にうってうけだ」ニ(285)と、厳しく批判七でい
わず√二レφ橋自
こた
る6\∧\\十JI‥‥‥‥ ‥‥‥‥ ‥ ‥ ‥‥
しさ∧らに、∇Braunmiihトにょれば、丿9行年以来
の反教育学の文献の中でぐあ=る意味では<教育
学的な>チ]−ゼが主張/されてjいるとこいニう。÷つ
は、丁大人たちはミJ∇レ・・も:Iし子ど虻との交際で恐ろ
i……カゝ:のど,ちら
=しい災禍を引き起こぞうと望ま]ないならば、ま
呪\ノ\\……万
ず自分自身何とかしてきちんとしなければな/ら‥
言\じ加減さ
ない丁(A。286)コというテーゼであくる6「自分目
身を受け入れないものレは√子ど転をも受け入れ
トれた」ぐ
〉て:はV=ク
ることが=できない土としはレしば言われる6/こ\こ
ではしS(玉oenebeckの名前が挙げられすいない
が、彼画著書/『私はあ。るがままの私を愛すそん
沿加○mich.soLuie
iむれ biれ』しか念頭に置かれ
て:いしるつ\は確かノでjあろ\う。 こ\れにノう∧いて
Braunmiihトはこう、批判する・。………、犬1.1 …………
=プ=の関
ト……=的責
スソY:るし
……「たしかに、私社自分を愛七、受け入れぐき
プ万ぱまづた〕く=天
ちんとしでいる人間は誰でも:喜んで認める、七
にこめ啓蒙がし
かしこのごとを子どもに対する責任あヤる行動の
条件だと説明する者はぐノはるか\に行き過ぎをし
よ]=こIの解毒剤
ヤ……゜はTと……llこ
カijJくで=j
,
反七で流し込
てい=るレまさに私か自分自身をきわめて批判的
解毒剤くは√そ
に見る時こ\そ√私は、し子どもたちを教育する、/
するトという意
59
反教育学−その理論的基礎と原理\(池谷)
味は持っている」(A、289)。「両親は前々から、
Sむhoenebeckの反教育学とBraunmiihlのそれ
彼らの子どもたちを<正し<五chtig>教育し
どが比較され√次のようにSchoenebeckの主
ていないので:はという良心の呵責を持っていた。
観主義が高く評価されていたからである。∧
この呵責は余計である。 しかし今日ますます多
`「Sとhoenebeckと彼の反教育学に関して、
<の両親が、彼らの子どもたちを<正し<>教
私はご/客観的な真理の思考システムを立ち去ら
育しないでいないのではぐという良心の呵責を
ずしては、彼の自:己了解と彼の論理とに迫るこ
毒持っている。そしてこの呵責も/同様に余計し
である」(A、289-290)。干反教育学的に解毒され
とは不可能だということを確認七だ6彼の反教
育学の決定的な要素は√その反教育学が客観的
た子どもとの交際のもとでは、正七さRichtigニ
に正七いとか誤りだという認識を背景にして評
keitが問題ではなくて、もちろん率直さAuf-
価される=時には、◇理解され得ないままである。
richtigikeitが問題である。あらゆる年齢の人
ざらに、‥私は、Schoenebeck
の思想が首尾一
間の現実と真実が肝心であり、新しい経験に対
貫して考え続けられ、るなら檀√反教育学とは何
して聞かれていること、諸問題の共同の解決が
であり何ではないのかないしは誰が反教育学的
肝心なである」(A、290)。十 上
で誰がそうヤないかは客観的には確認し得ない
白こめよう‥にすで・に1988年の時点で、Braunmiihlは自分の反教育学とSchoenebeckのそれと
こと柴推論した士(S.142、wA、21より/引用)。十
こうした経過め中=で、Braun血岫1はSむhoene-
の違い、Schoenebeck理論のはらむ問題性に気
beckに対する全面的な批判が必要だと痛感し
づいてはいた。しかしその対立が明確に意識化
た。/そこTさ!997年に丁一種の公開状」>としで書
されるには1995年まで待たねばならなかった。
かれたのが√『反教育学的啓蒙とは何か?ラディ
そのきっかけとなったのは、Braunmiihlによ
カルな教育批判の誤解・濫用・/失敗1仇sニ泣
れば、一つには、19卵年の秋に聞かれた反教育
antipii血gogische Aufkldru昭?ニMiBuerstdnd-
学者と子どもの権利運動家の会合でのSchoene-
aisse、MiPbrauche、
beckのかたくなな態度であった。 そこでは
Er2iehiむ昭s節託ikl
Schoenebeckの核心的な命題ダに対する再度の問
M印吋(漏e
(Kid-Verlag
好関係⊥サークルが宗教的なカル=卜と化しShoe二
ばで帰って七まったのである。「それぞれの参
nebeckがそのグルに堕してしまっIていること、万
加者がわれわれの関心事の停滞をできるだけ克
ぞの哲学的な根拠となっている4つの重要な基
服する/のに、何をなしうるめかを自覚的に説明
本概念→<自己責任Selbstverantwortung>
七だ時、Dr.von
<主体性・j主観性Subjektivi一位t><内面的世
に満足しているし、これまでとま・つたく同じよ
界の尊車Achtung
うに継続するだろうし、まあ10年後もそうだろ
社会性Soziali位t>犬がSchoenebeck流の<
う、と述べた。彼が自分の活動を止めるこどで
主観的な>解釈を施さ\れているにと、ニすなわち
われわれの共通の事柄に最もよく貢献できるの
彼の理論的な建築物がまっ犬くの丁砂上の楼閣」
では、という彼ぱ対する私の自発的な勧告を、
にすぎないこと、\を暴いでいる。
彼は眼に見える反応もせずに受け取った」(W
は、Schoenebeckとて子どもとの友好関係上
vor
d政治ne恥nWelt><
A、20)。 ニ\
サーIク少が<反教育学的啓蒙>に果たしている
二つ目のきっかけは、1996年2丹に彼に送ら
役割を√今や次のように否定的に総括するまで
れてきたChristian∧Baerbaumの学位論文、
Zur
Einheit
und
Differenz、Rezeption
i£几d
K凡も汰 臨r Antip d
Hamburg
Universitat、
dagogife.Diplomarbeit、
Februar↓996.であっ
た。そこではSchoenebeckの側に立ちながら、
1997年)し‥であ
るノこトの中でBraunmiihlは、て子どもとの友
い合わせに対して、彼は表明を拒否し、会議半・・
Schoenebeckは、自分は自分
derニradihalen
に至っているレ。 ニ
ダ「反教育学的な啓蒙(この啓蒙に対して私は
1965年来そ‥うする義務があると感じてたし、こ
の啓蒙は1975年心『反教育学』とヤう著書がで
るとともにまったくよく活気づいてきた)は、
Braunmiihl
60
1978年ノ(く子どもとの友好関係÷援助ザ十クル
>ミノユンメター口)創設)\以来およへびと.ぐに↓980
年(そごか石宣言された<jドイ……ツ子ども・宣言≫)
以=来、……I公共ではもはやま・七=めなプ廿ジ1・ク土お:…………I・.:・わi。.・:も・y・I・、
よびやくり=甲斐のある重要な任務としては認めレら
れず√世いぜい時代精神の誤解yないセは秘教の
味付けをさトれた思想め]サラレダ,として認めIられて
:理性的に討、反教育学的:な啓蒙が
関係Freund・−
ペノFM=K)しに
を怖九才て尻込
みソレだ」グ(WA,8)c
丁子どくもデ,
jと.・t・ヽ.:jう.・.・人間
.
第2節フBraunmiihl………とSchoeねebeckの対立点………,……\.
では町a血血萌トとSむh6e面beckの基本的な………=::E
対立点性どごにあるのか。いその十つは√すでに ∧口
見たように反教育学の戦略上の違いで]あらたう上:・……I.・I=え
ずるソこj(,とI.).・Iを・・j.1万も・・表して:い:るノ・こ
Braunmuh卜は反教育学を教育学的千デオ=9ギニ………j==ず
の解毒剤として位置づけ√また反教育学に教育……1万I=のi万丿点;才芒
血社肘………ぱミ……ノ伊リ.・えH'ミ万=jHi
学的右デオロギーの此岸から非教育学的ノな彼岸=;………,=C
j………ぱ=……=「子どT
も=宍をJ1丿」メJ」=さ」
」ぢ
へわたる下橋上という限定的万な役割を付与七て>……J;=・
=励尚ノ=ノ尚r………E直両面沁.=徊):……よ
いる.………こ.万れに対して^
ノに反対:して卜る〕よ……1さ.・ら1=こ二万y「子
Schoenebeckニは√反教…………1=.y・・.・・
育学そのものを新たプな生活様式や倫理七して身……………j万、Ijど1
につけ新だな人肌に生まれ変わるヶこと、そこで十…………=同11
それをいわば布教することに重点を置=いている1…………万万i乙矢]==
のである。十……………J‥‥ ‥‥‥‥‥‥‥‥ ‥‥j………1
;゜=j:ま:j
第二の基本的な対立点は、子どもの権利にもい:J1万=、≫Ij
関わっ七√子ども宍と大人の関係をどうトとら=える△∧ノ=・。K
かという問題竹あjるレすなわち√子どもノを劣う :\・う・。・j.
た人間七見なすことを否定するにしてレも、子とト……=゜・4・ナ・・j=・1
もを大人と同等の存在と見なすのか見なさない……万=:のl
のか、ということである6=ダ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥に
Braun出血1jの考えは先の汀子どもとい∧う人I……〉ノ………
間パラしタイム士という表現にも示唆され七いる。I く人
Braunmiihレはまず「人が子老もは受動的な客………考1
S)・S)o‥‥‥‥‥‥ ‥
傍子ども/を大
レでいるソ。\この
……ドイ‘ノ1子ども宣
体亡はなく犬で√能動的な主体であノるこ\とを承認\十言
八レそ=こで=は√す
する」。……「・そ
∧FarsonプやJohn
どんな違いもないよく\こごでぽ「人間ぱぞ
子yどもぐ解放論と
61
反教育学一一その理論的基礎と原理(池谷)
同じく、子どもは権利上、大人とまったく同等
るがままに私を愛す>という自閉的な主観主義
の権利を持Tつとざれている。そ七てその根拠付
と絶対的な自己肯定(=自己愛)に陥ることに
けとなるのが、「人肌は誰もが生まれつき自己
なら才ざるっを:聯ない/であ/ろ\うし っま。り十
責任がある」という命題である。 Schoenebeck
Scho己臨beckの反教育学は「一つの宗教」と
は「自己責任」概念について、次のように論
ならざるを得ないであろう。Braunmuh卜はこ
じている。 ニ
う/しブこ危険性を指摘しているのである。この危
て人間は生まれつききわめてょく自分の最善
険性は、Schoenりbeckが師事七たCarl
を自分で気づくことができる。この能力を人間
Rogers
万の思想にも少なからず見られるものであろう
(この点については指摘するに留めて、別稿で
は持っている。人間は生まれっき自分自身に対
取り上げたい)。‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
して責任を持つことができる。誰も彼に代わっ
て彼にとって何か有用で何か害があるかを決定
ト おわりに一反教育学か提起する課題
してはならない。誰も彼らのために責任を負っ
最後にこれまでの<反教育学>め議論から浮
てはならない。彼らは生まれっき自己責任ある
者であるーそれは……100%だ。大人は、子
かび上がる課題を整理して、まとめに代えるこ
どもたちに対して責任がない、というのも子ど
とにしたい。 ノ ノ
もたち自身に自己責任があるからであるノ自己
第一の課題は√<年齢による支配>をく経済
責任に関しては、大人と子どもとの間には完全
的支配>や<性の支配>と並ぶ一つの独立変数
な同価値がある」(JE、12)。
と見なしでよいかどうか√という問題である。
「子どもは高い価値で育成され訓練された自
筆者は<年齢による支配>を二つめ独立変数と
己責任ある者としてごの世に生まれてくる。(……
と\らえてよいと考える。問題はこれら三者の関
“・)新生児はわれわれに、く私は自己責任ある
係をどう構造的にとらえる=か、である。上野千
者だ>と大声で叫ぶ。人は皆、始めから死まで
鶴子はこの<年齢による支配>を「世代間支配」
そうなのである。」ト(JE・、14)
と呼び、家父長制の二つのI側面として、「性支
ここでもわかるように、Schoenebeckにあっ
配」と「世代間支配よをあげ、」その両者の関係
ては、Braunmi止1も指摘しているように(W
を次のように述べている。汀性支配一女性の
A、40-41)、<自己責任>概念が<最善に気づく
セクシュアリティを領有七、その受胎能力を管
能力>や<自己決定能力>などの概念と混同さ
理するーとは√女性という『再生産手段』の
れて使用されているのである。たjしかにく自己
管理をつうじて、最終的にはその成果である
決定能力>は、Braunmi止1の<実存的自律性
『再生産物reproducts』\すなわち子供を領有す
>という意味では、子どもにも程度はあるにし
ることにつ‥ながるレ世代間支配は、性支配の帰
ても、備わっていると見てよいかもしれない。
結であり:、目的のブつでもある」リ。<世代
しかし<自己責任>は持つことができない。と
いうのも<責任>概念は、Braunmiihl
間支配>を「性支配の帰結」としてだけみなし
も 指摘
てしまってよいかは、議論が別れるが、両者が
しているように(WA、35)、「行為の結果に対
密接な関係にあることだけはだしかであ:る。s.
する責任」を意味しているからである。これを
Firestoneも両者の関係を補強し合う関係とし
新生児が持でないのは自明であろう。持つとす
て捉えている9)。Braunmiihlもまたしば七ば
ればミ新生児は死んでしまうことになるしぺそ
女性問題に触れ、<子ども問題>と<女性問題
れに対する大人の責任も何らないということに
>との結び付きを強調している。 ドイツの女性
なろう。 十
運動が男性支配を問題にしても大人支配を問題
それはともかぐ、こうした<自己責任>概念
にしていないこと、しこれに対してアメリカの女
が<主体・主観性>概念や<内面的世界の尊重
性運動では子どもたちの政治的参政権が支持さ
>概念と結びつけられていぐと、く私は私かあ
れていることに触れながら、Braunmiihlはこ
:
II,:社会不4学=………………レ,………………ト.==宍し宍………
62 六十 ………jI 高知大学学術研究報告……レ第鄙巻……=:に(1997年)………=j
■■ ■ ■ ■ ■ - ■■■ ■■ ■ ■■■
う述べ七=いるレ\ト十\………=▽…………………:…………………Jyj;
ロレぎなト\(執行コ
I=要竹=I=あj:万IるII=も=φ;万を1+1人jで6よ実丿現=万々=きなり4j(j
し「下イ\:ヅの女性はここう七た理念にはいまだ慣人\」・・:.・=.:万=
レ4ニ………4こ援助を 必要
I
れでいないノ彼女たち\は子とした⑤に対するノ自十]\.J
辻うれでそ禎援助
分だ=ちレの貧弱な犬(時間的に狭<レ限定された)〉権レ
VJ '■-ベ.'之゜・Ji^-3-ahttp://www.jp/■・^
N
-i^AL一心「1.り♂・-・ノ.Ilm ・.ン・・:」¥
るレのである6」
方をミ==:、家父長制が心理学的に\は女性といレう△仮想
………;……(丿
敵に基づいすいる聯句)は=なぐて、ダ→女吐によ八十\ソ
て→緒に描かれた犬子どもとくいう仮想敵Jに基…………:・.:j.,.
ノ論であ
づいて〕いる七いう=認識よりも高:く∧評価している……:……万1
」レ……
・ . U :4 う / 大
,ケと・
.. .
る6
I
jを補強する
よう。に思える」二万(A。292)。\し加し両者二(女:性問
題と子ども問題レめ関係は定かではないノいず
yる]o
Cohen
れにしても三者の支配聯関係を明らかにするこ
して
とが課題とし=で残されているのであくる。……
●v・μぞphttp://www..1Q.net=.Qぞ'丿.・・・゛L/・でCy.り/ :・.
際っ\てい
百分自身
定能力√自律性をどう見るか、あるいは乳児期
眠犯
ニプ目は√子ども(と程わけ乳児)ニのレ自己決\∧
の服従をどう見るかに関わる問題であしる。反教
育学と教育学の一つの分岐点はぐこの能カケを肯
に関
定す\る1か否か\にあう〉だ。上反教育学。は・、\
あろTうふ手首首で聯:jポ……イ:j:=シト
Scho己白beckが言うよケに、「生ま札づき=の人
に頼るレ仁:j/と=:4:こよIjらで:l:1子ど`も
:間の自己決定能力に全幅の信頼をおレいている丁
(U,9)o
壱害する仁七]なく:√また\自分
会全体/に対くして持づでい1る義
Farson……やHoiレらの子どもφ権利論者
もこれに依拠しで、I子どもの人権を主張七でい
レ務に干渉す
る。=これに対して、ニGiesecke犬も含めで多く=・の
y………ス……=デかに大\き………な……夕゛フメ≒jジ
なノく:、…………そj万一・j・.│.しj
・.でj権1
lj石レこゾとレなゾく]、……:
よ十レジレを与えレる憐yとなゲく√自
教育学者は、……子どもの十次的自律性を認めては
:るノこ=とができる/亡あ\ろノ=うそい
いない。ごごでは√子とかの自己決定能力や自ノ
ども
己決定権√その:両者の関係:をどう見るかがポイ
ン下レとなレろうo
るノこと、
Schoenebeckは、・「且己責任」=ノ
=なゴノ÷ソズの結
の間題に関わ\う:で√乳児には自己決定能力や伝レ
ノとミおよび当
達能力があるトのであって、△不足しでいるのノは執〉……=]、j=
を理解すこるの
I=該の万権利
行能力だけである、犬と述べている.十…………=しケ………
y1万万4辻=゜必要、Iな:
I
「反教育学的な責任の見方は、例えば新生児\\『現在大ノ
・ま↓レ(子宍どJもも代
では√新生児には空気を自丿分懲最初仁呼吸する……レj・=.:J理丿人.め1・援一一i
参だからこそ/れ
能力胆あると信\じるに□と(Leboyer参照)j、IL……y一万=万万……I.・4とも.子万万.・1とTj.・y=・=も1万・.・
児では√乳児が空腹=の際には哺乳ビン=を持づすノ………yj.・:と・=j一万j・・4、1、尚=.:な万一
丁ノリヤ\とい、うくこ
・
.る万.・1
I
くるように父母にさ甘心権限かおる・ことを意味……/1万.・:.・=1論.j°4=まミj=・=.万、・1・.IB・=そ
ブ評価するこ
で万・.・き1・.・.=
I
欲求とを十分配慮懲き宍るポブソツを装備ノされて:……
Ij.・、一一j.I:=万.I=I、J==1第万一j三の・・=万1
√世
う課
いる√生まれプき〕社会的存在なのjである丿人闘犬∧レヤ……;.代.・連・鎖j・.の.j.;;
は自分の欲求と自分にとjつて最善であるも覚)す……=万犬レj題があ……ろ・.=
べてを知覚すら懲ぎる七(自己決定コツピテ.ン………1・=.……:の.:名.J.:・1・.・・と1:・.・よ1・
れ:だ能力」
≫を能力論
している.人間は反教育学的な見地からは百分………ノ土卜う:イUq:
しが産み落とされた共同体口中で、自分と自分の\…………yj=・と・j=万j・力・jタ・
る」/J:レ………こjlうして
う愛
.=
レアダル下・ノチ
ス)√それについて強く‥教えるこ/とトができるト
kソ≪世話=レ十世話
(伝達コ〈ン〉リナレス)⊇彼らぱじぶんにとらて重ソ
t÷子≫関係が問題
63
反教育学-その理論的基礎jと原理(池谷)
とさ犬れている。これは、70年代以降のいわゆる
<教育家族>の普遍化と深い関係があるが、こ
∧またSchoenebeckからの引用もノ,以下の略号
によって本文中に記す。 \ ニ
の再生産のメカニズムとその要因を解明するこ
U:Utiterstiltzea
とが今求められている。一斉藤学は、今日の性別
十は第4版て1988年)を使用。 役割分業を固定化した家族そのものし(役割ロボッ
AiD■。
トと化した家族)しが、さまざまな家族病理(共
.hrung.・in
依存症や児童虐待等々yを生み出しているとし
verbesserte und erweiterteレAufl.
ている17)。またA.
∧Verlag.
Shaefは「私たちの精神性
statレerziehen.
1982.ここで
・ ■■ ■■■ Antipddagogife
im.
■
Dialog.Eine Einfii・Deahen.2・,・
antipddagogiscfies
Belz
1989ト ‥‥‥‥‥‥
をコントロールしようとする教会、信念と行動
JE:Jejiseits
をコン下ロールしようとす。る学校、誰をコント
〕Praxis
ロールするか決定する人間関係」18卜が共依存
犬fuhrung.
を含む嗜癖システムを作りだしていると見てい
derkreis〉e.
der
Erziehung.G?TXTldl昭en und
fraeen丿der
erziehu昭sfreien Lebens一
Freundschaft
mit
V.,M血ster
Kindern-F
6 r-‥
1992に 十
る。ここには反教育学者の主張に近いものかお
る。さらに言えば、アダルト・チルドレンや女
\註〕 十 二 。・・・。・。 ・・
性の自助グループでのお互いの思いを聞きお互
士)三島憲一『戦後ドイツ』岩波書店、1991年、195
いを受け容れていぐという<癒し>のプロセス
ページ。 上 上 +
は、<共依存>から<相互依存>への道筋とし
2 )
Hermann Giesecke、 Das
Eねde der Erzie-
flung:Neiie Chaac哨拉r Fanxilien∧ij.r)、f}.
て、私たち大人の子どもに対する<教育>的関
係の見直七をも迫るものであるし、ここには<
治療する一治療される><教育する一教育され
る>関係とは違った関係が見られる。ここには、
<教育>的関係のオールダナティヴの一つが示
Schule.6、Aufl.Stuttgart:
3:)この点については、Ulrich犬Klemm
上 Jahre
- Genese
Kinderrechts-
undトBilanz.
In:Ulrich
Antipddaeogife.ダdipa-Verlag.
照。なおUlrich
犬(付記) /
1992.参
Klemmのこめ著書から引用
十する場合、本文中にべqDA、5)というように略
Braunmiihlの著書からの引用は,以下の略
記する。 ‥‥‥ ‥ ‥
号に従って本文中に記す。
a
4 )
dagogische Streits
Erziehung
als
a
Ideologie.
tze oder :
In:Vorgdnge.
Georg
Ruder、Der
Erziehung
Zum
und
Zeitscfirift
fur
Wunsむh
der
in
der
der
Paradies・.
Begriindung
Erziehungskritik.・Tn・■.ZeitscJirift
fur Padagogife
S 5(1989)
Klemm,
Ulrich(Hrg.)
Dofeumente
dipa-Verlag.
der
Antii〕dda一
zar
Beltz
Verlag.
Nr.
4、S.575………
5)ポングラッツは、最近の教育学の方向付けの試
みが「教育学的運動の有限上であれい「子ども期
の消滅」(N・POStman)であれ、汀教育の終焉」
1992.S.90-100.
A:AMφddagogtfe. St血涙1
Erziek狐几\g.
vom
GesellscJmμspoLitife, 14.
Jg.l975,H.2,S.21-28.
:QueUen. und
vomトEnde
Mythos
Rousseauismus
radikaler
der
.Zwanzig
Antipレadagogikしund
/ bewegung
der
。・ gogik.
1990、
Klemm田rg.)、Quellenつund Dobi.むme几もe
唆されていないであろうか。
AS丿Antip
Klett-Cotta.
S.57. ト
Abscha/fu昭
1975.なおこ
こ (Giesecke)であれ、「終焉」という思考図式を
とっており、「何か終焉するのか、なぜそれが終
几 焉するのか、そしてその後はどうなるのか」が
の初版を入手できなかったので,しここでは
▽教育学が今日直面している論議をかもす問題と
第6版(1989年卜を使うことにした。
DGK:Die Gleich-berechtigimg d£s Kindes.
犬 なっている・、と指摘七ている(Ludw毎
Pongratz、〉Vergangene
Zukunft? Notizen
1976.し 六十
liber
ZfK■。 Zeit fiirヽダ瓦nder.
WA:Was
1978.
ist c皿ipddaeosische Au秋陰几娼?
Padagogik
二 Neue Sammlu、几g
1989.
In:
g Jah噌ang/Heft▽2、
S. 229.)。
6)総括的には、AG
1997.
und Postmoderne.
Anti-Piidagogik
im
FLI
`-`゛/'ajJ
V u izc ^^j\nL・-IJ4JTI`jM』口いs
prr nm
T-i-・● t/りー−:..'‥ヽ
ページ)、プわれわれの最終目的は、\抑圧された…………十………ノ]==・.1.1.j。.J・:.:..・:==..
I
者同士の連帯を生み出している:女性と子供の条ペンス」.……レjt:.∧…………二大..:∧ブ………i.・1=
万者同士の連帯を生み出している:女性と子供の条ペンス」.……レjt:.∧…………1・.=・.J
・=
・1
I
件をそめものを排除して√完全なし<人間》とし……=ノ=≒レ=ノレ∧j.l\…………〉………∧:万万・ト………
てり条件を開拓するごとでなけれ
ての条件を開拓するこ\とでなければならない」………\\ノ]〉……ノ………]ノ……:ダ=………==万=万=
ばならない」………\∧/ly……ト=……
I
(129ぺ≒ジ)。▽ \ ト 十 ト ・。 ………………=,ゾ・一万゛=……j……:
I.:。・1.11=・・
HよCohen,EqualトRights∫or
LittlefieldコAd尽血自大&
17)
Chiはre配……………J……JJf
,: ,::1:=:jl:J=
Co√1980,
pp.59-60.……… ☆,………j…………I………ijy:lj:=j
さ\しあたりイアダル\ト・チルドレン』(学陽書房),……………Jyケ万………………レ==j∧ソこ………=j万
丁魂の家族を求めで』士(甘本評論社)『子供の愛七∧〉……レ……j……(j……ゾ………
方がわからない親たち)□(講談社)等√参照。 \\=ノノ…………1=…………=:j
18)『嗜癖する社会』斉藤学監訳、ト誠信書房、1993:年、
71ページ。∧ 十 ‥ ∧ 犬
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