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道徳教育と社会科教育 - 愛知教育大学学術情報リポジトリ

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道徳教育と社会科教育 - 愛知教育大学学術情報リポジトリ
道徳教育と社会科教育
愛知教育大学哲学教室 鈴 木 文 孝
I
ヤスパースは,ロスマンとの共著の『大学の理念』の中でいっている(同書第一部第三
章)。
Universitatにおいて学科の地位を占めうるのは,根本的学問であって,派生的学問
ではない。だから,医学部についていえば,内科学,精神医学,眼科学等は正式な学科に
なりうるし,ならねばならないが,法医学,歯科学,衛生学は,そうではない。法医学,
衛生学は,単なる応用的部門であるにすぎないし,歯は,真の科学的研究の対象となりう
る器官とは考え難いから,歯科学も,人体の最も基礎的な器官である内臓や,人間がそれ
を媒介にして世界や他者を知る眼を研究対象とする学問,また人間を人間たらしめる基盤
である精神を研究対象とする学問とは,同列に置かれることはできない。また,印度学,
支那学は根本的学問であるが,アフリ力学や先史学は派生的学問であるにすぎない。人類
は,枢軸時代において,人間としての精神の歴史を歩み始めた。その精神史と無関係な領
域は,根本的学問の研究対象となるべき十分な地盤をば有していない。また,学部として
も,農学部,獣医学部,教員養成学部,商学部,鉱山学部等は,ウニヴェルジテートの学
部たるべき十分な「包越的な生の領域」を有せず,それらのHochschuleをウニヴェルジ
テートに合併するにしても,それらは,せいぜい,附属機関として設置されるにしか値し
ない。ただ,工科大学だけをば,ウニヴェルジテートが学部として己れの内に編入しない
と,ウニヅエルジテートは時代遅れのものになってしまう。
このヤスパースの所論は,示唆するところが大である。ヤスパースのいうように,大学
において,天文学科と経営学科,哲学科とホテル経営学科が同列に置かれているのは,問
題である。しかし,彼の所論をそのまま日本の大学に当て嵌めることはできない,と私は
考える。国民の生活が伝統的に農林・水産業に依存してきた我が国の場合には,綜合大学
に農学部や水産学部があっても,当然である。また,歯が人体にとって単なる附属器官で
ないことは,我々には自明である。
ドイツの大学では,昔から,教員はLehrerbildungsans takenという単科大学で養成さ
れてきた。しかし,それは,あくまでも,西欧的伝統に制約されてのことである。大学も,
一つの社会的組織であり,社会的諸条件の上に根を下ろしている。現に,日本では,教員
養成大学。学部が,学術研究の大学,学部として,大きな社会的役割を果たしている。
教科教育学について考える場合,これが,ヤスパース流にいって,単なる派生的学問で
−77−
あるならば,教員養成のためには,専門学科の教授に重点を置けばよいわけであるが,私
は,教科教育学も根本的学問であると考える。専門学科の知識と教育現場での経験の積み
重ねによってだけでも,ペーパー・テストで100点を取らせるような教育ならできるかも
知れないが,学校教育が本来,目指すのは,そういうことではない。
本稿では,道徳教育と社会科教育の理念を,倫理学的に基礎づけてみたい。
Ⅱ
小・中学校学習指導要領(学習指導要領に関しては,以下,すべて,昭和52年7月23日
告示の新学習指導要領を指す)は,「総則」において,次のように述べている。「学校教
育における道徳教育は,学校の教育活動全体を通じて行うことを基本とする。したがって,
道徳の時間はもちろん,各教科及び特別活動においても,それぞれの特質に応ずる適切な
指導を行わなければならない」。続けて,指導上の留意点が述べられている。「学校におい
て道徳教育を進めるに当たっては,教師と児童(生徒)及び児童(生徒)相互の人間関係
を深めるとともに,家庭や地域社会との連携を図りながら,日常生活の基本的行動様式を
はじめとする道徳的実践の指導を徹底するよう配慮しなければならない」。勿論,「道徳」
の時間が,道徳教育の中核である。また,各教科が道徳教育の一端を担うわけであるが,
「社会」の場合には,特にその使命が大きいことは,「道徳」の「目標」を「社会」の
「目標」,及び「各学年の目標」(小学校),「各分野の目標」(中学校)と比べてみれ
ば,明白である。
中学校の「社会」は,「地理的分野」,「歴史的分野」,「公民的分野」の三分野に分
けられて,「各分野の目標及び内容」が述べられている。また,小学校の「社会」も,
「目標」を見れば明らかであるように,公民的分野,地理的分野,歴史的分野に分けて,
「各学年の目標及び内容」が構成されている。
戦後に小学校へ入学した私には,地理,歴史,公民というよりも,社会科といった方が
親しみ易い。私なりに,社会科の構成を説明すれば,人間存在は,空間的,時間的構造を
具えていると共に,時間,空間が交叉している現実の時点においては,種々の社会的制度,
制約の上にその基盤を有しており,地理,歴史,公民の学習は,それらに対応しての学習
である,ということになる。
倫理学は,そういう人間存在の構造を究明し,そこからあるべき人倫の理法を導き,基
礎づける学問であるが,本来,哲学的学問であるが故に,現実の社会という場面から或る
意味では超越して,あるべき人倫のイデーを探究する。
私は,カントの「目的の王国」という理念の背後にある,彼の,この理念に対する形而
上学的裏付けを明らかにするために,『純粋理性批判』の「超越論的弁証論」を分析して,
「超越論的弁証論」が,「単なる意識の形式」にすぎない純粋統覚における自我の問題
(誤謬推理論)から叡智的性格の理念(二こ律背反論)へ,更に超越者の理想(理想論)へ
と超越していく,位相的構造をもって構成されていることを明らかにした。西洋倫理学の
−78−
最も理想的なモデルというべきカントの純粋倫理学も,理想の人倫共同体の理念の基礎づ
けのためには,そのように超越者の理念を持ち出し,超越者(神)への方向を志向せざる
をえなかったのである。
具体的な例として,自由の問題を考えてみよう。カントは,『純粋理性批判』の二律背
反論で,「自由による原因性」と「自然法則に従う原因性」との二律背反の解決のために,
前者に叡智的性格(思惟様式)を,後者に経験的性格(感覚様式)を対応させて,両者は
共に成立可能である,という。そこでの叙述に従えば,善き経験的性格には善き叡智的性
格が,悪しき経験的性格には悪しき叡智的性格が対応して考えられうる,という。晩年の
『宗教哲学』の第一篇の「総注」で,思惟様式(叡智的性格)の革命が必要である,と説
く時も,同様のことが念頭に置かれている。
ところが,『人倫の形而上学の基礎づけ』や『実践理性批判』においては,自由の積極
的概念は意志の自律であり,自由意志は善意志に他ならない,と述べられている。
この相矛盾する考え方を総括的に考えれば,真の自由意志とは,善意志であるが,選択
意志は,自由意志の実現を妨げる様々な社会的制約に束縛されざるをえぬということが,
このような論を生み出させた,と解さざるをえない。所詮,人間の徳は,非人倫的諸欲動
との「戦闘状態にある道徳的心情」(V,84)なのである。
(1)
勿論,自由意志の実現を妨げるのは,社会的制約ばかりではなく,それの実現如何は,
結局,個々人の心情の問題であるが,心情といえども,根元的には,多分に社会的に制約
されており,「純粋理性批判」の自由論におけるカントの所論(Ⅲ,
375頁以下)とは逆
に,社会的環境や生活条件等が,人間を悪行へ導くものであることは,確かである。カン
トにおける自由の概念は,そのように極めて形而上学的であるが,凡そ倫理の問題を考え
る時には,社会の問題を抜きにすることができない,ということがわかるであろう。つま
り,人間は道徳的に自由である,といっても,現実の社会的場面においては,或るものを
優先させ(vorziehen)
,或いは劣後させる(nachsetzen)自由であるにすぎないことが
多く,そこにおいて正しい価値判断を下すためには,社会の諸般の事情を正しく把握して
いることが必要である。
そのことを考えると,カントの倫理思想は,あまりにも形而上学的でありすぎるが,こ
こでは,定言命法の目的自体の法式の人間性という理念の背後にある宗教哲学的思想につ
いて触れておく。『宗教哲学』の「善なる原理の人格化された理念」という節においては,
カントは,次の如く述べている。(Ⅵ,60頁以下) 「唯ひとり世界を神の決定の対象と
なし,創造の目的となしうるものは,その道徳的完成の域にある人間性(理性的な世界存
在者一般)である。そしてそれの最上制約としての幸福は,最高存在者の意志における直
接の結果である。 −この神に嘉せられたる唯一のものである人間は,《永遠このかた神
の中に存している》」。そして,道徳的完全性の理想,全く純粋な道徳的心情の原型まで我
々を高めていくことは,理性による,普遍的な人間の義務である。何故なら,「かの天上
の原型が我々のもとに降り来り,それが人間性の形を取ったのである」から。これについ
−79−
ては,次の如く説明されている。「何となれば,本性上悪なる人間が,いかにして自ら悪
を脱脚して神聖性の理想へまで自己を高めるかということは,理想の方が人間性(それ自
身としては悪ではない)の形を取ったということを表象するのと同様には,表象すること
が可能でないからである」。−カントにとっては,意志の自律という理念を前提しなくて
も,人格の尊厳という理念は,十分に基礎づけられるのである。『実践理性批判』の「な
るほど人間は非神聖であるが,彼の人格の内なる人間性は,彼にとって《神聖》でなけれ
ばならないoj
(V,
87頁)という叙述の背後にも,上に見た如き宗教哲学的雰囲気が濃厚
に漂っている。
ところで,カントは,『実践理性批判』の「純粋実践理性の方法論」(V,
149頁以下
や「人倫の形而上学」の「徳論」の「倫理学方法論」(Ⅵ, 475頁以下)において,道徳
教育論を展開している。前者においては,人間は本性的に「それによって誰か或る人格の
性格が決定されるべきであるような,あれこれの行為の倫理的価値に関する」評価の議論
を好むが故に,古今の伝記から「提示されている義務に対する例証」を引き合いに出して
見せられれば,生徒達の倫理的判断力も鋭敏になって,生徒達は,倫理的評価に関心を抱
くようになる。それ故,道徳教育における第一の「訓練」は,まず,「実際に義務を負わ
せる法則」即ち「人間の権利が私に要求するものの法則」,即ち〈道徳法則》に従って自
他の行為を評価することを習慣化することである。そういう練習が習慣化されれば,自ず
と,それらの例証の「純粋な倫理性」に惹かれて,生徒達は道徳的自由を体得し,道徳化
されていくが故に,道徳教育の第二の「訓練」は,「道徳的心情の,実例に即しての生き
生きとした叙述において,意志の純粋さに注意させること………」である。また,『人倫
の形而上学」においては,まず,「倫理学教授法」として,初めに徳の体系の教授法の区
分が示されている。その教授法は,講義風と問答体に二分され,後者は,更に,「対話的
教授法」と「問答教示的教授法」に区分されている。究極的には「ソクラテス的対話法的
教授法」による「対話的教授法」が理想であるが,差し当りは,「問答教示的教授法」か
ら出発しなくてはならない,とされている。その際,「徳の育成の実験的(技術的)手段
は教師白身における善き実例(模範的品行であること)と他者における警告的実例とであ
る」ことが述べられ,また,「善き例(模範的行状)は手本としてではなくて,義務に適
ったことを為し得るということの証のためにのみ役立つべきである」,さもないと,他の
児童・生徒にひがみ心を惹き起こす結果になりかねない,ということが述べられている。
また,「倫理学苦行法」において,「徳の義務の遵守における勇ましくて楽しげな気持
(animusstrenuus et hilaris)」こそ真の倫理的情調であるとして,「修道士の苦行」
とは違って,「常に楽しげな心情」(エピクロス)こそ健全な心であり,また「自然的衝
動との闘い」を通して心ぱますます勇ましく(ストア派),楽しげになっていく,と説い
ている。カントの宗教的苦行法の批判に関しては,カントの叙述に委ねるが,それなりに
意味がある。しかし,人間が社会的諸条件によって制約されている存在者であることを考
えると,カントの道徳教育論は,あまりにも理念的な所論であることがわかる。
−80−
つまり,純粋倫理学が明らかにする道徳の本質,道徳の原理をそのまま児童・生徒に弁
えさせ,体得させるということは,人間存在が社会的諸条件によって制約されているがた
めに,極めて困難である,ということである。
しかし,私は,まさにその困難さの故に,道徳教育学は,ヤスパースの言葉でいえば,
根本的学問である,と考えるのである。道徳教育学は,倫理学の単なる応用的部門ではな
い。健全な公民として現実の社会的場面において振舞うことができるようになるためには,
前述の,人間存在の基本的構造を倫理学,社会学,法律学,政治学,経済学,歴史学,地
理学等の教養をもって総合的に把握できるようになることが理想的である。だから,社会
科が,児童。生徒に社会人として必要な知識や判断力(社会科の領域における)や実行力
等の社会的態度を身に付けさせなくてはならないのである。だからこそ,我々は,「社会」
の学習が必要であると考えるのであるが,逆に,社会生活の基盤を突き詰めて考えていく
と,人倫の理法がその根幹を成すべきであることがわかる。現代の複雑な社会機構を考え
る時,道徳がいかに大切なものであるかは,なおさら明白である。このようにして,道徳
教育と社会科との連関が明らかになった。
Ⅲ
(2) (3)
或る年,私は,社会科研究の授業の中で賀茂真淵の『国意考』や本居宣長の『直毘霊』
をテキストに用いたことがあった。真淵も宣長も,「漢意(からごころ)」,「漢籍意
(からぶみごころ)」(宣長)が,『万葉集』に歌われている如き,古の,更にいえば
「神代」の(真淵,宣長)日本人の「直き心」(真淵),「直く清かりし心〔や〕行ひ」,
「清々(すがすが)しき御国ごころ」(宣長)を汚したとして,儒教の「さかしら」即ち
いと「こちたき」(宣長)作為の道徳を批判している。真淵はいう。「凡〔そ〕天が下に。
(4)
此五つのもの〔仁義礼智信〕は,おのづから有こと,四時をなすがごとし。………されど
も,其四時を行ふに,春も漸にして,長閑(のどけ)き春となり,夏も漸にして,あつき
夏となれるがごとく,天地の行は,丸く漸にして至るを,唐人の言のごとくならば,春立
はすなはちあたたかに,夏立は急にあつかるべし。是唐の教は,天地に背て,急速に倍屈
也。………」 国学そのものについての説明は,ここでは省く。真淵の自然主義は,宣長
において,「人慾も即ち天理ならずや」という説に至り,所謂国学的主情主義が成立する。
老子について,真淵は,こう述べている。「老子てふ人の,天地のまにまに,いはれしこ
とこそ,天が下の道には叶ひ侍るめれ,そをみるに,かしこも,ただ古へは,直かりけれ」。
しかし,真淵は,「嬰児」,「衛児」,「赤子」(『老子道徳経』)の心を以て真に天地
自然の道に叶ったものとする,老荘の心理主義的自然に人倫のモデルを仰いでいるのでは
ない。真淵によれば,「我国の,むかしのさま」は,「只天地に随て,すべらぎは日月也。
臣は星也。おみのほしとして,日月を守れば,今もみるごと,星の月日をおほふことなし。
されば天つ日月星の,古へより伝ふる如く,此すべら日月も,臣の星と,むかしより伝へ
てかはらず。世の中平らかに治れり。………」という叙述から窺われうるように,自然の
−81−
世界の自らなる秩序の内に,人倫のモデルを仰いだのであった。「凡〔そ〕天地の際に生
とし生るものは,みな虫ならずや。………唐にては,万物の霊とかいひて,いと人を貴め
るを,おのれがおもふに,人は万物のあしきものとかいふべき。いかにとなれば,天地日
月のかはらぬままに,鳥も獣も魚も,草木も,古のごとくならざるはなし。………」 こ
こには,「古への道」を尊ぶ,真淵の歴史主義的自然主義が,一種の自然学的自然主義と
合致する所以が,明瞭に示されている。「国意」とは,国体という意味ではなくて,日本
人の本来的な心という意味である。真淵学には倫理学という側面がある。それは,勿論,
厳密な意味での倫理学とはいえないが,真淵の倫理学的思索は,「古の歌もて,古の心詞
をしり,それを推て,古への世の有様を知」るという点で歴史学と結び付き,そこにおい
て国家のあるべき在り方が考察されているから,その古道論は,政治学とも結び付き,ま
た,日本と支那との歴史,国情,風土の相違にまで,思索は及んでいく。それは,宣長に
おいても,ほぼ,同様である。
私は,授業をしながら,地理,歴史,公民が,戦後の学制改革に伴って社会科に統合さ
れたといっても,そういう改革を受け入れる素地は,既に日本の文化的伝統の内に具わっ
ていたのではないか,と思った。かくて,倫理学は,道徳教育学,社会科教育学を学問と
して成立せしめる基盤を成す学問である,と私は考えるのである。
Ⅳ
ここで,道徳教育と社会科教育との具体的な連関についても,一二,触れておく。中学
校学習指導要領「道徳」の「内容」16のなかにこうある。「我が国の国土と文化に対する
理解と愛情を深め,優れた伝統の継承や新しい文化の創造に役立とうとする………」 小
学校学習指導要領「道徳」では「内容」27において,ほぼ同様のことが,中学年からの教
育目標とされるべきことが,述べられている。これらの項目は,地理,歴史の学習と切り
離すことはできない。
日本の文化的伝統という時,私は,例えば,世阿弥が『申楽談儀』の中で「静(か)成
し夜,砧の能の節を聞しに,かやうの能の味はひは,末の世に知(る)人有まじければ,
書き置くも物くさき由,物語せられし也。しかれば,無上無味のみなる所は,味はふべき
ことならず。又,書き載せんとすれ共,更に其言葉なし。位上らば自然に悟るべき事とう
(5)
け給はれば,聞書にも及ばず。………」と筆録させているのを想い起こす。日本古来の芸
道においては,それはどの枯れた味わいの境地が理想とされているのであり,そういう心
の静けさに憧れさせることだけでも,現代の如きテクノロジーの時代においては,道徳教
育に一役買うように思われる。
また,「道徳」の「内容」が社会科の公民的分野の「目標」,「内容」と深い連関を有
していることは,学習指導要領を見れば,一目瞭然である。「道徳」の「目標」そのもの
が,健全な公民「を育成するため,その基盤としての道徳性を養うことを目標とする」,
と謳っているのである。
−82−
道徳教育は,社会科のみならず,他の諸教科,特別活動とも深い繋がりを有する。例え
ば,小学校学習指導要領「道徳」の「内容」10は,次のように述べている。「自然を愛護
し,優しい心で動物や植物に親しむ。(低学年。中学年においては,自然に親しみ,優し
い心で動物や植物をかわいがり世話することを,高学年においては,更に,自然を愛護す
ることを加えて,主な内容とする。)」 私はそれとの連関で,カントの次のような叙述を
思い出すのである。「だが自然観察者は,彼の諸感官にはじめは不快である諸対象を,彼
がそれらにおいてそれらの組織の偉大な合目的性を発見して,彼の理性がそれらの観察を
楽しむ時には,最後には,好きになる。ライプニッツは,彼が顕微鏡で入念に観察した昆
虫を,いたわりの心をもってそれが元いた葉に再び返してやった。彼はその昆虫の顕微鏡
観察によって自分が教化されたことを覚り,その昆虫によっていわば恩恵を受けたからで
ある」(V,160頁)。カントはこれを「純粋実践理性の方法論」において道徳教育方法
論との連関で述べている。カントは,我々は道徳的判断力が自由自在に働くようになって
いくことに喜びを感ずる,ということを述べる場合に,理論的認識能力の場合が同様であ
るとして,上掲のライプニッツの場合を挙げているのであるが,このライプニッツの態度
は,理科教育においても活かされなくてはならない。生物の世界は,自然淘汰の世界であ
る。人間の世界とて,生存競争は激しい。生物に対する愛情は,人間同志の間での激しい
生存競争のうちで,いつの間にか,忘れ去られていってしまうのではなかろうか。
また,学習指導要領「道徳」の「目標」に掲げられている,児童・生徒の「道徳的心情
を豊かに」するという目標は,情操教育との関連を抜きにしては達成されえない。カント
の芸術区分論は,本来的な美的価値という点から,諸芸術のなかで,詩歌に最上の位階を
与え,音楽を最低の地位に置くがーただし,快適価値という点からいえば,音楽が最上
の地位に置かれるー,その当否は別としても,現代の大衆芸術,大衆芸能の混迷の状況
を考えると,大いに教えられる点のある論である。その意味で,道徳教育との連関におい
て本来の情操教育はいかにあるべきかについて考えるためにも,『判断力批判』の第51節
から第54節までは,参照していただきたい。
V
道徳教育や社会科教育についての実践体験には乏しい私ではあるが,「道徳」と「社会
に共通の領域を,一つの教科として独立させるというプランを,ここに提案する。
勿論,倫理学には,様々の立場があり,また,徳の体系を画一的に示しえないことも事
実である。しかし,私は,厳密な意味での純粋倫理学が提示しうる範囲内でならば,倫理
学的な教科を設定することが可能である,と思う。およそ,人間の社会に道徳が不可欠で
ある限り,道徳を《教科》の体系として示し,〈教科》として設定しえない筈はない。
日本人は,キリスト教の影響の下にある西欧人と比べると,心情よりも,外面の体裁を
重んずる傾向が強いのではなかろうか。だから,何が真に善であり,悪であるかを,知的
に判別する能力を養うことが必要である。また,善悪に関する判別の明確な基準となるも
−83−
のが欠如しているために,日本人は,ともすれば,極めて独善的な生き方に陥り易い。丁
度,国学が,日本は神国であるという国粋主義思想に徹底していったように,日本人にお
ける,心情を規定する超越的原理の欠如は,日本人をして,コスモポリタン的な視野を聞
(6)
かせにくい。ただ,自然科学や国際的な経済交流のみが,日本人の眼を世界に開かせる役
割を果たしてきたように思われる。だから,一つには,各教科を通して,将来の日本を背
負って立つ児童・生徒の視野を拡大させると共に,また,倫理学的教科を設定することに
よって,日本人の独善性の殻を打ち破っていくことが望ましいのである。
勿論,だからといって,「道徳」の時間が不必要になるわけではない。「道徳」の内容
を裏から支えるような形で,社会科の中に倫理的分野を設けてもよいし,また,独立の教
科として倫理学的教科を設けてもよい。それは,中学校においてである。小学校において
は,哲学的思惟は,凡ての児童に可能であるとは,考えられえない。ともかく,そのような
倫理学的思惟方法の教授が十分になされていないと,子供達が社会人となって,複雑な人
間関係のなかに置かれた時,ともすれば,道徳の無力さ,無用さの感を抱くことにもなり
かねないのである。
倫理学的教科に関しては,成績の評価はしない方が望ましい。各教師が,一生懸命に,
道徳の本質について,公正な立場に立って,子供達に語りかけている様は,ソクラテスが
「人間にとっては,徳その他のことについて,毎日談論するという,このことが,まさに
最大の善きことなのであ〔る〕。………吟味のない生活は,人間の生きる生活ではない。
(7)
………」(『ソクラテスの弁明』)と説いたことを彷彿させる。
今や,時代は,国際社会の時代である。しかし,各国間には様々なエートスの違いがあ
るから,日本の学校教育における「道徳」の時間及び倫理学的教科は,まず,日本人の道
徳性の向上のために,それに適った仕方で,努めなくてはならない。そして,上述の倫理
(8)
学的教科は,児童・生徒の日々の生活を倫理学的に吟味する基準を与えるわけである。そ
れに基づいて,「道徳」の時間や生活指導の場において,実際に自分達の日々の行動を吟
味させることになる。この,「道徳」と「社会」にまたがる,倫理学的教科の内容につい
ては,改めてその構想を述べるつもりである。
-84-
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