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戦火の中から(終戦時十七歳) 小高幸太郎(PDF形式:3507KB)

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戦火の中から(終戦時十七歳) 小高幸太郎(PDF形式:3507KB)
私は、一九四五年(昭和二O年)八月十五日正午、沖電気芝
の無い人々でいっぱいであった。毎日のように何人かの餓死者
物がない為に餓死する人が大勢いた。上野駅の地下道は身寄り
戦火の中から (終戦時十七歳)
幸 太郎
浦工場の屋上で、無条件降伏を告げる天皇の放送を聴いた。此
が出たということである。腹が減って、あんな惨めな思いをし
吉岡
の日を以て軍国主義日本は崩壊し、十五年戦争といわれた、満
たことはなかった。
東中野一丁目
州事変、支那事変、大東亜戦争もようやく終結した。生き残っ
戦い、部隊のほとんどが戦死をした。重軽傷を負った戦友もい
後になって復員して来た兵隊の話であるが、南方のある島で
軍隊生活の厳しさは話に聞かされていたので、もう兵隊に行か
たが、手当の仕様もなかった。水も食物もなく、へビやトカゲ
た人々は、あの悪夢のような空襲地獄から解放された。私は、
ないで済む、戦死する事も無くなった、というのが実感であっ
ていった。生き残った戦友達は、とうとう死にかけていた戦友
や野ネズミをつかまえて食べた。傷付いた戦友は次々に餓死し
私の家族は、幸いにも一人の犠牲者も出さずに生き残った。
を殺して食べた。それからは、お互いにいつ殺されるかわから
た
。
両親と弟四人の七人家族である。次弟は上野の岩倉鉄道学校へ
九月に入ってから、米軍を初めとする連合軍が進駐して来た。
ないので、夜は木の上に登って寝たというショッキングな話を
昭和国民学校(現在は中央区立城東小学校)の講堂で共同生活
私達は進駐軍と呼んだ。焼け残ったビルやデパ ート等が接収さ
通学し、三人の弟は小学生で埼玉県に学童疎開していて無事で
が始 ま った。私は工場の残務整理に当っていた。両親は焼け跡
れて進駐軍の宿舎になった。銀座四丁目の服部時計庖がPXと
聞かされた事もあった。
の片付けで毎日が過ぎていった。当時の物不足は極端にひどく、
なり、銀座通りにアメリカ兵が大勢銀ブラをしていた。
あった。私達親子四人は、焼け出されてから、母校である京橋
なかでも食糧不足は極限に至った。戦争で助かった命も、食べ
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って、焼け跡に居直るしかなか った。 焼ける前は、 父が働いて
トが 厚 く打 つであ った 。 私 達 家 族 は 、 行 く 所 が 無 く な ってしま
焼けてしま ったが、
いた﹁ひょうたんや ﹂ と い う 薬 問 屋 の二階 を 家 族 ぐ る み で 借 り
私達がいた小 学 校 の 隣 に 木 戸 ビルがあ った。 内 部 は す っかり
ダンサーの募集が始まり、若い女性達が集まり、毎夜米軍が出
ていた 。 母 は 社 員 の 食 事 を ま か な っていた 。 五月 二五 日 の 空 襲
一 ・二階 が 改 装 さ れ 、 キ ャ バ レ ー に な った 。
入 り す る よ う に な った。 ホ ー ル が 終 る と 、 酒 に 酔 った米兵とダ
﹁ひょうたんや ﹂は 目 黒 の 元 競 馬 場 へ 移 り
で焼けてから
失業した 。
ンサーが 三 々五々周辺の闇へ散 ってい った。 小 学 校 の 校 舎 と 塀
の聞の植え込みが絶好のセ ックス場だ った。 私 は 教 室 の 前 の 廊
特 に 大 工 仕 事 は 人 に 頼 ま れ る と 引 受 け た 。 大 工 道 具 も 一式揃 っ
バラ ック の 骨 組 み に 使 った。 父は器用で何でも 一応 は 出 来 た 。
建 築 会 社 も ど こ に 越 し た の か 行 先 が わ か らなか った 。 材 料 置
私 達 家 族 が バ ラ ック 生 活 を す る よ う に な ってからは、夜にな
て大事に防空壕に入れであ った。 私 も 父 の 血 を 引 い て 器 用 で あ
下の窓からそ っと ノ ゾ キ 見 を し た こ と も あ った 。 ある時、キャ
ると米兵と女性(当時パンパンガールと呼んでいた)とがよく
る。 母は 生前、父の 事 を 器 用 貧 乏 だ と 言っ ていた 。 鉄棒を家の
場 に は 、 直 径7 1 9ミ リ メ ー ト ル 住 の 鉄 の 丸 棒 が 錆 び た ま ま 束
入 って 来 る よ う に な り 、 部 屋 を 貸 せ と の こ と で あ った。 米兵の
形に曲げて立て、横の鉄棒と針金でしばりながら、トタンの幅
バレーで白人兵と黒人兵 の乱 闘 騒 ぎ が あ り 、 発 砲 す る 事 件が起
英語など私達に通じる筈もない ので、女性が通訳した 。父は﹁困
位 に 聞 を 置 い て 作 った。 トタンは焼け跡か ら 拾い集めて来て、
ねて置いであ った。 連 絡 の 仕 様 も な か ったので、無断借用して
ンヤ
ります。 帰 って 下 さ い ﹂ と 断 る と 、 酔 った米兵は﹁へイ、 、
下 の方か ら 少しず つ重 ね て 針 金 でしば っていき
きた 。 女 性 の 取 り 合 い が 原 因 だ った と い う こ と で あ る 。
ラ ップ﹂と 言う が 早 い か 父 に パ ン チ を 浴 び せ た 。 そしてバラ ッ
ク の戸 を 蹴 っ飛ばしなが ら出 て 行 った。 私 達 は く や し さ と 恐 怖
f コ 、 -0
・カ 子大
風が強く吹く日
一日で出来上
一 夜を明かした 。 あくる日、 警 察 に 訴 え た が 、 進 駐 軍 の 事 件
の
は家 ごと動き出した 。 穴だ ら け のトタン 屋根 だ か ら 、 雨 の 日 は
水洗便所である 。 使用中下を見ると、 子描程もある大きなドブ
マンホール の廻 り を ト タ ン で 囲 い 、 使 用 後 は バ ケ ツ で 水 を 流 す
ので、路地 の真 ん中にマンホールがあり、 下水管が通 っていた 。
コンクリート の上に建ててある ので
は日本の 警 察 は 手 出 し が 出 来 ず 、 話 し 相 手 に も さ れ な か ったば
バラ ック生 活を
どし ゃも り であ った。 便 所 も 作 った 。 戦 前 か ら 水 洗 便 所 だ った
それぞれ自分の焼け跡を片付けて
かりか、夜は 戸締 ま り を し て 誰 が 来 て も 外 へ 出 る な と 言 われた 。
人々は
コ、/々ノ川 J1 1
す る よ う に な った。 私も父と共に 6帖 位 の バ ラ ックを作 った。
焼け跡 の隣 が 建 築 会 社 の材 料 置 き 場 に な っていて、
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父
は
って 裸 に な り 、 湯 船 の 縁 に 並 ん で 誰 か 出 る の を 待 って入るのだ 。
に行 った。 も の す ご い 混 み よ う で あ った。 脱 衣 龍 の 空 く の を 待
新富町に戦災を免れた銭湯があると聞いて、久し振りに入り
故 郷 へ 帰 った。 弟達 三 人 も 疎 開 先 か ら 帰 って来た 。 窓ガラスの
された 。一 歳 年 下 の 地 方 出 身 の 少 年 工 達 も 解 雇 さ れ 、 そ れ ぞ れ
いた海軍工場では 、 私 を 含 め て 五 人 が 残 さ れ 、 他 の 者 達 は 解 雇
九月に入 って か ら 、 私 達 少 年 工 の 首 切 り が 発 表 さ れ た 。 私が
に見えるようにな った 。 それでも口には出さなか った。
湯は汚れて垢が浮いていた。何日も入っていない人が湯船の中
無い教室で授業が始ま った。
ネズミが行き来して、 逗しく生きていた 。
で身をこするから汚れ放題だ 。上 り湯も水しか出ない 。 水を頭
一番最後の人はどうするのだろうかと、 そんなことを考えなが
は 帰 れ な い の で 、 他 人 の を 着 て 帰 った。 下駄も無くな っていた 。
な っていた 。 越 中 フ ン ド シ ま で 持 っていかれてしま った。 裸で
来るようにな った。幸 い釜はある 。 父はレンガを拾 って来てカ
を得た 。 米 を 持 って い る 人 が 母 に 握 り 飯 を 作 ってくれと頼みに
私達兄弟は頼まれて、交替で場所取りをやり、何がしかの賃金
の上に何百人も列を作った。彼岸もすぎると夜は冷えて来る。
東京駅八重洲口には、汽車の切符を買う人が、毎日徹夜で橋
ら家に帰った。
は八重洲橋の下を流れる城辺川に流れて来る木材を取りに川に
からかぶ って出てしま った。 今度 は 、 自 分 の 脱 い だ 衣 服 が 無 く
俗に 言う 板 の 間 稼 ぎ に 会 っ て 、 板 の 間 稼 ぎ を し た こ と に な っ
た。 も う 二 度 と 銭 湯 に 行 く 気 が し な か った。 そ し て 風 目 も 作 つ
降りた 。空 襲 で は 役 に 立 た な か った 鳶 口 が こ こ で 役 に 立 つ と は
か四人の子を病気で失い、私達五人の男子を立派に育てた 。 身
をも って体験している 。 母 は 九 人 の 子 を 生 み 、 貧 乏 が 災 い し て
色々と入って無事であった。昔の人は物を大切にする教育を身
炊き、一升炊きのお釜、おはち、食器、写真、毛布、アンカ等、
来 た 。 水 道 が 出 た の で 何 よ り 助 か った。 防空壕の中には、 三升
し分けてもらい、薬缶に入れて、湯飲み茶碗を持って、母と私
湯のサービスをした 。 お 茶 っ 葉 を 持 っ て い る 人 が い て 、 母 は 少
入 った。 も う 一 つ の 釜 で 湯 を 沸 か し 、 握 り 飯 を 食 べ て 行 く 人 に
た 。 薪 で 炊 く と 釜 の 底 に お こ げ が 残 っ た 。 おこげが私達の腹に
口 コ ミ で 次 か ら 次 へ と 握 り 飯 作 り が 始 ま っ た 。 父が飯を炊い
思わなかった 。 流 れ て 来 た 木 材 を 引 っ 掛 け て 岸 へ 引 き 寄 せ る の
に使 った。
マドを作り、焼け跡から焼棒杭等、燃える物を集めてきた 。 私
た。 焼け跡からドラム缶を拾って来て、上部を抜いて、 三方へ
を粉にして働いた母は気丈夫であった。決して愚痴をこぼさな
は八重洲橋の上の行列の人達に一杯十銭で売りに行った。これ
土台石をコの字に置いて、廻りをトタンで固い、露天風呂が出
ミ
コ:
0 いつごろからか、心臓を病んでいた 。 戦後は疲れが目
・刀一ナ人
私 は 早 速 買 い 出 し に 行 っ た 。 一貫目が二O 円か三O 円位だった
の堀の内駅前にお茶問屋があると教えてくれた人がいたので、
走 った。 列 車 は 遅 れ に 遅 れ て 、 仙 台 ま で 長 い 時 間 で あ った 。 機
ムの反対側で立ち小便をした 。 女はホl ムのはずれの便所へと
ま れ 、 洗 面 所 も 便 所 の 中 ま で 満 員 で あ っ た 。 窓にも腰掛けてい
た。 駅に 着 く 度 に 便 所 へ 行 く 人 が 窓 か ら 出 入 り し た 。 男はホー
が大当りだ ったが、 お茶っ葉が無くなってしまった 。 東海道線
と思う。 持 て る だ け 買 って来た 。 お茶はガサば って客車に乗る
も っと大変である 。 荷 物 を 背 負 い 、 両 手 に も 持 った人達が各駅
か ら 乗 り 込 み 、 ホ ー ム に は 乗 れ な い 人 も い た 住 だ 。 子 供連れの
人は大変である 。 買 出 し 列 車 は 死 に 物 狂 い で あ った。 大宮あた
関 車 の 煙 が 目 に し み て 、 息 苦 し い 思 い 出 で あ る 。 帰りの列車は
のがひと苦労であ った。 東 京 ま で 無 事 に 持 っ て 帰 る と 、 五 倍 位
にな った。 世の中そんなに甘くはなか った。 五回に 一度 は 食 糧
東京への列車は、買出し列車と呼ばれ、人々は地方の農家へ
りまで来ると、下り列車の人から、﹁上野で 一斉 取 り 締 ま り を や
統 制 法 と や ら で 警 察 に 取 上 げ ら れ て し ま った。
と 買 出 し に 行 った。 武 士 は 食 わ ね ど 高 楊 枝 な ど と 言っ ていては
餓 死 し て し ま う 。 現 に 配 給 の 食 糧 し か 食 べ な か った判事が、飢
っている﹂とか、 ﹁今日は赤羽でや ってるぞ﹂と 言っ て
、 せ っか
く買 った 物 を 没 収 さ れ な い よ う に 互 い に 助 け 合 った。 上野でや
って い る 時 は 、 赤 羽 で 降 り た り し た 。 運 悪 く 降 り た 駅 で や って
買 って 来 た 物 を 強 制 的 に 取 り 上 げ る のは 、 官 憲 と い え ど も ド
え て 死 ん だ 事 件 ま で あ った。生 き る 為 に あ ら ゆる知恵をしぼ っ
た。 米を背中にしよ って ね ん ね こ 伴 天 を 着 て 、 帽 子を被せて赤
て赤 子を 寝 か し つ け て い る よ う に 見 せ か け て い る 中 年 の 婦 人 が
ロボl的行為である 。 没 収 し た 食 糧 品等 はどう処分されたのか、
いる時は線路へ飛び下りてよく逃げたものだ 。
いたが、官憲の目はごまかす事は出来なか った。 官 憲 は 見 逃 す
私 に は 今 だ に 疑 問 で あ る 。 戦災か ら命か ら がら 生 き残 った人々
ちゃんをおぶ ったか つこ う を し 、 官 憲 に 会 う と 、 子 守 歌 を 歌 っ
振りをして、﹁よ く 眠 って いるな﹂と 言 いながら赤 子 の帽 子を取
はこの悪法の為、餓死者が出た事も忘れてはなるまい 。 東京駅
所だ ったので、荷物を預か ってく れ と い う 人 が 何 人 も 来 た 。 そ
り、﹁よし重か ったろう、俺が抱いてやるから降ろせ﹂と笑い話
工場で仲 の良か った 地 方 出 身 の 少 年 工を 訪 ね て 、 東 北
方 面 へ 買 い 出 し に 行 った。 上野か ら 仙 台 ま で 身 動 き 出 来 な い 程
の 日 の 内 に 取 り に 来 な い 人 も い て 、 夜寝 る 所 が 無 い 始 末 で あ っ
みたいな光 景 まで見 ら れた 。 イタチご っこの繰返しであ った。
の混 み よ う で あ った。 四 人 掛 け の 座 席 に 六 人 が 掛 け 、 そ の 間 に
、
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9J
も、私共 の住まいと共に 二O年五月 二五日に焼失した ので、手
荷物等 の預ける所がなか った。 駅から 一番 近 い バ ラ ックが私の
も 二、 三 人がし ゃがみ、通路は立 った ま ま ぎ ゅうぎ ゅう 押 し 込
も
私
怠叩
私は毎日工場の整理ばかりやらされて、少し厭きが来ていた
ので、十二月で退職した。そしてもっと大きなバラックを作り、
"
"
争
手小荷物の預かり所を始める事になった。元住んでいた焼け跡
を片付けて、父と 二人で、庖と住いとを仕切 ったバラ ックを作
り、駅から見えるように看板を屋根に付け、一時預かり所を開
業したのである。一九四九年(昭和二四年)四月に現住所に越
すまで続けた 。 その聞いろいろな事があ ったが、今日まで生き
ていられたのは、 この時代を乗り越えられたことが実に大きな
起因となったのである 。
そして現住所に土地を買い、プロの大工さんの建てたバラ ッ
クに越して三日目、母は、や っと自分達の土地と家が持てたこ
とに安堵したのか、力尽きて床に就き、五三歳の生涯を終 った。
父は六五歳で亡くな った。 私も今年で父と並ぶ年にな った。 父
母に代わ って私は訴えたい 。 人間同士が殺し合う戦争は 二度 と
してはならないし、させてはならない 。 戦争体験の無い人達に
声を大にして訴えたい。私の生涯に、戦後は終ったという日は
来ない 。
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叫樟,
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