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223号 6月発行 - 東京慈恵会医科大学同窓会

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223号 6月発行 - 東京慈恵会医科大学同窓会
(431) 6 9 7 1
である。しかし ﹃文字﹄という不完全な
意志伝達の道具に依って表現されるもの
次に協議事項に入り、昭和四十
八年度の事業計画を丸田副会長か
続いて正副会長及び幹事の選挙
第 十 二回夏 季大 学
8 月 21 日 ∼ 23 日 、大 学 東 講 堂 で
同窓会では毎年八月恒例の夏季大学を開き非常に好評を博しているが、第十二回を迎えた本年
も例年と同様、慈恵医師会と共催で開催することに決定した。期間は八月二十 一日 ︵火︶から二
十三日 ︵
木︶までの三日間の予定で、毎日午後三時から五時まで大学東講堂で開かれる。
演者は初日が上田泰教授、二目目が堀口正晴教授、最終日は中村紀夫教授で演題は次号に掲載
する。いずれも実地医家に直接役立つ講義となるよう当局は努力している。同窓会員はもちろん
会員以外の方も多数出席されるよう望んでいる。
指名し別室で協議の結果、会長に 授 ︵四年︶からそれぞれ説明があ 同会場で懇親会を開催、午後七時
一、現在会員数 七〇二名
会務報告
久志本教授、学生部長原田教授、
現況について、続いて教学委員長
まず中尾分校長から進学課程の
終了し、大学との懇談に移 った。
〃 三年 一二三名
〃 二年 一二五名
課程
専一
門年 一四四名
〃 二年 一一三名
進学課程 一年 一二八名
1、進学課程終了の成績優秀者
︵石田裕 一郎君、 鎌田芳夫
君︶に父兄会賞 ︵
ドーランド
医学辞典︶を贈呈した。
2、牧野、赤羽両教授へ退職記
念品を贈った。
弔意を表した。
3、林名誉教授の御逝去に際し
4、進学課程改築に伴う諸施設
三 和化 学研 究所
東京都千代田区大手町 1−6−1
同窓会の慈大新聞発行に協力 2、事業費 二、三三五、○○○円
長、副会長今
が日
出
しわれ
▼
、席
われ
の食生活には、加
工食品や人工栽培
の食品が急速にふ
えている。だいた
い食品の人工栽培
大変な変化がおきている▼物質文
明の発展にともなって、生産の技
まで行なわれているのである▼と
ころで人びとはいま、このように
して供給される食品に疑念という
よりも強い不信感をもちはじめて
いる。
果してそれが、
無害だろうか
ということなのだが⋮⋮考えてみ
れば今日、自然採集の食品に依存
しようと願 っても、海産物をはじ
め、すべての分野に汚染というこ
とがひろが っている▼この国の、
食品汚染の心配は、自然な栽培で
あろうと、加工製品であろうと、
区別なくおきているはずである。
⋮▼が、天人の曰く ﹁
汚染を除去
は、とても間にあいそうもない⋮
三 和化 学
した。 ︵新聞に父兄会関係記 3、積立金 八 三五、○○○ 円
会で同窓会々長、副会長及び評議
め、汚染除去の適食品製造に取り
グルミン
S
清 水 小 田原 福 井
静 岡
塚平 七 尾
横須賀 敦賀
浜 掛
松川 横 浜 小松
町京 神奈 川 金 沢
中 村
王原
子 伊 勢
一宮
板 橋
東南
京津
橋豊 五反 城
田
松 阪
四日市
半 岡
田崎
富士
昭 和
原 小
田吉田
沼 津
本 熱
牡田 藤枝
埼 甲
玉府
スズ ケン
一〇〇万円を支出した。
算
同窓会の慈大新聞発行への協力
予
収入
1、会費 四 、三〇五、〇〇〇円
2、雑収入 四五〇、○○○円
3、繰越金 三〇二、 二 八円
なることか。こと食品に関するか
れからの食生活は、いったいどつ
事態に直面しているとならば、こ
りつつあるといえる▼このような
がれる途は、もうすでに、なくな
ることによ って、この危難から逃
計 五 、〇五七、 一一八円 つまりわれわれは、食品を選択す
支出
1、事務費 一、五 八五、○○○円
員が改選されたが、定款により会
たく、そうするよりないようだ。
して用いたらよかろう﹂︱︱まっ
組むよりほかなかろう▼医・薬界
食品工業的な 発展を積 極的に進
学術部 大平 一郎、富井武寛
はもちろんのこと、このさい、良
大平 一郎、柿本保、南雲今朝雄 心的な食品会社の奮起を期待した
会館運営委員
副議長に 堀漸 一郎氏が 再任され 庶務 安田耕 一、青木忠夫
消化性潰瘍治療剤 =L−グル タ ミン製剤
として特別会計より第二回分
た。
計 五 、〇五七、一一八円
事を掲載、会員に無料配布︶ 4、予備費 三〇二、 一一八 円
収入
1、学生会に補助金六五万円を 五、卒業生の謝恩会に協力し、会
二、学生関係の事業
支出した。
2、学生用図書購入費 ︵進学課
程二五が円、専門課程四〇万
円︶を寄贈した。
、
1事 務費 一、三五 二、五 七〇円
3 、繰越金 三六六、 二八四円 は、弥生時代の昔から始ま っ
てい
支出 計 四、五九九 、四 九三円 るのだが、現今では、その事情に
三、本会関係事業
1 、会 費 三、七四五 、0 00 円
、
1入学式当日新入生父兄歓迎 2、雑収 入 四八八、 二〇九円
会を開催した。
2、会員名簿を発行、会員、学
生、大学 関係者 に配布した
3、逝去された会員に弔意を表
4、繰越金 三〇 二、 一 一八円 得られた増産と言うことは、人口
した。
2、事 業費二、 一八 八、三〇五円 術も、保存の方法も、たいへんに
4、新年名刺交換会を同窓会と 3 、積立金 七五六 、五 〇〇円 進歩したのであるが、その結果、
共催した。
計 四、五九九 、四九三円 の増殖と相対して、需要と供給の
るのだ。︱︱将来 の需要 増を考
生活をしなければならぬ実情にあ
度に人工化された食品によって食
まつ
りわれわれは、否応なく、高
シーソーゲームで進行している▼
四、同窓会への協力
中心に︶等の開催
2.父兄会幹事会、常任幹事会 え、それに適応できるようにと、
総会 ︵
秋期は進学課程父兄を 石油タンパクの開発などいう研究
1.新入生父兄歓迎会の開催
事 業 計 画 、予 算
昭 和 48 年 度
事業計画
進学 ・専門
両課程における医学
教育と学生会事業の遂行に協力し
三回分︶
3.その他必要な事項
二、学生関係の事業
1.学生会事業への援助
2.学生用図書購入費の援助
3.卒業生謝恩会への協力
4.その他
三、本会関係事業
同 窓 会 の新 理 事 決 ま る
への協力事業費 ︵三年継続︶
への協力 ︵三年継続事業、第
会員相互の親睦を深めるため、左
3.新年名刺交換会の開催
4 、会 長、副会長会議 四 回開
4.会員並びに大学関係者の慶
記の事業を行なう。
催
1
、
一進学 ・専門
弔
両課程への協力
.進学課程終了の成績優秀者
事業報告
5.会員名簿の発行
への父兄会賞の贈呈
6.その他
一、進学 ・専門
両課程への協力
2.進学課程改築に伴う諸施設 四、同窓会への脇力
回 開催
3、幹事 会、常任幹事会 、各二
日開催
2、秋期 総会 昭和47年 11 月4
開日
催
春期 続会 昭和47年5月 23
会 務 、事 業 、決 算 報 告
昭和 47 年 度
小机弘之氏を選出、会長から副会 り、総会の議事を終了、少憩の後 散会した。
長に専門課程より丸田恒夫氏、進
学課程より川 村広郎氏が 指名さ
れ、満場 一致でこれを承認した。
また幹事の選出は正副会長に 一任
することを決定した。
留任の小机会長、丸田副会長、
新任の川村副会長からそれぞれ挨
学生保健指導委員長大平教授、生
〃 四年 九〇名
拶があり、父兄会としての議事を 二、学生数 七二三名
物学担当の新津教授からそれぞれ
名
進学課程の担当事項について説明 三、昭和48年度入学者 一二
三
あり、次に専門課程教学委員長の
一〇七名
森田教授、学生部長徳留教授、学 四、昭和47年度入学会費納入者数
年担当教学委員酒井、松田両教授
況1、
︵一年︶、近藤、小机両教授 ︵二 五、昭和47年度父兄会会議開催状
年︶赤塚助教授 ︵三年︶楢崎助教
なっている。これはたとえ養子であ って の誕生を防ぐために、小学生から教え込
も、親としての扶養の責任と決意を持 っ まれるが、わが国ではポルノ的猟奇的な
また、しばしば新聞に報道されている
のようなケースが発生するので、急を要 幼女に対する変質者のイタズラにしても
べてのケースにも普遍妥当というわけに る。法は養子と記載することを要求し、 となっているが、法は中絶適応の範囲を 人しても過去のいまわしい出来事が忘れ
亮、富井武寛 、南 雲今 朝雄、中
島理 一、浜屋覚造 、堀 口正史、 ぎり、汚染防止の消極的な方策で
はいかない。時代の流れと共に社会思想 故意に実子とすることを禁じているが、 さほど改訂していないし、発覚すれば堕 られないものとしてしまい、誤 った人生
長、副会長を除く理事は新評議員
理 事 職 務 分 担
り決定した。
も変遷し、かつて正しかったことが正し 実子でないことを思春期にな って知った 胎と騒がれるが、喫茶店でコーヒーを飲 観や性に対する偏見をかたくなに持たせ
会で選出されることになっており
安 田耕 一
くなくなることも多い。昔、仁徳天皇が 子の悩み、いつこれを養子に知らせるべ むような軽い気持で、然も未婚の若い女 る結果とな っている例が多く見られる。
第 一回評議員会が五月二十八日午
新理事決定後、第 一回の理事会
先ず評議員会議長副議長の選出 が六月十八日開かれ、理事の職務
と共に善悪の概念も変り、これに基いて 実は先妻の子と後妻の子でして、等と注 を街に氾濫させることへの法規制はゆる て、また時代にそぐわなくな った法規の
浜屋覚造、安田耕 一、籾木穂積 いものである。︱︱非汚染食品を
をつり出すことだ。
さがし出すのではなく非汚染食品
た。次に理事、監事の選出に入っ 会計 浜屋覚造、堀口正史
が行なわれ、議長に平島正義氏、 分担が次の通り決 った。
保険部 柿本保、鈴木裕亮
保、兼平博 夫、佐 藤勉、鈴木裕 監 事 内田道雄、川 口博
法と人心 ・幸せの機微の間に介在する
前号掲載の通り、同窓会通常総
天 人 放言
理事 青木忠夫 、大平 一郎、柿本
お喜びにな ったという氏の竈 ︵
かまど︶ きか、と十数年悩む親の心の負担と双方 性が、中絶をしていることは法の番人も
後三時から同窓会館で開かれた。
また、中絶天国日本は、母体破壊日本 具体的な質問をぶつけて調書をとり、成
決
算
報
告
規制すべき法規も脱皮変革して行くもの 釈をつけねばならず、親にも子にも心の やかである。北欧の性教育は、母体保護 改正に、 一臀の力をかす用意と努力をい
煙も、今や公害の元兇と呼ばれるし、尊 被保険者証で、 一家に長男が二人いたり としている。計画妊娠や避妊普及の努力 ついて人の健康と幸福のために、法律が
族殺人も並みの殺人とな った。時の流れ してアレと思うことも多いが、その都度 はまだまだ足りないし、放縦なセックス うまく運用されるように常に注意してい
も、工業発展のシンボルであ った工場の の幸せに対する配慮はない。われわれも 知 っている筈で、表沙汰にならねば良い われわれは、日常遭遇する多くの事例に
であるから、必ずしもいつの世にも、す 世論を喚起された養子と実子の問題があ
最近新聞を賑している 一、二の例を拾 することである。お家騒動や不幸な新聞 幼児の心理と将来を憂う校医等担当者の
ってみても、宮城県の菊田医師に依って 種は激減し、幸せは増えるはずである。 詳細な報告を取り上げず、根堀り葉堀り
り少なくしようと人間が考え出した制約 出て来る。
を形成して生きていくための障碍を、よ が改訂されるまでの運用には相当問題も う。しかもこの改訂は、毎日のようにこ
たら、実子との間になん等の差を設けな 取り入れ方のみに重点が置かれ、真の性
法律というものは、多くの人々が社会 ことはないので、矛盾に気付いてから法 い法律の制定によ って解消されるであろ 教育からは程遠い。
法 律 雑 感
あり藤井会計幹事より決算報告が とする選衡委員計十二名を会長が
十七年度の会務、事業の両報告が に入り、まず藤井信雄氏を委員長
った。まず丸田副会長から昭和四
会長が議長となって総会議事に入 原案通り満場 一致で可決した。
り大学の現況の報告があり、小机 ついての説明があって、いずれも
後、小机会長の挨拶、樋口学長よ 事業計画にもとずいての予算案に
総会は丸田副会長の開会の辞の ら、続いて藤井会計幹事からこの
会館二階集会室で開催された。
約百五十名の出席者を得て、同窓
会は、五月二十九日午後二時より 致で承認した。
昭和四十八年度の父兄会春期総 なされ、これらをいずれも満場 一
電話
会
発 行 所 慈 恵 同 窓
東 京都 港 区 西新 橋
3− 25− 8
曾根田義男
新聞部 南雲今朝雄、兼平博夫
協和醗酵工業株式会社
製造発売元
東京支店 束京都世田谷区代沢3丁目1
5番1号
本 社 名古屋市東区東片端町2丁目1番地
工 場▼春日 井
営 業 所▼ 名 古 屋 ・東 京 ・千 葉 ・仙 台
札 幌 ・松 本 ・富 山 ・新 潟
阪 ・広 島 ・松 山 ・福 岡・
大
立 川
スズケ ン
毎 月1 回 25日発 行
購 読料 1部 1
0円
たが、候補者がいずれも定数を超 事業 中島理 一、佐藤勉
えないため投票によらず、次の通
本 社 ・支 店 ・出 張 所
編集 発 行 人 西 井 烈
約 150 名 の 出席 者 で大 盛会 の 父 兄 会 春期 総 会
潰瘍組織 の回復に
重要 なヘキソサミン
多糖体代謝へのアプローチ!
《健保 適 用》
医 薬 品総 合 商 社
原 案 通 り、可 決 承 認
事 業 決 算
報 告 、予 算
である。しかしこれ等は 一朝にして変る 煩わしさと幸福感を掻き乱させることに 人間性の確立の観点から、中絶や父無児 つも怠 ってはならない。
本 社▼ 名 古 屋 市 東 区 東 片 端 町 2−1
株式
会社
名 古 屋市昭 和区花 見通 り1
株式
会社
父兄会春期 総 会開 く
説
論
第 223号
昭 和 32年 9月 1
第
2日
三 種 郵 便物 認 可
聞
新
大
慈
昭 和 48年 6 月 25 日
(1 )
会 員 名 簿 の今 秋 発 行 に際 し
稲垣正、漆原欣二、太田政 太郎、 須之内昭夫
昭︻
和 二十 一年専 門部︼ ︻昭和 二十七年卒業︼
石川洋一
︻昭和 三十四年卒業︼
館田邦彦
︻昭和四十 一年 卒業 ︼
梶谷俊夫、金子保、後 藤正三、小
︻昭和三十 一年卒業︼
加藤正則
︻昭和十六年前 期︼
︻昭和 二十四年専 門部︼
石川博、浮田徳憲
︻昭和 二十四年卒業︼
の息子 ︵船橋眼科在籍︶が慈恵の
大学 関係では小 机 ︵
衛︶井川 眼、病理での研究論文 ﹁
人眼水晶
ホープである。
︵検︶両教授を始め小林 ︵
産婦︶ 体の電子顕微鏡学的研究﹂が世界
五十島 ︵生︶吉葉︵
衛︶
渡辺 ︵
外︶ 的な業績として認められ、明春オ
第の助教授がくつわを並べ、まこ ランダのエクザクトメヂカ社より
原田進吾、川合弘毅
深沼直彦、山川三悦
と多士斎々で、われ等の支部も前 出版される ﹁
カタラクト ・アンド
もとよりこの業績はご指導を賜
一校のみ。
母校に入り卒業後慶応の医局にも るものと感謝に耐えない次第であ
だが私のような早稲田中退し、 った大橋、石川、鈴木三教授によ
る。
ることはまことに心強い次第であ
会でも重要なブロックを作 ってい 名を連ねている。日本からは慈恵
間味のある紳士が多く、地区医師 エイエー、カウフマン等の碩学が
業の諸君も皆慈恵の伝統である人 ベロウ ︵
シカゴ︶他バラケイ、シ
スペイン︶ジ ョン
地域の関係上勤務医が多いが開 トロビェホー ︵
り、同窓以外の子弟も十名近い。 会長フランソワ ︵ベルギー︶カス
土信田だが、在学中の者も若干あ た。同書の執筆者には世界眼科学
同窓の二世は樋口、宮下、小林 ンズ﹂に掲載され ること になっ
・アブノルマリティズ ・オブ ・レ
︻昭和 三十六年 卒業 ︼ ︻昭和四 十三年卒業︼
途洋々たるものがある。
野星
弘、ウ エダ ・グピタ
︻昭和 四十四年卒業︼
山形成徳
︻昭和 三十九年 卒業︼
宗久弘、小幡功
︻昭和 四十七年卒業︼
り
︻昭和四 十年卒業 ︼
よ
門間正幸
だ
渡辺美 智子、J ・E ・タタウン
部
前 途 洋 々、
心 強 い武 蔵 野 支部
典、神立良夫、国分義行、松葉
西田健 二、
田 辺饒、津久井逸郎、
山炳、○ 宮本繁吾、村田勝、○
孝治 、今井 三郎、蒲山久夫、小
それにつけても、現在の天下の
の西川、成蹊大校医の佐藤、国立 設の頃の気慨、所謂 ﹁
慈恵魂﹂と をこの時程痛感したことはない。
相模原の部長島野、西武病院長米 いうものをもう 一度見直す必要が
沢、野村病院の秋島、皮膚科盛業 ないだろうか。私学の如としての 慈恵を大成されつつある樋口学長
の望月、外科の森谷、整形の山中 わが慈恵を好敵士の慶応と比較す 以下全慈恵スタッフ諸先生方の、
のご健闘をお願い いたす 次第で
産院津崎、内小の小松、岩崎、野 る時、今 一段の頑張りを希望して ご健康を祈ると共に、向後の 一層
部
だ
よ
り
これは私事ではあるが、今回私 す。 ︵
小林記︶
崎、堀等も活躍、医師会理事の山 止まないものである。
手、有松、樋口は次の支部を負う
支
岐阜 県支部 、
今 や黄 金 時 代 ?
薬
レ ラ ン 製
昭︻
和 二十 七年専 門部︼ ︻昭和 三十五年 卒業 ︼ ︻昭和四十 二年 卒業︼
来鄒
祥、高橋 照男、目崎不二夫、
︻昭和 二十九年卒業︼
岸田英彦、金相文、武藤和夫
︻昭和 二十八年卒業︼
林 武三、杉下清一、瀬黒 義夫、高 石母田巌、長島元重、福田肥久
橋 恵次郎、永田茂、星山英俊 、松
尾章 、山口勇、柳生 三郎 、安 田貫
一郎、山口誠 一、弓削 実
︻昭和 二十 二年卒業︼
親晴、渡偕
坂口喜一
︻昭和十六年後 期︼
医会長、現学長の縁故の樋口満次 在籍し、開業後ずっと成蹊大校医 る。慈恵でこの出版社発行の書に
医師の数も全国有数の過密度で 先生を中心に同窓の開業医二十数 として他の大学を見てきた者から 掲載の栄誉を受けられた方は、外
武蔵野支部は、東都の西郊中央 勢八十名を越す大世帯である。
線吉祥寺及び三鷹駅を中心に、武
三千夫、宮川政治、○小田原利
藤納勇、南郷 武男、西弁田守次
三鷹市医会長萩原、西川ビル内科 思う。学祖高木兼寛先生が慈恵創 親子共慈恵出身であるありがたさ
蔵野、三鷹両市を併わせ、人口約 あり、開業医も三百名に近い。昭 名、病院経営に敏腕を振う野村、 見ると、本学卒業生は少し温室育 科の名誉教授大井先生があ った由
三〇万の地区の同窓の集りで、総 和初年開業の大先輩、前武蔵野市 篠原両君、武蔵野市医顧問小林、 ちで、もっと覇気が欲しいように にて、息子の好運を慶ぶと共に、
昭 和 48 年 度 父 兄 会 役 員
副 会 長 ︵進学課程︶川村 広郎
光、尾泉貞夫、○坂戸篤義、鈴
小机 弘之 進2 有泉金水、舟橋竜夫、乾正 専2 魵 沢玄 造、萩原謙 二、猪熊
〃 ︵専門
課程︶丸田 恒夫
長
会計幹事 藤井 信雄
会
姜奉錫、戸沢弘達、松川光雄
︻昭和 二十六年専 門部︼
ブラセント 、タンサテイト、レソ 植木正孝、高橋吉俊、内藤昌温
ク、メナ ルチ
︻昭和十七年卒業︼
堀井毅
︻昭和 十八年卒業︼
瀬谷 一郎、滝 口三雄、千竈則夫、
永瀬吉郎、西村英 二
︻昭和 十九年卒業︼
高橋義邦、戸叶英辻、中村信盛、
古久保博
︻昭和 二十年卒業︼
支
︻昭和 二十三年卒業︼
池田伸也 、杉 原十郎、段貴図 、姚 池田湛、池田寛、千田 耕夫、宮本 湯本牧雄
︻昭和十四年 卒業 ︼
住 所 不 明 者 の連 絡 乞 う
既報の通り ︵二月号︶同窓会で の総会通知の名簿資料欄によって
は、今秋昭和四十八年版会員名簿 最終的に整理するので、住所、電
明
三輪策馬
一ノ瀬政元 、坂 田康 一、斎藤雄勝 荒井 千秋、石田有道、 梶山 一郎、
︻昭和十五年卒業︼
を発行するため目下準備を進めて 話に移動のない方でも是非ご記入 連驥、馬場松 雄、羅焜営
いるが、二、三月号のご協力によ の上ご返送ください。
っても判明しない不明者を今 一度 ︵
東京都港区西新橋三ノ二五ノ八
不
︻昭和九年 卒業︼
者
掲載するのでお手数ですが心当り 慈恵医大同窓会名簿編集部 電話
杉浦司郎 、藤川登
の方は至急ご連絡いただきたい。 四三一︱六九七 一番︶
所
なお、名簿原稿は四月中旬発送
住
︻昭和 二年卒業︼
昭︻
和十年卒業︼
重夫 、富田晴次、檜脇葆 、三井 昇
末永輝繁、中原輝勲、古屋武徳、 池 谷寛 、石井亨、石井次郎 、鶴岡
武尽偉、松本楠五郎、渡辺貞
︻昭和 三年卒業︼
健、渡辺栄
木四郎、嵩 原安春、実川兌 三、森
大原甫、岡村 益己、北川貞寿 、鈴
︻昭和十 一年 卒業 ︼
尾貞雄
佐藤 関儀、
牛 呈璋 、佐藤隆、 篁浄薫 、都田春 安部富之 助、大江 忠綱 、
佐羽城治 、鄭吉煥、豊田利通 、松
香
︻昭和 四年 卒業︼
麻上 一義、小林茂雄、高山省 三、
葉英生
︻昭和五年 卒業︼
長瀬球造
︻昭和七年 卒業︼
千秋泰、萩田克己
永次男、○落合和雄、○小田原
︻昭和 二十 一年 卒業︼
三原喜隆、宮沢清、長崎隆二、
栄、吉村克己
︻昭和 十 二年卒業︼
幹 事 ︵
○印=常任幹事︶
木正弥、上岡輝方
正二
吉郎
田
亀倉脩徳、黒田清秀、小松平八郎 櫛 引陽二、鄭薇郎、朴煥舛 、李敬 進1 ○相沢義雄、頴川定燦、羽 専1 秋山三男、藤代正巳、平松 専3 足立良 一、安西節重、○井
野下寿治、檜和田良太郎、比嘉豊 楽
生順 一、堀口正晴、近藤寿郎、
敏男、石川準子、岩崎千秋、光
原仙 二、 石川貞治 、兼平博夫、
︻昭和八年 卒業︼
郎、岡井英 男、佐 々木学、○高
︵
昭13、羽 島市会長︶水野 陸三
秀夫、佐藤春男、友成正、宇井
河野義 明、能島優次、ピモン ・ハ
中村浩 一、高橋保成、薄井敏夫
︻昭和 十三年卒業︼
橋清 、遠武友孝
︵
昭10、多治見市民病院長︶土井
博、横山政雄
岐阜県支部は以前より慈恵との 22、県会議員︶村田正斉 ︵昭14、
○渡熨 斗男
専4 衛藤四郎、○ 藤井 信雄、石 関連は深く、現在同窓開業医五十 県医師会副会長、高山市会長︶清
タジツ 、渡 辺俊夫、渡辺澄男
石川兼 一、石河末松、杉浦董、浜
崎喜代志
田和夫 ︵
27、県医常任理事︶内田 長、 一等
空佐︶長尾長男 ︵昭20、
大阪市東淀川区下新庄 町2−
1
63
沢亀三郎、河村博 、木 村孝、北 名、皆優秀会員で隆々たる流行医 水宗仙 ︵
昭23、県医常任理事︶磯 豊 ︵
昭21、各務原自衛隊病院副院
参天 製薬株式 会社
川道安、木 口駿 三、大森弘、○ 良く医政と家業を両立しています
東 京 都 世 田 谷 区 野 沢 3−3− 9
電 話 421− 6151
区 日本 橋 本 町
電 話 241− 6071
グ
薬
製
水
東 京 都 新 宿 区 諏 訪 町 230 タ
ケ ト モ ビ ル 電 話 209− 8001
区 日本 橋 本 町
電 話 270− 1608
リ ー
ダ
レ
日 本
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栄
五
大
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東 京
都
港
区 芝 虎 の 門 15
電 話 591− 0341
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東 京 都 港 区 芝 大 門 1−12−15
正 和 ビ ル 電 話 434− 4527
東 京 都 中 央 区 日本 橋 江 戸 橋
2− 7 電 話 273− 3311
体内毒素 を排除する
品
イ エ ル 薬
バ
品
薬
田
武
●健 保 適 用
東 京 都 中 央 区 日本 橋 本 町
2− 9 電 話 270− 3531
チオラ
川崎 臨港病院 で働らく
又、現在八名の学生が在校中で
指導を期待しています。︵
内田記︶
です。県内外の方々のご声援、ご
のために張切 って活動するつもり
りで日未だ浅く、未熟ですが支部
す。昨年、支部長に就任したばか
以上が岐阜県支部のりんかくで
川ホテルで開催します。
教授他教室員の方々を囲み、長良
にご出席の母校眼科教室船橋知也
十七回日本コンタクトレンズ学会
ちようど岐阜大学で開催される第
本部より富井先生をお迎えし、又
支部の四十八年度通常総会は、
年に各 一名ずつです。
年、同 一年、進学課程二年、同 一
︵昭8、岐 阜市副 会長︶校条彰
6、 ヒ ト頚 似硬 化 家 兎 大動 脈 お よ び
慢 性 冠 傷 害犬 に 関 す る研 究
高 橋 内 科 長 谷川 元 治
(
矢部 喜 正 )
と申せましょう。ちょっとその顔
3、感 染 モ デル と して の動 物 実験 の省 察
細 菌 近 藤 勇
清
錠 剤 50mgl1
T ¥ 12.
00 100mglT ¥ 18.60
注 射 液 2 ml1A ¥ 49.00 5 ml1A ¥78.00
(薬 価 基 準 〕
大野真 一、尾上弘 若、司馬速、 即ち、現在は当支部
の黄金時代? 雄三 ︵昭6、県医監事︶岡田隆春 県立大野保健所長︶等々です。
竹山恒寿
1、 動 物 と 人 間 と の 間 の ジ レ ンマ
︵昭11、土岐市会長︶井野口久良 す。専門課程 三年に 四名、同二
司 会 杉葉 三 千夫 (
第 2薬 理)
池田 義雄 (
阿 部 内科)
ぶれを紹介すれば、浅野元康 ︵
昭
“医学 研 究 にお け る動 物実 験”
西 ド イツ の看 護 婦 さ ん
シ ン ポジ ウ ム
東 京 都中央
2− 9 肝 疾 患 (急 性 肝 炎 、 慢 性 肝 炎 、 肝 硬 変)
麻 疹 ・皮 膚 炎 ・湿 疹 ・尋 常 性 座 瘡 蕁
薬 物 中 毒 (
複合剤)
症〕
応
〔適
国際親善家の川崎臨港病院長渡 の部屋で働くこと﹂を信条にして 婦でなく、患者を 友達と思い、親
昭 和 48年 6月 26日 (
火)
病 院 本 館 2階会 議 室
重
松茂
辺喜造伊氏 ︵昭12︶の病院にドイ いる彼女は、日本流のこわい看護 切に今日も働 いている。
完
4・実 験 的慢 性 胃 潰瘍
ビーグ ル 犬 の使 用 経験
長 尾 外科 吉 田 ツの看護婦さん、アンドレア ・フ
達 征
5、絨 毛 上 皮腫 誘 発 の 試 み
第 2産婦 人科 関 根
オン ・ブーテビルさん ︵19才︶が
第 1218
回成 医 会例 会
石
渡
和
久、
東 京 都中央
2− 9 ●文献 ・
供 試品送 呈
きたのが昨年の十 一月。高校卒業
後 一年コースの看護学校を出てす
い つ もニ コニ コ と しか も活動 的 に 働 いて い る
錠100
錠
注 射液
Poison
Scavenger
昭 夫
2、 寄 生虫 学 と動 物 実 験
寄 生 虫 小 林
望
竹 村 公 衆 衛 生 ぐ来日、しかし日本では看護婦の
資格が認められず ﹁
看護助手﹂と
して、洗い物、配 膳等々の 下働
によく
抜、
群日本の生活も板につ
き。看護婦、患者の間での評判は
き日本語もうまい。礼儀正しさ義
理がたさ、
ムダに物を使わず、
ドイ
ニコニコと仕事熱心である。 ﹁
ほ
ツ流の合理主義であるが、いつも
んとうの看護婦の仕事とは、患者
お昼 休 み = 中庭 で看 護 婦 や元 気 な患 者 と楽 しいお し ゃべ り
(2 )
昭 和 48年 6 月 25日
聞
新
大
慈
(
第 三種 郵 便 物 認 可)
第 223号
S
第 56 回 成 医 会
神奈川
総会
県支部
県下同窓会 支部連合会 も開 く
活動活発化のため藤沢、茅ケ崎
金英雄、鈴木隆道 、中村紀夫、山
の枠
支を
部越えて和気藹々
話はい 当 番幹事 一同喜び合 った ことであ 東光裕、井沢豊 明、水 谷俊雄、津
入り恒例によ って新会員14名 ︵
新 県下支部長を囲んで、卒業年次、 いと些か手前味噌ながらも っぱ ら 土屋博彦、鴨井 次郎、富田捷、山
卒者︶、新入生1
1名の県内在住者
った。
参 加者 ︵順不同︶は、堀 内捷 、 口時男、飯島忠 、金子義 一、小森
正
義
なるほ ど、この理由の中には
瀬
時間外 診療 の実 態
広
私が当地で内 ・児科を開業し
てから、今年で正しく二十年。 地域内 の開業医としては、 一律
その当初の頃は時間外診療がヤ に善悪 いずれかに割りき ってし
雄、榊原光 利、庵谷実、桃井俊美
いわば、〃どんなヤツか見てや 言 いの が れくさいの もある な
んの職業でも同じであろうが、 か なりに、いいわけ、否 一時 の
ケに多か った。恐らくこれはな まえ ないも のもある。しかし 、
坪井栄 一、 大森重次、後 藤昌人 、
ろう〃という人間特有の好奇心 あ 。
第 三群 は、
石永徹志 、野崎次郎、重田泰 男、
シ オノ ギ 製 薬
を紹介して新しい仲間のふえたこ つ迄も尽きなかったが、九時半学
とを喜び合って記念品を贈呈し、 生歌を斉唱して名残りを惜しみつ
王豊 彦、渡辺嘉造伊、佐竹登 美、 波吉、平石功治 、木 内康人、小笠
老いも若きも慈大に学んだ喜びを つ、秋は横須賀で会いましようと 飯 野繁則、平松敏男、佐 藤勉 、山 為郎、岡野哲五 、阿 部俊昭、今井
謳歌し、時の経つのを忘れる程で 散会した。
川崎支部総 会開く
しかし最近はその時間外診療
のためだ ったのかもしれない。
米本英 明、岡田憲 一、茂呂嘉 雄、
14
がめ っきり少なくなってきた。
私が当地になじんだからという
あ いつじ ゃ仕方がねえ や﹂とい
長 年看板を出している 開業 医
認可決。これにより議事を終り、 藤美共 、安西節重、本郷裕 、水村
よりも、時代の流れによるもの とし ては、 ﹁ああ、あ いつか 、
た甘 えから⋮⋮⋮⋮
三木信男 、田村有明、田村 米子、
これはツラツラ世相を観ずるに 14 、私たちは別格です ⋮⋮⋮5
13、小 院にネンゴ ロになりす ぎ
本郷元夫 、国弘重夫、高橋 良、内
続いて来賓として、ご出席の横浜 嘉明 、亀 田輝雄、多和田 金雄、神
講 演 に 活 溌 な 質 疑 、歓 談 は尽 き ず
竹山恒寿 、大下内章、徳 岡重 孝^
あ ったが、七時半 一次会を閉じ、
地方の支部の活動がかく盛んな 佐 藤春雄、海老原千春 、山 崎孝、 原久隆、 保田浩 平、笹裕、佐 藤重
新緑薫る五月二十七日 ︵
日︶、 に活発に行なわれており、学外で 十八日 ︵日︶葉山マリーナで横須
大多数が二次会に移行し、両教授 限り同窓会本部の発展は間違いな 伊 藤忠、井口善二郎、蛯名 一平、 雄、本田貞 利、井 沢敬介、漆原俊
横浜駅前スカイビルに県下より約 成医会と銘打 って学術講演会を催 賀支部担当で行なうこと。 一、支部
百名の同窓が集って、第五十六回 しているのは我々のみ、といささ
地区が独立して支部を結成したい
折柄西井烈 ︵大8︶県連会長が こと。 一、秋の同窓会名簿発行の
成医会神奈川県支部総会が開かれ か鼻を高くしている会である。
た。神奈川県の成医会は、我が慈
大同窓会が出来る以前から存続す ご病気のため 一抹の淋しさは否め ため再度住所録を整備すること等
次いで学術講演会に入り、脳外
る由緒の深いもので、同窓会県下 ないが、市川新横浜支部長が代行 を審議した。
各支部の連合会の共催で、春は横 となって、先ず正午から支部長会
一、昭和四十七年度事業報告
浜、秋は県下各支部持ち回りで、 を開き、 一、成医会、同窓会連合 科疾患の外来診断 ︵脳外科中村紀
昭和四十七年度川崎支部総会は を選出議事に入る。
それぞれの支部独自の活動とは別 会の規約の整備。 一、秋は十 一月 夫教授︶、めまいについて ︵
耳鼻 四月二十二日 ︵
日曜日︶、武蔵小
科高橋良教授︶のご講演を賜 った 杉の小杉会館において開かれた。
が 、その反面、患者 側だ けが
日、新宿区で内 ・児科開業十七 は むしろ当然だろう。
この時間外診療について、先 う 、そ んな関係ができてく るの
らしい。
伍、富井 武寛、首藤信義 、向井良
⋮⋮⋮⋮
●健保適用
︵
宮島幹事長︶
の三
支浦
部
幹事よりご挨拶あり、 戸悟、宮 川政治、国又好 、今 井健
、
二同じく決算報告 ︵
佐久間会 川越幹事の閉会の辞を以て総会を 郎、鍵 和田滋、桐 ヶ谷肇 、飯 野玄
終了した。
次いで講演に移り、 ﹃心中の病
別格と信じこんで いる のや、ひ
K博士は患者の ﹁先生 に悪い
ポポンS
錠・
細粒 ・
筋 注用
計︶
三、昭和四十八年度事業計画案
ことを書いた ︵人間
の医学第58
年になる友人のK博士が面白い
第 四群は、
15、とにかく心配 で⋮⋮⋮⋮5
17、苦し くてガ マンができ ず
2
と思 って⋮⋮﹂と いう 言葉 をき
私など
⋮は
⋮か⋮な⋮
り⋮
の⋮
患⋮
者に
⋮ ﹁明
さんあらあな。
︵昭17卒︶
今日 もの む
ノイロビタン
が、専門的には極めて難かしい学 折柄日曜日にもかかわらず会員二
先ず深瀬幹事の開会の辞にはじ
太 、山 田真 一、岡野尚美 、相 沢純
もら う瞬 間だけ別格らしく 振舞
号︶。承諾を得たので、蛇足の ど いのは、その診療を受付 けて
愚見を加えて記してみよう。
熊 谷 一郎、小 野 肇、 天野 信人、
るか﹄朝日新聞記者長倉功氏の二 福村 基之、金子秀夫、加治 甚吾、
十九名について、その時間外に
彼は時間外に来院した患者八 う なんてヤツもいるねえ 。
なった理由を調査した。それを
氏によって極めて感銘深いお話を 星寛 二、吉沢瀾、北田昭和 、志 村
三浦長英 ︵三浦記︶
理 由もこの辺になると 、草 木
16 、容態をみていたが 心配にな
ってきたので、⋮⋮⋮⋮ 5
ズウズしい患者⋮⋮⋮⋮8
確かに毎日患者をみていると た ﹂と医師自身が納得でき る場
3、母親がポンで⋮⋮⋮⋮ 1 れた って、 ﹁みてや ってよか っ
2、本人がズボラで⋮⋮⋮⋮
1 も眠 るウシミツ時にたたき 起さ
1、いくら言っても時間無視の
第 一群は、
よう。
五群に分類して考察を加えてみ
拝聴、長倉氏の講演のあと、活発 幸男 、望 月元博 、栗田正、市川博
な質疑が行なわれて、なかなか盛
講演を終って祝宴に入り、冒頭
高木神経科
虎 ノ 門ク リ ニック
虎ノ門実業会館内
電話︵5
︶
三
0六
1二一
レンに腕押し〃だか、〃カエル
いて、粛然と エリを 正し たとい
K博士ならずとも、こんな〃ノ 合 もでてくる。
のツラに小便〃だかなんてヤツ
2 18⋮
⋮個人的理由 で⋮⋮1
、⋮
医⋮
師の
第五群は、
う が、さもありな んと 思う 。
が何人かいるなあ。
第二群は、
4、終了時間を知らなか った
そうそう、最近は 医師 だ って
5、気がついたら終了時間にな
っていた⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮12 医師会、予防注射 、学校 医⋮⋮
連れてこられなか った⋮⋮1 師 自身のレクリ エーシ ョンとか
6、患児が遊びに行 っていて、 いやそんな公務以外だ って、医
4
7、同じく塾や学校へ行 ってい 家庭内の事情とか 、理 由はたく
て、連れてこられなか った
⋮
K⋮
博⋮
士は
⋮そ の結 論で、 ﹁やは
車に出るな。
ていた⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮2
⋮⋮ぎに来い ﹂な んて、かなり高飛
8、主人の帰ってくるのを待 っ 日来てくれ ﹂とか 、 ﹁夜九時過
4
9、勤めが遅くまでかか った
う。 からの お人良し だ か らであろ
1
0、お使いの帰りに⋮⋮⋮⋮
9 り町医でよか った 。家庭医の心
に灯がと も る思いで あ る﹂と
11、家事が大多忙だ ったから
5 自⋮
ら⋮
を⋮
慰め
⋮て いるらしい。根 っ
12、間に合うように急いだが
車がこんでいて⋮⋮⋮⋮ 3
明日 の た め に
高単位 ・向神 経 ビ タ ミン剤
問を、各科の開業医が日常診療に 十五名の出席があ った。
取り入れられるように平易に解説
一時を過ごし 、例 の ﹁旭輝く﹂を
んだり 、
食 べたり、何となく楽しく 会であった。
歓 送 迎会 を 開 催
まり、渡辺支部長の挨拶ののち、
四、同じく予算案
理について﹄慈大精神科大原健士 雄、宮 沢亘、渡部忠彦 、小 森春美
引続いて同窓会県連の懇親会に 議長選出に移り、議長に石永会員 の説明あり、いずれも異議なく承 郎講師、 ﹃
患者はなぜ医者にかか
されて大いに得る処があ った。
水 中 一高 会
水中 一高会では去る五月十九日 に卒業生鈴木守、中村正両君の歓
午後六時より、新橋鳥新にて、本 送迎会を開催したが、中村君は欠
てお話を伺い、このあと宴半ばに
声高らかに歌 い、午 後九時散会し 山田欽教授から大学の近況につい
た。
当日の出席者は 大平 一郎、久田 馳せ参じた杉原川崎市衛生局長の
忠男、丸山祐二、加 藤理 、大平征 ご挨拶あり、歓談つきるところを
神経外科を勉学、今日の地位を築 るデモンストレイションをするた
めに帰国されるという、再会が待
大 阪市 東 区道修 町 4丁 目 3
年度唯 一の入学生山崎博之君並び 席。
原︶
︵昭48年度幹事 斎藤、前田、篠 ら、カナダ、シカゴ等の大学で脳 科学会には、研究発表と映画によ
にしました。公私ともご多忙なこ 出席の方々のご意向をお伺いして 同切に祈 っています。
意義ある会合にしようと存じます
とと存じますが、今から出席の準 記念事業の足がかりにするべく、
備をお願いいたします。
き上げられたわけである。
最近のニュースによると、昨年 たれる。
海 外 で 活躍 の脳 外 科 の山 田昌 慶 博 士 (
昭 24卒)
仲代達矢
藤 沢薬品〈東 京 ・名 古屋 ・広 島 ・福岡 ・札幌〉
開会に当り、大平会長より入学
記念として山崎君に銀盃が贈られ
た後、年に 一度の会合とはいえ、
︵
宮島記︶
顔見知りのものばかりで、特に挨 二、鈴木守、佐藤哲夫 、山崎雅 之 知らず、九時散会した。
︵昭 24 ︶
拶もなく、型の如き庶務会計の報 山 口裕、山崎博之 の諸 君である。
告もなく、ただ和気藹々
の中に飲
海 外 で活 躍 の
山 田昌 慶 博 士
本年開催 される国際 脳外科
学 会に帰国出 席 の予定
米国チャールストン ・ベテラン コロラド州デンバー市での第二十
教授でもある山田昌慶博士は、永
nL
go
itudinal Myelotomy for
病院の脳外科の主任であり、又助 二回脳神経外科学会では、 〃
脳 波検 査
一昨年の会合以来久方振りに、 たりますので、我々の学年でも母 ます。
年米国に在留し活躍する同窓生の
人である。
という研究発表を行ない、同学会Contral of Mass Spasms〃
来る九月二十九日 ︵
土︶に熱海、 校に対し記念事業をと望む会員も
尚 、詳 細は後日郵送いたします 一
池田屋にて、昭十九会を開くこと 多数おられます。秋の昭十九会に が、多 数出 席されることを幹事 一 博士は第 一生理学教室で生理学 から表彰され賞状を受けられた。
を専攻、医学博士の学位を得てか
本年日本で開催される国際脳外
九 月 二十 九 日 ︵土︶、熱 海 に集 合
﹁
昭 十 九 会 ﹂全 会 員 に 告 ぐ !
成 医 会 神奈 川 県 支 部総 会出 席 者
また、来年は卒業三十周年にあ ので紙上をかりてご案内申しあげ
な
神 経 ・
筋 疾 患 の 治 療 にNeusculo−Tropic
ノ イ ビタ ・
B6・
B1
2の相 互 協 力 効 果
第 223号
(
第三 種 郵 便 物 認 可)
聞
新
大
慈
昭 和 48年 6 月 25日
(3 )
大 平、
南 両 教 授 を迎え
中 野 支 部 同 窓 会 京 王 プ ラ ザ ホ テ ル で開 く
同 気分よ
くんで学 生歌をたから かに歌い、 かわれて、学長より昭参会は年に 分にふるまわれたので大いにメー 秋の昭 参会を約して 一
負を語り合うやら、未だ年をとっ
ったが、八時頃にはぽつぽつのび
︵松浦記︶
二回催したらとの提案に、 一同大 トルをあげ、懐旧談やら将来の抱 く、千鳥足の状況で散会した。
たことを附記する。
当日 の出 席者は次 の通 りである 賛成であ っ
散会した 。
る者も出る有様にな ったため、今
日没頃から雨が降り出して来た ていない証拠か非常に賑やかであ
南教授、 大平教授、井上 、宇佐 ので、応接間のほうに移動して、
︵二十四名 ︶
美、林、堀田 、西山、阿部 、小 野 学長とっておきのウイスキーを多
中 村、川勝、須 藤、宮本、田 郷、
宇 野、高梨、前 沢、藤原、永 田、
中野支部同窓会は、四月二十六 更にその雰囲気を 一層もりあげて さ ったが、現在の社会状況からは
特に名案はないようであ った。然 西谷、大城、秋元 、武藤、竹内
日︵
木︶、京王プラザホテルで行 くれた。
本日の同窓会で、最も活発な意 しながら、われわれ慈恵の同窓会 ︻追記︼五月 三十 日の中野区医師
なわれた。昨年十 一月は、地元中
会 総会において、中 村浩之氏 ︵昭
野の新井での例会であり、今回は 見や、発言をみたのは、大学病院 はいつものようにあたたかい家庭
二十二年卒︶が、区 医師会長に選
趣向を変えての設営であ った。懸 でも、個人診療所でも、最も深刻 的なもり上りをみせ、全く時間の
出され た。その若さ と実行力が、
念されたゼネスト前日であ ったが なナースの問題につい てで あ っ たつのを忘れる楽しい会合であっ
全会 員より大いに期待 されて おる
定刻にはほぼ全会員の元気な姿が た。南教授も、大学病院長として た。
最後に、全員円型になり、腕を ︵宇 野記︶
揃った。今回は、大学より南教授 の、豊富なご経験を聞かせてくだ
川勝幹事の司会に依り開会、先
い つも の場 所 で い つも の よ う に
十 五 名 集 り 、昭 参 会 員 未 だ 老 いず⋮
い衆が、白昼堂々と 、大地にゴ
なお出席者名はサインに示す如
突然の学長のご出席もあり和気藹々
の48年度長野県人会に
出席の方々のサイン
しさもあ ったが、何よりも学長が
︵
北原記︶
物故者御氏名
突然ご出席くださり、ご歓談くだ くである。
さったことは、非常に印象深いも
のであった。
松高虎男 ︵大4卒 ・長野県︶
北沢郁三 ︵大6卒 ・長野県︶
亀田友太郎︵大12卒・
北海道︶
河津祐 一︵
昭3卒 ・東京都︶
高橋辰雄 ︵
昭4卒 ・千葉県︶
熊谷隆久 ︵
昭4卒 ・岐阜県︶
桐井 愿︵
昭4卒 ・岐阜県︶
三浦 豊 ︵大4卒 ・熊本県︶
とッ
な った。何か怪し げなアル
一口飲むと、何やら 口の中が カ
コー ル性飲料でも入 って いた の
などで当時 の古い映画をテレビ て外 に出ると、確かにカ ッカ ッ
でみても、何か ピンとこず、中 とし て元気が出たような気 にな
シ ュな感じにな ってきたぞ ﹂な
にはどうしても同 じ映画とは思 り、 ﹁おい、何やら エネ ルギ ッ
映画を観てか ら、よく喫茶店 ど と言いながら帰 った のであ っ
えないようなも のもある。
ッタイなも のを飲 んだ っけ な
﹁終戦直後 の日劇の地下で、ケ
今でもM 兄に会うと、時々、
に入 った。当時 は喫 茶店とい っ た。
か った。みんな怪し げなものば
ても、まともなも のは何 一つな
か り、 コーヒーと は豆が らを妙
あ ﹂と話し合 うのである。
これ こそ 、さしずめ ﹁ドリン
った、こげ臭い コゲ茶 色の飲物
な混みようで、映画というもの ン かズル チンで 、 中 にはおよ ク剤 ﹂のアイデ アのはしりとい
ある時、M兄と日劇地下 の喫
ら見るものと決めて、腰かけて た 。
そ の頃のわれわれ の唯 一の娯 見ようなどとは、はじめから思
﹂や ﹁紅茶﹂と並んで 、 ﹁エ
茶 店に入ると、壁に、 ﹁コー ヒー
︵つづく︶
︵昭24卒︶
明治乳 業
信頼
を生む品質
と大平教授がご出席された。
ず大平教授が独得のユーモアをま
じえた話術で、大学及び大学病院
の近況を話され、又、教授のご専門
約二時間のあいだ、和気藹々
と
お互いに親睦を深み、時の経つの
も忘れて過ごし、長野県の故郷の
歌である ﹁信濃の国﹂を合唱し、
昭和四十八年度長野県県人会は 最後に上田先生の音頭で万歳を三
新井名誉教授、上田、富井、小林 唱して散会となった。宴、はてて
の三教授を迎え、諸先生方をはじ もそのまま帰るには惜しく、その
め学生が三々五々慈恵医大同窓会 後、夜の街へ、二次会、三次会と
夜の更けるのも忘れて散 っていっ
今年は、新入生が 一名という淋 た。
館に集まり、盛大に開かれた。
森烏
口の 一帯は、当時有名な闇 で、アメリカ映画が、ドッと入 のは 、ビ ン グ ・クロス ビー の ネルギッシ ュ﹂と書 いた紙が貼
イライラしながら眺めた廃虚の たりにたむろしていた、パンパ
街東京の、最も印象的な姿であ ンの行き倒れではなか ったろう 市で、全くの無法地帯といって ってきて、またどこの映画館も ﹁ゴーイン グ ・マイ ・ウ エイ ﹂ ってある。 ﹁おい、あ のエネル
︿20﹀
敬
最近、時 々テレビの深夜放送 か 、そ の黄色い液体を飲みほし
が、私の 親父は貧乏な 中学教 れにも雑嚢から進駐軍の缶詰な など、毎週 のように、演 し物 た のが、M 兄やO兄である。
本
当時映画の料金は、他の物価
と傍 に寄 ってきたりし た。また る。
山
やがて寒い冬のうちに行なわ 師、白衣なぞどこから調達して ど取り出しては ﹁買わないか﹂ が変るたび に行 った ものであ
ら講議をうけていた。
石の疎開地から引揚げた私達は み、教授も学生も、外套やジャ はほとんど医者の息子で、親父 を丼についで、 一杯いくらで売 行き、日比谷映画、新橋全線座 のである。そし て相棒として、
やっと新橋愛宕下の大学に通う ンパーで着ぶくれ、ふるえなが のおふるをチャッカリ着ていた っていたり、歩いているわれわ 邦楽座、東京 劇場、日劇 地下 も っぱらよく 一しょに映画を観
身とな った。
当時電力不足で、電車は寿司
詰めのまま、いたる所で停電に れる解剖実習が始 った。当時は
よる立往生、窓から見る外の景 フォルマリン漬けの死体が不足
色は、どこも同じような赤茶け していたのか、並べられた死体
ックが、焼跡に、見渡す限り続 混 っていた。
たトタン板を僅かに囲ったバラ の中に、新しい死体がいくつも
私のグループに当 ったのは、
く、荒涼たる風景であった。
でも
中終戦後数年間、国電田 新橋ガード下の身元不明の凍死
町駅と品川駅の間であったか、 体だと かで、紺の 法被 ︵ハッ
ら、ボロボロの白の上っ張りを
所、彼の当った死体は若い女で 違っていて、随分恥しい思いを
当時みた映画で、覚えている
明治コナミルク
FM-U
ソグトカード
の胸部疾患のトピツクとして、
粟粒結核抗酸菌感染症の症例を解
説された。つづいて南教授は、大
恒例のようになって、真にご迷 出来なか ったのは、かえすがえす ろ、木日、感謝の意として慶弔金
の 一端にもと金 一封が寄贈され、
学や病院等の現状を補促的に話さ 惑とは存じながら、昭参会は、六 も残念であ った。
その他、この 一年間に、四国の 一同も激励の言葉を贈り和やかな
日︶学長の好意に甘え
れたが、かずかずの難問はあるに 月十七日 ︵
しても、われ等の母校が、医科大 て、深緑に包まれた学長宅の庭園 津島君、北海道の堀江君の訃報に 雰囲気に包まれた。
昭参会の現況は、生存者五十九
学のトップレベルの地位を保ちつ で行なわれ、会する者十五名であ 接し、暗然とし心から三君のご冥
早々と見えて 一年ぶりでつもる話
「
信 濃 の 国 」の 合 唱 で 幕
部生活始まる
っ
た
。
よ
か
っ
た
。
満
員
であった。
とか、 ﹁心の旅路﹂、 ﹁哀愁 ﹂ ギッシ ュてえ のを飲 んでみよう
か
、
と
い
う
話
で
あ
っ
た
。
大学の講堂はどこもガラス窓
解剖実習で困ったのは、その
復員服姿の男が群がり、大き
大学の帰りみち、そのままブ ヒ ッチ コックの ﹁断涯﹂フラン じ ゃあねえか ﹂と いう ことにな
天皇の人間宣言のあった昭和
二十 一年 一月の新学期より、鬼 は破れ放題、冬の寒風が吹き込 時着る白衣であった。友達連中 な鍋で何やらグツグツ煮たもの ラブラ歩いて、有楽町近辺まで ス映画 の ﹁悲恋﹂とかい ったも り、それを注文した。そ いつを
窮乏の中の学
福をお祈りした。その外に蓮田君 名、死亡者五十二名、消息不明者
つますます発展し続けていること った。
遠くは岡山からいつも元気な顔 の診療所が去る三月全焼し、昭参 五名との安田君の報告があり、年
を知り、出席会員 一同が深い感銘
を受けると共に、大いに喜びあ っ を見せる浅羽君、山梨の奥脇君等 会からもお見舞い申しあげたとこ 年先き細りになるクラス会をなげ
つづいて、乾杯、宴会にうつり に興をわかせたが、本日出席予定
た。
自己紹介へ と進み、宴 も将に酣 の通知状まできていた八王子の河
四十数階のホテルよりの夜景は、 津君が急逝され、姿を見ることが
先 輩 後 輩 親 睦 を深 め
ってもみないのであった。
顆粒錠
48年 度 長 野 県人 会
この頃のことを、先日横須賀 もらってきたが、袖や丈が短か ザ をひいて、 ﹁サア 、サア張 っ は、立 ったまま他人の頭の間か そ得 体の 知れな い 飲 物もあ っ ってもい いであろ う。
な、巨大な柱だけ数本、夕焼け いる。
の中にシルエットになっていた
っといるであろう。
進駐 軍 の占領政策 の 一環とか
楽 は、映画であ った。ア メリカ
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い つ も の場 所 =学 長 邸 で 、未 だ 老 いず と将来
の 抱 負 を語 り合 う昭 参 会 に出 席 の方 々
る
窮余の 一策、親父が昔からよ 闇 市の中のほうでは 、手 首まで
車窓から見て山の手側の小高い ピ︶をきた職人風の男であ った きようもなか った。
く
か、ギリシャ神殿の遺跡のよう がボロボロと落ちたのを憶えて く知 って いた寿司屋の 親父か 刺 青し、腹に白い布を 巻いた若 に較べて安く、そのかわり大変 そ の他甘味はもちろ んサ ッカリ
丘の上に、かつて大邸宅の焼跡 が、ぬがせた法被の縫目から虱
ち
光景を、憶えておられる人もき に住む同級のN兄と話していた くて、何となく白衣とは感じが た 、張 った﹂とや っていた。
さて私達の通学路たる新橋駅
それは、いつまでも動き出さ 豊満な肢体の派手な指輪などい したものである。
ぬ電車の中で、空腹を抱えつつ くつもしていた、多分新橋駅あ
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京 王 プ ラ ザホ テ ルか らの 夜景 を 楽 しみ大 平 、南 両
教 授 を 囲 んで の 中野 支 部 同 窓会 に 出席 の方 々
栄 養新基 準 による
基質蛋 白保護作用
抗 ペ プ シ ン作用
曙
満
(4 )
昭 和 48年 6 月 25日
聞
新
大
慈
(
第 三 種郵 便 物 認可 )
第 223号
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