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講義「宗教哲学」授業用ハンドアウト(17) 後期ウィトゲンシュタインと日常

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講義「宗教哲学」授業用ハンドアウト(17) 後期ウィトゲンシュタインと日常
「宗教哲学」ハンドアウト(17)
講義「宗教哲学」授業用ハンドアウト(17)
後期ウィトゲンシュタインと日常言語学派
1
後期ウィトゲンシュタイン(概要)
2
「記述主義の誤り」: 「写像理論」の放棄
3
「意味の使用原理」(「使用としての意味」)
4
「行為遂行的」言語使用
5
宗教言語に対する理解への応用(「非記述主義」からのアプローチ)
6
「言語ゲーム」としての宗教
7
ウィトゲンシュタイニアン・フィデイズム
8
ウィトゲンシュタインにおける「文法としての神学」
1
後期ウィトゲンシュタイン(概要)
主著:『哲学探究』(『探究』)〈Philosophische Untersuchungen〉第 1 部 1946 年完成、第 2 部
1949 年完成、1953 年出版(死後出版)
「意味の検証原理」と「写像理論」を否定し、言語の豊かな日常的使用を考察すること
によって、「意味の使用原理」と「言語ゲーム」論を展開する。
2
「記述主義の誤り」: 「写像理論」の放棄
「意味の検証原理」も「写像理論」も、命題が有意味な場合を、それが何らかの事態(つ
まり、それが経験的に検証できるような)を表現している場合に限定している。しかし、
後期ウイトゲンシュタインを含め、それ以降の研究者たちは、これを問題にし、その誤り
を「記述主義の誤り」(descriptive fallacy)と呼んだ。
言語は、機能上、「記述的」なものに限られない。例えば、疑問や感嘆、命令や願望を
表す言葉は、いかなる事実・事態をも「記述」していないが、「意味」がある。
3
「意味の使用原理」(「使用としての意味」)
「ある語がどのように機能するかを、人は推量することができない。人はその使用を見
つめ、そこから学ばなければならない。」(『探究』)
『論考』が、言語を環境とを切り離して論理学的に取り扱ったのに対して、
『探究』は、
言語的発話に意味を与える《生の流れ》の重要性を強調し、日常言語の実際的用法に即し
-1-
「宗教哲学」ハンドアウト(17)
て哲学的問題の解明に当たろうとする。
(「意味の使用原理」、
「使用としての意味」
(meaning
as use))。
4
「行為遂行的」言語使用
ジョン・L・オースティン(John Langshaw Austin, 1911-1960):
オックスフォード大学教授、イギリスの日常言語学派(ordinary language school)
に属する分析哲学者。ジョン・サール(John Searle, 1932-)などはその後継者。
①「はい、認めます(妻とします)。」(結婚式の進行のなかで)
②「私は、この船を∼と命名する。」(進水式において)
③「息子に家を遺産として与える。」(遺言状において)
④「ジャイアンツの勝利に 1000 円賭ける!」(野球賭博!において)
これらは、
「当の行為を私が行っている」という「事実」や「事態」を「言明」・「記述」
しているのではなく、その言葉を口に出して言うことそのこと自体が、当の行為を実際に
「行う」ことにである。そして、これらは何れも、「真」でも「偽」でもない。
このように発言するとき、私は、その出来事に当事者としてコミットしている。
→「行為遂行的(performative)」使用
5
宗教言語に対する理解への応用(「非記述主義」からのアプローチ)
以降、日常言語学派の哲学者たちも、宗教言語を「非記述的」なものとして捉え、それ
では、それがどのような「実践的性格」を備えたものであるかを分析する方向へ進んだ。
Cf.
I・カント:「実践理性」の「要請」としての「神」、「霊魂の不死」=神概念は人
間の道徳性を可能にするものとしてみれば理解可能なものになるという議論。カントにと
って宗教言語とは、実在の構造を「記述」するものではなく、むしろその意図において「実
践的」(つまり「道徳的」)であった。
→アーノルド(Arnold, ?-?)、ル・ロワ(Edouard Le Roy, 1870-1954)
ブレイスウェイト(Richard Bevan Braithwaite, 1900-1990):「宗教の言明は準道徳的態
度の表明である」。「神を信じる」とは、有神論的な道徳的態度にコミットすることを言
い表したものである。
ヘアー(Richard Mervyn Hare, 1919-2002):「宗教の言明は世界に対する基本的な見方
を教えるものなのだから、それは準形而上学的な態度を表明したものである」。固有の固
定された物の見方(blik):宗教者には宗教者のブリクがあり、それは世界に関する一連
の言明ではなく、むしろ世界に対する我々の態度表明である。)
「還元主義の誤り」→「宗教言語の自立性」の主張
-2-
「宗教哲学」ハンドアウト(17)
「言語ゲーム」としての宗教
6
《「言語ゲーム」(language Game / Sprachspiel)としての宗教》:日常言語の実際的使用の
分析からはじめて「非記述主義」の立場に立ちつつ、「還元主義の誤り」を避け、宗教言
語の自律性を確保するものとして、後の哲学者・神学者により大きな影響を与えてきた。
6.1
疑い、真偽、検証・反証の《生きる場》としての体系
「疑い」とは、何か一つの大きな枠組を信じた(受け入れた)後に生じてくるであり、
一定の枠組の内において問われ、答えられていく。この「枠組」を与えるのが「体系」で
ある。また、ある言明の「真偽」や、「検証」や「反証」も、この「体系」内において初
めて成立する。
それでは、この「体系」は、恣意的で疑わしいものかというと、そうではない。
「体系」
は、我々が「論証」と呼ぶものの本性に属するのであって、それは「論証」の出発点とい
うよりも、「論証」の《生きる場》である(『確実性の問題』105)。「体系」が「論証」を
必要とするのではなく、「論証」が「体系」を前提にするのである。したがって、「体系」
の「枠組」をなす言明は吟味に付されることがない。
6.2
体系の無根拠性・確実性・受け入れと「生活形式」へのコミット
「探究」も「論証」も、ある一定の「枠組」内において行われるものであり、「体系」
自体は「論証」も基礎付けもされないということは、決して弱点ではない、とウィトゲン
シュタインは考える。彼は、数の計算をして、それが完全にチェックされたとして、そう
考える根拠は何かと問う。彼によれば、
「計算とはこうやって行われるものだ」という「受
け入れ」がそれだと言う。では、これを「受け入れ」ない人は間違っているのか?
子どもが大人を信用することによって様々なことを学ぶように、我々もその中で疑問を
もち、探究し結論を見つけていくような「体系」を学んでいく。我々は、これらの「体系」
の「枠組」をなす命題を「信用」し、「受け入れ」る。この「信用」、「受け入れ」は、「検
..
証」の結果や、論理的帰結、理性的反省などにによるものではなく、我々はただ「信用」
して、これを「受け入れ」るのである。そうすることによって、我々は人間社会において
共通に考えることができ、共通に語り合うことができる。もしそうでないならば、計算の
方法、ゲームの仕方、語り方さえも、我々は学んだことにならない。だから、このような
「受け入れ」「信用」は決して、「非合理」「不合理」ではない。合理・非合理という問題
自体が、「受け入れ」「信用」の後に初めて生じるからである。
それゆえ、これは、「信用」できるから「信用」し、「信用」できないから「信用」し
ない、というようなものではない、自分がどのような「生活形式」に「コミット」するか
ということなのであり、その「信用」は、特別な「確実性」を有するのである。
-3-
「宗教哲学」ハンドアウト(17)
6.3
後期ウィトゲンシュタインの「信仰」
ウィトゲンシュタインによれば、ここでいう「信用する」や「受け入れる」ということ
が、宗教的な意味での「信念」や「信じる」ということにほかならない。したがって、
「信
仰」は、何か暫定的なもの、反証する事実が見つかれば直ちに放棄してしまえるような仮
説とは、まったく異なる。それは、「証明」や「証拠」に基づいて立ったり倒れたりする
ようなものではなく、もともと「根拠をもたない」(groundless)のである。だから、もと
もと「根拠をもたない」ものに根拠をもたせようとすることが、的外れなのである。むし
ろ、ある生を生きるということが、既に何かを受け入れ、信用するということ、信じる、
「信仰する」ということなのである。
サッカーやバレーボールなどのスポーツ、ゲームを例にとって考えてみよ!
資料)
「福音書に書かれている歴史的報告は、歴史的にみれば、間違っていると証明できるような報告なのだ
が、だからといってそのために、信仰がゆらぐわけではない。これは、とても奇妙に感じられるかもし
..
れない。ともかく信仰というものは、たとえば「理性による普遍的真理」に基づいているわけではない。
むしろ、歴史的な証明(歴史的な証明ゲーム)は、信仰とはまったく無関係なのである。
(福音書という)
...
メッセージは、人間が、信仰によって(つまり愛によって)、つかまえるものなのだ。ほかのなにもので
...
もなく、それこそが、福音書を正しいとみなすことの保証になっているのである。信仰者は、福音書の
.......
物語にかんして、歴史上の真理(確からしさ)を求めるのでもなければ、「理性による真理」という説に
.....
たよるのでもない。ともかく信仰の真理というものがあるのだ。」(『反哲学的断章』青土社、1981 年)
「宗教の信仰とは、あるひとつの座標体系を情熱的に受け入れる、といったことにすぎないように思わ
れる。つまり、……それはひとつの生き方、ひとつの生の判断の仕方なのである。そういう見方を情熱
的に引き受けることなのだ。」(『反哲学的断章』青土社、1981 年)
「彼ら[物理学の命題にしたがって自分の行動を律しない原始社会の人々]は物理学者の見解を尋ねる
かわりに、神託に問うようなことをするのである(だからわれわれは彼らを原始社会の人々と見なす)。
彼らが神託を仰ぎ、それに従って行動することは誤りなのか。これを「誤り」と呼ぶとき、われわれは
......
自分たちの言語ゲームを拠点として、そこから彼らのゲームを攻撃しているのではないか。では、われ
われが彼らの言語ゲームを攻撃することは正しいか、それとも誤りか[誤りであろう]。」(『確実性の問
題』)
「キリスト教は、或る歴史的真理の上に基礎を置いているのではなく、我々に或る(歴史的)物語を与
え、そして「さあ、信じよう!」と言うのである。しかしその物語を、歴史的物語を信じるときのよう
な信念を持って信じよ、というのではなく、──如何なることがあろうとも信じよ、というのである。
.........
そしてこのことは、君には、ただ[君の]人生の帰結としてのみ可能なのである。君はここに或る物語
......
..... .................. ........
を持っている。──君はそれに、それとは別の歴史的物語に対するように、対してはならない。君はそ
-4-
「宗教哲学」ハンドアウト(17)
......
れに、君の生活の中で、[それとは別の歴史的物語とは]全く異なった場所を与えねばならない。──こ
のことには、理に反することは何もない!」(VB,
p.32)(ノーマン・マルコム『ウィトゲンシュタイン
と宗教』p.27 からの孫引き)
「神の存在証明は本来、それによって人が神の存在について得心出来るもの、であるべきであろう。し
.....
かし私の思うに、神の存在証明を提供する信者たちは、たとえ彼ら自身はそのような証明によって彼ら
の信仰に至ったのでは全くないにもかかわらず、彼らの「信仰」を彼らの知性で分析し、基礎づけよう
としているのである。おそらく人は、ある種の教育によって、すなわち、生活をある仕方に形成するこ
とによって、「神の存在を確信する」ことが出来るであろう。/生活が、神を信仰するように、人を教育
してゆくことが出来るのである。しかし、ヴィジョン、或いは、その他の感覚的経験は、我々に「神の
存在」を示すことは出来ない。我々に「神の存在」を示すことが出来るのは、例えば、種々の苦悩なの
である。そして、苦悩が我々に神を示すのは、感覚印象が我々に対象を示すようにではなく、また、苦
..
悩が我々に神を推測させるのでもない。経験や思い──[要するに]生活が、我々に神という概念を押
しつけてくるのである。」(VB, pp.85-86)(ノーマン・マルコム『ウィトゲンシュタインと宗教』p.31 か
らの孫引き)
「君は、言語ゲームは、言うなれば、予見不可能な或るものである、ということを心に留めておかねば
ならない。私が思っていることはこうである。それには基礎がない。それは理性的ではない。(或いは、
非理性的ではない。)それはそこにある──我々の生活のように。」(『確実性の問題』559)(ノーマン・
マルコム『ウィトゲンシュタインと宗教』p.130 からの孫引き)
(「命題の一般形式が存在する、ということは、その形式が予見し得なかった(すなわち、構成し得なか
った)命題は存在し得ない、ということによって証明される。」(『論考』4.5)(ノーマン・マルコム『ウ
ィトゲンシュタインと宗教』p.130 からの孫引き、上の引用との対比に注目せよ。))
「一つの仮説をめぐるあらゆるテスト、すべての確証と反証とは、一つの体系のなかで初めて成立する。
……この体系は、われわれが論証と呼ぶものの核心に属している。体系とは論証の出発点であるよりも、
論証の生きる場である。」(『確実性の問題』105)
.....
...
「われわれは多くの判断が形づくる一つの全体を受け入れることになる。われわれが何事かを信じるよ
うになるとき、信じるのは個々の命題ではなくて、命題の全体系である。」(『確実性の問題』140-141)
「われわれの知識は一つの大きな体系をなしている。個々の知識はわれわれが認める価値をこの体系の
なかでのみ有することができる。」(『確実性の問題』410)
「[霊魂不滅を信じる者の]死の観念は、
[霊魂不滅を信じない]われわれすべてが知り理解している「死」
という表現を交えておこなわれる[言語]ゲームには、属していない。彼が自分の「死についての観念」
と呼ぶところのものが、われわれに関わりをもつようになるには、われわれの[言語]ゲームの一部に
ならなければならない。」(「宗教的信念にかんする講義」)(星川啓慈『言語ゲームとしての宗教』勁草書
房,1997 年、p.114 からの孫引き)
-5-
「宗教哲学」ハンドアウト(17)
「私が根拠づけの委細を尽くしたのであれば、私は固い岩盤に達しているのであって、私の鋤は[この
岩盤の固さのために]そり返ってしまう。そのとき、「自分はまさにこのように行動するのだ」と叫びた
くなる。」(
『探究』217)
「私は一つの世界像をもっている。……とにかく、この世界像が私のあらゆる探究とすべての主張を支
える基体なのである。」(『確実性の問題』162)
「すべての理性的な疑いを超越した確実性。」(『確実性の問題』246)
「私はこの確実性を早計や浅見に類するものとは見なしたくない。
(一つの)生活形式と見なしたい。」
(『確
実性の問題』358)
「私はこの確実性を正当と不当を超越したところにあるものとして捉えたい。」(『確実性の問題』359)
7
ウィトゲンシュタイニアン・フィデイズム
(1)『探究』などにおけるウィトゲンシュタイン後期著作に基づく哲学運動
(2)S・A・キルケゴールや K・バルトなどのキリスト教神学に基づく神学運動
「ウィトゲンシュタイニアン・フィデイズム」(Wittgensteinian
Fideism)は、上の2つ
の運動の共同戦線から生じた立場。代表的研究者:R・リーズ(Rush Rhees, 1905-1989)、P
・ウィンチ(Peter Winch, 1926-1997)、D・Z・フィリップス(Dewi Zephaniah Phillips,
1934-2006)
宗教言語の自律性を強調し、宗教内に知解性や合理性の基準を見いだそうとしたことに
意義がある。そこでは、宗教言語は特定の「生活形式」(form of life)に根ざし、これを
表現しているのであるから、この特定の「生活形式」にコミットする者だけが、宗教言語
の意味を正しく理解しうるのだ、とされる。
したがって、必要なことは、
「信仰」の言葉で表現されている「生活形式」の中へと「回
心」することであり、そうすることで、「信仰(生活)」の外部にいたときには閉ざされ
ていた「意味」が、その言語によって開かれることになる。(再び、スポーツを例にとっ
て考えてみよ!)
この立場の強み:
知解性・合理性の一般基準に基づいて行われる外部からの批判を避けて、宗教
言語の自律性を確保できる。
この立場の弱み:
外部の者には一切理解できない閉じられた世界になり、伝達可能性を放棄してし
まうことになる可能性がある。つまり、「伝道」や「布教」など、外部に働きかけ
るための言語的基盤を宗教が一切もたないことになってしまいかねない。
また、「非実在論者」「非実在主義者」として批判されてもいる。
-6-
「宗教哲学」ハンドアウト(17)
資料)
...
「[宗教にかんして]真なるものと偽なるものとを区別するための基準は、むろん、宗教の内部で見いだ
される。」(D.Z.Phillips, Religion and Epistemology: Some Contemporary Confusions, Faith and Philosophical
Enquiry, Routledge & Kegan Paul, 1970, p.126.)(星川啓慈『言語ゲームとしての宗教』勁草書房、1997 年、
pp.182-183 からの孫引き)
「宗教的信念は万事について何かを述べるだろう。しかし、この「何か」が何であるかを発見するため
には、宗教言語の文法に注意しなければならない。」(D.Z.Phillips,
Religion
and
Epistemology:
Some
Contemporary Confusions, Faith and Philosophical Enquiry, Routledge & Kegan Paul, 1970, p.126.) (星川啓慈
『言語ゲームとしての宗教』勁草書房、1997 年、p.183 からの孫引き)
「ひとたび哲学者たちが有意味性の宗教的基準を無視しはじめれば、宗教をめぐる認識論的懐疑が不可
..
避となる。……宗教的諸概念は諸現象の解釈ではない。哲学者たちは、あたかも「現象」と呼ばれる恒
常的な要因があり、宗教とヒューマニズムはこれについて競合する解釈である、というふうに語る。し
かし、この現象とは何なのか。宗教言語は〈物事がいかにあるか〉についての解釈ではない。そうでは
................
なく、信者にとって〈物事がいかにあるか〉を決定するのである。聖人と無神論者は同一の世界を異な
.............. ..................
った仕方で解釈するのではない。彼らは異なった世界を見ているのである。」(D.Z.Phillips, Religion and
Epistemology: Some Contemporary Confusions, Faith and Philosophical Enquiry, Routledge & Kegan Paul, 1970,
p.132.)(星川啓慈『言語ゲームとしての宗教』勁草書房、1997 年、p.183 からの孫引き)
8
ウィトゲンシュタインにおける「文法としての神学」
ウィトゲンシュタインは、初期の『論考』準備中の早い時期にすでに、「言語を絶した
もの・語りえないものが言語の中には含まれている」と述べているが、1930 年以降、彼
は、この「言語を絶したもの/語りえないもの」を「言語の文法」(枠組・ルール)の中
に見ようとする。
なぜなら、「文法」は言語を語るという人間活動に枠組を与えて、その言語活動を記述
するからである。つまり、「言語」に対する「文法」の関係は、「ゲーム」に対する「ル
ール」の関係に似たものとして捉えられる。宗教という領域では、「宗教の言語ゲームが
行われる」と言われ、「宗教の語らい」は「文法」の観点から考察される。
『探究』には、「本質は文法[つまりルール]の中で述べられている」とか、「あるも
のがいかなる種類の対象であるかは文法[ルール]が述べる(文法としての神学)」(『探
究』373)という表現が見られる。
Cf. George A. Lindbeck(1923- ), The Nature of Doctrine: Religion and Theology in a
Postlibaral Age, 1984.(G・A・リンドベック『教理の本質』ヨルダン社、2003 年)
体験の場としての体系とそのルール(「文法」)である「教理」の「宗教体験」に対す
る優越性を主張する。
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