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北野中(所沢市)周辺の歴史

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北野中(所沢市)周辺の歴史
北野中学校周辺(所沢市)
の歴史
小手指ケ原古戦場
元弘3年(1333年)、新田義貞
の鎌倉攻めのときに、幕府軍と
の合戦が繰り広げられた地です。
その後、中先代の乱、武蔵野合
戦の地としても知られています。
古代編
古代の北野中周辺は、
どんな様子だったのでしょうか?
旧石器時代
縄文時代
弥生時代
古墳時代
奈良時代・平安時代
ナウマンゾウ
旧石器時代
• 土器を持たない縄文時代以前を、旧石器時
代とよびます。
• 約3万5000年前から1万2000年前のころ
です。人々は、ナウマンゾウやオオツノジカな
どの大型動物を追って移動する「キャンプ生
活」をしていたと考えられます。
あ゛あ゛あ゛(待てマテ待て)
初めて所沢市に住みついていた人は、
何と旧石器時代の人でした。
今から3万年前のころです。
場所は、現在の早稲田大学の
キャンパスの中にある「お伊勢
山遺跡」というところです。
この「お伊勢山遺跡」から、3万
年前の旧石器(斧)が発見され
ています。
また、「砂川遺跡」(三ケ島中学校の近く)も
旧石器時代の遺跡として紹介します。
• 1万5000年前のナイフ
形石器などが、ここで多
数見つかっています。
ここからわかること
旧石器時代にここにい
た人たちが、遠くから石
を運んできて、三ケ島中
近くで打製石器をつくっ
たこと、そして余った石
を持ってまたどこかへ移
動したことです
所沢市の初めての住人は、今
から3万年前に早稲田大学あ 所沢市に、長く住んでなくてごめんね。
たりにいました。ただし、彼らは、
狩りや採集の生活をしていたの
で、食料がなくなると別な場所
に移動してしまったと思われま
す。
縄文時代
• 縄文時代は、約1万2000年前か
ら3000~2300年前のころです。
• 縄文土器以外にも、さまざまな道具などが、所沢市で
も出土しています。
縄文時代の人々の住まいは?
竪穴式住居です。
広さは、直径5~6mで円形のも
のがほとんどです。地面を50㎝
~1mぐらい堀り、出た土は周り
に盛り上げて雨水が入ってこない
ようにしました。内面は、平らにし
て、柱を4~6本立てます。
屋根は、ススキなどの草でおお
いました。中央には「炉(ろ)」が
あり、ここで火をたいて体を温め
たりしました。火はたやさないよ
うにしていました。
所沢市内でも竪穴式住居の跡は、多数発見されてい
ます。わが北野中近辺は、「白幡塚遺跡」として発掘調
査がおこなわれ、現在までに22の住居跡が見つかっ
ています。
今から5000~6000年
前には、海が北野中近く
まで来ていたらしく、貝や
魚も取っていたと考えられ
ています。(奥東京湾)
土偶について
所沢市でも今から4500年前の土
偶が数点見つかっています。これ
らは、頭・手・胸が確認できるだけ
の簡単な作りになっています。
これは所沢市の土偶じゃないよ
土偶の役割は、いろいろな説があります。①体の
悪い部分が治るように祈った②元気な子供が生
まれ育つように祈ったなどです。土偶は、壊れた
状態で見つかることが多いので、体の悪い部分
だけを身代わりとしてわざわざ壊したのではない
かという考えもあります。
縄文時代の人々の寿命はど
のくらいだったでしょうか?
出土された骨から計算された
縄文人の平均寿命は30歳を
超えるぐらいではないかと考
えられています。ただし、日本
の土の特色で、骨や材木は
溶けてしまうため、調べた骨
の数はあまり多くありません。
それでも、薬もない時代です。
十分な食事もなかなかとれな
かった年もあったと思われます。
生きていくことが大変だったこと
でしょう。
縄文時代の食べ物
する
春は、木の芽・しじみ・川の貝、若葉。
夏は、さざえ、はまぐり、いるか、たい、かつお。
秋は、くるみ、どんぐり、とちの実、くり。
冬は、かも、くま、しか、いのしし。
さまざまな自然のものを食べていたようです。
でも、食料がとれない年や足りなくなる年もあったでしょう。
そんな時は、縄文時代の人々
は、平等に生きることをめざし
ていたようです。助け合い、腹
が減ったらみんなでがまんす
る。そんな生活をしていたと考
えられています。
柴犬は縄文時代から人間と生活を
ともにしてきたといわれる。縄文時
代の貝塚等の遺跡からは、これま
でに犬の骨が多数出土している。
狩猟のために犬を使ったが、仲良
しだったのでしょう。人とともに犬も
埋めた墓もあるそうです。
弥生時代
弥生時代は、約2300年前から17
00年前のころです。紀元前3世紀
から紀元後3世紀のころです。
弥生時代の所沢市に、
人々が住むようになった
のは、約1900年前だそう
です。(弥生時代後期)
縄文時代の終わりごろから弥生時代になると、大陸か
ら水田でおこなう米作りが伝わります。本格的な米作り
は、多くの人手と、水田にてきした土地を必要としました。
ある弥生人たちの一日
「みんな起きてよー!」
ムラに朝がきました。ここの家族は、お父さ
ん・お母さんと子供たち2人。今日も1日が始
まります。
行ってくるよー!」「いってらっしゃーい!」
「さあ、釣るぞー」
ムラの男たちは、漁にでかけています
「よいしょ、よいしょ」
お母さんは、田んぼの稲刈りで大忙し。稲を
石包丁(いしぼうちょう)でつむのです。
秋の平野一面にひろがった稲穂(いなほ)を
みんなでつんでいく光景(こうけい)は、どんな
ものだったのでしょう・・・。
「えい、えい」
家の外では、となりのお姉さんがとってきた
ドングリをたたいて割っています。弥生時代
(やよいじだい)も縄文時代(じょうもんじだい)
と変わらず、木の実をとっていました。米だけ
食べていたわけではないのです。
「いただきまーす!」
今日も一日が終わりました。やっぱり家族そ
ろっての夕飯(ゆうはん)がいちばん。どんなも
のが食卓(しょくたく)をかざっていたのでしょう
か。
縄文時代以来の狩猟・漁労によるシカ、イノシシ、アワビ、カキ、マダイ、マグ
ロなどの野生動物や魚介類、カモ、キジなどの野鳥類が食料になっていたこ
とがわかります。
弥生時代には稲の栽培がおこなわれ米をはじめと
する穀物類を主食としていたと推測されます。
各地の遺跡から出土する炭化穀物などにより、弥生
時代には米の他に、小麦、アワ、ヒエ、小豆などの雑
穀も栽培されていたことが明らになっています。
弥生人は何を着ていたのだろう
弥生時代の代表的服は、頭からかぶって着る貫頭
衣(かんとうい)です。これは男性も女性も子どもも着
ていました。これは、現代の寺のお坊さんやインドの
サリーのようでした。2~3世紀の日本について書い
た『魏志倭人伝』に、「男性は頭に布きれをまき、袈
裟(けさ)のような服を着ている。また女性は髪をた
ばねて貫頭衣をきている」と書かれています。
弥生人たちはなぜムラをつくったのだろう
弥生人はコメ作りを中心にしていましてので、共同作
業が多く、そのため低地にムラ(集落)をつくりました。
竪穴式住居、広場、作業場、井戸、ゴミ穴)などの
様々な施設があり、集落のまわりには守るための、
深い濠(ほり)をめぐらせました(環濠集落)。
なんで濠なんかでムラを囲んだのでしょうか?
これは、弥生時代の代表
的遺跡の吉野ヶ里遺跡
(佐賀県)です。濠はわか
りずらいですが、柵(さく)
がムラを囲んでいるのが
わかります。
これは、高い高い見張りのための建物です。
いつ敵に攻めてこられるか・・・・・・・。大変な
時代のようですね。
これも吉
野ヶ里遺跡
の写真です。
これは、首のない遺骨・・・・・・・・。
これも吉野ヶ里遺跡の墓のひと
つです。
弥生時代は・・・・・・・。大変
なんです。戦いの時代だっ
たのです。
さらに、ほかの弥生時代の遺跡から
・銅の矢じりが刺さった腰の骨(骨盤)
・何らかの刃物が頭に
刺さって割れている骨
(傷つけらけた頭蓋骨)
などが、発見されています。
土地や稲の奪い合いが激しくおこったようです。
戦いの時代だったんですね。
ムラとムラの戦いを通じて・・・・・・・。
↓
ムラが統一されて小さな国ができていったと考えられ
ます。そして、戦いのリーダーとなっていった者が、そ
の小さな国の王(豪族)となっていきました。
リーダーは、男性と限られたわけではないよう
です。女性のリーダーもいたようです。
中国の歴史の本に登場す
る「女王」がいました。
「魏志倭人伝」に登場する
邪馬台国の女王です。
こちらは想像
図アニメ版で
す。
「卑弥呼」は、まじないを得意として、
女の奴隷が1000人おり、宮殿は
兵士たちが守っていました。
倭国は、もとは男が王で、70~8
0年がたったが、やがて乱れ、長年
攻め合うことになった。30あまりの
小さな国々は、共同の王として女王
「卑弥呼」をたてた。すると争いはな
くなったそうです・・・・・・。
所沢は、食料もな
いし、住めないん
で引っ越しました。
所沢には
さて、所沢市の弥生時代の話です。
縄文時代後期(約4000年)からは、
しばらく所沢市には人がいなくなって
しまったそうです。
それまで温暖だった気候が、だんだ
ん冷涼化(平均気温が低下)し、所沢
周辺では食料が取れなくなってしまっ
たためです。
そのため、人々は比較的温暖な海
の近くへ移ったと考えられています。
弥生時代に入り、尐しずつ気候が回復し始めました。
やがて弥生時代の後期(約1900年前)に、所沢に再び
人が戻ってきました。稲作を知っているこの人たちは、「狭
山丘陵」の谷間で小さな水田をつくるようになりました。
しかし、谷までの稲作なのせまくて、日当たりも悪く、冷
たい水を利用するので、稲の育ちもあまり良くなかったよ
うです。
所沢市の弥生時代の遺跡
3「日向遺跡」三ケ島中近く
4「椿峰遺跡」上山口中近く
狭山丘陵の中の小さな谷に、水田
をつくっていました。
北野中近くには、弥生時代の遺跡
はありません・・・・・。今のところ見
つかっていません。
古墳時代
古墳時代は、約1700年前から
1300年前のころです。紀元4世紀
から7世紀のころです。
この写真は、世界最大
の墓である大阪府の「だ
いせん古墳」です。
この近畿地方の王が
大和政権をつくり、日本
国内を統一したと考えら
れています。
古墳時代の埼玉県は、北部の現在の
行田市にある、「さきたま古墳群」周辺
に住む人々が力を持っていたようです。
有名な稲荷山古墳で発見された鉄
剣のおかげで、さいたまの豪族は、近
畿地方のワカタケル大王に従ってい
ることがわかりました。
弥生時代のムラとムラが、互い
に争いや結びつきを繰り返しな
がら、地域ごとにまとまって小さ
なクニになりました。クニの指
導者は、権力を見せつけるた
めに巨大な古墳をつくり、死ぬ
とそこに葬られました。
古墳は墓ですが、王とともにたくさん
の宝物も埋められました。
はにわをいくつか紹介します。
馬のはにわ
家のはにわ
船のはにわ
猿のはにわ
円筒はにわ
兵士のはにわ
古墳の多くは、山頂部の石棺(せ
きかん:石のかんおけ)に王(豪族)の
遺体が納められました。そして、多量
の副葬品も収められました。
鏡や銅矛(どうほこ)な
ど青銅器のほか、鉄剣
や鉄など鉄器、櫛(くし)、
勾玉やガラス玉などが
出土しました。
勾玉は、ネックレスにし
たり、指輪?耳輪?に加
工されたりしていました。
古墳時代は、意外とお
しゃれかも?
さて、わが所沢市の話です。
「問い」所沢市に古墳はあったのでしょうか?
答えは、「ありました」です。
所沢市内では、6世紀
~7世紀にかけての小
型の円墳が、9つ見つ
かっています。いずれ
も墳丘(盛り土部分)が
畑の耕作などで削られ
ていたため、今まで見
つけることができませ
んでした。
また、古墳ではありませんが、
横穴墓(おうけつぼ)が柳瀬中
近くで9つ見つかり、3つから人
骨が見つかりました。
南陵中の近くでも横穴墓が1
つ発見されており、まだ発見さ
れていない墓が近くにあると言
われています。
横穴墓とは、写真のように横
穴(よこあな)で、この奥に遺体
が葬られたようです。この写真
は、所沢市のものではありませ
ん。
「ドンドコ坂」の話
南陵中の近くの横穴墓の上の坂道を歩くと、中に
空洞のあるような音が聞こえたそうです。そこで、この
坂は「ドンドコ坂」と呼んだとさ。
だから、まだ発見されていない横穴墓が近くにある
のではないかと考えられています。
これは、所沢市内で発見
された古墳の遺跡だそうで
す。「膳棚東遺跡」とよんで
いて、上山口中近くで発見
されました。
とても古墳とはおもえない
のですが・・・・・・。
しかし、同じ場所
から写真のようなコ
バルトブルーや紺
色・浅黄色のガラス
玉39点が出土しまし
た。この古墳の副葬
品と考えられます。
所沢市で発掘された土師
器と須恵器の写真です。
古墳時代の住居跡は、市内各所で見つかっており、弥
生時代から続く集落(家の集まり)が、形成されていた
ようです。かまどが、古墳時代になると壁際に置かれ
るようになります。また、土器も「土師器はじき」「須恵器す
えき」がつくられるようになりました。古墳時代の住居跡
から、その破片が見つかっています。
↑ これは、所沢市の海谷(かいや)遺跡から
見つかった勾玉・小玉ほかです。(海谷遺跡
は、椿峰小学校=上山口中の近くです。)
古墳時代にも、所沢市民が住んでいました。
北野中近くには誰もいませんでした。北野天神
の先(南方)の「海谷」に住んでいたようです。
奈良時代・平安時代
奈良時代は、710年から
始まりました。続く平安時代
は、794年から始まります。
この写真は、平安時
代の貴族の家「寝殿造
り」です。この写真は、
都のあった京都での写
真です。この時代の所
沢市は・・・・・・?
大化の改新以来、
法律や税制が整備
され、天皇を中心と
した中央集権的な国
家が作られるように
なりました。奈良時
代になると、日本全
国は60の国に分け
られ地方にも中央の
権力が及ぶように
なった。そして都と地
方は大きな道で結ば
れるようになった。
奈良時代に、都と地方を結んでいた大き
な道は、私たちの所沢市までは来ていな
いだろうと誰もが思いますね。
ところが、大発見がありました。南陵中学
校の校庭の下に、奈良時代に、都と武蔵
国を結んでいた大きな道が、出てきたの
です。
この写真が、奈良時代の都まで続く道で
す。幅は12mもありました。(2枚とも同じ
写真です。)
●奈良時代のこの道は、東山道武蔵路と
よばれています。東の上遺跡(南陵中周
辺の遺跡)では幅12mの直線道路が
100mにわたって発見されました。さらに
東の上遺跡では約300軒の住居跡が発
見され、何らかの公共施設のもと大集落
(大きなムラ)が営まれていたことが分
かっている。この公共施設については現
在2つの説があります。
①駅家(うまや):上級役人が乗り継ぐ馬や、休憩・宿泊な
どを備えた施設
②郡衙(ぐんが):税を集める現在の市役所のような施設
この写真が、うるしがみ
もんじょです。
所沢市に残る最古の文書として貴重
です。
この道路が発見された東の上
遺跡(南陵中周辺の遺跡)で
は、「うるしがみもんじょ」が見
つかっています。これは、文字
が書かれた紙を、うるしが入っ
た容器のふたに再利用したも
のです。このふたには、表に
昔のカレンダー(具中歴)、裏
には馬の絵が描かれてありま
した。紙に書かれた馬の絵は、
全国でも初めての発見です。
奈良・平安時代の所沢市には、律令制にしたがっ
て、口分田を受け取り、税を払った人々が暮らしてい
たことでしょう。
また、一部の力のある農民は、私有地(荘園)を
広げていたと思われます。
奈良・平安時代の所沢市には、
貴族ではなく、庶民が住んでいまし
た。食事は、玄米と塩とわかめや青
菜の汁などが食べられていました。
そして、庶民の
住まいは・・・・?
竪穴住居です。
庶民は、奈良時代もこんな家だったんですね。
北野中周辺にも、ちらほらとこんな家に
住む奈良時代・平安時代の人々が住
んでいました。
北野中周辺の歴史(所沢市)
古代編
租(そ)・・・口分田から米を収穫させ、3%の米を大和朝廷に納める税
庸(よう)・・・労役のかわりに布を大和朝廷に納める税
調(ちょう)・・・地方の特産物を大和朝廷に納める税
雑徭(ぞうよう)・・・地方の土木工事をする。
防人(さきもり)・・・九州の警備につく兵士
装備や九州までの旅費は自分で用意する。
終わり
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