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れている」 (加]の)。 『純粋理性批判』 はアプリオリな綜合判断の可
認識批判と形而上学 一、認識批判 カントは言う。﹁純粋理性の本来的課題はといえば、いかにして 鈴 木 文 孝 (哲学教室) の根源、範囲及び客観的妥当性を規定する学﹂として構築しようと する(B81)。だから、﹃純粋理性批判﹄・の認識論は︽認識批判︾と の第一、第二問目に重点を置いて解釈すれば、﹁純粋理性批判﹂は、 アプリオリな綜合断判の可能性を問う、四問に細分化された問い いう性格を伴っている。 マールブルク学派の解釈におけるように、純粋数学及びニュートン アプリオリな諸綜合判断は可能であるか?という問いのうちに含ま れている﹂(B19)。﹃純粋理性批判﹄はアプリオリな綜合判断の可 ることは決して不可能ではない。同書の﹁超越論的感性論﹂、﹁超越 物理学の基礎づけの書物と見なされうる。同書をそのように解釈す 能性を次の四つの問いに分けて問う。一、﹁いかにして純粋数学は 可能であるか?﹂二、﹁いかにして純粋自然科学は可能であるか?﹂ つつ認識論を展開している。そして、H・コーヘンの﹃カントの経 論的分析論﹂は純粋数学及びニュートン物理学の基礎づけを志向し 三、﹁いかにして素質としての形而上学は可能であるか?﹂四、﹁い かにして学としての形而上学は可能であるか?﹂(B20-22)同書 験の理論﹄を頂点とするマールブルク学派のカント解釈の影響下に は﹁学としての形而上学﹂の可能性を否定する。直観の対象になり えないものは認識の対象にはなりえない。カントによれば空間、 ト学派の時代は、もはやライプユッツ ヴォルフ学派におけるよう 批判﹄の解釈の深化であった。カントの時代とは異なって、新カン あるカント研究の最大の成果は、そのような側面からの﹃純粋理性 である。したがって、我々人間には時空的目感性的世界を超えて認 時間は﹁純粋直観﹂、﹁感性的直観の二つの純粋形式﹂(B36) 識することは不可能であることになる。﹁学としての形而上学﹂の な八独断的形而上学︾を批判する必要のない時代になっていた。 しかし、﹁純粋理性批判﹂第一版及び第二版の﹁序言﹂において 可能性のこの杏定の仕方は、まさしく認識論的である。カント 定の学﹂、したがって﹁純粋理性の体系の予備学﹂と規定する(口 認識論のコペルニクス的転回を企投しているのである。また、﹁プ 明らかなように、カントは八形而上学の進歩︾をめぐっていわゆる は﹁純粋理性批判﹂を﹁純粋理性、その諸源泉と諸限界の単なる判 ●性 一及 ●び ・純 ・粋 ●理 一性 一の ●諸 一認 ●識 ●一● S)。また、﹁超越論的論理学﹂を﹁純粋悟 - 144 1986 131, February, pp. 144 35 (人文科学編), 愛知教育大学研究報告, あるか?﹂、﹁いかにして純粋自然科学は可能であるか?﹂︱﹁超 ロレゴーメナ﹄の構成においては、﹁いかにして純粋数学は可能で リな綜合的認識の可能性をも導出することができる⋮⋮。﹂ リオリな綜合的認識の可能性の原理に基づいて他の凡てのアプリオ ﹁いかにして学としての形而上学は可能であるか?﹂と問うとき、 純粋数学、純粋自然科学は﹁いかにして可能であるか?﹂を問うと 越論的主要問題﹂第一部、第二部の標題-という問いの設定に先 立って、一般に形而上学は可能であるのか?﹂︲︲-﹁プロレゴー レゴーメナの全般的問題の解決﹂という標題で﹁いかにして学とし ナ﹄の定式を用いて言うならば、その問いにおいてカントは﹁一般 可能であるか?﹂という問いとも視角を異にする。﹃プロレゴーメ ある。だから、その問いは、﹁いかにして素質としての形而上学は としての形而上学﹂は純粋理性の超越論的能力によって可能で きとは本質的に異なった視座での問題設定がなされている。﹁素質 ての形而上学は可能であるか?﹂という問いが設定されている。 に形而上学は可能であるのか?﹂を問うているのである。﹁7+5 純粋理性の限界決定について﹂(57-60)に続いて`﹁プロ メナの全般的問題﹂の標題・-という問いが設定されており、﹁結 (﹃プロレゴーメナ﹄においては﹁超越論的主要問題﹂の第三間目 び は﹁いかにして形而上学一般は可能であるか?﹂というふうに定式 =に﹂という算術式(まぶ)、﹁直線が二点間の最短線である﹂とい 法則(圃司)、﹁運動の一切の伝達において作用、反作用は常に相互 6 う) ﹁、 純﹁ 粋生 幾起 何す 学る のと 原こ 則ろ ︹の =凡 公て 理︺﹂(B に等しくあるはすである﹂という作用、反作用の法則(ibid.) 化されており、それが﹁超越論的主要問題﹂第三部の標題になって それらはカントにとって明証的に真なる命題である。しかし、彼は いる。)それらの点に即して見れば、カント自身にとっての﹁純粋 第一版﹁序言﹂で﹁純粋理性批判﹂について次のように述べている。 形而上学においてはアプリオリな綜合的認識(命題)の真理性を確 のものがその原因を持つ﹂という因果律(B13)、﹁物体的世界の一 ﹁私は純粋理性批判という言葉を諸々の書物や体系の批判の意味に 認することができない。﹁一般に形而上学は可能であるのか?﹂と 切の変化において物質の量は不変のままである﹂という質量不変の 用いるのではなくて、純粋理性が一切の経験から独立に獲得を目指 問うとき、彼は八実存的懐疑vの渦中に巻き込まれているのではな 理性批判﹂の究極的課題は﹁学としての形而上学﹂の可能性につい すであろう一切の認識に関しての理性能力一般の批判、したがって ・ ・ ・ ●・ ● ●・●・●一●・一一●一● ●而● 形 上学一般の可能性あるいは不可能性の決定及び諸認識の諸源 て吟味することであった、と言えよう。カントは﹃純粋理性批判﹄ 泉、範囲、諸限界の決定という意味に用いる。︹この批判において カントである。例えば、いかに思弁を凝らしても心霊の不死性を証 いであろうか。殊更に超越論的諸理念の実践的性格を強調している さて、我々には純粋数学、純粋自然科学において﹁或る純粋なア は︺凡ては諸々の原理に基づいてなされる﹂(圖)。 の存在﹂という限界状況に直面しているのではないであろうか。意 志の自由を証明することは純粋理論理性によっては不可能であると 明することは不可能だと言うとき、彼はハイデ″ガーのいう﹁死へ 言うとき、では一体、人間的現存在とは何であるのか、という懐疑 プリオリな綜合的認識が現実的であり与えられている﹂。(以下、 るか﹂を問うことによって、我々は超越論的な認識論を構築し、認 IV 275)それらのアプリオリな綜合的認識は﹁いかにして可能であ 識批判を遂行することができる、とカントは考える。﹁所与のアプ 143 孝 文 木 鈴 認識批判と形而上学 ないであろうか。そして、神の現存在を証明することも純粋理論理 に戦慄しながら、彼はそれに雄々しく対峙しようとしているのでは 的認識(経験)の理論ではなくて、存在論的認識の理論である﹂。 いもない﹂と断言している。あえて言えば、﹁純粋理性批判は存在 と記す)において、﹁純粋理性批判は﹃認識論﹄とは何の掛かり合 (以上、ハイデッガー25)ただし﹁純粋理性批判﹂は本質的には 性によっては不可能であると言うとき、彼の実存的不安は極度に高 ﹁基礎的存在論﹂の試みであることを、ハイデッガーは主張する。 まったと思われる。なるほど、心霊の不死性・意志の自由・神の現 存在は純粋実践理性によって要請されるという見通しを彼は持って として定位する。彼は言う。﹁それゆえ超越論的認識は存在者自体 ?﹂という問いを﹁存在論的認識の可能性への問い﹂(同上書23) を研究するのではなくて、先行的な存在理解の可能性を、すなわち だから、彼は﹁いかにしてアプリオリな諸綜合判断は可能であるか 独断性は顕著である。一つの憶測でしかないが、﹃形而上学の進歩 いた。しかし、その要請論は、客観的に見れば、カントの独断でし についての懸賞論文﹄がなぜ未完に終ったかの理由として、私は、 くこと(超越)にかかわるのであり、それによって初めて経験は存 存在者の存在構成を研究する。それは純粋理性が存在者へと越へ行 かない。殊に、心霊の不死性・神の現存在の要請に関しては、その 同論文にいう﹁実践的目定説的形而上学﹂についてカントがその体 ﹁超越論的弁証論﹂において﹁学としての形而上学﹂の可能性を その地平の開拓が目指されている、とハイデッガーは主張する。彼 平が開ける。アプリオリな綜合判断の可能性を問う問いにおいても 粋理性が存在者へと越え行くこと(超越)﹂によって存在理解の地 在者に自らを適合させることができるのである﹂(同上書24f.)。﹁純 系化を企てるほど十分な自信を持っていなかった、ということを挙 主題的に吟味するとき、形而上学者カントは深刻なあに実存的不安︾ げうると思う。 に直面していた。彼があれほどまで徹底して伝統的形而上学の独断 ﹁存在者への先行的な自己関係づけ﹂、﹁純粋な﹃⋮⋮への関係﹄﹂ (同上書24)のことなのである。﹁⋮⋮したがって認識作用は、そ によれば、﹁アプリオリな綜合判断﹂という場合の﹁綜合﹂とは、 優位﹂という思想は、精神分析の術語を用いて言えば、その実存 れ自体のうちにあらかじめ閉じ込められている、あの単なる思惟作 を暴きそれを根絶しようとしたのは、その実存的不安︾を防衛す 的不安と純粋理性の思弁性との﹁妥協の産物﹂ではなかったであ のを﹃越え出て行か﹄ねばならない。カトンはこの﹃全く別箇のも 用それ自身が必然的にそのもとに﹁とどまっている﹂ところのも 意味する。存在理解というこの超越の可能性を、すなわちその本質 と断定する。﹁存在論の可能性を問題にすることは、以下のことを (同上書108)。更にハイデ。ガーは﹁超越論的哲学﹂を﹁存在論﹂ それが或るいつも全く別箇のものを認識するかぎり、綜合的である﹂ の﹄への﹃関係﹄を綜合(真理的綜合)と呼んだ。認識はそれ自身、 ろうか。カントの認識批判の背後にあるそういう実存的不安を る強迫神経症的な営みではなかったであろうか。﹁純粋実践理性の unddas 洞察することが、﹃純粋理性批判﹄の解釈においては必要であると 思う。 二、アプリオリな綜合判断の可能性 ハイデッガーは﹃カントと形而上学の問題﹄(Kant Problem derMetaphysik ^。 1965.以下、ハイデ。ガー又はカット書 142- を問うことを、︹したがって︺超越論的に哲学することを。それゆ 863)として捉えている(ハイデッガー41。 性)の﹁共通の、しかし我々には未知の一つの根﹂(B29。 上学die た、﹃純粋理性批判﹄第一版の﹁純粋悟性概念の演繹について﹂の 既在及び現在一般の根源的、三位一体化的形成﹂として理解し、ま その超越論的構想力︾に即して開示する﹁根源的時間﹂を﹁将来、 vgl.B 117-156)。彼は、 えカントは、伝統的存在論の問題設定を明示するために、一般的形而 越論的哲学﹄という名称を使用するのである。したがって彼は、こ Metaphysica generalis(存在論()ntologia)に対して﹃超 の伝統的形而上学に言及する際、﹃古き人々の超越論的哲学﹄とい 章-超越論的演繹論-におけるいわゆる﹁三段の綜合﹂-﹁直 問うとき、彼は人間の有限的理性の限界の画定とアプリオリな諸綜 ントが﹁いかにしてアプリオリな諸綜合判断は可能であるか?﹂と の存在について問うているのではないはすである。さらに、カ 味﹂を問うとき、彼はカントのいう﹁経験的実在性﹂という意味で ないかと思う。ハイデ。ガーが﹃存在と時間﹄において﹁存在の意 図する意味での﹁存在論﹂との間には本質的な差異が存するのでは 源的に一体的であるがゆえにのみ、それらのうちにはまた純粋認識 るのである。純粋綜合のこれら諸様態が三位一体的時間において根 形成的に時間自体の時熟を生起させるがゆえに数において三つであ るのではなくて、それらがそれ自体において根源的に一体的、時間 それらが純粋認識の三要素に関連するがゆえに数において三つであ う。﹁純粋綜合の諸様態-純粋覚知、純粋再生、純粋再認-は、 明しようとしている。(以下、ハイデッガー178)ハイデッガーは言 る再認の綜合﹂(カント)︱をその﹁根源的時間﹂に基づいて解 観における覚知の綜合﹂、﹁構想における再生の綜合﹂、﹁概念におけ 合判断の体系の構築とを志向しているのである。﹃カントと形而上 しかし、私はカントのいう﹁超越論的哲学﹂とハイデッガーが企 う用語法をするのである﹂(同上書25)。 学の問題﹄は、基礎的存在論の書物として、卓越している。そこに 中間能力もまた、根源的時間以外の何ものでもない。時間に根付く の三要素の根源的一体化の可能性も存しているのである。しかしそ というこのことによってのみ、超越論的構想力一般は超越の根であ れゆえにまた、根源的に一体化するもの、︹すなわち︺超越論的構 ハイデッガーがカントの意図に即して﹃純粋理性批判﹄を解釈して りうるのである。﹂-ハイデッガーは彼の基礎的存在論の展開と 提示されている哲学的問題設定は人間の哲学的思惟の極致に到達し いるとは言いがたい。﹁﹃純粋理性批判﹄の解釈︹すなわち﹃カント いう形でカント解釈を遂行する。そこにおいては、その第二部の刊 ていると言っても過言ではない。﹁超越論的﹂という概念に関して と形而上学の問題﹄︺は﹃存在と時間﹄の第二部の最初の仕上げと 行が断念された﹃存在と時間﹄の基礎的存在論的思惟がその本来の 想力という見掛け上はただ︹感性と悟性とを︺媒介するにすぎない の関連において成立した﹂(カント書﹁第一版序﹂)。だから、そのカ も、先人の想到しなかった優れた理解の仕方を示している。しかし、 ント解釈においては、ハイデッガー自身の思惟が﹃存在と時間﹄の 真の意味での﹁超越論的感性論﹂は﹁超越論的図式論﹂をまって初 方向に展開されている、と私は思う。ハイデ。ガーの言うとおり、 ﹃カントと形而上学の問題﹄において、ハイデッガーは超越論 めて完結する{ハイデッガー123)。しかし、カントによれば時 圧倒的な影響下にある。 的構想力をカントのいう、﹁人間的認識の二つの幹﹂(感性・悟 -141- 孝 文 木 鈴 認識批判と形而上学 歩み出で立ち(脱自Ekstasis 的に必然的な⋮⋮への歩み出で行きはしたがって恒常的な⋮⋮への の本質的統一性を表現している。この本質的統一性は、向かいなが は﹁人間的純粋理性は必然的に純粋感性的理性である﹂という観点 への歩み出で立ちが、まさしくその立つことにおいて、地平を形成 間はあくまでも﹁純粋直観﹂であり、﹃純粋理性批判﹄において から︽﹁超越論的構想力を﹁人間の主観性の、しかもまさしくその して、地平を自らのために確保するのである。超越はそれ自体にお ら対立させることそれ自体が対象性一般の地平を形成する、という 統一性と全体性における、可能性の根源的根拠﹂として捉えている いて脱自的 地平的である。それ自体において一体的な超越のこの ことのうちに存している。有限的認識作用のうちで先行的かつ常時 のである(ハイデッガー157)。彼は彼が﹁超越論的哲学﹂の根本 構成を最上原則は表現している。﹂-人間は脱自的に﹁経験一般 ただし、次の点には注目すべきである。すなわち、ハイデッガー 問題と考える﹁存在者の存在構成﹂をカントに即して超越論的観 は﹁根源的時間﹂という時間概念は成立しえないのではなかろうか。 念論Vの立場から基礎づけるために超越論的構想力Vに焦点を合 の可能性の諸条件﹂という言わば主観性の地平から﹁経験の諸対象 は、認識論的原則である。というのも、そこでいわれている﹁経験﹂ のである。人間の﹁経験﹂の成立を基礎づける右の原則それ自体 の可能性の諸条件﹂という存在論的地平へと﹁超越﹂しうるという )である。しかしこの本質的な⋮⋮ わせて﹃純粋理性批判﹄の解釈を行っているのではないであろうか。 る思惟像の世界である。思惟像の世界を成立させるうえで、八超越 ︽超越論的観念論Vの立場に立てば、対象的世界は意識一般におけ 論的構想力は大きな役割を演じているはすである。だから、﹃純 とは、﹁現象学的経験﹂ではなくて、﹁存在者﹂についての、範疇 による﹁経験﹂だからである。しかし、この原則を基礎づける主観 粋理性批判﹄の超越論的演繹論は、超越論的構想力﹀の機能を後 退させて﹁統覚の綜合的統一﹂をその﹁頂点﹂に据える(B133AnmJ 性の超越構造は存在論的である、とも言えよう。 理性を感性的思惟の地平から解放して﹁素質としての形而上学﹂の て感性にかかわるのでないことを明らかにすることによって、純粋 ﹃純粋理性批判﹄は、理性は直接的には悟性にかかわるのであっ 第二版での改稿によって、ハイデッガーも言うとおり、むしろ説得 さて、ハイデ。ガーによれば、﹁超越論的﹂とは、純粋感性的理 可能性を明らかにし、﹁学としての形而上学﹂の可能性を否定する 力を失ってしまっている。 性の存在論的超越を指す存在論的概念であった。そのことをより明 立を肯定して﹁学としての形而上学﹂の成立を否定しなくてはなら 確にするために、﹁凡ての綜合判断の最上原則﹂の﹁究極的な定式 ないという葛藤が、その言わば神経症的な﹁妥協の産物﹂として、 ﹁特殊的形而上学﹂のことである。﹁素質としての形而上学﹂の成 次のとおりである。﹁経験一般の可能性の諸条件は同時に経験の諸 ﹁純粋実践理性信仰﹂という観念を生み出したのである。それゆえ、 ことを目指している。ここにいう﹁学としての形而上学﹂とは、 対象の可能性の諸条件である。﹂ハイデ。ガーは言う。﹁この命題の 化﹂についてのハイデッガーの説明を考察する。(以下、ハイデッ 決定的内容は︹中略︺﹃同時にである﹄に存する。一体、この﹃同 我々はこの観念を決して過大に評価してはならない。 ガー111)究極的に定式化された﹁凡ての綜合判断の最上原則﹂は、 時にである﹄とは、何を意味しているのか?それは完全な超越構造 ― 140 カントは﹃純粋理性批判﹄第二版﹁序言﹂において、付随的に。 さて、﹁自然の形而上学﹂、﹁人倫の形而上学﹂という言葉に見ら れるように、﹁形而上学﹂という概念がカントにおいては大きく変 まうのか。仮に可能であるとすれば、それはどのような形而上学であ て、純粋理論理性の地平においては形而上学は可能でなくなってし 化論 しで てあ いる 粋理性批判﹂による伝統的形而上学の打破によっ ff.)その﹁第一部門﹂は狭義の超越論的認識 り。 、﹁ ﹁純第 二部門﹂は認識批判(﹁純粋思弁理性の批判﹂)である、とされてい XVIII ﹁純粋理性批判﹂に﹁形而上学﹂という言葉を充てている。(以下、 る。しかし、同書においてカントが目指しているのは、﹁超越論的 るのか。ここでカントにおける﹁形而上学﹂の理念を明らかにしておこう。 三、カントと﹁形而上学﹂ るであろうか。認識主観の超越論的な世界構成︾-したがって 在が﹁世界 内目存在﹂であるゆえんをカントの認識論は説明でき あるにとどまらす、また、我々の倫理的実践の場でもある。人間存 て成立するのであろうか。可能的経験の世界は我々の認識の対象で 考えていない。しかし、可能的経験の世界の﹁世界性﹂はいかにし 越論的哲学﹂を存在論的認識の理論とも基礎的存在論とも ﹁純粋理性批判﹂の﹁序言﹂に即して見るかぎり、カント自身は﹁超 の﹁準備﹂、﹁超越論的批判﹂なのである(B24-26)。少なくとも 批判﹂は﹁純粋理性の教説﹂ではなくて、﹁純粋理性のオルガノン﹂ れが含まれていないからだ、と説明している(B27f.︶。﹁純粋理性 領域の外に、それを超えて在る学問である﹂(XXVIII とphysicaの︹合成語︺)と呼ばれる。それは、言わば、自然学の きないのであるから、その次に来る学問は形而上学(meta。 意味するが、我々は自然の諸概念に経験を通してより他には到達で じたと考えられるべきではない。というのは、physisとは自然を はこの学問そのものに精確に適合しているのだから、偶然に生 を引用しておく。﹁形而上学という名称について言えば、それ に倣って私もカントの﹃形而上学講義﹄(L)における的確な指摘 学﹂の諸論文に冠した名称であった。さて、ここに、ハイデッガー 的名称﹂(ハイデッガー16)としてアリストテレスのいう﹁第一哲 論文の後ろに置かれている、アリストテレスの諸論文に対する総括 る。それはロドスのアンドロニコスが﹁﹃自然学﹄に属している諸 Metaphysik <は語源的には ﹁世界 内 存在﹂の構成1には超越論的構想力が大きく関 trans taphysika <に由来す 哲学﹂(﹁自然の形而上学﹂)の確立である。彼は同書が﹁超越論的 哲学﹂に到達していないゆえんを、﹁超越論的哲学は、一つの完備 した体系であるためには、またアプリオリな人間的認識全体の詳細 与しているはすである。超越論的構想力は可能的経験の世界を taphysikaは根本的な哲学的当惑を表す表題である﹂(ハイデッ スのアンドロニコスはそれに適切な名称を思い付かなかった。﹁∃eta な分析をも含んでいなくてはならないはすである﹂が、同書にはそ その﹁図式性﹂によって統一してそれに﹁世界性﹂を付与し、可能 ガーコ)。というのは、アリストテレスの﹁第一哲学﹂は﹁﹃存在者 的経験の世界を我々が﹁関心﹂を向ける世界に生気づける。それに よって自然的世界は単なる機械論的自然を超えたものになる。そう としての存在者( g呂)の認識﹄であると同時に、そこから存 在者全体(katholou)が規定される、存在者の最も卓越した領城 いう認識目存在論的な思惟の展開は、カントにもハイデッガーにも 欠けている。 一一139 ― 孝 文 木 鈴 認識批判と形而上学 右記の﹁根本的な哲学的当惑﹂はその二重性に直面しての当惑であ 本質の規定﹂そのものが﹁二重性﹂を伴っているからである(ibid.)。 (timiotatg oe nnos)の認識でもあり﹂、このように﹁﹃第一哲学﹄の する。彼は言う。﹁形而上学全体の基礎づけとは、存在論の内的可 においては、形而上学の﹁本質の規定﹂における﹁二重性﹂は解消 の本質への問いに押し戻される。﹂このようにして、ハイデッガー 殊的形而上学の基礎づけの試みはそれ自体において一般的形而上学 能性を顕にすることである。﹂ ﹃カントと形而上学の問題﹄におけるカント解釈を通してハイデッ ての現存在の形而上学﹂︱第四章﹁反復における形而上学の基礎 ガーがその﹁基礎づけ﹂を目指しているのは、﹁基礎的存在論とし づけ﹂Cの標題-である。彼は﹁人間における有限性﹂を強調す special )i Js と generalisと )﹁その主要諸領域に る。ハイデッガーに従って言えば、形而上学は(存在者一般の認識 二般的形而上学Metaphysica 関しての存在者の認識(特殊的形而上学Metaphysica ﹁﹃第一哲学﹄の本質の規定﹂における﹁二重性﹂は、形而上学の る。彼によれば、﹁私は何を知ることができるか?﹂、﹁私は何をな に区分される(19)。アリストテレス自身によって観念されている この区分に対応する。言うまでもなく、前者は﹁存在論﹂であり、 能性への問いを超えて、存在的認識を可能にするところのものの可 である。﹁特殊的形而上学の内的可能性の企投は、存在的認識の可 ついてのみならす、﹁特殊的形而上学﹂についても当てはまること 先行的理解、存在論的認識である。﹂それは﹁数学的自然科学﹂に 存在者へのかかわり(存在的認識)を可能にするのは、存在構成の 在者へのかかわりの本質の開明﹂がなされなくてはならない。﹁⋮⋮ 存在者についての一切の言明がそこから証示されうるところの、存 け﹂のために、﹁その中で存在者がそれ自身において自らを示し、 有限であるがゆえに、これらの問いを設定するのである。これら三 にとってはその理性存在において有限性そのものが問題であるほど のではなくて、その逆である。人間的理性は有限でありしかもそれ ﹁⋮⋮人間的理性は単に上記の三問を設定するがゆえに有限である おいて﹁人間的理性﹂の﹁有限性﹂が問われているからである。 関係づけられるのかというと、ハイデッガーによれば、それらの問いに では、なぜ、それら三問が﹁人間とは何であるか?﹂という問いに この有限性を直に確証して有限性のうちに身を保つことである。﹂ と、それゆえ有限性を消滅させるといったことではなくて、逆に、 とって大事なのは、Konnen。 理性の最も内的な関心は有限性そのものに向かう。人間的理性に の) 問し い彼 化は に言 対う 応。 し﹁ て⋮ い⋮ る人 。間 (的 以下、195 . 的理性のできるKonnen、べきであるSollen'許される{}iirfen﹂ う、﹁人間的理性の最も内的な関心﹂に基づく三つの問いは、﹁人間 すべきであるか?﹂、﹁私は何を希望することが許されるか?﹂とい 後者は﹁神学﹂・﹁宇宙論﹂・﹁心理学﹂である(ハイデ。ガー18)。 (更にハイデ。ガーは形而上学を﹁単なる理性に基づく学問﹂と規 定する(19)。) ハイデ。ガーによれば、﹁特殊的形而上学は格別な意味において 超感性的存在者の認識であり﹂、したがって﹁存在的認識﹂である。 能性への問いに還元される。しかしそれは先行的存在理解の、すな Sollen D。 urfenを除去するといったこ わち最広義の存在論的認識の本質の問題である。だが存在論の内的 間はこの一なるもの、︹すなわち︺有限性を問い求めているがゆえ (以下、19-22)だから、特殊的形而上学に先行してその﹁基礎づ 可能性の問題は一般的形而上学の可能性への問いを含んでいる。特 - -138 に、﹃人間とは何であるか?﹄という第四問へ関係づけ﹁られる﹂﹂。 ﹁存在論的認識﹂の地平を開こうとするその解釈における志向にお づくその脱自的構造において、﹁世界日内 存在﹂として﹁世界﹂ いてこそ評価されるべきである。現存在は超越論的構想力に基 にかかわることができる、ということが同書においては明らかにされ ﹃カントと形而上学の問題﹄には﹁マックス・シェーラーを追憶 して﹂という献辞が記されている。しかし、シェーラーの﹁哲学的 ている。それは、現存在の﹁平均的存在理解﹂を存在論への手掛り としようとする﹃存在と時間﹄における基礎的存在論すなわち現 とハイデ。ガーは言う。﹁⋮⋮哲学的人間学は、形而上学の基礎づ 存在分析論Vとは異なって、言わば超越論的基礎的存在論いとで 人間学﹂の理念は﹁形而上学の基礎づけ﹂とはむしろ無縁である、 われたままに放置するという危険を常に自らのうちに蔵している﹂ けを意図する人間への問いを最初に問いとして形成する必然性を覆 も名付けられるべきものである。 忘却されている。﹂﹁形而上学の基礎づけとしての現存在の形而上学 上学﹂を読み取ろうとする。﹁現存在の有限性︱存在理解-は さて、ハイデ″ガーは﹁純粋理性批判﹂において﹁現存在の形而 (ハイデッガー197︶。﹁人間とは何であるか?﹂と問うことは、そ ﹁哲学的人間学﹂の地平を超えている。﹁人間が人間における現存 れが﹁人間における有限性への問い﹂(ibid.)であるかぎり、既に 在という根拠の上でのみ人間であるとするなら、人間よりもより根 ハイデ。ガー210fし の基礎的存在論的な根本作用はそれゆえ﹃想起﹄である。﹂、。(以上、 ハイデ。ガーの趣旨からはそれるが、カント はありえない﹂(以下、同上書207f.︶。そこには﹁哲学的人間学﹂ 源的であるところのものへの問いは原則として全く人間学的問いで 自身に即して言えば、﹁現存在の有限性﹂は﹁基礎的存在論的構成﹂ ことはできない。それは有限なのである。 らかになる。人間の認識能力は可能的経験の限界を超えて認識する (ハイデ″ガー旨こによってではなく、認識批判いによって明 を超えた﹁現存在の形而上学﹂の地平が開けている。﹁現存在の本 問いである。﹂﹁︹人間という︺存在者の存在﹂を問う﹁現存在の形 質が実存のうちに存するかぎり、現存在の本質への問いは実存論的 而上学﹂こそが﹁形而上学の基礎づけ﹂を可能ならしめる、とハイ てはカントが対決した﹁形而上学﹂-とりわけ﹁特殊的形而上学﹂ ﹃存在と時間﹄との連関における当然の帰結であるが、そこにおい ﹁現存在の形而上学﹂という実存論的問題設定がなされるのは、 的哲学﹂とも呼ばれている。﹁超越論的哲学は純粋理性の一切の原 ﹁形而上学﹂の概念の確立である。﹁自然の形而上学﹂は﹁超越論 の側面は、﹁自然の形而上学﹂、﹁人倫の形而上学﹂という新しい 面は、右に見たハイデ″ガーの解釈に見事に描出されている。他方 トに﹁形而上学﹂の概念の大きな変革をもたらした。その一方の側 我々はハイデ。ガーを離れて論を進めよう。認識批判はカン -は全然念頭に置かれていないのではなかろうか。しかし、﹃カ デッガーは考えている。 ントと形而上学の問題﹄における﹃純粋理性批判﹄の解釈は、カン シェーラーがカント倫理学の特徴を﹁形式主義﹂と並んで﹁アプ が﹁自然の形而上学﹂と呼ばれるのか。 理の体系である﹂(B27)。では、なぜ、そのような﹁超越論的哲学﹂ 存在論的な地平を開き、カントが学としての成立を拒否した特殊 ト解釈としては、言わば現存在の脱自的構造に基づいて認識 的形而上学の﹁存在的認識﹂の次元を超えて、特殊的形而上学に - -137 孝 文 木 鈴 認識批判と形而上学 トにおいてもシェーラーにおいても﹁アプリオリ﹂は﹁経験的﹂の リオリ主義﹂と捉えたことが、ここで想起されるべきである。カン ﹁純粋実践理性﹂とは﹁理性﹂として同一のものであることを強調 は倫理学的著作の随所で﹁純粋理論理性﹂(﹁純粋思弁理性﹂)と ﹁実践的形而上学﹂が成立する可能性を看取している。そして、彼 ている。確かにカントは可能的経験の限界外に﹁純粋理性信仰﹂ の本来の意図は、純粋理性﹁純粋理論理性﹂-にそれに している。しかし、﹃純粋理性批判﹄におけるカントの八認識批判y 反対概念として用いられている。﹁超越論的哲学﹂は﹁超越論的﹂ る﹁建築術的﹂地平を開き、純粋理性の諸原理の体系化を遂行す という形而上学的作業によってアプリオリな綜合的認識を基礎づけ る。﹁アプリオリ﹂と﹁形而上学的﹂とは同義語ではないが、カン いうことにあった。精神分析理論のエネルギー経済論に倣って言え ば、﹃純粋理性批判﹄は実りなき形而上学的思弁によって八純粋理 固有の活動領域を画定し、自然を﹁形而上学﹂の対象にすると 性のエネルギーが浪費されてしまうことを防止するという意図を トにおいては緊密に関連して用いられている。﹃純粋理性批判﹄の 直観﹂であることを解明するその解明を、カントは﹁空間概念﹂。 ﹁超越論的感性論﹂において空間表象・時間表象が﹁アプリオリな ﹁時間概念﹂の﹁形而上学的論究﹂と呼んでいる。︹純粋︺感性・ かれる。形而上学は伝統的に﹁純粋理性の学﹂として探究されてき て、アプリオリな綜合的認識を基礎づける﹁超越論的﹂な地平が開 される、内的生活史に起源する諸々の不安を直視することによって う。精神分析においては抵抗の克服は転移状況という場に再現 刻な不安-実存的不安といってもよいーに直面していたであろ によって、カントは﹁超自我の不安﹂、﹁エスの不安﹂に匹敵する深 もって執筆されたのである。人間の認識能力の限界を直視すること た。カントは純粋理性の建築術的 体系化的機能に着目して、 生起する。脆弱な自我では精神分析に耐えることはできない。 ︹純粋︺悟性をも含む広義の純粋理性によっ 純粋理性によるアプリオリな認識の体系を構想する。そこに﹁自然 超越論的構想力・ の形而上学﹂という理念が生れる。﹁自然の形而上学﹂は、﹃純粋理 カントは雄々しく人間的理性の限界を直視した。抵抗が克服さ 得し、神経症患者は真のバイタリティーを回復する。カントは純 粋理性に真のバイタリティーを回復させることを目指して﹁純粋 によってカントは建築術的目体系化的な力動的機能を伴った︿純粋 であろう。ハイデ。ガーの﹃カントと形而上学の問題﹄においては う﹁実り豊かな﹂理論的使用へ差し向けようとした、と言ってよい 性批判﹂を通してカントは純粋理性を﹁自然の形而上学﹂とい もしそのように解釈することが許されるなら、我々は、﹁純粋理 理性批判﹂を遂行した。 理性Vに可能的経験の限界内でその全力量を発揮させることを意図 そのような意味での﹁自然の形而上学﹂という理念が全く顧みられ rationalis﹂と れれば、歪曲したリビドー・エネルギー経済は健全な備給体制を獲 と﹁合理的心理学psychologia ﹁存在論﹂及び﹁純粋理性の自然論Naturlehre﹂(﹁合理的物理学 rationalis 性批判﹄の﹁純粋理性の建築術﹂の章における規定とは異なって。 physica を含む(B874f.)に限定して考えられるべきであろう。 と言ってしまうと、﹁自然の形而上学﹂という理念は至極平板な していた、と解すべきであると思う。だから、﹁自然の形而上学﹂ ものにしか思われないかもしれないが、私はむしろ、認識批判 は﹁特殊的形而上学﹂よりもはるかに積極的な理念である、と思っ ― 136 ― ていない。 四、超越論的観念論 いかなる仕方で、また、いかなる媒介を通して諸対象に関係するに しても、それを通して認識が諸対象に直接的に関係し、それを一切 の思惟作用が媒介として目掛けるところのものは、直観である﹂(り・ ﹁凡ての直観は外延量である﹂という﹁直観の諸公理の原理﹂(¢ の諸予料﹂という﹁純粋悟性の諸原則﹂のうちにも表明されている。 的対象であることを強調する。そのことは﹁直観の諸公理﹂、﹁知覚 33)。カントは物体的世界が何よりも先す﹁直観﹂、﹁知覚﹂の直接 越論的観念論の立場から第一、第二の二律背反(数学的二律背 上学に対するカントの対決の表明とも見なされうる。カントは︽超 202)は、デカルトの﹁延長実体﹂の概念を踏まえて、それを直観 純粋理性の第一、第二の二律背反は、或る意味でデカルト的形而。 の世界であって、物々自体の世界ではない。とするならば、第一、 の対象としてイメージ化したものである。﹁凡ての現象において、 反)は定立、反定立が共に偽であると断言する。物体的世界は現象 感覚の対象であるところの実在的なものは内包量すなわち度を有す 神・物体の概念-ロックは内部感覚をい> 第二の二律背反は、定立が真であるか、それとも反定立が真である び、外部感覚をsensation感覚と呼ぶーを踏まえ、それらを かという問題に先立って、そういう問題設定そのものが誤りである、 心理学の第四の誤謬推理の批判﹂)、﹁蓋然的観念論﹂(﹃純粋理性批 知覚の対象として度量化したものである。(更に、﹁経験的思惟一般 であり、物体は外部感覚の対象であるというイギリス経験論流の精 判﹄第二版、﹁観念論論駁﹂)と規定するが、デカルトの哲学的立場 の︹三つの︺公準﹂の第二公準において﹁感覚﹂が﹁経験の質料的 0 る7 ﹂) とは い、 う精 ﹁神 知は 覚内 の部 諸感 予覚 料の ﹂対 (象 B は果して観念論︾であったのだろうか。デカルトにとっては、﹁延 とカントは言うのである。カントはデカルトの哲学的立場を﹁経験 長実体﹂である﹁物体﹂は﹁思惟実体﹂である﹁精神﹂と並列する 条件﹂として現実性Wirklichkeitの表徴とされていることをも参考 的観念論﹂ ﹁懐疑的観念論﹂(﹃純粋理性批判﹄第一版、﹁超越論的 ﹁実体﹂なのである。彼はその﹁延長実体﹂に﹁実体形相﹂が内在 形而上学の対象ではなくなった。物体的世界の﹁超越論的実在性﹂ ﹁知覚﹂の直接的対象とされたことによって、物体的世界はもはや 物体概念に限定して述べるが、カントにおいて物体が﹁直観﹂。 reflexion内省八と呼 することを否定した。しかし、彼は﹁神の誠実﹂ということに基づ にされたい。) の存在、したがって物体的世界の存在は﹁明証的に真﹂であると考 は否定される。しかし、カントは﹁超越論的観念論﹂が﹁経験的実 いて、我々が﹁明晰・判明に﹂その存在を認識しうる﹁延長実体﹂ えた。彼にとっては、物体的世界はーカント流に言えばI﹁超 第三、第四の二律背反(力学的二律背反)については、カントは 越論的実在性﹂を有しており、﹁物体﹂の﹁実体性﹂が主題とされ 物々自体の世界と現象の世界とを区別することによって、定立、反 在論﹂であることを強調する。 デカルトが﹁神の誠実﹂によって物体的世界の存在が確証される 定立が両立可能であると考えている。反定立が現象の世界に関して るかぎり、それは形而上学の対象であった。 越論的感性論﹂でもって開始する。彼はその冒頭に言う。﹁認識が と考えたのとは対照的に、カントは﹃純粋理性批判﹄の本論を﹁超 135 孝 文 木 鈴 認識批判と形而上学 倫理的実践を営む場なのである。第三の二律背反に表されているよ である。感性的世界こそが人間がそこで生活のエネルギーを吸収し、 と言えなくもない。カントはその実践的緊張を﹁当為﹂という形に 第三の二律背反の主題は、結論的に言えば、﹁意志の自由﹂であ うな純粋理性の分裂、実践的緊張を分裂、緊張として捉えることの 妥当することは原理的には﹁超越論的分析論﹂において明らかにさ る。﹁自由の実践的概念は自由の超越論的理念に基づく﹂(以下、B うちにこそ、﹁自然の形而上学﹂の﹁予備学﹂としての﹃純粋理性 解消してしまっている。形式的な理性的法則と実質的な感性的法則 富にし。だから、﹁一つの状態を自ら始める能力﹂という﹁宇宙論 批判﹄が開拓した︽経験の沃野に根を下ろした、シェーラー流に とのカント的な位階づけは、人間存在の地平から目をそらしたもの 的意味での自由﹂すなわち﹁超越論的自由﹂の成立の可能性を明ら 言えば﹁実質的倫理学﹂への道が開かれたはすである。(ただし、 れている。さらに、定立が物々自体の世界に関して妥当する可能性 かにすることは﹁実践的意味での自由﹂の成立の可能性を明らかに も否定できない、とカントは言う。 する基礎作業でもある。実践的自由の﹁客観的実在性﹂は﹃実践理 トは言う。﹁全くアプリオリに(経験的諸運動根拠すなわち幸福を 顧慮することなく)することなすことdas 自由である。純粋統覚我や純粋理性は全く自然法則の制約を受けな 目的を前提して、単に仮言的にではなく)命令し、それゆえあらゆ が実際に存在する、そしてこれら諸法則は絶対的に(他の経験的諸 Thun und Lassen'すな ま肯定するというわけではない。)﹃純粋理性批判﹄において、カン シェーラー倫理学における﹁実質的アプリオリ主義﹂を私かそのま essendで iあるが、しかし道徳法則 性批判﹄において明らかにされている。カントは言う。﹁確かに自 cognoscendiである﹂(A Vn 5m.)。 由は道徳法則の存在根拠ratio は自由の認識根拠ratio 第三の二律背反を倫理学的に考察するとき、我々はその反定立を い(vgl.B574fし。しかし、我々は常に時空的世界の内で行為し る5 意) 図。 に﹁ お経 い験 て必然的である、と私は想定する﹂(B 3 わち理性的存在者一般の自由の使用を規定する純粋な道徳的諸法則 ているのである。行為するに際して、我々は時空的世界を機械化 の二律背反の解決によって、カントはその二律背反に表されている 的性格﹂に対して﹁叡智的性格﹂を想定するという仕方での、第三 軽視してはならない。確かに我々の意志はその叡智的性格において ∃echanisierenしている自然法則の認識-大抵の場合には、ああ ﹁経験的性格﹂に優先させて、形式主義的な法則倫理学への道を歩 実践的緊張を緊張として受け止めていない。彼は﹁叡智的性格﹂を すればこうなるということを我々は経験的に弁えているIを、自 覚的、無自覚的によりどころにしている。現代のカント研究におい 第四の二律背反の﹁解決﹂においてカントが﹁端的に必然的な存 である。 ﹁叡智的性格﹂との緊張関係のなかで実践的決断を迫られているの ある。しかし、我々は、実存としては、常に﹁経験的性格﹂と むのである。超越論的観念論︾の帰結であるといえばそれまでで て仮言命法の倫理的意義が重視されているのは、そのことに対応し 人間の意志は自由であるか、それとも自由でないかという二律背 ている。 反には、我々は理性的法則(道徳法則)にのみ従うべきであるのか、 それとも感性的法則にも従うべきであるのかという実践的な緊張が 表されている。そこにはデカルトの物心分離の考えが反映している - 134 超越神であることに矛盾はしないーとの関連において証明するた のいう﹁端的に必然的な存在者﹂は超越神であるとは限らないが、 それを媒介にして物体的世界の実在性を証明した超越神Iカント 界が現象の世界であって物々自体の世界でないことを、デカルトが 在者﹂が時空的世界の内に存在することを否定するのは、時空的世 る。 而上学﹂が﹁自然の形而上学﹂に優位するとは言っていないのであ わなくてはならない。けだし、カントはどこにおいても﹁人倫の形 く白)である。我々は﹁自然の形而上学﹂の然るべき位置付けを行 物理学﹂(g`品)-を導く、権力を回復した﹁万学の女王﹂(y 而上学の基礎づけ﹄の﹁序言﹂の言葉でいえば﹁本来の(経験的) 性の分裂から後退することなくそれを直視して、仮に﹁端的に必然 この二律背反の解決においても、カントは、二律背反という純粋理 ﹁超越論的実在性﹂を具えることになってしまう。私か思うには、 な存在者﹂ばかりでなく、時空的世界に存在する凡ての存在者が ではなくなってしまうからである。そのときには、﹁端的に必然的 象﹂に﹁経験的実在性﹂を認めることによって、﹁バークリイの独断 実在的なものyの存在を覚知している。A︰超越論的観念論vは﹁現 自然科学的認識においても倫理的実践においても、人間は八確実に 我々は﹁経験﹂を単なる仮構の所産と見なしてしまってはならない。 科学的認識も倫理的実践も人間にとっての﹁経験﹂である。だから、 を、私は次のように解すべきであると思っている。すなわち、自然 を拒みながら、それに﹁経験的実在性﹂を認めているという事態 ﹃純粋理性批判﹄が﹁現象﹂に﹁超越論的実在性﹂を認めること めであった、とも解せられうる。けだし、もしも時空的世界の内に 的な存在者﹂の存在を理論理性によって証明することは不可能であ 的観念論﹂(B274) ﹁端的に必然的な存在者﹂が存在するとすれば、それは現象の世界 るにせよ、この時空的世界の活力にあふれた実在性を確証しようと るということIを確証して、﹁自然の形而上学﹂の地平を開いた。 での﹁経験的実在性﹂-我々の経験の場として確実に実在してい をも否定する。そのことによってそれは、自然的世界に積極的意味 iid否定し、﹁デカルトの蓋然的観念論﹂(ibid.) 努めるべきであった。 は︽経験の沃野︾の開拓であるのだから、我々はカントのいう︽超 ﹁自然の形而上学﹂という理念によってカントが目指しているの 越論的観念論︾の正当性を吟味し直す必要があるのではないであろ 惜しむらくは、カントはそのことを十分には意識していなかった。 デカルトにおいては形而上学の対象でもあった物体的世界は、カン 物体的世界の法則定立的理解は物理学の進展によって深まっている。 し向けられねばならない。デカルトの時代とは比較にならぬほど、 力の限界が確定された。その成果は﹁自然の形而上学﹂の構築に差 ば、その超越論的自我論は、純粋統覚我それ自体を主題にしている を展開している。心霊の不死性の要請への志向を捨象して見るなら 我存在の実体論的無地盤性の深淵を直視しながら、超越論的自我論 論における合理的心理学の誤謬推理の批判においては、カントは自 まっているということを指摘した。それに対して、同書の誤謬推理 決においてカントが純粋理性の自己分裂、実践的緊張を回避してし 私は右で、﹃純粋理性批判﹄の二律背反論における二律背反の解 うか。 トにおいてははっきりと物理学の対象になっている。﹁自然の形而 ﹃純粋理性批判﹄における︽認識批判yによって、人間の認識能 上学﹂、とりわけ﹁合理的物理学﹂は、その物理学︱﹃人倫の形 ― 133 ― 孝 文 木 鈴 認識批判と形而上学 がゆえに、それ自体が﹁自然の形而上学﹂の一領域を成している。 一八八ページ二行目はペートン﹃定言命法﹄ るので、その前後の語句の引用符号は省略した。一八七ページ十一行目- を避けるため、一八八ページ三行目の﹁かくも﹂云々で、依拠している箇 の論述に依拠しているが、ペートンの他の著作からの引用の指摘との交錯 ﹃人倫の形而上学の基礎づけ﹄の﹁序言﹂においては、カントは﹁自 然の形而上学﹂を﹁合理的物理学﹂に限定してしまっているように 思われる。そこにおいては彼は﹁経験的自然学﹂をもって﹁本来の いても部分的にべックの用語法を活用しているが、その他の場合をも含 由﹂での論述、用語法を参考にし活用しており、二三六ページ六行目にお 九ページ十八-十九行目は参考文献に掲げたベックの著作の第十一章﹁自 所との連関を示した。一七五ページ十八行目-一七六ページ一行目、一八 かったであろうがII﹁純粋理性批判﹂の遂行それ自体において、 め、現代のカント研究において一般的な解釈や用語法になり切っているも 物理学﹂と考えている。しかし、Iカント自身は意識していな 超越論的自我の力動性の形而上学的解明がなされている。そこには 訂した文字(又はそれを含む複数個の文字)を記したものである。 の字句を矢印の下の字句に改める。矢印のないものは、字画等を修 ジの右から数えての行を記す。矢印のあるものについては矢印の前 字句及び字画の修訂。﹁ノ﹂の前にページ、﹁ノ﹂の後にそのペー 一八一ページ(脚注を含む) 用した。(例えば、著作名や﹁純粋実践理性の基本法則﹂の法式、その他。) させていただいた。訳語や訳文が定訳化しているものはそれをそのまま活 庫の邦訳書を始め殆ど凡ての邦訳書、及び研究書の訳文を参考にし、活用 カントの著作からの訳出に際しては、理想社版﹁カント全集﹂、岩波文 の文脈に最もふさわしいものを用いた。 の訳語(二六六ページー行目)は、邦訳書を参考にしながら、私の論述 ︾bis insUnendliche の訳語(一二七ページ九行目)や︾Hauswesen じ訳語が充てられている。 る語句を合成してこういう訳語を充てた。理想社版﹁カント全集﹂でも同 が用いている語句ではないが、カントの文脈に即して同所で彼が用いてい 一四七ページ十八-十九行目の﹁全く空虚な概念﹂は引用箇所でカント 引用符号は省略してある。 明示しなかった。二三六ベーシー八行目においては、形式を整えるため、 示唆を受けているが、一般的に成り立ちうる論旨であるので、参考箇所は 関しては、参考文献に掲げたマルチンの著作の第八節﹁体系的連関﹂から のについては、参考箇所は明示しなかった。九五ページ十六1十八行目に 伝統的形而上学における合理的心理学を超えた、カント自身の﹁合 理的心理学﹂が展開されている。もっとも、そこではその﹁合理的 心理学﹂の基礎づけ、体系化の作業はなされていない。伝統的形而 上学における合理的心理学を批判することによって、カントは専ら 心霊の不死性を唯物論者の攻撃から擁護しようと努める。しかし、 り に そこに展開されている超越論的自我論は、我々に実存開明のための わ 広大な地平を開いている。 五、終 以上において私は、カント哲学における認識批判いVの意義につ いて考察し、従来のカント研究ではその重要性が看過されてきた、 ﹁自然の形而上学﹂という、カントの認識批判いyがその構築を目 指している学問の理念の意義を明らかにすることができたと思って いる。 私のカント解釈は拙著﹃カント研究︱-批判哲学の倫理学的構図﹄ に示してあるので、同書を参考にしていただきたい。以下に、右記 の拙著にっいての補足、修訂を記しておく。 一二七ページ六-十行目はマルチンの論述に依拠しているが、﹁連続的 に﹂の意味のstandig <を私の論旨に即して﹁至る所﹂と言い換えてい < 132 鈴 木 文 131 - 孝